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蔦の教会 2017年 7月 23日 (4) ー2 貿 殿 殿 20 西 20 10 10 姿 西 殿 殿

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蔦の教会2017年 7月 23日 (4)

ユダヤ民族は何故デ

ィアスポラ

(離散状況)とな

ったのか

アブラハム

・イサク

・ヤコブの時

代から約1800年間も繁栄したユ

ダヤ民族は、乳と蜜の流れる豊かな

カナンの地パレスチナから追い払わ

れ、世界各地にデイアスポラ

(離散

状況)となり、AD

(紀元)135

~1948年まで約1800年間も

国家を持てなかった。神から選ばれ

た選民が何故そのようにな

ってし

まつたのか。その歴史をたどってみ

たい。

その2

)アッシリア帝国の侵略

BC

(紀元前)1100年頃、パ

レスチナ

・シリア北部カナンに侵入

したイスラエルー2部族

(ルベン、シ

メオン、イサカル、ゼブルン、 エフ

ライム、 マナセ、ダン、アシェル、

ガド、ナフタリ、ュダ、ベニヤミン)

は豊かな肥沃な土地に定着して繁栄

していた。サウルが王国を築き、ダ

ビデ、ソロモンと王国は繁栄をきわ

めた。ツロ

(フェニキア)やエジプ

ト等と通商貿易を盛んに行ない莫大

な富を得た。しかしソロモンはこの

富を惜しみなくエルサレムの官殿と

神殿造営につぎ込み、

20年かかって

完成したときには、さすがの巨富も

底を尽き支払いに窮し、西ガリラヤ

の町々20都市をフ

ェニキアに割譲

しなければならなかった。国民には

多額の租税を取り立て、土木工事に

厳しい強制労働を課した結果、国民

に怨嵯の声が揚がった。ソロモンの

死後BC928年に北方諸部族が重

い租税と賦役の軽減を要求して反乱

を起こし、北方

10部族は南2部族

ダ、ベニヤミン)と分裂して北

イスラエル王国を樹立した。

BC730年代、北隣国のアッシ

リアはユーフラテス河口があるペル

シャ湾から北シリアにかけての肥沃

な三日月地帯の強大な王国だ

った。

豊かなエジプトの穀倉地帯との交易

を求めていた。ペルシャ湾からアラ

ビア海、紅海を経る海路輸送に頼

ていたが、安全な陸路に隊商を組ん

だ大量輸送には交易路に当たるイス

ラエルが障害となっていた。この征

服をめざして北イスラエルを攻略し

てきた。サ

マリアは強固に抵抗した

が、BC722年にアッシリア王

シャルマネセル5世に征圧され、北

イスラエル王国は滅亡した。アッシ

リア帝国は征服した地域の住民を、

他の地域に植民移住させる大量捕囚

政策で、他民族と強制的に混清させ

ることによって、アッシリア支配に

対する反乱の芽を摘み取

った。こう

して北イスラエルの北方

10部族は

完全に歴史から姿を消してしまった。

ユダ王アハズは朝貢を贈り恭順の

意を表し、アッシリアの忠実な属王

にとどまったため、北王国の滅亡に

巻き込まれずにすんだ。

その含じ 新バビロニアの侵

攻とバビロン捕囚

紀元前7世紀半ばになると、すで

にゆらぎ始めていたアッシリア帝国

は、BC632年にアッシリア王

アツシュバニバルが死ぬと、内乱が

起き

一瞬のうちに崩壊した。カルデ

ア人によって興された新バビロニア

王朝が、全オリエントの諸民族の上

に君臨したアッシリア帝国の領土す

べてを手に入れた。BC598年に

新バビロニア王ネブカドネツァルは

西方遠征を開始し、破竹の勢いでエ

ルサレムを包囲した。この時ネブカ

ドネツァルはユダ王イ

エホヤキンと

その家族、政治家、軍人、技術者な

ど、 エルサレムの指導者階級1万人

を、捕虜としてバビロニア

ヘ連行し

た。

これがバビ

ロン第1次捕囚と

った。

バビロニア王はイ

ェホヤキンの叔

父ツェデキヤを

ユダの支配者に任命

した。ツニアキヤの周囲に集ま

った

