国 語(27-立) 2 71立 国 語 注 意 5...
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(27-立)
2 71立
国 語
注 意
-問題はE]から@]までで、T.
-
ロ次の各文の - を付けた漢字の読みがなを書け。
川 式が厳かに挙行された。価 歴史を遡って考える。㈱ 森林を濫伐してはならない。㈲ 辛殊な批評を受ける。㈱ 戴冠式に出席する。
次の各文の - を付けたかたかなの部分に当たる漢字を槽書で書け。㈲ 機嫌をTF7Tねる。㈱ 立てフダを読む。㈱ 子供には引錠が飲みやすい。㈲ 刑可引引犬を飼う。㈱ 湖畔のホテルにトウシユクする。
一立-1-
次の文章を読んで、あとの各間に答えよ。(*印の付いている言葉
には、本文のあとに 〔注〕 がある。)「姉」は十七歳で詩の賞を受賞し'第一詩集は高く評価されたがへ第二
詩集はいい評価を受けなかった。高校生の 「わたし」はその 「姉」 の詩集の評価をめぐって友人と仲たがいをして'いらいらしていた。香ばしいバターのにおいがリビングのほうまで漂ってくる。わたしはキッチンにとって返し、オーブンの前にしゃがんで中をのぞ
いた。ガラス窓の向こうで、オレンジ色の光がクッキーをじりじりと照らしている。
この際、バースデーケーキも手作-してしまおうか。やけくそ気味で'考える。ふっ-らしたスポンジケーキを焼いて'いちごと生クリームをたっぷ-のせて'まるごとたいらげるのはどうだろう。いや'わざわざケーキを準備する必要もないかもしれない。たかが誕生日に過ぎない。毎年必ずめぐって-るのだから'子どもの頃ならともかく、大騒ぎして祝うほどのものでもない。
つらつらと思いめぐらせつつも'立ちあがれない。オーブンの熱気で顔がほてる。
たいしたことじゃない。-よ-よしな-ていい。自分を励まそうとす
ればするほど、なにもかもうま-いかないような気分にとらわれる。単純に'ひとりばっちの誕生日がさびしいというだけではない。なんというか'もっと大き-根本的な問題が、わたしの前に立ちはだかっている気がしてくる。
がんばっているのに。そういうふうに自分を正当化しようとするのは、ものすごください。
かっこわるい。(朝川JJ利別憩習「
いひがみっぼくなってしまうのはどうしてだろう。
十七歳で、姉は詩人になった。片や'わたしはなににもなれていない。
姉の詩の評判がよ-ても悪-ても関係ない。わたしなんて、ただのT文字も書けていないのだから。
ぐおん、とオーブンがうなった。温度を調節するためなのか'炎がひっ
きりなしについた-消えた-している。わたしは汗ばんだ額を手の甲で拭った。ふいに'泣きた-なって-る。姉にできないことをこつこつと積み重
ねようとしたところで'しょせんは自己満足なんだろうか- そつなく器用に立ち回っても'大切なものは結局なにも手に入らないんだろうか- それよりもまず、大切なものって一体なんだっけ-
鼻の奥がつんと痛む。いっそ泣いてしまいたいのに'涙は出てこない。
かわりに汗が一粒、あごを伝って床にこぼれた。「いいにおい。」
振-向-と'姉がキッチンをのぞいていた。わたしの横に寄ってきて'
同じように床へうずぐまる。
姉には'泣きたくなるときなんてないのだろう。二作目の発売後'両親はこっそり専門誌を買い集め、わたしはインターネットを駆使して、世間の反応を確かめた。意味はないとわかってはいても、そうせずにはいられなかった。は矧引見~山引潮河滴り.日野別封劇
一立-2-
いつめながらも、ざまあみろと笑い飛ばせず、好意的な意見をこそこそと抹していたあたりに'言つ・てみればわたしの限相があったのだろう。それにひきかえ本人は達観したもので'家族のむだな試みに加わる気配はなかった。「もうすぐだね。」オーブンのタイマーは残-三分を示している。姉のひじが、わたしの
ひじにふれた。ひんやりと冷たい。
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ロ次の各文の - を付けた漢字の読みがなを書け。
川 式が厳かに挙行された。価 歴史を遡って考える。㈱ 森林を濫伐してはならない。㈲ 辛殊な批評を受ける。㈱ 戴冠式に出席する。
次の各文の - を付けたかたかなの部分に当たる漢字を槽書で書け。㈲ 機嫌をTF7Tねる。㈱ 立てフダを読む。㈱ 子供には引錠が飲みやすい。㈲ 刑可引引犬を飼う。㈱ 湖畔のホテルにトウシユクする。
一立-1-
次の文章を読んで、あとの各間に答えよ。(*印の付いている言葉
には、本文のあとに 〔注〕 がある。)「姉」は十七歳で詩の賞を受賞し'第一詩集は高く評価されたがへ第二
詩集はいい評価を受けなかった。高校生の 「わたし」はその 「姉」 の詩集の評価をめぐって友人と仲たがいをして'いらいらしていた。香ばしいバターのにおいがリビングのほうまで漂ってくる。わたしはキッチンにとって返し、オーブンの前にしゃがんで中をのぞ
いた。ガラス窓の向こうで、オレンジ色の光がクッキーをじりじりと照らしている。
この際、バースデーケーキも手作-してしまおうか。やけくそ気味で'考える。ふっ-らしたスポンジケーキを焼いて'いちごと生クリームをたっぷ-のせて'まるごとたいらげるのはどうだろう。いや'わざわざケーキを準備する必要もないかもしれない。たかが誕生日に過ぎない。毎年必ずめぐって-るのだから'子どもの頃ならともかく、大騒ぎして祝うほどのものでもない。
つらつらと思いめぐらせつつも'立ちあがれない。オーブンの熱気で顔がほてる。
たいしたことじゃない。-よ-よしな-ていい。自分を励まそうとす
ればするほど、なにもかもうま-いかないような気分にとらわれる。単純に'ひとりばっちの誕生日がさびしいというだけではない。なんというか'もっと大き-根本的な問題が、わたしの前に立ちはだかっている気がしてくる。
がんばっているのに。そういうふうに自分を正当化しようとするのは、ものすごください。
かっこわるい。(朝川JJ利別憩習「
いひがみっぼくなってしまうのはどうしてだろう。
十七歳で、姉は詩人になった。片や'わたしはなににもなれていない。
姉の詩の評判がよ-ても悪-ても関係ない。わたしなんて、ただのT文字も書けていないのだから。
ぐおん、とオーブンがうなった。温度を調節するためなのか'炎がひっ
きりなしについた-消えた-している。わたしは汗ばんだ額を手の甲で拭った。ふいに'泣きた-なって-る。姉にできないことをこつこつと積み重
ねようとしたところで'しょせんは自己満足なんだろうか- そつなく器用に立ち回っても'大切なものは結局なにも手に入らないんだろうか- それよりもまず、大切なものって一体なんだっけ-
鼻の奥がつんと痛む。いっそ泣いてしまいたいのに'涙は出てこない。
かわりに汗が一粒、あごを伝って床にこぼれた。「いいにおい。」
振-向-と'姉がキッチンをのぞいていた。わたしの横に寄ってきて'
同じように床へうずぐまる。
姉には'泣きたくなるときなんてないのだろう。二作目の発売後'両親はこっそり専門誌を買い集め、わたしはインターネットを駆使して、世間の反応を確かめた。意味はないとわかってはいても、そうせずにはいられなかった。は矧引見~山引潮河滴り.日野別封劇
一立-2-
いつめながらも、ざまあみろと笑い飛ばせず、好意的な意見をこそこそと抹していたあたりに'言つ・てみればわたしの限相があったのだろう。それにひきかえ本人は達観したもので'家族のむだな試みに加わる気配はなかった。「もうすぐだね。」オーブンのタイマーは残-三分を示している。姉のひじが、わたしの
ひじにふれた。ひんやりと冷たい。
-
「うん。」
わたしは下を向き'まばたきして息をととのえた。デジタルの数字が
けなげ健気に一秒ずつ小さ-なってい-。「おめでとう。」
姉がいきな-言った。
「え-」「お誕生日。」
困ったように首をかしげ'姉は続ける。
「それを言いに、来たんだった。蚊にさされて忘れてた。ごめん。」「蚊のせいで妹の誕生日を忘れるって、どうなのよ。」
わたしはつぶやいた。声がかすれていた。たかが誕生日、祝うほどの
ものじゃない、とついさっきまで心の中で唱えていたにもかかわらず。「しかも今日じゃないし。来週だよ。」「わかってるよ。もうすぐだね、つて言ったでしょ。」
姉は弁解Lt
「でも'今日みたいな日だったんだよ。」
と続けた。
「よく晴れてて'暑くて'だけど空が青-て気持ちよかった。今朝'急に思い出したの。ずうっと昔のことなのに'はっき-覚えてる。」
だって'すごくうれしかったから。
3ー姉が目を細めてしめく-つた。クッキーの焼きあが-を知らせる電子音が'キッチンに響き渡った。こんがりと焦げめのついたクッキーを'姉はも-ち-と食べた。顔の
