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等と相番

で駿河興国寺城の守備を命じている。また元亀二

(一五七

一)武田信玄が興国寺城に攻め寄せた時に氏政

が頼忠に援軍を求めた文書が江戸文書として有る。その内

容は苦戦で有るから至急援兵を出してくれれば恩賞は望み

次第、また家人には戦功次第で引き立てる事を八幡大菩薩

に誓

って約束すると

の事。

十五代常光、十六代頼忠は北条氏、吉良氏と組んで

一連

の合戦で働き、七代長門以来の家運凋落傾向に歯止めがか

かり、北条氏、吉良氏の信望も厚く名族

の誉れを取り戻し

た。頼忠は九十二歳まで生き、天正中期に興楽斉と号して

隠居し嫡男朝忠に家督を譲

った。この時期は江戸氏にとり

最後

の華であ

った。

十七代摂津守朝忠は優れた武将

で永禄十

二年

(一五六

九)武田氏と

の戦

いで士大将として僅か三百五十人の兵を

いて九百余人の武田勢を打ち破

った。天正十八年

(一五

九〇)豊臣秀吉と

の戦

いで伊豆下田城の苦戦に援軍の出兵

を北条氏政から要請され出陣したが敗れ、残兵と共に武州

北見

の館に引き上げた。この時小田原城も落城して豊臣秀

の天下とな

った。関東は徳川家康が関八州の支配者とし

て江戸城に入

った。その後朝忠は武者修行に出、北見館に

は父頼忠と嫡男勝忠等家族が住んでいたが家康は黙認して

いたと云う。嫡男勝忠は祖父興楽斉と親交

のあ

った芝増上

寺感智国師

の推挙により旧領を徳川家康に返上して家来と

なり、給地として本拠喜多見村五百石を賜

った。勝忠は姓

が主君の居城と同じである事を憚

って村名喜多見を取り喜

多見五郎左衛門勝忠と称した。

秩父出身

の名家江戸氏は秩父四朗重継が江戸姓を称して

より約四百六十年で没落、喜多見氏とな

って再発足するこ

とにな

った。

喜多見氏

三代

の栄光    .

