人間と自然 -...

18
人文研究 大阪市立大学文学部紀要 46 巻第 5 分冊 1994 71 -"88 初めに 人間と 自然 -L. フォイ エ ルバッハの場合一 [皿] 半田秀男 第二章 初期フォイエルバッハの自然観 その (1) r 理性論 J (1828 年) -71- 本章の考察対象は最初期フォイエルバッハの主要著作の一つ『理性論 J ltDe tione un α unitjersαli infinit α"(1828) (l )の「自然、」概念である。 この作品を先ず取り上げるのは,第一に, これがフォイエルバッハの最初 の公刊された著作であり, しかも一般にはこれが彼の最初の著作と看倣され ているからである。しかし第二に, この作品こそ,或る程度形をなしはじめ た青年フォイエルバッハの哲学思想を体系的・理論的に表明した最初の作品 であり, しかもヘーゲル批判 ・キリスト教批判を表立って開始するに到る以 前の段階のフォイエルバッハの哲学的見解を多少とも纏まった形で表明して いるほとんど唯一の作品であるからである。 ところで第一の理由については或る重要なことを追加的に記しておかねば ならない。 『理性論J は確かにフォイエルバッハの公刊された最初の作品である。こ れは歴史的事実である。しかしこれが彼の真の最初の作品であるかどうかは 必ずしも定かではなし、。というのは『理性論』より後の 1830 年に公刊された " Ged α enuber Tod und Unsterblichkeit “の 方が実は『理性論』よりも先に書かれていたかも知れないのである。『理性 J と『死と不死…』は最初期フォイエルバッハの二大重要著作であるが, 前者が 1828 年,後者が 1830 年に公刊されたことに基づいて,従来,前者がフォ (267) a

Upload: others

Post on 24-Oct-2020

2 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • 人文研究 大阪市立大学文学部紀要

    第46巻第5分冊 1994年71頁-"88頁

    初めに

    人間と 自然-L. フォイ エルバッハの場合一

    [皿]

    半田秀男

    第二章 初期フォイエルバッハの自然観

    その(1),r理性論J(1828年)

    -71-

    本章の考察対象は最初期フォイエルバッハの主要著作の一つ『理性論JltDe Rαtione, unα,unitjersαli, infinitα"(1828) (l)の「自然、」概念である。

    この作品を先ず取り上げるのは,第一に, これがフォイエルバッハの最初

    の公刊された著作であり, しかも一般にはこれが彼の最初の著作と看倣され

    ているからである。しかし第二に, この作品こそ,或る程度形をなしはじめ

    た青年フォイエルバッハの哲学思想を体系的 ・理論的に表明した最初の作品

    であり, しかもヘーゲル批判 ・キリスト教批判を表立って開始するに到る以

    前の段階のフォイエルバッハの哲学的見解を多少とも纏まった形で表明して

    いるほとんど唯一の作品であるからである。

    ところで第一の理由については或る重要なことを追加的に記しておかねば

    ならない。

    『理性論Jは確かにフォイエルバッハの公刊された最初の作品である。これは歴史的事実である。しかしこれが彼の真の最初の作品であるかどうかは

    必ずしも定かではなし、。というのは『理性論』より後の1830年に公刊された

    『死と不死についての諸思想~ " Ged,α成 enuber Tod und Unsterblichkeit“の方が実は『理性論』よりも先に書かれていたかも知れないのである。『理性

    論Jと『死と不死…』は最初期フォイエルバッハの二大重要著作であるが,前者が1828年,後者が1830年に公刊されたことに基づいて,従来,前者がフォ

    (267)

    a

  • -72-

    '.

    イエルバッハの最初の作品,後者が 2番目の作品であるとされてきた。そし

    て少なからぬ人達はこの理解に立って く『死と不死…』の方が『理性論』よ

    りも一層思想的に進化している〉と論証しようとしてきた。ω ところがw.シュッフェンハウアーは1981年に,執筆は『死と不死…Jの方が先であるとの新説を出した。 (3)1825年から1830年にかけてのフォイエルバッハの生活環

    境・生活実態を点検した上での状況証拠に基づく推察であるが,筆者の見る

    ところこの推察は強い説得力をもっている。実は筆者は未公刊の論文「初期

    フォイエルバッハ研究一一『理性論~ (1828年〉論考を中心に-Jで, r理性論』と『死と不死…』のテキストを詳細に分析し比較対照し,シュッフェ

    ンハウアーのように理解すると納得しやすい点が多いことを論じた。この種

    の論考は目下誰も行なっていないはずである。シュッフェンハウア ーはテキ

    スト分析を行なってはいないが, r死と不死…』は「汎神論の諸形態および汎神論的神秘論の諸形態と様々に混合しているところの思弁的客観的観念論 ー

    の立場」に立っている,としつつ, このことは, i既にそれから解放されて

    いる博士論文以前にこの著作が成立したことのもう一つの間接証拠J(り と

    なる,と言っており, この点には筆者は特に賛成したい思いが強い。

    ところで, i自然、」観・「自然J概念を問題にする場合, r理性論』よりも『死と不死…』の方が興味をそそる発言をより多く含んでいる。ここには

    /自然の思想が既に芽生えている〉という解釈を許すような発言も間々見られ

    るゐである。 (5) 註(2)に挙げたP.コルネールはこうしたことに基づいて, r理性論』を「観念論的理性汎神論J"idealistischer Vernunft-Pantheisrnus“(6)

    と呼びつつ, これに対して『死と不死…』は「理性からの離反J"Abwendung

    von der Vernunft“(7) = i自然、への転回J"Wende zur Natur“(8)を遂げて

    いるとする。もちろんこれはフォイエルバッハの思想発展の基本的筋道を

    く誤れるヘーゲ、ル受容から自然哲学への方向転換〉と捉える彼の根本テ ー

    ゼ (9)と結び、ついている。要するに彼によれば, フォイエルバッハは「観念

    論的理性汎神論」から「自然哲学」へと思想的転回を遂げたのであり, r理性論』は前者の段階を, r死と不死…Jは後者の段階を代表しているのである。しかしもし『死と不死…』の方が『理性論』よりも先に書かれていたと

    すると,この解釈は完全に崩れてしまう。『死と不死…』に見えるく自然の

    思想の芽生え〉を思わせる諸主張は,く理性から自然、への転回〉を意味して

    いるのではなく,く天上界〉への憧僚を根拠なきものとして批判し,く自然を

    も含めた現実界〉への立脚を強調しているのであり,ただその際に「自然」

    (268)

    --a

    ,.、

    • .. も.

