桜木町意見書~市長への手紙~震災と住民不在の須磨多聞線 007 018...

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1部 目次 1部 たち 訴え 1。 住民活動の記録 ………………………………………………………………………… 8 1章 震当日…………………………………………………… 8 2章 電 気 と水 が 来 ま Lた ガ ス も来 ま した… … … … … … … 12 3章 晴天の きれ き 2次 災害 と しての 街路計画………… 15 4章 私たちの 桜木町 …………………………………………… 19 5章 自分 た ち の力で復旧したいのですが 0… ……………… 0021 6章 須磨 多聞線 神戸市説明会 ……………………………… 24 .7章 連合自治会 白治会連合会 ……………………………… 27 8章 説明会 以降 ………………………………………………… 29 9章 桜木仮設住宅 ……………………………………………… 33 10章 1月 17日以 ……………………………………………… 35 11章 おわ りに …………………………………………………… 37 7

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第 1部目次

第 1部 私たちの訴え

1。 住 民活動の記録 ………………………………………………………………………… 8

第 1章 地 震 当 日…………………………………………………… 8

第 2章 電気と水が来ま Lた ガスも来ました………………… 12

第 3章 晴天のへきれき 2次 災害としての街路計画………… 15

第 4章 私たちの桜木町…………………………………………… 19

第 5章 自分たちの力で復旧 したいのですが0… ……………… 0021

第 6章 須磨 多聞線 神戸市説明会……………………………… 24

第.7章 連合 自治会 白治会連合会……………………………… 27

第 8章 説明会以降………………………………………………… 29

第 9章 桜木仮設住 宅……………………………………………… 33

第 10章 1月 17日 以降……………………………………………… 35

第 11章 おわ りに…………………………………………………… 37

7

r■民活動の記録このたびの震災 F_~″ ιては、今まで、数多 ぐの報道・調査 ο研究がなされてきまι走.

私たちも義験 ιまιた。ここでは、震災 前後の桜木町の自治会を申′ヾ r_―、景々の共言り、

話 ιあい、勉強会などを行い、そこから得た、住民の選いと考えを述べさせていただきま

す。決 ιて属化させてはならない災害錘駿嗜、できるだけ時用を通つて、記述 ιます。

第 1章 地震 当 日

1月 17日 、私たちの町桜木町も壊減に等しい打撃を受けました。

一戸建て住宅の 3分の 2は全壊、残りは半壊、マンションにも相当

の被害の出たところがありました。死者は 6名 以上、けが人も、

ショックで体の不調を訴えられる方も、数多<い ました。

ようやく自力で家の中からはい出して、助けてと叫ぶ声に、夢中

で、倒れた隣家の中から人をさがし助けだす、今、助け出された人

が力を合わせて、次の人の救助に手を貸す、このような光景が、何

時間も続きました。空腹、素手、素足、寝間着姿での頑張りはそう

長くは続きません。双方とも力尽きて、瓦礫 (がれき)に埋まった

人に、手を合わせぎるを得なかったこと、消えていく声が、しばら

<耳から消えないという悲しい経験を味わった人が少なくありませ

ん。

3日 後、20名以上の自衛隊員が完全装備で遺体を掘り出して<れ

ました。それは、あの時、我々にもう少し力があったら、あのよう

な道具が使えたら、と悔いる瞬間でもありました。

桜本町の被災状況。黒は全壊家屋、灰色は半壊または一部損

壊の家屋。詳しくは第 3部 「地震による被害・影響」参照。

8

住民活動の記録

近辺では火事が 1件 も無かったことは幸運でした。ふだん使って

いる生活道路は、倒壊家屋と瓦礫に埋まり、雪国の路のようにV字型にな り、中央部だけが通行できる状態でした。その中をかけずり

まわつて、天理教会に避難住民のお世話をお願いし、快くひきうけ

てくださったあと、付近の行く先を失った人々に、避難場所の案内

を触れ回って知らせ、混乱やパニックを防ぐことができたのは、多

<の善意の人々の落ち着きと、機転のおかげであったと思います.

