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18
Title 塞と大月氏 Author(s) 小谷, 仲男 Citation 東洋史研究 (1969), 28(2-3): 196-212 Issue Date 1969-12-31 URL https://doi.org/10.14989/152796 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 塞と大月氏

Author(s) 小谷, 仲男

Citation 東洋史研究 (1969), 28(2-3): 196-212

Issue Date 1969-12-31

URL https://doi.org/10.14989/152796

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

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196

ル」

中,a唱,

パクトリア王閣の滅亡

二『漢書』の塞種

『史記』と

『漢書』

の相違

- 70ー

t土

tこ

中園史書のなかで西方の古代民族に言及した部分は、記録の乏しい時代ゆえ、ひじように貴重視される。そのなかに旬

奴と同時代に活躍した民族として大月氏と塞があげられる。大月氏は従来から比較的詳細に研究され、現在ではのちに東

西交渉の仲介者となるクシャン人

穴5Eロ凹(後漢書H貴霜)の前身であるか、

それともクシャン人とは別民族で、

ャンをふくむバクトリア

回RE田の土着民つまり大夏の征服者であるかという大きな問題にぶつかっていヤ

一方、塞の

ほうは最近あまり議論にのぼらないが、塞(顔師固の塞字の註に先得反とある)の音が西方史書のスキタイあるいはサカ

(ωn3ESFω再開・ω曲g叩)に類似するところから、はやくから塞Hサカ同

一読が支配的となった。

西方史書のスキタイ、 ク

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サカとは、

アム河(〉自ロロ白巳同〉やシル河

(ωヨロ阻止血〉の聞やその北方にすむ遊牧民族で、紀元前二世紀中にギリシア

人王園のパクトリアを滅亡させた民族としてったえられているものである。

しかし、いま私が『漢書』の塞の記事をバクトリアやガンダ1ラの歴史とあわせてかんがえてみると、どうしてもふに

さらに『漢書』の塞にまつわる史賓を、前代の『史記』とよみくらべてみると、塞にはその賞在性を

うたがわせるところがある。以下の論考は主として『漢書』にかかれた塞民族についての史料批判である。

おちない黙があり、

ハクトリア王園の滅亡

パクトリア切白ロロ広はヘレニ

ズム世界のもっとも東方に成立したギリ

シア人王園である。首都はパクトラ∞

R可曲で、

王園の領域は正確にさだめることはむつかしいが、だいたい現在のアフガニスタン北部、アム河(古名、オクサス、

OM5

@

「千の都市

Fog師陣ロ仏口町民20内回同

nE白」を領有していたといわれる。バクトリアの名はギリシア王園

成立以前から記録にある。

アケメネス王朝の二十の属州

ω三EZ一のなかに、

東方の地域としてガンダlラ

O同ロ円子曲目、

-71ー

嬬水)の流域で、

ソグド

ωom内医師

Eとならんでパクトリアの名があげられ、毎年アケメネス朝廷に一定額の納税をおこなっていた。そのご

マケドニアのアレキサンダ!大王がアケネメス朝の王都ベルセポリスを焼き、さらに東方へ遠征をつづけ、インダス河に

達し(切

-n・ωNd、短命ではあったが諸民族を融合した一大帝園を建設した。

統治され、パクトリアはシリアに本援をすえたセレウコス

ω巴2rgZF回昨日の領土にはいった。

大王の死後、この帝園はかれの部絡に分割

やがてセレウコス王家

の支配力がよわまり、南のインド・マウリア王朝が強力となって、東方領土をいちじるしく侵略する。紀元前二五

O年こ

ろになると、現在のイランにパルチア司氏岳山由が濁立して王園をつくり、

これと前後してバクトリアにギリシア人太守

ディオドトスロ目。仏

OE師、が濁立園をつくった。これがバクトリア王園の創始である。

197

これまでに多くの皐者がギリシア・バクトリアの遺跡をきがしあてようとしたが成功していない。バルチアの領内の古

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198

代都市のユサ

Z3白(ソ連領アシ

ュハバ

lド

〉∞

FEZ仏附近)からは、大理石のヴ

ィー

ナス像や象牙のリょト

ンそのほ

かのヘレ

ニズム時代の多くの遺物がみつかっているが、バクトラはその宮殿の所在さえ確認できない。たしかに現在のア

フガ

ニスタンのバルフ

