上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介 : 大正新教育 -...

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Title 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介 : 大正新教育 期公立小学校長のリーダーシップ( fulltext ) Author(s) 橋本,美保 Citation 東京学芸大学紀要. 総合教育科学系, 69(1): 1-14 Issue Date 2018-02-28 URL http://hdl.handle.net/2309/148848 Publisher 東京学芸大学学術情報委員会 Rights

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  • Title 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介 : 大正新教育期公立小学校長のリーダーシップ( fulltext )

    Author(s) 橋本,美保

    Citation 東京学芸大学紀要. 総合教育科学系, 69(1): 1-14

    Issue Date 2018-02-28

    URL http://hdl.handle.net/2309/148848

    Publisher 東京学芸大学学術情報委員会

    Rights

  • * 東京学芸大学 教育学講座 学校教育学分野(184-8501 小金井市貫井北町 4-1-1)

    1.はじめに―問題関心と本研究の目的

     ドクロリー教育法は 20世紀初頭にベルギーの精神医学者・教育者であるドクロリー(Jean-Ovide Decroly, 1871-1932)が開発した教育法であり,モンテッソーリ教育法とならんでヨーロッパにおける新教育実践の二大潮流の一つといわれている。その影響力は欧米の新教育運動に与えた大きさとは対照的に,日本の実践現場にはほとんどみられなかったと考えられてきた。しかし,近年,遠座知恵や筆者の研究によって,1922(大正11)年頃から実践家によるドクロリー教育法への着目や紹介が始まり,1925(大正14)年頃には少なくとも大正新教育の代表的な実践家たちはその存在を認知していたこと,1920年代後半には東京女子高等師範学校附属小学校や明石女子師範学校附属小学校で,ドクロリーの思想や「興味の中心」理論に基づく生活単元カリキュラムの開発が試みられていたことが明らかとなった(1)。 本研究では,少し遅れて1930(昭和 5)年から本格的にドクロリー教育法を取り入れて低学年の合科学習を開始した東京市浅草区富士尋常小学校(以下,富士小)に注目する。同校では,昭和初年頃から校長上沼久之丞が海外教育視察などを通じてもたらした西洋教育情報の研究が行われ,訓導たちによって合科学習や低学年教育,表現教育などの実践が展開されていた。こうした取り組みは,卓越したリーダーシップを備えた校長と当時の寛容な東京市の学事関係吏員の存在によって実現した,公立小学校における稀少な事例と位置づけられており(2),その過程でドクロリー教育法が少なからず影響を与えていたことについては,先行

    研究の多くが指摘している(3)。それは,1931(昭和 6)年以降,同校が出版物や上沼校長の講演などを通してその事実を盛んに宣伝したからであるが,実際の教育実践の場でドクロリー教育法がどのように理解され,実践改革に用いられていったのかについては明らかでない。 筆者は富士小におけるドクロリー教育法の受容を通して同校のカリキュラム開発の実態を明らかにしたいと考えているが,そのためには同校が公立小学校であったことに注目した新しい視点が必要であろう。たとえば,同時期の師範学校附属小学校や私立学校の場合のように,著名な指導者の思想や理論を分析することでその学校の教育理念や教育実践の特質を説明するという方法では,公立小学校における学校改革の独自性が看過されてしまうのではないか。新教育を本格的に導入することが困難であったといわれる公立小学校の中にあって,果敢にそれに挑んだ富士小を取り上げる意味は,学校改革の主体である教師たちが同校の学校経営やカリキュラム開発に自主的に取り組むようになったプロセスをみることにあると考えている。 このような問題意識から,本稿では,富士小のカリキュラム改革において校長上沼久之丞が果たした役割を再考するため,彼がドクロリー教育法を紹介した経緯を明らかにしたい。従来の研究では,校長上沼の著作に依拠して彼の教育論が分析され,それが訓導たちによって様々に具現化されたと描かれてきたが,そのような構図は上記のような理論的指導者として校長を位置づける見方による。当時の公立小学校における学校経営が,管理者である学校長を中心とした権威主義的なものであったことは容易に想像されるが,それゆ

    上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

    ―― 大正新教育期公立小学校長のリーダーシップ ――

    橋 本 美 保*

    学校教育学分野

    (2017年 9 月26日受理)

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    東京学芸大学紀要 総合教育科学系Ⅰ 69: 1 - 14,2018.

  • えに教師たちの共同研究の成果もほとんどの場合学校長の名前で公表されている。富士小のカリキュラム改革に関するこれまでの研究では,上沼のリーダーシップに負うところが大きかったという事実は指摘されているが,同校の実践研究における彼の位置づけや指導力の内実については考察されていない(4)。そこで本稿では,富士小におけるドクロリー教育法受容のプロセスを明らかにするための第一段階として,上沼がドクロリー教育情報をもたらした経緯を明らかにし,同校のカリキュラム開発における彼のリーダーシップがどのようなものであったのかを考察したい。

    2.上沼の思想的転機

    2.1 校長への就任 上沼久之丞(1881-1961)は,1881(明治14)年6月25日長野県下伊那郡下市田に生まれた。高等小学校を卒業すると同時に15歳で同校雇いとなり,翌年免許を取得して準訓導となった。17歳の時に上京して東京府師範学校に入学,卒業と同時に同校附属小学校の訓導となる。3年後に東京市浅草区福井尋常小学校の主席訓導に抜擢され,1908(明治41)年 4月に26歳の若さで同校校長に就任した(5)。この後1943(昭和18)年 6月に依願退職するまでの35年間,上沼は東京市の公立小学校長の職にあったが,彼の40年にわたる教職期間中,訓導として子どもたちを担任した期間はわずか 5年であり,大部分は学校経営の責任者として過ごしたのである。 校長となった上沼は,福井尋常小学校で 4年,浅草区千束尋常小学校で約10年,浅草区富士尋常小学校で21年の間その責を果たし,富士小に在職中には新教育連盟日本支部の理事や全国連合小学校教員会会長となって活躍したことが知られている。従来,こうした彼の教職生活の中でその思想形成に重要な影響を与えた経験が,東京市から派遣された 9か月間の欧米教育視察であったことが指摘されている(6)。それは,上沼の著作のほとんどが帰国後に発表されていることによるが,彼の思想や富士小の実践に与えた欧米教育視察の影響を論じるためには,その前後で何がどのように変化したのかを確認する必要があろう(7)。そこで,まず視察以前の上沼がどのような課題意識を有していたのか,その思想形成について明らかにしていこう。

