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ペットの特権 ―― アン・ブロンテの動物たち 川崎明子 ヒースクリフ「こいつはペットとして飼ってるわけじゃないから」『嵐が丘』第1章 1 ブロンテ姉妹と動物 ブロンテ姉妹(Charlotte Brontë, 86-855; Emily Brontë, 88-848; Anne Brontë, 820-849)が生きた 9 世紀前半のイングランドの人々にとって、動物はどこにでもい る身近な存在だった。 移動には広く馬が使われ、男性なら直接その背に乗ることもあ ったし、乗馬をしない女性も馬車には乗った。少し郊外に出れば、羊や牛といった家畜 もよく目にし、自宅の庭には鳥、リス、ウサギ、キツネなどが訪れただろう。家の中に はペットがいることも多かった。 ブロンテ姉妹にとっても、動物はとても身近だった。田舎の小さな村である故郷ハワ ースには家畜がたくさんいたし、牧師館の一歩外には、野生の小動物や鳥がいた。そし てブロンテ家はペットもたくさん飼っていた。犬は常にいたようで、名前が知られてい るものだけでも、フロッシー、ジンジャー、グラスパー、キーパーがいた。最後のキー パーは、村の犬と喧嘩をした際エミリーが果敢に止めに入ったことや、エミリーの葬儀 に付き添ったことで有名だ。鳥には、レインボー、ダイアモンド、スノウフレイク、デ ィック、ジャスパーの他に、エミリーが荒野を散歩中に傷ついているのを発見し、手当 てをして飼い馴らした鷹のネロがいた。 2 またエミリーは、ヴィクトリアとアデレイド と名づけた 2羽のガチョウを、ピート貯蔵室でこっそり飼っていたこともある。猫には、 タイガーやリトルトムがいた。 姉妹が動物に興味を持っていたことは、ペットの犬、 猫、鳥の他に、牛、馬、リスの絵を描いたことからも分かる。このようにブロンテ姉妹 は、動物が身近な空間に生きたのみならず、積極的に動物を好みペットとしてかわいが った。死を目前にしたアンがスカーバラを訪れた際、ロバの御者の少年に対し、ロバに 優しく接するよう諭した話も残っている。 4 本論文は日本ブロンテ協会 2008 年大会のシンポジウム「アン・ブロンテ ―― 2世紀の視点から」において 発表した「調教する女たち ―― アン・ブロンテの小説における動物」に大幅に加筆したものである。 Ritvo, 5. 2 ネロ(Nero)は長らくヒーロー(Hero)とされてきたが、これはエミリーの日記を転写する際に誤ったもの である。Alexander and Sellers, 84-85. 現在のブロンテ牧師館のツアーガイドは、周辺にいる猫は姉妹が飼っていた猫の末裔であると説明するとい う。Morse and Danahay, 26. 4 Gaskell, 08.

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ペットの特権――アン・ブロンテの動物たち

川崎明子

ヒースクリフ「こいつはペットとして飼ってるわけじゃないから」『嵐が丘』第1章

1 ブロンテ姉妹と動物

 ブロンテ姉妹(Charlotte Brontë, �8�6-�855; Emily Brontë, �8�8-�848; Anne Brontë, �820-�849)が生きた�9世紀前半のイングランドの人々にとって、動物はどこにでもいる身近な存在だった。� 移動には広く馬が使われ、男性なら直接その背に乗ることもあったし、乗馬をしない女性も馬車には乗った。少し郊外に出れば、羊や牛といった家畜もよく目にし、自宅の庭には鳥、リス、ウサギ、キツネなどが訪れただろう。家の中にはペットがいることも多かった。 ブロンテ姉妹にとっても、動物はとても身近だった。田舎の小さな村である故郷ハワースには家畜がたくさんいたし、牧師館の一歩外には、野生の小動物や鳥がいた。そしてブロンテ家はペットもたくさん飼っていた。犬は常にいたようで、名前が知られているものだけでも、フロッシー、ジンジャー、グラスパー、キーパーがいた。最後のキーパーは、村の犬と喧嘩をした際エミリーが果敢に止めに入ったことや、エミリーの葬儀に付き添ったことで有名だ。鳥には、レインボー、ダイアモンド、スノウフレイク、ディック、ジャスパーの他に、エミリーが荒野を散歩中に傷ついているのを発見し、手当てをして飼い馴らした鷹のネロがいた。2 またエミリーは、ヴィクトリアとアデレイドと名づけた 2 羽のガチョウを、ピート貯蔵室でこっそり飼っていたこともある。猫には、タイガーやリトルトムがいた。� 姉妹が動物に興味を持っていたことは、ペットの犬、猫、鳥の他に、牛、馬、リスの絵を描いたことからも分かる。このようにブロンテ姉妹は、動物が身近な空間に生きたのみならず、積極的に動物を好みペットとしてかわいがった。死を目前にしたアンがスカーバラを訪れた際、ロバの御者の少年に対し、ロバに優しく接するよう諭した話も残っている。4

本論文は日本ブロンテ協会 2008 年大会のシンポジウム「アン・ブロンテ ―― 2�世紀の視点から」において発表した「調教する女たち ―― アン・ブロンテの小説における動物」に大幅に加筆したものである。

� Ritvo, 5.2 ネロ(Nero)は長らくヒーロー(Hero)とされてきたが、これはエミリーの日記を転写する際に誤ったもの

である。Alexander and Sellers, �84-85.� 現在のブロンテ牧師館のツアーガイドは、周辺にいる猫は姉妹が飼っていた猫の末裔であると説明するとい

う。Morse and Danahay, 26.4 Gaskell, �08.

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 ブロンテ姉妹は、生身の動物だけでなく、本の中の動物にも親しんでいた。あまり発展することはなかったとはいえ、姉妹はイソップ物語の登場人物の名前を借用し、�827年に ‘Our Fellow’s Play’ を書いている。5 またトマス ・ ビュイック(Thomas Bewick, �75�-�828)の動物の木版画の挿絵本は、ヴィクトリア朝に入っても大変人気があり、人々の動物好きに貢献したと言われるが、6 ブロンテもその大勢の人々の仲間だった。『ジェイン・エア』(Jane Eyre, �847)の冒頭では、ジェインが窓辺に隠れて彼のHistory of British Birds (�797, �804)を読んでいる。ビュイックの挿絵と文から芸術的インスピレーションを受けるジェインの姿は、作者であるシャーロットのかつての姿でもあっただろう。シャーロット、ブランウェル、エミリーは、ビュイックの鳥の木版画の模写もした。7 このように本の中の動物も、ブロンテ姉妹の想像力の発展に貢献した。 実際に生きた動物を愛で、本でも動物に馴染んでいたとなると、ブロンテ姉妹の小説に動物が登場したり、登場人物が動物に喩えられるのも自然の成り行きだった。アンの小説については後で詳述するので、シャーロットとエミリーの小説に出てくる動物を見てみると、生きた動物の中で最もよく登場するのは犬で、次に馬が続く。『教授』(The Professor , �857)では、狂犬病の犬に噛まれたマスチフ犬ヨークが射殺される。『シャーリー』(Shirley, �849)の主人公の一人でエミリーがモデルとなったシャーリーは、キーパーと同じマスチフ犬とブルドッグの混血の Tartar を従えており、ある時狂犬病の疑いのある Phoebe に噛まれる。『ジェイン・エア』では、ロチェスターの Pilot が、ジェインと主人の出会いにおいて主人より先に駆けてきて、その後も館での二人の会話に付き添い、物語の最後でもファーンディーンを訪れたジェインにいちはやく駆け寄る。

