a magazine without advertisements as the reflection of

21
[論文] Article『暮しの手帖』がめざしたもの 花森安治の美学と広告のない誌面 雪野 まり “Kurashino Techo” and The Editor’s Philosophy: A Magazine without Advertisements as the Reflection of Yasuji Hanamori’s Aesthetics Mari Yukino 1948 年に創刊された生活雑誌『暮しの手帖』は,広告に依存しない雑誌作り を行ってきたことで知られている.広告のない誌面は,自律的ジャーナリズム 志向の証とみなされ,創刊の契機も,しばしば政治的な信念に求められてきた. だが,編集長花森安治が追求したことは,商品の美学であり,同時に雑誌の美 学であった.本稿では,広告のない誌面はその結果として生み出されたことを 第一世紀『暮しの手帖』の内容分析により明らかにする. “Kurashino Techo” is the well-known life-style magazine that has been published without any advertisement from the first issue in 1948. It has been regarded as the reflection of its chief editor Yasuji Hanamori’ s political position that the magazine has been published without any advertisement. This study will show that Hanamori’s editing policy had a strong relation with his aesthetics of the magazine as medium, rather than with his political position. キーワード :『暮しの手帖』,花森安治,広告のない誌面,美学,商品

Upload: others

Post on 02-Apr-2022

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

��

[論文]

[Article]

『暮しの手帖』がめざしたもの花森安治の美学と広告のない誌面

雪野 まり

“Kurashino Techo” and The Editor’s Philosophy:A Magazine without Advertisements as the Reflection of Yasuji Hanamori’s Aesthetics

Mari Yukino

 1948 年に創刊された生活雑誌『暮しの手帖』は,広告に依存しない雑誌作りを行ってきたことで知られている.広告のない誌面は,自律的ジャーナリズム志向の証とみなされ,創刊の契機も,しばしば政治的な信念に求められてきた.だが,編集長花森安治が追求したことは,商品の美学であり,同時に雑誌の美学であった.本稿では,広告のない誌面はその結果として生み出されたことを第一世紀『暮しの手帖』の内容分析により明らかにする.

“Kurashino Techo” is the well-known life-style magazine that has been published without any advertisement from the first issue in 1948. It has been regarded as the reflection of its chief editor Yasuji Hanamori’s political position that the magazine has been published without any advertisement. This study will show that Hanamori’s editing policy had a strong relation with his aesthetics of the magazine as medium, rather than with his political position.

キーワード :『暮しの手帖』,花森安治,広告のない誌面,美学,商品

��   出版研究 38  2007

はじめに

本稿の目的は,『暮しの手帖』によって花森安治が実現しようとしたことは何であったのかを,第 1 世紀『暮しの手帖』の誌面構成およびその編集後記である「編集者の手帖」(ただし第 26 号までは「あとがき」)の分析により考察することにある.『暮しの手帖』は 1948 年 9 月に創刊された生活雑誌であるが,自律的な

ジャーナリズム活動を展開してきた雑誌として知られている.その代表的な企画である「商品テスト」では企業名をあげて「よりよい商品生産のため」の商品批判を行い,また,第 96 号を「戦争中の暮しの記録」特集号として刊行して以降,第 2 世紀前半にかけて「みよ,僕ら一銭五厘の旗」(2 世紀第8 号),あるいは「国を守るということ」(2 世紀第 2 号)などのエッセイを掲載し,企業批判,国家批判をその誌面で展開している.『暮しの手帖』,あるいはその編集長であった花森安治についての先行

研究は見当たらない.しかし,ジャーナリズムにおいてはしばしば取り上げられており,そこでは『暮しの手帖』の創刊の契機,あるいはその編集理念を支えてきたものを,花森安治の戦中体験,その否定としての戦後民主主義の擁護といった政治的な理念に求める見解が多くみられる 1). その根拠とされるのは,「商品テスト」や,こうした一連のエッセイである.

その編集長であった花森安治は,戦争中,大政翼賛会に所属し,ポスターや標語の作成など様々なプロパガンダ活動に従事していた.1941 年 7 月,結成後間もない大政翼賛会に入り,1945 年 6 月に大政翼賛会が解散されるまで勤務し,解散の前年の 1944 年 7 月には,その文化部副部長に就任している.『暮しの手帖』の創刊に携わったことが,しばしば,戦中期の活動に対する深い反省に根ざしたものとして語られてきたのはこの経歴ゆえである.

しかし『暮しの手帖』創刊の契機は,大橋鎮子がお金持ちになって 母 親 を 幸 せ に し た い, そ の た め に 女 性 の 役 に 立 つ 雑 誌 を 出 し たい と い う 思 い に あ り,『 暮 し の 手 帖 』 創 刊 期 に お け る 花 森 安 治 の 役割は,大橋鎮子のプランを誌面に具体化していくことにあった 2). 

花森安治と『暮しの手帖』とのかかわりは,まず雑誌というメディア作りか

『暮しの手帖』がめざしたもの   ��

ら始まったのである.その形式を作り上げていたのは花森安治が戦前からもっていた雑誌作りの

美学であり,雑誌論であった.それが,広告のない雑誌という世界でも稀有な存在を生み出し,さらに独自の誌面構成をもつ雑誌を作り上げることになる.

第 38 号「編集者の手帖」で,花森安治は,広告に頼らず,雑誌の売り上げだけでまかなっていくためには,「それでも私はほしい」と思う中身をもった雑誌をつくらなければならないと書いている 3).

