イタリア近代建築とオスティア遺跡発掘(1938-1942)...piazza navona 0 500m...

18-1 1. 研究の背景と目的 第一次世界大戦後、イタリアのファシズム、ドイツ のナチズムに代表されるように欧州諸国では全体主義 が興隆した。この時期の建築・都市計画に関しては、 鵜沢隆、北川佳子、小山明等の既往研究があるが、そ れらはファシズムと密接に関係していた合理主義や ジュゼッペ・テッラーニ、またはナチズムに関するも のである。当時のローマではファシズムによって活発 に遺跡発掘が推進されており、ファシズム期終盤に当 たる 1938-1942 には、ローマ市中心部から南西 24 ㎞ に位置するオスティア遺跡で、国家政策により大規模 な発掘が行われた。しかし、このような古代ローマ遺 跡がファシズムに及ぼした影響に焦点を当てた研究は 日本では行われていない。 本稿ではファシズム期のローマの建築の流れを把握 するとともに、その裏側に存在する古代ローマ遺跡と の関係を指摘し、1938-1942 のオスティア遺跡発掘 をイタリア近代建築史の中に位置づけることを目的と し、以下の構成で進められる。2章でファシズム体制 のもとローマで行われた都市改造の背景、内容を述べ るとともに、ナチズムベルリン改造計画との相違点を 指摘する。3章では「ローマの合理主義」と「ミラノ の合理主義」の乖離までの流れを述べ、その要因を指 摘する。4章では、2、3章のまとめを書く。5章では、 2009 年夏オスティア遺跡考古局文書館で入手した当 時の資料をもとに、1938-1942 に行われたオスティア 遺跡発掘の意義について述べる。最後に6章で研究の まとめを書き、総括とする。 2. ローマ都市改造  2.1. 道路開設 1930年代、ムッソリーニによる道路の開設は 過激化し、様々な時代の遺産を考慮せず「破壊 demolizione」が行われた。また、道路拡張のみに留ま らず「破壊+改築 demolizione e ricostruzione」という方 法により、通りのファサードがファシズム特有のデザ インに統一された ( 図 1. 写真 1.)。過激化した道路開 設の代表例としては「帝国通り」( 現在のフォーリ・ イタリア近代建築とオスティア遺跡発掘(1938-1942) —ファシズム期ローマの背景にみる古代ローマ遺跡— 福田 哲也 インペリアーリ通り )、「海の道」( 現在のテアトロ・ ディ・マルチェルロ通り ) が挙げられる ( 図 2.)。 「帝国通り」は古代ローマ建築コロッセオとヴェネ ツィア広場を連結する長さ 850m、幅 80m の直線道 路である。その開設目的は、ファシズムと古代ローマ の「連続性」の可視化により、ファシズムの権威性を 誇示することであった。「帝国通り」開設の際、古代ロー マ遺跡が発掘されたが、それらは十分な調査・研究も 行われることなく、再び埋め戻され、「帝国通り」の 犠牲となった。これにより多くの古代ローマ遺跡は「破 壊」された。このようにムッソリーニは同じ古代ロー マ遺跡の中でも、利用価値の有無により「選別」と「破 壊」を使い分けていた。 また、「海の道」は、ヴェネツィア広場からサンタ・ マリーア・イン・コスメディン教会付近へと続く道路 であり、ローマ市内とオスティア、ティレニア海を繋 ぐ高速道路と連結している( 図11.)。「海の道」は「帝 国通り」のように歴史的価値のある建築物を利用した 道路開設とは異なり、帝国を地中海へと拡大させたア ウグストゥスとの「連続性」の構築を意図したもので あった。 写真 1. ファシズム期に改造された通りのファサード 図 1. ローマ都市計画 1931 年 0 500m テヴェレ川 改築 破壊 demolizione 破壊 + 改築 demolizione e ricostruzione 図2.「帝国通り」、「海の道」開設前後 1) 2) コロッセオ テヴェレ川 帝国通り 海の道 海の道 帝国通り ヴェネツィア広場

