国際流域における越境環境影響評価 · 1. メコン川流域の開発計画 2....

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国際流域における越境環境影響評価 誌名 誌名 水利科学 ISSN ISSN 00394858 巻/号 巻/号 311 掲載ページ 掲載ページ p. 38-51 発行年月 発行年月 2010年2月 農林水産省 農林水産技術会議事務局筑波産学連携支援センター Tsukuba Business-Academia Cooperation Support Center, Agriculture, Forestry and Fisheries Research Council Secretariat

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国際流域における越境環境影響評価

誌名誌名 水利科学

ISSNISSN 00394858

巻/号巻/号 311

掲載ページ掲載ページ p. 38-51

発行年月発行年月 2010年2月

農林水産省 農林水産技術会議事務局筑波産学連携支援センターTsukuba Business-Academia Cooperation Support Center, Agriculture, Forestry and Fisheries Research CouncilSecretariat

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国際流域における越境環境影響評価メコン川流域での現状と展望一一

中山幹康

日次

I 国家聞で、の水を巡る紛争の懸念

II. メコン川流域における「越境環境影響評価」

1. メコン川流域の開発計画

2. ヤリフォールス・ダム

3. 本川上流での舟運改善プロジ、ェクト

m. I越境環境影響評価」に関する規定と組織的な枠

1. 先進国が共有する国際河川での事例

2. 開発途上地域におけるエスポ一条約適用の可能

N.今後の展開

1.国家間での水を巡る紛争の懸念

20世紀には石油を巡って国家間での紛争が何回も起きた事に対比して. 21世

紀には水を巡る国家聞での紛争が生じることを懸念する人が増えている。例え

ば,世界銀行の元環境問題担当副総裁は 121世紀では水資源の争奪から戦争が

起きるだろう」と予言した。このような社会的責任がある人による「水を巡る

戦争」への警告は,経済開発や人口急増が国際河川流域での水資源の逼迫を招

いており,それが国家聞の紛争を引き起こすのではないかという懸念に起因し

ている。事実,近年においては,国際河川を共有する国家間での摩擦の増加が

報告されている(中山. 2007) 0

複数の国の領土を流域内に有する国際河川は1999年の時点では261存在する

水利科学 NO.31l 2010

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中山 国際流域における越境環境影響評価 39

とされており (Wolf,A. et al. 1999),その総流域面積は世界の陸地面積の

47%を占め,世界人口の約60%は国際河川の流域に居住している。流域国間で

共有する水資源を巡る係争が発生する場合の多くは,上流に位置する国で立案

あるいは実施された水資源を消費するプロジェクトに対して,下流国が懸念を

持つことに起因しており(中山, 1996),そのような問題を回避するためには,

国際河川での開発プロジェクトについても,一囲内での開発プロジ、エクトに対

して「環境影響評価」が実施されるのと同様に「越境環境影響評価」が実施さ

れ,その結果が全ての流域国により共有され,流域国間での協議を経て,開発

プロジェクトによる自然環境や社会環境への影響を回避あるいは軽減するため

の施策が講じられる必要がある。しかし「水を巡る紛争」が懸念されるよう

な経済開発や人口急増が見られる地域を含む開発途上地域では,国際河川流

域に於ける「越境環境影響評価」の実施は定式化されておらず,開発プロジェ

クトが立案・実施される際に「越境環境影響評価」が行われることは稀であ

る。即ち,現状では「越境環境影響評価」は,開発途上地域における国家聞の

紛争を回避あるいは軽減するためには有意に機能しているとは言い難い。

本研究は,国際河川における流域国間の係争を回避あるいは軽減するための

手段としての「越境環境影響評価」が,開発途上地域で定式化するための要件

を特定することを志向している。「越境環境影響評価」が有意に機能するため

には,その方法論が妥当であると共に,それを実施する機関における法制度的

および組織的な局面が重要で、あるとの認識に本研究は立脚している。これは,

後述するように, I越境環境影響評価」の方法論に関するメコン川流域での事

例研究では, I越境環境影響評価jの実施に関与する立場にある機関(国際機

関等)での法制度的あるいは組織的な体制が未整備であったために「越境環境

影響評価」が有意に機能しなかったことが判明したことに立脚している。

本研究では,メコン川流域に於いて実施された「越境環境影響評価jの事例

2つを取り上げ,それが有意に機能しなかった原因を解析する。次に, I越境

