エールリッヒの法社会学の 理論的背景についての一...
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エールリッヒの法社会学の
理論的背景についての一考察
「生ける法」概念の予備的考察1森
謙
二
,
(1)
本稿は、エールリッヒ(国ロαqΦコ両ゴ島。ゲ) の法社会学体系を記すために書かれたものではない。私の問題関心は、
エールリッヒの法社会学のなかで、彼の、いわゆる「生ける法」概念がどのような位置づけのもとで理解されるべ
きか、にむけられている。
少なくとも、我国の法社会学界において、エールリッヒは、マルクス(閉鋤二ζ母×)、ウェーバー(ζp-×<~①げ①H)
と並んで最も重要な位置をしめている一人であることは、誰れも異論のないところであろう。そして、そのエール
リッヒの評価は、もっぱら「生ける法」概念にむけられたものであった。けだし、エールリッヒを「生みの親」とし
て持つ「「生ける法』という概念は、日本で法社会学が自立的な形成を開始した時期……には、法社会学における
(2) ° °
中心概念としての位置を占めていた」のである。しかしながら、現代においては、それは法社会学における中心概
一 385 一
.
念たる位置を失っている。それには色々な理由が考えられる。一つは時代状況の差である。戦後日本におけるく近代
化Vの一翼を担った時代の法社会学と〈近代化〉せられた現代の法社会学においては学悶対愛を異にするのは当然
のことであろうし、学問対象の差異が対象分析の道具概念を変更せしめることもあるであろう。しかー、そればか
りではない。「生ける法」概念が法社会学における中心的位置を失った理由には、「生ける法」概念が、いわゆる
(3)
「法社会学論争」において、階級性を隠蔽抹殺する概念として厳しい批判がなされたという、学説史的経過も存在
している。もっとも、「法社会学論争」における「生ける法」概念は、必ずしもエールリッヒの趣旨にそったもの
とは言い難いし、厳密な概念規定のもとで「生ける法」概念が全く止揚されてしまったとも言い難い。では、現代
において、「生ける法」概念に意義があるのかどうか、あるとすれぽどのようなところにあるのか。このような問
題を理解するためには、ひとまず、何故にエールリッヒが「生ける法」概念を彼の法社会学のなかで提唱したか、
という問題に立ちかえる必要があるだろう。
もう一つの問題関心は、エールリッヒが「法」を「社会集団(σqΦ。。巴ω。げ臥島。ゴ①<興護巳①)の内部秩序」として
規定することにむけられる。エ~ルリッヒに従えば、この「社会集団」は社会における法形成の最小の単位として
理解され、社会集団の内部秩序が「生ける法」の内容を示しているのである。このようなエールリッヒの理解は、
しばしば、..仁ぼ・・09Φ鼠ρ一甑冒ω゜.、というテーゼと同置されたり、あるいは、近代社会においてはあてはまらない
(4)
命題として排斥されたりする。前者のテーゼは、「法」の一般的な本質を語るものとして、エールリッヒの理解と
矛盾するものではないだろう。だが、エ:ルリッヒの理解の重心は、社会全体のなかで「法」の存在を認めるので
はなく、社会の構成単位としての「社会集団」のなかでの「法」の存在に置かれているのである。後者に関して言
一 386 一
えぽ、いささか疑問である。エールリッヒの命題、すなわち、「法」は「社会集団の内部秩序である」という命題
は、果して、近代社会において妥当しないのであろうか。なるほど、近代社会は「原子の体系」として考えること
ができ、そのなかでの部分社会としての「社会集団」の役割は著しく低下する。しかし、近代社会は、同時に一,相
互依存の体系」である。そして、「相互依存の体系」としての近代社会は、新しい階級の出現とともに、新しい性
格を担った「社会集団」の出現を必然ならしめる。この問題に関して、エールリッヒは『権利能力論』のなかで、
少しばかり明らかにしている。「個人主義は経済的基礎の上に立つ精神的潮流である。その根源は古代及び中世初
期まで遡る。何となればあらゆる生きとして生けるものが世に現われるときには、既に死の萌芽をもっている如く、
あらゆる社会制度も亦その最盛期においてさえなお没落の微候を担っているからである。」「個人主義が歴史の最後
の言葉である、と主張してはならないことは言うまでもない。……個人と国家の間に立って個人を支配し制御し阻
止し、拘束していた諸団体でそれまでに解体していなかったものは、はっきりと崩れ落ちた。注意深く観察する者
は、新しい創造物への萌芽を恐らく発見するだろうが、この萌芽は今日までのところでは大きな意味をもつまでに
(5)
は至っていない。:…」このなかでの「新しい創造物への萌芽」というのが、前後の関係を見てみれば、近代的労
働者階級の発生を示すものであることは明らかになるだろう。事実『法社会学の基礎づけ』のなかでは、「労働者
(6)
団体」(〉門げO一酔Φ同 ノNΦ同一∪似昌ユΦ)について述べているのである。このことから見ても、近代社会において「社会集団」
が全く意味のない存在とは言えないだろう。また、後で述べるように、エールリッヒに.おける「社会集団」は民衆
(7)
の意識の担い手として登場するのである。従って、この点を顧慮しないで、エールリッヒの命題についての批判は
