国外研究員ヨーロッパ滞在記...paris-sud...

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0 国外研究員に向けて 2016 4 8 日~2017 3 25 日の期間,国外 研究員としてスイスローザンヌにある École Poly- technique Fédéral LausanneEPFL)に 8 月末まで, その後 8 31 日にフランスに移動して,Université Paris-Sud Saclay(簡単のためパリ南大学と以下では 呼ぶ)で残りの期間を研究員として過ごした. 今回の研究員計画のざっくりとした目標は,すで に進行中の研究を完成することに加え,受け入れ先 の研究者と新たな共同研究を始めることであった. ヨーロッパのトップレベルの研究機関で 1 年間研究 生活に没頭できるという貴重な機会を頂いたこと に,大学および同僚の皆様のご理解に対して感謝致 します.ここ何年間,教育・研究,また色々な委員 としての職務を果たしてきたが,かなり突っ走って いた気分だったので,今回の研究員は現在の状況を 冷静に振り返えるのにちょうど良い機会で,今後の 研究生活のために良い経験を積むことができるであ ろうという期待をもって 1 年間の幕開けを迎えた. ところでヨーロッパというと,ここ数年はテロの 発生がたびたび報道されており,実際,2015 11 月のパリで起きた同時多発テロには大きな驚愕を受 けた.当初はフランスで 1 年間を過ごす計画で,さ てこれからビザ取得に向けて気持ちを盛り上げてい くという段階だったのが,大きな壁にぶつかったよ うに感じた.妻も同行してもらうことで計画を進め ていたので,安心した気分で出発したい.そこで計 画の変更を検討することにした.フランスで予定し ていた受け入れ先の Danielle Hilhorst 教授に連絡を 取り,テロの後遺症が落ち着く半年くらいは別な機 関で研究し,その後にフランスに移動したい旨の希 望を伝えたところ,快く他の受け入れ先の候補を上 げてもらえた.その中で上記スイスの EPFL に在職 する若い Assistant Professor Hoai-Minh Nguyen コンタクトをとったところすぐに返事が帰ってき て,快く引受けてもらえることになったのは大変幸 運であった.彼とはそれまで面識がなかったが,彼 のウェブページを見ると若いがすでに立派な業績を あげており,しかも幅広く色々な問題に取り組んで いるベトナム国籍の研究者であった.フランスの受 入れ教授との研究に関連した色々な問題も議論でき そうで大変期待がもてた.実は 10 年くらい前にパ リ第 6 大学のセミナーで講演したときに,彼はセミ ナーを主催する教授の博士課程の学生として聴講し ており,私のことを知っていたことが後でわかっ た.さらに 7 月に彼の奥さんと娘さんを紹介して頂 いたときに,奥さんの妹さんが日本人と結婚して九 随想 国外研究員ヨーロッパ滞在記 Yoshihisa MORITA 理工学部数理情報学科 教授 Professor, Department of Applied Mathematics and Informatics 13

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Page 1: 国外研究員ヨーロッパ滞在記...Paris-Sud Saclay(簡単のためパリ南大学と以下では 呼ぶ)で残りの期間を研究員として過ごした. 今回の研究員計画のざっくりとした目標は,すで

第 0章 国外研究員に向けて

2016年 4月 8日~2017年 3月 25日の期間,国外研究員としてスイスローザンヌにある École Poly-

technique Fédéral Lausanne(EPFL)に 8月末まで,その後 8月 31日にフランスに移動して,UniversitéParis-Sud Saclay(簡単のためパリ南大学と以下では呼ぶ)で残りの期間を研究員として過ごした.今回の研究員計画のざっくりとした目標は,すでに進行中の研究を完成することに加え,受け入れ先の研究者と新たな共同研究を始めることであった.ヨーロッパのトップレベルの研究機関で 1年間研究生活に没頭できるという貴重な機会を頂いたことに,大学および同僚の皆様のご理解に対して感謝致します.ここ何年間,教育・研究,また色々な委員としての職務を果たしてきたが,かなり突っ走っていた気分だったので,今回の研究員は現在の状況を冷静に振り返えるのにちょうど良い機会で,今後の研究生活のために良い経験を積むことができるであろうという期待をもって 1年間の幕開けを迎えた.ところでヨーロッパというと,ここ数年はテロの発生がたびたび報道されており,実際,2015年 11