わりに横幅の広い口をさらに大き-開き、まだかすかに湯気を立てているハートや星をほおばっている。「おいしい、おいしい。」
上機嫌で言う。「ねえ'お菓子屋さんになれば- なれるよ、これは。」
姉の得意技だ。おだてるでもな-'喜ばせようというのでもな-'な
れる'と独断で言い切る。「なれないって。」
わたしはもう'小学生の頃のように、姉のほめ言葉をうのみにはしな
い。中学生の頃のように'適当なことを言わないでよと食ってかかったりもしない。特にお菓子屋さんにな-たいわけではないし'たまたまこの場でひらめいた思いつきに過ぎないと承知もしている。
それでも心のどこかで、本当になれるように思えて-るのは奇妙なこ
とだ。「そうかな、なれると思うけどな。このクッキー'おいし-て元気が出てくるよ。」
わたしも'いつか、なにかになれるだろうか。詩人か、お菓子職人か、
それとも他のなにかに'なれるのだろうか。「書いてる-」
わたしは姉に聞いてみた。・刀
「掻いてない。」
姉はもぐもぐと口を動かしつつ'手の甲を顔の前にかざして胸を張っ
た。赤みはだいぶひいている。「違うよ。」
ふきだした拍子にクッキーの粉がのどにつかえ'わたしは軽-むせた。姉が差し出した牛乳をひと口もらって'言い直す。「詩、書いてる- 最近。」「ええと。」
姉の声が小さ-なった。
「あんま-'かなあ。」
一立-3-
弱々しい口ぶ-にぎょっとした。姉らしくもない。
「いっぱい書きなよ。」
なにかにせきたてられるように、わたしは言った。それだけでは足-
ない気がして、クッキー差し入れるよ、とつけ加える。「元気が出て-るような、おいしいやつ。」
わたしには専門的なことはよ-わからない。姉をかばうつもりもない
し'正直に言って'姉の詩がどう優れているのかも説明できない。ただ'わたしが読む限-では、二冊の詩集のどちらにのっている詩も'等しく姉の声だった。文字を迫っていると'耳もとでささやきかけられている気がした。散歩中になにかおもしろそうなものに出くわしたとき、いつもそうしてくれたように。
つづ
姉はたぶん、目に映ったものを無心に綴っているだけだ。そこによけ
いな感傷はない。退屈も、憂密も。「ねえ、書きなよ。いっぱLT.-.--II--1
さらにたたみかけた。ぽかんとして聞いていた姉が、真顔になって口
を開いた。「いらいらしてたほうが、よ-書けるってこともあるらしいよ。」
もうふだんの穏やかな声に戻っている。今度はわたしがぽかんとする
*
番だった。唐突に'さっき思い出していた編集者との電話の'続きがよみがえった。
申し訳あ-ません。彼女は深刻な声で謝っていた。わたしがお姉さん
を追いつめてしまったのかもしれません。はっばをかけるつもりだったんですけど、行き過ぎたことをしてしまって'反省しています。
彼女は姉に、ちょっとしたお説教をしたらしかった。多少たたかれた
からってへこたれるなんて甘い'と。みんな決死の覚悟で‥それぞれの目標に向けて'身を削って真剣に書いている。大切に守られてきたあなたにはわからないかもしれないけれど'生き残-たいと思うなら自力で
い食べて'力つけて'どんどん書きまくりなよ。」
がんばるしかない。詩でも'なんでも。
姉はひとの話を聞かない。常に本能を頼りに動く。だから'そこまで
深-考えてひと-暮らしをはじめたとも思えない。でも、自分と自分の詩を慕う編集者の声が'まった-届かなかったはずもないだろう。「現状に満足できない-らいがちょうどいいってこと- 足-ないものがあったほうが、見えてくることもあるのかな-」
彼女に聞きそびれたことを、わたしは姉に言ってみる。
「そうなの- よ-わかんない。」
姉はあっけな-受け流し'クッキーをかじっている。なんだか抽象的
なことを口にしてしまったのが急に気恥ずかし-なって、わたしは話をそらした。「そういえば、プレゼントは- お祝いに来てくれたんでしょ-」「え-」
ろうばい
案の定'姉は狼狽した様子で日を泳がせた。
(瀧羽麻子「ぼりば-」による)
一立-4-
〔注〕編集者との電話
-編集者は、電話に出た「わたし」を「姉」だと勘違いして、早-詩を書くように言い立てた。
-
「うん。」
わたしは下を向き'まばたきして息をととのえた。デジタルの数字が
けなげ健気に一秒ずつ小さ-なってい-。「おめでとう。」
姉がいきな-言った。
「え-」「お誕生日。」
困ったように首をかしげ'姉は続ける。
「それを言いに、来たんだった。蚊にさされて忘れてた。ごめん。」「蚊のせいで妹の誕生日を忘れるって、どうなのよ。」
わたしはつぶやいた。声がかすれていた。たかが誕生日、祝うほどの
ものじゃない、とついさっきまで心の中で唱えていたにもかかわらず。「しかも今日じゃないし。来週だよ。」「わかってるよ。もうすぐだね、つて言ったでしょ。」
姉は弁解Lt
「でも'今日みたいな日だったんだよ。」
と続けた。
「よく晴れてて'暑くて'だけど空が青-て気持ちよかった。今朝'急に思い出したの。ずうっと昔のことなのに'はっき-覚えてる。」
だって'すごくうれしかったから。
3ー姉が目を細めてしめく-つた。クッキーの焼きあが-を知らせる電子音が'キッチンに響き渡った。こんがりと焦げめのついたクッキーを'姉はも-ち-と食べた。顔の
わりに横幅の広い口をさらに大き-開き、まだかすかに湯気を立てているハートや星をほおばっている。「おいしい、おいしい。」
上機嫌で言う。「ねえ'お菓子屋さんになれば- なれるよ、これは。」
姉の得意技だ。おだてるでもな-'喜ばせようというのでもな-'な
れる'と独断で言い切る。「なれないって。」
わたしはもう'小学生の頃のように、姉のほめ言葉をうのみにはしな
い。中学生の頃のように'適当なことを言わないでよと食ってかかったりもしない。特にお菓子屋さんにな-たいわけではないし'たまたまこの場でひらめいた思いつきに過ぎないと承知もしている。
それでも心のどこかで、本当になれるように思えて-るのは奇妙なこ
とだ。「そうかな、なれると思うけどな。このクッキー'おいし-て元気が出てくるよ。」
わたしも'いつか、なにかになれるだろうか。詩人か、お菓子職人か、
それとも他のなにかに'なれるのだろうか。「書いてる-」
わたしは姉に聞いてみた。・刀
「掻いてない。」
姉はもぐもぐと口を動かしつつ'手の甲を顔の前にかざして胸を張っ
た。赤みはだいぶひいている。「違うよ。」
ふきだした拍子にクッキーの粉がのどにつかえ'わたしは軽-むせた。姉が差し出した牛乳をひと口もらって'言い直す。「詩、書いてる- 最近。」「ええと。」
姉の声が小さ-なった。
「あんま-'かなあ。」
一立-3-
弱々しい口ぶ-にぎょっとした。姉らしくもない。
「いっぱい書きなよ。」
なにかにせきたてられるように、わたしは言った。それだけでは足-
ない気がして、クッキー差し入れるよ、とつけ加える。「元気が出て-るような、おいしいやつ。」
わたしには専門的なことはよ-わからない。姉をかばうつもりもない
し'正直に言って'姉の詩がどう優れているのかも説明できない。ただ'わたしが読む限-では、二冊の詩集のどちらにのっている詩も'等しく姉の声だった。文字を迫っていると'耳もとでささやきかけられている気がした。散歩中になにかおもしろそうなものに出くわしたとき、いつもそうしてくれたように。
つづ
姉はたぶん、目に映ったものを無心に綴っているだけだ。そこによけ
いな感傷はない。退屈も、憂密も。「ねえ、書きなよ。いっぱLT.-.--II--1
さらにたたみかけた。ぽかんとして聞いていた姉が、真顔になって口
を開いた。「いらいらしてたほうが、よ-書けるってこともあるらしいよ。」
もうふだんの穏やかな声に戻っている。今度はわたしがぽかんとする
*
番だった。唐突に'さっき思い出していた編集者との電話の'続きがよみがえった。
申し訳あ-ません。彼女は深刻な声で謝っていた。わたしがお姉さん
を追いつめてしまったのかもしれません。はっばをかけるつもりだったんですけど、行き過ぎたことをしてしまって'反省しています。
彼女は姉に、ちょっとしたお説教をしたらしかった。多少たたかれた
からってへこたれるなんて甘い'と。みんな決死の覚悟で‥それぞれの目標に向けて'身を削って真剣に書いている。大切に守られてきたあなたにはわからないかもしれないけれど'生き残-たいと思うなら自力で
い食べて'力つけて'どんどん書きまくりなよ。」
がんばるしかない。詩でも'なんでも。
姉はひとの話を聞かない。常に本能を頼りに動く。だから'そこまで
深-考えてひと-暮らしをはじめたとも思えない。でも、自分と自分の詩を慕う編集者の声が'まった-届かなかったはずもないだろう。「現状に満足できない-らいがちょうどいいってこと- 足-ないものがあったほうが、見えてくることもあるのかな-」
