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Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - Author(s) 小南, 一郎 Citation 東方學報 (1991), 63: 61-114 Issue Date 1991-03-30 URL https://doi.org/10.14989/66728 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 -

Author(s) 小南 一郎

Citation 東方學報 (1991) 63 61-114

Issue Date 1991-03-30

URL httpsdoiorg101498966728

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

王逸

「楚節章句」をめぐ

って

-

漢代章句の撃の一側面-

はじめに

六一頁

「楚節章句」に見られる二つの注樺様式-六二頁

王逸の楚新注梓~

班固らへの反感-八三頁

推南王劉安の楚辞注樺~

楚文化圏における

楚鮮俸承

九五頁

後漠時代中期に王逸にょって編まれた

「楚琴章句」は完全な形でのこる楚節の注樺としては最古のものであり宋の洪

興租

「楚節補注」や朱責の

「楚節集注」などと並んで楚節を讃むための基本的な注樺の1つとして重んじられてきた特に

「楚節章句」が各作品の前に冠している鼓は司馬遷の

「史記」屈原博とならんで楚節が生み出された時代環境や作者の経

歴を具健的に説明しておりそこに示された枠組みの中で楚節の文学を讃み解程することが長い停統とな

って来たのである

ただこの

「楚蔚章句」をめぐ

っては少なからざる疑問鮎が未解決のまま今日にまで遺されているたとえばその注樺

の内容のどこまでが王逸自身のものでありどこまでが先行する注帯から承けたものかといった編纂の具健的な手績きに

関する疑問や注帯内部にある矛盾また各作品に冠せられた鼓が本嘗に王逸のものであるのかどうかといった鮎などこれ

までい-つかの問題鮎が指摘され議論がなされてきたのである我々が使用しうる楚欝のテキストにはさまざまな版本の

王逸

「楚節章句」をめぐって

六二

継承関係があるにしてもそれを遡ればすべて

「楚節章句」に釆源しているそれゆえこの

「章句」をめぐる問題鮎の解

明は楚新研究の基礎を固めるために不可鉄でありその影響するところも大きいのであるしかしながらこれまでの議論

は多くの場合個別的な疑問鮎を取り出して論者がそれぞれに自分の推測を展開するといったものに止まっているなに

ぶんにも後漠という古い時代の事柄に属するがゆえに議論の基礎となる資料も断片的で甲論乙駁議論の是非に決着がつ

け難いまま多-の問題鮎が現在まで遺されてきたのであ

った

この小論では「楚鮮章句」にまつわる個別的な問題を取り上げて議論をするためにはまず漠代における楚節文学の停承

その中でも特に楚新注輝の俸続について考察しておく必要があると考え「楚尉章句」が形成されたその基盤についてい

ささかの分析を加えたこの章句が形成されるまでの楚筋注樺の歴史的な経過とその文化的な基盤とを知ることによって

これまで決着がつきがたかった個別的な問題鮎についてもそれを判断するための新しい視鮎が提供できると考えるのである

「楚鮮章句」に見られる二つの注揮様式

「楚軒章句」の注程の中に韻を踏んだ部分があることは古くより注意されてきたたとえば

「四庫縫目提要」集部

楚鮮

類はその最初に

「楚轡章句十七巻」を取り上げてこの書物を讃むに際して必要な基礎的知識を纏めて述べたあとその最

(I)

後に次のように言

っている

抽恩以下の各篇の注の文章の中にはしばしば隔句押韻する部分があるたとえば「哀憤始終慮煩究也哀悲太息

損肺肝也心中詰屈如連環也」のたぐいがそれであ

ってそうした例は少なくない思うに

「周易」の象侍の文健をま

ねたものであろう[こうした部分は]

一方では漠代の人々が用いた韻を考察するにも役に立つものであるしかるに

呉械

(異才老

「韻補」)以来古韻を論じてきた人々はだれもこれを讃接として用いてはいない[それゆえ]このこと

について[ここで]特に指摘しておく必要があるのである

この

「四庫提要」の言うところに少し説明を加えておけば文中に引用されているのは楚欝の九葦

抽恩篇からそこに

(2)

付けられた注の文句だけを抽き出したものである抽恩第の本文と注との関係を示せば次のようにな

っている

心欝欝之憂思今

欝欝として憂思し

(注)哀憤結締慮煩究也

哀債は結附して慮は煩究するなり

鴻詠嘆乎増傷

濁り詠嘆して傷しみを増す

(注)哀悲太息損肺肝也

哀悲し太息して肺肝を損ずるなり

恩塞産之不樺今

思いは寒産として輝けず

(荏)心中詰屈如連環也

心中は詰屈して連環の如きなり

このように「心

欝欝として憂思し」以下の三句に封する

「章句」の注の文章が本文を除いて讃むときそれぞれ也

字の前の究

環の三字で韻を踏んでいるというのである加えて

「四庫提要」はこうした押韻する注の形式は

「易」

の象侍をまねたものだと推定する象侍の中からこれと類似する例を挙げればたとえば次のような部分がそれである坤

の卦の象侍

履霜堅泳陰姶凝也

馴致其道至聖水也

履霜堅氷は陰の始めて凝るなり

其の道に馴致すれば堅淡に至るなり

ここでも四言二句のうち下の句の第三宇目也の字の前の凝

淡の二字が韻を踏んでいるたしかに象樽の句形と押韻

とには「楚鮮章句」の注の形態とよく似たところがあるただ「四庫提要」が言うように「楚箭章句」が

「易」の象侍をま

ねたものであるかどうかについてはなお確かめる必要のあるところであろうわたしは両者の間に直接の模倣や継承の関

係があ

ったと言うよりむしろ嘗時こうした形式で行なわれる注樺の停統があ

って「易」の解揮者たちも

「楚節」の注

王逸

「楚軒章句」をめtつて

六三

六四

樺者たちもともにその様式を採用したのだと考えたいさらに言えは成立の時代から言えば

「易侍」の方が古いのではあ

ろうが四字句を二句で1まとめにLtその第二句の第三宇目で韻を踏んでゆくという形式の文章構成はこの論の最後に述

べるように楚辞文垂の基本的なスタイルの一つであ

った「楚野章句」の注がこのような句形式を持つことについては単

なる外的な模倣ではなく

楚尉文垂の侍承の中にその必然性があ

ったと考えられるのである

そうしたことを論ずるよりさきに「楚野章句」の中においてこうした韻文形式の注樺がどの部分にどのよう

に現わ

れているかを分析しておく必要があろう

「楚轡章句」の注輝はその形態から見れば上述のような四字句形式を基本にして韻を踏むものとそうした形式は取

らぬものとに大別されるこの両種の注樺の形態的な相違はたとえば園

(責省曾校本

「楚琴章句」)に示したよう

に版本の版面の違いから視覚的にも感受されよう圃

一が離騒篇の一部で注が韻を踏まない部分囲二が遠遊篇の冒頭

圏- 楚蔚章句 離騒篇

圏二 楚蔚章句 遠遊篇

(圏一間二ともに大阪大草懐徳堂文庫所蔵責省曽校本)

部分で注輝が韻を踏んでいる個所の版

面である圏二の一葉が注樺の形式が

ってその長さも

一定しているのに封

して圃

一の一葉にはそうした枠は無く

自由に注が付けられているといった直

感的な第

一印象を輿えるであろう

詳しく見れば韻文からなる注樺も

さらに二種類の形態に分けることができ

るそれをtIaとIbと呼び分けて区

分をすればtIa形式はすでに九章

抽思篇に見た形態のものである九章

思美人篇から同様の例をもう

1つ奉げれば次のようにある

恩美人今

(注)言己憂思念懐王也

携沸而貯胎

(注)好立悲哀沸交横也

媒経路阻今

(注)薫有隔絶道壌崩也

言不可結而話

(注)秘密之語難侍諦也

巷寛之煩寛骨

(荏)忠謀盤粁菊盈胸也

潜滞而不沓

(注)言鮮欝結不得揚也

美人を思い

おのれ

憂思して懐王を念うを言うなり

ぬぐ

蹄を

て好胎す

好立して悲哀Lt蹄は交横たるなり

なかだち

縄たれ路は阻まれ

某に隔絶するありて道は壌崩せしなり

おく

言は結びて詰

べからず

秘密の語は停諭し難きなり

悪寒として煩究し

rltち

忠謀は盤許して菊は胸に

なり

潜潤して沓せず

言節は欝結して揚がるをえざるなり

ここでも原文の一句ごとに四言二句づつの注が付けられその注の第二句めの第三字が王横崩諦胸揚と顎

を踏んでいるのである

またその注文の内容を見てみればこの形式の注が楚辞の原文中の個々の字句について直接に訓話を付けるものではなく

原文の1句を別の表現で言い換えたものであることが知られよう言わば

1つの文学作品を解揮するために別のもう

1つ

の作品を作

ってもとの作品と封照させているのであるしかもたとえば

「言は結びて詰るべからず」という

一句の解稗に

「秘密の語は倖諭し難きなり」の句を嘗てているところにも見えるように原文の内容をいささか逸脱して別に注輝者濁

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六五

六六

日の物語り的な筋書きを設定しているように見える場合すらある次に述べるIb形式をも含めてこれら第

-類の注は我

我が注樺という言葉で想起するものと少なからず相違しているのである

付言すれば

Ia形式の注は四言二句から成るのが基本であるが時に二句の間の断絶が小さくなり「

〇〇〇〇而

也」と作られる例やさらには

「〇〇〇〇之

也」

(は韻字)と作られて八言

一句をなす場合もあるその場合にも

最後が也の字で結ばれその

一字前の字で韻を踏むことには奨わりがない

「楚節章句」の中には同様に四字句の韻文形式を用いた注揮であるがこのIa形式とは少し異なる形態のものが別に

見られるそれを

Ib形式と呼ぶ次に引くのがその例である漁父嘉の冒頭の部分

屈原既放

(注)身斥逐也

遊於江犀

屈原は既に放たれ

身は斥逐せらるるな-

江津に遊び

(注)戯水側也史云至於江潰被髪

水側に戯るなり史に云う江漢に至りて被髪すと

行吟滞畔

(注)履別辞也

顔色憶惇

(注)貯徴黒也

形容枯梅

(症)痩痩貯也

漁父兄而問之

(荏)怪屈原也

滞畔に行吟す

刑稀を履むなり

顔色は憶倖し

肝は徴黒するなり

形容

は枯枯す

やつ

廃れ痩療するなり

漁父兄てこれに問う

屈原を怪しむなり

ここに奉げた例では第二旬日の注の

「史云hellip-」とある

1句が

「史記」屈原侍からの引用であ

って恐らくは後から

(こ

こで後からというのはこうした形式の注が最初に作られた時より後という意味で必ずしも王逸以後だということではな

い)の補いだと考えられるのを除けば注の文句はみな四字句でしかも也の前の第三宇目で韻を踏んでいる

(蓬から府まで

1韻で最後の原の字から韻が換わる)この注の形式とIa形式との違いは

一句の本文に射し四字二句の注が付

られ

るのではなく本文

一句について注も

一句だけで終わ

っていることであるしかしょく見てみると漁父篇の本文白燈が四字

句でできてお力本文と注とを

1つにして責めは「屈原既放身斥逐也遊於江浮戯水側也行吟揮畔履刑蘇

也」とな

ってそのままIa形式の注と同じ形態のものになるのであるこうした特徴からIaとIbとの二つの注の形式はたが

いに密接な関係を有するものであ

ったことが知られtLかもーbの注の本文との形態的な関連からも窺われるようにこの

形式の注樺は楚節の本文と不可分の関係にあ

ったのであるすなわちこれら第

-形式の注は本文に封して外的に客観的

に付けられる注樺ではなく注白魔も楚鮮文筆の樽承に深く関わ

っていたのだと言えるであろう

IaとIbとの二つの形式の注が互いに密接な関係を持

っていたであろうことはまた遠遊篇の次のような例からも窺う

ことができる天界を遊行して王子喬に逢う段

順凱風以従道号

(注)乗風戯蕩観八直也

重商果而重患

(注)観覗朱雀之所居也

見王子而宿之今

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

みなみかぜ

ほしいまま

傾いて以

って

[南風日凱風詩日凱風日南]

風に乗り戯蕩して八区を観るなり

いこ

南巣に至りて萱たび息う

朱雀の居るところを観覗するなり

まみ

王子

に見えて

ここに宿し

六七

(荏)屯車留止遇子喬也

審萱菊之和徳

(荏)究問元精之秘要也

日道可授号

(注)言易者也

不可侍(荏

)誠難論也

其小無内号

(荏)廉兆形也

其大無根

(注)覆天地也

無届滑而魂号

(荏)乱爾精也

彼賂自然

(注)魔乗積也

萱菊孔紳号

(注)専己心也

於中夜存

(注)恒在身也

車を屯めて留止し子喬に遇うなり

萱菊の和徳なるを審らかにす

元精の秘要を究問するなり

日く

道は授くべきも

易きものを言うなり

樽うるべからず

誠に論じ難きなり

その小なること内な-

兆形する磨きなり

かぎ

その大なること娘りなし

天地を覆うなり

なんじの魂を屈滑するなく

なんじの精を乱すなり

かれに自然をもちいよ

いた

菊の積るに魔ずるなり

萱菊のはなはだ紳なるを

己の心を専にするなり

中夜において存せよ

恒に身に在らしむるなり

六八

虚以待之号

(注)執清浄也

無為之先

(注)閑情欲

(欲情)也

庶類以威令

(注)乗法陳也

此徳之門

(注)仙路程也

聞至貴而遠祖号

(注)見彼王侯而奔驚也

忽乎吾婿行

(注)周覗苗字渉四達也

虚しくして以

ってこれを待ち

清浄を執るなり

無為をこれ先とせよ

情欲を閑にするなり

もろもろ

類は以

って成り

乗法は陳ずるなり

此れぞ徳の門たり

仙路の径なりゆ

至貴を聞きて速に狙き

4HIpへ

かの王侯に見えて奔驚するなり

忽ちにして吾

まさに行かんとす

苗字を周親し四速に捗るなり

主人公が南方に遊行Lt王子喬のもとに宿

って王子喬の教えを聞いたあとさらなる遠蓬に出護することを述べた

1段で

あるそのうち「日道可受号不可得」から

「此徳之門」までが王子喬の言葉この王子喬の言葉はその前後がIa形式

で注が付けられているのに封して言葉それ白燈に封しては全て四言

一句からなり最後が也の字で結ばれるというtIb

形式で注が付けられているすなわちtIaとIbとの二形式の注は並行して用いられつつも両者に役割り分揖があ

った

であろうことが推測されるのである

Ia形式が

一般的な叙事の部分に用いられる注の様式であるのに射してtIb形式の注

のほうは神仙の聖なる数えを敷術するに相臆しいものだと考えられていたのであろう

(あるいは想像を達しくすれば遠

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六九

七〇

遊篇の基礎にあ

った宗教蛮能的な場において王子喬のお告げの言葉は特殊な構え方をされておりそのためその部分に付

けられる注も他とは異なった形態を取るのだと推測できるかも知れない)

以上に考察を加えてきた四字句で韻を踏む第-形式の注と区別して「楚轡章句」中に見えるもう

一つの形式の注すな

わち基本的に韻を踏まない形態の注の方を第Ⅰ形式と呼ぶこの第Ⅰ形式の注は厳格には四字句の形態も取らず韻も踏ま

ないのであるがしかし全-の自由形式による注樺ではな-そこにはやはり1定の形が認められる離騒篇の中から第Ⅰ形

式の注を例に奉げてその形態的な特徴を見てみょう

朝筆批之木蘭今

朝に牡の木蘭を奉り

(荏)琴取也批山名

夕携中洲之宿弄

夕べに中州の宿芥を携る

(荏)撹采也水中可居着日洲草冬生不死者楚人名之日宿弄言己且起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入

洲準采取宿弄下奉太陰服地数也動以神祇自勅議也木蘭去皮不死宿罪過冬不枯以愉議人雄困己t

己受天性終不可奨易也

第Ⅰ形式では本文二句に封して一単位の注が付けられている

(第-形式の注が本文

一句ごとに付けられているのと相違す

る)またその注文の内部はさらにいくつかの性格の異なる要素に分けることができる上に撃げた例でいえば第

1句

の撃取也批山名

(肇は取なり随は山の名)と第二句の撹采也水中可居着日洲革冬生不死者楚人名之

日宿弄

(撹は采るなり水中の居るべきものを洲という草の冬も生じて死せざるものを楚人はこれに名づけて宿芥という)とあ

るのが第

1の要素この部分は本文の字句撃耽中洲へ宿葬などに封して直接に訓話を施したものであるこの第

1の

要素だけが二句

一組みの本文のそれぞれの句に封して分けて付けられているこれ以外の要素はみな本文第二句の下に纏

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 2: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

王逸

「楚節章句」をめぐ

って

-

漢代章句の撃の一側面-

はじめに

六一頁

「楚節章句」に見られる二つの注樺様式-六二頁

王逸の楚新注梓~

班固らへの反感-八三頁

推南王劉安の楚辞注樺~

楚文化圏における

楚鮮俸承

九五頁

後漠時代中期に王逸にょって編まれた

「楚琴章句」は完全な形でのこる楚節の注樺としては最古のものであり宋の洪

興租

「楚節補注」や朱責の

「楚節集注」などと並んで楚節を讃むための基本的な注樺の1つとして重んじられてきた特に

「楚節章句」が各作品の前に冠している鼓は司馬遷の

「史記」屈原博とならんで楚節が生み出された時代環境や作者の経

歴を具健的に説明しておりそこに示された枠組みの中で楚節の文学を讃み解程することが長い停統とな

って来たのである

ただこの

「楚蔚章句」をめぐ

っては少なからざる疑問鮎が未解決のまま今日にまで遺されているたとえばその注樺

の内容のどこまでが王逸自身のものでありどこまでが先行する注帯から承けたものかといった編纂の具健的な手績きに

関する疑問や注帯内部にある矛盾また各作品に冠せられた鼓が本嘗に王逸のものであるのかどうかといった鮎などこれ

までい-つかの問題鮎が指摘され議論がなされてきたのである我々が使用しうる楚欝のテキストにはさまざまな版本の

王逸

「楚節章句」をめぐって

六二

継承関係があるにしてもそれを遡ればすべて

「楚節章句」に釆源しているそれゆえこの

「章句」をめぐる問題鮎の解

明は楚新研究の基礎を固めるために不可鉄でありその影響するところも大きいのであるしかしながらこれまでの議論

は多くの場合個別的な疑問鮎を取り出して論者がそれぞれに自分の推測を展開するといったものに止まっているなに

ぶんにも後漠という古い時代の事柄に属するがゆえに議論の基礎となる資料も断片的で甲論乙駁議論の是非に決着がつ

け難いまま多-の問題鮎が現在まで遺されてきたのであ

った

この小論では「楚鮮章句」にまつわる個別的な問題を取り上げて議論をするためにはまず漠代における楚節文学の停承

その中でも特に楚新注輝の俸続について考察しておく必要があると考え「楚尉章句」が形成されたその基盤についてい

ささかの分析を加えたこの章句が形成されるまでの楚筋注樺の歴史的な経過とその文化的な基盤とを知ることによって

これまで決着がつきがたかった個別的な問題鮎についてもそれを判断するための新しい視鮎が提供できると考えるのである

「楚鮮章句」に見られる二つの注揮様式

「楚軒章句」の注程の中に韻を踏んだ部分があることは古くより注意されてきたたとえば

「四庫縫目提要」集部

楚鮮

類はその最初に

「楚轡章句十七巻」を取り上げてこの書物を讃むに際して必要な基礎的知識を纏めて述べたあとその最

(I)

後に次のように言

っている

抽恩以下の各篇の注の文章の中にはしばしば隔句押韻する部分があるたとえば「哀憤始終慮煩究也哀悲太息

損肺肝也心中詰屈如連環也」のたぐいがそれであ

ってそうした例は少なくない思うに

「周易」の象侍の文健をま

ねたものであろう[こうした部分は]

一方では漠代の人々が用いた韻を考察するにも役に立つものであるしかるに

呉械

(異才老

「韻補」)以来古韻を論じてきた人々はだれもこれを讃接として用いてはいない[それゆえ]このこと

について[ここで]特に指摘しておく必要があるのである

この

「四庫提要」の言うところに少し説明を加えておけば文中に引用されているのは楚欝の九葦

抽恩篇からそこに

(2)

付けられた注の文句だけを抽き出したものである抽恩第の本文と注との関係を示せば次のようにな

っている

心欝欝之憂思今

欝欝として憂思し

(注)哀憤結締慮煩究也

哀債は結附して慮は煩究するなり

鴻詠嘆乎増傷

濁り詠嘆して傷しみを増す

(注)哀悲太息損肺肝也

哀悲し太息して肺肝を損ずるなり

恩塞産之不樺今

思いは寒産として輝けず

(荏)心中詰屈如連環也

心中は詰屈して連環の如きなり

このように「心

欝欝として憂思し」以下の三句に封する

「章句」の注の文章が本文を除いて讃むときそれぞれ也

字の前の究

環の三字で韻を踏んでいるというのである加えて

「四庫提要」はこうした押韻する注の形式は

「易」

の象侍をまねたものだと推定する象侍の中からこれと類似する例を挙げればたとえば次のような部分がそれである坤

の卦の象侍

履霜堅泳陰姶凝也

馴致其道至聖水也

履霜堅氷は陰の始めて凝るなり

其の道に馴致すれば堅淡に至るなり

ここでも四言二句のうち下の句の第三宇目也の字の前の凝

淡の二字が韻を踏んでいるたしかに象樽の句形と押韻

とには「楚鮮章句」の注の形態とよく似たところがあるただ「四庫提要」が言うように「楚箭章句」が

「易」の象侍をま

ねたものであるかどうかについてはなお確かめる必要のあるところであろうわたしは両者の間に直接の模倣や継承の関

係があ

ったと言うよりむしろ嘗時こうした形式で行なわれる注樺の停統があ

って「易」の解揮者たちも

「楚節」の注

王逸

「楚軒章句」をめtつて

六三

六四

樺者たちもともにその様式を採用したのだと考えたいさらに言えは成立の時代から言えば

「易侍」の方が古いのではあ

ろうが四字句を二句で1まとめにLtその第二句の第三宇目で韻を踏んでゆくという形式の文章構成はこの論の最後に述

べるように楚辞文垂の基本的なスタイルの一つであ

った「楚野章句」の注がこのような句形式を持つことについては単

なる外的な模倣ではなく

楚尉文垂の侍承の中にその必然性があ

ったと考えられるのである

そうしたことを論ずるよりさきに「楚野章句」の中においてこうした韻文形式の注樺がどの部分にどのよう

に現わ

れているかを分析しておく必要があろう

「楚轡章句」の注輝はその形態から見れば上述のような四字句形式を基本にして韻を踏むものとそうした形式は取

らぬものとに大別されるこの両種の注樺の形態的な相違はたとえば園

(責省曾校本

「楚琴章句」)に示したよう

に版本の版面の違いから視覚的にも感受されよう圃

一が離騒篇の一部で注が韻を踏まない部分囲二が遠遊篇の冒頭

圏- 楚蔚章句 離騒篇

圏二 楚蔚章句 遠遊篇

(圏一間二ともに大阪大草懐徳堂文庫所蔵責省曽校本)