『嵐が丘』(Wuthering Heights , �847)の嵐が丘屋敷には犬や猫が何匹もおり、ロックウッドは犬に襲われそうになる。キャサリンとヒースクリフは、エドガーとイザベラが子犬を取り合う様子を覗き見し、キャサリンがブルドッグの Skulker に噛まれる。 馬と言えば、ジェイン・エアが住む場所を移る際はいつも馬車を使うし、ヒースクリフも外では大抵馬に乗っている。キャサリン・リントンはポニーの Minny に乗って嵐が丘に行く。ジェインは落馬したロチェスターを助けようとするが、興奮した馬に近づけない。ロチェスターは捻挫ですんだが、『ヴィレット』(Villette , �85�)のミス・マーチモントは、若い頃婚約者を落馬で失った。 アンの登場人物と同様に、シャーロットとエミリーの登場人物も動物に喩えられる。反抗するジェインは「狂った猫(mad cat)」、「悪い動物(bad animal)」と罵られ、バーサは人に噛みつき四つん這いで吠える。このバーサのパロディともいえる、『ヴィレット』でルーシーが世話をするクレティン病のマリー・ブロックは、「飼い馴らされて

5 これは数ヵ月後に ‘Islanders’ となった。Alexander, 40-4�.6 Ritvo, 6-�0.7 Alexander and Sellars, �68-69, �0�-4, �70-72, �84-85.

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いない動物(tameless animal)」と表現される。ジェインはファーンディーンで、髪はワシの羽、爪は鳥のかぎづめのようになってしまったロチェスターを、「再び人間にする(rehumanize)」べく世話を焼く。ロチェスター以上に動物的で、ブロンテ姉妹の小説に限らず、�9世紀中期のイギリス小説で最大の動物的人物が、ヒースクリフだ。子供の頃は子馬のたてがみのような髪をし、紳士になって帰ってきてからもオオカミのように残酷で、キャサリンが死んだ時は頭を木の幹に打ちつけて血を流し、獣のような雄叫びをあげる。 このようにブロンテ姉妹にとって動物は、実生活で身近であり、芸術的想像において重要であり、創作においても字義的・比喩的に使われた。アンの創った動物たちを論じる前に、�9世紀前半のイギリスにおける動物観を概観し、アンの小説が全面的にそれを共有していることを確認しよう。

2 19世紀前半のイギリスにおける動物観

 動物に対する感性は、�6世紀から�8世紀後半にかけて推移した。近代初頭には、神学者も哲学者も人間中心主義的見解をとっていた。世界は人間のために作られており、動植物は人間の欲求に服従すべきもの、つまり人間が狩りをしたり食べるなどして、好きに利用して当然のものと考えられていたのである。8 �800年まで、人間の活動目標は、自然界における人間の優越性の確立だった。9

 その後博物学の興隆により、この人間中心主義的見解が崩れてくる。この脱人間中心主義には、天文学における天動説の否定、顕微鏡によるバクテリアの発見、地質学における化石の発見とそれに続く地球の年齢の想定等が影響している。人間主義への懐疑や抗議が増大すると、動物に対する人間の行動も新しくならざるをえない。こうして人間にとって動物は、最初は単なる獣だったのが仲間の獣となり、さらに同類、友と昇格し、果ては兄弟となった。�0 新しく誕生したこの感性において、動物への思いやりは人格の反映と考えられ、動物を大切にする意識が高まる。�� �8 世紀末には、当時流行のセンチメンタリズムとも連動して、ペットへの愛着が一般化し始める。�2

 �8 世紀において、動物愛護を重点的に扱った唯一の書物は児童書だった。児童書は娯楽と教育を目的とするのが常で、動物を優しく扱うことを説いた。というのも、動物への思いやりは人間に自然に備わっているわけではなく、躾るべきものと考えられてい

8 Thomas, Chapter �.9 Thomas, 242-4�.�0 Thomas, �65-72.�� Thomas, �75.�2 Ritvo, Chapter 2.

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たからである。特に男の子に対して動物への思いやりを養うことが必要だった。動物への思いやりが重視されたのは、それが人間への思いやりと同一視されたせいだ。�� 動物への思いやりはまた、自制心も養うと考えられた。教訓を伝えることが目的と謳うアンの小説は、この伝統に連なっている。『アグネス・グレイ』(Agnes Grey, �847)と『ワイルドフェル・ホールの住人』(The Tenant of Wildfell Hall, �848)のいずれにおいても、動物への態度は人間への態度と類するという考えが展開され、動物への思いやりが欠ける男性登場人物は自制心にも欠ける者として扱われている。 �9世紀になると、動物愛護の意識が初めて社会全体で高まる。まず �822 年にリチャード・マーティン(Richard Martin, �754-�8�4)が出した、家畜に対する残酷で不適切な扱いを防止するための法案が可決される。二年後の �824 年には、彼が中心となって動物愛護協会(Society for the Prevention of Cruelty to Animals: 略称 SPCA)が設立される。協会は順調に会員を増やし、�8�5 年には当時皇女だったヴィクトリア女王もパトロンとなった。動物愛護協会は数多くの訴訟を起こし、その訴追報告には馬やロバに関するものも多い。そしてその中には、海辺のリゾート地で有料で乗って楽しむロバに対する、御者や客からの虐待の例が多数ある。�4 報告では、虐待者の獣のような外見と、虐待された動物の無垢な外見とが対比された。�5 動物虐待をめぐる議論は、動物に苦痛を与えることの是非にとどまらず、イングランド社会全体の道徳構造そのものをめぐる議論の場になった。�6 スカーバラで御者の少年にロバに優しくするよう説いたアンの感受性は、当時のイギリスにおけるこの感受性と直結している。アグネス・グレイは人間の道徳について考える際に動物虐待を持ち出すし、アンの小説では動物を傷つける者の外見が「獣」と形容される。 Turner によると、この動物への思いやりを促した要因として、痛みへの恐怖と、他者の痛みに対する同情と、動物にも痛みを感じる感覚があるという認識の三つがあった。�7 ヴィクトリア朝に入ると、人々はこれまでになく痛みに対して大きな恐怖と嫌悪を抱くようになる。産業革命以前、神がより大きな権威を持っていた頃は、人間は無力な存在であり、痛みに対してもある程度諦めの気持ちを抱くことができた。それが技術が発達して人間がコントロールできる範囲が広がると、痛みも自分たちでコントロールしたいと思うようになる。�9世紀に麻酔を使用しての外科手術が急増したのも、この願いと無関係ではない。この時代に自分の痛みに対する恐怖と嫌悪だけでなく他者の痛みに対する同情までもが増したのは、工業化と都市化によって人々の間のコミュニケ

�� Ritvo, ��0-�5.�4 Ritvo, ��9.�5 Ritvo, �4�.�6 Ritvo, �26-�0.�7 Turner, Chapter 5.

