猛 く は て れ ら し え c傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か...

19
稿

Upload: others

Post on 10-Feb-2020

6 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

觀音信仰

の形成並にその流傳に關すろ

一考察

觀音に樹する信仰は、インド、シナ、日本三國は勿論大乘佛教の弘まつた國は何れも行われ、又民間信仰として廣く肚

會に並目及している。特に我國では、佛教傳來より信奉され、幾多の觀音像が作られ又巡禮、觀音講

として民間にまで

浸透し、今日なおその杜會に生きた信仰として見られるのである。それと共にその研究も爲され、多くの著書が出版

せられ、蚤

されてをり、その樫

八、駕

の多き篷

している・しかしながら・その奉

は信仰を中

心とした、或は布教を主としたものであり、學的研究の成果を發表したものの意外に少ない事に氣

付くのである。特

に觀音信仰の信仰史と云う系統的、體系的な研究は殆んど無いと云つても過言ではない。ここにこ

の樣な研究

の必要

性が痛感されるのである。この意味に於て私は曁

に於ける響

信仰の霈

を鬟

してい鯉

・本稿に於ては・

に觀音菩薩思想の類型、及び我國觀音信仰

の源流についてその研究の

一端を逋べたいと思う。

觀音菩薩

に樹する信仰が何時頃始まつたかは現在のところ明確な定説は出されていない樣である。先ず常識的な考

觀音信仰の形成並にその流傳に關する一考察

一九一

Page 2: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

一九二

えから行けば、元來觀音菩薩は大乘經典の中の諸處に現われているが、主として菩薩の功徳を説き、その信仰を鼓吹

したものは、云うまでもなく大乘經典中思想的内容の豐富な法華經の觀音普門晶であるから、この觀音並日門品が出てか

ら觀音の信仰が行われる樣になつたと思われる。しかしながら、若し觀音が民間の信仰に基づき、佛敏者が佛教の中

に之叢

り入れたものとするならば、普門・鴎の製作以前に曁

か民間に其の信仰があつたものと云わ略

ればな

ない。龍樹の大智度論の中に、この法華經と殆んど同樣と思われるものが引用されていると云われている所から見

れば、既に龍樹以前に觀音信仰が、單なる民間の信仰としてか、或は宗派的な色彩を持

つたものとしてか、何れにし

ても其の信仰のあつた事は推察出來る。龍樹の出世年代に關しては諸種の異説があ

つて確としたも

のを決めるわけに

はいかないが、大體西暦二〇〇年前後であり、この事からイソドに於ける觀音信仰の起源は遲くて西暦紀元から餘り遠

くない時代に既

に存していた事が推定される。この事について、加藤咄堂氏は法華經並目門品中にあ

る呪咀還著の思想

猛C傷認轡咥礁翻舞継騨鮖綴総鱗蕪

覯酪

擬郵黻澱貂況饗獣齣餌窟

は普門品製作以前としておられる。

次に造像の面から

一應の規定を試みてみると、西紀四〇〇年代の姶めに、イソドを周遊した東晉法顯三藏の

『歴遊

竺記傳』のマツラーの都會

の1Ilff事J、

「諸比丘尼多供二養阿難塔↓以下阿難請二世奪一聽中女人出家上故、諸沙彌多供二養羅云納阿毘曇師者、供二養阿毘曇一律

師者供二養律一年

々一供養、各自有〆日、摩訶衍人則供一一養般若波羅蜜、文殊師利、觀世音等一」

と記されてお%・芒

て奪

の供禁

何時頃から始まつたかは明らかではないが、此地に造像の発

とな

つたのはカ

ニシカ王以前であ

つたらしいから、恐らく觀音像も

一〇〇年から二〇〇年位の間に製作せられるに至

つたのではなか

Page 3: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

ろうかと思われる。

夊玄弉の

『西域記』についてみても、觀音像に關しては諸處に述べられている。印ち同書卷三烏仗那

(Udy�na西

北境)國の條下には、

窒堵波西渡・大渡

三罕

至一一精貪

・阿縛黷

低濕伐羅囎

苙・薩堡

威靈潜越

昭明

法俗相

供養

〆替

U

い、

(Kasmira北

ンド)

の條

にも

「伽

里、

ご小伽

二觀

自在

立像

下斷

〆食

γ死

〆期

〆見

ご菩

一者鉛

一一像

一」

い、

又同

八摩

(中

ンド

)

の條

にも

「鞋

・…

.・中

〆塗

二三

:・中

菩薩

像、

在菩

石鑄

とあり、叉同摩掲陀國、佛陀迦耶の金剛座を説いた後、之に次ぎ

「佛涅槃後、諸國君王、傳三聞佛説二金剛座量↓遯以一一兩軈觀自在菩薩像納南北標〆界、東面而坐、聞二諸耆舊

一日、此

0

菩薩像、身沒不〆見、佛法當〆盡、今南隅菩薩、沒遏二智臆一矣」叉

「菩提樹東有二精舍↓高百六七十尺。……外門左右各有二龕室↓左側觀自在菩薩像、右則慈氏菩薩像、白銀鑄成、

   

