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『せたかい』を通して見た戦後の区誌研宝)

馬場 優子

1.

今年は戦後七十年

の節目を迎えた。この間を長か

ったと

思うか短か

ったと思うかは人それぞれ

のライ

′ヒスト

リーによ

って異なるであろう。しかし明治維新後

の混乱が

多少なりとも収束し、近代日本

の歩みが始ま

った時期から

今次大戦終結までが同じく七十年であることを思

い起こす

時、戦後

の七十年間は無意識の暗闇からこちらに光を投げ

かける。前半

の七十年間を私達は

「歴史」と認識している。

一方、後半

の七十年間は同時代的に生きてきた

「私達

の人

(の

一部と

ある

いは

「私達

の記憶」としてのみ見

てい

るのではな

いか。この七十年間もまた

「歴史」であること

を認めねばならな

いことに気づ

いた時、それは

一層の重み

を増す。

区誌研の前身である

「旧世田谷領郷土会」が産声をあげ

たのは昭和三年

であ

ったが戦時下に

一旦途切れ、戦後間も

なく昭和二十五年に世田谷区誌研究会として復活して現在

に至

っている。この間、多くの先輩達が心血を注

いで区誌

研を守り育ててきた。当研究会はいわば前半

の七十年と後

の七十年

の架け橋とな

った世代

の方

々の努力の賜物であ

る。その歴史を今、我々が受け継ぎ、次の世代に手渡そう

としている。ここでこの七十年を

一つの歴史的過程として

捉え、区誌研が次の段階に進む指針を見出す契機とするこ

とができれば、当研究会の更なる発展につながるのではな

いか。

このように考え、区誌研の研究会としての歩みを顧みる

ことにした。本来ならば諸先輩方にインタビューを行いそ

れをも資料とするべきだ

ったのだが、諸般の事情から割愛

し、会誌

『せたかい』のバックナンバーの掲載稿を基本資

料として考察する。

その前に前身である戦前の

「郷土会」について

『せたか

い』の記録から知り得たことを要約する。

註1

『せたかい』復刊第

一号

(昭和二十六)、第三十

五号

(昭和五十八)、第四〇号

(昭和六十三)、第

四十六号

(平成六)、第五〇号

(平成

一〇)、第

六十

一号

(平成二十

一)を参考にした。

2.旧世田谷領郷土会

昭和三年、旧名主階層の子孫達十数人が時折集ま

って昔

の世田谷を回想

・記録する会

(旧世田谷領郷土会)を始め

た。やがてそれは松陰神社社務所を事務所とし、月

一回の

定例会で会員個々の研究成果の発表を行い、時には専門家

を招いて講演を聞く等、研究会としての態様が整えられて

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いった。そして翌昭和四年には機関誌

『郷土』第

一号が発

刊されるに至る。

創刊号掲載

の内規に

「旧世田谷領文化史料ノ蒐集整理保

存研究スルヲロ的トス」と唱

っているように、当時、会

活動