切とrvがその名をつたえたものにちがいなく、町の周囲には城壁が、

北郊にはアク

ロポリスに類

するようなバ

!ラ

・ヒサ

lル

切削-PZU削円(高い丘のいみ〉がのこ

り、

@

いかギリシア時代の遺構はなかなかみつからないーガンタ

lラ例数美術の起原をバクトリア系ギリシア美術にもとめるフ

ランス考古皐調査陵、がとくに開心をいだき、

一九三三年以来、再三渡掘をこころみたが、預想される宮殴、-紳殿、彫刻な

忘れられた王園

町。

G2Z口問百m仏05としていまなおなぞにつつまれている。

考古開筆者をさそうが

地下ふかく埋浸しているせ

どはなにひとつ

みつ

からない。

しかしご

く最近になっ

て、

フラ

ンス調査隊はバルブ(パク

トラ)から東方へ約

一五

O加はなれたアム河の東岸、

アイ

・ハヌム

聞ハEロロヨ

という地貼

(コクチャ

同ofnE川の合流貼)で、ギリシア都市らしい遺跡を瑳見した。

@

づき護掘中であるが、バルフとちがって石灰岩製の列柱宮殿祉があきらかになりつつある。そのほかギリシア語銘を刻し

たへ

ルメスの門柱や美しい土器片なと興味ぶかい設見がったえられる。地理的位置からパク

トリアの首都そのものではな

ギリシア

・バク

トリアの

一都市にちがいなく、成果が期待される。

一九六四年以来ひきつ

- 72-

さそうであるが、

アイ

・ハヌム遺跡の設見以前にはたしかにパク

トリ

・ギリシアの都市は一つも知られなかったが、パク

トリア諸王の

貨幣がそれまでにパルフやクン

ドゥズの各地から数多く護見されていた。それが記録に失なわれていたバク

トリ

ア王家の

系譜を復元する唯一

の手がかりであった。貨幣上の研究

(ZEBEstn乙は、古くからはじまっており、ここ

では詳しく

紹介するゆとりがないが、大まかにいうとディ

オドトス

巴O仏E5以下の初期の王の貨幣は銀貨が主で、正規のギリシア

重量(〉丹江口語何一

mE)をもっ(貨幣としてはテ

トラ

・ドラフム

HH∞巳。表面は王の胸像、一表面は紳像とギリシア文字銘が

打刻される。ギリシア

・バク

トリ

ア王はやがて

ヒンドゥクシ

ュ山脈をこ与えて南へ支配をひろげ、

の南方に王園の重心がうつるようになる。そのなかで顕著な王は

〉司OZO仏25や

富市

ロ曲

ロp_. 伺同

〆「

併ト奥 だのい

リ ヒンンダド

冨ウ己ょ クロ 、ノp_. 同~

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QIJ心もさまÍ'.m;心弐

js目指折J~

I

νム的。On the

left and opposite these

peoples are situated the

Scythian or

nomadic tribes,

which cover the

whole of

the northern side.

Now the greater

part of the S

cythians,

beginning at

the Caspian S

ea,

are called Daae,

but

those who are situated

more to the

east than these

are named Massagetae a

nd Sacae,

whereas all

the rest are

given the n

ame of S

cythians ,

though each people is

given a

separate name of its

own. They are all

for the most

part nomads

, But the best k

nown of

the nomads are those

who took away Bactriana from the

Greeks,

1 me

an

the Asii,

Pasiarti,

Tochari,

and Sacarauli

, wh

o originally c

ame from the c

ountry o

n the other side of the laxartes

River that adjoins that of the S

acae and the S

ogdiani and was occupied by the

Sacae. (Strabo, xi,

8, 2)

ド1門

型酎

柏山

兵さ

Fて

いE

ト州""';:..ト〈ふ心織やど眠総ぎ

Asii,P

剖iani

,Tochari, Sacarauli

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K冷気ヤ-<(Scythians)

