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66号 |・ 1‐ ・・・・ ・・ ¨ 砕 疇購 2014 せ口 (千 26)年 7月 区誌 研 究会

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第66号

|・

・ 1‐・・・・・ ‐

 ・・・̈

計訂許‥卜漁

砕 疇購 奮

六十六号

2014

せ 口谷

(千茂26)年 7月

区誌研究会

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■表紙写真 江戸太郎菫長公像

江戸氏・喜多見民の事提十である慶元寺境内に江戸民二代日江戸夫良「重長の銅像がある。

その背面の台座に下記の碑えが記載さ薇ている。江戸太虜

`菫

長の業績は本文「慶元寺栞集

録から読む江戸民・喜多見民の小史」に掲載 して有 りますのでご覧ください。

一言長は始れ菫継の子で江

戸民

二代日である。

江戸の

地に居を構え周辺を頷有し

ていた。再たした源頼朝

式蔵

入国に助力した功によ

り式蔵国諾雑事、准庁官人

並びに諸雑事を仲せ付けら

れ、えに源千合戦、奥州征

伐等に参戦鎌唸幕府樹立に

尽力しオ兵衛尉に任ぜられ

武蔵七郷を賜

った式将であ

る。嘉禄元年

入月十

二口歿。

丈治

二年、

父の薔提

のた

めに江戸竹地

の江葉山に定

立した束希寺が度え寺

の前

である。

当山開基

入百年

に当り、

江戸夫甲ヽ重長顕彰報思の意

を以

ってこの像を定立す。

昭わ六十年十

一月二日

願主永劫山慶え十

二十

二せ道春元境

■夏表紙写真 玄照寺阿形 の狛 夫像

鳥山寺町にある玄照十工 Flと 本堂前に 1対の狛人が鎮座 している。普近狛人は阿■ の形だ

が、何故か この 2頭 は口を開けている。 この狛人は朝鮮か ら持 ち込 ま薇たものとい うだけ

で、 その由来ははっきりしていない ようだ。

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慶元寺報集録から読む

江戸氏

・喜多見氏の小史

武居 義之編

江戸

・世田谷には十二世紀から十七世紀にかけて秩父出

の侍が住んでいた。この侍が荒れ地の江戸を開拓して今

の東京

の基礎を作

った。しかしその評価は

一部の学者

・歴

史研究者に知られているだけで、 一般

の都民

。世田谷区民

にはほとんど知られていな

い。

昭和三十

一年

(一九五六)大東京祭が行われ、開都五百

の祝賀記念事業として都庁前に大田道灌の銅像が建てら

れた。大田道灌

の江戸城築城

(一四五六年)を江戸の開都

としたからである。始めは江戸太郎重長

の銅像を建てる案

であ

ったようだが、文献資料

の不足と、知名度及び五百年

のゴ

ロ合わせで大田道灌に決ま

つたよう

である。

十二世紀中頃

の武蔵国

(現在

の東京都及び埼玉県)での

江戸氏

の事績を見ると、初代江戸四朗重継と二代江戸太郎

重長

(表紙)が江戸地

の開発を進め、江戸の発展はそこか

ら始ま

ったことが分かる。東京開都記念事業ならば、重継

か重長どちらかの銅像が立

っても不思議ではなか

ったので

はな

いか。

せたか

い六十六号を読まれる皆さんに江戸氏

・喜多見氏

の歴史

・事績を知

って貰いたく、この小史を江戸氏

・喜多

見氏の菩提寺である慶元寺報集録から書いた次第である。

江戸氏歴史に登場~鎌倉幕府成立ヘ

江戸氏は平氏の流れを組む秩父氏から出た。桓武平氏の

坂東進出は寛平元年

(八八九)桓武天皇の第三皇子葛原親

王の孫、高望王が平姓を賜り上総介赴任に始まる。平氏は

常陸

・上総

・下総

。安房

・相模

・武蔵などで栄え

「坂東八

平氏」(秩父

・千葉

。上総

。三滞

・鎌倉

。長尾

。大庭

・梶

原氏)が存在した。この時代、今の東京を統治したのは江

戸氏

一族の豊島氏

・葛西氏

。江戸氏であ

った。

源氏が坂東に進出したのは平将門

。平忠常の乱

(九三五

~九四〇年)及びその後の

「前九年の役」2

0五

一~

〇六二年)、「後三年の役」貧

〇八三~

一〇八七年)以降

である。

秩父氏は高望王の子平良文より出ており、その子村岡五

郎忠頼が武蔵平氏諸流

の本宗となり、本拠は武蔵秩父

・大

里両郡であ

った。秩父氏

の勢力

の基盤は兵部省兵馬司の管

轄下にある中央政府に馬牛を貢納する役所

「牧」であり、

その管理する長の別当

の下で勢力を確保して来たようだ。

平良文から七世秩父権守重綱

の第四子、四朗重継が大治

五年

(一一三〇)武蔵国江戸荘局沢の江戸

(祇園)神社で

加冠、江戸姓を名乗り荏原郡桜田郷内、今

の皇居の紅葉山

-51-

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辺りに館を築き江戸

一帯を領有、領民から江戸貫主と言わ

れた。「畠山系図」によると重綱

の弟基家が

「河崎冠者

武州荏原郡知行」とあり、川崎

・小机

。渋谷

一帯を領有し

ている。これは重継が荏原郡桜田郷に移る前

の出来事かは

不明である。

江戸重継の嫡男江戸太郎重長は治承四年

(一一八〇)源

頼朝

の挙兵に対し畠山重忠

・河越重頼と組み石橋山の合戦

で頼朝を敗走させ、三浦

一族

の本拠地衣笠城を攻め三浦介

義明を打ち取

ったと吾妻鑑にある。頼朝は千葉介常胤

の助

力と進言により、上総から鎌倉を目指して進軍する時、重

長に使者を出し

「三浦攻めは不間にするから以仁王の令旨

を奉じ速やかに参陣せよ」と言わせるが、重長は撥付ける。

頼朝が下総から武蔵国に侵入するに際し、江戸氏

一族

の豊

島清光、葛西清重、足立遠元が頼朝方に参陣、重長は同族

に説得され、畠山重忠、河越重頼と共に頼朝陣営に参向し

た。重長は渡河用の舟千隻を提供し、頼朝は喜び重長を武

蔵國在庁職に任じ、在庁官人、諸郡司を指揮して諸雑事を

処理するように命じたと吾妻鑑に記載されている。頼朝よ

り武蔵国の支配権を与えられた事は重長が武蔵国で絶大な

勢力を有していたことを窺わせる。この支配権確立を以て

考古学者鳥居竜蔵博士

(「武蔵野」誌発行者)は重長が江

戸開府

の祖と見るべきだと述べている。

重長は

一の谷

・屋島

の戦

い及び奥州藤原泰衡征伐に供奉

するなど鎌倉幕府成立の功により右兵衛尉従五位下に任じ

られ武蔵七郷を賜り、所領は江戸を始め本田見

・丸子

・六

・柴崎

。飯倉

・渋谷

・高田等豊島

・荏原

・多摩郡に及ん

でいた。義経記は重長を

「坂東八か国の大福長者」と表し

ている。重長は次男武重に木田見郷を与え、武重は木田見

に住み本田見次郎武重と名乗

った。元久二年

(一二〇五)