高十餘尺」

等、觀音像について色々述べている。勿論玄弉は此等彫像の作者、或は其の年代については言及しておらないが、そ

の地理的範圍から見れぽ、インドの西北境烏仗那、迦濕彌羅より、

マッラーを經て、中インド摩掲陀に至り、更に南

觀音信仰の形成並にその流傳に關する一考察

一九三

Page 4: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

一九

ンド補陀落山にまで亙つているから、殆んどイソド全般に觀音信仰が盛んであ

つたと思われる。叉美術史上、烏仗

那、迦濕彌羅は所謂腱陀羅美術の盛んな所であり、中イソド摩掲陀より以南は何れもグプタ彫像の影響を受けた處で

あり、イソドに於ける觀音像は之等腱陀羅式、グプタ式

の兩方の影響を受けているものと推測出來

るのである。

更に、佛教史の上から考察すれば、西北イソド迦濕彌羅地方に大乘佛教の流布したのは世親以後

のことであるから、

西紀四〇〇年代を上らず、中央イソドに佛

・菩薩の像が製作せられたのは大體三〇〇年以後

の事であるから、玄弉

べている諸像は大凡西紀三

・四〇〇年から五〇〇年の頃に成

つたものと考えられ、從

つて此の時代に於ては觀音信

仰も全インドを通じ盛んにな

つたものと見て差支えないと思うのである。

さて以上の樣な觀音像の彫造、或はその供養等の觀音信仰が如何なる根據により經典によるのであろうか。印ち經

論の三藏の中には觀音菩薩は處

々に見る事が出來、その數は六十餘卷にのぼると云われている。特に密部に屬して

いる經典は多く觀世音菩薩を説いており、叉大乘經典の中

にも屡

々觀音思想が織り込まれている。その中觀音信仰の

根本的經典と云えば、普通、觀音經と云われる妙法蓮華經觀世音菩薩普門品であり、その他にも觀音信仰を特に読い

ているものに、

大方廣佛華嚴經卷五十二

東晉、佛駄跋陀羅譯

大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經卷六

唐、般刺蜜帝共懷迚譯

大毘盧遮那成佛祚變加持經第

唐、輸波迦羅譯

大乘莊嚴寳王經

宋、天息災譯

Page 5: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

觀無量壽經

宋、薑良那舍譯

悲華經

北凉、曇無讖譯

千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經

唐、°伽梵逹摩譯

觀世音菩薩得大勢菩薩授記經

劉宋、法勇譯

請觀世音菩薩滔伏毒害陀羅尼呪經

一卷

東晉、竺難提譯

一面觀世音祚呪經

一卷

北周、耶舍崛多譯

不空羂索呪經

一卷

隋、闍那崛多譯

陀羅尼雜集十卷

梁、未詳

種々雜呪經

一卷

北周、闍耶崛多譯

等がある。では之等の各經典に觀音思想がどの樣に表現されているのであろうか。

まず法華經普門品を見るに、その要旨は觀世音の名を稱する事により七難淌減、三毒除去、二求兩願

の事を述べ、

の普門示現の救濟の方便として三十三身十九読法を擧げて觀音の救濟を述べているのである。

今、觀音菩薩が七難

を潰滅せられるについて見るに、

「善男子、若し無量百千萬億の衆生有りて、諸々の苦惱を受けんにも、是觀世音菩薩を聞きて

一心に名を稱せぽ、

觀世音菩薩、印時に其音聲を觀じて皆解脱する事を得ん」

として、火難、水難、風難、刑戮難、羅刹難、幽繋難、怨賊難から除滅されることが明らかにされている。叉三毒に