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ーションがより頻繁かつ多様になり、村の共同体や血縁による結束が弱まる中、同情が人々を繋ぐものとして重要になってきたためと思われる。これらと並行して、科学が人間は動物と生物学上関係があること、よって人間に感覚があるように動物にも感覚があることを明らかにしていく。これら痛み一般への恐怖と他者の痛みへの同情と動物も痛みを感じるという認識が結び合い、人は動物が痛みを感じることに同情するようになった。こうして動物愛護者たちは、シェルターに収容された健康な迷子の動物たちを、寒さや空腹で苦しめるよりはましであるとして、毎年何千単位で殺すことになった。また動物の痛みに対する同情は、�9世紀後半からのフランシス・パワー・コッブ(Frances Power Cobbe, �822-�904)などによる激しい動物実験反対運動へと発展していく。 アンの小説における動物の中でも中心的となるのがペットだ。イギリスのペット熱は�9世紀半ばには確立されており、�859 年には初の公開ドッグショーが、�87� 年にはキャットショーが開催された。�8 ジャーナリストで『パンチ』(Punch)の創刊者の一人であるヘンリー・メイヒュー(Henry Mayhew, �8�2-87)がロンドンの労働者を取材した報告を読むと、当時誘拐されたり迷子になった犬を探す商売まであった。�9 またペットの死後、お墓を建てて葬儀を行う人も出た。20 ペットに関しては、女性と子供が大人の男性に劣らず積極的だった。メイヒューの報告する犬の捜索の依頼人や動物販売の客にも、女性と子供が多い。社会的に役に立たなくてもよいとされた中流以上の「女子供」が、自分たちと同様に実際的には役に立たないペットや動物に熱を上げるという図式は、アンの小説にも繰り返し登場するものである。またコッブの活動からも分かるように、他の社会領域に比べると、動物愛護においては女性はそれほど周辺的ではなかった。2�

 ここで重要なのは、ペットとペットでない動物の間に、ペットの実際の生態はともかく、人間の側が区別をしたがったことだ。動物への「思いやり」を持つ人々にとっても、動物が牙を剥き獲物を傷つけるイメージは、やはり恐怖と嫌悪の対象だった。しかし人々は、餌をもらえるために狩りをしなくてすむ、つまり残忍な野性を発揮する必要のないペットを飼うことで、動物一般の獰猛さに対する恐怖と嫌悪を解消することができた。例えば犬の場合、ペットにすることによって犬が生肉を好きなことを忘れ、もっぱらその忠実で愛情深い面を称えることができたのである。そしてさらにそうすることによって、動物と連続しているという自分たち人類が持つ野蛮に対する恐怖も、ある程度克服できたのだった。22 アンの小説にも動物への思いやりが見られるが、それは主に、人

�8 Ritvo, Chapter 2.�9 Mayhew, vol. 2, 48-52.20 Morse and Danahay, 2�.2� Turner, 76.22 Turner, 76-77.

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間の願望が投影され、人間にとって都合良く安全な動物となったペットに対してである。 このように、アン・ブロンテの小説は、イギリスで動物への同情がこれまでになく高まった時代に書かれ、当時の動物をめぐる感性と風潮を大いに反映している。しかしフィクションという想像と創造の場においては、作家の個性と同時代のディスコースが様々な化学反応を起こすものである。アンが創った動物たちは、実際どのように生きているのだろう。

3 アンが創った動物たち

『アグネス・グレイ』

家ではペット、外では家畜 『アグネス・グレイ』には、犬、猫、鳥、馬など本物の動物がたくさん登場する上に、人間の登場人物のほとんどが動物に喩えられる。主役のアグネスは、ペットと家畜の両方に喩えられている。まず小説冒頭で、家族の中で最年少の�8歳のアグネスは「お子さま(the child)」かつ「一家のペット(the pet of the family)」と表現される。2� アグネスが「子供」と「ペット」の両方に形容されることは、偶然ではない。近代に入って愛情で結ばれた家族というものが形成されると、子供は「小さな大人」から、かわいがる対象、つまりペット的存在に変容した。24 �9世紀になると、子供はしばしば親が教育に金をかける高級ペットのような存在になった。25 文学においては、�8世紀後半から初めて子供が重要なテーマとして扱われるようになってくる。26 �8�0 年代から50年代にかけては、ロマン派的な無垢な子供が苦労する話がよく出版された。27 このように、親が子供をペット扱いするようになった時期と、文学において子供がテーマとなる時期は、ペットが興隆した時期と一致しているのである。一家の子供兼ペットである主人公の苦労を追い、ペットが重要な役割を果たす『アグネス・グレイ』は、この三要素を融合した物語なのだ。 一家のペットはしかし、一歩家を出ると搾取される家畜となる。父の投資の失敗で一家が経済危機に陥ったため、アグネスは住み込み家庭教師として働くが、その様子は安い維持費で最大限に働かされる家畜のようだ。28 最初の職場であるブルームフィール

2� 原文の “child” は斜体で強調されている。Agnes Grey, 2.24 Macfarlane, 56.25 北本�20。26 Coveney, 29.27 �8世紀末から�9世紀にかけての文学における子供のイメージについては、Coveney と、松村の第�0章江河

を参照。28 酷使される使用人と家畜の連想は当時存在した。Turner, 54.

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ド家では、どうやら昨日の残りものらしい固くて切れないビーフステーキと冷えたジャガイモ、つまり edible だが eatable ではない餌のような食事を出される。そして勉強を教える他に、6 歳足らずのメアリ・アンの部屋に寝かされ、身体を洗ったり服を着せたり衣類を繕ったりすることまでやらされる。子供たちにあちこち引きずり回されるアグネスは、家畜の中でも特に、小型で安上がりのポニーのようだ。29 グレイ家が泣く泣く手放したポニーは、アグネスの将来を暗示していたのかもしれない。グレイ家では半ばペットのような存在になっていたポニーは、ひとたび売られて市場に出ると、労働を提供する単なる商品となったのだった。�0 家庭教師の悲惨な労働条件は、当時経済的に困窮した中流以上の教育ある女性が体面を汚さずに就けるほぼ唯一の職業が家庭教師だったこと、その家庭教師の市場が�9世紀中期には完全な買い手市場だったことによる。