人々は未熟な指導者達で、国際情勢

を正しく判断する能力に欠けていた

だけでなく、好戦主義者とエジプト

にそそのかされて、バビロニアに対

する不幸な反乱を起こした。ネブカ

ドネツァルは直ちにエルサレムを包

囲し、 エルサレムは徹底的に破壊さ

れ、廃墟と化した。ソロモン神殿

(第

1神殿)も破壊され、生存者は殺さ

れるか捕囚されてユダ王国は文字通

り破滅した。これがBC586年の

夏に起こったバビ

ロン第

2次捕囚

つた。

バビロニア人はユダからの捕囚民

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(5)蔦の教会2017年 7月 23日

をアッシリアとの戦争で破壊された

バビロニアの町々へ送り込み、その

復興に当たらせた。長い戦乱のため

に荒廃したバビロニア本土の復興の

ための労働力の調達を主目的にした

のである。そしてまた荒廃したュダ

とエルサレムをそのまま放置した。

これはその後捕囚民が故国

へ帰還す

ることを容易にした。

捕囚の期間中、祭司集団はイスラ

エルの古い祭儀的伝承を集め編集し、

通常

「祭司文書」

(P資料)と呼ば

れている資料文書を作

った。これに

は旧約聖書にあるモーセ5書が集録

されている。

BC562年にバビロニア王ネブ

カドネザルの死に始まるバビロンの

衰退に乗じて、ペルシャ人アケメネ

ス家のキ

ュロスが台頭してBC53

9年にバビロン帝国を襲い、覇権を

継承してペルシャ帝国を建設した。

ペルシャ人たちは無秩序な状況は騒

乱の芽をはらむものであり、外から

押しつけられた秩序も不満の種とな

り危険なものという賢明な認識を

っていた。従属する民族

への寛容

な政策をとり、捕囚民ユダヤ人の陳

情を受けてエルサレム聖所の再建を

許した。BC515年早春にエルサ

レム神殿

(第2神殿)の再建が成

た。ペルシャ王キ

ュロスは布告を出

し、略奪されていた神殿の宝物を返

還させ、捕囚民のユダヤ帰還を勧め

た。こうしてBC5世紀前半には帰

郷が実現した。

(随時掲載します)

[参考文献]

古代イスラエル史

(マ

ルティン

。メッガー著 山我哲雄訳

新地書房)、 ユダヤ教史

(石田友雄

著 山川出版社世界宗教史叢書4)、

イスラエル史

(M

。ノート著 樋口

進訳 日本基督教団出版局)、 ュダ

ヤ教の歴史

(市川裕著 山川出版社)、

地図

・絵画

・写真

(ウィキペディア

日本語版)

娘と川越キリスト教会

へ通うよう

にな

って1年過ぎましたが、行く時

に礼拝堂上の十宇架に気が

つきます。

利用する道により、遠くから見える

こともあります3

教会敷地周辺に隠れ十宇架もあり

ますが、気が

ついたことがぁります

か。それは礼拝堂上の十字架が影を

落とす関係で生じます

(写真を参考

に)。

影が出現しないことが多いのです

が、ちらつとしか見えないこともあ

るし、く

っきり見える時もあります。

季節や時間などにより、十字架の影

が現れるところも形なども変わりま

す。今日見えても、今度また見える

かどうかはわからない、不思議な楽

しみです。

この十宇架の影は、川越キリスト

教会の私たちのあり方にたとえられ

るのではないか、と感じております。

私たちのあり方が世の中に影響を与

えるのです。

亡き妻の親族は天台宗の寺の檀家

に入っていますG天台の教えの

一つ

「一隅を照らす」も、キリスト教の

「地の塩」も、私たちのあり方と似

ているような気がいたします いず

れにしても、娘と2人で皆さんの手

本から学び、川越キリスト教会生活

に少しず

つ慣れながら、もつと社会

に良い影響があるようでありたいと

っています。

一①2

,17年2月14日14時19分

②向年同■1‐4

一時

‐‐54

分③同年2月17

ヨ‐6時14分いずれもステパノ駐車場

④同年6月1‐4・・■・■一時03分会館西側

より

,すれt筆者の撮影による