img 0001 · 2020. 5. 8. · title: img_0001 author: annog created date: 5/4/2020 11:08:47 am
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世田谷八幡宮の奉納相撲
松本 龍雄
世田谷八幡官と言えば、直ぐに
「お相撲の」と云う反応
があるほど、奉納相撲が有名です。境内の東南隅の池の傍
に、半円形状の斜面を利用して棚田風に見物席がある立派
な土俵
が常
設
され
て
いま
す。ここで、毎年
の秋季大
祭
のとき、近年は九月第三
土曜日または日曜日に、奉
納相撲が催されます。
平成
二十五年の奉納相撲
九月十四日午後二時。土
俵
の中央に川砂を盛り、そ
の真ん中に幣束が立
っています。東京農大相撲部員の力士
二十七名が東西土俵下に整列すると、神主と役員が土俵正
面に入場して土俵祭が始まりました。神主が土俵に上がり
砂盛り
の前で祝詞を奏上します。続
いて土俵の清祓
いを無
言で行
います。土俵
の四隅と中央を祓
い、さらに力士、役
員、客席に向か
い祓う四方祓
いです。その後、全員が起立
して国歌斉唱、国旗掲揚等
々があり、土俵祭
の儀式は約十
世田谷八幡宮の土俵
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五分で終わりました。
奉納相撲は、例年通り、東
京農大相撲部員の力士により
行われました。鍛えられ堂
々
たる体躯
の部員が多く、全日
本でト
ップクラスの部員も
い
て、気合
いがこも
った相撲が
終始展開されました。モンゴ
ル留学生兄弟も活躍し、盛ん
な拍手を浴びていました。
最初に四股踏、摺足、股割といった稽古の基本を披露し
てから、取り組みが始まりました。トーナメントの団体戦・
個人戦の合間に、何回かの飛びつき
(仕切りなしで飛びか
かり勝ち抜く)三人抜き
。四
人抜き
。五人抜きを挟んで、
締めは、奉納相撲恒例の大五
番
(東西五人ず
つ出て、相手
方
に五連勝するま
で繰り返
す)、東西三役の揃踏みと対
戦があり、約二時間の奉納で
した。
いかにも奉納相撲らしく、
正面役員席にお神酒
(現在は
中瓶)が約五十本が並べられ、勝ち力士に行司が授けて行
き、最後はきれいになくなりました。
由来の諸説
世田谷八幡官によれば、「後三年の役
(一〇八三~
一〇
八七)の世に、当時陸奥国の鎮守府将軍源義家が幾多の苦
戦を重ねて奥州を平定し、その帰途にこの地で豪雨にあい
十数日間滞在した。そこで、日頃信仰する八幡大神のご加
護に感謝し、豊前国宇佐八幡官の御分霊を世田谷の地に招
き、盛大な勧請報賽のお祭りを行い、そのとき士卒に奉祝
相撲をとらせた。これが現在でも奉納神事として伝えられ
ている。∩世田谷八幡官の栞]の要旨、年号は史実に従
い訂正と
とあります。
しかし、義家が世田谷八幡官を勧請したことは疑わしい
とも言われています。[新編武蔵国風土記稿
(一八三〇年
版と
には、「奥州の逆徒を退治した義家が世田谷八幡宮
を勧請したというが妄誕で無稽。天喜五年
(一〇五七)に
源頼義が奥州の安倍頼時を征伐したと正史にあり、義家が
奥州の清原家衡を滅ぼしたのは三十年後の寛治元年
(一〇
八七)である。世田谷八幡宮の棟札に、『当社八幡宮建立
大檀那源朝臣頼貞(頼康の始の名)。天文十五年貧
五四六)
丙午八月二十日建立、十二月二十日癸卯御遷官。』と記さ
れており、これは事実である。(要旨、年号は史実に従
い
神主のお祓いを受ける力士
スピー ドのある激 しい当たり
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訂正と
