michelangelo s project for the new basilica of st peter

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Architectural Institute of Japan NII-Electronic Library Service Arohiteotural nstitute of Japan カテ 1 日本 建 築 学 会 画系論 文 598 205 ZIO 2eOS 12 J Arch tPlann AIJ No 59S 205 210 Dec2005 大聖堂 事業 にお るミ 計画 1 MICHELANGELO S PROJECT FOR THE NEW BASILICA OF ST PETER PART 1 塩井 おり Kaori SHIOI The present paper exarttincs the planningprocess at山e early stages of the ebuilding project for theBasilica of St Peter launched ate begi mi 9 f th 16 i R t ・・ p tw s m 1 ngitudinal into ・・ P de, 。,df Po Pa IIIdg 出e timeofa politic d onomic Grisis e Sack efRorme Heweverelose obscrvatien o e floor plans fortheBasilica s ws 血e chil s k e in ive g 山e pl g 11 le Sack ofRome provk as g in dve t i 10depat om long 1a ng basilican tradidon and adopt 廿rc iclcal forrn of hechurch buikling as illus ated in theR 田ssance eory efarchhecture Fu 曲 er oien ation sbows that the architects never )鳳md a sol tio tothe pmblem ofhow to c e wide dif rences am mg eir designs intle o 山er pa oftlli buii g t isconceivable thatMichelangelo sought tO pree ude the possibility thathissuccessors woUld extensively moddy hisdesign Tllis y well exp ain 廿reason 出at wh { le re aaining thef {)rm ofacen 甑晝 plan he redu d the s e ofthe building and oompbted a sigrlificant po on of itwithin the short period efhis owri teriure Key vrdS Basili αa ofSt Peter BranUtnte Michelangelo Jentralplan Langitudinaiplan 大聖堂 ンテ ミケラ 集 中式 長堂式 L 世紀初期 ンス 建さ 大聖堂はキリ しての 役割 巡 礼 者 が訪 れしか ネサ ンスに入 千年月を教会堂はみ が激 しく適度な大きさ 代遅物 とな り果 て再建 必要に迫られ てい そこで 1503 教皇 リウ 建築家ブンテを 宮殿 めた 規模な再建事業 乗 り出 建設 以後百年以上 も継続 ネサ 最大 とな であ 築家 されたブ 宮殿 と 接す 敷地条件 考慮 して な 試 作 案 を検 討 ネサ ンス 建築 現 を 目指 した時期 計画案が 現存 半年間に作成された Uff IA Uff 8A verse Uff 20A ンテ の 計方針 を 示 す 重 要 な 手 が か り とな てい parchrnent pln )と して知 られ Uff IA は羊皮紙上図面十九世紀後 てこの たガ イミ は描かれた図形を転させて りを な集 中式 平面図 を再現 し以後 れが 計画案 と して 受 け入 れ られ (図 1 a 近年ブ ンテ が には 建 物 を念 頭 に とす 究論 文が を控えて 最 終 案 が現 存 しとか ら議 論 余 地 を残 す 形 と な 1 さ らに 事 態 を複 雑 に しのは 工の 十年後 建築現場 を 記 録 した 測 量 図 が特 定きるとか ら 基準 平面図を再現すると トプ ラ全く るこ 2 2 要するに トプ を完成 させてか 半年 期間に が極端 設計変更 したことを は示 して ので あり理由と して 教皇 計画には 積極的 はなくリカ 伝統た建 現を目指 した か だと 有力3 当初 波乱 満ちた事業 とを せて うな計混乱をよそに15064 月建設 事が交 差部 始さ1513 年までに四本 巨大独立柱が 完成 には 柱問 にア チをける作が終了しまた この テは 世紀 進 め られ た基 礎事を いで 西 てい 4 短期問 が完 るかの であ たが しか し 1513 年に リウ スニ 世が他界 翌年 テが亡 を機 情 勢 は悪 化 途を辿 年余 皇及 主任 建 築 家 と交 代 大聖堂幾度 とな く大 幅 変 更 され たこの 代未聞 状態 いて 上 よ く知 られ おり最終 ミケ ラ に沿 て 主 要 部 を建 設 し後に 東側 身廊 を付加 した こ と を記に留めて る諸氏 も少 な 京都大学大学院地球環境学舎 学院 Graduate Student Graduate School of GlobalEnvironmental Studies KyotD Univ M Eng 205 N 工工 Eleotronio Library

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Page 1: MICHELANGELO S PROJECT FOR THE NEW BASILICA OF ST PETER

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【カ テ ゴ リー1】 日本建 築学 会計画系論 文集 第598号,205.ZIO,2eOS年 12月

    J.Arch 正t.  Plann., AIJ, No .59S,205−210, Dec.,2005

サ ン ・ピ エ トロ 大聖 堂 再建 事業 に お け る ミケ ラ ン ジ ェ ロ の 計画案 そ の 1MICHELANGELO ’

S PROJECT  FOR  THE  NEW  BASILICA  OF  ST . PETER   PART  1

塩井 か お り

Kaori  SHIOI

   The present paper exarttincs the planning process at山e early stages of  the卩ebuilding  project for the Basilica of  St. Peter, launched at出 e

begi・mi ・9 。f th・ 16山 ・・i・ R ・ ・鴇 .匸t幡   ・・脚 翻 血 ・ p・句  t w ・s 騰   面   m ・ 1・ngitudinal  into・ ・  副 P  皿 de,出 ,。,d脚 f

Po陟 Pa副 III d曲 g 出e time ofa  politic田   d   onomic  Grisis 血 出 e Sack efRorme . Hewever elose obscrvatien  o 紬 e  floor plans for the Basilica

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10depa【t行om  long・1a釦 ng  basilican tradidon  and  adopt 廿rc iclcal forrn of重he church  buikling as illus駐ated  in the R   田ssance 出 eory  efarchhecture .

   Fu曲 er oien 厂ation sbows  that the architects never 食)鳳md  a sol 驤tio嘛 to the pmblem  ofhow  to  c鈕e wide  dif琵 rences am 〔mg 血 eir  designs

in tle o山er pa耐 oftlli}buii曲 g,畳t is conceivable  that Michelangelo sought  tO pree}ude  the possibility that his successors  woUld  extensively  moddy

his design. Tllis  y well  exp 且ain 廿囮 reason 出at wh {le re aaining the f{)rm  ofacen 甑 晝plan, he redu   d the s皀e ofthe  building and  oompbted  a

sigrlificant po血 on  of  it within  the short period efhis  owri  teriure.

Key − vrdS  ’ Basiliαa ofSt. Peter, BranUtnte, Michelangelo,(Jentralplan, Langitudinaiplan

      サ ン・ピエ トロ 大 聖堂、ブ ラマ ン テ 、ミケ ラ ン ジ ェ ロ 、集 中式、長 堂式

L 序

 .四 世紀初 期に コ ン ス タ ン テ ィ ヌ ス 帝の 統治下で 創建 され た ロー

の サ ン ・ピエ トロ 大聖堂 は、キ リス ト教世界の 中心地 と して の役割 を

担い 多くの 巡礼者 が訪 れて い.た。しか し、ル ネサ ン ス に 入 り千年以上

の 歳月 を経た 教会堂は傷み が激 しく、適度 な大き さの 内陣に欠 ける 時

代遅れ の建物 とな り果 て、再建の 必要に迫 られ て い た。そ こ で、1503

年に教皇 となっ た ユ リウス ニ 世 は 時の 建築家 ブラ マ ン テ を 起用 し、ヴァ テ ィ カ ン 宮殿を含め た 大規模 な再建事業 に乗 り出 した。サ ン ・ピ エ

トロ 大聖 堂の 建設 は以 後百年以上 も継続 し、ル ネサ ン ス 最大の 建 築事

業と な っ た の で あ る。

 主任建 築家に 任命 され た ブ ラマ ン テ は、ヴァ テ ィ カ ン 宮殿 と接す

る敷地条 件 を 考慮 して 様 々 な試作 案 を検討 し、ル ネサ ン ス の シ ン ボ

ル となる建築の 実現 を 目指 した。こ の 時期 の 計画 案が幾つ か現存 し

て い るが、中で も着工 前の 半年間 に作成 された Uff. IA Uff.8A  verse ,Uff.20A は ブ ラ マ ンテ の 設 計方針 を示す 重要 な手 がか りとな っ て い