月のパリで起きた同時多発テロには大きな驚愕を受けた.当初はフランスで 1年間を過ごす計画で,さ

てこれからビザ取得に向けて気持ちを盛り上げていくという段階だったのが,大きな壁にぶつかったように感じた.妻も同行してもらうことで計画を進めていたので,安心した気分で出発したい.そこで計画の変更を検討することにした.フランスで予定していた受け入れ先の Danielle Hilhorst 教授に連絡を取り,テロの後遺症が落ち着く半年くらいは別な機関で研究し,その後にフランスに移動したい旨の希望を伝えたところ,快く他の受け入れ先の候補を上げてもらえた.その中で上記スイスの EPFL に在職する若い Assistant Professor の Hoai-Minh Nguyen にコンタクトをとったところすぐに返事が帰ってきて,快く引受けてもらえることになったのは大変幸運であった.彼とはそれまで面識がなかったが,彼のウェブページを見ると若いがすでに立派な業績をあげており,しかも幅広く色々な問題に取り組んでいるベトナム国籍の研究者であった.フランスの受入れ教授との研究に関連した色々な問題も議論できそうで大変期待がもてた.実は 10年くらい前にパリ第 6大学のセミナーで講演したときに,彼はセミナーを主催する教授の博士課程の学生として聴講しており,私のことを知っていたことが後でわかった.さらに 7月に彼の奥さんと娘さんを紹介して頂いたときに,奥さんの妹さんが日本人と結婚して九

随想

国外研究員ヨーロッパ滞在記

森 田 善 久Yoshihisa MORITA

理工学部数理情報学科 教授Professor, Department of Applied Mathematics and Informatics

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州に住んでいることを聞き,縁を感じずにはいられなかった.こうして,8月末までを EPFL のあるローザンヌで過ごすことに決まった.スイスに関してはチューリッヒを 2度,いずれも 12月に開催された研究集会で訪れたことがある.しかし,ローザンヌというと,少し前にバレーの国際コンクールで若い日本人のダンサーが金賞をとったニュースが突然流れたのが自分の記憶に新しかった程度の関心しかなかった.実際そのバレエのコンクール以外は全く白紙に近い状態で,地図上の位置関係が全く把握できていなかった.スイスはドイツ語圏,フランス語圏,イタリア語圏からなっていることは知っていた(正確には公用語はロマンシュ語を含めて 4つあるがロマンシュ語を話す地域は非常に限られ人口も極めて少ない)が,チューリッヒを中心とするドイツ語圏以外の地域に関する知識はあまりなかった.今回,ガイドブックを購入して改めてよく見たところ,ジュネーブがフランス語圏の中心的な都市でフランスと国境を接していること,また三日月型をしたロマン

湖の西端に位置し,湖を横断するようにフランスとの国境線があることに気づいた.ローザンヌは湖の北側の湖岸を沿うようにジュネーブから東に湖岸の2/3ほど移動したあたりに位置している.レマン湖をはさんでローザンヌの対岸はミネラルウォーターで有名はエビアンの町を遠くに見ることができる.長々と説明するよりは地図を見た方が早いので付けておくことにしよう.スイスの面積は九州くらいで,西の端のジュネーブとチューリッヒの間は特急列車で 3時間くらいで,その途中に首都のベルンがある.なお,ローザンヌはオリンピックの IOC の本部があるところでもある.