付事昼寝堅守1J~'阻-\!\Q

Daae (

てえかト-<)以蔀

f2

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200

し、東方のものは冨22mm門誌や

ω22とよばれていたことが知られる。

またト

ログス叶

5mgの史書断片(序)に出

同ロ岳巾由民国FHmO間切回ロ丹江田

rod弓

WEmロFO仏。Z印

ggzurm門

-E∞E-RF巾ロ

rod司w

円吉江口mru同色mp子四

ωロヱrEロ

片岡

52ωmwE己円目白田口円山〉色白口一

SFNE回同口同片目

白ロ明日

ωom--釦巴

(HMHo-omロ何回・巴む

ヨという。

トログスの史書は右の題目しかのこされていないが、

ストラボと同様、パクトリアの滅亡についてのべたものと

される。

一方、中園史書はギリシア王園時代のバクトリアについてはまだ十分知識をもちあわさなかったようである。

,-£一、

了、

JjサJ

クトリア王園の滅亡後まもなくのことについては、漢の武帝によって西方に汲遣された張懇の報告によってようやく知ら

れはじめたとおもう。前漢の第五代皇帝、武帝の治世になって、圏内の統治もようやく強固になったが、漠北には騎馬遊

牧民族の旬奴が雄飛し、長域をこ与えて漢民族を苦しめることがしきりであった。漠北の旬奴に射し、天山地域から河西地

方にかけて、イラン系とおもえる大月氏という民族が居住し、遊牧をおこなうかたわら、西域の富やさらに西アジアや地

中海の珍物を漢に職入する仲介の役目をはたしていたとおもえるa

旬奴はこの貿易の利をみのがすはずがなく、大月氏を

@

その頭骨をさかづきに酒をのんだといわれている。

- 74ー

いくども攻撃し、あるときは大月氏王を殺害して、

旬奴の侵略に手をやいていたときなので、

首時、武帝をはじめ漢人たちは職人される珍物をとおし西域に関心をいだきつつあったときであり、また一方で北方の

一策を案じ、怨を懐く大月氏と連盟して旬奴を東西から挟撃せんと企てた。大

月氏

への使者として勇敢なる人物を

一般から募集したが、

それにえらばれたのがさきの張偶然であった。張暗然は長安をでて

西方にむかつたが、

はたして途中、天山のあたりで旬奴につかまり、

とらわれの身のまま十年除り旬奴の妻をめとのてく

(大宛)をとおり、

しかし志を忘れず、

ソグド(康居〉をす、ぎ、

監硯の目のゆるんだすきにのがれて、

ふたたび大月氏への放をつづけた。

フェールガ

1ナ

らした。

ついにアム河流域の大月氏の居擦にたどりついた。

しかし大月氏はもは苧旬

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奴に反撃するこころざしがなく、挟撃の企ては!寅現-しなかった。そのとき張篤は大夏(バクトリア)にまで足をのばして

おり、中園に生還した張驚の報告は、嘗初の目的がはたされなかったとはレえ、西域のさまざまな様子をつたえことで大

きな意義があ旬。中園人にとって西域がにわかに現質的なものとなり、そのどの西域経管にはめざまじいものがある。

『史記』、『漢書』にはバクトリアあるいはバクトラの名をそのままうつしたものがみあたらない。同地域をもっぱら大

夏の名でよんでいるが、これはパクトリアにすむ土着人トハラ(日gro・、吋onE乙をいったものであろう。バクトリアは

のちには仕火羅(北史、唐書)、親貨遅(大唐西域記〉とかかれたり、

まり〈トハラ人の土地〉の名でよばれる。大夏の首都は藍市(史記〉、

イスラム史家にはトハリスタン吋orvRZS口、

監氏(漢書〉といい、

パクトリアの首都バクトラ

切田口同日にあたるとおもう、が、音韻上の劃雁はなりたちにくい。

さて、張驚が大夏(バグトリア)を訪れたときには、すでに大月氏がこの園を征服し、ギリシア・バクトリア主園は滅

大夏在大宛西南二千飴呈嬬水南。其俗土著有域屋。輿大宛同俗。無大王長。往往城邑置小長。其兵弱畏戦。善賀市。及

大月氏西徒。攻敗之。皆臣畜大夏。一大夏民多。可百徐奇其都日藍市域。有市販買諸物。其東南有身毒園。(『史記』巻

一二三大宛停〉

-75一

亡したあとであった。

桑原嶋誠氏は「張篤の遠征」の論文のなかで、張懇の中園出設を紀元前ごニ九年ころに、大夏到着を紀元前三一九J八

年ころに、長安蹄園を紀元前二一六年とする。そうすれば大月氏は張篤の大夏到着以前に、大夏すなわちパクトリアをほ

ろぼしてしまったとみることができる。ストラボ

22roはバクトリアの滅亡時期については明記せず、さきに引用した

トログス、叶

gmgの記事では創設者のディオドトスロ芯円四

25の治世にかけているようによめるが、これは解樟しにく

い。バクトリアの滅亡時期については、一腰ギリシア・パクトリアの主力がヒンドゥクシュの南にうつった紀元前十一五

O

年ころから張懇の遠征の紀元前一二九年のあいだと推定しておく。

201

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202

『漢書』の塞種

西方の史家はシル河(ヤクサルテス)

