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Title モンゴル帝國成立以前における遊牧民諸部族について : ラシィード・ウッ・ディーンの「部族篇」をめぐって Author(s) 村上, 正二 Citation 東洋史研究 (1965), 23(4): 478-507 Issue Date 1965-03-30 URL https://doi.org/10.14989/152678 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title モンゴル帝國成立以前における遊牧民諸部族について : …...478 モ ン ゴル帝園成立以前における 遊牧民諸部族について I II-ラシィ

Title モンゴル帝國成立以前における遊牧民諸部族について :ラシィード・ウッ・ディーンの「部族篇」をめぐって

Author(s) 村上, 正二

Citation 東洋史研究 (1965), 23(4): 478-507

Issue Date 1965-03-30

URL https://doi.org/10.14989/152678

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

Page 2: Title モンゴル帝國成立以前における遊牧民諸部族について : …...478 モ ン ゴル帝園成立以前における 遊牧民諸部族について I II-ラシィ

478

モンゴル帝園成立以前における

遊牧民諸部族について

III-ラシィ

1ド

・ウッ

-ディ

lンの

t主

IJ~

九世紀中葉における東ウィグル帝国闘填以後、十三世紀

初頭のチンギス汗帝国出現にいたる数世紀は、

トルコ系諸

民族のモンゴル高原支配からモンゴル系諸民族の支配へと

移行する時期に嘗

っており、チンギス汗帝国の成立とそれ

に伴う新しいモンゴル民族の誕生は、この高原地帯におけ

る、まさにそのような歴史的過程の完成を意味するもので

った。従って、

モンゴル帝園あるいはまたモン

ゴル民

族の成立過程を説くに首つては、それ以前におけるこの方

面のトル

コ・

モンゴル系乃至その他の諸種の部族集園の政

治的動向並びに吐曾構造などをあらかじめ明らかにしてお

「部族篇」をめぐって11

かねばならないであろう。それにも拘らず、関係史料が極

めて乏しいので、この期間におけるユ

lラシヤ草原地帯の

。。噌

EA

EE4

るに、

その全貌はおろか、大要さえ把握す

かなりの困難を覚えさせる。だが、

遊牧民集園の動向は、

モンゴル帝圏直

前の吠態ならば

この帝園の歴史を取扱った東西文献のな

かに、多少ともふれられているので、どうやら一般的傾向

だけは窺レ知ることができそうである。ことに、世界史の

鍍述を意園して、首時のユーラシア大陸全域の遊牧民集闘

を綜合的に取扱ったラシィ

lド

・ウヅ・ディ

lンの『ジャ

・ウヅ

・タワ

lリフ』の「部族誌」の篇は、この貼ではは

なはだ便利な史料であろうかと思う。もとより、首時の断

片的な文献資料ゃあるいは唆昧な侍聞資料をいたずらに寄

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せ集めて作ったという観がしないではないが、

これらを彼

一流の見解によって分類し、それにいちおう秩序立

った説

明を加えているので、

われわれも、このラシィ

lドの「部

族篇L

に批判を加えつつ

それを通じて首時の遊牧部族集

国の動向一般をさぐってみよう。

ユーラシア大陸のトルコ・モンゴル系遊牧民集

固とその分類について

ラシィ

lド・ウッ・ディ

lンは、賞時のユーラシア大陸

の草原地帯に鎖散して、

南方の定着農耕民集圏と措抗し

た、すべての遊牧系諸種族について、

まず、

つぎのように

説き始める。

479

第一に知らねばならぬことは、世界の各地域には〔お互いに生活

様式を異にする〕住民、

〔すなわち〕定住の民と遊牧の民とがい

たということである。とくに森があり、草も堕かで、城廓や村落

から遠く離れていみ地域では、〔住民の〕多くは、遊牧民となっ

た(輔)。太古の時代から今日にいたるまで、ト

ルコ人と呼び慣わ

されてきた、かような〔遊牧の〕人びとは、草原の瞭野〔例え

ば〕ロシア人、チL

ルケス人、パシュキル人などの〔住む〕デシ

ト・キプチャク(軒町;)およびタラス、サイラム、ィビル・

シビル、ブラル、アンカラ河諸流域の山岳、森林など、トルケスタ

ン、ウィグリスタンという名で知られている諮地方。ナイマン人

の〔住む〕諸河、諸山脈、例えば、青いイルティシュ支流、イル

ティシュ本流、ヵラコルム、アルタイ山、オルホン河。キルギス

人やケムケム人の〔住む〕諸地方。〔または〕モグリスタンとい

う名で知られている〔かつては〕ケレイト人に属していた無数の

夏倍、冬営の地のある諸地方(輔)などに〔庚く績がって〕住んで

いたのである。〔これらの人びとは〕、現在では〔古い習慣によっ

ておのずと〕定められた法に従って、〔これらの諸地域に〕住み

ついたものである(時)。時の流れとともに、これらの住民は無数

の親族集圏(母国寸・宮

E釦)

に分かれ、いつの時代にも、その各

々の分枝から新しい分校が生じ、その各々がそれぞれの理由や動

機によって〔各自〕固有の名をとるようになった(柵)。その外貌

や言語はお互いに近似してはいるが、〔彼らの住む〕地域の性質

やその自然的篠件によって〔これらさまざまの〕トル

コ人議部族

の聞に、〔おのずから〕かなり基本的差違が生じた。ごく最近ま

でたれも〔トルコ族の〕数多くの分枝(同

g『・与え与)のリスト

を文書の形で書き纏めた人はいないし、長い年月が経っているに

も拘らず、この勲、これら〔分族の〕名稽の起源さえ分かってい

ないのだが、権威ある語人や若干の信用おける文献に従って述べ

て行こう(}白吋〉「苫)O∞口、『O云

ZS「〉知何℃〉泊目

-al

叶日一)

-119-

かように、一フシィ

lドは嘗時のすべてのユーラシア大陸

の遊牧諸族をトルコ民族の系統とみなして、諸部族集圏は

みなその分校なのだと考える。そして、これらの多種多様

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480

な部族集闘(白『与・

ZSF』EBの複敏形〉

は、右にあげ

られたようなトルケスタン

ウィグリスタン

モグリスタ

ンの各草原地域にそれぞれ分かれて遊牧枇曾を営んでいた

が、それらはいわば慣習的に各自の領域と認め合った地面

内に住みついてきたものであり、しかも、それらの部族か

らは紹えず多くの親族集囲

(23σ・官『同一白〉が分岐して出た

が、それらは種々の理由や動機から、またそれぞれ固有の

名をも

って濁立するにいた

ったように説くのである。そし

」れら諸部族の政治的状況

一般については、またつぎ

の如くい

っている。

すべてのトルコ諸部族

pgσ・〉』耳刷ヨ)やモンゴル諸部(白『与・

〉=印刷ケ

ω5{の複数形〉については、以上述べた通りだが、こ

れらすべてを支配しうるような唯一

の、強力な君主をもっ

たこと

は一度もなく、各種族にはそれぞれ別筒の首長やエミlルたちが

いたことを知っておかねばならぬ。年がら年中、彼らはちょうど

わがイランの地に住むアラビヤ人同機に、互いに敵封して、戦字

し、掠奪し合

ってばかりいたが、〔それは〕種族ごとに定まった

首長があって、ほかの誰にも廊そうとはしなかったからなのであ

CE斗一司

O玄H

ZS「〉切叶

O℃〉泊

-a)