執権北条時政

・政子親子の

「畠山重忠

・重保親子に謀反あ

り」の報に接し、重長は同じ

一族であ

ったが北条に組して

畠山を討ち、そのあと秩父平氏。一

門の棟梁にな

った。武重

は兄忠重が承久の乱

(一三二

一年)で戦死tたので江戸氏

三代目の当主とな

った。

建武の中興~南北朝動乱

・武蔵野合戦

江戸氏七代遠江守長門は鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱の

時期に当主とな

った。このころの江戸氏は

一族郎党五百余

騎と云われ、所領も新たに稲毛荘十二郷を加え絶頂期に

ったと太平記に記されている。

元弘三年

(一三三三)江戸長門は新田義貞に組して武蔵

国府中分倍川原で鎌倉幕府軍との合戦に参戦、新田軍は勝

利し五日後に鎌倉に攻め入り鎌倉幕府を崩壊させ建武の中

興の基礎を築いた。江戸長門はこの戦いの功により建武三

(一三三六)後醍醐天皇より軍功を賞せられ従五位の下

に叙せられ御剣を賜

った。しかし足利尊氏

・直義兄弟が鎌

―-53-―

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倉で反旗を掲げ関東武士で同調する者が多かった。

足利尊氏は北朝暦延元元年

(一三三六)八月光明天皇を

擁立、同十

一月室町幕府を成立させて南北朝の対立が始

った。関東の諸豪族も南朝方の新田氏、北朝方の足利氏

に分かれ、江戸氏は新田義貞と共に南朝方に属した。

しかし延元三年

(一三三八)新田義貞が越前藤島の戦い

で戦死してからは北朝の足利方に属した。正平七年

(一三

五二)足利氏の内紛

(足利尊氏が弟直義を毒殺。観応の擾

乱終わる)を知

った新田義貞の子義興は弟義宗と共に宗長

親王を奉じて上野国で挙兵、武蔵国に進出した。江戸氏

族は多摩川南岸谷野口に布陣、新田軍と対峙した。同年二

月二十日府中市人見原、小金井市金井原で

一大合戦となり

足利軍は敗退、尊氏は石浜に逃れ勢力の挽回を図

った。尊

氏は八日後の小手指原、高麗原の戦いで新田軍に勝利を収

めた。この

一連の合戦を武蔵野合戦と言う。江戸長門は弟

三郎長保、 一族郎党を率いて足利軍の士将として奮戦、軍

功を立て江戸氏の名を高めたと云う。

新田義興謀殺事件

(平賀源内 浄瑠璃

「神霊矢口渡し

正平四年

(一三四九)足利尊氏は息子基氏を関東公方に

任じ基氏は入間川に陣所を設けた。  ・

太平記によると正平十三年

(一三五八)江戸長門、同族

の竹沢右京亮良衡が関東公方足利基氏の執事である畠山国

清と図り新田義興を欺き誘き出し、多摩川谷回の渡しで義

興主従十三騎を船に乗せ、川中で沈めて義興主従を自害さ

せた。江戸長門、竹沢右京亮は入間川陣所

の関東公方基氏

の所に義興の首を持参して恩賞を受け、数ケ所の所領を与

えられた。恩賞

の地に行く途中多摩川谷日の渡を渡ろうと

した時

一天俄に掻き曇り、雷鳴が轟き、落雷

の為長門は落

馬負傷し、それから七日の間義興の亡霊に悩まされて狂死

し、以来この付近に毎夜怪しい光が発し、村人は恐れて

社を立て義興の霊を祀

ったと大平記にある。この事件は江

戸時代平賀源内が浄瑠璃

「神霊矢口渡」を作り庶民の好評

を得て有名にな

った事件

である。

二子工川にある兵庫島は義興家臣由良兵庫助

の遺体が流