    2.2 杉本茂晴を通じた自由画教育との出会い 上沼は,自身の教職生活を振り返って,千束小学校長時代(1912年 8 月~ 1922年 6 月)に「小生の教育

    思想の大転換期の発端」(8)となる出来事があったと述べている。それまでの上沼は,師範学校で教えられたことを真面目に,懸命に実践したのだったが,その教え方では「児童の個性を充分伸ばし得ない」ことに不満を感じていた。「新しい個性の伸びる教育を求めて」,「ヘルバルトの教育を反省し」たり,「小学校令に定められた事を遵奉し,教科書を善用して」みたものの,「快心の指導は生れなかつた」という(9)。 こうした問題意識を持ちながら,上沼は1918(大正 7)年から図画教育の改善のために,川合玉堂の門弟を招いて教師の授業改革を図ろうとしたが,3年経ってもその効果は表れなかった。それは,教師たちが自身の授業改善の必要性を認識していなかったためであり,「そこで自分は[教師が自分から]求めてやるのでなければならぬと思ひ,求める先生から少し位の失敗は覚悟の前で」(以下,[ ]内は筆者)やらせてみたという(10)。この時,上沼に画手本(国定教科書『新定画帳』)の使用を止めて,自由画教育を始めたいと申し出たのが杉本茂晴訓導である。 杉本は,故郷信州を離れて1920(大正 9)年 4月千束小に着任した。当時さかんであった山本鼎の児童自由画教育運動の影響を受けて研究を始め,1921(大正10)年10月に,自身の図画教育を変えることを決意して,上沼校長に許可を求めた(11)。児童と協議の上,画手本を捨てて始めた写生学習は,題材,構図,材料などすべてを児童に決めさせて,教師は一切干渉しなかった。毎日徹底的に自由画を描かせた杉本の実践は「恐ろしくなる程迅速に」児童を成長させた(12)。この試みの開始後に山本鼎と知り合った杉本は,1922(大正11)年同校に山本を招いて児童の作品を批評してもらったという。この成果を目の当たりにした上沼は,「学童の図画の成績に著しい上達したものがあるのを見て,従来の臨画手本教育では達せられない域に迄,学童の個性の伸びる姿を見せつけられてから,大いに悟るところがあつた」(13)と回想している。 杉本の試みによって,画一的な一斉教育を改善する可能性を図画教育に見いだした上沼は,全職員に自由画教育を研究させることとした。毎日56学級全児童の図画作品を提出させ,一枚一枚丹念に見ているうちに,画には児童の個性が表れていることに気づき,画を見れば作者がわかるようになったという。この経験が,上沼の「教育転換の機縁」となり,彼に「新教育を打ちたてたいと堅い決心」をさせたのである(14)。この頃のことを彼は以下のように語っている。 自由画によつて力強く伸びた児童の創作画に教へら

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    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018) 橋本 : 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

  • れた私は,従来教へられて来た又教へて来た私の教育観に大改造を加へねばならなくなつた。私に取つては思想的に一転期をなして,従来の教育観及び方法には偏知画一的の欠点のあることを自覚して,各科の教育方法を改善し,教育観を改造して国語図画体操につき全校的に実施計画中,千束校より本校[富士小:筆者注]に転任した(15)(以下,句読点は適宜筆者が追加)

     上沼が富士小に転任する前に「全校的に実施計画中」であった教育方法の改善方案とはどのようなものであったのだろうか。彼のその後の学校経営方針を基礎づけたと考えられるこの方案について,次項で検討してみよう。

    2.3 表現教育への着目 前項にみたように,上沼が自由画教育を通して自らの教育観に一大転機をもたらす契機となったのは,杉本との出会いであったといえる。上沼は,富士小に転じた後,杉本を手工科専科教員として呼び寄せて共に新教育研究を継続するほど彼を信頼していた。従来,上沼が千束小時代に表現教育の研究に着手していたことや,この時期に自身の学校経営観を一変させたことについては指摘されているが,その要因については詳しく論じられていない。それは,後年の上沼による回想の中では同校の取り組みが上沼自身の問題意識や研究成果と重ねて語られているため,その実態が不明だからである。ここでは,千束小時代の杉本茂晴の意識と実践に注目しつつ,上沼の学校経営観の変化を追ってみたい。 杉本茂晴は,1917(大正 6)年に長野県師範学校第二部を卒業し,北佐久の小学校に赴任後1920年に上京した。当時は山本鼎の『自由画教育』を読んだり,詩の研究会に参加したりと,東京でさまざまな刺激を受けて新しい教育実践を模索した。杉本が着任した年,千束小では自由画教育の導入に先駆けて体操教育の改善に着手していた。同校では1920年の 9月から東京高等師範学校助教授兼訓導の三橋喜久男の指導を受けスウェーデン体操の導入による体操授業の改革を始めたようである(16)。職員の体操会が開かれてその徹底が図られたというこの試みに顕著な成果を挙げたのは杉本であった。杉本が担任した尋常 4年生男子のクラスは,体操発表会で校内一高い評価を受けたという。この取り組みを通して「ようやく子供と一心同体になってきた」(17)と感じるようになった杉本は,この子どもたちと一緒に新しい図画教育に挑戦することを

    決したのであった。 「画一的注入的」な教師中心の教育に不満を感じ,「子供本位」の教育への改造を模索していた杉本は,先述の体操講習会や発表会からヒントを得て,子どもの心に寄り添うことから始めようとしていた。上京後,日本大学の詩の研究会で野口雨情と知り合い,野口に来校してもらって童謡の指導を開始したという(18)。1921年 6 月頃野口と一緒に,後に児童芸術協会に発展する浅草童謡研究会を始め,月に一度の例会を開いて童謡研究に熱中した。この研究会によって「童謡の本質を知り,更に童謡のうまさを味ひ得た」杉本は,童謡研究が自由画教育に続く「第二の新教育実施となつて実現された」(19)と述べている。杉本の自由画教育と童謡教育は,その後以下のように発展していった。

    僅か数ケ月を出ずして児童の発展は恐ろしいものでした。更にこの童謡教育は詩の全般学習に発展し綴方の学習へと転換して行つたのであります。図画教育及綴方教育に徹底した吾が学級は直に体操学習に於てもその頭角を現はしたのであります。この進展は更に国史教育に及び,次ぎに地理学習へと進み,最後は全教科に及んだのであります(20)

     杉本の自由画教育が「図画」(美術)の教科指導にとどまらず,表現教育や労作教育の深みを有していたことは,林曼麗によって指摘されている(21)。図画や童謡の「創作」活動を通して目指されたものは,児童の創造性であり,それは彼らが創造的に生きるための力であった。このような杉本の思想は,学級担任として全科を担当した千束小時代の 4年間に形成されたとみられる。 杉本の個人的交流から始まった山本鼎や野口雨情による指導は千束小における表現教育の端緒を拓き,杉本はそれを図画教育以外に広げていった。彼は自身の12年間にわたる新教育の取り組みを振り返る中で,千束小時代の経験から新教育実施の奥義を得たと述べている。それは,「新教育実施の第一歩は,各指導者が自己の最も得意とする一科の学習指導に成功すること」であり,そこから出発して「他教科全部に向つて働き掛け」ることであった。そして,こうした成功と自分の成長を助けたのは,上沼校長の「御後援」や「寛大なる精神作用」であったという(22)。 上沼が杉本の提案や試みを許可したことは,当時の公立小学校長としては異例の寛大さとみるべきである。そこには,自由画を通して児童の成長を実感した

    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018)

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    橋本 : 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

  • 経験と,その経験をもたらした杉本への信頼に基づく上沼のチャレンジングな姿勢をみることができる。かつて上沼が外部講師を招いて 3年間取り組んだ図画教育の失敗要因が,必要性を感じていない教師たちに無理強いをしたことにあると気づけたのは,杉本のように授業改善を志す教師が子どもと一緒に成長する姿に学んだからであろう。「教育は教へ込むことでない,子供を活

    はた

    らかせることだ」と思うに至った上沼は,「子供たちの自主的活動を尊重する如く,学校経営に於ても,各職員の自主的研究を尊重しなければならない」と考えるようになった(23)。それまでの「校長一人の経営」を止め,校長と訓導が「教へられ,教へることによつて」共に学校を経営することを理想としたが(24),その方途を検討中の1922年 6 月 3 日,富士小学校に転任した。