Upload: others

Post on 25-Jan-2021

3 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • 18-1

    1. 研究の背景と目的 第一次世界大戦後、イタリアのファシズム、ドイツのナチズムに代表されるように欧州諸国では全体主義が興隆した。この時期の建築・都市計画に関しては、鵜沢隆、北川佳子、小山明等の既往研究があるが、それらはファシズムと密接に関係していた合理主義やジュゼッペ・テッラーニ、またはナチズムに関するものである。当時のローマではファシズムによって活発に遺跡発掘が推進されており、ファシズム期終盤に当たる 1938-1942 には、ローマ市中心部から南西 24 ㎞に位置するオスティア遺跡で、国家政策により大規模な発掘が行われた。しかし、このような古代ローマ遺跡がファシズムに及ぼした影響に焦点を当てた研究は日本では行われていない。 本稿ではファシズム期のローマの建築の流れを把握するとともに、その裏側に存在する古代ローマ遺跡との関係を指摘し、1938-1942 のオスティア遺跡発掘をイタリア近代建築史の中に位置づけることを目的とし、以下の構成で進められる。2章でファシズム体制のもとローマで行われた都市改造の背景、内容を述べるとともに、ナチズムベルリン改造計画との相違点を指摘する。3章では「ローマの合理主義」と「ミラノの合理主義」の乖離までの流れを述べ、その要因を指摘する。4 章では、2、3章のまとめを書く。5章では、2009 年夏オスティア遺跡考古局文書館で入手した当時の資料をもとに、1938-1942 に行われたオスティア遺跡発掘の意義について述べる。最後に6章で研究のまとめを書き、総括とする。2. ローマ都市改造 2.1. 道路開設 1930 年 代、 ム ッ ソ リ ー ニ に よ る 道 路 の 開 設 は過 激 化 し、 様 々 な 時 代 の 遺 産 を 考 慮 せ ず「 破 壊demolizione」が行われた。また、道路拡張のみに留まらず「破壊+改築 demolizione e ricostruzione」という方法により、通りのファサードがファシズム特有のデザインに統一された ( 図 1. 写真 1.)。過激化した道路開設の代表例としては「帝国通り」( 現在のフォーリ・

    イタリア近代建築とオスティア遺跡発掘(1938-1942)—ファシズム期ローマの背景にみる古代ローマ遺跡—

    福田 哲也

    インペリアーリ通り )、「海の道」( 現在のテアトロ・ディ・マルチェルロ通り ) が挙げられる ( 図 2.)。 「帝国通り」は古代ローマ建築コロッセオとヴェネツィア広場を連結する長さ 850m、幅 80m の直線道路である。その開設目的は、ファシズムと古代ローマの「連続性」の可視化により、ファシズムの権威性を誇示することであった。「帝国通り」開設の際、古代ローマ遺跡が発掘されたが、それらは十分な調査・研究も行われることなく、再び埋め戻され、「帝国通り」の犠牲となった。これにより多くの古代ローマ遺跡は「破壊」された。このようにムッソリーニは同じ古代ローマ遺跡の中でも、利用価値の有無により「選別」と「破壊」を使い分けていた。 また、「海の道」は、ヴェネツィア広場からサンタ・マリーア・イン・コスメディン教会付近へと続く道路であり、ローマ市内とオスティア、ティレニア海を繋ぐ高速道路と連結している ( 図 11.)。「海の道」は「帝国通り」のように歴史的価値のある建築物を利用した道路開設とは異なり、帝国を地中海へと拡大させたアウグストゥスとの「連続性」の構築を意図したものであった。

    写真 1. ファシズム期に改造された通りのファサード

    図 1. ローマ都市計画 1931 年

    Fiume tevere

    Corso Vittorio EmanuelleⅡ

    Corso Vittorio EmanuelleⅡ

    Via del Corso

    Piazza

    Navona

    0 500m

    テヴェレ川

    改築

    ⇩ 破壊 demolizione

    ⇩ 破壊 + 改築demolizione e ricostruzione

    図 2.「帝国通り」、「海の道」開設前後

    1)

    2)