彼女に聞きそびれたことを、わたしは姉に言ってみる。
「そうなの- よ-わかんない。」
姉はあっけな-受け流し'クッキーをかじっている。なんだか抽象的
なことを口にしてしまったのが急に気恥ずかし-なって、わたしは話をそらした。「そういえば、プレゼントは- お祝いに来てくれたんでしょ-」「え-」
ろうばい
案の定'姉は狼狽した様子で日を泳がせた。
(瀧羽麻子「ぼりば-」による)
一立-4-
〔注〕編集者との電話
-編集者は、電話に出た「わたし」を「姉」だと勘違いして、早-詩を書くように言い立てた。
-
-■lllllllllll-
〔閏-〕(それこそ自意識過剰だと頭では理解しているのに、ついひがみっ
ぼくなってしまうのはどうしてだろう。とあるが'ここでの「自意識過剰」 の説明として最も適切なものは、次のうちではどれか0
ア 姉が詩人として世間で広-認められているのを羨まし-感じるため
に、自分も姉のように有名になるということを意識しすぎているのだと「わたし」 には思えること。
イ 姉のようには世間の評価を受けていないけれども、悩みながらもがん
ばっているのだと考えることが自分で自分を意識しすぎているのだと「わたし」 には思えること。
り 姉が詩人として成功しているのに対して'自分も菓子作-の道で成功
したいと考えるのが自分を意識しすぎることに直接つながっていると「わたし」 には思えること。
エ 誕生日は重要な意義を持つものなのに、それよ-考えるべき大き-梶
本的な問題があるのだと自分を意識しすぎることがかえって不幸だと「わたし」 には思えること。
2■___
〔間2〕ー姉さえいなければ'と皆々と思いつめながらも'ざまあみろと
笑い飛ばせず、好意的な意見をこそこそと探していたあたりに、言ってみればわたしの限界があったのだろう。とあるが、「わたしの限界」 の説明として最も適切なものは、次のうちではどれか。
ア 姉のことを考えて、その詩の才能に注目していこうとしながらも'ついつい自分の将来のことばか-考えてしまうこと。
イ 姉のことを好きだと思い、その気持ちを隠そうと努力しながらも、ついつい姉に対する愛情が行動に表れてしまうこと。
り 姉のことをうとましいと思い、自分には関係ないと思いながらも、ついつい姉のことを無視できずに考えてしまうこと。
工 姉のことを嫌いだと考え、姉などいなければいいと思いながらも、
ついつい自分よ-姉の幸せの方を考えてしまうこと。
a
〔間3〕(姉が目を細めてしめ--つた。とあるが、なぜ「姉」は「目を細め」
たのか。その理由を五十字以内で書け。
一立-5-
4.__1__一.1_. _
〔間4〕ーさらにたたみかけた。とあるが
このときの「わたし」 の心情と
して最も適切なものは'次のうちではどれか。
ア 姉の詩のどこが優れているのかは分からないけれども'そのよさを見
きわめて姉を励ましたいと考える心情。
イ 姉が詩を書けずに弱々しい口調になっているのに同情し、生きがいで
ある詩作へと姉を導きたいと願う心情。
り 姉が詩を書けないのが自分のせいのような気分になり、がんばらせるためにお菓子を作ろうと決意する心情。
エ 姉の詩は紛れもな-姉の心の言葉だと思い'姉が行き詰まっている様
子を見て応援せずにはいられない心情。
〔間5〕 「わたし」から見た「姉」 の様子について述べたものとして最も適
切なものは'次のうちではどれか。
ア 自分の決めたことにこだわることなく、そうかといって他人の意見を
受け入れることもせず、かた-なに世間と隔た-を保ちながら詩作に努めている。
イ 頑固で融通がきかないが'温かい思いや-を持って周囲のことを常に
気にかけて、自分を取-巻-全てのものに深い愛情を注ぎながら詩を作っている。
り 自分のことばか-にあくせくと苦労するような平凡な人間ではなく、
超然としていて自分の思いに素直に従って行動し'無心になって詩を書いている。
工 豊かな感性を持ち'独善的にならないように他の人々の批評を受け入
れながらも、自分の理想とするものの全てを詩に注ぎ込もうと情熱を傾けている。
一立-6-
-
-■lllllllllll-
〔閏-〕(それこそ自意識過剰だと頭では理解しているのに、ついひがみっ
ぼくなってしまうのはどうしてだろう。とあるが'ここでの「自意識過剰」 の説明として最も適切なものは、次のうちではどれか0
ア 姉が詩人として世間で広-認められているのを羨まし-感じるため
に、自分も姉のように有名になるということを意識しすぎているのだと「わたし」 には思えること。
イ 姉のようには世間の評価を受けていないけれども、悩みながらもがん
ばっているのだと考えることが自分で自分を意識しすぎているのだと「わたし」 には思えること。
り 姉が詩人として成功しているのに対して'自分も菓子作-の道で成功
したいと考えるのが自分を意識しすぎることに直接つながっていると「わたし」 には思えること。
エ 誕生日は重要な意義を持つものなのに、それよ-考えるべき大き-梶
本的な問題があるのだと自分を意識しすぎることがかえって不幸だと「わたし」 には思えること。
2■___
〔間2〕ー姉さえいなければ'と皆々と思いつめながらも'ざまあみろと
笑い飛ばせず、好意的な意見をこそこそと探していたあたりに、言ってみればわたしの限界があったのだろう。とあるが、「わたしの限界」 の説明として最も適切なものは、次のうちではどれか。
ア 姉のことを考えて、その詩の才能に注目していこうとしながらも'ついつい自分の将来のことばか-考えてしまうこと。
イ 姉のことを好きだと思い、その気持ちを隠そうと努力しながらも、ついつい姉に対する愛情が行動に表れてしまうこと。
り 姉のことをうとましいと思い、自分には関係ないと思いながらも、ついつい姉のことを無視できずに考えてしまうこと。
工 姉のことを嫌いだと考え、姉などいなければいいと思いながらも、
ついつい自分よ-姉の幸せの方を考えてしまうこと。
a
〔間3〕(姉が目を細めてしめ--つた。とあるが、なぜ「姉」は「目を細め」
たのか。その理由を五十字以内で書け。
一立-5-
4.__1__一.1_. _
〔間4〕ーさらにたたみかけた。とあるが
このときの「わたし」 の心情と
して最も適切なものは'次のうちではどれか。
ア 姉の詩のどこが優れているのかは分からないけれども'そのよさを見
きわめて姉を励ましたいと考える心情。
イ 姉が詩を書けずに弱々しい口調になっているのに同情し、生きがいで
ある詩作へと姉を導きたいと願う心情。
り 姉が詩を書けないのが自分のせいのような気分になり、がんばらせるためにお菓子を作ろうと決意する心情。
エ 姉の詩は紛れもな-姉の心の言葉だと思い'姉が行き詰まっている様
子を見て応援せずにはいられない心情。
〔間5〕 「わたし」から見た「姉」 の様子について述べたものとして最も適
切なものは'次のうちではどれか。
ア 自分の決めたことにこだわることなく、そうかといって他人の意見を
受け入れることもせず、かた-なに世間と隔た-を保ちながら詩作に努めている。
イ 頑固で融通がきかないが'温かい思いや-を持って周囲のことを常に
気にかけて、自分を取-巻-全てのものに深い愛情を注ぎながら詩を作っている。
り 自分のことばか-にあくせくと苦労するような平凡な人間ではなく、
超然としていて自分の思いに素直に従って行動し'無心になって詩を書いている。
工 豊かな感性を持ち'独善的にならないように他の人々の批評を受け入
れながらも、自分の理想とするものの全てを詩に注ぎ込もうと情熱を傾けている。
一立-6-
-
E]は次のページから始ま-ます。
一 立-7-
E]次の文章は、哲学者の嘉覇郡の著書をもとに,近代の世界観
について述べたものである。これを読んで'あとの各間に答えよ0(*印の付いている言葉には、本文のあとに〔注〕がある。)人間が自然をどう見るか'大森の考え方のキーワードがあ-ます。「略
画的」な見方と「密画的」な見方です。
め
日常、自分の眼で物を見、耳で音を聞き'手で触れ、舌で味わうとい
う形で外界と接している時に私たちが描く世界像を'大森は「略画的」と呼びます。たとえば、チョウが花から花へと飛びまわる姿を楽しみ、時には葉の裏に卵を産む様子を観察するという場合は、略画を措いているということでしょう。
それに対して、近代科学が生まれたことによ-可能になった世界像の描き方を、大森は「密画的」と呼んでいます。「密画」は、辞書では「細かい描写で精密に対象を措いた絵」とされていますが、ここでは、可能な限り最小の単位まで還元し、分析的にものを見ていく見方を指しています。基本的に科学は密画を措-ものであ-'世界を密画化していくというのが大森の考え方です。
