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スバル車の歴史 スバルといえばボクサー(水平対向)エンジン、乗用四駆、STI チュー ンによるスポーティモデル、さらには「ぶつからないクルマ?」のキャッ チコピーで話題となった、先進運転支援システム「新型アイサイト」など、 個性的かつ洗練されたクルマを連想するであろう。団塊の世代なら恐らく、 わが国で初めて乗り手を満足させることができた軽自動車、スバル 360 を 思い出すかもしれない。 スバルのルーツは、1945 年 8 月 15 日の敗戦まで、従業員およそ 25 万 人を擁した、三菱重工業と並ぶ、わが国最大の飛行機メーカーであった中 島飛行機である。中島飛行機の歴史は、中島知久平という非凡なひとりの 青年の「航空機が日本の未来を拓く」という予見と行動力により起業された。 やがて、大正から昭和へと時代が変わるころ、航空機は軍事力の要と認 識されるようになり、日中戦争の戦火が拡大していくなかで、軍の増産要 請に応え、次々と工場の拡張を進め、数々の名機を生み出すが、1941 年 12 月 8 日に米英に宣戦布告して第 2 次世界大戦に参戦後、しだいに悪化す る戦局のなかで、中島飛行機の工場は米軍の重点爆撃の対象とされて壊滅 状態となり、敗戦とともに輝かしい歴史に幕を閉じた。 民需部門を持たなかった中島飛行機は、富士産業と社名は変更したが、 その工場すべてが財閥解体の対象となり、敗戦後の民需転換はゼロからの スタートとなった。第二会社 12 社に分割されたが、やがて 5 社が合併し て富士重工業が誕生する。ラビットスクーターを稼ぎ頭に、バスボディー、 航空機、鉄道車両などを手掛けていたが、やがてスバル 360 を開発して自 動車生産を開始した。本書では中島飛行機の誕生から終焉まで、そして、 富士重工業誕生までのショートストーリーとスバル 360 から最新型スバル 車の変遷をカタログでたどってみた。 目 次 スバル車の歴史 第 1 章 中島飛行機時代/ 4 第 2 章 富士産業および企業再建整備法による第二会社時代/ 11 第 3 章 富士重工業時代/ 13 第 4 章 スバルの乗用車、小型・軽 4 輪商用車の歴史/ 15 カタログでたどる スバルのクルマたち 360・450 / 50  サンバー/ 58 1000、ff-1 / 69  R-2 / 73 レオーネ/ 76  ブラット(BRAT)/ 79 レックス/ 88  ドミンゴ/ 98 ジャスティ/ 101  アルシオーネ/ 103 レガシィ/ 105  バハ(BAJA)/ 119 ヴィヴィオ/ 129  インプレッサ/ 134 フォレスター/ 156  プレオ/ 164 トラヴィック/ 169  R2 / 169 R1 / 171  B9 トライベッカ(Tribeca)/ 173 ステラ/ 174  エクシーガ/ 177 OEM 車/ 179  コンセプト&ショーモデル/ 180 本書における表記・用語について/ 186 年表/ 187 モデル変遷一覧(2004 年まで)/ 206 国内生産台数の推移/ 208 海外生産台数の推移/ 210 参考文献/ 211 あとがき/ 212

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Page 1: 目 次 スバル車の歴史 - mikipress.com · スバル車の歴史 スバルといえばボクサー(水平対向)エンジン、乗用四駆、stiチュー ンによるスポーティモデル、さらには「ぶつからないクルマ?

スバル車の歴史

 スバルといえばボクサー(水平対向)エンジン、乗用四駆、STI チュー

ンによるスポーティモデル、さらには「ぶつからないクルマ?」のキャッ

チコピーで話題となった、先進運転支援システム「新型アイサイト」など、

個性的かつ洗練されたクルマを連想するであろう。団塊の世代なら恐らく、

わが国で初めて乗り手を満足させることができた軽自動車、スバル 360 を

思い出すかもしれない。

 スバルのルーツは、1945 年 8 月 15 日の敗戦まで、従業員およそ 25 万

人を擁した、三菱重工業と並ぶ、わが国最大の飛行機メーカーであった中

島飛行機である。中島飛行機の歴史は、中島知久平という非凡なひとりの

青年の「航空機が日本の未来を拓く」という予見と行動力により起業された。

 やがて、大正から昭和へと時代が変わるころ、航空機は軍事力の要と認

識されるようになり、日中戦争の戦火が拡大していくなかで、軍の増産要

請に応え、次々と工場の拡張を進め、数々の名機を生み出すが、1941 年

12 月 8 日に米英に宣戦布告して第 2 次世界大戦に参戦後、しだいに悪化す

る戦局のなかで、中島飛行機の工場は米軍の重点爆撃の対象とされて壊滅

状態となり、敗戦とともに輝かしい歴史に幕を閉じた。

 民需部門を持たなかった中島飛行機は、富士産業と社名は変更したが、

その工場すべてが財閥解体の対象となり、敗戦後の民需転換はゼロからの

スタートとなった。第二会社 12 社に分割されたが、やがて 5 社が合併し

て富士重工業が誕生する。ラビットスクーターを稼ぎ頭に、バスボディー、

航空機、鉄道車両などを手掛けていたが、やがてスバル 360 を開発して自

動車生産を開始した。本書では中島飛行機の誕生から終焉まで、そして、

富士重工業誕生までのショートストーリーとスバル 360 から最新型スバル

車の変遷をカタログでたどってみた。

目 次

スバル車の歴史第 1 章 中島飛行機時代/ 4

第 2 章 富士産業および企業再建整備法による第二会社時代/ 11

第 3 章 富士重工業時代/ 13

第 4 章 スバルの乗用車、小型・軽 4 輪商用車の歴史/ 15

カタログでたどる スバルのクルマたち360・ 450 / 50  サンバー/ 58

1000、ff-1 / 69  R-2 / 73

レオーネ/ 76  ブラット(BRAT)/ 79

レックス/ 88  ドミンゴ/ 98

ジャスティ/ 101  アルシオーネ/ 103

レガシィ/ 105  バハ(BAJA)/ 119

ヴィヴィオ/ 129  インプレッサ/ 134

フォレスター/ 156  プレオ/ 164

トラヴィック/ 169  R2 / 169

R1 / 171  B9 トライベッカ(Tribeca)/ 173

ステラ/ 174  エクシーガ/ 177

OEM 車/ 179  コンセプト&ショーモデル/ 180

■本書における表記・用語について/ 186

■年表/ 187

■モデル変遷一覧(2004 年まで)/ 206

■国内生産台数の推移/ 208

■海外生産台数の推移/ 210

■参考文献/ 211

■あとがき/ 212

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ともに、陸軍少将井上幾太郎(のちに陸軍大将)を訪ね、航空機工業の将来について意気投合し、支援を取り付けている。 1917( 大正6)年12月10日、本拠地を尾島町から太田町(現・太田市)にあった洋館に移した。以後この日が中島飛行機の創立記念日となる。この建物は東京・蠣殻町にあった旧米穀取引所を東武鉄道の創始者根津嘉一郎が移設したもので、「 呑龍さん」の愛称で有名な大光院の東側にあり、現在の群馬製作所太田北工場である。当時は太田町が所有・管理しており、それを借用した。 研究所に集まったメンバーは、横須賀海軍工廠から4人、陸軍砲兵工廠から1人、それに知久平の実弟、門吉を加えた6人で、いずれも20代の若い技術者であった。研究所の陣容はすぐに30名を超え、部品工場と飛行機組立工場をつくり、利根川河川敷の官有地を借りて飛行場も確保した。 1918年4月、名称を「 中島飛行機製作所」に改め、さらに5月には、合資会社「 日本飛行機製作所」に改組した。当初の後援者であった石川家が破産に追い込まれたため、代わって関西財界の有力者、川西清兵衛(当時日本毛織社長)が出資を引き受けることになり、法人組織にしたのである。 社長は知久平が務めたが、資本金75万円のうち60万円は川西が出資、15万円を知久平が労務出資した。本社は東京・日本橋の日本毛織東京支店内に置き、川西側から数名が派遣されて経理面を担当した。 工場操業6ヵ月後には一型1号機の試験飛行に臨んだものの、離陸すらできずに大破。2号機、3号機は飛びこそしたものの着陸に失敗、これを修理した4号機も墜落大破する有り様であった。「 札はだぶつく お米は上がる 何でも上がる あがらないぞい中島飛行機」などと、当時の世相に引っ掛けて揶揄されながらも努力を重ね、1919年2月、中島飛行機の出世機と言われる四型6号機を完成する。4月に陸軍から20機受注し、陸軍仕様に改良した五型機を同年12月までに納入した。これは