部分で注輝が韻を踏んでいる個所の版

面である圏二の一葉が注樺の形式が

ってその長さも

一定しているのに封

して圃

一の一葉にはそうした枠は無く

自由に注が付けられているといった直

感的な第

一印象を輿えるであろう

詳しく見れば韻文からなる注樺も

さらに二種類の形態に分けることができ

るそれをtIaとIbと呼び分けて区

分をすればtIa形式はすでに九章

抽思篇に見た形態のものである九章

思美人篇から同様の例をもう

1つ奉げれば次のようにある

恩美人今

(注)言己憂思念懐王也

携沸而貯胎

(注)好立悲哀沸交横也

媒経路阻今

(注)薫有隔絶道壌崩也

言不可結而話

(注)秘密之語難侍諦也

巷寛之煩寛骨

(荏)忠謀盤粁菊盈胸也

潜滞而不沓

(注)言鮮欝結不得揚也

美人を思い

おのれ

憂思して懐王を念うを言うなり

ぬぐ

蹄を

て好胎す

好立して悲哀Lt蹄は交横たるなり

なかだち

縄たれ路は阻まれ

某に隔絶するありて道は壌崩せしなり

おく

言は結びて詰

べからず

秘密の語は停諭し難きなり

悪寒として煩究し

rltち

忠謀は盤許して菊は胸に

なり

潜潤して沓せず

言節は欝結して揚がるをえざるなり

ここでも原文の一句ごとに四言二句づつの注が付けられその注の第二句めの第三字が王横崩諦胸揚と顎

を踏んでいるのである

またその注文の内容を見てみればこの形式の注が楚辞の原文中の個々の字句について直接に訓話を付けるものではなく

原文の1句を別の表現で言い換えたものであることが知られよう言わば

1つの文学作品を解揮するために別のもう

1つ

の作品を作

ってもとの作品と封照させているのであるしかもたとえば

「言は結びて詰るべからず」という

一句の解稗に

「秘密の語は倖諭し難きなり」の句を嘗てているところにも見えるように原文の内容をいささか逸脱して別に注輝者濁

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六五

六六

日の物語り的な筋書きを設定しているように見える場合すらある次に述べるIb形式をも含めてこれら第

-類の注は我

我が注樺という言葉で想起するものと少なからず相違しているのである

付言すれば

Ia形式の注は四言二句から成るのが基本であるが時に二句の間の断絶が小さくなり「

〇〇〇〇而

也」と作られる例やさらには

「〇〇〇〇之

也」

(は韻字)と作られて八言

一句をなす場合もあるその場合にも

最後が也の字で結ばれその

一字前の字で韻を踏むことには奨わりがない

「楚節章句」の中には同様に四字句の韻文形式を用いた注揮であるがこのIa形式とは少し異なる形態のものが別に

見られるそれを

Ib形式と呼ぶ次に引くのがその例である漁父嘉の冒頭の部分

屈原既放

(注)身斥逐也

遊於江犀

屈原は既に放たれ

身は斥逐せらるるな-

江津に遊び

(注)戯水側也史云至於江潰被髪

水側に戯るなり史に云う江漢に至りて被髪すと

行吟滞畔

(注)履別辞也

顔色憶惇

(注)貯徴黒也

形容枯梅

(症)痩痩貯也

漁父兄而問之

(荏)怪屈原也

滞畔に行吟す

刑稀を履むなり

顔色は憶倖し

肝は徴黒するなり

形容

は枯枯す

やつ

廃れ痩療するなり

漁父兄てこれに問う

屈原を怪しむなり

ここに奉げた例では第二旬日の注の

「史云hellip-」とある

1句が

「史記」屈原侍からの引用であ

って恐らくは後から

(こ

こで後からというのはこうした形式の注が最初に作られた時より後という意味で必ずしも王逸以後だということではな

い)の補いだと考えられるのを除けば注の文句はみな四字句でしかも也の前の第三宇目で韻を踏んでいる

(蓬から府まで

1韻で最後の原の字から韻が換わる)この注の形式とIa形式との違いは

一句の本文に射し四字二句の注が付

られ

るのではなく本文

一句について注も

一句だけで終わ

っていることであるしかしょく見てみると漁父篇の本文白燈が四字

句でできてお力本文と注とを

1つにして責めは「屈原既放身斥逐也遊於江浮戯水側也行吟揮畔履刑蘇

也」とな

ってそのままIa形式の注と同じ形態のものになるのであるこうした特徴からIaとIbとの二つの注の形式はたが

いに密接な関係を有するものであ

ったことが知られtLかもーbの注の本文との形態的な関連からも窺われるようにこの

形式の注樺は楚節の本文と不可分の関係にあ

ったのであるすなわちこれら第

-形式の注は本文に封して外的に客観的

に付けられる注樺ではなく注白魔も楚鮮文筆の樽承に深く関わ

っていたのだと言えるであろう

IaとIbとの二つの形式の注が互いに密接な関係を持

っていたであろうことはまた遠遊篇の次のような例からも窺う

ことができる天界を遊行して王子喬に逢う段

順凱風以従道号

(注)乗風戯蕩観八直也

重商果而重患

(注)観覗朱雀之所居也

見王子而宿之今

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

みなみかぜ

ほしいまま

傾いて以

って

[南風日凱風詩日凱風日南]

風に乗り戯蕩して八区を観るなり

いこ

南巣に至りて萱たび息う

朱雀の居るところを観覗するなり

まみ

王子

に見えて

ここに宿し

六七

(荏)屯車留止遇子喬也

審萱菊之和徳

(荏)究問元精之秘要也

日道可授号

(注)言易者也

不可侍(荏

)誠難論也

其小無内号

(荏)廉兆形也

其大無根

(注)覆天地也

無届滑而魂号

(荏)乱爾精也

彼賂自然

(注)魔乗積也

萱菊孔紳号

(注)専己心也

於中夜存

(注)恒在身也

車を屯めて留止し子喬に遇うなり

萱菊の和徳なるを審らかにす

元精の秘要を究問するなり

日く

道は授くべきも

易きものを言うなり

樽うるべからず

誠に論じ難きなり

その小なること内な-

兆形する磨きなり

かぎ

その大なること娘りなし

天地を覆うなり

なんじの魂を屈滑するなく

なんじの精を乱すなり

かれに自然をもちいよ

いた

菊の積るに魔ずるなり

萱菊のはなはだ紳なるを

己の心を専にするなり

中夜において存せよ

恒に身に在らしむるなり

六八

虚以待之号

(注)執清浄也

無為之先

(注)閑情欲

(欲情)也

庶類以威令

(注)乗法陳也

此徳之門

(注)仙路程也

聞至貴而遠祖号

(注)見彼王侯而奔驚也

忽乎吾婿行

(注)周覗苗字渉四達也

虚しくして以

ってこれを待ち

清浄を執るなり

無為をこれ先とせよ

情欲を閑にするなり

もろもろ

類は以

って成り

乗法は陳ずるなり

此れぞ徳の門たり

仙路の径なりゆ

至貴を聞きて速に狙き

4HIpへ

かの王侯に見えて奔驚するなり

忽ちにして吾

まさに行かんとす

苗字を周親し四速に捗るなり

主人公が南方に遊行Lt王子喬のもとに宿

って王子喬の教えを聞いたあとさらなる遠蓬に出護することを述べた

1段で

あるそのうち「日道可受号不可得」から

「此徳之門」までが王子喬の言葉この王子喬の言葉はその前後がIa形式

で注が付けられているのに封して言葉それ白燈に封しては全て四言

一句からなり最後が也の字で結ばれるというtIb

形式で注が付けられているすなわちtIaとIbとの二形式の注は並行して用いられつつも両者に役割り分揖があ

った

であろうことが推測されるのである

Ia形式が

一般的な叙事の部分に用いられる注の様式であるのに射してtIb形式の注

のほうは神仙の聖なる数えを敷術するに相臆しいものだと考えられていたのであろう

(あるいは想像を達しくすれば遠

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六九

七〇

遊篇の基礎にあ

った宗教蛮能的な場において王子喬のお告げの言葉は特殊な構え方をされておりそのためその部分に付

けられる注も他とは異なった形態を取るのだと推測できるかも知れない)

以上に考察を加えてきた四字句で韻を踏む第-形式の注と区別して「楚轡章句」中に見えるもう

一つの形式の注すな

わち基本的に韻を踏まない形態の注の方を第Ⅰ形式と呼ぶこの第Ⅰ形式の注は厳格には四字句の形態も取らず韻も踏ま

ないのであるがしかし全-の自由形式による注樺ではな-そこにはやはり1定の形が認められる離騒篇の中から第Ⅰ形

式の注を例に奉げてその形態的な特徴を見てみょう

朝筆批之木蘭今

朝に牡の木蘭を奉り

(荏)琴取也批山名

夕携中洲之宿弄

夕べに中州の宿芥を携る

(荏)撹采也水中可居着日洲草冬生不死者楚人名之日宿弄言己且起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入

洲準采取宿弄下奉太陰服地数也動以神祇自勅議也木蘭去皮不死宿罪過冬不枯以愉議人雄困己t

己受天性終不可奨易也

第Ⅰ形式では本文二句に封して一単位の注が付けられている

(第-形式の注が本文

一句ごとに付けられているのと相違す

る)またその注文の内部はさらにいくつかの性格の異なる要素に分けることができる上に撃げた例でいえば第

1句

の撃取也批山名

(肇は取なり随は山の名)と第二句の撹采也水中可居着日洲革冬生不死者楚人名之

日宿弄

(撹は采るなり水中の居るべきものを洲という草の冬も生じて死せざるものを楚人はこれに名づけて宿芥という)とあ

るのが第

1の要素この部分は本文の字句撃耽中洲へ宿葬などに封して直接に訓話を施したものであるこの第

1の

要素だけが二句

一組みの本文のそれぞれの句に封して分けて付けられているこれ以外の要素はみな本文第二句の下に纏

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 3: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

六二

継承関係があるにしてもそれを遡ればすべて

「楚節章句」に釆源しているそれゆえこの

「章句」をめぐる問題鮎の解

明は楚新研究の基礎を固めるために不可鉄でありその影響するところも大きいのであるしかしながらこれまでの議論

は多くの場合個別的な疑問鮎を取り出して論者がそれぞれに自分の推測を展開するといったものに止まっているなに

ぶんにも後漠という古い時代の事柄に属するがゆえに議論の基礎となる資料も断片的で甲論乙駁議論の是非に決着がつ

け難いまま多-の問題鮎が現在まで遺されてきたのであ

った

この小論では「楚鮮章句」にまつわる個別的な問題を取り上げて議論をするためにはまず漠代における楚節文学の停承

その中でも特に楚新注輝の俸続について考察しておく必要があると考え「楚尉章句」が形成されたその基盤についてい

ささかの分析を加えたこの章句が形成されるまでの楚筋注樺の歴史的な経過とその文化的な基盤とを知ることによって

これまで決着がつきがたかった個別的な問題鮎についてもそれを判断するための新しい視鮎が提供できると考えるのである

「楚鮮章句」に見られる二つの注揮様式

「楚軒章句」の注程の中に韻を踏んだ部分があることは古くより注意されてきたたとえば

「四庫縫目提要」集部

楚鮮

類はその最初に

「楚轡章句十七巻」を取り上げてこの書物を讃むに際して必要な基礎的知識を纏めて述べたあとその最

(I)

後に次のように言

っている

抽恩以下の各篇の注の文章の中にはしばしば隔句押韻する部分があるたとえば「哀憤始終慮煩究也哀悲太息

損肺肝也心中詰屈如連環也」のたぐいがそれであ

ってそうした例は少なくない思うに

「周易」の象侍の文健をま

ねたものであろう[こうした部分は]

一方では漠代の人々が用いた韻を考察するにも役に立つものであるしかるに

呉械

(異才老

「韻補」)以来古韻を論じてきた人々はだれもこれを讃接として用いてはいない[それゆえ]このこと

について[ここで]特に指摘しておく必要があるのである

この

「四庫提要」の言うところに少し説明を加えておけば文中に引用されているのは楚欝の九葦

抽恩篇からそこに

(2)

付けられた注の文句だけを抽き出したものである抽恩第の本文と注との関係を示せば次のようにな

っている

心欝欝之憂思今

欝欝として憂思し

(注)哀憤結締慮煩究也

哀債は結附して慮は煩究するなり

鴻詠嘆乎増傷

濁り詠嘆して傷しみを増す

(注)哀悲太息損肺肝也

哀悲し太息して肺肝を損ずるなり

恩塞産之不樺今

思いは寒産として輝けず

(荏)心中詰屈如連環也

心中は詰屈して連環の如きなり

このように「心

欝欝として憂思し」以下の三句に封する

「章句」の注の文章が本文を除いて讃むときそれぞれ也

字の前の究

環の三字で韻を踏んでいるというのである加えて

「四庫提要」はこうした押韻する注の形式は

「易」

の象侍をまねたものだと推定する象侍の中からこれと類似する例を挙げればたとえば次のような部分がそれである坤

の卦の象侍

履霜堅泳陰姶凝也

馴致其道至聖水也

履霜堅氷は陰の始めて凝るなり

其の道に馴致すれば堅淡に至るなり

ここでも四言二句のうち下の句の第三宇目也の字の前の凝

淡の二字が韻を踏んでいるたしかに象樽の句形と押韻

とには「楚鮮章句」の注の形態とよく似たところがあるただ「四庫提要」が言うように「楚箭章句」が

「易」の象侍をま

ねたものであるかどうかについてはなお確かめる必要のあるところであろうわたしは両者の間に直接の模倣や継承の関

係があ

ったと言うよりむしろ嘗時こうした形式で行なわれる注樺の停統があ

って「易」の解揮者たちも

「楚節」の注

王逸

「楚軒章句」をめtつて

六三

六四

樺者たちもともにその様式を採用したのだと考えたいさらに言えは成立の時代から言えば

「易侍」の方が古いのではあ

ろうが四字句を二句で1まとめにLtその第二句の第三宇目で韻を踏んでゆくという形式の文章構成はこの論の最後に述

べるように楚辞文垂の基本的なスタイルの一つであ

った「楚野章句」の注がこのような句形式を持つことについては単

なる外的な模倣ではなく

楚尉文垂の侍承の中にその必然性があ

ったと考えられるのである

そうしたことを論ずるよりさきに「楚野章句」の中においてこうした韻文形式の注樺がどの部分にどのよう

に現わ

れているかを分析しておく必要があろう

「楚轡章句」の注輝はその形態から見れば上述のような四字句形式を基本にして韻を踏むものとそうした形式は取

らぬものとに大別されるこの両種の注樺の形態的な相違はたとえば園

(責省曾校本

「楚琴章句」)に示したよう

に版本の版面の違いから視覚的にも感受されよう圃

一が離騒篇の一部で注が韻を踏まない部分囲二が遠遊篇の冒頭

圏- 楚蔚章句 離騒篇

圏二 楚蔚章句 遠遊篇

(圏一間二ともに大阪大草懐徳堂文庫所蔵責省曽校本)

部分で注輝が韻を踏んでいる個所の版

面である圏二の一葉が注樺の形式が

ってその長さも

一定しているのに封

して圃

一の一葉にはそうした枠は無く

自由に注が付けられているといった直

感的な第

一印象を輿えるであろう

詳しく見れば韻文からなる注樺も

さらに二種類の形態に分けることができ

るそれをtIaとIbと呼び分けて区

分をすればtIa形式はすでに九章

抽思篇に見た形態のものである九章

思美人篇から同様の例をもう

1つ奉げれば次のようにある

恩美人今

(注)言己憂思念懐王也

携沸而貯胎

(注)好立悲哀沸交横也

媒経路阻今

(注)薫有隔絶道壌崩也

言不可結而話

(注)秘密之語難侍諦也

巷寛之煩寛骨

(荏)忠謀盤粁菊盈胸也

潜滞而不沓

(注)言鮮欝結不得揚也

美人を思い

おのれ

憂思して懐王を念うを言うなり

ぬぐ

蹄を

て好胎す

好立して悲哀Lt蹄は交横たるなり

なかだち

縄たれ路は阻まれ

某に隔絶するありて道は壌崩せしなり

おく

言は結びて詰

べからず

秘密の語は停諭し難きなり

悪寒として煩究し

rltち

忠謀は盤許して菊は胸に

なり

潜潤して沓せず

言節は欝結して揚がるをえざるなり

ここでも原文の一句ごとに四言二句づつの注が付けられその注の第二句めの第三字が王横崩諦胸揚と顎

を踏んでいるのである

またその注文の内容を見てみればこの形式の注が楚辞の原文中の個々の字句について直接に訓話を付けるものではなく

原文の1句を別の表現で言い換えたものであることが知られよう言わば

1つの文学作品を解揮するために別のもう

1つ

の作品を作

ってもとの作品と封照させているのであるしかもたとえば

「言は結びて詰るべからず」という

一句の解稗に

「秘密の語は倖諭し難きなり」の句を嘗てているところにも見えるように原文の内容をいささか逸脱して別に注輝者濁

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六五

六六

日の物語り的な筋書きを設定しているように見える場合すらある次に述べるIb形式をも含めてこれら第

-類の注は我

我が注樺という言葉で想起するものと少なからず相違しているのである

付言すれば

Ia形式の注は四言二句から成るのが基本であるが時に二句の間の断絶が小さくなり「

〇〇〇〇而

也」と作られる例やさらには

「〇〇〇〇之

也」

(は韻字)と作られて八言

一句をなす場合もあるその場合にも

最後が也の字で結ばれその

一字前の字で韻を踏むことには奨わりがない

「楚節章句」の中には同様に四字句の韻文形式を用いた注揮であるがこのIa形式とは少し異なる形態のものが別に

見られるそれを

Ib形式と呼ぶ次に引くのがその例である漁父嘉の冒頭の部分

屈原既放

(注)身斥逐也

遊於江犀

屈原は既に放たれ

身は斥逐せらるるな-

江津に遊び

(注)戯水側也史云至於江潰被髪

水側に戯るなり史に云う江漢に至りて被髪すと

行吟滞畔

(注)履別辞也

顔色憶惇

(注)貯徴黒也

形容枯梅

(症)痩痩貯也

漁父兄而問之

(荏)怪屈原也

滞畔に行吟す

刑稀を履むなり

顔色は憶倖し

肝は徴黒するなり

形容

は枯枯す

やつ

廃れ痩療するなり

漁父兄てこれに問う

屈原を怪しむなり

ここに奉げた例では第二旬日の注の

「史云hellip-」とある

1句が

「史記」屈原侍からの引用であ

って恐らくは後から

(こ

こで後からというのはこうした形式の注が最初に作られた時より後という意味で必ずしも王逸以後だということではな

い)の補いだと考えられるのを除けば注の文句はみな四字句でしかも也の前の第三宇目で韻を踏んでいる

(蓬から府まで

1韻で最後の原の字から韻が換わる)この注の形式とIa形式との違いは

一句の本文に射し四字二句の注が付

られ

るのではなく本文

一句について注も

一句だけで終わ

っていることであるしかしょく見てみると漁父篇の本文白燈が四字

句でできてお力本文と注とを

1つにして責めは「屈原既放身斥逐也遊於江浮戯水側也行吟揮畔履刑蘇

也」とな

ってそのままIa形式の注と同じ形態のものになるのであるこうした特徴からIaとIbとの二つの注の形式はたが

いに密接な関係を有するものであ

ったことが知られtLかもーbの注の本文との形態的な関連からも窺われるようにこの

形式の注樺は楚節の本文と不可分の関係にあ

ったのであるすなわちこれら第

-形式の注は本文に封して外的に客観的

に付けられる注樺ではなく注白魔も楚鮮文筆の樽承に深く関わ

っていたのだと言えるであろう

IaとIbとの二つの形式の注が互いに密接な関係を持

っていたであろうことはまた遠遊篇の次のような例からも窺う

ことができる天界を遊行して王子喬に逢う段

順凱風以従道号

(注)乗風戯蕩観八直也

重商果而重患

(注)観覗朱雀之所居也

見王子而宿之今

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

みなみかぜ

ほしいまま

傾いて以

って

[南風日凱風詩日凱風日南]

風に乗り戯蕩して八区を観るなり

いこ

南巣に至りて萱たび息う

朱雀の居るところを観覗するなり

まみ

王子

に見えて

ここに宿し

六七

(荏)屯車留止遇子喬也

審萱菊之和徳

(荏)究問元精之秘要也

日道可授号

(注)言易者也

不可侍(荏

)誠難論也

其小無内号

(荏)廉兆形也

其大無根

(注)覆天地也

無届滑而魂号

(荏)乱爾精也

彼賂自然

(注)魔乗積也

萱菊孔紳号

(注)専己心也

於中夜存

(注)恒在身也

車を屯めて留止し子喬に遇うなり

萱菊の和徳なるを審らかにす

元精の秘要を究問するなり

日く

道は授くべきも

易きものを言うなり

樽うるべからず

誠に論じ難きなり

その小なること内な-

兆形する磨きなり

かぎ

その大なること娘りなし

天地を覆うなり

なんじの魂を屈滑するなく

なんじの精を乱すなり

かれに自然をもちいよ

いた

菊の積るに魔ずるなり

萱菊のはなはだ紳なるを

己の心を専にするなり

中夜において存せよ

恒に身に在らしむるなり

六八

虚以待之号

(注)執清浄也

無為之先

(注)閑情欲

(欲情)也

庶類以威令

(注)乗法陳也

此徳之門

(注)仙路程也

聞至貴而遠祖号

(注)見彼王侯而奔驚也

忽乎吾婿行

(注)周覗苗字渉四達也

虚しくして以

ってこれを待ち

清浄を執るなり

無為をこれ先とせよ

情欲を閑にするなり

もろもろ

類は以

って成り

乗法は陳ずるなり

此れぞ徳の門たり

仙路の径なりゆ

至貴を聞きて速に狙き

4HIpへ

かの王侯に見えて奔驚するなり

忽ちにして吾

まさに行かんとす

苗字を周親し四速に捗るなり

主人公が南方に遊行Lt王子喬のもとに宿

って王子喬の教えを聞いたあとさらなる遠蓬に出護することを述べた

1段で

あるそのうち「日道可受号不可得」から

「此徳之門」までが王子喬の言葉この王子喬の言葉はその前後がIa形式

で注が付けられているのに封して言葉それ白燈に封しては全て四言

一句からなり最後が也の字で結ばれるというtIb

形式で注が付けられているすなわちtIaとIbとの二形式の注は並行して用いられつつも両者に役割り分揖があ

った

であろうことが推測されるのである

Ia形式が

一般的な叙事の部分に用いられる注の様式であるのに射してtIb形式の注

のほうは神仙の聖なる数えを敷術するに相臆しいものだと考えられていたのであろう

(あるいは想像を達しくすれば遠

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六九

七〇

遊篇の基礎にあ

った宗教蛮能的な場において王子喬のお告げの言葉は特殊な構え方をされておりそのためその部分に付

けられる注も他とは異なった形態を取るのだと推測できるかも知れない)

以上に考察を加えてきた四字句で韻を踏む第-形式の注と区別して「楚轡章句」中に見えるもう

一つの形式の注すな

わち基本的に韻を踏まない形態の注の方を第Ⅰ形式と呼ぶこの第Ⅰ形式の注は厳格には四字句の形態も取らず韻も踏ま

ないのであるがしかし全-の自由形式による注樺ではな-そこにはやはり1定の形が認められる離騒篇の中から第Ⅰ形

式の注を例に奉げてその形態的な特徴を見てみょう

朝筆批之木蘭今

朝に牡の木蘭を奉り

(荏)琴取也批山名

夕携中洲之宿弄

夕べに中州の宿芥を携る

(荏)撹采也水中可居着日洲草冬生不死者楚人名之日宿弄言己且起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入

洲準采取宿弄下奉太陰服地数也動以神祇自勅議也木蘭去皮不死宿罪過冬不枯以愉議人雄困己t

己受天性終不可奨易也

第Ⅰ形式では本文二句に封して一単位の注が付けられている

(第-形式の注が本文

一句ごとに付けられているのと相違す

る)またその注文の内部はさらにいくつかの性格の異なる要素に分けることができる上に撃げた例でいえば第

1句

の撃取也批山名

(肇は取なり随は山の名)と第二句の撹采也水中可居着日洲革冬生不死者楚人名之

日宿弄

(撹は采るなり水中の居るべきものを洲という草の冬も生じて死せざるものを楚人はこれに名づけて宿芥という)とあ

るのが第

1の要素この部分は本文の字句撃耽中洲へ宿葬などに封して直接に訓話を施したものであるこの第

1の

要素だけが二句

一組みの本文のそれぞれの句に封して分けて付けられているこれ以外の要素はみな本文第二句の下に纏

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 4: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

について[ここで]特に指摘しておく必要があるのである

この

「四庫提要」の言うところに少し説明を加えておけば文中に引用されているのは楚欝の九葦

抽恩篇からそこに

(2)