なしえないだろう。とにかく、このような「社会集団」がエールリッヒの法社会学のなかでどのような性格をもっ
一387一
て現われるか、それは彼の法社会学体系のなかでの「生ける法」概念を明確にすることによって始められなければ
ならないだろう。そして、そのことが「生ける法」概念の意義を理解する一つの視座を与えてくれるだろう。
以上のような私の問題関心のもとで、本稿は、「生ける法」概念の意義を明らかにするための予備的考察たる位
置をもつ。
注(1) エールリッヒの法社会学の体系については、磯村哲「エールリッヒの法社会学について」法学論叢五七巻三号、同『エー
ルリッヒの法社会学』(昭和二十八年)を参照。本稿もエールリッヒの全体像について、これらに多くの示唆を受けている。
(2) 六本佳平「「生ける法』と法的過程」、三四ページ『法社会学講座』七巻所収、(昭和四十八年)
(3) 例えば、山中康雄「法社会学についての一考察」四〇ページ、杉之原舜一「法とは何か1行為規範と裁判規範」、一一七
ページ以下、「文献研究「日本の法社会学」』(昭和四十四年)所収。
(4) 川島武宜『法社会学における法の存在構造』(昭和二十五年)三七ページ以下、世良晃志郎『封建社会の法的構造』(昭和
二十九年)二五ページ・二八ページ、なお、沼田稲次郎『市民法と社会法』(昭和二十九年)六七ページ以下を参照。
(5) エールリッヒ『権利能力論』(一九〇九年)川島武宜・三藤正訳(昭和十七年)八八ページ以下、九一ページ。
(6) 国ぼ一一。7国ロσq窪一〇「口a一ΦσQ自αqα臼ω。Nδ一〇αQ一①ユΦωヵ①跨βQo.㎝ω<σQ一゜(川島武宜訳『法社会学の基礎理論』(昭和二七
年・再版昭和三〇年)九三ページ)日竃卜。°(以下Q。。臨。一。σq6と略)
(7) 村上淳一「ギールケし九〇1九一ページ参照、『法社会学講座」一巻(昭和四十七年)所収。
一388一
二
エールリッヒの法社会学は、従来の法律学(匂母『領巳①ロN)の批判をもって始まる。彼によれば、
の不幸は「それが現在ほとんどもっぼら実用法学(で冨窪ω。冨閑Φ。げ鼠①冨①)であるにもかかわらず、
従来の法律学
同時に相変ら
ず法に関する唯一の学問であることである。けだし、このことは、それが法および法関係について教えるものが、
(1)
その方向・対象および方法において実用法学以上にいでないことを、意味するからである。」そして、ここにおけ
る「実用法学」は「裁判官の行う法の適用のために作りあげた方法以外に方法というものを知」らず、「できるだ
け一般的な内容をもたせられた法規を、裁判官の手にあたえてやるべきものであり、 一般的な法規を具体的な場合
(2)
にいかに適用するかを裁判官に示してやるべきものであった。」このような法律学に対して、エールリッヒは、「実
(3)
用的目的ではなくて、純粋の認識に仕えようとし、言葉ではなく事実(]U⇔酢自oOOげ①昌)を取り扱う」法の科学(ヵΦ。ぼ。。毛
奮窪ω警p津)ー法社会学を企画した。法の科学は実用法学との分離(ω。冨乙§σq)とともに創設されるのである。し
かしながら、この新しい法の科学は「単に法および法制度の本質に対する・従来知られていなかった非常に多くの
・。・・・・・・・・・・・・…㌔・… (4)
洞察をあたえてくれるだけにとどまらず、疑いもなくそれは実用的に役立つ成果にも欠けることがないだろう。」
と、エールリッヒは言う。(傍点引用者)このようなエールリッヒの法社会学は、しばしば、社会学的法学を企画
(5)
したものである(パターソン(団α鼠昌ぞ゜℃象8屋oロ)など)とか、社会学的方法と法学的方法の混合である(ケル
(6) 、
ゼン(=9霧囚①房窪)・ウェーバー)とか言われる。このような批判・非難は別に考察されなければならないとして
も、事実工ールリッヒの法社会学は実用法学との密接な関連のなかで生まれてきたのであり、「概念法学」(bd⑦αqN一h・
{ω冒H冨震民窪N)の拒否のうえに成立したものである、と言えるだろう。それに、エールリッヒは始めから「法社会
学者」であった訳ではなく、彼はローマ法学者であったとともに、「現在でも裁判官達が従事している仕事」すな
わち、実用法学上の仕事をもって自己の研究を始めたのである。
(7)
エールリッヒは、一八八七年ウィーンの『法律家雑誌』(.G霞聾団珍①国似↓8㌦.)に「送り状の付加物について」
一389一
({
vげ①同 閃鋤パδ口同①昌げ①一〇6似什N①)という論文を発表する。エールリッヒ自身次のように言っている。一、一八八七年、私は
いくつかの論文を「ウィーンの法律家雑誌」に発表した。私はそのなかで多くの法律上の素材をもって次のこと
を詳論した。買主は、誰かが買主にあとから伝達する証書とは関りがないこということ、両者の間に言説がない
ものについて買主が一致するということは、黙示の意思表示(゜。自ω。ゲ≦9σq①巳①≦旨Φ霧o爵辱琶σq) として有効
になりえないということ、を。すなわち送り状(閃鋤犀ε茜)の「黙示の」受領が明示の合意でありえないことを、
私は強調した。それから、私は、〔このような〕送り状慣行(閏鋤写舞魯qげ巨σq)が送り状を発行すべき場所をも
たない小資本の人々や非商人に先だって、大商人や産業家を庇護することがいかに不公正であるかを、主張し
(8)
た。」.