き続けてきた真情を吐露した宣言文であり、中島飛行機の実質的な設立趣意書ともいえるものである。 その趣旨を要約すると、①各国が自国の利害のために盟約、条約を破る例があ

ることは欧州大戦でも実証されている。ゆえに、国家は国防を完全にしておかなければならないが、それも富力のある国が優位であることは当たり前であり、貧小な国が富力戦策をとることは危険である。

②しかるに、富力に乏しいわが国は、強大な富力を有する欧米諸国と巨艦主義で国防を競っており、これでは勝敗の結果は明らかであり、経済的にも破たんする。速やかに方針を改め、戦艦より経済的で威力が大となるであろう航空機を発展させて、国家を安泰にすべきである。

③その航空機についても、わが国は欧米に比べ非常に後れを取っている。主たる原因は官営の一語に尽きる。航空機の製造計画が初年度では議決されても、翌年度で初めて実施されるような政府事業では、進歩の著しい航空機は追いついてゆけない。議会の承認を要する官営では年1回の改善しかできないが、民営なら12回できる。欧米の航空機工業がもっぱら民営にゆだねられているのは、こうした理由による。

④民営航空機工業の確立は国家最大の急務であるとともに、国民の義務である。自分は官を辞し、民営航空機工業の発展に最善の努力を払う覚悟であるが、国を守るという目標は、海軍に在った時と少しも変わるところはないので、従前と変わらぬご指導をお願いしたい。というものであり、かねてから、海軍内部の意思決定が遅

く、予算編成も後手後手に回っていると感じ、「官でやっていてはだめだ。自分がやってみせる」と決意したのである。

■中島飛行機の誕生 中島知久平は「 飛行機研究所」発足にあたり、知人の紹介で神戸の肥料問屋石川茂兵衛の出資援助を得ると

上機(カーチス75馬力)を完成した。 1914年1月、中島知久平は造兵監督官に任命され、海軍が発注した飛行機、発動機の生産の監督と、現地の航空機事情視察のためフランスに出張する。このころ、欧米の航空機工業は急速な発展を遂げていたが、日本では航空機が軍事用として認知されておらず、戦艦を中心とする「 大艦巨砲主義」を採っていたため、航空機の調達はフランスなど外国に頼る状況であった。早くから航空機の軍事利用に着目していた知久平は、出張に先立ち「 大正3年度予算配分に関する要望書」を提出している。海軍航空技術研究委員会の予算はわずかで、大半は飛行訓練に割り当てられ、飛行機の国産化や改良進歩を図るための予算は微々たるものであった。この要望書の中で、「 国家経済の破たんさえ引き起こしかねない危険性を持つ大艦巨砲主義を一日も早く改め、わが国の国情に合った経済的でしかも実効性のある、航空兵力重視の政策に即時転換すべきである」と強調している。残念ながら知久平の主張は受け入れられなかったが、知久平の飛行機に対する想いは日増しに高まっていく。 1914年7月に勃発した第1次世界大戦で、知久平は急きょフランスから呼び戻されて飛行機の生産に当たり、そのうちのファルマン機2機は青

ちんたお島攻略戦に参加している。

 1916年には海軍技術本部員に就任し、同年10月、欧州の航空機工業視察の内命を受けたが、このときすでに知久平は民間での飛行機の開発・生産に専念する決意を固めていた。そこで、健康状態を理由に休職願いを提出する一方、神戸の肥料問屋石川茂兵衛の援助により、翌1917年5月、郷里群馬県尾島町の農家( 岡田権平宅)の養蚕小屋に「 飛行機研究所」の看板を掲げた。同年12月、予備役に編入され念願の海軍退役が認められると、かねて用意しておいた「退職の辞」を諸先輩や友人に送付した。この挨拶文は、海軍を退職し、民間航空機工業を起こすにあたり、それまで真剣に考え、抱

■創業者中島知久平のこと 中島飛行機の創業者、中島知久平は1884(明治17)年1月11日、群馬県新田郡押切村( 現・尾島町)で、父粂吉、母いつの長男として誕生した。生家は畑地を耕し、副業として養蚕や藍の栽培・仲介をする農家であった。 日清戦争勝利に刺激され中島知久平は軍人になろうと決心した。知久平12歳のころであった。やがて夢を実現させるため16歳で上京、苦学の末、1903年12月に海軍機関学校に優秀な成績で入学した。2000名ほどの応募者のうち合格者40名、その中で21番目という成績で合格したという。1907年3月、海軍機関学校を優秀な成績で卒業した知久平は、翌年の1月に機関少尉に任官する。 1903年12月、米国のライト兄弟が世界最初の有翼動力飛行に成功し、7年後の1910年12月、東京・代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が早朝にアンリ・ファルマン 機で、同じ日の午後には日野熊蔵陸軍大尉がグラーデ単葉機でわが国初の公開飛行を実施するなど、航空機の出現を目の当たりにした知久平は、いち早く航空機の可能性に着目し、海軍における航空技術の第一人者として歩むことになる。 1912年6月、海軍は海軍航空技術研究委員会をつくり、同年7月に委員の中島知久平機関大尉を飛行機製作・整備研究、河野三吉、山田忠治両大尉を操縦練習のため、米国のカーチス飛行機会社に派遣し、カーチス複葉水上機2機を購入して秋に帰国した。 1913( 大正2)年5月、横須賀海軍工廠造兵部に飛行機造修工場が新設され、中島知久平は主任として赴任し、同年7月に海軍初の国産機となる、日本海軍式水

第 1章中島飛行機時代

海軍大学時代の中島知久平。 中島飛行機発祥の地(岡田権平宅)。飛行機研究所。クルマは 1910 年ごろの英国製ローバー 6hp、単気筒 812cc エンジンを積む。 中島飛行機の出世機と言われる四型 6 号機。

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武藤代議士が在職中に急逝したため、後継として知久平が推されて立候補し、最高位当選を果たす。46歳であった。翌年1月、所長の座を次弟の喜代一に譲り、同年12月に株式会社組織に変え、「中島飛行機株式会社」が誕生した。知久平はその後、鉄道大臣などを歴任したのち、政友会総裁に就任し、政界に大きな影響を与えた。知久平は政界入りした後も、「 大所長」と呼ばれ、重要事項の決定にあたっては関与し続けていた。

■中島飛行機の成長外国技術の吸収とコンペティション わが国の航空草創期には、陸軍はフランス、海軍はイギリスの技術を学んでいた。1928年ごろまでフランス、イギリスから軍用機を買い入れ、航空兵力の充実を図ると同時に、民間業界の先頭に立ち、先進技術の吸収に努めていた。中島飛行機では1921( 大正10)年に中島知久平の3番目の弟、乙未平をフランスに駐在員として6年間派遣して最新技術を吸収する一方、外国製機体、エンジンのノックダウン およびライセンス 生産と同時に、外国人技術者を招請して技術指導を受け、独自に技術を習得し能力を高めていった。導入した主な機種にはフランスのニューポール( Nieuport )29C-1型、ブ レ ゲ ー( Breguet )19型 /14B 型および36型旅客機、イギ リス のブ リストル・ブ ルドック( Bristol Bulldog )、グロスター・ガムベット

(Gloster Gambet)、米国のボート・コルセア(Vought Corsair)O2U 型水上偵察機、フォッカー・スーパーユニバーサル( Fokker Super Universal )旅客機、ダグラス( Douglas)DC-2 型旅客機などがあった。 第1次世界大戦後、欧米における航空兵力の充実ぶりは目覚ましいものがあり、1927( 昭和2)年、イギリスをはじめヨーロッパ諸国は独立空軍を編成するようになった。アメリカ、ソビエトでは独立はしなかったが、航空戦力の強化を図っていた。日本の陸・海軍も航空兵力に関して拡大強化と近代化を図り、効率的な運用を目指す制度を樹立した。陸軍は1927年には航空機の設計、