つまり、これらの諸種族は、各々自己の領域を支配する

定ま

った首長をもっところの、

一個の政治的集闘

20一ES

開口門戸『可)をなすものであ

って、

その資格においてつねに相

封崎し抗字し合

っていて

これらすべてを統合する政治権

力構造すなわち大帝国はいまだ生じていなかったというの

である。

ついで、彼はこれらの遊牧民諸集圏の歴史的由来を敬度

なイスラム神事者たるにふさわしく、

ユダヤの五書とイス

ラム史書の侍承のなかに求めて

」れらの諸部族はすべて

輸政言者ノアによ

って東方に仮遣された第三子、ヤベテの子

孫であると説明する。すなわちこのヤベテをトルコ人が民

-120-

族的始祖と仰ぐ〉ゲ己ご由同同ロまたは切己』白

M田口

に首る

ものと考え、この人物が全遊牧民族の主として、

モンゴル

高原のカラコルム地方からセミレ

lチェ地方のタ

ラス

イラム

の卒原にレたる慶大な地域に移動遊牧していたこγ

を停える。しかも、

ラシィ

lドはこの人物の孫乃至曾孫に

トルコ民族のまた別の著名な民族的始租オグズ汗を配し

」のオグズ汗のときにいた

ってはじめて唯一紳敬たるイス

ラム

を信奉するにいたった。その結果、それまで異教の一脚

々の下に統一を保っていたトルコ民族の聞に大きい封立と

分裂とが生じて、多くの集圏にわかれユーラシア大陸の各

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地に移動分散するにいたった。その際、このオグズ族の母

艦から分離して東方へ立ち去ったものが、やがてモンゴル

高原の諸部族になったというふうに、彼は説くのである。

以上のような、彼の雄大な世界史的展望のなかには

スラム紳皐者にしての彼濁自の史観が秘められていること

その信仰告白ともみらるべきヤベテ停承を別

このアブルジャ汗やオグズ汗停承のなかには、

トルコ民族費群に闘する彼ら自身の古い停承が含まれてい

であろうが、

とすれば、

るようである。

つまり、

トルコ民族は古くから右のような

ユーラシア大陸の中央部に横わる草原地帯を原住地として

おり、

そこから多くの部族が種々の理由や動機からつぎつ

ぎに分岐濁立して

各地に流出して行ったというのであ

る。その最初の始租アブルジャ汗の詳細については、遺憾

つぎの始祖とされているオグズ汗は牡牛

ながら不明だが

(その名の

orENは

トルコ語で牡牛の意といわれる)あるい

黒紹、熊という四獣の姿をもったという、

トルコ

民族のいわば族霊的存在であった。ここではそれに

は牡牛、

ついて論じている暇はないが、このオグズ汗のイスラム改

481

宗によるトルコ民族分裂の説話は、恐らくはその一部は、

惰唐のころ、

ユーラシア大陸を雄飛したかの九姓錨勤

30・

EaOmECというトルコ諸部族の連合櫨の分裂の追憶を

物語るものであり、他は、セミレ

lチェ地方に残留した一分

涯のオグズ族、が、十世紀ごろから南西のアム河方面に南下

移動して、

lマlン朝のイスラム文化の影響でそれに改

宗されていった事買を停えるものでもあろうか宙同え

ZE

日明

OEHωZLFgcロ同「開出

25円可。向。巾ロ可包〉印日同司-MO〉。

つぎに、ラ

シィ

lドはこのような全トルコ

・モンゴル種

族の個々の説明に入るに先立って、これらすべてをつぎの

のL

四つの大きいグループに分類する。このうち、基本的グル

ープとでもいうべきものとして、

まず、

ωのグループ

に、オグズ汗停承をもっ首時のオグズ族集固とその類族と

みなされたウィグル、

キプチャク、

カルルク、カンクリ、

ウィグリスタンに住む諸

アガチ占リなどのトルケスタン、

種族一切を含める。そして、その東方のモンゴル高原方面

に住む諸種族については、彼は、これらとは全く別箇に、

ω第

ω第川という細かいグループに分かって説明し

ょうとした。

右のうち

トルコ民族の基本的グル

ープとして、

西アジ

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482

アにおけるオグズ族およびその類族を取扱うことは容易に

了解できるよう。だが、

モンゴル方面の諸部族を三つの細

かな直分をする、彼の理論的根壊は、きわめて不得要領であ

る。第

ωグル

ープについて、

ラシィ

lドは。現在でこそそ

ンゴル人と呼ばれているが、この名稿はあとからつけられ

たもので、もとはそうでなく、個々の名蒋をも

っていた種族

であ

った。という説明を加えており、第帥のグル

ープにつ

いてもまた

J」の諸種族も前者と同じく草原に住むもので

モンゴルという名稽をも

ってから、さほど聞のないもので

ある。といった暖昧な表現で説明している。そして、第仰

のグル

ープについては,その出自はエルグネ

・クン

(アルグ

F

ル河の

繍)に立ち去

った二人の人間ヌクズとキヤンに由来するも

ので

(棚)、モンゴルという名は、彼らの血統のすべてのも

のの名とな。、

ム寸日では、

さらに彼らに類似する他の諸

穏族にまで績がるにいたった。と述べて、

モンゴル帝国

の支配的種族となった、

いわゆる固有のモンゴル族(豆2・

口}・

HHpug)をここに包括するのである。

どうも、

」れら

の文言の調子から考えると、第例と第

ωのグル

ープの直別

は、第例のグル

ープに征服されて、モ

ンゴルなる名穏をと

るにいたった時間の前後で直別した、便宜的なものと受取

ることもできそうである。だが、果してそのような箪純な

理由だけで、ラシィ

lドはこれらの直別をあえてしたのだ

いささか疑問である。そこで第

ωグル

ープとして

ろうか、

あげられている諸種族の内容をみると、例えばタタ

lル

ジャ

一フィル

オイラトなどは、地理的に、

モン

メル

キト

ゴル高原の東北部からバイカル湖周縁の森林地帯にかけて

住していたもので、従

って、彼らは、歴史的に深い相互開

係を保

ってきたようである。これに射して、第

ωグル

ープ

に含められたケレイト、

ナイ

マン、オングト、

タング

トま

-122-

たはキルギズなどの諸部族は、

モン

ゴル高原の中央部から

その西北部乃至南部にかけて住していたものであった。

それを第同グル

ープの東北系諸種族に比するとき、そこに

は種族的にも文化的にも砂からざる差異を見出さ、ざるを得

首時の

モンゴル高原の地帯は、

‘、、

《uv

ナんtlv

大まかに

つまり、

いえば、東北部と西南部とに二分されるのであり、多少の

大樫バ

イカル湖東岸から首時の

モンゴ

ル族の聖地とされたブレ

、/山(オノン、ケルレン、ト}とを

F

ラ河の上源とされる

モン

ゴル語系の諸部族の住む地域であ

出入りはあろうが、

結ぶ線の以東が

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り、イェニセイ河上流源からハンガイ山脈にしたる線の以

西がトルコ語系の諸部族の住地であ

って、その中間地帯を

なすパイカル湖西岸からセレンゲ、オルホン河昨にかけて

の地域は、

モンゴル、

トルコ雨語族の混靖地域であ

ったよ

うに推定される。従って、このような種族、言語的見地か

らみれば、

ラシィ

lドのいう第

ωグループは、

第例グル

l。フのタ固有のモンゴル族。をも含めて、

モンゴル語を使

用する諸部族をいうものであり、これに射する第例グル

l

プは、それ以外の純トルコ語族、

トルコ・モンゴル混滑語

族、さらにタングト語族、その他一切の部族を含めたものと

また文化史的見地からみれ

解することができるであろう

0

4ふ、

東北系のモンゴル語部族は、

らしきパイカル湖東方一帯の森林地域に栄えるシャ

ーマニ

ズムコノシィ!ドはこの著書において、パイカル湖東岸のパルグジ

行・トグムの地は、シャ17ン護鮮の地で、とくにシャlマ

ンの信仰がつよく、その)的停統のなかに生きていたもので、

数も多いと停えている

狩滋文化の残浮を多分に残していたが、

彼らの原住地でもあった

その以西に住む第

ωグループの諸部族は、唐末以来この方面に祭えたウィグ

483

ル・トルコ文化の忠質な縫承者として、

敬{もっともこれが一般に彼らの聞に普及した}を始め、

ZFのは一

OO二年以降であるといわれている」虫

ネストル波キリス

敬、併敬、儒教など高度の文化の影響をうけて、

かなり開

化した遊牧民であ

った。嘗時の中国の史官たちが、これら

モンゴル高原方面の遊牧諸集闘を総括して韓担とい

ったと

き、彼らがとくこ熱、生{これをさらに、

}あるいは黒、白、

4

1

t

E

止-r黒と自に分かつ」

生などという文化水準による匿別を設けて、

北方森林地

帯の狩遡民を生、第叫グループの遊牧系のものを黒、第

ω

グル

ープ

のものを主として白乃至は熟と帯した

(払暁椴訓明

乙集谷十九、「蒙縫備録』}と、うのも、まさにこうした嘗時の

「立園」の篠参看」し

貫惰に起因するものとみてよいであろう。さらにまた、元

-123一

朝に入ってから、その治下の全種族を分類した場合、第

ω

グル

ープ

の東北系のものま、殆どが園族{綴耕録のいわゆる)

t

p蒙古七十二種系

のなかに組み入れられたに劃して、第同グル

ープ

の西南

系のモンゴル・トルコ語族のうちで、

ラシィ

lドもまた

モンゴル種であるとみた、

ゾとく色目系(綴耕録の色目)こ組み入れられている事賞も

三二十一種系

-t

またかような貫情の反映に外なるまいと思う。イル汗園の

宰相として、

親しく彼らに接鰯していたラシィ

lドは、恐

ケレイト族を除く外は、

-マ

らく、このような地域による諸部族聞の大きい差遣を肌で

感じと

っていたはずである。それだからこそ、

はなはだ暖

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484

昧な説明の仕方によ

ってではあ

ったが、このような第

ωと

ωとのグル

ープ分けを行

って

モンゴル方面の部族群を

整理しつつ、個々の部族集囲の説明にあたろうとしたもの

とわたくしは想像したい。

オグズ族並びにその類族について

ラシィlドは嘗時のオグズ族集園を全トルコ・モンゴル

系遊牧民の本源的部族と考え、

」の種族の説明からその

「部族篇」を始める。首時この部族は背後から類族たるキ

プチャク族の盤迫をうけ、

原住地のセミレ

lチム地方か

ら、カスピ海の北岸やシル

・ダリヤの流域方面に移住し来

lマlン朝のイスラム文化の影響の下にイスラム

化しつつあ

ったという。それにも拘らず、

って、

この部族に特徴

的なことは、トルコ全民族の始租停承を保持すると同時に、

過去の古い部族制的構造をも維持していたらしいことで、

ラシィ

lドは「部族篇」のなかで、二十四分族からなる、

そうした古い部族構成を詳らかに説いてくれる。それによ

ると、この種族の

ら、目、月、星、空、山、

海という、この宇宙的空間を構

タ族璽e

と魔しきオグズ汗なる人物か

成する主要な要素の支配者とな

った六人の兄弟が、

各々

彼右ら翼まは ~ ずま が右 誕

生した。これら兄弟の上三人と下三人とが、

仕組M44)と左翼(去がイ一叫ん恥る)を構成したが、

たそれ自鰹で、各々自己を始祖とする同数の親族集圏をつ

くった。それら六つの集闘は

さらに四つづっの分族にわ

かれて

オグズ種族全鰹はこのような二十四の分族から構

成されるところの部族制吐曾であったという。

なお、

ラシ

ィlドはこの異なる段階の各集圏について、

それぞれ所属

の定められたタオンゴン多とタタムガクおよび酒宴の席で

-124一

共食さるべき肉片の各部分l肩、脇、腰などーを掲げたり

ストをつくっている。

町】、、h

}

ふ/手j

」のリストにはかなりの歓

落や誤謬もあるので、

いちおうそれらを整理統合してみる

と、別表のようになるであろう。

ず、右、左の雨翼に分かれるが、それらはいずれも。たかク

つまり、

オグズ族はま

タわし多

乃至はその接種の鳥類を交互に自己の

タオンゴ

ン。としてもつ六つの親族集固からなるものであった。そ

してこれらの集園の成員は、その

。オン

ゴン。かまたは犠

牲獣かいずれかの肩、脇、腰など、各自あらかじめ定めら

れていた肉片の部分を共食し合

ったというのであり、

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た、この集圏の四つづっの分族は、各々

。タ

ムガ。を異に

する小集圏として互いに他から濁立する血族集圏であった

タオン

ゴンクとレうのはわたくしがか

て解裡したように

(辺りかむ…一務峨閣時一法っ)ユーラシ

ア大陸の未聞な狩遡吐曾にみられる

。族璽信仰。であり、

というのである。

それは早春氷の解けて草が萌え始めるころ、

。母なる動

この地上の聖域たる。ウチュケン山。

物。の姿をとって、

(dsrEJ23に顕現するものであ

った。

また

Jタムガ4

というのは、狩獄遊牧民間での所有権の標識を意味する。

この六つの親族集園は、恐らく

。オン

ゴン。を同

って、

じくする集闘同志で相集ってその祭を催したのであり、そ

の際、それら集圏の成員たちは集圏ごとにあらかじめ定め

られていた犠牲獣

(すなわち多母)の肉片を共食し合い、そ

F

なる歓ク

の共食の儀瞳を通じて。オ

ンゴ

ン。と交感したのであり、

また、

それを同じくする仲間との聞に一瞳感を深めたこと

イ〆ムガ。すなわち、財産|牧地と

家畜群|の標識を異にしたという四つづっの分族は、各々

自己自身の牧地、家畜群をもっ最小の血縁共同盟をなした

でもあろう。そして、

485

ものとみることができよう。かような自己自身の牧地と家

オグズ族の部族構成表

|始組の名 |オンゴン| 共食さるべき肉の部分

Qun.xan (目の玉)

右 Ai.xan し I 最後(? )の肩肉(〔腰左肉の肩?) 肉〕(月の王)

Yulduz.xan Taushan種jil |最問肉〔叫肉〕(星の王) (わしのー )