    、.

    .,

    . ,.

    ...

  • 、-・,

    一-FE

    TAW

    --め

    ••

    -a

    -E

    .マニ,.9

    #!'..

    人間と自然 一73-

    と「精神」をやや無差別的に く現実界〉に含めて論じていて『理性論』ほど

    明快な「理性一元論JI精神一元論」にまで到達していないだけである, とも解されうるのである。確かに『死と不死…Jでは, I精神」と「自然、」が『理性論』と違ってやや無差別的に く現実界〉に含められているだけではな

    く, く自然界の有機的生命〉への賛歌も謡われている。しかし『死と不死…』

    でも,基本的には「精神Jが「自然」を己れの「様態」としてもち,後者を主導する, という関係にあり, こ.の関係を理論的に明確にしたのが『理性論』

    である,とも考えられるのである。それに,このように解さないと, r理性論Jの直後,そして『死と不死…J刊行と同時期のエノレランゲン講義『論理学および形市上学への序説j (1829/1830年)(10)の位置づけが困難になる。

    この講義はヘーゲ、ル主義的色彩を色濃くもっており「自然、への転回」を必ず

    しも証示していなし、。コルネールのテ ーゼを認めるとすれば, r死と不死…Jで「自然への転回」を遂げたフォイエルバッハは他方で く理性または精神の

    哲学〉を講義している, ということになると思われるが, このような解釈に

    はかなり無理があるのではないか?

    いずれにしても, く『死と不死…』は『理性論』よりも先に書かれていた〉

    とするシュッフェンハウアーの新説はかなりの説得力をもっており, この説

    の方が多くの事柄をより適切に説明できるとも思われるのである。従って,

    筆者が『理性論Jをまず第一に取り上げるのは主として先述の第二の理由に依っており,第一の理由は必ずしも重きをなしていない。

    『理性論Jと『死と不死…』の執筆時期の問題および両者の思想内容の異同の問題は『死と不死…』を検討する際にもう少し詳しく論じることにして,

    ここでは先ず『理性論Jにおける「自然、」概念、を検討する。

    J

    第 1節 『理性論』の理論的基本性格および 「自然」の位置づけ

    『理性論Jはこれを一読する者にその極端な唯心論的傾向 ・客観的観念論

    の傾向を印象づける作品である。コルネールの表現を借りれば,まさにそれ

    は「観念論的理性汎神論」である。 G. ニュ ー ドリングはこれを「観念論的

    形而上学JI精神形而上学J"Geistmetaphysik“(11)と呼び,その議論を, Iミ

    ヒェレットの形而上学をいたく強烈に想起させる…一性の思弁」 ω と特徴づ

    けている。ウィルソンはその出自が「新プラトン主義的否定神学J(ωlこある

    と看倣している。『理性論Jがひたすら「感覚」に「思惟」を, I個別者Jに

    (269)

  • . -74-

    「普遍者」を, i多性」に「ー性」を, i自然、」に「精神Ji理性」を対置し,前者の意味と役割を極度に否定的apophaticな仕方で扱い,後者のみを絶対

    視しているからである。

    このようなわけであるから, r理性論』における「自然、」論には見るべきものはさしてなし、。ニュ ードリングが次のように言っているのは大体におい

    て当たっていると恩われる。

    「宇宙コスモスの内部では…自然、は完全に後退する, それは精神に対

    して何ら自立的な意義をもたない,それはヘーゲルにおけるように『他

    在の形式における理念』…にすぎない。後の自然主義者は自然を『精神

    の生成,発生,および怪胎Jとして定義する。J(14)

    しかし, く見るべきものはない〉と言っても, そこには何らかの「自然」

    観があるはずである。その「自然、」観はヨーロッパの伝統的「自然J観を強

    く承け継いたものである。そしてそれを克服することにおいてフォイ エルバッ

    ハは「自然J観の歴史においてエポック・メイキングな役割を果たしたので

    ある。そうであるとすると,その「自然J観の特質と問題点を検討すること

    は, i自然、」の思想史の重要な一こまを確かめることに繋がるはずであり,

    決して意義なきことではない。

    ところで『理性論』の「自然」観の特質を検討するに当たっては, この作

    品の理論的な基本性格を先ずもって確認することが必要であろう。この基本

    性格がこの作品の「自然、」論を大きく制約しているからである。

    『理性論』は全4章23小節からなる小論文で、ある。その根本モティーフは

    「主観性の哲学J( i主観的観念論jの哲学)の批判にあり,それが依拠する

    理論的枠組みは一応「ヘーゲ、ノレ的思弁哲学J(ω である。それが展開する根本テーゼは,第一に く人間の本質は「思惟Jにある〉というそれであり〈16),

    次にく人聞は「思惟」において真なる・完全なる「普遍性」の境地に到達し,

    すべての思惟する人間違との真なる・完全なる「一性」を実現する〉という

    それである(17)。

    この論文の理論的基本性格を見定めんとする場合,逸することができない

    のは I の~ 4の次の一節であろう。

    「人間達の,また同じく自然、的諸事物の,あらゆる関係一一これらの

    (270)

    、.

    h

    (.

  • .

