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自剛天真流組討について 山本義泰 The Kumiuchi of theJigotenshin School (Sect) YAMAMOTOYoshiyasu TheKumiuchioftheJigotenshinschoolwas developed as a techniqueforimaginarygrapplingonthe battlefield in the last daysofthe Tokugawa government. This school had great in- fluenceonestablishingRandori,themainpracticemethodof the Kodokanschool.Theschoolalsosetupasystemofranks ahead of the Kodokan and other judo schools. This discourse is an attempttoexplorehistorically the school founder, spirit, tech- niqueandtraditionofjudo. 1. 緒言 関ケ原の役,大坂冬,夏の陣以来,兵法者達は組討の重要性を認識し戦 場への備えから元和, 寛永年聞にかけて「良移心当流」「関口流」などの 戦場要道の組討を主眼とする源流的な流派が成立した。 万治,寛文年間以後は,徳川の時世が落ちつき従来甲胃着用により匝害 されていた「当身技」が甲胃着用の機会が少なくなるにしたがい,その効 力を発揮しだしたことは当然のなりゆきである。秋山四郎兵衛義昌の「揚 心流」創始は,打ち,突き,蹴りを中心とする技法で,所謂「平服時柔術」 の到来を示す好例であろう。 徳川平和期においては,組討系,当身技系の流派が混然となって実戦武 術としてかなり充実したものとなったのも事実であり,柔術諸流派が百花 擦乱,花聞いた時期でもあった。さらに,文化年代に入り,藤田麓憲貞に

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  • 自剛天真流組討について

    山本義泰

    The Kumiuchi of the Jigotenshin School (Sect)

    YAMAMOTO Yoshiyasu

    The Kumiuchi of the Jigotenshin school was developed as a

    technique for imaginary grappling on the battlefield in the last

    days of the Tokugawa government. This school had great in-

    fluence on establishing Randori, the main practice method of the

    Kodokan school. The school also set up a system of ranks ahead

    of the Kodokan and other judo schools. This discourse is an

    attempt to explore historically the school founder, spirit, tech-

    nique and tradition of judo.