K凸k.xan Sonqor (空の王) 〔たかの一種〕

Ta'Y.xan | 不〔たかの一種明?〕li

〔最初の〕背肉(? ) (山の王〉 右の腰肉〕

D(e海ngのlZ王"x)arl ゐqir |腰 肉(? ) (小わしの一種〕 〔左の腰肉〕

註( )内は筆者の解による補正。なお‘最初、とあるのは多分、右、の意、であろう。

彼らの聞には、右はつねに左より優位である。

-125-

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486

畜群をもっ最小の血縁的共同社曾を、いまかりに氏族(九

ゴル族のーオボ)と呼んでおくなら、この四つの氏族からな

にあ十る」

る大きな親族集囲

(抗点川一川九~にがU引い語)

¢と

とを使い分ける中国流の表現に従

って、前者の

多氏

e氏'

族多〉円ノ

μ。

ク姓族。とでもいっておくことが利便であろ

ともかくラシィ

lドによ

って描かれた嘗時のオグズ

に謝して

族は、

かようなタオンゴン¢と別箇の始祖をもっ親族集圏

としての

。姓族。と自己の牧地や家畜群を所有する血族集

園としての

。氏族。という、二つの階層的集圏からなる部

族制的世禽であり、しかもそれはその全瞳が多族霊多信仰

を基軸として儀種的に、機能的に動いてきたところの呪術

的政治世曾でもあった。そして、そこにはかような呪術的

機能を打破して、これら。姓族多を軍事政権の下に統合し

ょうとする英雄も、

いまだ出現していなか

ったようにみえ

る。その限りにおいて、

オグズ族の吐曾は原始的遊牧部族

制祉曾の

一つの典型を示したものとい

ってもよいであろ

つぎに、

ラシィlドによ

って、

このオグズ部族集圏の類

族とされたキプチャク族以下の諸族について述べねばなら

ないが、彼自身の記述があまり筒皐で、その麗史や部族構

造を窺うべき材料を停えていないので、ここでは、先撃の

研究や多少の関係資料によ

って、その大要を知るにとどめ

鴨-、0

4htv

キプチャク「ο68A欽察、欽何人。西ヨーロッパ人は

ο口BEF

fo自由ロと呼び、ロ

シア人はロobO∞開戸すなわ

方噂晴初人)族は、回忌

E但ケメ罰目などによると、同日ヨ停

1J

、E旬

、,

ddE

パ、

なる種族から分離した部族で、

その首長は

関同日間W

全瞳を

代表していたとレぅ。

また、バルトIルドは、宮同

251

の説に従って、十世紀ごろ

rtw河昨にあ

ったという

同ケ

自己引なる部族の名は

HEE〉目前W

すなわち二つの〉ヨ位}円

-126一

の意で、それは〉自由W

族と

OH司自ρ族とをさしたもので

あり、そのうち後者が強力で、十一世紀ごろから霊展し始

め、南方にあ

った前述のオグズ族を追い掛って、首時

多オ

グズ瞭原。と呼ばれていた、黒海からウラル山脈にレたる

贋大な草原地帯をば文字通りの

(ロ巾加工-OF司gA)

に費えたという。だが嘗時は、この種族に

。キプチャク人の瞬原e

は何らの政治的統一もなければ、園家組織はもとよりなく、

各姓族、分族ごとに、その,賢大な草原地域に分散遊牧して

いたらしく、ドlソンの侍えるエジプトの史家

ZCぐ忠岡山

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の著述によると、首時のキプチャク種族は、十一の部族乃

至姓族(その名はつぎのようである。、

H,

oEFJEFω2ユ

fom--LW円『0

ユどのOロロ問。ロ

HOm-C〉ロ同円}MOm--uDCC円ocr

F-自由。四一HwgmNSFの常国)に分かれていたとレう。そ

ω2Hr--(黒い帽子の意)