    3.富士小における新教育研究への着手

    3.1 奈良女子高等師範学校附属小学校の影響 富士小に着任した上沼は,千束小時代に志した「個性の伸展,創意創作の教育主張を学校経営の上に実現」していった(25)。教師たちに対して教育改造の必要性は説いたが,強要はせず,できる者が得意なところからから始めることを奨励した。 一方で,彼は授業改革の具体的な方途を奈良女子高等師範学校附属小学校(以下,奈良女高師附小)に求めている。その契機は,1922(大正11)年10月に「教育内容及設備の研究の為」関西方面に坂本鼎三ほか 5名の訓導を派遣したことにある。この時彼らは奈良女高師附小の「学習法」を学び,帰京後坂本主席訓導を中心として本格的にその導入に取り組んだという(26)。彼らの視察報告を聞いた上沼は,同年12月に同校が開催した第 3回冬期講習会に妻久乃と共に参加している(27)。上沼は,「此の時奈良の学習法によつて幼学年にも自主的自主

    ママ

    的な学習が実施されるものであることの確信を得た」(28)(下線筆者)と述べており,奈良女高師附小で始まっていた低学年の合科学習に関心を持ったとみられる。 翌1923(大正12)年 1月に上沼は「教育信条」を発表し,4月には「文化創造主義学級経営法」を立案して,各科の指導方針を改めた。「教育信条」には,前年の奈良女高師附小の機関誌『学習研究』に連載された木下竹次「学習原論」の影響が見られる。上沼は,「自他ヲ尊重シ互ニ助長助成シ,自律自由ノ人格ノ完成ニ努力シ,自我ヲ建設シ,文化ヲ創造」(29)することが生きること即ち学習の目的だと考えており,木

    下が「学習の目的は社会的自己の建設であり社会文化の創造である」(30)としていたことと重なっている。これにより,富士小では「教児共学」「個性尊重」「過程重視」「全我的活動」「文化の創造」などが教育方針とされ,「自律自治自学自習」による「創造生活」の伸展が目指された(31)。「文化創造主義学級経営法」の全文は現存しないが,各教科の改造方針は訓導たちによって作成され,それに基づく「各科指導指針」が『富士の教育』に発表されたという(32)。 1923年2月に上沼は,職員研究会の場で率先して「創作的読方学習」と題する研究発表をしている。そこでは,「文を読みて自己を其中に投入して思想を構成する…[中略]…創作的表現には自己と言ふ尊いものがある。生命の躍動がある」と創作的読方の意義を述べ,「自己の伸張は表現によりて加速度的に充実する。表現を自己の反省資料とすることが有効である」(33)と語っている。上沼は,当時隆盛をみていた生命主義の文芸教育の影響を受けた読方学習の方法や指導法を紹介している。そこでは,奈良女高師附小の「学習法」(独自学習と相互学習)が基調とされており,学習の結果を「時間空間相関的に表現すること」(34)の有効性が説かれている。千束小における創作活動の経験が奈良女高師附小の研究と重ねられて言語化されたとみることができよう。ただし,上沼個人による実践研究は1925(大正14)年ごろを最後に発表されていない。彼の関心は,新教育によって学校改革を進める公立小学校長としての学校経営に向けられていく。 奈良女高師附小の影響は教授法研究にとどまらず,上沼の学校経営全般に及んでいる。たとえば,訓導に「学級経営録」を学期の始めに提出させること,校内研究会で発表した成果を校内誌に纏めて共有すること,公開研究会や学習研究会を開催すること,保護者会と協力して地域と密接な連携を図ること,定期的に著名な文化人や教育学者を招いて研修会をもつこと,など当時の公立小学校ではまだ珍しい取り組みを始め,永く継続した。こうして奈良女高師附小に倣って始まった富士小の学校改革は,世間から「富士の奈良式」とか「奈良の東京出張」と揶揄されるほど(35),その類似が顕著であった。

    3.2 合科学習への関心 上沼をはじめ富士小の訓導たちは,何度か奈良女高師附小の合科学習を視察しているが,その導入は容易なことではなかった。富士小の「合科学習研究経過」(36)によれば,1923年から始まった合科学習の試

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    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018) 橋本 : 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

  • みは1926(大正15)年までの間は尋常第一学年だけで行われている。1923年は国語,唱歌,図画,手工において,1924(大正13)年は国語,遊戯,綴方,算術において,1925年は国語,唱歌,遊戯,図画,綴方,算術において,それぞれの「教科中心」にいくつかの教科を融合する形で合科学習が試みられていた。奈良女高師附小の学習法導入に中心的役割を担った坂本訓導が転出した後,同校の実践研究の中心となったのは奈良靖規訓導であった。奈良は1925年 4月に着任すると,坂本から「中心題材」による修身教育の手ほどきを受け,1926年に尋常第一学年に「観音堂」「校庭」を,翌1927(昭和2)年第二学年に「お湯屋」という合科学習単元を実践している。 富士小における奈良訓導の合科学習の試みについては鈴木そよ子の研究に詳しい(37)。鈴木は奈良が合科学習の単元開発の過程でドクロリー教育法の影響を受けたことを指摘しているが,それがどのように実践に適用されていったのかという受容のプロセスについては明らかでない。そもそも,ドクロリー教育法は上沼の欧米教育視察(1926年 7 月~ 1927年 3 月)を契機として富士小にもたらされて研究されたという。奈良の回想によれば,上沼は海外視察中のロンドンから「君の実践に似ている」と言ってドクロリー教育法の実践紹介書であるThe Decroly Classを送っている(38)。そして,帰国後に4人の訓導たちと協力して同書を翻訳し,1931(昭和 6)年に『生活学校デクロリイの新教育法』を刊行した。しかし,多くの視察先の中から,なぜ上沼がドクロリー教育法に注目し,視察報告書としてこの書を上辞したのかについては不明である。そこで,次節では上沼がドクロリー教育情報を富士小に紹介した経緯について明らかにしていこう。

    4.上沼によるドクロリー教育情報の紹介

    4.1 ドクロリー学校の視察 東京市から欧米小学校の視察を命ぜられて1926(大正15)年 7月19日に横浜を出帆した上沼は,同年 8月30日にフランスのマルセイユに到着後,約 5か月間ヨーロッパに,翌1927(昭和 2)年 2月 8日から 3月15日までの 1か月余りアメリカに滞在した(39)。ヨーロッパでは13か月を巡り17以上の施設・学校園を訪れていたが,帰国後に最も印象に残ったのはベルギーのドクロリー学校であったと語っている。 彼の視察日記によれば,上沼がベルギーのブリュッセルにあるドクロリー学校エルミタージュ校を訪れたのは,1927年 1 月21日のことであった。『帝都教育』

    第293号(1929年 8 月号)に掲載された「デクロリイの生活学校」には,ドクロリー教育法の概要を紹介した上で,他国の新学校と比較しつつ,エルミタージュ校を観た感想が綴られている。上沼は,エルミタージュ校が,「米国のウインネトカの小学校,紐育のブロンクスビルの小学校,児童大学の児童の学習状態」に対比しうるものであり,「欧州に於ける新しい教育をしてゐる学校中最もよかつたものである」と述べている(40)。彼は,欧米視察の成果をいくつかの雑誌に報告しているが,いずれにおいても「欧州では児童の生々した力強い活動をして居たのはデクロリイの学校であつた」として,エルミタージュ校の子どもが最も自主的活動的に学習に取り組んでいたと語っている。ただし,同時代にエルミタージュ校を視察した他の実践家に比べて,上沼の視察記は授業や教師の様子にほとんど触れておらず,抽象的な感想が多い。 上沼がエルミタージュ校を訪れた日のさらに詳しい状況は,日本児童学会例会での演説「内外小学校児童の学習状態比較」や『生活学校デクロリイの新教育法』の第 2章「デクロリイの学校を観る」で詳述されているが,それをみると上述の報告内容に疑問を感じる点もある。たとえば,大使館の通訳の都合で,上沼が同校に到着したのは「午後三時頃薄暗くなりかけた時」(41)

