自治体住宅政策の史的展開 - ousar.lib.okayama-u...

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419 『岡山大学法学会雑誌』第48巻第3・4号(1999年3月) 自治体住宅政策の史的展開 - 神戸市の場合を中心に はじめに 第一章 第一節 第二節 第二帝 第{節 第二節 第三章 第二即 第二節 第四章 第一節 第二節 第三節 第五章 第一節 第二節 第三節 住宅政策前史 明治期神戸の住宅事情 原初的住宅政策 住宅政策の始まり 資本主義の発達と郡市住宅事情の悪化 地方公営住宅の始まり 戦災復興と量確保至上主義の時代 戦災復興と住宅政策 住宅二法の成立と神い市 本格的住宅供給政策の展開 日本住宅公団の設立 神戸市住宅政策の過渡期 神戸前任宅政策の本格的展開 住宅政策における量から質への転換 生活水準の向上と住宅 郊外ニュータウンにおける宅地・住宅供給 住宅から住環境へ 一〇七

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419 『岡山大学法学会雑誌』第48巻第3・4号(1999年3月)

自治体住宅政策の史的展開

- 神戸市の場合を中心に

はじめに

第一章

第一節

第二節

第二帝

第{節

第二節

第三章

第二即

第二節

第四章

第一節

第二節

第三節

第五章

第一節

第二節

第三節

住宅政策前史

明治期神戸の住宅事情

原初的住宅政策

住宅政策の始まり

資本主義の発達と郡市住宅事情の悪化

地方公営住宅の始まり

戦災復興と量確保至上主義の時代

戦災復興と住宅政策

住宅二法の成立と神い市

本格的住宅供給政策の展開

日本住宅公団の設立

神戸市住宅政策の過渡期

神戸前任宅政策の本格的展開

住宅政策における量から質への転換

生活水準の向上と住宅

郊外ニュータウンにおける宅地・住宅供給

住宅から住環境へ

聖 美

一〇七

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同 法(舶3・d)420

‖本では、その経済力が国全体としては急速に世界のトップレベルに達したものの、こと住七事情に関する限り、

政府自らが、いまだにこの回は 「経済†大国にふさわしい豊かでゆとりある住生活を実則するには至っていない」

と断定せぎるを得ない有様である。しかし、まだ欧米には引けを椒るとはい、え、=本の住宅事情もそれなりには改

発を見せてきている。持ち家率が全国平由で六割を超えていることからもわかるように、その収渾のかなりの部分

は市場を通じて実現されてきた。しかし、他方で国や住宅公用、そして∩治休による努力の積み重ねも決して小さ

くない影響を及ぼしてきた。とくに、建設省による厳しい集権的コントロールに服してきたといわれる∩治休も、

実は様々な創意†夫と熱意でもって住宅政策の発展を支えてきたことが近年少しずつ明らかとなりつつある。

本稿は、明治初年から昭和の終わりまでに至る神い市の住宅政策をあとづけるものであるり そこでは、分析より

もまず記述することが目指される。なぜなら、一つの都市に限定して、そこにおける仕宅政策の歴史を詳細に掘り

起こすという作業は、これまであまり裾われてこなかったからである。本稿は、住宅政策という面からの都市政治・

行政史の序論的試みであるといってよい。

じ め に

第六章 まちつくりとしての住宅政策

第‥節 新しい住宅供給政策

第∴節 新しいまちの建設

第三節 住環境の整備とインナーシティ再開発

おわりに

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421作治体住宅政策の史的展開

第一節 明治期神戸の住宅事情

神戸市の歴史は、地理的には神戸、兵庫の二地区に始まる。明治初年における神戸、兵庫二地区の総人‖は約二

一〇九

神戸市を選んだのは、まず第一に、同市が開港郡市としてその歩みをはじめ、封建郡市としての前史を事実上有

していないためである。そのため、神戸市は、近現代日本の住宅・都市間題をかなり純粋な形で検討するための実

験都市的意義を持つ。第二の理由は、神戸が、近年住宅政策の展開においてきわめて意欲的かつ多様な取り組みを

見せてきたことである。同市の経験は、中央集権的建設行政の枠組みのもとで、一つの自治体が住宅政策において

いかなることを成しうるのか、その可能性を占う格好の判断材料となるであろうと考えた。

なお、神戸では、阪神淡路大震災の被害があまりにも大きかったために、その後の住宅政策はそれまでの歴史の

積み重ねからはかなり断絶した、緊急事態対応型のものになったであろうということは容易に想像がつくり従って、

震災以後について論じることは、神戸の経験を=本における住宅政環史一般をみていくうえでの素材にするという

本稿の意図からははずれてしまう。本稿が扱うタイムスパンを、明治初年から昭和の終わりまでとするゆえんであ

る。また、本稿においては、一つにはそれが本来の住宅政策のなかで展開されてきたものではないために、また一

つには筆者の準備不足のために、改良住宅関連の政策についてはこれを除外することとしたいり さらに、戦後住宅

政策の記述に当たっては、各年版の住宅局事業概要等の資料を参照した。しかし、煩雑をさけるために、基本的な

、l

ものについては、いちいち出典を掲げな㌧

第一章 住宅政策前史

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同 法(483・4)422

一一〇

万七千人だったといわれる。しかし、この地域の発展は開港後急速に進み、当時の共庫県の調べによると、明治二

年から四年の二年間だけでも約四†戸、一万人の増加がみられたという。神戸地区と兵庫地区の間にある湊川南部

の、それまで人家のなかったところも宅地化してゆき、二つの地区は一つの都市としてまとまっていった。こうし

て明治十二年の郡区町村編成法のもとにおける神一り区の設置を経て、明治二二年に神目市制がしかれたときには、

市街は葺合方何にまで広がり、周辺町村の編入が有われたこともあって、人目は一三万五†人に達していた。その

後も神戸の急激な発展は続き、都心はかつての兵席地区から神戸地区に移動、住宅は鉄道線を越えて六甲山鹿へと

上っていった。市制発足当時の人‖は卜年でほほ倍増、明治の末には四二力五千人を越えるにいたる。

人が集まればそこに住む家が必要となる。その家も、単に屋根と柱と壁を備えた容れ物が供給されるというだけ

ではなく、できることなら水の利用や排泄物の処理といった暮らしに必要なさまぎまな設備を整えていることが望

ましいり さらには、その家のまわりの環境がどのようなものかということも問題になる。しかし、神戸に限らず、

明治期においては、住宅の問題は民間の活動にほぼ全面的に任されていた。

当時、急激にふくれあがる人口の多くを収容したのは棟割長屋で、それは当初江一〓時代の長屋の造りを踏襲して

いたものと想像される。明治末の統計によれば、神一「では四一万人の人口を三万八†棟余りの居住用建物が収容し

ていたが、明治初期のこの地域での一所帯あたり同居者数が意外に少なくて四人弱だったことを考えると、この統

計は圧倒的多数の市民が何らかの形の木造集合住宅に住んでいたことを物語っているり

もっとも、電気も水道もない狭い長屋でも、とにかく住まいのあるものはまだしも幸福だったというべきかもし

\ れない。開港以来神戸の地に流入した人々のなかには乞食や売春をして何とか空腹を満たし、建物の軒下や道ばた

で遍起きするものも多かった。体力のあるものは貿易の発展とともに需要の増えた沖仲仕などの苺労働に携わった

が、それも安定した生活をもたらすものではなく、ましてからだをこわせばそれまでだった。明治中期の地元紙は、

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423 酎台体住宅政策の史的展開

第二節 原初的住宅政策

明治期の神戸市、および丘ハ樟県は、こうした都市の膨張を基本的には放置してきた。とはいっても、人口増加に

ともなってさまぎまな住宅がばらばらに建てられていくと、そこにはさまぎまな問題が生じ、行政としても全く無

関心でいることはできなかった。今‖からみれば住宅政策とよぶことはできないにせよ、当時の行政当局もやはり

ある程度は住宅の問題とかかわっていったのである。とくに、市や県の当局者にとって、外国人の臼に映る神一「の

印象は無視し得ないものと思われた。そのような行政当局の関心は、まず町並みの美化ということから始まった。

一八七二年、兵庫県は海岸家屋建築規制を出し、外国船からもよく見える沿岸の家々がてんでにバラバラな建て

方をしているので見苦しいから、もっと美観を整える必要があるとの判断をホした。こうした観点から、同規則は、

今後家を建てる場合には二階建てでしかじかの形をしたものが望ましいとモデル家屋の図面を付し、高さや形を揃

えることを求めている。また、たとえ平屋のものしか建てられなくても、軒の高さがそろうようにと求めている。

m一山

病気で収入の途絶えたある沖仲仕の悲惨な境遇に同情した人々が義援金などを贈って助けたという美談を伝えてい

るが、他方で同じ紙面は、行き倒れになった身元も知れない人を仮埋葬したという戸長役場の公告をいくつものせ

ているのである。

こうして住宅という点からみた明治期神戸は、新生印川下流など周辺部を膨大な木造賃貸の長屋群に囲まれ、新

しく台頭してきた今日でいうホワイトカラーたちを主な対象とする、比較的小さな一一「建ての住宅地域をところど

ころに配し、さらにそのなかに資産家や古くからの豪商の広壮な邸宅、および外国人が住むハイカラな洋風建築が

点在する、という風景だったようである。そしてこうした都市空間からはみ出す形で、粗末な掘ったて小屋に住ん

だり、あるいはそれすらかなわずに路上で乞食や浮浪者となる何千という人々がいたのである。

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開 法(483・4)424

一二

神戸の美観を向上させようという兵庫県の意欲には、当時非常に強いものがあった。そこで、潔七三年、県は建

築に関する新たな布告を出した。布告では、今後家をたてるものは清潔で外観も美しいものにしなければならない

とし、なかでも資力のあるものはなるべく西洋風の造りの家をたてるよう求めている。そしてここでも、不潔で見

苦しい家を建てた場合には取り壊しを命じると、厳しい態度を示した。

このような洋風建築の奨励は、たんに神戸の市街を美しいものにしようということだけをねらったものでないこ

とはあきらかである。そのことは、この布告と同時に出された、北野や花隈など当時の市街地周辺五力村に対する

通達で、藁葺屋根の家などは防火上問題があるだけでなく、開港という時勢からいっても体裁が悪いと述べている

ことに一層はっきりとあらわれている。要するに県は、神一〃の市街そのものをいわば文明開化させようとしたわけ

である。

兵庫県のこのような意図が行政措置としてどの程度実効件をもったかは疑わしい。ただ、居留地の影響もあって、

神戸には洋風を取り入れた住宅が他の地域より多かったといわれる。しかし、いずれにしても、都市の美観という

点から住宅建築に規制を加えようという熱意はその後急速に薄れていく。ただ、後に述べるように、神戸の過密化

は、スラム対策の一環として市に住宅行政的対策を講じさせるようになるり

一八八六年八月、兵庫県は県令第十五号として「長屋・裏屋建築規則」を発令した。急増する人口の多くが棚末

な木造集合住宅に収容され、衛生面などから無視できなくなってきたので、これに規制を加えようとしたのである。

その対象区城は当時の神一「区、および三年後の市制施行とともに神戸市に編入される葺合村と荒田村という市街地

部分だった。裏屋とは、個人の敷地内に公道から離れて他人に貸すために建てられた長屋のことである。ほかに、

この規則は長屋でなくても建坪五坪未満の小規模住宅も対象とした。その結果、零細住宅といえども満たさなけれ

ばならない最低基準が定められ、違反者は刑罰を科されることになったのである。要するにそれは、低所得者用零

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425 自治休住宅政策の史的展1凋

細住宅が満たさなければならない最低水準を明らかにしたもので、既存の建物も八八年末までにはそれにしたがっ

て改造されなければならないとされた。

このように厳格な建築規制が出されたことは、市制施行前夜の神戸市街における低所得者むけ住宅がいかにひど

い状態にあったかを逆に物語っている。それを規制することは、美観や人道上の観点からばかりでなく、当時猛威

をふるっていた伝染病対策としても必要だったのであろう。

だが、公権力をもって住宅の質的向上をはかれば建設コストの上昇を招き、従って家賃の⊥昇も招きやすい。そ

うすると貧しい人々は結果的に追い出されてしまう。そして、こうした人々をねらって規制対象とならない都市周

辺部に新たに低劣な惜家が造られる∵住宅に対する大規模な公的肋成が行われるようになるまで、神戸巾の発展は、

一面スラムの形成とそれに対する規制のいたちごっこの歴史でもあったのである。

そうしたなか、兵庫県は、長屋・裏屋建築規則を定めた同じ年の十二月、県令第六十二イとして「宿屋営業取締

規則」を定めた。これはその名のとおり旅館業を規制するものだが、同時に住宅問題にも一部かかわっていた。そ

れは木賃楠に関する部分である。

この規則は、宿屋を旅人宿、下宿屋、木賃宿の三種顛にわけ、それぞれに異なった規制を加えている。このうち、

旅人宿とは一泊の賄い料をとって旅行者を泊める普通の旅館で、下宿とはおもに単身者を対象として一カ月単位で

部屋を貸すものだが、木賃宿とは、飲食をいっさいださず、素泊まりだけをさせる都市部の朽のことだとしている。

規則は、このように木賃宿と普通の旅館との区別について、前者は昔からある安宿のことで、旅人を泊めること

があるにしても、結局その大部分は食べるにも困るような貧乏人の宿泊所になっているとしている。そして、一家

をなす事もできないような貧民が寝泊まりするわけだから自然「ごろつき悪漢のたぐい」が集まりやすく、旅館や

下宿とは異なった取締をしなければならないのだと述べている。こうした観点から、兵庫県は、木賃宿について、

一一三

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同 法(483・4)426