のうち、地域によってはイスラム化されたもの、

異教

徒として止まったもの、

さまざまであったらしいが、

一世紀中葉には、

ホラズム固と交渉をもち

ω丘町ロ2を支

配した王者も現われたと侍えられる。

パトゥ汗の西征の折、

のちのことではあ

モンゴル軍に抵抗したカス

ピ海北岸のキプチャク族の首長八赤轡(ラシィlドには

OZ}

rvZA族出身とみえる」

は、この方面の有力な軍事的指導者であったろうと思われ

るが、

る。首時、彼らは悉(、H,E

HD

吋ミ〉

を部族的軍隊の標識と

して掲げたらしく、。九頭の索。

凶曲るといわれたものが、

たろうが、

の王者

30AEづ恒三ミ

このような軍事的指導者であっ

彼らがかかる軍事

チンギス汗以前において、

的指導権を通じてどのような部族園家を組織したかは明ら

かでない。なお、キプチャク族に闘する停承としてオグズ

汗のとき、姐娠中の女性が巨樹の穴に入って生んだ子が、

487

キプチャク族の始租とな

ったという挿話が停えられてい

る。これは女性が樹璽の庇護の下に安産したという意味に

もとれようが、むしろそれは嬰形した俸承の形であり、も

ともとは亙女が樹璽をうけて雄娠し、その子を生んだとい

うのであったかもしれぬ。これは、なおウィグル、ナイマ

ンなどのトルコ系の諸族に共通する樹盤停承として注意さ

れてよい。

このキプチャク族と殆ど不可分の形で、つねに西方の史

カンクリ

(ogm-・康里)族である。

F

で康趨」

の意だというが、同じような意味

料に現われてくるのが、

02M一関口とは

。二輪の車。

をもっ昔の弓月族や高車族とは恐らく直接の閥係はなく、

むしろキプチャク族の分涯か、あるいは〉ヨ位}内族などか

ともかく、首時は姓族、分族

ら分岐したものかもしれぬ。

ごとに分裂していたらしく、

ホラズム固に入

ってその軍事

力の中核をなしていたと俸えられる。また、同じ類族に、ヵ

ラチ

(O巳闘の)族という集圏があ

ったが、バル

トlルドはカ

シュガリーを引用して、これはもともとオグズ二十四分族

から分離したという二分族の名であるらしく、その一部は

早くからイラン、

アフガンに入

ってその地に定着したとい

ぅ。同じくアガチェリ

〈〉四

Emg〉族というのは、ラシィ

の音訓

(ZR-同町田円は

ードの説明にもあるように、

。森の人多

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488

だから

オグズ族の

一分涯で、森林地帯にあ

った分族

森に名づけられたものでもあろうか。

以上のオグズ族およびその類族のうちで、もっとも重要

なトルコ系遊牧民集園は

オグズ族とキプチャク族との雨

部族であ

って、他はこれらの分源か分族に過ぎなか

ったよ

うである。そしてこれらの諸部族は、全瞳としては族璽信

仰に基く緩やかな部族的統合を保っていたに過ぎず、

むし

ろその部族を構成する下位集圏の姓族や分族がそれぞれ濁

立の政治的軍位として活躍していたように見受けられる。

さて

西トルキスタンの支配的部族集圏であったオグズ

族とキプチャク族の東方にあるものとして、十世紀ごろの

アラビヤ地理家たちは、

フL

ルガlナから二十日ほどの放

程に等しいほどの慶い地域を占めるカルルク族と

さらに

その東方から中園国境にかけて住むトクズ・オグス族すな

わち首時の西ウィグル族との二つの大きい種族をあげると

いう

(∞白2rD一仏一N耳ロロ〈。ユ巾印己ロ岡市ロ司・印ω)。

まず、カルルク

(O白-合刺魯、匝刺魯、)族から始める

F

Z何耳魯、翠緑魯」

と、この部族はむかしはアルタイ山西方の草原にあった有

力部族として三姓葺遅線族の名で知られたものであり、唐

の中葉ごろ切

g自己族とともにウィグル族を擁立して東ウ

ィグル王国の樹立に参劃したが、やがて成立したウィグル

政権に追われる身とな

ってセミレ

lチェ地方に奔り、一

時は

ωuubーσに都してその王者は

JFゲmr己を帯したと

(∞RF。正一

一司CE円

ωZL5r吋

}MOOR-cm∞司・∞。)。

それと同

時に、その姓族、分族なども、

この地方を貫ぬく東西交易

路に沿う大小都市を中心にあまたの小国家を経営したらし

く、チンギス汗のころまで存績していたものに、

チンギス

汗に服属した

O同苫一五〉ユ白ロ王国、また盗賊固によ

って

創められたという

〉-g巳Zの

NR王国、またはフ

ONWmロ仏王国(元史おω也竿的印停にいう「租匝答見

f

密立以幹思堅園恰刺魯軍三千絵飼太

しかし、これら遊牧民の商業都市支

-128一

配租ノレに」ニガよな lつ ど ナてがの建あJL っさたれ。

園家群t主

いずれもその小規模が

さく、勢力も乏しかったとみえ

ビシA

バリクを首都とし

て成立した西ウィグル王国から政治的堅力がかかると、

の附庸固となり、

ついでこの王国からベラlサ

lグlン政

植が分離濁立してカラハン王朝を樹てるに及んで(この部分

f

は安部健

蚊山岡町M九一日園)、またそれに従属し、十二世紀の初頭、

このカラハン朝を亡して西遼カラキタイ帝国がこの地方に

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君臨するや、

またまたその支配下に立たざるを得なかっ

た。これらの諸園家におけるカルルク人は、恐らくはオア

シス都市に定着する農民や商入居に謝する支配的武入居を

形成したもので、すでにイスラム化されており、

これら園

家の成熟とともに定着民のなかに同化されて行く過程にあ

ったようである。従って、首時のカルルク人は、西トルキ

スタンの噴原に住したオグズ族やキプチャグ族にみられた

ような族霊信仰に基く古い種族的意識も、

またそのような

部族的組織も忘却しさっていたろうから、現存史料からそ

れをさぐり求めることは、もはや不可能に近いであろう。

つぎには、

ウィグル王国およびカラハン王園の建設者と

して、中世の東トルキスタン史上もっとも重要な歴史的存

在であったウィグル族について述べねばならない。もっと

」れについては、すでに安部健夫のすぐれた研究に委

細が重されているから、

」こではただ立論の過程として

ふれるにとどめたい。さて、ラシィ

lド並びにその典竣とな

489

ったジ

品ワイニlの記述によると、オルホン河上に住して

いた古代ウィグル族は、十姓ウィグルと九姓ウィグル(か

ゆるトクズ)とに分かれていたとあり、ついでその故土から

・オグズ」

護見された碑文に書いであったという有名なウィグル族の

始祖切口問位

可汗の侍承が述べられる。

それはセレンゲ、

トラ南河の合流貼に近いところに、二本の大樹があり、そ

の閣の塚に天の光が差しこんで、

五人の子が生まれたが、

そのうちもっとも賢明であった切cmpが選ばれてウィグル

テングリクグ

クトタク

また天霊山に近い一隅山

族の王者となったというのであり、

から得られた。幸一帽の石クを白衣の亙親からこの可汗に

奥えられた結果、彼は各地の征戟に成功して、大帝園をつ

くり上げたというこ種の停承からなるものである。これは

また首時の中園の諸文献(元史HMM

巴見治阿見式侍並びにその典

F

竣となった民集の高自国王世勲碑、策

潜の遼陽行省左)にも、多少異った形でみえる。そこでは、

丞亦議員紳道碑」

塚の代りに二本の大樹がすれ合って生じた痩から五人の子

-129-

が生まれたとみえ、また。幸一臓の石。を唐人に破砕されて

から、

ウィグル帝園が破滅に向ったと述べられている。安

部はこの切cmp可汗を元代の聞ウィグル園王切

Rng(元

史の巴克治〉の始租としての

〉円四FN

家の懐信可汗に比定さ

れ、この切umuは療の意味をもっトルコ語の

切里町

に首

るものだろうとされた。この停承のなかに、そのような貰

在の可汗に闘する歴史的迫憶がかなり混入していることは

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490

彼のいうように否定できないとは思うが、

しかしこの可汗

の奇蹟的誕生に闘する説話は

むしろウィグル、キプチャ

ク、ナイマン族など一連のトルコ系諸集圏の共通にもった

樹盤停承とも解してよいであろう。安部が指摘したように、

石刻の世勅碑にみえる冗車卜古汗は

ロ門

FEロ・ゲロぬ¢ρ山口

{同書二二)あり、その

ロ含

-Eロはふつう女亙のことである

F

九頁註

が、それはがんらい

身ロ}内出口12ロ肉gと同じく

。大地母

一珊ψ

を意味したものでもあろうから、五人の見を生んだと

いう樹木は、大地母一珊の精がこの世に顕現したものに外な

らないわけで、その大地母紳が天の光をうけて姫娠し、そ

」に生まれたのがウィグル族の始祖だったということなの

切Cm町一位とは嘗時のナイマン族の国王の名

切ロ閃己

gmEmm切口官

ρ同ロ(町J

川市川橋一一お…部川)などと同

じく、

tω同∞一べということでもあろうが、それはまた呪術

である。

的王者を意味する

切叩性!切。.叩

などという言葉とも閥連

あるものではあるまいか。すなわち、特定の固有名詞とい

うよりも、呪的王者に興えられたタイトルなのであろう。

」のウィグル族についてもっと重要な問題は、

」の王

園の国家組織についてである。何故なら、古代ウィグル文

化の正統を縫承した、この西ウィグル王国の組織は、首時

のユーラシア大陸における遊牧諸種族聞においては、もつ

とも開化した遊牧園家の模範と仰ぎみられていたからであ

る。安部は己

g〈己ロ仰

の議論のなかで、西ウィグル王国

は王室の直轄地以外は大小の封侯があり、大封侯は多くの

附庸園をも

っていた、いわゆる遊牧封建的圏家と規定され

た。しかし、中心問題は、むしろ中央における王室の政治

楢力構造とこの大小封侯との聞における支配閥係に置かれ

ねばならないであろう。

もちろんこれらについての史料は

乏しく、わずかに中央官制に闘しても、例えば多国相苓刺

(

)

督。

(批

持)とか話託陀。

(時料品凶一町一内侍)などの官職名、かあ

ったらしく、これらは東ウィグル王園の官制をそのまま纏

承したものであろう。または醤魯愛冗赤(読諒

w

zZ4Eミ4cmFのミ吉町とは)ある、土。探花愛冗赤多(掌璽官

ω司H巾円}MmHW

〉企

Eg口同・

Lt

p?元史

認諾詩)などの官職もみえるが、詳細は不明であ

る。また、王植の基盤たる中央軍制については、全く不明

なのだが、ヶレイト、モンゴ

ル族などの王者にみられた近

衛軍需存続最時国)ゃいわゆる探馬赤軍制の原形な

-130-

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ども、案外このウィグル王国の遊牧封建的制度に'由来する

ナイマン、

ものではなかったかと疑われる。

ケレイトなど

の古い遊牧園家の諸制度はもとより、

モンゴル帝園の諸制

度なども、ある種の重要なものがこのウィグル王園に範を

とったものであろうというのが、

わたくしの目下の臆測な

のである。

モンゴル高原東部の諸部族について

」こでは、ラシィlドの「部族篇L

の分類による第

ωグ

ループ、すなわちモンゴル高原の東部乃至は東北部を占接

していたモンゴル語族系の諸部族l第例グループに包括さ

れた、

レわゆる

φ

固有のモンゴル族。は除くーを取扱うこ

ラシィ

Iドの第

ωグループで取扱う種族の名稿

はつぎの如くである(部族の原名は便宜上モンゴル語の原て

f

名に近いもので表わすこととした」

ω・ωロロH

ω・、門担昨印片品-V向OHFr凶

ととする。

]「』向】同肝円

ω・剛円円

MH-巾JH門凶

。・↓んい}位臼(りゅ

orgoロはの

o己白白口}回目白)

J

可・吋

OB白内凶

∞・切己白『白口E

。・同

2mg忠吉

巴-OB田区内同

戸・叶白

HUE-ル門出

HN.H,同

qc仏

491

5・0じ白内同

ェ・切向吋百円凶

5・00江

5・同,巾

-gm戸田門凶

ロ-M円

gzg仲

H

∞・刊し『円可白ロρ同

5・00同ρ向ロ

N0・ω同

門出曲目円山

」の種族名リストはラシィlドの貫際の叙述とは順序が

遣っており、日の叶EHF-Zも全然取り上げられていない

で」の名稽は。タムガをもっている人。の意で、ラシィ1ドは別な

F

箇鹿では、第

ωグループ内の一部族スルドスの一分族の名として

orgoロによると、プリヤlト(切0222〉

族が挿入されている。

これらは、

ラシィ

lドの版本による

相違であろう。これらの諸種族は大龍三つに直分できるよ

ーから4までの諸族は、かなり古く

うである。すなわち、

-131-

から濁立し封立し合

ってきた有力な遊牧民集圏であり、

5から9までおよびロ、

14

日、日の諸族は、高原の

北端からバイカル湖の東山芹のいわゆるバルグジン・トグ

(FH455吋ミロヨパルグジン河の隆所〉にいたる地域に

住む中十狩鎖的遊牧民集圏であり、日、目、口、国の諸族は、

バイカル湖の西岸からイェ-一セイ河の上流、

ケム河近傍

にいたる地域にあった森林狩猶民集圏である。最後の問、

加の二種族は、所属不明で多分他の種族の分族おお同

汁…紘一坪喝)に過ぎまいが、ラシィlドもその所属を決し

かねて、便宜的にここに挿入したのであろう。

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492

まず、

遊牧民の部族集固から説明に入ると、最初のジャ

一フィ

(OESγ一町『〉種族につレてのラシ

lドの記事

tま

つぎの如くである。

この諸部族

25σ・〉』宅問HHMWO25の複数形〉はむかしは、か

なり多人数の集闘で、その分族(白gr・ω}dE〆-u〉はそれぞれ自

己のエ

ミ|ルや首長をいただいていた

(柵)。彼らの一部のものの

牧地は、オノン河畔にあったが、むかしキタイの寧がこの地方のジ

ャライル族と戦ったとき、わずかのものしか逃れることができず、

その逃亡に際して、〔モンコル族の首長〕ドトン・メネンの妻モ

ノルンを殺してしまった。ジャライルの親族

(ωgr・0白『口るの

ものが難詰していった。お前たちは何故にこのような怪らぬ振舞

をしたのかと。この理由で、そのうちのある者は殺され、残った

ものは、ドトン・メネンの孫カイド汗およびその子孫の倖蕗とな

り奴隷となった。これが組先から相制制されてチンギス汗のときに

到った。それで、この部族はチンギス汗の

20ロ4E

∞D4

E

3

(

g四・〈ostF040]類代の隷臣〉となっている(輔)。彼らの〔本

来の〕牧地は、

〔むかしは〕カラコルム山の

全日舶

にあったとい

われ、〔笛時は〕ウィクル図主クル汗の牡駒舵にパターを食物と

して差出したほどの徹底した服従ぶりを示した(棚)。このジャラ

イルはつぎのような十の大きい分族からなるものである。

r.白ご

、円。』ロ円削口再

OAZ5.己子

ODロ《阿国師駒田

rooヨ出削

.EfO可曲目

fZ二門出血ロ

(ロ・0780P∞二円曲目的白ロ

mYOOZE戸

(0・0780p

UCEmロ巾円巾)

w

吋OE口問問正・ベロ門戸

(U・orac口祖国ロユ〉w

∞}戸白口問、百円(り・

orgog

ωFFロmnoERw)

このジャライル族(帆酬赫一服)は、

ィグル王閣のモンゴル高原支配時代は、それに服属して西

そののちオノン河の東(元史

H5木華

F

察側にも

多札

多固有のモンゴル族。の東方に移

右の記事によると、

東ウ

方にあったらしいが、

刺見世居阿難水)すなわち

之東。とある

住していたのかもしれぬ。中国の史料には十一世紀の初頭

へ遼史J

において阻卜礼刺部節度使司一6

)の名が見え、

じく太

'a位、

卒元年(畑一識とに遼に来貢したとあ

って、首時のモン

ル方面における遊牧諸種族の大、きい連合王国であ

ったらし

い阻卜(後述する〉連合に参加してレたもようで、のちには

の4

qJ

唱EE-

遼朝に背反して敗れ逃れる際に、誤

ってモンゴル族の領域

を犯し

その首領の妻およびその一族を殺裁したとレうの

である。この説話はモンゴル族の歴史にと

って重大かっ著

名な事件であ

ったらしく、歴史をとくところで、

とくに細

かに侍えられている。

この結果、

モンゴル族は一時滅亡の

危機に瀕したが、チンギス汗六世の租カイド汗が姻族であ

った日の切

RE仏(一~何一M川町炉齢ト印税、いん)族の援助の下で、

罪を犯したジャライル族を責め、

再興したのち、

それ以

」の種族の全僅か、責任ある分族か不明だが

それら

がモ

ンゴル族の世襲の隷民とな

ったという。

にもかかわら

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ず、首時大きい集闘をなしていたことは

十の大きな分

族的部族からなっていたということでも知られよう。

その

うち

T1最も大きいのが、最初の

FwE〈の

2包(町詐取山

憾の察恰札刺)すなわち。由、

・/ヤライル分族e

であったら

児に笛ろう

}

L

--

しい。しかもこの分族の首長。円ロロ尺(有名なチンギス汗鷹)

ヱ下の将軍ムカリの父」

が一種のシャ

lマン的権能をもっ人物であ

ったことは、秘

史の一挿話からも(即日cm)

窺レ知ることができる。

また

、H,

zz日正門凶族の活動や存在も秘史に傍えられているが、

これらがみな別箇の集固として行動してレるところからみ

れば、

ジャライル族とは、別々に首領をもっ分族的集園の

単なる種族的結合を示すものの名に過ぎなかったようであ

り、むしろ貰際は、

」れらの分族が各々濁立の部族集圏と

493

して政治的活動をなしていたとみてよかろう。

つぎに、ラシィ

lドは、スニド

(025ωEE〈ωEL捌

伽一瞬)族とその分族のカブタルン(O与包同口口〈OEEHAS一耕一

日U

服見)族とである。この種族については、彼はそめ由来も

住地も、また部族構成についても何ら述べておらず、ただこ

の部族出身者で、のちにドルキスタン方面の探馬赤軍総司

令官の要職にあったチョル

マグン

20525縛馬牢)なる

人物について記すだけであるが、この人物は、秘史にはと

くに

ozmc仏巳のOHHHM但吋ロロというふうにみえるが〈秘

Mg〉

この

ozmC仏企を

O芯関口ゲ

03-ととるならば

(325同

2

白血

grF印一の吉岡田福間ロ命的司・∞白)、こ

のス

ニト族は、

またその分族

のカブトルカス族をも含めて、前記ジャライル部族と同様

の類代の隷属部族にでもな

って

タ固有のモ

ンゴル族多

いたのであろうかと推測される。ところが、秘史では、こ

るの

の〈 一向 ザつロ官:のロ種。:族立を認と~. も

チンギス汗五世の租の末弟にあた

の子孫から分岐した氏族であると記

。。。。

いずれが正しいかは問題だが、がんらいモン

ゴル族の世系譜は、四世以上の傍系親においてとくに不明

るしている。

な黙が多く、必ずしも信患はできないので、この場合も、

いずれが正しいかは決定しかねる。

つづいで、ラシィ

lドはタタ

1ル

(025吋目的円)族につ

いて、左のように述べる。

〔タタールという〕彼らの名梅は、有名で古い時代から全世界に

知れわたっている。〔そして〕これらからは激多くの分族が分岐

して出た。種族全趨では七十の千の家があった。彼らの住地(白?