江戸氏十八代勝忠は徳川家御家人とな

って姓を喜多見に

替え喜多見氏初代勝忠とな

った

勝忠は天正十八年

(一五九〇Y

一十六歳で徳川家に仕え、

同年十月奥州九戸の検知反対

一揆鎮圧に従軍、功を挙げ喜

多見村全地五百石を賜

った。文禄元年

(一五九二)の征韓

の役には家康に従い肥前名護屋

へ出陣、慶長五年

(一六〇

〇)関ヶ原の戦いにも参戦し功を挙げている。更に慶長十

九年

(一六

一四)の大坂冬の陣には嫡男主水正政忠、次男

半三郎重俊と出陣し親子共に武勲を挙げている。翌年夏の

陣では政忠、重俊は参戦したが、勝忠は病気の為石川主殿

頭忠綱に従い摂州高槻城の在番を仰せ付けられた。大坂城

落城後勝忠は近江国郡代となり元和二年

(一六

一六)恩賞

として摂津国瀬川村及び塩村の五百石の加増を受け、合わ

せて

一千石の知行となり、さらに江戸和田倉の内に宅地を

―-57-―

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った。元和三年

(一六

一七)正月には摂津国の郡代とな

り堺政所職

(奉行)を命ぜられた。このとき勝忠五十三歳

であ

った。翌元和四年

(一六

一八)には堺政所職のまま更

に摂津、河内、和泉の三国奉行をも兼ね大坂役後の占領地

の治安維持の大役を仰せ付けられた。勝忠が僅か

一千石の

御家人でありながらこの大任を命じられた事は、彼の文政

官としての能力を徳川将軍が認めたからである。元和七年

(一六二

一)幕府の五畿内総代官の勤務の可否改めがあり、

勝忠は勤務善行を評価され河内国東替村、泉王村及び武蔵

国駒井村合わせて

一千石の加増を賜り二千石の知行とな

た。また元和九年

(一六二三)八月上洛中の大御所秀忠と

将軍家光が堺浦を巡覧、この時勝忠の官宅で休息し勝忠は

湯茶を献じて黄金二枚、葵紋入りの小袖二重を拝領した。

寛永三年

(一六二六)八月十九日、多年の功により従五位

下、若狭守に任じられ、朝散太夫の宣を賜

った。

勝忠は神仏

への信仰心が厚く氏寺慶元寺を中興して五石

を寄進、氏神である喜多見氷川神社の造復も行

っている。

また江戸氏数代の墓がある鵜の木光明寺に五輪塔を建て白

一枚を寄進している。

喜多見若狭守勝忠は堺政所職兼摂津、河内、泉州三州奉

行在任中の寛永四年

(一六二七)十二月二十六日堺の官宅

で病没、堺の臨済宗南宗禅寺に納葬された。この寺は江戸

初期茶人との縁が多く武野紹鴎や千利休

一門古田織部正の

墓所があり、特に織部好庭園

(枯山水)が有名である。住

職の沢庵和尚

(禅師)とは親交があり寺の復興に協力し、

元和三年

(一六

一七)には将軍より寺領

一五〇石の朱印地

を賜ることが出来た。沢庵禅師は勝忠の為に遺影と霊牌を

安置し、自ら撰文し安骨碑を建立した。勝忠の分骨は香取

平右衛門貞政外の家臣達により菩提寺慶元寺に納葬され

た。喜

多見家二代重恒は二代将軍秀忠の小姓となり元和元年

(一六

一五)大坂夏の陣で勲功をたて下総国香取郡賦馬村

外で三百石を賜り小姓頭とな

った。元和九年同僚の過失に

連座し、蟄居を命じられたが、天海大僧正の取り成しによ

り書院番に加えられ、常に将軍の側近にあ

って諸用を命ぜ

られたと

「徳川実紀」に記されている。万治二年

(一六五

九)普請奉行となり五朗左衛門尉重恒と称した。

父勝忠の遺領は

一千二百石を継ぎ、 一千石は弟久太夫重

勝に与え分家とした。重恒は子供運が悪く三男

一女を相次

いで亡くしている。嫡男を亡くした重恒は万治三年

(一六

六〇)歩行頭石谷五右衛門武清の二男彦五郎十歳を養子と

した。寛文十二年

(一六七二)彦五郎二十二歳の時、重恒

は隠居し家督を継ぎ、五郎左衛門重政と改め采地

一千二百

石を世襲、小普請組に入

ったが、その年御書院番に出世し

た。喜多見氏三代にな

った重政にはオ幹があり五年後の延

宝五年

(一六七七)進物番、延宝八年

(一六八〇)中奥御

-5ト

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番に累進した。この年四代将軍家綱が亡くなり綱吉が五代