このような災害は、経験はもちろん、予想もされなかつたせいか、

避難場所も受け入れ態勢も全 <なかったし、知らなかつたのです。

さらに情報が全くなかったことが、被災者の不安といらだちを増幅

しました。桜木町の周辺では、地元の天理教兵神大教会の幸うじて

崩壊を免れた神殿と宿泊施設に約 350名 (6階建ての宿舎は無残に

も 1階が坐屈して傾いていました)、 北須磨小学校に650名、西須

磨小学校にほぼ同数の人が避難 しました。

震災直後の桜本町 1丁 目付近

(1月 18日 )

知人とめぐりあつて、泣きながら肩を抱き合つて喜び、一瞬の経

験を語り合い、共通の友の安否を心配し、命をとりとめたその幸せ

に感謝する。このような光景がいたる所で見られました。

北須磨小学校にも夜が来ました。懐中電灯のうすあかりと、絞っ

たラジオから流れる音以外には、時折ばそぼそと聞こえる話し声し

かしない空虚の夜がやってきました。大勢の人が周囲にいるのに、

そこにあるのは静かなざわめきだけでした。寝る時間になつて、は

じめて、空腹と、まとうべき夜具のないことに気がつき、自分たち

のおかれた境遇のみじめさを感 じた人も多かったのです。

余震のたびにあがる恐怖の声、毛布 1枚 にくるまつて身を寄せ

あって冷たいコンクリー トの床の上で明かす夜は、心細いものでし

た。暦の上でも、小寒から大寒に移りつつある 1年で最も暮い時■

です.恐らく、神戸市民の経験した、史上最も寒い長い 1日だった

でしょう.

束の空を焦がしていた長田付近の火事も、午後10時に風向きが変

わったためか、やっとおさまったように見えて、ほっとしました 我

が身の心配で、とても地震のうえに焼け出された、より気の毒な人

たちの身の上には、全<と いってよいほど思いが及ばなかったこと

は、恥ずかしいことでした。

夜 11時 ごろ、2人に 1個あての冷たいおにぎりの差し入れがあり

ました。12時 ごろ、軽 トラックに牛乳パックが積み込まれて到着し

ました.救援物資かと思つた人々は、先を争って並びました。代金

を請求され、現金の手持ちがなく空しく列を去る人、赤子のために

なんとしてでもと譲ってもらう人、譲る人.このように追い詰めら

れた状況でも、比較的秩序が保たれていたことは、素晴しいことと

思います。

ラジオでは刻々と状況を伝えていました。20時間以上もたつのに

東京の情報の乏しさ、社撰 (ずさん)さ 、安易さ、他人事の気軽さ、

そのようないらだちを感じながら聞いていました。行方不明200人以上と伝えられたのは 17日 深夜から18日 にかけてでした。NHKの大学教授の対談で、これほどの被害がでたのは、老朽家屋が多かっ

たせいだと結論づけていました。正確な情報が全くといってよいほ

どなかった時点で、過去の経験からの先入観に支配された判断の誤

りが多いと思いました。同じことがその後の地震研究にも当てはま

るのではないでしょうか。功を急ぐの余り、自分の予断に適合する

現象だけを収集し、発表する人が多いと思いました。

私たちはこうした報道を聞きながら、災害がそんなに小さいわけ

がない、またこの地震がもう2時間遅かったら、火事も多かつただ

ろうし、通勤の途中でこの中の何割かが死んでいただろうと、眠れ

震災直後の須磨寺商店街 (1月 18日 )

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近<の通称「霊泉」には延々長蛇の列ができ、5、 6時間をかけて 1

日分に満たない水を確保したものです.10分 も歩けば北須磨小学校

には水道が出てますよと教えても、無気力にうなずく姿があるだけ

でした。

辛うじてつぶれずに残った家のトイレを借りるにも、あとを流す

水が必要でした。水持参です.こんな時にも、お年寄りに協力する

人たちの善意は気持ちの和むものでした。

第 2章 電気 と水が来ま した ガス も来ま した

1月 下旬に電気が復旧してからは、一部の井戸が使えるようになつ

て、水汲みの列も段々短 <な りました。

水道が使えるようになつたのは 1月 下旬から2月 上旬です.