これをレービンダーに従って述べれば、およそ次のようなことである。すでに完全に成立している売買契約で
あるにもかかわらず、事後に送付してきた勘定書における支払い場所の申立てが、一般的な裁判管轄(すなわ
ち、債務者の居所)の変更を導くであろう、というスランスにおける規定がオーストリアの判決に転用されたこ
とである。これはエールリッヒを驚かせた。なるほどこのことはフランスにおいてはフランス商法典からして有
効であろうが、オーストリアには適用されえない。と言うのは、オーストリアの訴訟法は変則的な裁判管轄の基
礎づけは、「明文をもっての一致」を要求するからである。しかし、裁判官は次のように解釈するであろう。す
なわち、送り状のなかに含まれた履行場所(支払い場所)の明文をもっての規定(⇔ロ巴昌。犀=昏Φbd窃鉱ヨ白¢ロαq)
は、たとえそれが黙示の受領(送り状の)であったとしても、まさに明文をもっての一致である と。そして、
このような法解釈を、エールリッヒは、判決において成立している法規によってではなく、裁判の優越のもとで
一390一
商人の利益保護のための利益顧慮によるものだ、と考えたのである。つまり、彼は、黙示の意思表示の仮面のも
とで、商取引関係におけるユーザンスの濫用がなされ、制定法に違背する法命題が定立することを認めたのであ
(9)
る。
そして、この「黙示の意思表示」の概念もエールリッヒのなかで発展する。「私は、私の論文『法における欠鉄
: (0)
について』(..Cげ霞い¢o犀9一ヨ国Φo馨軌.)のなかで、現行の実定法に従って判決をくだす裁判官が法発展の要請
に答えるために、理論や法体系に存在するある種の不明瞭さを利用するということ、また、理論と実践が作用す
るさいに用いられる最もあいまいな概念、すなわち、事物の本性(り4鋤ゴ」同 ユO『 ωOOゴΦ)、善意(げo轟ま⑦ω)、信
義誠実の原則(牢ぎNぢくO⇒円お口¢巳ΩOロげ曾)、悪意の訴(碧けご匹○ε、不当利得(§σq⑦お。ゴ紘臼島σQ8bdωN孕
一畠Φ歪ロσq)、公序良俗(Oo葺轟げ08。。日oお。。)などが最も法発展の要請に答えるにふさわしいかを詳論しようと
した。このようなあいまいな概念、〔すなわち〕法の欠敏、これらを通じて新しい豊饒な思考が現行法に浸透するの
であるのだが、これもまた黙示の意思表示である。すなわち、これは、法的制度ではなく、法的制度の存在のた
・・・・・・ … ↓。… 。・… ..… (n)
めに苦悩する、新しい法規範の全体的な体系なのであり、個別的な問題でなく、複合した問.題なのである。」以
上のように、エールリッヒは「黙示の意思表示」が裁判に作用するのを認めながら、一方において、現代の法解
釈学(ヨo匹ΦヨΦらoσqヨ巴。。。『①菊Φ。犀ω鼠のω①器。げ⇔津)においては、その法解釈が現実にはそれを執行することを職
務としている人の人格に掛っていることを指摘する。「同一の法命題は、異った地方において異った時期では何
か全く別のものになるだろうし、異った教養、異った人生観、異った官職の地位、社会的な地位をもった人々が
(12)
裁判をする以外に、どんな基礎もないのである。」
一391一
すなわち、°彼は「法発展の要請に答えるためにもちだされだあいまいな概念」のなかに、一方において、いわ
ゆる「裁判官の自由な法発見」を見い出し、他方において、その判断の恣意性を見い出したのである。このよう
な連関なのなかで、エールリッヒが「自由な法発見」 (マΦδ因Φ。ぼ跳巳きσq)のために科学的基礎を打ち出そう
とするのは必然であったろう。しかし、ここで彼が試みたのが判例研究であった訳ではない。彼は次のように言
っている。「私はドイッ・オーストリア・フラソス裁判所の六百巻以上の判例集を研究しつくした後に、判例が
黙示の意思表示からつくられている姿を示そうと思った。しかし、間もなく、判決よりも判決の基礎になってい
る事実の経過が私をとらえた。したがって、この私の著書(ここでは『黙示の意思表示』(一八九三年)をさし
ている。1引用者)は、裁判官が判決に至った事実の叙述と法律生活における黙示の意思表示の意義の説明を含