    1. 緒言

    関ケ原の役,大坂冬,夏の陣以来,兵法者達は組討の重要性を認識し戦

    場への備えから元和, 寛永年聞にかけて「良移心当流」「関口流」などの

    戦場要道の組討を主眼とする源流的な流派が成立した。

    万治,寛文年間以後は,徳川の時世が落ちつき従来甲胃着用により匝害

    されていた「当身技」が甲胃着用の機会が少なくなるにしたがい,その効

    力を発揮しだしたことは当然のなりゆきである。秋山四郎兵衛義昌の「揚

    心流」創始は,打ち,突き,蹴りを中心とする技法で,所謂「平服時柔術」

    の到来を示す好例であろう。

    徳川平和期においては,組討系,当身技系の流派が混然となって実戦武

    術としてかなり充実したものとなったのも事実であり,柔術諸流派が百花

    擦乱,花聞いた時期でもあった。さらに,文化年代に入り,藤田麓憲貞に

  • 自剛天真流組計について 103

    よって組討系と当身技系の長所を採り入れた甲宵柔術の投技に平服柔術の

    当身技を整理し「為勢自得天真流J を組織した。この流派はかなり充実し

    たといわれている流派であり,天保14 年(1843 〕刊行の「武術流祖録J に

    次のように記載されている「黒田家の臣なり,始め長助と号し柔術を好み

    久保貞和に良移心当流を習う。後海賀藤亙方へ就て揚心流を学ぶ,遂に絶

    妙に至る。自ら工夫を加えて為勢自得天真流と号す。」とある。藤田麓憲

    貞は大いに名声を博したが,大坂奉行所武術指南在勤中に病床に臥し,そ

    れを遠く黒田藩において良移心当流の旧同門の後輩,圧林藤原道ーが伝え

    聞き,病床にかけつけ「極意を頂り,之を四方に在る精練の技に達した藤

    田の門下に授けん」と述べると,藤田は深くその志しを謝し,伝書口伝を

    道ーに授け,一人娘を要らせた。道ーは,後為勢自得天真流と良移心当流

    の指南をするようになったと伝えられている。

    道ーの没後,子息又七郎が相伝したが壮年時に死去したため,一門の高

    弟達が合議し,前述の両流を合流し「自剛天真流」と称するようになった。

    ただし,この流名を呼称するに至ったのは道ーが著わした伝書中に「自剛

    天真の巻」があり,これにしたがったようである。なお「初目録」におい

    ても「自問天真極意ハ正林藤原道一先生ノ遺伝ナリ」と記述されている。

    自剛天真流組討は,幕末動乱期に組織された流派である。歴史的には比

    較的新しいが,優れた精神と卓越した技法を誇る流派である。特筆すべき

    は現代柔道の中枢をなす乱捕稽古ならびに段位制は,自問天真流において

    は講道館柔道発足以前すでに実施されており,嘉納治五郎は自剛天真流を

    参考にしている面が多々あるのではないかと思われる。現在においても自

    剛天真流は,福岡市の天真館道場と明道館道場において脈々と伝承されて

    いる流派である。

    本稿において,流祖,庄林道ーの人間像,流旨と精神ならびに,その伝

    系について史的考察をおこない自剛天真流の技法を明らかにするものであ

    る。このことは講道館柔道の初期乱捕と古流柔術の乱捕を知ることにおい

    て大変意義深いものと考える。

    2. 流祖

    自剛天真流は,優れた精神と技法をもって黒田藩におh て広く伝承され

  • 104 天理大学学報

    た流派である。前述のように自剛天真流は,良移心当流と為勢自得天真流

    を主に合流して組織された流派であるが,良移心当流の元祖に多少不鮮明

    な部分がみられるので明らかにする必要があろう。この良移心当流には通

    説では二系統があるとされている。そのーは,正徳 4 年(1714 )に日夏繁

    高著の『本朝武芸小伝』の巻頭に散見できる福野七郎右衛門正勝説,その

    こは, 「武術流祖録J に記載されている笠原四郎左衛門説, それによると

    「年暦詳かならず,黒田家の臣なり。少年より柔術を好み精妙を得,良移

    心当流と号す。云々」とあり,これが笠原説の根拠となっているのであろ

    う。

    そして同じ「武術流祖録」にも福野七郎右衛門も記載されている,それ

    には「揺州浪華の人なり,常に角力を好み名誉を為す。東武麻布国正寺に

    寓す。朋友に三浦与次右衛門,磯貝次郎左衛門という者あり,常に会して

    その術を修む,時に陳元費三土に拳法を伝う。三土悦んで修練す。その技

    各々妙秘を得,これ本朝柔術の始めなり,正勝最も精妙たり,門に茨木専

    斉,寺田平左衛門傑出したり。推して福野流と称す。」となっており, 福

    野七郎右衛門正勝の流儀は福野流とされているところから,元祖は笠原四

    郎左衛門説をとったのであろう。しかし,剣術の柳生十兵衛三厳が寛永19

    年(1642 )に父祖の伝書類を整理して著わした『月之妙』に「和之事,是

    ハ七郎右衛門ノ工夫ニヨリ目録ト久。此一流良移心当和トス。」とあり,

    -日付を元和8年(1622) 3月と記るされている。

    圧林道ーの自著『組討後キ目録』に「先師笠原氏よち余に至るまで八世

    星霜百五拾余歳」と記るされているので,庄林道ーが,文政~天保(1820

    ~1840 )年間の人であるところから,これを逆算すれば笠原四郎左衛門は,

    寛文~元禄(1660 ~1690 )年間の人と推測される。そして福野七郎左衛門

    が元和寛永(1615 ~1640 )年聞の人とされており, r 笠原四郎左衛門は福野

    七郎右衛門の直弟子か,そうでないとしても孫弟子くらいにあたる身近な

    人であろう。福野流は俗称であり,笠原四郎左衛門は正称である良移心当

    流を踏襲したのであろう。このことは福野の系統である「直信流」「起倒

    流」などの伝書に明確に「良移心当流と号す」となっており元祖は福野七

    郎右衛門をとるべきである。

    自刷天真流は,藤田麓憲貞がはじめ,黒田藩武術指南役の久保貞次に良

  • 自剛天真流組討について 105

    移心当流を収めた後,平服時での柔術の代表である揚心流を,その五世で