第一節 資本主義の発達と都市住宅事情の悪化

一八九五年に日清戦争が終わるころ、日本の資本主義は急速な発達をみせ始め、各地に⊥揚がぞくぞ〈と造られ

ていった。神戸もまた例外ではない。⊥業都市への神戸の急激な変貌は、官営兵庫造船所の払い下げを受けた川崎

正蔵のような産業資本家が大邸宅をかまえることを可能にする一方、労働者たちが住むバラックの大群を生みだし

た。戟前‖本の資本主義の発達は、労働者たちの極端な低賃金に支えられており、彼らはぎりぎりまで住屠費を切

り詰めなければならなかったからである。内務省自身の手によって明治の末に行われた調査によると、このころ神

山J一 戸に多かったマッチ⊥場の労働者の住宅生活は次のようなものである。

一棟十戸くらいからなる長屋に住んでいる人が多い。一戸の広さは表が一間(一▲八メトトル)、奥行き二間の二

坪 (六二ハ平方メートル) で、そのなかに三畳の畳を敷き、入り口付近二塁を土間にしている。昔は江戸以来の棟

割り長屋が多かったのだが、兵庫県がこれを禁止して少しずつ改築させたので、これでも衛生上少しはましになっ

一一四

客室・便所・布団などを清潔に保てという衛生面の規制だけでなく、滞在者の出入りの記録と届出を義務づけ、さ

、】U」

らに市街地においてはそのような安宿が営業できる場所を限定している。

木賃宿という、郡市の最低辺で生活している人々が夜露をしのぐ施設も、やはり住まいの一種であるはずである。

しかし、ここまでくると、行政側には、長屋二裳屋建築規則にみられたような住宅の質の向上といった発想はみら

れない。木賃宿が規制の対象となるのは、定住性に欠ける貧民を治安上問題だと考えたからにすぎないのである。

第二章 住宅政策の始まり

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427 日治体住宅政策の史的展開

てきた。こうした家屋には四、五人くらいが住んでいて、ヘッツイや七輪にホーロー鍋や釜で煮炊きをしている。

水は共同の井戸から小さな桶に汲んでくる。家賃は一日六銭から八銭というところが多く、一家の収入の二、三割

くらいが住居費に消える計算である。主婦にはマッチ箱つくりの内職をしているものが多いが、一日千個つくって

も五、六銭にしかならない。瀬具は一日二銭くらいで借りていて、一枚の布団に二、三人で雇るというのが普通で

ある。

ここに描かれた明治後期における職工の住生活は、確かに都市労働者のなかでも最低辺に属する人々に関するも

のであった。とはいっても、ほかの労働者の暮らしもこれと大同小異で、都市人口の増加にともなう過密とスプロ

ルのために、大正期に入っても状況は改善されなかった。実際、内務省の社会局長であった池田宏は、論文のな

かで、大都市のスラムで劣悪な暮らしを強いられている人がいかに多いかを指摘している。彼によると、そうした

地域は非衛生的でじめじめしており、長屋が路地に面して建てこんでいるから通風も日光も十分でない。一戸の而

積は二畳か三畳くらいしかなく、天井も低い。便所は十人から二十人に一つか二つあるだけで、下水も満足にない

から、あたり一面臭気がたちこめている。炊事場もなくて人り口の所に竃をおければ上等、まして洗濯場や物干場

といったものはまったくないのである。

住宅難は都市の中間層をも苦しめた。戟前の‖本では、都市の持ち家率は非常に小さく、大部分の中間層は借家

に頼っていた。しかし、人‖の増加は借家の需要を膨らませ、神戸では一九一五年はに百戸につき六・七あった空

(‖

き家率が、一八年にはl戸を切ってしまった。こうした状況は当然貸し手側を強気にさせ、家賃の著しい上昇を招

いたのである。そこに建築資材の値上がりで住宅供給が停滞したため、中間層の住宅難はいっそう深刻なものとな

っていった。しかも、当時借り手の側の権利を保障する法律はなかったから、値上げ要求にこた、ろられない借家人

はそこを出ていくしかなかったのである。

一一五

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相 法(483・4)428

仁 第二節 地方公営住宅の始まり

このような状況を前に、大阪の関一市長や内務省官僚の一部などの先覚者たちは、住宅問題を含めた都市住民の

貧困を緩和するために社会政策が必要だと説くようになった。彼らのあいだでは、二卜世紀にはいってからイギリ

スで福祉政策が展開され、住宅状況もかなり改善されてきたことが、あとを追うべき模範として強く意識されてい

た。さらに一九一七年のロシア革命の成功は日本の為政者達に大きな衝撃を与え、社会問題と真剣にとりくむ必要

性を認識させた。この年、内務省地方局に救護課が設置され、社会政策、あるいは広義の福祉行政が正式に始まる。

救護課は】九年には社会課と改称され、二一年には早くも社会局に格卜げされている。そして、こうした動きの中

から日本で初めての本格的な住宅政策が生まれてくるのである。以下、本間義人の研究に沿ってその流れを概観し

よ、つり

一九一八年六月に内務大臣の諮問機関として救済事業調査会が設置され、救貧事業、児塞保護、公衆衛生、労働

者保護など、はばひろい政策課題について検討をくわえることになった。そして、そのなかの生活状態改良事業の

一環として、住宅問題もとりあげられるようになった。十一月に早くも出された答申のなかで、救済事業調査会は

「小住宅改良要綱」を発表、ここに住宅は初めて国家の政策課題の一つとしてとりあげられるようになったのであ

一一六

一九一七年に始まった第一次世界大戦は、日本に空前の好景気をもたらしたが、それは同時に諸物価の高騰をも

もたらし、翌一八年の夏にいわゆる米騒動を引き起こした。神戸でも群衆が各地で騒ぎ、放火投ホを繰り返したが、

そのさい、住宅難につけこんで悪どくもうけたといわれる大貸家業者・丘ハ神館の葺合出張所も襲われた。このこと

は、都市部の米騒動の北皇兄の一つに住宅難に対する市民のうっ模した不満があったことを如実に物語っているとい

えよう。

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429 日清体住宅政策の史的矧凋

る。

小住宅改良要綱はかなり広範な提言をおこなっているが、注目すべきは地方公共凹体を通じて住宅事情の改善を

行わせようとしていることである。それにもとづいて、内務省は大正八年六月住宅改良助成通牒要綱を出し、肘県

や市町村に公益住宅の建設を奨励した。そのために内務省は、自治体が宅地購入・住宅建設のために起債をおこな

うことを認め、同時に大蔵省預金部から低利融資を受ける道を開いた。また、宅地確保のために土地収用権を認め、

官公有地の使用も認めた。こうして、地方公共団体を通じて住宅を直接供給するという、明治時代には想像もされ

なかった事業が開始されたのであか。

この内務省の方針を受けた各府県や東京、大阪などの大都市はただちに行動に移った。神戸市でも、一九年十月

に公設住宅建設の議案が市会に上程され、ほどなく可決された。財源は主として起債と大蔵省預金部からの借入金

によってまかなわれることになった。そして兵樺区松原通り五丁目、当時の林田区 (現在の良川区) 重池町一丁臼

の二カ所に宅地が造成され始め、大正十年に松原住宅、卜一年から十三年にかけて重油住宅が完成したのである。

建物はすべて木造だが、各戸は専用の玄関、ムロ所、便所をもち、それぞれ都市ガスと水道の供給を受ける、当時と

しては近代的なものだった。

これらの住宅には、市の職員のなかから選ばれた管理人が配置され、二一年に定められた市設住宅貸与規定に従

って入居がはじまったが、その家賃からして、普通の労働者やその他の勤労大衆が応募できるものではなかった。

実際、一九三一年の資料によると、入居者の大半は会社員や官公吏、教員、軍人といった都市の中産階級に属する

人々である。公設住宅は貧しい都市住民の救済事業の一環として内務省によって考え出されたものであるが、神戸

に限らずどこでも現実には当初の趣旨からはずれたものとなったのである。もっとも、中産階級の住宅難も深刻で

、.4

あったから、その点では大きな意味をもった。しかし、神戸市ではその後住宅難に対処するために新たに市設住宅

一一七

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開 法(483・4)430

一一八

を建設する計画は、立案はされたものの結局実現しなかった。

公共団体による住宅建設とあわせて、救済事業調査会の答申は民間人の組織に資金を融資して持ち家を建てさせ

るという方法を勧めていた。これにもとづいて内務省は、一九ニー年に住宅組合法をつくった。これは、ある程度

の資力のある人々の互助組織である住宅組合によって住宅用地の取得と住宅の建設、または購入をさせようという

ものである。組合は七人以上の組合員で構成され、知事または郡長・市長の許可によって設立できることになって

いた。住宅組合には府県などを通じて大蔵省預金部からの低利融資が行われ、また、住宅の登錨税や地方税の減免

措置がとられた。

住宅組合は当初兵庫県全体で三九が結成され、五〇六所帯が参加した。そのうち神戸市の分は二四組合で、組合

員数は二五八であった(二二年四月現在)。その後、一組合が資金償還不能で二七年に解散した。また、二九年、隣

接町村の編入にさいして兵庫県の管轄下にあった一六住宅組合一一四一「が神戸巾の監督下にはいった。しかし、二

八年までの一七年間に全国で三万二千戸あまりが建設された組合住宅も、伸一〃市では市設住宅と同じようにあとが

′15 続かなかったようである。

一九三七年、内務省から厚生省が独立すると、国家レベルの住宅政策はここが担当することになったり そして四

〇年には厚生省社会局に住宅課がつくられた。住宅行政を専門に扱う部局の誕生である。しかし、実際には、三七

年の日中戦争勃発以来、住宅政策は急速に戦時経済体制のなかに組み込まれていったというのが実情だった。

そうした中で、戦後の住宅政策との関連で注目されるのは、住宅営団である。住宅営団は、大都市の住宅難に対

して特殊法人の設置を通じて国家が対応し、五年間で三十万戸を供給するという目標を臥げて設立されたDしかし、

その背景には、当時不足しつつあったさまぎまな資材にたいする国家統制が強められており、しかも軍需生産が最

優先されるなかで、住宅関係資材を確保することが急激にむずかしくなっていったという事情があるけ 厚生省は、

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431n治体住宅政策の史的展開

第〓即 戦災復興と住宅政策

一九四五年、神戸の町は十数回にわたって空襲をうけ、人命と同時に多くの住宅を失った。このような状況は神

戸に限られなかった。必ずしも正確とはいえないが、政府の発表によれば、敗戦直後の‖本では四二〇ガ一「の住宅

が不足していた。戦後の住宅政策は、この気が遠くなるような住宅不足を量の点で解消することを至上命題として

はじまったのである。政府は、四五年九月、曜災都市応急簡易住宅建設要綱を閣議決定した。それは、おもな戦災

都市で小屋住まいをしている人々を対象に、六畳と四畳半二間だけの応急簡易住宅を三十万戸住宅営団や地方自治

体に建設させるというものであった。

これをうけて、神戸市は五†戸、兵庫県も神戸市以外の分を含めて二力三千戸あまりの応急簡易住宅の建設を決

めた。この簡易住宅は今日でいうプレハブづくりのようなもので、あらかじめ工場で加工された材木を組み立て、

一一九

国家機関による住宅供給をおこなうことによって、軍需枠などに対抗して住宅資材を確保する道を開こうとしたの

である。しかし、戟争の激化は厚生省の当初のねらいを許さず、目標達成率は著しく低下し、一戸あたりの営団住

宅の大きさが小規模化しただけでなく、やっと建つそうした住宅も柱を細くし軒を低くするなど質の悪いものとな

り、しかも一般住宅としてではなく、工場や軍の作業所で働く⊥員用として建てられていった。朝鮮から強制徴用

16

された人々を収用するためのものもあった。こうして口中戦争以後、住宅行政は神一「市の手を離れていき、市内の

住宅事情は急速に悪化していっか。

第三章 戦災復興期と量確保至上主義の時代

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岡 法(483・4)432

第二節 住宅三法の成立と神戸市

敗戟後にいろいろなかたちでうちだされた住宅政策は、占領軍の絶対的権力を背景とした一種の超法規的な命令

にもとづくものか、さもなくば予算の行政的なやりくりによるものであった。しかし、戦後の混乱もようやく多少

なりともおさまってくると、法治主義のたてまえからも、そうした行政活動に法律的な裏付けを与えようという動

きが強まってきたり 公営住宅の場合も同様である。こうして、一九五一年、公営住宅法が成立する。

神一「市においては、この公営住宅法の規定にもとづき、五二年度から毎年約千一〓の公営住宅を建設するとい、ユニ

カ年計画をたて、木造だけでなく、コンクリート造りのものも建てて耐火性を高めることにした。しかし、この計

二一〇

要所要所に釘をうてば素人でも建てられるように設計されていた。しかし、この簡易住宅は、木材価格の暴騰や資

、Dn

材輸送上の障害のために四五年度中に完成をみたものはわずか十五%程度にすぎなかっか。

政府は、このほかにも種々手を打とうとしたが、大都市の圧倒的な住宅難は解消しなかった。しかも、政府が巾

心的な住宅供給主体として考えていた住宅営団は、一九四六年末にGHQの指令で廃止されてしまった。こうなる

と、自治体による公営住宅の役割が高まることになる。四六年の始めには、政府はすでに固唾補助による公営住宅

建設を促進する閣議決定をおこなっているが、以後、五一年六月に公営住宅法ができるまで、予算措置だけをもっ

てする公営住宅が次々と建設されていった。

神戸市においては、四五年度は既存建物の住宅への改造で手いっぱいで、市常住宅の新築は十二‥〓を残して空襲

で焼けた市設重池住宅に応急的なものを二十い放てるだけに終わったが、二十一年にはいると、全面新築による市

営住宅建設のカ針を打ち出し、その一年間で八五九一〃をつくっている。その後は、五〇年までに吉川七〇‥〓の市営

住宅が神一〓市の手で供給された。

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433【1治体住宅政策の史的展開

画の達成率は三〇%前後と惨惰たるものに終わった。これは、計画達成率が低かった東京都の四八%と比較しても