    であり,応対した校長アマイド(Amélie Hamaïde)に「もう子供が帰るから早く教室を御覧下さい」(42)と急かされている。低学年はもちろん多くの子どもが下校した後で,高学年の子どもが個別の作業に取り組んでいるのを目撃したと思われるが,「学校中隅から隅まで子供が活動してゐる」(43)様子を観察したとは思えない。教室などの学習環境や子どもの作品は丹念に見て回ったようであるが,実際の滞在時間は「極短時間」であったといい,1時間余りであったとみられる。短い滞在時間の中で上沼は,校長室でアマイドと対談し,彼女の著書の英訳本The Decroly Classとドクロリー学校の写真27葉を求め,サインや説明書きをしてもらったり,同書の版権者であるスイスのデラショー・エ・ニェスレ社(Delachaux et Niestlé S. A.)を紹介してもらっている(44)。 7か月以上欧米に滞在した上沼が,ドクロリー学校を訪れたのはこの日だけであり,教室を見学できたのはせいぜい 1時間であった。では,なぜ上沼は,授業の様子をほとんど観察できなかったエルミタージュ校を「欧州で私の見た学校中最も良く児童が活動した学校」(45)と評し,同校の実践を紹介したアマイドの著書を翻訳刊行したのだろうか。

    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018)

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    橋本 : 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

  • 4.2 視察の意図 上沼の旅行中の日記によれば,当初ブリュッセルには1926年 9 月14日から 2泊するつもりであった(46)。日程の都合でベルギーとオランダ訪問を割愛せざるをえなくなったが,「ドクロリイ博士の生活学校だけは,観のがせない,どんな犠牲を払つてでも訪問」(47)したいと大使館に頼んで視察を強行したのであった。それは,彼が日本を発つ前からドクロリー教育法に特別の関心をもっていたからである。上沼は,1925(大正14)年 1月に刊行された『教育の世紀』の「デクロリー教育特集号」を読んでドクロリー教育法に関心を持ち,その月の校内研究会で「デクロリー教育法」についての発表を行っていた(48)。欧米視察が決定すると,上沼は澤柳政太郎の欧米視察団の視察報告を意識したとみえ,「最も進歩した欧米の小学校の実際を,各国に亘つて沢山視察したいものだと考えて調べた中に」エルミタージュ校をみつけた。同校について日本ではあまり紹介されていないが,ドクロリーが新教育の開拓者であり「他の人の追従を許さない方面を創始した貢献者」と知り,「私の視察学校の重要な一項に準備して旅立つた」(49)という。こうして欧米視察に出発した上沼は,訪問した先々でその国におけるドクロリー教育の普及状況を尋ねている。欧米における「調査事項」は,当時富士小の実践改革の中心的存在であった奈良訓導,谷岡訓導らと相談の上計画されたとみられ(50),彼らの共通の関心事であったことがうかがえる。 しかし,上沼には,エルミタージュ校を「観のがすことができない」理由が他にもあったと考えられる。それは,エルミタージュ校訪問に際して,彼の関心事が The Decroly Classの版権を交渉することにあったからである。「手元も見えぬ」ほど日が暮れた閉校間際の時間に,上沼はアマイドに「デクロリイ法を日本へ紹介したい」(51)と申し出ているが,それは同校を視察して子どもの様子に感動したからだとは思えない。後年上沼は,欧米視察の目的が,現場の教師たちにとって「直接に有効に,批判工夫の資料になるような報告」をすることであったと述べており(52),帰国後に欧米の教育実践書を翻訳するつもりで出発していた。The Decroly Classは,ドクロリー教育法の原理のほか,それに基づく学年別の実践例を数多く紹介した実践書であったから,報告書の資料として適していたといえる。上沼は,エルミタージュ校を訪問する前に,すでにThe Decroly Class を視察報告の一つにすることを目論んでいた可能性が高い。だからこそ,上沼にとってドクロリー学校の視察を欠かすことはできなかったの

    であろう。

    4.3 富士小へのThe Decroly Class の送付 エルミタージュ校で上沼が入手したThe Decroly Class は,現在上沼家に保存されている。表紙の内側には,アマイド直筆のサインとエルミタージュ校の住所のほかに,デラショー・エ・ニェスレ社の住所が記されている。同社は,アマイドの著作La Méthode Decrolyの出版社であるが,その下に上沼の筆で「版権者」と追記されている。La Méthode Decrolyは1922年に出版され(53),2 年後の1924年にはその英訳版のThe Decroly Classがニューヨークで刊行された(54)。ニューヨーク版と同じ内容の英訳版は,1925年にロンドン,トロントでも発行されている(55)。上沼家に所蔵されているものは,1924年にニューヨークで出版されたものであるが,中表紙に「弐年壱月廿壱日」と押印されていることから,エルミタージュ校で入手したものに違いない。アマイドは上沼が翻訳書を刊行する際には,La Méthode Decrolyを出版したデラショー・エ・ニェスレ社と版権について相談するよう紹介し,住所を記したものとみられる。 帰国後上沼は,「同僚に計つて」(56)The Decroly Class を用いた共同研究を始めたというが,共訳者の一人である伴安丈は同書の入手に関して以下のように回想している。

    彼[上沼:筆者注]はロンドンの本屋で「デクロリークラス」四冊を買い,速達便で教頭坂本に送り,自分が帰国するまでに坂本,小林,奈良,伴の四人に翻訳するように依頼した(57)

     上沼が 4冊のThe Decroly Class をロンドンから送った時期を特定することは難しい。渡航中彼が毎日の行動を丁寧に書き留めていた日記によると,ロンドンから日本に荷物を送った記録は1926年10月14日の 1回だけである。この日上沼は,午前中に荷物を片付け,図書を箱詰めして小包 5箱を,「学校,自宅,独乙,伊太利,サト」宛に郵便局から発送している(58)。ドクロリー学校の視察後はオランダに立ち寄り再びロンドンを訪れたが,滞在したのは 2 ~ 3日であった。断定はできないが,上沼が 4冊のThe Decroly Classを送ったのはドクロリー学校視察前であった可能性がある。いずれにせよ,上沼が同書を購入した時には複数人で共訳することを考えており,The Decroly Class を視察報告の資料とすることはかなり早くから意図されていた。

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    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018) 橋本 : 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

  • 5.出版の経緯と上沼の役割

    5.1 翻訳箇所の分担 上沼は,帰国直後からThe Decroly Class の共同研究を始めたとみられ(59),当初からThe Decroly Classを訓導たちが章ごとに分担して翻訳したようである。上沼は,著書『生活学校デクロリイの新教育法』の自序の中で,「観察測定興味中心の題材による学習を実際に適用して見たが頗る好結果を得た」(60)と述べているが,ドクロリー教育法の実践への適用については,訓導たちによる個別の実践研究と協同の実態を明らかにする必要があるので,別稿で論じたい。ここでは,まずThe Decroly Classの刊行に向けて,翻訳箇所がどのように分担されたのかを確認しておこう。 上沼家に保存されているThe Decroly Classには,翻訳の分担箇所の原案とみられる書き込みがある。いつの時点のものかはわからないが,それによると,The Decroly Classの翻訳は以下のように構想されている。