    秋月藩武術指南役の海賀藤蔵直方に師事し,その技絶妙にいたるといわれ

    極意皆伝を受けた後,二流に自己の工夫を加え,より実戦に対処しえる武

    術として,為勢自得天真流を輿こした。藤田麓憲貞は,後大いに名声を博

    した。後年は大坂奉行所の武術指南として活躍したが,在勤中に病床に倒

    れ,精練の技に達した門下多数を育成したが,天保10 年(1839 〕病没した。

    ここで問題となるのは,庄林道ーが生存中に自剛天真流を正式名称とし

    発足させたかである。旧同門の藤田麓憲貞は先輩にあたり,浪華で病いに

    倒れた報に接し,遠く黒田藩よりかけつけ病床を見舞い「極意を頂り,之

    を四方に存る精練の技に達した藤田の門下に授けん」と述べ,そして藤田

    の一人娘を要っているところをみると,庄林道ーが在世中および,その子

    息又七郎が相伝のころまでは良移心当流と為勢自得天真流の両派の名称で

    指南したようである。子息又七郎が壮年時に病没したので,高弟達が合議

    した結果,その流名を白剛天真流と称するようにしたようである。しかし,

    これは,圧林道ーの自著した伝替に自剛天真の巻がありこれにしたがった

    ようである。

    庄林道ーは,良移心当流と為勢自得天真流の両流派の名称を用いて指南

    しておったようであるが,独自の教法と伝書は完成させていたのであろう。

    それは,当時の世相が幕末動乱期にあたり,従来の型稽古にある筆法を打

    破する目的からと思われる画期的な乱捕を採り入れたところに大きな意義

    をみいだせる。当時,一部の流派に僅かながらであるが乱捕はあったよう

    であるが,これは形がある程度上達すると,実戦に近い応用語古として「形

    残り」または「乱れ捕」などの意から「乱捕」と呼ばれるようになった。

    それでは自剛天真流の乱捕は,どのような趣旨で,どのような方法でお

    こなわれていたか,自剛天真流『乱捕』の項に「此業たるや現術は無之,

    柔術数捨手裏表の形を習,且つ捕合執行之後,臨機応変活用の修行にて,

    前後左右となく順逆捕合必ず法に泥むことなく,進退成さんことを要とな

    すべし。敵を倒したりとも勝とするに非ず,敵に倒されたとも必ず負に非

    ず,能く組留たるを以て勝とす。但し当り指折りを用ることなく襟絞は不

    苦,明か剛激の意也。糸の纏へるが如く敵を捕へ伏する時は透さず起立ざ

    る称に固めたる事肝要i也。此術専ら組討に刺さる可し,立業の要は腰の据

  • 106 天理大学学報

    り肝用なり。手足働き如何程習練しでも.腰の据り未だ熱せざれば倒れ易

    き者也。腰の調練熟する時は,無手に立たるを剛力無術転勤すること能は

    ず,且手足の働を添る時は応変活用能剛を制すると可知。実に腰の調練先

    機の術にあり,勝れたる剛力に出合たる時は,敵対の力争を不待,其機に

    応じ少も不激軽浮なる身になりて勝を取ること口伝あり,文数に投倒され

    たる時,仰臥して手足を以て身体を護し,敵の下辺につき釧返す術有り,

    又脚の働に口伝あり,乱捕熟練する時は,身体部固として如玉,運転の速

    なることを盤に玉を転ずる如し,枕して固玉客と云,是れ則ち剛和の柔な

    り。手足備能固め, 要穴を護り,全く身体空隙の処無く熟練すぺし。(以

    下略〉」と述べられているように,今日の乱取の原形というべきであろう。

    さらに,その大要を,まず立技の勝負については,腰の据りを第ーとして

    おり,それに手足の働きを加え,相手の剛力に対しては臨機応変に先手を

    とって身を軽く動かして相手を制するところに秘訣があるとしているのは,

    今日の柔道でおこなう体捌きに酷似している。そして,立技で投げられた

    からとして,そのまま勝負が決定するのでなく ,立ち姿勢の者と寝姿勢の

    者との聞ではなおかつ優劣が争われている。例えば,上の者と下になって

    いる者との間で,突いたり,蹴ったりの攻撃や防禦,下の者が上の者を引

    っ張り込んで返そうとする動作など種々おこなわれており,終りには「糸

    の纏へるが如く敵を捕え伏せ」まったく「起き立てざるように固めたるこ

    と」をもって「能く組み留めたる」ものとして勝負が決められている。以

    上のようにこれはあくまで自剛天真流での乱捕 りであるが,講道館柔道の

    体育を目的としたものとは,本質的に大きな差異がある。自剛天真流は,

  • 自剛天真流組討について 107

    索速い体捌きの重要性をすでに解いており,武術的な重要性を多く含んで

    おり,それを目的としてしる。

    庄林道ーは,その教法を確立するにあたり,ただ良移心当流と為勢自得

    天真流の二流のみで確立したのではなく「良移心当流目録」に「戦場組討

    は良移心当流を第ーとなし。平常殺活は揚心流を無双となす。揚心流の活

    法と諸流の可なるものを取り,云々」と記るされているように,庄林道ー

    は,幅広い分野で数多くの流派を学んで自剛天真流の教法を完成させたの

    であろう。

    庄林道ーは,筆法を打破する従来までの形稽古から,実戦により対処し

    得る乱捕稽古の確立者として,その偉業は今日の講道館柔道の中核をなす

    乱捕稽古の基礎確立にも大きく寄与しているのは言うまでもなし、。 「武道

    極意」に圧林道ーを評し「体躯雄偉にして怪力があり,家芸に練達し,気

    合を以て人を殺活する事ができ書道にも巧みにして文武の才あり,藤田麓

    憲貞が浪華に於て老病にかかれるを聞き馳せて病床を訪ひ(極意を頂り,

    之も四方に存る精練の技に達した者に授けん)云々」とあるように,

    庄林道ーは,心,技,体の充実した名人の域に達しており,仁厚を重ず

    る真の武士としての道を歩んだ典型的な文武両道の士としての一端を伺が

    えるようである。そして幕末動乱期にあって,その術も時代に対応した。

    乱捕稽古確立者として永遠に賞讃に価する人物でもある。生年,没年不詳。

    3. 流旨と精神