近代以降、人間の世界観は略画的世界から密画的世界へと変化してきました。この流れは、科学という形で主として西欧で始まりましたが'日本にもそれは入り、今では密画的な見方こそ進歩を支える源だと信じる社会になっています。人間に知的探究心がある限り'密画化が求められるのは当然であ-'これを否定しても意味がありません。(日羽uJl密画的世界のみを追い求める現代の科学技術社会はどう見ても問題があると多-の人が考えていることも事実です。
私は'問題は二つあると考えています。一つは、大森が指摘する密画
化によるすべてのものの死物化であ-'もう一つは、密画化のみが進んだ正しい見方であるとして'略画的見方、より平たく言うなら日常的な
見方を否定することです。
密画化の始ま-は、まず天文学に見られます。天文学の発祥以来二千年以上にわたって'惑星は円運動をしているとされていたのですが、十七世紀の初め、ドイツの天文学者ケプラーが、観測データを基に火星
だえん
の軌道が不等速の楕円であることを示しました.しかもこの楕円運動は'
*
面積速度一定という規則性を持つことまで示したのです。その後ガリレイが望遠鏡を用いて、月面観測、太陽の黒点の発見'新星の距離測定などと次々に新しい密画を描いていきます。同じ頃人体についても、イギリスの生理学者W・ハ-ベイが、それまで教科書とされてきた人体地図を密画化しました。ここで、まず細密化が進んだのが遠い天体であ-'次いで体の中とい
う小さな世界であるということに注目したいと思います。直接触ることのできない世界、日常のスケールから見るととてつもなく大きかったり小さかった-する世界が細密化、科学化には向いているのです。
細密化においては、日常の感覚とは別の次元で分析が進められ、それ
が科学化という言葉で正当化されることによって、急速に進んでいくの
*
です。そしてここでの科学は、ガリレイとデカルトの考え方に縛られています。つまり'「細密描写は世界の客観的描写であり、形と位置とその時間的変動、つま-幾何学と運動学で語られるものである。色や音や匂いや手触りなどは主観的なものであ-'細密描写の対象ではない」 のであって'これこそ科学であるとされるのです。
*
ここで語られているのは、明確な主客二元論です。ガリレイのみなら
よ
ず、近代以降の科学は、明らかに二元論に拠って立ってきました。近代科学の思想を明確に示したデカルトは'形や運動を客観に、色や音などの感覚的性質を主観の例に分けました。そして科学は「客観」を追究すべきだとしてきました。
そして大森は、これこそが「死物化」だと言っているのです。幾何学
一立-8-
-
E]は次のページから始ま-ます。
一 立-7-
E]次の文章は、哲学者の嘉覇郡の著書をもとに,近代の世界観
について述べたものである。これを読んで'あとの各間に答えよ0(*印の付いている言葉には、本文のあとに〔注〕がある。)人間が自然をどう見るか'大森の考え方のキーワードがあ-ます。「略
画的」な見方と「密画的」な見方です。
め
日常、自分の眼で物を見、耳で音を聞き'手で触れ、舌で味わうとい
う形で外界と接している時に私たちが描く世界像を'大森は「略画的」と呼びます。たとえば、チョウが花から花へと飛びまわる姿を楽しみ、時には葉の裏に卵を産む様子を観察するという場合は、略画を措いているということでしょう。
それに対して、近代科学が生まれたことによ-可能になった世界像の描き方を、大森は「密画的」と呼んでいます。「密画」は、辞書では「細かい描写で精密に対象を措いた絵」とされていますが、ここでは、可能な限り最小の単位まで還元し、分析的にものを見ていく見方を指しています。基本的に科学は密画を措-ものであ-'世界を密画化していくというのが大森の考え方です。
近代以降、人間の世界観は略画的世界から密画的世界へと変化してきました。この流れは、科学という形で主として西欧で始まりましたが'日本にもそれは入り、今では密画的な見方こそ進歩を支える源だと信じる社会になっています。人間に知的探究心がある限り'密画化が求められるのは当然であ-'これを否定しても意味がありません。(日羽uJl密画的世界のみを追い求める現代の科学技術社会はどう見ても問題があると多-の人が考えていることも事実です。
私は'問題は二つあると考えています。一つは、大森が指摘する密画
化によるすべてのものの死物化であ-'もう一つは、密画化のみが進んだ正しい見方であるとして'略画的見方、より平たく言うなら日常的な
見方を否定することです。
密画化の始ま-は、まず天文学に見られます。天文学の発祥以来二千年以上にわたって'惑星は円運動をしているとされていたのですが、十七世紀の初め、ドイツの天文学者ケプラーが、観測データを基に火星
だえん
の軌道が不等速の楕円であることを示しました.しかもこの楕円運動は'
*
面積速度一定という規則性を持つことまで示したのです。その後ガリレイが望遠鏡を用いて、月面観測、太陽の黒点の発見'新星の距離測定などと次々に新しい密画を描いていきます。同じ頃人体についても、イギリスの生理学者W・ハ-ベイが、それまで教科書とされてきた人体地図を密画化しました。ここで、まず細密化が進んだのが遠い天体であ-'次いで体の中とい
う小さな世界であるということに注目したいと思います。直接触ることのできない世界、日常のスケールから見るととてつもなく大きかったり小さかった-する世界が細密化、科学化には向いているのです。
細密化においては、日常の感覚とは別の次元で分析が進められ、それ
が科学化という言葉で正当化されることによって、急速に進んでいくの
*
です。そしてここでの科学は、ガリレイとデカルトの考え方に縛られています。つまり'「細密描写は世界の客観的描写であり、形と位置とその時間的変動、つま-幾何学と運動学で語られるものである。色や音や匂いや手触りなどは主観的なものであ-'細密描写の対象ではない」 のであって'これこそ科学であるとされるのです。
*
ここで語られているのは、明確な主客二元論です。ガリレイのみなら
よ
ず、近代以降の科学は、明らかに二元論に拠って立ってきました。近代科学の思想を明確に示したデカルトは'形や運動を客観に、色や音などの感覚的性質を主観の例に分けました。そして科学は「客観」を追究すべきだとしてきました。
そして大森は、これこそが「死物化」だと言っているのです。幾何学
一立-8-
-
的な形と運動変化だけで世界を捉えようというのですからまさに死物で戊2ここでは人間も死物化されることにな-ます。難しいことはわからな
-とも私は生きていることは明らかで'それを死物化するのは間違っているということはわかります。やはりこれはおかしい。
*
十七世紀に始まった科学の世界観は機械論的であ-'しかもそれこそが進んだ見方だと多-の人が思うようにな-、この世界観に立脚した近
せっけん
代科学・科学技術が、世界中を席巻しました。
今、こうした科学や科学技術のあ-方に疑問が出されてはいますが、
残念ながらそれは'科学は全面的に否定すべきだという極端な結論にいたりかねないものです。
しかし'科学が明らかにする事実を否定する必要はあ-ません。そう
ではな-'気をつけなければならないのは'科学による理解が優れてお-'日常的感覚での世界の理解は遅れていると受け取ることです。この二つを縦に並べて優劣をつけることです。
科学が明らかにしてきた知は放棄しない。しかし同時に'大森の示し
たような二元論に基づ-「科学」では'痛みや美しきの感じなどが語れないことは明らかなのですから'科学だけで世界を理解することはできないとする必要があります。
科学も日常も捨てないとしたらどうするか。自然に素直に向き合う日
常と科学とを対立させるのでなく、一体化させる方法はないだろうか。この問いに対して、大森がみごとな提案をしているのです。「重ね描
き」 です。なんだかとても新しいこと、難しいことを提案しているよう
3
に聞こえそうですが'そうではありません。(DNAやタンパク質のはたらきを調べるという生命科学の方法で見ているチョウは'花の蜜を求
かわい
めて飛んでいる可愛いチョウと同じものであるというあたりまえのこと
を認め、両方の描写を共に大事にするということなのです。
大森は、略画的世界観の時に存在した「活きた自然との一体感」は'
密画化によっても失われる必要はなかったというのです。チョウが舞うのを見ている時に「活きた自然との一体感」があることは間違いありません。ところが、密画化する時は、脚を壊して中からと-出した物質を調べていくので、ついここで 「活きた自然」 のことを忘れがちです。しかし大森は、日常生活の風景と、科学者が原子・分子などで描く世界を同じものと見ればよいではないかと提案します。略画的世界は日常の常
