eyes from the void soseki in...

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20空白からの眼差し―ロンドンでの漱石柴田 勝二 Eyes from the VoidSoseki In London SHIBATA Shoji Natsume Soseki went to England in 1900 and stayed in London until the end of 1902 with the intention of studying English literature. As is well known, Sosekis life in London was not comfortable. Commodity prices, including tuition fees, there were far higher than in Japan, and English literature was not treated as an established academic field in English universities at that time. Therefore, Soseki could not find a proper college for his study and was forced to receive private lessons from Mr. Craig, a Shakespearean scholar. However, Craigs method of teaching English literature was so arbitrary that Soseki was unable to assimilate it. Moreover, as Darwinism was predominant during this period, it was common for Asians like Soseki to be viewed with discriminatory eyes. In such an environment, Soseki was forced to rethink his ideas of “Japan” and “Japanese.” A conspicuous tendency in Sosekis works is the frequent references to allegorical Japanese figures in the description of protagonists. This tendency may be traced to Sosekis experiences in London. Through life in this city, Soseki recognized that the Western world was largely unaware of Japan; as a result, he developed the strong conviction that Japan must become a modern and civilized country. What was ironic is that Soseki recognized the absence of cultural accumulation of “Japan” through his attempts to understand Japanese culture. Sosekis unfamiliarity with Japanese culture was a result of the fact that his literary grounding had been formed mainly by assimilating Chinese classical literature rather than Japanese classics. This factor contributed to Sosekis mental instability. However, Sosekis experiences in London led him to turn a critical eye on Japan as an Eastern country, and this became the starting point of his creative activity upon returning to Japan. 451

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(20) 空白からの眼差し―ロンドンでの漱石: 柴田 勝二

Eyes from the Void―Soseki In London

SHIBATA Shoji

Natsume Soseki went to England in 1900 and stayed in London until the end of 1902 with the

intention of studying English literature. As is well known, Soseki’s life in London was not

comfortable. Commodity prices, including tuition fees, there were far higher than in Japan, and

English literature was not treated as an established academic field in English universities at that

time. Therefore, Soseki could not find a proper college for his study and was forced to receive

private lessons from Mr. Craig, a Shakespearean scholar. However, Craig’s method of teaching

English literature was so arbitrary that Soseki was unable to assimilate it. Moreover, as

Darwinism was predominant during this period, it was common for Asians like Soseki to be

viewed with discriminatory eyes.

In such an environment, Soseki was forced to rethink his ideas of “Japan” and “Japanese.” A

conspicuous tendency in Soseki’s works is the frequent references to allegorical Japanese figures

in the description of protagonists. This tendency may be traced to Soseki’s experiences in

London. Through life in this city, Soseki recognized that the Western world was largely unaware

of Japan; as a result, he developed the strong conviction that Japan must become a modern and

civilized country.

What was ironic is that Soseki recognized the absence of cultural accumulation of “Japan”

through his attempts to understand Japanese culture. Soseki’s unfamiliarity with Japanese

culture was a result of the fact that his literary grounding had been formed mainly by assimilating

Chinese classical literature rather than Japanese classics. This factor contributed to Soseki’s

mental instability. However, Soseki’s experiences in London led him to turn a critical eye on

Japan as an Eastern country, and this became the starting point of his creative activity upon

returning to Japan.

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東京外国語大学論集第 85 号(2012) (19)

が踏まえられているだけでなく、そこで言及されている在原行平(業平

の兄)の和歌が取り込まれていることが見出され、漱石の『源氏』理解

の深さがうかがわれるという。また学生時代の作文「対月有感」では、

「桐壺」の巻の一文がそのまま引用されており、やはり『源氏』への親

しみが明らかであるとされる。

(5)東北大学図書館所蔵の漱石の蔵書「漱石文庫」中の日本の物語関係の和

書としては、『源氏物語』『雨月物語』及び北村季吟による『伊勢物語

拾穂抄』と世雄房日性による『太平記鈔

附音義』が見られるのみであ

る。なおこれらの内明治二六年(一八九三)刊行の『雨月物語』以外は

いずれも江戸時代に出された刊本である。

(6)

大澤吉博「夏目漱石『心』における非日常性――その構造と文体」(東

京大学『比較

文学研究』八〇号、二〇〇二・九)。

(7) h

ttp://en.wikipedia.org/wiki/Human_height

による。

(8)

H・スペンサー『社会学之原理』(乗竹孝太郎訳・外山正一閲、経済雑

誌社、一八八五、原著は一八七六~九六)。スペンサーはアフリカ、ア

ジア、オーストラリアなどの原住民を「下等人種」ないし「原始人」と

見なし、彼らの「性質ト開明人種ノ小児ノ性質トハ極メテ相類似セルモ

ノ」であるとしている。またこうした「野蛮人」の精神作用は、事物の

個別性を超えることができず、対象の分析から未来への展望へと至る

「概括的ノ思想」をもつことができないとしている。

(9)

富山太佳夫『ポパイの影に』(前出)による。

(10)小森陽一『漱石を読みなおす』(ちくま新書、一九九五)。

(11)『スタンダード』紙の記事については、『漱石全集』第十二巻(岩波書

店、一九九四)の清水純孝・桶谷秀昭による「注解」における引用を参

照させていただいた。なお訳文は拙訳による。

(12)ボーア戦争については岡倉登志『ボーア戦争』(山川出版社、二〇〇三)、

『イギリス史3』(前出)、『近代イギリス史』(前出)などを参照し

た。

(13)毛利健三『自由貿易帝国主義』(東京大学出版会、一九七八)による。

(14)義和団事変については斎藤聖二『北清事変と日本軍』(芙蓉書房出版、

二〇〇六)、小林一美『義和団戦争と明治国家』(汲古書院、一九八六)、

三石善吉『中国、一九〇〇年――義和団運動の光芒』(中公新書、一九

九六)などを参照した。

(15)この戯画は『パンチ』誌一九〇〇年七月一八日号に掲載されたものであ

る。同誌と東田雅博『関係のなかの中国と日本――ヴィクトリア期のオ

リエント幻想』(山川出版社、一九九八)を参照した。

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(18) 空白からの眼差し―ロンドンでの漱石: 柴田 勝二

ており、それを埋めるものがインドからの約六千万ポンドをはじ

めとする植民地経営による黒字であった(

13)

。世界に冠たる「大

英帝国」の経済的な基盤が、植民地経営に依存する危ういもので

あることを漱石は見抜いていたのである。また「天子蒙塵の辱を

受けつゝある」と記されるように、義和団鎮圧後の中国(清)は

各国兵士による北京でのすさまじい略奪・陵辱行為がつづいた上

に、列強間での国土の分割が企図されていた。義和団の抵抗の持

続や各国間の利害の対立などのために、結局分割領有には至らな

かったものの、この年の九月に締結された北京議定書によって中

国は四億五千万両という巨額の賠償金を課せられ、また北京や天

津での外国の駐兵が認められることで、独立権を事実上喪失し、

列強の植民地に近い状態に置かれることになった(

14)

二〇世紀を迎えたロンドンにおける漱石の眼差しは、こうした

世界の情勢を的確に捉えていた。その状況は、東洋の片隅に置か

れていた日本が、西洋の列強諸国と同一の地平で行動しうる段階

に進みつつあることを感じ取らせたはずである。とくにイギリス

は極東でのロシアの勢力拡張に歯止めがかけられる唯一の国とし

て、日本への信任を高めざるをえなかった。当時のイギリスの戯

画においても、陸軍中佐(当時)柴五郎が連合国軍を束ねる中心

的な役割を果たした義和団事件の際には、従来のひ弱で矮小なサ

ムライのイメージとは異なる、西洋人の先頭に立つ日本サムライ

のイメージが描かれたりしている(

15)