電気が来れば漏電の注意、水が出れば漏水の点検を、手分けしてや

りました。漏水箇所は地図に記入し水道工事の人に修理を依頼 しま

したが、「個人の家まではやらない」と断られました。

瓦礫 (がれき)を取り除かなければ修理できない筒所も多 <、 貴

重な水が、無人の瓦礫の中から多量に漏れているのを見過ごすのは、

水の有り難さを思い知らされた私たちにはつらいことでした。これ

も 2か月たつて、解消されてほつとしました。

ガスの復旧は 4月 中旬以降になりました。

電気が来てから、避難所の住民の数が急速に減りました。傾いた

家に戻つた人が多かつたからです.電灯がともり、掃除機が使える

ようになりました。避難所の中では安眠も休息もとれないこと、盗

難の心配、散乱した家具の片付け、掃除、修理、当面自分でやらな

ければならない仕事がたくさんありました.避難者が減ってからも、

天理教会による炊き出し (震災直後 )

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もありませんでした。自力で立ち直れということだつたのでしょう.

なんとか他の地区で余つたものでも送ってもらえないかと、東灘の

知人に連絡 し、毎日1便、救援物資の定期輸送便が確保できたのは、

1か月後でした.そのために暖かい努力をして下さつた人々に、こ

こであらためて感謝致します。

この時も自治体は何もしてくれませんでした。というより、この

西須磨地区の状況をつかんでいなかつたとしか思えません。自治体 0

神戸市に対する不平、不満が不信感に変わっていくのに、そうたい

した時間はかかりませんでした.

傾きながらも残った家の屋根にかぶせるプルーシー トの料金が

3枚 20数万円、4枚 30万円以上という相場ができたのはこの時で

す.シー トを手に入れる方法も知らない住民の中には、焼けずに

残った家具を雨から守るため、苦しい中、無理をしても頼まざるを

得なかつた人もいました。

震災後、元気な人は一生懸命体を動かしました。瓦礫 (がれき)

の始末、家の修理、家財の掘り起こし、避難先の掃除などです。瓦

礫の始末といっても、我々にできることは、道路わきに積み上げる

ことだけです.早 く取りに来てくれないか、心待ちにしていました。

頼みの自衛隊は、遺体の掘り出しが終わると、何時の間にやら引き

上げていました.その後は、大手の業者が瓦礫撤去の契約をいち早

く終え、作業が始まりました。この時も、地図上に優先順位を示し、

自治会の役員が 1人 1人を尋ねて、撤去の了解を取 りました。瓦礫

とはいえ、所有権は個人にありますから.

自衛隊にやってもらえばただなのに、まだまだ仕事が残っている

のに、この地域だけなぜ、という声が聞こえました。引き上げた自

衛隊仮宿舎 (離宮公園駐車場)はただちに撤去されました。あのま

ま、仮設住宅に転換できれば、すぐ100所帯ぐらい入れるのに、あ

のお風呂だけでも残しておいてほしかったなあ、という人もいまし

た。自衛隊の仮宿舎は、避難所になつている北須磨小学校と道路 1

本隔てた、離宮公園の駐車場にありました。窓から見えるところだ

けに、その思いは切実でした.

