4m四方 の石の囲 みに椎の 木が生え ています。 奉納した 矢を納...

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40 4m四方 の石の囲 みに椎の 木が生え ています。 奉納した 矢を納め たところと 言われて います。

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矢 塚

4m四方の石の囲みに椎の木が生えています。奉納した矢を納めたところと言われています。

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念仏寺(お釈迦さん)

はめ

よけ

釋迦

釋迦尼如来

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念仏寺(お釈迦さん)

念仏寺(お釈迦さん) 浄土宗に属し、開山は法山和尚、開基は普誉林で天正14年(1586年)に創設され寺内の釈迦堂は清龍山滋福寺と言い、もとは大寺であったが至徳年中(1386~1390)兵火にあい消失。此のあとに浄頓坊なる僧が明徳年間1391~1393草庵を営み釈迦像を安置し近郷近在の民人のはめ除けの守り仏として守護してきた。‥‥‥

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第3部 京口(三宅)から我が町(古世竪町) 経由で形原神社まで

三宅橋・京口⇒昌寿院⇒三宅神社⇒閼伽井の清水 ⇒祇園社⇒聖隣寺⇒宗堅寺⇒称名寺⇒親水公園

⇒古世門跡⇒嶺寿院裏の御土居⇒古世地蔵堂

⇒京町天満宮⇒亀山城の瓦⇒陣屋跡⇒形原神社

東竪町自治会文化委員会委員

为レポーター 中井 隆、副レポーター 宇古 守

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京口(三宅)から我が町(古世竪町) 経由で形原神社までを歩く地図

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京口番所跡/三宅橋南100m左岸

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昌寿院(楠屋敶)のビデオ 三宅町

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昌寿院の山門 三宅町

楠ゆかりのお寺で、

山門の上には菊水の紋があります。

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亀山城築城以前の古世城址 丹波亀山城は、天正年間、織田信長の命を受けた明智光秀が丹波攻略の戦略拠点として築城を手がけました。そして、丹波平定(天正7年1755)とともに亀山城を中核にして城下町の整備を行いました。

丹波攻略の折、神社及びお寺を破壊したり、焼いたりし、また、石、石垣や柱等の木材を転用して築城の際に使用しています。築城以前の古文書、歴史等の多くが灰燼に帰しています。

この地は、亀山城が築かれる以前は、古世城(城为・菱田介次郎)といわれ、丹波の国の要所のひとつでした。

亀山盆地中世の平城郡は、大堰川右岸地域の河岸段丘上にほぼ等間隔をもって直線上に築かれ、国人達がそれぞれに城郭を構え、そこを拠点に周辺部を治めていました。並河城、余部城(丸岡城)、荒塚城(中世亀山城)、古世城、馬堀城が布陣されていました。

四百年前、亀山城築城、明智光秀統治以前の亀岡の歴史はどのううで、どんな地だったのでしょぅね? 中世の亀岡に思いを馳せます。2008.12 丹波誌、丹波誌草稿下巻・古城部、丹陽軍記より*

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昌寿院境内の墓

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昌寿院と楠(関家)との関係

山門の菊水紋と境内の関家の墓

関家代々の墓

この関家の先祖が正世といい、楠木正時の子と云われています。南北朝の抗争が激化したために楠木正時は妻を実家の関氏に帰しました。妻は懐胎しており、この地で男子を産みます。これが関正世です。関氏は以降もこの地に居住していました。従って「楠屋敶」と呼ばれていました。しかし戦国時代の末期明智光秀が丹波平定にやってきます。関氏は正則の代でしたが戦火に巻き込まれて屋敶も焼けました。その後、亀山城築城に際して、城下町の整理が行われ、この地には昌寿院が建つことになりました。