。にもかかわらずロンドン

で暮らす漱石には、日本人の存在は小さなものとしか思われず、

自国が文明国家として発展しつつあることを実感することはでき

なかった。またそうした感覚が、一層世界における日本の位置づ

けに対して漱石を敏感にすることになる。この循環のなかで、漱

石の作家としての意識せざる基底が培われていったのである。

〔註〕

(1)

『イギリス近代史』(村岡健次・川北稔編、ミネルヴァ書房、一九八五)、

世界歴史大系『イギリス史3』(村岡健次・木畑洋一編、山川出版社、

一九九一)などによる。

(2)江藤淳は『漱石とその時代』(第二部、新潮選書、一九七〇)で、クレ

イグを「どこにも属していない人物」として捉え、そのイギリス人社会

における帰属度の希薄さにおいて、クレイグが漱石に近似した位置を占

めていたという見方を示している。また出口保夫は『ロンドンの夏目漱

石』(河出書房新社、一九八二)でクレイグがその一員をなす「ロンド

ンにおけるアイルランド人」が、「一種の被圧迫民族であって、文化的

は誇り高い民族としての自尊心を持ちながら、政治、経済的には劣等感

をいだくという、曲折した感性の持主が多」く、その点で「彼らは社会

的弱者なのである」と述べている。

(3)

H・ベルクソン『意識と生命』(渡辺義教訳、中央公論社世界の名著5

3

『ベルクソン』一九六九、所収、原講演は一九一一)。

(4) 島内景二によれば、たとえば漱石が明治二九年(一八九六)に作った俳

句「涼しさの闇を来るなり須磨の浦」は、『源氏物語』の「須磨」の巻

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東京外国語大学論集第 85 号(2012) (17)

たオランダ系移民のボーア人たちと、アフリカ南部の支配権をめ

ぐって衝突した戦いであり、一八八〇年に始まった第一次ボーア

戦争では翌年イギリスはボーア人に敗れ、彼らが設立したトラン

スヴァール共和国の独立を承認するという結末を迎えた。第二次

ボーア戦争はトランスヴァール共和国内で発見された金の鉱脈を

目指して大量に押し寄せたイギリス人が、ボーア人政府による待

遇の不平等に対する不満を募らせたことが引き金となって、一八

九九年から一九〇二年にかけて戦われた。十年を超える長期間に

わたる戦闘の末にイギリスが勝利を得、トランスヴァール共和国

は、ダイヤモンド鉱山をもつオレンジ自由国とともに大英帝国に

併合されることになった。

しかし第一次戦争では屈辱的な敗戦を味わわされ、第二次戦争

でもボーア軍の攻勢に押されつづける時期があるなど、イギリス

の威信は大きく損なわれた。また金やダイヤモンドといった資源

への欲望を実現させることを目的とした戦争において、非人道的

な焦土作戦や強制収容所での民間ボーア人への劣悪な待遇がおこ

なわれたことなどで、イギリスは国際的な批判を受けることにな

った(

12)

。そしてこの戦争に兵力を割くために、義和団鎮圧のた

めの北京への派兵が困難となり、満州で勢力を拡げつつあるロシ

アを抑えるためにも日本との連携が不可欠となった。この状況下

でイギリスは従来の「栄光ある孤立」政策を捨てて一九〇二年に

日英同盟に踏み切らざるをえなくなるが、こうした世界を支配し

た帝国としての威信が揺らぎつつあった時代に、漱石はその首都

で日々を送っていたのである。

漱石は明治三三年(一九〇〇)一〇月二八日にドーヴァー海峡

を渡ってロンドンに到着した際に、南アフリカから帰還してくる

兵士たちを歓迎する群衆に遭遇し、その様子を一〇日二九日の「日

記」に「倫敦市中ニ歩行ス方角モ何モ分ラズ且南阿ヨリ帰ル義勇

兵歓迎ノ為メ非常ノ雑沓ニテ困却セリ」と記している。前月にト

ランスヴァール共和国の首都プレトリアが陥落し、イギリスの優

勢が決定的になっていたために、兵士たちの帰還は熱狂的な出迎

えを受けたのである。漱石は雑踏の意味を認識しながらも、この

時点ではまだ「義勇兵」を送ったイギリスの事情を十分には掴ん

でいなかったと思われるが、翌年四月に書かれた『倫敦消息』で

は、世界の情勢に対して次のような冷静な観察が末尾に記されて

いる。

魯西亜と日本は争はんとしては争はんとしつゝある。支那は

天子蒙塵の辱を受けつゝある。英国はトランスヴハ

ールの金剛

石を掘り出して軍費の穴を填めんとしつゝある。

イギリスの南アフリカとの貿易額はその後の展開においても

「軍費の穴を填め」るほどには到底至らなかったが、一九世紀か

ら二〇世紀にかけて、イギリスが本国の貿易赤字を植民地経営に

よって補っていたことは事実である。二〇世紀初頭においてはイ

ギリスの貿易収支は一億五千万ポンドを超える膨大な赤字に陥っ

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(16) 空白からの眼差し―ロンドンでの漱石: 柴田 勝二

に満州の占領を企て、一九〇〇年一〇月にはそれを達成した。こ

れ以降日本は日清戦争以来の朝鮮をめぐる交渉だけでなく、満州

での動向に対して神経を注ぎつつロシアと渡り合うことになる。

日露戦争に至る前段階をなすこうした流れを背景として、漱石が

読んだ『スタンダード』紙の「満州問題」の論評は書かれている。

実際の経緯としては三年後の明治三七年(一九〇四)二月に開

戦した日露戦争は、主に旅順、奉天、遼陽、沙河といった清の地

域を舞台として戦われ、「魯国新聞」の論評の予想とは違って朝

鮮が主たる戦場となることはなかった。しかしこのエッセイで漱

石が、朝鮮が日露間の軍事的衝突によって「善い迷惑」を蒙らさ

れるという見通しを表明していることは見逃せない。漱石が中

国・朝鮮などアジア諸国に対して侮蔑的であったという見方は根

強くあるが、作品や評論、講演などでの表現を見る限り、その評

価に逆行する形跡が多く見出される。ここでも漱石は「吾輩は先

第一に支那事件の処を読むのだ」と記すほどの強い関心を義和団

事変収束後の清に抱いており、さらに日本とロシアとの衝突によ

って朝鮮が戦場となることを憂慮しているのである。

こうした関心や憂慮はもちろん日本という自国にも向けられて

おり、明治三四年(一九〇一)一月二二日のヴィクトリア女王の

逝去に遭遇した際には、あらためて日本の現状と行く末に思いを

馳せる記述を日記でおこなっている。一月二五日の項には「西洋

人ハ日本ノ進歩ニ驚ク驚クハ今迄軽蔑シテ居ツタ者ガ生意気ナコ

トヲシタリ云タリスルノデ驚クナリ大部分ノ者は驚キモセネバ知

リモセヌナリ一向interest

ヲ以テ居ラヌ者多キナリ」といった、イ

ギリス人の日本への無関心ぶりが記され、彼らにむきになって日

本を知らしめようとするよりも「黙ツテセツ

くトヤルベシ」と

いう、諦めの言葉でこの日の記述が閉じられている。こうした日

本の〈無名〉ぶりが、『吾輩は猫である』の「名前はまだ無い」

猫である「吾輩」の輪郭に投げ込まれていることは明らかで、こ

こからもこの作品における〈人間―猫〉の位階性の寓意が知られ

る。また二日後の一月二七日の項には「夜下宿ノ三階ニテツク

ぐ日本ノ前途ヲ考フ/日本ハ真面目ナラザルベカラズ日本人ノ

眼ハヨリ大ナラザルベカラズ」(/は行換え)という戒めをおそ

らくは半ば自分に向けて書き付けているのである。

漱石が「日本ノ前途ヲ考」えて、「日本ハ真面目ナラザルベカ

ラズ」と日記に記すように、確かに当時の日本はロシアとの緊張

を高めていく難しい局面にあった。『倫敦消息』に述べられた「満

州問題」は前年の秋から持続しているものであり、新聞にもたび

たび登場している。またこの問題はイギリスとも無縁ではなく、

先に触れたようにロシアに対抗するべく、日本は日英同盟に至る

イギリスとの連携を強化することになる。同時に日本との連携は

イギリス側からの要請でもあった。すなわちイギリスは一八九九

年に南アフリカで勃発した第二次ボーア戦争に兵力を注ぎ込んで

いる状況にあり、義和団事件の際にも十分な数の兵を北京に送る

ことができなかったのである。

ボーア戦争はイギリスが一七世紀頃からケープ植民地に入植し

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東京外国語大学論集第 85 号(2012) (15)