んでいる。私が後日理論的に基礎づけようと試みた法律学の社会学的方法をこの著書で、事実上無意識ながら追
求して遍・」つまり・窪判例研究から法的生活における「黙示の意思表示」の機能を知り、そ・において実
用法学的知識だけでは欠陥があるということ、すなわち、裁判所にもちだされるのは法的関係の一部分だけであ
り、その場合にも訴訟を通じての歪められた状態においてもたらされるということから、判例を対象とする研究
も法的生活の形象(国匡)をもたらすためには充分ではない、と言ったことを彼は知ったのである。それ故に、
(14)
「社会学的方法は、生活の直接的な観察を通じて、補わねばならぬのである。」かくして、エールリッヒの法的事
実の探究11「生ける法」の探究が始まるのである。
以上のようなエールリッヒの「法的事実の探究」の始まりは、従来の法律学を法規の解釈から解放するものであ
り、法律学を社会学化する試みを意味する、と言いうるだろう。従って、彼の法社会学は、自己の法社会学の意義
一392一
を明らかにするために、当時支配的であった法律学(h①巴Ω。乱一8ぴΦ即8卸゜・一⑦冨ρヨo号ヨ①伍。σq日巴ω。帯力①。窪゜・鼠ω-
・。
D昌、。ゴ。{け)との対立から始まるのである。しかし、〒ルリ・ヒがただ単に従来の法律学の批判皇に自己の法社
会学を基礎づけたにすぎないのであるならぽ、彼の法社会学は実用法学を拡張したもの・実用法学の方法論にすぎ
ないものになってしまっていただろう。なるほど、エールリッヒは、法律学を法規の解釈だけの任務にとどめてい
た根拠であ・当時支配的であ・た法源理説三法源説)を批判嚢・我・はこれについて詳しく論ずる余裕はない
のだが、十七世紀来支配してきた絶対主義国家あるいは官僚国家の所産としての、国家法以外は法を知らない法律
学への批判がなされる訳である。そして、この批判の上に新しい法源理論11法形成理論(菊Φ。ゲ錺げ一匡§σq8年Φ)を
提唱しようとするのであるのだが、しかし、それは決して直接的・無媒介的になされるのではなく、十七・八世紀
の自然法学.歴史法学の学問遺産のなかで彼の新しい法源理論11法形成理論が基礎づけられるのである。すなわち、
啓蒙期自然法学.歴史法学のなかに、後述のとおり、法の科学の芽があったことは、そして、エールリッヒがそれ
らを媒介にして自己の法社会学を理解したことは、彼の法社会学に豊饒な内容を与えることになったであろう。
注(
1) ”ωoN一〇一〇σq…ρω゜ω゜(川島訳五ー六ページ)
(2) じ弓町=。丁”Φげ①乱ρしo°9(川島訳九-十ページ)
(3) 国7島。ダ⑦げ窪号”6Q°一゜(川島訳ニページ)
(4)孚島島①び①民pω.一声
(5)勺。冨§b量・≦国・σ・9孚・=。ダヨ守゜琶゜冨①爵゜胤二拓゜°°°芭ω゜一§Φ<蕊9
(6)囚Φ一ωΦ口・国9コω・瞭口①oH・コ早・q毎・・島臼㌘。募§団。冨飼ぎ〉・。耳穿ω。・一。ぎ・°…°・。莚口&ω゜N一偉・剛旦三犀ωP
G。ωO映゜這嵩。 なおこのケルゼンの論文はエールリッヒとの論争のきっかけを作った。
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一393
(7)塁昼oぎ守゜け二「°量u・貫三巨。・・藝・睾艮・・…刈ぴ・・馨・・なお、以下の記述は、カ・薮コ窪Φ『ヒ帥口㌦円①穿
U冨bd①σq三コαニコαQユ2即Φ。プ一器。蚊。一。σqδ含。ゴ国二σq⑦コ国7島。r一¢①ω. における伽N「エールリッヒの法的事実研究の始
まり」(Qo9 悼HIQD. 悼㎝)に多くの点において負っている。
(8)穿耳菊゜°ぼ巨ピ・σ・こ婁ω.・。自h・因・臣一註・包』・9・。・。目く・,r
(9)閃警⊆巳・3。』.OGω゜卜。N・
(10)孚『=°rOげ臼暮穿撃冒幻①。三Pぎ冒「陣・・蔚9Φヒd聾け①3G。・念下ω・①ωρ目G。c。・。し昌因①。一日一=邑い①丁①ロ・ω・。。o-ら。.呂o.
(11) 国ぼ=°ダ牢虫。寄3び訪口曾品応a蹄①δ菊⑦9冨三。・器器。訂Pぎ菊①。匿ニロ山U⑦げ①ロ・ω」刈ρ
(12) 国げユざ7ΦσΦ口α∬Go’一刈刈・
(13) 国プ円=07ωoNδ一〇σq一ρω.ωω㊤゜
(14) 菊①丁げぎ山曾り鉾POGQD°卜Qω.
