日本人のアジア認識 - 青山学院大学...keywords:asia,foreign attitudes of...

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日本人のアジア認識 渡辺 良智 キーワード:アジア、日本人の外国イメージ、日本とアジア、脱亜論、アジア主義 Keywords: Asia,foreign attitudes of Japanese,Japanese-Asian relationship,“datsuaron” , Asianism 1.はじめに 「アジアとはなにか?」この問いに対する答えは、人それぞれ異なるであろうが、まず 出てくる答えは、地理的なものであろう。すなわち、アジアとは、地球上のある地域の名 称である。アジアはアフリカ、南北アメリカなどとともに6大州の一つを構成する。そし て、アジアは、ユーラシア大陸のウラル山脈からカスピ海、黒海、地中海、紅海を結んだ 線以東の地域をさすことばである。どうしてこの地域を「アジア」と呼ぶようになったの かといえば、ヨーロッパの人たちが自分たちの(地中海)地域より東方の地域をさすこと ばとして用いたものであった。ヨーロッパの人々が、自分たちの地域のアイデンティ ティーを確認するため、自分たちの地域と異なる地域を「アジア」と呼んで区別したので あり、「アジア」の人々が、自らアジアと名乗ったのではなかった。「オリエント」や「東 洋」、さらには「中東」や「極東」ということばにしてもヨーロッパから見た地域名であ る。これらのことばと「アジア」は重なるのであるが、アジアとの差異ははっきりしな 33

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  • 日本人のアジア認識

    渡辺 良智

    キーワード:アジア、日本人の外国イメージ、日本とアジア、脱亜論、アジア主義

    Keywords:Asia,foreign attitudes of Japanese,Japanese-Asian relationship,“datsuaron”,

    Asianism

    1.はじめに

    「アジアとはなにか?」この問いに対する答えは、人それぞれ異なるであろうが、まず

    出てくる答えは、地理的なものであろう。すなわち、アジアとは、地球上のある地域の名

    称である。アジアはアフリカ、南北アメリカなどとともに6大州の一つを構成する。そし

    て、アジアは、ユーラシア大陸のウラル山脈からカスピ海、黒海、地中海、紅海を結んだ

    線以東の地域をさすことばである。どうしてこの地域を「アジア」と呼ぶようになったの

    かといえば、ヨーロッパの人たちが自分たちの(地中海)地域より東方の地域をさすこと

    ばとして用いたものであった 。ヨーロッパの人々が、自分たちの地域のアイデンティ

    ティーを確認するため、自分たちの地域と異なる地域を「アジア」と呼んで区別したので

    あり、「アジア」の人々が、自らアジアと名乗ったのではなかった。「オリエント」や「東

    洋」、さらには「中東」や「極東」ということばにしてもヨーロッパから見た地域名であ

    る。これらのことばと「アジア」は重なるのであるが、アジアとの差異ははっきりしな

    ― 33―

  • い。

    そして、「アジア」は、ヨーロッパの4倍半、アフリカの1.5倍の広さがあり、陸地面積

    の7分の2を占めている。それは、極北から赤道直下まで広がり、海洋沿いの島嶼、平野

    から盆地、高原、急峻な山岳地帯まで含み、ツンドラ、タイガ、砂漠、ステップ、熱帯雨

    林など多様な地帯がある。そこで、「アジア」は、西アジア(中東)、中央アジア、南アジ

    ア、東アジア、東南アジアなどのサブ地域に分けられる。さらに、アジアに比べて狭い空

    間であるヨーロッパには、キリスト教とギリシャ・ローマ文明という共通項があり、文化

    的にもまとまりがある。だが、「アジア」は宗教だけみても仏教、イスラム教、ヒンズー

    教などに分かれており、中国文明とインド文明を同類と見るのも無理がある。何か共通の

    アジア的文化を想定することは現実的ではない。そして、ヨーロッパでは、EUという共

    同体を形成し、統合へ向かいつつある 。アジアにはこの種のブロックは形成されていな

    い。

    とにかく、このように広大で複雑多様な地域を「アジア」と一括することに意味がある

    のだろうか。たしかに、日本、中国などの「国民国家」という近代社会の基本単位の範囲

    を越え、世界をいくつかの大きな地域に分けて、認識しようとするときには、「アジア」

    にかわりうる空間概念はないので、「アジア」は、必要であろう。

    それはさておき、「アジア」ということばは、上述の地域のすべての事象をさすといえ

    よう。そうすると、実質的内容がないという点で、「アジア」という記号はかぎりなく無

    に近いものでもある。そして、「アジア」は、その内容が空虚であるがゆえに様々な指示

    対象を捉えうるのである。その結果、アジアは多義的な意味をもつことになる。

    そこで、人々の抱いているイメージ、表象としての多様な「アジア」が存在している。

    それは、文化的、歴史的に、あるいは政治的に形成された、人為的なものであり、これは

    個人ごとに、国ごとに、また時代ごとに異なっている。それゆえ、アジアとはなにかに対

    する唯一の解答はないのである。現在、多種多様なアジア・イメージが、テレビ、映画、

    新聞、書籍などのマス・メディアやインターネットに氾濫しているし、私たちの周辺にア

    ジア由来のものも多くある。アジアについては、飢えと貧困、汚濁と混乱、悲惨と苦し

    み、強権と人権無視、紛争と核、といったマイナスのイメージもあれば、ITの発達、経

    済発展、都市化、豊かな自然、長い伝統、といったプラスのイメージもある。

    結局、「『アジアとはなにか』という問いは、あらかじめ宙吊りにされているのである。

    答えのないことを見越した問いであるといってもいい 。」

    したがって、「アジアとはなにか。これはアジアの概念規定ではない。アジアをなにと

    見るべきか、アジアをなにのようにするべきか、そこへ向けての問いである 。」

    とはいうものの、日本人は、「アジアとはなにか?」ということをたえず意識せざるを

    得ない立場にある。日本はアジアにあり、近隣のアジア諸国と関係をもたざるを得ないと

    いう地理的な理由ばかりでなく、歴史的にみても、日本人の世界観はアジア抜きには考え

    られないからである。日本人の世界地図は、近隣の唐(中国)、朝鮮、そして天竺(イン

    ― 34―

  • ド)といった単純な世界観に始まり、蒙古とルソン、ジャワ、シャムなどの南方が加わ

    り、欧米諸国のアジア進出とともに南蛮や紅毛、さらにロシアやアメリカへと拡大して

    いった。

    このように、日本人の世界認識の基本はアジアにあった。それは儒教文明の本家中華帝

    国を中心に置き、その周囲に朝鮮や日本などの朝貢国があり、その外部に夷狄(野蛮国)

    がある、華夷秩序という国際体制であった。(ただ、日本は実際には早くからこの華夷秩

    序からは離脱していたという説もある 。)

    さらに、近代日本とアジアとの間には切っても切れない関係があった。明治以降、日本

    は近代化=西洋化を進め、国力の高まりとともに近隣のアジアに進出し、アジアを戦場に

    して欧米列強や中国と戦い、敗北した。戦後、日本の経済力の高まりとともに再びアジア

    諸国との関係は深まったが、近隣諸国と真の友好関係を形成しているとはいえない。

    このように、アジアとの関わりを無視しては、日本の過去も現在も語ることは出来な

    い。また、日本の将来を考える際にもアジアを考慮に入れざるを得ないのである。そこ

    で、本稿では、日本とアジアとの関係を、その根底において規定していると思われる、日

    本人のアジア認識について考察してみたい。

    2.日本人の外国イメージ

    まず、現代日本人のアジア・イメージはどうなっているのであろうか。外国に関する世

    論調査のデータを手掛かりとして考察してみよう。

    最初に、時事通信社の「好きな国・嫌いな国」調査 に注目してみよう。欧米とアジア

    の主要国について、当該国を好きな国としてあげる者と嫌いな国としている者との差から

    好感度を探ってみると、日本人の好きな国は、スイス、アメリカ、イギリス、フランス、

    ドイツであり、インドは好きな国でも嫌いな国でもなく、嫌いな国としては、北朝鮮、中

    国、ロシア、韓国があげられている。概して日本人の好きな国は欧米諸国であり、近隣の

    諸国が嫌いな国である。日本と近隣諸国との間には、領土問題や歴史認識などで紛争があ

    り、それが国民世論に反映しているのかもしれない。

    つぎに内閣府の「外交に関する世論調査 」は世界の主要国・地域について親しみを感

    じるか、当該国と日本との関係が良好だと思うかときいているが、最新の2005年10月調査

    の結果を、以下の表1に示してみよう。

    ― 35―

    表1 親近感と日本との関係の評価(%)