ついては貪、瞋、癡の三

つの煩惱が觀音を念ずる事によつて、その煩惱から遁れ得る事を説き、

叉觀音の此土の遊化

ついての方便として三十三身十九読法を説いているのである。

觀音信仰の形成並にその流傳に關する一考察

一九五

Page 6: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

一九六

次に華嚴經を見るに、善財童子が南方の光明山に至つて、觀音菩薩に會見して菩薩

の法門を學

び、菩薩が童子のた

めに觀音の弘誓を説かれている。印ち攝取

一切衆生の弘誓の願を發し、諸

々の恐怖から離

め、變化の身を顯わ

し、同類の身を現じて衆生を攝取するものであると云い、又首楞嚴經に於ては、觀世音菩薩は

「聞熏聞修金剛三昧無依の妙力を以て、諸々の十方三世六道の

一切衆生のために悲仰を同じくするが故に、諸

々の

衆生をして我が身心に於て、十四種の無畏の功徳を獲せしむ」

として十四種の無畏の功徳を擧げており、これも弘誓の思想を逋べているもので、觀音菩薩の誓願を示すものであろ

う。叉

觀無量壽經には、觀世音菩薩が淨土に住し、娑婆世界に出現して衆生を救濟する事を述べられており、又觀音菩

の大慈大悲の色相が説かれ、次に

「若し觀世音菩薩を觀ぜんと欲すること有らん者は常に是觀を作すべし、是觀を作す者は、諸禍に遏はず、業障を

淨除し無數劫生死の罪を除かん、此の如き菩薩は但其名を聞くだに無量の輻を獲

云云」

とあり衆生救濟を読かれている。

其他、寳王經、悲華經に於ては、觀世音菩薩

の本生譚とも云うべきものが説かれており、寳王經に於ては、釋奪が

まだ菩薩である時商人となつて師子國に貿易に出かけ、途中災難に遇い、それを師子國の聖馬王が救い、その聖馬王

が觀自在菩薩であ

つたと云い、又悲華經では、無諍念王の子に千子あり

駒、次を尼摩、三を主衆、四を能伽

羅、五を無所畏と云い、無諍念王は後の阿彌陀佛、第

一不駒は觀音大士、第二尼摩王子は勢至菩薩であるとして觀世

音菩薩を阿彌陀佛の第

一子としている。又

「我が有ゆる善根功徳を菩提に回向し、若し衆生が諸

の苦惱を受け、恐怖

不安の状態にあ

つて如何ともする能はざる時、

一度び我が名を呼び、我が名號を唱えたならぽ、

吾は何處にあつても

Page 7: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

耳を以て聞き、天眼を以て見、夫等の苦惱を救濟するであろう。若し

一人として未だ其の苦を冤れざるものがある

 

ならば、吾は永遠に佛に成らぬであろう。」と其の誓願を

立てている。

現世に於ける

一切の苦厄を除き、恐怖不安を

る事が觀音の慈悲心を示す衆生救濟の誓願である。

かくの如く、觀音菩薩は彌陀の脇侍として、彌陀の衆生救濟の聖業を補佐すると共に、それは又獨自の働きを示し

ているわけで、衆生の

一切の災難を除き、あらゆる欲望を滿たし、無量の幅を與えると云う觀音

の性質が、イソドを

めとして、シナ

・日本と普遍化し多くの人々の信仰を得た所以であろう。

以上信仰の起源そしてその經典について簡單に考察したのであるが、ではこうした各種經典に逋べられている觀音

菩薩思想を類型的に分類してみると、顯教に読くものと、密教に説くものとに分けられるのである。

さて顯教に説く觀音は

一、淨土教系

(觀經

・無量壽經所説)

二、華嚴系

(大方廣佛華嚴經所読)

三、法華系

(法華經普門晶所説)