環境影響評価」の実施に関与している(あるいは関与することが期待されてい

る)機関について,その制度的および組織的な体制の現状を,これらの機関が

刊行している文献等による調査と,機関を訪問しての聞き取り調査により把握

する O その上で, I越境環境影響評価」が有意に機能するために,これらの機

闘が備えるべき制度的および組織的な枠組を抽出する。

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ll. メコン川流域に於ける「越境環境影響評価」

1 メコン川流域の開発計画

メコン川はその源を中国のチベット高原に発し 中国雲南省を通ってミャン

マーの東北部に接し,ラオスとタイの国境を約900kmにわたって流下した後,

カンボジアを縦貫し,ベトナム南部に「九つの龍」と呼ばれる広大なデルタを

形成し,南シナ海に注く¥高低差5,500m,全長4,200km.流域内に 6か国の

領土を含む国際河川である。河川の延長では世界第四位,流域面積は

795,000km2で21位,年間総流出量では4,750億 m3で8位の,東南アジアでは

最大の国際河川である(国安,1992)。

メコン川流域,特にその下流域に於いては,水資源開発(水力発電韮j飯農

業,洪水調節)による経済開発の可能性が半世紀以上前から示唆されていた。

国連の経済社会理事会の下部組織であった旧 ECAFE(アジア・極東経済委員

会)は1957年に,メコン川下流域の総合開発計画に関する報告書を作成した。

同報告書は,メコン川下流域の 4か国における耕地面積57,000km2の内,僅か

に3%未満でのみ濯蹴が実施されていることを指摘した上で,流域で水利開発

を実施することによって, 90,000km2もの耕地を濯慨するための水量を確保す

ることを可能としていた。また 電力に関しては 流域内に 5つのダムを建設

することで,1,370万kWの発電が可能と見込んでいた(メコン河総合開発調

査会, 1960)。

メコン川流域における水資源開発の実現に向けて,メコン川下流域の流域固

であるカンボジア,ラオス,タイ,南ベトナム(当時)の 4か国は1957年10月

に「メコン川下流域調査調整委員会約款」に調印し,通称「メコン委員会」が

設立された。バンコクに事務局を置く同委員会の主な役割は「メコン川下流に

おける水資源開発計画の立案と調査を促進し調整し,監理し統制するこ

と,および構成各国政府を代表して,特別の財政的技術的援助を要請し,かか

る援助を個々に受け入れ,管理すること」であった(国際協力事業団, 1990)。

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中山 国際流域における越境環境影響評価 41

メコン川下流域に於ける水資源開発は 1970年代前半までは「メコン委員

会」を中心として立案が進められた。しかし. 1970年代後半以降は.3つの流

域国(カンボジア,ラオス,ベトナム)における内乱とその後の混乱などのた

めに,タイ囲内での水資源開発を除いては顕著な進捗は見られなかった。 1990

年代に入り,これらの国々での政治的な状況が安定化したことで,メコン川下

流域で多くの水資源開発が立案・実施されるようになった。また,メコン川流

域の最上流部に位置する中国でも一連のダム建設による水力発電が推進される

など,メコン川流域全体での開発が進められた。

この時期に立案・実施された水資源開発フ。ロジ、エクトの中には,他国に環境

的な影響を及ぼすものも含まれていた。しかし「越境環境影響評価」の実施

が定式化されていなかった故に 「越境環境影響評価」が円滑に実施され有意

に機能したとは言い難いプロジェクトが多かった。ここでは.2つのプロジェ

クトを取り上げ. i越境環境影響評価」に関わる問題について分析する。

2. ヤリフォールス・ダム

1990年代,ベトナムでは恒常的に電力が不足しており,経済成長の阻害要因

となることが懸念されていた (WorldBank. 1999)。電力の増加は国家として

の高い優先順位を与えられ 国立電力会社 (EVN)は発電所の新規建設を迫

られていた。しかし国家としてのベトナムは,そのような電力の増加を実施

するための予算が不足していた。冷戦下ではベトナムは旧ソ連から多くの援助

を得ていたが. 1990年代には世界銀行やアジア開発銀行からの援助に多くを負

っていた。

ベトナムとカンボジアが流域を共有するセサン川流域では,インドシナがフ

ランス領であった頃から水力発電所の建設が計画されていた。しかしその当

時には水力発電所が実際に建設されることはなかった。 1970年代に,メコン委

員会(現在はメコン川委員会)がメコン川流域全体の開発計画を策定した際

に,セサン川流域でも 16のダム建設が提案された。 16のダムの内. 10はベトナ

ム領内に.5つはカンボジア領内に.1つは国境上に計画された (Nguyen,

1999)。

ベトナム囲内に位置するヤリフォールス・ダムは. 720MWの発電を目的と

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して1993年に建設が開始された。ダム本体の堤高は65m,貯水池の湖面積は