    米 露 中 韓 東南ア 南西ア 西欧 豪 中東 中南米 アフリカ

    親しみを感じる 73.2 16.2 32.4 51.1 45.4 26.3 58.3 62.9 17.0 37.1 22.0

    感じない 22.1 77.6 63.4 44.3 43.2 61.0 33.5 28.2 68.4 49.7 62.4

    関係良好だと思う 80.9 28.2 19.7 39.6 54.3 39.0 64.2 65.5 27.2 48.3 35.9

    思わない 12.8 56.8 71.2 50.9 23.9 33.9 16.6 14.6 44.4 24.8 32.0

  • この結果をみると、日本人が親しみを感じる国は、アメリカ、オーストラリア・ニュー

    ジーランド、西欧諸国であり、親しみを感じない国は、ロシア、中東諸国、アフリカ、中

    国、南西アジア諸国であり、韓国と東南アジア諸国はこれらの中間に位置している。ま

    た、親しみを感じる国については、日本との関係の評価においても、良好だと思う者が多

    く、近隣の中国、ロシア、韓国,そして、中東諸国については良好だと思わない者が多く

    なっている。親近感と対日関係の評価とは関連があると考えられる。

    さらに、読売新聞社の「信頼できる国」についての調査 の結果をみると、アメリカは

    常にトップで、イギリス、スイス、(西)ドイツ、フランス、カナダ、オーストラリア、

    といった国が上位にきている。サウジアラビア、ロシア(ソ連)、北朝鮮、イラン、イン

    ドネシア、フィリピン、タイ、マレーシア、イスラエル、ベトナムなどの国は信頼できる

    国としてはあまりあげられていない。中国は1980年頃はアメリカについで信頼できる国と

    されていたが、90年代に入ると欧米諸国よりもあげる人は少なくなり、韓国とともに中位

    に位置づけられている。1999年の結果では、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラ

    リア、スイス、カナダ、ドイツ、中国、韓国、スウェーデンが上位10カ国、下位の10カ国

    は北朝鮮、イスラエル、メキシコ、サウジアラビア、エジプト、フィリピン、ロシア、イ

    ンド、タイ、ブラジル、であった。このように、日本人は、欧米諸国を信頼できる国と

    し、近隣諸国は信頼できない国としているが、信頼できる国として近隣の諸国をあげる人

    が少ないのは、日本人の目が欧米に向けられていてアジアに対する関心が薄いということ

    の反映なのかもしれない。

    これら3つの世論調査をとおして、日本人は欧米諸国に対して好意的態度を示し、近隣

    諸国に対しては好意的態度があまり見られないといえるだろう。それでは、このような日

    本人の外国認知構造はどのような要因によって生じているのだろうか。 年日本版総合

    的社会調査(JGSS)第一回予備調査のデータにもとづいた分析 を参考にしてみよう。

    当該調査では日本とアメリカなど10カ国への好感度を10段階の数値で答えてもらった

    が、その平均値は、日本をトップに、以下スウェーデン、アメリカ、イギリス、イタリ

    ア、ドイツの順に低下し、ついでブラジルまでがプラスで、中国、韓国、ロシアの順にマ

    イナス値が高まっていた。欧米諸国を好み、アジアその他の国を嫌っているというこれま

    での調査と同様の傾向がみられる。この好感度の構造について多次元尺度法を用いた分析

    を行ったところ、2次元の構造が見出された。第1次元は、日本のつぎに欧米諸国が来

    て、つぎにブラジルと韓国、中国が比較的近い場所にあり、ロシアがもっとも遠かった。

    好感度に関する先行研究では「発展段階」があげられていたが、これは「好悪感」を示す

    次元と解釈された。第2次元では負の象限にブラジルがあり、欧米諸国とロシアが0地点

    に、日本、中国と韓国は正の象限に位置していた。一定の地理的布置を示していた。分析

    結果から「日本人の世界の国々に対する好感度の構造として、まず西欧諸国をひいきに

    し、その他の諸国と区別する傾向が、その多くを説明していることが明らかになった 。」

    この他の世論調査から日本人の外国認知の状態を探ってみても、地理的に近いアジア諸

    ― 36―

  • 国と比べて欧米諸国の好感度が高いという、一貫した強い傾向が認められる。さらに、

    1950年代、60年代に行われたこの種の調査においても同様な傾向が確認されている の

    で、日本人の「西欧重視・アジア軽視」傾向は、ここ数年の間に形成された一時的な態度

    とは考えられない。それは、日本人の意識の深層にまで染み込んだものであり、長い時間

    を経て形成されてきたものである。その歴史的経緯について検討する前に、次節では、日

    本とアジアとの関わりについて検討してみよう。

    3.日本とアジア

    「日本はアジアか?」と問われたとき、日本人はどう答えるだろうか。すぐにイエスと

    いう答えは、出てこないのではないか。そこに日本とアジアとの関係を考える手掛かりが

    ある。

    たしかに、地理的には、アジアに位置しているので、日本はアジアである。そして、地

    域区分としてのアジアに現実に日本人が、影響を受けていることも事実である。例えば、

    サッカーの2004年アテネ・オリンピックのアジア最終予選では日本はグループBに属し、

    レバノン、バーレーン、アラブ首長国連邦と対戦し、アウエイの試合はすべてカタールの

    スタジアムで行われた。また、2006年ドイツ・ワールドカップのアジア最終予選ではグ

    ループBに属した日本は北朝鮮、バーレーン、イランと戦い、イランとともに出場権を得

    た。

    だが、日本人はこれらの中東諸国を日本と同じアジアだと見なしているのだろうか。イ

    ラクやイランのイスラム教徒を同じアジア人と考えているのだろうか。また、イスラエル

    とパレスチナの紛争を同じアジアの紛争と考えているのだろうか。日本人は、日本に隣接

    する韓国、北朝鮮、中国、さらにモンゴルなどの東アジア、それにフィリピン、インドネ

    シア、タイ、ベトナムなどの東南アジア、そしてインドあたりまではアジアと考えている

    が、西アジア(中東)や中央アジアのイスラム世界になると日本人のアジアの範囲を越え

    てしまっているように思われる。またシベリアは日本人のアジアの中には入らないように

    思われる。

    つぎに、「日本はアジアか?」という問いは、「日本の社会や文化はアジア的なのか?」

    という問いでもあろう。この問いにどう答えたらいいのだろうか。そもそもアジア的な社

    会や文化とは何だろうか。それが「オリエンタリズム」としての「アジア」だとしても、

    かりに、日本文化にアジア的要素があるかと問われれば、その答えは、イエスである。だ

    が、日本文化にはアジア的要素とともに欧米的要素が並存しているので、先の問いに対す

    る答えはイエスでもありノーでもあるということになる。日本の歴史を振り返って見る

    と、日本は古代以来中国から先進文化を受容しそれを基本にしつつ日本独自の文化を形成

    してきた。その後、欧米諸国の東洋進出とともにその文化を受容した。東洋に欧米の帝国

    主義列強が侵出してきた明治時代以降、日本はそれまで主流であったアジア文化をすてて

    ― 37―

  • ヨーロッパ文化を受容したのであった。日本人は近隣の人々と人種的に同じであるが、日

    本の文化や社会制度は欧米諸国と共通である。「日本人はバナナだ」というアジアの人々

    の見方は、このことをいっているのではないか。そして、アジアで最初のオリンピックが

    東京で開かれた1964年に日本はアジアではなくなったという松本健一の説がある 。遅れ

    たアジアから脱しつつ欧米近代を後ろから追いかけていた「近代日本」がこの年に終わっ

    たというのである。それどころか、公害や国民の総中流意識など欧米よりも進んでいる現

    象すらみられるようになったのである。

    つぎに、「日本はアジアか?」とは、「日本はアジアの一員か?」という問いである。だ

    が、こう問われたとき、多くの日本人が答えにくさを感じてしまうのは、なぜなのだろう

    か。実は、近代以降日本人の眼は近隣のアジア諸国よりも欧米諸国に向けられていた。日

    本は欧米の衝撃に対抗するため、欧米の先進文明を受け入れ富国強兵策を採って、欧米先

    進国に追いつくことを目指した。そして、国力を高めてアジアの大国清と列強ロシアを

    破って列強の一つとなった。日本はアジアに位置しながらも欧米列強と同じ立場で、アジ

    ア諸国に接し、欧米列強と同様な行動をとった。日本は、アジアを侵略し植民地をつく

    り、アジアを戦場として米英と戦争し、敗北した。戦後、日本はアジアよりも欧米との関

    係を深め、日本人のアジアに対する関心は弱まった。東西冷戦下、日本はアメリカとの同

    盟の下で経済復興に努め、世界第2位の経済大国となった。主要国のサミットにも西側の

    一員として参加した。このような事情があるので、日本人は、日本はアジアだとは簡単に

    は言えないのである。

    さらに、より積極的に「アジア」を理念として捉える立場から、竹内好は「現状の日本

    はアジアではない、が、アジア化することを望む」と言っている 。竹内にとって、アジ

    アとは「近代ヨーロッパの対抗概念」であり、単なる地理的概念ではない。彼によれば、

    「近代ヨーロッパ」とは身分制社会からの脱却の動き、反封建の動きを指す。そのヨー

    ロッパは、国内では身分制打破に努めながら、外に向かっては帝国主義、植民地主義とい

    う形で身分制を保持・強化している。この帝国主義を根絶することで、身分制社会からの

    脱却という理念を徹底させ、近代を全世界に貫徹させようとするものがアジアである。反

    近代ではなく、近代の超克を目指すものが、アジアである。「西欧的な優れた文化価値を、

    より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包みなおす、逆に西洋自身を

    こちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性を

    作り出す 」それがアジアの理念である。この理念としての「アジア」にちかいのが、ア

    ジアのより高い価値によって西欧文明を否定しようとした岡倉天心のアジア主義や孫文の

    「東方王道文化」であるが、「あるべきアジア」「当為としてのアジア」の追求は、一度は

    じめると、終わりのない探求という陥穽に落ちてしまう危険がある。

    ところで、戦後の日本においては、日本人の眼は圧倒的にアジアよりも欧米に向けられ

    ていた。アジア侵略という過去のトラウマによって日本人の視野からアジアは消えていた

    のである。だが、近年、日本の経済力の高まりとともに日本とアジアとの関係は深まっ

    ― 38―

  • た。日本資本はアジアへ進出して現地の安価な労働力を利用して生産活動を行い、製品を

    日本や世界へ輸出するようになった。日本の主たる貿易相手国もアメリカ、ヨーロッパか

    ら中国、韓国などの東アジアへと変わった。また、豊かになった日本人は手近な観光地と

    してアジアへ眼を向けるようになった。かくて、近年日本においてアジアへの関心が再び

    高まりつつある。「韓流ブーム」は極端な例外だとはいえないだろう。

    4.脱亜論とアジア主義

    明治以降の近代日本にとって、欧米の衝撃に対して国家の独立を保つということが至上

    命令であった。欧米列強がアジアで激しい植民地獲得競争を繰り広げている帝国主義時代

    において、開国したばかりの弱小国日本が、独立を確保するためには、欧米先進諸国の文

    明を取り入れて近代化し国力を高めていくことは不可欠であった。また、このような国際

    情勢において日本外交の採りうる選択肢は、かつての「鎖国」状態に戻って孤立主義を貫

    くことは許されなかったので、近隣のアジア諸国との関係からいえば、アジア諸国と連帯

    して欧米列強の圧力に対抗するのか、それとも日本の国力を高めて列強と同じ国際的地位

    を獲得するか、つまりアジア諸国と手を結ぶよりも欧米諸国の仲間に入るのか、のいずれ

    かしかなかった。そこで、日本の進路として、日本とアジア諸国との連帯を主張するのが

    アジア主義(興亜論)であり、アジア諸国よりも欧米列強との関係強化を主張するのが脱

    亜論である。そして、西欧主導の世界システムとの関連でいえば、西欧国家体系の原理を

    そのまま受容しようとした思想が脱亜論であるが、他方、なんらかの意味で西欧国家体系

    を否定しようとする思想の流れが、アジア主義といわれるものである 。勿論、国際情勢

    の変化に対応してその主張は変化するのが通常なので、終始一貫してアジア主義あるいは

    脱亜論を主張する論者は少なかった。例えば、脱亜論の代表者とされる福沢諭吉も脱亜論

    より前は興亜論を主張していた。したがって、脱亜論、アジア主義といっても図式的な分

    類である。

    また、脱亜論は、日本を大陸進出に向かわせ、結果的にアジア主義へつながっていった

    し、両者は外見的にはイデオロギー形態を異にしながら、相互に補い合いつつ、アジア侵

    略を正当化した 、という見方もある。しかも、アジア主義はいうまでもなく、脱亜論も

    開化しようとしない大国中国を抑えて近代日本がアジアのリーダーになるという発想(ア

    ジア盟主論)からいえば日本を中心とした華夷秩序をアジアに創ろうとするものであった

    とみられるし、アジア主義が反西欧=攘夷を正面に掲げたのは当然であったが、「脱亜入

    欧」=西洋化も究極の攘夷のための手段であったと見なせば、脱亜論とアジア主義とに大

    差があったとはいえなくなる。

    そして、日本の対外論は、それが脱亜論的に説かれる場合であれ、アジア主義的に説か

    れる場合であれ、大陸への膨張という実践的意図が一貫して優位するものであり、脱亜論

    とかアジア主義とかいった「思想」は、日本と西欧列強、日本と大陸諸国とのその時々の

    ― 39 ―

  • 現実的な勢力関係の変化に応じて、適当に使い分けられるものに過ぎず、「思想」そのも

    のが、外交論を規定したことはないという坂野潤治の見解もある 。そのうえ、アジア主

    義が正式に日本政府の外交政策となったことはないという政治家の証言もある。しかし、

    政府がアジア主義ということばを用いなかったから日本が実質的にアジア主義的政策を採

    らなかったとはいえない。さらに、政府が外交的配慮からアジア主義を否定しても、「ア

    ジア主義的主張は政府の外交方針を欧米追随の屈従外交と批判し、自らを自主外交として

    国民の心情に訴えかけるスローガンとしての機能を果たすこととなった 」のであった。

    そこで、福沢諭吉の「脱亜論」と岡倉天心の「アジアは一つ」が、近代日本のアジア・

    イメージを大きく規定しているという青木保の指摘 が想起される。また、橋川文三も

    「『脱亜』と『アジアは一つ』という思想的言語は、その後さまざまな形で日本人の対アジ

    ア態度を規定するシンボルとなった 」としている。日本人のアジア認識を論ずるさいに、

    脱亜論とアジア主義とに分けて検討することは有効なアプローチと考えられる。

    5.脱亜論(Ⅰ)