しかし,花森安治の美学は,雑誌作りや,翼賛会での広報活動にのみ展開されていた訳ではなく,日常の道具,身の回りの小さな道具や衣裳にも強い美意識を有していた.花森安治は東京帝国大学文学部美学美術史学科の卒業であるが,その卒業論文は『衣粧の美学的考察』と題するものであった 4).また,『暮しの手帖』の前身である『スタイル・ブック』,『衣裳』では,一貫して服飾研究家,あるいは服飾評論家としてその服飾論を展開している.

創刊期の『暮しの手帖』にも編集者としての花森安治の名前は見出すことはできない.その「あとがき」などには,「服飾の読本」あるいは「続・服飾の読本」などを執筆する服飾研究家「花森安治先生」として紹介されている.日本出版協会編,日本出版事業部刊の『1951 年版(昭和 26 年 3 月現在)出版社・一覧 執筆者附雑誌名称並に発行所総覧』でも,花森安治の肩書きは「衣裳研究」となっており,また三枝佐枝子も,花森安治が自分の数ある肩書のうち,第一にあげたいものは衣裳研究家であると語っていたことを紹介している 5).花森安治の戦後の活動は「衣裳研究」から始まったのであった.

こうした雑誌や衣裳も含めた「もの」の美学―ここでいう「美学」とは,学問として成立している,美的現象一般の本質の解明といった狭義の「美学」ではなく,日常の暮しのありように対する美しさについての感覚,あるいは美意識といった,広い意味での「美学」であるが,その実現こそが『暮しの手帖』の中で花森安治が追求したものであるが,これもまた,花森安治が戦前からもっていた美学であった.

第 100 号 の「 編 集 者 の 手 帖 」 に 花 森 安 治 が 書 い て い る よ う に 6), 

『暮しの手帖』の自律的なジャーナリズム活動を可能にしたのは,『暮しの手

��   出版研究 38  2007

帖』がその誌面に広告を掲載しない,つまり広告料に頼らないで発行されているということにあるが,それは,この美学の追求によってつくりだされ,維持されてきたものなのである.

以下の章においては,まず,花森安治がその雑誌作りの中で追求したことは,雑誌の美学であったことをその編集後記によって明らかにし,その美学が広告のない誌面を作り上げたことを示す.ついで,誌面の内容分析によって花森安治が『暮しの手帖』によって追求したことは<商品>の美学の実現にあり,「商品テスト」とは,そのための企画であったことを明らかにする.その上で,「商品テスト」のための広告料に依存しない雑誌作りを可能にし,またその困難さにもかかわらず維持されていくことになったのは,「商品の美学」の実現にたいする強い意欲にあったことを示す.

なお,ここで分析の対象を 1 世紀 7),つまり創刊号から第 100 号までの100 冊に限定しているのは,一つは,花森安治自身が第 100 号をもって一つの区切りとしていること,また,この第 1 世紀に『暮しの手帖』を特徴づける誌面構成や編集理念,あるいは発行回数などが確立しているためである.第 2 世紀以降の誌面構成や,その構成割合は第 1 世紀と大きく変わることはなかった(表 1).第 1 世紀と第 2 世紀以降の『暮しの手帖』にみられる最も大きな変化は,その判型や紙質の変更という雑誌の形式にあった.

表1 第1世紀と第2世紀第1号および第3世紀第1号の見出しと記事掲載量の比較

見出し 第一世紀 94-98 号(1968 年平均)

第 2 世紀 1 号 第 3 世紀 1 号

暮し   10.20%   17.10%   14.20%人間・世間(2 世紀 23 号から) 項目なし 項目なし   5.30%すまい・工作   6.00%   12.40%   8.40%料理・食べもの   9.90%   11.40%   14.20%服飾   3.80%   3.80%   4.20%商品テスト・買物/買物案内   21.90%   14.30%   15.80%こども   1.30% 項目なし   3.20%健康   4.90%   9.00%   8.40%あれこれ   38.70%   30.50%   24.70%総ページ数 227.2 ページ 214 ページ 194 ページ

『暮しの手帖』がめざしたもの   ��

1. 雑誌作りの美学と広告のない誌面

1. 1 花森安治の雑誌作りの美学媒体としての雑誌へのこだわり,つまり雑誌作りの美学は,花森安治がそ

の編集活動を開始した旧制松江高等学校時代からすでにみられるものであった.それを一言で言えば,その視覚的要素の重視である.『暮しの手帖 保存版 花森安治』に紹介されている旧制松江高校校友会雑誌の「編集後記」によれば,誤字・脱字・乱丁・落丁は言うに及ばず,内容に即したデザインや配色,印刷技法,使用される活字,用紙の質や判型にまでに及ぶものであった 8).

また,雑誌で表現するのは文章と写真だが,写真は文章より大切な時があるというのが花森安治の持論であったとされているが 9),写真という視覚的表現手段への関心も,旧制高校時代からのもので,その「編集後記」に「本號の新しい試みとして,寫眞印畫を募集したが一枚も集らなかつた.(…)誰か松江の印象でもモンタアジュして見せてくれるひとはゐないものか」と書いていることも紹介されている.

一方,校友会雑誌に掲載される原稿については,その編集後記に「だから質については知らぬ」と書き,花森安治は,自らの関心がその体裁についてのみあることを表明している 10).

こうした雑誌の視覚的,触覚的要素へのこだわりは,ただ自己の美的感覚によったというものではなく,雑誌が視覚に訴えかけ,また読むために手で触れるものであるという,そのメディアの特性への着目から生じたものであると考えられる.

同時に,レイアウトの工夫による資材の効率的な利用ということへの目配りもそこには存在している.

先に紹介した校友会雑誌の判型は,ほぼ真四角であるが,そのことについて「編集後記」で花森安治は,次のように説明している.