国際関係のなかの日本

すなわち、この「尤も不愉快」(『文学論』「序」)な二年余

のロンドン生活で受け取りつづけた疎外感と距離感によって、漱

石は自己を相対化しつつ現実を総体的に捉えるメタレベルの眼差

しを獲得するに至ったといえよう。対象を把握する条件が距離で

ある以上、なじみにくさの感覚によって現実世界という生活の環

境が観察の対象へと変ずる経験を漱石はしたのである。その眼差

しは当然、社会的・政治的な事象にも向けられることになる。ロ

ンドンの漱石は現地での見聞に加えて、熱心に新聞に眼を通して、

様々な出来事に感応し、それらを通して日本のあり方に考えをめ

ぐらしている。

『倫敦消息』はその様相をよく伝えている文章である。病床にあ

る正岡子規に宛てた体裁をとって書かれたこのエッセイの冒頭で

は「こちらへ来てからどう云ふものかいやに人間が真面目になつ

てね。色々な事を見たり聞たりするにつけて日本の将来と云ふ問

題がしきりに頭の中に起る」と記され、下宿での日常が叙述され

た後、新聞で気になった記事について紹介されている。

西洋の新聞は実にでがある。始から仕舞まで残らず読めば五六

時間はかゝるだらう。吾輩は先第一に支那事件の処を読むのだ。

今日のには魯国新聞の日本に対する論評がある、若し戦争をせ

ねばならん時には、日本へ攻め寄せるのは得策でないから朝鮮

で雌雄を決するがよからうといふ主意である。朝鮮こそ善い迷

惑だと思つた。

引用の前に新聞の名前が挙げられているように、漱石がここで

眼を通しているのは『スタンダード』紙であり、ここで扱われて

いるのはその一九〇一年四月九日の記事「満州問題」である。こ

の記事ではロシア側の意向として、日本が満州におけるロシアの

振舞に対して不快を募らせて武力に訴える事態になった場合、戦

闘が朝鮮半島においてなされることになるという見通しが示され、

その戦闘においてこそ「「アジアのイギリス」〔日本〕と我が国

〔ロシア〕のいずれが極東の最強国であるかが決せられるであろ

う」と述べられている(

11)

ここで論評されている「支那事件」とは、清が一九世紀後半か

ら西洋列強と日本による帝国主義的な侵攻に晒されつづける状況

下で、義和拳と称される武術の修練者たちの結社である義和団が

起こした鉄道の破壊などによる排外的な叛乱を、欧米諸国及び日

本による連合軍が鎮圧するに至った「義和団事変」ないし「北清

事変」を指している。攻撃の対象が清国人を含む国内のキリスト

教徒たちに向けられたために、彼らは北京の各国公使館に籠城し

て身を守り援軍を待ったが、義和団が北京に入り込んでから約二

ヵ月後の一九〇〇年八月に、到着した連合軍が義和団を斥け、北

京を占領するに至った。連合軍への派兵のうち、中心的な比重を

占めたのがロシアと日本であり、とくにロシアはこの事件を機会

456

(14) 空白からの眼差し―ロンドンでの漱石: 柴田 勝二

間と戦つて之こ

を剿滅

そうめつ

せねばならぬ」と「白君」に語らせる漱石の

意識が日露戦争を踏まえていることは否定し難い。「いくら人間

だつて、さういつ迄も栄へる事もあるまい。まあ気を永く猫の時

節を待つがよからう」という見通しにしても、西洋諸国が支配力

をもつ時代から、日本のような東洋の国が世界を動かす時代に移

行することへの願望の表明と受け取ることができるのである。

重要なのは、この作品がイギリス留学中の経験を核としている

だけでなく、現実にロンドン滞在中の漱石が、あたかも猫が人間

世界を眺めるような眼差しによって周囲の人びとやその生活を観

察していることである。『文学論』「序」にも、ロンドンで暮ら

していた当時の自分を「狼群に伍する一匹のむく犬」に見立てる

表現が見られるが、白い肌と高い背丈をもつ、自分とは異質な人

びとの織りなす世界で、漱石は「狼」に相対した「むく犬」のよ

うな違和感や距離感を感じつつ、その様相を様々に書き留めてい

る。

西洋ハ万事ガ大袈裟ダ、水マキ、引越車、車、ローラー

西洋人は感情を支配する事を知らぬ日本人は之を知る西洋人

は自慢する事を憚らない日本人は謙遜する一方より見れば日本

人はヒポクリットである同時に日本人は感情にからるべき物で

はない謙遜は美徳であるといふ一種の理想に支配されつゝある

といふ事が分る西洋人は之を重んぜざる事が分る

西洋人は往来でkiss

シタリ男女妙な真似をする其代り衣服や

言語動作のある点や食卓抔ではいやに六づかしい日本人は之に

反す

西洋では人をそらさぬ様人の機嫌を損ぜぬ様にするのが交際

の主眼である夫故に己れの不愉快な感じ人に不愉快に見える顔

色抔は仕そうもなき筈なり即ち感情をかくす事も余程発達せね

ばならぬ訳ながら日本人の様に発達して居らん。

(「断片」)

いずれも明治三四年の「断片」に記された観察だが、揶揄や批

評を交えつつ、総じて他者に向けた表現を抑制しがちな日本人と

対照的に、感情を相手に「大袈裟」に表現する「西洋人」の振舞

いの様相が捉えられている。その一方で、「断片」の別の箇所で

は日本人である自分について「我々はポツトデの田舎者のアンポ

ンタンの山家猿のチンチクリンの土気色の不可思議ナ人間デアル

から西洋人から馬鹿にされるは尤だ」と突き放したような評価が

記されている。鏡に映った自身の矮小な姿をみずから嘲笑する記

述にも見られる、この自己相対化の眼差しは飼い主の苦沙弥先生

をはじめとする周囲の人間たちを皮肉に描きつつ、自身の猫とし

ての劣位性を忘れることのない『吾輩は猫である』の「吾輩」の

それと直結するものであるだろう。

457

東京外国語大学論集第 85 号(2012) (13)

の記述を見ても、漱石が日本人であることやその身体的な条件に

よってとくに周囲のイギリス人に差別的な扱いを受けたこともう

かがえない。しかし正装した姿について「a h

andsome Jap

」と言

われ、「難有いんだか失敬なんだか分らない」(『倫敦消息』)

思いを抱かされたりもすることもあり、〈日本人〉としての同一

性に否定的に振り返らされがちであった日々において、漱石がこ

うした言説を喚起していなかったとはいえないだろう。事実『文

学論』に至る考察を積み重ねていた頃の書簡(菅虎雄宛、一九〇

一・二・一六)では「近頃は文学書抔読まない心理学の本やら進

化論の本やらやたらに読む」と記されており、この理論を漱石が

吸収していたことは疑いない。

処女作の『吾輩は猫である』は漱石が内在させていた進化論的

な意識をよくうかがわせている作品である。端的にその「七」章

の「吾輩」が木登りを話題にするくだりでは、人間にもその名手

がいることについて「猿の末孫

ばっそん

たる人間」という表現によって、

進化論的な考え方の取り込みが示されている。この作品で「吾輩」

という一人称の語り手が「猫」に託されている理由については、

小森陽一が指摘する(

10)