    まず、当節では、脱亜論を取り上げてみよう。

    脱亜論といえば、福沢のそれということになっている。他に明快な脱亜論がないという

    のが、その大きな理由のようであるが、その「脱亜論」は、彼の主著『文明論之概略』

    (1875)のような書物ではなく、1885(明治18)年3月16日に彼の主宰する『時事新報』

    に社説として掲載された、約2300字の無署名の短文である。掲載当時はほとんど注目され

    なかった。ここで、福沢の「脱亜論 」を読んでみよう。

    まず、彼は、「西洋文明の風、東に漸し、到る処、草も木もこの風に靡かざるはなし」

    と、西洋文明の東洋への進出は激しいという認識を述べる。そして、「共に文明の海に浮

    沈し、共に文明の波を掲げて共に文明の苦楽をともにする以外にはない」として、「文明

    は麻疹の流行のようなものであり、防ぐ術はない」のだから、西洋文明を防ぐことよりも

    「つとめてその蔓延を助け、国民をして早くその気風に浴せしむのが智者の事である」と、

    文明開化策を勧める。

    そして、開国後西洋文明が日本に入ってきたが、日本の人士は古風老大の幕府を倒して

    皇室の権威に頼って新政府を立て、「国中朝野の別なく、一切万事西洋文明を採り、日本

    の旧套を脱しただけでなく、亜細亜全州の中にあって新たに一機軸を出した。その主義と

    するところは、ただ脱亜の二字にあるのみだ」という。

    そして、「我が日本は亜細亜の東辺にありといえども、その国民の精神はすでに亜細亜

    の固陋を脱して西洋の文明に移った。」ところがここに支那、朝鮮という不幸な近隣二国

    がある。「この二国の者共は一国につきまた一身に関して改進の道を知らない。交通至便

    の世の中に事物を聞見しないわけではないが」、聞見しても心を動かされず、「その古風旧

    慣に恋々するの情は百千年の古に異ならない。」その根源には、儒教主義があり、仁義礼

    ― 40―

  • 智と称し、外見の虚飾のみを事として、道徳さえ地を払って残酷不廉恥をきわめ、なお傲

    然として、自省の念なきようである。そこで、「この二国を観れば今の文明東漸の風潮に

    際し、とてもその独立を維持するの道」はないだろう。志士が出現して明治維新のような

    政治改革を行い、人心を一新することがなければ、「今より数年を出でずして亡国となり、

    その国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑いあることなし」と、予言する。

    さらに、「今の支那朝鮮は我が日本国のために一豪の援助とならざるのみならず、西洋

    文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するがために、時には或いはこれを同一視し、

    支韓を評するの価を以て我日本に命ずるの意味なきにあらず」として、政府は専制にして

    法律がはたらいていない国、士人が科学を知らず陰陽五行の国、残酷な刑罰を科する国、

    国民が卑屈にして恥を知らない国などと日本が思われてしまうのは、「間接に我が外交上

    の故障をなすことは実に少々ならず、我が日本国の一大不幸というべし」と、西欧文明国

    に追いつこうと努力している日本にとってはイメージダウンになることを懸念する。

    「左れば、今日の謀をなすに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可

    らず。寧ろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するの法も隣

    国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従って処分すべき

    のみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心において亜細亜東方の悪友

    を謝絶するものなり」と、日本は西洋文明国と進退をともにして中国・朝鮮への対応は、

    これらの国々にならうことを主張する。

    この「脱亜論」には、日本は亜細亜全洲の中で脱亜主義を採り、国民の精神はすでに西

    洋の文明に移ったというような記述があるので、彼が全アジアを意識しなかったわけでは

    ないが、主に隣国の中国・朝鮮に言及したものであった。

    その「脱亜論」の与えた印象は強烈なものであった。橋川文三は「諭吉はほとんど無情

    酷薄の印象を与えるほど、断固として、『野蛮』なアジアとの絶縁を宣言し、西洋文明の

    世界へ移行することを主張した 」と言い、司馬遼太郎も「脱亜」とは、「薄情な言い方」

    であると言っている 。

    6.脱亜論(Ⅱ)