本號の体裁について―敢えてこの判をえらんだのはあながち僕の衒つた趣味によるものではなくて,一行の字數を減じ,行數を增やして,詩

�0   出版研究 38  2007

の節約を得ると共に,讀みやすさを考へたからである.頁數が增えたのは,このためでは決してない,(…).    

一定の制約の中で,いかに,その特性にもとづいた自らの美学を満足させる雑誌をつくるかということ,これが花森安治にとっての課題であり,また編集者としての自己実現でもあったと考えられる.

こうした雑誌作りの美学は,『暮しの手帖』の誌面づくりにおいて,再び追求されていくことになる.

1. 2 『暮しの手帖』の誌面作りに見る花森安治の美学『暮しの手帖』が目指す雑誌について,そして,それにかける花森安治を

始めとした『暮しの手帖』編集部のスタッフの意気込みについて,花森安治は 1 世紀第 40 号の「編集者の手帖」に,次のように書いている 11).

「暮しの手帖」もそうだが,「雑誌」というときの「雑」というのは,もともと「いろいろのこと」という意味だろうと思う.(…)ところが,この「雑」という言葉は,他の場合では,(…)「粗雑」,「乱雑」という意味で使われ(…)「雑誌」についての考え方を,ゆがめ(…)「雑誌は粗雑なもの」という考え方が世間一般に染みとおっているようである.(…)ぼくたちは,この『暮しの手帖』に全生涯を賭けている.それ

だけに,内容はもちろんのことだが,印刷や製本についても,たとえ世間の考え方はどうであろうと,「粗雑」なものは一冊でも作りたくないと思う.(…)なるたけ「気安く,らくに」読めるものを作りたいというのが,ぼくたちのいつもおもうことである.しかし,それと『粗雑』な,ということは,ハッキリちがうはずである.

それにもかかわらず「じっさいに出来上がったものは,(…)ぼくたち,印刷する人,製本する人みんなをふくめて,まだまだみんなのおもうようなものでは」なく,それどころか,「落丁や乱丁もまれではあるが見つかる事も」あり,「ぼくたちとしても,こんなに苦労して作ったものが,一冊でも

『暮しの手帖』がめざしたもの   ��

二冊でも,そんな形で世の中へ出てゆくのは,身を切られるように口惜しい」ことで,「しかし,もう少し時間をください,きっと,こんなことでご迷惑を,何十万の中のただのひとりにもおかけしないように必ずするつもりです.」と結んでいる.

こうした雑誌作りに対するひたむきな姿勢は,創刊号の「あとがき」にもみることができる.大橋鎮子は「ふりかえってみると,こんなにたのしい思いで本を作ったことはありませんでした.いく晩も,みんなで夜明かしをしましたし,(…)忙しい日が讀きましたけれど一頁ずつ一頁ずつ出來上がってゆく,うれしさに,すこしも,つらいと思ったこともありませんでした」と雑誌作りの喜びを書き記している 12).

第 2 号のあとがきにも,「この号をつくるために幾晩も徹夜にちかい夜が続き」,「これも駄目と,プランを作りかえ,寫眞を撮りなおし,たった一枚の寫眞のために,まるでケンカみたいな議論を,何時間もすることさえ」あったこと,そして「もつといいものを,少しでもいいものをと,しょつちゅう考えて仕事をしていることは,苦しいなあと思います.けれど,それはたのしい苦しみ,ほんとうに愉しい苦しみだとも思つています」と,掲載する写真一枚にもこだわる編集姿勢とそこから得られる喜びが書き記されている.『暮しの手帖』創刊の契機となったのは大橋鎮子の「お金持ちになって,

母親を幸せにしたい」という思いであったが,ここに見られるのは経済性を度外視した,自己実現としての雑誌作りである.

かつては花森安治の美学としてあったものが,『暮しの手帖』創刊期には,すでに暮しの手帖社の前身である衣裳研究所 13)の美学としてそのスタッフに共有されており,花森安治の雑誌論は,衣裳研究所,さらに暮しの手帖社の雑誌論としてその雑誌作りに反映されていくことになる.『暮しの手帖』各号の巻末に掲載されている「編集者の手帖」(但し,26 号

までは「あとがき」)には,こうした様々な資材へのこだわりや,その実現ための具体的な取組みが,折に触れて報告されている.そこからは,雑誌の視覚的な要素の重視は,その誌面のレイアウトや使用する写真へのこだわりだけではなく,かつての校友会雑誌同様,用紙の質や版型,活字などの印刷資材全般におよんでいることがわかる.

��   出版研究 38  2007

花森安治は写真による表現を非常に重視したことは先に紹介したが,『暮しの手帖』においても経営的に困難な状況にあった創刊期から,積極的に写真のページを導入している(図 1).また,当時の婦人雑誌には珍しい B5 判を創刊号から採用しているが,これも誌面の視覚化を意図したものであったと考えられる 14).

印刷用紙についてみれば,30 号から本誌部分が更紙から上質紙に変更されている.これは独自に印刷用紙の開発を製紙工場に依頼したものであること,また 30 号から 35 号まで毎号改良を加え,35 号で一応の完成をみたことが「編集者の手帖」で報告されている.

それでも,まだ満足できない部分があったようで,それ以降もしばしば印刷用紙と使用するインクは変更されている.用紙の改良に着手した第 30 号から第 79 号までは,『暮しの手帖』表紙裏に,種類別に,使用した紙とインクが印刷所とともに掲載されている.

1. 3 雑誌作りの美学と広告のない誌面『暮しの手帖』が創刊号から広告を掲載していなかったのは,広告をとる

人手がなかったことによるが 15),その後も広告のない誌面が維持されていったのは,『暮しの手帖』編集部の自己実現としての雑誌作り,つまり雑誌作りの美学の追求によるものであった.