    .

    人間と自然 一75-

    関係はまさしく理性に基づいているのであるが一ーにおいて,我々が示

    したような思惟の本性(即ち総じて『一者J]Unusと『第三者J]Alter

    のー性〉は何らかの様態において現われざるをえないのであるから …,

    思惟から遠く離れているように見えるこれら諸関係自体から思惟が展開

    され,そしてまた,どのようにして万物が或る秘められた衝撃ならびに

    衝動から思惟へと駆り立てられ,それに赴き,ついに思惟そのものが全

    具体性から解放され浄化されて出現するに至るか,が証明されるのでな

    ければ,思惟が何であるかは正しくかっ真に検証することはできない。J

  • -76-

    線は引用者)は大体において当たっていることが分かるのである。

    しかしながらまた 「自然、」は, 1"理性」または「精神Jの く現われの場〉

    としてーーもちろん く低次の現われの場〉としてであるが一一「理性」また

    は「精神Jにとって く念:てみ去らない二舞合〉でもある,ということを上掲の一節は示唆してもいるのであって,我々としてはこの点も公平に見てお

    かなくてはならないと思う。 ω

    以上, r理性論』の理論的基本性格およびそこにおける「自然、」一般の基本的位置づけを確認した。以下では, フォイエルバッハが「自然」に言及し

    て述べているあれこれの言明に当たって, I自然、」が『理性論』においてど

    のような位置と意味を与え られているかをより具体的に見定めてみたい。

    第 2節 「個別」と「分散」の世界としての「自然」

    先ず気づかれるのは, フォイエルバッハが「思惟」ないしは「精神Jと対

    比して 「自然、Jを否定的に特徴づけている議論である。そこにおいては「自

    然、」は「個別」と「分散Jの世界として浮かび上がってくる。もちろん「思惟」ないしは「精神」はこれに対して「普遍」と「ー性」の実現者と看倣さ

    れる。

    • 「…思惟は…物的自然、rerumnaturaにおけるように多数者multumで、

    なく,また存在している個々のものども singulaのうちへと拡散してい

    るもの diffusurrlでもないところの,そうではなくてー者であるところ

    の,そういう『存在』である…。J[1, ~ 6, adnotatio(16) (21) ]

    「…精神は自然、が許容するほどの(自分の外に立てられた)諸々の疎

    隔状態discriminaへと離散するdiscedatことはない…。J(ll, ~8 (包) )

    「…徹底的にそれ自身のうちで物的自然は反援repugnantiaで、ある, .

    自然は総じて真のー性に到達しないのであって,それ自体としては分け

    られない indiscreta一つの事物であるものども,それらのものどもを多

    様かっ分離せる諸部分へとindiversas diremptasque partes裂き分け

    るdiducat...oJ [m J ~ 12, adnotatio(39) (紛]「…一者〔或る人]は第三者[別の人]から自然、および諸々の特殊的

    な事どもresparticularesという根拠によって区分されてdiscretusいる…。」

    (m, ~14(泊) )

    (272)

    '

    1.' "

    -・.. 、

  • (273)

    人間と自然 -77-

    「…自分[人間]が『第二者Jに対抗しているAlteristat oppositusあ

    の自然状態 statusnaturalis.・・J, I自分が『第二者』から離れて立 っているdistatab Alteroそういう自然、状態…J(IV, ~17 (お) )

    「人間は自然、本性naturaからは思惟せず,自然、本性からは非理性的で

    あり,全的に『第二者Jから分け離されているtotussejunctus ab AlterooJ

    [IV, ~ 17, adnotatio(54) (お)] .

    以上のような一連の言明のほかに次のような議論もある。

    「物的自然においては,その本性=自然、は感覚に支配されており, ま

    た思惟しないという点からして,類…は存在せず,植物なるものは存在

    しないのであって,ただ個々の多様な植物どもが存在する のみである。

    しかしこのことは精神には当てはま らな い。J(1 , ~ 6 (27) )

    「物的自然においては類…は多くの異なった種に分割されており、こJHMηh司,叫羽訓

    U

    れらの種は同様に諸々の個体のうちにでなければ存在しないのであって,

    その結果,感覚的諸事物の総体のうちにはただ諸々の個体だけが存在す

    111 3iというふうで、ある。類はこうして形式ならびに抽象概念以外の何ものでもない…。J(n, ~ 11 (却))

    「物的自然、においては個体げ具体者J)は類 (r抽象者J) から分け離

    されてsejunctumいる…。J(向上 (紛)

    t' 1, I・・・物的自然においては車違しdiversaかっ切り離されてseparataいる引 ものども(類と個別者〉…J(m, ~12 (紛 )

    「類は物的自然においては類としては現在しはせず、nonadest現象し

    もしない…。J(IV, ~ 18 (3り

    また,上とは少し異なった文脈において次のようにも言われる。• ・

    「制限または諸境界および諸限界といったような思惟諸規定」は 「理

    性」に適用されるべきものではなく,逆に 「理性自身(あるいは思惟)

    が己れのうちから創出するj ものであり, I理性」が 「対自的に[そ

    れだけで〕思惟と向かい合っている個別的な自然諸事物をそれら相互間

    で比較し区別する dijudicatときJに 「適用する」ものなのである,

    云々(IV, ~ 20 (お))。

    ν .....

  • -78- •

    「普遍」または 「類」と 「個別Jまたは 「個体j, i思惟Jまたは「精神」と 「自然j,I思惟」と「感覚J,これらを対比的に叙述する議論は以上のごとくである。このような議論は『理性論Jを一読するとき,非常に目立つ。コルネールはこうしたことを踏まえて く弁証法Dialektikならぬ対照、

    法Anti thetik)を言い 「静態的二元論」を言い, ω フォイエルバッハ理論

    の「根本二元論」を言う。(泊〉

    しかしコルネールのようにのみ見るのは一面的であろう。フォイエルバ ッ

    ハには 「対照、法」には還元できない議論があるのである。ω この点を次に

    見なくてはならない。

    'bM

    』49

    第3節 「自然」界における不完全な 「一性」

    ー圃圃圃園田

    • ,,..