    (1)流旨

    自剛天真流組討の流旨は,庄林道ーが自著した「自剛天真之巻」に詳述

    されている。それによると

    「夫れ余が組討の為道や剛柔共に拾てず。方固兼て用ゆ,醤へは止まって不動時

    は,静なること如山,これ剛にして方なるの怠なり,又行て不止時は,疾きこと

    水の如し。これ柔にして固なるの味乎(中略〉。蓋し天理の流行, 寒暑の往来総

    て至剛の盛なる也。余が術も亦此に比す。故に中心剛毅を基とし,外柔体和を周

    とす,心剛毅ならざれば,運転して遅速に応ずること不能,今ま余が組討の妙所

    に至りでは,善悪剛柔を忘却し去て,無念無想、にして,一心ー術,撲てば果して

    甲宵に撤す。図て柔和而乙称せず。自剛天真流組討と爾云。」

    と述べられているように,自剛天真流においては,柔中に剛あり。剛中に

  • 108 天理大学学報

    柔ありといわれるように,ただ力の使い方が柔らかいだけでなく,剛柔兼

    備が求められ,剛と柔の流れが無限の宇宙の大気のように停まることなく,

    滑らかな体の捌きと,円をえがく運動でなければならず,同時にし、かなる

    敵に対しでも動転しない「不動」の心もちを解いている。そして柔が剛を

    制することができるのは「天地自然の法則J によるものであり,柔が必ず

    しも剛に勝つものではなく,剛もまた柔に勝つものではなし、。勝敗はただ

    奇正変化の応用の巧拙にあるとされている。

    そして「中心剛毅を基とし,外柔体和を用とす」とあるように,斉下丹

    田の充実した,正体のもとで気を充実させ「外柔内剛」を旨とし,雑念を

    捨て無我の境地で術を施せば,鉄の甲胃をも打ち砕けるようになり,柔和

    のみでない「剛柔兼備」なるところから,白剛天真と称するに至ったと説

    かれている。

    (2 )精神

    自剛天真流の代表的な精神は, 「和術陰陽之巻」に, 次のように述べら

    れている。

    「天地の道,陰陽の二つに出でざること無し,陰陽元は一気にして其流行する所

    よりして相分る。其の気の動くを陽とし,静なるを陰とす。伸すを陽とし,屈む

    を陰とす。陰の始は陽なり。陽の元は陰なり,陽を離れて陽独り生ずること能は

    ず,陰中に陽あり,陽中に陰あり,互に其の根となる。扱此陰陽の二気相分れて

    人を生ず。故に人の一身には悉く陰陽の理を備たり。気は陽也。血は陰なり。柔

    なるは陽,剛は陰なり。噴く息は陽なり,引く息は陰なり。前は揚,後は陰,進

    は陽,退は陰なり。此理を推せば,事々物々の上,皆陰陽の二に離れたる事なし。

    総て物の釣合の能き程は皆な陰陽なり。 (次略〉夫れ天下の至って柔かなるもの

    は水に若くは無し,去れども堅を破り強きを攻むる者是より甚しきはなし。江河

    の流れ日夜君主々として止まず,其勢あながち畏るるに足らざる如くなれども,カ

    を以て防ぐも力は疲れて水は裂けず。石を投て之を破るも石は沈みて水は破れず。

    (次略〉走れ柔悶I]に勝つのー設なり。剛は裂しく見へても負る理あり。柳の校に

    雪析れなしと云える,最も能く此義に叶へり。畢意剛柔暫を相離る可からず。内

    を剛にして外を柔にする。」

    と説かれているように,その趣旨は「総て物の釣合の能き程は皆な陰陽な

    り」の語に代表されるように,.陰陽和合の原則である。陰極まれば陽,陽

    極まれば陰となる,すなわち,自然に逆らうことなく従順でなければなら

    ないことを求めている。そして自剛天真流の精神基盤を「天下の至って柔

    かなるものは水に若く時無し」と説き,老子の E柔能剛制J,の理に基づL、

  • 自剛天真流組討について 109

    た,定形のない水に象徴されており,これは,水は柔らかく形を変えて動

    き,時には水を破る力がなにもないところからきているのであろう。その

    姿を「柳の枝に雪析れなし」といわれるようにに「外柔内聞」となるよう

    に修練すれば勝に通ずることができるとしている。

    要するに,陰陽和合の原則に従順で,力の用法は水のように柔らかく,

    姿を柳の木にたとえ「外柔内剛」となるのが勝利を得る道だとしている。(20)

    さらに「捕合執行之巻」に

    「強を見て恐るる事勿れ,弱を見て侮る事勿れ,少にしても恐健疑惑を生ずる時

    は,術不満,身体虚空と為り,何ぞ極所に至らん。必ず敵の強弱に不拘,唯臨機

    応変の速ならんことを要とする。勝負に付て修業の意あり。捕り負けたる時は術

    の次第を考,偶中の勝に非す。やと再三吟味し術の妙定、を服腐すベし。如此切瑳琢

    磨の修業すれば,筋骨剛竪なること如金鉄にして,而も術の柔術なること楊柳の

    風に吹かるるが如し,敵に急緩に従ハて前後左右に附纏ふは,剛者是を捲くに由

    無し。是れ真の柔術極所に至る也。云々」

    とあり,この捕合執行の巻は,柔術修業上の心構えの大切さを教えており,

    そして日夜切瑳琢磨の修業をすることにより,強健な身体をつくることが

    でき,その術に至っては,急緩自在な楊柳のような外柔内剛となり得る。

    これが柔術の所謂「極意」であると説いている。

    4. 技術

    次に,自剛天真流の優れた思想、を具体的に生かす技術構成ならびに教授

    課程はどのようなことになっているかを考察することにする。

    自剛天真流は,柔術諸流派の中にあっては比較的新しい流派である。そ

    の全盛が幕末から昭和20 年(1945 )ごろにかけてであり,流創始当時から

    自剛天真流の技術として正しく受け継がれているのは間違いないようであ

    る。ただ天真館道場と明道館道場において教授段階において多少順逆が不

    順になっているが,その大要においてはなんら変ることなく,しっかりし

    た組織系統を誇ってし、る。拳法殺活にはじまり,捕合執行,組討,乱捕,

    心得の篠と整然とした組識を保っている。

    その技術体系を天真館道場所蔵「自剛天真流初目録」と明道館道場所蔵(22) (23)