のかなたからきたスキタイ人

ω♀F35がギリシア・パクトリアをほろぼした

とし、中園史料では大月氏が大夏をほろぼしたとする。これは歴史上の同一事件をのべているとおもうが、現在の撃界で

はこの東西南史料をうまく照合させて理解しているとはいえない。東西史料の一致をむつかしくさせている理由は、

『史

記』とならんで中園側の重要な史料である『漢書』に〈塞〉というもう一つの民族が登場するからである。この塞はスト

ラボ

ωHEroなどのいうサカ

ω回gm(ωn1zgm〉と音、がよく似ていて、バクトリアをほろぼしたサカ

ω田口曲目

(ω口

1zg印)

は、中園史料の塞民族であろうという考えが定説のよう車なっているからである。サカH塞がパクトリア王園を滅亡させ

たのであれば、大月氏がもう一度大夏(パクトリア)を滅亡、征服したことになる。しかし東西雨史料からは、けっして

パクトリア大夏の滅亡が二度にわたっておこなわれたとはよみとれない。従来の研究、準読ではこの黙を納得いくように

説明しおえたとはいえない。

-76ー

では中園史料の塞とはどういう民族であるのか。塞族は『漢書』においてはじめであらわれる。

域停烏孫園僚に

『漢書』巻九十六、西

烏孫園:::本塞地也。大月氏西破走塞王。塞王南越照度。大月氏居其地。後烏孫昆莫撃破大月氏。大月氏徒西巨大夏。

而烏孫昆莫居之。故烏孫民有塞種。大月氏種云。

とある。嘗時の烏孫は天山北麓、ィシックル

Hgu染iw己湖を中心としたところで遊牧していた民族であった。『漢書』に

よると、東は旬奴、西北は康居(ソグド)、西は大宛(フ

4lルガlナ)、南はタリム盆地の城郭都市に接していたとかか

れる。そのむかし、塞はこの天山北麓の烏孫の土地にすんでいたという。そこへ旬奴に追われた大月氏がのがれてきて、

塞を這いだし、そこを占接した。塞王は鯨度をこえて南の方へのがれていったというので占める。勝度とは西域南道の皮山

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(グマ〉から、パミ

lル山中にはいり、

インダス川の上流にいたる古代交通路上の険阻な地貼である。現在のギルギヅト

鯨度の位置は『漢書』にもわりあいはっきりかかれており、

。己閃広からダレルロ

Rm-の峡谷あたりであろうとおもう。

のちの法顛や宋雲らも西北インドにむかう途中通過して、

その困難さをかきしるしている。

昔旬奴破大月氏。大月氏西君大夏。市塞王南君扇賓。塞種分散。往往震数園。自疏勤以西北。休循摘毒之属。皆故塞種

さて、牒度をこえて塞族はどこへおちつレたか。

『漢書』西域俸関賓僚に

也とある。塞王がおちついたという関賓は、ガンダ

lラ例数美術の成立の地として有名なガンダlラ、現在の西パキスタン

北部のベシャ

lワル

Hvgr同当日盆地である。

アフガニスタンから流れてくるカ

10フル関与三川やパミ

lルに源を護す

るインダス上流やスワット川はここで合流して、インダスの大河となって南流する。豚度からインダス上流づたいにくだ

ってくれば、嘗然このガンダiラ地方にでてくる。一設には蔚賓自

'-uZは問。匂rmロで、現在のカlブル同与巳に音

がちかく、アフガニスタンのカlブルからベシャ

lワルにかけてのカlpフル川流域をきしたものとかんがえる。いずれに

一 77一

せよ、

ひろいいみでのガンダlラと解しておいてよいとおもう。

『漢書』の「大月氏西君大夏。而塞王南君腐賓」という記述はたいへん明確であって、大月氏と塞はまったく別の民族

移動径路をとったことをいう。

『漢書』によるかぎり、塞族は大夏(パクトリア)の滅亡とは無関係のようである。