くわ
識の世界であ-、科学は常識に密着して展開する「よ-精しいお話」なのだというのです。
種子をまけば芽が出て最後には美しい花が咲-という植物の成長を見
ると、あの黒い粒のような種子の中に何があったのだろう、緑の葉の中の一部が変化して赤い花になるのはどうしてだろうと、次々問いが生まれてきます。科学はこの日常の問いを解こうとして始まるのです。
重要なことは、「科学的」だからといって、密画のほうが略画よ-「上」
なわけでも、密画さえ描ければ自然の真の姿が措けるわけでもないということです。蜜画を措こうとする時に、略画的世界観を忘れないことが大事なのです。ところで、大森はここで興味深いことを教えて-れます。略画的世界
4.■_..-____
では細部が見えない'不透明で見えないのが普通だが、(一見、見えな
一 立-9-
いようでありながら最もすっきりと理解できるものがある、それは自分の心であり、心の動きだというのです。近年自分の心が自分に対して逮明ではないと思う人が多-なっているようにも見えます。これこそ「密画化」に依拠しすぎた現代社会の最も大きな問題の一つではないかといます。
私って何だろうという問いは誰もが持ちます。ところが科学の眼でち
のを見る癖がついていると、客観的な形でその答えが出てこないとわからないと思いこみます。人間とはなにか'生命とはなにかという問いち同じです。恐ら-この基本的問いには答えがないのではないかとも思うのですが'科学はすべてに答えがあるとするものです。しかも最近は、答えるのがよいという風潮があ-ますので、答えのない問いを問い続けることを大切にしません。そのために、心は最もわからないものと思いこむのではないでしょうか。
大森が'「自分の心はすっき-見える」とサラリと書いていることそ
のことが'とても重要なのだと改めて思います。とにか-「自分がここに生きている」ということをそのまま受けとめる姿勢だからです。死初化を生んだ現代的な思想の中で自分の心を考えるという矛盾から離れることだからです。
ただしこれは自分の心に限るのであって、他人の心はまった-わかり
ません。どんなに近しい人の心だって、本当にはわか-ません。けれど
なか
も'友人がお腹が痛いと言っている時、私はあなたの痛みはわか-ませんと言って知らん顔している人はいないでしょう。自分が痛かった時のことを思い出し'それと同じように痛いのだろうと想像し'痛みを共有
いや
してそれを癒す努力をします。
大森はこれを「私に擬した理解」と言います。この理解ができる対象
は'人間だけではあ-ません。飼っている犬や猫の気持ちはわか-ます
いと
Lt 大事に育てた花はいっしょうけんめい咲いているなと思い愛し-なります。
恐ら-略画的世界そのものを生きていた太古の人は'自然のすべてを
.i.
私に擬して理解していたのでしょう。(大森はこのような理解を'太古や未開の人々のものとしてしまうのは誤りで'私たちにもこのような哩解のしかたはあると指摘します。非科学的という一言でこのような考え方を科学と引き離さないことが大切だと思っています。
(中村桂子「科学者が人間であること」による)
〔注〕 ガリレイー
デカルトー主客二元論
イタリアの天文学者・物理学者・哲学者。フランスの哲学者。近世哲学の祖。-ものごとを主観と客観という二つの原理をもっ
機械論
て説明する考え方。
-生命は物理・化学的法則によ-説明しつ-される、という考え。
一立-10-
-
的な形と運動変化だけで世界を捉えようというのですからまさに死物で戊2ここでは人間も死物化されることにな-ます。難しいことはわからな
-とも私は生きていることは明らかで'それを死物化するのは間違っているということはわかります。やはりこれはおかしい。
*
十七世紀に始まった科学の世界観は機械論的であ-'しかもそれこそが進んだ見方だと多-の人が思うようにな-、この世界観に立脚した近
せっけん
代科学・科学技術が、世界中を席巻しました。
今、こうした科学や科学技術のあ-方に疑問が出されてはいますが、
残念ながらそれは'科学は全面的に否定すべきだという極端な結論にいたりかねないものです。
しかし'科学が明らかにする事実を否定する必要はあ-ません。そう
ではな-'気をつけなければならないのは'科学による理解が優れてお-'日常的感覚での世界の理解は遅れていると受け取ることです。この二つを縦に並べて優劣をつけることです。
科学が明らかにしてきた知は放棄しない。しかし同時に'大森の示し
たような二元論に基づ-「科学」では'痛みや美しきの感じなどが語れないことは明らかなのですから'科学だけで世界を理解することはできないとする必要があります。
科学も日常も捨てないとしたらどうするか。自然に素直に向き合う日
常と科学とを対立させるのでなく、一体化させる方法はないだろうか。この問いに対して、大森がみごとな提案をしているのです。「重ね描
き」 です。なんだかとても新しいこと、難しいことを提案しているよう
3
に聞こえそうですが'そうではありません。(DNAやタンパク質のはたらきを調べるという生命科学の方法で見ているチョウは'花の蜜を求
かわい
めて飛んでいる可愛いチョウと同じものであるというあたりまえのこと
を認め、両方の描写を共に大事にするということなのです。
大森は、略画的世界観の時に存在した「活きた自然との一体感」は'
密画化によっても失われる必要はなかったというのです。チョウが舞うのを見ている時に「活きた自然との一体感」があることは間違いありません。ところが、密画化する時は、脚を壊して中からと-出した物質を調べていくので、ついここで 「活きた自然」 のことを忘れがちです。しかし大森は、日常生活の風景と、科学者が原子・分子などで描く世界を同じものと見ればよいではないかと提案します。略画的世界は日常の常
くわ
識の世界であ-、科学は常識に密着して展開する「よ-精しいお話」なのだというのです。
種子をまけば芽が出て最後には美しい花が咲-という植物の成長を見
ると、あの黒い粒のような種子の中に何があったのだろう、緑の葉の中の一部が変化して赤い花になるのはどうしてだろうと、次々問いが生まれてきます。科学はこの日常の問いを解こうとして始まるのです。
重要なことは、「科学的」だからといって、密画のほうが略画よ-「上」
なわけでも、密画さえ描ければ自然の真の姿が措けるわけでもないということです。蜜画を措こうとする時に、略画的世界観を忘れないことが大事なのです。ところで、大森はここで興味深いことを教えて-れます。略画的世界
4.■_..-____
では細部が見えない'不透明で見えないのが普通だが、(一見、見えな
一 立-9-
いようでありながら最もすっきりと理解できるものがある、それは自分の心であり、心の動きだというのです。近年自分の心が自分に対して逮明ではないと思う人が多-なっているようにも見えます。これこそ「密画化」に依拠しすぎた現代社会の最も大きな問題の一つではないかといます。
私って何だろうという問いは誰もが持ちます。ところが科学の眼でち
のを見る癖がついていると、客観的な形でその答えが出てこないとわからないと思いこみます。人間とはなにか'生命とはなにかという問いち同じです。恐ら-この基本的問いには答えがないのではないかとも思うのですが'科学はすべてに答えがあるとするものです。しかも最近は、答えるのがよいという風潮があ-ますので、答えのない問いを問い続けることを大切にしません。そのために、心は最もわからないものと思いこむのではないでしょうか。
大森が'「自分の心はすっき-見える」とサラリと書いていることそ
のことが'とても重要なのだと改めて思います。とにか-「自分がここに生きている」ということをそのまま受けとめる姿勢だからです。死初化を生んだ現代的な思想の中で自分の心を考えるという矛盾から離れることだからです。
ただしこれは自分の心に限るのであって、他人の心はまった-わかり
ません。どんなに近しい人の心だって、本当にはわか-ません。けれど
なか
も'友人がお腹が痛いと言っている時、私はあなたの痛みはわか-ませんと言って知らん顔している人はいないでしょう。自分が痛かった時のことを思い出し'それと同じように痛いのだろうと想像し'痛みを共有
いや
してそれを癒す努力をします。
大森はこれを「私に擬した理解」と言います。この理解ができる対象
は'人間だけではあ-ません。飼っている犬や猫の気持ちはわか-ます
いと
Lt 大事に育てた花はいっしょうけんめい咲いているなと思い愛し-なります。
恐ら-略画的世界そのものを生きていた太古の人は'自然のすべてを
.i.