ように、母親が四十二歳という高齢時に

八人兄弟の末っ子として生まれ、当初捨て子扱いされた漱石自身

の事情が反映されていると考えることもできるが、同時に見逃す

ことができないのは、少なくとも「一」章においては〈人間―猫〉

という位階性が明瞭に示されていることである。当初独立した一

つの作品として書かれた「一」章において、人間は好き勝手に猫

族の生活を荒らし回る「我儘」で「不人情」な存在として規定さ

れている。「筋向の白君」が四匹の子猫を生んだ際にも、家の書

生が彼らをすべて池に捨ててしまうという処遇を与えたのだった。

それゆえ「白君」は「人間と戦つて之こ

を剿滅

そうめつ

せねばならぬ」と「吾

輩」に訴え、彼もそれに同感するのである。そして「人間」の天

下が永続しないことが希求され、「いくら人間だつて、さういつ

迄も栄へる事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよから

う」という見通しが語られている。

この人間が猫に否応なく超越する力関係は、明らかに〈西洋―

日本〉のそれを写し取っている。もともとスウィフトの『ガリバ

ー旅行記』にヒントを得ていると見なされるこの作品には、イギ

リスという異国でイギリス人という異質な民族とともに二年余を

過ごした漱石の経験が反映されていると考えられる。とくに「社

会進化論」的な図式において、進化の頂点としての西洋人との対

比のなかで〈人間以下〉の位置に置かれがちなアジア、アフリカ

人は、犬や猫の比喩が与えられてもおかしくない存在であった。

そして一九世紀以降の帝国主義の流れのなかで、現実にアジア、

アフリカ諸国は西洋諸国の暴力的な侵略を蒙り、その多くが植民

地化の道を辿りつつあった。

日本はその運命を回避するためにみずから帝国主義国となるこ

とを選ぶことになるが、明治時代におけるその集大成ともいうべ

き日露戦争が持続中の時期に『吾輩は猫である』は執筆されてい

る。その照応関係については別の場所で詳しく眺めたいが、「人

458

(12) 空白からの眼差し―ロンドンでの漱石: 柴田 勝二

によって自己の日本人としての姿を再認識させられている。多く

引用されるように、明治三四年(一九〇一)一月五日の「日記」

には「往来ニテ向フカラ脊ノ低キ妙ナキタナキ奴ガ来タト思ヘバ

我姿ノ鏡ニウツリシナリ、我々ノ黄ナルハ当地ニ来テ始メテ成程

ト合点スルナリ」と記され、『倫敦消息』(一九〇一)にも同内

容の記述があるが、ここでは文字通り「鏡」に映った像によって、

身体的な異質性ないし劣位性という形で自己の民族的同一性に顔

を突き合わさせられている。

漱石の身長は一六〇センチ弱であり、当時の日本人としても小

柄であった。同時代のイギリス人も現在ほど長身ではなかったが、

一九世紀後半の男性の平均身長は一七三センチ程度であり、漱石

とは十センチ以上の差があった(7)

。また夏目鏡子に宛てた明治

三三年一〇月二三日付の書簡では「当地ニ来テ観レバ男女共色白

ク服装モ立派ニテ日本人ハ成程黄色ニ観エ候女抔ハクダラヌ下女

ノ如キ者デモ中々別嬪之有候小生如キアバタ面ハ一人モ無之候」

と記され、自身の「アバタ面」がイギリスでは珍しい存在である

ことに言及されている。漱石は三歳頃にかかった疱瘡(天然痘)

が原因で顔のとくに左側に痘痕が残ったことは、よく知られてい

る。処女作の『吾輩は猫である』(一九〇五~〇六)にも、猫の

「吾輩」の飼い主である苦沙弥が、鏡をにらみながら、顔の痘痕

がめだたない角度を研究したりする場面が出てくるように、漱石

自身この特徴を気にしていたようで、写真を撮る際も痕跡が写ら

ないような工夫をしていたといわれる。

天然痘は江戸時代から明治時代にかけては罹患が一般的な病気

であり、明治天皇も幼時期に患っているが、明治一八年(一八八

五)に種痘規則が制定され、種痘が義務付られることになった。

イギリスにおいては一八世紀後半にジェンナーが開発した天然痘

ワクチンの普及によって、一九世紀前半には急速に罹患者が減少

していった。二〇世紀が始まろうとする時代に天然痘の痕跡を顔

に残している漱石は、いわば先進国にあって文明的な後進性を晒

しているようなものであり、進化論的な人間観が支配的になって

いた西洋世界に身を置く上では喜ばしくない条件であった。

ダーウィンの提唱した進化論は、教会側からの否定を受けなが

らも一九世紀を通して影響圏を拡げていき、またフランスの生物

学者ラマルクの影響下で同時代に「社会進化論」に基づく著述活

動を精力的におこなっていったハーバート・スペンサーも、別系

統ながら「ダーウィニズム」の担い手として日本でも早くから知

られていた。なかでも人間の進化の過程を地球上の民族間の差違

に見ようとするスペンサーの理論においては、アフリカやアジア、

オーストラリアの原住民が白人種との対比のなかで〈未開〉の民

族とされ、そこに人類の〈原始的〉な姿を探るという方向性が取

られていた(『社会学之原理』)(8)

。ここでは進化論という科

学的な言説は完全に西洋人種をそれ以外の人種に優越する民族と

して差別化する道具として機能している。

漱石がロンドンで生活していた時期には、イギリスではスペン

サーの社会進化論はすでに下火になっており(9)

、日記や書簡で

459

東京外国語大学論集第 85 号(2012) (11)

賀はドイツの森の美しさに感嘆しながらも、「唯一つ物足らない

やうな心地がしたのは、我が国ならばあの森の下には必ず赤い鳥

居か、石の灯籠が見えて、神社がある筈と思ふ所に、それがない」

ことが挙げられているのである。

芳賀にとっては、西洋で出会う自然や文化の異質さは、自国の

固有文化の美点に振り返らせる契機であり、またそこに遡行して

いく文脈を多様に携えていたのに対して、漱石はあえてそうした

文脈を求めない位置で思索と表現を貫いていくことになった。そ

れがやがて漱石独特の「個人主義」の基底をなすものとなる。そ

の立場を明確に自覚することになるのは留学生活の後半に至った

頃であったが、もともと漱石が芳賀のように素朴な次元で「民族

精神」に依拠することのできない人間であることは、行きの船中

で綴られた英文の「断片」からもはっきりとうかがわれる。ここ

で漱石は、大海を進んでいく船の甲板に身を横たえた自身の描出

から始まって、船中に数多い宣教師たちの、キリスト教の神を絶

対化する布教的な言説への違和感を表明し、信仰の相対性につい

て次のように論じている。

信仰があるところには宗教があり、幸福と安息と救済がある。

物神崇拝もキリスト教と同等である。信仰がある限り、すべて

は正しいのだ。信仰が伴わなければ、キリスト教にせよ仏教、

回教にせよ、宗教は賢い人間が幻想の跳梁と空論の力に耽溺す

るべく巧みに作り出された発明物以上のものではない。人びと

をしてそれぞれの知性の発達段階に応じて、その眼に善であり

真であると映るものをすべからく信ぜしめよ。そうすればそこ

に満足と幸福が見出されるであろう。

(拙訳)