与・玄2.NSや牧地は、部族、部族ごと、分族、分族ごとに分

かれていて、キタイ国境近くに定められていたが、本源的ユ

1ル

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494

トは、ブユル

・ナウル(口切百円Z百円〉というところにあった。長

い間、彼らはキクイ常闘に服従し、貢租を納める民であったが、

組えず、彼らのある部分は皮抗し、暴動を起した。キタイの君主

はそれを鎮座するために、軍隊を武装して、あらたに彼らを屈服

させた。彼らはまた同じように、お互いの聞でも敵封し、相手っ

たo

〔そのため〕

これらの諸部族の間では、長年の職容がつづ

き、戦闘が行われた

(糊)。省時、彼らの間には、現在モンゴル人

の聞にみられるようなヤサ

lp(ZFEEA法令)はなかった

からである

(切。彼らはずっと昔は、大部分の時代を通じてその

地方の支配者であって、強大で、完き愈敬をうけていた。彼らの

非常な勢力と傘敬さるべき状態から、他のトルコ諸部族も、その

部族の直分や名稽の相違にも拘らず、この〔タタlルなる〕名稀

の下に著名となり、すべてがタタlルと呼ばれるようになったの

である

(想。これらの著名で、各自別箇の軍隊と君主とを有した

トルコ諸部族はつぎのような六つの部族からなる。

吋倍野・、吋白色DAD一一回ご叶営同門・〉]目白也、

US円・同,OBr

吋助再削円~山俗、『帥ロu

同,削同副円。口同ロ〈阿ハ口5・吋白片山円切削五日〈〉一』E

J〉円占己】。これらの

うちで、H

,EDA

口一百円

がもっとも愈敬されている

(判)。これらの諸

部族では、〔前述の如く〕お互いに多くの戦闘や小競合があり、

殺人、掠奪、強奪が行われていたが、彼らとモンゴル族との聞に

不和と刑判容が起るようになってから、そのような

〔新しい〕情況

の下で一致幽紡するようになったのである。

首時のタタ

lル

(脱1日時惜)部族は、首時は輿安嶺獲のブ

ユル・ノ

lルからウルシ

」ン河流域にかけて住する六大部

族からなる部族集固であ

ったが、この部族集圃の名稽は、突

阪碑文には三十姓タタ

lルとあって、相首大きい種族であ

ったらしく、唐代でこの突廠王国を取園むものとして、キ

ルギス

タタ

lル、契丹、異などがあ

ったとい

グリカン

うから、契丹、実を除くモンゴル高原の遊牧系諸集闘は、

首時ことごとくこの三十姓タタ

lルという包括的名稿の下

に呼ばれたの

でもあり、彼ら自身も便宜上そう自稽してい

たのかもしれぬ。

のちに契丹が遼朝を興すに及んで

らの諸部族はその逸境支配盤制の下におかれ、従ってタタ

ール族を中心とする統一的政治勢力は排除され、個

々の集

4

qJ

噌BA

園に分裂させられたことであろうが、その際恐らく奮来の

固有の名稿を復活した部族も多か

ったに違いない。そのな

依然としてタタ

lルを帯したものは、

この輿

安嶺麓にあった部族と陰山山麓にあった部族

(こ五、は哨蝉唱

っと医司ドれゐ

dt

遼史民多九姓迷旦多と)とのこつであったようである。とこ

あるは、これをさすか」

ろで、ラシィ

lドはこのタタ

lル種族は六つの大部族から

かにあって、

なるというが、

その名稿は秘史

のあげる六つのそれと多

少相違している。

そのうち、

もっとも勢力があったとラ

、HJHZρロロピ円三中園語の。都督多

F

のモンゴル語的複

シィ

lドが

ところの

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ゆ叫…炉事配)は、同じくラシィlドがケレイト部族の僚に述

べるところのブユル・ノ

1ル近傍のタタlル部族の首長

ZO円切釦ルユ門出色ロ所属の部族と同じもので、それがまた秘

2.己仏族すなわち遼・金史の鼻古徳族に嘗るもの

であることは疑えないであろう。また、ラシィ

lドの吋冊目

円削仲は秘史にはみえぬが、

遼・金史の烏古・敵烈、

は入部適烈とあるものと同一であり、

烏古{烏骨児}とある

F

子廠里」

に嘗るものでもあろう

また

のは、秘史の〉1片山口仏〈〉但江戸己

hd{よ仇をオンギラドにあてる向きもあるが、嘗時オンギラドは王

1r紀剰などと記るされて、烏古里と一緒に述べられているところ

知的一MMM一いそ)。その他、

kr-Fの

33のタタlル分族は

雨者合致しているし、秘史の〉-A丘はラシィlドの切RE

ρ巳〈切MWEEに首ろう。ただ、秘史のり三回正門ヱモンゴ

f

ノ話回で

ム軒下)族と、ラシィlドの

EEとが不明だが、これが

合致するものか、

あるいは各々別箇に異なるものかは、決

定し難い。これらのタタlル諸部族のうち、

吋ロ

ZG丘町ロ仏

族がとくに強力だというものの遼・金史によれば、烏古、

敵烈乃至鼻古徳族は、それぞれ別箇に翠濁の勢力を形成し

て互いに措抗し抗字してきたようである。遼・金朝の彼ら

495

に謝する覇際、政策は、西北招討使司の監視の下に、これら

タターノレ族の分族名

秘 史 漢字名 ラシィード | 漢字名

Ayiriud 烏古里 Tutuquliut

Biru'ud 鼻古徳 Anci 按赤

Ca'an Ca'Yan

Alci 按赤 Kuyin

Duta'ud Tereit 敵烈

Alqui Barqui

階になったときは、

有力の首長を節度使な

どの名血管職に任じ、本

領を安堵させつつ、

たすら慰撫して、透境

の防備を負掘させよう

と努力したらしい。し

かも、それに従わぬ彼

らは、乱暴で好戟的種

族だと停えられてお

-135一

り、それだけに種族内

部における指導権をめ

ぐっての抗字もはげし

かったようであるが、

しかもモンゴル種族と

一致圏結して、これに嘗

ったとラシィ

封抗せねばならない段

アルチ・タタlルというふうに、

ードは記している。なお、彼らはチャガン・タタlルとか

つねに部族名と種族名と

をかさねて用いている。

」れらの事貰からみると、彼ら

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496

は多くの分族に分かれ、互レに抗宇はつづけて

レても、首

時なおタタlル種族としての種族的統合意識は喪失してい

なか

ったようにみえる。

つぎには、メルキト

(OEB玄雪間一MX)

族があげられる。

彼らは同じく

CEI部族ともいう

(哩。このウドイド・メルキ

ト諮部族は四つの分族を有している。口ZNw窓口岳口〈冨DLEW

FLEE-25この部族は多数の好戦的な軍隊をもっていて、

チンギス汗やオγ汗としばしば蹴った

(柵)。チンギス汗の時代の

ウドイト

・メルキトの

君主はトクタ

・ベキ(斗CGS

回巾同じで

あった

(輔)。またメルキト部族出の他の有名な

エミlルはタイ

ル-ウスン(醐敗mUL(ス巳十-uル……酌初)で、同じくメルキトの首

領であった。

このメルキト(滅里乞、安里)族は、秘史によれば、首時は

主回、餓児士口

セレンゲ河の中流域附近にいたようで、従

って、恐らくは

多少トルコ

語化された

モンゴル語を用レ

てレた種族ではな

レかと臆測される。

古く遼代から、密見紀、梅里急などとい

う文字で現われて来ており、遼末の太安存隆年間の阻卜連

合王闘の大叛配に参加した有力部族の一つであったが、阻

卜の中心勢力であ

ったケレ

イト族の王者磨古斯汗の敗北と

ともに、遼に屈服して再び入朝した(腿諒

一切一鐸一仁持一一)。

チンギス汗の首時

タ四つの分族。に分かれていたこの種族

を統轄したのは、有名な英雄として知られたトクタ

・ベキ

-Z,

tcJUどだとあるが、秘史ではつねに

J

ニつのメ

ルキト多と帯してその分族の名をウドィドとウハスとカア

〈O釦

.2)の三つをあげている。このうち、最後のものにつ

し、

ベリオ

アムビス教授は、秘史の異本によって異同

があり、

」れを元史

ロ叶耶都別脳内にみえる多窓

(

(U

同門田己ロYARECの

の同心ロロ

の誤りではないかと推定され

た(

HF

F

《ゲ(Um

ヨ百四コ

g-u・MM

∞)。もしそうだとすると、

多分最

(冗都亦)

初はメ

ルキト種族は、秘史のいう通りウドィド

ウハズ(町山花)とこのチャ

カアン

(霊碑)の三

つの部族から

なっていた

のでもあろうが、ウハ

ズとチャカアン

とがその

のちの部族戟宇における敗戦の打撃で(秘史はチャカア

ンす

F

なわちカアアト族の

耕一糾長叫械長)勢力を失い、も

っとも有力であ

ったトグト

・ベキのウドィド族の下に吸枚され、その分族たあ冨c'