64.5km2で、あった。ロシアとウクライナからダム建設のための援助が供与され

たことに加えて,SIDA (スウェーデン)も水路(トンネル)の建設を援助し

た (FisheriesOffice and NTFP, 2000)。世界銀行は,移住民の生活再建対策

への懸念を理由として,ダム本体の建設は援助しなかったが,ダムからホチン

ミン市周辺に位置する工業地帯への送電線建設については借款を供与した

(World Bank, 1996)。

ヤリフォールス・ダムの環境影響評価はメコン委員会(当時は暫定メコン委

員会)の参画を得てスイス政府からの援助によりスイスのコンサルタント会社

により実施された。しかし環境影響評価の実施に際してベトナム政府はカン

ボジア政府の関与を求めることはなく,下流国であるカンボジア領内で生じる

可能性がある影響については何ら記述されなかった (Wyatt& Baird, 2007)。

2000年にヤリフォールス・ダムが完成し運用を開始してから,カンボ、ジア

領内で以前には見られなかった乾期流量の増大や,水位の大幅な日変動が観察

されるようになり,生態系への影響,河岸の浸食やそれに伴う農地の流出など

の被害が報告されるようになった。例えば,ダムサイトから 100km離れたカ

ンボジアの Ratanakiri県でも,ダムの稼働後は50cmを超える日変動が生じる

ようになり漁業用の設備が流亡すると共に漁獲高が減少するなどの被害が報告

されている (Bairdet al., 2002; Wyatt & Baird, 2007)。

ヤリフォールス・ダムはメコン川の本川ではなく支川に建設されたため,

1995年にメコン委員会からメコンJII委員会に組織替えが行われた際に加盟国に

より合意された「メコン川流域の持続的開発協力に関する協定(新協定)Jの

制約を受けないという局面がある。同協定は,メコン川本流における水量の維

持に関して,乾期における流域内の一国による(流域内での利用のための)本

流からの取水については,他の流域固の合意が必要と定め,雨期における取水

は,当該国によるメコン川委員会への通知を義務付けているものの,支川での

プロジ、エクトに関しては明確な規定を行っていない (Nakayama,1999)。

このように,ヤリフォールス・ダムでは,当事者である 2つの国が加盟して

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中山 国際流域における越境環境影響評価 43

いる,流域国による協議機関であるメコン川委員会が関与したにもかかわら

ず,その「越境環境影響評価」は,本来期待されるような効用を発揮し得なか

った。

3. 本川上流での舟運改善プロジェクト

メコン川流域内である中国の雲南省と 他のメコン川流域固との経済的な関

係が深まるに伴い, 1990年代後半より,メコン川による舟運を改善するための

方策が検討されていた (Starr,2003)。中国とミャンマーの国境部からラオス

にかけてのメコン川上流部には 大型船が航行する上での障害となる多くの浅

瀬,早瀬,暗礁があり, 60載貨重量トン (DeadWeight Tonnage, DWT)以

下の船舶しか航行出来なかった。

2000年に,メコン川上流の 4流域国(中国,ミャンマー,ラオス,タイ)は

「舟運改善プロジェクト」の実施に合意した (Governmentsof the People's

Republic of China, the Lao People' s Democratic Republic, the U nion of

Myanmar and the Kingdom of Thailand, 2000)。舟運改善プロジェクトは 3

つのフェーズにより実施されることが計画されており,最初の第 1フェーズで

は22の障害(浅瀬,早瀬,暗礁)を除去することで,年間の95%もの日数にお

いて 100~150DWT の船舶を航行可能にすることが目標であった。続く第 2 フ

ェーズでは, 51の障害を除去して300DWTの船舶が航行出来るように舟運の

改善を行い,更に第 3フェーズでは運河の建設も行い, 500DWTの大型船4

隻が横並びで航行することまで見込まれていた (]ointExperts Group, 2001;