第Ⅰ部 ローザンヌ編

第 1章 出発までの準備期間スイスは 3ヶ月までは旅行ビザで滞在できるが,今回は長期滞在になるので滞在許可証が必要になる.スイスの入国前にビザを発行してもらう必要はないが,その代わりに向こうに着いたときに滞在許可証を発行してもらうための書類を用意する必要が

写真 1 スイスの地図(一部)

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ある.必要な書類の情報はネットでも得られるが,その記事が書かれた時期,書いた方の境遇によって情報も異なる場合があるので注意がいる.実際,10年近く前に同じ数理情報学科の山岸義和さんがローザンヌ大学に研究員で 1年間訪問しているが,その頃は手続きも大変だったようである.私の場合,最初に向こうの秘書さんから要求された書類は,CVと業績リスト,パスポートのコピーに加え結婚証明書の原本のコピー(原本はスイスに持参)と訳だけであった.結婚証明書は,戸籍抄本か謄本で代用できるので,戸籍抄本を英訳することにした.こういうときにサイトの情報が役立つ.翻訳のサンプルがあったのでそれを基に訳を作成して送ったが,スイスの場合はそれで受け付けてもらえた(フランスでも結婚証明書は必要になるが,そのときはそう簡単ではなく,戸籍謄本の法廷翻訳を用意した).その後,向こうから invitation letter と ASSURANCE

D’AUTORISATION DE SÉJOUR が送られてきて,入国後指紋登録と,市役所に書類を持参する指示が付いていた.問題はアパートと保険である.アパートの手配は秘書さんを通してお願いしていた.年明けてすぐに,EPFL が提携している町の中心地にあるアパートが幸運にも空いているので契約できるという一見うれしい連絡があった.一見と言ったのは,アパートの広さが 20平方メートルしかない.1人ならこれでも十分だが,さすがに 2人では狭いので躊躇して広い部屋は空いてないか聞いてみた.しかし無理であった.人気があってすぐにふさがってしまうので,今すぐにでもどうするか返事をくれと催促され,後で別なアパートを探すことを念頭にとりあえず契約することにした.契約は非常に簡単で,契約書にサインしたのを向こうにスキャンして送ればそれで十分であった.もう一つの難関は保険である.病院でお世話になったときに世界一高いといわれる医療費を支払うために,スイスに居住する者はスイス国内の健康保険に加入することが義務づけられている.ただし,日

本で加入した保険であっても,それがスイスの保険と同等な保証があることを証明できれば(審査が要るが)免除される.国外研究員の場合はありがたいことに大学が旅行保険を購入してくれる.しかし,その保証は向こうの基準からみるとかなり落ちるので多分無理であろうと予想した.そこで妻は十分な保証のある旅行保険に入り,保証内容を証明する文書も保険会社に用意してもらったが,自分の分はスイスで支払うしかないと覚悟を決めた.結果的には,その通りになった.ひと月でおよそ 450スイスフラン(当時の換算レートは 1フラン 105円~115円)である.この件に関しては色々と大変なことがあったが長くなるので省略する.さて,スイス入国準備はこれくらいにして,実は,もう一つ頭を悩ましていたのが,フランス長期滞在ビザの取得である.私の知り合いでスランスに3ヶ月以上の滞在した人たちの話しを聞いてみると,ビザの取得で困った経験を語ってくれた.向こうではビザを申請する前に,訪問する大学の所轄の警察署が発行する CONVENTION D’ACCUEIL という書類が必要で,これを大学から申請してもらいこちらに送ってもらわないとビザの申請ができない.ネットでの情報ではこの許可書の発行にいくつかの書類を用意し,申請しても 1ヶ月くらい見ておく必要があることが書かれていた.実際,CONVEN-TION D’ACCUEIL の発行に手間取り,日本でのビザ発行が出発前までに間に合わなかったという話を聞いた.また,ビザの申請には東京にあるフランス大使館に予約を入れる必要があるが,3月は申請で混むので,早い予約がとれず間に合わなかったという話もあった.彼らは旅行ビザで入国した後,一度帰国してビザを取得した後,もう一度フランスに戻るというややこしいことをしている.同僚の樋口三郎さんも 8年くらい前に研究員で同じフランスの大学に世話になっていたので,彼からも直接色々と聞いたが大変そうであった.ところが,私の場合,ホストの教授が大学内で人脈を持っていて,そういう手続の担当の方と親しくしていたおかげで,2月の