ところが、従来の研究では塞Hサカ窃同

29F3ES凹〉同一設を前提にするので、西方史料にひきづられて、塞もま

たパクトリア滅亡に参加したとかんがえる。

阿国

-E官gu吋宮

'PXESS丸、ぬま芯ミミミ323Z正常国

253二ロp-〈O]-chgEtpHCNNWJ弓・

203

者・叶

2p同,官。『

srsNWRH3bgR同宮、3・。曲目FEmzcω∞"〉・阿ハ

-Z白EFP吋』府間

L

言、。・C『SFMUOH問。正巳S・白鳥庫

吉、塞民族考(『東洋拳報』一九一七J一九年、『西域史研究』上巻所牧〉などに、塞Hサカ同一読とその民族移動がいろ

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204

いろこまかく議論されている。大よその結論をいうと、塞種が鯨度をこえて南へ移動したという『漢書』の記述はどうし

ても誤りとせねばならない。

『漢書』の編者の不完全な知識によるものであるという。たしかに豚度ごえは、パミ

lル山

中のけわしい峡谷や山道で、け

っしてふつうの民族移動の遁ではない。

はごく一部で、大部分の塞族は西方にむかつたのだとする。

かりに照度ごえの移動をみとめるにしても、それ

さきに引用した『漢書』西域俸烏孫園僚をよむと、大月氏は塞をうったあとその住地、

つまりイシックルゲ印Fr・-2-湖

附近にとどまっていた。そのご烏孫が大月氏を攻躍してその地を占め、この契機で大月氏は西走して大夏を征服したとい

(サカ

H

しばらくして大月氏の移動がおこったので、

塞)にほろぼされ、さらにもう

一度大月氏の攻撃をうけることになる。つまり東西雨史料のパク

トリア・大夏の征服記事

一つの事件ではなく、連績しておこった二つの歴史事件とかんがえざるをえなくなる。

ではバクトリアを滅亡させたスキタイ人はどうしたか。従来の考え方では、

塞)は、あらたに侵入した大月氏におわれて、パルチアの北迭にあらわれ、

そうすれば塞族、の移動がさきで

ハクトリアはまずスキタイ

ハク

トリアにはい

ったスキタイ

(サカ

H

- 78ー

フラlテス二世]U7

2丘町田口

(g-ロ∞¥吋JHN∞

切・の〉およびアルタパヌス二世〉ユ釦ゲ田口

5口(口同-HN∞Jむ品切

-n・)と交戦する。このパルチア

二王はスキタイとの交戦

中に湿して、

つぎのミトラダテス二世宮町

rzEZ∞口

(口問-HNωJ∞∞¥吋切・。・)にいたってようやくスキタイの侵入を撃退

し、失なわれた領土を回復できたという

(EEP切関凶FHFC。

ラプソン

HN38ロ氏や白鳥庫吉氏らによれば、

ミトラダテス二世富三百包三

g口

によってうちまかされたスキタイ人

は、そのまま南下して、現在のシ

lスターン

ωzgロにおちついたという。

シースタ

ーンはイランとアフガニスタ

γのち

シIスターン

ωUSロとは

ω白r由明丹田口同つまり〈サカ人の土地〉

ょうど園境にあるへルマンド白色自由ロ仏湖の周迭をいう。

といういみであり、

そこにスキタイ(サカ〉人が住んでいたことをいみする。

スキタイ人の居住は古くて、

アケメネス朝

時代ころにさかのぼるかもしれない。天山の塞、

サカ〈スキタイ)はそこで同族といっしょになり、勢力をまして、

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てヘルマンド川をさかのぼり、カン、ダハ

lル問問ロ仏印r削円(〉

E口ゲO明日白)からガンダlラの但ロ内同町戸削

Eへ移動した。

下してシンド地方(インダス下流)