の焦点は大場家文書

の整理

・保存であり、その目録作

りに力が注がれた。資料展示会も開催されている。周囲か

「暇人の暇

つぶし」と椰楡されながらも会員達が熱意を

って取り組んだこの歴史研究

の基礎となる仕事に現代

我々は大きな恩恵を被

っている。大場家文書が戦中戦後

混乱期を無事乗り越え、それを現代

の我々が手にすること

ができるのも、当時

の会員諸氏の弛まざる努力

の成果であ

ることを忘れてはならな

い。

このような昭和初頭における郷土史研究団体結成

の背景

として当時

の世田谷

のおかれた社会的状況が考えられる。

関東大震災以降昭和

一〇年代にかけて軍事施設の移転や交

通機関の発達に伴

い、世田谷の人口は急増する。それは農

の急激な宅地化とそ

の結果としての田園風景

の変貌を

っていた。先祖代々の地元民の間で郷土の歴史

への関心

が高ま

ったのも当然であろう。

また戦前

の日本

の階層構造及び地主小作関係を考えれ

ば、郷土会

の構成員

の殆どが旧名主層

・地主層の子孫達で

った事実は理解し難

いことではな

い。

会員達

の熱意も虚しく郷土会は長くは続かなか

った。昭

和六年三月第四号を以て機関誌

『郷土』

の発行は終わり、

会も自然消滅する。

註2

『郷土』

の現物は八方手を尽くしたが見る事はで

きなか

った。区誌研の現存

の諸先輩方

のお手元に

も郷土資料館にも国内

の大小の図書館にもな

いこ

とが判明した。真に残念なことである。

3.『せたかい』として復刊

戦後五年を経た昭和二十五年九月に郷土世田谷を研究し

いと

いう人々十数名が世田谷区誌研究会を結成した。そ

の中心メンバーは戦前

の郷土会を牽引してきた方

々であ

た。そう

いう意味で区誌研は郷土会

の後身と

いえよう。こ

の頃は日本各地で郷土史研究が

「地方史」「地域史」

の名

の下に隆盛し始めた時であ

った。

メンバーは旧名主層

の子孫ばかりでなく学識経験者も加

わり、定期的に研究会を開

いて史料

の講読をし

つつ活発な

議論を繰り返した。第

一回総会

の研究テーマを

「世田谷歳

の調査」として大場家所蔵

の市関係文書を対象とした古

文書

のゼミを開始し、同時に歳市調査に着手した。

昭和二十六年

『復刊せたかい』第

一号が発行される。会

は三部会

(歴史、地誌、生物)から構成され、機関誌もこ

れに沿

つて編集された。

拙稿では復刊第

一号から掲載稿

のうち論文及び論文に準

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ずるも

のの概要を紹介することから始めた

い。第十二号以

降は活字印刷で読みやすくな

ったが、第十

一号までは入手

困難なうえ、ガリ版刷りのために印字が薄くな

って判読困

難な部分もあるので少し詳しく紹介する。

註3

「論文」とは目的を明確に表示し、議論に用

いた

典拠が明示されているも

のと規定した。

(1)復刊第

一号

(昭和二十六年七月)