風呂にも困りました。水が出て、電気がきても、ガスが出ないた

め、ガスが出ても風呂場が壊れたため、風呂がたてられません。近

所の旅館で 1人 500円で営業を開始しました。伝え聞いた人々であ

ふれかえる繁盛ぶりでした.大きな負担にはなりましたが、「生き

返った」という感想と感謝が聞かれました。

これより前、震災による被害証明 (全壊・半壊・一部壊の認定書)

が発行されたり、被災者に対する医療費免除の証明書が発行された

り、義援金 (全壊で金 10万 円の支給証)が出されたりしました。す

べて区役所で処理されました。交通機関のない中、区役所に通うの

に苦労した老人がたくさんいました。長い行列ができ、せっかく自

分の番が来たと思ったら、並ぶ列が違っていたり、印鑑や保険証や

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時期、あえて、神戸市がこの挙に出た理由が分かりません。多くの

不満が聞かれました

ほかにやるべきことがたくさんあるのに、なぜ今。混乱に乗じて

としか思えません。

2月 28日 、神戸市の縦覧会に行き、係員の説明を聞きましたが、

なぜこの時期に一挙に工事が認可されなければならないのかなどの

質問には、一切ノーコメントでした。とくに、住民に何 1つ説明の

ないまま、いきなりの発表とは。説明会、公聴会を開くこともなく、

まさに横暴としかいえないという人もいました。

縦覧に訪れた人々の大部分は、区画整理 0都市再開発事業の実態、

意味が全く分かつていなかつたようです。並んで順番を待ちながら、

前の人の質問とその返事に真剣に耳を傾けている姿がE口象的でした。

おそらく、減歩 (げんぶ)・ 仮換地・換地・清算などという言葉は、

はじめて耳にしたのではないでしようか。はじめて耳にする言葉の

意味が正確に分かるはずもありません。

縦覧会には、たくさんの職員がいました。これらの職員の何人か

でも、私たちの町に来て、実情を知ってくれたらよいのに、と一瞬

思いました.

決定は 3月 末、市議会が開かれ、承認されてから、市長の決済が

ある、と聞きました。日頭でしたので、文書で確認すべきであつた

と悔やまれます。月末に審議されるのであれば、それまでに意見書

を提出すれば間に合うと思い、早急に手続きをとろうとあわてて帰

りました。

3月 4日 、自治会の集会を開き、話し合つた結果、意見書を提出

することに決定。5日 、草案を地元に残った住民、避難所の人を含

んだ全員に配布.承認後、自治会長、副会長連名捺印の上、3月 10

日、神戸市長宛てに『須磨多聞線に関する意見書』として提出しま

した。

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損壊 して傾いた天理教宿舎

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前の区画整理事業は、「インナーシティ (※ )化した西須磨地区の

再開発」が謳 (う た)い文旬でした。私たちはこの地区をインナー

シティだとは思いません.む しろ神戸市が計画的にこの地区に金を

かけてこなかった結果です。意図的置き去りではありませんか。

(※)インナーシティ……大都市の中で開発から取り残された蓑週地域

のこと。7977年のイギリス政府の「インナーシティ政策Jか

らこの言葉が多く黛われるようになった.神戸市復興計画で

は以螂けの申心部胡 辺孵 部に狭まれた市街地におい■

人口・企業の流失に伴ラ経済・社rA.土地春■m上の問題が集

積し、活力の蓑週・低下している地功 と説明されている。

神戸市所有の、面積もかなり大きい土地が、桜木町の中央部にあ

ります.現在、桜木仮設住宅の建っている土地です.その当時は遊

休地であった所を、一時的にでも公園として開放して欲 しいとの願

いも無視され続けてきました。片方では、公園が少ないから、区画

整理をして、住民の土地を無料で供出する減歩で、道路と一緒に公

園も作 り、近代的な都市づくりをしましょう一―というわけです.

今回の須磨多聞線のほか、中央幹線、千森線、山麓線、月見山線、

その他この狭い地域に 7本もの道路建設を含んだ再開発を、区画整

理事業で一気に進めようとして、地元の猛反発をうけ、うまくいか

なかったので、今度は、地元には金をかけないで済む街路事業のみ

を、このように抜き打ち的に、どさ<さ に紛れて、認可をしたと受

け止めています。

細街路の中には障害物でふさがれたものも

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