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西 貿 貿 貿 貿 調 貿 使 -28-

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Page 1: IMG 0006 · 2020. 5. 6. · Title: IMG_0006 Author: annog Created Date: 5/6/2020 9:54:14 PM

趣意書が示された。

一、幕府が水戸藩

の保管する勅命書を取り上げた場

合、水戸藩士有志はただちに販起し、五十人を

って、 一手井伊、 一手は

ハリスのいるアメリ

カ商館

に放火し、 一挙

に征伐する。

一、この挙

に呼応して、薩摩藩

では朝廷守護のため

兵を京

に出勤するよう手配する。

一、薩摩藩兵を京で水戸藩士畑弥平が、大阪で内藤

文七郎が出迎えること。

一、行動

の開始前、五十人の潜居場居場所を薩摩藩

邸の近く

に確保し、また藩邸内にそれらを指揮

する二二人を潜居させて欲しい。

この暗殺計画については万延元年2

八六〇

Y一月十

八日前後して金子孫二郎、関鉄之介らの領 袖も相

いで脱出して江戸に潜伏し、金子は江戸における大老

要撃の

一切を指揮し、関、野村葬之介らはこれを補佐

し、 一挙斬好の上は急遠西上して薩摩の兵と合流する

ことに手筈を整えたのであ

った。

安政六年

(一八五九

)条約に従ぢ

て横浜が六月

に開港

した。それが当時の嬢夷思想を刺戟して、横浜や江戸

附近

において外国人

の殺傷事件が度

々発生した。江戸

の治安上

の重大な問題とな

った。貿易上、五品江戸廻

送令や生糸制限令など

によ

って、管理貿易体制下

に置

き、井伊大老は幕藩体制

の維持だ

った。ところが

ここ

に貿易管理体制から脱却して、自由貿易主義を主張し

ていた人物がいた。開港直後

の横浜で

一代で名をなす

中居重兵衛である。 ”義をも

って利となす

“商法は

激動

の中にも順調

に発展した。ところが貿易管理体制

により通達の強化に及んで、重兵衛を中心とする横浜

商人たちは

「井伊撃

つべし」と秘かに決意をしていた。

中居重兵衛は江戸にでて幕史の漢学者でもある林鶴

に師事した。その門人

の加藤木賞三の感化を受けて尊

皇攘夷

こそ日本の国を維持する正論を信じた。その尊

皇攘夷を推進する志士を支援したいと考え、加藤本を

通じて高橋多

一郎や金子孫

二郎に活動資金を提供して

いた。中居重兵衛は、横浜村四丁目に豪壮な輸出品を

っている店である。特

に火薬、雷管などを諸大名に

納入し、多額の財を貯えていた。井伊大老の襲撃

に使

用する短銃

(コルト)を中居重兵衛から加藤木賞三に

手渡され、水戸浪士の関鉄之介は襲撃の折

に、乱闘の

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するような恰好で待ち構えていた。駕籠訴を

った浪

士の

一人が駈けてきた。先供の者が狼狽してこれ

に近

づくといきなり切り付けられた。すると突如短筒

で駕

籠の中の直弼めがけて打ち込んだ。

これを合図に待機

していた者が

一斉

に切りかかり、供頭日下部三郎右

門、供日付沢村軍六は訴状をも

った者に近づこうとし

ていきなり切り付けられた。雨合羽と柄袋

のため鞘を

払う暇もなく鞘

にてたちむか

って、たちまち顔

に深疵

を負うて倒れた。沢村軍六もまた斗死した。やがて敵

味方のいりみだれての乱斗だ

った。襲撃者は同志

の打

合せどおり、元凶(大老)を討取り、十分討留めての首

級を挙げる

べく覚悟をも

っての攻撃だ

った。

彦根藩の供廻り

の者は不意を

つかれ、自由に立ち振

舞することができず、立ち向

いすさまじい供廻り

の身

命を賭しての戦

いである。水戸藩士らは元凶(大老

)の

首級を挙げたので、かねて襲撃戦略どおり退散した。

この間わずか煙草三服を呑む程度