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時点で CONVENTION D’ACCUEIL を送ってもらえた.ビザ申請が可能となるのは入国 3ヶ月前なので,滞在中のスイスで 6月以降にビザ申請をする必要がある.日本を発つ前にビザ取得補助のサービスをしてくれる業者にお願いして必要な書類を用意した.

第 2章 最初のアパートでの 2ヶ月4月 8日(木)にフランクフルト経由でジュネー

ブ空港に降り立ち,その日は,ジュネーブのホテルに一泊した.日本を発つ前に大きな箱 3個を郵便局からアパートの住所宛に送っておいたが,機内預け入れ可能な重さ 23キロぎりぎりのスーツケース 2

個と,機内持ち込み可能な大きめの鞄に目一杯の荷物を積み込んで来たので,少しの距離を移動するのにも手間がかかる.翌日 9日(金)の午前にジュネーブからローザンヌまで列車で移動した.40分くらいであるが車窓から見るレマン湖や山の風景は美しかった.ローザンヌ駅では秘書さんが迎えに来てくれていた.彼女に導かれアパートに向かう.メトロ 2番線で 2つ目の駅で降りると Riponne 広場に着く.そこからアパートまですぐの距離であるが,荷物が重いせいで遠く感じた.アパートは旧市街地の真ん中辺りにあり,目の前には Coop-City というスーパーマーケットに加え,Riponne 駅近くにはManor という少し高級なデパートもある.アパートの建物の入り口は暗証番号を打ちこめば開くが,我々の部屋はヨーロッパ式の 4階(日本では 5階相当)にある.重い 2個のスーツケースを,一度には運べないので,狭い螺旋階段の踊り場で休憩しながら,少しずつ上げて行き,ようやく 4階まで辿り着いた.アパート契約のときに図面を送ってもらっていたが,広さの方に気をとられて,4階でエレベータ無しという重要な事実が意識外であった.秘書さんもこのアパートに来たのは初めてで,私の Mac-

Book Air の入ったビジュネス鞄を運ぶのは手伝ってくれたが,これほどの大変さは予想していなかったようである.

部屋自体はこぎれいで新しい炊事道具も食器も揃っていた.しかし,ここで 5ヶ月間暮らすのは大変な覚悟がいると感じた.実際,この日の午後には早速目の前にある Coop で食料品等の買い物をしたが,買った食料や飲み物を 4階まで運ぶ重労働を痛感した.次の章では引越のことに触れるが,生活すればするほど便利な場所であることを実感する一方で,困ることも多かった.この日も含めてこの週末は天気がよく予想よりずっと暖かかった.日曜はレマン湖岸の Ouchy にメトロで行き,湖の向こうに見えるフレンチアルプス

写真 3 レマン湖岸の Ouchy

写真 2 アパート近くの協会(なぜかルーサー・キング Jr の大きな写真が掲げられている)

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を眺めながら,このときは一時的にアパートのことを忘れることができた.天気の良いときは春を実感できる暖かさなのだが,一方で天気が崩れると急に寒くなり,4月は厚手のコートが欠かせない.6月の中頃までは雨が降る日が多く,こちらに到着したときのような天気の良い週末は中々来なかった.この年は例年より雨の日が多いということをよく聞いた.ただし,1日中雨が降る日はまれで,雨の合間に晴れ間が突然顔を出すような非常に予想しにくい天気である.