れ着き、そこから名付けたと世田谷区史

に記載されてい

アの。こ

の義

興謀殺事件は武士団

の中

で評判が悪く、江戸氏

に泥を塗

つた事

になり、以降

の衰

退

のき

っかけ

にな

た。平

一揆~江戸氏凋落の始まり

江戸遠江守長門の亡き後当主を継いだのは八代高重で従

五位の下淡路守に任ぜられた。

足利義満が三代将軍にな

った正平二十三年

(一三六八)

関東公方足利基氏と管領上杉憲顕の政治に不満持

つ武士達

―-54-―

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が憲顕の上洛を機に反乱を起こした。首謀者は江戸氏を始

め、河越氏、豊島氏等秩父平氏の

一統であ

った。憲顕は鎌

倉に戻り、兵を整えて武蔵府中に入り河越を攻め、さらに

江戸牛島、横田、贄木、宇都官と転戦、わずか六か月で

揆を平定した。江戸氏は平定後の処罰で現在の墨田、向島、

押上など隅田川東岸と、西岸の石浜、千束など観応以後に

得た恩地に、従来の本領もかなり失い衰退の歩を速めた。

この後高重は関東公方足利持氏に仕え、応永二十三年

(一

一六)十月上杉氏憲

(禅秀)の反乱の時、南武蔵武士団

と共に上杉禅秀とその与党を討ち、その功により鎌倉府の

公事

(租税)を五ヶ年間免除されたと云う。

室町中期の江戸氏は関東動乱に遭遇、関東公方に従

った

り、室町幕府に供奉したり、また

一族は古河公方に仕えた

りして弱肉強食の時代に江戸氏の存亡をかけて動

いてい

た。江

戸氏九代は高重の次男康重

(三郎、右京亮)が継ぎ駿

河守に任ぜられ関東公方足利持氏に仕えた。やがて持氏は

室町幕府六代将軍足利義教に反抗、幕府は持氏討伐の軍を

関東に下した。関東武士団は江戸氏を始め幕府方に付く者

が続出し、永享十

一年

(一四三九)持氏は自刃し、また駿

河守康重は鎌倉で戦死した。

太田道灌資長に江戸館を奪われる

江戸氏十代重廉は多摩川文庫によれば江戸藤太郎、三

郎、遠江守、北見掃部と云う。足利

・上杉の反目抗争の関

東動乱の中に、扇谷上杉家重臣太田道灌資長がいた。康正

三年

(一四五六)古河公方と鎌倉管領との抗争の中で大田

道灌は鎌倉と岩槻城、河越城を結ぶ拠点として江戸築城を

計画、その場所を江戸氏館付近と決め江戸氏に退去を求め

た。江戸氏は時の趨勢には抗し切れず始祖以来十代三百余

年続いた本拠を摂取され、木田財に本拠を移した。重廉二

十歳の決断であ

つた。この状況は江戸氏の支族

・庶流の自

立による惣領家の弱体化の表れであり、武蔵武士全体に見

られた現象であ

った。ちなみに応永二十七年

(一四二〇)

「武蔵国江戸惣領の流」によると江戸氏には

一八流あ

たと東京都の歴史にある。

本田見での館の所在地は

一説には

「江戸名所図絵」(天

保年間に齋藤月琴が刊行した江戸名所の地誌紀行図鑑、長

谷川雪旦の挿図が有名)に江戸氏七代遠江守長門の館が今

の喜多見氷川神社より巽の方向

一町の所にあ

ったと記され

ている。この記述から江戸氏本拠は七代長門の時に木田見

に移

っていたのかも知れない。重廉は応仁二年貧

四六八)

多摩川を襲

った大洪水で喜多見村及び数ケ村を流失、この

時に家人、里人数百人と共に溺死したと云う。十

一代重廣

は館を武州荏原郡竹上郷

・馬込郷に避れ主として馬込に住

-5ト