(15) 国ぼ一一。ダ①σΦコ留“ω゜鵯中゜<σq一゜なお、エールリッヒにおいて、法社会学において探究された法的事実が実用法学におい
て利用される時、その実用法学は基礎科学としての法社会学に対して「応用法社会学」(磐σ・①壽乱け①カ①。訂ω。臨。δσqδ)と
いうことになる。(<σqr国耳=。互ωoNδ一〇αQδ”ω゜一①ωごヵΦげげぢα①5p』・○・・GD・刈刈)
三
工ールリッヒの十七・八世紀の自然法学・歴史法学に対する評価は、まず第一に「国家が法なりと宣言したもの
を盲目的に受け取らなかった点」、第二に「法の本質を科学的に探究しようとした点」に求められている。そして、
この結果両者は「法の淵源(d話嘆ロロσq)を国家の外に置くことに成功した」と言うのである。もっとも「国家に
よって法規として制定された法が唯一の法であったという時代は、裁判所およびその他の官庁に之っても、いまだ
かつてなか・たのであり・それは現実的妻であるのではなく迅論紫黛であるにすぎない。というのは、裁判
一394一
官達は「法の完結性」という仮象のもとで、法律学における固有の「論理」を通じて、無意識的・盗意的に「法発
見」をなしていたのである。従って、「国家法」が唯一の法であるということは、絶対主義的・官僚国家のもとで、
国家的権威を誇示する理論にすぎないのである。このような法律学の傾向にもかかわらず、啓蒙期自然法学・歴史
法学(サヴィニー(閏ユ⑦黛凶。『囚⇔ユ<o昌ω鋤く一σq身)、プフタ(○㊦o同σqΦ宰δ穿87勺二穿叶鋤)の歴史法学)は「非国家
法」↑法創造・法形成の直接的な担い手が函家L以外である法)にふさわしい地位を与えたのであ郁干ル
リヴヒは『法源理論への寄与』において、自然法理論が人間に対し国家のみが与えた法と人間に自然状態として帰属
(2)
する法を区別していることを述べている。彼によれば、この区別は「法」の社会的性質を認識させうるのである。
すなわち、自然法学者は、人為的構成物としての国家から区別せられた「人間の本性」11自然(社会)状態から「法」
を導き出したのである。、そして、このような傾向は「社会的なもの」 (○ΦωΦ一一8げ畦岳。『Φ)の用語ー「民族精神」
(<。昂。。αq。一.↓)におきかえられることによって、歴史法学者に引き継がれるのである。もっともエールリッヒのこ
のような理解は、自然法学との対立において生まれてきた歴史法学を考えてみれば、両者の連続性に異論がなされ
うるだろう。しかし、自然法学における「人間の本性」がいわば「経験的直観」にもとつくものとされるならば、
言い換えれば、啓蒙期自然法学者においては理性法的立場が根底において維持されているとしても、相補的に経験
的座史的立場が内包されているとするならば、エールリ・ヒの理解もそれほど根拠がないとも「 。い難いだ舘・
では、エールリッヒは自然法学をどのように理解していたのか、そこから始めることにしよう。
エールリッヒが十七.八世紀の自然法学と言う場合、少なくともプーヘンドルフ(ωo日口Φ一℃三窪曾塊)に始ま
るそれを示している.この時期における「自然法は、侵略的なローマ法に対してドイッ的法意識の防禦としてみな
一95ヨ
一
され鴨04一のが慣例的であるが・ニールリッヒによれば、それは全くの真実であったという訳ではない。自然法学者
が闘ったのは、ローマ法ではなく封建主義(閏。巳巴『日o°。)である。なぜならば、1。
この時期における自然法学は、商業や貿易に従事し、まさに産業主義化しようとしていた十七.八世紀における
都市の市民階級(゜。汁巴冨。冨ωゆ邸σq霞言旨)の要求・要請を、始めのうちは無意識的に後にな。て竪、識的に代表し
ようと試みたのである・そして、・の市民階級は、まず、自己の目的を達成するために、権力国家を要求し、国家
の権力への参加、封建貴族の弱体化を要求した。その表れが、ドイツ自然法学者の言口う「絶対主義的福祉国家」
(°°巨β愛ω゜冨ぎ訂h°葺・・藝)である。彼らが絶対主義的統治形式(・げ・・ごけ尻↓凶.・げΦ力①瞭⑦同ロ旨・,・。h。同ヨ①p)を
要求したというのは・君主が当時においてただひとり権力国家(ω叶⇔同犀Φ同 ω汁⇔⇔け)を作る.」とができ、貴族の権力
(尋どを打ち破る・とができな」とを意味するのであり、それは単に外観的なみせかけにすぎないのである。
そして、自然法学老が主張する「絶対主義的福祉国家」の目的とするのは、商業.工業.産業を援助することであ
り、人口の増加とともに「商業・工業・産業のために顧客(ざ巳ω。ゴ⇔津)、労働力を調達し、内部におけるそれら
の敵姦制的に抑制し・法的塞を爆・・外敵から保集が」・とにあ・のであ・.・の・うな封羅力への攻
撃は当然に私法の分野においてもなされた。というより、都市の市民階級の主な要求は、以上のような政治的な要
求よりも経済的要求にむけられるのである。つまり、彼らは農村や封建的勢力における商業や貿易の制限を取り除
くことを希望し、自然法学老は、自由な活動の制限をとりはずし、身分や地方の間の法の前の不等性を放棄し、契
約の自由、商業の自由の上に法秩序を位置づけようとするのである。すなわち、「都市の市民階級は、自然法原理
としての自由な所有権、契約の自由の枠組のなかで、目分達の将来の発達のために要求したほとんどの法制度を形