Finlayson, 2002; SEARIN, 2003) 0

同プロジ、エクトの「越境環境影響評価」は関係 4か国からの専門家グループ

により 2001年に実施された (Mirumachiand Nakamura, 2007)。専門家グル

ープには,中国より 6名,ラオスより 3名,ミャンマーより l名,タイより 3

名の専門家が参加し, I越境環境影響評価」のためのデータ収集や現地調査な

どを行った(]oint ExperωGroup, 2001) 0 I越境環境影響評価」では, ミャン

マー,ラオス,タイの 3か国で生じることが予測される影響に加えて,最下流

に位置するカンボジアとベトナムで発生する影響も予想されていた。

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舟運改善プロジ、エクトの第 Iフェーズは2002年 3月から2004年 3月にかけて

実施され (Higashi,2003),舟運への障害(浅瀬,早瀬,暗礁)の除去は,本

川での発破により実施された。このフェーズで観察された環境への影響には,

「越境環境影響評価」による予想を超えるものが多く,環境保護団体などから

「越境環境影響評価」の制度に対して批判がなされた (Mirumachiand

Nakamura, 2007)。障害除去作業の水位への影響は「越境環境影響評価」で

は下流部で概ね 7~8cm 程度で軽微と予想されており流速への影響は軽微で、

あると記載されていたが,現実には,予想、を超える水位と流速の変動が報告さ

れた。また,障害除去作業は沿岸での土壌流亡を生じることはなく,むしろ,

障害除去作業による流況の安定は土壌浸食を減少させると「越境環境影響評

価」には記されていた。しかし,実際には,流況の変化が土壌浸食を引き起こ

し,農地や宅地の流亡が発生したと報じられている (SEARIN,2003)。

舟運改善プロジ、エクトでは,障害除去作業の実施時にプロジ、エクトの当事者

(上流の 4か国)による環境変化のモニタリングが実施されなかったために,

同プロジ、エクトの実施と土壌浸食などの現実に観察された環境的な変化の因果

関係が明らかではない部分が多いが,そのようなモニタリングの不在も含め

て,同プロジ、エクトでの「越境環境影響評価」は多くの問題を有していた。

m. r越境環境影響評価Jに関する規定と組織的な枠組

1司 先進国が共有する国際河川での事例

ヤリフォールス・ダムと舟運改善プロジ、エクトでの「越境環境影響評価」に

問題が生じた背景として,メコン川流域では「越境環境影響評価」が実施され

るための包括的な規定と組織的な枠組が存在しないことが挙げられる。ヤリフ

ォールス・ダムの事例では,暫定メコン委員会(当時)が「越境環境影響評

価」に関与したものの,同委員会としての「越境環境影響評価」に関する枠組

が存在しなかったために,下流固であるカンボジアが「越境環境影響評価」の

実施に参加することもなく,また, r越境環境影響評価」の結果にカンボジア

が意見を述べる機会も与えられていなかった。舟運改善プロジ、エクトでは,メ

コン川委員会には加盟していない中国とミャンマーが当該国であったために

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中山 閏際流域における越境環境影響評価 45

メコン川委員会は,その「越境環境影響評価」に関与することはなかった。

先進国が共有している国際河川に目を向けると, r越境環境影響評価」が有

意に機能している機関の例として,アメリカとカナダが共有する国際河川に関

する協議機関である InternationalJoint Commission (リC),および,アメリ

カとメキシコが共有する国際河川(と国境問題)に関する協議機関である

International Boundary and Water Commission (IBWC) を挙げることが出

来る。これらの機関は,一国が上流部に計画する開発プロジェクトにより下流

国に影響が予想されるような事例について 当該国の双方が寄託に合意した場

合には,当該固からの「越境環境影響評価」に関する情報と独自の調査によ

り,問題を明らかにし係争を解決させるための機能を有している。例えば,

IJCにはアメリカとカナダにより 53の係争事例が寄託されたが,その全てが解

決されている (ManitobaState, 2009)0

筆者はりC (ワシントン DC事務局)および IBWC(米国事務所,在テキサ

ス州エルパソ市)での聞き取り調査に基づいて,両機闘が過去に扱った係争の

事例を概観して,国際河川での流域国聞の係争解決に両機関が有意に機能し得

る理由を考察した(リC,2008; IBWC, 2008)。

両機関は, 2か国間で発生し寄託された係争を扱う仕組みは有しているが, 2

か国間の問題を当該国である 2か国により構成される機関が扱うために,一方

の流域国に対して「命令」を下すことは現実には不可能であり,係争の解決手

段は 2か国による合意の形成のみである。即ち,両機関は基本的には 2か国の

対話を促す機能と,独自の調査により係争中の事例に新たな視点を与える機能

のみを有している。「越境環境影響評価」に関しては,それに特化した協定や

合意は存在せず,歴史的に存在している包括的な協定や合意事項の枠組内で取

り扱われている。

そのような規定と組織的な制約の下にありながら,両機闘が2か国間で発生

した係争を解決するために有効であり得たのは,その制度と札織が良く整備さ

れているという以上に, 2か国が置かれている地勢的な条件と,両国の経済状

態、に依るところが大きい。カナダとアメリカ あるいはメキシコとアメリカの

2か国は,いずれの国の組み合わせでも両国は一方的な上下流国の関係にはな

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く,ある河川では A固は B国の上流固ながら他の河川では B閏は A国の上流