の三つに分類する事が出來る、ではその個々についてみるに、

一、淨土教系の場合、觀無量壽經、及び無量壽經に説く觀音で、此の觀音は

「無量壽佛空中に住立し給ふ。觀世音大勢至是二大士左右に侍立し給ふ」

とある如く、無量壽佛の侍者として彼の極樂世界に在る事を説いており、叉

觀音信仰の形成並にその流傅に關する一考察

一九七

Page 8: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

一九八

「觀世音菩薩及び大勢至、

一切の處に於て身同じ、衆生但首相を觀て是觀世音と知り、是大勢至と知る、此二菩薩

阿彌陀佛を助けて普く

一切を化す」

とあ

つて、彌陀の攝取

一切衆生と云う聖業を補佐する所にこの觀音の性質があるわけで、其他具體的な救濟

の方法等

は述べておらず、又奪容に關しては詳細に逋べており、身相に於ては佛と殆んど變りはなく、唯頂上の肉髻及び無見

頂相だけが佛に及ばないと説いている。之から見るに、

ここに説く觀音は、獨立したものではなく、どこまでも彌陀

の脇侍として、主に封する從でここから獨立して觀音信仰を取り出すことは出來ないが、彌陀信仰

に附隨した所の觀

に樹する信仰の存在は否定する事は出來ない。

二、華嚴系の場合、之は華嚴經入法界晶に読く觀音で、この經典によると、先の阿彌陀佛との關係

はなく觀音の弘誓

を述べている。即ち攝取

一切衆生の弘誓の願を起し、諸の恐怖から離れしめ、變化の身を顯わし、同類の身を現じて

生を攝取することが述べられている。そしてこれから考えるならば、觀音は主奪として取扱われ

ているものの樣で

ある。又その觀音

の住處として舊華嚴では光明山とし、新華嚴では補陀落山としている。この光明山と補陀落山とは

一のもので、補陀落山が觀音

の淨土として知られる樣

になり、後世觀音信仰より派生的に出た補陀落信仰として肚

に普及する根源がここに見出せるのである。又觀音

の誓願

の場合、前

の彌陀

の脇侍としての觀音が、どこまでも彌

に附隨されたものであり、彌陀

の衆生濟度

と云う聖業を助けると云う莫然としたものが、ここ

では可成り具體的に

べられているのである。

三、法華系の場合、法華系の觀音

については既

に周知の如く、法華經普門品によるものであつて、

之が最も詳細に述

べられている。

この觀音は勿論主奪としての觀音を説いているものであり、その誓願は華嚴經より以上に詳しく述べ

られている。後世この普門品を取り出して觀音經とした所以も觀音

の性質等

について詳細に逋べられているからであ

Page 9: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

ろうと思われる。印ち普門品によれば、日常生活に於て衆生が諸苦惱を受ける時、

一心に此の觀音菩薩

の名を稱すれ

ば、印時に其の音聲を觀じて解脱を得せしめるとあり、更に具體的に、觀音菩薩の名を稱持する者

は七難を淌滅し、

觀音菩薩を念じて恭敬すれば三毒を除去し、此の菩薩を恭敬禮拜せば現世のみならず無量無邊の輻徳の利を得る事が

出來ると云い、その普門示現の救濟を方便として三十三身十九読法を擧げて觀音の衆生救濟を述

べているのである。

は前二者に比較してみると、非常にその性質がはつきりしており、後世觀音信仰の中心を成した

ことは當然の事と

云わねばならない。

かく

の如き顯教に於ける三系列は、それぞれ異なる經典であるが故に其の説明も異

つているわけ

である。

一は極樂補處の菩薩を説き、二は補陀落山

(光明山)處演法の菩薩を明しており、三は隨願應化

の菩薩を語

つてい

るのでありそれぞれ特色を現わしている。之等三種の經典による觀音に樹する信仰が、果して發展的に或は並行的に

つて來たかは斷定する事は出來ないが、恐らく初期に於ては起源を異にし、叉自ら別個の流れを成して流布したも

のと推定されるのである。帥ち觀無量壽經等に説く所によれば、菩薩は彌陀の

一生補處の菩薩とし

て西方の極樂世界

に住し、無量劫の後で阿彌陀に佛次

いで正覺を成ずと傳え、今現に阿彌陀佛を補けて衆生の教化

に任じ、念佛の衆生

の爲には阿彌陀佛と共に來迎するものであり、叉法華經普門晶の所読は、菩薩自身がこの娑婆國土

に應現して機に臨

み變に應じて諸

々の衆生の苦惱諸難を拔濟せられるのであ

つて、換言すれば菩薩自身が三十三種

の隨類應化の身を現

じて衆生を救濟すると云うのである。之は前読と比較してそ

の住處が、救濟の方便が、又'¥O説明が大分異

つている

のである。こうした信仰は中國に於ては六朝時代から獣

に普く行われて來たものである。

に華嚴經の読に至つては、前

の;読とは異

つて菩薩は南方光朗山の西方阿流泉浴地林木鬱茂

の處に在

つて、自愛

 