る。特 に、パーチ メ ン トプ ラン (parchrnent pln )と して知 られ る Uff.IA

は羊皮紙 上に 建 物の 平面の 半 分を描い た 美 しい 図 面で、十九世 紀後

半に な っ て こ の 図 に魅せ られ た ガ イ ミュー

ラーは描 かれ た図形 を反

転 させ て 残 り を補 っ た完 全 な集 中式 の 平面図 を再現 し、以 後 こ れが

ブ ラ マ ン テ の 計 画案 と して一般 に 受 け入 れ られて きた (図 1−a ) 。 し

か し、近年 ブ ラ マ ンテ が 実際 に は 長堂 式 の 建 物 を念頭 に置い て い た

とす る研究論文 が出 され、着工 を控 えての最終 案 が現 存 して い ない

こ とか ら議論 の 余地 を残す 形 とな っ て い る1。

  さらに事態 を複 雑 に して い るの は、着工 の 十年後 に建築現場 の 状

態を記録 した測 量図 が特 定で き るこ とか ら、施工 の 際に 基準 となっ

た 平面図 を再現す る とパ ーチ メ ン トプ ラン とは 全 く異な る こ とで あ

る (図 2)2。要す るに、パーチ メ ン トプ ラ ン を完成 させ て か ら半年

と い う短期 間に ブ ラマ ン テ が極 端 に設 計変 更 し た こ と を 現存す る図

面 は 示唆 して い るの で あ り、その 理 由 と して 教皇 ユ リ ウス ニ 世 が 集

中式 の 計画案に は積極 的 で は な く、バ シ リカの 伝 統に 則 っ た建 築の

実現 を 目指 した か らだ と の 解釈が 有 力で あ る3。

 開始当初か ら波乱 に 満 ちた事 業で あ っ た こ とを窺わせ て い る が、この よ うな計画上 の 混乱 をよそに、1506年 4 月建設 工事 が交差部の

独立柱か ら開始され、1513年 までに四本 の 巨大独立柱 が完成 し翌年

に は柱問に アー

チ を架 ける作業が終 了 して い る。また、こ の 間ブ ラ

マ ン テ は 十五 世紀に ニ コ ラス 五 世の 下 で 進 め られ た基 礎工 事 を引き

継い で 建物の 西 側に 内陣を建設 して い る4。短期 問 にすべ て が完 了 す

る か の 如 く の 勢い で あ っ た が、しか し 1513 年 にユ リウス ニ 世が他 界

し翌年 に ブ ラ マ ン テ が 亡 くな っ た の を機 に、情 勢 は悪 化の 一途 を辿

る。以 後 三 十年余 りの 間教皇及び 主任 建築家 が 次々 と交代 し、サ ン ・

ピエ トロ 大聖 堂の 計画 案は 幾度とな く大幅 に 変更 され た。

  こ の 前代未聞の 混乱 状態に つ い て は建築 史上 よく知 られ て お り、

最終的 に ミケ ラ ン ジェロ の 計画案に沿 っ て主要 部 を建設 し、後 にマ

デル ノが東側 に 身廊を付加 した こ と を記憶に留 めてい る諸氏 も少 な

京都大学大学院地 球 環 境 学 舎  大 学院生 ・工 修 Graduate Student, Graduate School of Global Environmental Studies, KyotD  Univ,,M .Eng.

一 205 一

N 工工一Eleotronio  Library  

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執耀

la ブラマ ンテ 1505 年 lh ラファエ ロ 1514年   k ペル ッ ツ ィ ISM)i21年   1d.サンガッ ロ 15SU4ts年 1弋 ミケランジェ ロ 154664 年

      図 1  1505年 か ら 1546年 に お け る平 面 計 画 案 の 抜 粋

くは ない で あ ろ う。本 論 で は サ ン ・ピエ トロ 大 聖 堂 の 再 建事業に 再

び焦 点を 当て、初期 の 計画過程 を検 討 した上 で ミケ ラン ジェロ が 如

何に して この 混乱状 態か ら脱 したの か を探っ て み た。

2.事業初期 の 経緯

 サ ン ・ピ エ トロ 大聖堂の 再建事業初期にお い て は数多くの 図面 が

作成 され たが 、中で も影 響力 の あ る計 画案 と して 図 1 の 五 つ の 平 面

図を採 り上 げるの が一

般 的で あ ろ う5。本 論で もブ ラ マ ン テ か ら ミケ

ラ ン ジ ェ ロ に 至 る計画過 程 を検 討す る 際 に これ らの 図 面 を 参照 点 と

す るこ と と し、手始 め と して ま ず は事業初 期の 経緯を確認 してお く。

ブラマ ン テ の 死後 ラフ ァ エ ロ が 主任 建築家に任 命され、フ ラ ・ジオ

コ ン ドとジ ュ リア ノ・ダ ・サ ン ガ ッ ロ が 助 手 に なる。しか し、助手

の 二 人 は二 年 以内に退 き、代わ っ て ア ン トニ オ ・ダ ・サ ンガ ッ ロ が

起用 され る。ブ ラマ ン テの 死 後間 もな くラ フ ァ エ ロ は それ まで の 方

針 に 沿 っ て 図 1・b の よ うな長 堂式の 計画 案を作成する が、以後同様の

平面図 を基 に立 面計 画や 断 面計画 を試み る 以外 に、サ ン ガ ッ ロ との

共同作業 に も拘 らず 目立 っ た 進展 は なか っ た。一方 現場で は 1519年

に十字形 の 南側 の 腕 の 先端部 に 位置 す る ア プ ス の 外 壁 工 事が 開始 さ

れ るが7、その 翌年 に若 くして ラ フ ァ エ ロ は 亡 くな り、事業は サ ンガ

                     1

図 2 着工 時に お け る計画 案 (推定 )