人間以下の人間たち アグネス以外の人物が動物に喩えられる場合、大抵その人は「人間以下」で「未発達」だ。ブルームフィールド家のトム、メアリー・アン、ファニー、ハリエットの 7 歳から2 歳足らずまでの四人の子供たちは、「トラの仔の一団のように(like a set of tiger’s cubs)」手に負えず、「未調教の野生の子馬(wild unbroken colt)」以下の従順さしか持ち合わせず、ファニーなどは「去勢されていない雄牛のように吠える(bellowing like a bull)」。アグネスは人間的なやり方で教育を続ければ生徒たちも「もっと人間らしくなる(become more humanized)」と信じ、子守のベティは我慢が限界に達し、鞭打ちや平手打ちなど動物に対するような扱いに出る。まもなくアグネスは子供たちに向上が見られないという理由で、ベティは子供たちに暴力をふるったという理由で解雇される。ブルームフィールド家の子供たちは、人間扱いしても動物扱いしても調教不可能だったというわけだ。 二つ目の家庭教師先であるマリ家のロザリー、マチルダ、ジョン、チャールズは、既に�6歳から�0歳と年長であるためか、それほど「野蛮」ではないが、アグネスと比べると全般的には動物的だ。例えば、アグネスはすぐに風邪をひくが、子供たちは外で勉強するのが大好きであるし、お行儀の悪いジョンは「若い熊(young bear)」、お転婆なマチルダは「動物としてはまあ良かった(As an animal, Matilda was all right)」と表現される。 アグネスは日頃「人間嫌い(misanthropy)」を感じているが、これは人間らしい人間を嫌うものではなく、人間以下の人間に対する嫌悪に他ならない。アグネスは「どんなに文明化された人間も、何年も手に負えない未開人たちの間にいたら、自分も野蛮人

29 Berg, �80.�0 Gardner in Nash and Suess, 46.

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になり、その知性も堕落してしまうだろう」と考える。裏を返すと、アグネスが求めているのは、人間にまで発達した文明人だ。この直後に夫となるウェストンと出会い、救われたように感じるのは、彼を文明人と判断したからである。

子猫のような女の子が子猫をかわいがり、動物のような人間が動物を虐める 人間を動物に喩えることにおいて興味深いのは、人間がその動物に似ているだけではなく、その比喩がその人間の動物への対し方を反映することだ。つまり動物はメタファーでもあればメトニミーでもある。例えば「子猫と比べても大して役に立たない」アグネスは、大して役に立たない子猫やらハトやらをかわいがっており、家を出る際は子供っぽい愛着と感傷いっぱいにお別れをする。アグネスは子猫に似ている上に、子猫をかわいがるという属性を持っているわけだ。��

 そして動物のように野蛮な人間は、動物にも野蛮に振る舞う。また人間のことも動物扱いする。例えば、子供たちを「馬用の鞭で打つぞ(I’ll horsewhip you)」と脅すブルームフィールド氏は「完全に獰猛(perfectly ferocious)」であり、鳥の巣の採取や狩りを好むロブソンおじさんは「紳士ではない(no gentleman)」。ちなみにメイヒューの報告によると、鳥の巣を採って遊んだり、自分では直接採らずとも鳥の巣を買うことは、当時それなりに人気があり、特に少年が好んだ。飾って眺めたり、誰かにプレゼントしたり、卵つきのものを買って別の鳥に卵を抱かせて雛を孵すなどして、楽しんだらしい。�2

 長男のトムが残忍で動物的であることは、アグネスの到着早々、木馬を乱暴に操る姿に提示される。トムは血の通った動物にも残虐で、モグラやイタチに罠を仕掛け、鳥の卵を床にばら撒いて遊ぶ。『アグネス・グレイ』中最も有名なエピソードに、このトムが捕獲したひな鳥たちをいじめ殺そうとするのを、アグネスが石で潰して殺すところがある。鳥に長く激しい痛みを与えるくらいなら、殺した方がましと考えたのだが、これは先述した身体的痛みへの恐怖と、動物にも感覚があるという認識と、他者の痛みに対する同情が一体となった行動だ。しかしトムは反省もせず、ちょうど犬を蹴り飛ばしていたロブソンおじさんの姿を認め、おじさんに犬ではなくお前を蹴らせるぞとアグネスを脅すのである。 このブルームフィールド家側の人間の動物に対する残虐性は、一家の感受性が遅れていることを表し、ひいてはそもそもこの一家が成り上がりの商人に過ぎないという事実を補強する。鳥の事件の後、アグネスはトムの母であるブルームフィールド夫人に、「感

�� ヴィクトリア朝の小説中、自らがペット的存在であると同時に、ペットを溺愛する人物として最も有名なのは、ディケンズの『ディヴィッド・コパフィールド』(David Copperfield , �849-50)の「お子さま妻(child-wife)」ドーラだろう。ドーラと一心同体の小型犬ジップはドーラと同時に死ぬが、これは二人が稀に見る種を超えた分身であることだけでなく、かわいいだけで家政能力ゼロのドーラが、最後までデイヴィッドのペット以上になれなかったことを意味している。またドーラもアグネス・グレイ同様、子供でありペットである。

�2 Mayhew, vol. 2, 72-77.

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覚ある生物(sentient creatures)」を痛めることには介入する義務があったのだと、動物に痛みを与えることは忍びないという�9世紀中期には一般的となっていた感受性でもって説明する。すると夫人は、生き物はすべて人間の利便のために創られ、獣には魂などないのだから子供の好きにさせるべきだと、�8世紀までの古い価値観でもって応じるのである。ブルームフィールド家の感性がこのように前時代的であることを念頭に振り返ってみれば、アグネスが固くてろくに食べられなかった牛肉や、調理に失敗して取り下げられた羊肉のエピソードも、生き物を粗末にすることの例であったのかと思われてくる。�� メイヒューが話を聞いた鳥の巣の採取・販売人本人までもが、鳥たちがせっかく苦労して築いた小さな家を採ってしまうのは申し訳ないと、当時の感受性を反映した発言をしている。つまり当時の基準に鑑みて、ブルームフィールド家の動物に対する感受性は「未発達」であり、そのことこそが彼らの野蛮を証明する。 このように動物への態度はその人の人間性を反映するが、�4 特に『アグネス・グレイ』においては、それは善きキリスト教徒かどうかの指標となる。アグネスは、既に見たとおり動物に優しい。そのアグネスが世話をする、目の病気とリューマチに苦しみながらも、キリスト教の教えを頼りにより善く生きようと努める貧しきナンシー・ブラウンは、ペットの猫を大変かわいがっている。これは役に立たない女が役に立たない猫を愛でることのいま一つの例であるばかりではない。ナンシーの猫は、二人の牧師の聖職者としての資質を対比し、アグネスに未来の夫を印象づける役割も担うのだ。古参の牧師であるハットフィールドは、ナンシーを助けることには興味がなく、ロザリーの尻を追いかけており、猫を蹴飛ばしたり突き飛ばしたりする。他方ウェストンは、ナンシーの心が晴れるよう説教し、膝に乗ってきた猫を優しく撫で、その猫が狩猟管理人に銃殺されそうになったところを救い出して届けに来る。

動物を人間にする、動物扱いされる人間が人間になる 家庭教師アグネスの奮闘は、動物のような生徒を飼い馴らそうと試みながら、自身が飼い馴らされるべき動物として扱われることによって、より複雑になっている。今は木馬にまたがるトムも、将来本物の馬に乗るだろう。維持に莫大な費用がかかる上、大きな体躯をした馬を、人間が手綱と鞭と拍車を使って操縦する姿は、それだけでも権力の

�� 食卓に上がる肉と動物の屠殺が結びつかないことについては Nash and Suess の Gardner を参照。確かに『アグネス・グレイ』の出版と同年に Vegetarian Society of Great Britain が創立された(Kreilkamp, 88)。しかし 50 年経っても会員が 5000 人程度であったことを考えると、菜食主義はまだ一般的ではなかった(Thomas, 297)。またテクストにはアグネスやアン・ブロンテが動物に関して今日の菜食主義者のような動物愛護的な主張を積極的に持っていた証拠はない。よって『アグネス・グレイ』は当時一般的になっていた動物に対する同情的な態度は持つが、まだ少数派であった菜食主義の思想にまでは至っていないとみるのが妥当だろう。

�4 『アグネス・グレイ』において動物への態度が人間性を表すことについてはよく指摘される。Berg, �77; Berry, 54; Davies in Glen, 85-86; Langland, ���-�2; Pinion, 2�9.