    福沢の「脱亜論」に対しては様々な解釈が生み出されている。それらは、福沢の「脱亜

    論」についての言説であるが、その人が日本とアジアとの関係をどう見るかについての言

    説でもある。当節ではそれらの多様な言説を通じて、アジアと日本との関係がどのように

    認識されているのか、探ってみたい。

    まず、「脱亜論」が書かれた背景にある、福沢が支援していた朝鮮改革=甲申事変の失

    敗を重視した、つぎのような解釈がある。

    「『脱亜論』の主張は、明治17年12月の甲申の変の失敗と金玉均、朴泳孝等の日本亡命、

    そして翌18年初頭の独立党処刑の直後に、清国および朝鮮にたいするいわば縁切り状とし

    ― 41―

  • て出されたものである 。」

    「甲申事変が失敗して、改革派援助による朝鮮近代化=親日化政策が完全に失敗した。

    ……このとき福沢は、朝鮮国内の改革派を援助しての近代化政策をこれ以上追求すること

    は無意味であることを宣言するために『脱亜論』を書いたのである。……『脱亜論』は福

    沢のこの主張の敗北宣言にすぎないのである 。」

    清仏戦争(1884年)をさかいにして中国問題における脱亜が行われたとすれば、甲申事

    変をさかいにして朝鮮問題においての脱亜が行われた という指摘もある。

    また、橋川文三は、中国との提携論から侵略論までを四段階に整理して「脱亜論」を位

    置づけている。ただし、福沢には「日清同盟論」はなかった点に注意が必要である。すな

    わち、

    (1)欧米の圧迫→日中両国の提携による抵抗→「日清同盟論」

    (2)提携国としての清国が無力であるという認識→清国の改造・強化の必要という判断

    →いわゆる「清国改造論」

    (3)帝国主義時代の開始→清国の強化を待つ暇がないという切迫感→提携の切捨→「脱

    亜論」

    (4)先進帝国主義勢力への同調→「中国分割」への志向→日清戦争→侵略論

    つぎに、「脱亜論」の要点と考えられる文言に注目した解釈を見てみよう。

    まず、「隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず」に注目すると、「欧米列

    強と清によって、二重に日本の独立が脅かされているという感情がここにこめられてお

    り、それ故に独立確保に関して、一切の制約をもたないというのが『脱亜論』の本旨では

    なかったろうか 」となる。

    そして、「わが国は支那・朝鮮との接し方を西洋人と同じようにする」という件からは、

    日本のアジア侵略を肯定したものだという解釈が出てくる。

    さらに、「亜細亜東方の悪友を謝絶する」という最後の文言を重視すれば、つぎのよう

    な解釈ができる。

    「『脱亜論』は、『文明開化=西洋化』の主張ではない。そうではなくて、日本と中国・

    朝鮮は本質的に異なる存在であり、日本が中国・朝鮮と連帯することは不可能だ、という

    断絶の主張なのである 。」

    「清韓両国との腐れ縁的な関係を脱却し、日本は独自の思想と行動の論理を樹立すべき

    ことを強調したのが脱亜論の趣旨にほかならなかった 。」

    「先進西欧に習い、近づくためには、これまで交流してきた朝鮮、中国など遅れた国と

    の付合いは迷惑でむしろ支障となるので、これとは絶縁し西欧に目を向けようというアジ

    ア蔑視観のあらわれ 。」

    ただし、最後の解釈はあまりにも単純すぎると思われる。そして、「脱亜論」の背景に

    は福沢の「野蛮な」アジア批判の根源である儒教イデオロギーに対する嫌悪があったとも

    いわれる。

    ― 42―

  • さらに、世界認識・国際秩序観としての「脱亜論」という見方もある。

    「『脱亜』という言説構成は西洋文明先進国と非西洋・アジアの非文明国という二分法的

    な世界認識のなかで日本を新興文明国と規定しながら、文明国と非文明国という関係構造

    を日本と他のアジア諸国との関係に及ぼしていくことからなっている。」「みずから文明国

    と自負する日本は己を除くアジア諸国の上に文明境外に停滞する東洋という規定を押しつ

    けるのである 。」

    「国際秩序観としての脱亜論が裏にかくされている。……状況的認識としての1885年の

    『脱亜論』と構造的認識としての国際秩序観としての脱亜論を峻別することが必要である。

    『脱亜論』以前から、福沢の国際秩序観は脱亜論であった 。」

    また、「脱亜論」に対する解釈の主流と考えられるのは、文明開化、文明論を重視した

    それであるが、文明の名においてアジア蔑視と侵略を正当化する主張か否か解釈が分かれ

    ている。

    「清朝中国の当時の力と比べて、日本の力が弱かったことを思いおこせば、『脱亜論』は

    性急な侵略論などではない。……『脱亜論』の同時代的な意義は、福澤が日本の自衛力増

    強に関心を払いつつ、自立自存の道を日本人に発見させるべく、さしあたって文明開化と

    いう一つの確実な道を再確認し、これを国民に喧伝したまでであった 。」

    「日本を文明、中国・朝鮮を野蛮と規定し、文明論的観点から日本がたどった西洋的近

    代の意義、また日清戦争以後の日本の大陸支配を、脱亜の形で理論化したものといえ

    る 。」

    「その論を当時の時代背景において読むならば、それはアジアを蔑視する侵略論とはい

    えないばかりか、むしろ『文明論之概略』の正確な延長上にあると思われる。」「『脱亜論』

    は、西洋の視点からアジアを蔑視したものではなく、むしろ西洋諸国を批判したのと同じ

    目でアジアを評定したものなのである。それが結果として当時のアジアの諸国を酷評した

    ものと映るとしても、それを単純に蔑視などと捉えることはできない 。」

    「脱亜論」の総合的解釈としては、つぎのようなものがある。

    「『脱亜論』は、福沢において、アジア主義から脱亜主義への転換を公然と示した画期と

    みなしうる。……福沢アジア論の展開に即していえば『西洋人が之に接するの風に従て処

    分す可き』とした分割論の主張よりも、『共に亜細亜を興す』努力の否定と、『心に於て亜

    細亜東方の悪友を謝絶』し『其伍を脱して西洋の文明国と進退を共に』しようとする志向

    の表明とに、『脱亜論』の核心があった 。」

    「アジアの一員としてアジアの興隆に尽くすのではなく、アジアを脱し、アジア隣邦を

    犠牲にすることによって西洋列強と伍する小型帝国主義となろうとする、日本のナショナ

    リズムの悪しき伝統の中に、この類い稀な思想家も文明の名においてとらえられてい

    た 。」

    「福沢の『脱亜論』は、彼が、アジアに対するよりも、西洋により親近の情を抱いてい

    たといった事実から当然の如くに導かれたものではない。同時に、それは、後の日本が自

    ― 43―

  • 明のものとした、中国への一方的な優位の意識の表明でもなければ、単なるアジア切捨て

    論といった性格のものではない。あくまで、明治十年代半ばの国際状況での、未だ不安定

    でひよわな日本の地位を顧慮しつつ、その西洋におけるイメージを少しでも改善するため

    に、福沢が、最大限の現実的配慮を傾けて打出したものだったのである 。」

    福沢は、「日本がアジアから脱却できないからこそ、文明の基礎である人民の自覚をは

    げますために、あえて脱亜の目標をかかげたのだともいえる 」という竹内好のうがった

    解釈もある。

    そして、「将来の日本とアジアとの関係をこれほどはっきり洞察した議論もない 」とす

    る「脱亜論」に対する評価も生まれている。だが、つぎのようにいうのはいかがであろう