型9気筒のワスプ(Wasp)を参考にして自社開発をはじめ、1930年6月、日本初の国産空冷星型9気筒450馬力エンジンを完成する。翌年、海軍に「寿

ことぶき」と命名され、

改良を加えながら、1943年までに陸・海・民用合計約8000基が生産され、生産期間の最長記録を樹立した。 中島飛行機からは多くのエンジン が開発・生産されたが、ひとつの頂点にあるのが、空冷星型2列14気筒27.9ℓの「栄

さかえ」(陸軍の呼称はハ25)であろう。1933年

6月、海軍の試作命令で開発を始めた小容量気筒( ボア130mm×ストローク150mm )の小型、軽量、高性能を狙った1000馬力級エンジンで、総生産台数は3万基を超え、陸軍の九七式三号艦上攻撃機、零式艦上戦闘機、夜間戦闘機「月光」、陸軍の九九式双発軽爆撃機、一式戦闘機「隼」などに搭載された。 そして、中島飛行機最後の傑作が「 誉

ほまれ」( 陸軍の呼称

はハ 45)であった。エンジン 本体の直径を「 栄」と同等のまま18気筒化して1800馬力を目標に開発された。1939年に開発をはじめ、1941年に試作を完成している。ボア、ストロークは「栄」と同じの空冷星型2列18気筒35.8ℓで、最高出力は2000馬力に近かった。ただし、本体の直径は「 栄」よりわずか30mm 大きい1180mmであった。海軍の陸上爆撃機「銀河」、艦上偵察機「 彩雲」、局地戦闘機「 紫電」「 紫電改」「 天雷」、艦上攻撃機「 流星」、陸軍の四式戦闘機「 疾

はやて風」などに搭載され

たが、高性能エンジンゆえにセンシティブな面があり、設計基準とした良質な燃料の入手難、生産面では熟練工員の不足による工作精度の低下、代用材料の使用、機能部品の信頼性の低下などによって、搭載機は実力を発揮できなかったと言われる。悪条件下にもかかわらず8747基生産された。 戦後、米国に運ばれた「 疾風」「 彩雲」などの「 誉」搭載機が、高質燃料によってテストされ、日本のデータを10%も上回るスピードを記録したという。 量産化には至らなかったが、星 型2列18気筒の2500馬 力 級 ハ117、ハ 44、星 型4列36気 筒 の5000馬力級ハ54-01( D-BH )、倒立空冷V 型およびW 型、さらにはターボジェットのネ-10、ネ-230などが開発途上にあった。太田新工場建設と近代化 1931(昭和6)年に満州事変が勃発し、戦時色が濃くなると、航空機の需要が激増し、既存の太田工場では狭くなってしまった。そこで、機体増産のための新工場が必要となり、太田町の東端に位置する24万7500㎡( 約7万5000坪)の土地を買収し、1934年初めから太田新

試作、生産を民間に委託する方針を策定し、軍の意図する飛行機を選定できる競争試作(コンペティション)制度を正式に導入した。海軍も1931年から正式導入している。このころには三菱、川崎、石川島なども飛行機生産を始めており、この制度はライバル同士の競争心を駆り立てて、多くの純国産優秀機を生み、わが国の航空機工業発展に大きく寄与することになった。東京工場建設とエンジン開発 機体製造ではライバ ルより一歩先をゆく中島飛行機であったが、エンジンの国産化に関しては、1923( 大正12)年に成功した三菱に先を越されてしまった。中島飛行機も1924年3月にエ ン ジ ン の本格生産を目指して新工場の建設を始め、翌年の11月に東京工場を完成した。場所は東京府豊多摩郡井荻町上井草( 現・杉並区桃井)の青梅街道沿いの畑であった。工場長は知久平の次弟、喜代一が就任した。当初の規模は、工作機械約190台、作業員約80名であった。東京工場は奇跡的に大きな空襲被害にあわず、終戦後、富士精密工業東京工場として再出発し、その後、日産自動車荻窪工場となったが、カルロス・ゴーンCEOのリストラ策の一環として売却され、現在は住宅地となり昔日の面影はまったくない。 スタートは水冷のロレーヌ(Lorraine)V型400馬力を、続いてW 型450馬力を生産し、1929(昭和4)年までに合計127基生産した。 一方で、空冷エンジンの高い生産性、安全性などから、その将来性を見通し、1925年、当時世界一のエンジンと言われた英国ブリストル社の空冷星型9気筒「ジュピター」の製造権を取得し、1928年から生産開始して150基ほど生産した。このジュピターをベースに、米国プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)社の空冷星

民間工場製最初の陸軍制式機で、初の日本人設計の量産機であった。価格はエンジンを除き1機1万1000円、エンジンは米国製ホールスコット( Hall-Scott )150馬力で仕入れ価格が1万5000円と高価であり、オ ーバークォリティだと考える川西と決別する原因のひとつとなる。東京でお米が、前年に米騒動が起きるほど暴騰していたが、それでも10kgで3円67銭ほどで買えた時代である。 同じ年の10月に実施された帝国飛行協会主催「 第1回懸賞郵便飛行競技」に参加し、四型機が東京―大阪間を往路3時間40分、復路3時間18分で飛び優勝し、中島機の評価を決定づけた。こうして、創業間もなく経営は軌道に乗り、1919年末には300名ほどの従業員を要するまでに急成長していた。 創業2年で早くも経営が安定したにもかかわらず、思わぬ問題が持ち上がる。1919年11月、出資者の川西が懸賞郵便飛行競技で太田を留守にしていた知久平の社長解任を発表したのである。原因は知久平が競技に傾倒するあまり、陸軍から受注した五型機の10月の生産がたった1機しかできなかったことにあったが、それ以前に米国からの高額なエ ン ジ ン 買い付けの件で意見の相違があり、一気に対立が表面化したのである。 川西は知久平に3日以内に工場全部を買い取るよう、無理な要求を突き付けたが、知久平は井上幾太郎(このときは陸軍中将)に頼んで、地元の武藤金吉代議士と新田銀行(現・群馬銀行)の支援を得て買い取りを果たす。そして同年12月26日に社名を「 中島飛行機製作所」に戻した。この事件以降、中島飛行機の経営は身内で固められるようになる。 川西との決別直後、井上幾太郎の紹介で三井物産と提携し、1937(昭和12)年に陸軍、1940年に海軍の命令によって提携を解消するまで、三井物産は中島の飛行機の販売を担当し、中島飛行機も同社との提携により企業としての信用を高めることができた。 1930年、知久平のよき理解者で、支援者でもあった

鉄道大臣時代の中島知久平。

中島飛行機が生産した民間機、フォッカー・スーパーユニバーサル旅客機。

上から、エンジンメーカーとしての基盤をつくった「ジュピター 6 型」、名声を高めた「栄」、高性能化した「誉」。

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「将来は世界から各分野の優れた学者を集め、政治、経済、ならびに航空機を含む先進技術の総合的な研究機関とする」遠大な構想を練っていたが、戦局が行き詰まるとともに、軍の命令により計画は挫折する。1944年4月、東京製作所に残された陸海軍エンジンの試作部門と、太田製作所の陸軍機体研究部門を合体させ、エ ン ジンの軽量化をはじめ航空機技術向上に貢献した。 三鷹研究所の広大な用地は、戦後、約180万㎡(55万坪)を国際基督教大学に売却し、残り約17万㎡(5万坪)を富士重工業東京事業所が使用している。増産のための相次ぐ増設 1941(昭和16)年12月8日、ハワイ真珠湾奇襲で米英と戦争状態に突入した日本であったが、戦地での航空機の消耗は激しく、1942年6月5日のミッドウェー海戦で日本海軍が主力を失ったのを転機に戦局は悪化していった。軍の生産要請も増大し、これに対応するため中島飛行機では次 と々工場の増設を進めていく。主なものは、1942年7月に半田製作所( 海軍・機体工場、敷地224.5万㎡、従業員数1万3000名、天山、彩雲を生産)、1943年3月に大宮製作所(海軍・エンジン工場、敷地39.1万㎡、従業員数1万名、栄、誉を生産)、1944年1月に宇都宮製作所( 陸軍・機体工場、敷地495万㎡(飛行場含む)、従業員数1万8000名、疾風を生産)、1944年11月に浜松製作所( 陸軍・エンジン工場、敷地153.8万㎡、従業員数8000名)などであった。