    「自然、」界は確かに 「個別」と 「分散」の世界である。 しかしあくまで

    もそこに留まって動かない固定せる自立世界では決してない。「個別」と

    「分散」の世界として独自の王国を形作っているわけでは決してない。

    フォイエルバッ ハは,本稿第 1節に見たように, ~ 4の冒頭の一節で,

    「人間達の,また自然的諸事物の、あらゆる関係において…思惟の本性(即

    ち総じて『一者』と r第二者』の一性〉は何らかの様態において現われざる

    ロ.....,.・

    • 」

    をえない」と言っていたのであった。先ずこのところをしかと肝に銘じてお

    く必要があろう。ここに示されているのと同じ理解は実は論文の他の幾つか

    の箇所でも繰り返し述べられている。

    .

    「…あるいは人間違の,あるいは諸々の自然物の、どんな活動=作用

    actioも、いわば或る種の社会から離れて、また一つのものに合流して

    いる多数かっ多様な活動=作用から離れて、単独の纏まったものとし

    て把握されることはできないし、どの一つの活動=作用もそれ自体が

    多くの活動= 作用の或る多重の集合である…。j(1, ~ 7 (,おi))

    「…どんな活動actusで、あれ例外なくー者と第三者を、二つのものまた

    はそれ以上の複数のものを、必要とし求めるものである…。j(向上納)

    「…第二者なくしては己れがそれであるところのものではありえず、

    またそのものではないもの,そうしたものは,物的自然においてすら最

    も深く最も固く第三者と結合しているのではあるが,精神においてこそ

    .

    (274)

  • '

    人間と自然、 一79-

    本当に…第二者と一つで、あり同一である。J(ll, ~8 (紛 )

    また次のように言われているところにも留意しておきたい。

    「…動物どもも,彼等が諸々の種に属している限り,彼等の間で相等

    であり,また彼等の…諸活動は,そして,同じ種または異なった種の獣

    どもと彼等自身の間にあると.ころの,また彼等自身の外にある諸事物と

    の間にもなくはないところの諸関係は,共通の或る様式によって決めら

    れている。そして次の点,即ち個々の獣どもが彼等の種に従?ミいう点

    〔また]種そのものによって即ち個々のものどもの客観的で共通の本性

    によって決められているものでなければ追求しも実行しもしないという

    点, この点において,彼等は或る程度は理性的なものと名づけられうる。」

    (IV, ~ 22 (紛 〉

    先には, く類のー性〉は 「物的自然、」においては単に く形式的 ・抽象的一

    性〉にすぎず 「思惟」においてのみく 「現在するJー性〉になっていると

    言われたのであるが(主として~ 18で),ここでは自然界の 「種“species(これは論理学的に翻訳すれば 「類J"genus"で、ある)といえども或る程度

    は 「ー性」を実現していると言われているわけである。

    さて前節に見た議論と本節で確認した議論とは一体どのような関係にある

    のであろうか?フォイエ'ルバ yハには,議論の論理的綿密性や厳格性には

    さほど拘らないで論考を進めるところがかなりある。かといって彼は全く前

    後撞着したことを平気で言うような折衷家ではない。彼のあれこれの,時と

    して前後撞着しているようにも見える議論にも,実は基本的な繋がりがあん

    そしてその繋がりを示すような命題を,彼自身,不十分とはいえ多少は提示

    している。そのところを我々は次に確認しなくてはならない。実はフォイ エ

    ルバッハの議論の全体としての繋がりに十分に留意して『理性論』を読解し

    ようとする研究は従来余りなされてこなかった。『理性論』のフォイエルバッ

    ハをスピノザ主義者にしたり新プラトン主義者にしたり,あるいは既に人間

    学主義者であるとしたりする,といった具合に実に様々な解釈が出てくるの

    も, このことと結びついていよう。

    (275)

    s

    .

  • -80-

    くてはならな |いのは 田 の~1,2への原駐(3のである。そ

    日目tし7いてi・

    1:おいて完thtì~~bの1ti

    4節 「精神Jの 「座胎の場Jとしての 「自然J

    こでで亀 1(,l

    o叩1目:10ωepμt,si即iCωul川U'口'111口n1(ぐG,凶 t日山lr角~t ,ω,S5叫st叫tã創臥凱t'ωt1ている。ωω}しカかhしこれは虫釦如l日1何なる耶態を1窓怠33事味している|のlか均か注?

    11.ーJ.ブラウンはt ,r~ と不死 l・ ,. " ,~の「自然J 愉!こ関してである fJ~, 「フォイエルバッハが抑制1および思惟と呼ぶものは.生命全体と同じように

    自然に属しており, このもののう ちに基礎づけられているJとした上で,「自然J,愉をめぐるヘーゲルとフォイ lエルバッハとの微妙な, しかしrr叩 lt 仇いをl次のように論じている。 f'フォイエルバッハは『死と不死・""Jでh ヘー

    ゲル主6患者として留学している…。ヘーゲJレは抑制1がl当然からtJj,到すると凡

    るが'.I同組Ir,こ賄事lJを抑制i自身:から発展すると lも見るiO ・いしかし…l精神伊 lヘー

    ウ|自然からこのように出現すべく蹴定したのである,

    ~ø~I~, ~I号(~ø場J~kc~"けI:gpω。

    [・・・6黙の真dtff~t~精神

    -の'~,i r ~1

    ~oc~pn~o ~

    ~nJ nlあり

    ttll'~c~分{

    のうちI~L tt ~

    ののね f~

    ~ 0 LfpLt;