ッ ロ に 引 き継 がれ 助 手 に はペ ル ッ ツ ィ が任命 され る。こ こ で 注 目し

て お きた い の は仕事 を引き受け て 間 もな くペ ル ッ ツ ィ が ラフ ァ エ ロ

の 計画案を大幅に 変更 し、図 1・c の よ うな集中式教会堂 を提案 して い

る こ とで あ るS。だが、この 六年 後 に帝国 軍に よ っ て ロ

ーマ 略 奪 (サ

ッコ ・デ ィ

・ロー

マ )が行 われ事 業は一時 中断 せざるを得 な くな る。

 1534年 ク レ メ ン ス 七世 が他界 し、後 を継 い だパ ウロ 三 世 はロー

略 奪後 亡 命 し て い た ペ ル ッ ツ ィ に 主任建 築家 の サ ン ガ ッ ロ と同等の

給 料を支 払 うこ とを 約 束 し、ロー

マ で の サ ン ・ピエ トロ 大聖 堂に お

け る建築計画 の 再 開 を要請す る。こ の 政治 的経済的 に不安定 な時期

に ペ ル ッ ツ ィ は 事業方針 の 根本 的な変 更 を試 み、ミケ ラン ジ ェ ロ が

後に 計画 する よ り以上 に 十字形 の 腕 を短縮 して ブ ラマ ン テ が建 設 し

た内 陣を取 り込 み 四 隅に 位置す る塔や 礼拝 堂 を排 除 して 規模 を極力

押 さえる一方 で、東側 に 小型 の 身廊 を付加 した長 堂式の 平面 図 を幾

つ か 作成す る9。しか し これ らの 実現に踏み切 っ た形跡は な く、ペ ル

ッ ツ ィ は 集中式の 計画 案に 戻 っ て い くこ とが現存す る図面 か ら確認

で き る rlS lo、1536年 自ら の案 を実行 に移す 間 もな くこ の 世 を去 っ た。

 以 後 単独 で 計画 を押 し進 め る こ とに な っ たサ ン ガ ッ ロ は、建物 を

再 び 東側 に 拡大 し、1538年 に は 図 1−d の よ うな計画 案を練 り上 げる

11。この 間建築現場 で は工 事 が遅 々 と して進 まず、サ ン ・ピエ トロ 大

聖堂 に集ま っ た大勢の 巡礼者は 遂 に しびれ を切 らしたの で あろ う。

翌年に原寸 の 三 十分の 一とい う大型 の 模型 を提示 よ うサ ン ガ ッ ロ に

要求 した。長さ 7,36 メートル 、幅 6.02メートル 、高 さ4,68 メ

ートル

に 及ぶ 巨大模型の 製作 に は七年 を要 し、しか もサ ン ガ ッ ロ は実施設

計 よ りも模型 製作 に専念 して い た こ とが現 存す るス ケ ッ チか ら窺え

る。一方、建 築現場 で は サ ン ガ ッ ロ が作成 した計 画案に沿 っ て 建設

活動が活発 化 し ヴォール トを掛 ける 作業等が 進行す るが、結局 1546

年 に サ ン ガ ッ ロ は 亡 くな っ た12。

  続 い て パ ウ ロ 三世 は ミ ケラ ン ジ ェ ロ を主任 建築家 に 抜擢す る の で

あ り、こ の 時 建物の 西側 で は内陣が ヴォール トま で 建設 され 、ま た

交差部で は 独 立柱 を連 結す るア ーチ 上 部 の ペ ン デ ン テ ィ ヴま で 完成

し、その 外周 に はバッ トレ ス の 役割 を果 たす柱が 配置 され て い た。

さ らに、ヴォー

ル トを架 ける作業 がこ れ らの 柱間 にて半 ば完 了 し て

い た の みな らず、十字 形の 四本 の 腕 の 内東側 で 進行 中で 、南側 で 終

了 して い た[2、ミケ ラ ン ジ ェ ロ は こ れ ら交差部周辺 の 構 造体を引き継

ぐ一方 で サ ン ガ ッ ロ の 案 を根 本的 に 変更 して 図 1−e の よ うな縮小型

の 集 中式 教会堂 を計画 し、小型 の 模 型 を製作 して 教皇に 提示 した14。

そ して承諾 を得 るや否 や建 設工 事 に取 り掛 か っ た15。ミケ ラ ン ジ = ロ

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は こ の 方針 を採 用 した根 拠 を書簡 に 次の よ うに 記 して い る。