    か。

    「中国批判および朝鮮批判の形で展開し、日本の対外膨張を理論化した『脱亜論』の思

    想は、『脱亜入欧』を目指す近代日本のアジア認識に発展し、大アジア主義的ナショナリ

    ズムに継承され、朝鮮併合や満州事変以後における日本帝国主義の大陸支配、また大東亜

    共栄圏構想に基づく南進政策となって結実した。こうした歴史的足跡は、『脱亜論』の論

    理の必然的な帰結であった 。」

    「『脱亜論』が明治以後の日本近代化の方向を決定づけたことは事実である。……日本の

    大陸支配や南進を脱亜の形で理論化し、帝国主義支配の武器となった 。」

    これらの解釈はその後の日本の歴史の現実を当てはめた後知恵であり、生前の福沢もこ

    こまで「高い」評価をうけるとは予想しなかっただろう。なぜならば、彼の「脱亜論」

    が、広く知られるようになったのは、1960年代以降であり、それが戦前の日本の対外政策

    に影響を及ぼすことなど全く不可能なことであった。たしかに、20世紀前半の日本は、彼

    が「脱亜論」で主張したように、アジアの隣国よりも欧米列強を友とし、アジアを侵略し

    た。そして、このことを根拠として、福沢はそれまでの文明開化=日本の近代化の最高イ

    デオローグから日本のアジア蔑視・侵略を唱導したイデオローグへと評価が一変したので

    あった。このあたりに何らかの意図的な操作があるようにも感じられる。

    また、「戦闘的啓蒙者としての福沢の役割は、たぶん日清戦争まででおわっているだろ

    う。彼の思想が国家の思想として実現し、定着することによって思想家そのものは消滅す

    るのである 」という竹内好の評価が正しいとすれば、20世紀まで彼の思想が影響を及ぼ

    したというより、近代日本の外交の基本方針は一貫して欧米列強との連帯=「脱亜」であ

    り、アジアの盟主として大陸への進出志向があったという見方の方が正しいであろう。

    7.アジア主義(Ⅰ)

    戦前の日本のアジア侵略や大東亜共栄圏を連想させるので、戦後の日本においてアジア

    主義は一種のタブーとなり、日本人の意識の底に封印されてしまった。だが、近年、『中

    村屋のブース―インド独立運動と近代日本のアジア主義』『大アジア主義と頭山満』『アジ

    ― 44―

  • ア主義を問いなおす』などの本も出版され、アジア主義を再検討する機運が高まっている

    ように思われる。

    それでは、アジア主義とはなにか? あらためて、その定義を事典風に示せば、つぎの

    ようになる。

    「西洋の植民地主義の圧迫がアジアにもたらす危機にたいして、アジアの協力関係を作

    ることによって対抗する、という思想の系譜 。」

    「欧米帝国主義のアジア侵略に対して、アジアの連帯によって対決しようとする主張。

    大アジア主義>ともいう 。」

    「『アジア』を文明の原理として西欧近代文明に抵抗し、この原理の下にともに連帯して

    西欧の帝国主義に対抗しようという思想 。」

    だが、これらの定義は、日本だけでなく、アジア各国の反西洋思想・運動まで含んでい

    る広範な定義なので、日本のアジア主義の特徴、独特な点等が不明である。そのあたりに

    重心を置くと、つぎのような定義になる。

    「十九世紀以後、欧米の『白色人種』の国民国家が加えてきた外圧に対応して、日本人

    が抱いた地域的な『黄色人種』の運命共同体意識といっていい 。」

    「近代日本の種々の政治思想体系から、西力東漸を前にしてアジア諸民族との心情的一

    体感の上にアジアの諸国家・民族間の連合の方式を定式化した部分を抽出したものの総

    称 。」

    「巨視的に見る場合、“アンチ西欧”を共通軸にすえて、ヨーロッパの政治・文明に対抗

    するアジアのあり方を模索しながら、日本の国力の進展やナショナリズムの状況の変化に

    つれて連帯から侵略までの幅広い振幅を繰り返しつつ、絶えず変貌していった思想や運動

    の総称 。」

    このようにアジア主義は、アジア対西洋(西欧)という対抗関係を主軸としている。そ

    れにアジアの指導国日本という日本盟主論が追加されるとつぎのような定義になる。

    「日本近代史上に隠顕する一つの思想的傾向、すなわち西洋列強の抑圧に抗して、日本

    を盟主にアジアの結集を訴えたそれを指す 。」

    そして、戦後日本においてアジア主義にあらためて注目し、アジア主義研究をリードし

    た、竹内好はつぎのように述べていた。

    「アジア主義は、ある実質内容をそなえた、客観的に限定できる思想ではなくて、一つ

    の傾向性ともいうべきものである。右翼なら右翼、左翼なら左翼のなかに、アジア主義的

    なものと非アジア主義的なものを類別できる、というだけである。……アジア主義は、膨

    張主義または侵略主義と完全には重ならない。またナショナリズム(民族主義、国家主

    義、国民主義および国粋主義)とも完全には重ならない。左翼インターナショナリズムと

    も重ならない。しかし、それらのどれとも重なり合う部分はあるし、とくに膨張主義とは

    大きく重なる。」「しかし、どんなに割引しても、アジア諸国の連帯(侵略を手段とすると

    否とを問わず)の指向を内包している点だけには共通性を認めないわけにはいかない 。」

    ― 45―

  • 竹内好によれば、アジア主義はアジア諸国の連帯の指向を内包しているが、それは思想

    でなく、傾向性にすぎないのである。

    さらに、前述の脱亜論との関連で言えば、「アジア主義とは、ヨーロッパの『アジア』

    認識が受動的に内面化されて『根こそぎの西洋化』や『脱亜』という思想を生み出した後

    に、それを批判する対抗思想として成立したものである。しかし、それはむしろ批判を通

    して脱亜派を『アジアの盟主』論に引き戻そうとするものであった 」ともいえる。

    ところで、日本のアジア主義は、竹内も指摘していたが、北一輝・大川周明・内田良平・

    頭山満ら右翼から尾崎秀美のような共産主義者まで広がる多様性があった。それらを分

    類・整理しようとする試みもある。まず、西欧国家体系(ヨーロッパの内では平等な主権

    国家間の関係だが、アジアでは侵略と経済的従属政策を進めている)の否定の仕方にもと

    づいて分けると、アジア主義には二類型があったという。一つは、西欧国家体系の論理を

    徹底することによって、西欧国家体系を内面から否定していこうとするもので、もう一つ

    は、西欧国家体系の論理を外面から否定していこうとするものである。前者はアジア連帯

    主義となって表れ、後者は大アジア主義となって表れる。そして、「連帯主義に文明国日

    本の使命感が添加されると、連帯主義は肥大化と空洞化して大アジア主義のイデオロギー

    に転化するという連続点をもつ」という 。

    つぎに、高橋和巳は、アジア主義の5つの「特殊的形態」を提出している 。すなわち、

    ① ヨーロッパ列強に対抗するためのアジア国家の平等合邦ないし連邦策―樽井籐吉

    『大東合邦論』や内田良平

    ② 東洋の文化的伝統の新たな統合と覚醒によるヨーロッパ文明への対抗志向―岡倉天

    心『東洋の覚醒』や三宅雪嶺、大川周明

    ③ アジア各国の民権運動連合によるアジアの自立と相互扶助の実践―植木枝盛や宮崎

    滔天

    ④ 各国を革命によって亡国から救い、強力に統一された国家による役割分担によって

    列強に対抗しようとする志向―北一輝『支那革命外史』(これは、実質的には、日本

    を盟主とするアジアの連帯、国家膨張主義を正当化する論理になった)