一部は南

やインドにむかつたという。

そのうちガンダlラにはいったスキタイ

(サカ)が、

『漢書』の厨賓塞族であるという。

「塞王南君扇賓」という塞族の移動の、

はなはだもってまわった解樺である。これは塞HHサカ

(ω白ロ田町

"ωaF35〉同

一設に立

って、

ハクトリアを滅亡させたサカ

ω2同町、

ハルチアと交戦したスキタイ、イ

ドシ史 l

料えにタィ。 lけ ンる'/ (fJ

ャ島カ@忠な;-ど Eの〉

断の片サ

インダス河口のスキタイ(『エリュトゥラ海案内記』第三十八節)、

をつなげば、上のような塞Hサカの大移動がかんがえだされるのである。

ヵ、関賓の塞、

しかし『漢書』の記載は『塞王南越鯨度』

(烏孫閣僚)である。はっきりと別の径路をさししめしているので、上のよ

うな歴史家の解揮を許すかどうか問題である。その論説の根接となっている塞Hサカ同一設をもう一度吟味する必要があ

るようにおもう。

- 79一

『史記』と『漢書』の相違

さきにすこしふれたことであるが、塞の移動は大月氏の移動よりいくらか先立つ。

『史記』には大月氏の移動が述べら

れているが、塞については一言もふれられていない。塞の存在、移動は「漢書』になってはじめてあらわれる。古い事買

が新しい記録にはじめてあらわれるには、なにか事情がなければならない。

そこで、もう一つの塞の史料を紹介しよう。張務が大夏への遠征から無事中園にかえり、そのごも旬奴征伐に従事して

手柄をたて、霞位は博墓侯にまでのぼった。しかし、元朔七年(回・。・ロ呂、

園され、惨敗を喫したことがあった。爵位は剥奪され、庶人の身分にさげられてしまった。

『漢書』巻六十一、張怒俸につぎのようにある。

李将軍と出征したさいは、旬奴から逆に包

しかし、天子はなにかと張懇

205

に西域の事情をたずねることがあった。

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206

天子数問怒大夏之属。『掠既失侯。因日。臣居旬奴中開。烏孫王競見莫。昆莫父難兜勝。本興大月氏倶在耐連敦埠間小園

也。大月氏攻殺難兜焼。奪其地。人民亡走旬奴。子昆莫新生。侍父布就翁侯抱亡。置草中篤求食。還見狼乳之。叉烏衝

肉朔其志点。以帰一脚。遂持蹄旬奴。草子愛養之。及推以其父民衆輿昆莫。使将兵。数有功。時月氏巳馬旬奴所破。西撃塞

王。塞王南走遠徒。月氏居其地。昆莫既健。自請草子報父怨。建西攻破大月氏。大月氏復西走。徒大夏地。昆莫略其

衆。因留居。兵梢彊。舎畢子死。不肯復朝事旬奴。旬奴遺丘(撃之。不勝。盆以矯紳而遠之。-今車子新困於漢。而昆莫地

空。蟹夷轡故地。叉貧漢物。誠以此時厚賂烏孫。招以東居故地。漢遺公主篤夫人。結昆弟。其勢宜聴。則是断旬奴右鵬首

也。既連烏孫。自其西大夏之属。皆可招来。而矯外臣。

烏孫はとみに強勢となって旬奴すら手をやくしまつである。この烏孫に贈物をあたえ、公主をおくつて同盟すれ

ば、きっと旬奴の西方勢力を断つことができましょうと、張懇は献策する。張懇がこの献策をするには、首時!無位無官の

身であ

ったので、みずからが烏孫の使者にあたり、官界に復蹄したい気持も手停っていた。

嘗時、

- 80ー

右の文章のなかで、張驚はかつて旬奴にとらえられていたあいだに聞いた烏孫の出自についてかたっている。それによ

ると烏孫はもと大月氏とともに嘗時の住地ハイシックル湖周遊)より東方の、教埋・郡連(河西方面)にいたというが、

大月氏に攻略されて、民族は一度消滅してしまった。そのとき烏孫王毘莫が生まれ、草むらに放置されていたが、狼がき

てこれに乳をのませ、烏がきて肉を喰せたという。いわば烏孫の始組俸読である。そうして烏孫王見莫が成長し、もとの

民衆を率いて大月氏を撃破し、さきの仇をかえしたという。嘗時、大月氏は旬奴に追わいれ、イシックル湖附近にのがれ、

ふたたび移動を開始して、

そこの先住民であった塞を騒逐し、その地に居住していた。

ついに西

いま烏孫にうたれると、

方大夏の地にまで西走した。烏孫は大月氏のあとにうつり住み、旬奴からも濁立して現在の勢力を確保したのである。こ

の張懇の烏孫物語のなかに塞民族の存在がふれられている。

この『漢書』とちょうどおなじ張篤のことばが『史記』大宛俸にある。

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是後天子敷問藩大夏之属一。寮既失侯。因言目。臣居旬奴中開。烏孫王披見莫。昆莫之父。旬奴西遁小園也。旬奴攻殺其