    ~~Iltれから.j~ thlat~1

    の恥 1 恥碕iti~tべ~ ( 礼'(,

    ~ff;特1

    t の~~

    叫係Jli

    11はヘーゲルにあってI(

    であるι 若いフォイエルバッハはこれに対して

    として, |目掛tにおi

    ムミとして331解す 1る。

    る-

    って,

    という

    。J“ブラウンはコルネールのように 「自然1への|転回Jとまでは3っていな L

    が1事その Itr死と不死…』解駅は後者のそれに近い。そしてこれは大いに問

    とされてよい解釈である。この点は後で Ir死と不死…』を扱う際に論じ白け長1Ji"紅ム白い,0 しかし揮者がここで極躍したいのは,仮にブラワンの

    うようにヘーゲル盟の 「自燃J論とフォイエルバッハ硯iのそれとがあるとーるとt r理性論』の r l自然J 論~,i l明らかに附者であるということ, こiの」

    フ エルバッハ 11 の…略目白の場J云々と古う|直前|に,akHH・

    倒附.,SH

    ・こう己'って|いる。

    セれを

    こついて次のよう t

    'つま lりしかと

    いてはいけない。即

    している叫乱ょうは威るもの,

    d川

    an-

    -w

    m治団「

    T『一

    ,an

    ,Am耐.,・・

    (:276)

  • !' ,., p -

    』ロ

    .. ・• -ー.

    人間と自然 -81-

    確固としていて firmun対自的 perse [=自立的]で, またあらゆる点

    において完全な expletumかつあらゆる部分から見て絶対的であるよう

    な或るもの, と思うような意見を。J(ω

    この後に,註番号(23)を付した前掲の引用文が続き,その次に 「精神の…

    匪胎の場J云々という言い方が登場するのである。そして更にその後には次

    のように言われる。

    「…自然、の真の本質は自然、そのものではなく、それの外にそれを超え

    三~I て存在する精神である…。」 ω

    調'

    "'J:

    ...

    "晶

    この一文は 「自然、」に関する『理性論』の諸言明の中で最も重要なもので

    あると思われる。いずれにせよこれをもって見れば, く「自然」には 「自然」

    の 「本質」があり, i精神」には 「精神」の 「本質Jがあ る〉というふう

    ではないことが分かる。 i自然、」は己れのうちに 「本質」をもたず 「精

    神」の うちにこれをもっ。ということは, i自然、」はそれ自体 「精神」そ

    のものの或る 「在り方Ji様態」である,ということである (本稿第 1節

    参照〉 。しかしそれは 「精神」の本質に完全には適合しない, つまり或る

    意味ではそれから逸脱した 「在り方Ji様態Jである(第 2節参照〉。とはいえそれはまた,逸脱した 「在り方Ji様態」のもとにあっても,やはり

    「精神」の或る 「在り方」として,何らかの形で 「精神」の契機を含みも

    つ,即ち不完全ながら何らかの形で 「一性」の形象を示し, i精神」自身

    へと発展すべき(あるいは回帰すべき〉契機をうちに具えもつ(第3節参照)。

    こうして, く 「自然、」は 「精神の匪胎の場」“conceptaculum...mentis"

    である〉ということは, く 「自然」は 「精神」にとって自分自身の内部の

    自分の育ちの場である〉ということであろう。我々はここで再び本稿第 1節

    に見た~ 4のあの言葉,即ち 「人間達の,また同じく自然的諸事物の, あ

    らゆる関係Jは 「理性に基づいている inratione sunt positae [=理性の

    うちに据え置かれているJJを想起すべきである。フォイエルバッハがヘーゲル型の 「自然、」論に則っていることは今や明

    白である。我々は第 1 節では,主として~ 4の冒頭の一節に基づいて, r理性論Jの理論の基本性格とそこにおける 「自然」の位置づけについて一般的

    に検討し, r理性論』の基本性格も 「自然、」の位置づけも, いずれもヘーゲ

    (277)

    t

  • -82-

    ル主義的で、あることを確認したが, この一般的確認は, r理性論Jのその他の箇所での具体的諸議論によってやはり裏づけられるのである。

    しかしそれは, フォイエルバッハの哲学理論の基本性格と「自然、」の位置

    づけとが主本的とえヘーゲソレ主義的で、あることを意味しているにすぎず,そ

    れらが完全にヘーゲ、ル主義的であることを意味しているわけではない。実際

    にはヘーゲルはフォイエルバッハ以上に「自然、」と「歴史J(とりわけ後者)の「現実」に即した考察を行ない,そこから,く自然、から精神への弁証法的

    発展〉なる理論を構築した (1自然、」が「精神」へと発展していく不思議な,

    あるいは見事な「論理」を, もともと「精神Jなるものがあって,それが自

    己発展を遂げることとして了解した ω)のであった。フォイエルバッハは

    乙れに対して, 1現実」に即した考察はほとんど行なわず〈わずかに, 自然、に関するあれこれの博物学的知見を己れの理論の説明材料として使うが),

    あくまでも「自然、」と「精神Jを一見二元論ふうに対置し,その上で(とい

    うよりもその後で〉両者をヘーゲルふうの論理で関係づけるのである。しか

    もこの関係づけの議論は論文全体の中で十分に生かされているとは言えない

    のである。フォイエルバッハ理論を「スピノザ主義」とか「静態的二元論」

    とか「新プラトン主義的否定神学」とかといったように規定するやり方もこ

    ういうところから出てくるのであろう。

    しかしながらこのことは,私見では, フォイエルバッハがヘーゲルとは全

    く臭なった独自の理論を展開している, ということを意味しているのではな

    い。差し当たりはただ,フォイエルバッハの理論的未熟性 ・抽象性 ・不十分

    性を物語っているのみである。

    但しヘーゲルとフォイエルバッハのこのような異同の背後には,フォイエ

    ルバッハが博物学的な関心は強くもっていたが,ヘーゲルのようにく諸事物

    の複雑な内的連関とその歴史的発展〉の「論理Jを捉えようとする関心をほとんど懐いていなかった, という事実があるかも知れない。この点について

    はもう少し考えてみなければならなし、。この場合,問題は次のように整理さ

    れうるであろう。

    ソォイエルバッハがヘーゲ‘ル主義者で、あった限りでは, そのヘーゲル的

    「自然、」論はく自然、の思想、史〉の中でどのような意義を一一肯定的にせよ否

    定的にせよ一ーもったのか?そしてフォイエルバッハがヘーゲルとは微妙

    に異なる面をもっていた限りでは,その相違点はく自然の思想史〉の発展の

    中でどのような意味を一一肯定的にせよ否定的にせよーーもったのか?