法樂的に諸菩薩

の爲に大慈悲經を演説していると云うのである。勿論その中には隨所應化攝取衆生

の説も加味されて

觀音信仰の形成並にその流傳に關する一考察

一九九

Page 10: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

tlo

o

いる。この信仰は中唐以後行われた樣である。

以上三系統の性格を見たが、之を圖示するならば次

の様である。

瞬一榊綿華撫蠻轡華

こうした三系統の觀音に關する信仰の中で、最も普遍的であつた法華系の隨類應化の思想印ち三十三應化の信仰か

ら更に諸大變化觀音の信仰を生むに至つたのであるが、それは密教の影響にもよるのである。しかしながらこうした

密教の影響による種々の變化觀音の信仰の他に、密教で説く獨自の觀音を忘れてはならない。

印ち、密教に於ては顯教で個々に説かれている諸佛、諸菩薩、明王、諸天等を

一つの大きな組織

の中に組み入れて

有機的な關係に置いたのが曼荼羅であり、曼荼羅は大日如來自身で、その大日如來の理の方が胎藏界曼荼羅、智の方

が金剛界曼荼羅で、そのそれぞれに觀音が存するわけである。

胎藏界曼荼羅では、中台院、觀音院、釋迦院、丈殊院のそれぞれに觀音があり、中台院に於ては、大日如來を圍ん

で東の方から右廻りで寳幢如來、普賢菩薩、開敷華王如來、丈殊菩薩、無量壽如來、觀音菩薩、天鼓雷音如來、彌勒

菩薩が居られ、之によれば觀音は菩提門の悟りの徳である慈悲を代表し、果として阿彌陀佛に成ずる事が出來る事を

示している。叉觀音院

(蓮華部院)では、部主たる觀自在菩薩を始めとして三十七尊を置き、その中二十

一が諸觀音

であり、その他はそれぞれの使者として畫かれているのである。又釋迦院と丈殊院

にある觀音は、

釋迦如來

の脇侍と

Page 11: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

して、叉文殊菩薩の後にあつてやはり脇侍として觀自在菩薩がそれぞれあるわけで、其他、遍智院

に於ける七倶胝佛

(准胝觀音)、

虚空藏院に於ける忿怒鈎觀自在菩薩、不空鈎觀自在菩薩、千手觀自在菩薩、蘇悉地院の十

一面觀自

在菩薩等の諸觀音が擧げられる。こうした觀音は全て大慈大悲を代表して表わされているものであり、その間に於け

る性質、弘誓等には異なるものは無く、その像の表現の上にのみ相違しているのである。

更に金剛界曼荼羅に於ては、成身會の中に、西方阿彌陀佛の蓮華部に金剛法菩薩として觀音菩薩が如來の四位の親

近菩薩の

一位として示現し、叉四印會に於ても觀音が見られる。

叉こうした曼荼羅に關係なく説かれている觀音として

「講觀世音菩薩滄伏毒害陀羅尼呪經」「十

一面觀世音紳呪經」

「不空羂索呪經」があり、之等はそれぞれ誦呪の作法、彫造の法式、壇場の儀軌等が詳細に示され

ており、その中、

「陀羅尼呪經」では、西方淨土から阿彌陀佛が觀音勢至を從え、その中觀音が種々の神呪陀羅尼を唱える事にょつて

惡疫を除き色々な災難を免れしむることを説き、

「十

一面觀世音神呪經」が十

一面紳呪を唱える事

により命終

の時に

無量壽蹙

生れる豪

出來ると云悔

索呪經Lが觀音の住處を逋多羅山頂としている葦

を見る時

顯教での

無量壽經或は華嚴經に説く觀音と殆んど同

一であることは興味ある問題である。

其他密教經典や儀軌等には色々な觀音が畫かれてはいるが、之等は

一般的なものではなく、密數

の修法の爲に用い

るものであり

一般的な流布は見ていないものである。

以上顯教の觀音、密教の觀音について考察したのであるが、顯教の經典によれば、觀音菩薩の性質、功徳利盆と云

う事が充分に読き盡されており、密教經典に於ては特に禮懴儀軌造像作壇の法を読いているものであり、觀音崇拜の

際的方面を示しているものであると云い得よう。故に觀音に樹する信仰は、顯教に読く觀音の信仰の中に密教が入

り込み、それにより複雜多岐にわたりながらも、そこには

一つの組織だ

つた關係が生れ、規定された觀音像も生まれ

觀音信仰の形成並にその流傳に關する一考察

Flol

Page 12: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

二〇二

るに至

つたのである。しかしながら信仰の姿

の上で果して顯教、密教の觀音と區別して信仰したも

のかどうかは疑問

とせざるを得ない。恐らく顯教的な觀音であろうと、密教的な觀音であろうと無意識の中にそれ等

を包括した形に於

て觀音が信仰されたものであると思われるのである。しかしシナ唐時代以後密敏の隆盛による觀音

信仰が盛んになつ

たことを見れば、密教の影響大であると云わねばならない。

觀音のことがシナに知られたのは、三國時代

に傳わつた無量壽經に始まるのであるが、しかしそれが、極樂世界に

て阿彌陀佛と共に住し、阿彌陀佛が主であり觀音は從である事を読いているものであるから、當

時その主である阿

彌陀佛の信仰すらなかつたのであるから、その從たる觀音のみ獨りあるべき理由がないのは當然の事である。實際に

觀音が信仰される樣になるのは、やはり觀音の功徳を説き、その信仰を鼓吹している法華經普門品飜譯以後

と考える

のが至當であろう。

法蘯

はシナに於三

存三闕とし三

て萱

譯としてゴ一豐

の蹇

梁鼕

五鳳三年七月(胡二五六)

に譯出した法華三昧經であると云われているが、この經が現存の法華經と同

一であるか否かは、この經が現存してお

らない爲に疑問

とされている。現存している中の

一つ、正法華經は西晋の太康七年

(二八六)竺法護によつて譯出さ

C 

れたものであるが、天台智顕の

「觀音義疏」

に晋の謝敷の作つた

「觀世音應驗傳」を引用して、

「其傳云、竺長舒晋元康年中於洛陽爲延火所及。草屋下風豈有。冤理

一心稱名風廻大轉隣舍而減。郷里淺見謂爲自

爾、因風燥日擲火燒之。

三擲三滅、部叩頭懴謝。

法力於魯那起精舍、

於上谷乏得

一束麻。

於空野遐大法力疲極小

臥、此覺火勢已及、因擧聲禰觀。未得禰世音應聲火滅

云云」

Page 13: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

と晋の元康年間

(二九

一~二九九)に、洛陽の大火に際し、

一心に觀音の御名を稱えて大難を冤れたと云う事が説か

ている。この元康年間は、竺法護が正法華經を傳譯した太康七年より僅か五、六年後の事である

から、恐らくこの

正法華の光世音晶によつて觀音信仰が世に行われる様になつたと

る。又、高僭傳卷四には東晋升夲五年の頃

(曲三六

一)