一396一
(6)
成し、兄た」のであり、自然法学者は、市民階級の既存の法制度から抽象化の手段によって法曹法を形成したのであ
る。(もっとも、それは社会的認識と政策との混同にもとつくものではあったのだが。)このような自然法学の仕事は、
私法の全ての領域(家族生活・遺言・相続の領域)にも発展し、私法体系の構築に導くのであるが、この時、外の
どんな法体系よりもローマ法の体系が個人主義的な原理としての自然法と調和するのである。(ローマ法が、たと
・兄外国語で書かれたやっかいなものであり、整備の明白さを欠いたものであり、時代遅れになった多くの素材を含
んだものであり、法律家でなければそして書いた者でしか解らないようなものであ・たとして草)
以上のように、自然法学の闘ったものは・ーマ法ではなく、封建主義であったのである。そして、次のことを明
らかにしているだろう。すなわち、自然法学者は、都市の市民階級の社会的経済的秩序、従って「生ける法」を基
・ ・ … (8)
礎とした「-規範の発見」をなしたのである。そして、この意味において、自然法理論において法の科学の芽が存在
していたと言いうるのである。このような法の科学の芽は、フランスの啓蒙期自然法学者モンテスキューにおいて
より明確になって表れる。エールリッヒによれば、モンテスキューの『法の精神』における諸原理は、ア・プリオ
リに考え出されたものではなく、「彼が彼の仕事にたずさわってきた二十年間の間に、集められ、細かく調べられ、
(9)
彼の心のなかを思いめぐらした、諸事実のなかから導き出されたのである。」これ以上モンテスキューにはふれな
いが、エールリッヒが自然法学にむけた評価というものは、「人間の本性」から導き出された諸原理が同時に社会
の「法」として妥当するものであったこと(自然法学者が都市の市民階級の要求・要請に答えようとした、その限
(10)
りにおいて彼らは経験的方法を内包していた)、そして、その「法」のなかに法形成の淵源を見い出した、と言う
ことができるだろう。そして、エールリッヒにょれば、このような方向は歴史法学に受け継がれるのである。
一397一
周知のように、歴史法学者(サヴィニー、プフタ)は「法」の存在根拠を、自然法学者が「人間の本性」に求め
るのに対して・「民籍神」(<°薦⑦9に求める。言い換えれば、歴史法学毒「法」を「民族」(<。εの歴史
的所産として位置づけるのである。・の歴史法学のテ↓が、「法」が立薯の資.心によってではなく「民族」の
歴史的発展から内的必然的に生じる、とい三」とを意味する限りにおいて、彼らは法の科学に不巧の功績を残した、
(11)
とエールリッヒは評価する。
エールリッヒによれぽ、サヴィニーとプフタの理論の評価において銘記しなければならないことは、「彼らが始
めて法源理論(↓げ§Φ量寄『薯・一琶において発展の観念(<。…8一冨傷Φ目国昌叶鼠。匹¢昌・,)を採用し、法
の発讐全体としての民族の歴峯明確鋳舳識し熾ごとであ・.サヴー〒に・れぽ、「法」・は、二・口語・同様
に・「民族」の本性゜性格との有機的な連関のもとで、時代の継続姦じて(従・て、雇史的Lに)証明せられ
る・そして・「法」は(言語も同様であるのだが)、[-民族Lの他の全ての活動と同様に、停止する。となく進歩し
発展する・そして・・の発展は「民族」のうちにある必然性(内的必然性一暮臼Zog窪岳σqパΦ搾)の法則に従うの
である・「法」は罠族Lととも成長し、罠族Lとともに発展する。そして、「民族」がその特性(国σq①巨二巨討鼻Φ謬)
を失った時に死滅するので祭・「サヴごTの・のよう蓮蟹法源の全く新しい馨を与、兄た」と、〒㌻
ッヒは言う。すなわち、「このような「法」の理解のもとでは法源は何が法であるべきかを悠血園心的.偶然的に決定
することができず・法源とは民族の意識のなかで内的必然性をもって実現せられた生成(≦①巳窪β巳○①ω。げ99)
の表現なので蒙・L・のよう薪しい法源概念のもとでは、法源の諸形態、慣習法.制定法.韓.法は、罠族精
神Lあるいは罠族の意識Lからの分肢であり、固有の機関(藷窪a巨尊Φ9σq。■づ)であるにすぎない。すなわち、
一 398一
慣習法においては、慣行(Oげロ旨σq)それじしんが「法」を産み出すのではなく、表面に現われた分肢として「法」
を認識させるだけであり、制定法は、「民族法」(<○蒔賃①o窪)をその内容としてもつという意味において、「法」
の存在根拠であるのではなく、「法」のしるし、メルクマールにすぎない。また、法曹法(廿幕蔚穿①≦一器の器。げQε
は、それが純粋の学問ではなく民衆的(8臨o口①=Φ)学問であった時、法源となりえ鵜醒
以上のような「法」ないし「法源」についての理解は、エールリッヒにとって次のような意味において重要なの
である。すなわち、「発展の原理」が自然科学においてわずかに識別された時代において、サヴィニー、プフタが
それを法の科学に導入することに成功したこと、そして、「発展の原理」と結びつけられた新しい法源理論が、蜘称
営雷聖慰ぎキ露展盆塞爵族客談L雰を・ど ↓。きどを鷺砂レ偉…募熱博乞て・
,」の意味において(「法」の成立(穿・…ξα・)の問題と裁判官の法適用の問題を区別したこ.契)・サヴィ〒とプ
フタは実用法学ではない新しい法の科学を創立しようとした、とエールリッヒは考えるのである。