非常に低い数字である。五二年度に建てられた市営住宅は、わずかに二七六戸しかなかった。そもそも、神戸巾で

は、公営住宅法が制定される前の四九年から市営住宅建設戸数が極端に減っていたのであるり

このような公営住宅建設戸数の減少は、もちろん住宅難が解消されたことを意味しはしない。一般的には、当時

地方自治体の財政状況が極度に悪化していたことが大きかった。五〇年には、シャウプ勧告にもとづいて地方税制

の大規模な改革がおこなわれ、それまで田から自治体に配分されていた地方配布税や国庫補助金が地方財政平衡交

付金にまとめられ、神戸などは公布基準額ゼロ、すなわち固からの援助打ち切りとなってしまったのである。これ

は、ドッジエフインによって引き起こされた不景気で財政収入が激減していた自治体にとってダブル・パンチであ

った。歳入欠陥が一挙に深刻化する。神戸市は、人員整理とともに、住宅や道路などの建設事業の大幅削減を中心

とする財政立て直しをはかったのである。

こうした厳しい状況も、五一年にはじまった朝鮮戦争による空前の好景気によって解消するはずだった。神戸市

の財政赤字はすぐに解消したからである。実際、神戸市は五〇年代半ばから王子の動物園・運動公園、表六甲ドラ

イブウエー、六甲山牧場など新しい事業をつぎつぎと展開しはじめる。ところが、住宅政策だけは再び活況を‖※す

ることはなかった。神戸市の一般会計歳出費に占める住宅関係予算の割合は、四八年に二二・九%に達したあと五・

七%に激減し、五二年には一・四%にまで落ち込んだ。その後やや回復したものの、以後五〇年代の終わりまで五

%に達することはなかった。これは明らかに神戸市における政策選択の結果であるといえる。ただ、神戸市はこの

頃二、三の新しい住宅関連施策を行ないはじめていたことも付け加えておく必要があるだろう。それらは住宅金融

公庫にかかわるものである。

戦後住宅政策の三本柱と言われるものは、公営性宅、住宅金融公庫、日本住宅公団であるが、そのうちもっとも

一二山

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同 法(483・4)434

一二二

早く制度化されたのは住宅金融公庫であった(一九五〇年)。住宅金融公庫の中心的な性格は、仝叡国席出資によっ

てつくられた、個人住宅建設を対象とする特殊金融機関だというところにある。これは、戟後住宅不足が深刻化す

るなか、ある程度の蓄えはあっても住宅をたてるだけの資力はないという人々に、その蓄えを頭金として、政府資

金による長期・低利住宅融資をおこなおうというもので、利率は長いあいだ年五・五%とされた。

その後、公庫法は五四年に改正され、自治体や公益法人に限ってではあるが、宅地の造成事業にも融資をおこな

うことになった。そこで神‥〓市も、住宅金融公庫からの融資をうけて、いくつかの住宅施策を行いはじめたのであ

る。その第一は、兵庫県住宅協会による住宅供給である。住宅協会は、五二年に神戸市や共棲県などが出資してつ

くられ、住宅金融公庫からの融資を主な資金源として賃貸住宅の建設をおこなった。もっとも、住宅協会住宅の建

設戸数は五二年度四八、五三年度に山一四に達したあとはふるわず、毎年二十一日から五十戸にとどまった。

第二は、市が事業主体となって行う公庫融資付き分譲住宅である。これは、神一「市が住宅金融公庫からの融資を

うけて五四年からはじめたり これが公庫から個人への両接融資と追っているのは、宅地を何戸分かまとめて山が購

入・造成し、一つの小さな岡地として市が設計・建設する点である。これによって住環境の整備などにも∴疋の配

慮をくわえることが期待されたが、事業の規模が小さすぎて十分な効果をあげることができなかった。結局、神戸

市の公庫融資付き住宅事業は毎年平均五十戸前後を建設するにとどまり、一九六三年に発足した財団法人神戸市都

市整備公社をへて、一九六五年、神一「市住宅供給公社の事業のなかに発展的に引き継がれていった。

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435 自治体住宅政策の史的展開

第一節 日本住宅公団の設立

一九五六年、経済白書は「もはや戦後ではない」という有名な一句で当時の‖本経済を総括し、戟後復興が終わ

って日本が新しい時代にはいりつつあることを軍言したし しかし、住宅の不足は依然解消されず、とくに公営住宅

入居対象者よりやや所得がうえの、都市中間層における住宅不足は深刻であったり これに対処しょうとしたのが日

本住宅公団の設立 (五五年) であるり

住宅公団そのものは国家レベルの住宅供給機関であり、自治体がその住宅供給業務を分押したりあるいは最終的

な事業主体になるというものではない。しかしながら、住宅公団の活動は、いくつかの点で自治体、とくに神り市

のような大都市の住宅行政と探いかかわりをもってきた。それだけではな〈、公用が建設する大規模な集A‖住宅は、

実にさまぎまな面にわたってその後の日本人の住宅生活に革命的な影響を与えていったのである。神戸前の場合も

もちろん例外ではない‖

公団によって建設される川地は、その規模の大きさだけでな〈、都市コミュニティーとしての完結件の高さとい

う点でもそれまでの公的住宅建設と大き〈異なっていた。公団の凹地は、どこでも、最小限度管理事務所と集会所

を備えていた。集会所は、大正期に建設された公営住宅、たとえばすでに述べた神一「市設∴松原住宅でも、付設の

銭湯の二階をそうした用途にあてるといった⊥夫がなされていた∩】 公団住宅の集会所では、そうした先駆的な試み

を受け継ぎながらも、集会所の役割や位置づけは大き〈異なったものとなっていった。

さらに、団地では、そこでの実際の日常生活を円滑にするさまぎまな工夫がなされることによって、人々の定着

一二三

第四章 本格的住宅供給政策の展開

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開 法(483・4)436

第二節 神戸市住宅政策の過渡期

一九六三年に行われた住宅調奄によると、神戸市内の住宅総数は二八万九†一〓であったり そのうち空き家や建築

中のものなど人が恒常的に住んでいないものが約叫万五千戸あり、数字のうえだけからは、一見すると住宅事情に

は余裕がでてきたかのようである。しかし、他方で、一つの住居に複数の世借が同居しているものが一万六千戸も

あるという事実は、その空き家の多〈が何らかの意味で住居としては問題があることをうかがわせていた。

一二四

意識も高まっていった。そうした生活面での工夫には、戦後ようや〈豊かになりはじめた人々のライフ・スタイル

に大きな影響を与えるものも少な〈なかった。スーパーマーケットと個人商店を組み人口わせたショッピング・セン

ターの開発はその代表的なものである。

流通形態の革新や人々の生活圏の変化という外部的な変草だけでな〈、公団は、個々の住吊の内部についても†

夫を凝らすことによって、日本人の暮らしに大きな影響を与えた。なかでも、革命的ともいえる新機軸は、ダイニ

ング・キッチン、すなわちDKの発明と、それによる東食分離の実現であった。六畳ほどのスペースに台所と家族

用の幾分西洋風な食堂を詰め込んだDKという部屋は、‖本の住宅事情の制約の小で考え出され㌍住宅公川の大発

明だったのであるし その2DKを主体とする公団住宅が神戸において初めて完成したのは、一九五六年十月のこと

であった。

住宅公印による住宅建設は、当時としてはかなり画期的な住生漬の革 新をもたらすものであった。しかし、一つ

には対象とする所得階層が中堅層であって家賃も低所得層にとっては高すぎたことにより、またいま一つには財政

的事情などから建設戸数に限りがあったことから、人都巾部の住宅難の解消という点からみれば、公団がはたし得

る役割には自ずと限界があった。

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437 自治体住宅政策の史的屁閲

実際、住宅総数のうち実に十五万戸を占める借家の一一「あたり平均延べ面積は十坪弱で、きわめて狭いものが多

く、その狭い借家に同居している世帯すら少なくないというのが神戸市の住宅状況であった。そのほかに、倉庫な

ど本来住居としてつくられたものではない建物に家賃などの関係でしかたなく人が住んでいるケースや、簡易宿泊

所に寝泊まりしている人々も少なくなかったり 六三年の調香ではたまたま数字が若†下がっているが、六〇年代か

ら七〇年代前半にかけて、神戸市では老朽住宅や狭小過密住宅などに住んでいるいわゆる住宅難世帯の割合が、ほ

とんどいつも四五%のあたりを上下していたのである。

このような住宅状況を設備面からみると、炊事用の流しが各戸についておらずに共用となっているものが民間の

借家で二万戸近く、持ち家や公営住宅でさえもまだ四千戸近く残っていた。便所が英用というケースは民間借家で

四ガ二千戸、持ち家、公営住宅、それに官舎・社宅などの給与住宅で一万戸強もあった。これが風Hの設備となる

と、状況はさらに悪くなり、内湯を備えた住居は、民間借家で一万七千‥りであるのに対し、風呂の設備がなく銭湯

に繰るものは実に十一万戸をこえていた。もっとも、持ち家の場合でさ、え、浴室を備えたもの六万三千いに対して

これをもたないもの五万一千戸であるから、当時においては今日考えるよりもはるかに内湯というものは贅沢なも

のだったというべきかもしれない。しかし、水道のような給水設備でさえ、これを共用とするものが社宅など給与

住宅で三二〇〇戸、民間借家では二万一H近くに達していたのをみれば、やはり当時の神いにおける住生活にはまだ

まだ大きな問題があったのだといわぎるを得ないだろ、γ。

依然として厳しい住宅状況に対して、住宅公団が全面的な解決策にはなり得ず、特に低所得者にとって住宅問題

がより深刻だとすれば、期待されるのは公営住宅ということになる。しかし、神戸市においては、その期待が十分

満たされたとはいえない。すでに述べたように、戦災復興のために、神戸市では敗戦後数年間、一戸あたりの床面

積は狭いながらも戸数としてはかなり大岩の市営住宅が建設された。それが公営住宅法が制定された五一年になる

山二五

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開 法(483・4)438

一二六

とわずか二二五戸に激減する。この五一年という年は、戦後の神戸市営住宅の建設戸数がもっとも少なかった年で

あるが、その後も低迷状態は続き、五〇年代後半が三百戸前後、六〇年代前半でも五百戸前後という実績であった。

このような公営住宅建設に対する消極的な姿勢の背後には、もちろん神戸市に限らない一般的な理巾が存在して

いた。その第一は地価の上昇である。戦後復興が一段落し、都市が発展して人口が増えはじめると地価は上昇をは

じめた。特に日本経済が高度成長の軌道にのると、地価の上昇は勢いを増した。それは当然用地取得費の増大とな

って公営住宅建設を担当する自治体にはねかえる。

第二に、国家事業的性格をもつ公営住宅の建設には固から補助金がおりることになっていたが、その補肋率が十

分ではなかったという事情がある。補助金行政一般につきまとういわゆる超過負担の問題がそれで、国は、第一種

住宅の場合建設費竺一分の一を、第二種の場合三分の二を補助することになっていたが、国が見積もる建設費は実

際より低い緬に抑えられていたのである。しかも、公常住宅入店者からの税収はあまり、あるいは全く期待できな

い。自治体のなかには、たとえ固から補助金をもらっても、公営性宅をたてればたてるほど持ち出しが増えると考

えて消極的になるケースもあったのである。

第三に、そうした不利な条件を覚悟した上で敢えて公営住宅を建設しようとしても、周辺住民の反対という地方

政治上やっかいな問題もひかえていた。戦後の神戸市における住宅行政について優れた研究を行った小西秀朋は、

その点について次のように書いている。

「住宅問題は、ひとり、建設戸数の達成ばかりではない。公営住宅の建設にあたっては、随分、難渋の道を歩ん

だのである。市民の要望は、住宅の大量供給でありながら、総論賛成、各論反対の声が強く、いぎ一定の地域に公

営住宅の建設計画を発表すると、現地周辺の住民は殆ど反対の声を挙げる。それは、周辺の地価が下がるとか、質

が低下するとか、他所者が入り込むとか、電波障害を含む公害が発生するとか、⊥事公害に悩まされるなど、その

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439 自治体住宅政策の史的展開

反対理由は多様であり、住民の説得は並大抵ではない。小学校の新設のように、己が子弟が利用する施設は歓迎さ

れても、公営住宅の建設は、仝〈同じ市の事業であっても反対の声が多い。」

こうしてみると、公営住宅の建設は、自治体にとってなかなか頭の痛い課題のようである。表面的にみると、戦

後すぐの緊急事態が一応解消されれば、神戸市がこの分野から半ば身を引いたのもうなずけそうである。しかし、

少し考えると、以上のような理由は、何もこの時期に限ったものではなく、現在まで一貫して続いているというこ

とがわかる臼それどころか、六九年には、公営住宅法改正によって、それまで補助の対象だった住宅用地取得費が

すべて自治体の負担とされてしまった。それにもかかわらず、神戸市では市営住宅の建設が一九六〇年代半ば頃に

なるとになるとはっきりと増加し、六五度年以降、昭和が終わるまで、一年の建設戸数が七育を下回った年はない。

特に、六七年から七九年までは年間千戸を超、え、多い年では千八百戸近くが建設されているのである。ということ

は、五〇年代から六〇年代前半にかけての市営住宅建設の低迷の原田には、やはり政策選択上の優先順位といった

要素も含まれているといわなければならない。当時の市政において、公営住宅には明らかに低いウエイトしか与え

られなかったのである。

第三節 神戸市住宅政策の本格的展開

一九六八年の住宅統計調査は、このころ神戸市の住宅事情が改善の兆しをみせはじめたことを示している。まず、

他の世帯と同居する世帯や住宅以外の建物に住む世帯という、居住条件が非常に悪い世帯の数が、ようやく目にみ

えて減少したことがあげられる。そのことは、炊事用流しや便所を他の世帯と共同して使う設備共用世帯の減少や、

六畳未満という極端にせまい住宅の新築もほとんどみられなくなったことにはっきりと示されている。住宅の広さ

についても改善がみられるようになった。

一一一七

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岡 法(483・4)440