■空襲下の中島飛行機と国営化、そして終焉 東京が初めて空襲を受けたのは、1942( 昭和17)年4月18日、空母ホーネットを発艦したノースアメリカンB-25ミッチェル双発中型爆撃機16機のうちの13機によるものであったが、1944年7月から8月にかけてマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムが占領されると、ここを基地とした、レシプロ4発重爆撃機史上の最高傑作と言われる最新鋭のボーイング B-29スーパーフォートレスによる空襲をひんぱんに受けることになる。B-29による最初の東京空襲は1944年11月24日であったが、このときの最重点爆撃目標が中島飛行機の武蔵製作所であった。武蔵製作所は9回空襲を受け、死者220名、重軽傷者は数千名に達した。建物・機械も破壊され、壊滅状態となった。 太田、小泉ほかの製作所も甚大な被害を受け、急きょ近郊の学校、倉庫などに分散疎開するとともに、各地に耐弾地下工場の建設を開始する。 1945年3月10日の東京大空襲など本土空襲が激化

さないよう配慮され、工場で生ずる金屑は、すべて圧搾空気で集められて地下に落とされ、地下を走る電気トロッコで自動的に回収され、処理された。地下道は将来の空襲を予期して造ったものではなく、工場施設の近代化および合理的運営を目指したものであった。このシステムはディズニーランドにも応用されている。 さらに、生産面では、日本で初めてフォードの流れ作業システムによる大量生産方式と、工場管理にテーラーシステム の科学的管理方式を採用したことが注目される。これは、佐久間一郎が米国のカーチス・ライト社

(Curtiss Wright Corp.)を見学して得た教訓がもとになっていた。海軍専門工場、小泉製作所・多摩製作所の建設 陸軍がエンジンの専門工場を新設したことが海軍を刺激し、1938( 昭和13)年11月、海軍からの要請に対し、機体・エンジン工場の陸海軍分離の方針を固め、海軍機体工場として、太田町に隣接する邑

おおら楽郡小泉町

に、小泉製作所の建設を決定した。敷地は約132万㎡で、寮や住宅地を加えると200万㎡(60万坪)を超え、東洋一の規模を誇った。1939年から建設を開始し、翌年4月には一部が完成している。従業員数は開設時すでに5万5000名、1945年には6万8000名を超えていた。 ここでは、九七式艦上攻撃機をはじめ、「零戦」「月光」

「天山」「 彩雲」「 銀河」などの海軍機を量産したほか、多くの新鋭機の試作が行なわれた。 同時に武蔵野製作所の隣接地に、海軍のエンジ ン専門工場の建設を行なった。敷地に制約があったため、前例のない鉄筋3階( 一部4階)、地下1階の高層工場となった。建坪5万3000㎡(1万6000坪)、延べ床面積は23万㎡(7万坪)に及んだ。1941年11月に完成したが、海軍が武蔵野製作所と呼ぶことを良しとせず、多摩製作所という名称が与えられた。 その後、戦局が不利に展開するなか、生産量倍増の命令を受け、中島飛行機が以前から軍に提言してきた、隣接した陸海軍の工場が同じ工程を2ヵ所で行なう無駄の排除が認められ、武蔵野・多摩両製作所の統合が決まり、1943年11月、武蔵製作所が発足した。陸海軍のあつれきで別個の運営を余儀なくされてきたが、ようやく一元化されたのである。従業員数は徴用工や学徒動員で4万名に達していた。三鷹研究所の開設 国鉄(現・JR)中央線を挟んで、武蔵野製作所の南側に200万㎡(60万坪)の広大な用地を確保し、1941(昭和16)年12月、三鷹研究所を起工した。中島知久平は

新設を進めていく。1938年9月、本社を東京・丸の内の有楽館に移転し、1939年以降、政府保証の命令融資を受け、設備増強と増産は一層加速されてゆく。太田製作所の拡張と生産の合理化 陸軍の飛行機増産要望に応じて、1938( 昭和13)年に太田製作所をおよそ3倍の規模に拡張した。拡張後の敷地は約75万㎡(22万5000坪)、建物は約20万㎡(6万坪)、人員は約2万4000名となった。新設工場は陸軍機工場とし、旧工場を海軍機工場としている。このころから設計部門も陸海軍が別個のものとなり、それぞれ別棟に独立するようになった。

ここでは、陸軍の九七式戦闘機、海軍の九七式艦上攻撃機の量産を開始するが、主翼を1枚構造とし、胴体は前後部に分割して、別々の組み立てラインで製造する革新的な分割構造方式を採用した。また、製作部のなかに工作技術課と生産管理課を設け、両課の連携による工程管理の改善に努めた。未熟練工の比率が高まるにつれて作業能率が悪くなるので、作業の分業化と標準化を徹底して、班長を中心に組別の作業が行なわれた。組長に実権を与えて各組を競わせ、能率を上げた組には報奨金が支払われたという。武蔵野製作所の建設と量産方式の採用 国鉄( 現・JR )中央線三鷹駅から北へ3km ほどに位置した武蔵野製作所は、陸軍のエンジン専門工場として、1937( 昭和12)年10月に着工し、半年後の翌年4月、突貫工事で完成した。しかも、建設中にエンジンの生産を開始し、工場落成時には1号機を出荷するという慌ただしさであった。敷地面積は約66万㎡(20万坪)、建物は約12万㎡( 3万6000坪)の広大な最新鋭工場の設計は創業時からの技術者の一人、佐久間一郎の発案で、ドイツのクルップ社( 航空機エンジン工場)をモ デ ルとしており、工場間をはじめ、工場と食堂・事務所は全長7km にも及ぶ地下道が網の目のように走り、従業員が職場の中を通り抜けることで、作業能率を落と

工場の建設に着手し、同年11月に完成した。これを太田工場( 現・群馬製作所本工場)と称し、ここに本社も移転して中島飛行機の新本拠地とした。同時に、旧太田工場は呑龍工場と改称している。 1935年には、工程工具班( 現在の生産技術部門に相当)を発足させ、米国ダグラス社出張で見た治具や水圧機などによる量産方式を参考に、大量生産の基礎となる新鋭機械の製作・導入、作業工程の研究・作成など、生産性向上につながるあらゆる研究を行なった。 ■戦時体制下の中島飛行機 1937( 昭和12)年7月に勃発した日中戦争が長期化の様相を呈してくると、政府は1938年4月には国家総動員法を公布し、軍需産業最優先の経済統制を実施した。同年8月には航空機製造事業法が施行され、航空機事業は許可制となった。こうして保護育成が図られる一方、監督統制も強化されていった。中島飛行機も陸海軍からの航空機増産要望に対応すべく、工場の拡張、

太田製作所での一式戦闘機「隼」の生産。

双発の夜間戦闘機「月光」。

太田製作所での百式重爆撃機「呑龍」の生産。

画期的なシステムを導入した最新鋭工場「武蔵製作所」。

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■幻の乗用車P-1:すばる1500 富士産業の第二会社12社のひとつ、富士自動車工業で小型自動車の開発を正式に決定したのは1952(昭和27)年6月17日であった。専務の松林敏夫から生産部の設計課長であった百瀬晋六に開発命令が下された。 第二会社12社のひとつ、中島飛行機荻窪製作所を母体とする富士精密工業では1951年10月、1484cc直列4気筒OHV 45ps/4000rpm のFG4A-10型エ ンジンを完成し、翌1952年2月から、立川飛行機系のたま電気自動車( のちのプリンス自動車工業)が生産するプリンスセダン( AISH-Ⅰ型)に供給を開始していた。このエンジンを搭載した乗用車を製造しないか、という話が富士自動車工業にもちかけられていた。 1952年7月、富士精密工業、富士自動車工業、大宮富士工業3社の経営陣が集まり、富士精密工業製エンジ ン に、駆動系・足回りの機械部品を大宮富士工業、車体とクル マとしてのまとめを富士自動車工業で行なうという構想が練られた。開発に携わることになった技術者はいずれも自動車の経験はなく、ゼ ロ からの出発であった。