Eロ〈富田

mzg(服+μ

)』

Eロ(肌)などと一緒にウドィド種族

のなかに編成替えされて、

四つという数になったのであろ

-136-

、.3

Aノ、刀

4

つまり、このころは、種族金曜の政治的消長に伴

て、その内部の部族集園の編制に紹えざる嬰化が起ってい

たことを想像してもよいのではないかと思うのである。

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遊牧諸部族のつぎに、パイカル湖以東からセレンゲ河地

方にいたるの地域に住む諸部族集圏に移ると、

な、かつ大きい集園であ

ったと思われるものは、バルグ

RE仏族とキユリュリょト族、がある。

ここで重要

まず、

、レプご

ノノーン1』

(八刺忽)族については、

これら多くの諸部族〔種族的には〕お互いに近く、彼らの牧地は

セレンゲ河の北方で、モンゴル人が住む極限の回白ミ己百吋0・

45(炉MPむの地にあったものなので、出血

H4Eといわれた。

とあ

って、このバルグト族は、

。。円r吋。

-rw切口江主

部族乃至分族から構成されていたらしいから、あるいは唐

代の三姓骨利幹(00コ宮るなどとも閥係あるものであろう

七、

つぎのキュリュリュト(吋内野

rEVHハ己主)

族について

lドはこう述べる。

497

弘吉田リ〆

この部族は

O白ZC『

削円

(O=間関戸門担

ι康吉鰍)や

巴』-mEや

司4E

の諸部族などと近しく、お互いに一つになっていた。そしてこれ

らの間では、タムガが同

一であった。彼ら同志は親族としての要

件をみたし、お互いの聞では、鴛

・嫁〔交換の慣習〕を守ってい

る。この諸族の大牢は、いちどもチンギス汗と交戦したことも敵

封したこともなかったので、彼はこれらの諸族を分割したり、隷

民にするようなことはせずに、もとの領土に安堵させたのであ

『アンダと

る。チンギス汗の時代においては、彼らは〉邑

2DL帥(は盟友ク

UV抗日瑚誠一剛一段町駅附肘

mh駒一刑判刈械的)の道を守った

(輔)。

「これは、所属

その各親族には、別箇の名稽があり、』口同・官ぷ白ロ{不明のmmの

muddにい叫一何日)

052E(Md-hd料配訴をの二つ

に分かれていた。

このキュリュリュト(開耕一)族が前記のパルグト族やその

他とお互いに一つにな

って

いたとするならば、

やはりその

住地はバルグジン

・トグム近傍にあったのでもあろうが、そ

れらの諸族はまたイJ

ムガ。すなわち牧地や家畜群を共有

する種族でもあったというのである。ところでこれらの諸

7

・。J唱

i

族うち、

エルジギン族は、第例グループの

またパルグト族も

オンギラッド、

。固有の

モンゴル族。との姻族であり、

そうであったし、

キュリュリュト族もチンギス汗時代は

。アンダ

・クダク

の関係に立っていたというから、これらの

諸族は同時にみなそろって、

チンギス汗のモンゴル部族す

なわち第仙の。固有のモンゴル族¢

の姻族でもあったこと

が理解される。以上の諸事貫から推して、これらの諸族は

むしろもともとは同一種族を形成していたもので、

のちに

姓族ごとに分岐したものではないかと疑われよう。ただ、父

系的外婚制のモンゴル枇曾では、このような骨(似断的)を

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498

同一にする種族の聞では遇婚できぬはずだから、ラ

シィ

l

ドの文中にある

4

親族の要件をみたし、笠嫁の交換を行つ

むしろ否定詞が抜けたものと理

解さるべきであろうか

(れわれが心臨ん引酌兄彰炉い附

いていたようで、彼の叙述のなかには、しば

γ

しば混飢がみられることを注意しておきたい」

つぎに、バイカル湖以西の森林諸種族としては、ケム河

上流の八河地方にいた大部族集闘の

3土

静一一蜘斡)やそ

の北方にあ

った。森のウJヤンカイ族。(斡娘改、)を始め、

ι

F

冗喰仏市」

CHSD旦秘史の冗}、H,巾]仏{秘史の回}内

gzg・{客思}工

F

見速旧聞

白ロhH

{

列克脱

的立日マJ

どの諸族、またここにはみえぬが、秘史や元史地理志にみ

える

O白ES白(敢恰納思、

元史はこ出、吃う)OBG白白(服合)ま

ヱ憾恰思

φ

布夢の意

L

F

'

ど、その他あまたの部族が、この方面の賢い森林地帯に散

た。という姑に

ついては、

在していたらしいが、

。町民{の僚でラシィ

lドがいう如

く、これらは基本的には

モンゴル語族であったかもしれな

いが、バイカル湖東側のモンゴル語とは大分異っていると

わざわざ注意しているから、

むしろトルコ的要素の濃いも

のであ

ったろうと察せられる。

モンゴル高原西部の諸部族について

ラシィ

lドが、第仰のグル

ープ

に直分した

モンゴ

ル高原

の西方に住む諸部族は、すでに指摘したように、東方に住

む前述の第例グループの諸部族に比して、モンゴル、

トノレ

コ語、

その他諸種の言語をもっ集

ー、[レコ五回、

p':--ロ

タングト韮問、

闘であり、かつ文化的にも第仰のグル

ープより一般的に高

く、政治的には遊牧国家を組織していたものが多かったこ

とが、注意される。ラシィ

lドのリストに含まれる諸族は、

つぎの通りである。

同ハ20F

235白

P

O口問ロチー『

m54CLw

∞四r2POH円myFN

-138ー

なお、

これに関連するものとして、第

ωグループで説明し

ておいた西アジアのトルコ諸部族のウィグルとカルルク

キプチャク

の三集圏についての叙述が、多少つけ加えられ

ている。右のうち、最初の四つの種族が草原に住む遊牧民

系のものであり、あとの二つは森林種族である。

まず、遊牧系のケレ

イト

(02日

開F5Cから始めよ

ぅ。ラシィ

lドはこれについて、首時のケレ

イト族の君主

。ロma官ロの所有する数多くの私の夏営地、

各畿地並びに

その曙下の左

・右雨翼の軍隊の牧地をあげたのち、

つ夕、の

如くいう。

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彼らには〔古くから〕自己の部族出の品尊敬すべき君主があった。

嘗時この地方では、彼らは他の部族より強い力をもっていたので

ある。彼らにはイエスのお思召しがあって

(柵)、その信仰に入

った。彼らは〔本来〕モンゴル族の血統で、その住地はオノン、

ケルレンの河沿いのモンゴルの地にあった。その周縁はキタイの

園境に近い。いくたびも〔ケレイト族は〕多くの部族と敵封し、

とくにナイマン族と封立することが多かった。オン汗のとき、ジ

ュルキ,ン

(EHrロヘ

タグロフには誤って同白grEとある)族の

首長はのξ口rEZ仏三で、。口同帥巳(阿ハロユ

mgのことかU

の一

蔵人の指鐸者であり、彼のユ

lレトは

E50白H2(輿安嶺)

.

ロf

をさす}

というところにあった。チンギス汗がオン汗を破ってその部族が

敗走したとき、こののξ口rの囚人の子はチンギス汗に仕えるた

め、やってきた窃。このケレイト諸部族は多くの部族と親族と

をもっていたが、それらはすべてはオン汗の部下であった。それ

はつぎのようである。

とし

って、

君主オン汗の出身のケレイト一関

22怯

}

F

J

骨烈亦傷、

J廿』

crrzlJE『「弓月見斤)。。.

ム口

hJ、

ムM

矢、。

499

それに従うジュルキン

ロ心削広(〈

023E翻館一抑側融市

)ω25(八ハωZE〉吋四日削口伸之〈

gsg翫325(問日付

gHr棋は)などの諸族をあげ、

つづいてこのケレイト王国の歴史を詳らかに述べている。

オン汗の祖父にマルクス

gpzE、ロ向RnD

に嘗る)という名

〔の君主〕があり、∞215A山口とも呼ばれた。嘗時はタタ1ル

族が非常に数も多く強力で、しかもキタイや女同県の君主に服従の

態度を示していた。タタlルの貴族の長は

zg回目円四五』削ロと

いって、その牧地は切口同門口百円にあったが、好機を狙って彼は

ケレイト闘の君主マルクス

-Pフィルタ汗を捕え、女異に途った

が、女同県園ではこの王者を木馬に釘打ちして殺した。しばらく後

になってから(叫日は意)、その妻が馬乳酒を容れる革嚢に完全武

袋した兵士百人をかくまい、荷車につんで、タタlル族の宴曾の

席に赴き、その宴のたけなわの折、その革裂から飛び出した勇

士たちとともに、タタlルの君主や首長たちに襲いかかって、殺

し、血の復讐を果したことで有名となった。

このマルクス汗には二人の息子があり、一人はクルジャクス・

ブイルクハゆ固と

ES〈(UUE国

2日クリスチャン名〉汗といい、他を

グル(の口同色ロ〉といった。

〔古い記録では〕クルジャクス汗は

もとオルタ・パラガスン

{Oユ∞

-

{

州W4白25地。嘗時寓魯乃木減と

呼ばれ戸

ていた)にユ

lルトをもっていたとある。彼は〔自分の弟の〕グ

ル汗と〔長子の〕のオン汗とにユ

lルトを同一の地域〈この地名

は文字が不明でわからぬ〉に輿え、他の子の寸3・dB5・吋包貯

Jpz・ζ55とにはそれぞれ

O白E4R∞巳

E言円

(F〉の地

を輿えたが、このときクルジャタス汗はいった。もし、彼らが一

緒ならば、卒和はあるまい。わしの死後、彼らは〔相字って〕夜

から朝まで朝から夜まで、このケレイトのウルスを保つことはで

きないであろうと。このような理由で、彼は子どもたちをお互い

に引きはなしたのである。

-139-

ついで、ラシィ

lドは、

オン汗が父の死後、計略をも

って

兄弟を謀殺して土地を併せたので、叔父のグル汗(本名一は)