しかしながら、このような歴史法学の試み(法源理論11法形成理論)も充分に成功したものとは言えない。すな
わち、彼らは慣習法とその他の法源とを明確に区別しえないのである.民衆の法意識のなかで起こる慣習法は直接
に習俗(Qo凶#Φ)に転化する。ここにおける慣習法は、民衆の法的意識の現象形式であるばかりではなく、慣習法の
認識の手段ででもある。この意味において、慣習法は第一次的には行為の規則であり、従属的には裁判規範であ
る。しかし、このようなことは他の法源については言えないことである。制定法はその内容が行為の規則からとり
だされる限り「民族の意識」に適合するが、サヴィ〒やプフタが望ましくないと述べて審制定蒙「民族の意
識」のなかに還元されえない場合でも、制定法は裁判規範として拘束的なのである。従って、制定法を「民族の意
一399一
識」あるいは民衆の法意識に一律に還元することによっては、制定法を明らかにしえないのである.また、このこ
とは法曹法においてもより明らかになる。すなわち、サヴィニーやプフタは、法曹階層が民衆全体の代表者であり、
法曹階層の共同の確信が民衆の確信であ翰wという穫を通じて、法曹法を罠族の意識Lに還元しよう、とする
のである・このテ↓はゲルマニストたるギールケによ・ても鋭く批判せられたξ・ろであ・醐w・れ播習法な
いしは「民衆法」と法曹法の区別を明確に区別しないばかりではなく、究局的には「法」を全て「法規」に解消し
てしまう帰結に終るのである。
かくして、エールリッヒは歴史法学の課題を担いながら新しい法形成理論に立ちむかうことになる。彼は、べー
ゼラーを媒介にしながら、「民衆法」が現在でもなお生き続けていることを注目し、「民衆法」と「法曹法」を、従
れ
って、「、法的諸制度」(閃⑦。窪゜・Φ一旨8ぼ巨σqΦ口)と「法規」とを明確に区別する。エールリッヒにおいては、「法曹法」
から区別せられた「民衆法」が、独自の構成部分として、法創造(園Φ。犀。・臼N窪σq⊆口σq)ないしは法形成(菊Φ。卸の,
σ陣匡暮σq)の意義を失なわないのである。従って、現在でもなお民衆の意識のなかで産み出される「法」11「生ける法」
は民衆の生活過程を通じて(その認識手段としての「法的事実」を媒介にして)直接的に観察.認識されなければ
ならないのである。そして、「生ける法」の認識を通じて、裁判に民衆の意識が持ち出されうる通路を用意するの
である(法曹法臼霞陣ω冨霞①。窪)。この意味においては、エールリッヒが企画したものはまさに「下から」の法の科
学であった、と言いうるであろう。
一400一
(1注)
悶年一一。7ωoNδδσq一ρω」一. (川島訳一九-二〇ぺージ)
(2) 国年一ざπbご①ξ鋤σq①N葭↓ゲΦ。「8鳥韓ヵΦ。窪呂器=Φコ”HOONω9悼卜。H語 磯村哲『エールリゾヒの法社会学』(上)一七ぺ
ージ以下参照。(以下、『法社会学』と略)
(3) 磯村哲『啓蒙期自然法理論の現代的意義』法律時報二八巻四号六号、参照。なお、エールリッヒの自然法学の理解につい
て若干の疑問をもつものとして、 囚冨算一巳εω <o臥8σq①昌α臼力①。ぎωωoN一〇一〇σq一ρ冒N蝕冨。耳圃津出穿冤①σq蚕。70巳㊦勾Φ。ヶ-
訂三ωω窪ω。訂津鼻9おωO}ψG。㊤-Qo’鼻Oがある。
(4)国年ぎ戸①げ①巳PQo°ωω①゜
(5) 国訂一一。7①げ①コユ9ψωω①゜なお、自然法学が後期になって「絶対主義的福祉国家」の主張を放棄し、イギリス的な立憲主
義そして一般的な主権を主張したことは周知のことである。(<σqro。.ω。。O)
(6) 国冨一一。貫①げ①コα斜ω.ωω刈゜
(7)国ぼぎダ①げΦ己PQ。°ωω゜。中゜
(8)国ゲ島。ダ①ぴΦaρQo°ωωG。<σq門
(9) 国ぼ=07ζoコ8ωρ三①¢費凱uりoo剛oδαq剛09°一冒「尻℃ヨ鳥Φコoρぎ国霞く四乙い匹≦刃Φ〈δ乏卜⊇PH⑩HO山ρ弓.OoQ刈゜なお、モンテ
スキューはもちろん啓蒙期自然法学者なのであるが、エールリッヒは他の自然法学者と区別してかなり高い評価を行なう。
エールリッヒによれば、モソテスキューの『法の精神』のなかには法社会学についてのヒソト・暗示・素材が含まれている
のであり、彼は「一人の人間が法学でなしえた最大の進歩」をなした老であるとする。
(10) 自然法が以上の思想を徹底しなかったことについて甲団芹一87Q。。Nδ一。σqδ暫しo」H-Go°目卜。(川島訳二〇ページ)を参照。
(11) 国冨一87①げ①ロ』Pω」悼h(川島訳二一ページ)ω゜ω㎝①鴫゜<σq一゜磯村哲「法社会学』(上)二一ページ以下参照。
(12) 国冨一一〇貫①σ8血Pψω印○。9
(13) 国ぼ一刷。7①σΦ己斜ω.ω0。。<σQ一.しD餌く戯尾冒囚霞一くo只9ω8ヨα霧}お三一σq①ロカα巨゜。oゲ窪力①。腎ωゆα゜HレG。蔭ρQo.溝中くσqr
なお、サヴィニーは法源の概念を次のように定義している。「我々は、一般的法の、それ故に法的制度ならびに法的制度か
ら抽象によって形成された個々の法規則の、成立根拠(国臣゜・8評品゜・σq≡民)を法源と名付ける。」(p騨OGψ一一)
(14) 閏耳一一∩70『Φ巳ρG∩°ωOc。°
(15) 国冨一剛。貫ΦげΦ註斜QD°ω8h.