    コロッセオ

    テヴェレ川

    帝国通り

    海の道

    海の道

    帝国通り

    ヴェネツィア広場

  • 18-2

    2.3. ナチズムベルリン改造計画 1938 年に公表されたベルリン改造計画全体案 ( 写真 2.) は、幅員 156m の南北軸線道路とそれに直交する東西軸線道路、環状アウトバーン網等に見られる大規模な交通計画であった。また、ヒトラーは南北軸の北端に高さ約 300m を誇る新議事堂大ドーム ( 図 3.)を計画していた。ヒトラーは古代ローマで見られるような都市のシンボルを希求しており、ベルリンの新議事堂大ドームがそれを担うと考えていた。その設計者は A. シュペーアであるが、実情はパンテオンを模倣したヒトラーのスケッチ ( 図 4.) が計画案の基盤である。まさにヒトラーが目指した「古代の都市の公共の記念建造物」そのものであった。 このようにファシズムローマ都市改造では、古代ローマより積層し続けた都市の歴史に対して「選別」と「破壊」という方法を用い、強弱・疎密を与えることで、ファシズムへと続く「歴史の ( 連続性の ) 強化」を図ったのに対して、ナチズムベルリン改造計画は「歴史の始点」の創出を目指していたと言える。両者の計画は、ともに変革性とダイナミズムを過度に演出した暴力的な歴史の一部であることに間違いはないが、両計画間には差異が存在し、それは古代ローマ遺跡との距離感の差から生じたものであった。3. ローマの合理主義3.1. 合理主義建築展(1928年、1931年) グルッポ7の形成によりミラノで合理主義運動が誕生した。ローマから唯一グルッポ7に参加していたA. リベラは、合理主義運動の全国規模への拡大と体制への介入を目論み、1928、1931 年にローマで合理主義建築展を開催した。その結果、第2回展の開会式翌日の政府機関紙には「ムッソリーニはその運動に同意を示した」と掲載され、体制の支持を獲得したと考えられる。しかし、両展覧会に占めるローマの合理主義者の割合が高いように ( 表 1.2.)、この展覧会が事実上

    もたらしたものはローマの合理主義者達の活動の域の拡大であった。つまり、「ミラノの合理主義」のローマでの浸透、体制への介入を試みることで「イタリア合理主義」を確立しようとしたリベラの意に反して、結果的に「ローマの合理主義」を確立させたのである。3.2. ローマの郵便局設計競技(1933年) 更に 1933 年、国家プロジェクトとして行われたローマの郵便局の設計競技で、A. リベラがアヴェンティーノ郵便局 ( 写真 3.)、M. リドルフィがボローニャ広場郵便局 ( 写真 4.) に入選した。両者は MIAR のローマの代表的メンバーであり、この設計競技にて「ローマの合理主義」は実現を迎えた。

    3.3. リットリオ宮設計競技(1934,1937年) 1934 年にリットリオ宮 ( ファシスト党ローマ中央本部 ) 設計競技が行われた。ムッソリーニの審査介入が大きな混乱を招く結果となり、結局一等案は選出されず、1937 年の第二次設計競技へと持ち越された。 古代ローマ遺跡コロッセオを背景とした、ファシズムの象徴としての建築を要求されたことから ( 表 3.)、多くの計画案はシンボリック、モニュメンタルな表現であった ( 図 5-10.)。また、設計競技を通して古典化する「合理主義」が可視化されたため、それを拒絶する「ミラノの合理主義者」により、様々な議論が巻き

    写真 3. アヴェンティーノ郵便局 1933-34A. リベラ

    写真 4. ボローニャ広場郵便局 1933-34M. リドルフィ

    写真 2. ベルリン都市改造計画写真 図 4. ヒトラーのスケッチ 1925

    図 3. 新議事堂大ドーム計画案アルベルト・シュペーア 1937-40

    左 表 1. 第 1 回イタリア合理主義建築展の会場と参加グループ一覧

    右 表 2. 第 2 回展イタリア合理主義建築展の参加者と所属 MIAR 支部名一覧

    3)

    4)

    第1次リットリオ設計競技計画案 1934 年上左 図 5.A. リベラ案、上中 図 6.M. パランティ案、上左 図 7.B.B.P.R. 案、

    下左 図 8.G. テラーニ A 案、下中 図 9.G. テラーニ B 案、下右 図 10.E. デル・デッビョ、フォスキーニ案

    表 3. 第 1 次リットリオ宮設計競技要項

    7)

    6)

    5)