    ブ ラ マ ン テが 建築界で 古今を通 じて 何人も及 ばない ほ どに 有能だ っ た こ

    とは否 定で きませ ん e 彼は サ ン ・ピエ トロ 大聖堂の 最初の 平面 図を描き

    上 げま したが、それ は理解 し難い複雑さを伴 っ て い るの で はなく、む し

    ろ透明 純粋か つ 光輝に 満ち、隣接する ヴァテ ィ カ ン 宮殿 を損な うこ との

    ない 計 画で あ りま した 。それ は か つ て美 しい と 賞賛 され、そ して その こ

    とが今 こ そ証明 され ん と して い ます。サ ン ガ ッ ロ が 行 っ た よ うに 、如何

    な る者 で あろ うともブ ラ マ ン テ が創造 した この 秩序か ら逸脱せ ん とす れ

    ば、それ は真 理か らの 逸脱 となる で し ょ う1tin

ミケ ラ ン ジ ェ ロ が実際に パ ーチ メ ン トプラ ン を 含む ブ ラ マ ン テ の 計

画案を一見す る機会を得た か ど うか は定か で はな く、また こ れ らが

集中式 教会堂 を示 して い る と も断定で きない こ とか ら、む しろ ミケ

ラン ジ ェ ロ は ブ ラマ ンテ の 下で 建設 され た 交差部周 辺 の 構 造 体 に言

及 し、こ れ らを中心 に建 物を構成する こ と こ そ が ブ ラマ ン テ の 意 向

を反 映 した計 画で あ る と主張 して い る と解釈され る。

 続 く箇所 で ミケ ラ ン ジ ェ ロ は サ ン ガ ッ ロ の 模型 を痛烈 に 批判 し、

そ の 理 由 とし て建 物が 入 り組 ん だ 構造 とな っ て い るた め 隅々 まで 光

が届 か ず犯 罪 が多発 す る場 とな っ て い る こ と17、ま た規模 が 大 きす ぎ

て敷 地周辺 部に あ る既存 の 構築物 を 不 必 要 に 取 り壊 さ な けれ ば な ら

ない こ とを挙げて い る。図 1・e か ら明 らか なよ うに、ミケラ ン ジ ェ ロ

は十字 形先端 部に位置する 周歩廊を削除 して 建物 の 南北方 向の 幅 を

15%以 上 も縮 め、四 隅に 配 置され た 礼拝堂の 構成を単純 明解 に し、

外部 か らの 光 が内部 に 行きわた る よ うに計画 して お り、書簡 の 言明

をその まま実行 に 移 した か の よ うで あ る。しか し、実際 に は構 造体

周 辺 部 に位 置す る 二次 的 な空 間 を取 り除い た た め に、必 要 と され た

礼拝 堂等 の 多 くを断念す る結 果 と な っ て い るIS。さ ら に、南側で は ラ

フ ァ エ ロ の 下 で建設 が 開始 され た 十字 形 先端 部の 外壁 工 事 が 約十 メ

ートル の 高 さに達 して お り19、ミケ ラ ン ジ ェ ロ は これ に加 えサ ン ガ ッ

ロ が 建設 した部分の 約三 分の 二 を撤去 して まで 建物 の 規模 を縮小 す

る案 を出 して い る。こ の よ うな大胆 な方針変更に も拘 らず、そ の 理

由に関 して ミケラン ジ ェ ロ の書簡か ら積極的な回答を 得る こ とはで

きない 。そ こで 以 下の 考察 を試み た。

3.事業初期 の 計画遇 程 に 鬨す る先行 研 究

 ル ネサ ン ス の 建 築理 論 家で あっ た セ ル リオ は、サ ン ・ピエ トロ 大

聖 堂の 再建 事業初 期に お い て、ブ ラマ ン テ の 試 作案に 基づ い て ラ フ

ァ エ m が 長 堂式教会 堂 を計画 し、ペ ル ッ ツ ィ が集 中式 教会堂 の 模型

を製 作 した と記 して い る20。しか し、十九世紀半 ばに パ ー

チ メ ン トプ

ラン が 発見 され、ブ ラマ ン テ の 計画案は 集中式 で あっ た と の 解釈が

一般 に通用 す るよ うに な っ た 。 その 後、なぜ建 物全体の 構成を幾度

とな く根本 的 に変 更 したの か に 関し て は 様々 な議論が繰 り広 げられ

て きた。そ こで、本 章で は現在 主流 となっ て い る 解釈を振 り返 っ て

み るこ と とす る。

 十 五 世紀中期に ア ル ベ ル テ ィ は 『建築論』 を著し、円 を基本 とす

る集 中式 こ そが 自然 の 法則 に 則 っ た完全 態で 神聖 な建 造物 に は 理 想

的で あ る と 主張 した、以後、実際 に 集 中式教会 堂が頻繁 に 建造 され

始 め て お り、ア ル ベ ル テ ィ が 提唱 したル ネサ ン ス の 建築理 論を反映

した 形 式 で あ ると ウ ィ ッ トコ ウア ーは 解釈 して い る。そ の 手 がか り

とな っ た の は 『建築論』 にお ける次の 記述 で あ る。

   自然が 円を好む とい うこ とは、自然の 影 響下 で 形作 られ、生み 出 され、

   創 造 され たすべ て の もの を見れば一

目瞭然で ある。地球や、星、そ して

   動 物や彼 らの 住居等 に言及す るまで もなか ろ うn すべ て が 可能な限り円

   形、また は球形 に 近づ こ うとする 自然の 原理 に 従 っ て い るで はな い か11。

アル ベ ル テ ィ は こ の よ うな 自然観 を建築に 適用 し、古代の 建造物の

多 くが円 形 に 近い 平面 上 に構 築 され て い た と の 見解 に 沿 っ て 、集 中

式 こ そ が神 聖 な建物 に 相応 しい との 結論 に 達 した と ウッ トコ ウア ー

は推測 して い る22。キ リス ト教 世界の 中心 的存在で あ っ た サ ン ・ピ エ

トロ 大聖 堂で は、した が っ て こ の ル ネサ ン ス の 建築論 が 唱 え る 理 想

の 実現が強 く望 まれて い た との 観点か ら、ウ ィ ッ トコ ウアー

は さ ら

に ブ ラマ ン テ が集 中式教会堂 を建設す るつ も りで あ っ た と力説 し て

い る。しか し、集中式教会堂 で は 最も神聖 と され る中心 部に祭壇 を

配 置す る と一般信者 を収容する 場所 が極端に 制限 され る、儀式 を執

り行 う上 で の 機 能性 を考慮する と長堂式教会堂の 方が好ま しい 。

  加 えて トエ ネス は 集 中式 の 建物 を建設 す る 際の 施工 上 の 制 約 に つ

い て 考察 して い るZZ。集中式 とい う形 態は全 体 が

一体 と なっ て い るた

めすべ て を統一

的に 造 形す る 必 要 が あ り、長期 に わ た る 施 工 途上 で

の 設計変 更が 困難 となる。した が っ て 予 算上一

気 に 完成 す る 見通 し

が立 た ない 大規模な建 築事業で は、長 堂式で 交 差 部 か ら正 面 へ と

徐 々 に既存 の 建物 を新 しい 構造体に 置き換え る の が よ り適切 だ とい

うの で あ る23

。 サ ン・ピエ トロ 大聖堂 の建 築計画 は こ の よ うに理想 と

現実 の 狭 間で 大 き く揺さぶ られ た と解釈 され る。

  また一

方で、メ ッ テ ル ニ ッ ヒ は 1506年に 工 事を開始する直前に ブ

ラマ ン テ が極端 な設 計変更 を行 っ た の に 注 目 し、本論 の 冒頭で 触 れ

た よ うに、建築 家の 計画 案 と は別 に 事業主 で あ っ た 教 皇独 自の 案 が

存在 した と主 張 して い る24、十五 世 紀半ば に ニ コ ラス 五 世 は 旧教会堂

の 形態 に 沿 っ て規 模 を拡大 す る計 画 案 を 基 に既 に 再 建 事業を 開始 し

て お り、ユ リウス ニ 世は 先任者が 引き継い だバ シ リカ の 伝統を維持

す る形 で 事業 を進 め る こ とを望ん だ と推測され る。こ の 教皇の 方針

に沿 っ て ブ ラマ ン テ は集中式の 計画案を断念 し、コ ン ス タ ン テ ィ ヌ

ス 帝の 下 で 建設 され た旧 教会堂 の 聖 な る建 立地すべ て を 覆い 尽 す た

めに長堂 式教会 堂に変 更 した とメ ッ テ ル ニ ッ ヒ は 解 して い る。建築

家の み な らず 施 主の 意 向 を も反 映 して い た との 見 地 か ら新た な 解釈

の 可能性 を切 り開い た の で あ っ た。

  こ の 考 え方 を発展 させて 、トエ ネ ス は 教皇公 認 の 事 業方針 に 則 っ

て 建築家 が 実施設 計 を行 っ て い た との 構 図を基 に、サ ン ・ピエ トロ

大 聖堂再建 事業 の 計画過程 を再解釈 して い る25。

 最初 に 述べ た よ うに ガ イ ミューラーはパ ーチメ ン トプラ ン を図 1・a

の ような集 中式 の 平面 図 と して 再現 した が、トエ ネス は パーチメ ン

トプ ラ ン の み な らず、Uff.8A  verso や Uff.20A、さらに は Uff.7945A

を も視野 に入 れ て ブ ラマ ン テの 意 図を探 り、最終 的 にパーチメ ン ト

プラ ン は構 造体の 西半 分 を表 して お り残 りの 部分 に 関 して は未 決定

で 、む し ろブ ラマ ン テ は長 堂式 の 鰹物 を念頭 に 置 い て い た との 結論

に達 して い る。一方、よ り コ ン パ ク トな集 中式教 会堂 に関 して トエ

ネス は 1527年の ロ ーマ 略奪後 に 教皇パ ウロ 三 世が 経 済情勢 の 悪 化 を

考慮 して 事業 規模 を 縮小 す る際 に採 り上 げた、い わば代 替案 と見做

して い る。ロー

マ 略奪の 惨事 に よ り教皇 は経 済的 に窮地 に追 い や ら

れ た ばか りで な く政 治的に も先 行 き不 安 にな り、短 期 間で 完成 可能

な集中式教会堂に 注 目 した と解釈 してい るの で あ る、

 実際の とこ ろ、サン ガ ッ ロ が 練 り上 げた平面 図 (図 1−d>を見 ると、

集中式 の 形態を 維持 し た形 で 東 側 に構 造体を拡 張 して い る の で あ り、

一 207 一

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続い て 主任建 築家に任 命 され た ミケラ ン ジ ェ ロ に至 っ て は、サ ン ガ