漱石は決してキリスト教と仏教や回教を競わせてはおらず、す

べての宗教を個人の信仰の対象として並列化している。「人びと

をしてそれぞれの知性の発達段階に応じて、その眼に善であり真

であると映るものをすべからく信ぜしめよ」という考え方は、後

に漱石が文学作品の評価・批評において取ろうとする姿勢の先触

れというべきものであり、彼が価値の多様性を認めつつ、最終的

には自身の個人としての判断に則ろうとする人間であることを物

語っているだろう。

相対化される漱石

しかしながら、宗教と信仰の関係について述べられたこうした

考察が、文学研究の主体、ひいては西洋文化に対峙しうる主体と

しての自己確立にまで高められるには、まだ時間を要した。適当

な下宿を求めて各所を転々としていた明治三三年(一九〇〇)か

ら三四年(一九〇一)にかけての漱石は、これまでとくに強く意

識したことのなかった自身の〈日本人〉としての姿に振り返らさ

れ、しかもそれが否定的な形を取ることに違和感を覚えざるをえ

なかった。それは当然ながら、第一に漱石が周囲のイギリス人と

異質な存在であることが身体的な次元で明白だからであり、それ

460

(10) 空白からの眼差し―ロンドンでの漱石: 柴田 勝二

一国の歴史は人間の歴史で、人間の歴史はあらゆる能力の活動

を含んでゐるのだから政治に軍事に宗教に経済に各方面にわた

つて一望したら何ど

う云ふ頼母

しい回顧が出来ないとも限るまい

が、とくに余の密接の関係ある部門、即ち文学で云ふと、殆ん

ど過去から得るインスピレーションの乏しきに苦しむと云ふ有

様である。人は源氏物語や近松や西鶴を挙げて吾等の過去を飾

るに足る天才の発揮と見認

めるかも知れないが、余には到底そ

んな己惚

うぬぼれ

は起せない。

(「東洋美術図譜」)

そしてそれにつづけて、自分に創作の活力をもたらしてくれる

ものが、「わが祖先のもたらした過去でなくつて、却て異人種の

海の向ふから持つて来てくれた思想である」と記されている。す

でに英文学の研究から離れ、職業作家として活動していたこの時

期においても、自国の古典文学に興味がないと明言されているの

であり、であれば英文学者としての道を歩んでいたイギリス留学

時代の漱石のなかに、自国の古典文学への関心が作動していたと

は一層考え難い。いいかえれば、ロンドンで漱石は自分が一個の

〈日本人〉であることに覚醒させられながら、その内実を空白の

形で受け取らざるをえなかった。それが彼の立ち位置を曖昧にし、

内面の危うさをもたらすことになったのである。

こうした事情は漱石や藤代禎輔と同じ時期にドイツに留学し、

文献学を学んだ国文学者の芳賀矢一と対照をなしているだろう。

芳賀は江戸時代から国学を講じてきた家に生まれ、東京帝国大学

で国文学を専攻するとともに、イギリス人教師バジル・チェンバ

レンの影響などから西洋の文献研究の方法に興味をもち、留学先

のドイツでも文献学を学んでいる。ドイツ文献学を国文学研究に

融合させることが芳賀の方法となるが、具体的には古典文学には

らまれている日本人固有の精神性を探り出すことが目指され、そ

の系譜を文学史として定着させることが中心的な仕事となった。

その死後にまとめられた『日本文献学』(富山房、一九二八)で

は「文学史は、文献学の主要なる部分であり、他のものは、皆そ

の準備に過ぎない」ことが力説され、「文献に徴して国民を知る

のが、最も確実なる方法にして、即ち、国学の基礎も、全くこゝ

に置かれたのである」と述べられている。

芳賀にとっては、大学で専攻した日本古典文学とドイツ文献学

の方法は決して抵触するものではなく、むしろ古代からの作品の

堆積に対して模索されていた、江戸時代の国学とは別個の近代的

な方法として、西洋の文献学は積極的に取り込まれるべき対象で

あった。同時にそれはあくまでも方法的な指針として尊重され、

日本文学に息づいている精神やその表現を相対化する装置として

は機能していない。芳賀はその研究内容や時代背景から、神道を

軸とする「民族精神」を称揚する評論を多く書いているが、そこ

に散見される外国体験の記述においても、日本の文化や生活を卑

下するような表現はなく、逆に外国との出会いで日本の美点を認

識する挿話が少なくない。そうした評論の一つである『日本人』

(文会堂、一九一二)に含まれるドイツ留学時代の追憶でも、芳

461

東京外国語大学論集第 85 号(2012) (9)

置となってしまっていた。

そこには主にいくつかの要因が相互的に作用していたと考えら

れるが、一つは漱石の文学者としての同一性がもともと〈日本〉

になかったからである。周知のように漱石の文学的な素養は主と

して漢文学を吸収することによって培われている。『文学論』「序」

では「文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と左国史漢より得

たり」とした上で、「余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあ

らず、然も余は十分之を味ひ得るものと自信す」と明言されてい

る。漱石は帝国大学で英文学を学んだ際に、「左国史漢」つまり

『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』をはじめとする中国古

典の素養によって得た文学の概念を援用する形で英文学も踏破で

きると考えていたようだが、それが叶わなかったために「卒業せ

る余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あ

り」という空虚感に捉えられることになった。しかも国費留学生

として赴いたロンドンで否応なく〈日本人〉としての同一性に振

り返らされることで、漢文学は一層文学研究に向かう漱石の支え

にはならなくなっていた。

反面英文学を研究する日本人としての感性的な立場を確立しう

るほど、漱石は日本古典文学に精通しているわけでも、強い関心

を向けているわけでもなかった。確かに島内景二が、漱石の学生

時代の文章や俳句に『源氏物語』が巧みに取り込まれていること

を指摘する(『文豪の古典力――漱石・鴎外は源氏を読んだか』

文春文庫、二〇〇二)(4)

ように、漱石に日本古典の素養が欠け

ていたわけではない。しかし正岡子規との交わりのなかで二十代

から三十代にかけて、俳句作者として活動していたことと関わる

形で、漱石の日本文学への関心はもっぱら俳諧にあり、蔵書にも

俳句関係の書物が多く含まれるのに対して、物語分野の和書はき

わめて少ない(5)