  • 18-3

    起こされた。その一端は 1933 年から 1938 年の『カーザベッラ』において確認することができる。 体制との妥協の中で徐々に変容した「ローマの合理主義」は、リットリオ宮設計競技を期に「ミラノの合理主義」と完全に乖離した。そして、その引き金となったのは「古代ローマ遺跡を背景とした近代ファシズム建築」という構図の登場であったのは間違いなく、それはリットリオ宮設計競技の結果が物語っている。4. 小結 2、3章より、古代ローマ遺跡はファシズム期ローマの建築・都市に対し以下のように機能したと言える。1)そのシンボリックさゆえに、明確な時間軸を都市に与えるため、ファシズムの都市改造の利用対象となった。それが起因して「選別」と「破壊」による建設活動が促進し、「ファシズムへと続く歴史=連続性」という新しい概念がファシズムの中で定着したことで、「歴史の最先端」として選択された「合理主義」はファシズムと接近した。2)近代ファシズム建築の背景として登場することにより、それらを古典化させる要因となり、様々な議論を巻き起こさせた。3)それとの距離感が作用し、ローマは他都市と異なる都市計画に至った。 このように、古代ローマ遺跡を回転軸とし、その周辺を回転している多くの事象が複雑に絡み合っているのがこの時代の特徴と言える。また、「リットリオ宮」、

    「コロッセオ」、「帝国通り」が示す「ファシズムへと続く歴史=連続性」の構図は、1938-1942 に飛躍的にスケールを拡大させ、ローマにて実現することになる。5. 1938-1942のローマ 1938-1942 のローマでは E42 開催に向けた EUR 建設、オスティア遺跡発掘が行われた。5.1. E42( ローマ万国博覧会1942) EUR( 写真 5.) とはファシスト革命 20 周年にあたる1942 年完成を目指したローマ万国博覧会 (Esoposizione Universale di Roma) の略称である。ローマ郊外に位置する EUR は現在も地名として残っている ( 図 11.)。 E42 とも呼ばれるこの博覧会は、1935 年当時ローマ総督であったボッタイがムッソリーニに進言したことが発端であり、会場である EUR 地区は博覧会期間後ローマ新都心として機能することを期待されていた。ファシズムの未来を背負う新都市 EUR の建設には 1941 年までに 3 億 7000 万リラが投入されていたが、第二次世界大戦の影響により開発は中断され、博

    覧会は中止となった。5.2. オスティア遺跡発掘(1938-1942) オスティアは、紀元前4世紀テヴェレ川河口を防衛するために創建された軍事植民都市であり、ローマ市の遠洋航路用の港として繁栄し、都市域を拡大させた( 図 11.)。しかし、紀元後 3 世紀には外敵の侵攻とマラリアの蔓延で都市が衰退し始め、紀元後 5 世紀にテヴェレ川の氾濫により都市は土砂に埋もれた。そのため当時の町並みの保存状態は良好である ( 写真 6.)。 イタリア政府によりオスティアで本格的に発掘が開始されたのは 1890 年以降であり、発掘は現在まで継続して行われている。オスティア発掘史上最も集中的に大規模な発掘が行われた期間は 1938-1942 であり、発掘主任グイド・カルツァのもと遺跡の約3分の2に当たる 17ha の範囲が明るみに出された。発掘範囲はミカエル・ハインツェルマンにより後に明らかにされている(図 12.)。5.2.1. 発掘主任グイド・カルツァの思想的背景 1938-1942 発行の雑誌に掲載された、当時の発掘主任グイド・カルツァの記事に注目し、オスティア遺跡考古局文書館書庫部門にてそれらを閲覧した。カルツァは 5 年間で 24 のオスティアに関する記事を書いており、1938 年の専門誌『Gnomon』と 1939 年の一般紙『Le vie d'Italia』では、以下のように発掘の意義、

    写真 5.EUR

    オスティア・アンティカ(オスティア遺跡)

    EUR

    テヴェレ川

    ローマ中心部

    リド・ディ・オスティア

    ティレニア海

    近代に埋め立てられた土地

    古代から存在する土地

    ローマ中心部からティレニア海へ向かう高速道路

    図 12.1938-1942 の発掘範囲写真 6. オスティア遺跡

    図 11. ローマ地図

    8)

    9)

    表 4.1938-1942 に発行された雑誌の E42 に関する記事の内容一部(カルツァ著)