私に擬して理解していたのでしょう。(大森はこのような理解を'太古や未開の人々のものとしてしまうのは誤りで'私たちにもこのような哩解のしかたはあると指摘します。非科学的という一言でこのような考え方を科学と引き離さないことが大切だと思っています。
(中村桂子「科学者が人間であること」による)
〔注〕 ガリレイー
デカルトー主客二元論
イタリアの天文学者・物理学者・哲学者。フランスの哲学者。近世哲学の祖。-ものごとを主観と客観という二つの原理をもっ
機械論
て説明する考え方。
-生命は物理・化学的法則によ-説明しつ-される、という考え。
一立-10-
-
‖
〔間1〕(しかし'密画的世界のみを追い求める現代の科学技術社会はど
う見ても問題があると多-の人が考えていることも事実です。とあるが、筆者がこのように述べるのはなぜか。次のうちから最も適切なものを選べ。
ア 知ることや考えることは人間の持つ基本的な欲望であ-'よ-確実な
ものの見方を求める気持ちは、否定できないものだから。
イ 日常生活の中で、自分の身体で世界を感じ取ろうとする姿勢は幼-、進歩をめざす現代社会のあ-方とは矛盾するものだから。
り 主として西欧で始まった科学技術の発展を'後ろから日本が追いかけ
てきたことを忘れ、進歩の先頭に立った意識でいるから。
エ 世界を細分化し、新たな知をもたらす近代科学ばかりがもてはやされ、
人々の生きる実感や日常感覚が軽んじられているから。
2_
〔間2〕(ここでは人間も死物化されることにな-ます。とはどういうこと
か。次のうちから最も適切なものを選べ。
ア 科学が、心や感覚といった主観を考慮せず'形態や運動的側面だけで、
生きものとしての人間を捉えようとしているということ。
イ 科学が、一人一人の人間の個性の違いを無視して'誰もが同じ色や音
などを感じ取る、均質な存在だとみなしているということ。
り 人間が、他人との外見や運動能力の差にこだわり、自分が客観的にど
う見えるかばか-を競い合う社会になっているということ。
エ 人間が、主観でしか物事を認知できない存在だと軽視され'普遍的な
形ある物質の方が上位にあるとみなされているということ。
31
〔間3〕 (DNAやタンパク質のはたらきを調べるという生命科学の方
かわい
法で見ているチョウは'花の蜜を求めて飛んでいる可愛いチョウと同じものであるというあたりまえのことを認め、両方の描写を共に大事にするということなのです。とはどういうことか。四十字以内で書け。
一立-ll -
.4________________________________________ll._1..ll-.】.-.1__.. _
〔間4〕(一見、見えないようでありながら最もすっきりと理解できるも
のがある、それは自分の心であ-、心の動きだとはどういうことか。次のうちから最も適切なものを選べ。
ア 人間の心やその動きには形がないので見えないとあきらめ'限界を受
け入れることによ-、「活きた自然」よりも無力な存在として自分の生き方を肯定すれば、自分の心は理解できるということ。
イ 人間の心やその動きが、心理学や統計学の急速な発展にともない瞬時にデータ化・数値化されるようになったので、「よ-精しいお話」として、いつでも即座に自分の心が理解できるということ。
り 人間の心やその動きは透明でないという思い込みを捨て'「自分の心
はすっき-見える」と言い聞かせて'自分と冷静に向き合い'客観的な形のある存在として自分の心が理解できるということ。
エ 人間の心やその動きは客観的な形では捉えられないが'痛みや美しき
といった自分の主観を'「自分がここに生きている」事実としてありのまま受け入れると、自分の心が理解できるということ。
5____________________________1_1._,ll......1__,....,._....1_. _
〔間5〕(大森はこのような理解を、太古や未開の人々のものとしてしま
うのは誤りで、私たちにもこのような理解のしかたはあると指摘します。とあるが'「このような理解のしかた」 の例として、次のうちから最も適切なものを選べ。
ア 温暖化の主因が二酸化炭素の排出量の増大にあるという知識を持ち、
排出量削減に向けた効率のよい取り組みを広げようとする。
イ 漁獲高の減少は海や魚の悲鳴ではないかと考え'自然の痛みや悲しみを自分自身のものとして想像し、問題に向き合おうとする。
り 異常気象の増加は今後も避けられそうにないと考え'どんな時にも自
然に負けることのない堅固な都市の開発を目指そうとする。
工 生態系の破壊が私たちの身近な場所でどのように進んでいるのかを観
察し、客観的なデータを集め、周囲の環境を知ろうとする。
一 立-12-
〔間6〕 しかも最近は'答えるのがよいという風潮があ-ますので、答え
のない問いを問い続けることを大切にしません。とあるが、「答えのない問いを問い続ける」ということに対するあなたの考えを、具体例を挙げて二百字以内で書け。なおごや。や「などのほか'書き出しや改行の際の空欄もそれぞれ字数に数えよ。
-
‖
〔間1〕(しかし'密画的世界のみを追い求める現代の科学技術社会はど
う見ても問題があると多-の人が考えていることも事実です。とあるが、筆者がこのように述べるのはなぜか。次のうちから最も適切なものを選べ。
ア 知ることや考えることは人間の持つ基本的な欲望であ-'よ-確実な
ものの見方を求める気持ちは、否定できないものだから。
イ 日常生活の中で、自分の身体で世界を感じ取ろうとする姿勢は幼-、進歩をめざす現代社会のあ-方とは矛盾するものだから。
り 主として西欧で始まった科学技術の発展を'後ろから日本が追いかけ
てきたことを忘れ、進歩の先頭に立った意識でいるから。
エ 世界を細分化し、新たな知をもたらす近代科学ばかりがもてはやされ、
人々の生きる実感や日常感覚が軽んじられているから。
2_
〔間2〕(ここでは人間も死物化されることにな-ます。とはどういうこと
か。次のうちから最も適切なものを選べ。
ア 科学が、心や感覚といった主観を考慮せず'形態や運動的側面だけで、
生きものとしての人間を捉えようとしているということ。
イ 科学が、一人一人の人間の個性の違いを無視して'誰もが同じ色や音
などを感じ取る、均質な存在だとみなしているということ。
り 人間が、他人との外見や運動能力の差にこだわり、自分が客観的にど
う見えるかばか-を競い合う社会になっているということ。
エ 人間が、主観でしか物事を認知できない存在だと軽視され'普遍的な
形ある物質の方が上位にあるとみなされているということ。
31
〔間3〕 (DNAやタンパク質のはたらきを調べるという生命科学の方
かわい
法で見ているチョウは'花の蜜を求めて飛んでいる可愛いチョウと同じものであるというあたりまえのことを認め、両方の描写を共に大事にするということなのです。とはどういうことか。四十字以内で書け。
一立-ll -
.4________________________________________ll._1..ll-.】.-.1__.. _
〔間4〕(一見、見えないようでありながら最もすっきりと理解できるも
のがある、それは自分の心であ-、心の動きだとはどういうことか。次のうちから最も適切なものを選べ。
ア 人間の心やその動きには形がないので見えないとあきらめ'限界を受
け入れることによ-、「活きた自然」よりも無力な存在として自分の生き方を肯定すれば、自分の心は理解できるということ。
イ 人間の心やその動きが、心理学や統計学の急速な発展にともない瞬時にデータ化・数値化されるようになったので、「よ-精しいお話」として、いつでも即座に自分の心が理解できるということ。
り 人間の心やその動きは透明でないという思い込みを捨て'「自分の心
はすっき-見える」と言い聞かせて'自分と冷静に向き合い'客観的な形のある存在として自分の心が理解できるということ。
エ 人間の心やその動きは客観的な形では捉えられないが'痛みや美しき
といった自分の主観を'「自分がここに生きている」事実としてありのまま受け入れると、自分の心が理解できるということ。
5____________________________1_1._,ll......1__,....,._....1_. _
〔間5〕(大森はこのような理解を、太古や未開の人々のものとしてしま
うのは誤りで、私たちにもこのような理解のしかたはあると指摘します。とあるが'「このような理解のしかた」 の例として、次のうちから最も適切なものを選べ。
ア 温暖化の主因が二酸化炭素の排出量の増大にあるという知識を持ち、
排出量削減に向けた効率のよい取り組みを広げようとする。
イ 漁獲高の減少は海や魚の悲鳴ではないかと考え'自然の痛みや悲しみを自分自身のものとして想像し、問題に向き合おうとする。
り 異常気象の増加は今後も避けられそうにないと考え'どんな時にも自
然に負けることのない堅固な都市の開発を目指そうとする。
工 生態系の破壊が私たちの身近な場所でどのように進んでいるのかを観
察し、客観的なデータを集め、周囲の環境を知ろうとする。