    ⑤ 大東亜共栄圏イデオロギーや大東亜文学者大会などに示されるような④の志向のな

    だれ現象―代表する者はいない

    そして、アジア主義は、時期的に見ると、明治10年代の「興亜論」に始まり、日清戦争

    前後の「大東合邦論」「支那保全論」、大正期に入ると「アジア・モンロー主義」「大アジ

    ア主義」が唱えられ、満州事変―日中戦争期に「東亜連盟論」が出て、太平洋戦争下の

    「大東亜共栄圏」イデオロギーとなって、日本を敗戦へと導いた。(ただ、竹内好によれ

    ば、「大東亜共栄圏」思想は、ある意味でアジア主義の帰結点でもあったが、別の意味で

    はアジア主義からの逸脱、または偏向であった 。)

    さらに、アジア主義の地理的・人種的近接性にもとづく「連帯感」については、つぎの

    ような指摘がある。すなわち、日本の眼でなく、「ヨーロッパの眼には日本はまぎれもな

    ― 46―

  • くアジアの一員であるというあきらめにも似た自己認識が、日本とアジアとを結ぶきずな

    となっている。このようなアジア連帯の思想は、実は『野蛮』『固陋』の名の下に呼び慣

    らされたアジア諸国にたいする強い蔑視と深い不信とによって裏うちされているのであ

    り、この意味でそれは何ら主体的な連帯意識なき連帯感によって支えられていた 」ので

    ある。

    そして、日本のアジア主義の限界については、山室信一の指摘 がふさわしいと思われ

    る。すなわち、第一に、日本のアジア主義がアジアとの交渉とは全く無関係に、いわば防

    御的ナショナリズムとして形成されながら、それが拡張的ナショナリズムとして現われた

    という特性をもっていたこと。第二に、日本のアジア主義は、あくまでも欧米への対抗と

    して生み出されたものであり、……アジアの諸民族の実態をもととして生み出されたわけ

    ではなかったことである。

    8.アジア主義(Ⅱ)

    本稿では日本のアジア主義のすべてを取り上げる余裕はないので、前節の高橋和巳の分

    類の①から③のそれぞれから1人をとり上げることにした。アジア主義のなかでも日本と

    アジアとの連帯を強調し、日本の侵略を謳わなかったものとして、樽井藤吉の「大東合邦

    論」、岡倉天心の「アジアは一つ」、宮崎滔天のアジア主義、の3つを検討してみよう。

    (1)樽井藤吉『大東合邦論 』(1993)

    彼は奈良県に生れ、東洋社会党の発会を企図するなど政治活動に従事した。また、日本

    亡命中の金玉均の再起を応援し、玄洋社の頭山満らとも交際があった。中国に渡り東洋学

    館設立の企図に参加した。この本は福沢諭吉の「脱亜論」を意識して書かれ、日本と朝鮮

    が対等に合邦することを主張した。だが、大井憲太郎らの大阪事件に連座したとして逮捕

    されたときに草稿を紛失し、8年後に漢文にて出版した。朝鮮では広く読まれたという。

    樽井の日朝合邦という創見を継承した内田良平は、天佑侠を通じて一進会の李容九と結ん

    で日朝併合運動を進めた。

    樽井の両国合邦を必要とするアジア情勢の認識は、以下のようなものであった。

    「かの白人、わが黄人を殲滅せんと欲するの跡、歴々として徴すべきもの有り。わが黄

    人にして勝たずんば白人の餌食とならん。しかしてこれに勝つの道は、同人種の一致団結

    の勢力を養うに在るのみ。」

    ついで、両国合邦が可能となる条件とは、

    「日本は和を尊んで経国の標となす。朝鮮は仁を重んじて施治の則となす。和は物と相

    合うの謂、仁は相同ずるの謂なり。ゆえに両国親密の情は、もとより天然に出で、遏むべ

    からざるなり。……わが日鮮両国は、その土は唇歯、その勢は両輪、情は兄弟と同じく、

    義は朋友に均し。」

    ― 47―

  • そして、国号においてどちらが先か争うことのないようにと考え出した合邦後の新国号

    が「大東国」であった。それでは、同一人種である清を合邦に加えないのはなぜか。それ

    は、清の支配下にある諸民族と対等に合邦できないからである。彼は、清国とは「合従」

    つまり同盟を結ぶべきだという。こうして、日本と朝鮮の合邦、および清との同盟によっ

    て、将来、白人支配下のアジアの解放をも構想している。

    だが、日本と朝鮮との関係は、樽井の主張した対等合併でなく、日本による一方的な併

    合に終わり、李容九らは国賊とされたのであった。

    (2)岡倉天心の『東洋の理想』と「東洋の覚醒 」(1903)