付けられた注の文句だけを抽き出したものである抽恩第の本文と注との関係を示せば次のようにな

っている

心欝欝之憂思今

欝欝として憂思し

(注)哀憤結締慮煩究也

哀債は結附して慮は煩究するなり

鴻詠嘆乎増傷

濁り詠嘆して傷しみを増す

(注)哀悲太息損肺肝也

哀悲し太息して肺肝を損ずるなり

恩塞産之不樺今

思いは寒産として輝けず

(荏)心中詰屈如連環也

心中は詰屈して連環の如きなり

このように「心

欝欝として憂思し」以下の三句に封する

「章句」の注の文章が本文を除いて讃むときそれぞれ也

字の前の究

環の三字で韻を踏んでいるというのである加えて

「四庫提要」はこうした押韻する注の形式は

「易」

の象侍をまねたものだと推定する象侍の中からこれと類似する例を挙げればたとえば次のような部分がそれである坤

の卦の象侍

履霜堅泳陰姶凝也

馴致其道至聖水也

履霜堅氷は陰の始めて凝るなり

其の道に馴致すれば堅淡に至るなり

ここでも四言二句のうち下の句の第三宇目也の字の前の凝

淡の二字が韻を踏んでいるたしかに象樽の句形と押韻

とには「楚鮮章句」の注の形態とよく似たところがあるただ「四庫提要」が言うように「楚箭章句」が

「易」の象侍をま

ねたものであるかどうかについてはなお確かめる必要のあるところであろうわたしは両者の間に直接の模倣や継承の関

係があ

ったと言うよりむしろ嘗時こうした形式で行なわれる注樺の停統があ

って「易」の解揮者たちも

「楚節」の注

王逸

「楚軒章句」をめtつて

六三

六四

樺者たちもともにその様式を採用したのだと考えたいさらに言えは成立の時代から言えば

「易侍」の方が古いのではあ

ろうが四字句を二句で1まとめにLtその第二句の第三宇目で韻を踏んでゆくという形式の文章構成はこの論の最後に述

べるように楚辞文垂の基本的なスタイルの一つであ

った「楚野章句」の注がこのような句形式を持つことについては単

なる外的な模倣ではなく

楚尉文垂の侍承の中にその必然性があ

ったと考えられるのである

そうしたことを論ずるよりさきに「楚野章句」の中においてこうした韻文形式の注樺がどの部分にどのよう

に現わ

れているかを分析しておく必要があろう

「楚轡章句」の注輝はその形態から見れば上述のような四字句形式を基本にして韻を踏むものとそうした形式は取

らぬものとに大別されるこの両種の注樺の形態的な相違はたとえば園

(責省曾校本

「楚琴章句」)に示したよう

に版本の版面の違いから視覚的にも感受されよう圃

一が離騒篇の一部で注が韻を踏まない部分囲二が遠遊篇の冒頭

圏- 楚蔚章句 離騒篇

圏二 楚蔚章句 遠遊篇

(圏一間二ともに大阪大草懐徳堂文庫所蔵責省曽校本)

部分で注輝が韻を踏んでいる個所の版

面である圏二の一葉が注樺の形式が

ってその長さも

一定しているのに封

して圃

一の一葉にはそうした枠は無く

自由に注が付けられているといった直

感的な第

一印象を輿えるであろう

詳しく見れば韻文からなる注樺も

さらに二種類の形態に分けることができ

るそれをtIaとIbと呼び分けて区

分をすればtIa形式はすでに九章

抽思篇に見た形態のものである九章

思美人篇から同様の例をもう

1つ奉げれば次のようにある

恩美人今

(注)言己憂思念懐王也

携沸而貯胎

(注)好立悲哀沸交横也

媒経路阻今

(注)薫有隔絶道壌崩也

言不可結而話

(注)秘密之語難侍諦也

巷寛之煩寛骨

(荏)忠謀盤粁菊盈胸也

潜滞而不沓

(注)言鮮欝結不得揚也

美人を思い

おのれ

憂思して懐王を念うを言うなり

ぬぐ

蹄を

て好胎す

好立して悲哀Lt蹄は交横たるなり

なかだち

縄たれ路は阻まれ

某に隔絶するありて道は壌崩せしなり

おく

言は結びて詰

べからず

秘密の語は停諭し難きなり

悪寒として煩究し

rltち

忠謀は盤許して菊は胸に

なり

潜潤して沓せず

言節は欝結して揚がるをえざるなり

ここでも原文の一句ごとに四言二句づつの注が付けられその注の第二句めの第三字が王横崩諦胸揚と顎

を踏んでいるのである

またその注文の内容を見てみればこの形式の注が楚辞の原文中の個々の字句について直接に訓話を付けるものではなく

原文の1句を別の表現で言い換えたものであることが知られよう言わば

1つの文学作品を解揮するために別のもう

1つ

の作品を作

ってもとの作品と封照させているのであるしかもたとえば

「言は結びて詰るべからず」という

一句の解稗に

「秘密の語は倖諭し難きなり」の句を嘗てているところにも見えるように原文の内容をいささか逸脱して別に注輝者濁

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六五

六六

日の物語り的な筋書きを設定しているように見える場合すらある次に述べるIb形式をも含めてこれら第

-類の注は我

我が注樺という言葉で想起するものと少なからず相違しているのである

付言すれば

Ia形式の注は四言二句から成るのが基本であるが時に二句の間の断絶が小さくなり「

〇〇〇〇而

也」と作られる例やさらには

「〇〇〇〇之

也」

(は韻字)と作られて八言

一句をなす場合もあるその場合にも

最後が也の字で結ばれその

一字前の字で韻を踏むことには奨わりがない

「楚節章句」の中には同様に四字句の韻文形式を用いた注揮であるがこのIa形式とは少し異なる形態のものが別に

見られるそれを

Ib形式と呼ぶ次に引くのがその例である漁父嘉の冒頭の部分

屈原既放

(注)身斥逐也

遊於江犀

屈原は既に放たれ

身は斥逐せらるるな-

江津に遊び

(注)戯水側也史云至於江潰被髪

水側に戯るなり史に云う江漢に至りて被髪すと

行吟滞畔

(注)履別辞也

顔色憶惇

(注)貯徴黒也

形容枯梅

(症)痩痩貯也

漁父兄而問之

(荏)怪屈原也

滞畔に行吟す

刑稀を履むなり

顔色は憶倖し

肝は徴黒するなり

形容

は枯枯す

やつ

廃れ痩療するなり

漁父兄てこれに問う

屈原を怪しむなり

ここに奉げた例では第二旬日の注の

「史云hellip-」とある

1句が

「史記」屈原侍からの引用であ

って恐らくは後から

(こ

こで後からというのはこうした形式の注が最初に作られた時より後という意味で必ずしも王逸以後だということではな

い)の補いだと考えられるのを除けば注の文句はみな四字句でしかも也の前の第三宇目で韻を踏んでいる

(蓬から府まで

1韻で最後の原の字から韻が換わる)この注の形式とIa形式との違いは

一句の本文に射し四字二句の注が付

られ

るのではなく本文

一句について注も

一句だけで終わ

っていることであるしかしょく見てみると漁父篇の本文白燈が四字

句でできてお力本文と注とを

1つにして責めは「屈原既放身斥逐也遊於江浮戯水側也行吟揮畔履刑蘇

也」とな

ってそのままIa形式の注と同じ形態のものになるのであるこうした特徴からIaとIbとの二つの注の形式はたが

いに密接な関係を有するものであ

ったことが知られtLかもーbの注の本文との形態的な関連からも窺われるようにこの

形式の注樺は楚節の本文と不可分の関係にあ

ったのであるすなわちこれら第

-形式の注は本文に封して外的に客観的

に付けられる注樺ではなく注白魔も楚鮮文筆の樽承に深く関わ

っていたのだと言えるであろう

IaとIbとの二つの形式の注が互いに密接な関係を持

っていたであろうことはまた遠遊篇の次のような例からも窺う

ことができる天界を遊行して王子喬に逢う段

順凱風以従道号

(注)乗風戯蕩観八直也

重商果而重患

(注)観覗朱雀之所居也

見王子而宿之今

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

みなみかぜ

ほしいまま

傾いて以

って

[南風日凱風詩日凱風日南]

風に乗り戯蕩して八区を観るなり

いこ

南巣に至りて萱たび息う

朱雀の居るところを観覗するなり

まみ

王子

に見えて

ここに宿し

六七

(荏)屯車留止遇子喬也

審萱菊之和徳

(荏)究問元精之秘要也

日道可授号

(注)言易者也

不可侍(荏

)誠難論也

其小無内号

(荏)廉兆形也

其大無根

(注)覆天地也

無届滑而魂号

(荏)乱爾精也

彼賂自然

(注)魔乗積也

萱菊孔紳号

(注)専己心也

於中夜存

(注)恒在身也

車を屯めて留止し子喬に遇うなり

萱菊の和徳なるを審らかにす

元精の秘要を究問するなり

日く

道は授くべきも

易きものを言うなり

樽うるべからず

誠に論じ難きなり

その小なること内な-

兆形する磨きなり

かぎ

その大なること娘りなし

天地を覆うなり

なんじの魂を屈滑するなく

なんじの精を乱すなり

かれに自然をもちいよ

いた

菊の積るに魔ずるなり

萱菊のはなはだ紳なるを

己の心を専にするなり

中夜において存せよ

恒に身に在らしむるなり

六八

虚以待之号

(注)執清浄也

無為之先

(注)閑情欲

(欲情)也

庶類以威令

(注)乗法陳也

此徳之門

(注)仙路程也

聞至貴而遠祖号

(注)見彼王侯而奔驚也

忽乎吾婿行

(注)周覗苗字渉四達也

虚しくして以

ってこれを待ち

清浄を執るなり

無為をこれ先とせよ

情欲を閑にするなり

もろもろ

類は以

って成り

乗法は陳ずるなり

此れぞ徳の門たり

仙路の径なりゆ

至貴を聞きて速に狙き

4HIpへ

かの王侯に見えて奔驚するなり

忽ちにして吾

まさに行かんとす

苗字を周親し四速に捗るなり

主人公が南方に遊行Lt王子喬のもとに宿

って王子喬の教えを聞いたあとさらなる遠蓬に出護することを述べた

1段で

あるそのうち「日道可受号不可得」から

「此徳之門」までが王子喬の言葉この王子喬の言葉はその前後がIa形式

で注が付けられているのに封して言葉それ白燈に封しては全て四言

一句からなり最後が也の字で結ばれるというtIb

形式で注が付けられているすなわちtIaとIbとの二形式の注は並行して用いられつつも両者に役割り分揖があ

った

であろうことが推測されるのである

Ia形式が

一般的な叙事の部分に用いられる注の様式であるのに射してtIb形式の注

のほうは神仙の聖なる数えを敷術するに相臆しいものだと考えられていたのであろう

(あるいは想像を達しくすれば遠

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六九

七〇

遊篇の基礎にあ

った宗教蛮能的な場において王子喬のお告げの言葉は特殊な構え方をされておりそのためその部分に付

けられる注も他とは異なった形態を取るのだと推測できるかも知れない)

以上に考察を加えてきた四字句で韻を踏む第-形式の注と区別して「楚轡章句」中に見えるもう

一つの形式の注すな

わち基本的に韻を踏まない形態の注の方を第Ⅰ形式と呼ぶこの第Ⅰ形式の注は厳格には四字句の形態も取らず韻も踏ま

ないのであるがしかし全-の自由形式による注樺ではな-そこにはやはり1定の形が認められる離騒篇の中から第Ⅰ形

式の注を例に奉げてその形態的な特徴を見てみょう

朝筆批之木蘭今

朝に牡の木蘭を奉り

(荏)琴取也批山名

夕携中洲之宿弄

夕べに中州の宿芥を携る

(荏)撹采也水中可居着日洲草冬生不死者楚人名之日宿弄言己且起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入

洲準采取宿弄下奉太陰服地数也動以神祇自勅議也木蘭去皮不死宿罪過冬不枯以愉議人雄困己t

己受天性終不可奨易也

第Ⅰ形式では本文二句に封して一単位の注が付けられている

(第-形式の注が本文

一句ごとに付けられているのと相違す

る)またその注文の内部はさらにいくつかの性格の異なる要素に分けることができる上に撃げた例でいえば第

1句

の撃取也批山名

(肇は取なり随は山の名)と第二句の撹采也水中可居着日洲革冬生不死者楚人名之

日宿弄

(撹は采るなり水中の居るべきものを洲という草の冬も生じて死せざるものを楚人はこれに名づけて宿芥という)とあ

るのが第

1の要素この部分は本文の字句撃耽中洲へ宿葬などに封して直接に訓話を施したものであるこの第

1の

要素だけが二句

一組みの本文のそれぞれの句に封して分けて付けられているこれ以外の要素はみな本文第二句の下に纏

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 5: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

六四

樺者たちもともにその様式を採用したのだと考えたいさらに言えは成立の時代から言えば

「易侍」の方が古いのではあ

ろうが四字句を二句で1まとめにLtその第二句の第三宇目で韻を踏んでゆくという形式の文章構成はこの論の最後に述

べるように楚辞文垂の基本的なスタイルの一つであ

った「楚野章句」の注がこのような句形式を持つことについては単

なる外的な模倣ではなく

楚尉文垂の侍承の中にその必然性があ

ったと考えられるのである

そうしたことを論ずるよりさきに「楚野章句」の中においてこうした韻文形式の注樺がどの部分にどのよう

に現わ

れているかを分析しておく必要があろう

「楚轡章句」の注輝はその形態から見れば上述のような四字句形式を基本にして韻を踏むものとそうした形式は取

らぬものとに大別されるこの両種の注樺の形態的な相違はたとえば園

(責省曾校本

「楚琴章句」)に示したよう

に版本の版面の違いから視覚的にも感受されよう圃

一が離騒篇の一部で注が韻を踏まない部分囲二が遠遊篇の冒頭

圏- 楚蔚章句 離騒篇

圏二 楚蔚章句 遠遊篇

(圏一間二ともに大阪大草懐徳堂文庫所蔵責省曽校本)

部分で注輝が韻を踏んでいる個所の版

面である圏二の一葉が注樺の形式が

ってその長さも

一定しているのに封

して圃

一の一葉にはそうした枠は無く

自由に注が付けられているといった直

感的な第

一印象を輿えるであろう

詳しく見れば韻文からなる注樺も

さらに二種類の形態に分けることができ

るそれをtIaとIbと呼び分けて区

分をすればtIa形式はすでに九章

抽思篇に見た形態のものである九章

思美人篇から同様の例をもう

1つ奉げれば次のようにある

恩美人今

(注)言己憂思念懐王也

携沸而貯胎

(注)好立悲哀沸交横也

媒経路阻今

(注)薫有隔絶道壌崩也

言不可結而話

(注)秘密之語難侍諦也

巷寛之煩寛骨

(荏)忠謀盤粁菊盈胸也

潜滞而不沓

(注)言鮮欝結不得揚也

美人を思い

おのれ

憂思して懐王を念うを言うなり

ぬぐ

蹄を

て好胎す

好立して悲哀Lt蹄は交横たるなり

なかだち

縄たれ路は阻まれ

某に隔絶するありて道は壌崩せしなり

おく

言は結びて詰

べからず

秘密の語は停諭し難きなり

悪寒として煩究し

rltち

忠謀は盤許して菊は胸に

なり

潜潤して沓せず

言節は欝結して揚がるをえざるなり

ここでも原文の一句ごとに四言二句づつの注が付けられその注の第二句めの第三字が王横崩諦胸揚と顎

を踏んでいるのである

またその注文の内容を見てみればこの形式の注が楚辞の原文中の個々の字句について直接に訓話を付けるものではなく

原文の1句を別の表現で言い換えたものであることが知られよう言わば

1つの文学作品を解揮するために別のもう

1つ

の作品を作

ってもとの作品と封照させているのであるしかもたとえば

「言は結びて詰るべからず」という

一句の解稗に

「秘密の語は倖諭し難きなり」の句を嘗てているところにも見えるように原文の内容をいささか逸脱して別に注輝者濁

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六五

六六

日の物語り的な筋書きを設定しているように見える場合すらある次に述べるIb形式をも含めてこれら第

-類の注は我

我が注樺という言葉で想起するものと少なからず相違しているのである

付言すれば

Ia形式の注は四言二句から成るのが基本であるが時に二句の間の断絶が小さくなり「

〇〇〇〇而

也」と作られる例やさらには

「〇〇〇〇之

也」

(は韻字)と作られて八言

一句をなす場合もあるその場合にも

最後が也の字で結ばれその

一字前の字で韻を踏むことには奨わりがない

「楚節章句」の中には同様に四字句の韻文形式を用いた注揮であるがこのIa形式とは少し異なる形態のものが別に

見られるそれを

Ib形式と呼ぶ次に引くのがその例である漁父嘉の冒頭の部分

屈原既放

(注)身斥逐也

遊於江犀

屈原は既に放たれ

身は斥逐せらるるな-

江津に遊び

(注)戯水側也史云至於江潰被髪

水側に戯るなり史に云う江漢に至りて被髪すと

行吟滞畔

(注)履別辞也

顔色憶惇

(注)貯徴黒也

形容枯梅

(症)痩痩貯也

漁父兄而問之

(荏)怪屈原也

滞畔に行吟す

刑稀を履むなり

顔色は憶倖し

肝は徴黒するなり

形容

は枯枯す

やつ

廃れ痩療するなり

漁父兄てこれに問う

屈原を怪しむなり

ここに奉げた例では第二旬日の注の

「史云hellip-」とある

1句が

「史記」屈原侍からの引用であ

って恐らくは後から

(こ

こで後からというのはこうした形式の注が最初に作られた時より後という意味で必ずしも王逸以後だということではな

い)の補いだと考えられるのを除けば注の文句はみな四字句でしかも也の前の第三宇目で韻を踏んでいる

(蓬から府まで

1韻で最後の原の字から韻が換わる)この注の形式とIa形式との違いは

一句の本文に射し四字二句の注が付

られ

るのではなく本文

一句について注も

一句だけで終わ

っていることであるしかしょく見てみると漁父篇の本文白燈が四字

句でできてお力本文と注とを

1つにして責めは「屈原既放身斥逐也遊於江浮戯水側也行吟揮畔履刑蘇

也」とな

ってそのままIa形式の注と同じ形態のものになるのであるこうした特徴からIaとIbとの二つの注の形式はたが

いに密接な関係を有するものであ

ったことが知られtLかもーbの注の本文との形態的な関連からも窺われるようにこの

形式の注樺は楚節の本文と不可分の関係にあ

ったのであるすなわちこれら第

-形式の注は本文に封して外的に客観的

に付けられる注樺ではなく注白魔も楚鮮文筆の樽承に深く関わ

っていたのだと言えるであろう

IaとIbとの二つの形式の注が互いに密接な関係を持

っていたであろうことはまた遠遊篇の次のような例からも窺う

ことができる天界を遊行して王子喬に逢う段

順凱風以従道号

(注)乗風戯蕩観八直也

重商果而重患

(注)観覗朱雀之所居也

見王子而宿之今

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

みなみかぜ

ほしいまま

傾いて以

って

[南風日凱風詩日凱風日南]

風に乗り戯蕩して八区を観るなり

いこ

南巣に至りて萱たび息う

朱雀の居るところを観覗するなり

まみ

王子

に見えて

ここに宿し

六七

(荏)屯車留止遇子喬也

審萱菊之和徳

(荏)究問元精之秘要也

日道可授号

(注)言易者也

不可侍(荏

)誠難論也

其小無内号

(荏)廉兆形也

其大無根

(注)覆天地也

無届滑而魂号

(荏)乱爾精也

彼賂自然

(注)魔乗積也

萱菊孔紳号

(注)専己心也

於中夜存

(注)恒在身也

車を屯めて留止し子喬に遇うなり

萱菊の和徳なるを審らかにす

元精の秘要を究問するなり

日く

道は授くべきも

易きものを言うなり

樽うるべからず

誠に論じ難きなり

その小なること内な-

兆形する磨きなり

かぎ

その大なること娘りなし

天地を覆うなり

なんじの魂を屈滑するなく

なんじの精を乱すなり

かれに自然をもちいよ

いた

菊の積るに魔ずるなり

萱菊のはなはだ紳なるを

己の心を専にするなり

中夜において存せよ

恒に身に在らしむるなり

六八

虚以待之号

(注)執清浄也

無為之先

(注)閑情欲

(欲情)也

庶類以威令

(注)乗法陳也

此徳之門

(注)仙路程也

聞至貴而遠祖号

(注)見彼王侯而奔驚也

忽乎吾婿行

(注)周覗苗字渉四達也

虚しくして以

ってこれを待ち

清浄を執るなり

無為をこれ先とせよ

情欲を閑にするなり

もろもろ

類は以

って成り

乗法は陳ずるなり

此れぞ徳の門たり

仙路の径なりゆ

至貴を聞きて速に狙き

4HIpへ

かの王侯に見えて奔驚するなり

忽ちにして吾

まさに行かんとす

苗字を周親し四速に捗るなり

主人公が南方に遊行Lt王子喬のもとに宿

って王子喬の教えを聞いたあとさらなる遠蓬に出護することを述べた

1段で

あるそのうち「日道可受号不可得」から

「此徳之門」までが王子喬の言葉この王子喬の言葉はその前後がIa形式

で注が付けられているのに封して言葉それ白燈に封しては全て四言

一句からなり最後が也の字で結ばれるというtIb

形式で注が付けられているすなわちtIaとIbとの二形式の注は並行して用いられつつも両者に役割り分揖があ

った

であろうことが推測されるのである

Ia形式が

一般的な叙事の部分に用いられる注の様式であるのに射してtIb形式の注

のほうは神仙の聖なる数えを敷術するに相臆しいものだと考えられていたのであろう

(あるいは想像を達しくすれば遠

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六九

七〇

遊篇の基礎にあ

った宗教蛮能的な場において王子喬のお告げの言葉は特殊な構え方をされておりそのためその部分に付

けられる注も他とは異なった形態を取るのだと推測できるかも知れない)

以上に考察を加えてきた四字句で韻を踏む第-形式の注と区別して「楚轡章句」中に見えるもう

一つの形式の注すな

わち基本的に韻を踏まない形態の注の方を第Ⅰ形式と呼ぶこの第Ⅰ形式の注は厳格には四字句の形態も取らず韻も踏ま

ないのであるがしかし全-の自由形式による注樺ではな-そこにはやはり1定の形が認められる離騒篇の中から第Ⅰ形

式の注を例に奉げてその形態的な特徴を見てみょう

朝筆批之木蘭今

朝に牡の木蘭を奉り

(荏)琴取也批山名

夕携中洲之宿弄

夕べに中州の宿芥を携る

(荏)撹采也水中可居着日洲草冬生不死者楚人名之日宿弄言己且起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入

洲準采取宿弄下奉太陰服地数也動以神祇自勅議也木蘭去皮不死宿罪過冬不枯以愉議人雄困己t

己受天性終不可奨易也

第Ⅰ形式では本文二句に封して一単位の注が付けられている

(第-形式の注が本文

一句ごとに付けられているのと相違す

る)またその注文の内部はさらにいくつかの性格の異なる要素に分けることができる上に撃げた例でいえば第

1句

の撃取也批山名

(肇は取なり随は山の名)と第二句の撹采也水中可居着日洲革冬生不死者楚人名之

日宿弄

(撹は采るなり水中の居るべきものを洲という草の冬も生じて死せざるものを楚人はこれに名づけて宿芥という)とあ

るのが第

1の要素この部分は本文の字句撃耽中洲へ宿葬などに封して直接に訓話を施したものであるこの第

1の

要素だけが二句

一組みの本文のそれぞれの句に封して分けて付けられているこれ以外の要素はみな本文第二句の下に纏

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 6: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