一二八

この六八年住宅統計とほぼ同じ時期に行われた神戸市住宅需要調査によると、当時の市内全世帯の二七%が自分

の家の新築計画をもっていたり、別の借家への転居を考えていたりするなど、何らかの住宅計画をもっていた。そ

の半分の四ガ五千世帯は持ち家計画、三分の一の三万世帯は借家計画、残りは増築計画となっていた。しかし、全

世帯の二七%を占める客観的住宅難世帯のうち実に四分の一以上が住宅難の意識をもっておらず、したがって住宅

計画ももっていないなど、実際の住宅問題は人々の意識調査だけでは十分つかみきれない面のあることにも留意し

なければならないとすれば、公共政策への期待は相当大きかったとみてよいであろう。事実、この調査では、新た

に借家を探そうとしている人々のうち、七割が公営住宅や公団住宅などの公共借家に移りたいと答えていたのであ

る。宅地の開発、持ち家の供給についても、その開発が難し〈なり、かつ住宅が郊外に向かって無秩序に広がって

いくスプロール現象が深刻化つつある状況のもとでは、公共機関の住宅去地政策は大きな意味をもつはずだっ守

一九六六年六月、住宅建設計画法が公布され、以後、住宅の供給について国や自治体がどのような施策、基本姿

勢で臨むかを五年単位の計画というかたちで明らかにすることになった。住宅建設計画法によれば、各都道府県知

事は、建設大臣の作成した地方住宅建設五カ年計画に対応して、市町村と協議のうえで都道府県住宅建設五カ年計

画を作成するものとされた。当然神戸市も兵庫県との協議の対象になったわけであるが、神い市では、より積極的

にみずからの第一期住宅建設五カ年計画を策定して、住宅行政を拡大強化する姿勢を明らかにした。

その計画では、神戸市においては七〇年度までに住宅難を解消するとともに、新規の住宅需要の充足をはかって

「一世帯一住宅」 という国の第一期住宅建設五カ年計画の基本目標を実現することが目標とされていた。そして、

そのために五年間で十三万一†戸の住宅の供給をめぎすとされた。

結果は、この建設計画目標は百パーセント達成された。数字のうえでは一世帯一住宅が一応実現されたわけであ

る。しかし、国レベルと同様、市レベルでも、実際に建設された一H数の多くは民間自力建設によるもので、公的資

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441勘合体住宅政策の史的展開

金による住宅のうち、個人の持ち家促進のための融資を内容とする公庫住宅を除くと、公的な機関が供給主体とな

って建設された住宅は仝建設一「数の一七・四%をしめるに過ぎなかった。また、民間自力建設のなかでは借家の割

合が多かった。そのため、立地や所得階層などを考慮にいれたうえでの需要に即応した住宅供給は必ずしも十分で

はなかった。さらに、広さや住環境などの点で劣悪といわぎるをえないものも数多〈建てられたため、総戸数にお

いては一世帯一住宅の目標が達成されたとはいっても、それがただちに住宅難、あるいは住宅問題一般を解消する

ことにはつながらなかった。

それはともかく、神戸市は、国が打ち出した住宅建設五カ年計画という新しい手法に積極的に対応していったの

であるが、実は、こうした住宅政策に対する積極姿勢は神戸では六〇年代半ばごろには早くも現れていたのである。

このことをもっともよく示しているのが、六三年の財団法人神一日市都市整備公社の設立である。この公社は、民法

第三四条にもとづく公益法人として、土地の取得、住宅建設、都市再開発などの業務を行う総合的な事業主体であ

り、それまで各地でみられた道路、観光、開発といった一つの機能だけを遂行する公社とは違って、全国でも初め

ての多目的公社であった。

民法にもとづく地方公社という方式は、いろいろな而でメリットをもっていた。たとえば、民間資金を導入する

ことが可能になって、一般財源の不足や起債に対する制限をクリアできる、地価の商略が続〈なかで先行投資を行

い、公共用地をスムーズに確保できる、議会の議決や公有財産規則の適用除外となることで、財産の取得、管理、

処分が商業べ-スで機動的に行える、といった点である。

ただ、この公社による住宅建設・分譲事業は一九六五年に地方住宅供給公社法が制定され、神戸市でもこの法律

にもとづく公社が同年十一月に設立されたのにともない、そこに移管された。したがってこの面での都市整備公社

の活動は量としてはあまり大きくはなかったが、それでも鉄筋コンクリートづくり五階から十階建て四棟合計一八

一二九

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同 法(48-3・4)442

l三〇

六戸の分譲住宅を、施設併有住宅のかたちで建てている。

しかし、市住宅供給公社発足以後の都市整備公社の住宅関連事業の中心は、なんといっても宅地の造成・分譲に

おかれた。このうち宅地造成については、土地区画整理事業組合の業務委託というかたちでの開発促進のほか、西

神地区・美穂が丘団地の造成を直接担当し、難工事の末に完成、分譲住宅地としては市の住宅供給公社に、公営住

宅用としては住宅局にそれぞれ売却した。また、住宅地の分譲については、それまでに市の土木局、建築局 (後に

住宅局)、臨海開発局がそれぞれに開発した用地の分譲窓口を公社に一元化するために引き継い類。

次に、うえでもふれた神戸市住宅供給公社であるが、これは、六五年六月に施行された地方住宅供給公社法にも

とづく特殊法人として、神戸市の全額出資によって同年十一月に設立されたものである。この公社の主な目的は、

住宅を必要としている勤労者の積立金に住宅金融公庫の資金などを合わせて活用し、環境良好な集団住宅や宅地を

供給し、かつ、市から法律的には独ふ凡した団体であるということのメリットを生かして市の住宅政策をより機動的

なものにすることであった。

市の住宅供給公社は、このように都市整備公社から住宅部門だけをきりはなし、その機能を発展的に継承したも

のであり、建設省主導で作られた法律に単純に従ったというものではない。つまり、住宅供給公社の設立は、神戸

市独自の都市政策のなかの住宅供給という考え方の延長線上にでてきたものなのである。実際、住宅供給公社と都

市整備公社はそれぞれ法的根拠が異なる機関であるにもかかわらず、当初は全部の職員が両公社に併任されるとい

うかたちがとられ、また、労務管理や資金調達、経理事務などの合理化と経費の節約をはかるため、総務課は両公

社の共通組織となり、同じビルに事務所を構えることになったのである。

こうした経緯から、住宅供給公社は都市整備公社が神戸市から引き継いだプロジェクトをさらに引き継ぎ、戸建

て積立分譲住宅からなる団地を建設していき、既成の市街地においても、都市計画事業に関連して高層の分譲住宅

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443 日治体住宅政策の史的展開

第〓即 生活水準の向上と住宅

一九六六年に策定された国の第一期住宅建設五カ年計画がその最大の目標を「一世帯一住宅」 においたことは、

戦後の住宅難が長く尾を引いていたことを物語るものである。この目標は、数字の上では計画期間のおわりには達

成された。神戸市でも、この間に絶佳宅戸数が普通世帯の総数を上回るに至った。そして、第一期五カ年計画の目

標が達成されたということは、住宅政策にかかわる人々を戸数主義の脅迫観念からようやく解放したのである。そ

れとともに、住宅政策の力点は量から質に移りはじめた。

この変化を国としてはっきりうちだしたのが七一年に策定された第二期住宅建設五カ年計画である。この計画で

は、住宅難を解消するとともに、人口の都市集中、核家族化などによる世帯数の増加といった要因から生じる新規

の住宅需要を満たし、さらに国民の居住水準の向上をはかるために、向こう五年間で民間住宅と公的住宅をあわせ

て九五〇万戸建設することがうたわれた。しかも、この計画は、たんに膨大な数の住宅建設をねらうだけでなく、

一三一

を建設している。また、この時期公社は公営住宅入居者屑と公団住宅入居者層の中間の人々を対象とした公社賃貸

住宅の建設計画をたて、七〇年から七三年にかけて合計二八八戸の三DKサイズの賃貸住宅を建てた。しかし、こ

の賃貸住宅建設は、公営住宅の収入基準の引き上げによって、公営住宅と公団住宅の収入基準の差がほぼ解消され

たことなどから、七四年度以降は建設が見送られてる。このほか、公社は、住宅金融公庫の融資枠とは別に、独自

26」

の事業として建設・分譲する単独分譲住宅の供給にも着手し、一定程度の供給を行った。

第五章 住宅政策における量から質への転換

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同 法(483 ■ 4)444

三二

新しく建設される住宅について、おおむね一人一室という規模をもったものをめぎすと、初めて住宅の質の面につ

いても目標を掲げたのである。

この国の五カ年計画に対応して、神一「市も独自の第二期神戸市住宅建設五カ年計画を七一年十月に策定し、市民

の住生活の安定をめぎすことになったっ そして、そのなかで神一「市は、狭小過密な住宅の追放のため同よりもさら

に踏み込んで、住宅の規模については、標準世帯(家族人員四人) で一一「あたり十五畳の居室面積の確保をはかる

とともに、その他の世帯についても、一人平均三・七五畳の居室面積を実現することを臼標とし、これを「伸一「市

生活環境基準」としてその実現をめぎすこととした。しかも、この基準の達成をめぎすにあたっては、神い市が市

接建設する住宅はもちろん、県や住宅公団、民間など他の建設主体が行う住宅建設にたいしても指導・促進してい

こうという意気込みをみせている。つまり、回が目安とした居住水準では健康で文化的な郡市生活を営むにはなお

不十分だとして、国の施策に上乗せするかたちで仕宅政策を艇関することを表l明したわけである。

一九七三年に実施された住宅統計調査によると、机■h-六八年の時とくらべて、別荘、セカンドハウスのように、

一時的に利用される住居や建築中の住宅を除いた狭義の空き家は全国で六八方いも増えて一七二ガ戸に達し、住宅

総数にしめる空き家の割合は五・五%となったb しかし、国民の住宅に関する主観的な意識をみるために同じ七三

年に行われた住宅需要実態調奄によると、住宅について多かれ少なかれ関っていると感じている住宅凶窮世帯は全

体の三五%におよんでおり、四年前とくらべてほとんど減っていなかったっ 特に、民営、公共を問わず、借家住ま

いの場合に困窮感が強く、いずれにおいても五五%前後の世帯が住宅に不満をもっていた。そこで困窮感の理由を

みると、全体を通して半数の世帯が住宅が狭いことをあげており、建物が痛んでいるからとこたえたもの十三%、

設備が不完全とこたえたもの九%と続いている。これに対して、家賃が高いからとこたえた世帯は四%にすぎなか

った。しかも、住宅が狭くて困っているとこたえた世帯の割合は、前回六九年の調査の時より増えていたのである。

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445 酎台体住宅政策の史的展開

このことは、住宅事情が量的側面においては一応解消され、住宅難世帯などそれまでの客観的指標からみた住宅の

質的水準もかなり改善されてきたにもかかわらず、主観的な面では、住宅の規模を中心とする質の面での不満が依

「ソ一

然として強い、あるいはむしろより強くなっていることを示していた。

こうして、一九七六年からの第三期住宅建設五カ年計画になると、国もようや〈住宅の質的改善に本腰をいれる

ようになる。そこでは、八五年までの十年間で実現すべき長期臼標として、それまでよりもかなり広いスペースを

考えた「最低居住水準」を定め、計画終了年次である八〇年までに水準以下の住居の約半数の解消をはかることが

うたわれた。政府はまた、八五年をめどに平均的な世帯が確保できるようにする目標として平均居住水準を定め、

住宅の質の向上をはかることにした。そして、この水準を五カ年計画のわかりやすい臼標として表したものが、「一

人一室、世帯に一つの共同室」 であった。

国のこの新しい五カ年計画に対応して、神戸市もさらに住宅政策を押し進めるために、独自の住宅建設五カ年計

画を策定した。その中で、神戸市は国の建設行政における住宅政策の位置づけが低いことや、‖本の中央集権的行

政システムが都市問題解決に障害となっていることを批判しっつも、国の新しい住宅建設計画が打ち出した平均居

住水準の内容を評価して、基本的には国の考えに沿って自らの建設計画を策定している。そして、八五年までに完

、 仝に解消すべき水準以下居住世帯のうち、前期計画として、その六〇%を解消することを目標の中心に据えた。

このように、国がもたつきながらも住宅の質の改善、住居規模の拡大にのり出し、神戸市がそうした国の動きを

先取りするかたちで住宅行政に力をいれようとした一九七〇年代は、そうした努力にブレーキをかける難しい問題

がいろいろ持ち上がった時期でもあった。そのなかで、住宅政策全体に共通する大きな問題は、地価の異常な高騰

と、一九七三年のオイル・ショックが引き起こした深刻な不況がもたらした財政難であった。

こうした悪条件のなかで、自治体の住宅政策にさらに追い打ちをかけたのは、団が財政難のつけを自治体に転嫁

一三三

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開 法(483・4)446

一三四

しょうとしたことである。まず、六九年から公営住宅の用地取得費が国庫補助の対象からはずされた。次に、建設

費の自費変更という問題が自治体を悩ませた。そもそも、公営住宅建設に対する国庫補助にあたっては、本来自治

体が申請した種別(第一種か第二種かなど)・構造別(鉄筋コンクリート中層か木造かなど) に即して補助金の交付

がなされるべきであるのに、国の財政難から、戸数だけはそのまま認めて、補助金の算定の方は木造や簡易耐火構

造など単価が安い住宅をたてる場合の計算で行われるため、事実上自治体は国庫補助金を値切られることになった。

このように安い住宅用の計算で補助金が交付されても、自治体の方ではすでに建設単価の高い高層や中層の住宅の

準備をはじめているので、いまさら木造や簡易耐火構造のものに切り換えることはできないし、そのような質の想

い住宅をたてるのは好ましいことでもない。したがって、自治体は安い建設単価用の補助金で高い建設単価の良質

な公営住宅を建設し、単価の差額分は自分で負担することになるのである。これを自費変更による建設という。も