ッ ロ が建設 した ポーチ部 分 を取 り除 い て 完全 な集中式の 建物を復活

して い る。ロー

マ 略奪 を境 に 事業 の 基 本方 針が 長堂式か ら集中式へ

と移行 した と推 測 され るの で あ り、した が っ て ミケラ ン ジェ ロ が小

型 の 集 中式 教会 堂 を設計 した の は、規 模 の 縮 小 とい うパ ウロ 三 世の

事 業方針 を具 体化 した結 果で ある と トエ ネ ス は判 断 して い る。

 サ ン ・ピ エ トロ 大聖 堂の 再 建事 業初期 に は 、様 々 な 事情が 絡 み 合

う中で極 端な設 計変更 が 度 々 行 われて い る の で あ り、セ ル リオ が 示

した よ うに 集中式 と長 堂式 を二 項 対立 として捉 え るの み で は複雑 な

計画過程 を解 明す る こ とはで きない 。大規 模な建築事業故に施工 上

の 問題 点や政 治的経済 的 な影 響 を も考慮す る必要が ある との 観点 か

ら近 年計画過 程が 再検 討 されて お り、トエ ネス の 解釈は それ らの 集

大成 と言 え るで あろ うM。

  しか し、そ の トエ ネ ス が 示す解 釈 に も以下 の 点 に 関 して 疑 問 が 残

る。図 1 の 平面 図か ら明 らか で あ るよ うに 、サ ン ガ ッ ロ は ロー

マ 略

奪 後の 経済 的 に切 迫した 状況 に も拘 らず建 物 の 規模を 大幅 に 拡 大 し

て い る 。 しか も教 皇 はサ ン ガ ッ ロ の 計画案に 沿 っ て 巨大 な模型 を 製

作 す る こ とを許 可 し小型 の 教 会堂 の 建設費 に も相 当す る資金を提 供

して い る。トエ ネス もサ ン ガ ッ ロ の 下で 依然 と して ユー

トピ ア 的な

計 画案 が公 認 であ っ た こ とを示唆 して い るが、ロー

マ 略奪を境に 政

治的経 済的な圧 力が強 ま っ た とす る上 記 の 解釈 とは 矛盾する で あ ろ

う。1534年以 降教皇パ ウロ 三 世 の 下で ペ ル ッ ツ ィ、サ ン ガ ッ ロ 、ミ

ケ ラン ジ ェ ロ とい う三 人の 建 築家 が 主要部 を 集中式 にす る案を 前 面

に 押 し出 して い るが事業規模 に 関 して は一

貫 した 方 針 を 採 っ て い る

とは見做 し難 く、む し ろ未 決定 で あ っ た と判 断 され る。した が っ て

交差部 周辺 に集 中式 の 構造 体 を建 設す る方 針 へと移行 した こ と と建

物 の規 模 に関す る事 業方針 とは別 間題 と して 扱 うの が妥当で あろ う。’それ で はなぜ ロ

ーマ 略奪後 に主要部 の 構造体を長堂式か ら集中式

に変 更 したの で あろ うか。そ の 約 二 十 年後 に なっ て ミケ ラ ン ジ ェ ロ

は なぜ事業規模 の 大幅 な縮 小に 踏み切 っ た の で あ ろ うか。トエ ネス

は 単 純に 教皇公 認 の 案が あっ た と仮定 し教皇の 計画介入 を前 提 とし

て 解釈 し てい るが 、実際 に 計画 案 を練 り上 げて い た の は 建築家で あ

り、教皇 の 意 向 と建築家 の 設計意 図 と を判別す るの は容 易で は な い。

そ こ で 以 下で は主 に 建築家 が 作 成 した 平面図 に 注 目 し教皇 が どの 程

度計 画に介入 して い た の か を 検討 した 上 で 、上 記 の 問い に対 す る 解

答 を模 索 して み た。

4.平面計画 案か ら読み 取れ る建築蜜の 意図

 実 際の とこ ろ、サ ン ・ピ エ トロ 大聖 堂の 再建事業初期に作成 され

た多 彩な平面 計画案に も以 下 の よ うな共通点 が指摘 され、あ る程 度

一貫 した方針 を掲 げて い た 可能 性 を否定 す る こ とは で き な い。

 図 1 に 掲 げた五 つ の 平 面図 か ら、ま ず 交差部の 四 本 の 独 立柱 が 同

位 置 に維持 されて い る こ とが 見 て 取れ る。ブラ マ ン テ の 後継 者 は こ

れ らの 独 立柱 を引 き継 ぎ平面計 画の 際に 常 に 前提条件 と して 受 け入

れ て い るの で あ る。さらに、図 1 の 平面図すべ て に お い て 先端部に

半 円形の ア プ ス を添 えた十 字形が 中央に 組み 込 まれ 、そ の 四 本 の 腕

が 交差部 の 独 立 柱 の 柱間 か ら伸び 出 して い る。したが っ て、これ ら

の 独 立柱 が十 字形 の 腕 の 位 置 と幅を決定 し、建物の 核となる 部分が

動 か し難 い 状 態と なっ て い る。ロー

マ 略奪後に 極端 な縮小 案 を作成

した 際に も、ペ ル ッ ツ ィ は 以上 の 原則 を 守 っ てい た。

 一方、建 物の 西側 に 位置す る内陣 に関 して は ブ ラマ ン テ の 下で ヴ

ォー

ル トまで 施 工 済み だっ た に も拘 わ らず、続 い て主任建 築家に な

っ た ラ フ ァ エ ロ は これ を引き継 ぐこ とは な く、南北の 腕 と同規模 の

構造体 に置き換 えた案 を提 示 して い るZ7。以後 ロ

ーマ 略 奪の 後ペ ル ッ

ツ ィが 事 業規模の 縮小 を企 て た際 に ブ ラマ ン テ が建 設 し た 内陣を採

り入 れ て 計画 した こ とは 前述 し たが、し か し こ れ を最後 に計画案か

ら 姿を消 し建設 開始か ら約七 十年後 に遂 にデ ッ ラ ・ボ ル タ の 下で 撤

去 され た。

 こ の よ うに建 築家は ブ ラマ ン テ が 残 した未完成 の 構造 体 をすべ て

引き継 ぐの で は な く特 定の 部分 を選 択 して い る の で あ る。特 に内 陣

に 関して は 十五世紀 の 基礎 を利用 した構造体 であ り、しか も図 2 を

よ く見 る と交差部 とその 周 囲の 独 立柱 が異様 に大 き く内陣 と調和 し

て い ない こ とが判 明す る。トエ ネス は こ の 内 陣が ユ リウス ニ 世の 墓

の 設 置場所 とし て 計画 され、教 皇が 生前 に 早 急な建設 を望ん だ可能

性 に 言 及 し、ブ ラ マ ン テ の 意 向を無視 した強 引な計画 で あっ た と推

測 して い る28。一方、交差部 の 四本の 独 立 柱 を維持すれ ば、同 時に 教

会堂 中央部 に ドーム を掛 け天 空 へ と拡 大す る空間 を創 造す る こ とに

な る。建 築家は こ れ がブ ラマ ン テ の 基 本理念 で ある こ と を理 解 し、

不釣合い な内 陣を排除す る方針 を採 っ た と解 釈 さ れ る。先 に 引用 し

た ミケ ラ ン ジ ェ ロ の 書簡 もブラ マ ン テの 意 向 を引き継 い だ計画案で

ある こ とを強調 した記 述 とな っ て お り、こ の 交差 部が ブ ラ マ ン テ の

基本理念 を具体化 した箇 所で ある こ とを示唆 して い る。

  さらに 図 1 の 五 つ の 平面 図に 共 通 した特 徴 と して 、すべ て が 中心

軸 に 対 して 厳密 に左 右対称 で あ る こ とが 挙げ られ る。集中式の 平面

図 で は 交差部 の 中心を通 る東 西軸 の み な らず南北軸、及 び これ ら と

45 度 の 角度 を成す軸 に 対 して も詳 細に 至 るま で左 右対称 に な っ て い

る。一方、長 堂式 で は交差 部周辺 の 対称 型 を可能 な 限 り維持 しな が

ら構 造体 を東 側 に拡 張 して い る。中心軸 を 縦横斜 め に設 定 しそ の左

右を対称 に 造形 して 全体 を統一

してお り、中世 ゴ シ ッ ク期の 大聖堂

に お い て 採用 され た方 法論 とは異な っ てい るこ とが 指 摘 され る。

  十二 世紀 に発達 した ゴ シ ッ ク様 式 の 大聖堂で は 要 素間の 相互 関係

を 体系化 す る設計 法 を取 り入れ て い るが29、左 右対称の 原理 を徹底す

る こ と は な く、必 ず し も同 じシ ス テ ム が 建物全体を支配 して い たわ

けで は なか っ たSU。工 事の 中断や棟 梁の 交代 を機 に 異 な っ た デザイ ン

を導入 し、計画範 囲 をあ る程度 限定す る こ と に よ る シ ス テ ム の 局 在

化を許容 して い たの で あ る。ル ネサ ン ス に 入 っ て も左 右対称 の 原理

に 厳密 に則 っ た 設 計法 が普 及 した と は言 い 切れ ず、キ リス ト教 の 伝

統 に 則 っ た教義や儀式 との 関連 か ら説 明す るの は 無理 が あ る。あ く

まで も幾何 学的 な法則 に則 っ た設計原理 で あっ た と推測され 、した

が っ て 教皇が建築 家にその 採 用 を要請 した と は考え難い。

  以 上の よ うに 事 業初期 に 作成 され た計 画案に は 共 通 した特長が指

摘 され る とは 言 え、こ れ らが 教 皇公認 の 案の 反 映 で あ る こ とを裏付

け る確 かな証拠 は得 られ ない 。む し ろ ブ ラマ ン テ の基本 理 念 が貫か

れ、また幾 何学 的な法則 に基づ い た 設計 原理 を 終始 採 用 して い る こ

とか ら、こ れ らに 精通 して い た 建築家 の 判断 で あ り計画 に際 して 主

導権 を握 っ て い た の は建築家 で あ る か の 如 く に見 え る。

  とこ ろで、前述 の よ うに メ ッ テル ニ ッ ヒ は ユ リウス ニ 世の 積極的

な計画介入 を考慮 して い るが、教皇 が バ シ リカ の 伝統に 則 っ た長堂

式教会 堂に固執 して い た との 解釈の 根拠 となっ た の は、ボナ ン ニ の

著作 で あ るサ ン ・ピ エ トロ 大聖 堂の 建設史に 記され て い る ユ リウス

一 208一

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二 世 とエ ジ デ ィ オ ・ダ ・ヴィテ ル ポ との 対話 で あ っ た。しか し、ロ