一401一
、
(16) 国ぼ一三ご①げΦコ匹仁.》Gり’ω㎝④゜ ・
(17) 国ぼ=。7。げ。己斜ω゜一一州゜ω゜ωOω<σqr エールリッヒは、サヴィニーやプフタとそれ以後の歴史法学とを明確に区別す
る。「彼ら(サヴィニー・プフタi引用者)は継続者をほとんどもたず、後継者は全くなかった。」(も。°一ω)
(18) 団ぼ一一〇戸①σ窪αPψωOも。°
(19) 国ぼ=。7①び①巳Pし。’ω罐中゜
(20)O[①蒔ρ。【δ〈8”O。ω牙二けω3①○①3°。ω①蕊。訂雰「Φ。ぼUdらN一。。鐸霊ユ①一蝕⊆品(しり」あ』心y『①の・ω・隠車
(21) 国ぼ一87P四゜○‘ω゜ω謡塗磯村哲『法社会学』(上)、三四・三五ページQ
四
以上のように、エールリッヒは実用法学上の課題から出発して、自然法学・歴史法学を媒介することにより、彼
は自己の法社会学を企画し、「生ける法」を基礎づけた。けだし、自然法学のいう「人間の本性」、歴史法学のいう
「民族精神」から法の淵源が「国家」ではなく「社会」のなかにあることを学び、そして、「社会」のなかでの法
゜ ° ° (1)
の形成・生成を明らかにすることに法社会学の重要な任務(唯一の任務ではない)を認めたのである。従って、彼
の「社会」なる用語は、「人間の本性」「民族精神」と連続的に理解されうるものであり、エールリッヒは歴史法学
者が「民族精神」と名付けたもののなかに「社会」なる概念を発見したのである。それ故に、エールリッヒが
「社会」のなかでの法11「生ける法」を行為の規則として把握するとき、「民族精神」のなかに「社会」の概念を読
みこんだ欝う意味において・それは具体的な民衆の精神を表現したものと=ニ。いうるであろうし、それは歴史的L
に規定せられたものを表現しているのである。’
一402一
もっとも「民族精神」のなかに「社会」の概念を発見したとしても、エールリッヒの「社会」なる概念は一民族
において形成せられる【,社会」のみを表現している訳ではない。彼によれば「かみ合った環と重なりあった円から
なる……世界全体は、その環や円の間に交互作用が認められる限り、 〔さらに〕 一つの社会を構成する」のである。
この意味において、「社会」とはいわゆる「市民社会」の概念とは異った人間社会一般を広く表現している。そし
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 (3)
て、この人間社会が全ての社会科学的考察の出発点である、とエールリッヒは言うのである。
エールリッヒは、このような「社会」から出発して、その「社会」を構成している「社会集団」を位置づけ、そ
(4)
してまず第一にその「社会集団」の内部秩序を行為の規則11「生ける法」として規定するのである。しかしそれぼ
かりではない。エールリッヒは、次に「社会」の内部秩序あるいはその他の「社会集団」例えば「社会」の機関とし
[
ての「国家」の内部秩序(従って「社会集団」にとっては外部秩序である)が法規を媒介にして「社会集団」の内 娚
部秩序に転化することを予定しているのであ郁我濠彼の「生ける法」概念を理解するにあた・て後者の問題を[
忘れてはならないだろう。
また、エールリッヒによれば、このような「社会」のなかで個人は「社会集団」の構成員として把握されるので
ある。言い換えれば、個人は「社会」あるいは「社会集団」のなかで形成される。そして、「社会」あるいは「社
会集団」のなかで形成された社会的諸規範(法規範はその一契機である)が個人に対して命令禁止をし、その社会
(6)
的諸規範に従った人間行動が行為の規則として現象するのである。そしてここにおいて形成される秩序を彼は「社
会的諸制度」とも呼ぶ。従って、行為の規則の総体としての「社会集団」の秩序と「社会的諸制度」は同じことを.
異った角度から表現しているのであり、個人はこの意味で「社会的諸制度」と常に関係づけられて存在しているの
である。
(7)
また、彼はこの「社会的諸制度」を「社会」と法規との媒介的なきずな(一巨9ヨΦ蝕象。一ヨ器)とも理解しており
社会的諸制度は彼の「生ける法」概念を理解するにあたって重要な概念であるだろう。
私は、エールリッヒの法社会学、特に「生ける法」概念が完全なものであると考えている訳ではない。例・兄ば、
「法」とその他の社会規範の区別について、言い換えればサンクションの問題に関して批判のあることは周知のこ
とである。がとにかく、エールリッヒは、自然法学や歴史法学における「人間の本性」「民族精神」という形而上
的なあいまいな概念を「社会」という社会科学的な概念におきかえ、その「社会」の概念を基礎にした「法」の生
成・形成理論を企画したのである。しかし、それが単に法の社会科学を樹立したという歴史的意義にとどまってい
るのであろうか。それは、彼の「生ける法」の構造を明らかにすることにより、問題にされなければならないこと
である。
注(((((((7654321)))))))
磯村哲『法社会学」(下)八六ページ以下とくに九二ぺ!ジ参照。
磯村哲「啓蒙期自然法理論の現代的意義」(二)法律時報二八巻六号、
団芹一8『ωo臥o一〇αq一ρω゜卜。9<σq一.(川島訳三五ページ)
国町一一〇貫Φげ自留vQD.卜OO題くσq田ψ認中くσq一゜
国訂=oド①げ①コ伍Pω゜旨O噺断くびQ一.
閣プ『=o∫①げg留一〇D°ωH<σq一「
国ぼ一一。飼ζo葺①ωρ巳①口仁。コ色し・o。一〇一〇αQ一〇巴冒二ω暇口伍Φgρ7⊆。。。曲
七五ページ参照。
一404一