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象徴としてわかりやすい。実際「拍車(spur)」という英単語は、騎士の身分を象徴する。そもそも乗馬は、単に便利な交通手段であるのみならず、野獣を飼い馴らしたという人間の勝利を見せつける余興的なところがあった。�5 『アグネス・グレイ』では、権力者が馬を操ることがわかりやすく描かれていて、ブルームフィールド家の長であるブルームフィールド氏と、登場人物中最高の地位にあるトマス・アシュビー卿のいずれもが、馬上で初登場している。ブルームフィールド家の長男であるトムが、おもちゃの馬に拍車をかけ鞭を振るう姿をアグネスに見せつけることは、権力者の乗馬のパロディでもあれば、いずれ権力を振るうための練習でもあるが、何より新参者の家庭教師に身分の違いを確認させる行為なのだ。�6

 このように、本来アグネスの生徒は馬に乗る側の人間であり、アグネスは馬と同じく飼い馴らされる側の人間だ。それでいながらアグネスは、生徒を躾けるという矛盾した役割を担わされている。自分より若い正真正銘の子供を動物呼ばわりするのは、不道徳に思えるが、アグネスがこれほどまでに生徒を動物扱いするのは、さもないと自分が動物の側に固定されてしまうせいなのだ。アグネスの理想と目標は、生徒も自分も人間になること、すなわち生徒をきちんと教育しなおし、自分も家庭教師としての威厳を手に入れることだ。しかしブルームフィールド家からは解雇され、マリ家でもさして成功しない。マリ家でははるかに順調に見えるが、それは最初から子供たちが年長な上に、途中で男の子二人が学校にやられて仕事量が半減したためである。�7 アグネスが人を上手く躾ける側の人間になるためには、家庭教師をやめて結婚し、自分の子供たちを最初から養育しなければならない。そのための予行練習の機会を与え、さらに未来の夫ウェストンと彼女を繋ぐのがペットのスナップだ。

忠犬スナップは先駆ける スナップはもともと、マチルダが子犬の時に手に入れ、最初は他の誰にも触らせない勢いだったが、すぐに世話に手を焼いて売ろうとしたところを、アグネスが引き受けたテリアだ。無責任なマチルダが飼い主だった時は行儀が悪かったが、アグネスが献身的に再教育したところ立派な犬となった。犬が飼い主の人格や態度を表すとしたら、スナップはアグネスの教育者としての資質や忍耐強さを映し出す。なるほどお転婆娘マチルダの犬はノウサギを見るなり追いかけ、虚栄心の強いロザリーはパリから輸入したプードルを太らせている。�8

�5 Thomas, 29.�6 トムとアグネスの性差の絡んだ権力闘争については Jay, ��-�4 を参照。�7 Langland などは『アグネス・グレイ』を教養小説として読んでいる。アグネスがあまり成長しないことに

ついては Kawasaki を参照。�8 ロザリーがパリ直輸入のプードルを自慢するのは、フランス原産であるプードルは、当時イギリスでの

購入が容易でなかったためである。実際ロンドンの街頭でも、犬の店にプードルが並ぶことは稀だった。Mayhew, vol. 2, 5�.

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 犬はその忠誠心のためにヴィクトリア朝の人々が重宝がったペットであり、�9 さらにテリアは当時忠犬と呼ばれた犬に多い犬種だった。40 実際アグネスはスナップを、マリ家で唯一自分を愛してくれる存在と表現している。このテリア犬の存在の大きさは、父親の病気とスナップの失踪が、語りレベルで同等に扱われていることからもよく分かる。二つの出来事は、ほぼ同じ長さのパラグラフで、並んで語られているのだ。 アグネスはスナップが「彼の奴隷である犬たちを残酷に扱う」ことで悪名高いネズミ捕獲人の手に落ちたのではないかと心配する。ネズミ捕獲人(rat-catcher)とは、畑などを荒らし病気を媒介するネズミを捕獲する、王から公式に任命されるほど伝統ある職業だった。4� メイヒューの報告にも、女王から任命を受けたネズミ捕獲人が出てくる。42

それによると、犬がネズミを捕まえて殺すのに使われ、公開のネズミ狩りショーにも出た。ちなみにメイヒューの報告で使われる犬は、スナップと同じテリアである。犬はネズミを狩る段階で、自分も大きく傷を負う。またメイヒューが取材したネズミ捕獲人は、

『アグネス・グレイ』のネズミ捕獲人同様、凶暴で残忍だ。アグネスがスナップをあれほど心配するのは、ネズミ捕獲人の手に落ちたら最後、スナップが怪我をすることはもちろん、最悪の場合は死に至る可能性があるためだ。 これほどまでにアグネスにとって大きな存在となったスナップだが、やはり犬は犬であり、人間のパートナーの代わりにはなりえない。アグネスを「飼い馴らす・飼い馴らされる」の闘争から救うのは、彼女と結婚が出来る人間の男でなければならない。小説終盤の「浜辺」と名づけられた章は、この問題の解決を、物語中で唯一絵画的に提示する。4� 家庭教師を辞めて母の学校を手伝うアグネスは、朝早く浜辺を一人散歩する。自分以外に生き物の気配はなく、波も静かだ。やがて主人の馬を散歩させに来た馬丁たちが少しずつ増えてくる。遠くには紳士とその犬が小さく見える。しばらくしてアグネスに、昔の飼い主にいちはやく気づいた忠犬スナップが駆け寄り、その後にウェストンが続く。このダブローは、問題の解決を象徴的に表象する。スナップはマチルダに捨てられたところをアグネスによって拾われ、さらにウェストンによってネズミ捕獲人から救われた。大切に育てられているスナップが二人を引き合わせるのは、愛しあう男女の再会場面においてヴィクトリア朝の読者に眉をひそめさせないよう介添人役をするためだけではない。スナップは、救い主としてのアグネスとウェストンがキリスト教の文脈において善人であることを明らかにし、さらに犬ではあるが二人の子供のような存在として、二人が将来チームを組んで本物の子供の良い育て手となることを先取りするため