の戦いだ

った。その

ため彦根藩

の供廻りの者の犠牲者が多くでた。この事

件で彦根藩側

の死傷者は即死四名、深痕

一名、手負十

一名、薄手疵五名、計二十

一名の多数

に達した。その

中には非戦斗員の草履取や陸

尺もまじ

っていた。熾烈

きわめる戦だ

ったかの資料を

ここに記載する。

大老襲撃

に加わ

った薩摩藩を脱藩した有村次郎左

門が母や兄の俊斉らにあてて書

いた書状が合装されて

いる資料がある。画面の左端

の槍先に直弼の首を提げ

て走

っているのが有村次郎左

ヱ門である。彼はこの時、

彦根藩士小川原秀之丞に追いかけられ斬り合いとなり、

結局小川原を斬

った

つもりだが、自ら深手を負い、引

きあげ

の途中

で自刃した。年

二十三歳だ

った。この画

面の軸は、現在まで有村家

に伝えられてきた由緒ある

一級の資料といわれた。また防戦

に死力を尽くして

対応した彦根藩の徒士の越石源次郎の脇差

の御刀

一口

が彦根博物館

に保管されている。

この脇差は刀の柄や

ラシャの柄袋

に残る刀傷の他、刀身

にも数

ヶ所の刃こ

ばれがみられる。この日の凄絶な攻防のありさまが生

々しく伝わ

ってくる。越石源次郎はこの時深手を負

ていたので、帰宅後に没している。また供頭日下部三

ヱ門は重傷

の深疵を負

っていたので、養子日下部東

作が看病

にあたり六十日で自宅で没している。

桜田門外

の事件に例年のとおり上己の節句祭りを祝

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跡片づけは、半刻(一時間

)かかりて終

った。襲撃し

て、立ち退くまで間は

「時計三分許りにて至而早く相

済」とある。彦根藩邸

の藩士たちが駈け

つけた時は、

すでに襲撃した者は現場にいなか

った。襲撃した者た

ちは大半が深傷を負

って逃げるす

べもなか

った。稲田

重蔵はその場で斬り殺された。織田兵部少輔の塀

にた

どり

つくと山

口辰之介は深痕

のため苦闘激しく鯉渕要

人の介錯

により首を落された。

鯉渕要人はその場で咽喉を突き自刃した。大手門外

の酒井雅楽頭(忠顕、姫路藩主)の屋敷外ま

で逃げてき

たが、深疵のため歩行困難

により広岡子之次郎が自刃、

有村次左

ヱ門は馬場先門前をすぎて、追

ってきた彦根

藩供目付助役小河原秀之丞に背後から斬り

つけられた。

出血は甚しく、但馬守屋敷

の者は有村の体と井伊

の首

ととも

に番所

にはこび、有村は息絶えて死んだ。

(以下は次号

にて)

世田谷の代官屋敷のシダレカツラ

三年ほど前に代官屋敷の敷地内にある樹木の名札を

つけるこ

とを依頼されて、ひととおり樹木を調査したが特に珍しい種類

はなか

った。

しかし非常に変わ

った樹木が

一本あ

った。その樹木はよく知

られている

「カツラ」の

一種であると判断できたが、樹木の姿

は上

へのびるべき細い枝がす

べて下

へたれてヽシダレヤナギの

ようにな

っていた。

すぐに植物図鑑で調べたが該当する植物はなか

ったので、分

類学関係の資料で調べたところ

「ツグレカッラ」という変種で

あることが分

った。

更に地方のことを調べたところ岩手県稗抜郡の山中で、約三

百年前に発見されて大正十三年に国の天然記念物に指定されて

いることも判明した。

なお現在盛岡市とその周辺に、二本の

「シグレカツラ」の巨

木があ

って、ともに記念物に指定されていることも分

った。こ

れらは野生

の状態から突然変異でできたものと推察できる。

代官屋敷のものは、珍しいものとして寄贈されたのでないで

しょうか。代官屋敷

へ出かけられたときは、この

「シグレカツ

ラ」をご覧にな

ってください。

代官屋敷の

「切腹の間」のすぐ南側に植えられています。

文責  白 子 森 蔵

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