    第 1 ~ 5章を奈良に,第 6 ~ 8章を北島(伴の旧姓)に,第 9 ~ 11章を坂本に割り当てている。一方,『生活学校デクロリイの新教育法』の自序に記された共訳者と翻訳分担箇所,および内容的に執筆者が明らかな部分を,同書の目次を使って整理すれば以下のようになる。

     『生活学校デクロリイの新教育法』 序 佐々木秀一 序 北 澤 種 一 自序 上沼久之丞 第 1 章 緒言 上沼久之丞 第 2 章 デクロリイの学校を観る 上沼久之丞 第 3 章 デクロリイ新教育の歴史 奈 良 靖 規

     第 4 章 教育原理と方法論 奈 良 靖 規 第 5 章 学習題材予定案 坂 本 鼎 三 第 6 章 観察 奈 良 靖 規 第 7 章 聯想 奈 良 靖 規 第 8 章 表現 奈 良 靖 規 第 9 章 国語教育 伴 安 丈 第10章 社会的訓練 伴 安 丈 第11章 指導の実際 伴 安 丈 第12章 個人の学習例 坂 本 鼎 三 第13章 デクロリイの個性調査問題 小 林 茂 第14章 結論 附録 第 1 節 医者で心理学者で教育家 小 林 茂 第 2 節 白耳義の構案教授 小 林 茂 第 3 節 白耳義の協同作業学校 第 4 節 南中米に於けるデクロリイの新教育 第 5 節 世界新学校表

     上沼の原案とみられる書き込みは,ほぼそのまま実際の翻訳分担箇所となっており,後で小林茂の担当分が加えられたとみるのが妥当であろう。執筆者が不明の「結論」は坂本が担当したと思われる。それが自序に明記されていないのは,第14章「結論」には,最後の一段落(9行)が上沼によって書き加えられたからかもしれない。 先に挙げたThe Decroly Class と『生活学校デクロリイの新教育法』の目次を対照するとわかるように,後者は前者の大部分を用いながらも,それの忠実な翻訳書ではなく,一部の章を組み替えたり,記述に多少の違いや加筆箇所がある。また,「附録」の執筆者は明記されていない。「附録」の第 2・4節については,同じような内容の記事が上沼の名前で当時の教育雑誌に投稿されているが(61),上沼自身が翻訳していたかどうかは不明である。なぜなら,上沼は学術的な欧文文献の読解が不得意であったとみられるからである。The Decroly Class を含む上沼所蔵の洋書の書き込みを見ると,常識的な単語にまで辞書を調べた跡があったり,明らかに間違った訳語が書き込まれていたりする。The Decroly Classについても,辞書で調べたと思われる単語の種類と内容から,原書の意味が理解できなかったであろうことが容易に推察される。 彼は,欧文を邦訳するにあたってほとんどの場合,協力者に翻訳を依頼していたようであり,『生活学校デクロリイの新教育法』の編集に協力を得ていたのは,翻訳分担者の他に自序で謝辞を述べている「原三平,山根眞住,西村貫一」であろう。原三平と山根眞

    The Decroly Class CONTENTS Preface, Prof. Ed. Claparède ChapterⅠ . Introduction ― History of the Experiment

    奈良君Ⅱ . Educational Point of View and MethodologyⅢ . ObservationⅣ . AssociationⅤ . ExpressionⅥ . Reading and Writing

    北島君Ⅶ . The Social Viewpoint

    Ⅷ . A DemonstrationⅨ . Studies of Individual Children

    坂本君Ⅹ . Type Programs

    Ⅺ . ConclusionSpecimens of Childrenʼs WorkAppendices

    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018)

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    橋本 : 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

  • 住は富士小の訓導として在職したことがあり(62),西村貫一は山根を介して知り合っている。山根と西村は語学が堪能であったため,しばしば上沼に翻訳を頼まれていたらしい(63)。

    5.2 編集の方針と上沼の役割 先述のように,『生活学校デクロリイの新教育法』はThe Decroly Classの翻訳を用いつつも, その構成を変えたり,所々に編者の意見や感想が入れ込まれている。このような編集方針が決定したいきさつを,伴訓導は以下のように語っている。

    上沼の帰国後,これ[デクロリー・クラス:筆者注]を出版するつもりで,英国の出版元に伴を通じて了解を求めたところ,予想外の多額の版権費を請求されたので,改めて翻訳文に参観記と写真を多く取り入れて出版した(64)

     上沼がロンドンから送った 4冊のThe Decroly Classは,エルミタージュで入手したニューヨーク版のものとは違い,ロンドン版であったのだろう。伴は,上沼から頼まれてロンドンの出版社に連絡をとり,翻訳書を出したいと申し出たという。ロンドン版の出版社 J. M. Dent & Sons Ltd.が多額の版権料を請求してきたため,上沼は同書を翻訳書ではなく,自身の視察報告書という名目で刊行したのであった。伴の回想の通り,『生活学校デクロリイの新教育法』には,上沼の参観記を第 2章に加え,多数の写真が挿入されている。上沼家所蔵のThe Decroly Classには,その作業の跡が見られることから,共訳者から翻訳原稿を集めた後で,こうした編集作業を行ったのは上沼自身であったと考えられる。 上沼は,ロンドン版の内容を少し変え,むしろそれにはない内容を補って,より実践的にしようとした。そのために,彼はアマイドのLa Méthode Decrolyをとりよせ(65),The Decroly Classとの対照を行っている。上沼家所蔵の両洋書には,2冊を丹念に対照して,対応箇所に頁数が記され,相違が見られる部分などには「?」(クエッションマーク)が多数書き込まれている。『生活学校デクロリイの新教育法』の構成がThe Decroly Classと違うのは,La Méthode Decrolyの構成に沿って章立てを変更していたからである。上沼は,英訳書には無い内容をLa Méthode Decrolyから取り入れようと試みたが,結果的にはそれを図や写真を豊富にすることで実行している。両書には,使用する写真の頁に場所や大きさの指示が書き込まれている。そこ

    で,2冊の洋書と『生活学校デクロリイの新教育法』の図表と写真を対照してみたところ,上沼は以下のような採り入れ方をしていることがわかった。 『デクロリイの新教育法』には,全部で93の図(ほとんどが写真)が掲載されている。このうち,3枚は口絵写真であり,番号が付されていない。口絵 1頁の上の写真「オビード・デクロリイ博士」は,La Méthode Decrolyの口絵を転載したものである。上沼蔵La Méthode Decrolyの口絵には,「一の上」「2寸」と指示が書かれている。口絵1頁の下の写真は,「アツクル・モンタナのデクロリイ学校」の概観であるが,両洋書に掲載されていない写真が使われている。さらに口絵 2頁めの「エルミタージユ学校長アメリイ・アマイド女史」のサイン入り肖像写真も,両書からの転載では無くエルミタージュで得たものであろう。この他90枚の図(写真)には「第 1図」~「第90図」までの番号が振られている。このうち,両洋書に図や写真があるものは43,The Decroly Classにしかないものが 6,La Méthode Decrolyにしかないものが13,その他が 1枚(66)ある。すなわち,掲載された93の図及び写真のうち,残りの30枚はエルミタージュで買った子どもの活動の写真とアマイドから贈与された写真などであろう。これらの図や写真の挿入箇所を決めるために,上沼は両洋書を詳細に対照しているが,La Méthode Decrolyから転載したいくつかの写真については挿入箇所や書き込みの訳語に適切でないものがあり,同書の内容を理解できたのかどうかには疑問がある。 以上のことから,上沼が著書の刊行にあたって担っていたのは実質的には「編集」の役割であったと考えられる。そのため,彼は全体を通して「訳語の統一と名詞の発音にはかなり苦しんだ」(67)という。上沼の2冊の洋書には,英語とフランス語の訳語を対照したり,固有名詞のカタカナ表記を比較したり,苦労の跡がみられる。翻訳や編集に自信が持てなかったためか,上沼は最終的に全体の校閲を「デクロリイ法最初の視察者」である北澤種一に依頼しており,「この新教育法の根本原理として重要なる原則につき訂正され且懇切なる御指導をたまはつた」ことに謝辞を記している(68)。The Decroly Class の読解だけでは読み取れないドクロリーの教育原理や,実践的な解釈について北澤が指導し,翻訳文の訂正などを行っていたのである。