図 1 創刊期の総ページ数と写真ページ数の推移

『暮しの手帖』がめざしたもの   ��

第 31 号で広告不掲載が「商品テスト」との関係で表明されるまでは,それは誌面の清潔感の維持といった編集技術上の問題から説明されていた.

第 9 号の「あとがき」には,「せめてこのような雑誌一冊,隅から隅まで,活字一本まで,私たちの心ゆくまで作り上げたい」ので「廣告を載せれば,(…)經費のおぎないになることは,いくらこの道に日の淺い私たちでも,もちろん想像のつくことでございます」が,「せめてもの,この清潔な感じを,いつまでも失いたくないと考えているからで,これは,たとえ何百万円の広告費をいただけるとしても,それとひきかえにしたくない,というのが,私たちみんなの必死の気持ちでございます」と書かれている 16).

また,第 18 号の「あとがき」にも,広告をのせてほしいという申し込みもたくさんいただいているが,これも当分お断り申し上げるより仕方がない.わがままで依怙地なようだが,なにとぞお見逃しいただきたいと書いている 17).

どの時期から広告掲載が誌面づくりとの関係で意識されるようになったのかは不明である.しかし,広告もとれない状況から出発せざるをえなかったことが『暮しの手帖』の雑誌としての完成度の高さ,つまり先に花森安治が述べているような雑誌としての完璧さの追求に向かわせた.そして,その過程で花森安治を始めとした『暮しの手帖』の編集者達の中に,広告のない誌面に対する愛着と,広告料に依存しない雑誌作りへの自信が形成され,それが,9 号や 18 号での発言となって表れているのだと見るべきであろう.「商品テスト」のための広告のない誌面は,こうして維持されてきたものであった.

2. 誌面構成の変化からみた第 1 世紀『暮しの手帖』の時期区分とそのテーマ

2. 1 誌面構成の変化からみた『暮しの手帖』の時期区分について『暮しの手帖』は,現在では年 6 回発行されているが,創刊号から第 14 号

までは年 4 回,第 15 号から第 92 号までは年 5 回の発行であったため,第 1世紀は 1948 年 9 月から 1969 年 4 月までの約 20 年間に亘っている.

��   出版研究 38  2007

この 20 年間は,戦後の日本経済が復興から高度成長を遂げるまでの時期にあたり,その過程で耐久消費財の普及など,「暮し」を取り巻く環境も大きな変貌を遂げることになる.『暮しの手帖』の誌面構成にも,それに対応した変化がみとめられる.

その変化から,第 1 世紀『暮しの手帖』の時期区分を行えば,次の 3 つの時期,(1)創刊期(創刊号から 19 号まで),(2)確立期(20 号から 38 号まで),

(3)完成期(39 号から 100 号まで)に分けることができる.発行年でいえば,創刊期は 1948 年から 1952 年まで,確立期は 1953 年か

ら 1956 年まで,完成期は 1957 年から 1969 年までとなる 18).

2. 2 創刊期の誌面構成の特徴1948 年から 1952 年までの創刊期は,戦前・戦中的な誌面構成とテーマに

よりながら,戦後的なテーマや雑誌の方向性についての模索をおこなっていたと考えられる時期である.

創刊期『暮しの手帖』の誌面構成には,読者参加による誌面づくりなど,独自の企画もあるが,全体としては,その内容・形式ともに,花森安治が戦前・戦中期に編集していたとされる生活社刊『婦人の生活』の誌面構成が継承されている 19).『婦人の生活』は衣・住の「暮しの工夫」を中心的なテーマとして,1941

年から 1944 年にかけて発行されたものである 20).創刊期の『暮しの手帖』が主に取り上げたテーマも,衣・住を中心とした「暮しの工夫」であった.

創刊期は,日本経済が復興から自立へと向かう時期にあたり,大橋鎮子の回想によれば,何も無い時代だったので「夢,ただの夢ではなく手の届きそうな夢」を雑誌のテーマとし,本文には「食べるものも無く,着る物もない」中で,著名人たちが実行している暮しの工夫や暮しをめぐる随筆などを,写真,色刷りのページには暮しに夢を持たせる,ちょっとした工夫を掲載していったという 21).

また,図 2 および図 3 は,生活社刊『婦人の生活』第 1 号の目次と本文の一部,図 4 は『暮しの手帖』創刊号の目次,図 5 は『暮しの手帖』第 17 号の本文の一部である.

『暮しの手帖』がめざしたもの   ��

『暮しの手帖』の本文は三段組という相異はあるが,目次のタイトルの配置がページ順であることなど,目次,本文ともそのレイアウトには共通性が認められる.

この時期のもう一つの特徴は,先に述べたように,読者参加による誌面作りであるが,読者からの投稿原稿,あるいは投稿写真の募集の他,その内容や体裁,あるいは価格など,その編集方針にかかわる事項についても,しばしば「あとがき」で読者に意見を求めている.

       

図 2 『婦人の生活第1号』 目次 図 3 同 本文の一部

      

図 4『暮しの手帖』第1号 目次 図 5 同 第 17号 本文の一部

��   出版研究 38  2007

創刊期は,読者との共同作業がもっとも活発に行われた時期であるが,確立期に次第に明確になってくる戦後的なテーマや雑誌の方向性などは,この読者参加による誌面づくりの中で次第に固められていったと考えられる.

2. 3 確立期の誌面構成の特徴1953 年 6 月に発行された第 20 号から始まる確立期は,新しい編集体制,

つまり編集長花森安治の体制が確立され,その誌面構成について試行錯誤を行いながら,戦後的な『暮しの手帖』への変換を図っていった時期であったと考えられる.レイアウトも完成期の『暮しの手帖』に近いものに変わっている.