低迷し、1996年から不採算部門に転落、2003年5月、合計1万300両ほどを生産してきた鉄道車両事業も終焉を迎えた。この技術は石川島播磨重工業と日本政策投資銀行の出資で設立された新しい鉄道車両メーカー、新潟トランシス株式会社に引き継がれている。 1948年からラビットスクーター用エンジンを「ロビン」の名前で、汎用エンジンとして販売していたが、1956年5月、農業用エンジンとしてロビンエンジンを発売、これが主力商品に育つ。2001年には環境にやさしい次世代型汎用エンジンEXシリーズを投入するなど、新市場の開拓、グローバルネットワーク化を進め、プレミアムブランドの確立を図っている。 航空機生産再開の機会は1953年に訪れた。富士重工業設立を急いだのが功を奏し、保安庁(現・防衛省)が調達を決定した米国ビーチ・エアクラフト社のT-34メンターの受注に成功した。1953年にはビーチ・エアクラフト社と技術提携して、メンターのノックダウン生産による国産化を進め、1955年10月には国産1号機を完成している。さらに、1956年7月にはT-1ジェット中間練習機試作を受注し、翌1957年11月、約1年という短期間で戦後初の純国産ジェット機「T1 F2」を完成した。その後、ヘリコプター事業への進出、各種実験機の開発・試作などを重ねて航空機事業の基盤を築いていった。民需向けでは、官民挙げて取り組んだ YS-11の主翼桁と尾翼を担当。FA-200「 エアロスバル」を1966年から開始し、民需部門を支える柱に成長させている。さらに、ボーイング社、エアバス社および国産旅客機等の新規プロジェクトに参画して、新事業創造へ挑戦している。 環境関連では、塵芥収集車フジマイティー、ゴミ処理プラント、高層ビル用ゴミ分別搬送システムなどを基盤にしての事業展開。そのほか、風力発電システム、知能ロボット技術も将来有望な事業となるであろう。

■事業内容 富士重工業の屋台骨を支えたのはラビットスクーターであった。1955( 昭和30)年から3年間の売り上げ構成比は、スクーター 49%、バスボディー20%、航空機12%、車両10%、機械9%であり、全社売り上げの約半分がスクーターであった。だが、1952年ごろから市場に参入したオートバイとの競争が激しくなり、ラビットスクーターの生産台数は1961年をピークに、その後は年々減少傾向をたどり、1968年6月に生産の幕を閉じた。 スクーターとともに当初の経営を支えたのがバスボディーであった。航空機技術を応用したモノコック構造ボディーはどのメーカーのいかなるシャシーにも架装できるユニークなもので、川崎航空に次いで第2位のシェア を占めた。しかし、バ ス 事業は1980年に2393台生産したのをピークに、以後、路線バスの廃止、バス旅行の低迷、バス事業会社の経営悪化が相次ぎ、生産台数が減少して構造不況の様相を見せるようになる。企業努力を重ねたが1993( 平成5)年以降は赤字経営となり、2003年3月、バス事業57年の歴史に幕を閉じる。57年間に出荷したバスの累積台数は8万1292台( うち輸出は6000台以上)に達した。 バ スと同様に構造的な需要減退に苦しめられたのが鉄道車両事業であった。1979年をピークに総需要が

第4章スバルの乗用車、小型・軽4輪商用車

の歴史

新生富士重工業設立のための 6 社合併調印式、写真中央で署名しているのは北社長。

ノックダウン生産されたメンター1号機の公開飛行(1954年3月)。国産エンジンが間に合わず、英国のブリストル社製ジェットエンジンを積んだ T1F2 の 1 号機を飛行場に送り出す。

 そこで、参考車として1950年に発売された英国フォード・コンサルと米国ウイリスオーバーランド社製の1952年型エアロウイリスが用意されたが、特にコンサルを徹底的に調査・吸収したと言われる。 「 P-1( Passenger car-1)」のコードネームが与えられてスタートした小型車の構想は、1500cc エンジン 搭載の6人乗り4ドアセダンで、駆動方式はFR( フロントエンジン・リヤドライブ)。ボディーは航空機技術を応用して、軽量化と耐久性を追求したフルモノコック方式で、これは当時他社では採用していない独自のものであった。 ホイールベース105in(2667mm )の第1次試作モデル( コードネームP-105)の1号車が完成したのは1954年2月で、合計3台製作された。この3台でテストが実施され、大幅な改良をほどこし、ホイールベースを10 0 in( 2540 mm )に変更した増加試作モデル(コードネームP-10 0)が17台製作されている。 この間、P-1にエンジンを供給していた富士精密工業の株式が、1951年4月、日本興業銀行からブリヂストンタイヤ の石橋正二郎に譲渡され、1954年4月には石橋正二郎が株式を所有するプリンス自動車工業と合併したため、富士自動車工業としては、ライバルのエンジンを使うわけにはいかなくなってしまった。実情は、富士精密工業のエンジン開発に際し、たま電気自動車から試作エンジン5基の開発費として600万円( 当初予算は500万円であった)および、石橋正二郎が所有していたプジョー202のエンジンをサンプルとして提供しており、富士自動車工業へのエンジン供給に難色を示したためとも言われている。 1953年には大宮富士工業で直列4気筒を意味する「 L-4」のコードネームで自前のエンジン開発を始めていた。参考としたのは、英国フォード・コンサルと英国GMのボグゾールのエンジンであった。1954年2月には1485.4cc 直列4気筒OHV エンジンの試作1号機が完成している。チューニングの結果63ps/4600rpm

P-1 の参考となった英国フォード・コンサル(1950 年発売)。

P-1 の参考となった米国ウイリスオーバーランド社製 1952 年型エアロウイリス。 通産省機械試験所の東村山テストコースに現れた P-1 の 1 号車。

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の技術者を伊勢崎製作所の会議室に集めて「 軽四輪車計画懇談会」が開かれた。この席でP-1の販売計画中止が正式に発表され、同時に、富士重工業独自の技術で軽四輪車の開発に着手することを決定、コードネーム

「 K-1テン

0」が与えられ、車体はP-1開発の実績を持つ伊勢崎製作所が担当、エンジンはラビットスクーター用エンジンの生産実績がある三鷹製作所が担当することになった。 K-10開発の重点課題は、大人4人のスペース確保、車体の軽量化、快適な乗り心地の実現、生産の簡易さであった。まず大人4人分のスペースを確保し、余ったスペースにエンジン、サスペンション、運転装置などを収め、課題を満足させるには、駆動方式はRR( リヤエンジン・リヤドライブ)、タイヤサイズは10インチ、サスペンションはトーションバースプリングとすることが早い段階で決定されていた。当時、自動車用タイヤの最小サイズは12インチであり、ブリヂストンタイヤと交渉して10インチの専用タイヤ開発を、自動車用トーションバ ーの開発は日本発条が快諾してくれたという。なお、エンジンはスクーター用の既存設備を生かすことと、構造が簡単で軽量化が図れる空冷2サイクル に決定した。理想的な駆動方式としてFF( フロントエンジン・フロントドライブ)も候補に挙がったが、当時はドライブシャフト用等速ジョイントの開発が技術的に困難との判断から却下された。この技術はやがて、スバル1000で実現する。当時、「 エンジニアズ・ドリームカー」と称されたシトロエンDS19に心酔していた百瀬たちは、初期構想ではハイトコントロール が容易な、ハイドロニューマチック・サスペンションも視野に入れていたという。  1956年3月24日、伊勢崎製作所にK-10試作スタッフが集められ、伊勢崎、三鷹の技術部が共同制作したK-10計画説明書( 第1次案)が発表され、審議を経て、

場の社用車に、残り6台が太田、伊勢崎、本庄でタクシーとして使われ、たいした故障もなく10万km走り、社用車として使用された4号車は40万kmを故障なく走り、抜群の耐久信頼性を発揮した。

■幻のトラックT-1 0 富士自動車工業では富士精密工業製FG4A 型エ ンジンを搭載した小型トラックの研究試作を行なっている。フロントサスペンションに横置きリーフスプリングを採用するなどユニークな設計であったが、残念ながらわずか3台試作しただけで計画はストップしてしまった。

■スバ ル 3 6 0(開発コードK-1 0)1 9 5 8 年 3月3日 発表、5月1日発売

 富士重工業が軽四輪車の開発構想をスタートしたのは1955(昭和30)年春であった。富士重工業の常務取締役となっていた松林敏夫から、百瀬晋六がP-1に次ぐ開発車の初期構想発案を打診されていたのである。検討を始めて間もない1955年5月、新聞紙上で通産省の

「国民車育成要綱案」、世にいう「国民車構想」を知る。乗用車の大衆化を促進するため、通産省の定めた技術基準のもと、自動車メーカーに競争試作をさせ、最終的に一車種に絞り、国民車として国が生産・普及の援助を与えるというものであった。 国民車構想では大人2人+子供2人のいわゆる2+2が許容されていたが、百瀬の考えは違っていた。軽自動車の枠内( 全長3.0m 、全幅1.3m 、全高2.0m 、排気量360cc )で大人4人が乗れ、苦痛なく移動できる小型車並みの実用性能を持つ理想的な軽四輪車を造ろうというものであった。 そして、1955年12月9日、常務の松林をはじめとする技術担当役員、自動車企画担当者、伊勢崎および三鷹