    東京美術学校校長であり、日本美術院創立者であり、ボストン美術館東洋部長でもあっ

    た岡倉の『東洋の理想』は英語で書かれ、日本に紹介されたのは1939年であった。それ

    は、あまりにも有名な「アジアは一つ」で始まる。

    「アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明、すなわち孔子の社会主義

    をもつ中国文明と、ヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、ただ強調するためにのみ

    分っている。しかし、この雪をいただく障壁さえも、究極と普遍的なものを求める愛のひ

    ろい広がりを、一瞬たりとも断ち切ることはできないのである。そして、この愛こそは、

    すべてのアジア民族に共通の思想的遺伝であり、かれらをして世界のすべての大宗教を生

    み出すことを得させ、また、特殊に留意し、人生の目的ではなくして手段をさがし出すこ

    とを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族からかれらを区別するところのものである。」

    彼が「アジアは一つ」というのは、「普遍的なものを求める愛」の広がりという抽象的

    世界においてのことであり、広く人口に膾炙した、「ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱」

    という句も西欧の侵略=「白禍」に対していかにわれわれが精神的に武装するかという強

    い動機から出たものであった。したがって、「アジアは一つ」といっても現実はそうでな

    く「ヨーロッパの脅威自体がアジアを笞打って意識的な一体化に駆り立てている」という

    当為の表現にほかならなかったといえる。それでも、「東洋の覚醒」ではこう言った。

    「長い別離の後、今日、われわれは兄弟として出会う、いまは亡き懐かしい者たちに想

    いを凝らし、互いの眼にあえて現わそうとしない慰めを求めながら。インドの兄の心労に

    やつれた顔、男らしい屈んだ背中、感動に打ち震える誇りを見て、涙ながらの挨拶を送

    る。日本の弟の誇るたくましい四肢、彼がひそかに誇るその馬鹿げた闊歩にたいする揶揄

    に加わりつつも、歓迎する。遂に、すくなくともわれわれは再び出会ったのだ。オーム

    アジアの精神へ。」

    さらに、『東洋の理想』では、日本がアジア文明の「博物館」であると位置づけられる。

    「アジア文化の歴史的な富を、系統的にその秘蔵の実物を通して研究しうる場所は、日

    本をおいてないのである。……かくて、日本はアジア文明の博物館である。いや、たんに

    博物館に止まらない。というのは、日本民族の特異な天分は、古きを失うことなく、新し

    きものを歓び迎える、あの生ける不二一元論の精神によって、過去の理想のあらゆる局面

    ― 48―

  • を余さず維持しようと努める。……日本の芸術史は、こうして、そのままアジア的理想の

    歴史となる 東洋の思想の波が日本の国民意識という渚に打ちよせて来るたびに、波の

    痕を砂地に残してゆくのだ。」

    そして、「こうした複雑の中の統一ともいうべきアジア的特性をひときわ明瞭に実現す

    る作業こそ、日本の大いなる特権」とされ、日本がアジアの指導者である根拠とされた。

    このことは、岡倉が国民主義者でもあったことを示している。後に天心の「アジアは一

    つ」は、大東亜共栄圏のスローガンとして政治的に利用された。

    (3)宮崎滔天と中国革命

    彼は熊本県荒尾に生まれ、玄洋社と関係があり、頭山満、内田良平らと交友があった。

    宮崎滔天はアジア連帯論をもって、生涯中国革命を支援し続けた。その一端を示せば、

    1897年に犬養毅は滔天を香港、華中の清国革命派調査に派遣した。その後、滔天は孫文と

    知りあい、孫文を犬養に紹介した。98年には康有為の日本亡命に尽力した。1900年には孫

    文の挙兵準備工作に参画した。05年には中国革命同盟会創立に参加した。1911年に辛亥革

    命が起きると、上海に滞在して革命派を側面援助した。13年に孫文が日本に亡命するとこ

    れを援助した。21年3月、前年11月に再建された広東政府の孫文を訪問した。

    滔天が中国革命を援助したのは、以下の兄・彌蔵の清国革命論に触発されたからであっ

    た。

    「世界の大勢を達観し来れば、東洋に国籍を有する吾等は、如何にして国家を維持すべ

    きかが先決問題である。……天は吾等に其実力を養うべき余地を与えて居る。其処は我国

    より十数倍の面積を有し、十倍の人口を有し、尾大掉はず、正に末世の兆候を呈して居

    る。吾等此の国に移住して其国民となり、自由民権主義を鼓吹して其国政を革命し、国を

    富まし兵を強くし、茲に理想国を建設して、右に日本と手を握り、左に朝鮮を提げて、倒

    れたるを起し衰へたるを救ひ、進んで人道を無視せる狂暴国の鼻梁を蹴らば、是れあに人

    生の快事ではないか。謂う所の大国は即ち隣国の支那である。此の支那国を亡びざるに救

    ふて実力の根拠地となし、正義人道を以て宇内に号令する。」

    滔天も、支那革命主義は西力東漸への対抗策であるとともに世界に一新紀元を画すべき

    人類的社会革命の基礎確立方案であるといい、「余輩……清国を以て根拠となし、以て東

    洋問題より、世界問題、社会問題を一時に決せんと欲す」とも言った。

    このような思想をもった宮崎滔天からすれば、中国の変革主体は自由・共和主義者でな

    ければならなかった。滔天から見れば、孫文は「自由平等博愛の甲冑を着けた革命の化

    身」であった。そして、滔天は、孫文などを支援して中国革命の成功に尽力した日本人と

    して、中国側からも高く評価されている。

    宮崎滔天は、西欧国家体系がヨーロッパの内外を区分し、自由民主主義制度をヨーロッ

    パ内に限定してきたこと、ヨーロッパ文明が「野蛮的文明」であること、を批判した。日

    本、朝鮮、中国を自由民主主義の民族国家として確立することによって、西欧国家体系の

    ― 49 ―

  • 原理を乗り越えていこうとするものであった。

    9.おわりに

    近代日本はアジアよりもヨーロッパへ眼を向けていた。日本は欧米先進国の圧迫に対抗

    して近代化を進めた。そして、「欧米に追いつき追い越せ」のスローガンのもとで西洋化

    していった。それが「脱亜入欧」であった。日本はアジアにありながらアジアを捨てよう

    とした。近隣の遅れた、停滞した、専制的なアジアと異なっている度会いが高いほど西洋

    化が進んでいると考えられた。

    「先進的な西洋への同一化=『入欧』と同時に後進的な東洋との差異化=『脱亜』は、日

    本が自らを近代的な『自己』として確立するうえで不可欠な条件であった 」といえよう。

    さらに、日本は日清戦争でアジアの大国中国に勝ち、つづいて日露戦争でロシアという

    欧米の列強に勝利し、アジアのトップの地位を確保した。日本の国際的地位も高まり、第

    一次世界大戦後に創られた国際連盟において日本は常任理事国となった。日本は欧米列強

    と対等となった。だが、欧米列強の眼では日本は文明も人種も異なる存在であり、自分た

    ちと同じ存在とは見なしていなかった。黄禍論や日本人移民排斥の動きが出てきた。こう

    して日本は「脱亜入欧」が叶わず、アジアへ回帰することになり、アジア主義が強く唱え

    られることになった。だが、日本と対等に連帯できる国はアジアにはなく、アジア主義は

    アジア各国のナショナリズムを無視した観念的なものだった。それは日本のナショナリズ

    ムの変形したものとなり、結果として日本の膨張主義、アジア侵略を正当化する論理と

    なってしまった。

    日本にとってアジアは、否定されるべきだが否定できないアンビヴァレントな存在で

    あったといえよう。アジア回帰は、日本国内で立身出世を願って農村を捨てて都会へ働き

    に出た人々が故郷をなつかしく思う心理と似ていた のかもしれない。すでに日本では失

    われてしまったものがアジアにはある。なつかしいアジアにこそ本来の生活があると考え

    たのかもしれない。だが、今日、アジア諸国も近代化が進行してもはやなつかしいアジア

    は失われようとしている。

    そして、欧米先進国、アジア、日本という3つの主体を想定すれば、「脱亜論」は、日

    本は欧米に接近すべきだと主張し、「アジア主義」はアジアへの接近を試みたといえるが、

    その結果、日本を文明国の仲間と見るか、遅れたアジアの一員と見るかという問題が生じ

    た。すなわち、西洋化度=文明開化度を基準にして、欧米先進国―日本―アジアと序列づ

    ければ、日本は微妙な位置に立つことになる。そこで、「日本とアジア諸国との関係にお

    いて、アジアにたいする自然的な連帯感と自覚的な優越感という二重構造は、日本のアジ

    ア観の基本的性格として長く生きつづけた 」のであった。

    とにかく、日本にとってアジアは、「日本」というアイデンティティーを保つために必

    要なものであった。あるいは、日本にとってアジアは自己を映す鏡であったといえよう。

    ― 50―

  • というのも、

    「『アジア』という元来不分明な表象は、近代日本が西洋に対して自己主張を行うと同時

    に、文化的起源たる中国、朝鮮を改めて他者として見出す過程で発生した、新たな概念枠

    組みだったのである。……『アジア』を語ることは、ほぼ『日本』の独自性を語ることと

    同一に機能したのである 。」

    「近代日本のアジア認識とは、日本とアジアの関係性の認識であるとともに日本と世界、

    アジアと世界との関連についての認識であった。しかし、より本質的には日本についての

    自己の世界における位置を測定する鏡であり、自己確認のための枠組を提供するものでし

    かなかったといえよう。……アジア認識も日本像のポジ像ないしネガ像として“拡張され

    た自己像”という以上の質のものとはなりえなかった 。」

    「逆説的にいへば、アジアの観念はそれ自体は虚構であつたが、いはば『反面教師』と

    して、日本人の眼を自己の環境に向けて開かせた功績は大きい、といはねばならない 。」

    さりとて、日本はアジアにあり、日本人は黄色人種の一員であり、欧米の白色人種と全

    く同じにはなれない。日本人はアジア人を脱することは出来ないのである。日本人はアジ

    ア人として生きていく運命にあり、アジア主義をとらざるを得ないのである。だが、日本

    のための資源・市場獲得が主目標だった戦前のアジア侵略を繰り返すことはできないし、

    大東亜共栄圏を連想させるような日本のアジアへの進出では、アジアの人々の理解を得ら

    れないであろう。日本を指導者として欧米諸国の圧迫に対抗するためのアジアの連帯とい

    うのも、現実的ではない。グローバリゼーションに対抗するためのブロックを東アジアに

    形成することも日中韓の国際関係からみても容易ではない。中韓両国の反日意識は中華

    (華夷)意識に起因するので日本がいくら過去を謝罪しても解消しない という意見すら

    ある。

    それでもアジア主義にこだわるとしたら、「アジア主義を地域世界の価値の共存体系の

    構成要因として、すなわち開かれた地域主義に基づく新たな普遍性構築の素材として、ア

    ジアのみならず欧米その他の地域の人々に提起しうるのか」、という山室の紹介している

    吉野作造の問い にどう答えられるだろうか。また、竹内好の言ったように、ヨーロッパ

    近代を超克するもの=「アジア」の理念をどう構築できるだろうか。こうして、われわれ

    は「アジアとはなにか」に戻ることになる。

    1)植村邦彦、2006、『アジアは アジア的か>』ナカニシヤ出版、p.3~5

    2)トルコはサッカーの2006年ドイツ・ワールドカップ予選においてはヨーロッパ予選に参加

    している。トルコは、その一部がヨーロッパにまたがるとはいえ国土の大部分は小アジア

    である。主要宗教もイスラム教である。だが、トルコはEUに加盟してヨーロッパの一国

    になろうとしている。トルコの例から、アジアとはなにかは、地理的観点だけでは決めら

    れないと思われる。

    3)松村到、2005、『アジアとはなにか』大修館書店、p.10

    ― 51―

  • 4)同上、p.253

    5)子安宣邦、2003、『「アジア」はどう語られてきたか-近代日本のオリエンタリズム-』藤

    原書店、p.155~8。岡本幸治、1998、「『日本とアジア』か『アジアの日本』か」岡本幸治

    編『近代日本のアジア観』ミネルヴァ書房、p.4

    6)1960年6月以来ほぼ毎月実施。アメリカ、ロシア(以前はソ連)、イギリス、フランス、ド

    イツ(以前は西ドイツ)、スイス、インド、中国、韓国、北朝鮮(75年5月以降)の10カ国

    が対象。

    7)1975年以降ほぼ毎年実施。http://www8.cao.go.jp/survey/h17/h17-gaikoku/index.html

    より表1を作成した。

    8)1978年から1999年まで実施。「とくに信頼できると思う国」を5つまで選んでもらってい

    る。読売新聞社編、2000、『世論調査にみる日米関係』読売新聞社、p.46~52

    9)首都圏と大阪府での調査。田辺俊介、2004、「国別選好度から見る日本人の世界認知」

    『JGSS研究論文集』3

    10)同上、p.205

    11)鈴木二郎、1969、『人種と偏見』紀伊国屋書店、p.140

    12)松本健一、2000、『竹内好「日本のアジア主義」精読』岩波書店、p.166~7

    13)島田洋一、1998、「竹内好-『方法としてのアジア』の有効性」岡本幸治編、前掲書、p.268

    14)『竹内好全集』第5巻、1981、筑摩書房、p.114~5

    15)初瀬龍平、1982、「アジア主義と国際システム-宮崎滔天の場合-」安部博純・岩松繁敏編

    『日本の近代化を問う』勁草書房、p.7

    16)山田昭次、1969、「自由民権期における興亜論と脱亜論」『朝鮮史研究会論文集』第6集、p.