花森安治は創刊以来の編集長とされているが,編集者の欄にその名前が加えられたのは,この確立期後半の,1955 年 12 月に発行された第 32 号からである.しかし,花森安治は,その直前の第 31 号で「なぜ広告をのせないか」を署名入りで執筆し,この時期最後の号である第 38 号には「雑誌と広告料について」,「広告に依存しない雑誌作り」を『暮しの手帖』の編集理念とすることなどを表明している.こうしたことから,この時期に,次第に編集体制が確立され,その中で現在まで継承されることになる誌面構成や編集理念が確立されていったものと考えられる.

誌面における具体的な変化としては,目次やページレイアウトの他に「工夫」から「商品」へのテーマの変化,具体的には「商品テスト」の登場などがあげられる.

確立期は,日本経済が復興から高度経済成長へと転換する時期にあたる.1953 年は消費水準が戦前水準をはじめて上回り,自動車,時計,電気・ガス器具,冷蔵庫などの高級消費財の輸入や購入が急激に増加しはじめた年であった 22).「工夫」から「商品」へのテーマの変化は,こうした生活の商品化に対応したものであったと考えられる.

2. 4 完成期の誌面構成の特徴現在まで継承されることになる『暮しの手帖』の誌面構成の原型が完成し

たのは,1957 年 5 月に発行された第 39 号においてである.確立期に準備さ

『暮しの手帖』がめざしたもの   ��

れ,第 39 号から始まる完成期の誌面を構成するテーマは,その目次に採用されている見出しによれば,「暮し」・「あれこれ」・「すまい・台所」・「料理・たべもの」・「服飾」・「買い物」・「こども」・「健康」の八項目である.このうち「暮し」および「あれこれ」は教養記事を,それ以外の項目は実用記事を主としている.

教養記事を主とする「暮し」および「あれこれ」を<暮し・あれこれ>としてまとめ,また実用記事を主とする項目のうち「すまい・台所」・「料理・たべもの」・「服飾」に含まれる記事を<衣食住>,「商品」・「買い物」に含まれる記事を<商品>,「こども」および「健康」に含まれる記事を<健康・教育・育児>としてまとめ,その年間平均掲載頁数の割合の変化を調べた結果は(図 6)のとおりである.

実用的な記事分類の中で,その占める割合が最も多いのは<衣食住>という生活技術に関する記事である.完成期の主要なテーマである<商品>に分類される記事の割合は,少ない年では 15%程度,多い年でも 25%程度を占めているに過ぎない.

花森安治は,第 31 号の「編集者の手帖」に「(…)われわれの暮しは,商品に支えられている.その商品が,もつとよくなつてくれることは,われわれの暮しをよくする一つである.そのためには,批評や,もしいいものがあれば紹介することは,こうした「暮し」を主題とする雑誌のどうしてもしな

図 6 項目別年間掲載頁数の割合の変化

��   出版研究 38  2007

ければならない仕事である」と書き,その誌面で「商品」を取り上げることの意義を説いているが,同時に,暮しに必要なものだけをテストの対象として選ぶためには,「商品テスト」を売り物にしない,つまり「商品」にしないことが必要であるとしている 23).「商品」を中心的なテーマとしながらも,商品記事だけの雑誌とはせず,

その誌面に多様性を持たせているのはそのためである 24).もう一つの誌面構成の量的な特徴は,教養記事の占める割合の多さである.

各年の平均掲載割合は 1957 年から 1963 年までは 30%台で推移しているが,1964 年以降はその割合がさらに増加し,1967 年からは誌面の約半分を占めている.

これは『暮しの手帖』が「いつか,あなたの暮し方を変えてしまう」こと,つまり花森安治の表現によれば,「雑誌の形式」による「真生活運動」を目的としているためと考えられる.

花森安治は 1956 年 3 月 11 日号の『週刊朝日』の誌面で,『暮しの手帖』は実用雑誌であるとした上で,実用には二種類あると,次のように語っている.

それは「すぐ今日の役に立つこと(つまり,障子の修繕でいえばきりばり)と,暮し方を変える(障子のはりかえ)の二つ」であり,「ペチカやオンドルの記事を作るのも,今すぐの役にはたたぬが,気温と住宅との関係を知っておくことが大切だと思うからである.そして,いつか,暮し方を変えてゆくようにしてもらいたいと思っている.“きりばり”だけでは進歩はないのである」というものである 25).

この実用観が表明されたのは完成期直前であるが,『暮しの手帖』の表紙裏には創刊以来「この中の,どれか,一つ二つは,すぐ今日あなたの暮しに役立ち,せめて,どれか,もう一つ二つは,すぐには役に立たないように見えても,やがて,こころの底ふかく沈んで,いつか,あなたの暮し方を変えてしまう」雑誌であるという一文が掲載されている.「真

0

生活運動」としての雑誌ということは『暮しの手帖』の創刊時から意図されていたことであったと考えられる.

また,『暮しの手帖』は「婦人家庭雑誌に新しい形式を作り出した」として,

『暮しの手帖』がめざしたもの   ��

第 4 回菊池寛賞(1956 年 3 月)を受賞しているが,今回行った誌面構成の分析の結果からは,その新しさとは,一つはこの「真生活運動」のための二種類の実用記事から構成された誌面構成,もう一つは「暮し」と「商品」との関係を中心的なテーマに据えたことの二点であったと考えることができる.

後者について言えば,それまでの婦人雑誌は主婦役割を中心的なテーマとしており,その重要な役割の一つ「家計管理」のための家計簿は,婦人雑誌の新年号の附録として欠かせないものであった.しかし『暮しの手帖』は,創刊以来,その内容に「家計管理」を含まず,また「家計簿」の附録もない雑誌であった.