ちろん超過負担の問題もずっと自治体の財政を圧迫し続けていた。

このように、この時期、自治体の住宅政策は多くの難関に直面していたが、それでも神戸巾はさまぎまな工夫を

して公営住宅の建設を続け、同時に量から質への転換という要請にもこたえようとしていた。実際、神戸市は、オ

イル・ショック後の著しい景気の落ち込みで歳入が激減した七四年度でも一〇六五戸の市営住宅を建てている。山

九七〇年代、このほかの年度においては、神戸市は毎年一四〇〇から一七〇〇戸の市営住宅を建て続けた。その結

果、市骨住宅の管理戸数は七四年には二万一「を超、え、八〇年には三万一「に達するにいたる。

建設戸数の伸びは、住宅の質が重視されるようになったとはいっても、やはり旦里の問題も依然として重要であっ

たことを示している。特に民間では、減少したとはいえ狭小過密住宅など劣悪な住宅が残っており、しかも家賃が

高騰していったために、そこに住む人々のあいだで公共借家に移りたいという希望が根強かった。神戸市は、用地

難、財政難という厳しい条件のもとにあったにもかかわらず、こうした市民の要望に積極的に応えていったのであ

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447 自治体住宅政策の史的展開

る。特に、用地の問題についてはさまぎまな努力が払われた。

このうち、用地を新しく取得する必要がないという意味では、既存の木造市骨住宅を取り壊して中高層アパート

に立て替え、スペースを有効に活用するという方法がもっとも合理的である。実際、神一〓市は市内各所に散らばる

市は市街地に市営住宅を建てることを重視して、移転や閉鎖であいた民間企業等の工場、社宅、研修施設などの跡

市営住宅の建て替えを積極的に進め、同じ面積に建つ住宅の戸数を七割以上増やすことに成功した。さらに、神戸1

といったまとまった用地の取得に力をいれた。こうして建設された市営住宅のなかには、東灘区の深江北住宅のよ

うに、駅にも商店街にも近くて大変な人気となり、応募倍率が五十倍を超えたところもある。

これに対して、まとまった用地を比較的安く手にいれるために、北区や垂水区などの郊外地域に新しくつくられ

た市営住宅団地のなかには、通勤などの便が悪くて人気のでないところもあり、民間が開発した西神戸ニュータウ

ン内に建設された垂水区(現西区)の市営栄住宅では、とうとう当初募集で新築空き家をだしてしまった。しかし、

郊外地域はなんといっても広い敷地に機能的な団地を建てることができるため、須磨ニュータウンなど市の西部や

北部には数百戸を超える大市営住宅団地が次々と建設されていき、良好な自然環境ともあいまって、実質的に市営

住宅建設の新しい方向性を示すこととなった。

このように、神戸市はこの時期公営住宅の拡大に積極的に取り組んだが、それは単なる戸数主義、量拡大至上主

義の政策ではなく、質的充実という点にも大きなウエイトをおくものだった。この質の拡大という側面は、主とし

て既存市営住宅の建て増し、木造住宅の立て替え、新規建設市営住宅の規模拡大、障害者などハンディをもった人々

への配慮、周辺地域と合わせた住環境への配慮、といったかたちで追求された。

住宅規模の拡大では、国庫補助の関係で、市独自の政策として標準設計を上回ることは本来は難しい。しかし、

ともかくも新しく建てられる市営住宅の規模は拡大していき、かつては十一坪未満のもだったのが、先に述べた神

一三五

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開 法(483・4)448

一三六

戸市生活環境基準にのっとって、七〇年からはL型住宅として広めのものが建てられていった。七六年には初めて

三LDKの市営住宅もつくられた。また、七一年から七四年にかけて建設された垂水区 (現西区) の押部谷団地で

は、将来の居住水準の向上に対応できるように考え出されたFL (フレキシブル) 住宅として、二戸を一一「に、三

戸を三「に改造して広い面積の住居を作れる住宅、奥行きの深いバルコニーをもつ住宅、階段宇の裏に増築が可能

なように考、ろられた住宅が建てられた。このFL住宅は、以後神戸市の市営住宅建設の基本思想の一つとなり、吋

能なものについてはできるだけFL住宅をつくっていくようになった。

従来、市営住宅の設計にあたって、障害者の生活について特別の配慮が払われることはなかったじ しかし、この

時期神戸市は障害者用の住宅を建設することによって、入居者の条件に合わせて住宅の質を整備する方針を打ち出

した。最初に車椅子入居者用の住宅が配置されたのは長田区の房王寺住宅と、垂水区 (現西区〕 の土壌住宅で、七

三年のことだった。壬塚住宅では、車椅子生活者のために専用駐車場をもうけ、凹地内の通路は申椅†での移動を

考えてスロープになったり 障害者用のほかにも、母子家庭や老人世帯などを対象とした特定日的住宅も引き続き建

設されたが、こうした住宅が一節所にかたまらないよう川地内各仕棟に分散するとともに、一階に配置するなどの

配慮がなされた。このほか、五十年からは他の郡市に先駆けて外国人の入居を実施し、長‖区房王寺用地では、一

世帯向きにべア住宅をつくるなど、さまぎまな試みがなされた。

さて、神一「市住宅供給公社による住宅供給事業は、公営住宅と並んで市の住宅政策を支える大きな柱である。一

九七〇年代の公社は、都市中緊勤労層に対する住宅供給を促進するというその役割をいっそう鮮明にして、賃貸住

宅の建設からは七刑年をもって撤退するとともに、一戸建てなど貿の高い分譲住宅の建設に力をいれていった。こ

の時期に公社が建てた住宅で日を引くのはテラスハウスである(神戸ではタウンハウスと呼んだ)。テラスハウスは、

二P建てと中層集合住宅の中間をいく新しい形式の庭付き低層共同住宅で、集会所や共有緑地を囲んで住宅を建て

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449 日冶体住宅政策の史的展開

ることにより、住宅地全体としての良好な景観と環境の確保を実現すると同時に、土地付きの住宅を供給しながら

共有地の活用による建設単価の抑制をはかることもできる。もちろん、公社は中層住宅や一‥〃建て住宅についても

さまぎまな工夫を行った。

このころになると、供給公社の住宅建設活動の中心は郊外の新しい大規模団地におかれたが、他方で既成市街地

での活動も続けられた。大都市の通例として、神戸市でもいわゆるドーナツ化現象が顕著になり、これに対処する

ために公社は高層一般分譲住宅を都心近くに建設した。これらの住宅は、高い地価と用地難をクリアするために、

児童館、保育所、老人憩いの家などの生活関連施設との並存住宅、つまり下駄ばきとなっている。とはいっても、

交通や買い物などの便利がいいため、いずれも高い応募倍率となり、その人気のほどを示すことになった。

なお、公社はこのほかに神戸市からの委託で住宅相談コーナーをもうけてきた。当初、相談の内容は公社や公団、

公営住宅などの募集についての問い合わせが多かったが、しだいに土地取引や住宅資金の融資、建築碁準といった

実質的な問い合わせが増、え、この時期になると市民が公社を住宅問題の専門的なサービス機関として認識するよう

になったことをホしている。

他方、神戸市は、個人などの住宅取得を容易にするために独自の融資制度を打ち出した。このうち、あるものは

馴 住宅金融公庫からの融資に対する上乗せという件桁をもっている。そのうちまず、一九七五年にはじめられた個人

および中高層建築等融資制度についてみてみよう。この制度は、個人住宅を新築あるいは購入しようとする市民、

および一部に住宅を含む中高層耐火建築のビルを建てるものを援助するため、その資金を市が融資するものである。

これによって市民の住宅事情の改善をはかるとともに、建築物の不燃二向層化を侃進するねらいがある。

同じような趣旨のものでつぎに〈るのが既存住宅購入資金融資制度である。これは、住宅金融公庫の融資をうけ

て市内で中高層耐火建築の既存住宅、つまり中古住宅を買おうとするものに、その資金を融資するものである。こ

二二七

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同 法(48・一3 ■ 4)450

第二節 郊外ニュータウンにおける宅地・住宅供給

日本経済の高度成長時代、急激な人口流入、商工業の集中、核家族化にともなう世帯数の増加、根強い一戸建て

志向などは、都市のスプロール化というやっかいな問題を引き起こした。こうした状況を前にして、日本の政治や

行政は決して十分な取り組みをしてきたとはいえないが、それでも建設省は、新住宅市街地開発法、新都市計画法、

一三八

れによって、市内の住宅ストックの有効活用と住宅難緩和がはかられた。条件は、融資限度額が三百ガ円以下で、

利率は新築の場合と同じ年六・九%である。その後、戸建の既存住宅も融資の対象になった。

これに対して、その性格上住宅宅金融公庫の融資対象にはならないものにも独自の融資制度がつくられた。住宅

改良資金融資制度がそれで、やはり七五年から導入されている。融資の対象となる改良工事は、増築、改築、およ

び修繕などの工事で、〓疋の規模を有する持ち家と借家に限られる。それは、既存住宅の質の向上と、住環境の改

善をはかることが目的とされたからである。

さらに、七九年からはじまった住宅供給公社分譲住宅融資制度をあげることができる。この制度は、公社分譲住

宅購入予定者で、自己資金の調達が困難な市民に対して低利の資金を貸し付けるものである。融資子定件数は三百

七十件、融資限度誠は七百五十万円、利率は人・九%、償還期間二十年で、要するに先に述べた一般持ち家購入者

に対する融資制度の公社版である。もちろん住宅金融公庫融資との併用が想定されており、公社と契約をかわした

市内の十銀行と公社との協調融資となった。

このほか、良質な民営借家の建設促進事業という制度ももうけられた。これは、土地所有者などが良質な賃貸住

宅を建設する場合に利子補給を行うもので、民間賃貸住宅の水準の向上をはかりつつ、あわせて供給戸数も拡大し

ようとするものである。

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451日治休住宅政策の史的展開

都市再開発法、地価公示制度などの施策を打ち出していった。そして、このような背景のもとで、地方自治体や日

本住宅公団などか公共デヴュロッパーとなり、従来よりも規模の大きい宅地開発計画を推進するようになる。それ

は、当初は全体で数百戸から†数百戸の団地として開発されていたが、やがてそれよりもはるかに大きなニュータ

ウンとなって何万人もの、時によると十万人を超える人々に計画的に造成された住宅地を提供していった。神戸市

でも、一九六〇年代末になるとその第一号として須磨ニュータウンが登場する。

須磨ニュータウンでの開発は一九七〇年代に本格化するり それは、臨海埋立計画、とくに神戸港沖の人工島・ポ

ートアイランド構想と関係をもつ。すなわち、ポートアイランドの建設が六七年に正式決定されると、その埋め立

て用土砂採取との連動が可能で、かつ大規模で計画的な住宅開発を可能とする開発適地が検討され、市の西部、須

磨の丘陵地が選定されたのである。これが今‖娼磨ニュータウンとして知られる、市西部の大規模宅地開発の発端

である。

須磨ニュータウンは、高倉ム‖、横尾、名谷、渚合、白川台、北須磨の六団地からなる。このうち、始めの三岡地

が神戸市開発局の施⊥になるもので、落合団地は住宅公団、北須磨団地は兵庫県労働者住宅生活協同組合、白川台

団地は白川土地区画整理組合の施⊥である。このような施工主体の違いは、須磨ニュータウンが必ずしも一つの全

体的計画にもとづいて開発されたものではないことを示している。実際、この地域の宅地が須磨ニュータウンと呼

ばれるようになるのは、六九年に神戸市が「落合・名谷地区基本計画」を策定し、その開発理念を明らかにしたこ

ろからである。このニュータウンは、それぞれ個別の団地建設計画をもって開発がはじめられた須磨丘陵を、途中

から団地間の位置づけやつながりを考・え、全体的な施設配置を考慮しながらできるだけ体系的な整備をしようとい

う考え方にもとづいて、ニュータウン的な開発へと変わっていったものなのである。

全体の統一的な計画をもたずに出発したにもかかわらず、須磨ニュータウンがそれまでの単なる小規模団地と異

一三九

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開 法(48▲〟′3・4)452

第三節 住宅から住環囁へ

一九七〇年代になると、それまで都市規模の拡大を無条件でよしとし、増加人目を吸収する宅地開発、住宅建設

を歓迎していた自治体も、その姿勢を大きく転換し、開発の抑制、都市環境の改善や保全に臼をむけるようになっ

た。実際、住宅公団による団地建設を歓迎し、積極的に誘致さえしていた自治体が、一転して受け入れに厳しい条

什をつけはじめたのは七〇年ころのことである‖

こうしたなかで、神リリ市も市民の生活環境を守るためにいくつかの手をうつようになっていった。たとえば、須

磨ニュータウン内の団地建設にあたっては、買い物などの便利さということだけでなく、日常生括をできるだけ落

ち着きと潤いのある良好な環境のなかで営むことができるよう、緑道をふんだんに配したり、周辺緑地の保全に力

をいれるといった工夫がなされた。また、既成市街の木造市営住宅を建て替える場合でも、戸数の増加という本来

の目的を抑えてまで、オープンスペースの確保や植栽の充実、周辺地域への日照など環境上の配慮を行ってきた。

そこには、住宅そのものの確保を重視する政策姿勢から、住宅を含めた住環境、あるいは暮らしの広がり全体の質

を維持し高めていこうという政策姿勢への転換が示されている。

こうした生活環境への配慮は、また、神戸市が七〇年に定めた「神戸市開発指導貿綱」にも認めることができる。

確かに、この要綱には、郊外における宅地の急激な開発が神戸市に公共施設建設などの行政需要を著しく増大させ、

一四〇

なっているのは、その公共的な施設の配置にまずうかがえる。ここでは、学校や病院、人規模小売り店などの商業

施設、官公庁など住民が広く利用する施設に広い面積をさき、全体のバランスを考えて配置している。こうした施

設にあてられたのは全事業面積の十五%、総住宅地面積の四〇%におよび、神戸の都心に頼らなくても、このニュ

ータウンのなかだけで都市的な需要の多くをまかなえるよう、総合的な組み合わせが考えられたリ