とありますし、[江戸名所図会
(一人三六年版と
には、「官坂
(世田谷)八幡官は、鎌倉鶴岡八幡官
の摸に
して、勧請
の年歴詳ならず。天文十五年吉良頼貞当社を建
立と云う。或
いは義家朝臣勧請せられし御神にして、吉良
家再興と云伝ふれども、義家勧請と云う事疑
い少からず。」
と書かれています。
このように世田谷八幡宮
の奉納相撲が義家の奉納神事か
ら始ま
ったとするのは疑間です。
鬼五郎左衛門
・・・
一方で、世田谷には似たような言
い伝えがいく
つか残
っ
ています。
一つは、狛江市
の
[岩戸八幡神社
の掲示]に書かれてい
る鬼五郎左衛門
のことです。「岩戸の地に秋元仁左衛門と
いう怪力無双
の勇士がおり、鬼
五郎左衛門と言われ
てい
た。永禄元年
(一五五八)四月、小田原の北条陸奥守が諸
大名を鎌倉鶴岡八幡官に招集、岩戸の領主で世田谷城主吉
良頼康も家臣を連れて参じた。たまたま力自慢の足利左馬
頭義氏と相撲により力較べすることとなり、頼康は家臣
の
中から秋元仁左衛門を選び左馬頭と対戦させた。秋元仁左
衛門は見事
に左馬頭を倒し、勝者に懸けられた鶴岡八幡宮
の御神体を持ち帰り、岩戸八幡神社を勧請した。相撲は今
でも世田谷八幡官
の祭礼で行われている。(要旨と
これに似た話もあります。コロ良頼康のころ、狛江の岩
戸に鬼五郎左衛門という農民がいた。ある日、領主に従
っ
て鎌倉鶴岡八幡官に参詣したとき、ちょうど北条氏の奉納
相撲が行われていた。鬼五郎左衛門は飛び入りで出場し、
見事優勝。懸賞の人幡宮の御神体を持ち帰り、世田谷八幡
宮に勧請した。世田谷八幡宮では毎年の例大祭に奉納相撲
を行
っている。(インターネ
ット
[世田谷散策記]からと
また、[世田谷
の民話
(一九八六年刊と
には
「百姓五
郎土俵の上で仁王立ち」という話が載
っています。「世田
谷八幡官の社の棟上げのとき、誰も持ち上げられない仕上
げの梁を、百姓の五郎が抱きかかえて足場に上がり、見事
に仕事を終わらせることができた。社竣工のお祝いの奉納
相撲で、五郎はどんどん勝ち抜いた。五郎が土俵の上でひ
とり仁王立ちにな
った姿は、全身が汗と熱気でまるで赤鬼
のように見え、その日から鬼五郎と呼ばれるようにな
っ
た。鎌倉八幡宮の奉納相撲に呼ばれて、見事に優勝。力士
になるよう誘われたが、『五郎は百姓でござ
います。奉納
相撲は村を鎮める神様のためのものです。』と言
って、そ
の後も百姓仕事に励んだ。」
もう
一つ、[世田谷のおはなし
(一九七七年刊と
では、
「鎌倉の鶴岡八幡宮境内の相撲大会で、世田谷の太郎左
衛門は、小柄ながら大男を倒し、見事に十人抜きを成し遂
げた。太郎左衛門は、行司から授かった土俵の柱の飾りを
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世田谷に持ち帰り、世田谷八幡宮に奉納した。それから世
田谷八幡宮では、お祭りの時に相撲をすることになり、今
でも続いている。」という話です。
こうした言い伝えは、どれも鎌倉鶴岡八幡官との縁も絡
んで、吉良頼康の頃のことです。 三ハ世紀半ばには、世田
谷八幡官の奉納相撲が行われていたことになります。
奉納相撲とは
相撲は、古代より悪霊を鎮め追い払う呪術に発生し、雨
乞いや地鎮などに用いられていました。 一つには、農耕の
豊凶を占う年占とな
って力を競い合うようになり、十五世
紀には神社造営のための勧進相撲が興業されており、やが
て職業的な相撲集団が生まれ、現在の大相撲のような
「競
技相撲」として完成しました。
また
一方で、天下国家の悪魔払いをさせるため、朝廷の
節会の恒例行事に相撲が取り上げられました。三百数十年