①渡辺

一郎

「世田谷新宿楽市設置の史的意義」

北条氏康

の当市掟書発給に至

った経緯とその歴史的意義

を検討する。すでに武蔵北部において発達した定期市に刺

激され、荏原多摩郡を後背地とする商品交易の場としての

市を開放する必然性があ

ったことと、江戸と小田原を直結

させる道路の宿駅確保

の為、楽市を

つく

って集落を形成さ

せる必要があ

ったことを指摘。

②木村 礎

「元禄八年井伊領世田谷における人口構成及び

下人経営

の問題」

彦根市井伊大老史実研究所所蔵

の井伊家文書を基に、元

禄八年

の世田谷

の人口構成と下人

(下男、下女)の人口と

分属状況について述べる。

③芥川龍男

「明治以降に於ける世田谷歳市」

明治半ばより歳市は十二月と

一月の開催となる。繊維工

の発達

により繊維製品

の低廉化が進

み、古着

の需要が

った為、古着の出店数が減少。代わ

って桶、筵、籠等の

農具類の店が増えた。関東大震災後は分譲住宅の増設に伴

い、垣根や庭園用の植木の出店が増加。明治初期には上下

両町が市場区域だ

ったが、都市化の進行と共に中心が上町

に移動。近県から集ま

ってくる市場商人達は明治末以降、

電車の開通

・延伸により日帰りで商いを行うようになり地

元の家との関係が薄れていった。

④谷津栄壽

・渡辺 砕

「世田谷区の地下水」

世田谷には二つの明瞭な地下詠瀑線があり、これらに挟

まれた地域は地下水が五~六メートルという浅さにある。

その為、生活汚染が表れやすい。筆者等は昭和二十五年八

月に三軒茶屋を中心とした約四〇か所で採水して汚染状況

を調べた。結果、人口増加の下での下水処理の不完全さと

いう問題が明らかとな

った。

⑤櫻井正信

「世田谷歳市の商人構成と移動」

余剰生産物の交換から始ま

った市場の

一方の主体である

市場商人が物資をどこで調達し、どこに供給するのか、ま

た彼らの移動経路は交通の発達や市場の後背地の産業構造

とどう関わ

っているのか等の問題意識をも

つて、世田谷市

の商人の出身地と移動を昭和二十五年十二月と翌

一月に

った区誌研の調査結果と世田谷警察署の出店者届を基に

考察する。扱う商品によ

って異なる他府県からの地方商

人、隣接する町村の近在商人、地元商人、露店商人の分布

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が明らかとな

った。多数

の図表を含む極めて実証的な研究

論文である。

⑥岩見美栄

「明治初期における世田谷市

の機能―市場商品

の中心変化について―」

前掲論文と同じく区誌研の合同研究

一部。世田谷市

中心的商品が明治期

に古着から農機具や筵

へ、さらに大

正、昭和にかけて植木

へと変化したことを述べる。古着は

大都市江戸

。東京における廃物が世田谷市を通して有用品

として周辺の農村に供給され、農耕具

。筵は多摩地区、多

摩丘陵東端

の畑作

・稲作地帯で生産されたも

のが当市を通

して北方及び南方

の消費地帯に供給された。この様に当市

は周辺の生産地と消費圏を結び

つける機能をも

っていた。

⑦小野 勇

「世田谷

の帰化植物とぼろ市に出た植物」

「帰化植物」を

「栽培目的で輸入したが畑から抜け出し

て野生化した植物」「何物かに付

いて、あるいは混じ

って

って来たも

のが土着化した植物」と規定し、世田谷で観

察された帰化植物

の目録を提示。

③石崎夏夫

「世田谷

の鳥獣類」

世田谷三丁目を中心に著者が数年間調査した鳥類と獣類

一覧。近年、殆ど見かけなくな

った種も提示。

⑨梅野停次郎

「世田谷区内庭園樹木」

区内

の庭木として見られる

マキ、アカ

マツ、イブキ、ビ

クシン等

一〇種について記述。

(2)第二号

(昭和二十六年

一〇月)

①渡辺

一郎

「近世における世田谷市」

近世中期には世田谷市を支える後背地は江戸近郊に包括

され、宿のも

つ商業機能も江戸に吸収される。世田谷市は

付近の郷村のための歳市に退化。近世末期には著しい人出

を対象とする飲食店、見世物、音曲も出て近郊農村の

一大

年中行事の観を呈するようにな

った。

②鈴木堅次郎

「世田谷の道路の発達」

室町以後、関東大震災以前の古ご

は江戸を中心とした放

射状の道と環状道路に分類できる。前者は概して尾根を辿

り、後者は尾根を辿るものの前者を横切らねばならず坂が

い。世田谷で最も古い道は

「鎌倉道」として伝承されて

いる道で、(ア)登戸~弦巻~三軒茶屋~下馬~渋谷と

(イ)

野毛~等々力~深沢~上馬~若林~下北沢~荻窪~板橋で

ある。今なおこれらの断片が

「鎌倉道」といわれている。

典拠が示されていず残念なエッセイである。

③大沢 詮

「世田谷区北西郊村の都市化」

旧千歳村を対象とし、近郊農村が関東大震災、続いて太

平洋戦争を経て都市化する様相を戦前及び昭和二十

一年の

統計

(人口密度、農家戸数、生産物、 三戸当り耕作面積、

生活形態)を用いて考察。

④堀越高雄

。見上秀雄

。角田泰通

「世田谷区内産蝶類につ

いて」

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都市化に伴う植物相の変化により蝶類の減少は免れられ

い。区内

の七科五十三種

の蝶について観察時、場所、生

態を記述し、分布概略図を示した。

(3)第三号

(昭和二十七年四月)