    41

    17)坂野潤治、1977、『明治・思想の実像』創文社。また、彼は、同書において日本のアジア膨

    張に対する中国の抵抗の強弱、ロシアの脅威度に応じて、対外論は「脱亜論」的、ないし

    「アジア主義」的傾向をもつと指摘している。

    18)山室信一、1999、「日本外交とアジア主義の交錯」『年報政治学1998』、p.4

    19)青木保、1999、「現代日本の『アジア・イメージ』」青木保・梶原景昭編『情報社会の文化

    Ⅰ 情報化とアジア・イメージ』東京大学出版会、p.32、34

    20)橋川文三、1973、『順逆の思想-脱亜論以後』勁草書房、p.59

    21)芝原拓自・猪飼隆明・池田正博校注、1988、『日本近代思想大系12対外観』岩波書店、p.

    312~4。富田正文・土橋俊一編、1981、『福沢諭吉選集第7巻』岩波書店、p.221~4

    22)橋川文三、前掲書、p.56

    23)「司馬遼太郎が語る日本 第74回 私の脱亜論の見方」『週刊朝日』1997・12・5、p.50

    24)飯田鼎、2003、『福沢諭吉と自由民権運動-自由民権運動と脱亜論-』お茶の水書房、p.

    245

    25)坂野潤治、1981、「解説」『福沢諭吉選集第7巻』岩波書店、p.337~8

    26)坂野潤治、1974、「『東洋盟主論』と『脱亜入欧論』」佐藤誠三郎・R・ディングマン編『近

    代日本の対外態度』東京大学出版会、p.49

    27)橋川文三、前掲書、p.23

    28)青木公一、1978、「『脱亜論』の源流」『新聞研究所年報』No.10、p.45

    29)植村邦彦、前掲書、p.174

    ― 52―

  • 30)橋川文三、前掲書、p.56

    31)韓桂玉、1996、『征韓論の系譜-日本と朝鮮半島の100年-』三一書房、p.67

    32)子安宣邦、前掲書、p.68、70

    33)初瀬龍平、1984、「『脱亜論』再考」平野健一郎編『近代日本とアジア-文化の交流と摩擦

    -』東京大学出版会、p.21

    34)三輪公忠、1973、「アジア主義の歴史的展開」平野健一郎他編『総合講座日本の社会文化史

    4 日本文化の変容』講談社、p.411~2

    35)今永清二、1975、「福沢諭吉の『脱亜論』」『アジア経済』16巻8号、p.16

    36)平山洋、2002、「福澤諭吉の西洋理解と『脱亜論』」西洋思想受容研究会編『西洋思想の日

    本的展開-福澤諭吉からジョン・ローズまで-』慶応義塾大学出版会、p.34、51

    37)吉野誠、1989、「福沢諭吉の朝鮮論」『朝鮮史研究会論文集』第26集、p.52~3

    38)『遠山茂樹著作集』第5巻、1992、岩波書店、p.32~3

    39)『坂本多加雄選集Ⅰ 近代日本精神史』2005、藤原書店、p.137

    40)竹内好、1961、「日本とアジア」竹内好編『近代日本思想史講座8』筑摩書房、p.368

    41)河原宏、1968、『アジアへの思想』川島書店、p.64

    42)肖朗、1999、「『脱亜入欧』を目指す近代日本のアジア認識」松原勉・渡辺かよ子編『差別

    と戦争-人間形成史の陥穽-』明石書店、p.226~7

    43)今永清二、前掲論文、p.17

    44)竹内好、同上論文、p.356

    45)並木頼寿、1997、「樽井藤吉の『アジア主義』」義江彰夫他編『歴史の文法』東京大学出版

    会、p.227

    46)桂島宣弘、1998、「アジア主義」廣松渉他編『岩波哲学・思想事典』岩波書店、p.15

    47)松本健一、1992、『原理主義-ファンダメンタリズム-』風人社、p.10

    48)三輪公忠、前掲論文、p.386

    49)初瀬龍平、1980、『伝統的右翼内田良平の研究』九州大学出版会、p.20

    50)上村美希夫、2001、「アジア主義」西田毅編『近代日本のアポリア-近代化と自我・ナショ

    ナリズムの諸相-』晃洋書房、p.123

    51)平石直昭、1994、「近代日本の『アジア主義』」溝口雄三他編『アジアから考える5 近代化

    像』東京大学出版会、p.265

    52)竹内好、1963、「アジア主義の展望」竹内好編『現代日本思想大系第9巻 アジア主義』筑

    摩書房、p.12~4

    53)植村邦彦、前掲書、p.208

    54)初瀬龍平、1982、「アジア主義と国際システム」安倍博純・岩松繁敏編『日本の近代化を問

    う』勁草書房、p.7~11

    55)高橋和巳、1964、「アジア主義」清水幾太郎編『現代思想事典』講談社、p.24~6

    56)竹内好、前掲論文、p.13。松本健一は、この点について、疑問を呈している。(松本健一、

    2000、前掲書、p.142~5)

    57)松本三之助、1961、「国民的使命観の歴史的変遷」唐木順三・竹内好編『近代日本思想史講

    座8世界のなかの日本』筑摩書房、p.95

    58)山室信一、前掲論文、p.31~2

    59)樽井藤吉(竹内好訳、1963)「大東合邦論」前掲『現代日本思想大系第9巻』所収、並木頼

    ― 53―

  • 寿、前掲論文、桂島宣弘、1994、「アジア主義・何処から何処へ」新田義弘他編『岩波講座

    現代思想14近代╱反近代』岩波書店、川瀬貴也「アジア主義とは何だったのか」同氏ホー

    ムページ(http://homepage1.nifty.com./tkawase/osigoto/asianism.htm)等を参考にし

    た。

    60)岡倉天心、1986、『東洋の理想』講談社、橋川文三、前掲書、p.56~76、桂島宣弘、同上論

    文、平石直昭、1998、「近代日本の国際秩序観と『アジア主義』」東京大学社会科学研究所

    編『20世紀システム1構想と形成』東京大学出版会等を参考にした。

    61)宮崎滔天、1993、『三十三年の夢』岩波書店、上村希美雄、前掲論文、石田収、1998、「宮

    崎滔天」岡本幸治編、前掲書所収、衛藤瀋吉、1986、「宮崎滔天」山崎正和編『言論は日本

    を動かす 第3巻 アジアを夢みる』講談社等を参考にし、とくに初瀬龍平、前掲論文、p.15

    ~30に大きく依拠している。

    62)阿部潔、2001、『彷徨えるナショナリズム-オリエンタリズム/ジャパン/グローバリゼー

    ション-』世界思想社、p.78

    63)松本健一、2000、「日本におけるアジア観」石井米雄編『アジアのアイデンティティー』山

    川出版社、p.70

    64)松本三之助、前掲論文、p.96

    65)中村春作、2005、「明治期ナショナリズムと『アジア』」西村清和・高橋文博編『近代日本

    の成立-西洋経験と伝統-』ナカニシヤ出版、p.188

    66)山室信一、1996、「アジア認識の基軸」古屋哲夫編『近代日本のアジア認識』緑蔭書房、p.

    39

    67)山崎正和、1986、「解説」山崎正和編、前掲書、p.x

    68)古田博司、2005、『東アジア「反日」トライアングル』文藝春秋、第2章

    69)山室信一「日本外交とアジア主義の交錯」p.32、同、2001、『思想課題としてのアジア-基

    軸・連鎖・投企-』岩波書店、p.633

    ― 54―