  • 18-4

    または発掘と E42 との関係を示していた ( 表 4.)。ⅰ)オスティアが古代ローマ研究において重要であり、現代との連続性を示す存在であることⅱ)象徴性(発掘のタイミング・発掘規模と速度・ローマの地域性と歴史性)を帯びた発掘であり、その発掘を行うファシズムの偉大性を強調していることⅲ)E42 の開催、つまり新ローマ都市 EUR の完成時期と古代ローマ都市オスティアの全貌が明らかになる時期を意図的に合わせていることⅳ)オスティアと EUR を物理的にも感覚的にも繋ぐために見通しの良い道路が存在すること5.2.2. ファシスト党幹部ボッタイの遺跡訪問 オスティア遺跡考古局文書館写真部門では、遺跡の写真が地区・建物・年代別で保管されており、遺跡訪問者・発掘者等の人物が写った写真も年代別で保管されていた。タイトルを参考にし、1938-1942 の遺跡訪問者・発掘者等の写真を確認したところ、ファシスト党幹部ボッタイまたは E42 最高責任者等の写真が 3 枚存在した ( 写真 7.8.9.)。これらから、ファシスト党とE42 関係者が「発掘後の遺跡」に実際に注目していたこと、また、ボッタイが Caseggiato degli Aurighi( 図14. 写真 10.) を訪問したことが分かる ( 図 13.)。5.2.3. 発掘誌からみる考古学的側面 オスティア遺跡考古局文書館歴史部門には発掘誌が保管されており、1938-1942 の発掘は発掘誌 24 巻から 28 巻にあたる。この発掘誌には日付、発掘場所、そしてその日の発掘の情報が記録されており、ボッタイが訪問した Caseggiato degli Aurighi の発掘についても記録が残っている。その記録内容は全て発掘の状況や発見された碑文の内容等についてであり、ボッタイの訪問を含めファシストに関する情報は全く記録されていない。当時の写真からファシズムの関与と注目

    が予想される Caseggiato degli Aurighi であったが、発掘誌を見た限りでは発掘報告にその根拠は見られなかった。つまり、「発掘の実質」には見かけ上政治的圧力がかかっておらず、学術的独立性は保たれていた。6. 結 1938-1942 の古代ローマオスティア遺跡発掘は、ムッソリーニによって「選別」された象徴性を帯びた発掘であり、新都市 EUR 建設とともに進行・実現するよう演出されていた。その目的は「未来の展望」と

    「栄光の歴史」の誇示を同時に行うことにより、その二つの事項から導かれた時間軸の中心に「偉大なファシズム」を位置づけることであった。これらのことから、イタリア近代建築史において「オスティア遺跡発掘(1938-1942)」は「EUR」と並列関係として捉えることができる。 さらに、両者を繋ぐ道 ( 海の道 ) についても言及されていたため、「EUR」、「オスティア遺跡」、「海の道」は、

    「リットリオ宮」、「コロッセオ」、「帝国通り」が示していた「ファシズムへと続く歴史=連続性」の構図の拡大であったということも指摘することができる。 一方、ファシズムによって発掘後には政治的に遺跡を利用されたオスティアであったが、当初より研究者によってその発掘の学術的価値は認められていた。また、発掘誌によれば、「発掘の実質」である学術的部分の純粋性は保持されつつ進行されていたと言え、それは当時のオスティア遺跡発掘の一つの側面である。

    【参考文献】※以下は参考文献の一部であり、参考文献一覧は本論に記載している。[1] Antonio Cederna, "MUSSOLINI URBANISTA", Laterza, 1979[2] 井上章一、『夢と魅惑の全体主義』、文春新書、2006[3]Alex Scobie, "HITLER'S STATE ARCHITECTURE The Impact of Classical Antiquity", College Art Association, 1990[4] 藤澤房俊、『第三のローマ イタリア統一からファシズムまで』、新書館、2001[5]Terry Kirk, "the architecture of MODERN ITALY", Princeton Architectural Press, 2005[6]『SD』8306、鹿島出版会、1983 年 6 月[7]Guido Calza, "SCAVI DI OSTIA TOPOGRAFIA GENERALE", Istituto Poligrafico e Zecca dello Stato, 1996[8] 北川 佳子、入江 正之、「イタリア合理主義建築展とそれに伴う MIAR の活動について」、建築雑誌、昭和 55 年 11 月号[9]『日伊文化研究』第 32 号、日伊協会、1994 年[10]"Gnomon14", Princeton University Press, 1938[11] "LE VIE D'ITALIA RIVISTA MENSILE DELLA CONSOCIAZIONE TURISTICA ITALIANA45 9", Touring Club Italiano, 1939[12] Leon Krier, "ALBERT SPEER ARCHITECTURE 1932-1942", Archives d'Architecture Moderne, 1985[13]Pino Scaglione, "EUR a Roma" Testo & immagine, 2000[14] V. グレゴッティ、『イタリアの現代建築』、鹿島出版会、 1979[15] ディヤン・スジック、『巨大建築という欲望 権力者と建築家の 20 世紀』、紀伊国屋書店、2005[16] Carlo Belli, "La citta fascista" Il Popolo di Brescia, 1931[17] V. グレゴッティ、『イタリアの現代建築』、鹿島出版会、 1979