    「自剛天真流目録」ならびに『武道極意』所収の「自剛組討勝身九要」「後

    上目録」とを照合し,併して次に掲げることにする。

  • 110 天理大学学報

    自刷天真流目録

    付臭入

    自剛天真拳法(前之殺,左右之殺〉

    I,金 積 l,天地誉 I,襟手捕し関天身

    l,目測位 l,前之殺

    当法進退陰陽手術

    I,五節活 l,腹

    活息調心気練静修

    活 l,金 活 I,鼻血留

    伺初目録

    捕合執行

    I,片手

    I,諸

    I,襟手

    伺後目録

    組討手数12 手

    捕 I,両手捕

    羽 l,片羽

    捕 l,引越

    l,腰

    1,蹴

    寧 I,大事

    揚 1,追掛捕

    I,片羽折 1,鍵之手絡し白剛之徳 l,山 海

    I,虚々実々之利 I,本真之位 I,虚実之位 I,英傑之利

    I,引 立 l,引 抜 I,小手絞り揚め引立(口伝〉I,小手絞り廻し引立(口伝〉

    帥免許

    拳法殺法

    雁小谷息仰許組’活’免剛

    111 活1自伺

    下槌合鵬活要練九

    拳気日身F心JF伝勝

    ニ一司調皆討

    l,主主合並運動

    l,先後並寸分

    I,未発並寸分

    右九要篠目撃

    組討後上目録

    I,一寸之身

    I,未発之先

    I,活法心伝

    腕内中裏

    唱Ea--EA噌・A--A

    馴所渚活

    I,正侵並楯鋒

    l,変化並浮沈

    I,独注並無勢

    l,一分之利

    l,勘志之場

    肘外甲皐

    唱EA’・Ea’EA’EA

    詰所利活

    I,投手並請身

    I,目附並遠近

    I,自剛並天真

    I,目附之位

    I,小鏡之伝

    腕釣草

    ’EA唱EA’EA

    節鐙隠

    以上初段之階梯

    以上中段之法則

    以上上段之法則

    l,己発之先

    l,殺法之伝

    以上

    この伝書類によって,技術の体系ならびに内容を概観すると,その技術

  • 自剛天真流組討について 111 (24)

    は,前述の「自剛天真流目録J に「戦場組討は良移心当流を第ーとし,平

    常殺活は揚心流を無双とする」とあるように,戦場必須の組討の要道と,

    平服時での殺活の各々代表的な流派の技法を採り入れ,生死を争う全ての

    場面の展開を想定し分類構成されている。「自剛天真流初目録」「自剛天真

    拳法J の項に前之殺,左右の殺の各々上,中,下の六手裏表を習うことに

    よって,基本の姿勢と日常遭遇する前後左右の敵に対応する基本技の修得

    を目的とし,同時に活法殺法と呼吸法を身につけさせ気の充実を計ってい

    る。また,これらの術技を施すときは「当法進退陰陽間手術」とあるよう

    に,陰陽和合から,その移りゆく際に施すべきであるとし,自然の法則に

    したがうことを求めている。

    「捕合執行」は, 日常に発生する不意の攻撃ならびに防禦に対する, 強

    健な身体づくりと素速い体捌きならびに柔らかい身のこなし,楊柳のよう

    な「外柔内剛」となりえるようにする方法で,身心共に所作を離れ自由自

    在の技術が行使できるように目指している。

    「組討」は, 当時の社会背想を反映し, 戦場必須の組討の基本を主眼と

    しており,これが後に示される乱捕の基礎となることはよく理解できる。

    「拳法殺活」は, はじめの「自剛天真拳法」の仕上げとして完成され,

    日常の殺活に万全を期しており,活法を三法加えられて,殺法における活

    法として重視されているのは,いかに殺法が威力を発揮しているかを知る

    ことができる何よりの証明である。

    なんといっても自剛天真流の一大特徴は,乱捕稽古の導入であろう。ま

    ず目録 1~4 までを習得したのち「自剛組討勝身九要」の初段階梯で探合

    並運動,正体並楯鋒,投手並請身から入り,次いで中段之法則で先後寸分,

    変化並浮沈, 目附並遠近,最後に,上段の所作で未発並寸分,独注並無勢,

    自剛並天真とし、う順序で乱捕技をこなしている。これなどは,従来の柔術

    諸流派が形稽古を中心とした結果,華法に走る幣害が生じ,これを打破す

    ることによって戦場実際での組討の展開を実戦のかたちに現われるように

    工夫したものであろう。これについて,前述の「敵に倒されたとも必ず負

    けに非ずJ とあるように,敵に投げられたからといって負けではなく「系

    の纏へるが如く敵を捕へ伏J まったく 「起き立てざるように固めたるこ

    と」をもって「能く組み留めたるJ として勝負が決められている。このよ

  • 112 天理大学学報’