ーマ 略奪以 前に 既 に ペ ル ッ ツ ィ は 集中式教会 堂の 計画 案 を提 示 して

お り、必ず しも教 皇の 要請 に 応 じて は い なか っ た と判断 され る。実

際 の とこ ろペ ル ッ ツ ィ が集 中式 の 計 画案 を練 り上 げた時点 で、主任

建築 家で ある サ ン ガ ッ ロ は 依然 と して長 堂式 で 計画 を進 め て お り、

建築 家同 士 の 意 見 が一致せ ず事 業方針 が定ま らない 状 況 に 陥 っ て い

た31。ペ ル ッ ツ ィ の 死後 サ ン ガ ッ ロ は それ まで 出 された案 を統合 して

集 中式 と長 堂式の 折衷 タイ プ を設計す る が、しか しそ の 結果 出来 上

が っ た模型 を ミケ ラ ン ジ ェ ロ は複雑怪奇で あ る と非難 し、サ ン ガ ッ

ロ が建設 した 部分 の 大半 を撤去 し て まで集中式 教会堂 に 変更 して い

るこ とは既 に述 べ た とお りで あ る。建築家個人 の 意 思如 何 に よ っ て

事業計画 が大き く左右 された こ とが窺える 。

  さらに図 1 の 平面図 を比較 す る と、各部を少 なか らず変更 して い

る こ とが判明す る。十字 形 の 四 隅 に位 置す る 塔 の 配 置が 各々 の 平 面

図で 異な り、こ れ と関連 し て 礼拝 堂の 形態 が改変 され て い る。また

十字形 の 先 端部 に位 置す る 半円形 の ア プ ス に 関 して も、ラ フ ァ エ ロ

が 周歩廊 を付加 して い る がサ ン ガ ッ ロ は こ れ を独立 した 空問 と して

扱 っ てい る た め全 く異 な っ た様 相 を呈 して い る。そ して 、ミケ ラ ン

ジ ェ ロ に至 っ て は周 辺部 の 曖 昧な部分 をすべ て 取 り除き礼拝堂 の 形

態 を単純明快 に して建 物 の 規模 を縮小 して い る の で あ る 。 各々 の 建

築 家が異 な っ た方針 を採 る傾 向が多分 に あ り、教皇 が どの 程 度計画

に介入 して い た の かを推 し量 るの は困難 を極 め る。む しろこ れ らの

平 面図か らは、左右 対称 の 原理 を徹底 して 追及す る設 計法 が逆 に混

乱 を助 長す る一

要因 とな っ て い た こ とが見て 取れ る。建 築家は こ の

原理 に則 っ て 同一

の デ ザ イ ン シ ス テ ム を建 物全体 に 適用 し て お り、

し た が っ て一

部の 変 更 さえ もが 連鎖 反応 を引 き起 こ し関連す る 部分

の すべ て を設計 し直す 結果 にな るか らで ある,

 サ ン ・ピエ トロ 大聖 堂の 再 建事業 で 採用 され た設 計 法に 関連 す る

考察 として、前述の よ うに トエ ネス は集 中式 にの み形態 上 の 特性 を

考慮 して統一

的なデ ザイ ン の 必 要性 を認 め、長期 にわ た る施 工 途上

で 設計者が 交替 す る際 に問題が 生 じるこ とを指摘 してい る32。しか し、

長堂式に も同様 の 原理 が 適用 されて い るこ とか ら、問題 は 設計 法 自

体にあっ た と言 えるで あ ろ う。

 実 際、ブ ラ マ ン テ が 古代 ロー

マ 建築 の パ ン テ オ ン か ら拝借 し交差

部 の 柱 に 施 した コ リン ト式 の 大 オーダーは、後 に 十字形 の 内部全体

に わ た りマ デ ル ノが 設 計 した 増築 部に も及ん で い る。しか し一

方 で

ブ ラマ ン テ が 内陣の 外 壁 に施 工 した ドー

リス 式 の 大 オ ーダーに 関 し

て は、サ ン ガ ッ ロ が こ れ を無視 し外壁 を三 層 に分 けて小 ぶ りの オー

ダー

を設計 し模型 の 外 壁全体に付加 して い る。続 い て 主任建 築家 に

なっ た ミケ ラ ン ジ ェ ロ は こ の サ ン ガ ッ ロ の オーダー

をす べ て 排除 し

大 オーダーを復活 させ る が、こ の 時点で ド

ーリス 式か ら コ リン ト式

へ と変更 し建 物の 内外の デザイ ン を関連付け、南北に位 置す る十字

形 の腕 の 外壁 に施 工 して い る、設 計意図が 比 較 的明解 で あ る か、あ

る い は 広範囲に わ た っ て 施工 す る こ とが な い 限 り、徹底 的 に設 計変

更 して い た こ とが 窺え る。

5.ま とめ

 サ ン ・ピ エ トロ 大聖堂の 再建事業初期の 数十年間、建築家が 次 々

と交代 す る 中で 様々 な計画案が 作成 され、建物の 全体構成も定ま ら

な い状態で 工 事が進 め られ て い た。建築家は 先任者が 出 し た 案を半

ば無視 し建 物全 体を何度も再設 計 して い た の で あ る。この 混乱状 態

を打開 したの は 教皇 で あ る と の 観点か ら、トエ ネス は教皇が 建築計

画を ある程度統 制し て い た と仮定 し計画過程の 再 解釈を試み た の で

あろ う。実際に 現存する 平面図 を比 較検討す る と、相互 に 明 らか に

異 な っ て い る と は 言 え基 本的 な レ ベ ル で 同様 の 方針 を維持 し て い た

こ とが 判 明 す る。しか し一

方 で 内 陣が ユ リ ウス ニ 世の 意 向で 建 設 に

踏 み切 っ た と判 断 され る 以 外 に 教皇 の 積極的 な計 画介入 を 示 す 証拠

は 見 出せ ず、む し ろ建築家が 率 先 して 計画 を 進 め て い た こ と を これ

らの 図面 は示 唆 して い るD だ が、も し計画上 の 主導権を握 っ てい た

の が建 築家で あ っ た とすれ ば、何を根拠 に 複数の 建 築家が 同様の 基

本方針 を採 用 したの で あ ろ うか。

 前章で は 建 築家が交差部の 独立柱か らブ ラ マ ン テ の 基本理 念を読

み 取 っ て い た と解釈 した が、こ の よ うに 計画の 際に与え られ る 同一

の 前提 条 件が 共 通 の 設 計基盤 と して ま ず は 挙 げ られ る。さ らに 、ブ

ラマ ン テ の 基本 理 念 と して 教会堂の 中心 部に ドー

ム を掛 け垂 直方 向

に 拡大す る空 間 を創造 す る とい う こ と に言 及 した が、こ れ が ル ネサ

ン ス に お け る 教会堂建 築の 際立 っ た 特 徴の一

つ で あ る こ と を 考慮す

れ ば、ブラ マ ン テ を含む 建築家た ち が 理想的な教会堂建築の 範 型 を

共有 し設計基盤 として い た可能性があ ろ う31。左右対称の 原理 に 関 し

て も、同様 に 幾何学的法則に 重視する 当時の 芸術論に 由来する とも

考え られ る。

  しか し、本論 で は 紙面 の 都合 上、建 築家が依拠 して い た設計基 盤

っ い て の 立 ち入 っ た 考察 は 控 え以 下 の 点 を指 摘す る に 留 め て お き た

い 。交差部 を 中心 に集 中式の 構造 体 を 建設 す る計画 に 関 して は、ブ

ラマ ン テ が こ の よ うな案 を提示 して い た とは 断定 し難 く、ま た 続い

て ラ フ ァ エ ロ が長堂 式教会 堂で 計 画 を進 め て い る こ とか ら して も、

建築家が理 想形 を共 有し て い た こ とを根拠 に説明する の み で は説得

力 に欠 け る 。ロー

マ 略奪が何らか の 契機に な っ て い た と推測され る

の で あ り、先 に 議論 した よ うに 当時の 経済情勢の 悪化を考慮 して 事

業方針 を変 更 し たの で な い とすれ ば、教皇が 政治的 な危機に 陥っ た

こ とに注 目 した次 の よ うな解釈 が浮上す る。すなわ ち ウィ ッ トコ ウ

アーが主張す る よ うに ブ ラ マ ン テ や彼 の 後継者 に とっ て 集中式教会

堂以 外 の 計 画案 は受 け入 れ 難 か っ た が 、教皇 との 社会 的 な格差 ゆ え

に これ を実 現す る の は ロー

マ 略 奪後 に な っ て か らだ とい うこ とで あ

る。こ の 時期 教皇 の 影 響力 が弱 ま る に 伴 っ て 建築家 は バ シ リカ の 伝

統 か らも解放 され集中式 の 構造体を交 差部周 辺 に 計画する よ うに な

っ た に違 い な い 、

  だが、教皇 公認 の 案 を反 映 したの で ない とすれ ば、なぜ ミ ケ ラン

ジ ェ ロ は建物 の 規模 を大 幅に縮小 したの だ ろ うか。前章 で は ブ ラマ

ン テ の 後継 者が建物 全体 の 構成 を集 中式か ら長堂式 へ と変 更す るに

留 ま らず、様 々 な箇 所 に 手 を加 えて い た こ とを も指 摘 し た。建築 家

は基本 方針 に お い て一

致 を見 る の み で、他 に 関 して は 既 に 建設 済み

の 部分 を撤 去 し て まで 新 しい 案 の 導入 を試み て い るの で あ り、結 果

的 に事 業初期 の 建築 計画 が 非常 に複雑 な発展 過程 を辿 っ た こ とは再

三 述べ た とお りで あ る。建 築家はあ たか も個 人主義 に陥 っ た かの 如

くで あ り、そ の 原 因の一

つ として 左 右 対称 の 原理 に も触れ た33。しか

し、こ こ で注 目すべ き は最 終的 に混乱状 態 か ら脱す る こ とに成功 し

た ミケラ ン ジ ェ ロ が、図 1£ に見 られ る如 く事業規模 の 大幅 な縮小 に

踏み切 っ て い るこ とで ある。ま さに交 差部周 辺 に集 中式 の 形態を維

持 し、か っ 規 模を最 小限 に抑 えた計画 案で あ り、ミケ ラン ジ ェ ロ は

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天空 へ と上 昇 す る大 空 間 を 中心 と して 集 中式教会 堂 を建設す る方針

を尊重 す る一

方 で、自ら の 死 後後 継者 が建物全 体 を再 び設 計 し直す

可能性 を極力 排 除す るこ と を 目論ん で規模を縮小 し、在任期 間 中に

要所 とな る部分 の 完成を 目指 した と解釈す る こ とが で き る。

L(hi 臨‘1nep の gettidiimpmS .imo ”,鰰 川漉 ”跏 o の 伽

dall’inthiethtta l4(1992),pp439−446:(]i Thp 曦‘tleueBcobaelituigerianBrm

St.・P断 E皿 w 耐 硫”み鰰 即 勳 p加 訥 鹿 r 餌娩 蜘 孀 45 {ヨ9叫 )pplO9

−132.2.FGWMd 値血 db觚 Ch. T嘛 肋 戸伽   泣ぜ協 五髞 (rtibingeq 1987X

pplOSIon.3.EGWMe   oh 觚 Ch. TbOeneq ibidP5a51.4.フ ロ ン メルは 当時の公 文郡 bピrM 肛 血   m )の 記録を元 に、ブ ラ マ ンテ の 監督下にお

け る建 設工事 過程 を再現 して いる.α 1.L. Frm 曜‘11ielletmSkimheunberFapstJulimsll. 

hd 重 n聯 r ”,RdwtschesJtthrinrchfaKtoas.