固であるという関係にある。例えば,メキシコとアメリカについては,両者が

共有する二大河川の一つであるリオグランデでは,メキシコが上流国でアメリ

カが下流国であるが,もう一つの大河川であるコロラド川では,アメリカが上

流国でありメキシコは下流に位置する。カナダとアメリカが共有する河川につ

いても,両者は一意に上流固と下流国の関係にはなく,河川によりその立場は

異なっている。

両機関の加盟国は(メキシコを含めて)全て先進国であり,他国から被る影

響や被害を自国内で吸収あるいは処理し得るだけの経済力を有していること

が, 2か国間での係争の解決を容易にしていることは明らかであるが,それ以

上に, 2か国が置かれている地勢的な要因が係争の解決に大きく寄与してい

ることが,両機関での聞き取り調査により実感された(リC,2008; IBWC,

2008)。即ち, 2か国が一意に上流固と下流固の関係にはなく,複数の河川を

統合的に眺めれば相互依存的な関係にあることが, 2か国の関係を円滑にし,

「越境環境影響評価」の結果に基づく折衝を含めて,両国が積極的に問題の回

避あるいは解決に向かわせることが判明した。

2. 開発途上地域における工スポ一条約適用の可能性

「越境環境影響評価」が開発途上地域に存する国際流域において有意に機能

するためには,上流固と下流国の関係が固定化されている国際流域においても

有効な制度的および組織的な枠組であることが要請される。

国際流域での「越境環境影響評価J実施に関する世界的な枠組み合意として

は,国連欧州経済委員会 (UN-ECE)の主導で策定され, 1991年にフィンラ

ンドのエスポーで聞かれた UN-ECEで採択され1997年に発効した「エスポ一

条約」がある (UN-ECE,1997)。エスポ一条約は開発プロジェクトによる国

境を越えた環境への影響が懸念される場合に,国境を越えて他国の環境影響評

価手続きに参加し得ることを定めた条約であり 「越境環境影響評価」の結果

に基づく国家間(国際河川では上流国と下流国間)の協議を義務付けている

(UN-ECE, 1997)。同条約は世界的な条約であり,ヨーロッパ諸国に限らず世

界中の国が批准することが出来る。筆者は,同条約が開発途上地域での国際河

川流域一般において,制度的な枠組として有意に機能する可能性に着目した。

エスポー条約は,欧州、|復興開発銀行 (EBRD)が,国際河川や国際湖沼流域

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中山 国際流域における越境環境影響評価 47

での案件に融資する際の条件として位置付けるなど,ヨーロッパでは,その概

念は定式化されつつある (EBRD,2008)。ヨーロッパ以外の地域で、も,エス

ポ一条約を批准していない国を流域固とする国際河川や国際湖沼において,エ

スポ一条約の内容を踏まえた「越境環境影響評価」の枠組を策定しようという

動きが,複数の流域で生じている。

例えば,国連環境計画の欧州事務所 (UNEP-ROE)は,カスピ海流域国の

要請に応えて,国際湖沼である同海の流域固に適用される「越境環境影響評

価」に関するガイドラインを策定した。このガイドラインは法的な拘束力は有

しないが,その内容はエスポ一条約を踏まえている o UNEP-ROEでの聞き取

り調査では,流域国の Iつであるイランは,エスポ一条約を批准してはいない

が, Iガイドライン」の策定には非常に熱心で、あったとのことで,これは,エ

スポ一条約の概念を支持する国の輸が広がりつつあることの証左と捉え得る

(UNEP-ROE,2008)。

メコン川流域でも,メコン川委員会が中心となり エスポ一条約の内容を踏

まえた「ガイドライン」の策定が進められている (MRC,2008)。この「ガイ

ドライン」とエスポ一条約との相違は,国際河川でのプロジェクトを立案する

国への義務として, I影響を受ける可能性がある下流国への通知」のみが課せ

られ,当該国が実施する「越境環境影響評価」の結果を通知することは義務付

けられていない点にある (MRC,2009)。この「ガイドライン」はエスポ一条

約に比べると効果が薄いのではないかという批判がなされるのは当然ながら,

メコン川委員会関係者との聞き取り調査では 流域国が置かれている政治的な

状況や,途上国の流域でありベースラインデータが不足しているために精度が

高い「越境環境影響評価」を実施することが困難であること,等の理由がその

背景として挙げられていた (MRC,2009)。そのような制約の下で「ガイドラ