�9 Thomas, ��8.40 Morse and Danahay, �9.4� Thomas, 274.42 Mayhew, vol. �, �-2�.4� この章の絵画的な風景描写については大田 �8-26 を参照。

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だ。アグネスはウェストンと結婚することで、二度と家畜の地位に落ちる心配なく、子育てに従事できるようになる。浜に出てきた馬たちには、操縦する主人はいない。権力者が不在の浜を、スナップを従えて歩くアグネスとウェストンは、善きクリスチャンとして、正真正銘の「人間」として、自分たちの子供を産み育てていくだろう。

『ワイルドフェル・ホールの住人』

傷ついた鳥 『ワイルドフェル・ホールの住人』は、『アグネス・グレイ』よりずっと野性的な(wild)設定となっている。主役のギルバートは、収入そのものでなく楽しみのために農業に従事する gentleman-farmer で、野外で動物と接触することが多い。そもそも題名となるヘレンの屋敷の名前からして Wildfell である。人里離れた小高い土地に建っているためについた名前だろうが、fell という単語には、形容詞で「残忍な、獰猛な」、名詞で「獣の皮」、動詞で「打ち倒す、殴り殺す」という意味があり、動物に対する暴力を連想させる。そしてこの古風なエリザベス調の建物自体が、翼を傷つけられた鳥のようだ。狩りに出たギルバートは、この辺一帯で最も wild で「未開の荒地(savage wilderness)」時代を思い起こさせるワイルドフェル・ホールの敷地に入る。そしてタカを一羽とカラスを二羽「殺した」後、屋敷の一翼が改築されているのを見る。建物の中心部から伸びる部分は英語で翼(wing)というが、鳥を撃ち取った直後の記述であるため、ギルバートがヘレンの隠れ家を攻撃する侵入者にも思えてくる。

子犬から紳士へ? 『アグネス・グレイ』がアグネスがペットの子猫から母親へと変化する物語であるとすれば、『ワイルドフェル・ホールの住人』は母親から甲斐甲斐しく世話をされているギルバートがペットの子犬から紳士へと成長する物語に見える。しかしこの子犬の比喩は語り手ギルバート本人のものであることに注意しなければならない。彼自身はヘレンが自分を「生意気な子犬(impudent puppy)」のように思っているというが、他人は彼を野蛮な動物に喩える。ロレンスは彼を「残虐(brutal)」と呼び、弟ファーガスは「人間の姿をしたトラそのもの(a very tiger in human form)」と言う。 『ワイルドフェル・ホールの住人』は、ギルバートがいかにヘレンと結婚するに至ったのかを友人への長い手紙の中で回想し、その中に彼が当時読んだヘレンの日記を挿入するという形式をとっている。この入れ子構造の外側の物語であるギルバートの語りの最大の特徴は、動物の比喩と、比喩化される人間の実態に乖離があることだ。例えばギルバートが冒頭で子猫に喩えるイライザ・ミルワードは、実は有害なゴシップでヘレンを苦しめる人間だ。そのヘレンは、極端な子育て法と警戒心のせいで、ミルワード牧師

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に「野蛮(savage)」とされるが、実は事情や理由がある。 比喩と実態の乖離が最も大きいのが、自分を子犬と自己比喩化したギルバートだ。まず小説冒頭で今日は一日何をしていたのかと母にきかれ、灰色の子馬を調教(break)していたと答える。若い馬に初めて馬具をつけ人間の言うことを聞かせる訓練をする作業は、原文の break という動詞が喚起するイメージ通り、暴力を伴うものである。ちなみにギルバートに「怠けものの犬(idle dog)」と呼ばれる弟ファーガスは、その日はアナグマ虐めをしていた。心地良く整えられた家庭という聖域で、女である母や妹を相手に会話をするために、印象が緩和されているが、実際に彼らが日常的に外で行っていることは、身体的な暴力を伴い、究極的には死に繋がる活動だ。 ヘレンに恋をしたギルバートは、動物を乱暴に扱い、人間を動物扱いする。ヘレンの兄のロレンスを彼女の恋人と勘違いし、ロレンスのポニーのくつわを無理やり引っ張ってその口を傷つける。その時ロレンスが言う「紳士らしく話せるようになるまでは質問するな」という言葉は、ギルバートが現時点で紳士以下の人間であること、紳士と反対に野蛮であることを示している。ギルバートの野蛮が最もよく表れるのは、嫉妬に駆られてロレンスを馬用の鞭で打って怪我を負わせるエピソードだ。死人のように蒼ざめ額から血を出している相手を見て「野蛮な満足を覚えなかったとは言えない(It was not without a feeling of savage satisfaction)」と、語り手の特権を使って自分の行為を控えめに表現するが、どう語ろうともこの行為におけるギルバートの制御の利かない野蛮は隠しようもない。さらに血を流して倒れているロレンスを犬呼ばわりして侮辱する。馬に対してやるように知人を鞭打ち人間を動物扱いすることは、彼自身の野蛮を暴露する。 動物への扱いがその人の人間性の指標になるという構図において、ポジティブな例も二つある。一人目はギルバートに傷つけられ病気になるロレンスで、いつも乗っているポニーをよく世話し、不運な妹を密かに庇護し、ギルバートをも何とか許す。二人目はミルワード牧師の長女でイライザの姉のその名もメアリーだ。彼女は「すべての犬、猫、子供、貧しき人々」に愛され、その他全員からは軽んじられているという。かわいいが幼稚なイライザが、アグネスの甘やかされたペットという面を体現するとしたら、動物にも人間にも優しく後に牧師の妻となるメアリーは、アグネスのキリスト教徒的な善良さを動物を通して体現している。ロレンスとメアリーはいずれも、最後に幸せな結婚をするという形で報われている。

男たちは狩りをする 入れ子構造の内側の物語であるヘレンの日記において、人間が動物に喩えられる時は、もっぱらその暴力性や危険性のゆえである。そのため喩えられる動物は猛獣であるか、犬や猫の場合もその野蛮な性質が注目される。若きヘレンが接触する大人の男たちは、ギルバートと同様に、外面は紳士でも実際は野蛮だ。その野蛮の象徴が狩りである。男

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たちはスポーツとしての狩りを好み、狩りを中心に土地を移動し一年を過ごしているのかと思えるほどだ。日記の冒頭でさっそく、ヘレンの庇護者であるおじが狩りに行く。彼女が恋するアーサー・ハンティングドン(Arthur Huntingdon)は、その名の通り狩りをよくし、一度など自分が仕留めた獲物の血を身体中に浴びて登場する。 アーサーと彼の客は、外では狩りをし家では酔って騒ぐ「人間の姿をした獣(human brutes)」だ。彼らは人を動物扱いし、互いを犬と呼んで罵り合う。ここでヘレンの親友ミリセントの兄で、乱痴気騒ぎに加わることもないウォルター・ハーグレイヴまでもが犬と呼ばれるのは一見奇妙に思える。しかし彼は後でヘレンを無理やり誘惑し、ヘレンがナイフを構えて初めて「大人しくなる(tamed)」という「雄ブタのような悪人、粗野で残忍(boarish ruffian, coarse and brutal)」な男だ。 男たちは、女主人であるヘレンをも動物に喩えて攻撃する。アーサーは口答えするヘレンを「雌ギツネ(vixen)」や「雌トラそのもの(a very tigress)」と呼び、その目を猫の目に喩える。アーサーが実際に狐狩りをすることを考えると、狐に喩えられたヘレンは、快楽のために傷つけられる獲物となる。同じ権力構造が、ハタズリーと妻ミリセントの間にも見られる。彼もヘレンを雌ギツネと呼び、自分の妻には口答えをさせるつもりはないと言う。野蛮な男たちが野蛮ではない女を動物扱いすることは、ギルバートがロレンスを犬と呼んだのと同様に、人間を動物扱いする人間の動物性を逆に暴露する。