3. 第 1 世紀『暮しの手帖』にみる花森安治の「商品」の美学

3. 1 「よい暮し」と「商品」の関係確立期以降すすめられた,この「工夫」から「商品」へという誌面のテー

マの変化は,高度経済成長を背景とした消費革命の到来を視野にいれたものであると考えられるが,それはたんなる商品情報ではなく,花森安治が「真

0

生活運動」26)と表現したように,その独自の美学にもとづいた「暮し」を実現するための「商品」の追求であった.先に見た婦人雑誌としての新しさを構成している二つの要素は,実は表裏一体の関係にあるものなのである.

花森安治にとって「よい暮し」とは,「目立たない,たとえば栓ぬきのような小さい道具にきちんと性能のよいものを持っている」27)ということであり,従って花森安治にとっては,よい「暮し」ためには「商品」の美学の追求が不可欠となるのである.「商品テスト」は,その一つの取組みであった.『暮しの手帖』が「商品」を取り上げる理由は先に見たとおりであるが,

それに続けて「そのためには,世間の常識を破ってでも,ほめるものは名前入りでほめ,よくないことは名前をあげて,よくないといわなければならない」,「そのためには,何百万やるといわれても,よくないというものをいいと言うわけにはゆかないし,一銭ももらわなくても,いいものはいいと言わねばならない」という妥協のない商品追求であり,「これが,この雑誌を作ってゆく気構えの一つである」とも書いている.

�0   出版研究 38  2007

商品テストのために広告に頼らない雑誌作りは,この気構えを貫いていくために必要とされたのである 28).

3. 2 花森安治の「商品」の美学1968 年 6 月発行の第 95 号に掲載された「美しいものを」というエッセイ

の中で,花森安治は「日本人の中で,ぼくは,とりわけ千利休の美学を高く評価している」と千利休の美学を引き合いに出して,自らの美学を説明し,また「必要なものは,美しい」という表現を使用している.こうした表現から,花森安治が「商品」にもとめた美学とは,不要な装飾を排した,合目的的な機能美にあったと推測される.その美学の一端は,先に紹介した『婦人の生活』や『暮しの手帖』の目次や誌面のレイアウトなどにもみることができるものである.

この「商品」の美学は,花森安治が戦前から持っていたもので,「必要なものは,美しい」という表現は,すでに『婦人の生活』第一冊の序でも使われている.

そこでは「必要は真実の美」であると表現されているが,その「あとがき」には,すでに「商品テスト」の萌芽ともいうべき商品観も表明されており,

「使うものが,すきじゃない品物が,作られるということは,世の中のムダで,これまでは製造者の勝手な,お金儲けの創作だったのを,女の側から注文して決定さすべき」ことが読者に呼びかけられている.『婦人の生活』シリーズの中では,それが直接のテーマとしてとりあげら

れることはなかったが,「商品」の美学の実現ということは花森安治が戦前から追及していたテーマであり,それが 1955 年以降の「商品の時代」の復興の中で再び追求されることになったのである.

第 95 号に掲載された「美しいものを」というエッセイの中で,花森安治は,『暮しの手帖』が目指す「ハウスキーピング」,つまり「家事」について,その「美しさ」を見分けられる感覚であり,暮しに必要な機械や道具を見極めることができる感覚,そして,一見,暮しに必要ではないように見えて,実は暮しに欠かせないモノや空間についての感覚を持つことであるとも書いている.これこそが『暮しの手帖』がその誌面で実現しようとした「真生活運

『暮しの手帖』がめざしたもの   ��

動」の目的であったと考えられる.

おわりに ―「商品テスト」と広告のない誌面

『暮しの手帖』が広告のない雑誌として出発したのは,創刊時は広告をとる人手もなかったためであったが,それは「せめてこのような雑誌一冊,隅から隅まで,活字一本まで,私たちの心ゆくまで作り上げたい」という「美しい雑誌づくり」への愛着を生み出すことにもなった.

その愛着は「何百万円の広告費をいただけるとしても,それとひきかえにしたくない」ほどであった.

一方,花森安治の中には戦前からあったものとはいえ,「商品テスト」は確立期において登場した企画で,従って「商品テスト」という企画を可能にしたのは,その愛着により維持されてきた広告のない誌面にあったと考えるべきであろう.

しかし,「商品テスト」は『暮しの手帖』がたまたま広告料に依存しない雑誌であったことから着想された企画ではなく,すでにみたように,「商品」をとりあげることは「暮し」をテーマとする雑誌の役割であるという認識から出発したものであった.それは,「何百万やると言われても,よくないものを,いい,と言うわけにはゆかないし,一銭も,もらわなくても,いいものは,いい,といわねばならない」というもので,そして「これがこの雑誌をつくってゆく気構えの一つである」と,花森安治は同じ 31 号の「編集者の手帖」に書いていた.

この気構えとは,また「何百万円の広告費をいただけるとしても,それとひきかえにしたくない」という雑誌の形式へのこだわりと共通するものである.

つまり『暮しの手帖』における「商品テスト」という内容と,そのために不可欠な「広告のない誌面」という形式の一致は,たんなる偶然の一致ということではなく,形式においても,その内容においても「妥協しない」雑誌作り,つまり一貫した「美学」の追求がそれを可能にし,雑誌の持つ形式は,その内容と不可分のものとなることにより,現在まで維持されることに

��   出版研究 38  2007

もなったのである.歴史的に見れば先行していた雑誌作りの美学は,「商品テスト」の登場に

より,つまり,その形式と内容が不可分のものになった段階で二次的なものとして位置づけられることになる.それは,そのことによって,広告を排除するという編集方針が編集者の自己満足といったものではなく,雑誌にとっての不可欠の要件として,いわば「市民権」を獲得することになったためであると考えられる.