    【注釈】1)1921 年 11 月にファシスト党は結成し、1943 年 7 月に崩壊したため、その期間である 1921-1943年をファシズム期と定義する。参考文献 [14]p14 、2) 参考文献 [4]p224、3) ヒトラーは「今日の我々の大都市には、市の景観に大きな位置を占める記念建造物が存在しない。それはある時代全体の象徴とも見なしうるものだ。こうしたことは、古代の都市では実際に見ることができた。」と述べている。参考文献 [15]p62、4) 参考文献 [3]p109-118、5)Gruppo7「ラッセーニャ・イタリアーナ」誌上に掲載された4篇の建築宣言によってその名を築いたグループ。参考文献 [17]p22、6) 参考文献 [16]、7)「ローマの合理主義者」とここで記したものは、A. リベラと MIAR ローマ支部会員を示す。8)『La Casa Bella』や『Casabella』等、現在まで雑誌名が 7 度の変更をみせるが、本稿ではそれらを総称して『カーザベッラ』と呼ぶ。9)Michael Heinzelmann(1966-) ケルン大学考古学専攻教授。著作 "Die Nekropolen von Ostia", Pfeil, Dr. Friedrich, 2000 等。10)「発掘場所」の欄の記録を見た限り、長期間連続して記録されていたのは「デクマヌス通りマリーナ門方向」、「地区 A・B・C」、「発掘区 4」、「Caseggiato degli Aurighi」、「発掘区 5」、「デクマヌス通り」、「マリーナ門」、「山頂」、「パラッツォ・インペリアーレ方向」の9つのみであった。この 9 つの中で唯一「Caseggiato degli Aurighi」のみが建築物単体の名称であったことは特筆すべき点である。

    【図版出典】( 図 1.) 参考文献 [1] より筆者作成、( 図 2.) 参考文献 [2]p17 より筆者作成、( 図 3.4.) 参考文献 [3]、( 図 5.)参考文献 [4]、( 図 6.7.10.) 参考文献 [5]、( 図 8.9.) 参考文献 [6]、( 図 11.) 筆者作成、( 図 12.) 参考文献[7] より筆者作成、( 図 13.) 参考文献 [7]、( 図 14.) 参考文献 [7]、( 表 1.2.) 参考文献 [8] より筆者作成、( 表 3.) 参考文献 [9] より筆者作成、( 表 4.) 参考文献 [10][11] より筆者作成、( 写真 2.) 参考文献 [12]、( 写真 1.3.4.6.10.) 筆者撮影、( 写真 5.) 参考文献 [13]、( 写真 7.8.9.) オスティア遺跡考古局文書館写真部門より入手

    左 図 13. オスティア遺跡の地図と写真 7.8. の撮影位置

    右上 図 14.Caseggiato degli Aurighi 平面図、右下 写真 10.Caseggiato degli Aurighi

    フォーチェ通り

    写真 8.

    写真 7.Caseggiato degli Aurighi

    円形劇場

    カピトリウム

    フォロ

    マリーナ門

    ラウレンティーナ門

    ロマーナ門

    テヴェレ川

    デクマヌス通り

    デクマヌス通り

    左 写真 7. ファシスト党幹部ボッタイのオスティア遺跡訪問(Caseggiato degli Aurighi) 1938

    中 写真 8. ファシスト党幹部ボッタイのオスティア遺跡訪問(フォーチェ通り) 1938

    右 写真 9. 国民教育大臣と E42 最高責任者のオスティア遺跡訪問 1940

    10)