将軍を宣下した。重政は将軍綱吉に寵愛され御側小姓に取

り立てられ、翌天和元年

(一六八

一)四月十九日従五位下

若狭守に叙任され将軍御側衆に抜擢された。同年十二月に

二千石の加増を受け、三千三百石の旗本とな

った

五代将軍綱吉時代の徳川実紀、常徳院殿には随所に喜多

見若狭守重政の名が見られる。実記の実例を引用すれば、

天和元年

(一六八

一)五月八日の項に

「将軍東叡山霊廟御

詣あり重政御沓の役」。同十四日

「公家辞見あり、重政御

刀を持ち将軍出座」。同六月三日、「将軍紅葉山御官に御参、

重政御太刀、朝岡伊予守直国御刀」とある。この直国は喜

多見氏分家久太夫重勝の娘婿で喜多見氏断絶の原因とな

た者である。また天和二年貧

六八二)九月四日の項に、「重

政側用人牧野備後守成貞御役可見習旨被命」とあり上屋敷

を拝領している。

天和三年

(一六八三)正月十

一日には、で」の日喜多見

若狭守重政六千八百石加扶あり万石の列に加え給う」とあ

り、重政は

一万石の大名となり喜多見藩を立藩した。この

年十二月、重政は居城として喜多見陣屋を造営したと記録

されている。重政の側用人昇進は、徳川実紀によれば、貞

享元年

(王ハ八四)九月三日の項に

「側用人喜多見若狭守」

と記されている。当時側用人筆頭は牧野備後守成貞、次席

は松平伊賀守忠周、三席が重政で、柳沢出羽守吉保は小納

戸役で

一千石高の役職で有

ったが五年後の元禄元年

(一六

八八)側用人に昇進している。

将軍の側用人の地位は老中待遇で側近第

一といわれる権

勢の座であ

った。貞享元年

(一六八四)十二月六日の項に

「側用人喜多見若狭守重政喪制に篭りければ小納戸役柳沢

弥太郎保明をして弔し給う」とある。また貞享二年

(一六

八五)七月二十六日の項に

「今より後諸門の衛士等、喜多

見若狭守重政出入する時下座する事松平伊賀守忠周

(信州

上田城主五万八千石の大名)L同格たるべしと触れられ

る」と記されている。

この年将軍綱吉は悪法で有名な

「生類憐みの令」を発令

し、重政はお犬総支配を務め今の喜多見駅付近に

「野屋敷」

と呼ばれた大小屋を設け、大四十~五十頭を中間十五人程

度で管理していた記録が

「武州喜多見村御用屋舗諸色入用

帳」に記されている。

貞享三年

(一六八六)正月十

一日異例の抜擢で

一万石加

増を賜り、二万石の大名にな

った。江戸氏十八代勝忠が五

百石で徳川家の家人となり喜多見と改姓してから九十三年

目に

一万石の大名になり、三年後に更に

一万石加増、二万

石に昇進した事は周囲諸藩の羨望の的とな

った。

喜多見氏の没落

元禄元年

(一六八八)十

一月柳沢吉保が御側用人に登用

―-59-―

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されて以来重政

への将軍の籠愛が薄れ、翌二年正月八日前

将軍家綱

(厳有院殿)霊廟詣の御太刀奉持の役を最後にそ

の役は柳沢吉保に替わり将軍側近から遠ざけられた。この

時期に喜多見氏に不測の事態が発生、重政が連座したと

「校合雑記」に記されている。徳川実紀には

「元禄二年

(一

六八九)二月二日御側用人武蔵国喜多見の領主喜多見若狭

守重政所領二万石公収せられ、松平越中守定重に預けられ

る。これは特恩を加えたまひ抜擢せられしに、近年毎事盛

慮に違い、職事に心入れざるとてなり云々」と記されてい

え0。喜

多見氏

の栄華は僅か六年で終わ

った。将軍綱吉

の極端

な好憎激し

い性格と柳沢吉保との確執、喜多見氏

一族の不

祥事件、さらに幕府

の新興大名取潰し政策と重政の異例の

出世を妬んだ側近

の読言等が絡んだ結果であろう。この中

一族

の不祥事件とは喜多見氏分家である

一千五百石取の

従弟喜多見茂衛重治と義弟朝岡縫殿頭直国との間に争

いが

あり、直国が重治に切り付け、重治は傷を負

いながらその

場を逃げ、重治

の家来香取新兵衛が直国を殺害、自分はそ

の場で割腹した。この事件を本家

の喜多見若狭守重政が御

側用人の地位を利用して巧みにとり計ら

つたが、直国の

子忠七郎とその家人が評定所に訴え出て事件が表沙汰にな