父。而昆莫生棄於野。烏瞬時肉輩其上。狼往乳之。摩子怪以矯紳。市政長之。及推使将兵。敷有功。皐子復以其究之民予

見莫。令長守於西域。昆莫牧養其民。攻芳小邑。控弦敷高。習攻戦。草子死。毘莫乃率其衆遠徒。中立不肯朝曾伺奴。

伺奴遣奇兵撃不勝。以震一押而遠之。因麗層之。不大攻。今草子新困於漢。市故浬邪之地空無人。蟹夷俗貧漢財物。今誠

以此時市厚幣賂烏孫。招以盆東。居故海邪之地。興漢結昆弟。其勢宜襲。聴則是断旬奴右替也。既連烏孫。自其西大夏

之属。皆可招来市魚外臣。

文章の主旨は、『漢書』張驚俸とほとんどかわらない。しかし分量がへっている。塞種についての記載がない。省略され

た可能性もあるが、よくよみくらべてみると内容についても相違がある。

まず、烏孫王昆莫の父、を攻殺したのが、『史記』では旬奴であり、

そのあとにつづく『史記』と『漢書』の文章の増減にかかわっている。

ではない。つまり、『史記』では伺奴の草子(老上皐子、見守

LE∞-n・〉が死ぬと、

いて遠くに移住し、旬奴の支配を脱して、ますます強勢となったという。ところが『漢書』はここで一つ文章を挿入し

た。「時月氏己矯伺奴所破。西撃塞王。塞王南走遠徒。月氏居其地。昆莫既健。自請草子報父怨。遂西攻破大月氏。大月

氏復西走。徒大夏地。見莫略其衆。因留居。兵精彊。曾箪子死。不肯復朝事旬奴」である。この文章中に問題の塞が登場一

する。

『漢書』は大月民である。このわずかなちがいが、

『史記』の文章はたんに『漢書』の文章の省略形

それに乗じて昆莫は烏孫の民を率

- 81ー

以下は私の推測であるが、『漢書』の編者班固は、ある事情でむかし烏孫の住地に塞種を王とする園が存在し、それが

分散してしまったことをかかねばならなかったらしい。さきに引用した『漢書』烏孫園僚の「烏孫園:::本塞地也」とか

いたのとも関連がある。塞種を登場させ、かつまた分散させるために、大月氏の西方移動の歴史をかりる。大月民が旬奴

に攻撃されて、西方大夏へのがれる途中、天山の塞種に遭遇させるのである。大月氏は塞を攻撃し分散させて、その地を

'207

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208

占接する。大月氏が天山にとどまっては具合がわるレので、こんどは烏孫の力をかりて大月氏を大夏へ駆逐する。それに

はもっともらしい理由が必要なので、烏孫王昆莫の父が何奴ではなくて、大月氏に攻殺されたことにする。そうすれば烏

孫は「父怨」をはらすという大義名分がたつ。烏孫の力だけでは不足なので、旬奴の草子に力をかりることにする。こう

して烏孫は首尾よく大月氏をうちゃぶり、イシックルの土地には烏孫が占住することになった。やぶれた大月氏は遠く大

夏の地へのがれ、大夏を征服する。旬奴畢子が死ぬと、烏孫は猫立していよいよ強勢となったとし、以下『史記』の文章

とほぼかわらなくなる。最後にのべられた烏孫のイシックル方面の移動、すなわち『史記』の「遠徒」に相嘗するところ

『漢書』では挿入文がはいったため、旬奴草子の死のまえのことになってしまったが、

徒は(老上)寧子の死を契機におこったのであって、死後のことである。

『史記』によると、烏孫の遠

こうしてみると、

『史記』と『漢書』には、文章の増減ばかりでなく、内容に相違がある。われわれが史貫をもとめる

- 82ー

ばあい、二者揮一の立場にたたされる。

もともと張務は八塞〉についてなにも知らない。塞についての知識は張惑のったえたものではないかしい。塞の記載と

それにつれて生じた相違は、『漢書』の編者が新しく塞種の知識をえて、机上で『史記』の文章を改作したことによると

おもう。しかも私は『漢書』の塞種が寅在の民族ではなくて、偲空あるいは侍読上の存在であるとおもう。もし塞のこと

が正しい歴史事買で、『漢書』の編者がそれをおぎなったとすれば、『史記』と『漢書』の張偶然のことばに、これほどの

事貨の相違があるのはおかしい。『漢書』の塞を歴史事買とすると、東西史料の封比に混飢をまねくことは最初からのベ

ているとおりで、

また大月氏の西方移動の年代や烏孫の原住地についても問題が生ずる。

桑原蹄蔵氏は「張終の遠征」の論文のなかで、大月氏の移動を二度に匡切って、その時期を論謹した。大月氏が伊整方面

に移轄した時期を老上草子の攻撃によるとして、草子の在位年中の紀元前)七二

J一六一年のあいだとし、つぎに烏孫にう

たれて中央アジア(大夏〉へうつったのは、張怒が旬奴に拘留されているあいだにおこ

ったできごととして、紀元前一三

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九J一一一九年とした。これに謝して、藤田豊八氏は烏孫の移住年代について『史記』と『漢書』に相違のあることをのベ、