邸 薇嘸 ,(1976XPP57−86.S.図 1の五 っ の 図面を選 択す る際 に、J. S.Ad 職 恥 河π海 鷹   qa4 記鰤 g蜘 ,(Univ. OfClticagoPheSS 19S6)、及び WJ .ArNierson,1heArchiteatireofthelaenaisscumceinhaly(NY. 1927)を参 考 に した。6.斜線 部 は ニ コ ラス 五 世に よ る基礎工事、二 重線は旧教会堂を示洗 また図には周辺 の

建造物 も描 かれて い る。尚、メテル ニ ッ ヒやフ V ン メル も同じく着工 時におけ る計画案

の 推 定図 を提 示 してい る。Ch.thoeneq‘“1 be ymgmi  di Brmpante pm  S. HetTO”.p441、及び

F.GW .MenerniCharKlah.幡 め瓧,p22G を参照。7、ラ フ ァ

エ ロ の 緬 方 針 に り い て瞼 .L. F  el,ttSelnfieaV :SUコdadellasuaqD 蜘 z  ♂,矧   伽 鋤 舵   (M 岫 o.Elexta,1984}pt241 −279 を参照 尚、図 1−b は 元々

セル リオ の建築書に記 載され てい た図 である。VH 田 t 狐 m  Hicks   s.,梅 傭 1  翫 吻

  !4励 配gα  (Yale Univ. lress. N艮 1996),f.65v.8.ABraschi,‘8altmPeru ‘Wi血 舳   mmisuoi  dSegh

”,Il岬 Odi

mtylhekerarattidetccmwu ,Mikmo i5−18Ybbbniio 19認.pmlamo,Gueini,1989〕,PP!81−19G.ペ ル ッ ツ ィ の計 画案と して採 り上げた 図 1−c は、図 1め と同 じく、元 々 セ ル リオ が著 し

た建築書の 図版 で あ っ た。.lebeastimo.seriiOonAttthdecnee, C6±.9.ペ ル ッ ツィ が提 示 した縮小案 と しては Uff. 15A、 Uff. i6A、 17A. 18A が挙げられ、ロ

ーマ 略奪後 の経 済 椿勢 を考慮 した計画案で ある との 説が有力で ある.また、ブル ス キ はク

レメ ンス 七世 の下 で既 にペ ル ッ ツ ィ が縮小案を検討し始めて い た可能性を指摘 してい

る。A. Biuscza“BaldassarTePavrzzi血SanHetrx)attraws )isuCidigegni”

尚、ペ ル ッツ ィの

縮小案は図 2に近似 してい るが、フ ォ エ ル バ ッ ハ が着工 時の 計画案を推定する際にペ ル

ッ ツ ィの縮 小案 を参考 に した ため と考えられ 、ペ ル ッ ツ ィが ブ ラマ ン テ の 案に 沿っ て 計

画 したか ど うか は不明 であ る.10.New 駄 Am 跏   A融 my 血Rom2.iny. no .23.CaL no .330 を参照 また、ペ ル ッツ

ィは これ を さらに発展 させ てアイ ソメ トリ ッ ク図 (Uff. 2A>を描い て い る。ll、サ ン ガ ッ ロ の模 型 を基に 1546年 か ら 監549年にか けて製作された五つ の 図版をア ン

トニオ ・サ ル マ ン カが編 集 し出版 してい るが、図 1d は元々 その 内の一

つ で あっ た。サ

ン ガ ッ ロ ー派が ミケラ ン ジ=a に対抗 して 自らの 立場を擁護するため に、これ らの 図版

を出版 した と言 われて いる。H.AMMonarKi  v.M . p嬋 ed,画¢ 匪醐 46.また、

1539 年 に模型製 作 に先立 っ てサ ン ガ ッ ロ が練 り上げた計画案に 関して は、立面図 Wff66A) と断面 図 (Uff. 2SgA)が現存 してい る,,12.初期計 画段階 ではサ ンガ ッ ロ が 最も多くの 図面 を残 してい るが 、大半が案を検討す

るた めに描 いた ス ケ ッ チや未完成の 図面 であ り、建物全体の 平面図で 完成し た もの は僅

かで あ る。〔hFro   el 岨 ,7heArchiftveneal buingr  (v/Attionio do ,Ymgtilo thy}Yontger emdhisCirete. vol、【1〔M 叮 MessCarninidgO,2000)を参照“13.ミケ ラン ジ=ロ が 主任建築家に就任 した時点で の建築現易の 状況につ い て は.J. S.Ack     」価4 pp3 [7−318、及 び A ノ

ーバ 著、日高健

一郎訳、『建築家 ミケラン ジェロ 』

 (岩崎≒羮術 社、1992>、p201 を参照el4、1569年か ら 1570年に か けてデュペ ラ ッ クが ミケ ラン ジ ェロ の 計画 案に 関す る

一連 の 図 版を製作 して お り、図 1℃ は 元 々 そ の 中に 含まれて い たttミケ ラ ン ジ=ロ

が就 任直 後 に練 り上 げた計画 案は失われ 、正確に は どの ような案で あ っ た か を知る

手 立 ては な い。した が って 、:の 時 ミケ ラ ン ジ ェロ が教皇に 提示 し た の は 、ア プ ス

の 外 壁 周 辺部 のみ の模 型 で ,建物 の全体構成に関 しては 未決 定で あった可能性を指

摘す る研究者 もい る。H . Saalman.’‘Michelangelo:S. Maria del Fime and  St. Peter’s”inArt BuUetin LP’II(1975). p380−386を参 照 。しか し、ミケ ラン ジ ェロ が後に平面計画を大

幅に修正 した との 報告はな い.1546年 の時 点で既 に ミケラ ンジェロ が 図 1−e の よ うな構

成の 建物を念頭に置い て い た と考え られ る。H、AMilU{mandV .M 、 LampagJV血 ed..ibidp663:J. S.  1bid.15.ミケ ラン ジ =.ロ が教皇を含めた事業闃係者に規模を縮小 した計画案を提示 し、承 認

を得る過程に関 しては 、H 脚」」im   霹 loatSt Pe  r

’s:TlrcA加 m

i 珊 ndanoe” inArtBntietpt 60 (且987)を参鵙 また、ミケラ ン ジ =ロ が こ の 時サ ン ガ

ッ ロ の 模型を強烈に批判 したこ とがサン ガ ッ 卩一派との 厳 しい 対立の 発端 とな り、以後

ミケ ラ ン ジェロ が度々 妨害を受けたため、パ ウロ三世は 1549 年に ミケ ラン ジ ェ ロ に絶

対的な権限を与える よう命 じた勅令 (衂 o)を出す感要 に迫 られ た。その一

ヶ月

後にパ ウロ 三世は他界 し、代わって ユ リウス 三世が教皇の座 につ い たが、新 しい教 皇は

パ ウ ロ 三世の 勅令を容認して い る。その 後も事ある毎にサ ン ガ ッ ロー派 は工 事を妨 害 し、

トラブル の 原因 となってい たこ とが記録されて い る。GV 飆 加 吻 訪畑 d鰤 妙 α

喫 惚 嘘 鰡 圃 15506謝 1568.P   ed.(kR 側 ぬ ,M 肋 印o,ig62)16.この 手 紙はサン ・ピエ トロ 大聖堂の 造営局総監督バ ル トロ メオ ・

フ ェ ル ラテ ィーノ

司教に宛て 1“ 7 年 】月頃執筆されたとも言わ れて い る。EH . k   ’“lhe Reopient of

LetrerNo.358 :AFbss]ble ldentificalietl”,妨 θ 加 鮴 げ’肋.伽 御 れEH   edL, v }1.2.