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453 自治体住宅政策の史的展開

財政上耐えきれないほどの重荷になっているので、そうした施設整備の負担を開発事業者自身に負わせようという

意図が込められていた。しかし、それだけではなく、開発事業が段階的、計画的に行われなければ、環境のよい住

宅地は供給されず、それどころか逆に新たな環境不良住宅地を生み出してしまうという認識にももとづいていたり

また、既成の市街地におけるマンションなど中高層集合住宅の建設が狭い地域に過度の人目集中をもたらし、既存

の小中学校、保育所などの公共施設に過重な負担を与えたり、生活環境の悪化を招いたりしているという認識とも

かかわっていた。そこで、神戸市は、市内の開発事業が計画的に行われ、またそれによって良好な住宅環境が形成

されるよう、開発事業の施工者にこの要綱にもとづいて道路、緑地、下水道などの公共施設、学校や病院などの公

益施設の確保に一定の責任を負わせるとともに、市の定める開発基準、技術基準を守らせることになったのであ奪

住宅環境の保全という観点からみてこの時期もう一つ注目されるのは、中高層建築物の建設によって周辺の住宅

がその日影にはいってしまい、住民の健康的な生活が阻害されるのを規制しょうという姿勢を神戸市が打ち出した

ことであるじ すなわち、神戸市は七二年、「神戸市民の環境を守る条例」を制定し、=影基準の設定、事前手続きな

どによって日影の規制をはじめたのである。当時、国レベルではまだこの問題に取り組もうという動きはなく、神

戸市のこの動きは全国に先駆けた先進的なものであった。

この条例により、高さなど〓疋の基準を超える建物を建築しょうとするものは、あらかじめ建築計画を神戸市長

に届け出るとともに、建築計画の概要を示した標識を設置することを義務づけられた。これによって、自分の住宅

の日照が奪われると考える住民は、建物が建つ前の段階で建築主に計画変更などを求める機会が与えられることに

なった。また、市長としては、届出により当該の建物が日照基準違反のために付近の生活環境に著しい支障を及ぼ

すおそれがあると認めた場合には、建築計画の変更などの指導を行い、また勧告することができるようになったの

である。そして、両者の主張が対立して決着がつかない場合には、市長が必要に応じて利害調整をし、さらに、両

一四一

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開 法(483・4)454

第一節 新しい住宅供給政策

七十年代になると、住宅事情も客観的にはある程度の改善をみせ、とくに便所や流しを共有するような住宅、六

畳一間に一家が暮らすような狭小過密住宅の数は大幅に減少した。しかし、他方で住宅、というより住宅生活に対

する人々の期待水準の上昇は、現実の住宅事情に対する新たな不満を呼び起こすとともに、人々の期待そのものを

多様化して、この分野における政策課題を複雑なものとしていった。また、地価の相変わらずの上昇は、とくに市

街地での新規住宅の建設用地の取得を非常に難しいものにしていった。

そうしたなかで、人々の持ち家士心向はいっそう強まり、その傾向は低所得者層にも広がっていった。それは旺盛

な宅地需要を意味するから、地価はますます上昇し、人々の住宅飢餓感を高める一方、実際の宅地開発を都心から

より遠くへと押しやることになった。こうした傾向に加えて、持ち家と借家のあいだの床面積などの格差は以前よ

りも開いていったから、借家に対する需要は減退していった。市民の意識をみると、全体としては住宅本体に対す

る満足の度合いは高まるなかで、公共施設、設備、環境といった住宅生柄全体の質を問題にするという傾向がいっ

そうはっきりとしてきた。しかし、他方では客観的には最低居住水準すら満たさない住居に伝んでいる人もまだ二

〇%前後残っているというのも現実で、依然この面で政府・自治体が取り組むべき課題は多かったのである。

こうして、八十年代にはいるころには、住宅問題に関して、政府・自治体は複雑な状況をさばかなければならな

一四二

33

老が望めば、市が七四年から学者や弁護士などに委嘱を始めた日照調停委員が利害の調整にのり出すことになった。

第六章 まちづくりとしての住宅政策

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455 日清体住宅政策の史的展開

くなり、広範囲で、しかもきめ細かな施策を展開するようになるのである。そのなかで、神戸市は国の第四期と第

五期の住宅建設五カ年計画に対応して、自らの計画をうちだした。

第四次計画の目標は、すべての世帯が最低居住水準を確保することができるように、市民の居住水準の向上につ

とめること、および、国の定める住環境水準を指針として住環境水準の向上につとめることの二つである。ここで

最低居住水準とは、八五年を目標として達成が望まれる住宅の規模として第三次計画策走のさいに提示されたもの

である。それは、世帯人員四人の標準世帯の場合で居住室面積が三二・五平方メートル、三DKの広さである。そ

のほか、国の計画は、建設目標の住宅戸数について、民間と公的資金によるものとの割合を半々としていたのであ

るが、神戸市の計画では公的に供給されるものの割合を五五%としており、第二次五カ年計画のときよりもさらに

住宅供給に積極的な役割を果たそうとしか。

第五次計画になると、神戸市は自らの住宅政策の基本目標を、(一) 「ゆとりあるすまいづ〈り」により快適居住

空間の確保をめぎす、(二) 「いきいきとしたまちづ〈り」 により住宅環境都市の創造をめぎす、の二点においた。

そのうえで、市が住宅政策に取り組む基本姿勢を次の五点にまとめている。(一)総合的、計画的な住宅政策をすす

める、(二)市民全体のすまいづくりをすすめる、(三)建設から管理まで一貫した住宅施策をすすめる、(四)住宅、

住環境整備を中心としたまちづくりをすすめる、(五)地域特性に応じた住宅政策をすすめる。そして、第四次の場

合と同様、国の第五期住宅建設五カ年計画よりも公的資金による住宅の比委を高め、この分野における積極的な役

3

割を引き受けている。

5

任宅計画に示されたこのような市の姿勢は、この時期の市営住宅行政においてもよく現れてい告すなわち、市

営住宅の建設は、単に低所得者むけに住宅をできるだけたくさん供給するという戸数主義的発想をかなりのりこえ

ていた。そして、住宅建設を街づくりの一環としてとら、え、公園や集会所など、地域生活に密接に関連した施設の

一四三

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同 法(48-一3・4)456

一四四

整備にも大きな努力を払うとともに、住宅建設には直接タッチしない民生など他の関連部局との連絡を密にして、

保育所、老人憩いの家、児童館などの施設を併設するようにした。そこでいう町づくりも、市営住宅岡地のなかだ

けに視野を限定するのではなく、市営住宅と地域社会との」父流がはかられるような団地づくりも考えられるように

なったのである。

公営住宅の質の改善については、この時期の始めのころは、それまで年々少しずつ拡大してきた一戸あたりの面

積をさらに大きくしていく努力がなされた。七五年度に五九平方メートルであった市営住宅第一稗中層住宅一戸あ

たりの面積は、八〇年には七〇平方メートル、八一年には七一平方メートルへと拡大された。その後、一戸あたり

の面積の拡大は凍結され、かわって居住人員、生活様式、居住水準などにおける将来の変化に対応できるよう、F

L住宅や二世代が隣どうしで住むペア住宅などを組み合わせて対応していくことになった。さらに、心身障害者向

け市営住宅など特定日的住宅については、対象者の生活形熊に応じて詳細を決定するなど、きめ細かな設計が行わ

れるようになった。

ただ、こうした質や環境の面に大きなエネルギーが費やされたことが一つの原閃となって、この時期の建設戸数

は前の時期よりもかなり減少することになってしまった。もっとも、神戸市の普通世帯数に占める市営住宅の割合

は、これまでの盛んな建設努力によって七%を超えるに至っており、東京都を含めて人〓百万を超える大都市のな

かでは、北九州市、大阪市、名古屋市と並んで比率の高いグループに属するようになっていた。一九八〇年代の神

戸市の公営住宅行政の重点が、あくまで戸数を増やすということから、環境や質により傾斜した施策に移行するよ

うになったのは、ある意味では自然なことだったといえよう。

建設戸数の減少には住宅ストックの増加も関係している。一九八〇年代の神戸市営住宅は、同和対策事業関係の

改良住宅も含めて約四万戸に達し、入居者は十三万人を超えるに至ったし したがって、空き家の適切な管理、高額

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457 自治体住宅政策の史的展開

所得者の立ち退き促進、計画的な修繕など地道な努力を積み上げることによって、小規模団地を一つ二つつくるよ

りもはるかに大きな効果をあげるようになっていたのである。

公営住宅の建設がインナーシティ問題の改善という課題をよりはっきりと担うようになったのもこの時期の特徴

である。一九七〇年代には、市営住宅が北西神地区など郊外の団地に多く建設される傾向がみられたが、八〇年代

になると再び市街地での市営住宅に力点がおかれるようになり、多い年では建設戸数の六〇%以上が市街地に建設

された。

さらに、地域に分散して立地する小規模な地域密着型公営住宅として、コミュニティ公営住宅制度も導入された。

この制度は、市街地においては職場と住居を近くしたいとか、親子が近くに住みたいといった要望が強いことかゝ㌧

地域に密着した公営住宅を供給しようとはじまった制度である。これによって神戸市は、市街地に分散して二十一日

程度かそれ以下の小さな公営住宅をコミュニティー公営性毛として建設することになった。コミュニティ公営住宅

には、親子で近くに住んでいる世帯、老人や母子家庭で職住近接を望む世帯、木造住宅密集地域など、住環境不良

地区から転居しようとする世帯の入居が優先される。

最後に、シルバーハウジング・プロジェクトのモデル事業についても触れておかなければならない。この制度は、

建設省と厚生省が八七年に創設したもので、高齢者が地域社会のなかで、自立して安全かつ快適な生活を送れるよ

う、住宅施策と福祉施策の密接な連携のもとで、ハード、ソフト向面にわたって高齢者の生活特性に配慮した住宅

の供給を推進することを目的としている。

八十年代の神戸市住宅供給公社による住宅建設をみると、以前とくらべて一つの変化が見て取れる。一つは、公

社が建設する住宅にしめる一戸建てなど低層接地型の比重が非常に大きくなったことである。たとえば、八一年か

ら八三年を例にとると、中高層六七四戸に対して低層連続建てが一二五二戸、一戸建てが二八九戸と、低層接地

一四五

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開 法(姻-3・4)458

一四六

型が約八割を占めている。これは、人々のあいだで、中高層から低層へ、とくに一戸建てへという志向がますます

強くなったことを反映したものである。

この間、公社住宅は須磨ニュータウンの名谷団地での建設がほぼ完了し、かわって西神ニュータウンと、須磨ニ

ュータウンでは横尾団地での建設が主となった。八十三年からは西神地区の神戸研究学園都市でも公社住宅の供給

がはじまった。と〈に、西神ニュータウンでは、八十三年からは初めて老人同居型の住宅供給をはじめるなど、多

様化するニーズに対応する努力がなされた。

しかし、経済の低成長が長期化するなかで、市民の所得の伸びは鈍化、停滞し、住宅取得能力は下降気味となっ

た。しかも、その間も宅地は値上がりを続け、建築資材価格も上昇したから、八十年代なかごろになると公社住宅

の価格もかなり割高の感を与えるようになってしまい、八十三年にはとうとう分譲住宅の完成在庫が発生してしま

った。このことは、公社の財政に重い負粗を残すだけでなく、主として二十歳台の中堅所得層に属する勤労市民に、

低コストで良質・好環境の分譲住宅を供給するという、公社の中心的使命の達成に黄信号がともったことを意味し

た。

ただ、住宅に対する需要は単に価格によってのみ左右されるわけではない。公社もそのことはよくわきまえてお

り、ますます多様化するニーズに対応しながら、積極的に需要を開拓する努力を行ってきたのである。そこでは、

地価り高い既成市街地や駅前などでは、その立地を最大限に生かした中高層住宅を、環境のよい郊外ではタウンハ

ウスなどの低層集合住宅や一戸建て住宅をおもに供給するという従来からの基本方針を踏襲しっつ、住宅の規模や

様式、間取り、デザインなどについていっそうきめの細かい多様化、あるいは個性化を追求していった。なかでも、

この方面で公社の創造性がとくに発揮されたのは、テラスハウスの開発、分譲においてである。住宅と共通の緑地、

コミュニティ道路など団地全体の環境を一体的に設計計画した新しいタイプの一種の集合住宅であるタウンハウス

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459 自治体住宅政策の史的展開

の思想は、もともとアメリカなどで発展してきたものだが、神戸市の住宅供給公社はこの考えを市が新し〈開発し

た団地やニュータウンで取り入れ、独自のデザインや和風建築様式の採用などといった新機軸を加えて定着させて

いったのであか。

さて、神戸市は、これまでも個人住宅建設購入資金融資、既存住宅購入資金融資、住宅改良資金融資などの制度

を通じて、独自の立場で市民による住宅の新築、購入、改良を援助してきたが、ここへきて新たに二つの問題に対

処するための融資制度を「特定施策目的融資」 として実施することとなった。その問題とは、一つは、市の中心部

の人‖が減少して空洞化するインナーシティ問題であり、今一つは高齢化社会への対応である。

インナーシティ問題に対処するための住宅融資制度には、まず「インナー融資」 が導入された。これは、個人住

宅建設購入資金融資制度の場合と同じ〈、自分が住む住宅を晴入しようとする市民 (所得一千万円以下) で十分な

返済能力をもち、かつ完済時に満七十歳の人が中心四区に建てられた住宅金融公庫の 「団地住宅購入資金融資」付

きマンション (中古を含む) を購入しようとする場合に、市中金利よりも低い利率で五百万円まで融資するもので

ある。償還期間も二十年から二十五年以内と長〈、利用しやす〈なっており、これによって市の中心部への居住意