いずれにせよ草子(老上〉の死の前後ということで一致するので、烏孫の移住によっておわれた大月氏の大夏への移動は、

老上単子の死つまり紀元前二ハ一年ころとなり、桑原氏のように紀元前三一九J一二九年にな?えないと反駁したゆたし

かに藤田氏の方が一歩進んだ解樟である。しかし、結果としては『史記』と

『漢室百』を折中したことになり、結論として

は不十分とおもう。『史記』と『漢書』の内容の相違がどうして生じたのかあきらかにするにいたっていないからである。

もう一つは烏孫がイシックル方面に移住するまえの原住地についてである。

『漢書』張藩俸には「本興大月氏倶在郁連

敦埠間小園也」とあり、

『史記』には「旬奴西遊小園也」とだけある。

『漢霊園』の方をとる皐者は、烏孫はかつて河西地

方に居住して、大月氏を駆逐したあとイシックルの地を占めたと理解する。しかしこれも『史記』の内容とは相違し、松

@

田蕎男氏らは烏孫の河西地方の居住をはなはだ疑わしいとする。以上は『史記』と『漢書』の張鶏のはなすことばがちが

っていることから生じた問題であるが、

円漢書』の内容が新しい塞の知識によって『史記』をかきかえたものであること

に気がつかなければ、いつまでも解決しない。一般に古い史賓を新しい史料でおぎない-訂正するのは、よほどの根擦がな

いか、ぎり警戒を要する。後世の知識で史買がゆがめられているおそれが多いからである。

- 83ー

塞種の局開設性

ではいったい『漢書』の塞の知識はなにによったものであろうか。

塞音先得反。西域園名。即併経所謂韓種者。塞緯撃相近。本一一姓耳。

とあり、西域の塞族と悌教の種族

(ω詳苦)とが同一のものであるとのベる。

「塞調停聾相近」としているのは興味ぶかい。中インドの

PF3はガンダlラ方言(西北インド・プラlクリ

ット)では

さらにイラン語風になると

ω共同となる。同様に回忌門田町石はガンダlJフ切口円山円高となり、

P255

『漢書』張篤停の塞字についての顔師古の註に、

歴史事賓としては一考のねうちもないが、

209

よく

ω白FUBと靴り、

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210

ω回目白ロ巾となる。

悌数ことばの初期の漢詩では、

悌陀が浮屠であったり、

沙門が桑門とかかれるのは、

悌教の初期

同様に

mur可釦樟が

侍播がガンダ!ラ(西北インド)やイラン系方言を通してなされたことを示しているようにおもう。

ω島白塞としてったわった可能性がでてくる。『漢書』の塞種博設の正隆は、併教のシャキャ穣族のったえではないかと

おもう。中園併数俸来についてのもっとも早い確寅な記事は、いまのところ『後漢書』巻七二、楚王英俸にかかれたもの

とされる。永卒・八年(〉・ロ・

8)ころ、楚王英が黄帝・老子と浮屠(併陀)をあわせて向んだという記事である。しかし

それ以前に中園に例数が繍師承された可能性も十分ある。しかしそれほど正確にではなく、

『漢書』の編者が西域の一王園

の話にかきかえるほどのあいまいな博承であった。「塞王が照度をこえて南に侵入し、関賓を支配した」というのは、塞

王停承の由来した径路、つまり例数停来の遁を逆にたどったものではないか。

以上のように塞を質在の民族ではないと考えてみると、東西の史料はひじようによく封躍する。

シル川のかなたからき

-84-

てギリシア人からパクトリアを奪ったスキタイ人とは、大夏を征服した大月氏のことである。バクトリア(大夏)の滅亡

停説的な塞を西方史料のスキタイ人とし、大月氏をほかの民族にかんがえようとすると混靴をまね

く。東西史料はひじように断片的なものであるが、以上のように考えるとよく一致する。従来、『漢書』の塞は歴史のみ

は一度きりである。

ならず、ガンダlラや中央アジアの民族、言語準の研究にまで考慮されており、注意、再検討を要するようにおもう。

たしかに『史記』と『漢書』のちがいは奇妙である。藤田豊入氏や松田害時男氏らはこのちがいを重くみヤ塞にまつわ

る記事を後人の附加とすれば、大月氏の西徒や烏孫の原住地問題は解きやすくなる。

た大月氏が塞と衝突し、

それを追いだし、

はじめに塞が存在し、旬奴におわれ

つ、ぎにそこに居すわった大月氏を烏孫が駆逐するとレぅ、まるで球撞衝突みた

『漢書』の編者がっくりだじた儒空の民族移動のようにおもう。烏孫の移住には塞も大

いな民族移動は史貧ではなくて、

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Rapson, A Catalogue

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