。『文学論』でも象徴表現の技法として芭蕉の

句に言及されている一方、『源氏物語』や『平家物語』といった

中古・中世の物語は視野に取り込まれていない。俳諧以外では、

やはり自身が謡いを好んでいたこともあって能の世界に惹かれて

いたようで、後年の『こゝろ』(一九一四)の構成が世阿弥の完

成した複式夢幻能に近似しているという指摘もなされている(6)。

つまり夢幻能の後場が死者の語りを機軸とするように、『こゝろ』

の「下」巻は「遺書」である点で「先生」という〈死者〉の語り

によって構成されており、そこに偶然を超えた照応を看取するこ

ともできるのである。

しかし谷崎潤一郎や三島由紀夫が日本の古典文学を積極的に渉

猟し、それを主題や人物構築の次元で活用しようとしていたのと

比べれば、漱石の日本古典への眼差しは総じて希薄であるといわ

ざるをえない。現に明治四二年(一九〇九)に編纂された『東洋

美術図譜』を『東京朝日新聞』紙上で紹介した同名の文章(一九

一〇)では、自分が背負っている文化的背景に思いを及ぼすと「少

し心細い様な所がある」と記した上で、次のように述べられてい

る。

462

(8) 空白からの眼差し―ロンドンでの漱石: 柴田 勝二

問をやるならコスモポリタンのものに限り候英文学なんかは椽の

下の力持日本へ帰つても英吉利に居つてもあたまの上がる瀬は無

之候」(一九〇一・九・一二付)と記し、「君なんかは大に専問

〔門〕の物理学でしつかりやり給へ」という忠言を送っている。

大学予備門予科に在学中には建築家を志したこともあり、科学的

な論理性への傾斜をもつ漱石は、文学研究が個人の感受性に左右

される曖昧さをはらむ領域であることを重々認識していた。イギ

リス滞在の最後の年になる明治三五年(一九〇二)に、文学を〈文

学的〉に追求することを断念して、心理学や社会学の方法を援用

しつつより客観的な地平で対象化することを試みることになるの

は、『文学論』「序」に述べられるとおりだが、そこに至る道程

は留学当初から準備されていたといえよう。

〈日本人〉としての空白

加えて国費留学生という立場によって強められていた国家意識

が、英文学作品の批評的研究という基本的な方向性を危うくする

作用を及ぼしていたと考えられる。つまりその意識は、イギリス

という異国にあること自体で漱石にあらためて喚起させていた、

自身の日本人としての自覚を一層明確にすることになり、しかも

それが対西洋という図式のなかで肯定的な形で浮上してこないか

らである。

後に『文学論』に至る研究の過程でそこからの脱却が図られる

ことになるものの、少なくとも留学の当初においては、漱石の個

人としての意識は〈日本人〉という地平に据えられていたはずで

ある。文学作品の享受、評価は個人の仕事に帰せられるものの、

その個人性が無色透明な主体であるということはありえず、それ

までの生活体験や読書経験の蓄積によってそれぞれ文化的な個別

性を担わされている。そうした個別性は寺田寅彦が取り組んでい

た物理学のような「コスモポリタン」な学問の場合は問題になら

ず、鴎外にとっての衛生学にしても風土や環境による差違は閑却

しえないものの、基本的な枠組みは医学全般との関わりのなかで

普遍的な次元で構築されうる。

一方文学作品を対象化する行為は個人の意識作用として生起す

るために、その意識の個別性が評価を左右することになる。そし

て後に漱石が影響を受けることになるベルクソンが『意識と生命』

で「意識とはまず記憶を意味します」と規定し、「意識は、あっ

たこととあるだろうことの間を結ぶ連結線であり、過去と未来を

つなぐかけ橋であると言うこともできます」(池辺義教訳)と語

る(3)

ように、その個的な意識作用は過去の意識作用の堆積を延

長した地点にもたらされることになる。漱石の「過去」は当然〈日

本人〉としての諸々の営為によって構築されてきた結果であるた

めに、文学作品に向かう時にその同一性が喚起されることになる

が、それが彼の現在の意識作用を支え、後押しする方向には作用

しないのである。ベルクソンの表現を借りれば、漱石のこの時点

での意識は「過去と未来をつなぐかけ橋」として機能せず、逆に

いたずらに現在への満たされなさと未来への不安をかき立てる装

463

東京外国語大学論集第 85 号(2012) (7)

の小石川といふ様な処へ落付たすると此家がいやな家でね」(狩

野亮吉他三名宛書簡、一九〇一・二・九付)という感想を書簡に

記し、三番目のブレット家については「ウチノ下宿ハ頗ル飯ガマ

ヅイ此間ハ日本人ガ沢山居ツタノデ少シハウマカツタガ近頃ハ

段々下等ニナツテ来タ」(「独逸日記」一九〇一・二・一五)と

いった不満をもらしているのに比べれば、鴎外が衣食住の細部へ

の気分的な評価を表すことはほとんどない。

それは両者の性格の差違によるものであると同時に、到着以降

研究、交際、学会への出席などの公務が押し寄せていた鴎外には、

自身の生活環境に対する好尚にこだわっている暇がなかったとい

うべきであろう。しかもそれらをこなすことに鴎外が重圧や煩わ

しさを感じている気配はまったくなく、陸軍省の一員としての仕

事、責務を着実に果たしつつ、一方では秀でた語学力を駆使して

現地の知己と活発に交わり、宴会や晩餐会にも進んで参加してい

る。

その一方で、鴎外が文学や演劇を盛んに嗜んでいたことはいう

までもない。交際を兼ねた観劇にたびたび赴き、読書についても、

下宿の日本人の隣人が去った後にその部屋に移り、そこに蓄えて

いった「百七十余巻」の洋書を鴎外は繙いて、「ダンテD

anteの神

曲Com

edia

は幽味にして恍惚、ギョオテG

oethe

の全集は宏壮にし

て偉大なり。誰か来りて余が楽を分つ者ぞ」(「日記」一八八五・

八・一三)といった耽溺を示している。鴎外にとっては文学はこ

の時点においては完全に私的な享楽であり、漱石のようにそれを

どのように〈学問的〉に研究するかといったことに苦悩する対象

ではなかった。

漱石にとっての困難は、この文学という本来私的な享楽に属す

る対象を自身の〈学問〉領域としてしまったことにあった。しか

も漱石は文部省に派遣された国費留学生として、国家の予算を使

ってその研究を遂行し、何らかの成果を上げることを要請されて

いた。その点では漱石においても留学の目的は〈公的〉な次元に

置かれるものであり、むしろ任務の公的な性格と研究の私的な性

格のズレのなかで漱石は苦しまねばならなかった。

もともと漱石は明治人の一人として国家への強い意識をもつ人

間であり、留学前の明治三〇年(一八九七)一〇月におこなわれ

た五高の創立記念日での「祝辞」でも「今日は国家

きゅうきゅう

の時な

り。濫費の日に多きは内憂なり。強国の隙を窺ふは外患なり。(中

略)諸子今学生たりと雖ども、其一言一動は則ち国家の全局に影

響するなり」と語り、日清戦争後の金本位制への移行のなかで逼

迫の度を強める国内財政への憂慮や、アジア諸国への侵攻の度合

いを強める西洋列強への危惧を表明し、そうした局面の自覚を学

生に促している。留学中にも藤代禎輔に宛てた書簡に「近頃は英

文学者なんてものになるのは馬鹿らしい感じがする何か人の為や

国の為に出来そうなものだとボンヤリ考ヘテ居る」(一九〇一・

六一九付)という感慨をもらしたりしている。

こうした意識が英文学研究への疑念に拍車をかけることになる

のであり、当時理科大学の学生であった寺田寅彦宛の書簡には「学

464

(6) 空白からの眼差し―ロンドンでの漱石: 柴田 勝二

一方で、文学の話題が気ままに飛んでいって「時によると昨日と

今日で両極へ引越しをする事さへある。わるく云へば、まあ出鱈

目で、よく評すると文学上の座談をして呉れる」という性質の教

授法であったようだ。

おそらく漱石にとって、クレイグの個人教授は〈留学生〉とし

ての自己を繋ぎとめるための方策であり、彼と交わる時間をもつ

ことによって、イギリスで英文学を学んでいるという自己の立場

を保全する感覚をもつことができたのであろう。クレイグの教え

方が「出鱈目」であっても、それ自体は漱石を失望させることで

はなかったに違いない。クレイグにも見られるこの文学研究の私

的ないし個人的な性格が、漱石を精神的に抑圧する条件となると

ともに、結果的にはその文学者としての立場を明確にする装置と

して機能することになる。こうした研究の性格は森鴎外のドイツ

留学におけるそれと比較すると明瞭な差違を示している。

漱石と鴎外はともに明治日本を代表する文学者でありながら、

対比的に語られがちだが、その立場上の対比はもっぱら前者の〈私

人〉性と後者の〈公人〉性によって際立たせられる。漱石が帰国

後熊本を去って一高と東京帝大の講師という職につくものの、『吾

輩は猫である』(一九〇五~〇六)を皮切りとする小説の創作に

手を染めたことを契機として、明治四〇年(一九〇七)に一切の

教職をなげうって東京朝日新聞社に入社して以降は、一民間人と

して作品を生み出していったのに対して、鴎外は明治国家の運営

に関わる軍医・官僚としての立場を終生放棄することなく、一方

で創作・評論・翻訳などの文学者としての営為を持続させていっ

た。

鴎外が陸軍省の命によって衛生学研究のためにドイツ留学に発

ったのは、満二十二歳であった明治一七年(一八八四)八月であ

り、ライプツィヒ、ミュンヘン、ベルリンなどで延べ四年間を過

ごし、明治二一年(一八八八)九月に帰国の途についている。鴎

外は留学時に陸軍軍医本部課僚であり、前年の明治一六年(一八

八三)にはプロシア陸軍の衛生制度の調査に従事している。その

点で鴎外がドイツで衛生学を学ぶのは、日本での公務と完全に連

続した研究であり、漱石のように「英語研究」と「英文学研究」

の間でたゆたうような余地はなかった。「富国強兵」の流れのな

かで欧米諸国と拮抗しうる軍事力を備えることが自明の要請であ

った時代にあって、兵士の栄養、衛生管理の向上は喫緊の課題で

あり、ドイツでの学問的な水準を吸収し、それを日本の風土・自

然に合わせつつ還元することは、鴎外個人の内面と関係ない次元

で遂行せねばならない責務であった。

ドイツ到着後一〇月二二日には鴎外はライプツィヒに赴き、ラ

イプツィヒ大学のホフマン教授に面会した後、直ちに「寡婦の家

の一房」に下宿を決めている。日記では「我房には机あり、食卓

あり。臥床をば壁に傍ひたる処に据ゑたり。被衾は羽毛を装満し

たるものにて、軟にして煖なり」と、必要な家具が備わっている

ことが確認されている一方、住まいの環境に対する好みなどは表

明されていない。漱石が二番目のミルデ家の下宿について「東京

465

東京外国語大学論集第 85 号(2012) (5)