欲を高めようとしているわけである。

神戸市は、同様のねらいをもった制度として、中心四区でマンションを買って住もうという新婚カップルを援助

するための「新婚世帯向けマンション融資」をつ〈り、その後、新婚所帯以外も対象にした「若年マンション融資」

としてこの制度を拡大している。さらに、い〈つかの世帯が自分達の住居にあてるために公庫からの融資をもとに

して協力して集合住宅を建てる場合に、市が上乗せ融資をする 「コーポラティブ融資」も導入した。融資限度額そ

の他の条件は基本的にインナー融資と同じである。

高齢化社会対策としての特別施策目的融資として導入されたのは、「老人同居融資」と「老人隣居近居融資」の二

一四七

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開 法(483・4)460

第二節 新しいまちの建設

一九六〇年代の終わり頃から七〇年代にかけて、六甲山南側の既成市街地ではもはや十分な宅地を見いだせなく

なった住宅需要は、西の垂水、明石方面に用地を求める一方、鈴蘭台など神戸電鉄沿線の内陸部に虫くい的に開発

つである。いずれの場合も、対象者、対象住宅についてはインナー融資などと同じであるが、同居融資の場合、」ハ

十歳以上の親との同居が条件になっているい また、隣培近屠融資の場合には、六卜歳以上の親とその子が同じ区の

なかで住むために住宅を取得する人々、という条件が加わっている。要するに、この二つの融資制度は、中心四区

で高齢者対策を住宅面で進めつつ、この地域での人口減少にも歯止めをかけることをねらったものである。

このほか、神戸市は八一年に「神戸市特別分譲住宅供給助成制度」をもうけている。これは、収入がそれほど多

くない人で、居住環境が悪い、住宅が狭い、家賃が高いなど、現に住宅に困っている人を対象に、市が「神戸ホ特

別分譲住宅」 に指定する住宅供給公社などの分譲住宅を購入する場合、住宅金融公庫が割り増し融資をするほか、

市が当初の五年間、公庫融資について年一%の利子補給をすることによって、住宅取得者の負担を軽〈する制度で

ある。

他方、神戸市は住宅を購入する個人の側ではなく、賃貸住宅を供給する側に融資や助成を行い、新規供給および

良質賃貸住宅への立替を促進する事業にものりだした。このうち、最初に導入されたのは、八〇年の 「良質民営賃

貸住宅建設促進利子補給制度」 (ファミリー向け賃貸マンション融資制度)である。八七年になると、もう一つ、民

間のマンションヘの家賃補助制度が導入される。インナーシティー地域における劣悪な木賃アパートの立替を促進

するための 「木造賃貸住宅立替促進家賃補助制度」 である。八八年になると、高齢者向け賃貸マンションの供給増

加を目的として、「インナーシティ高齢者特別賃貸住宅無利子融資制度」も発足Lキ

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461日治体住宅政策の史的展開

地域を広げていった。このようなスプロールに対して日本の都市計画法制が不備であることは以前からくりかえし

指摘されてきたが、そのような状況のもとで神戸市は、一方で開発要綱を定めるなど独自の対策をうち、他方で住

宅・宅地を大規模かつ計画的に供給することを目的に、須磨地区のい〈つかの団地開発を須磨ニュータウンへと稔

-39

合化していったのである。

しかし、すでに述べたように、須磨ニュータウンの場合には、その地域における数々の宅地開発、団地建設が一

体のものとLて最初から総合的、計画的におこなわれたわけではなかった。これに対して、ここで述べる西神ニュ

ータウンの場合は、長い事前調査やプランの練り直しの時期を経て、全体的な青写真にもとづいた計画的で〓貝し

た事業とLて開発が進められたのである。西神ニュータウンの建設が本格化したのは一九八〇年代にはいってから

のことであった。

西神地区は市域の四分の一を占める広大な地域で、神戸都心から一〇ないし二五キロメートルの範囲に広がる。

そのため、神戸市の膨張とともに脚光を浴びるようになり、】九六〇年の神戸市マスタープランは初めてこの他城

に大規模なニュータウンを建設する構想を打ち出した。そLて、その構想は、七六年の新・神‥H市総合基本計画に

なるとより具体的なものとなる。

この巻本計画によると、西神ニュータウンは、地域の一体性を高め、分散している農業地域の保全・育成をはか

るための柱となるべき施策であると位置づけられている。そして、長期的かつ全市的な位置づけのなかで公的開発

をすすめることにより、既成市街地や播磨臨海地帯、内陸部からの無秩序な都市機能の集中を抑制し、計画的に市

街地を形成することが強調されている。また、多様な市民の生活要求に応え、環境、福祉、文化に配慮した都市を

実現するため、住宅、教育、福祉、生産などの新しい機能を受け入れることもうたわれている。

こうして、西神ニュータウンはハイテク工業団地や大学などの教育研究地区、福祉施設地区などを大規模な住宅

一四九

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糊 法(483・4)462

一五〇

地区と組み合わせた一大内陸都市として姿を現しはじめ、市営地下鉄の西神中央までの延長工事の完成とともに、

人々が住み、働く街として機能するようになったのである。ただ、開発にあたっては、自然との調和、秩序ある市

街地形成が重視されたため、ニュータウンの計画人口十万五†人という数字の達成は段階を追って追求された。

神戸市が壮大な計画に基づいて建設をすすめた西神ニュータウンは、西神地域の中央部に連なる三つの地区の総

称である。住宅地としてのニュータウンは、北から西神住宅団地、西神南ニュータウン、神戸研究学園都市の三団

地からなっている。そして、それぞれの住宅団地には、西神インダストリアルパーク、神戸ハイテクパーク、神戸

流通センターという三つの産業団地が隣接する。これらの地区は、地下鉄や道路で結ばれているだけでなく、産業、

商業、文化、行政など種々の都市機能によって有機的に結び付けられて、全体として新しい街を形成するとともに、

地区と地区のあいだに農地や緑地を残すことによって、無秩序な膨張が起こらないように工夫されていか。

なお、これらの団地はどれも神戸市を施⊥者とし、新住宅市街地開発事業の手法によって開発された大規模開発

であるが、同じ時期、西神地区北部、三木市との填では、任意開発の手法をとる中規模住宅団地として、計画人口

五千百人のグリーンタウン月が丘 (押部谷第二団地) の造成が進められ、公社住宅などが建設されていった。

ここの住宅地区は、緑や彫刻を配してうるおいと落ちつきのある住宅地になるよう設計されている。このことは、

公園・緑地部分が一九%、道路用地が二三%という団地の土地利用計画がはっきりとホしている。また、住宅地も、

団地全体の二六%が一戸建て住宅、一二%がタウンハウスのような低層集合住宅にあてられており、全体にのびの

びとした住環境を創り出している。住宅の面でも、それぞれの地域が個性的でしかも落ちついた町並みになるよう、

、42い 神戸市住宅供給公社がデザインや工法などに工夫を凝らした家屋を供給している。

大規模な宅地の開発は、今日では西神地区や北神地区以外ではほとんど不可能である。実際、この時期住宅都市

整備公団(旧日本住宅公団) が施工者となって神戸市内に建設された大規模な団地、ニュータウンは、いずれも北

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463 日治体住宅政策の史的展開

第三節 住環境の整備とインナーシティ再開発

いうまでもなく、住宅政策は新しく宅地を開発し、そこに住宅を建てるということにつきるものではない。実際、

神戸市はこれまでにも木造市営住宅の立替や並存住宅の市内への建設などの事業を行ってきたし、住宅供給公社や

住宅・都市整備公団の既成市街地での中高層住宅供給の努力も試みられてきた。そして、こうした既成市街地での

住宅供給、あるいは住環境の整備は、この地域における人口の減少、高齢化、住宅の老朽化など、いわゆるインナ

ーシティ問題がますます深刻になるにつれて、いっそう重要性を増していったのである。

このような既成市街地での諸問題に対して、神戸市は、戦前からの長屋地区や木造賃貸住宅地区の立替、住環境

整備を行い、また市街地集合住宅の建設を引き続きすすめた。先に述べた民間マンション事業者に対する融資やコ

ミュニティ公営住宅の建設なども、そうした努力の一環である。他方、住環境整備の進め方についても、住民参加

一五一

神地区北部に集中している。そうしたなかで、都心に非常に近いところにかなりの規模の宅地を開発し、新しい都

市生活の可能性を開いてみせたという点で注目されるのがポートアイランドである。

三宮都心の沖合いを埋め立てて巨大な人口島をつくろうというポートアイランド構想がおおやけになったのは、

一九六四年のことである。その後六六年に防波護岸工事が着手されている。しかし、ポートアイランドはもともと

は人が住み、憩い、働く多面的な機能をもった都市として構想されたものではなかった。当初の計画では、手狭に

なった港湾の拡張が主たる目的とされており、住宅といっても港湾労働者向けのものしか考えられていなかったの

である。この計画が後に総合的な都市機能をもった海上都市構想へと転換されたのである。そして、約四四〇ヘク

タールの埋め立て地のうち二三ヘクタールのコミュニティ・スクエアをもうけ、ここに二万人近くが住む中高層住

(眉

宅が建設された。

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岡 法(舶3・4)464

一五二

方式によりそれぞれの地域特性にあった事業手法を探るなど、市民生活に密着した街づくりにつとめるようになっ

た。そこから神戸市は、様々な新しい施策を展開していった。

そのうちまずあげられるのが、特定住宅市街地総合整備促進事業である。この事業は、大都市の既成市街地にお

いて、旧国鉄用地や工場跡地などを活用しながら、良好な住宅の供給や道路、公園などの整備を総合的にすすめる

ことを目的としている。この手法によると良好な住宅をまとまって供給できるため、インナーシティの活性化、人

口定着をはかるうえで効果が高いと考、えられている。なかでも、神戸駅周辺の特定住宅市街地総A〓整備事業は、神

戸ハーバーランド、東川崎地区、それに新開地地区の三地区にまたがり、と〈に旧国鉄湊川使物駅跡という広人な

空き地を利用できる点に強みがあったじ この地域は、JR神戸駅前、ウオーターフロントのいずれからも近いとい

う立地条件を生かして、多様な都心型住宅地の造成・整備が行われることになった。

次に、既成市街地での住宅対策であるが、こうした地域には、木賃アパートや長屋など、老朽住宅が密集し、住

環境上問題が多いところがあるじ しかし、こうした住宅の持ち、.土には資力が弱いか、立替による採算が見込めない

ため手をこまねいているものが多い。そこで、このような老朽化した住宅の除去費などを一部肋成して、地主、家

主による建て替えを促進し、良質な民間住宅の供給を促すとともに、住環境の整備を総合的にはかる事業として、

「市街地住宅密集地区再生事業」 が行われることになった。

なお、これに似た事業として、「コミュニティ住環境整備事業」がある。これは、老朽住宅が密集し、公共施設が

著しく不足している地区の住環境改善をはかる事業である。住宅地区政良事業のように地区全休を建て替えるので

はなく、必要なところについて不良住宅の除去、道路や公園の整備、住宅の建設などを行いながら、地区住宅の自

力改善をうながしていくのである。そして、地区住民と市が協力しながら環境改善を押し進めてい〈ところに特徴

がある。

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465 自治体住宅政策の史的展開

さて、一九八〇年代になると、市民の街づくりに関する要求、関心は、居住環境の改善、地域の活性化、町並み

の保全など多様化してきている。したがって、これからの市街地整備は、主要目標を単に道路など基幹施設の整備

だけにおくのではなく、住民の意向を反映させ、地域の特性に合わせた生活環境の整備改善に重点を移していくこ

とが求められるようになった。

こうして神戸市では、一九八一年、「神戸市地区計画及びまちづくり協定等に関する条例」、通称「まちづくり条

例」を定めることになる。この条例は、住民参加の街づくりをすすめるにあったっての住民と行政の役割を明確に

すること、および都市計画法にもとづく地区計画などの実の作成手続きを定めるとともに、区域内の土地所有者や

利害関係者の意見をまとめながら街づくりを進めていく方法についても定めている。

この条例が定める街づくりの進め方において注目されるのは、まちづくり協議会とまちづくり協定である。まち

づくり協議会は、地域の住民によって組織され、地区の将来像を「まちづくり提案」として策定する。そして、市

長はこれを考慮して地区の整備をすすめることになる。ただし、協議会の名称は地区によって多様で、丸山地区で

は 「丸山を住みたくなる街にする会」 となっている。

次に、まちづくり提案のなかで、住みよい街づくりを推進するために必要な事項について、市長とまちづくり協

議会が「まちづくり協定」を結ぶことになっている。協定が結ばれた地区では、建物を建築するものに対して市と

協議会が届出を要請し、その内容が協定に適合していない場合は、市長は届出をした老と必要な措置について協議

することとされている。さらに、市は、必要に応じて地区計画の策定や建築協定にまで進めて建築行為に対する制

限を強めることもできることになっている。この条例は、街づくりに関する広範なルールを提供し、市と地区関係

者、それに建築行為者の三者による密接な協議などを通して、きめ細かな街づくりをすすめることを可能にしたの

である。八〇年代、この条例にもとづいてまちづくり協議会を組織したのは、長田区の真野地区など八カ所である。

一五三

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同 法(胡3・十)466

阪神淡路大震災に際して、神戸市の住宅政策に対して批判・非難が投げかけられたことがある。それらの批判の

多くは、確かに神戸市住宅政策の欠点や限界にふれてはいたであろうっ それらの批判の中には、もちろん本質をつ

一五四

さらに、町づくりとしての住環境整備・形成への市民参加の試みとして注目されるのは、「神戸市まち・すまいづ