抽思篇に見た形態のものである九章

思美人篇から同様の例をもう

1つ奉げれば次のようにある

恩美人今

(注)言己憂思念懐王也

携沸而貯胎

(注)好立悲哀沸交横也

媒経路阻今

(注)薫有隔絶道壌崩也

言不可結而話

(注)秘密之語難侍諦也

巷寛之煩寛骨

(荏)忠謀盤粁菊盈胸也

潜滞而不沓

(注)言鮮欝結不得揚也

美人を思い

おのれ

憂思して懐王を念うを言うなり

ぬぐ

蹄を

て好胎す

好立して悲哀Lt蹄は交横たるなり

なかだち

縄たれ路は阻まれ

某に隔絶するありて道は壌崩せしなり

おく

言は結びて詰

べからず

秘密の語は停諭し難きなり

悪寒として煩究し

rltち

忠謀は盤許して菊は胸に

なり

潜潤して沓せず

言節は欝結して揚がるをえざるなり

ここでも原文の一句ごとに四言二句づつの注が付けられその注の第二句めの第三字が王横崩諦胸揚と顎

を踏んでいるのである

またその注文の内容を見てみればこの形式の注が楚辞の原文中の個々の字句について直接に訓話を付けるものではなく

原文の1句を別の表現で言い換えたものであることが知られよう言わば

1つの文学作品を解揮するために別のもう

1つ

の作品を作

ってもとの作品と封照させているのであるしかもたとえば

「言は結びて詰るべからず」という

一句の解稗に

「秘密の語は倖諭し難きなり」の句を嘗てているところにも見えるように原文の内容をいささか逸脱して別に注輝者濁

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六五

六六

日の物語り的な筋書きを設定しているように見える場合すらある次に述べるIb形式をも含めてこれら第

-類の注は我

我が注樺という言葉で想起するものと少なからず相違しているのである

付言すれば

Ia形式の注は四言二句から成るのが基本であるが時に二句の間の断絶が小さくなり「

〇〇〇〇而

也」と作られる例やさらには

「〇〇〇〇之

也」

(は韻字)と作られて八言

一句をなす場合もあるその場合にも

最後が也の字で結ばれその

一字前の字で韻を踏むことには奨わりがない

「楚節章句」の中には同様に四字句の韻文形式を用いた注揮であるがこのIa形式とは少し異なる形態のものが別に

見られるそれを

Ib形式と呼ぶ次に引くのがその例である漁父嘉の冒頭の部分

屈原既放

(注)身斥逐也

遊於江犀

屈原は既に放たれ

身は斥逐せらるるな-

江津に遊び

(注)戯水側也史云至於江潰被髪

水側に戯るなり史に云う江漢に至りて被髪すと

行吟滞畔

(注)履別辞也

顔色憶惇

(注)貯徴黒也

形容枯梅

(症)痩痩貯也

漁父兄而問之

(荏)怪屈原也

滞畔に行吟す

刑稀を履むなり

顔色は憶倖し

肝は徴黒するなり

形容

は枯枯す

やつ

廃れ痩療するなり

漁父兄てこれに問う

屈原を怪しむなり

ここに奉げた例では第二旬日の注の

「史云hellip-」とある

1句が

「史記」屈原侍からの引用であ

って恐らくは後から

(こ

こで後からというのはこうした形式の注が最初に作られた時より後という意味で必ずしも王逸以後だということではな

い)の補いだと考えられるのを除けば注の文句はみな四字句でしかも也の前の第三宇目で韻を踏んでいる

(蓬から府まで

1韻で最後の原の字から韻が換わる)この注の形式とIa形式との違いは

一句の本文に射し四字二句の注が付

られ

るのではなく本文

一句について注も

一句だけで終わ

っていることであるしかしょく見てみると漁父篇の本文白燈が四字

句でできてお力本文と注とを

1つにして責めは「屈原既放身斥逐也遊於江浮戯水側也行吟揮畔履刑蘇

也」とな

ってそのままIa形式の注と同じ形態のものになるのであるこうした特徴からIaとIbとの二つの注の形式はたが

いに密接な関係を有するものであ

ったことが知られtLかもーbの注の本文との形態的な関連からも窺われるようにこの

形式の注樺は楚節の本文と不可分の関係にあ

ったのであるすなわちこれら第

-形式の注は本文に封して外的に客観的

に付けられる注樺ではなく注白魔も楚鮮文筆の樽承に深く関わ

っていたのだと言えるであろう

IaとIbとの二つの形式の注が互いに密接な関係を持

っていたであろうことはまた遠遊篇の次のような例からも窺う

ことができる天界を遊行して王子喬に逢う段

順凱風以従道号

(注)乗風戯蕩観八直也

重商果而重患

(注)観覗朱雀之所居也

見王子而宿之今

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

みなみかぜ

ほしいまま

傾いて以

って

[南風日凱風詩日凱風日南]

風に乗り戯蕩して八区を観るなり

いこ

南巣に至りて萱たび息う

朱雀の居るところを観覗するなり

まみ

王子

に見えて

ここに宿し

六七

(荏)屯車留止遇子喬也

審萱菊之和徳

(荏)究問元精之秘要也

日道可授号

(注)言易者也

不可侍(荏

)誠難論也

其小無内号

(荏)廉兆形也

其大無根

(注)覆天地也

無届滑而魂号

(荏)乱爾精也

彼賂自然

(注)魔乗積也

萱菊孔紳号

(注)専己心也

於中夜存

(注)恒在身也

車を屯めて留止し子喬に遇うなり

萱菊の和徳なるを審らかにす

元精の秘要を究問するなり

日く

道は授くべきも

易きものを言うなり

樽うるべからず

誠に論じ難きなり

その小なること内な-

兆形する磨きなり

かぎ

その大なること娘りなし

天地を覆うなり

なんじの魂を屈滑するなく

なんじの精を乱すなり

かれに自然をもちいよ

いた

菊の積るに魔ずるなり

萱菊のはなはだ紳なるを

己の心を専にするなり

中夜において存せよ

恒に身に在らしむるなり

六八

虚以待之号

(注)執清浄也

無為之先

(注)閑情欲

(欲情)也

庶類以威令

(注)乗法陳也

此徳之門

(注)仙路程也

聞至貴而遠祖号

(注)見彼王侯而奔驚也

忽乎吾婿行

(注)周覗苗字渉四達也

虚しくして以

ってこれを待ち

清浄を執るなり

無為をこれ先とせよ

情欲を閑にするなり

もろもろ

類は以

って成り

乗法は陳ずるなり

此れぞ徳の門たり

仙路の径なりゆ

至貴を聞きて速に狙き

4HIpへ

かの王侯に見えて奔驚するなり

忽ちにして吾

まさに行かんとす

苗字を周親し四速に捗るなり

主人公が南方に遊行Lt王子喬のもとに宿

って王子喬の教えを聞いたあとさらなる遠蓬に出護することを述べた

1段で

あるそのうち「日道可受号不可得」から

「此徳之門」までが王子喬の言葉この王子喬の言葉はその前後がIa形式

で注が付けられているのに封して言葉それ白燈に封しては全て四言

一句からなり最後が也の字で結ばれるというtIb

形式で注が付けられているすなわちtIaとIbとの二形式の注は並行して用いられつつも両者に役割り分揖があ

った

であろうことが推測されるのである

Ia形式が

一般的な叙事の部分に用いられる注の様式であるのに射してtIb形式の注

のほうは神仙の聖なる数えを敷術するに相臆しいものだと考えられていたのであろう

(あるいは想像を達しくすれば遠

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六九

七〇

遊篇の基礎にあ

った宗教蛮能的な場において王子喬のお告げの言葉は特殊な構え方をされておりそのためその部分に付

けられる注も他とは異なった形態を取るのだと推測できるかも知れない)

以上に考察を加えてきた四字句で韻を踏む第-形式の注と区別して「楚轡章句」中に見えるもう

一つの形式の注すな

わち基本的に韻を踏まない形態の注の方を第Ⅰ形式と呼ぶこの第Ⅰ形式の注は厳格には四字句の形態も取らず韻も踏ま

ないのであるがしかし全-の自由形式による注樺ではな-そこにはやはり1定の形が認められる離騒篇の中から第Ⅰ形

式の注を例に奉げてその形態的な特徴を見てみょう

朝筆批之木蘭今

朝に牡の木蘭を奉り

(荏)琴取也批山名

夕携中洲之宿弄

夕べに中州の宿芥を携る

(荏)撹采也水中可居着日洲草冬生不死者楚人名之日宿弄言己且起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入

洲準采取宿弄下奉太陰服地数也動以神祇自勅議也木蘭去皮不死宿罪過冬不枯以愉議人雄困己t

己受天性終不可奨易也

第Ⅰ形式では本文二句に封して一単位の注が付けられている

(第-形式の注が本文

一句ごとに付けられているのと相違す

る)またその注文の内部はさらにいくつかの性格の異なる要素に分けることができる上に撃げた例でいえば第

1句

の撃取也批山名

(肇は取なり随は山の名)と第二句の撹采也水中可居着日洲革冬生不死者楚人名之

日宿弄

(撹は采るなり水中の居るべきものを洲という草の冬も生じて死せざるものを楚人はこれに名づけて宿芥という)とあ

るのが第

1の要素この部分は本文の字句撃耽中洲へ宿葬などに封して直接に訓話を施したものであるこの第

1の

要素だけが二句

一組みの本文のそれぞれの句に封して分けて付けられているこれ以外の要素はみな本文第二句の下に纏

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 7: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

六六

日の物語り的な筋書きを設定しているように見える場合すらある次に述べるIb形式をも含めてこれら第

-類の注は我

我が注樺という言葉で想起するものと少なからず相違しているのである

付言すれば

Ia形式の注は四言二句から成るのが基本であるが時に二句の間の断絶が小さくなり「

〇〇〇〇而

也」と作られる例やさらには

「〇〇〇〇之

也」

(は韻字)と作られて八言

一句をなす場合もあるその場合にも

最後が也の字で結ばれその

一字前の字で韻を踏むことには奨わりがない

「楚節章句」の中には同様に四字句の韻文形式を用いた注揮であるがこのIa形式とは少し異なる形態のものが別に

見られるそれを

Ib形式と呼ぶ次に引くのがその例である漁父嘉の冒頭の部分

屈原既放

(注)身斥逐也

遊於江犀

屈原は既に放たれ

身は斥逐せらるるな-

江津に遊び

(注)戯水側也史云至於江潰被髪

水側に戯るなり史に云う江漢に至りて被髪すと

行吟滞畔

(注)履別辞也

顔色憶惇

(注)貯徴黒也

形容枯梅

(症)痩痩貯也

漁父兄而問之

(荏)怪屈原也

滞畔に行吟す

刑稀を履むなり

顔色は憶倖し

肝は徴黒するなり

形容

は枯枯す

やつ

廃れ痩療するなり

漁父兄てこれに問う

屈原を怪しむなり

ここに奉げた例では第二旬日の注の

「史云hellip-」とある

1句が

「史記」屈原侍からの引用であ

って恐らくは後から

(こ

こで後からというのはこうした形式の注が最初に作られた時より後という意味で必ずしも王逸以後だということではな

い)の補いだと考えられるのを除けば注の文句はみな四字句でしかも也の前の第三宇目で韻を踏んでいる

(蓬から府まで

1韻で最後の原の字から韻が換わる)この注の形式とIa形式との違いは

一句の本文に射し四字二句の注が付

られ

るのではなく本文

一句について注も

一句だけで終わ

っていることであるしかしょく見てみると漁父篇の本文白燈が四字

句でできてお力本文と注とを

1つにして責めは「屈原既放身斥逐也遊於江浮戯水側也行吟揮畔履刑蘇

也」とな

ってそのままIa形式の注と同じ形態のものになるのであるこうした特徴からIaとIbとの二つの注の形式はたが

いに密接な関係を有するものであ

ったことが知られtLかもーbの注の本文との形態的な関連からも窺われるようにこの

形式の注樺は楚節の本文と不可分の関係にあ

ったのであるすなわちこれら第

-形式の注は本文に封して外的に客観的

に付けられる注樺ではなく注白魔も楚鮮文筆の樽承に深く関わ

っていたのだと言えるであろう

IaとIbとの二つの形式の注が互いに密接な関係を持

っていたであろうことはまた遠遊篇の次のような例からも窺う

ことができる天界を遊行して王子喬に逢う段

順凱風以従道号

(注)乗風戯蕩観八直也

重商果而重患

(注)観覗朱雀之所居也

見王子而宿之今

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

みなみかぜ

ほしいまま

傾いて以

って

[南風日凱風詩日凱風日南]

風に乗り戯蕩して八区を観るなり

いこ

南巣に至りて萱たび息う

朱雀の居るところを観覗するなり

まみ

王子

に見えて

ここに宿し

六七

(荏)屯車留止遇子喬也

審萱菊之和徳

(荏)究問元精之秘要也

日道可授号

(注)言易者也

不可侍(荏

)誠難論也

其小無内号

(荏)廉兆形也

其大無根

(注)覆天地也

無届滑而魂号

(荏)乱爾精也

彼賂自然

(注)魔乗積也

萱菊孔紳号

(注)専己心也

於中夜存

(注)恒在身也

車を屯めて留止し子喬に遇うなり

萱菊の和徳なるを審らかにす

元精の秘要を究問するなり

日く

道は授くべきも

易きものを言うなり

樽うるべからず

誠に論じ難きなり

その小なること内な-

兆形する磨きなり

かぎ

その大なること娘りなし

天地を覆うなり

なんじの魂を屈滑するなく

なんじの精を乱すなり

かれに自然をもちいよ

いた

菊の積るに魔ずるなり

萱菊のはなはだ紳なるを

己の心を専にするなり

中夜において存せよ

恒に身に在らしむるなり

六八

虚以待之号

(注)執清浄也

無為之先

(注)閑情欲

(欲情)也

庶類以威令

(注)乗法陳也

此徳之門

(注)仙路程也

聞至貴而遠祖号

(注)見彼王侯而奔驚也

忽乎吾婿行

(注)周覗苗字渉四達也

虚しくして以

ってこれを待ち

清浄を執るなり

無為をこれ先とせよ

情欲を閑にするなり

もろもろ

類は以

って成り

乗法は陳ずるなり

此れぞ徳の門たり

仙路の径なりゆ

至貴を聞きて速に狙き

4HIpへ

かの王侯に見えて奔驚するなり

忽ちにして吾

まさに行かんとす

苗字を周親し四速に捗るなり

主人公が南方に遊行Lt王子喬のもとに宿

って王子喬の教えを聞いたあとさらなる遠蓬に出護することを述べた

1段で

あるそのうち「日道可受号不可得」から

「此徳之門」までが王子喬の言葉この王子喬の言葉はその前後がIa形式

で注が付けられているのに封して言葉それ白燈に封しては全て四言

一句からなり最後が也の字で結ばれるというtIb

形式で注が付けられているすなわちtIaとIbとの二形式の注は並行して用いられつつも両者に役割り分揖があ

った

であろうことが推測されるのである

Ia形式が

一般的な叙事の部分に用いられる注の様式であるのに射してtIb形式の注

のほうは神仙の聖なる数えを敷術するに相臆しいものだと考えられていたのであろう

(あるいは想像を達しくすれば遠

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六九

七〇

遊篇の基礎にあ

った宗教蛮能的な場において王子喬のお告げの言葉は特殊な構え方をされておりそのためその部分に付

けられる注も他とは異なった形態を取るのだと推測できるかも知れない)

以上に考察を加えてきた四字句で韻を踏む第-形式の注と区別して「楚轡章句」中に見えるもう

一つの形式の注すな

わち基本的に韻を踏まない形態の注の方を第Ⅰ形式と呼ぶこの第Ⅰ形式の注は厳格には四字句の形態も取らず韻も踏ま

ないのであるがしかし全-の自由形式による注樺ではな-そこにはやはり1定の形が認められる離騒篇の中から第Ⅰ形

式の注を例に奉げてその形態的な特徴を見てみょう

朝筆批之木蘭今

朝に牡の木蘭を奉り

(荏)琴取也批山名

夕携中洲之宿弄

夕べに中州の宿芥を携る

(荏)撹采也水中可居着日洲草冬生不死者楚人名之日宿弄言己且起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入

洲準采取宿弄下奉太陰服地数也動以神祇自勅議也木蘭去皮不死宿罪過冬不枯以愉議人雄困己t

己受天性終不可奨易也

第Ⅰ形式では本文二句に封して一単位の注が付けられている

(第-形式の注が本文

一句ごとに付けられているのと相違す

る)またその注文の内部はさらにいくつかの性格の異なる要素に分けることができる上に撃げた例でいえば第

1句

の撃取也批山名

(肇は取なり随は山の名)と第二句の撹采也水中可居着日洲革冬生不死者楚人名之

日宿弄

(撹は采るなり水中の居るべきものを洲という草の冬も生じて死せざるものを楚人はこれに名づけて宿芥という)とあ

るのが第

1の要素この部分は本文の字句撃耽中洲へ宿葬などに封して直接に訓話を施したものであるこの第

1の

要素だけが二句

一組みの本文のそれぞれの句に封して分けて付けられているこれ以外の要素はみな本文第二句の下に纏

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 8: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

ここに奉げた例では第二旬日の注の

「史云hellip-」とある

1句が

「史記」屈原侍からの引用であ

って恐らくは後から

(こ

こで後からというのはこうした形式の注が最初に作られた時より後という意味で必ずしも王逸以後だということではな

い)の補いだと考えられるのを除けば注の文句はみな四字句でしかも也の前の第三宇目で韻を踏んでいる

(蓬から府まで

1韻で最後の原の字から韻が換わる)この注の形式とIa形式との違いは

一句の本文に射し四字二句の注が付

られ

るのではなく本文

一句について注も

一句だけで終わ

っていることであるしかしょく見てみると漁父篇の本文白燈が四字

句でできてお力本文と注とを

1つにして責めは「屈原既放身斥逐也遊於江浮戯水側也行吟揮畔履刑蘇

也」とな

ってそのままIa形式の注と同じ形態のものになるのであるこうした特徴からIaとIbとの二つの注の形式はたが

いに密接な関係を有するものであ

ったことが知られtLかもーbの注の本文との形態的な関連からも窺われるようにこの

形式の注樺は楚節の本文と不可分の関係にあ

ったのであるすなわちこれら第

-形式の注は本文に封して外的に客観的

に付けられる注樺ではなく注白魔も楚鮮文筆の樽承に深く関わ

っていたのだと言えるであろう

IaとIbとの二つの形式の注が互いに密接な関係を持

っていたであろうことはまた遠遊篇の次のような例からも窺う

ことができる天界を遊行して王子喬に逢う段

順凱風以従道号

(注)乗風戯蕩観八直也

重商果而重患

(注)観覗朱雀之所居也

見王子而宿之今

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

みなみかぜ

ほしいまま

傾いて以

って

[南風日凱風詩日凱風日南]

風に乗り戯蕩して八区を観るなり

いこ

南巣に至りて萱たび息う

朱雀の居るところを観覗するなり

まみ

王子

に見えて

ここに宿し

六七

(荏)屯車留止遇子喬也

審萱菊之和徳

(荏)究問元精之秘要也

日道可授号

(注)言易者也

不可侍(荏

)誠難論也

其小無内号

(荏)廉兆形也

其大無根

(注)覆天地也

無届滑而魂号

(荏)乱爾精也

彼賂自然

(注)魔乗積也

萱菊孔紳号

(注)専己心也

於中夜存

(注)恒在身也

車を屯めて留止し子喬に遇うなり

萱菊の和徳なるを審らかにす

元精の秘要を究問するなり

日く

道は授くべきも

易きものを言うなり

樽うるべからず

誠に論じ難きなり

その小なること内な-

兆形する磨きなり

かぎ

その大なること娘りなし

天地を覆うなり

なんじの魂を屈滑するなく

なんじの精を乱すなり

かれに自然をもちいよ

いた

菊の積るに魔ずるなり

萱菊のはなはだ紳なるを

己の心を専にするなり

中夜において存せよ

恒に身に在らしむるなり

六八

虚以待之号

(注)執清浄也

無為之先

(注)閑情欲

(欲情)也

庶類以威令

(注)乗法陳也

此徳之門

(注)仙路程也

聞至貴而遠祖号

(注)見彼王侯而奔驚也

忽乎吾婿行

(注)周覗苗字渉四達也

虚しくして以

ってこれを待ち

清浄を執るなり

無為をこれ先とせよ

情欲を閑にするなり

もろもろ

類は以

って成り

乗法は陳ずるなり

此れぞ徳の門たり

仙路の径なりゆ

至貴を聞きて速に狙き

4HIpへ

かの王侯に見えて奔驚するなり

忽ちにして吾

まさに行かんとす

苗字を周親し四速に捗るなり

主人公が南方に遊行Lt王子喬のもとに宿

って王子喬の教えを聞いたあとさらなる遠蓬に出護することを述べた

1段で

あるそのうち「日道可受号不可得」から

「此徳之門」までが王子喬の言葉この王子喬の言葉はその前後がIa形式

で注が付けられているのに封して言葉それ白燈に封しては全て四言

一句からなり最後が也の字で結ばれるというtIb

形式で注が付けられているすなわちtIaとIbとの二形式の注は並行して用いられつつも両者に役割り分揖があ

った

であろうことが推測されるのである

Ia形式が

一般的な叙事の部分に用いられる注の様式であるのに射してtIb形式の注

のほうは神仙の聖なる数えを敷術するに相臆しいものだと考えられていたのであろう

(あるいは想像を達しくすれば遠

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六九

七〇

遊篇の基礎にあ

った宗教蛮能的な場において王子喬のお告げの言葉は特殊な構え方をされておりそのためその部分に付

けられる注も他とは異なった形態を取るのだと推測できるかも知れない)

以上に考察を加えてきた四字句で韻を踏む第-形式の注と区別して「楚轡章句」中に見えるもう

一つの形式の注すな

わち基本的に韻を踏まない形態の注の方を第Ⅰ形式と呼ぶこの第Ⅰ形式の注は厳格には四字句の形態も取らず韻も踏ま

ないのであるがしかし全-の自由形式による注樺ではな-そこにはやはり1定の形が認められる離騒篇の中から第Ⅰ形

式の注を例に奉げてその形態的な特徴を見てみょう

朝筆批之木蘭今

朝に牡の木蘭を奉り

(荏)琴取也批山名

夕携中洲之宿弄

夕べに中州の宿芥を携る

(荏)撹采也水中可居着日洲草冬生不死者楚人名之日宿弄言己且起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入

洲準采取宿弄下奉太陰服地数也動以神祇自勅議也木蘭去皮不死宿罪過冬不枯以愉議人雄困己t

己受天性終不可奨易也

第Ⅰ形式では本文二句に封して一単位の注が付けられている

(第-形式の注が本文

一句ごとに付けられているのと相違す

る)またその注文の内部はさらにいくつかの性格の異なる要素に分けることができる上に撃げた例でいえば第

1句

の撃取也批山名

(肇は取なり随は山の名)と第二句の撹采也水中可居着日洲革冬生不死者楚人名之

日宿弄

(撹は采るなり水中の居るべきものを洲という草の冬も生じて死せざるものを楚人はこれに名づけて宿芥という)とあ

るのが第

1の要素この部分は本文の字句撃耽中洲へ宿葬などに封して直接に訓話を施したものであるこの第

1の

要素だけが二句

一組みの本文のそれぞれの句に封して分けて付けられているこれ以外の要素はみな本文第二句の下に纏

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 9: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