第 3章 EPFL の研究者と研究環境次の週の月曜に EPFL の Nguyen さんに合いに行く.アパートからはメトロ 1番線の出発駅になるFlon 駅まで歩いて 10分少しである.1号線は湖に沿うように西に延びていて,ローザンヌ大学の大きなキャンパスの隣に EPFL のキャンパスがある.15分くらいで EPFL の駅に着く.キャンパスは駅の目の前にあるが,キャンパス内が広いので,地図で確認してから数学科の建物に向かった.Nguyen さんの顔はウェブで見ていたが,小柄でスリムな方であった.お昼を一緒にとりながら色々と話をした.こちらでポジションを得る前には,米国のプリンストン大学やニューヨークのクーラン研究所で博士研究員を務めた後,ミネソタ大学で Assistant Professor

として 2年間経歴を積んで,その後でこちらに移って来た.ミネソタでの私の知り合いの研究者のこともよく知っており話がはずんだ.頭の回転が早く,早口なので少し聞き取るのに苦労することもあったが,人柄は良く安心できる.彼もこちらに移ってから 2年しか経っていなので,あまり大学のシステムについてよくわかっていないような印象であった.また,住まいは,ローザンヌ市内でなく,隣町のMorges という町(オードリーヘップバーンが晩年を過ごした町でお墓がある)に家を借りていることが後でわかった.この後,知り合いになった数学者も,ローザンヌ以外の町に住んでいて通っていた.ローザンヌは家賃が高く,彼らのような高給取りで

も広い物件は割高になるので避けているようである.EPFL のキャンパス内にはユニークな建物があるが,その中でも一際目立つのが図書館である.SFにも出て来そうな宇宙基地のような形をしており,正面の入り口から入ると左手にカフェが見えその奥にはレストランもある.一方,右手には文房具を売っているコーナーがあり,奥にオープンになった自習室がある.図書の閲覧コーナーは,左手に大きく回ってその奥に入り口が設置されている.フロアーは平坦でなくなだらかに傾斜しており(一部傾斜のきつい箇所もあるが),外の景色がガラス張りの外壁を通して見ることができる.所々に大きなクッションまで用意されておりうたた寝している学生に良く出くわす.全てが斬新で驚きであるが,これを設計したのは日本人建築家のチームであることを教え

写真 4 a ロレックスセンターの外観(一部)

写真 4 b ロレックスセンターの内部(一部)

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てもらった.時計で有名なロレックスの寄付で建てられたので ROLEX LEARNING CENTER と呼ばれている.http : //rolexlearningcenter.epfl.ch のサイトを是非ご覧になって欲しい.さて,私のオフィスは数学科の建物の 2階に割り当てられ,パキスタンから来た博士研究員と同室であった.この同室者は,すでに母国の大学で教員をしており頭髪に白髪が少し見える年齢の方であった.前の年の秋から 1年間のポジションでこちらに来ていて専門は確率の応用分野である.指導教授がよくオフィスに訪ねてきて研究のディスカッションをしていた.彼の役割はソフトを使った数値計算である.スイスは研究室が独立しており,Nguyen さんのような若い研究者でもポストドクを雇って共同研究をしている.ポストドクの給料はかなりよく,ネットの情報では日本円で年収が 1000万円くらいあるらしい.物価の高いスイスではこれくらいは当たり前ということだろうか.一方で成果を出さないといけないというプレッシャーもあり,彼も論文を投稿できたときにはそのことをうれしそうに話していた.EPFL の教授の一人で昔から知っている方がいた.Bernard Dacorogna さんという方で,この方とはチューリッヒで開かれたワークショップで会っていたが,こちらに所属しているのを完全に忘れていて,セミナーで一緒になったときにお互い懐かしく挨拶した.彼は私より 2歳くらい上で,周りの人達