    (278)

    7i{ :It

    m ø~l •

    -

    』-HC

    h・6P

    -m,, 広H

    H

    'かも

    .剖HUH-v'』

    ,,EA,

    FrommB.!'J; ¥ t2

    ,vEK 額

    出1''

    -U

    ・l

    -wι

    -anHu

    hHRu

    d--E

    hH刊J

    ゐホり

    l~lð, S.la fi.).・

    欄iiihi-ーー

    で~Qbl, ~

    り~'frLt~

    ~~EHt:

    ハ均~lli

    岡崎~i平i;N~ijit-,.

  • ... ー,

    人間と自然、 -83-

    上の問題の他にも, r理性論』の「自然、」論に関する二 次文献の諸議論を検討する作業が幾らか残っている。これらの点の考察は紙幅の関係もあるの

    で次回に譲ることにする。

    ( 1 ) この論文の成立事情,表題の訳し方その他については拙論 「ノレードヴ、イッヒ ・

    フォイエルバッハ著『理性論J](1828年)についてJ( r唯物論研究年報J]1985年版所い| 収)の第 1節 (96ページ以下)を参照されたい。テ キストとしては Ludωig

    Feuerbαchs Gesαmmelte Werたe,hrsg.v. Werner 8chuffenhauer, Akademie申

    Ver lag, Berlin 1967 ff., Bd. 1 (1981)所収のものが最も優れているので,本稿で

    はこれを使う。なおこの全集については以後 GWと表記することにする。他にも

    Ludωig Feuerbαchs Sa mtliche Werたe,neu hrsg. v. W ilhelm Bolin und

    Friedrich Jodl. 10 Bde. 1903-1911 (以後8Wと記す〉の Faksimile-Neudruck,

    Frommann Vlg., 8tuttgart 1959 -1960に追加された Bd.刃(Erganzungsband

    1 ), hrsg. v. Hans -Martin 8ass (1962)に収録されているテキストがある。 ドイ

    ツ語訳としては GWに対訳として付けられているものの他にt 8W所収のものが

    あり (Bd.IV,8.299ff.),更に LudwigFeuerbachs Werke l,n sechs Bandeπ,

    hrsg. v. Erich Thies, 8uhrkamp Vlg., Frankfurt a.M.所収のものがある(Bd.I,

    ;i ~ 1975.8.15 ff.)。 このうち 8Wテキストは意図的意訳や原註の一部の削除等,多くの操作が加えられており,悪訳で有名である。後者6巻著作集の編者E.ティース

    咽,,

    は8W全体についてこれを 「学問的判定基準には耐えられない」と言っているが

    (Bd. 1 ,8.9) t これは『理性論Jの独訳にはとりわけ当てはまる。その 6巻著作集

    であるが, この方の独訳は原文の晦渋な表現を引き写しにしない配慮のためにかな

    り簡略化した訳文にされており,これまた厳正な訳とは言えなし、。邦訳は 2種類あ

    る。篠田一人・中桐大有 ・田中英三編『フォイエルバッハ選集J] (法律文化社)の

    第 3冊目に収録されている向井守訳 (1970年〉と,船山信一編訳『フォイエルバッ

    ハ全集』第 1巻所収のもの (1974年〉がそれである。しかしこれらはいずれも 「学

    問的判定基準には耐えられないJSWテキストを底本とした重訳であり,その上,

    船山訳は非常に熟(こな)れの悪い訳文で誤訳も随所にある。以下において引用箇所

    を示す場合には GWのページ数のみを記し,邦訳には触れなし、。学問的価値がな

    い悪訳からの重訳に触れても意味がないからである。もし意味があるとすれば, 8

    W訳やそれからの重訳が如何に原文からずれているかを示すことができるといった

    ことくらいであろうが,本稿はこうしたことを意図していない。

    (279)

  • .

    .

    -84-

    ( 2) Peter Cornehl, Feuerbαch und die Nαturphilosophie. Zur Genese der

    Anthr‘opologie uπd Religionskritiたdesjungen Feuerbαch, in: Neue Zeit-

    schrift fur systemαtische Theologie und Religionsphilsophie, 11 (1969),

    8.37 ff. Hans -Martin 8ass, Ludwig Feuerbαch, Rowohlt, Reinbek bei

    Hamburg 1978,8.43-44. Walter Jaeschke, Feuerbαch redivivus. Eine A us-

    eirLαndersetzung mit der gegenzμ泣rtigenForschung im BlicたαμfHegel, in:

    Hegel -Studie凡, Bd.13,1978,8.210 -211. Charles A.Wilson, Feuerbαchαnd

    the Seαrch for Otherγl,ess, Peter Lang, New York ・Bern・Frankfurta.M.・

    Paris 1989,p.153 ff. etc.

    (3) GW,Bd.I,8.LXI ff.

    (4) 8.LXm.引用文中の 「博士論文」は“Deinfinitαte, unitαteαtque commu-

    nitαte rαtionis" r理性の無限性, 一性ならび、に共通性についてJと言い, r理性論Jの数カ月前に完成した。『理性論』はこれを原型にして仕上げられた教授資格取得論

    文Habili tationsschriftである。この両論文が長らく混同されてきたこと等につ

    いては註(1)に挙げた拙論参照。

    ( 5 ) この点については第三章で具体的に検討する。

    (6) ぐっrnehl,op.cit., 8.65.