を発生し、1955年4月からP-1に搭載してテストしたところ、最高速度100km/h、0-400m 加速性能は20秒を切ったという。L-4エ ン ジ ンは1954年から約1年間にわたり35台生産された。 1955年4月1日、前述の6社合同で新生富士重工業が発足し、社長の北謙治はP-1を発売すべく、自ら「すばる」と命名し、正式に「すばる1500」と呼んだ。しかし、生産設備や販売網づくりに莫大な資金を要することから商品化には至らなかった。 「すばる」とは、西洋名をプレアデ ス星団といい、数千の星による星団だが、とりわけ六つの星が肉眼でも確認できるため、「六

むつ連らぼし

星」と呼ぶ。6企業が合同合併して誕生した富士重工業を象徴するネーミングである。 1956年に自動車技術会主催の遠乗り会に百瀬はP-1を参加させた。トヨペットクラウン、いすゞ ヒルマン、日野ルノー 4CV、日産オースチンA50が参加したが、P-1の乗り心地と操縦安定性には最大級の評価が与えられ、百瀬晋六は「 我々はP-1で自動車屋になった」と言っている。 P-1には富士精密工業製FG4A型エンジン搭載車が11台、大宮富士工業製L-4エンジ ン 搭載車が9台製作されたが、14台がナンバーを取得し、うち8台が各工

企画部によって「 試作計画書」が発行され、具体的な開発作業がはじまった。エンジンの開発と並行して、ドイツ製ロイトの400ccエンジンを搭載した台車が作られ、シャシーまわりの開発がすすめられた。 ボディーのデザインは、以前三菱重工業で船の内装デザインを手掛けていた、工業デザイナーの佐々木達三に依頼している。軽量化のため、P-1の経験を生かしフレームレス・モノコックとし、剛性の高い曲面ボディーの採用で鋼板は0.6mmと薄く、屋根には繊維強化プラスチック( FRP:Fiber Reinforced Plastics )が使用された。いずれも航空機技術を生かしたもので、わが国の自動車に初めて採用されたものであった。中島飛行機では運動性能に影響を及ぼす重量について、とりわけ厳しく管理されていたと言われる。 1957年4月20日、試作第1号車が完成し「スバル360」と命名された。第1次試作車は5台製作され、1号車と4号車は耐久試験、2号車は性能試験、3号車はエンジン試験、5号車は強度剛性試験にそれぞれ供された。 走行テストを始めると、次 と々トラブルが発生し、それらをひとつひとつ解決して玉成し、通産省および運輸省の担当官を招いて試乗会を実施したのは1957年8月であった。評価は非常に満足のいくものであり、増加試作60台を生産して、50台を市販し、残り10台は最終的

当時本社のあった丸の内 2 丁目内外ビル(再開発され現・丸の内三井ビル)前のすばる 1500(P-1)。

大宮富士工業で 35 台試作された L-4 エンジン。 わずか 3 台試作された T-10 型トラック。

スバル 360 の先行テスト用台車、独・ロイトの 400cc エンジンを積んでいた。

スバル 360 試作 1 号車の試走式。

東京・赤坂の伊藤忠自動車ショールームでのスバル 360 増加試作型の発表会。

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   1958年5月1日発売、450は1960年10月14日

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1958年3月3日に発表され、5月1日発売された、富士重工業最初の市販軽乗用車、スバル360増加試作型。東京地区で50台が限定販売された。価格は 42.5 万円。全長 2990mm、全幅 1300mm、全高 1380mm、ホイールベース 1800mm。中島飛行機時代の航空機製造ノウハウを活かした車両重量は385kg と軽量であった。最高速度83.0km/h。表紙のモデルは女優の馬渕晴子。

大人4人のスペースとドライバーの快適なドライビングポジションを確保するために工夫された足回り、フロントがトレーリングアーム、リヤはスイングアクスルの4輪独立懸架で、フリクションダンパーと前後ともトーションバーとセンタースプリングを併用した独特な方式を採用。ステアリングはラック&ピニオン方式を採用している。エンジンは強制空冷2サイクル直列2気筒 356cc、16ps/4500rpm、3.0kg-m/3000rpm、3速MTのシフトパターンはリンク機構を省略していたので横H型であった。

実にシンプルな運転席。メーターは速度計のみで燃料計もない。落下式の燃料タンクは 2層式になっており、メインの燃料がなくなりエンストしたら、サブタンクの燃料コックを開けて走り、速やかにガスステーションを目指せという、割り切ったもの。大人4人が楽に乗れることを最優先に練られた卓越したパッケージングを持つ。右側後方の吸気用エアダクトグリルが無いのが増加試作型の特徴。

1958年 7月発売された 58年後期型。ドアガラスは引き戸式のまま三角窓が新設され、右側後方の吸気用エアダクトグリルが追加された。プレス型の再調整により、ボディー全体が増加試作型にくらべ丸みをおびている。モデルは女優の青山京子。

1959 年 8月発売された 360 コンバーチブル。型式は 60 年前期型となった。前月発売された 59 年後期型から、カウルベンチレーターが追加され、引き戸式ドアガラスが2分割され通気性が向上した。価格は43.7 万円。

1959 年 12月発売された 360コマーシャル。2シーターとし、リヤエンジンルームの上からルーフ後半を開閉可能なソフトトップ仕様としたもの。後部のサイドウインドー部を倒して積み降ろしを容易にする仕掛けが施されていた。価格は37.5 万円。

1960 年 2月発売された 60年後期型。フロントバンパーが一本化され、シフトパターンが横Hから縦Hになり、2速と 3速にシンクロメッシュが採用された。シート材質が改良され、リヤシートがベンチシートとなり、フロントシート背面がアルミむき出しからビニールでカバーされた。フリクションダンパーにかえてオイルダンパーが採用された。

360・450

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2002 年 9 月改良され発売されたサンバーバン。エンジンはNA の 48ps のみとなった。この時点ではディアスがバンシリーズにラインナップされているが、2003 年 11 月にディアスはディアスワゴンに統合され、「ディアスワゴン」「バン」「トラック」の 3 車種展開となる。なお、トラックも同様の顔立ちとなった。価格はバンが 76.7 ~ 125.5 万円、トラックは62.8 ~ 109.3 万円。

2006 年 11 月発行された赤帽専用車のカタログ。これはパネルバンだが、バン、幌付きコンテナ、冷凍車・保冷車など多くのバリエーションが用意されていた。エンジンには白金プラグの採用やフリクション低減、パッド摩耗警報付フロントベンチレーテッドディスクブレーキ、収納式ハンドブレーキレバー、電源用ハーネスなど赤帽専用装備が施されていた。

2009 年 9 月 3 日、サンバーディアスワゴンをフルモデルチェンジし、発売された「ディアスワゴン」。ダイハツ工業からアトレーワゴンの OEM 供給を受けたもので、サンバーの名は付かず「スバル ディアスワゴン」となった。

2009 年 9 月発売されたサンバーバンとトラック。フロントまわり、インストゥルメントパネルなどのデザインが変更され、バンのディアスとトランスポーターにスーパーチャージド 58ps エンジンが設定された。価格はバンが 82.4 ~137.4 万円、トラックは 63.4~ 113.5 万円。

2010 年 5 月発売されたキャンピングカー「旅人(たびと)」。サンバーバンをベースに桐生工業が架装を担当する。価格はベース車+ 24.675 万円(スタンダード)~ 65.1万円(スペシャル)。

2011 年 7 月、サンバー発売 50 周年記念特別仕様車として発売された「WR BLUE LIMITED」。トラック TC、バンディアスをベースに、ボディーカラーに専用色の「WRブルーマイカ」や、専用ブラックシートなどの特別装備を施したモデル。エンジンは NA の 48ps のみだが、2WD には E-3速 AT/5 速 MT、セレクティブ 4WD にはEL 付き 6 速 MT、フルタイム 4WD にはE-3 速 AT の組み合わせがあり、価格はバン が 112.2857 ~ 134.1857 万 円、 ト ラックは 85.619 ~ 106.519 万円。トラック、バンあわせて限定 1000 台であった。当初 500 台であったが、即日完売したため 500 台追加したが、追加分もすぐに完売したという。