二次的なものとして位置づけられてはいるが,しかし花森安治の雑誌作りの美学は,第一世紀の編集を通して一貫して追求され,また第 100 号の「編集者の手帖」で,次の号である第 2 世紀第 1 号にふれて,「雑誌も大きくし,紙もよくし,印刷もきれいに」,「つまり,もっと<よい雑誌>にしたい」29)

と書いているように,第 2 世紀においても,さらに積極的に追求されていく.雑誌もまた,一つの商品であり,花森安治の雑誌作りの美学とは,『暮し

の手帖』の誌面で追求された商品の美学の一部を構成するものである.それゆえ,自らの雑誌作りにおいても,暮しに必要な美しいものたるべく,その美学が実践されていくことになったのではないだろうか.

 1 ) たとえば,1978 年 1 月 14 日の朝日新聞,毎日新聞,読売新聞,日本経済新聞の各夕刊に掲載された花森安治の追悼記事では,いずれも花森安治の戦後の活動を戦中体験とのかかわりで取り上げている.

 2 ) 池田恵美子『出版女性史―出版ジャーナリズムに生きる女性たち―』世界思想社,2001年,p.101

 3 ) 『暮しの手帖』第 1 世紀 38 号,1957 年 2 月,p.223   4 ) 暮しの手帖社編『暮しの手帖 保存版 花森安治』暮しの手帖社,2004 年,p.54 5 ) 三枝佐枝子「特集 変革の渦中を生き抜く志士十人―花森安治―暮し民主主義の守本

尊」,『中央公論』1973 年 5 月号,p.158 6 ) 花森安治「編集者の手帖」,『暮しの手帖』100 号,1969 年 4 月,p.228 7 ) 『暮しの手帖』は,100 冊を 1 世紀とし,次の号はまた新しい世紀の 1 号とするという

独自の発行形式をとっているが,それは「そのどの号も,いつも新しい風をはらんで,へんぽんとはためくものがなくてはならない」,そのためには,日付や月の数え方に区切りがあるように,雑誌は,100 号が一つの区切りとして,次は再び初心に戻って始めなけれ

『暮しの手帖』がめざしたもの   ��

ばならないと言う花森安治の雑誌論によるものである.つまり 100 冊ごとにリニューアルする,という発想である. このため,創刊号から第 100 号までが第 1 世紀,通算 101 号目は第 2 世紀 1 号,通算201 号目は第 3 世紀 1 号となり,2007 年 8 月に発行された第 4 世紀 29 号は,通算 329 号にあたる.

 8 ) 暮しの手帖社編『暮しの手帖 保存版 花森安治』暮しの手帖社,2004 年,pp.46-49  9 ) 第 2 世紀『暮しの手帖』53 号,1978 年 4 月10 ) 暮しの手帖社編,『暮しの手帖 保存版Ⅲ 花森安治』2004 年,pp.48-4911 ) 花森安治「編集者の手帖」,『暮しの手帖』第 1 世紀 40 号,1957 年 7 月,p. 223 12 ) 大橋鎮子「あとがき」,『暮しの手帖』第 1 世紀 1 号,1948 年 9 月,p.96 13 ) 衣装研究所の設立は 1946 年,暮しの手帖社への社名変更は 1951 年である.14 ) 『主婦の友』が,1956 年 3 月号から判型を B5 判へと切り替えたのは,本格的な雑誌の

グラフィック化のためであった.これを契機に他の婦人雑誌の B5 判化が進行した(主婦の友社編『主婦の友社の六十年』,1976 年,p.52).

15 ) 酒井寛『花森安治の仕事』朝日新聞社,1988 年,p.14516 ) 大橋鎮子「あとがき」,『暮しの手帖』第 1 世紀 9 号,1950 年 10 月,p.144 17 ) 大橋鎮子「あとがき」,『暮しの手帖』第 1 世紀 18 号,1952 年 12 月,p.192 18 ) 号数との対応で言えば,創刊期は 1948 年 9 月から 1953 年 3 月まで,確立期は 1953 年

6 月から 1957 年 2 月まで,完成期は 1957 年 5 月から 1969 年 4 月までとなるが,その発行年月を持って時期区分とすることには積極的な意味はないと考え,その期間に発行された最も多く含まれるような暦年の区切りを時代区分として採用した.

19 ) 執筆者にも共通性がみられ,たとえば,兼常清佐,今和次郎,小堀杏奴,森田たま,中村敏郎,田中千代等が挙げられる.また写真はいずれも松本政利が担当している.

20 ) 『婦人の生活』は,その第一冊の「あとがき」によれば全十冊の刊行が予定されているが,今回の調査で確認できたのは,文献欄に資料としてあげた五冊のみである.

21 ) 池田恵美子『出版女性史―出版ジャーナリズムに生きる女性たち―』世界思想社,2001年,p.101

22 ) 土志田征一編『経済白書で読む戦後日本経済の歩み』有斐閣,2001 年,pp.42-4323 ) 花森安治「商品テスト入門」, 『暮しの手帖』,第 1 世紀第 100 号,1969 年 4 月,p.10724 ) ただし「商品」以外の実用記事でも,衣服は当然のこととして,料理であれば調理器具,

住まいであれば掃除道具,「健康」では医薬品など,それぞれの項目にかかわりのある「商品」が多く取り上げられている.