    ( 7 ) 8.53.

    (8) 8.29,8.53 ff. i自然、への転回」ではなく 「愛」の思想、の重要な役割に注目し

    て 『死と不死…Jに 『理性論Jからの一層の思想的発展を見ょうとするのが註(2)に

    挙げたザスとイェシュケである。同じ註に挙げたウィノレソンは「死と不死…Jにお

    いて 「宗教」の問題が主要テーマになっていることにこの作品の新しさの一つを

    見ている。しかし 「愛」の問題にせよ 「宗教Jの問題にせよ,シュッフェンハウ

    アー説に従った別の解釈も十分に可能であり, この解釈の方が事態をより分かり易

    くするとも思われるのである。筆者は前述の未公刊論考でこのことを詳しく論じた

    し,或る学会でもこの問題をテーマにした研究発表をした (1991年)が, ここでは

    テーマと紙幅の関係でこの点を詳しく論ずることはできなし、。なおウィルソンの著

    作はシュッフェンハウア一説の提起よりも後に刊行されたにも拘らず, この説に一

    顧も与えていない。遺憾である。一般にこの説を考慮した論考はいまだ出ていないと思

    われる。

    (9) コルネールの掲げる根本テーゼはこうである。"FeuerbαchsHinwendung zur

    Nαturphilosophie ist die Folge einer mi βglrckten Hegelrezeption." (8.39)

    (10) エルランゲン講義関係の一連の文書はC.アスケリと E.ティースによって整

    (280)

    11:自t:~ ~ 1,1 i の誌をの62531:

    a

    ないでShitbl:

    (そのりィル1ï~ n

    制 作例経h

    ~o 17 tイ工H

    ~M!ä0中aEE

    ~Iat員長LT34

    初年の!議特色

    1: 1¥ \'{のま記 I~ ・

    t!lt!~, 1傍受は

    1ルパ7ハが~~

    aして¥¥QoLTi 't ~れらi;lqtf工島ji

  • ipo-T

    VLF‘AJ

    414

    -

    人間と自然 -85-

    e~ dEr I 理編集され,ティースの手で刊行された。 LudwigFeuerbαchs Schriftenαus dem 'e ~il' l Nαchlαss, hrsg. v. Erich Thies. In:TextezurForsc九ω g,Bd.XX 1 -xxm, {I納)i wissensehaftliche Buchgesellschaft,Darmstadt1974-1976.このうち初期フォ

    イエルバッハの哲学思想を確かめる上で最も重要なのは Bd.X X nの Einleitung

    吋処 indie Logik und MetαphysiたI [Erlαngen 1829~30J (1975)であろう 。 コノレ:gel, in: I ネール論文は1969年時点のものであるので,この講義を全く考慮に容れていない。川ば| 筆者は前述の未公刊論文でこの講義の分析をも試みた。論文執筆時にはこの分析が

    a,~t I I 世界で最初の 「エルランゲン講義J研究になるであろうと思 っていたが, その直

    後に出たウィルソンの前掲書[註(2)参照、〕が第V章でこの講義を扱っていた。 こ

    の講義の研究抜きに初期フォイエルパッノ、の思想的発震を正確に論ず、ることはでき

    ommu. '1 ないであろうと思っていた筆者としては同じ見解の士が現われたことを嬉しく思う

    瑚 I (そのウィルソンが「死と不死…Jと「理性論Jの前後関係に関するシュッフェンハi州 事 ウアーの新説を無視しているのは残念であるが)。さてそのウィルソンはこう言ってい枇汁 る。 Iフォイエルバッハ研究の呆然とさせられる事実の一つは, 150年の間,学者

    達が遺稿の中の重要な手稿類ヘアクセスすることなしにフォイエルバッハの発展の

    再構成を提供してきたことである。…エルランゲン講義シリーズ‘中の二つ, 1829~

    30年の『論理学および形而上学への序説j と 1831~32年の『論理学および形而上学

    についての講義Jはフォイエルバッハのキャリアの最初の段階を締めくく っている

    だけに,上の事実は特別に残念である。…この二つの講義セットは,実際, フォイ

    エルバッハが生み出した積極的哲学説のうちの最も人目を引くものの或る部分を代

    -Eν

    H

    L戸

    時」冒4

    ・4

    、.Ea--y

    'a

    ・・・・且・

    aHV

    ,La

    e

    ,ZEB-

    -

    -IL--trh'

    りE

    表している。しかるにこれらは研究に対して何らインパクトを与えてこなかった。

    事実,これらは最近の少数の研究を除けばほとんど言及されていない。J(P ,259.)

    「我々がエルランゲン講義を扱うとき,我々は海図にない領域に入り込む。この土

    地の地図を描いた人は誰もいない,ましてやそこを探険した人はいない。J(p.395.)

    (11) Georg Nudling, Ludωig Feuerbαchs Religionsp九ilosophie."Die Auslo-

    sung der Theologie. in Anthropologie“, Vlg. Ferdinand 8choningh,

    Paderborn 1936 CZweite unveranderte Auflage, 1961),8.31.

    (12) 8.29.

    (13) Wilson, op.cit., p.57 et al. •

    (14) Nudling, op.cit., 8.31.なお引用文の最後にある 「精神の生成,発生, およ

    び怪胎」云々は重要であるので後で少し詳しく考察する。第4節を見られたい。

    (15) 筆者は一応『理性論jの理論的枠組みを 「ヘーゲ、ル的思弁哲学」であると看倣

    すが, この点は議論の分かれるところである。ラヴィドヴィッツは『理性論jのフォ

    AHJ

    ‘‘

    • • ,,,

    h

    ,,,

    (281)

  • エルバ γハセX守宅地』リ11こ.il JI~腕ヘーゲル土i艇栢J '

  • • -

    .