公的な研究と私的な研究

漱石がクレイグの個人教授を受け始めるのは、二番目の下宿で

あるミルデ家に滞在中の明治三三年(一九〇〇)一一月二二日で

あり、「一時間5sh

illing

」(一九〇〇・一一・二二付日記)とい

う代価であった。一ポンドは二〇シリングなので、五シリングは

〇・二五ポンド、つまり約二・五円に相当する。イギリスの物価

の高さに悩まされていた漱石にとっては、この授業料の安さは有

難かったに違いない。

藤代禎輔宛の書簡では「「シエクスピア」学者で頗る妙な男だ

四十五歳位で独身もので天井裏に住んで書物ばかり読んで居る」

と紹介されているが、実際にはこの時クレイグは五十七歳であり、

書簡につづけて記されているように、新しいシェイクスピア辞典

を編纂中であった。『永日小品』の「クレイグ先生」の章では、

クレイグがアイルランド人で、その出自のために「言葉が頗る分

らない」学者として語られている。とくにせき込んで話すような

際には、まったく発言を解することができず、「運を天に任せて

先生の顔丈を見てゐた」という状況に陥ってしまうのだった。し

かしこうした叙述のなかにも、クレイグの愛すべき人物としての

輪郭が浮かび上がっており、少なくとも漱石がイギリス人一般か

ら受け取っていた冷淡なよそよそしさを感じ取らせない人物とし

て交わることができたようである。

しばしば指摘されるように、漱石が作品に章を設けてその追憶

を語るほどの親しみをこの学者に覚えたのは、彼がイギリスにお

いてアイルランド人という他者性を帯び、日本人としての自身の

他者性と響き合う思いがしたからであろう(2)

。シェイクスピア

研究以外でクレイグが得意とする領域は詩であったが、『永日小

品』では彼は「一体英吉利人は詩を解することの出来ない国民で

ね。其処へ行くと愛蘭土

アイルランド

人はえらいものだ。はるかに高尚だ。―

―実際詩を味ふ事の出来る君だの僕だのは幸福と云はなければな

らない」と漱石に断定的に語るのだった。

しかしクレイグの個人教授が後の漱石の研究に方法的な示唆を

与えたとは思われない。『文学論』「序」で記されるように、漱

石が文学研究に方向性を見出していくのは、ウィリアム・ジェー

ムズやモーガンをはじめとする心理学・社会学などの学問の摂

取・援用によってであり、言葉の味わいに感性的に浸ろうとする

クレイグの鑑賞方法に、漱石は次第に距離を置くようになる。そ

のきっかけとなったのが、明治三四年(一九〇一)五月初旬から

六月下旬にかけて同宿した化学者の池田菊苗との交わりであった

が、この博識な人物の啓発を受けて、漱石は文学を科学として客

観的に研究する可能性を探り始めることになる。またクレイグの

鑑賞方法は、アイルランド人であるとはいえ、英語を母語とする

ことを前提として可能になる姿勢であり、それを漱石が取り込む

ことは初めから無理であった。『永日小品』でもクレイグの学者

としての姿勢はさほど肯定的に描かれていない。詩を読み始める

と「顔から肩の辺が陽炎の様に振動する」姿が印象的に記される

466

(4) 空白からの眼差し―ロンドンでの漱石: 柴田 勝二

勉学については、ロンドンに到着した漱石は一一月二日にケン

ブリッジ大学のペンブローク・カレッジを訪れたものの、案内役

を務めた、当時ケンブリッジ大学に留学していた旧友の田島錦冶

に、ここの学生たちが「四百

磅ポンド

乃至五百

磅ポンド

を費やす有様」であ

り「此位使はないと交際抔は出来ない」と聞き、「留学生の費用

では少々無理である」と判断せざるをえなかった。その後漱石は

ロンドン大学のユニヴァーシティ・カレッジでケア教授の英文学

講義を傍聴している。明治三三年一一月二一日の日記に「K

er

の講

義ヲ聞ク面白カリシ」と記しているように、ケアの講義への出席

は有意義であったようだが、大学の学生として受講しつづけるこ

とは結局回避している。その理由について漱石は書簡で「講義其

物は多少面白い節もあるが日本の講義とさして変つた事もない汽

車に乗つて時間を損して聴に行くよりも其費用で本を買つて読む

方が早道だといふ気になる」(狩野亮吉他三名宛、一九〇一・二・

九付)と記している。

もともと文部省が国費留学生としての漱石に与えた課題は「英

語研究」であり、それを遂行するためには当地での交流を重んじ

るべきだという見方もできる。『文学論』(一九〇七)の「序」

で述べられるように、漱石は国語学者で当時文部省の専門学務事

務局長であった上田万年を訪れてその「委細を質した」ところ、

「別段窮屈なる束縛を置く」わけではなく、「帰朝後高等学校も

しくは大学にて教授すべき課目を専修せられたき希望なり」とい

う返答を受け取った。送り出す文部省の側にも「英語研究」と「英

文学研究」の区別が明瞭についていなかったのであり、漱石もそ

れを曖昧に受け取ったままイギリスで受講する講座を探索するこ

とになった。

この時点ではっきりしているのは、漱石が英語自体の研究やそ

の運用能力の向上を、留学の目的として志向していなかったとい

うことである。とくに後者については「二年間居つたつて到底話

す事抔は満足には出来ないよ第一先方の言ふ事が確と分らないか

らな情ない有様さ」(狩野亮吉他三名宛書簡、一九〇一・二・九

付)という状況で、早々に断念するほかなかった。とすれば漱石

が限られた留学の時間を活用してできることは「英文学」の批評

的研究に取り組むことしかなかったが、〈本場〉のイギリスにお

いても森鴎外がドイツ留学で学んだ衛生学のような学問的体系が

英文学について確立されているわけではなかった。富山太佳夫に

よれば、一九世紀のイギリスにおいて進展したのは歴史研究であ

り、文学については神学・哲学・自然科学との区別も明瞭ではな

く、大学に英文学の講座が開設され始めたものの、その性格づけ

は流動的で、教授の個人性に左右される度合いが高かったようで

ある(『ポパイの影に』みすず書房、一九九六)。漱石はケアの

講義を数回傍聴しただけでユニヴァーシティ・カレッジを去り、

シェイクスピア学者のクレイグの個人教授を受けることになるが、

それは結局制度としての大学が英文学研究に必須の条件ではない

ことを数ヶ月で見抜いた結果でもあっただろう。

467

東京外国語大学論集第 85 号(2012) (3)

はブレット家の事情について記した先の鏡子宛の書簡(一九〇

〇・一二・二六付)で「日本の五十銭は当地にて殆んど十銭か二

十銭位の資格に候」と記し、あるいはその約一ヵ月後の鏡子宛の

書簡(一九〇一・一・二二付)でも「日本の一円と当地の十円位

な相場かと存候」と記している。十分の一の貨幣価値はやや強調

されすぎであるにしても、東京での生活になぞらえれば、月三〇

円ほどで暮らす感覚であっただろう。この貨幣価値の相違が留学

中の漱石を悩ませつづけることになる。

とはいえ下宿代には朝夕の食事代も含まれており、独り身で暮

らす人間にとって、月一五〇円という金額は決して生活に困窮す

るほどの額ではない。またイギリス人の生活水準と照らしても、

月一五ポンドという〈月収〉は相対的には恵まれた部類に属する。

階級社会であるイギリスにおいて、当時「上流」に分類されるの

は一〇〇〇ポンド以上の年収と広大な地所を所有する貴族や高級

官吏、銀行家などのジェントリ階層であり、中級官吏や商店主、

親方職人層などから成る「中流」上層階級として見なされるため

にも三〇〇ポンド以上の年収が必要であった(1)