り、若狭守

の片手落ちの処置が将軍の怒りを買

いお家取潰

しとなり、重政は桑名藩松平家に預けられた。事件

の張本

人重治は稲葉和泉守

にお預けとなり、同年間正月三日切

腹、家禄召し上げとな

った。訴人朝岡忠七郎は評定所での

調べに偽りがあり追放、家禄没収とな

った。この事件

の真

相は、徳川実紀によると重治が直国の妻

(重治

の義妹)と

不義を働

いたようである。

この結果喜多見藩は消滅、重政

の妻子は領地追放

にな

り、家臣達は

一朝にして浪人となり、あるいは他領に職を

求め、あるいは武士を捨て土着して帰農した。喜多見には

この帰農した者たち

の子孫が多

いと云う。新編武蔵国喜多

見村

の項に

「村内に香取、斉藤い小川を氏せる村民四家あ

り、

いずれも喜多見氏

の家来にて故あるも

ののよし

・・・

この四家を呼んで土人浪人百姓と

いえり」と記されてい

ZO。元

禄六年

(一六九三)七月二十三日、重政は四十三歳で

生涯を終え、桑名城下の矢田碩にある庚申堂

の白谷山西龍

寺に葬られた。

かくして武蔵

の名族江戸氏は始祖江戸重継より二十代喜

多見重政を以て消滅した。この間約五百七十五年間江戸

喜多見に存在し続けた。太田道灌に江戸を追われる迄三百

四十二年間は江戸に君臨し、世田谷喜多見には三百三十三

年間君臨、統治した。今

の東京

の礎を築

いたのはまさに江

戸氏であ

った。

罰 け

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おわりに

本会会員

の佐久間亨氏から江戸氏

・喜多見氏

の知名度が

世間

一般に低く、世田谷区誌研究会

の会員には両氏

の事を

っと良く知

って貰う為、「せたか

い」に両氏

の歴史

・事

績を・載せるように云われ、各種資料

のご提供を頂きこの原

稿を書

いた次第

である。果たして佐久間先輩

のご意向

沿

っているか自信は無

いが、私にと

っては江戸氏

・喜多見

の歴史

一端を知る貴重な勉強にな

った。尚本文記事は

「慶元寺報集録」より使わせて頂き、地名はその表記を使

わせて頂

いた。また表紙には境内にある江戸太郎重長公像

を使わせて頂

いた。慶元寺様

には心から御礼申し上げま

す。また当会会員で顧間をされ、世田谷区生涯大学専任講

師の渡中正之先生には貴重な資料をご提供頂き誠に有難う

ござ

いました。この場をおかりしてお礼を申し上げます。

(当会会員

。理事)

参考文献

・資料

慶元寺報集録  田中隆之氏

「江戸氏

・喜多見氏につい

て」

江戸氏

・喜多見氏

の事績 漬中正之禾

秩父と江戸氏  秩父市

(山中永大氏)

慶元寺と喜多見 佐久間 一テ氏

喜多見勝忠と沢庵宗彰 龍興山南宗寺

フレ

ツト

メモ

フレ

ツト

臨済宗大徳寺派

#龍興山南宗寺

パンフレ

ツト

弦巻

のいぼとり地蔵尊引

っ越し

弦巻

一丁目四

一番

にあ

った

「いぼとり地蔵尊」が、

平成二十五年九月に引

っ越しました。新しく祀られた

場所は、同じく弦巻

一丁目にある

「常在寺」門前駐車

の角地です。

祠の傍らに掲出されている説明板に、このお地蔵さ

まの由来が次

のように書かれています。

江戸時代

のその昔

このお地蔵様は、約三百年前寛延四年

(一七五

一)

に弦巻村

の女性二十

一人が浄財を出し合

って作

ったも

ので、

いぼとり地蔵さん

(現在

の癌や腫瘍を治す)と

して近隣の人々から敬愛され親しまれてきました。

いぼ

(腫瘍)が出来たとき、このお地蔵さまの台座

前にある小石を借りて病んでいる箇所を撫でると不思

議なくらいいぼが取れたそうです。全快したら借りた

小石を倍にして置けば良

いと言

い伝えられていました。

病気平癒、身体健全など参詣してお願

いをすれば、

っと良

いご利益を受けられます。

台座には正面に、奉造立地蔵大菩薩

・願主女中廿

一人

右横に、寛延四辛未年 正月二十四日

左横に、武州荏原郡 世田谷領弦巻村

と彫られています。

→ 1-