(荏)屯車留止遇子喬也

審萱菊之和徳

(荏)究問元精之秘要也

日道可授号

(注)言易者也

不可侍(荏

)誠難論也

其小無内号

(荏)廉兆形也

其大無根

(注)覆天地也

無届滑而魂号

(荏)乱爾精也

彼賂自然

(注)魔乗積也

萱菊孔紳号

(注)専己心也

於中夜存

(注)恒在身也

車を屯めて留止し子喬に遇うなり

萱菊の和徳なるを審らかにす

元精の秘要を究問するなり

日く

道は授くべきも

易きものを言うなり

樽うるべからず

誠に論じ難きなり

その小なること内な-

兆形する磨きなり

かぎ

その大なること娘りなし

天地を覆うなり

なんじの魂を屈滑するなく

なんじの精を乱すなり

かれに自然をもちいよ

いた

菊の積るに魔ずるなり

萱菊のはなはだ紳なるを

己の心を専にするなり

中夜において存せよ

恒に身に在らしむるなり

六八

虚以待之号

(注)執清浄也

無為之先

(注)閑情欲

(欲情)也

庶類以威令

(注)乗法陳也

此徳之門

(注)仙路程也

聞至貴而遠祖号

(注)見彼王侯而奔驚也

忽乎吾婿行

(注)周覗苗字渉四達也

虚しくして以

ってこれを待ち

清浄を執るなり

無為をこれ先とせよ

情欲を閑にするなり

もろもろ

類は以

って成り

乗法は陳ずるなり

此れぞ徳の門たり

仙路の径なりゆ

至貴を聞きて速に狙き

4HIpへ

かの王侯に見えて奔驚するなり

忽ちにして吾

まさに行かんとす

苗字を周親し四速に捗るなり

主人公が南方に遊行Lt王子喬のもとに宿

って王子喬の教えを聞いたあとさらなる遠蓬に出護することを述べた

1段で

あるそのうち「日道可受号不可得」から

「此徳之門」までが王子喬の言葉この王子喬の言葉はその前後がIa形式

で注が付けられているのに封して言葉それ白燈に封しては全て四言

一句からなり最後が也の字で結ばれるというtIb

形式で注が付けられているすなわちtIaとIbとの二形式の注は並行して用いられつつも両者に役割り分揖があ

った

であろうことが推測されるのである

Ia形式が

一般的な叙事の部分に用いられる注の様式であるのに射してtIb形式の注

のほうは神仙の聖なる数えを敷術するに相臆しいものだと考えられていたのであろう

(あるいは想像を達しくすれば遠

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六九

七〇

遊篇の基礎にあ

った宗教蛮能的な場において王子喬のお告げの言葉は特殊な構え方をされておりそのためその部分に付

けられる注も他とは異なった形態を取るのだと推測できるかも知れない)

以上に考察を加えてきた四字句で韻を踏む第-形式の注と区別して「楚轡章句」中に見えるもう

一つの形式の注すな

わち基本的に韻を踏まない形態の注の方を第Ⅰ形式と呼ぶこの第Ⅰ形式の注は厳格には四字句の形態も取らず韻も踏ま

ないのであるがしかし全-の自由形式による注樺ではな-そこにはやはり1定の形が認められる離騒篇の中から第Ⅰ形

式の注を例に奉げてその形態的な特徴を見てみょう

朝筆批之木蘭今

朝に牡の木蘭を奉り

(荏)琴取也批山名

夕携中洲之宿弄

夕べに中州の宿芥を携る

(荏)撹采也水中可居着日洲草冬生不死者楚人名之日宿弄言己且起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入

洲準采取宿弄下奉太陰服地数也動以神祇自勅議也木蘭去皮不死宿罪過冬不枯以愉議人雄困己t

己受天性終不可奨易也

第Ⅰ形式では本文二句に封して一単位の注が付けられている

(第-形式の注が本文

一句ごとに付けられているのと相違す

る)またその注文の内部はさらにいくつかの性格の異なる要素に分けることができる上に撃げた例でいえば第

1句

の撃取也批山名

(肇は取なり随は山の名)と第二句の撹采也水中可居着日洲革冬生不死者楚人名之

日宿弄

(撹は采るなり水中の居るべきものを洲という草の冬も生じて死せざるものを楚人はこれに名づけて宿芥という)とあ

るのが第

1の要素この部分は本文の字句撃耽中洲へ宿葬などに封して直接に訓話を施したものであるこの第

1の

要素だけが二句

一組みの本文のそれぞれの句に封して分けて付けられているこれ以外の要素はみな本文第二句の下に纏

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 10: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

虚以待之号

(注)執清浄也

無為之先

(注)閑情欲

(欲情)也

庶類以威令

(注)乗法陳也

此徳之門

(注)仙路程也

聞至貴而遠祖号

(注)見彼王侯而奔驚也

忽乎吾婿行

(注)周覗苗字渉四達也

虚しくして以

ってこれを待ち

清浄を執るなり

無為をこれ先とせよ

情欲を閑にするなり

もろもろ

類は以

って成り

乗法は陳ずるなり

此れぞ徳の門たり

仙路の径なりゆ

至貴を聞きて速に狙き

4HIpへ

かの王侯に見えて奔驚するなり

忽ちにして吾

まさに行かんとす

苗字を周親し四速に捗るなり

主人公が南方に遊行Lt王子喬のもとに宿

って王子喬の教えを聞いたあとさらなる遠蓬に出護することを述べた

1段で

あるそのうち「日道可受号不可得」から

「此徳之門」までが王子喬の言葉この王子喬の言葉はその前後がIa形式

で注が付けられているのに封して言葉それ白燈に封しては全て四言

一句からなり最後が也の字で結ばれるというtIb

形式で注が付けられているすなわちtIaとIbとの二形式の注は並行して用いられつつも両者に役割り分揖があ

った

であろうことが推測されるのである

Ia形式が

一般的な叙事の部分に用いられる注の様式であるのに射してtIb形式の注

のほうは神仙の聖なる数えを敷術するに相臆しいものだと考えられていたのであろう

(あるいは想像を達しくすれば遠

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

六九

七〇

遊篇の基礎にあ

った宗教蛮能的な場において王子喬のお告げの言葉は特殊な構え方をされておりそのためその部分に付

けられる注も他とは異なった形態を取るのだと推測できるかも知れない)

以上に考察を加えてきた四字句で韻を踏む第-形式の注と区別して「楚轡章句」中に見えるもう

一つの形式の注すな

わち基本的に韻を踏まない形態の注の方を第Ⅰ形式と呼ぶこの第Ⅰ形式の注は厳格には四字句の形態も取らず韻も踏ま

ないのであるがしかし全-の自由形式による注樺ではな-そこにはやはり1定の形が認められる離騒篇の中から第Ⅰ形

式の注を例に奉げてその形態的な特徴を見てみょう

朝筆批之木蘭今

朝に牡の木蘭を奉り

(荏)琴取也批山名

夕携中洲之宿弄

夕べに中州の宿芥を携る

(荏)撹采也水中可居着日洲草冬生不死者楚人名之日宿弄言己且起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入

洲準采取宿弄下奉太陰服地数也動以神祇自勅議也木蘭去皮不死宿罪過冬不枯以愉議人雄困己t

己受天性終不可奨易也

第Ⅰ形式では本文二句に封して一単位の注が付けられている

(第-形式の注が本文

一句ごとに付けられているのと相違す

る)またその注文の内部はさらにいくつかの性格の異なる要素に分けることができる上に撃げた例でいえば第

1句

の撃取也批山名

(肇は取なり随は山の名)と第二句の撹采也水中可居着日洲革冬生不死者楚人名之

日宿弄

(撹は采るなり水中の居るべきものを洲という草の冬も生じて死せざるものを楚人はこれに名づけて宿芥という)とあ

るのが第

1の要素この部分は本文の字句撃耽中洲へ宿葬などに封して直接に訓話を施したものであるこの第

1の

要素だけが二句

一組みの本文のそれぞれの句に封して分けて付けられているこれ以外の要素はみな本文第二句の下に纏

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 11: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

七〇

遊篇の基礎にあ

った宗教蛮能的な場において王子喬のお告げの言葉は特殊な構え方をされておりそのためその部分に付

けられる注も他とは異なった形態を取るのだと推測できるかも知れない)

以上に考察を加えてきた四字句で韻を踏む第-形式の注と区別して「楚轡章句」中に見えるもう

一つの形式の注すな

わち基本的に韻を踏まない形態の注の方を第Ⅰ形式と呼ぶこの第Ⅰ形式の注は厳格には四字句の形態も取らず韻も踏ま

ないのであるがしかし全-の自由形式による注樺ではな-そこにはやはり1定の形が認められる離騒篇の中から第Ⅰ形

式の注を例に奉げてその形態的な特徴を見てみょう

朝筆批之木蘭今

朝に牡の木蘭を奉り

(荏)琴取也批山名

夕携中洲之宿弄

夕べに中州の宿芥を携る

(荏)撹采也水中可居着日洲草冬生不死者楚人名之日宿弄言己且起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入

洲準采取宿弄下奉太陰服地数也動以神祇自勅議也木蘭去皮不死宿罪過冬不枯以愉議人雄困己t

己受天性終不可奨易也

第Ⅰ形式では本文二句に封して一単位の注が付けられている

(第-形式の注が本文

一句ごとに付けられているのと相違す

る)またその注文の内部はさらにいくつかの性格の異なる要素に分けることができる上に撃げた例でいえば第

1句

の撃取也批山名

(肇は取なり随は山の名)と第二句の撹采也水中可居着日洲革冬生不死者楚人名之

日宿弄

(撹は采るなり水中の居るべきものを洲という草の冬も生じて死せざるものを楚人はこれに名づけて宿芥という)とあ

るのが第

1の要素この部分は本文の字句撃耽中洲へ宿葬などに封して直接に訓話を施したものであるこの第

1の

要素だけが二句

一組みの本文のそれぞれの句に封して分けて付けられているこれ以外の要素はみな本文第二句の下に纏

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 12: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

めて施されるのである

第二の要素は本文二句をパラフレイズした部分「言己」から

「自勅諭也」までの十句がそれに嘗たる「ここに言う

のは

あし

のり

自分は朝

に起きると山に登って木蘭を採

った[こうするのは]上は太陽に仕えて天の

に承け従おうとするのであ

夕べには水蓮に下

って宿根草を採

った[そうするのは]下は太陰に仕えて地の数に順癒しょうとするのであるす

べて

にわたって神々を行動の基準とLt自からを戒めているのである」と述べているように太陽に仕え太陰に仕えるなどとい

う部分が元来の本文の直接の内容からいささか離れているとはいえ基本的には本文の表現を恩賞にパラフレイズした部

分である

のこった第三の要素は本文の表現の背後にある作者が比境などに託した意味を説明する部分上の例では木蘭以下が

それである「木蘭は皮を剥かれても死なない宿根草は冬が巡

ってきても枯れないそのことから謹言をする者たちが自

おのれ

分を困難な立場におとし入れても自分は天性を受けており最後まで己

襲えることはないということを比愉するのであ

る」といい比境の内容を具体的に説明している

「楚野章句」の中の第Fj形式の注帯は場合にょってほ奨形することもあり常に全ての要素がそろっているわけではな

いにしても基本的にはこれら三つの要素の組み合わせからなっているとすることができるもう

一つだけ例を畢げてそ

のことを確かめておこう九歌

東皇太

一篇の最後の二句とその注である

五首紛今繁合

五音は粉として繁く脅し

(荏)五音宮商角徽羽也紛盛貌繁衆也

君欣欣号楽康

君は欣欣として楽康す

(荏)欣欣喜貌1

康安也言己動作衆楽合骨五音紛然盛美所以歓欣厭飽喜楽則身蒙慶筋家受多頑也屈原

以烏紳無形撃難事易失然人掲心意縛則歌其柁而恵以祉自傷履行忠誠以事於君不見信用而身

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

1

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 13: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

放逐以危殆也

この二句に封する注の中で第

1句の注の全てすなわち

「五首とは官両角徴羽の五つの階調である粉とは盛んなる様

子繁とは多数という意味」という部分と第二句の注のうち「欣欣とは喜ぶ様子康とは安らかという意味」とあ

る部分

とが第

一の要素に嘗たる第二の要素は第二句の「言己」から

「家受多面也」までで「自分がさまざまな音楽を章動Lt

五つの音階を合わせて調和させると盛んで美しい楽の音がもりあがり1紳はそれを聞いて心を喜ばせられお供えものを存

分に享けて楽しまれるそのようにして自からは幸いをこうむり家も多面を授かるのである」といって本文を言葉を

補いつつパラフレイズしている

「屈原以薦」以下が第三の要素「屈原が考えるに蹄というものは形や聾といった賓健がなく[それゆえ]秤に仕える

のは容易ではなく

簡甲に

[蹄の心を]失

ってしまうことになるそうではあ

っても人が心を轟くし産を轟くせは秤はそ

の把りを享けて幸いを輿えて-ださる[しかるに]悲しいことには自分は正しい道を履み行ない誠を轟くして主

仕えたのではあるが主君から信任を受けて働-ことができずかえ

ってわが身は放逐せられ危険な目にあうことにな

ったt

と」とあ

って表現の背後にある意味を屈原の菊持ちとして説いている九歌の諸簾は表面的にはみな耐まつりの歌謡で

あるがその面に仕えるという表面の意味は主君に仕えることを含意しているのだとする後の時代にまで優勢に引き継が

れてゆく九歌理解の基本的な枠組みがここに示されているのである0

付け加えれば第二の要素は上引の例にも見えたように「言己」の二字で始まることが多く作者白から

(己)の言葉

あるいは心情をそのままにパラフレイズしたという形式を取

っているまた第三の要素もしばしば言

(言うこころは)

の字を冠して始められているこうした特徴から注揮着目からもこれら三つの要素を意識的に匡分Ltそれらを組み合わ

せて注を書こうとしていたであろうことが窺われるのである

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 14: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

七 諌 (束方朔)

哀時命(厳忌)

九懐(王褒)

九嘆(劉句)

九思(王達)

卜居 Ib+Ia

漁父 Ib

九拝 Ia+(Ⅰ)

招魂 Ⅰ

大招 Ⅱ

惜誓(貰誼) Ⅰ

招隠士(推南小山) la+(lb)

抽思 Ia+(Ⅰ)

懐沙 Ⅰ

思美人 Ia+(Ⅱ)

惜往日 Ia+(Ⅰ)

橘頒 Ⅰ

悲回風 Ia+(Ⅰ)

遠遊 la(lb)+Ⅱ

離騒 Ⅱ

九歌 Ⅰ

天間 Ⅰ

九章

惜涌 Ⅰ

渉江 1+(la)

京都 Ⅱ+la

義- 「楚蔚章句」に見える注樺形式の区分

「楚節章句」の注輝の形式についてあるいはさらに詳細に区分することが可能であるかも知

れないしかしここでは以上にその特徴を抜き出して示したようなttatIb形式と第Ⅰ形

式に分けるという大雑把な匡分を行なうに止めたいただ第Ⅰ形式の注稗が我々の注樺という観

念に副うものであるのに封して第-の形式の注はそれとは相雷に異質なものであることを心に

留めておきたい第-形式の注は言わば本文に印しての

一種の創作であ

ったのである

それならば責際に

「楚節章句」の中でこれら二つの形式の注はどのように使い分けられて

いるのであろうか「楚琴章句」に収められた楚節の各篇がItⅠどちらの形式で注がつけられ

ているかを示したのが上にかかげた表

一である

簡単にこの表について説明を加えておこう表中に

「離騒

I」とあるのは離騒篇の注帯が

第Ⅰ形式の注から成ることを表わす「九重

渉江

Ⅰ+(Ia)」とあるのは九華中の捗江篇

の注

が主要には第皿形式を取り時にIa形式の注樺もあわせ用いられていることを表わす

Ⅰ+Ia」とあるのは東部第では第Ⅰ形式の注とIa形式の注とがほぼ等しい分量で採用されて

いることを表わしている

最後の九恩篇に

が付いているのはこの第の注樺がItⅠいずれの形式にも雷てはまらない

からであるたとえば九恩の最初逢尤貨の冒頭部分の注帯を奉げれば次のようである

悲号愁

表号憂

(注)傷不遇也

天生我号嘗閤時

(荏)君不明也

悲しみて愁い

哀しみて憂う

不遇を傷しむなり

我を生むに問の時に嘗たる

君は不明なり

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 15: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

ゆえな

とがめ

被啄讃号

虚獲尤

啄語を被り

獲て

(注)馬倭人所傷害也啄穀尤過也

倭人の傷害する所となりしなり味は穀尤ほ過なり

七四

心憤憤号意無柳

(注)愁君迷蔽念姦興也

憤乱也柳楽也

たのし

心は憤憤して

意は柳む無し

君の迷いて蔽せらるるを愁い姦の興るを忽るなり

憤ほ乳なり柳は楽なり

この注ではまず各句の大意がまとめて述べられておのおのの字句に就いての注は

「殊は穀尤は過という意味」「憤ほ

乳という意味であり柳は楽しみという意味」とそのあとに付加するように記されている上に述べた第-形式にも第Ⅰ

形式にも嘗てはまらないものなのである

上の表についての詳しい分析を行なう先立

って最初にすぐに菊づく簡単な事賓だけをまず指摘しておこうたとえばt

Ib形式の注は卜居篇と漁父篇

(それに遠遊篇と招隠士篇の一部分)だけに見られるという事茸がある卜居篇と漁父篇とは

これまでも

一封になる作品として考えられてきたのであるがこの二篇に封する注樺もまた他から猫立して満目の形態を取

ているこのことは爾第の成立の基盤に共通するものがあったのみならずそれ以後の樽承やテキストとしての定着もまた

両者並行して行なわれたのであろうことを示唆するさらに推測を重ねればtIb形式の注が付されている遠遊卜居漁

父それに招隠士の四篇はいずれも道家

神仙思想と密接な関わりを持

っているもし准南小山の作とされる招隊士篇の存

在を重視するならばこれらの篇は漁南王劉安を中心とした道家思想の展開と関係を持ちつつ形成されたものだということに

なろうかそうしてその注の内容も遠遊篇の注に典型的に見られるよ-に神仙

道家思想を強力に宣侍するものであ

たこうした特徴もまた第-形式の注がその本文と切り離せない関係にあ

ったことを謹するものである

また

「楚腎章句」の編者王逸自身の作品である九息篇に付けられた注については洪興租

「楚辞補注」が王逸が白から

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 16: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

(3)

の作品に注を付けるはずはなく恐らくはその子の王延毒か誰かが付けたものであろうといって以来この篇の注

は元来

(4)

「楚節章句」にはなかったであろうとする説が行なわれたとえば清の愈継はtより具健的に次のように論じている

九思篇の

「恩丁文号聖明哲」とある本文に対して

「丁は雷たるなり文は文王なり心志不明にして文王の時に遇わ

んことを願うなり」と注されている愚考するに九恩篇はもともと王逸が作

ったものでありしかも王逸自身がそれに

注を付けた

[とされているが]自からの作品に白から注を付けたというのははなはだ疑わしいいま上に引いた注

にょって考えてみればそれが決して王遠の注でないことが知られる=-[ここの本文に]丁とあるのは

[段

の]武

丁のことである文というのは

[周の]文王のことである--文章の意味はきわめて明確であるのに注をした者には

丁が武丁であることがわからず嘗たるという意味に解揮しているもし王逸が自分の作品に白から注を付けたのだとす

ればどしてこんな誤りがおこるなどということがあろう

このように九恩第の注は王逸のものではないとする説がある

一方漢人にすでに自作自注の例があるから王逸が自注をして

もおかしくはないとこの通説に疑問を投げる意見もあるただ上に述べたように九恩篇の注は第-形式にも第Ⅱ形式に

も属しておらず他の十六簾に付けられた注とは異質であるこの事責はこの篇の注が王逸のものではないとするほうの説

を補強するための客観的な意接となるに違いない

さら竪一百えは王逸白身自からの

「楚轡章句」を十六番と表明している現行の王逸の九思篇を入れた十七番のテキス

ト構成は王逸本の原型をそのまま留めたものとは言えないであろう元来の

「楚節章句」に九思第がどのように関わ

って

いたのかという問題についてはこの論文の最後で梱れてみたいと思う

ここで表

一のtより詳しい分析に進むにあた

ってもし

「楚琴章句」の注樺がいささか質の異なる二つの形式から成

ていることが確認されるとすればまず考えるべきはこの南形式の注のうちどちらが注樺者の王逸自身のものであ

ったの

王逸

「楚軒章句」をめぐって

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 17: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

七六

かという問題である

1人の人物が三

つの異質な形式の注文を混ぜ合わせながら注樺を書-ということは極く特別の場合を

除いてあり得ないことであろうLt爾形式とも王逸の注ではなく

彼はすでにあ

った二つの系統の注を混ぜ合わせ整理を加

えただけなのだと考えるのもtのちに述べるように王逸が自からの

「章句」に封して強い自負を表明していることからいっ

て困難である自分の注樺は先行する注を越えたものだと王逸が誇

っている以上彼が軍に先行する説の整理者であるだけ

に留まるはずがないのであるもしそうであるなら第-と第Fjとの二つの形式の注帯の-ちどちらかが王逸自身のもので

あるはずであるがそれは果たしてどちらなのであろう

結論から先に言えばわたしは第Ⅰ形式の注が王逸のものだと考えるあるいは王逸が注を善くに際して下敷きにした

先行する注樺がありそれが第Ⅰ形式に近いものであ

った可能性があるにしてもそうした場合にもそれを取り込みつつ

彼自身の観梨でそれを書き改め自からの注となしていたのである

第Ⅱ形式の注こそが王逸のものだと判断するについてはさまざまな方向からその正しさを詮明することができるであろう

(5)

たとえば天問篇の後に付された

「鼓」において王逸は次のように言

っている

むかし屈原が作

った二十五篇の作品について[その讃み方について]代々数え侍えられてはきたが天問篇のついて

は十分な説明のできるものがなかったこの篇が文章の意味も順序だ

ってはおらず加えて奇怪なことがらが多いこと

から太史公

(司馬還)が口頭でこの簾について論じた際にも言い及んでいないところが多かったのをはじめ劉向や楊

(揚雄)が博や記

(樽

記は王逸の場合圭として諸子の書物をいう)を引いてこれに解樺を加えたときにも十分

に明らかにはできなかったという例にいたるまで放けたままにされたところが多数にのぼり[本文が述べている事柄

について]なにも博聞がないとして放置されて注が付けられていない部分が多いのであるたとえ解輝がある場合にも

その注稗の文章は-ぐま

って通りがわるく

その説明はぼんやりとして不分明であるそれゆえこの第の持つ意味あい

は明らかでなく奥深い内容も明確にはされていないこの篇に目を通すものはだれもがこうした状況に苦しんでき

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 18: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

たのであるがこれまではっきりと解決を付けることができなかったいまここに古い注稗に勘案Lt経典やその博

に考え合わせて意味を明らかにLtその讃接とすべきところを示した章ごと句ごとに判断を下し具健的な事柄を

一々明らかにLt後の世の学者たちがもう決して疑問に思うところがないようにとしたのである

この天問篇に付けた王逸の鼓からかれ以前に司馬遷劉向揚雄らのものとされるこの第の解樺が存在したことが

知られる

(ただ

「太史公口論道之」とされていることの具健的な内容は全-不明である)王逸はそれら先行する解帯が

わめて不十分なものであるのに封Lt自分はここで完全な解樺を示したと言うのであるこのように自負している天問篇の

注は嘗然王逸自身のものであるはずであるその天問篇の注が第Ⅰ形式にょるものであることは第Ⅱ形式こそが王逸が

用いる注の基本スタイルであ

ったことを確かめさせさらに虞げて「楚轡章句」全健についても第Ⅱ形式にょる注樺

の部

分が王逸自身が直接に自からの解樺を示したところであろうとの推測を可能にするそうしてもし第Ⅰ形式の注が王逸のも

のであるならば第-形式の注は王逸以前にすでに存在していた注だということになるであろう

たとえばすでに本文とその注を引用したところであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭号夕携中洲之宿弄」の二句に付けら

れた注程のうち第二要素と呼んだ部分には次のようにあ

った

言己旦起陛山采木蘭上事太陽承天度也夕入洲準采取宿弄下奉太陰服地敏也動以紳紙自勅議也

この注の文章のうち「上事太陽承天度也」「下奉太陰順地数也動以神祇自勅諺也」の部分の様式はtIa形式の注

のものと同

一であるしかも第二句三宇目の度の字と数の字とは明らかに韻を踏んでいるのである

(義の字が度

数の字と

(6)