「干法開、不ノ知二何許人殉事二蘭公一爲弟子。深思孤發獨二見言表↓善ご放光及法華己

ci)

と干法開が法華に逋じていた事と思われ、又同時に竺潜が、大晶般若等と

一緒に法華を講じたと云われており、又竺

法崇は法華

一乘に長じて法華義疏四卷を作

つたと高僣傳には傳えている。叉竺法義の如きは、

「竺法義、未〆詳二何許人↓年十三過ご深公一便問、……中略……深見二其幼而頴悟↓勸令二出家殉於γ是棲孟心法門一從γ

深爲〆學、遊ご刄衆典一尤善二法華↓後辭〆深出〆京、復大開ご講席一……中略……至ご晋興寧中↓更還

二江左↓憩ご干始寧

之保山幻受業弟子常有ご百餘一。至二威安二年弔忽感二心氣疾病囎常在二念觀音鱒乃夢見こ一人破ノ腸洗フ腹。覺便病愈。

傳亮毎云、吾先與二義公一遊處。毎聞〆説觀〆音ご神異鴨莫〆不二大小肅然一」

と法華をよくし、而も病を得た時、觀音を念じて病をいやす事が出來たことを述べている。こうした法護の正法華經

の傳譯以後、四世紀の後孚にかけて、その經に逋じ講經或はそれに読く觀音

に疾病夲癒を念ずる事

が行われていたと

えられるのである。こうした中に約二、三十年後、姚秦弘始八年

(東晉義熈二年

・四〇六年)羅什三藏に依つて妙

法蓮華經が傳譯されるに至つた。これにより觀音の現世利盆が且ハ體的に知られる樣になり、その中

の觀音普門晶は觀

音經として法華經から獨立して弘まる樣になつた。その間の事情を天台智顎の

「觀音玄義」には、

「夫觀音經部黨甚多、或請觀世音、觀音受記觀立旦二昧、觀音懴悔、大悲雄猛觀世音等不同、今所

傳者即是

一千五百

三十言法華之

一晶、而別傳者、乃是曇摩羅讖法師亦號伊波勒菩薩、遊化葱嶺來至河西、阿西王沮渠蒙遜歸命正法、

觀音信仰の形成並にその流傳に關する一考察

二〇三

Page 14: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

二〇四

兼有疾患以告法師、師云、觀世音與此土有縁、乃令誦念患苦師除、因是別傳

一晶流通部外也」

と、悲華經を譯した北凉の曇無讖が、葱嶺を越えて河西に來た時、王の沮渠蒙遜の難病を見て、觀音菩薩は此の土に

縁ありと云つて、普門品を念誦することをすすめ、爲めに病苦を除いたので此の時から觀音經が別行として流布する

になつたと述べている。

こうした觀音經の別行流布は、それ自體觀音信仰の流布を物語るものであろう。叉この時

代イソドに赴

いた法顯三藏は、錫崙からの船の中で海風

に惱まされた時、觀音を念じて難を逃れ無事歸朝したと傳え

は觀音の圖像を安置し之を拜した事を傳えている事等は當時の人々に觀音

られ、夊東晋末郭宣之

(ゴ=

七~四

一九)

信仰の熱を高めた事であろうと思われる。かく

の如く羅什の法華經傳譯によつて、道融、僭叡、慧觀、曇影などが法

を研究し、北齋の慧丈から南岳慧思を經て、隋代の天台智者大師に至り法華を以て

一宗を樹立したのであるが、こ

した法華隆盛と並行して觀音信仰も之等の人々を中心として杜會に普及して行つたのである。之等の事は後に多く

の靈驗記の製作を見、叉

「法苑珠林」、コ局曾傳」等に數多くの靈驗譚を見出し得る事によつて窺われる所

である。

こうした法華經の系統をひく觀音の信仰は既に正法華-經傳譯以後行われて、續

いて南北朝、隋、唐

一貫した系統

をひいた信仰が續いて來たのであるが、他面華嚴經に読く觀音の信仰、或は觀經に説く觀音の信仰又密教による觀音

の信仰はどの樣であ

つたであろうか。勿論既に述べた事であるが、信仰の形の上で區別し得るものではないが

一應

ナでの起源を見たい。

その中華嚴系と密歡系を取り上げてみると華嚴經の中國傳譯は、東晉の佛駄跋陀羅により義熈十四年より三年を費

して宋永初元年

(四二〇)に完成したものである。後至相大師智儼

(六〇二~六六八)が

「華嚴經搜玄記」五卷を著

わし、叉賢首大師法藏

(六四三~七

一二)は

「探玄記」二十卷を著わしている。こうした傳譯に續

いてこの註疏が、

その中に読くものが觀音を中心としたものではないにしても、華嚴經に読く觀音の補陀落淨土の思想が補陀落信仰の

Page 15: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

基礎にな

つたに違いない。

この觀音の補陀落淨土に就いては、

の開皇七年

(五八七)