イン」を策定することの是非は議論が分かれるところながら,エスポ一条約の

概念をメコン川流域で普及(常識化)させるための最初のステップとして,メ

コン川委員会による努力は肯定的に評価されるべきであろう。

上記の他にも,東アジアの国際河川である豆満江流域など幾つかの流域にお

いて,エスポー条約に準じた内容で, I越境環境影響評価」に関する枠組を制

定しようという動きがあり (UN-ECE,2008) 同条約がヨーロッパに存しな

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い国際河川流域でも定着する可能性を示唆している。

N.今後の展開

国際流域における流域国の聞で係争が生じた場合に,エスポ一条約がその解

決を促すための有効なツールとなり得るか否かについては事例の蓄積が乏し

く,定見は定まっていない。

一例を挙げれば, ドナウ川下流部のデルタ地帯にウクライナが舟運の改善を

目的として建設しようとしているピエストロ水路(第二期工事)では,環境に

重大な悪影響を与える可能性が示唆されているにもかかわらず,ウクライナが

エスポ一条約に規定されている手続きを道守せずに,その建設を進めようとし

ている。その結果,運河の建設により,環境的な悪影響を受けることが予想さ

れる下流国のルーマニアが,ウクライナを非難するという事態が生じている

(Koyano, 2008)。この問題に関する議論は, 2003年から複数の国際機関や国

際条約を舞台として継続的に行われているが,未だに解決の目処は立っていな

い(児矢野, 2008)。

エスボ一条約は,上流固に対しては「越境環境影響評価」の実施とその結果

について下流固に通知することを義務付け,下流国は上流固に意見を述べる権

利を認めている (UN-ECE,1997)。しかしエスポ一条約は下流固に「拒否

権Jを付与してはおらず,上流国は下流国の意見を無視して当該プロジェクト

を進めることも可能である。ドナウ川の事例では,ウクライナが下流国への事

前通知義務を遵守していないことが問題とされているが(児矢野, 2008),仮

にウクライナがエスポ一条約の手続きに従うことになっても,その本質におい

て「弱いj規定であるエスポ一条約が,流域国間の係争を解決するための枠組

として有効でLあるという確証はない。エスポ一条約の「係争解決メカニズム」

としての有効性については,更なる研究が必要であり, ドナウ川の事例の今後

の展開は,有益な示唆を与えてくれるであろう。

流域国にエスポ一条約への非加盟国を含む国際河川流域でも,エスポ一条約

を踏まえた枠組を制定しようという動きが見られる。上述のカスピ海流域やメ

コン川流域などはその実例である O カスピ海流域では,既に流域国により採択

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中山 国際流域における越境環境影響評価 49

されている「ガイドライン」に加えて,法的な拘束力を有する「プロトコール

(議定書)Jを制定しようという動きがある (UNEP-ROE,2008) 0 途上国を流

域固に含む国際河川流域で,エスポ一条約の概念がどこまで適用されうるのか

を把握するためには,これらの事例における流域国間での交渉の経緯と今後の

進捗について詳細に分析することが有用と思われる。

謝辞

本稿の一部は,日本学術振興会人文-社会科学振興プロジェクト「水のグローパルガ

パナンス(プロジェクトリーダー:中山幹康)J.科学技術振興機構が戦略的創造研究推

進事業 (CREST)1水の循環系モデリングと利用システム」平成15年度採択課題「人口

急増地域の持続的な流域水政策シナリオ(代表者砂田憲吾・山梨大学大学院教授)J

の枠組で実施した研究の成果に依っている。また,本稿は 12008年度平和中島財団国

際学術共同研究助成」および科研費 (21510028)の助成により実施した研究の成果に基

づいている。これらの研究を実施するにあたっては,山口裕未さん(元研究員)および

松本京子さん(大学院生)の協力を得た。お二人の貢献に対して,深く御礼申し上げ

る。

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(東京大学大学院新領域創成科学研究科教授)

(原稿受付2009年10月27日,原稿受理2009年11月2日)

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