くりコンサルタント派遣制度」 である。この制度は、複数の土地所有者によるマンションなどの共同建築、木造賃

貸住宅の共同立替、建築協定に関する計画の立案作業に対し、市がコンサルタントを派遣して、専門的、技術的な

肋言・助成・指導を行おうとするものである。また、その日的は、コミュニティを守り育て、より豊かな街をつく

るようなすまいづくりを奨励し、さらに土地の有効利用と良好な町並みの形成をはかることである。

この制度では、まず、住宅建築共同化の場合には、第一次肋成としてコンサルタントが基本構想案の作成業務を

行う。そして次に、コンサルタントは事業計画案の作成業務を引き受ける。これに対して、建築協定、まちづくり

協定などの場A口には、コンサルタントは住民などの意向を調査するとともに、建築物に関する基準案の作成業務を

行う。そして、次の段階として、建築協定やまちづくり協定などの原案を作成し、また、協定認可†続き、協定締

結手続きの指導を行う。こうして、お互いの土地を持ち寄って新しい共同住宅を建てようとする零細な土地所有者

や地域の住環境の向上に意欲をもつ市民は、専門的な知識や行政的な事務手続きなどについて専門家から必要な助

力を得ることができるのである。昭和期の終わりになると、神一「市の住宅政策は、行政と専門家、そして市民が対

等の立場でそこに参加するシステムを生み出すに至ったのである。

お わ り に

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467 日治体住宅政策の史的展閲

いたものも少なくない。しかし、被害の甚大さのために、客観的な評価に基づくというより、ともすれば政策の一

面だけを誇張して攻撃するという傾向がみられたことも事実である。まして、神戸市がそれまで住宅政策において

無為無策であったとか、欠陥だらけの政策しか行ってこなかったというたぐいの批判は論外である。本稿では、神

戸住宅政策史における多様な動きを拾い上げることによって、被害の甚大さがもたらした評価のゆがみを何程かで

もただそうと、市の住宅政策の積極面にやや力点を置いてその歴史をあとづけてきた。

これまで見てきたように、その昔神戸に市制がしかれ、貿易・⊥業都市としてこの町が発展しても、明治時代に

は住宅政策・住宅行政とよべるものはほとんど見られなかった。それでも、神戸市においては、萌芽的できわめて

不十分な形であるとはいえ、行政当局は早くから住宅問題に対する何らかの手は打とうとしてきた。しかし、神一〓

市に限らず、日本で本格的な住宅政策が展開されるようになるのは戦後のことである。

空襲被害に対する応急対策として始まった住宅政策は、その後大都市への大規模な人‖流入に対するこれまた一

棟の応急対策として、とにかく戸数の確保を至上命題として展開された。住宅公団による近代的な団地づくりは、

確かに人々の住生活の様式を大きく変えた点で画期的ではあったが、団地サイズという言葉にあらわれているよう

に、やはり質を犠牲にして数をこなすという、戦後住宅政策の基本的な枠組みからはみだすものではなかった。そ

の中で、このころの神戸市は、量の確保という点においてすらあまり積極的ではなかった。

一九七〇年代になると、しかし、状況はかなり変わってくる。公害など、環境問題に対する関心の高まりの中で、

住宅についても都市の環境改善が政策課題となり、また住宅の質についても、間取りを広げ、設備を改善する努力

がようやく始まった。神戸市は、このころになると一転してさまぎまな先進的な試みを行うようになり、市営住宅

や公社住宅の建設も増えていった。そして、宅地の開発についても、ひとつひとつの団地をバラバラに開発するの

でなく、広域的で計画的なニュータウン開発という手法を取り入れるようになっていく。

一五五

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開 法(483・4)468

一五六

八十年代には、神戸の住宅行政は、住宅の建設や宅地の開発という伝統的な領域だけでなく、まちづくり、コミ

ュニティづくりといった新しい課題にも取り組むようになり、また福祉政策など他の政策領地との連携も深めてい

った。そして、西神ニュータウンやポートアイランドなどにみられるように、多面的な機能をもった新しい人⊥都

市に良好な環境を備えた住宅地を開発するという、総合的な郡市・住宅政策が展開されると同時に、既成市街地に

おいても、市民の参加を促しっつ、住まいを街づくり・都市再開発の中に位置づける努力が本格化した。

今日、神戸の住宅政策は都市政策、福祉政策、文化政策など他の行政領域とのかかわりをますます深め、人規模

開発から小さな地域施策まで非常に多様化している。そのことは、住宅政策の発展、質の高まりをホす一方で、政

策の総合性や効率性、さらには市民にとっての分かりやすさといった点で新たな課題を投げかけているともいえるし

住宅政策の歴史を振り返ることで、これまで何が達成され、どのような問題が積み残されているのかを確かめなが

ら、メリハリのきいた行政を展開していく必要がありそうである。とくに、大震災の被害を受けた柚∴∵而において

は、それまでの先進的な住宅行政を震災復興の中に生かして、災いを転じて福となしたといわれるような、さらに

進んだ住宅政策を展開していくことが求められている。

(1) 建設省『建設自書 (平成去年度版)』 (大蔵省印刷局、‥九九三年) 二五八真。

(2) 住宅政策に関する歴史的な流れと甚本的なデータを得るために利用したものは次の過りである。これらのものについては、

煩墳を避けるために、原則としていちいち出典を▲小さないり

神戸市『神戸市統計書』各年版、神戸市住宅局『事業概要』各年版、神戸市総務局庶務課『神い苗例規』各‖ケ、神戸市役扁

『市勢要覧』各回、神戸市役所編『神戸市史‥本編各論』 (神戸市役所、一九二四年、名著出版より一九七一年復刻)、神一り市

役所編『神戸市史 (第二輯)‥本編総説』 (神一「市、一九二七年)、神一L市編『神い市史 (琴二集)・行政編し (神戸ポ、一九六

二年)。

また、先行研究として、次の二つの論文から多くの示唆を得た。福島富夫「建築関連行政史」 (一、二、一-) 『神.「の歴史』

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469 日治体住宅政策の史的展開

(15)

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、H、

(13)

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第一号(一九八〇年)、二号(一九八一年)、三号(一九人山年)。小西秀明「神戸市における住宅行政史」 (∵ 二) 『神りの歴

史』第‥四号 (一九八人年)、一正号 (一九八人年)。

なお、戦後住宅政策の概略をみるためには、次の資料が使利である。神‥H市『こうベハウジングレポート八七』 (神‥〓市、一

九八七年)。

神戸市役所編 『神一L市史‥本編各論』前掲、一〇〇-一〇一頁。

神戸市役所『神戸市統計書』 (神戸市役所、一九一四年) 二九頁。

『神戸叉新日報』 明治一九年一月一九‖「

福島、前掲「建築関連行政史」 (二)。

同上、四五-四六貞。

共棲願『兵庫螺警察枢要』 (下〕 (兵庫県、明治二丁一年) 五〇二頁以下。

内務省『職工事情』 (内務省、一九〇二年、新紀元杜より一九七六午年循刻)一杢二一七六頁n

池田宏「住宅問題資料」 『都市住宅問題』第一輯 (一九二〇年)一七∴八頁。

『神一H市史』本編各論、六二-六三頁による。

次にホす著書は、関りがイギリスの住宅政策をよく研究LたことをホLている。関、『都市問題と都市計画』 (弘文堂書房、

人止一二年)。なお、本書は一九九一∴年に学陽書房から復刻されている。

本間『内務省住宅政策の教訓∵公共住宅論序説』 (お茶の水軍属、一九八八年) 四五六六頁。

市営住宅については、次を参照。神戸市役所『伸一H市社会事業要覧』 (神‥P市、山九三六年)、八〇-八三頁、小西、前掲「神

り市における住宅行政史」 (二、四」ハ正二頁ム む㌫、神戸においては、このほか、独身者の簡易宿泊施設とLて一九一二“年

に市営共同宿泊所二カ所がもうけられた。小規模なが、h、これも住宅政策に含まれるであろう。次を参照。神一〃市役所『第一

九回神戸市勢要覧』 (神戸市役所、一九三八年)、前掲 『神戸市社会事業要覧』、九二-九九頁。

神戸の住宅組合については、次を参照。前福 『神い市社会事業要覧』八三八四頁、小内前掲論文、四八-川九頁。

住宅営団については次を参照。大本圭野『証.吉日本の住宅』 (日本評論杜、一九九{年) 第四章。

第二次大戦期における神戸市の住宅状況については、次を参照。神戸市産業部経済調査室『祁‥〃市の住宅事情と戦時下の住

宅問題』 (神戸市役所、一九三二年)、一-二四頁。

この時期の簡易住宅については、大本、前場書、二三-二五頁を参照。

『神戸市史』第三集、閃九一頁による。建設戸数は資料によって若†の違いを見せている。

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住宅金融公庫の沿革と事業については次を参照。住宅金融公庫『住宅金融公庫四〇年史』 (住宅金融公庫、一九九〇年)。

住宅公用による住宅建設には、既成市街地のなかに一階部分を店舗、二階以上を住宅とするいわゆる†駄ばき方式で高層ア

パートを…棟ないし二棟建てていく市街地施設付き住宅 (並存住宅) と、大都市の周辺部で大規模な宅地開発を行って何十棟

から何百棟という鉄筋コンクリート■アパート粁を建てていく団地方式の二つに分かれていた。このうち、その後の集合住宅

建設、さらには日本人の住宅生活山般に大きな影響を与えたのは後者のほうである〕 そもそも、団地という、今じではご〈耳

慣れた∴二‖菓が初めて使われるようになるのは、住宅公用によってそれまでのものとは比較にならない大規膜なアパート群が埋

設され、そこに多くの人々が住むことによって注目を集めるようになってからの二とである。それまでは、そういう言葉H休

がなかったのである。住宅公用の設立過程や事業の変遷、住宅設計上の技術革新などについては、次を参照。日本住宅公印‥

○年史刊行委員会『日本住宅公用一〇年む』 (‥九六≠午)、‖本住宅公用二〇年史刊行委日金『〓本住宅公用二〇年史』 (山七

七≠牛)、日本住宅公団む刊行委員会「‖本住宅公用史』 (一九八一年)り

『神い市統計吉』一九六川年版の住宅統計関連筒所を参照り 以†、この椰のデータはすべて『神.∵両統計薄』各年版による。

小西秀朋「神一「市における住宅行政史 (二)」 『神いの歴史』第卜五サ、六九真。

神戸市『神臼の住宅‥昭和川三午住宅統計調査、神い苗住宅需要調査』 (‥九七〇年)=

神一り市都市整備公社の沿革と事業については、次を参照し 財団法人補い市都市整備公社『神卜市都市整備公社一〇隼む』 (一

九七四咋)り

神一〓右往宅供給公社については次を参照い 神子i古住宅供給公社 『神い古住宅供給公社創止一⊥周年記念史』 (一九八C隼)、

同『二〇年のあゆみ』 (…九八ん隼)り 以†、住宅供給公社の活動に関する記述は、二の∴書による。

神戸市 『昭和四八年住宅統計調査』 (神一り常住宅り、一九七四年) 円九-五二真。

神り市彗住宅建設★筒年計画‥昭和圭∴⊥†-右五年』 (柚∴∵巾住宅局、一九七≠年)。

神‥り市 『市菅住も一〇年のあゆみ‥七一-八〇』 (神卜市、∵几八↓年)=

以下のまとめは、神一〓市住も局『事業概要』み年度版による”

須磨ニュータウンの潜華や開発内容についてもっとも体系的にまとめているのは次の文書である。神り市閲廃局『須磨ニュ

ータウン誌』 (∵几八九咋)。

神戸ホ『伸一H市開発指導要綱』 (袖∴∵巾、∵几七〇年)、同『神戸市開発指導要綱 (改訂)』 (神い市、一九八二年)。

その後、七七年に建築基準法が改正されて日影の問題で中高層鹿築物禦u回さの制限ができるようになると、舶∴∵巾は羽凡七八

年に「神戸市小高層建築物の日影による高さ制限に関する条例」通称日影条例を制定した。

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471H清体イi三宅政策の史的展開

二年〕 を参照した。

(37) この時期の公社の活動については、次を参照し左。神い古住宅局『伸一〃の住宅』 (一九九〇年) 二一し一三具

(響 これらの事業については、伸一「市住宅局『事業概要し各年版のほか、住宅局発行の各種パンフレット、および、神.り古住宅

局『和いの住宅』、前掲、三一-三五頁を参照した。

(空 間党規制の土日的は乱開発を防ぐことであるが、開発に伴う市の財政負押膨張を抑止するというH的ももってい㌔八二年

における神↓〃市開発指導要綱の改訂が市の行財政制度調査会の報告を受けて行われたことは、このことをよく示している。『神

り市開発指導要綱 〔改・訂)』 (一九八一」午)。

(40) 神‥〓市 『新・伸一′.市総合基本計画』 二九七六年) 四五-四六貞。

(聖 丙神地域上地利用基本計画策定委員会『神戸市西神地域土地利用基本計画報八日書』 (神戸ホ、一九し七年∵=神.〃市開発局『K

OBE‥西神ニュータウン・住宅団地』 (神‥い市岡発局、‥九九二年)、神.「都市間逓研究所編『神‥〓研究学園都市建設誌』 (神

〃市開発局、一九九四年)り

(些 袖∴∵巾開発局計画課『西神南ニュータウンのまちづくり』 (神い右閲発=旬、‥九九三年)、神子i車間発り『開発局事業便覧』

(神‥〓市開発局、一九九二年)。

(43) ポ~トアイラン事業の概要については次を参照。和い市『ポートアイランド‥海上都市建設の十行年〓神一〃市、∵凡人一年)、

神い市『ポートアイランド=新しい海の文化郡市』 (神戸市開発局、一九九一在ェ。

(44) 以下甲記述は、主として次の資料を基にしている。神戸市住宅局『神戸の住宅』 (一九几○年〕。

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神戸市『神戸市住宅五箇年計画‥昭和h六年度-六〇年度』 (神い市住宅局、一九八〇午)り

神り市『神‥「市住宅五箇年計画=昭和六一年度-六五年度』 (神戸市住宅り、一九八五年「

以下り記述にあたっては、前掲『事業概要』各年度版のほか、神一P市『市営住宅‥魅力あるすまいつくり』 (神一〓市、一九几

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