に日本人のことを世界で最も文明化された国の一つである,という褒め言葉を,日本を 2度訪問したときの体験を交えながら何度も言ってくれた.少し恥ずかしいくらいの褒め方だったがそれほど日本を訪れたときの印象がよかったようである.文化に対して非常に高い見識をもっており話をしていて楽しかった.スイスでの滞在も終わりに近づいた頃に,彼のジュネーブの自宅に夕食を招待をしてもらい,ご家族を紹介して頂いたのは良い思い出である.研究環境で困ったことというとコピー・印刷関係である.自分の PC から研究室のプリンターに直接印刷することはできたが,印刷用の紙が分厚く両面印刷ができないのでページ数の多い論文を印刷すると鞄が重くなってしまう.また,コピー機を自由に使えず,秘書さんにわざわざ頼んでスキャンしてもらったのをメイルで送ってもらうという手間がかかった.学外のコピーサービスを使うと 1枚 100円くらいとられてしまう.フランスでもそれくらいかかった.アパートの住環境では不便することが多かったが,生活するのに必要なこと以外は研究に集中できるので,日本を出るとき書き始めていた論文を何とか 2ヶ月くらいで書き上げ,共同研究者にメイルで送って見てもらうことにした.また,それまでに半分以上できていた論文 2編については,共同研究者とメイルでやり取りしながら秋までには完成させた.Nguyen さんにはこちらの新しい問題を聞いてもらったり,彼の研究を聞かせてもらったりと議論を重ねた.残念ながらまだ論文として仕上がっていないが,もう少し頑張って完成させたい.Nguyenさんとはスイスの滞在が終わった後の 9月にもパリで会い,次の年にも 3日間ほど研究打合せのためにEPFL をもう一度訪問して,関係を継続している.今から思うと一つ残念だったことがある.EPFLは,応用数学の分野も強く,Computational Mathe-matics や確率・統計分野のスタッフも揃っていることが向こうに行ってからわかった.しかし,これらの分野の研究者と交流する機会を作れなかったのが

写真 5 同室の博士研究員(左側)

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悔やまれる.

第 4章 アパートの引越とローザンヌ周辺の見所次のアパートには 6月に引越した.すでに述べたように,最初のアパートは狭いだけでなく,狭い幅の螺旋階段の上り下りの不便さはなかなかのものであった.それに加え 4階なのに日当りが悪く,日が長くなりつつあるのに部屋で居るとその有り難さを実感できない.加えて洗濯の不便さがあった.ランドリーは同じ建物内の別棟の 5階に設置されており,1階まで一度下りて上るという不便さである(このアパートは特別ひどかったが,スイスはどうもランドリーに関しては不便な土地柄のようである).アパートの契約は 8月までだったが,契約を打ち切るには 1ヶ月以上前までに連絡することが義務づけられていた.6月から替わる場合は 4月中に新たなアパートを決める必要がある.日本を出る前から秘書さんを通じて教えてもらったウェブサイトを見ていたので,少し値段が張るが広さは十分で場所も良さそうな物件があった.しかしこれを扱っている不動産屋は食わせ物であることがわかり,結局,23平方メートルの広さは今より少し広いだけだが,キッチンが独立しており,お風呂にはバスタブもあり,さらに南向きのバルコニー,エレベータが設置されている物件に決めた.周囲の環境と交通の便が不自由でないことを契約前に確認して,契約は秘書さんの助けで簡単に済んだ.次の問題は引越である.荷物のことを考えるとレンタカーを借りる選択もあったかもしれないが,慣れない人通りの多い町中を,しかも一方通行やアップダウンも多い旧市街地から新しい場所まで運転する勇気はなく,ホテルを別に予約して,4階の部屋から荷物を少しずつ移動させながら新しいアパートに運び込む作戦をとることにした.ここでローザンヌの町を振り返っておくと,人口は 12万人程度.東西に走るメトロ 1号線と,南北のメトロ 2号線がある.旧市街地の真ん中に市庁舎があり,その旧市街地周辺はそれほど広くない.2