    5.3 情報の紹介と図書の宣伝 1931(昭和 6)年 6月25日,上沼は『生活学校デク

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    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018) 橋本 : 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

  • ロリイの新教育法』を50歳の誕生日に刊行している。彼にとっては初めての著書の刊行であった。先述のように,帰国後の上沼は欧米教育視察に関する講演で,必ずといって良いほどドクロリー学校の視察結果が最も良かったと述べている。その理由は,子どもが自主的自発的に学習を進めていること,一心不乱に作業に専心していることなど,子どもの「学習状態」が良いことであった。しかし,少なくとも出版前の彼の講演や教育雑誌の記事にみる限り,現場の教師たちにとって「直接に有効に,批判工夫の資料になるような報告」はなされていない。この著書の刊行により,ようやく彼の視察目的は達成されたといえる(69)。 ドクロリー教育法については,上沼のこうした紹介を含め,当時の教育雑誌や教育書において少なからず紹介が行われている。しかし,実践現場におけるドクロリー教育法導入の試みはいくつかの先進的な事例に限られており,それが流行することはなかった(70)。それは,たとえ実践例は豊富であったとしても,The Decroly Classなどの文献情報だけからドクロリーの教育思想や教育原理を理解することは困難だったからであろう。そのような中で,富士小ではThe Decroly Class を用いたカリキュラム改革がどのように進められていたのかを明らかにする必要がある。

    6.おわりに

     上沼は,自身の人生を創造的に生きること(「創造生活」)ができる子どもの教育を目指して,富士小における学校改革を実行した。そのような教育観の転換は,千束小時代に出会った杉本訓導による教育改造の試みと成長から学んだもので,学校経営は校長がするものであるという従来の考え方を反省したことによる。この反省の自覚こそが校長としての彼自身の成長を促し,彼のリーダーシップの源泉となるものであった。上沼は,新教育を実践するためには,子どもを輔導する教師の自己改革が必須であると確信し,それを促すための環境整備に自分の役割を見出していたといえよう。 本稿では,上沼が『生活学校デクロリイの新教育法』を出版する経緯を明らかにした上で,彼の課題意識や実践研究への関わり方を考察してきた。従来,The Decroly Classの翻訳については,上沼のドクロリー教育への実践的関心と校内における指導力を示すものと解されてきたが,むしろ彼の研究能力や実践的指導力の評価については再検討を要する。彼がThe Decroly Classの翻訳を計画した最も大きな理由は,

    ヨーロッパの著名な教育法でありながら「これ迄多く紹介されて居ないから」であったと思われる。富士小に着任以来学校改革のモデルを奈良女高師附小に求めてきた上沼は,欧米視察派遣の決定を契機として,富士小独自の実践研究を展開する材料を博捜していたのであった。 上沼の進取の精神と実行力はたしかに富士小に独特の研究風土と実践をもたらしたと考えられるが,そうした彼の学校経営者としての役割は,理論的支柱として実践改革を指導する役割とは必ずしも重ならない。大正新教育期の公立小学校長として彼自身が目指していたのは,訓導たちの自己改革や実践研究を後押ししたり,支えていくことであり,むしろ自ら実践を牽引しないところにその真価があったとみるべきであろう。その役割を検証するためにも,今後は,同校におけるドクロリー教育法受容のプロセスを解明することを通じて,教師たちの協同の実態を明らかにしていきたい。

    (1) 拙稿「明石女子師範学校附属小学校におけるドクロリー

    教育法の受容―及川平治によるドクロリー理解とカリ

    キュラム開発―」(『カリキュム研究』第23号,2014年,

    1-13頁),同「西口槌太郎によるドクロリー教育法の受容

    ―大正新教育期の教師に与えたドクロリー教育思想の影

    響―」(『教育学研究年報』第34号,東京学芸大学教育学

    講座学校教育学分野・生涯教育学分野,2015年,15-31

    頁),および遠座知恵/橋本美保「大正新教育の実践に与

    えたドクロリー教育法の影響―「興味の中心」理論の受

    容を中心に―」(『近代教育フォーラム』第23号,2014年,

    297-309頁)。なお,東京女高師附小の事例については,

    遠座知恵「北澤種一によるドクロリー教育法の受容―全

    体教育の実践思想」(橋本美保/田中智志編著『大正新教

    育の思想―生命の躍動』東信堂.2015年,425-442頁)に

    詳しい。

    (2) 鈴木そよ子「富士小学校における教育実践・研究活動

    の展開―昭和初期公立小学校の新教育実践―」(『東京大

    学教育学部紀要』第26巻,1987年,251-260頁)ほか,

    鈴木の一連の研究。

    (3) 同上ほか,民間教育史研究会編『教育の世紀社の総合

    的研究』(一光社,1984年,632-633頁),谷口和也『昭和

    初期社会認識教育の史的展開』(風間書房,1998年,286

    ~ 323頁),渡邉優子「東京市富士小学校における教育実

    践とドクロリーの教育思想―「創造生活」に注目して―」

    (『東京大学大学院教育学研究科紀要』第52巻,2013年,

    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018)

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    橋本 : 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