    うに自剛天真流の乱捕は,戦場実際での組討を想定して工夫された武術で

    あり,講道館柔道の体育法を目的としたものとは,大変大きなへだたりが

    あることは当然、のことであろう。

    ただし,後年講道館柔道が天真館道場を拠点と L て九州一円に講道館柔

    道を普及させた事実などは,明治維新の廃万令などによる時代的な影響と

    当時の治安が安定しておった事情もあり,武術である柔術が無用の長物と

    され,柔術をも含めた武術は衰退一途をたE ったが,自剛天真流は乱捕稽

    古を採用しておった関係でむしろ隆盛をきわめたようである。これが同じ

    乱捕稽古を主とする観点から講道館柔道に迎合しやすかったからであろう。

    自剛天真流が,講道館柔道の乱捕稽古確立に大きく貢献したことがよく

    理解できる。

    最後に,乱捕稽古に習熟すると極意秘伝として『九要保目畢』の 1. 一

    寸之身, 1. 一分之利, 1. 目附之位, 1. 己発之先, 1. 未発之先, 1. 勘忍之場

    1. 小鏡之伝, 1. 殺法之伝, 1. 活法心伝という各々心得を伝授される。

    教授方法は,(1)奥入にはじまり,(2)初目録,(2)後目録,(4)免許,(5)免許

    皆伝とし、う五段階に分れているが,殺法に関しては別に,段位制度が採用

    されている。現在までの通説として,段位採用は明治16 年(1883) 8 月に

    嘉納治五郎が山田常次郎と西郷四郎の二名に初段を授与したのが最初とさ

    れている。嘉納治五郎著作集(2)に大正 9 年(1920 )『この段級の名称は昔

    は武芸に用いなかったのであるが,講道館が用いて以来,世間の人は目録

    免許,皆伝というようなことを口にせず,云々』と語っており,段は後に

    他の武道も他流派も講道館に習ったとしているが,自剛天真流においては,

    すでに幕末期より採用しており,この分野においても先駆的な役割を演じ

    ている。

    5. 伝 系

    自剛天真流は,比較的新しい流派であるが,流祖,正林藤原道一以後,

    庄林家の相伝者は二代までは続いたが,若年時で病没した関係で・比較的短

    かい年月であったようであるが,その高弟達が道場を輿こし師範として後

    進を育成したので福岡市で比較的広く伝承された要因となった。

    0 二代目 庄林又七郎年生月日不詳。

  • 自剛天真流組討について 113

    庄林道一総領

    圧林家は代々黒田藩柔術指南として仕えた家柄である。慶応『分限帳』

    に「和術指南,圧林文七郎」と記載されている。昭和18 年(1943 )玄洋社

    の頭山満が評して『庄林又七郎は日本一の柔術家であった。」と述べてお

    り,その技儒は抜群で、あったようである。壮年時に病没した。年令,死亡

    年月日不詳。

    。庄林藤橘年生月日不詳。

    庄林文七郎実弟

    『明治以後福岡県柔道修業物故者名簿』に依ると, 正林藤橘, 黒田藩体

    術指南,自剛天真流免許皆伝とある。明治10 年 (1877 )病没。年令不詳。

    この藤橘をもって圧林家の相伝者がなくなり,流名も,良移心当流,為

    勢自得天真流から完全に自剛天真流とした。

    。各道場と師範

    自剛天真流を伝えた道場は,玄洋社系の明道館道場と天真館道場に他二,

    三の道場を中心として栄え伝承され現在に至っている。

    明道館道場

    玄洋社は明治13 年 (1880 )に向洋社を改称して設立され,最初のころは

    反政府,反体制の自由民権運動を主としたが,後には一転して国家権力に

    かたむく富国強兵,国威発揚を目標とし頭山満に率いられ,明道館道場は

    玄洋社々員の日常練麿の場として創設された。昭和20 年 (1945 )マッカー

    サ一指令に基づいて玄洋社は解体されたが,とにかく頭山満の思想を背景

    とした特異な道場である。

    。宮川太一郎嘉永元年(1848 )生

    正林又七郎の高弟・免許皆伝

    代々黒田家の臣である。一万流剣術,自剛天真流組討を極め,明治10 年

    (1877) 11 月玄洋社附属の向浜塾で自聞天真流を教授したのが, 後の明道

    館道場の起源とされている。大正 9 年 (1920) 6月20 日77 才にて病没。

    長男.宮川彦之助も目録まで進み,自剛天真流の普及に務めた。

    。猪股運八生年月日不詳

    庄林又七郎,藤橘に師事,免許皆伝

    庄林又七郎の一子,庄林彦六の後見を務める。没年,年令不詳。

  • 114 天理大学学報

    。坪田必義勝生年月日不詳

    庄林文七郎,藤橘に師事,免許皆伝

    明治初期に博多片工居町に坪国道場を聞いた。

    。吉田繁次郎生年月日不詳。

    坪田必義勝の高弟,免許皆伝

    大浜に吉田天真館道場を聞いて数多くの子弟を育成する。明治42 年(19

    09 )病没。年令不詳。(34)