1965 年 10 月、東京・晴海で開催された第 12 回東京モーターショーで一般公開されたときに配布されたスバル 1000 最初のカタログ。まだ詳細なスペックは記載されておらず、別刷りの「スバル 1000 仕様概要」が挟み込まれていた。ホイールキャップなど生産車とは異なる。

モーターショーで手にしたカタログに挟み込まれていた富士重工業の貸コースの案内と割引定期券。料金は小型車持ち込みで 1 時間 300 円を 240 円に割り引くとある。当時、免許証所有者がいまの4分の1ほどであったから、免許証を取ってもらう算段から始めなければならなかった。

1966 年 5 月 発 売 さ れ た ス バ ル1000 4 ドアセダン。スタンダード、デラックス、スーパーデラックスがラインナップされ、全長 3930mm

(スタンダードは 3900mm)、全幅1480mm、全高 1390mm、ホイールベース 2400mm、車両重量 670~ 695kg、 最 高 速 度 130km/h であった。運転席まわりはシンプルで、FF の強みである室内足元の広さは抜群であった。価格は 49.5 ~58 万円。

1966年5月14日発売1000、ff-1

2005 年 11 月発売されたディアスワゴン。フロントまわりのデザイン、内・外装の質感の向上、仕様装備の充実が図られた。サンバーバンに上級仕様を施したディアスが復活した。

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●第1世代(1983年10月3日発売)●ドミンゴ

「僕にはみんながいる。」のコピーと 7 人のモデルをちりばめたドミンゴのカタログ。1983 年 10 月、国産初の 7 人乗り 1ℓ ワンボックスワゴンとして発売された。プラットフォーム、ボディー外板はサンバーのものを流用し、既存の小型ワンボックスには無い、使い勝手の良さ、経済性を誇った。サイズは全長 3410mm、全幅 1430mm、全高1870/1900mm、ホイールベース 1805mm。4WD と RR それぞれ 3 車種あり、価格は 89.8 ~ 126.5 万円。

ドミンゴは国産初の 7 人乗りに加え、国産初のフロント回転対座シート、フルフラットになるなど、目的に応じて 7変化する「ウルトラ バリエーション シート」というユニークな仕掛けを持つ、新しいカテゴリーの「多目的リッターワゴン」であった。

ドミンゴのサスペンションはフロントがマクファーソンストラット、リヤはセミトレーリングアーム+コイルスプリング、前輪にはディスクブレーキを備える。EF10 型 997cc 水冷 4 サイクル直列 3 気筒 OHC、56ps/5400rpm(グロス)、8.5kg-m/3200rpmエンジン+ 5 速 MT を積む。プッシュボタン式セレクティブ4WD を採用、切り替えボタンは当初インストにあったが、1984年 11 月シフトノブに移されている。

1986 年 6 月、4WD 車のエンジンは EF10 型のストロークを伸ばした、EF12型1189cc、52ps/4800rpm(ネット)、9.7kg-m/3200rpm エンジンに換装された。同時にサンルーフ車のルーフ側面に「サンサンウィンドゥ」が追加されている。価格は 123.7 ~135.3 万円。

1986 年 8 月に追加設定された、日本初のフルタイム 4WD ワンボックス「ドミンゴ GX」。フリーランニング式フルタイム 4WD で、価格は142 万円(ツートンカラーは 144.6 万円)。なお、1988 年 2 月には 4WD モデルはすべてフルタイム(フリーランニング式)を採用した。

1991 年 9 月発行の左ハンドル車英文カタログ。モデル名は「E12/E10」となっており、基本スペックは国内モデルと同じだが、デリバリーバンの名前でブラインドバンが設定されていた。

1984 年にスイスで発行されたカタログ。モデル名は「スバルワゴン 4WD」となっており、スペックの詳細は記載されていない。ストライプのデザインは国内仕様とは異なる。

1991 年の第 29 回東京モーターショーに参考出品されたショーモデル「ドミンゴ ビーズィー(BZ)」。

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●第2世代(1991年9月18日発売)●

●第1世代(1989年2月1日発売)●レガシィ

1987 年の第 27 回東京モーターショーに参考出品されたコンセプトカー「F624 ESTREMO(エストレモ:イタリア語で究極の意)」。2.0ℓ フラット 6 DOHC 24 バルブ ツインターボ 250ps を積み、フラッシュサーフェス化されたラウンドキャノピーの提案であった。

1989 年の第 28 回東京モーターショーに参考出品されたコンセプトカー「SVX」。外観は 2 代目アルシオーネ SVX に近い形になっており、エンジンは 3.3ℓ フラット 6 DOHC 24 バルブ 250ps エンジンに VTD 方式フルタイム 4WD を積む。サイズは全長 4655mm、全幅 1845mm、全高 1305mm、ホイールベース 2610mm。

2 代目アルシオーネ SVX 発売の翌月、1991 年 10 月に開催された第 29 回東京モーターショーに参考出品されたショーモデル「アルシオーネ SVX グリーニッシュエア」。ボディーとインテリアに特別色を採用したスペシャルバージョン。

日本国内より一足早く、1991 年 8 月に発売された米国仕様「スバル SVX」のカタログ。もちろん左ハンドルだが、基本スペックは国内仕様と同じであった。

1991 年 9 月発売されたアルシオーネ SVX。最大の特徴はグラス toグラスで構成されたラウンドキャノピーで、ドアガラスとリヤクォータガラス開閉のためにミッドフレームを設けた個性的なグリーンハウスを持つ。車種構成はバージョン L と E の 2 車種のみで、この写真はハイグレードのバージョン L で、本革シート、4WS(Four Wheel Steering System:4 輪操舵)などを標準装備する。サイズは全長 4625mm、全幅 1770mm、全高 1300mm、ホイールベース2610mm、車両重量 1580(E)/1620(L)kg。価格は 333.3(E)/399.5(L)万円。

アルシオーネ SVX に搭載された EG33 型 3318cc 水平対向 6 気筒 DOHC24 バルブ EGI(電子制御燃料噴射装置)240ps/6000rpm、31.5kg-m/4800rpm エンジン。

アルシオーネ SVX の透視図と平面図(輸出用左ハンドル車)。サスペンションは前後ともストラット式で、E-4 速 AT と VTD-4WD(Variable Torque Distribution-4 Wheel Drive:不等&可変トルク配分電子制御 4 輪駆動)、リヤデフにはビスカス LSD、ブレーキは前後ともディスクを装着していた。

1995 年 7 月マイナーチェンジされ発売されたアルシオーネSVX S4。メッシュタイプのフロントグリルに変更され、BBS 製16 インチアルミホイールを装着、従来のバージョン E に近い仕様だが、細部に原価低減を試み、価格を 316.6 万円に抑えた。

「THE LONGEST DAY - 1989 年 1 月 2 日、07 時 30分。米国アリゾナ・テストセンターの夜が明けた。今日、果てしない挑戦が始まる。」のタイトルが付けられた記念冊子と英文リーフレット。3 台のレガシィ4WDセダンが19日間、昼夜兼行で10万km(地球 2.5 周相当)を走行し、平均時速 223.345km/hの世界記録を樹立、しかも 3 台とも完走するという快挙を成し遂げた。

1989 年 1 月 23 日に発表され、2 月 1 日に発売されたレガシィセダン。レオーネの後継だがエンジン、サイズとも一回り大きくなって登場した。FF/4WD、1.8ℓ/2.0ℓ、E-4 速 AT/5 速 MT を組み合わせると、セダンの基本車種だけで 18 モデルというワイドバリエーション展開であった。サイズは全長 4510mm、全幅 1690mm、全高 1385(FF)/1395(4WD)mm、ホイールベース 2580mm、車両重量 1060 ~ 1290kg。価格は112.5 ~ 205.1 万円。

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●第1世代(1992年11月1日発売)●インプレッサ

1992 年 11 月、レオーネの後継モデルであるレガシィが大きくなり、新たな中間車「新上級大衆車」として登場した「インプレッサ」。これは伝統のサッシュレスドアを持つハードトップセダン。エンジンはいずれも水平対向 4 気筒 SOHC 16 バルブで、4WD 車には EJ18 型 1820cc 115ps/6000rpm、15.7kg-m/4500rpm と EJ16 型 1597cc 100ps/14.1kg-m、そして FF 車には EJ15 型 1493cc 97ps/13.2kg-m を積む。これに E-4 速 AT または 5 速 MT が付く。サイズは全長 4350mm、全幅 1690mm、全高 1415(FF は 1405)mm、ホイールベース 2520mm で、車両重量 990 ~ 1170kg。価格は 122.2 ~ 202.2 万円。