  • 23-32頁)など。

    (4) 鈴木前掲論文,渡邉優子「東京市富士小学校における

    カリキュラム研究の特質―校長上沼久之丞の果たした役

    割に着目して―」(『カリキュラム研究』第21号,2012年,

    15-27頁)など。

    (5) 上沼の履歴については,上沼家所蔵の履歴書および富

    士小学校所蔵文書による。

    (6) 鈴木前掲論文,渡邉前掲論文のほか,渡邉優子「上沼

    久之丞における「文化創造主義」の転換点―欧米教育視

    察との関係から―」(『教育新世界』第65号,2017年,

    43-53頁)など。

    (7) 後述のように,帰国後に彼の名前で発表されたものは

    彼を含む富士小の研究成果とみるべきものが多く,その

    記述だけから彼自身の思想や彼が果たした役割を明らか

    にすることはできない。

    (8) 上沼久之丞「新教育の発足」千束小学校創立五十周年

    記念事業協賛会会長 松崎権四郎編『創立五十周年記念誌』

    千束小学校創立五十周年記念事業協賛会,1956年 3 月,

    6頁。

    (9) 同上。

    (10) 上沼久之丞「富士の教育」『新教育雑誌』第 3巻第 1号,

    1933年 1 月,51頁。

    (11) 千束小学校時代の杉本の自由画教育に関しては,林曼

    麗『近代日本図画教育方法史研究―「表現」の発見とそ

    の実践』(東京大学出版会,1989年,135-149頁)を参照。

    (12) 杉本茂晴「新教育の回顧」学習指導研究会代表者 上沼

    久之丞編『実際の理論化』第 7輯,東京市富士小学校内

    学習指導研究会,1933年11月,16-17頁(未刊行)。

    (13) 上沼「新教育の発足」6頁。

    (14) 同上,6-7 頁。

    (15) 学習指導研究会代表者 上沼久之丞編『生活学校富士の

    教育』東京市富士小学校内学習指導研究会,1933年11月,

    309-310頁(未刊行)。

    (16) 林前掲書,137-138頁。

    (17) 同上,138頁。

    (18) 杉本前掲論文,18頁。上沼「新教育の発足」6頁。

    (19) 杉本同上論文,18頁。

    (20) 同上。

    (21) 林前掲書,146-149頁。

    (22) 杉本前掲論文,16-19頁。

    (23) 上沼久之丞「私の学校経営」『教育論叢』第34巻第1号,

    1935年7月,9-11頁。

    (24) 同上,11-12頁。

    (25) 上沼「新教育の発足」7頁。

    (26) 学習指導研究会代表者 上沼久之丞編『富士の教育』Ⅱ,

    東京市富士小学校内学習指導研究会,1929年 3 月,5頁

    (未刊行)。東京市富士尋常小学校・富士小学校学級保護

    会『紀元二千六百年教育勅語渙発五十年本校創立四十年

    記念誌』1940年12月,8頁(未刊行)。谷岡市太郎訓導は

    当時の様子を,「坂本氏が主席として上沼氏を助け,奈良

    の学習法を取り入れたのが,今日の発展の基礎をなした

    中心勢力であったと思ふ」とふり返っている(谷岡市太

    郎「創造教育六ケ年の回顧」『実際の理論化』第 3輯,

    1929年11月,6頁)。

    (27) 「大正十一年度第参回冬期講習会員府県別名簿」学習研

    究会(奈良女子高等師範学校附属小学校,1922年,奈良

    女子大学附属小学校蔵)には,府県別出席者の東京の欄

    に上沼夫妻の名前がある。

    (28) 前掲『生活学校富士の教育』310頁。

    (29) 上沼久之丞「教育信条」1923年 1 月,前掲『実際の理

    論化』第 7輯所収,1頁。

    (30) 木下竹次「学習原論(一)」『学習研究』創刊号,1922

    年 4 月,23頁。

    (31) 東京市富士尋常小学校『富士の教育』1926年 4 月,

    1-4 頁(未刊行)。

    (32) 上沼の「文化創造主義学級経営法」の根本とされる「修

    身」の内容を見ると(東京市富士尋常小学校『生活創造

    の修身教育』1931年 7 月,7-8 頁,未刊行),当時の主席

    訓導坂本の主張(前掲『生活学校富士の教育』20-21頁)

    と重なっていることがわかる。当初は坂本を中心として

    増子菊善,奈良,谷岡,杉本らの訓導たちが各教科の指

    導方針を作成し,『富士の教育』に発表していた。

    (33) 上沼久之丞「創作的読方学習(大正十二年二月案)」

    1923年,学習指導研究会代表者 上沼久之丞編『国語研究

    集録』第一輯,東京市富士小学校内学習指導研究会,

    1932年,11月,6-11頁所収(未刊行)。

    (34) 同上書,9頁。

    (35) 当時訓導であった増子菊善によれば,1923年頃の富士

    小に対する世間の批評について,「実に冷笑的態度を以て,

    富士の奈良式か,富士の新教育かなどゝからかはれた」

    (増子菊善「一昔の読方指導の回顧」前掲『実際の理論化』

    第 7輯,8頁)という。また,志垣寛「新教育卅年史

    (18)」では,富士小について「奈良女高師の木下氏に指

    導を受けたもので云はゞこれは奈良の東京進出であつた」

    と記されている(『教育週報』第858号,1941年10月25

    日,4頁)。

    (36) 「合科学習研究経過」学習指導研究会代表者 上沼久之丞

    編『富士の低学年教育』東京市富士小学校内学習指導研

    究会,1932年11月,10頁(未刊行)。

    (37) 鈴木そよ子「富士小学校の授業改造と奈良靖規の実践」

    『教育方法史研究』第 2集,東京大学教育学部教育方法学

    研究室,1984年,1-19頁。

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    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018) 橋本 : 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

  • (38) 奈良靖規「低学年教育法とその反省」同上書所収,129

    頁。

    (39) 上沼の視察日記,手帳などによる。前掲渡邉「上沼久

    之丞における「文化創造主義」の転換点」(45頁)には,

    視察の日程や経路などが紹介されている。

    (40) 上沼久之丞「デクロリイの生活学校」『帝都教育』第

    293号,1929年 8 月,32頁。

    (41) 上沼久之丞「内外小学校児童の学習状態比較(承前)」

    『児童研究』第32巻第 8号,1928年11月,193頁。

    (42) 上沼久之丞『生活学校デクロリイの新教育法』教育実

    際社,1931年,11頁。

    (43) 同上書,17頁。

    (44) 同上書,16-18頁。

    (45) 同上書,17頁。

    (46) 「欧米旅行予定ト日記」大正15年 5 月~ 12月末日マデ。

    (47) 上沼久之丞「ドクロリイの生活学校」『新しい教室』第

    4巻第 9号,1949年 9 月,16頁。

    (48) 前掲『生活学校富士の教育』(315頁)には,上沼が

    1925年 1 月21日に「デクロリー教育法」の研究発表を

    行った記録がある。

    (49)上沼「ドクロリイの生活学校」16頁。

    (50)上沼が渡航前に作成した「調査事項15.7.19」と表紙に書

    かれたノートには,視察中の調査項目について相談した

    記録があり,特に奈良と谷岡から多くの要望が出されて

    いた。

    (51) 上沼『生活学校デクロリイの新教育法』17-18頁。

    (52) 上沼「ドクロリイの生活学校」16頁。

    (53) Amélie Hamaïde. La Méthode Decroly. Neuchatel / Paris:

    Éditions Delachaux & Niestlé S. A., 1922.

    (54) Amélie Hamaïde. The Decroly Class: A Contribution to

    Elementary Education (Translated by Jean L. Hunt). New York:

    E. P. Dutton & Company, 1924.

    (55) Amélie Hamaïde. The Decroly Class: A Contribution to

    Elementary Education (Translated by Jean L. Hunt). London /

    Tronto: J. M. Dent & Sons Ltd., 1925.

    (56) 上沼『生活学校デクロリイの新教育法』自序 1頁。

    (57) 伴安丈『教育一筋に生きる』1983年,82頁(私家版)。

    (58) 前掲「欧米旅行予定ト日記」。

    (59) 上沼の日記(手帳)には,帰国翌月1927年 4 月29日以

    降,何度か「デクロリークラス」と記されている。

    (60) 上沼『生活学校デクロリイの新教育法』自序 1頁。

    (61) 附録第 2節「白耳義の構案教授」はハントによるThe

    Decroly Classの序文の翻訳であるが,上沼久之丞「白耳

    義のプロジェクト・メソツド」(『帝都教育』第294号,

    1929年 9 月,19-23頁)として,第 4節「南中米に於け

    るデクロリイの新教育」は,Progressive Educationの1929

    年 1 月号の「ビライナード女史視察記」を翻訳したもの

    で,上沼久之丞「南米の新教育運動」(『小学校』第48巻

    第 3号,1929年12月,114-118頁)として発表されたも

    のとほぼ同じ内容である。

    (62) 原三平は明治44年 6 月 9 日から昭和 3年 8月31日ま

    で,山根眞住は昭和 3年 4月11日から昭和 4年 4月23日

    まで在職した(前掲『紀元二千六百年教育勅語渙発五十

    年本校創立四十年記念誌』24-25頁)。

    (63) 上沼は,ウォシュバーン(Carleton Washbourn)の New

    Schools in the Old World を訳出して「欧羅巴の新学校」(1)