    。竹田乙磨嘉永 4年(1852 )生

    庄林藤橘,猪股運八に師事,免許皆伝

    明治21 年(1889 )より玄洋社附属の福岡連合青年会の師範に就任する。

    大正中頃まで自剛天真流の伝承にあたった。一方,著名な整骨で『谷響』

    の名は福岡一円に轟いたといわれる。大正 7年(1918) 68 才にて病没。

    。十時惟隆生年月日不詳

    竹田乙磨の高弟免許皆伝

    明道館道場の館長として,実技の保存と理論究明に専念した。昭和38 年

    (1963 )病没,年令不詳

    。横田正米潔康明治27 年 (1894 )生

    竹田乙磨の高弟免許皆伝

    明道館道場の師範として,史実研究と自剛天真流の保存実践に務めた。

    昭和47 年(1972) 11 月20 日70 才にて病没。

    。財部一郎昭和 2年 (1927 )生

    横田正米潔慶に師事,現明道館道場師範

    昭和20 年(1945) 6月戦災で類死した伝書類を,元明道館出身者の家々

    を廻り昭和37 年 (1962 )に再興した。中学校々長として激務のかたわら,

    流保存と伝承に精力をつくしている。

    天真館道場

    明治22 年(1889 ),福岡市本町にあった玄洋社青年会道場〈後の明道館〉

    で学んでいた,内田良平(後の黒竜会設立者〉が思い立って建てたのが始

    まりである。

    。山田六郎貞信,生年月日不詳

    庄林藤橘,猪股運八に師事,免許皆伝

  • 自剛天真流組討について 115

    竹田乙磨と玄洋社附属の福岡連合青年会の師範であったが,山田六郎は,

    内田良平に要請されて天真館道場の初代師範として基礎固めをし,幾多の

    人材を育成した。明治42 年(1909 )病没.年令不詳

    山田六郎のあとは,自剛天真流の師範は空席のままであったが,宮川兄

    弟が指導にあたったり,姉妹道場,明道館の師範が時折指導にあたった。

    その運営,管理は道場出身の先輩達があたり,細々ながら古流の命脈を保

    ったようである。一方,古流ではなく,講道館柔道の方は,飯塚国三郎な

    どの著名は柔道家が師範として活躍した。

    。西文雄明治30 年 (1897 )生

    合流ではなく, 講道館柔道の師範であるが, 昭和15 年(1940)「自剛天

    真流星解」を著わして貴重な資料を完成させた。前述のように,昭和20 年

    (1945 )マッカーサ一指令によって伝書類が焼却されたので,「自剛天真流

    署解」が唯一の教本として天真館道場において重要な役割をはたしている

    事実は大きな功績といえよう。現在まだ健在である。

    自主運営をとっている天真館道場では

    。藤川恒夫によって古流の 8mm フィルムが残されている。昭和 44 年

    (1969 〕没

    。野田清美昭和47 年 (1972 )没 。梅津慶一郎健在

    。前回実昭和57 年 (1982 )没

    以上の人々によって系譜が絶えることはなく保もたれた。

    o 赤司智治昭和15 年 (1940 )生

    前述の四氏に師事,現天真館道場専任師範

    昭和46 年(1971 )待望の専任師範として後進の育成と流保存を期し,天

    真館出身の古老宅を廻り,自剛天真流の伝書の収集と正しい技術の探求中

    である。一方,昼間は警察官という激務のかたわらでの流保存にかける情

    熱には頭のさがる思いである。

    。北口誠昭和11 年(1936 )生

    天真館道場理事と師範を兼務し赤司師範を助けて古流の保存に尽力して

    いる。

    講道館柔道が九州における一大拠点として,天真館道場を足場に活躍し

    たのは衆知の通りであるが,昭和20 年(1945 )マ y カーサ一指令に基づく

  • 116 天理大学学報

    内田良平の思想、機関 r黒竜会」発詳の道場ということで解体され,明道館道場と同じ運命をたとった。昭和24 年(1949 )に再興された。

    6. 結語

    自剛天真流の祖流である。良移心当流の元祖に関しては,笠原説と福野

    説の二説があり多少不鮮明な部分があったが,柳生十兵衛が寛永19 年 (16

    42 )に父祖の伝書を整理して著わした『月之妙』に「和之事,是ハ七郎右

    衛門工夫ニヨリ」とあり, 日付を元和8 年(1622) としてU、ることと,

    「直信流」「起倒流」などの伝書中においても福野七郎右衛門が「良移心当

    流を号した」となっているので福野七郎右衛門を元祖とみるのが当然であ

    ろう。

    自剛天真流の流祖,圧林道ーが生存中には良移心当流,為勢自得天真流

    の名称で教授しておったようであるが,自剛天真流としての独自の教法は

    すでに確立されておったようである。より実戦に対処することのできる武

    術として「乱捕稽古」を完成させたのは幕末動乱期にあって,実戦董視の

    幅広い研究は,後年講道館柔道の主をなす乱捕稽古の体系化確立に多大の