韻を踏んでいると確言はできないが子安潤

『漠魂六朝韻語』が「准南子」道廠訓の妬悪虞の三字を韻を踏んだ例

して挙げていることが

1つの参考にはなるであろう)おそらく王逸は離騒篇を注するにあたって第-形式による注

を見

ており自からは第Ⅰ形式で注を付けたのであるがその中に先行する第-形式の注の文章を部分的に取り込んだため上

例に見るような第Ⅰ形式の注の中に断片的に第-形式の注文が入るという結果にな

ったのだと推定されるこうした現象も

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

七七

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 19: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

第1形式の注が王逸の注樺作業に先行して存在しなければ起こり得ないことであ

った

このようにして第Ⅰ形式の注が王逸自身のものでありそれに先行して第-形式の注が存在したことを確かめた上でもう

一度表

一を見てみるとこの表の中からいくつか興味深い尊貴を指摘することができる

「楚轡章句」に収められた十七篇の作品を便宜上離騒篤から大招篇までの前半部分と惜誓篇から九恩までの後年部分と

に分けて考えてみるとこの両部分のそれぞれにおいて第-第Ⅰ形式の注の配分の意味が異なるように見えるすなわち

前年の九第の作品については離騒篇の第Ⅱ形式の注の中に断片的に節-形式の注が遺存しているといった例からも知られる

ようにもともと全てに算-形式の注が付けられていたと考えられる王逸はある部分ではその先行する注を自からの課

によって全面的に書き改めてしまいある部分では先行した注をそのままに遺したその結果前年部分において第-形

式の注と第Ⅰ形式の注とが入-混じることになったのである

王逸がある篇に封しては注の書き替えを行ないある第には先行の注をそのままに遺すとい-この二つの態度を取-分

けた原因はどこにあ

ったのであろうそれは王逸のそれぞれの楚尉作品に封する許債を反映していたと考えることができ

るかれが重要で優れたものだと評債する作品に封しては自分自身の文章にょ

って注帯を書き直したのでありそれほど重

視していない作品には先行の注をそのままに流用したのであるこうした推測は九章篇内部における第-形式第Ⅱ形

式の注の配分の状況からも確かめられるであろう

現行の九重九篇がいつ一つに纏められて九章と総柄されるようにな

ったのかという疑問も楚節のテキスト形成をめぐる

重要な問題鮎の一つである「史記」屈原博に九章の内のい-篇かが個別的な名で引用されていながら九葦という線名の見え

ぬところから司馬遷の段階ではまだ九章の九第は1つに纏められてはいなかったと推定されている九章に収められてい

る作品群の内容が雑多で統

一性がないことから言っても各篇の来歴はさまざまだと考えられこれら九篇が

一つに纏められ

る必然性は元来あまり大き-はなかったであろう九章という言葉が先にあり(九は元来多数を意味したと推定される)

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 20: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

その九という教に合わせて現在の九篇が楚辞テキス-形成のある段階で強いて一つに集められたのである

(7)

すでに幾人かの楚鮮研究者たちによって指摘されているように九章九篇は大別すれば二つのグループの作品に分けられる

たとえば聞

一多の遺稿として菱表された

「論

《九章》」の論文は内容

形態ともに他とかけ離れている橘頒篇を除きt

こりの八篇を次のように匡分している

甲組

情話渉江哀邸抽思懐沙

乙組

恩美人惜往日悲同風

この甲乙二た組みを区別する姉別鮎として聞

一多は甲組がそれぞれの第の題名が二字からなりまたその篇末に乱

欝を持つのに封Lt乙組はその題名が三字から成り乱節を持

っていないことを挙げている加えて甲組の五篇が元来の

九章を成すものであり橋頭篇と思美人篇以下三篇とは九章の九という数字を満たすために後に付加されたものだとも推定し

ている

(橋頭篇ついては後から付け加えられた79のではあるがその性格が有子の

《賦篇》と似ることからその成立が戦

国時代まで遡るであろうことを示唆している)あるいはtもLt甲組の命名がその篇全健の内容から取

ったものであ

に射して

一篇の最初の句から取

った言葉をそのまま題名としている篇を乙組と区分するとすれば情誼篇だけが甲組から乙

組へ移ることになろう

(このことは情誼篇が雨組の中間的な性格を備えていることを表わす)このように小さな異同

あるにしても別の親鮎からする他の学者の九章九篇の分類の試みも聞

一多の甲組

乙組の区分の結果に基本的に一致し

ているまた甲組の各第が乙組の諸篇よりも早く成立したであろうことについてもはば異論のないところである

甲乙丙組の成立の早晩は各作品の文学的な内容にも直接に関わっている甲組の諸作品ではなお保持されていた楚節文

学の猫自性と緊張感とが失われ乙組の各篤の内容は「無病の哩吟」と許される漢代の楚箭模倣の作品群に近づいている

のであるここで表

一を見てみれば王逸は九華中の乙組全部恩美人惜往日悲同風の三篇と甲組の抽恩篇だけに第1

形式を中心にして注を付けている

(より正確に言えば王逸はそれらの篇に封しては第Ⅰ形式で注を付けなおす努を取ら

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

七九

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 21: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

八〇

なかった)そのことは彼がそうした乙組的な作品を重視しなかったことを表わしているのでありtより贋げて言えば

注形式の使い分けはかれの個々の作品に封する文学的な債値判断を反映していると考えてよいであろう

惜誓篇から九嘆篇にいたる「楚軒章句」後半に見える第-第Ⅰ形式の注の配分の意味は前牛におけるのといささ

異な

っている惜誓七諌哀時命九嘆の各篇が第Ⅰ形式で注を付けられているのは必ずしも王逸がそうした篇を高く評

債していたことを意味しないであろうこれらの篇が純粋に第Ⅰ形式で注を付けられていることは元来これらの篇には

先立つ注がなかったのであり楚節十六篤に通して注を付けるにあたり王逸によって始めてこれらの篇にも注が施された

であろうことを示唆する先行する注がなかったためこれら四篇には王逸の持つスタイルである第Ⅰ形式で注を付けざる

を得なかったのである

第Ⅱ形式の注が王逸自身のもの

(あるいは王逸にきわめて密接に関係するもの)だということが確認されるとすればこ

の事責は「楚轡章句」中各篇の前に冠せられた寂が果たして王逸のものかど-かとい-問題の解決にも

1つの手がかりを

輿えてくれる

楚節十六篇の各作品の前に付けられた鼓はそれぞれの簾の製作時期や製作事情を説明しておりこれまで楚欝を理解する

するための基本的な枠組みとされてきたただこれらの穀が誰にょって書かれたのかを明示する記録はなく王逸が臼から

これを書いたものかあるいはすでにあ

った鼓を王逸がそのまま援用したものであるかについては疑問がのこされてきたの

(8)

であるたとえば蒋天梶

「論

《楚節章句》」の論文は寂が比定している各作品の成立年代

(楚の懐王の時代に作られ

たも

のかあるいは案王の時のものか)の間に矛盾があり特にある作品に冠せられた寂の比定する年代とその本文に付けられ

た章句がいう年代とが合わないことを奉げてこれらの鼓を王逸のものとするわけにはゆかぬと主張しているたとえば九

歌第の鼓はこの篇は裏王時代に作られたとしているのにその注帯では懐王が行ないを改めるよう願

ったのだといって

その間に矛盾が存在する注が王逸にょって書かれたものであれば鉱のほうは彼以外の人物によって書かれたことにならざ

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 22: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

(9)

るを得ないというのである

(_o)

林維純

「劉向編集

《楚欝》初探」の論文はさらに大腰に推測を進めて鼓の多くの部分は前漠末の多才な学者劉向に

ょって書かれたものだと主張する林氏が強調するのは寂が屈原は楚の王室と同租だと強調するのは賓は劉向自身が漢の

王室の出であることを背後で言

っているのだという鮎と天問篇の寂に

「天は尊くして問うべからず」と言

って天の尊さを言

うのは「夜星宿を観てあるいは寂ねずして且に達す」(漢書楚元王博)とあ

って天文に深い興味を懐いた劉向にふさわ

しいといった鮎であるがこれらは寂が劉向にょって書かれたと主張するための讃接としてはあまりにも貧弱であるある

いはまた離騒篇と天問第との二第には篇の前に冠せられた鼓のほかに作品の後に付された後鼓があ

って後鼓は明らか

に王逸のものであるそうであれば

一第に二つの寂は不必要であるところから前に冠せられた寂は王逸のものではないこ

とになるとも論じられているこの議論は二見道理があるかのようにも思えるが責は前後の鼓の性格の差異を十分に考

えなかったことに由来するものであるそれぞれの寂の内容を具鱒的に見てみれば分かるとおり前に冠せられる鼓は屈原

博説と結びつけてそれらの作品の成立事情を説明するためのものであり後寂は王逸が自からの注樺態度を先行する

注樺との関係で述べたものであ

って

1第に二つの穀があるから

一方は王逸のものではありないと言

ってしまうのはいさ

さか乱暴な議論であろう

楚節の各第の前に冠せられた寂が誰のものであ

ったかを示す決定的な意接を提出するのは困難であるただ前に見た

「楚

轡章句」中の注樺形態の特色はこの問題の解決にも光を投げかけて-れるかも知れないすなわちこれらの寂と第Ⅱ形式

の注樺の形態とには共通するところが見られるのであるたとえば離騒第の前に冠せられた寂は次のようにいう

離騒経者屈原之所作也屈原輿楚同姓仕於懐王鵠三間大夫三間之職掌王族三姓日昭屈へ景屈原序其譜

属へ率其貿長以席国士へ入則輿王国議政事決定嫌疑出則観察群下魔封諸侯謀行職修王甚珍之同列大夫上官

新聞妬害其能共諮穀之王乃疏屈原屈原執履忠貞而被蓋邪憂心煩乱不知所憩乃作離騒経離別也騒愁也

王逸

「楚箭章句」をめぐって

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 23: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

八二

経径也言己放逐別離中心愁恩猶陳直径以風諌君也故上述唐虞三后之制下序架肘穿漢之放巽君覚悟反於正道

而還己也

離騒経は屈原が作

ったものである屈原は楚の王室と同姓の出であ

って懐王に仕えて三間大夫とな

った三間

大夫の職務は王族の三つの姓昭氏屈氏景氏を司るものである屈原はそうした王族の系譜関係を秩序づけ王

族の内の立派な人材をまとめ率いることにょって園内の優れた人物たちをも励ました宮廷の中にあ

ってほ王と施政

の計毒を立て論じあ

って問題鮎に決着をつけ宮廷の外にあ

っては配下の者たちを見守り諸侯たちとの封魔にあた

ったその謀はつつがな-責行され職務はきちんと治ま

って王はかれをはなはだ珍重した同列の大夫たち上官

新聞らほかれの才能を嫉んでみんなしてかれの謹言誹謡を行な

った王はそのために屈原を疎んじるようにな

った

屈原はまごころと正しい道とを執-行

ったのに蔑言を被-心は憂い惑

って誰に訴えたらよいのか分からなかった

そこで離騒経を作

ったのである離とは別である騒とは慾である経とは径である言うこころは自分は放逐され別

れ別れにな

って心に憂いを懐いてはいるがそれでもなお正しい道を述べて主君を間接的に諌めようとするのである

それゆえ遡

っては唐虞三后の政治制度を述べ下

ってほ乗王紺王穿湊が失敗したことを候埋立て説明して主君

が心に悟り正しい道にもど

って自分を呼び返してくれますようにと願

ったのである

この離騒篇の鋲の1段の中で特に注目すべきは

「乃作離騒経」以下の部分であるまず

「離は別なり巌は愁なり経は径

なり」とそれぞれの字の意味について個別的に注樺を加えたあと「言己--」とこの三字をパラフレイズした部分が

くこの形式は「楚鮮章句」中の第Ⅰ形式と呼んだ注の形態そのままだと言

ってよいであろう

同様に第Ⅰ形式の注と形態的に重なりあ

っている鼓の例は九章篇にも見ることができる次に引くのが九章篇の鉱の

全文である

九重者屈原之所作也屈原放於江南之壁思君念国憂心岡極故復作九章章者著明也言己所陳忠信之道甚著

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 24: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

明也卒不見納委命自沈楚人情而哀之世論其詞以相停鳶

九章は屈原の作品である屈原は江南の原野に放逐され主君のことを患い国のことを案じて心の憂いはきわま

あきらか

りがなかったそこでふたたび九章を作

ったのである章とは

いう意味である言うこころは白分が述べる

まごころと信義の道ははなはだ著明なのである[しかし]結局人々に容れられることがなく命を捨て水に沈んだ

楚の人々はかれのことを哀惜Lt代々その作品を分析し停えてきたのである

この鉱でも「章者著明也言己-」以下

「甚著明也」までが第Ⅰ形式の注に重なりあう形態を取

っている

先に論じたように第Ⅰ形式の注樺は王逸白身の手に成ると認めてほぼ間違いのないものであ

ったそうであるならば

その注秤と形態的に共通するところのある楚鮮各篇の前に冠せられた寂もあるいは先行する擦り所があ

ったかもしれない

が基本的には王逸のものだと考えてよいであろ-そのほうが不十分な置接から劉向の手に成るなどと推測するより

もよほど確責性を備えた結論だと思えるのである

なお満天植民が指摘する楚王の名をめぐ

っての寂と章句との闇の矛盾は別の観鮎から理解すべきものであろうす

なわち穀の部分は懐王から裏王へと時代が轡化し屈原自身の境涯もより困難なものとな

ってゆくとする

1種の歴史観

のもとに書かれているが注の内部にあ

っては屈原を疏外する〝

楚王Primeという観念が先に立

って個別的な王の名は十分に

(9)

識別されることがないのである

(個別的な名としてはへ〝

楚王Prime

は全て懐王に収赦する傾向にあ

ったと言えるであろう)0

王逸の楚辞注釈-

班固らへの反感

「楚節章句」の注帯者である王逸については「後漢書」列停七〇文苑博上に博が立てられてはいるがその内容はきわめ

31柳E

て簡単なものであるここでは主として満天梶

「《後漢書

王逸倦》考樺」に掠りつつ彼の経歴のあらましを見ておこう

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 25: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

八四

王逸は字を叔師といい南郡の宜城の人である宜城は現在は湖北省に属し漢水の流域裏陽から楚の国都があ

った

(江陵)にゆ-中途に位置している「水経汚水注」にょれば宜城の城南には宋玉の故宅があるとい-王逸は楚節

生み出した楚国の文化がなお色濃-樽承されていたであろう地域に生まれたのである彼は南郡の役所に出仕したあと後

漠の安一帝の元初年間

(AD

四~二

九)に上計吏に推挙されて都に出ると校書部に任ぜられた郡情報告のため中央に派遣

される上計更に王逸が推挙されたのは元初元年か二年のことでこの時彼は三十をいささか越えていたであろうと蒋

氏は推測しているもし王逸の生年が紀元八十年前後だとすれば張衡や馬融と同世代ということになる

安一帝の初年から洛陽の南宮に位置する東親において経書を中心とした書物の校訂が盛んに行なわれていた王逸が都に

留められて校善部に任じられたのもこの校書の事業と関係があ

ったと推定される校書郡であ

った期間に王逸は

「楚轡章

句」を著したおそら-王逸は詔を受けて楚辞の校訂に従事したものであ

って完成したテキストは願上されたのであろう

宋版を翻刻した明版の

「楚節」に各巻の初めに

「校書郭臣王逸上」と題しているものがあるのはこの書物の元来の健裁を

留めたものと考えられる献上された楚節のテキストは十六番であ

ってそれには王逸自身の九恩篇は他の篇と並ぶような

形では付加されていなかったであろうまたこのころ彼は歴史書

「東観漠記」の編纂にも関わった

順一帝の治世になり王逸は天子の顧問役である侍中に任ぜられた後に宮廷を出て藻草太守とな

ったさらに濠州刺史

にな

ったとする説もあるがこれは蒋氏もいわれるように琢章と濠州とを混同したものであって取るべきではなかろう

彼が死亡した年齢は知られないその作品として蹴諌書論など二十

一篇が遺された「魯憂光殿賦」(文選巻十

一)の

作者として知られる王延毒はかれの息子である

以上が現在に遣る乏しい資料から復元される王逸の経歴のはば全てであ

ってま

った-新しい資料でも尊兄されぬ限り

これに新しい停記的事茸を付け加えるのははなはだ困難であるしかしかれがどのような文化蔓境の中にありその中で

どのような思想を形成していたのかについてはその著である

「楚辞章句」がそれを考えるためのよい手がかりを輿えてく

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 26: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

れるのである

王逸の

「楚轡章句」は劉向が編纂したとされる

「楚節十六巻」のテキストの全健に注樺を施したものであ

ったおそら-

常時の観念からすれば楚欝の諸作品の注輝を付けようとするとき屈原の作とされる

「屈原賦二十五篇」に注を付けるのが

最も常識的な作業であ

ったはずであるそうはせずに前漠末にまで及ぶ漢代の作者の作品

(その作品の内容は必ずしも質

的に優れたものではない)をも含んだ

「楚蔚十六巻」の方に注樺を施したことについては王逸の1つの選樺があ

ったと推定

されるすなわち楚節を全くの過去の作品として封象化して注樺を付けるのではな-王逸白身にまで及ぶ楚節文塾の侍

承の中で作品の解樺を行なおうとしたのであった

(この楚鮮文峯の侍承については後に詳し-分析する)

ちなみに言えば王逸が基づいたテキストである

「楚節十六巻」が本質に劉向の編纂に出るものであったかどうかについ

(12)

ても疑問が提出されているたとえば漠代の書物の状況を知るための基本的な資料となる

「漢書」重文志

詩賦略の中に

「屈原賦二十五篇」の名は見えても劉向の編纂になる

「楚節十六巻」は著録されていないこのことは嘗時劉向の編に

なる楚欝のテキストが本富に存在したのであろうかとの疑いを懐かせるとりわけ劉向による書物の校訂作業の成果を基礎

にしてその手の劉款にょって

「七略」が書かれその

「七略」を基にして

「漢書」重文志が編まれたとされるのであるから

「漢書」重文志にその名が見えないことは王逸が言う

(そうして王逸以外にはそれに言及する記録のない)「楚節十六奄」が

確かに劉向のものであ

ったかどうかについて大きな疑問をのこすと言わざるをえないこの問題についてもまた議論の基

礎となる資料が乏しいため簡単には結論が付かないであろうここではただ劉向にょって編まれたと侍えられる

「楚節

十六巻」を王逸が選揮Ltそれを基礎にして注帯を加えたのだということだけを確認しておきたい

王逸が

「楚節十六巻」を本文に選揮したことには少なからざる意味があ

ったであろうと述べたその選樺が軍にある系

統のテキス-を本文に選揮したというだけに止まらず楚節文学の理解をも含めて楚節侍承の特定の一甑に左裡するという

決意をも表明するものであ

ったと推定されるからであるより具健的に言えば常時

一般の楚節理解が

「屈原賦二十五篇」

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八五

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 27: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

八六

のテキストと切り離しがた-結び付いているのを嫌

ってかれは

「楚辞十六巻」を選揮したのであ

ったと考えられるそれな

らば昔時

1般の楚蔚理解はどのようなものであり王逸はそれに射してどのような異議を申し立てたのであろうO

すでに多-の人々が指摘して来たように王逸の楚新注稗は先行する揚雄や攻囲の楚辞理解に反駁することを

7つの目的

として書かれたその反駁の論敵は楚節の文学をいかに理解するかに関わるよりも主として屈原の虞世をどのように評債

するかということに重鮎を置いたものであ

った離騒篇の後ろに付けられた鉱は「楚轡章句」の編纂について王逸自身が

(13)

どのような考えを持

っていたかを直接に語

ったものであるのでその主要部分を次に奉げてみよう

「離騒後叙」はまず孔子が詩書を制定し穫楽を正し春秋を制作して後王のための法を作

ったことから説き起こす

しかし孔子の門人たちにはその意圏が十分には理解できず孔子の死後大義と微言とが絶えてしま

ったやがて周の王

室が衰え諸国が互いに学-よ-になると道徳は衰微Lt腐りが横行する世の中とな

ったそうした中で諸子百家の思想

家たちがそれぞれの説を主張したのである屈原もそうした世の中を生きた

屈原は忠を踏み行ないながら謹言を被り憂い悲しんでひとり詩人

(詩経の作者たち)の義に依接して離騒を作

ったそれにょって贋くは主君を諌め正し狭くは自からを慰めようとしたのであ

ったしかし時代の混乱の中で

その意見は取り上げられることもなく憤癌にたえず磨いてきた九歌以下あわせて二十五篇の作品を作

ったのであ

った楚の人々は屈原の正しい行ないを高く評贋しその文学的な采華を立液だとして数え停えて来た

この7段で注目すべきは謹言を被

った屈原がまず離騒篇を作り離騒篇に込めた誼譲の意が受け入られなかったとき

さらに九歌以下の作品が作られたのだとしていることである離騒篇を屈原の早い時期の作品だと考えているのは恐らくは

その内容からする判断であるよりも離騒が経でありそれ以外の作品は経に封する侍だとする王逸のドグマによったものと

考えられるこの屈原の作品成立の早晩に関する考えはそれぞれの作品の前に冠せられた鉱にもそのままに反映されてい

そひと

るまたここで屈原の行動を高く評債Ltその作品を

〝教え侍えてPrime

きたのは「楚

であ

ったと述べていることは王逸

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 28: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

の楚節との関わりのありかたに直接に関連するものであ

ってこのことについても後に纏めて検討する

つづいて

「離騒後鍍」は漠代における楚新注帯の歴史を概観する0

って武一帝が撃垂にょる教化を大きく敷き虞げた時代のこと[武一帝は]推南王の劉安に命じて

「離騒経章句」を作らせ

たその結果[離騒に託された]大きな意味があざやかに表わされて後の世の優れた人物たちはみなそれを仰ぎ見

て深い思いを述べその表現形式を受け継いだのであ

った後に劉向が経書の校訂を行な

ったとき別個に楚節を十

六番に纏めた[後漠の]革帯が即位をすると撃垂を敷き廉げようと力を轟くされ[それに魔じて]粧国と雪達とが

白からの見解をもとにこれまでの疑問鮎を改めて再びそれぞれに

「離騒経章句」を作

った[この注帯は]離騒以

外の十五篇には注を歌いたまま説くところがなく加えて牡の字を状の義に解するなど元来の意味を取り違えた

わたくし

ところが多く事柄についての説明も要鮎を押さえてはいないここに

改めて自からがよく知

っているところ

と聞き知

っているところを基礎にLへ古-からの注帯に考え合わせ経書やその注帯と適合させて十六巻の章句を作

た楚節の最も奥深い意味をことごとく明らかにしたとは言えないまでも大きな意味の方向はほぼ明らかにすること

ができたのである

王逸は白からがよく知

っているところと聞き知

っているところ

(所識所知)とを基礎にして新しい章句を作

ったと言う

その

「所識所知」の内容は彼が育

った地域での楚文化の遺存とりわけその地域での楚辞の侍承を承けたものだと考えられ

るこのことについても次の章で纏めて考えたいまた

「経書やその注樺と適合させた」というのはこの銘文の後のほう

で「夫れ離儀の文は五経に依託して以

って義を立つ」としていくつかの例が奉げられている部分と封鷹している「古くか

らの注滞」とはここに奉げられている王逸に先行する注樺がその主たるものであるに違いないそれら先行する楚新注樺

に射して王逸はここでもはっきりと表明されているように推南王劉安の章句にはきわめて高い評債を輿えるが斑国

薯達の

「離騒経章句」には批判的であるそうした先行する注輝に封するかれの許債が純粋に注輝としての完成度の高低

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八七

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 29: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

八八

とよる判断であるというよりもむしろ屈原の虞世をどのように理解するかに関わ

っていたであろうことがこれに続く

一段

の記述から知られる

-屈原は貞節を資質として懐き清らかな本性を健現してま

っすぐな性格は砥石や矢のごとく撃

昌は輝かし

多-の人々のためを計

って自からの企圏を降すことなく

自分自身に封してはその生命の危険を顧慮することなど

なかったこれは希代の行ないであり優れた人物たちの中でも特にその精英なのであるしかるに斑国は[屈原は]