動物と女と使用人 狩りで獲物を傷つけるアーサーは、狩に使っているはずの犬たちにも乱暴だ。雨のため馬で出かけられずに暇を持て余したアーサーは、犬たちをからかって虐め、普段はお気に入りのコッカー犬のダッシュを殴る。また使用人のジョンに馬を命じ、馬がひどい風邪に罹っているため外出は無理だときいてなお、その馬を使おうとする。さらに執事に対しても、そのささいなミスを大変な剣幕で罵る。このように『ワイルドフェル・ホールの住人』では『アグネス・グレイ』より一層明白に、権力を持つ男が権力を持たない生き物、つまり動物、下の階級の人間、同じ階級の女性を虐待するのだ。44 女の登場人物が男の登場人物を評価する際に、動物への態度を一つの指標とすることは、動物への態度が女性への態度と似ているためでもあるのだ。 アグネスが人間未満の生徒たちを飼い馴らすことで、自分が動物扱いされる状況から脱出しようとするのと同様に、ヘレンも男たちを飼い馴らすことで、自分が動物の地位に貶められ危害を加えられる状況を回避しようとする。しかしそれは容易ではない。ヘレンに行動を注意されたアーサーは、「大人しく言うことをきいたりしない。妻とはい

44 ヴィクトリア朝における男性から暴力を受ける存在としての家畜と女性の相似については Berg や Morse and Danahay 第 6 章を参照。

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え女に指図は受けない(I would not submit to it tamely. I won’t be dictated to by a woman, though she be my wife)」と宣言する。アーサーの客たちも、女主人であるヘレンを軽視する。ついに息子のアーサーまでもが、彼らの悪影響を受けて母親を馬鹿にし始めた時、ヘレンは息子だけはきちんと躾けようと、「無茶な(wild)」計画を実行するため「荒れた(wild)」場所、すなわちワイルドフェル・ホールに移るのである。隣人たちに怪しがられ批判を受けながらも、ヘレンは息子の調教に何とか成功する。しかし今度はギルバートという自己制御のきかない男に愛されて苦労する。

相棒サンチョの働き しかし抑制のきかない wild なギルバートにも、希望の伏線がある。それは彼のペットの白黒のセッター犬、サンチョだ。サンチョはセルバンテス(Cervantes, �547-�6�6)の『ドン・キホーテ』(Don Quixote, �605, �6�5)の主人公ドン・キホーテの使用人の名前で、空想に生きる主人公に現実的な感覚で応じ、主人に付き添うと同時に、物語を面白く受け入れやすくして読者との橋渡しをする。ギルバートに従う犬のサンチョも、ギルバートの欠点を緩和し、ヘレン親子との仲を取り持つ。ギルバートとヘレンが接近するのは、子供のアーサーがサンチョに興味を示したことがきっかけだ。間もなくギルバートは、サンチョの子供をアーサーに贈る。これは二人の絆を強め、二人が将来親子になることを暗示する。そしてサンチョとじゃれ合い一緒に駆けっこをし、ギルバートの姿を目ざとく見つけて駆け寄るアーサー自身が、ギルバートの忠実で愛情深いペットの犬のような存在になっていく。ギルバートがヘレンを訪問した際、まずアーサーとサンチョの子犬に会うということが二度ある。人間の大人の男女の間に犬や犬のような子供がまず存在することは、スナップの場合と同様に、介添人役を果たし、さらに二人の仲が盲目的な恋のみによって成立するのではなく、家庭を築き子供を養育するような性質のものであることを示唆する。 しかしスナップの存在のみによってアグネスとウェストンが結ばれることがないように、サンチョとその子犬の存在のみによって物語が大団円を迎えることはない。その前に飼い馴らされるべき人物が死んだり飼い馴らされ、ヘレンが完全に人間として自由になる必要がある。そしてそのための試練においても、動物が働きをする。

動物が試練を与える まず夫のアーサーが、狩りの最中に落馬をして重体となる。動物を傷つける遊びの最中に、罰であるかのように馬から振り落とされ、馬上という権力の座から降りたアーサーだが、病床でヘレンが試みても、最後まで悔い改めることも、飼い馴らされることもない。しかし普段の不摂生がたたって死亡するので、これでヘレンが飼い馴らすべき人物が一人減ったことになる。

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 次にギルバートだが、ヘレンが夫のもとに戻ったと聞き、ロレンスに確認しに行こうと厩に急ぐが、馬を世話する者がいない。そこで自ら馬具をつけて馬を「引きずり」出す。ここでは彼はまだ、自分の欲望のために動物を乱暴に扱う動物的な人間だ。アーサーが死んで約一年後、今度はヘレンが再婚すると誤解したギルバートは、グラスデイルに駆けつけようとするが、馬たちが「怠惰」で馬車がのろのろとしか進まない。自分で手綱を取りたいと願ってもそれも叶わず、ひたすら忍耐を強いられる。その後宿で馬車を乗り換えるが、馬車はあるのに馬が一頭もいない。結局彼は馬を使うことを諦め、徒歩で 6 マイルの道を行く。ギルバートはこうして馬によって間接的に試練にさらされ、ヘレンに再会する頃には、精神的に去勢を受けた人間となっている。 グラスデイルに到着すると、ヘレンとアーサーと共に若く立派なセッター犬がいて、成長したサンチョの子供と判明する。ヘレンがアーサーに本を取ってくるように言いつけ、ようやく愛する女性と二人きりになれたギルバートは、緊張のためそのセッターを撫で続ける。ここでセッターは介添人役を務めるだけではなく、自分の息子が手塩にかけて育てた犬をギルバートが優しく扱うことをヘレンに目撃させる役割をおう。さらに重要なのは、スナップの再教育が育て手としてのアグネスの資質を証明したように、サンチョの子供が良い成犬に育ったことは、子供のアーサーが上手く犬を躾けたこと、ひいてはヘレンがそのようなことのできる子供にアーサーを再教育したことを証明する。このように飼い馴らされるべき人間が死んだり大人しくなり、自分が動物扱いされる心配がなくなったことを確認したところで、ヘレンはギルバートとの結婚を決意する。