戸開

}=ELF」

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500

がその罪を責めてオン汗をケレイト固から追い抑

った。そ

こで、彼は東方のモンゴル族の一首長たるイエスゲイ

(乃

ギス汗)に援助を求め、そのカでつ

レに叔父のグル汗を躍し

の父

て、ヶレイトの王位に卸いた事情を述べ

る。

さらに、この

ケレイト王国の知られざる歴史について、ラシィ

lドはタ

タールJ

部族の僚にもまた

この部族との抗宇にふれて相笛

に重要な記事をのせている。それをかいつまんでいうと

こうである。

車時のケレイト閣の君主

ω22同コ(伽れ和一日M1

3は、アル

チ・タタlル族の首長の

ODE-念日・吋き『と

EdrJω5』

gm

らと戦ったが、彼は

ヌ民自

5を捕え殺して、

多アルチ

・タタ1

族には七十のウルフがあるが、この穴UB

E

目を除いて男はいな

い。今こそ彼らを追い排う時だ。とい

った。そして、オルホン河

上に陣して

OD円FEE-吋さ円

の本軍と戦ったが、むなしく敗れ去

り、逃れて

MSEM・05EEODみ一切口『『口二十件一部一附初日ト計一口

十一町一軒

1uvuhuu州一明細一誠一)の庇設をうけるにいたった。彼

は前にクルジャタス

・ブイル

ク汗に自分の娘を奥えたが、それは

2;E(胡…協しが一句

UL…むh和銀ヤ訪問切ト君)の妹にあ

たる。そののち

O邑同『』削ロはサリグ汗とともにタタlル族を襲

ぃ、彼のためにケレイ卜

・ウルスを解放してやった。このとき、

ちょうどオン汗は自分の母

ロヨ卸H25とともにタタlル族のも

とに停虜となっていたのである。なおサリグ汗の娘の息子には、

J

ヘロE-玄045

と、叶卸回目、H,ZEH-吋ど貯の外に四人いたというが、

日その名は侍えられていない。

以上がその大要であるが

」こに

は首時のモンゴル高原の

遊牧諸族の政治的動静を停えゐ貴重な史料がある。

まず、

ケレイト族はがんらいモンゴル系で、

トルコ詑りのモンゴ

ル語族でもあ

ったろうが、その本援はむかしはオノン河昨

であ

ったが、首時は秘史によれば西南方の

トラ河併の黒林

にあり、その西北方にいたる沼津、草原、山岳の盟かな地

域を大きく支配していたようである。

しかも西方文化の影

-140-

響の下に、十

一世紀初頭ごろからネストル波に改宗してい

たことは、

王者

マルクス、クルジ

ャクスたちの名からも容

易に察せられよう。しかも、

このマルクスなる人物は、

ンギス汗の父イエ

スゲイとほぼ同年輩であったらしいオン

汗の祖父にあたるというから、その生存年代は晩くとも、

十一世紀中葉から末葉にかけてのことであろう。とすれ

ぽ、彼は遼の道宗朝の大安議隆年同刊

一正確には大安八年五月

f

pHC定年から詩隆六年二

…沼特闘で).に、遼朝に背仮して大乱を捲き起した北阻卜闇

の王者磨古斯その人に比定することができようか。この阻

卜「況不姑、直不姑、または蘇木、速木などとも骨アさる。旬J

E

戸奴の貴種の須卜も同じ設立日であろう

』ロ

E』か

ωEErか}

}

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る嘗時のモンゴル高原における遊牧国家の来歴は、

に解明されていないが、遼初よりこの阻ト園は東の高麗園

いまだ

とともに遼園にとっての悩みの種であ

ったらしく、

梅里急、九姓達

E(これは陰山のそれをて乃満その他有力な

f

指したものであろう」

諸族をその下に糾合していた一大連合国家であったようで

ある一王閤維はこの阻卜を元代史家の担造したものと考えた

τそ

F

が、その確質な根援は何もないようである「縫釦一考」

」J

して、首時その連合国家の指導的地位に立

ったものが、

それは

レイト族であ

ったらしい。ケレイト族長磨古斯汗は遼に依

存しつづける首長、屯禿古斯汗を慶して、自らその首領の

地位に立っこ、為(大安五年五月己丑の係に。以阻て

しかし、

TヵF

卜腐古斯震諸部族長クとある

遼朝に抗したため、遼寧とタタ

lル乱軍との軍をうけて敗

れ捕えられて殺された

(遼史ぬ粛園王および叫耶律)。そのた

F

阿魯掃古停などを参看せよ」

ケレイト王園も混乱に陥

ったが、

め阻卜連合は崩れ、

その

混乱を引受けて立ったのが

さきにみえていたサリグ汗で

501

あったと想像される。彼の出身は不明だが、多分

ω2-E族

出身ではなかったろうか

(巾旬以荘内は[脱出…立…訪問比一

強力な部族であったと伴える、∞ミ一?司・

8・しかも、こ

Jor

れらは分族同志というよりも、姻族同士山であったらしい

L

1

れにしても、マルクス汗の子クルジャクス汗の妻の

父で

「ベリオはサリク汗をクルジャクス汗と同一人物とみなすが、ラシ

f

ィlドの記述による限りそれは誤解というべきだろう。同》丘一一of

F-ι・司・}多分若年のクルジ

ャクス汗を助けて、

立HlM品ご

河酔まで流入し来

った遼、

オルホン

タタ

lル連合軍と戦

った

なく、首時その連合に加盟していたらしい

タ固有のモンゴ

ル族。

にも見放されたが、

クルジャクス汗が代

って悪戟苦

闘した結果、その晩年にな

ってようやく、

ケレイト王園は

立ち直

って、高原の中央部に安居することができるように

しかもその混乱の聞には、

歳のオン汗は母とともに(恥回岬一知肘引

μ析の)、タ

タlル族

の阿津空芯N

えベリオはこれをアルチ

・)の下に停虜生活を借

F

タール汗の誤りとみる

んだと秘史は侍えるのである(回目句。

オン汗の首時、

-141一

なったものと推定される。

この王国はケレイト族を首長と仰ぐ六

の部族集圏からな

っていたが、これが軍に同じ血族から分

かれた分族であるのか、姻族関係にあるものも入

って

いた

またジ

ュルキン族のように、むしろモンゴル族出身

と畳しきもので」のジュルキンなる族名は、チンギス汗族の有力

F

なオボフの名にも見える。それとどのような具盤

的関係にあったものか不明だが、ケレイト族には、ラシィlドの記

述によると、大部古くからモン♂コル族が加婚していたらしい

から

内灯、絞っ同一一一時性一柏崎)もあ

ったようで、その王閣の性格に

かんがみても、その部族構成は大部複雑であ

ったらしい。

のか、

しかもそれらがケレイト族の支配の下に左

・右南翼に統制

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502

ケレイトの君主からそれぞれ牧地を

割嘗てられていたといい、秘史

(mm)には、王者オン汗は

可汗として自己の近衛軍なる千の侍衛

qR官JL禿魯花H質

を率いていたと侍えるが、近衛軍は、服属する部族

されていたらしく、

子軍〉

の首長、

子、、

lルたちの子弟を選抜して編成したものらし

いから、

かような質子の制度を通じて、ケレイト王圏内の

諸部族集囲を従えていたものと考えてよかろう、

ケレイト王園につぐ商

モンゴル

の大国は、その西隣のナ

イマン

(0252巴自営〉族であ

った。これについては、ラ

シィ

lドはほぼ二つの異なる停聞資料で書き綴っているよ

うにみえるが、その大要はつぎのようである。

ナイマン族の以前の君主には、

Z同門』口郎、吋帥可制ロと

Fgmσニ何冊

宮四民』帥ロ

(赫輔)という二人の兄弟、があったが、彼らが北方のキ

ルギス族を破った折、弟の

Fgm汗は長兄の

Z同品目制

汗のもと

に姿を現わさず、戦利品も差出さなかったので、雨者は分裂し、

封立した。HDgm汗にも二人の息子

宮岡町

zt(不亦魯)

ヱ克竿」

ユロ官ロ(耕一鰭ぐにとがあったが、彼らも父の若い愛妾の位同rg

(これはオルドスの停設によ)を字って父の兄弟と同じよ

F

ると大蛇の化身だという

うに仲が惑く、ついに分裂し、封立するようになった。弟の吋削-

L3「本名は吋E・切己官。吋

agとは中園語大王の意。以前からこ

z=Fの王者は吋

agと稽している。西阻卜大王園の

多大王多か

明いか一肌比一的)汗は、北方のイルティシ

ュ河流域からザイサン

.

ノ1ルあたりまでの卒地に住し、兄の切52AA白ロはアルタイ

山麓から西北モ

ンゴル山岳地帯にあって、この封立を深めたので

ある。

このナイマン(加畑一)族がウィグル族の後身か、または北

方のキルギス族の後喬か一時問題とな

ったが

(醐州耕一一ト問

喜詩記て

ルギス族と主紹えず封立抗争していたようであ

念論叢」

t

り、またウィ

グル族と同じ樹璽停承をもっていたようだか

ら(後述のラシィlてむしろウィグル族の分涯とみておきた

F

ドの言をみよ

ぃ。またラシィ

lドはいくつかの分族にわかれていたと

いうが、その分族名がここには見えない。

h-r-、

ナJ

ナj

秘史に

-142-

切ロル

EG汗の支配する部族名として、。ロm何ロH(Boz-白糸

口岡田同野鼠の意〉とあり、またベ

リオは

叶同苫HH

汗の部族を

〉ρEWC仏

(Z5・2凹

Z意味は披足〉族としてい

るが、その他

の分族の名は知られていない。この

ナイマン王園は、以上

の二つのウルスと二つ以上の部族集園に分裂樹立してい

て、チンギス汗の嘗時は、

モンゴル園家から襲撃をうけて

も、

相互に援助し合わなか

った。この王園の古い歴史は全

く不明だが、遼代においてはやはり阻卜連合瞳の有力な一

翼をなしていたらしく、その連合躍の崩壊後も依然として

」の方面にお

いて勢力を張っていたものらしい。

ラシ

ィl

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ドはとくにこの王園の君主の特殊性格とその稽暁に注意を

って、

つぎの如くいう。

HEロm回二間巾切民間出品U

同ロの意味は、

HDgm(25・ggm

リヶだノ

μ川一諮問十

Y幹一切話相殺匂る)とは信ずる、切口四位

(Emmzt

とは∞同onrmEEロの同弘

mZ円叫に従えば

EN2vo呆ロロ去四=す

なはち魔法を解するという意。HMm}]戸

O丹向上)とは偉大なという

意味である。むかし、この切民間出汗はウィグル、ナイマンその

他から一本の樹木から誕生したと信ぜられている偉大な君主であ

る。また、ナイマンの君主には、

ocE口』iHEとか即日

zqH削ロ

などという名のものが多いが、

ozrE』とは。張大なクという意

味で

(ZR・』己笹口4HJ3m巳Hgnyの同rmwFg〉

ZEHERY巾のEgg-

gr司・

ωωH〉王者、が特別の能力をもつことに由来し、また切巳ES

は命令するものという意味

(ZR・σロヨ

ZJゲ己百円巴』∞え岳

zr・

ro『wZ55巾♂の与EPEE-司・

83である。なぜなら、ナ

イマ

ンの王者はとくに妖精や人聞を支配し、妖精に乳を搾らせ、

それから酢ばい牛乳や馬乳酒をつくらせる能力をもっていたが、

臣下の諌言によっ

てそののち

一切止めてしまった。

ナイマン園王がこのような呪術的性格をもっ君主であった

」とは、

長春異人の西遊記の記事からも立詮されること

503

で、そこでは死んだナイマン園王が山の精とな

って按人を

悩ます存在とな

っていて、神間膜(肘咋一試問一位付加わいがいレが

吋軌一mm)を捧げてその霊をなぐさめたという。にも拘ら

ず、同時にこの国王たちゃ貴族たちは

』ロ司曲目見

のいうと

ころによると

(∞ミ-巾喝

-E〉大方ネストル波の信奉者であ

その園家組織も高度な行政組織をも

っていたらしく、有名な塔塔統阿停に主(元史てウィ

グル

tニ虫、

人の彼が吋ミ

g汗の王侍とな

って金印、銭穀(蹴)を掌り

ウィグル文字を使用していたとあり、また嚢加一タ停(同窓)