    ~(4)(『教育時論』第1545 ~ 1547・1550号,1928年 5

    月~ 7月)を著したが,その際に「同僚文学士山根眞住

    氏の助力を得」たという(『教育時論』第1545号,32頁)。

    また,西村と山根は教育心理学を修めた共同研究者であ

    り,共著を刊行している。西村は上沼と親交があり,上

    沼宛のドイツ教育学者からの手紙や英文資料を翻訳して

    いる(西村貫一「独逸カアゼン公立新学校の理想と実際」

    『小学校』第51巻第 6号,1932年 9 月,91-97頁)。

    (64) 伴前掲書,82頁。

    (65) 『生活学校デクロリイの新教育法』の自序には,「資料」

    に対する謝辞の中に「高澤貞義」の名がある。高澤は上

    沼をドクロリー学校に案内したブリュッセルの大使館員

    である。上沼家に保存されているLa Méthode Decrolyは

    1927年版であるから,帰国後上沼が高澤に頼んで同書を

    送ってもらった可能性がある。

    (66) 第90図は中南米の地図である。「附録」第 4節の挿画で

    あり,原著のProgressive Education 1929年 1 月号から転載

    したものと思われる。

    (67) 上沼『生活学校デクロリイの新教育法』自序 2頁。

    (68) 同上。

    (69) 上沼はアマイドに『生活学校デクロリイの新教育法』

    を送付している(1931年 7 月13日および1932年 1 月付け

    上沼からアメイド宛手紙の下書き)。アマイドからの連絡

    を受けたデラショー・エ・ニェスレ社は,上沼に版権料

    500スイスフランを請求した(1932年 5 月17日上沼宛ニュ

    スレ社からの書簡,いずれも上沼家蔵)。上沼がこれを支

    払ったかどうかは不明である。

    (70) 戦前の教育界におけるドクロリー教育情報の拡がりに

    ついては,拙稿「近代日本におけるドクロリー教育情報

    の普及―国際新教育運動と大正新教育―」(『東京学芸大

    学紀要』総合教育科学系Ⅰ,第68集,2017年,9-23頁)

    を参照されたい。

    付 記

     本稿で用いた未刊行史料のほとんどは上沼久之丞旧

    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018)

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    橋本 : 上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

  • 蔵文書であり,ご親族上沼舜二氏に閲覧・使用の許可を頂いた。同氏には 6年前より筆者の史料調査のみならず,大学院生の民間史料調査および史料保存実習にご協力頂いている。ご自身の教職経験も交えながら史料保存の難しさをご教示下さる中で「私は父久之丞の生き方に誇りをもっています」とのお言葉を承り,先達の教育経験を伝えるために史料を護っておられる姿に敬服した。以来筆者は,時代の波に翻弄されながらも己の志に正直に生きた,一公立小学校長の体験に寄り添ってその教育史的意義を考察し,現代の学校改革への示唆を得たいと考えるようになった。この場をお借りして,上沼舜二先生に衷心より敬意と謝意を表したい。

    追 記

     本稿脱稿後,上沼舜二氏が逝去された。同氏は教育者としての生涯を貫かれたと思う。 史料の使用については引き続き御遺族より御快諾いただいた。上沼家の皆様の御厚情に感謝するとともに,謹んで哀悼の意を表します。

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    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018)

  • * Tokyo Gakugei University (4-1-1 Nukuikita-machi, Koganei-shi, Tokyo, 184-8501, Japan)

    上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介

    ―― 大正新教育期公立小学校長のリーダーシップ ――

    The Introduction of the Decroly Method by Kyunojo Uenuma:

    Leadership of Public Elementary School Principal during the Taisho New Education Period

    橋 本 美 保*

    Miho HASHIMOTO

    学校教育学分野

    Abstract

    The author has been devoted to clarify the reality of the curriculum developement activities that took place at the Fuji

    Elementary School which introduced the Decroly Method. Fuji Elementary is a public school that introduced the New

    Education to reform its teaching during the two decades after the first year of Taisho (1912). The reform was accomplished

    under the strong leadership of the principal Kyunojyo Uenuma. Previous studies show that the curriculum reform,

    characterized by focusing on childrenʼs actual life at Fuji Elementary, was done thanks to the information on the Decroly

    Method Uenuma had brought back from his study visit to Western countries.

    This study aims at analyzing the characteristic of Uenumaʼs leadership for curriculum reform as the Principal at Fuji

    Elementary after tracking how information on Decroly Method had been imported by him.

    At first, we will see Uenuma had already posessed a view for school management based upon child-centered educational

    thought. Uenuma had launched his school management at Fuji Elementary modelling Takeji Kinoshitaʼs practice at the

    Elementary School attached to Nara Womenʼs Higher Normal School. During his journey to Europe and America, Uenuma

    had been searching for a method from which he could get hints to create his own practice and he finally met the Decroly

    Method. Secondly, we will look at the process of Uenumaʼs study which lead to publishment of his Seikatsu Gakko Decroly

    no Shin-kyoiku-ho. He already had the intent of publishing the translation of The Decroly Class previous to his actual visit to

    the Decroly School. Using the translated drafts made by the teachers in his school and the French book of La Méthode

    Decroly, Uenmuma compiled his said book. And at last, we will see that the content of Uenumaʼs leadership was mainly

    related to encouraging teachersʼ self reformation and cooperative study activities rather than to direct their pedagogy; namely

    environmental maintenance was the substance of his leadership.

    Keywords: Kyunojo Uenuma, Decroly Method, Fuji Elementary School, school management, principalʼs leadership, Taisho

    New Education

    Department of School Education, Tokyo Gakugei University, 4-1-1 Nukuikita-machi, Koganei-shi, Tokyo 184-8501, Japan

    東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第69集(2018)

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  • 要旨: 筆者の研究課題は,富士小学校におけるドクロリー教育法受容のプロセスに注目して,同校のカリキュラム開発の実態を明らかにすることである。富士小学校は大正・昭和初期に新教育を導入して学校改革を行った公立小学校であり,その改革は上沼久之丞校長の強力なリーダーシップの下で進められた。先行研究では,子どもの生活を中心とする同校のカリキュラム改革には,上沼が欧米視察から持ち帰ったドクロリー教育法が重要な役割を果たしていたと言われている。そこで,本稿では,校長上沼がドクロリー教育法を紹介した経緯を明らかにしたうえで,富士小学校のカリキュラム改革における彼のリーダーシップがどのようなものであったのかを考察した。 本稿では,まず欧米視察以前の上沼が,すでに児童中心主義の教育思想に基づく学校経営観を有していたことを明らかにした。奈良女子高等師範学校附属小学校の木下竹次をモデルとして富士小学校の学校経営に着手した上沼は,欧米教育視察にあたって独自の実践研究を行うための材料を博捜し,ドクロリー教育法に注目した。次に,上沼が欧米教育視察を経て,著書『生活学校デクロリイの新教育法』を出版した経緯を明らかにした。上沼は,ドクロリー学校視察前にThe Decroly Classを翻訳刊行することを企図しており,帰国後は訓導たちの翻訳原稿とLa Méthode Decrolyを用いて『生活学校デクロリイの新教育法』を編集していた。最後に,上沼のリーダーシップの内実が,同校の実践研究の指導的役割ではなく,教師たちの自己改革や共同研究を支援すること,すなわち環境整備であったことを指摘した。

    キーワード: 上沼久之丞,ドクロリー教育法,富士小学校,学校経営,校長のリーダーシップ,大正新教育

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