一 立-12-
〔間6〕 しかも最近は'答えるのがよいという風潮があ-ますので、答え
のない問いを問い続けることを大切にしません。とあるが、「答えのない問いを問い続ける」ということに対するあなたの考えを、具体例を挙げて二百字以内で書け。なおごや。や「などのほか'書き出しや改行の際の空欄もそれぞれ字数に数えよ。
-
次の文章を読んで'あとの各間に答えよ。(*印の付いている言葉
には、本文のあとに 〔注〕 がある。)
もほう
芸術が「模倣」'あるいは「表現」する対象として、まず考えられる
のは「自然」 です。古代ギリシアのミメ-シスとはもともと'自然が作-だすもの、自然のなかにあるものを模倣Lt 再現することでした。そこから詩を作った-、楽器を演奏した-すること'つま-ポイエーシス'
*
創作活動が生まれて-るとアリストテレスは考えました。芸術は自然を離れては考えられないものであったのです。しかし近代になると、自然の美は、芸術が生みだす美よ-も価値の上
で低いという考えが有力になりました。そういう考えを明確に示したのは'十九世紀はじめに活躍したドイツの哲学者ヘーゲルです。ヘーゲルはベルリン大学で行った 『美学』 講義のなかで、「精神と精神が産み出した芸術美は'自然美よ-も'よ-高いものである」とはっきりと述べています。それは'人間が精神的存在であり - その点で人間は神と共通するものをもつとされます - 、芸術美はその精神の所産であるからです。それに対して'自然はただ単に存在するにすぎないものです。その意味で、芸術作品は、自然のなかにある美よ-も、はるかに高い価値
.~■■■~-
を有するとされました。 近代では'このような見方が力をもつようにな-、自然美への関心は希薄になっていきました。
それと比較したとき、日本の、あるいは東洋の芸術のなかでの自然の
位置づけは、著し-異なったものであるように思われます。簡単に言えば、芸術と自然とがそこでは一体のものとして捉えられています。ほかならぬ自然から芸術の原動力を汲み取ってこようとする点に'東洋や日本の芸術の特徴があると思います。
具体的に考えるために、芭蕉を手がか-にしてみましょう。芭蕉はし
はいかい
ばしば「風雅」という言葉を便いました。それはまず何より俳譜、つま
り俳句を意味しますが、しかしそれにとどまらないものがそこに込めら
おいこぶみ
れていると思います。たとえば 『笈の小文』 と呼ばれる芭蕉の文章に次のような一節があります。
ぎうかしいじところ
風雅におけるもの'造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあ
かたち
らずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあら
いてきたぐひ
ざる時は夷秋にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷秋をいで
出'鳥獣を離れて、造化にしたがひ'造化にかへれとなり。
2(「造化」というのは'非常におもしろい言葉です。十七世紀に活躍したオランダの哲学者スピノザの「自然」概念に近いところがあ-ます。スピノザは 「生みだす自然」と 「生みだされた自然」という二つの面から「自然」を考えましたが'それとちょうど同じように、「造化」という言葉にも'万物を創造・化育する者、つまり造物主とその働きによって造-出されたもの、いわゆる森羅万象という二つの意味があ-ます。ここでは、後者の意味で言われています。心が四時つま-春夏秋冬の変化に応じて移り変わってい-万象とともにあるとき、見るものがすべて花とな-'思うものがすべて月になるというのです。それができない夷秋、つま-野蛮な人間、あるいは鳥獣の境遇を脱して、造化とともにあるときに詩が生まれるということが言われています。「風雅」はそこで生みだされる俳語でもあ-ますが'造化に従って生きる生き方をも、またその結晶である俳譜の本質をも言い表していると思います。
もちろん'普段の生活のなかで私たちが目にしているもの'つま-
「像」はたいていの場合、「花」 ではありません。私たちはふつう、「生活のために」 - たとえばより多くの収入を得るために、あるいはよりよい地位を得るために - 生きています。そういう目的に必要なものだけを見ています。そういうときに見える自然は決して 「花」 ではなく'
一立-13-
生活を支えるもの、生活の糧です。
芭蕉は'詩を生みだすためには、そこからの転換が必要であると言う
おの
のです。その境位を脱して、四時を友とするとき、「像」が自ずから花とな-'心が花で満たされると言うのです。詩はそこに生まれます。
この芭蕉の「夷秋を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ'造化にかへれとなり」という言葉からも'日本の芸術が伝統的に'自然から創作の原動力を汲み取ろうとしてきたことが読み取れるのではないでしょうか。
そのような態度を、先ほどの芸術美か'自然美かという議論と結びつ
けて言いますと、それは一見、自然美一元論、つまり真の美は自然のなかにあ-'芸術はそれを模倣するだけであるという主張のようにも見え
もりかわきょろく
ますが'決してそうではないと思います。芭蕉が門人森川許六に贈った言葉に次のようなものがあります。
ーここころ*おひわらぢ
古しへよ-風雅に情ある人々は'後に笈をかけ'草軽に足をいため、やぶれがさまこと
破笠に霜露をいとふて、をのれが心をせめて、物の実を知る事をよろこべ-。
「をのれが心をせめる」というのは、単に'旅に出たときに味わう身体的な苦痛を意味するのではなく、「物の実」を知るための困難な試み'
3
そのための努力を指していると思います。ー芭蕉の有名な言葉に、「松の事は於に習へ'竹の事は竹に習へ」というのがありますが'この言莱もその意味に解釈することができるのではないでしょうか。「をのれが心をせめて」'つま-'苦心し、苦心して、はじめて「像」
が「花」となるのだと言ってよいと思います。人間の側の世俗的価値観、言いかえれば生活に必要なものだけに価値を認めるような価値観の転換を踏まえ、そしてそこに見える真実を - たとえば困難な旅という手段
を通して - 追求することによって、はじめて美が美として輝き出るのです。
しかし他方'それは、人間精神の営みを自然美よりも高く評価すると
I
いう考え方でもあ-ません。芭蕉は-り返し「作為」ということを退けています。いま「桧の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」という言葉を
はっとりどほうさんぞうし
引用しましたが、これは芭蕉の弟子の服部土芽が著した 『三冊子』 のう
あかぞうし
ちの 「赤冊子」 のなかに出てくる言葉です。そこで次のように言われています。
ことば
松の事は松に習へ'竹の事は竹に習へと師の詞のあ-しも、私意を
なりこのあのつひ
はなれよといふ事也。此習へといふ所を己がままにとりて、終に習
いりびあらは
はざるなり。習へといふは、物に入てその微の顕れて情感ずるや、句と成る所也。たとへば'ものあらはにいひいでても、そのものよじねんい
り自然に出づる情にあらざれば、物我二つに成-て'その情誠にいたらず
不至。私意のなす作為也。
つまり、「をのれが心をせめる」というのは、頑強に私たちのなかに存在する「私意」を否定して'物のなかに入-込み'その 「微」'つま-自然の微妙な生命を感じ取ることです。そうすることではじめて「句
- 立-14-
となる」というのです。
芭蕉は 「赤冊子」 のなかで'
4____1_1,-_...._
俳句に(「なる句」
と 「する句」がある
ことを語っています。「私意」によって「作為」した句が「する句」です。
あら
それに対して、顕わになった物の 「微」をそのまま写すのが「なる句」
あ
です。芭蕉は巧みな言語表現という観点から詩の良し悪しを考えていません。
lJ,・l
たとえ(すぐれた表現になっていても、「そのものより自然に出
づる」ものでなければだめだと言うのです。そのときには'我と物とが二つに分かれているからです。物から分かれた我が「私意」です。「私
-
次の文章を読んで'あとの各間に答えよ。(*印の付いている言葉
には、本文のあとに 〔注〕 がある。)
もほう
芸術が「模倣」'あるいは「表現」する対象として、まず考えられる
のは「自然」 です。古代ギリシアのミメ-シスとはもともと'自然が作-だすもの、自然のなかにあるものを模倣Lt 再現することでした。そこから詩を作った-、楽器を演奏した-すること'つま-ポイエーシス'
*
創作活動が生まれて-るとアリストテレスは考えました。芸術は自然を離れては考えられないものであったのです。しかし近代になると、自然の美は、芸術が生みだす美よ-も価値の上