己の才能をひけらかして自慢をしようとLtつまらぬ連中の中で競い合い懐王を怨み司馬子赦子蘭らの樺臣を誘

って

ひたすら自分が腕を振えるよ-求めてそれを妨害する人々を強引に非難し自からが容れられないと腹を立てて水に

身を投げたと言

っているこ-した言い方は屈原の輝かしさを陰らせ彼の清潔さを損なうものなのである--そ

れにまた

「詩経」の作者たちも主君を怨み上に立つ者を詞刺して「ああ))わ

っぱよおまえには事の是非が分か

っておらぬ面と向かって話すだけではな-その耳を引

っは

ってでも言う事を分からせよう」とprimeいう調諌の表現とし

てこれ以上にあからさまなものはないしかるに仲尼はこれを評債してこの第を大雅

(抑篇)に加えているこの

例と楚節とを比較してみれば屈原の表現は柔らかで娩曲でありどうして主君が馬鹿だからといってその耳を引

ぼろうなどとしておろうかしかるに論を立てる者は[屈原が]己の才能をひけらかせて自慢をLtその上

に立つ者

を怨み誘

ってそうした人々を強引に非難しているというほとんど中庸を外れた議論だと言えるであろう

ここに引かれている粧国の議論は恐ら-ほへかれの注樺

「離騒経章句」に付された序文であ

ったと考えられる元来の全

文であ

ったかどうかは知られないがここの引用よりよ-長い斑国の議論が王逸の

「楚琴章句」では天問篇の後

「粧孟整序」として付録されているもしこれが後人が補

ったものでなく元来の

「楚轡章句」の形態を留めたものであ

たとすれば王逸が斑回の議論をわざわざ纏めて自からの注樺に付録しているのは讃者に両者の主張の違いを理解してほ

しいと願

っての虞置であ

ったに違いない屈原の虞世の理解の鮎で斑固らのものと異なる観鮎を提出したというのが王逸の

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 30: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

自からの注樺の猶自性を主張する

一つのポイントであ

ったのである

「斑孟整序」から班国の主張の中心鮎を纏めれば次のようになるであろう

准南王劉安は彼の

「離騒博」の序にいっている「国風の詩は色を好むが過度になることがなく小雅の詩は怨み憤

って

はいるが乱れることがない離騒のごときはこの両者を乗ねたものだと言えるであろう汚濁の中からす

っぱりと抜けだLt

塵攻のかなたを軽やかに遊行する真

っ白であ

って汚そうとしても汚すことができないこうした心の持ち方を押し廉げれ

ば日月とその輝きを競うことすらできるのである」としかしこうした劉安の屈原評贋は葺健を越えて褒めすぎたも

のである

劉安の解樺には「五子は以

って家巷を失う」(筒書五子之歌篇の故事)の句を伍子膏のことだとするなどの誤りがあり

また神話的な人物に封する注にも不十分なところがあるそれゆえ経書やその注樺などに廉く論壕を求めて新しく離騒

第に解稗を施した

立派な人物であ

っても不遇な境遇に堕ちいることがあるしかしそれは運命なのだから[その時には]身を潜めて人

露れないようにするそのように行動すれば心に欝積するものもないのであるこれまでにも多くの人々がそのように身を

たた

威して安泰に人生を迭

ってきたLt「詩経」もそうした生き方を構えているところが屈原は己の才能を言い立

て不安

定な国家情勢の中でつまらぬ連中と競いあ

ったことから重言を被

ったしかるに彼は懐王を責め権力者たちを恰んで

心を苦しめその悪口を言い自分が容れられないのを憤

って水に身を投げて死んだまた

[その作品の中で]頑なに義を

守ろうとした人物や人々に仰ぎ見られている立派な人物たちをおとしめさかんに崖潜や紳女たちといったありもしないもの

のことを稀しているこれらは正しいおきてや経書の意義に背くものであるそれを詩経の国風や大小雅を兼ね日月と

光を競うこともできるなどとする劉安の評債は過褒なのである

ただその作品は贋々として麗しく典雅であり後世

への影響も大きかった作者の屈原は明らかな見通しを持

って行

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

八九

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 31: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

動した人物ではなかったといえ優れた才能を持

った人物であ

ったとは言えるであろう

九〇

以上に節略して引用した班国の

「序」は劉安の屈原と楚蔚文学に封する高い評債づけに訂正を加えてその政治的な虞

世にはいささか問題があるがその文筆は優れたものであ

ったと判断するものであるこの斑圏の許債づけがおそらく富時

に1般的なものであ

ったろうことはたとえば揚雄の

「反離騒」篇の言うところがほぼ同様のものであるところからも窺われ

る漠代後半の敢合を主導した儒教的な雰国菊からすれば主君の行ないを正す馬の誕諌の手段としても拙劣で

(自分には才

能があり正しい道を行な

っているのに主君は自分の言うところを聞き入れて態度を改めてはくれないと強く言い立てれ

(旭)

ば自分には改めるべきところもあるといささかは反省をしている主君もかえ

って改めたくなくなるであろ-)政治的

有効性を無税したような屈原の生き方に疑問を呈するのもむしろ嘗然のことであ

ったしかし王逸はこうした

1般的な楚

鮮評債の中でそれに反論をLt准南王劉安の評債のほ-にもう

一度人々の楚節理解を引き戻そうとしたのであった

ちなみに言えば攻囲が引用している准南王劉安のことばは屈原の生き方とその文学を高く許贋したものとしてよく知ら

れている

(ただそれが

「商機の中から蝉映し塵挨の外に浮遊する」といった句に見られるように多分に神仙思想からす

る評債であ

って離騒篇が備えていたであろう本来の意味内容とはいささか離れていることも忘れてはならないであ

ろう)

この一段の劉安のことばが人々の記憶にのこるのはこれがそのまま現行の

「史記」屈原侍の中に援用されていることに由来

(15)

するであろうただこの劉安のことばが

「史記」の庫に見えることについて湯柄正は

「《屈原列侍》新探」の論文におい

てこの部分は元来の屈原列樽にはなかったもので後人が勝手に

「史記」のテキストに付け加えたものであろうと推定して

いる現行の

「史記」屈原樽は記述がごたごたしているのみならず前後矛盾する鮎も少なくないしかしこの劉安のこ

とばを除いてみると表現がす

っきりLt矛盾鮎も少なくなることから湯氏はこの部分を後補だと考えるのであるさらに

推測を進めて湯氏は屈原侍のその後に挟まれている

「(屈原既妖之)錐放流酷願楚図繋心懐王」から

「可以汲王明

並受其頑王之不明豊足痛哉」までの部分も同様に劉安の

「離騒侍」鉄に出るものでこれも後荷であろうと考えている

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 32: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

この後牛の部分についての湯氏の主張にはすぐさま賛同することができないかもしれないがその説が

1つの可能性を示し

たものであることは確かである

王逸もまた儒家的な立場に立

って撃言をする人物であ

ったその彼が揚雄や班固らの観鮎に反論を加えるのは直接的

には屈原の行動について政治的に有効性がな-〝

明智Prime

を鉄いたものだと高いところから批評を加えている人々自身が

果たして政治

配合的に有効な行動を取

っているのかという非難を込めたものであ

ったと推測される「離騒後叙」の中

屈原の虞世に関連して王逸が次のように言

っているのは

1般論と言うよりも具健的な人々の行動を意識していたもので

(16)

あろう〝道

Prime

を懐きながら国家を迷わせ馬鹿の振りをしてなにも壁言せず[国家が]韓覆した時にもそれを助

け起こす

ことができず危機に瀕している時にもそれを安定させることができないひたすら従順に上に立つ者の言うとおりに

Lt後ずさりして患難を逃れようとばかりする[こうした人々は]たとえ長詩を保ち百歳の寿命を全うしたとしても

それはこころざしのある者たちが恥とするところであり道理のよく分からぬ人々だとてそれを卑しむであろう

(Ⅳ)

あるいは朱薫の

「楚辞集注」が揚雄の政治的行動を厳しく答めているのと同様の心情が王逸のこうした議論の背後にも

こめられていたものであろうか

屈原の虞世に封する二つの違

った見方のどちらが正しいかといったことは我々が直接に関わるべき問題ではないであろう

我々の林疋節評債はなにょりも作品自健にょって為されるべきでありその作者の経歴などについての情報は参考に賛する

ところはあるにしてもその文学としての慣値判断に直接には関係しないのであるもちろん立沢な人物がそれにふさわし

く重い内容を持つ作品を著すこ之もあるがまたその行動に全面的には賛成できない作家が優れた内容の作品を書-こと

があるのも残念ながら事案であるそうした場合文学として債値許贋を加えるべきはあくまでも作品に封してであり

その人物の行動は考慮の範囲外に置かれるのである逆に言えばtもLtある作品の〝偉大さPrime

を言おうとしてその作者の

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 33: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

九二

行動の〝

偉大さPrime

しか言えないとすればそれは責は作品があまり〝

偉大Prime

ではないことを澄明しているのである

それゆえここでは屈原の虞世に封する両派の観鮎のどちらにも加糖はしないただ指摘をしておきたいのは王透が

昔時の一般的な楚節理解とは異なる観鮎を提出し劉安の楚辞評債に賛意を表わしたのはかれがそれまでの種々の楚節評

債を平静に見比べた結果劉安の意見の中に賛同できるものを兄いだしたのではなく楚節に関わるに際しての劉安の立場

と王逸の立場とに共通性があり両者が同じ楚尉文垂の博承の中にあ

った結果であろうということである

王逸が楚節の各作品に冠した鉱にはしばしば楚の地域における楚節の侍承についての言及が見られるしかもそうし

た部分は表現があいまいで具健的になにを言

っているのか分かりにくいものであることが多い離騒篇の後寂はすでに

引用したところであるがもう

一度見ておけば次のようにあ

った

屈原は忠を践み行ないながら重言を被り悲しみ憂えて-離騒を作

った自分の意見が容れられないことから

憤潜にたえずさらに九章以下合わせて二十五篇の作品を作

った楚の人々は彼が正しい道を行な

ったことを立派だ

とLtその作品の多彩さを高く許贋して数え備えてきた

ここに楚の人々が数え備えたとある

「数億」の語はこれもすでに引用したところであるが天問第の後寂にも見えてい

むかし屈原が作

った合わせて二十五篇の作品は代々教え侍えられてきたのであるが天問簾についてはそれ

を説明できるものがいなかった

屈原賦二十五篇か軍に停えると言われるのでなく数え侍えられてきたと表現されていることからそれら作品をどのよ

うに讃むかを数える楚鮮理解についての詳しい指示を含めた停承があ

ったであろうことが推察されようしかも屈原の作

(_8)

品を数え侍えたのは〝

楚人Prime

であ

ったと繰り返し述べられているたとえば天間篤の鼓は次のように言う

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 34: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

天問第は屈原が作

ったものである--[天に封する疑問を提出することにょ

って屈原は]憤感をもらし心

の憂

いを伸びやかにしたのである楚の人々は屈原のことを哀惜Ltそこでみんなして

[屈原が天に問うた内容を]検討

し述べつたえたのであるそのためこの篇ほ文章の意味が十分に秩序だ

ってはいないのだとされる

ここで王藩はいささかあいまいな表現をしてはいるがその大意は屈原が憤感に任せて沓した疑問に楚の人々が整

理を加えたのがこの篇であるが元来が登債の語であるがため全健的な構成が整

っていないのだと言うのであろう王逸の

考えからすれば天問第の成立には楚の人々の力が大きく輿か

っていたことになる上の引用で

「検討し述べつたえた」と辞

(旭)

した部分の原文は

「論述」と書かれているこの

「論」の語は九章篇の寂にも使われている

九重篤は屈原が作

ったものである-結局屈原の言うところは受け入られることなく水に身を投げて死んだ

楚の人々は彼を惜しみ悲しんで代々その表現を論じ

(検討し)へ備えて来たのである

論とは詳細に検討を加えること楚の人々が

「論」じたというその具健的な内容として王逸がどのような作業を考えて

いたのかは表明されていないしかし天問篇の鼓と重ね合わせて考えればおそらくは軍に表現の意味を考えたというに止(訓)

まらず本文の構成などにも楚の人々の手が入

っていると考えていたものであろう漁父篇の寂もまたそのことを示唆する

漁父篇は屈原が作

ったものである屈原は放逐され江水湘水のあたりにいたが心に憂いを懐き欺きの歌を唱

ってその容貌もす

っかり襲あ

ってしま

った

一方漁父は世を避けて身を牒Lt大江の水蓮に釣りをして欣然とひ

とり楽しんでいたその漁父がある時たまたま水蓮で屈原に出合

った屈原の様子を怪しんで尋ねかけそこで二人

の間に問答があ

った楚の人々は屈原のことを懐かしみそこで漁父との問答の言葉を〝

叙Prime

[作品に纏め]

それを代々侍えたのである

すなわち屈原と漁父との問答を核にしてそれを現在のような形にして侍えたのは楚の人々だというのであるいわば

屈原は行為者でありそれを表現として形を整えたのは楚の人々だと王逸は考えている同様の横国はすでに天問篇の叙

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

九equiv

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 35: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

九四

にも見たところでありそこでは珂して天に封する問いかけをしたのは屈原であるがそれを作品に纏めたのは楚の人々で

ある

(その際に不手際があ

った)とされていたこのように楚節の停承の中での楚の人々の働きを大きく位置づけようとす

るところに王逸の楚鮮理解の大きな特色があ

ったのである

王逸が楚の人々

(楚人)というとき戦国時代の楚の国の人々をいうに止まらず漢代を含めて楚文化の影響の強い地

域の人々を虞-指したものであろう王逸自身も自からを楚人と考えていたのであるすでに見たように王逸は南郡の宜

城で生まれたのであるがその地は楚文化の中心に近い地域であ

った宜城が屈原の後を承けた文学者だとされる宋玉の

3矧爪

故郷だとする侍説があ

ったことについてはすでに述べた

だいぶ時代は下るが清の王士慣

「萄道騨程記」は

宜城願はprime山水にはなにの取柄もないが多-才子を生んでいる宋玉王逸段成式らはみなその地に生まれたの

まち

である今も王逸の故宅

南にのこっている

と言

って宜城に生まれた三才子の中に宋玉と王逸とを含めているのである

王逸の

「楚節章句」が楚の地域文化を背景にしていたであろうことの最も分かりやすい表われはその語樺の中にしば

しば楚人の用語が援用されていることであるこれもすでに引用した例の中に見えたものであるが離騒篇の

「朝肇批之木蘭

号夕撹中洲之宿弄」の二句に封する章句に

草の冬も枯れずに生きているものを楚の人々は宿芥という

(paraこ

とあ

ったあるいは同じく離騒篇の

「索填茅以超等」の句に封する章句は次のように言

ってい

楚の人々は革を結んだり竹を折

ったりして占いをするのを等と言-

こうした草木の呼び名や風習などに関する楚の地方凋特の用語の指摘にも増して重要であるのは楚蔚本文に見える特

殊な状況語や感嘆詞についての楚人の方言からする解樺であろうたとえば豪語の節についての例を奉げれば離騒篇の

3牌爪

「美内恕己以量人」の句に射して章句

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 36: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

兼は楚の人々の用語である卿何馬

(あなたはどうして)と言うのと同じである

(3T)

というあるいは状況語の例としてほ九華中の情話篇

「心欝邑余陀傑号」の句に射して章句は次のよう堅1日って

楚の人々は心に思うところが貴行できず菊落ちして立轟くすことを陀倭という

これら楚人の語による注樺は王逸が楚の文化圏の中で育

ったことに由来する楚地方の方言に封する知識を援用しての

ものであ

ったしかしtより重要であるのは軍にその地に成長したことから地方的な用語に知識があ

ったというに止まら

ず王逸が楚の地方における楚節の俸承に深く関わ

っていたと推測されることであるかれは離騒後穀の中で「自分の知

るところと識るところとを基礎に古くからの注樺に考え経書やその注樺に考え合わせて十六巻の章句を作

った」と言

ていたもし強いて区分をして言うならば「知るところ」と言うのが楚の方言など日常的な見聞の中で得られた知識であ

りそれ以外に

「識るところ」として楚文化地域で〝

数え侍えPrime

られてきた楚節の侍承から得たものがあ

ったのである

唯南王劉安の楚鮮注揮

-

楚文化圏における楚蔚俸承

前漠の武一帝は准南王劉安に命じて

「離騒俸」を作らせたこのことは「史記」

八巻の劉安の本俸には見えな

いこ

(iu

れに言及する記事の出現は後漠時代に始まるようである「漢書」巻四四の准南王博には次のようにいってい

嘗時武一帝は文化垂術を愛好していたのであるが劉安が自分の伯父にあたり非舌に優れ博識であ

って詩文を巧

みに作れることからとりわけ彼を重んじた劉安に返事の手紙を書いたり自分のほうから手紙を迭

ったりする際には

いつも司馬相知らを召し寄せてその草稿を鮎換させたあと拳法するのであ

ったあるとき劉安が朝兄をして自分

が著した

「内篇」の新しくできあが

ったばかりのものを献上したところ武商はそれが菊にいって秘殖して人には

見せなかった[また武面が劉安に]命じて

「離騒侍」を作らせたときには旦

(夜明けがた)にその詔を受

て日

王逸

「楚辞章句」をめぐって

九五

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 37: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

食時には

[もうそれが完成して]献上されたのであ

った

日食時とは常時の時刻の呼構次に見るように食時目早食時などとも書かれているが陳夢家の漠筒などの資料を

考え合わせた説によれば漠代の夜明けから日中までの時間呼稲は卒旦(旦)-日出-蚤食

(早食

目早食時

)-食時

(日

(訪)

食時)-東中-日中の順に配列されてい

季節によって奨動があるであろうが且から食時といえば三四時間と

いう

ことになろうかこの劉安が短い時間の内に作り上げたとされる

「離騒博」をめぐ

ってこれまでに多くの議論が交わされ

て来たその議論の焦鮎とな

ったのはへ劉安が作

ったものが果たして

「離騒博」であ

ったかどうかという鮎に関してであ

って

資料にょってその呼び名に-い違いがありそれをどう解稗するかについての意見が

一致しないのであるこれを離

騒嘉

「俸」だとするものとして「漢書」本俸のほかにすでに引用した攻囲の

「離騒経章句」の寂にも「准南王は離騒侍を鼓

して次のような意見を述べた云々」とあ

ったくだ

って劉魂の

「文心離龍」排騒篇に

「むかLt漠武は騒を愛し准南は博を

V砺爪

といっているのも劉安が作

ったのが

「離騒博」であ

ったとするものである

それに封Lt劉安が作

ったのは離騒の

「賦」だとする資料もほぼ同じような数で存在しているたとえば苛悦の「漠紀」

武一帝紀には「あるとき劉安が朝見すると武一帝は劉安に離騒の賦を作らせた且にその詔を受け食時にはそれが完成

(28)

てい

とある同様に

「離騒賦」の名を奉げるものに後漢の高誘が自からが著した

「涯南子」の注輝に付けた序文があ

りそこには

「孝文皇帝は劉安をはなはだ重んじ詔して離騒の賊を作らせたところ且に詔を受けて目早食時には完成

(訓)

してい

という現在の

「港南子」叙目のテキストには武一帝ではなく文面が劉安に詔して

「離騒の賦」を作らせたと書

かれているのであるがそれは序文の直前の部分に

「属文皇帝」という

1句があるのに引かれたことによる書寓の過程

でのテキストの乱れによるのであろう「文心離龍」は排騒第では劉安が博を作

ったと言いながら同書の所思篇の中

には

3昭E

「准南は終朝にして騒を賦

とあ

って劉安が作primeった作品を賦するものだとしている

さらに武帝の命を受けて劉安の作

った楚節の注樺が

「離騒経章句」とも呼ばれたことはこれもすでに引いた王逸の

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 38: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

「離騒後叙」に見えるところであ

ったこの章句という呼び名は「惰書」経籍志にも見えて「あるとき漠の武帝は涯南

「3)

王に命じて楚節の章句を作らせた且に詔を受け食時にそれを奏上したその書物は今は失われた」といっている

この劉安が武帝の命令を受けて作

ったとされる書物

(作品)が元来なんと呼ばれておりどのような内容のものであ

ったのかという問題をめぐって古-より多-の人々がさまざまに意見を述べて来て楚節をめぐる繁訴の府の1つとな

って

いるそうした種々の意見のなかでも特に目覚ましいのが何天行の劉安が作

った

「離騒賦」とは茸は現在の楚新中の離

騒篇そのものであ

って楚節は推南王劉安が作

ったものなのだという議論であ

って何氏はその説を展開して

一筋の書物に

(32)

纏め上げているただ何氏の説のように楚節の成立を前漠中期にまで引き下げることは鮮賦文学の馨展過程やそれに反映

している思想の歴史的な展開経過から考えてもいささか困難であろう

王念孫は「讃書雄志」四之九離騒博の項において離騒博と離騒朕との二つの呼び名が存在することを調停しょうとし

())

て次のような議論を展開している

[「漢書」推南王安樽には]劉安に

「離騒侍」を作らせたところ且に詔を受けて食時にはそれを献上したとあ

その顔師古の注にいう樽とはそれに解樗し説明を加えることでたとえば

[詩経の注樺である]

「毛詩侍」のような

わたくし

ものであると念

考えるに[漢書本文の]侍の字は博に作るべきであろう博と既とは古い時代の用字法では通じ

たのである(「尚書」皐陶業篇に敷納するに言を以てすとあるが[それを引用した

「漢書」]文面紀では敦を博に作

り偉公二十七年の

「左侍」では賦に作

っているまた「論語」の公冶長篇に「其の賦を治めしむべきなり」とあるが

「経典揮文」はその賦の字について梁の武面は魯論のテキストは博に作るというtといっている)離騒博を作

せたというのは離騒篇の大意を要約してそれを題材にした朕を作らせたということである劉安は耕舌に巧みで虞い

知識を持ち文章詩歌を善くした

(そのことは「漢書」の上文に見えた)だから彼に

「離騒の賦」を作らせたのである

この下に績く

「漢書」の本文に劉安はさらに頒徳および長安都国の頭を献上したtという[「漢書」]重文志

には

王逸

「楚軒章句」をめぐって

九七

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 39: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

九八

港南王賦八十二篇が見えるこれらの賦頒作品と

「離騒の賦」とは同

一範晴に入るものである

[ので「漢書」はこれ

らを

一績きに記述しているのである]もし離騒篇を解樺した「毛詩侍」のようなものを作らせたというのでぁれば

劉安は確かに優れた才能を持

っていたとはいえどうして早朝に詔を受けて食時にその書物を完成させることができた

であろうか--「太平御覧」皇親部十六は「漢書」のこの部分を引用して離騒既に作

っているこれは顔師古がよ

ったものとは違うテキストを見ていたのである

このように王念孫は「漢書」の問題の部分は元来離騒博

(離騒賦)と作られておりその

「離騒

の賦」とは楚節

の離騒篇の大意を取

って作

った

一種の文学作品だ

ったとするのであるこの王氏の説ははなはだ巧妙なのではあるが果た

して文学としての既が博と書かれることもあ

ったかどうかとい-部分について確かな澄接が奉げられておらず議論の詰め

が十分に固められてはいないと言えよう

王念孫のようにへ劇安が作

ったものを

「離騒博(賦)」だとLtそれは離騒篇を粗述した文筆作品であ

ったと考える説はむし

ろ少数坂であ

って現在の大勢は現行の

「漢書」のテキストの

「侍」の字をそのまま取

って劉安は離騒篇に封する注帯を

ったのだとする傾きにあるそうした説を代表するものとして溝圃恩

「楚節講録」第二講中推南王劉安離騒樽の部分に

31E5E

見える議論を次に紹介してみょ

わたしが考えるに「港南子」の高誘序も

[現行のテキストのように離騒既と作るのではな-]もともと離騒侍

と作

っていたのであ

って後に書寓する者が侍の字を博の字に誤

ったため俗人が

「漢書」を見ることなく博の字では不可

解だとして勝手に既の字に改めてしま

った好事の者がさらに

[改められた准南子の序に]