続きましたが、武家社会になるとともに十二世紀半ばには
廃絶しました。この相撲節の形式や礼儀作法が、各地の神
社の祭礼行事である
「祭儀相撲」に影響を与え、その
一つ
の形が奉納相撲として今に続いています。(新田
一郎
[相
撲の歴史]、山田知子
[相撲の民俗史]による)
世田谷八幡宮の奉納相撲は、神意を占う儀式というより
も、祭礼の余興として神楽とともに奉納されていました。
祭礼の相撲は、近郷の農民たちにと
っては数少な
いレクリ
エーションであり、お祭りに参詣がてらの見物人をたくさ
ん集めました。
江戸三相撲の
一つ
世田谷八幡宮
の奉納相撲は、大井鹿島神社と渋谷氷川神
社と並び、「江戸三相撲」と言われて有名でした。これは、
近郊はもとより江戸市中からも見物人を集め、注目されて
続けているのは、ここ世田谷八幡宮だけとなりました。
今は、戦後に青山から世田谷に移
ってきた東京農大相撲
部が、毎年
の世田谷八幡官
の奉納相撲を支え
ています。東
京農大が出るようにな
った当初は、明大や日大と対抗戦を
行
ったこともあります。それより以前
の奉納相撲では、氏
子や近在
の力自慢たちが力士とな
っていました。中でも、
渋谷氷川神社の屋根付き土俵
ん で 相 も ま 力 う い。° `撲 土 た 石 土 大 た
―-15-―
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上町や弦巻
の、主に商店の若者たちが活躍していたと言わ
れています。さらに遡ると、村ごと
の桟敷席を設けたり、
大相撲
の幕下力士などを招
いたりして、大掛かりに行われ
たこともあ
ったそうです。
世田谷八幡官
の拝殿脇に四
つ目垣の囲
いがあり、奉納さ
れた九個の力石が飾られています。昭和時代のも
のまであ
りますが、そのうちで最古最大
のも
のは、文政十三年
(一
人三〇)八月、五十貫メ
(一八七贈)と微かに読み取れま
す。
あとがき
世田谷八幡宮
の相撲が江戸時代に盛んだ
ったと言われて
も、世田谷区が編纂した明治期
の
[神社台帳]には、世田
谷八幡宮
(当時は宇佐神社)の什器等資産に土俵は掲載さ
れていませんし、境内之図には土俵
の位置は示されていま
せん。渋谷氷川神社
の屋根付き土俵と同様であれば神社台
帳に載
っても良
いと思
いますが不明です。
唯
一、世田谷区教育委員会編
の
[大場美佐
の日記]の中
に、明治十
一年
(一八七八)、十七年
(一八八四)、二十
八年
(一八九五)、三十八年
(一九〇五)
の祭礼当日のと
ころに、「角力あり」と書かれているのを見
つけました。
そのうち、明治二十八年
(一人九五)九月十五日の日記で
は、「例年通り宇佐神社
(世田谷八幡宮
のこと)大祭有角
カモ有皆
々参詣
ス」とあり、明治時代に奉納相撲が行われ
ていた記録です。
東京農大を調べましたが、[相撲部
の記録]にも、長く
相撲部に貢献された南濃蔵教授
の
[遺魂]にも、世田谷八
幡官との関係を示す記事は全くありませんでした。
古老も何人かを紹介してもら
いました。しかし、すでに
亡くな
った方であ
ったり、日かい出はあ
っても記録は残
って
いませんでした。 o
神社
のお祭りの余興とな
った
ローカル相撲の記録なんぞ
は、歴史資料として残ることはできな
いのだと、改めて痛
感した次第です。
しかし、世田谷八幡宮
の奉納相撲を楽しむ方
々はたくさ
ん
いるのですから、何方か記録や証言をお持ちであれば、
この機会に是非とも、この稿を訂正補筆、あるいは書き替
えて頂きた
いと願
っています。
(当会会員)
――‥‥……』
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