①竹内秀雄

「幕末

。明治期における世田谷市―大場家日記

による―」

大場家文書に基づ

いて天保から明治に至る期間の世田谷

の開催日の変遷を述べる。

②横山昭市

「世田谷幹線小田急

一断面」

小田急本社所蔵

の資料に基づ

いて、年間乗降客数、 一日

当り乗降客数、定期券利用者数等に関して昭和初期と昭和

二〇年代を比較した。

③井高 広

「世田谷

・目黒の境界と文化圏の問題」

芝街道を境界として碑余地域は目黒区に編入されている

が中世

。近世を通して行政上は世田谷と同

一圏内

にあ

た。近世以降も特に東大原、東芳窪地区は経済活動をはじ

めとして日常生活

のあらゆる分野で世田谷と地域性を共有

している。註及び出典の記載あり。

④櫻井正信

・岩見美栄

「市場利用者層より見たる市

の現代

的性格―世田谷歳市

の地域的考察―」

明治中期頃より世田谷歳市

の主な利用者は東京

への疏菜

供給地であ

った荏原郡

一帯及びその北方

の板橋~大泉に至

る疏菜生産者及び農村家内小工業従事者にな

ったが、現在

は多摩川流域の水田耕作地帯及び北多摩、南多摩、三鷹の

農業地帯が主となりヽ商業圏は縮小した。かつての商圏内

に残存した局地的な後進地域が主な購買層を構成してい

る。世田谷市は市場の形態を残してはいるが市場としての

限界を迎えていると言わざるを得ないと分析。

⑤小坂 登

「世田谷区内産マツタケ類について」

昭和二十四年六月に区内で採取したマツタケ類五種につ

いて色彩、形状を記録したもの。

(4)第4号

(昭和二十七年十二月)

①櫻井正信

「玉川周辺地域の開発について―世田谷地方に

於ける供養塔の歴史地理的研究―」

吉良家臣団の土着化により世田谷の開発が行われて近世

郷村が成立した。その過程に於ける村落の開発経過及び村

落集団間の構造を各種の供養塔

(庚申塔、石橋供養塔、念

仏供養塔)の生態調査に基づいて分析する。供養塔の形態、

設置場所及び分布、建立時期、施主

・建立者名等を基に、

母村の隣接地あるいは飛地と母村との距離、血縁の度合

い、供養塔の機能や信仰圏等にようて異なる近世郷村の成

立過程を考察した。昭和二十七年度文部省科学研究助成補

助金を得て行

った合同研究

「江戸と世田谷領との社会経済

的関係」の

一部。第

一次資料に基づいた綿密な社会史論文

である。多くの図表

。出典

・註を含む。

②竹内秀雄

「江戸末期に於ける世田谷領農村の変質―都市

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近郊農村の性格―」

前掲論文と同じく科研費助成による合同研究の

一部。世

田谷大場家、松原大庭家、太子堂森家、経堂長島家、狛江

石井家の所蔵文書に基づいた研究。江戸末期世田谷領の農

民の生業及び経済生活の実態を究明し、都市と周辺農村、

即ち町民と農民の社会経済的関係について述べる。貨幣経

済の農村

への浸透に伴い、農業と江戸府内の商業資本の衝

突が起こり、結果、窮乏農民は農業のみでは生活できず、

農間商業を兼業する者が続出し、やがて農村の階層分解

と進む。典拠の明確な論文である。

③鈴木堅次郎

「世田谷の道路の発達

(その二と

江戸中期以前の世田谷の古道は各村の寺社や集落の推定

地、供養塔の位置等から推論される。幹線道路は二子と野

毛の渡船場を中心に発達し、その間を結ぶ細道路網を作り

あげた。その配置の基本は関東大震災まで続いた。玉川全

円耕地整理に伴

って道路の修正が行われたが二子と野毛を

基地とした古道は依然として主要幹線を成している。沖近

世東国の歴史と地誌を全体的に把握する志向の強いエッセ

イである。

④渡辺

一郎

・高橋正之

「進物

・到来物より見たる代官家の

交際―世田谷領代官の社交圏について―

(1と

安政七年より慶應元年までの大場家奥日記に基づいて代

官家の贈答行動を分析。季節的、非季節的に頻繁な物品の

やり取りが行われた。贈答は同役あるいはそれ以上の村役

人、寺社、親戚、商人、医師との間の互酬的な関係を中心

とする。図表多し。第

一次資料に基づいた論文。

⑤山崎謹哉

「多摩川西岸地域に於ける農村構成―近世芝増

上寺領に関する歴史地理的考察―」

多摩丘陵の往還路に面した

一近世村落

(王禅寺村)は交

易路村として栄えていたが江戸後期の自然災害により潰百

姓を出すなど階層分解を起こした。また兼業農家が増加し

て本来の農村から停滞的集落

へと凌

化した。その要因は江

戸への地理的近接性ゆえ貨幣経済の浸透が早か

ったことで

ある。旧名主志村家文書に基づいた実証研究である。

(5)第五号

(昭和二十八年十

一月)