FHωH」

にもその租の合折見

(03四円〉がナイマン王の帳前軍を管轄

ったという。

しかも、

し、国政を統べていたとあるから、

ケレイト王と同じよう

な侍衛質子軍をも

っていたことが窺い知れるのである。な

qa aa-A

4』ム

ぉ、この王国の南部には、

成じたものとして、

回(1) ..... (1) 貯4

P 5・こ

百: Z れ1 同 t

E Eぶq・ 5 らzl日l濁..a J31j的立~I 帖因し凶乞あた

と ~!..7;;, ゥ帯主午、ノレしとスていをいう形

部族があり、その君主は

た。かつてはケレイト王園を助けてタタ

lル軍と戦

ったも

のであり、ラシィ

lドによれば、むかしはケレイト、

マンなどよりも強力で、

一時高原地帯を支配したこともあ

ったといわれる。

(025

0ロ4口てハO口問cd)

族が述べら

るべきである。それに闘するラシィ

lドの記述は、大要つ

つぎに、オングド

ぎの如くである。

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504

オンタトの人びとは他の部族とは異っているが、ただモンゴル族

には似ている。骨田時キタイの君主アルタン汗は白闘をモンゴル高

原の諸部族集固から防衛するため、モンヌコル語で

。口開口

、トル

コ語で

切E55という城塞を築いたが、その防備の義務をこの

部族の手に委ねた。韓国時このオングト族の

エミlルは

EZDW叶-

om--OEロで、彼はかねてからチンギス汗に好意をいだき、ナ

イマンのタヤン汗とチンギス汗が封立したとき、ナイマンの勧

誘を拒否してチンギス汗側に味方し、またチンギス汗がキタイ

を攻めたときは、長城の通路を数えた。このため、

チンギス汗

は彼に娘を奥えようとしたが、彼は年老いているので辞退して、

金園に人質となっ

ていた兄の子(知慨畑山側鵬)に輿えるようにと依

頼した。その問、彼は他のエミlルたちに殺されたのである。

ラシィ

lドの記述は、チンギス汗に味方したこ

の種族の

一首長〉

-ECW(元史の阿刺冗)を中心にして述べられたも

4

F

・刻吉忽里」

ので、オングド(在古、旺)族の種族的系統については何も

F

古、薙古」

述べず、比較的モンゴルに類似しているというだけである。

長城乃至陰山のモンゴル

名が、その名となったように説いている

(枕渦減給一耕一迫

この名も

OロmEJ。察するこ、この種族は遼代の陰山室奪

であるに違いない」

U

乃至は九姓逮旦などと帯されたものの後身であり、

‘-eh-

ナf

・7

その名稽の由来について、

他の種

族よりも早く中固化されて文化水準が古向かったため、首時

は多白縫担。などともいわれた。沙陀の後喬などと中国文

駄にはあるが、種族的にはモ

ンゴル系の被支配層とトルコ

語系の支配層とからな

っていたのではなかろうか。

-zc加の名はトルコ語で。班色の鳥。と解かれ、

吋巾

mx

OCH-という稿蹴は

トルコ語の

e的斤。とモ

ンゴ

ル語の

支配者(以内い帥)との混交語であり、その兄の名と停えられ

〉ル切口ρ向も同じくトルコ

語で、

の意があ

族長

。月の牡牛4

る。部族構成については、秘史に五千戸、ラシィ

lドに四

千戸とあるだけで、分族の名も不明だが、想像するに高唐

王家とな

った

-Z忠族の外に、

有名なネス

トル

数王一

族の馬氏(元史同信月合乃侍、馬組常)、越氏(元史尽H

按て

在氏

戸の趨部偽書馬公紳道碑など」

Z亙侍

(元史同日印)

の名族が停わって、るから、これらもむかしは

F

在世穎侍」

L

それぞれ高唐王家と相並ぶ族長の家系であったかもしれ

ぬ。そして、こ

の王家の首都豊州天徳軍(噌川日川端ォ)はこ

の方面におけるネス

トル涯の一大根操地であるとともに、

-144一

西アジアとモンゴル高原と中国とを結ぶ東アジアにおける

交易の一大接黙として、遼金以来築え来ったものであり、こ

こには各地からの商買が入り来って、六ヶ国語が流侍して

いたという(元選山文集お恒州)。例えば、秘史の停えるイス

F

刺史馬君神道碑

ラム商人阿三(国同窓口〉はこの王園からシベリア境の森林

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地帯の種族の聞から毛皮を求むべく赴いたのであったし、

その外にも蒙睦備録の回鵠商人の田氏{チンギス汗、オゴ

f

イ汗のとき宰相とな

一脈問端技一

)γNW巳

の停える

F;o』凶

(問

23・

吋同

zztZ印

E-匂・

86など、

いずれもここを根援とする、

いわゆるオルタlク(O江田己商人であったに違いない。こ

のような複雑な経済的文化的かつ政治的環境の下にあって

オングト種族は恐らくむかしから強力な政治的勢力を結成

することはできなかったようで、首時はただ金朝の麗膜下

において、多くの商業都市を中心に形成された小さい若干

部族園家のゆるやかな連合櫨が、このオングトの名の下に

形成されてレたとみるべきであろう

で」の貼)東トルキス

F

タンにおいて、オア

シス商業都市を経管したカル)。チンギス汗以降はそのような

ルク族の園家に似ていよう

緩やかな諸部族連合櫨が、モ

ンゴ

ル帝室の姻族としての高

唐王の機威を背景に、

〉]白色肌

一族のオングト五千戸の一

元的支配が完成されて行ったものとわたくしは考えたい。

つぎに、ラシィ

lドはタングト(唐冗プ族をあげるが、こ

F

唐士口」

・455向

れはかなり遊牧民的性格は残していたものの、ラシィlド

のいうように大抵は都市、村落に定着する民族であったか

505

ら、ここでの遊牧諸種族の列からは除外しておく。

以上、第伺グループには遊牧諸部族の外に、なお、北方

の森林民族系のものとして、キルギス

TFH5R士ロ利)とベク

fp

降怖い士ロ一忠」

リン(切or江口〉の二族を

ラシィlドはあげている。キルギ

スは古くから中国史書に現われてくる著名な種族で、

イニ(.

一セイ上流の慶大な地域を占め、人口も相首にしかもこの

河の流域で農耕、牧畜、狩猶を鶴間み、金属をも細工すろ技

術をもっていたというきわめて特殊な森林民族であ

って

唐末には南の卒原地帯に出てウィ

グル王闘を崩嬢させ、

時ながらモンゴル高原を支配したこともあ

ったが、

それ以

-145一

降はモンゴル高原における政治勢力の抗字に参加しなかっ

たもようである。

チンギス汗のころは、

osx(缶

約院が刊号持ん)と呼ばれていて、

HE]と

稿する多くの首長からなる一大部族連合園家を形成してお

り、さらに北方の森林部族、例えばアンガラ河周遊にいた

秘史では

吋,

C目白ロ

らしい昂可刺族などを隷属させていたらしい。

また

-'"

リン族については、

」れは冨岳ロロ

ともいい、

ウィ

グリ

スタンの山岳地帯に住す健脚種族だとラシィ

lドはいう。

」れはオルホン碑文の

同凶

er--や蓬代の瞳古にあたるトル

コ系種族の一つであろうが、嘗時はみるべき政治的勢力は

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506

全然もち合わせてはいなかったので、それ以上論ずる必要

もあるまい。

以上は、

チンギス汗のモンゴル部族集園によるモンゴル

高原支配の政治櫨制が出現する以前の、

ユーラシア草原地

婚の遊牧民の吠況とその政治的動向とを明らかにしたいと

いう意固の下に、ラシィ

lドの

「部族篇」を取扱

って来た

ものであった。そして、第川グループ

〆倒有のモンゴル

族。を除くの外、他の三つのグル

ープ

に含まれる諸部族の

個々

の歴史とその部族構成とを筒翠ながらも逐一調べてき

た。それをここにふりかえって要約してみると、第

ωのグ

ループ

では

ユーラシア草原地帯の西部、カスピ海北岸方

面にあ

ったキプチャク、

オグズなどの部族連盟的吐曾は、

っとも古い民族の侍承と同時にも

っとも古い祉曾鰹制を

維持するものであったらしいが、東トルキスタンの草原に

あったカルルク

族やその南方にあ

った西ウィグル族など

モンゴル高原西部からこの方面にかけて繁策した過去

のトルコ・ウィグル文化の停統をうけつぎ、自己の地域内

は.

の多くのオアシス都市を支配して、

そこに小王園の連合醸

乃至は附庸園をもっ大小の封侯を支配する遊牧封建園家を

きずき上げていた。ところで、

モンゴル高原方面に眼を

移すと、ここ

では、第同グル

ープのモンゴ

ル語族系の諸部

族は、第

ωグル

ープ

のキプチャク、オグズ族のような原始

的部族制一吐曾の段階からはすでに出ていたが、まだ遊牧園

家を形成する段階には到達しておらず、多分に種族的吐曾

の残津を残していわば部族連盟的一位曾をなしていた。しカミ

もそれらは、姓族、分族ごとに分裂、抗手して、なかには

同じ姓族が他の姓族に征服支配される場合も現われ来った

-146-

ょうである。それに劃して、

ωグル

ープ

のものは、その

地域に残存してレたトルコ・ウィ

グル的文化の停統をうけ

つぐとともに、組えずその文化の正統的後緩者たる西ウィ

グル王国や乃至は中国からもその範をと

ってそれぞれ濁自

の遊牧国家を形成していた。これらの遊牧園家群の成立の

途上におい

て、遼代の阻卜にみられたような、ケレイト王国

を中核とするモンゴル高原の諸遊牧部族国家の一大連合も

出現したようだが、結局は永績せずして瓦壊し、そののち

はむしろ有力な部族国家が他の部族集闘の姓族や分族を吸

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牧し、

一方、

オアシス都

費市

展のを

定お

着民し

すを

す武官め

的-ctこイ7支つ配たすよるうこでとあ

併呑しつつ、

によって成立をみた遊牧封建国家群が、

カルルク族や西ウ

ィグル族によってすでに東トルキスタンの地に買現されて

いた。首時の

ユーラシア大陸にみられたこ

の二つの遊牧圏

家のタイプが融合し合って、やがて

ユーラシアの遊牧園家

は、新しいタイプのモンゴル帝園の成立へと結質してくる

のである。この融合を貫現させたものが、ラシィ

lドによ

って第例グル

ープとされた

4

固有の

モンゴル族タなのであ

った。従

ってこの部族集圏こそ、質はも

っとも詳細に分析

されねばならない存在なのである。それに閲しては、また

近々畳表したく思

っている。

507

第十三

第十

第四之四

外研

索本引文

O頁

OO国

中園征服王朝の研究上

本文

二二

OO闘

四四四頁

定債

アジア史研究第四

四九八頁索引

三二頁

OO園

本文

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