    貢献したのは永遠に賞讃されるであろう。

    また,仁厚を重ずる真の武士としての道をあゆみ,その技芸も名人の域

    に達した文武両道の士として評価される。

    その流旨は, 「自剛天真の巻」にある「余が組討の妙所に至りでは, 善

    悪剛柔を忘却し去て,因て柔和市己称せず。自剛天真組討と爾云」とある

    のが,自剛天真流の本旨である。

    このことは「和術陰陽の巻J にみられる「総て物の釣合の能き程は皆な

    陰陽なり」の語に代表されており, これが精神的趣旨であるが, 「天下の

    柔らかなるものは水に若くは無し」とあり「柳の校に雪折なし」といわれ

    る「外柔内剛」が,自剛天真流の精神的基盤といえる。

    その技術は,幕末動乱期に即応した,組討の代表的流派と平服時での代

    表的流派などの諸流派の長所を集大成して自剛天真流の教法を確立した。

    この流派の特徴は,戦場実際での組討を想定して工夫された乱捕稽古の導

    入であろう。この乱捕の方法は「糸の纏へるが如く敵を捕へ伏」「起立て

    ざるように固めたること」をもって「能く組み・留めたる」として勝負が決

  • 自剛天真流組討について 117

    せられているのは,あくまで武術であり,講道館柔道の体育法を目的とし

    たものとは根本的に差異が生じている。

    教授段階は,(1)奥入,(2)初目録 (3 )後目録 (4 )免許 (5 )免許皆伝の五段

    階よりなっているが殺活に関しては別に段位制を用いており,この分野に

    おいても他流派,他武道の先駆的な役割をはたしている。その伝系は,流祖圧林道ーより,二代目圧林又七郎まで宗家制度をとっ

    たようであるが,それ以後は,玄洋社系の明道館道場,黒竜会系の天真館

    道場などの各師範が中心となって普及させ,現在においても福岡で広く伝

    承されている。

    ※本稿を進めるにあたり昭和59 年(1984) 5 月19 日天真館道場において,

    赤司智司,財部一雄両氏より資料の提供および指導(伝書類)を受けたこ

    とに関し,紙上を御借りし改めて御礼申し上げます。

    引用参考文献

    ( 1 )著者不明 武術流祖録 天理図書館蔵 天保 4 年(1843)

    (2 〕 前掲書

    (3) 内田良平著 武道極意、 p.143 黒竜会出版部 大正14 年 (1925)

    (4) 武道極意、 p.143 ~144 所収前掲書(5) 山田六郎著 自剛天真流初目録天真館蔵 明治39 年「1906)

    (6 )早川純三郎編武術叢書所収 図書刊行会 大正 4 年 (1914)

    (7) 武術流祖録 前掲番

    (8) 前掲書

    (9) 今村嘉雄編 史料柳生新陰流下 p. 71 ~72 所収 人物往来社(1967)

    (10) 武道極意 p.146 ~147 所収前掲書(11 〕井上九郎右衛門事5 直信流柔序 鈴鹿家蔵 享保 9 年 (1724)

    (12 〕寺田正浄編述 起倒流登仮集天理図番館蔵享保14 年 (1729)

    昭和42 年

    (寛政 3年「1791 」入江今定写)

    (13 〕 武術流祖録 前掲番

    (14) 武道極意; p. 143 前掲醤

    (15) 武道極意 p. 151 ~152 所収前掲番

    武道極意所収の「乱捕」は, 昭和15 年西文雄著「自剛天真流客解」(天真館蔵〉

    と照合し一致をみた。

    (16 )山田信之著 良移心当流目録 山本家蔵 明治23 年(1890)

    (17) 武道極意 p. 142 前掲密

  • 118 天理大学学報

    (18 )明道館道場編自剛天真之巻 明道館道場蔵昭前37 年 (1962 )再興

    この伝蓄は,武道極意所収のものと, 昭和15 年商文雄著「自剛天真流客解」

    (天真館蔵〉とを照合し一致をみた。(19 〕明道館道場編和術陰陽之巻明道館道場蔵 昭和37 年 (1962 )再興

    (20 )明道館道場編捕合執行之巻明道館道場蔵 昭和37 年 (1962 )再興

    この伝蓄は (19, 20 )は武道極意;所収のものと照会し一致をみた。

    (21 )山田六郎著白岡lj 天真流初目録天真館道場蔵 明治39 年 (1906)

    (22 )明道館道場編 自剛天真流目録明道館道場蔵昭和37 年 (1962 )再興

    (23) 武道極意; p.145 ~146 所収前掲書

    (24) 良移心当流目録 前掲番

    (25) 武道極意、 p.146 所収 前掲書

    (26 )講道館監修 嘉納治五郎著作習(2) p. 80 五月書房昭和58 年(1983)

    (27)(28)(29)(30)(31)(32(33)(34)(35)(36) 明道館道場編 自剛天真流柔術

    明道館道場蔵 昭和37 年 (1962 〕

    (37)(38 )吉田正明著王国の系譜 p.28 ~29 西日本新聞社昭和44 年 (1969)