で低いという考えが有力になりました。そういう考えを明確に示したのは'十九世紀はじめに活躍したドイツの哲学者ヘーゲルです。ヘーゲルはベルリン大学で行った 『美学』 講義のなかで、「精神と精神が産み出した芸術美は'自然美よ-も'よ-高いものである」とはっきりと述べています。それは'人間が精神的存在であり - その点で人間は神と共通するものをもつとされます - 、芸術美はその精神の所産であるからです。それに対して'自然はただ単に存在するにすぎないものです。その意味で、芸術作品は、自然のなかにある美よ-も、はるかに高い価値
.~■■■~-
を有するとされました。 近代では'このような見方が力をもつようにな-、自然美への関心は希薄になっていきました。
それと比較したとき、日本の、あるいは東洋の芸術のなかでの自然の
位置づけは、著し-異なったものであるように思われます。簡単に言えば、芸術と自然とがそこでは一体のものとして捉えられています。ほかならぬ自然から芸術の原動力を汲み取ってこようとする点に'東洋や日本の芸術の特徴があると思います。
具体的に考えるために、芭蕉を手がか-にしてみましょう。芭蕉はし
はいかい
ばしば「風雅」という言葉を便いました。それはまず何より俳譜、つま
り俳句を意味しますが、しかしそれにとどまらないものがそこに込めら
おいこぶみ
れていると思います。たとえば 『笈の小文』 と呼ばれる芭蕉の文章に次のような一節があります。
ぎうかしいじところ
風雅におけるもの'造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあ
かたち
らずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあら
いてきたぐひ
ざる時は夷秋にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷秋をいで
出'鳥獣を離れて、造化にしたがひ'造化にかへれとなり。
2(「造化」というのは'非常におもしろい言葉です。十七世紀に活躍したオランダの哲学者スピノザの「自然」概念に近いところがあ-ます。スピノザは 「生みだす自然」と 「生みだされた自然」という二つの面から「自然」を考えましたが'それとちょうど同じように、「造化」という言葉にも'万物を創造・化育する者、つまり造物主とその働きによって造-出されたもの、いわゆる森羅万象という二つの意味があ-ます。ここでは、後者の意味で言われています。心が四時つま-春夏秋冬の変化に応じて移り変わってい-万象とともにあるとき、見るものがすべて花とな-'思うものがすべて月になるというのです。それができない夷秋、つま-野蛮な人間、あるいは鳥獣の境遇を脱して、造化とともにあるときに詩が生まれるということが言われています。「風雅」はそこで生みだされる俳語でもあ-ますが'造化に従って生きる生き方をも、またその結晶である俳譜の本質をも言い表していると思います。
もちろん'普段の生活のなかで私たちが目にしているもの'つま-
「像」はたいていの場合、「花」 ではありません。私たちはふつう、「生活のために」 - たとえばより多くの収入を得るために、あるいはよりよい地位を得るために - 生きています。そういう目的に必要なものだけを見ています。そういうときに見える自然は決して 「花」 ではなく'
一立-13-
生活を支えるもの、生活の糧です。
芭蕉は'詩を生みだすためには、そこからの転換が必要であると言う
おの
のです。その境位を脱して、四時を友とするとき、「像」が自ずから花とな-'心が花で満たされると言うのです。詩はそこに生まれます。
この芭蕉の「夷秋を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ'造化にかへれとなり」という言葉からも'日本の芸術が伝統的に'自然から創作の原動力を汲み取ろうとしてきたことが読み取れるのではないでしょうか。
そのような態度を、先ほどの芸術美か'自然美かという議論と結びつ
けて言いますと、それは一見、自然美一元論、つまり真の美は自然のなかにあ-'芸術はそれを模倣するだけであるという主張のようにも見え
もりかわきょろく
ますが'決してそうではないと思います。芭蕉が門人森川許六に贈った言葉に次のようなものがあります。
ーここころ*おひわらぢ
古しへよ-風雅に情ある人々は'後に笈をかけ'草軽に足をいため、やぶれがさまこと
破笠に霜露をいとふて、をのれが心をせめて、物の実を知る事をよろこべ-。
「をのれが心をせめる」というのは、単に'旅に出たときに味わう身体的な苦痛を意味するのではなく、「物の実」を知るための困難な試み'
3
そのための努力を指していると思います。ー芭蕉の有名な言葉に、「松の事は於に習へ'竹の事は竹に習へ」というのがありますが'この言莱もその意味に解釈することができるのではないでしょうか。「をのれが心をせめて」'つま-'苦心し、苦心して、はじめて「像」
が「花」となるのだと言ってよいと思います。人間の側の世俗的価値観、言いかえれば生活に必要なものだけに価値を認めるような価値観の転換を踏まえ、そしてそこに見える真実を - たとえば困難な旅という手段
を通して - 追求することによって、はじめて美が美として輝き出るのです。
しかし他方'それは、人間精神の営みを自然美よりも高く評価すると
I
いう考え方でもあ-ません。芭蕉は-り返し「作為」ということを退けています。いま「桧の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」という言葉を
はっとりどほうさんぞうし
引用しましたが、これは芭蕉の弟子の服部土芽が著した 『三冊子』 のう
あかぞうし
ちの 「赤冊子」 のなかに出てくる言葉です。そこで次のように言われています。
ことば
松の事は松に習へ'竹の事は竹に習へと師の詞のあ-しも、私意を
なりこのあのつひ
はなれよといふ事也。此習へといふ所を己がままにとりて、終に習
いりびあらは
はざるなり。習へといふは、物に入てその微の顕れて情感ずるや、句と成る所也。たとへば'ものあらはにいひいでても、そのものよじねんい
り自然に出づる情にあらざれば、物我二つに成-て'その情誠にいたらず
不至。私意のなす作為也。
つまり、「をのれが心をせめる」というのは、頑強に私たちのなかに存在する「私意」を否定して'物のなかに入-込み'その 「微」'つま-自然の微妙な生命を感じ取ることです。そうすることではじめて「句
- 立-14-
となる」というのです。
芭蕉は 「赤冊子」 のなかで'
4____1_1,-_...._
俳句に(「なる句」
と 「する句」がある
ことを語っています。「私意」によって「作為」した句が「する句」です。
あら
それに対して、顕わになった物の 「微」をそのまま写すのが「なる句」
あ
です。芭蕉は巧みな言語表現という観点から詩の良し悪しを考えていません。
lJ,・l
たとえ(すぐれた表現になっていても、「そのものより自然に出
づる」ものでなければだめだと言うのです。そのときには'我と物とが二つに分かれているからです。物から分かれた我が「私意」です。「私
-
意」からは詩は自然に生まれませんから'「作為」するほかはありません。それが「する句」 です。
(藤田正勝「哲学のヒント」 による)
〔注〕 アリストテレス ー 古代ギリシアの哲学者。
おひ
笈 - 身のまわ-の品物を入れて背負う箱状の入れ物。
=リ
〔間-〕ー近代では、このような見方が力をもつようにな-、自然美への
関心は希薄になっていきました。とあるが'筆者は、どのように「自然美への関心」が希薄になったと述べているか。次のうちから最も適切なものを選べ。
ア 古代では自然の模倣から芸術が生まれると考えられていたが、近代で
は自然よ-も精神的存在である人間の価値が高いと見なされ'自然美への評価は低-なっていった。イ 古代では自然の再現であるポイエーシスから芸術が生産されると考え
られていたが、近代では芸術は人間の創作活動の一種と見なされ'芸術美の評価は低減していった。
り 古代ではミメ-シスが自然の内部の美を取り出して再現すると考えら
れていたが'近代では自然よ-人間の精神の方が価値が高いと見なされ、芸術美は衰退していった。
エ 古代では自然が芸術や創作活動を支えると考えられていたが'近代で
は芸術は精神活動が生み出す価値の高いものと見なされ、自然を大切にする理念は弱まっていった。
一立-15-
2____________■__
〔間2〕(「造化」というのは'非常におもしろい言葉です。とあるが、筆
者が「おもしろい」と考える理由を、六十字以内で説明せよ。
3______________I_,_.._. _
〔間3〕 (芭蕉の有名な言葉に'「桧の事は松に習へ、竹の事は竹に習
へ」というのがあ-ますが、この言葉もその意味に解釈することができるのではないでしょうか。とあるが'「この言葉もその意味に解釈することができる」とはどういうことか。次のうちから最も適切なものを選べ。
ア 「桧の事は松に習へ'竹の事は竹に習へ」という言葉は'松や竹とい
う物質を謙虚に見つめる修練を積むことで'自然を超えた精神にまで到達するという意味に解釈可能だということ。
イ 「於の事は桧に習へ、竹の事は竹に習へ」という言葉は、徒歩旅行の
肉体的な苦痛を意味するとともに'物の中に真実