4 結論

 『アグネス・グレイ』と『ワイルドフェル・ホールの住人』のいずれにおいても、人間は動物に喩えられ、主人公は人間になろうと闘い、最後には人に飼い馴らされることのない立場を手に入れた。どちらの小説も主人公の結婚で終わるという当時の小説によくある約束事を踏襲しているが、その大団円に至る過程で動物が活躍するのが、シャーロットやエミリーはもちろん他の同時代の作家の小説とも違うアンの小説の個性だろう。 どちらの物語も、動物の正しい養育や愛のこもった飼育が支配的になって閉じるが、これは女性的なものが優勢になったと言いかえることもできる。しかし二つの小説は、単純に男が獣で女が人間的であるとは主張していない。アグネスの生徒たちは男女関係なく行儀が悪いし、女が動物を虐待しないのは、徳が高いからというより、乱暴な振る舞いを禁じられていたことも大きいだろう。動物、ひいては人間に対する思いやりが欠如しているのは男に限らない。例えば、ロザリーは出産後に「子育てに献身することは犬を育てることに献身するよりほんの少しましなだけ」と言い、犬も子供も軽視してい

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る。面白いのが妹のマチルダだ。彼女は犬を引き連れての狩りや乗馬が大好きで、馬番たちとの接触が多いために振る舞いや言葉づかいが下品だとして、母親やロザリーから非難されている。男であればまっとうな趣味として許される乗馬や狩りが彼女には禁止されることは、女性に押し付けられた二重基準の好例として、フェミニズムの文脈で発展可能なテーマだ。しかしアグネスは、当時の上流階級の女性として王道を行くロザリーと、当時の理想の女性像から逸脱したマチルダのいずれにも共感を示さず、どちらも徳の低い人間として描くにとどまっている。つまりアンの小説では、性別にかかわらず、産み育て世話をするという行為が価値を認められているのだ。その行為を上手に担う者は男女無関係に称えられ、それを放棄するものは軽蔑される。例えば、ウェストンや息子のアーサーは良き育て手であり、ロザリーや、スナップを放り出したマチルダはそうではない。 動物を産み育てることの善を小規模に象徴するのが、アーサーの客の一人であるハタズリーだ。彼は大の馬好きで、放蕩時代は外では馬に乗って狩りをし、屋内では酔ってばか騒ぎをしていた。その様子は「野生の獣のように吠え(roaring like a wild beast)」、「獣のようにひどく酔い(beastly drunk)」、「去勢されていない若い雄ウシのよう(like a bull calf)」とまで表現されたものである。それが妻ミリセントの説得により、自分の野蛮を制御し放蕩から足を洗った結果、馬や牛の繁殖に興味を持ち、狩りはたしなむ程度となり、妻ミリセントとの間に少なくとも 4 人の子供ができ、銀行家の父の遺産をすべてを相続し、今では血統の良い馬の繁殖で全国に名を知られるようになった。ヴィクトリア朝にはエリートが自分たちの階級に相応しい血統の良い家畜を繁殖して楽しむ畜産業が存在し、かのアルバート公も家畜の品評会に「出品」していた。45 しかし娯楽とはいえ、ハタズリーの獣から紳士への変身を可能にしたのが、同じ動物を使った道楽の中でも、殺す方の狩りではなく、生かす方の繁殖であることは重要だ。 人間が心をこめて動物を育てたり世話する時、動物は愛情と献身の対象、すなわちペットとなる。アンの小説における動物には、ペットとペット以外の動物に線引きがあり、肯定的な価値を担うのはペットが中心だ。ペットが肯定的な価値を担うためには、その野蛮な本能が実際に、そして飼い主の心理上で、それから語りのレベルにおいて、抑圧されなければならない。本来テリアは狩猟犬であるが、幸福な結末に一役買うスナップが、残酷な狩猟本能を発揮することは一度もない。かつては行儀が悪かったかもしれないが、現在のスナップは徹頭徹尾、躾の行き届いた愛情深い忠犬だ。最後にペットの良い面でもって物語が大団円を迎えることは、語り手のアグネスが登場人物のアグネスを間接的に肯定することでもある。この物語は、今は結婚して子供もいるアグネスが、若い頃につけた日記をもとに回想するという体裁を取っている。つまり冒頭でアグネスを

45 Ritvo, Chapter �.

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一家のペットと形容したのは、語り手のアグネス自身だった。最後にペットが肯定されれば、物語開始時の若く未経験のアグネスも肯定される。ペットは狩猟を手伝うといった実際的な仕事をして役に立つことがなくても、人を結んだり、人の善意を引き出したり、世話をする能力を開発するといったレベルでは役に立つのだ。 同様に元来狩猟犬であるセッターのサンチョも、その残虐性を発揮することはない。小説冒頭でギルバートは鳥を撃ったが、サンチョは撃ち落とされた血みどろの獲物を喜々として取りに行ったはずだ。撃ち落とされた鳥を取ってくるだけでなく、普段はギルバートの指示によって自分で獲物を追いかけて捕まえることもしているだろう。しかしサンチョが実際に狩りを手伝う記述は一つもない。用心深いヘレンも、息子がサンチョに駆け寄っても、自分がギルバートを警戒するのみで、サンチョが息子を襲う心配はしていない。そしてサンチョも、もっぱら人の美徳を引き出す役回りだ。衝動的なギルバートも、サンチョにはいつも優しく、サンチョに駆け寄ったアーサーをかわいがり、サンチョの子供をアーサーに贈る。つまり彼の愛情深い面がサンチョをめぐって展開される。 『ワイルドフェル・ホールの住人』で最終的に動物や動物に喩えられた人間に対する暴力が消滅することは、再会の場面でヘレンが息子に取ってくるよう言いつけた博物学

(natural history)の本によって象徴される。「ありとあらゆる鳥と獣(all kinds of birds and beasts)」が載っているというこの本の登場は、動物たちによるいわばカーテンコールであると同時に、ペットのみならず野生の動物までもが、本という安全で文明的な形でヘレンたちの手中に収められたことを意味する。本でならば、自らが動物に危害を加えることなく、また動物から危害を加えられることもなく、動物を愛でることができる。すなわち野性動物までもがペット化されたのだ。 このようにアン・ブロンテの小説においては、ペットやペット的な人物が最終的に肯定されるが、ペットがもっぱら愛情と精神に関わる存在であることを考えると、ペットが肯定されることは、愛情や精神が肯定されることでもある。先述したように、ペットを愛でることは、ペットの野蛮を否定し、その忠実さや愛情深さといった美徳のみを強調することであり、究極的には人間が自らの野蛮から目をそむけ、自分たちの美徳に注目することだった。野獣のようなヒースクリフが、客であるロックウッドに牙を剥く雌犬を足蹴にして、「こいつはペットとして飼ってるわけじゃないから」と言い切るのは、彼が人間がペットに好んで見たがるような「人間らしい」美徳に関心がないからであり、そのことが逆に彼の「動物らしさ」を証明しているのである。ペットの美徳を前景化するアンの小説は、つきつめれば人間の内なる野蛮を否定し、愛情や忠誠といった「人間らしさ」を称えようとしているのだろう。

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(英米文学科講師)