(座談会、発掘調査報告、ルポルタージュ、活動報告のみ)

(6)第六号

(昭和二十九年三月)

①木槻哲夫

「世田谷における初期小学校」

明治五年の

「学制」発布後、国家的教育制度は公立小学

校における普通教育として結実する。世田谷の市町村制施

行以前においては初期小学校の設立

・維持の費用負担は旧

村の機構に則

って行われ、旧村の村役人層

(名主、年寄)

の私的な人間関係に強く依存したものだ

った。しかし小学

校増設の過程で字間の連携により旧村の構造を内部から解

体し新しい村としての融合が始ま

った。大場家、加賀美家、

森家の文書及び区内各小学校の沿革史等、典拠の明確な研

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究論文である。

②佐野幸子

・佐野 崇

「世田谷地方の農業に関する方言」

近郊園芸地帯としての世田谷に於ける農村語彙の保存を

期して集めた農地、農具、作業法に関する用語の

一覧。昭

和二十二年十二月発行

『あんとろぽす』より転載。

③小坂 登

「世田谷の食用野草」

区内の路傍や畦道に自生している食用になる野草三〇種

一覧。簡単な調理法も付記。

(7)第七号

(昭和三十

一年五月)

①八巻要三郎

「世田谷区羽根木町の地理的考察」

発行年を遡ること十四年、昭和十七年に執筆された草稿

を基にしたもの。著者が羽根木に転入した昭和初年におけ

る田園風景に引き比べて人家に埋め尽くされた現状を町の

成長

。発展と捉え、中世~近代と続く町の変化を地誌を中

心に述べた。

②加藤友

一「昔の若林村について―その風物と習俗―」

若林村の集落間関係、名主の選出法、社寺来歴、その他

について詳細な言い伝えを記録。著者は見聞した事を記す

ことに徹底している。鎮守稲荷社の巨木や境内に古くから

つた大黒天の小祠の行方、供養塔や石碑の移動先、寺名

などの地元民の訛り方に至るまで記録している。口頭伝承

はたとえ断片的なものであ

っても後世に史的価値を残す場

合がある。そういう意味で意義のあるエッセイである。

(8)第八号

(昭和三十

一年十二月)

①丸山 泰

「天保期における新田開発の

一例

(I)―武州

多摩郡和泉村伝三右衛門新田の場合―」

天保の改革が行政組織の末端まで如何に貫徹されたかと

いう視角から狛江町和泉

一帯の新田開発を分析。この小村

は井伊家及び旗本二家による三給入会の村である。井伊家

の名主石井家は小商業者として蓄積した利潤を投入して多

摩川の荒地開発に乗り出す。領主権力との結びつきの強化

を期待しての計画であ

ったが、用水利用について他村との

争論を避ける為に多額の趣意金を、負担。しかし井伊家から

の援助を得られず石井家は借財で没落する。

(9)第九号

(昭和三十二年四月)

①丸山 泰

「天保期における新田開発の

一例

(Ⅱ)―武州

多摩郡和泉村伝三右衛門新田の場合―」

前号の新田開発における他の争論について述べる。三給

入会村の複雑な利害関係に絡んで諸問題が発生したが、と

りわけ新田の分割及び幕府の介入により生じた争論が取り

上げられる。天保の改革に向かって幕府による農村支配が

強化される中で、寄生地主として領主権力と結びついて更

なる発展を企図していた名主家の衰退

・没落を描く。出典

と註が詳しい論文である。         (以下次号)

(当会会員)

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