。日本では高等

学校の教授としてまぎれもなく中流上層階級の一人であった漱石

も、年一八〇ポンドの〈年収〉では、イギリスでは「中流」中層

以下に属することになる。しかし一九世紀の後半において、イギ

リスの「上流」及び「中流」上層の二つの階層を占める家族数は

合わせても二パーセント程度にすぎず、九〇パーセントの人びと

は年一〇〇ポンド以下の収入で暮らしていた。したがって漱石の

経済状況は、数的な比率においては〈中の上〉程度には位置づけ

られる水準であった。

しかし留学生である漱石は当然勉学のための学費が必要であり、

また高価な書物を大量に購入し、さらにしばしば芝居見物にも通

う生活を満たすには十分ではなかった。そのためこの時期の書簡

に「今日ビスケットヲカジッテ昼食ノ代リニシタ」(藤代禎輔宛、

一九〇〇・一一・二〇付)という文が見られ、『道草』(一九一

五)にも漱石自身をモデルとする主人公健三が、公園で「町で買

つてきたビスケットの罐を午ひ

になると開いた」といった留学時の

挿話が記されるように、食費の節約を心がけるしかなかった。そ

れは逆にいえば、とくに美食家というわけではない漱石が、食費

を削ってその分を本来の興味、関心を満たすことに充てたという

ことでもあるだろう。

購入すべき書物にしても、同時期にドイツに留学した藤代禎輔

に宛てた書簡に「一寸目ぼしいのは三四十円以上」(一九〇〇・

一二・二六付)と記されるような水準で、たとえば明治三四年三

月五日には『沙翁〔シェイクスピア〕集』など「50円許ノ書籍」

(同日「日記」)を購入し、一ヵ月分の留学費の三分の一を一日

で費やしている。芝居見物にも漱石は留学当初は意欲的であり、

日記に記された限りでも、明治三四年の一月から三月までに五回

劇場に足を運び、シェイクスピアの『十二夜』やペローの『眠れ

る美女』のパントマイム劇などを鑑賞し、装置や衣裳の美麗さへ

の感嘆を綴っている。

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(2) 空白からの眼差し―ロンドンでの漱石: 柴田 勝二

やそれにともなう脳内出血によってこの世を去った。英文で記さ

れた日記によれば、翌日の二三日に漱石は外国人ながらこの日黒

ネクタイを締めて弔意を表し、黒手袋を買った店の店主からは「新

しい世紀が何とも不吉な形で始まりましたな」という感想を聞い

たのだった。二月二日には三日間にわたっておこなわれた女王の

葬儀に見物に出かけたものの、短身の漱石はイギリス人の間に埋

もれて葬列が見えず、ブレット氏に肩車をしてもらってそれを眺

めたというのはよく知られた挿話である。

漱石が滞在していたブレット家は、小さな前庭をもつ煉瓦造り

の四階建ての住宅が並ぶ界隈にあって、私塾的な小さな女学校を

閉校した後に、下宿屋を開業したものであった。妻鏡子に宛てた

書簡には、その間の事情について「伝染病の為め閉校其後下宿と

変化致候主人夫婦と妻君の妹にてやり居候」(一九〇〇・一二・

二六付)と記されている。書簡のつづきには「主人は頗る日本人

好にて西洋人を下宿させるよりは日本人を客にしたしと申居候是

は日本人はおとなしく且金にやかましからぬ故に候」と述べられ、

住まいとしての違和感の少なさが述べられている。

この下宿に漱石が入ったのは、前年明治三三年(一九〇〇)一

二月の二〇日頃だが、この下宿に辿り着くまでに、彼はすでにロ

ンドンで二つの住居を経ていた。熊本の第五高等学校の教授であ

った漱石は、文部省の留学生としてドイツ文学の藤代禎輔、国文

学の芳賀矢一らとともに明治三三年九月八日に横浜港を発ち、一

〇月一八日にナポリ、翌日にジェノヴァに着いた後、汽車で赴い

たパリで万国博覧会を見物し、一〇月二八日にロンドンに到着し

ている。漱石が最初に入居したのはロンドン大学や大英博物館に

近いガワー街の旅宿で、地理的には利便性に富んでいたが、「一

日に部屋食料等にて六円許を要し」(夏目鏡子宛書簡、一九〇〇・

一〇・三〇付)という宿泊費がかかり、留学費として年一八〇〇

円、つまり月一五〇円を支給されていた漱石には高額すぎる住ま

いであった。そのため漱石はパリからドーヴァー海峡を渡り、こ

の旅宿に身を置いたものの、わずか二週間ほど滞在しただけで翌

一一月一二日には、ここから四キロほど北西に離れたプライオリ

ー街のミルデ家に移っている。

ガワー街の旅宿は早晩出ていくべき仮住まいであったために、

漱石の意識ではこの閑静な中流の住宅街に位置するミルデ家が最

初の下宿として捉えられている。『永日小品』(一九〇九)の「下

宿」の章では、ここについて「始めて下宿をしたのは北の高台で

ある。赤煉瓦の小じんまりした二階建が気に入つたので、割合に

高い一週二

ポンド

の宿料を払つて、裏の部屋を一間借り受けた」と述

べられている。当時の円・ポンドのレートは一ポンド約一〇円で

あり、二ポンドは約二〇円に当たる。一日六円で週四〇円以上か

かるダワー街の旅宿と比べれば半額以下であり、留学費の半分強

で住居費がすませられるのは漱石には好都合であった。

もっとも明治三〇年頃の一円は現在の八千円~一万円程度の値

打ちがあったことを考えると、下宿代に月八〇万円くらいを要し

たことになり、当時の円の価値の低さがうかがわれる。実際漱石

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東京外国語大学論集第 85 号(2012) (1)

〈目次〉

異国での新しい世紀

公的な研究と私的な研究

〈日本人〉としての空白

相対化される漱石

国際関係のなかの日本

異国での新しい世紀

夏目漱石は二〇世紀の最初の年を、テムズ川南岸のフロッデン

街の一角に位置するロンドンの三番目の下宿で迎えていた。日本

の明治三四年に当たる一九〇一年の始まりの日は、気温が四・五

度と冷え込み、ロンドン特有の濃霧に覆われる上に午後からは雨

も降る不安定な天気であった。ロンドンの代表的な保守系新聞で

ある『タイムズ』紙はこの日、新しい世紀の到来について「我々

はこれまでの達成と世界のいかなる国よりも古く、持続的で、輝

かしい栄誉を受け継ぎつつ新しい世紀に入った」と誇らしげに記

し、イギリスの最大の優位性である世界中に広がる植民地に蓄え

られた富と、「豊かで、満ち足り、男らしく、知的で、自立的な

人びとを擁し、これから我々を待ち受けているかもしれぬ嵐と戦

いにも十分勝算をもちうるであろう」と自賛していた。

もっとも漱石自身は世紀という観念にあまり馴染みがなかった

からか、この日に特別な感慨を抱いたわけではない。それはとり

あえず数え年で三十五歳を迎えた日であり、日記にも下宿の主人

であるブレット氏から「英国人ノ裸体画ニ関スル意見ヲ」聞き、

イギリスに「裸体画ノ少キ所以ヲ知ル」という記載がされている

だけである。漱石が二〇世紀の到来を遡及的な形で感じ取ったの

は、その約三週間後に訪れた、ヴィクトリア女王の死去によって

であろう。十八歳の即位から六〇年余にわたって大英帝国の栄光

を支えつづけた女王は一月二二日の午前六時三〇分過ぎに、老衰

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