に闍那崛多が

「不空羂索呪

經」を傳譯し、この中に

時婆伽婆在逋多羅山頂觀世音宮殿所居之處」

と見・兄ている所から、この頃から觀音の住所が補陀落山である事が知られる樣にな

つたと考えられ

る。次いで周の則

天武后、聖暦二年

(六九九)實叉難陀に依つて華嚴經八十卷が譯出されている。觀音の住所が補陀落山である事を

般的に知られたのは勿論前記の

「華嚴經」

「不空羂索呪經」譯出以後の事であつたかと思われるが、しかし普遍性を

つに至つたのは唐の宣宗大中十二年

(八五八)に日本僭慧鍔が五台山から得た觀音像を舟山群島

の潮音洞に安置し

CC

M

て觀音院を創建して此所を補陀落山と呼び、觀音の聖地として實際に人々の信仰を集めるに至つたのである。以上か

ら考えてみると華嚴系を引く觀音信仰は、補陀落信仰となつて中唐以後盛んに行われたものの樣である。

其他觀經による觀音信仰はそれを取り立てて云う程の異つた信仰は持つておらなかつたと思われ、勿論觀經の傳譯

以後、慧遠、曇鸞、導綽、善導とわたる淨土教の高潮した唐代に至つて全く彌陀信仰の發展流行をうながし、

一般大

をして念佛生活に入らしめたのであるが、觀經による觀音に對する信仰は、こうした彌陀信仰に附帶したものとし

て見るべぎで、彌陀の脇侍としての觀音が獨立した信仰を持

つたとは考えられない。從

つてこの觀音の信仰は阿彌陀

信仰の發展流行と共に何等かの形で信仰されていたと考えるより他はないと思うのである。

次に密教の場合を考えるに、中國に於ける密教の傳來は、東晉の佛駄跋陀羅が

「華嚴經」を傳譯した

一年前、竺難

によ

つて

「請觀世音菩薩清伏毒害陀羅尼經」

一卷が傳譯

(四

一九)されて以來、それに關する經典も次第に譯出さ

れ密呪の流行もあ

つたが、何れも純粹なものではなかつた。從

つて純粹な組織的な密教が傳來されたのは、唐中期の

頃善無畏

(六三七~七三五)が弟子

一行と共に

「大日經」を譯出

(開元十六年七二五)した頃から

と考えられる。善

觀音信仰の形成並にその流傳に關する一考察

二〇五

Page 16: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

二〇六

無畏、金剛智、

一行、不空等が多くの譯出經典を世に表わし、又含光、惠果、慧琳等何れも密教弘布に力を注いだ結

果、密教に読く儀軌を主とし密呪を持誦する事に依

つて罪障を清滅出來ると云

が、佛教儀禮に變化をもたら

し、建築、彫刻、繪畫等に密教的色彩が濃厚となつて來たのである。こうした色彩は觀音信仰の場合に於ても例外で

は無く、三十三應化身の觀音信仰が之等の影響

により、儀軌により細分された十

一面觀音、千手觀音、馬頭觀音、如

意輪

觀音、不空羂索觀音、准提觀音の信仰と複雜化され、又禮懴儀軌、造像作壇の法を説いて、觀音崇拜の實際的方

面を示すようになつたのである。

以上シナに於ける觀音信仰の流布は、法華系が最も古く六朝時代から普く知られたと見るべきで、華嚴系は唐以後

んに行われ、觀無量壽經系もその前後

に、密教系もやはり唐以後その普及を見たのである。

以上經典の漢譯の時期がその經典の成立では無いにしても、叉漢譯された順序が經典の成立順序

でないにしても、

この場合經典漢譯の時期が觀音の初出の時期と考える立場から、觀音信仰の起源及びその思想類型、並びに中國に於

るその信仰及び系統を述べたのであるが、こうしたことから我國初期に於ける觀音信仰を見る時、中國の法華系の

系統を引いている事が首肯されるのである。その事は鄒ち、佛教傳來以後、聖徳太子が佛數興隆に力を盡されていた

頃中國では隋代で、その頃の佛敏輸入は勿論南北朝の佛教が日本に傳えられているわけであり、南北朝には既に法華

により觀音信仰が行われていたこと、叉この法華經の具體的な現世利盆を説く觀音信仰が、我國傳來當初の現世を

中心とした時代思潮とが

一致していた事からも窺われるのである。

更に、太子が法華經義疏を作られ、又その講經等があり法華經研究が盛んに行われていた事實、

叉少し時代が下る

Page 17: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

が天夲時代に翫に

「法華經義疏」

「法華玄義」

「法華玄賛」

「法華文句」

「摩訶止觀」

「法華遊意」「法華玄論」「法

華經略」

「法華義疏」等、光雲、智顎、吉藏等

の諸學匠の法華經の講讃、註疏書が書寫され讀誦されているのを見て