25 ) 「私たちの雑誌評『暮しの手帖』論」,『週刊朝日』1956 年 3 月 11 日号,pp.9-1026 ) 同上,p.927 ) 『暮しの手帖』第 1 世紀第 90 号,1967 年 7 月,p.134,28 ) 花森安治「編集者の手帖」,『暮しの手帖』第 1 世紀 31 号,1955 年 9 月,p.20729 ) 花森安治「編集者の手帖」,『暮しの手帖』第 1 世紀 100 号,1969 年 4 月,p.229  

��   出版研究 38  2007

主要参考文献

<原資料>今田謹吾編『婦人の生活 第二冊 みだしなみとくほん』生活社,1941 年今田謹吾編『婦人の生活 第一冊』生活社,1941 年今田謹吾編『くらしの工夫』生活社,1942 年今田謹吾編『すまひといふく』生活社,1942 年小山勝太郎編『切(きれ)の工夫』築地書店,1944 年花森安治『STYLE  BOOK 1946 夏』衣裳研究所,1946 年 5 月花森安治『STYLE  BOOK 1946 秋』衣裳研究所,1946 年 9 月花森安治『STYLE  BOOK 眞夏 和服地を使つたデザイン』衣裳研究所,1947 年 6 月花森安治『STYLE  BOOK 1947 冬』衣裳研究所,1947 年(発行月のデータなし)

『美しい暮しの手帖』1 号~ 10 号,衣裳研究所,1948 年 9 月~ 1950 年 12 月『美しい暮しの手帖』11 号~ 21 号,暮しの手帖社,1951 年 2 月~ 1953 年 9 月『暮しの手帖』22 号~ 100 号,暮しの手帖社,1953 年 12 月~ 1969 年 4 月『暮しの手帖』第 2 世紀 1 号~ 100 号,暮しの手帖社,1967 年 7 月~ 1986 年 2 月『暮しの手帖』第 3 世紀 1 号~ 100 号,暮しの手帖社,1986 年 4 月~ 2002 年 10 月<参考資料>

「おめでとう「暮しの手帖」編集部のみなさん」,『週刊朝日』 1956 年 3 月 11 日号,朝日新聞社,1956 年

「特集 花森安治における一銭五厘の精神」,『週刊朝日』 昭和 46 年 11 月 19 日号(vol.76),朝日新聞社,1971 年 11 月

「花森安治逝去追悼記事」読売新聞,毎日新聞,日本経済新聞,朝日新聞,1978 年 1 月 18 日号 「女の男装・男の女装―花森安治の思想と生活」,『サンデー毎日』1954 年 7 月 25 日号,毎日

新聞社,1954 年「総力特集―創刊号は企画の宝庫 1『暮しの手帖』」,『編集会議』2004 年 5 月号,宣伝会議,

2004 年『暮しの手帖保存版 Ⅲ「花森安治」』暮しの手帖社,2004 年<参考文献>池田恵美子編著『出版女性史』世界思想社,2001 年石川弘義『欲望の戦後史』太平出版社,1981 年江上フジ「賢明な消費者を育てる花森安治」,『婦人公論』1965 年 7 月号,中央公論社,1965 年唐澤平吉『花森安治の編集室』晶文社,1997 年小泉和子『洋裁の時代』農文協,2004 年三枝佐枝子「花森安治―暮しの民主主義の守本尊」,『中央公論』1973 年 5 月号,中央公論社,

1973 年酒井寛『花森安治の仕事場』朝日新聞社,1988 年櫻井秀勲『戦後名編集者列伝』編書房,2003 年

『暮しの手帖』がめざしたもの   ��

塩澤実信「塩澤実信の 歴史に残る名編集長 3 花森安治」,『編集会議』2004 年 8 月号,宣伝会議,2004 年

塩澤実信「暮しの手帖社―花森村塾の夢」,『出版社大全』論創社,2003 年塩澤実信『雑誌をつくった編集者たち』広松書店,1982 年塩澤実信『創刊号に賭けた十人の編集者』流動出版,1981 年杉森久英「花森安治の青春と戦争」,『中央公論』1978 年 6 月号,中央公論社,1978 年杉森久英『大政翼賛会前後』文芸春秋社,1988 年津野海太郎「『暮しの手帖』で婦人雑誌を革新した,伝説の名編集者」,寺田博編『時代を創っ

た編集者 101』,新書館,2003 年鶴見俊輔「花森安治氏のこと」朝日新聞 昭和 53 年 1 月 18 日号,朝日新聞社徳川夢声・花森安治(談),徳川夢声対談「問答無用」第百十一回,週刊朝日 昭和 28 年 5 月

10 日号,朝日新聞社,1953 年 5 月難波功士『撃ちてし止まむ』講談社,1998 年社団法人 日本家政学会編『日本人の生活―50 年の軌跡と 21 世紀への展望』建帛社,1998 年花森安治(談)「薄れゆく戦争体験」新潟日報 昭和 43 年 8 月 12 日号,新潟日報社,1968 年 8

月 12 日花森安治「わが思索わが風土」,『朝日新聞 昭和 47 年 6 月 17 日号』朝日新聞社,1973 年花森安治「僕らにとって 8 月 15 日とは何であったか」,『一億人の昭和史』第 4 巻,毎日新聞社,

1975 年花森安治『一銭五厘の旗』暮しの手帖社,1971 年藤原房子「『暮しの手帖』の果たしてきた役割」,『ジュリスト総合特集「消費者問題」』有斐閣,

1979 年堀場清子「女の戦後史 『暮しの手帖』」,『朝日ジャーナル』昭和 58 年 7 月 1 日号(25 巻 28 号)

朝日新聞社,1978 年 1 月(『女たち 創造者たち』,未来社,1986 年に再録)