    人間と自然、 -87-

    ずれにしてもこれは『理性論Jのキーワードの一つである。

    (19) I思惟そのものが全具体性から解放され浄化されて出現するJ云々というのが

    「絶対理念」の出現を意味するとすれば,ヘーゲルとはかなりニュアンスが異なる。

    この文言はむしろ 「精神現象学」から 「論理学」の地平への移行の場面を表現す

    るのに相応しいであろう。

    (20) フォイエルバッハは,先のニュードリングからの引用文にもあったように,別

    のところで 「自然、」を 「精神の『生成~,発生,および、歴胎の場conceptaculum

    (Geburtsstatte) Jと表現している(8.150)。

    (21) 8.132.下線は引用者。以下も同じ。“rerumnatura"は論文中にたびたび登場

    する言いまわしであるが,筆者はこれを 「物的自然、」と訳す。直訳すれば 「諸事

    物の自然JI諸々の事物からなる自然」とでもなるのかも知れなし、。“res" I物」はそれ自身複数形で 「自然、」を指示することがあり,また 「現実Jといった意味

    合いでも使われる。ついでに言えば, “natura"はギリシャ語“ゆふ σl S"のラ

    テン語訳である。この“妙心 σ l S "は‘4ゆふ ω" i産み出す」に発し, i自然、」

    「本性」を意味する。これをラテン語に訳すために“nascor"I生まれるJから作り

    民| 出された新語が“natura"である。 G. ピッヒトによれば, このラテン語訳により,

    “ゆふ σls" I生成せるもの」は単に 「生み出された物Jの意味になってしまい,

    これに後のローマ法の“res"I物件」が同義語的に対応することになる (Georg

    Picht, Der Begriff der Nαtur und seine Geschichte, 2. A uflage, Clett-

    Cotta, 8tuttgart 1990, 8.160ff.)実際, ローマ人において“妙心 σlS"が“res"

    「物Jと重ね合わせて理解されていることはルクレティウスやキケロ等において

    “ゆ心 σl S"か“rerumnatura"と表現されていることに示されている。この

    “rerum natura"をフォイエルバッハは継承しているわけである。そして彼のこの

    表現には確かに否定的価値評価が伴っている。このような事情を考慮に容れて筆者

    は“rerumnatura"を 「物的自然Jと訳すことにしたのである。 GWのドイツ語

    訳はこれを単に"Natur.と訳しており (8.133),8Wは Wirklichkeit と訳して

    いる(Bd.IV.8.311)。後者の訳はまずい。なぜならフォイエルバッハにあっては

    「理性」こそが真の 「現実」なのであり, i物的自然Jはく不完全な現実〉にすぎ

    なし、からである。一ーなお本稿が言う 「自然jは直接には“φ心σlS" =、atura"の訳語としてのそれである。東洋の 「自然J[仏教の 「自然(じねん)J等]は現

    在我々が言う“natur"の訳語としての 「自然」とは意味合いを異にしている。後

    者に当たるものは東洋では 「天地J等と表現された。

    (22) 8.38 .

    (283)

    .

  • -88-

    (23) 8.148-150.

    (24) 8.74.この箇所では同趣旨のことを前後二度述べている。

    (25) 8.92.

    (26)

    (27)

    (28)

    (29)

    (30)

    (31)

    (32)

    (33) Cornehl, op.rit., 8.44

    (34) 8.43.

    (35) コノレネールの 「静態的二元論」説に対してはJ.C.ヤノウスキーの厳しい批

    判がある。この批判はテキストの入念な分析に基づいており,注目に値する (J.

    Chrlstine ¥..1 anowski. Der MenschαlsMαβ . Untersuchungenzum Grundge-

    dαηんenund zur Struktur von Ludωig Feuerbαchs Werk, Benziger Verlag

    Zurich -Koln und Gutersloher Verlagshaus Gerd Mohn, Gutersloh 1980,8.

    122 ff.)。

    (36) G ¥F, B d. 1, 8.32.

    (37) 8.34.

    (38) 8.38.

    (39) 8.110.

    (40) 8.150.

    (41) Hans -Jurg Braun, Ludwig Feuerbαchs Lehr‘e vom Menschen, From-

    mann Vlg.. 8tuttgart 1971, 8.61-62.桑山政道訳 『フォイエルバッハの人間論J,

    新地書房, 66-67ページ。

    (42) GW, Bd.I, 8.148.

    (43) 8.150.

    (44') i了解Jと言ってもヘーゲルの場合 「了解」としては自覚されず, i客観的真理

    の記述」として提示される。ここにヘーゲ.ル哲学の独断性がある。

    8.162.

    8.30.

    8.52.

    8.56.

    8.58.

    8.96.

    8.104. l-MH曲

    A

    町守An

    --hu''

    U庁

    J

    ・リ

    J

    Mwa--個u・,

    [1]繍γt

    Lt知性能川

    ---.

    41

    ‘,d円、ふO

    AF

    ,.、

    BEEU

    a-

    L

    防償

    u

    m川川川川

    向が

    SEM

    腕M計

    Eh柏山崎

    9・

    -

    M

    -

    M

    ・・4I、

    NU

    -

    -ea今、

    .ATυ

    1

    h

    -

    h川町

    u

    h

    3

    呂町‘

    M

    肘判

    1

    6花

    4

    A

    E

    z

    一同駒込町鮒HHMb~

    、‘.リ、い川町九州

    hH

    占川人

    B・L-yzh

    ta

    w

    -mth刊

    -

    q

    J

    l

    仇り

    uumり

    lilei--

    Ahυ

    ヘh刊

    一川

    MW

    九州い川町恥叫存

    th

    (284)