も、又法華經から獨立した普門晶が觀音經として書寫、讀誦されているのを見ても明らかである。

しかし正倉院文書の中には

「不空羂索經」

「千手千眼經」

「十

一面祚呪心經」の名も見えて、叉其等の陀羅尼等の

讀誦も行われた様であるから、天夲時代は幾分かこうした密教的なものの傳來もあ

つた事は否定出來ない。

結局我國初期の觀音信仰の源流は中國南北朝に行われた法華經による觀音信仰に求めら

考えられるのであ

る。註

なも

「寧

樂」

三號

「觀

全集

は毎

日新

「佛

藝術

特集

があ

る。

佛教

室刊

紀要

七號

「我

音信

の形

程」、

教論

「日本

上代

に於

る觀

音信

の形

」、

大學

三十

一號

「觀音

三十

驗所

の形

に關

一考察

「觀

音信

仰史

正藏

23

、乞。.1435°や

O°∬

。°十

二。

「是

丘、

一羊

芭蕉

人者

是樹

善、

若不

丘」

肛、

No.2085:p.859.b.

20.2087.p°。。。。。。°び゜

p.887.c°

p.913°び゜

℃°O届

゜び゜

p.915°。°

正藏

9

乞o.262°も゜O①゜ρ

華經

二十

五普

「善

子、

二無

百千

衆生

一受

】一諸

↓聞

=是

觀世

一心稱

レ名

菩薩

二其

一皆得

=解

一」

音信

の形

にそ

の流

關す

一考

二〇

Page 18: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

二〇八

9、

b。刈。。°p.718°ぴ゜華

一。

19

、No.945°b°Hb。㊤゜a,b,c.首

六。

「世

此聞

三昧

無作

十方

三世

六道、

一切

故、

我身

心。

四種

畏功

......(以

に十

の無

の功

を擧

ぐ)」

正藏

12

、No.365.

「若有

下欲

二觀

薩者

上當

レ作

二是

一作

=是

一者

レ遏二諸

一淨

二除

一除

二無

三罪

一如

レ此

菩薩

=其

一獲

=無

一何

觀」

正藏

20

乞o°1050.p.56°ぴ゜歹

゜。°寶

三。

3、

No.157.p.185.c.

12、

No.365.

「説

二是

噂時

=宮

二觀世

二大

士侍

二立

一」

同「觀

薩及

一一一切

↓處

二首

一知

】一是

一知

二是

一此

二菩

一一阿彌

一普

二一切

一」

同「其

好具

如レ佛

レ異

唯頂

上肉

頂相

不レ及

二世

一」

9、

No.278°p.718.大

華嚴

一。

「見二觀

一往

二山

西

一處

々皆

二流

林木

柔軟

結ヨ跏

=坐

剛寶

↓無

恭敬

爲演

二説

一云

云」

20

、乞o.1043°p.34.c.p.35.a.

正藏

20

、No.1070.p.149°び゜

正藏

24

、乞o°嵩b。。。°℃°O卜。。。°ρ

の傳

つい

は昭

29

10

人文

所發

の同

25

遯年

論文

に、

「古

六朝

音應

の出

現」

て發

せら

る。

Page 19: 猛 く は て れ ら し え C傷 な い か も 其 ば な い 叢 …...一 九 二 え か ら 行 け ば 、 元 來 觀 音 菩 薩 は 大 乘 經 典 の 中 の 諸 處

正藏

50

No.2059.p.50.a.

℃°。。ミ

゜。°

「至

】一年

二十

一講

'一法

二深解

凶復

レ説」

b°ω㎝O°。°

「少

入レ道

二戒

一見

レ稱

好レ學

】一志

一而

二法

一敏

一…

…崇

二於

一著

二法

囀云」

正藏

50、

29

b。OαQ。°や

。。αρ

。°

正藏

34、

No.1726.p.891.c.

正藏

51

、乞○.2085°p.865.c.p°Q。①①゜鋤゜法

傳。

林第

七。

佛教

HO昌、

釋書

16

蕚傳

れば

五代

の梁

の貞

三年

(916)

(日本

16

年)

てを

り、

二年

(○。αc。)

から

58

とな

つて

る。

觀音信仰

の形成並にそ

の流傳に關す

一考察

二〇九