インプレッサのサスペンションはフロントが L 型ロアアーム・ストラット、リヤはデュアルリンク・ストラットの 4 輪独立懸架で、全車フロントにはベンチレーテッド・ディスクブレーキを標準装備し、4WD は AT 車にはアクティブトルクスプリット方式、MT車にはビスカス LSD 付きセンターデフ方式が採用されている。

セダンと同時に発売されたインプレッサ スポーツワゴン。セダンと全く同じ全長のコンパクトワゴンで、1.8ℓ 4WD と 1.6ℓ FF があり、4WD にはスイッチ操作により 40mm の車高アップが可能なハイトコントロール機能を持つ電子制御エアサスペンション(EP-S)装着車も設定されており、エアサス車の 5 速 MT はデュアルレンジ付きであった。価格は 137.0 ~ 207.0 万円。

1992 年 11 月、「ここまで、スポーツ。あくまで、セダン。」のコピーとともに登場したホットモデル「インプレッサ WRX」。EJ20 型 1994cc DOHC 16 バルブ 空冷インタークーラーターボ 240ps/6000rpm、31.0kg-m/5000rpm エンジン+ 5 速 MT +ビスカス LSD 付きセンターデフ方式フルタイム 4WD +リヤ・ビスカス LSD、4 輪ベンチレーテッド・ディスクブレーキ、アルミフロントフードなどを標準装備する。サイズは全長4340mm、全幅 1690mm、全高 1405mm、ホイールベース 2520mm で、車両重量 1200kg。価格は 229.8 万円。

「コンペティション・ユース・オンリー。」と書かれたカタログモデル「WRX type RA」。インタークーラーウォータースプレイ、ラリーサスペンション、クロスレシオ 5 速 MT を装備し、車両重量はノーマルの WRXより30kg 軽い1170kg。価格は 210.8 万円。

1993 年発行の欧州向けインプレッサの英文カタログ。車型呼称は 4 ドアセダンと 5 ドアでワゴンの名称は付かない。おのおのに 1.6ℓ FF と 1.6ℓ/1.8ℓ フルタイム 4WDが あ り、5 ド ア 4WD のMT 車にはデュアルレンジ 5 速 MT が付き、その他 は E-4 速 AT ま た は 5速 MT を積む。

1993 年 10 月、WRX セダンに VTD-4WD(不等&可変トルク配分電子制御 4 輪駆動)を搭載した E-4 速 AT 車が追加設定された。しかし 1994 年 9 月発行のカタログからは落とされており、以降セダン WRX AT 車が初代インプレッサのカタログに載ることはなかった。エンジン出力は 220ps/28.5kg-m。

1993 年 10 月追加発売されたスポーツワゴン WRX。セダン WRX AT車と同じ 220ps エンジンに 5 速 MT または E-4 速 AT を積む。サイド&リヤアンダースカート、ウエストリヤスポイラー、バケットシートなどをはずした WRX-SA モデルも設定されていた。価格は 219.3 ~261.8 万円。

1994 年 1 月、セダン / ワゴン合わせて月産 100 台限定受注生産された、インプレッサ初の STI 社チューンのファクトリー・コンプリートカー「WRX-STi」。鍛造ピストン、軽量ラッシュアジャスター、専用ECU、強化インタークーラーダクト、インタークーラーウォータースプレイと専用ノズル、STI/ フジツボ製大径(101.6φ)マフラーを装備、ワゴンはタービン、カムシャフトをセダン WRX と共通の高出力型に変更、エンジン出力は 250ps に達し、セダンは 10ps、ワゴンは30ps のパワーアップを果たしている。そのほか STI フロントストラットタワーバー、耐フェード性に優れたフロントブレーキパッド、エクセーヌシート、STI/ ナルディステアリング、大型リヤスポイラー(セダン)などを装備する。価格はセダン 277.8 万円、ワゴン 285.8 万円。

1994 年 9 月発行の WRX のカタログに載ったラリーシーン。開発当初から、WRC(世界ラリー選手権)をターゲットの一つに開発されてきた WRX は、1993 年の WRC 第 9 戦「1000 湖ラリー」にデビュー、いきなり 2 位に入賞して、そのポテンシャルの高さを世界に知らしめた。その後 1994 年には第 3 戦「サファリラリー」ではグループ N で 1 位、第 5 戦「アクロポリスラリー」総合1 位、第 7 戦「ラリーニュージーランド」総合 1 位を獲得、チャンピオンへと邁進していく。この写真は 1994 年第 2 戦「ラリーポルトガル」のシーンで、ドライバーはカルロス・サインツ(Carlos Sainz)で総合 4 位であった。

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2003 年の第 37 回東京モーターショーに参考出品され、同時に配布された「R2」のプレカタログ。NA エンジン+ i-CVT とスーパーチャージドエンジン+ 7 速スポーツシフト i-CVT があり、サイズは全 長 3395mm、 全 幅 1475mm、全高 1525(NA 車は 1520)mm、ホイールベース 2360mm と発表された。

2003 年 12 月発売された「R2」。航空機をモチーフに採り入れ、スバルのルーツと技術力を表現した「スプレッドウイングスグリル」を持つユニークなデザインは、2002 年からスバルのアドバンスドデザイン担当チーフデザイナーを務めたギリシャ人のアンドレアス・ザパティナス(Andreas Zapatinas)の作品と言われる。EN07型 658cc SOHC 46ps(グレード i)と DOHC 16 バルブ AVCS 54ps(グレード R)には 5 速 MT または i-CVT、そして DOHC 16 バルブ インタークーラー付きスーパーチャージャー 64ps(グレード S)には7 速スポーツシフト i-CVT を積み、すべてのグレードに FF と AWDがある。価格は 86.0 ~ 140.0 万円。

2005 年 11 月、新デザインのフロントグリル&バンパー、リヤコンビランプとリヤガーニッシュ、リヤバンパーにアンダースポイラー採用などの改良を受けて発売された R2。サスペンションは変わらず、フロントが L 型ロアアーム・ストラット、リヤがデュアルリンク・ストラットの 4 輪独立懸架。価格は 80.0 ~ 118.4(グレード R の AWD i-CVT)万円。

2005 年 11 月の改良時に車種構成が変わり、新設されたスポーティモデル R2

「type S」。DOHC NA 54ps + i-CVT を 積むグレード R と DOHC スーパーチャージャー 64ps + 7 速スポーツシフト i-CVTを積むグレード S があり、それぞれ FFと AWD が設定されている。専用外装色、ガンメタリック塗装アルミホイール(R:14in、S:15in)、専用デザインシート、タコメーター付き独立 3 眼エレクトロルミネセントメーター、本革巻きステアリングホイール&シフトノブなどを装備し、上質さとスポーティさを演出している。価格は 119.0 ~ 145.0 万円。

R2 には多くの特別仕様車が出現した。ここにそのいくつかを紹介する。

2005年1月4日発売、発表は2004年12月24日R1

2003 年の第 37 回東京モーターショーに参考出品された電気自動車「スバル R1e」。都市生活でのパーソナルユースにふさわしい移動体として、2 + 2 シーターレイアウトのパッケージングを採用。サイズは 全 長 3330mm、 全 幅 1550mm、 全 高1420mm、ホイールベース 2195mm。マンガン・リチウムイオン電池を積み、モーター作動電圧 288V、最大出力 60KW。

2005 年 1 月発売された「R1」。「“小さいこと” に価値を求めた “My Best Mini”」のコピーどおり、パーソナルユースに特化し、軽自動車の枠にとらわれず、前席の乗員スペースを重視したパッケージングとパーソナルカーとしての最適な サ イ ズ を 選 択 し た ク ル マ。EN07 型658cc 直列 4 気筒 DOHC 16 バルブ AVCS 54ps/6.4kg-m エンジン+ i-CVT を積む。サイズは全長 3285mm、全幅 1475mm、全高1510mm、ホイールベース2195mm、車両重量 800(FF)、840(AWD)kg。価格は117.5 ~ 130.4 万円。