時間もあれば歩いて回ることができる.しかし,傾斜が多く,至る所に坂道があると言っても過言でない.傾斜があるおかげで見晴らしを利用した大きな公園もあり,そこから眺めるレマン湖とアルプスの景色は魅力的である.ローザンヌで忘れてはいけないのはその象徴ともいえる大聖堂である.メトロのFlon 駅の辺りから丘にそそり立つ大聖堂を拝むことができる.ジュネーブにも一回り大きな大聖堂があるが,ジュネーブは街の規模も大きいので,ローザンヌの大聖堂の方が存在感はずっと大きい.また,高台にあるので大聖堂から臨む景色には魅了される.大学まで通うのは,最初のアパートのときはメト

写真 6 市庁舎広場

写真 7 Flon の辺りから見える大聖堂

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ロだけですんだが,新しいアパートから大学までは,メトロとトローリーバスを利用する.市内をトローリーバスが頻繁に走っており,これを利用すればバス停間の移動は大変便利である.新しいアパートは駅から西の方の位置にある住宅地街にあり,バス停から近く,駅にも旧市街地にもバスで 10分程度であったので買い物は最初の方が便利だったが,近くには最低限の店が揃っていた.大きな買い物のときは旧市街地まで出向くが,生活をするのにそれほどの不便さはなかった.物価は押し並べて高い.日本の 100均に売っていそうなものがびっくりするくらいの値段がついていることがよくある.しかし,野菜などは日本とそれほど変わらないものもある.ワインやビールは日本と比べてもそんなに高くない.チーズはもちろん日本よりずっと良質のものが手に入る.また,忘れてはいけないのはチョコレートである.スーパーマーケットのチョコレートコーナーの大きさと充実ぶりには驚かされる.メトロの 2番線に乗ると,街の傾斜に否応無く気づかされる.駅周辺の傾斜が特に厳しく,メトロの駅のプラットホームは湖側に傾斜している.車両も斜めに停車するので大きなスーツケースが動かないように気を配る必要がある.郊外にいくとまた事情は異なると思うが,ローザンヌに限って言えば,我々の活動の中心は,旧市街地周辺と湖岸沿いに限られていた.長く住むと,せっかくの週末を利用して周辺も探索したくなる.6月の後半になると気温が急にあがってきて晴れの日が多くなった.3~4日晴れて気温があがると,次に雨が来て 1, 2日でまた回復する.7月頃からは 30度を超す勢いで暑くなり,何処まで暑くなるのか不安を感じる頃に一雨が来て気温がぐっと下がる,という繰り返しで 8月末までを過ごした.しかし,空気は乾燥しているので日陰に

いると心地よい.洗濯物もバルコニーに干しておけば数時間で乾く.ローザンヌの周辺にはワイン畑が広がっており,とくに Lavaux 地区は世界遺産にもなっている.天気の良い晴れ渡ったときに高台から見る光景は,ワイン畑の緑,湖の青,アルプスの濃い緑がバランスして美しい.ちなみにスイスのワインはほとんどが国内消費である.特にこの地区はシャスラーというブドウからできる白ワインの産地としても有名である.この Lavaux 地区は湖岸にせり出すようにワイン

畑が広がっているが,この湖岸沿いを走る列車から湖を見ていると,湖西線の白髭神社辺りの景色を想起させる.琵琶湖とはずいぶん趣も違うが,眼下に湖が広がりその向こうに山並みが見える光景を見ると,琵琶湖の魅力はなんだろうか,などと比べてしまう.スイスでは小さな村でもきれいに整備され印象的な場所が多く,それを維持するためにかなり手をかけているのだろうと思うと,琵琶湖をもっと生かせる方法があるのではないかと勝手な想像をしてしまう.

これでⅠ部を終了する.Ⅱ部ではパリ・オルセー編をお届けしたい.

写真 8 Lavaux から眺めたレマン湖

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