A 鱒 x42 を参照 和訳は杉 浦明平訳、『ミケラ ンジ ェ ロ の手紙 1(岩波書店、 ig95年)、函Ol、及び 、 J.S.ACkennan .ilrid.aβ18を参 考に した。17.今 日では想像で きな い よ うなこ とが 当時 教会 堂の 内部 で執 り行 われてい た。例 えば、授業蠍 治集会あるい は乞食等であ る。ピーター・バ ーク著 、森 田義 之他訳 、『イ タ リ

ア・ル ネサ ン ス の 文化 と社会』 (岩波書店 、2000年)

18、ミケ ラン ジ=ロ が削除した礼拝堂 等の 大部分 は、後 に マ デル ノが東側に身廊を増築

する際に復活 してい る。HH 崛 α蜘 撤 脚 α祕 R  ∠酌 耽 鷹 ノ5舶 ・ノ邸0値Z  nerI 風 L α 欧 m,監971エCh購 rV :St.  ’

  叩 65−74.tg.ラ フ ァ

エ ロが南側の アブ ス の 建設 を開始 して以来サ ンガ ッ ロ に 至るま で十 宇形の 腕

は こ の アプ ス を基準に ほぼ同規 模で計 画 され てい た。た だ し、ロ ーマ 略奪後に母 レッ ツ

ィが縮ノ1案 を練 り上 げ る際に十宇形 の幅 を極 端 に短縮 してい るが、これが建築現 場に反

映された形跡が ない こ とには既に触れ た。2G.注7、8 で指摘 した よ うに、セル リオ はラ フ ァ エ ロ の長堂式の計 画案とペ ル ッ ツ ィの

集中式 の 計画案を建 築書に記載 し、後者 に関 しては ユ リウス ニ世の 時代にブラマ ン テが

灣案 し、それ に則 っ てペ ル ッ ツィが模 型を製作 した と記 してい る。しか し、ブラ マ ンテ

の 工 房の 会計にペ ル ッ ツィの名 が記 載され てい ない こ とか ら、現在では 1520年ペ ル ッ

ツ ィがサ ン ガ ッ ロ の 助手 に任命 され て間 もな く提 示 した計 画案 との解釈が有力 である。H.AM 皿⊂m 副 VM レ   面薗L,ibid p〜21.21.和訳はアル ベ ル テ ィ著、相 川浩 訳、『アル ベ ルテ ィ建築論』(中央公 論美術出版、1982年・) .及び LaanBauistaAlberti.CintheArtofButhinlin  71ai boats, J.Ry  t岫 s.(MrTPr sss,M419ZZ )を参考に した。22、ル ドル フ

・ウ ィ ッ トコ ウアー著 、中森義 宗訳、『ヒ =一マ ニ ズム 建築の源流』(彰国

社、1971 年〉、第一

章 「集中式 教会 とル ネ サンス 」、pp1361 、お よび英語版で ある R.WdW .AnvhitectUu’P脚 6.脚 瞬 舵 .卸 (ifHumani”n (N〔a 」NY. tg7i)PartLpp1−32を

参照。ただ し、ウィ ッ トコ ウアーが指 摘 してい るよ うに、ル ネサ ンス における古代の 集

中式神殿の 遺構はパ ン テオ ン を含む数例 で あ り、古代 では集 中式が神殿の 標準的な形式

であ っ た とは断 定 し難い 。したが っ て 、アル ベ ル テ ィ の 腱 築論』の 背景に はプラ トン・

圭義の 思想が あ っ た とも考 え られ る。しか し、フ ィ レ ンツェにお け るフ ィチー

ノを中心

と した新プ ラ トン 主義のサ ークル にア ルベ ル テ ィ が関与 してい た ことを示す確か な証

拠は ない。相川 浩著 1建 築家ア ルベ ル テ ィ :ク ラシシ ズ ム の 創始者』 (中央公論美術出

版、1988年〉、雌 6723、Ch. thpm ‘’Ptev血 ce血 alee 画 圃a 屆  醐 enel   S.fietiO”,L

’egliyeckms

l’miianredelalaevmisscmc ’e,ed.∫、 Guillaume(lbiミ 1992),pW91−106.24.FGWM 曲 H 血洫andCh .Th〔maegmiqpp5051 .25.en.n鵬 舳 燃 ep   蜘 m 跏 1  S.跏 ∵ N  

B飆   9 閉 跏 Bn皿 蹠 s St−P  r」馳 1h面  ”

26、実際の とこ ろブラ マ ン テ が設計 した交 差 部の四本の 柱は強度不 足の ため クラッ クが

入 り、以後、柱形 を変 更 してま で断面 を拡 大せ ざるを得なか っ た 。サン ・ピ エ トロ の 再

建事業にお い て は技 術的 に も問題が あ っ た ことが指摘 され るがt・これ とミケ ラン ジェロ

が事 業規模を縮小 した こ ととを直 接関係付 けた解釈は 見 られ ない e27、ジ ュリア ノ ・ダ ・サン ガ ッ ロ が 1ラD7年 と ]5E4年 に、また、ア ン トニ オ・ダ・サン

ガ ッロ が IS19 年 にブ ラ マ ン テに下 で建設 され た小型の 内陣を維持 し、カ.( )東側に建物

を拡大 した長堂式 の 計画 案 を提 示 してい る (Uff.7AlgA.252A)。また、ラ フ ァ エ 卩 もあ

る程度譲歩 して い た こ とを示す 図面 (CodmMen 〔叫 f72  〉が残っ てい る。28、th. TbOenes,“ltrepiogutidiBrainatdeper S、 AetTz)

”lp443.

29.ゴ シ ック建築の 設計 法 に関 しては 、C.R敏   g 皿 dW 曲 mWC   k隔伽 ’

刈π抽 εα   ,MediantLeanng (Yale Univ.,NewH 盻 v 叫 1992玉  tH :F  C 則副 軸

pp57・79 を参照。30.例えば、シ ャ ル トル大聖 堂は 三十年 足 らずの 短期間で完成して い るが、交差部の 東

側で但1廊 が左右に二列配 置 され てい るの に対 し、交差部の 西側で は側廊は左右に一列の

み であ る.こ の 両者 には明 らか に異 な っ た デザイン シ ス テム が適用され、交差部の 中心

を通 る南 北軸に対 して対称 にな っ てはい ない .また、フ ァサー

ドの 両側に位置する塔に

関して も、ほぼ 同時期 に建設 され たに も拘 らず、左右の デザイ ン は全く異 なっ て い る。3L 完全 な集 中式 の計 画案は ジュリア ノ ・ダ ・サ ン ガッ ロ が着工 前に作成 したの が最初

であ る(Uff 8A  nm }一方 、ブル ス キ は集 中式を含む ペ ル ッツ ィ の

一連 の 計画案に 関

して、「い ず れにせ よバ ル ダ ッ サ ーレ は 自らの 考えに したが っ て、ア ン トニ オ ・ダ・サン ガ ッ ロ の 提案 とは無 関係 に計画 を進 めてい る様で ある。」と記 してい る。ABruschi ,  d.p且87.こ の ような多様性 を好 む とも解釈され る設計態度に関 して .計画者が ギル ド制か

ら解放 され た こと、また新 しい建築 ス タイル の模索時期で あっ たこ とをその 要因として

挙 げ る研 究者 もいる。RWiUkower,”individualistninArtandAnist:AR 鯉   ftobkm

”,.JimTxti ofde Hiytory ofldetrv, vvl.22.(1961)、及 び、J. S.Ackenu皿L“Archhaortrffa1Fh be inbeInianRrm

”,.rsLdH13(]954)を参鵙 またゴン ブ リッチは当時芸術の 進歩 とい う考

え方が あ っ た と解釈 してい る。『規範と形式』(岡田温 司他訳、中央公論美術出版、1999)、第一章、「芸 術の 発展 に関す るル ネサン ス の 概念とそ の影響」

32.ウィ ソ トコ ウアーゆ レネサ ン ス にお け る ドー

ム の宇宙論的意義に触れて い る。前掲

書、PP25−2633、ブル ッ クハ ル トはル ネサ ンス の 個人.主義を近代ヨ

ーロ ッ パ精神の 始まりとして 捉え

て い るが 、これ に対 しては様 々 な批判が 出てい る。∫.BurkhardL 7heCivilhaticnoj.伽

lleSUitSvetce inJldij〈N、Y,1990)、 P 甌皿 ke,‘‘A皿firrepologyoftl】e回 ianR 側凹  

”,Jmmmlgf.

tinvbi,timte磁fRonanceElinias(]992)、及 び R. weissmmL’ReoonStUCtingimceSeciology:The‘oncago sctmoi’arKlthte Si,ayafRenvaissar,De Society

”,Pevswl  m

’  GrPtPS・’

.Stt’i IEimiorasltlanttyFommtion inAddoalcndReuaiwmEmp 〔NY , 19S5)を参照,

図 版出展

1乳 凵b, 1弦 W .J.Anderseqibid.1−a1 £ ,」. S.AckcrTnm.7池 /lmhde(tUreOfMiChetangelo.2、H.AM 』  齟 VM 、  四 血 飢 ,ibidp414.

〔2005年 4 月 10 日原 稿受埋 ,2005年 8 月 30日採 用決定 )

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