よって「漠紀」をも書

き改めたのであるだから版本の上からは劉安が

「離騒の賦」を作

ったと澄明する事はできないのであるさらにまた

鮮既の特徴としてそれらは必ず韻を踏むもし

「離騒の賦」であ

ったなら嘗然他の既と同様に全て韻文であ

った

はずであるしかるに「国風は色を好むも樫せず」から

「日月と光を苧うと言うも可なり」までの[劉安のことばの]一

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 40: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

段は韻も踏んでおらずまた既の文健にも似ておらずかえ

って序

賛や通樺の形態にょく似ているだから文章の

形態の鮎からいっても劉安が

「離騒の賦」を作

ったことを澄明はできないのであるまた考えてみるに前漠時代には

新駅の形式で文学議論をするという菊風はなくましてや

〔離騒の既といったふうに〕書名や古人の作品の篇名を取

って

既の題名とすることなどありえなかった陸機が

「文の賦」を作

ったことに始まり唐の白居易が

「賦の賦」を作り李

益が

「詩に六義あるの賦」を作

ったりして始めてこれら節賦にょって文学を論じる作品が出現することにな

ったのであ

とがめ

る古人の書名あるいは他人の作品の篇名をと

って賦を作ることはおそらく後漠末期の張超の

「青衣を諮

の賦」

(「育衣の賦」は桑島の作)に始まるであろう前漢時代にどうしてこのような種類の鮮既が産み出されることがあ

った

ろうだから節賦の登展過程という鮎から見てもt劉南王が

「離騒の賦」を作

ったと讃明はできないのである

このように三つの鮎から劉安の作

ったのが賦作品ではありえないと論じたあと塀氏は劉安が作

ったのが離騒篇に封

する注樺であるとすれば注帯がそんなに短時間に作られ得るはずがないする王念孫の疑問に答えて彼が作

ったのはきわめ

て簡単な注樺であ

ってほとんど序などと同様のものであ

っただろうと推測している

この湛圃愚民の議論にも疑問がないではないたとえば侍と博の字について書籍の誤りや俗人の妄改好事者の書き

改めと都合のよい偶然を多用して説明を付けているのは王念孫の停

既の三字についての書き誤りと通用とを利

用した説明とあまり違いのないやり方だと言えようまた引用されて部分的に遣

っている「国風は色を好めども淫

せず」

以下の劉安のことばが韻文ではないことから彼が作

ったものが賦作品ではありえないとしているのはこれらのことばが楚

節の離騒篇あるいは劉安自身の離騒に関する著述を

「鼓した」ものである

(すなわち劉安が作

った注程の本文ではない)と

している溝氏自身の考えと矛盾するであろう

この「漢書」劉安侍の1記述をめぐ

っての侍と博

(賦)との二字のうちどちらが元来のものであ

ったかという論争も

封象とする時代が古く基礎的な資料が十分でないことから容易には決着が付けられないものである私はむしろ劉安が

王逸

「楚伽藍早句」をめぐって

九九

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 41: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

TOO

ったとされるものをめぐり古くから二種類の記録があること自体を重視したいと思うすなわちどちらか

1万が正しく

他方は誤りなのだとするのではな-後漢時代には劉安が離騒篇に関して作

った作品についてそれを注程だとする言い方

とそうではなく節既的な作品であ

ったとする言い方とが並行して行なわれていたのだと考えるのである

この劉安が作

ったものを注輝だとする考えと離騒篇の大意を述べた節賦作品だとする考えとの両者はどうしても二者

一で

7万を取り

1万を捨てねばならないものなのであろ-かそうではなく

後漠時代に侍えられていた劉安の離騒章句

はこの両側面を兼ね備えていただからそのそれぞれの側面のみに言及した

一見したところ矛盾をするような二種類

の記録がのこったのだと理解することはできないであろうかもしそのように考えることが可能であるとすればそうした性

質の作品はさきに分析した王逸

「楚鮮章句」の注樺形式の中で節-形式と呼んだものが注樺であ-ながら同時にま

た楚節の一篇を素材とした文学作品とい-性格をも兼ね備えていたこととその特質が重なりあうことになるのである大腰

に推測をすれば劉安が作

ったとされる離騒篇の侍(悼)あるいは章句は王逸の

「楚辞章句」中に留められている第-形

式の注と類似した形態のものであ

ったそれは

1万では確かに離騒篇を解樺したものではあるが他方その注程の文健は

韻文であ

って離騒篇を素材としつつ注帯者の自由な文学的婁想を盛り込むことを許すものであ

ったのである

劉安が早朝に命令を受けて日食時にはすでに

「離騒俸」を完成していたというのはおそら-は彼が作

ったとされる

「離騒博

二章句」に付随して行なわれた侍説の一つであり劉安の才能を誇示するために完成のための時間の短さが強調され

たものであ

って言われている時間をそのままに受け取る必要はないであろうしかし逆にまた漠代に侍えられていた劉安

「離騒樽

章句」の内容が優れた才能を備えた者であれば短時間のうちに完成できるであろうと思わせるものであればこ

そこのような侍説も流博しえたのであるに違いないすなわちそれは注稗ではあるが個々の字句にこまごまとした注

解を加える煩境で詳細な内容のものではありえなか

ったそうした保件に適合するものとして劉安が作

ったとされるもの

「楚節章句」中の第1形式の注と同様の形態の作品であ

ったと償走してみることはこの問題に封する

1つの解答として

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 42: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

無意味ではないであろうもし第-形式の注樺のように原文の一句ごとに短い韻文の句を挟んでゆくというものであれば

楚の膏都であ

った毒春を中心に国を建てて楚文化特に楚節に精通していた劉安であれば短時間にこのような注樺を書き

上げることも可能だと嘗時の人々は承認することができたはずである

(35)

劉利

「讃王逸

《楚轡章句》」の論文は王逸の

「楚轡章句」に先立つ楚筋注程の流れを二つの系統に分けているそ

つは民間で教え侍えられてきた系統のものでありもう

一つは上層階級の中で侍えられた系統のものであ

って後者には

司馬遷劉向揚雄班固賀達などの聾者たちが関わっていたとするのである私も同様に王逸の楚鮮注樺は二つの性格

の異なる楚節の停承の統合の上に成り立

っていると考えるただ劉利氏が民間の停承とした系統のものの性格の理解につい

てはいささか観鮎を異にしている劉利氏が民間の停承とするものを私は楚文化圏での俸承として理解しょうとするの

であるすなわち圭として漠の国都で皇帝や宮廷の文人たちに愛好され

一流の学者たちがその注樺に関わっていた楚箭

文学の流れとは別に楚文化が色濃く遣存する地域に異なった性格の楚蔚侍承の流れがあ

った中央における楚節作品の享

受と屈原の虞世についての理解とはそれらを封象化し客観的に評債を加えようとするものであり屈原の生き方に封する班

間の冷徹な覗鮎がそれを代表するものであ

ったといえようそれに封して楚文化地域における楚節の樽承は楚節を自分た

ちの文筆だとするものであ

って多分に主観的で地域文化至上主義的な傾向を色濃-博えていた後者の侍承の中にある人

人にと

って楚節作品とその作者とされる屈原とはアプリオ-に租述すべきものであり栴賛すべて封象であ

ったのである

王逸の楚節撃はこの二つの流れを練合したものであ

って強いて区分をすれば「楚軒章句」中の第Ⅰ形式の注の部分は

中央の知識人的な楚節季を承けるものであり第-形式による注の部分は楚の文化圏での楚鮮停承を引き継いだものであ

たと考えてよいであろう第El形式の注稗の中に「或日」「或云」として引かれている異説は中央での楚鮮撃の蓄積を反映

したものでありまた楚鮮本文を強いて経書の額と結びつけて解樺しょうとする

(l艮くない)傾向も斑固らの注輝方法の

王逸

「楚酔章句」をめぐって

一〇一

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 43: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

楚地域における楚蔚俸東

一中央における楚酔博承

屈原

楚欝諸作品

劉安

離騒博

章句

質誼

「弔屈原賦」

司馬遷

天問論

司馬遷

「史記」屈原俸

uarr

劉向

楚辞

六巻

揚雄

「反離騒」

劉向

天問

揚雄

天問解

班固

「離騒章句」

〝無病

の坤

〟の諸作品

質達

「離騒章句」

王逸「楚辞章句」士

ハ巻

L

表二 二つの楚鮮博東

一〇二

影響を受けたものであるに違いないしかし王逸はこれら二つの楚辞解

樺の侍続を統合し注樺の形態としては宮廷を中心とした楚辞撃を引き纏い

だ面が大きかったのではあるがかれが粧国の屈原評債を正面から批判して

いることからも知られるようにその楚節理解の基本的な立場は楚文化圏

における楚節樽承を基盤に置いていたのであ

った

真二に二つの楚節樽承の流れについてのわたしの考え方をきわめて簡

略に囲示したこの中の楚地域における侍承の部分に見える諸作品はい

ずれも停説的なものであ

って作者作品ともに必ずしも歴史的な存在で

はなかったことにご注意をいただきたい

王逸が楚軒の各作品の前に冠した鋲の中で楚鮮文学の侍承のみならずその形成にも楚人の力が大き-輿かっていたと

強調していることはすでに見たとおりであるすなわちこの楚文化圏へおける楚節の侍承において注目すべきはそこで

は楚節が過去に作られ輿えられた封象として存在していたのではなく現在白からも楚節の形成と停承とに直疫に関わ

っているのだという意識をも

って文筆活動が行なわれていたことであるその内部にある人々は楚尉文学を現在も生み出し

つつ侍承する者であ

ってけ

っして客観的な批評者や純粋に作品の意味を解稗する注輝者ではなかったそうした人々の楚節

への関わりかたの一つの形が

「楚鮮章句」第-類の形態の韻文の製作であ

ってそれは軍に注樺であるに止まらず侍承者

自身の楚新鶴を基礎にしつつ新しい〝

楚酎Prime

作品として増殖されてゆ-ものでもあ

ったのである

このように見てくるとき王蓬が

「楚節章句」を纏めるにあたって嘗時屈原の作品と認められていた屈原賦二十五篇に

って注帯を付けるのではなく「無病の坤吟」としてあまり評判の真-ない楚節を模倣した漢代の作品群をも含めて注帯

を施したことの意味も明らかにな

ってくるであろう現行の

「楚節章句」においてそれら漠代の楚辞模倣作品群の最後に置

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 44: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

かれている王逸自身の九恩の中から逢尤第の一部を引いてみよう

悲号愁

表号憂

天生我号嘗闇時

被琢讃号虚猿尤

心煩憤号意無聯

厳載駕号出戯遊

周八極号歴九州

求軒榛号索重華

世匪卓令達沙沙

握侃玖号中路揮

悲しみて愁い

哀しみて憂う

天が私を生まれさせたその時代は闇の世であ

った

非難と蔑言とを被り理由もなく春めを受けて

心は煩悶Lt菊持ちは安らぐことがない

[その気持ちを安らげようと]馬車を用意してはるかに遊行し

八方の地の果てを経巡り九つの州を歴訪して

軒撞

(葦帝)を尋ね重華

(舜一帝)に脅おうとするが

時代は隔たりはるかに遠い

[捧げ物とすべき]親玉を手にしたまま中途でたちもとおるのである

これは一例ではあるがここからもこれら楚辞模倣の作品が安易に元来の楚辞諸作品の枠組みに接りかかってオ-ジ

ナリティの希薄な「無病の坤吟」と許されてもしかたがないものであ

ったことが窺われようしかしこのことは王逸らに

楚節の形式をかりて自分自身がこの世界に在ることの意味を直観したたとえば貿誼や揚雄にょって作られたような作品

が作れなかったことを意味するのではない彼らの制作姿勢は楚節の形式をかりて自からを表現するということに重鮎が在

るのではなく楚節の作者になりかわ

ってその境遇と感情とを代言するものであ

った作品の中に

「闇の時代」とあれば

それはあくまでも屈原の時代の敢骨や政治の混乱を指すものであ

って直接に漢代の状況を合意するものではなかったので

あるこうした制作姿勢である以上その結果は必然的に

「無病の坤吟」ならざるを得なかったであろうそれが楚節の侍

承がその博承の中にある作者たちに封して加えた作品制作上の規制であ

ったのである

これら漠代の楚節模倣の諸作品は楚文化圏における特徴的な楚蔚侍承の中から生み出されたものであ

ったすなわちこ

王逸

「楚蔚章句」をめぐって

一〇三

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 45: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

1〇四

れらの作品の作者たちは彼ら自身の楚節理解を基礎にしつつ楚節作品を増殖させることを通じて楚酢の樽承に加わろう

としたのであ

ったさらに注目すべきはこれらの作品がその制作の精神もその具健的な内容も「楚節

句」第

-類の注

輝と重なり合うものであ

ったことであるすなわち第-類の注稗の文句を楚軒の本文から切り離して猫立させれば四言

という形態上の制約はあ

ったにしろその内容は王逸の九恩篇につながる漠代の楚鮮模倣の諸作品に近いものとなりえた

そこでは注稗者が屈原になり代わ

って身の不遇を嘆き世の混乱を憤ることを専らにしているのである

加えて楚節文撃の形式を考える場合に特に重要であるのはこのような楚文化圏での楚鮮停承の特徴的様相が漠代にお

ける侍承の特徴であるに止まらずその源流は時代を遡

って戦国時代の元死の楚節作品形成期にまでたどることができる

であろうことであるすなわち第-類の注樺の典型的な形態は四字句形式でその第二句の第三宇目で韻を踏むことにあ

った責はこの形式は楚鮮文撃が号の字を用いて句づく-をする典型的な軒賦形式のもののほかに古くよ-停え来てい

たもう

一つの句づ

くりの基本形態であ

ったのであるたとえば天問篇の中でも特に古層に屠するであろう問天

(天につい

ての質問)と呼ばれる部分に

日蓮古之初

上下未形

誰侍道之

何由考之

冥昭曹闇

漏巽惟象

明明闇闇

陰陽三合

誰能極之

何以識之

惟時何馬

何本何化

この形態の四字句を見ることができる天問簾の冒頭部分は次のようである

そもそも時間の始まりのときのことを誰が言い備えたのか

天地がまだ形を成していないのになにを手がかりにそのときのことを考えることができ

るのか

闇と光とが入り交じる中で誰がそれをきわめることができたのか

ぼんやりと事物の影だけが存在するときどのようにして識別することができたのか

光が光に闇が闇にと区分されたのはなにがそのような作用をなしたのか

陰陽がこもごも結合して

[甫物が生み出されたとされるが]なにが根本となりなにが

生したものなのか

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 46: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

囲則九重

執皆度之

惟義何功

執初作之

丸い天は九重から成るが誰がそれを設計したのか

天ができたのはだれの仕事で誰が始めてこれを作

ったのか

この天問篇の最初の部分に見える四字句の基本形態は四字句二句を

一単位とLt二軍位づつで換韻してゆ-その韻は

一軍位の中の第二旬日の第三字で踏まれる

(そのあとの第四字は助節的なものである)例に示した天問篇では「明呪闇闇」

以下の四句がいささか襲形はしているがほぼこのような四字句の定形形態を抽出することができそれは第

-形式の注の

形態と重なるものなのである

楚餅の中でもう

一つ四字句形式を基本にして作られている作品が九章の中の橘項第であるこれもその冒頭部分を

示せば次のようである

后皇嘉樹

橘殊服号

受命不遷

深国難徒

緑葉素柴

生南国今

更萱志号

紛其可喜号

天帝に愛でられた佳き樹木橘がこの地にや

って来て根づいた

天一帝の命令をかしこみ他の地には行かず南国に芽生えたのである

深く根を下ろして他に移し難いのはひたすら

一つの志を守

っているのである

緑の葉白い花その盛んに茂るさまはまことに喜ばしい

ここでは第二句の四宇目に号の字が用いられているがその前の第三宇目で韻が踏まれており基本的な形態は天問篇冒

頭に見えた四字句形式と

1致しまた

「楚轡章句」第

-形式の注稗の形態とも重なりあ

っている

このように四字句の句形は楚尉文撃の流れの中において主流を成すことはなか

ったにしろ天問篇にそれが用いられ

ていることからも知られるようにも

っとも遡る楚節文学の源流の中にすでに存在していたと推定されるそれが典型的な

鮮賦形態の句形と並行して侍えられ両者あいま

って楚尉文垂の全健を構成していたのである「楚軒章句」中の第-形

注樺が軍に楚鮮本文の解帯というに止まらず猫立した作品としての様相を持つのもその古い乗源を引き継いだ性格であ

ったと考えることができるであろう

王逸

「楚節章句」をめぐって

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 47: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

一〇六

こうした第-形式の注樺にも見られるように楚文化圏の楚節侍承にあ

ってはその停承に関わ

った人々は軍に前から

の作品を受け継ぐのみならずさらに積極的に楚辞を組述する作品をのこしたそれが彼らが楚節の侍承に関わる特徴的な方

式であ

ったのである王逸もまた

T楚轡章句」を著すと同時にそうした樽続に則

って九恩篇を作

ったのであ

った九思篇は

王逸が楚地域の楚節停承に関わ

っていたことの具健的な苦しでありおそら-元来は

「楚轡章句」に付随してその全健の寂

のような意味をもって行なわれていたものであろうさればこそ王逸は自からの

「楚鮮章句」を十六巻と数えて元来は

九思篇を楚節の篇数の中に入れていなか

ったのである王逸に先立つ東方朔の七諌篇や劉向の九嘆篇などの作品もまたそ

れぞれに楚文化圏的な楚節の侍承に輿か

ったことの表明として作られた作品であ

ったと推定されるのである

中央の宮廷を中心とした楚節の享受に関しての記述には歴史的事茸の記録としての性格が強いのに封して楚文化圏での楚

節侍承にまつわる記録は多分に侍説的である劉向打楚尉十六巻の編纂さらに遡

って准南王劉安の離騒の注薄また司馬遷

劉向

揚雄にょる天問簾の解説なども楚文化園内での楚節侍承にまつわる借家であ

って元来そうした事責があ

ったか

どうかは確かめようもないものであるもちろんここで歴史的事実と侍承時事賓とを匡別するとき歴史的事葺の方が贋値

が高いと言うのではないむしろ文撃の創造にあた

っては侍承的事責の方が大きな力を持ち作品を生みだし績ける原動

力となるのが常なのである

王逸は劉安が作

ったものを

「離騒経章句」と呼び攻囲

貿達らの注樺も

「離騒経章句」と呼びまた自らの注輝も

「楚

蔚章句」と呼んでいる離騒簾を経だとLt楚新中のそれ以外の篇を離騒経に封する侍だとする考えが王逸以前にすでに

存在したかどうかは確かめがたい劉安や斑固

賓達らの章句がみな離騒篇を経として命名されているのはむしろ王逸が元

来の名前を襲えてそう呼んだ結果である可能性が大きいであろうそうしたことからすれば劉安らの注樺の章句という呼び

名もまた元来の呼稀であ

ったかどうかは確かめにくくむしろ王逸自身に章句と呼ぶ作品に封する

一定の観念があ

ってそ

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 48: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

れに嘗てはめて劉安以下の作品がそのように呼ばれた蓋然性が大きいであろうそうしてそうした彼の章句の観念もまた

中央のものとはいささか異なる楚文化園的な特徴を備えたものであ

ったと推定される

漢代の経書解樺の学問が章句の撃と呼ばれたことはよく知られているところであるしかしなぜそれが

〝章句Prime

と呼ば

れ具健的にどのような形式と内容の学問であ

ったのかについてはあまり説明がなされていないその1つの理由は章句

の撃という場合その多-が否定的なものとして取り上げられその煩墳な

一面だけが強調されているため具健的な内容が

(36)

知りがたいからであろう楚節に関わ

った人々からその例を挙げれば「漢書」揚雄侍には次のようにある

揚雄は若くして壁間を好み章句は為さず訓話は意味が通じる程度でよいとした

(iI)

あるいは

「後漢書」の攻囲博にいう

攻囲は定まった師について学問をしたのではな-章句は為さず大きな意味が把握できればよいとした

このように自立した思想を持つ人々にと

って章句の撃は堅苦しく煩わしいものであり経書やその他の作品はその根本

の意味が理解できればそれで十分だとされたしかし彼らの侍記に

「章句を焦さず」とわざわざ記されていることはそれ

が特異な例であ

って逆に一般には章句形式の学問が贋く行なわれていたことを意味するにちがいない(ちなみに言えば

揚雄

攻囲はともに正史では章句を為さなかったとされているが王逸は彼等が離騒経章句を作

ったとしているこの

こともかれらの注樺の章句という呼び名が楚文化圏での命名によるものであ

ったろうことを示唆する)

章句の撃の学問的内容はさておいてその形態的な特色を見ればそれは師からの侍投を重んずるものであり侍授される

ものもその内容が固定していたたとえば「後漢書」章南紀に載せられている建初四年十

1月の詔に中元元年の詔書を

引いて「五経の章句は煩多でありそれを則

って簡単なものにしょうとの議論が出た」とあるように朝廷における章句の

撃は樽授される内容白燈の形が定ま

っていて襲東のためには公的な認定が必要であ

ったのであるより民間的な暦におい

ても師から停授される定ま

った経典解程の文句を覚えるのが章句の撃の中心をなしたであろう

王逸

「楚鮮章句」をめぐって

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 49: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

一〇八

ちなみに言えば後漢時代も終りに近づくころ中央の太撃の学生たちは清議の政治運動につながるであろう社合的風潮

の中で章句の撃に見向きもしなくなり儒者の風が失われたとい-「後漢書」儒林侍の序は後漢

一代の学問を概括

した

31雌E

中で次のようにいっている

光武帝が漠の王朝を再興すると経書学術を愛好し--建武五年には太撃を建て古いしきたりに則

った教育が行な

われた--明帝が即位すると--功臣の子孫や外戚の貴族の遠縁の者たちのために別に校舎を建て優れた才能を持

つ者たちを選抜して彼らに授業を行なわせた期門部や羽林部といった近衛の兵士たちまでみな孝経章句に通じさせ

たのである旬奴もまたその息子を入学させるため派遣して来た--本初元年梁太后が詔を下し大勝軍から六

おく

百石の官僚に至るまでみな息子を都に

って学問を受けさせるようにと命じた-それ以後遊撃する者が増加し

畢生の数は三寓人をこえるまでに上

ったしかし章句はだんだん疏かにされるようになり多くの者たちは浮華の言動

をもてはやし合

って儒者の風は衰えていったのである

後漢時代末になると現在でもそうであるように七面倒くさい基礎的な草間である章句をなおざりにして大向こう受け

のする評論的な言動ばかりが好まれるようにな

ったといささか遺憾の意を込めて述べられているしかし同時にまたこ

うした風潮の中から師投の墨守を中心とする漢代の章句の撃に代わ

って個人の自立した思考を基盤に据えた親晋の新し

い撃問が生み出されて乗るのである

(39)

章句の撃が〝

章句Prime

と呼ばれたのはこの学問の基礎が経典に句賓を打つことに在

ったからであろうと呂恩勉は言う確

(刺)

かにたとえば

「後漢書」桓評

[桓欝は]博学にして多通あまねく五経を学んでそれぞれにその大きな意味に訓話をあたえはしたが章句は為

さなかった

とありその李貿注は

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 50: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

章句とは章を分かち句を妨じてその隅々まで詳しく解樺することをいう

と言

ってその基礎が章と句とを分別することに在

ったとしているあるいはまた陳毒

「三国志」奥書二

(呉圭侍)の襲松

(41)

之注に引かれる

「奥書」に

呉壬孫樺は--暇な時間には贋く経書やその注揮歴史書などを讃んで参考に資するため平凡ならざる事柄につ

いての情報を得てはいても書生のたちのようにひたすら章を尋ね句を分析するといったことはしない

とあるのも章や句に密着して解樺を行なう章句の撃を孫権の貫用主義的な学問と封比させたものである

章を分かち句を妨じて経書の本文に句講を付けるといっても直接に句著を入れるべき位置だけを畢生に教えるのではな

く句ごとに定ま

った注樺の言葉を挟んで教授をしたであろうその場合特に章句の撃の特徴が師から侍捜された解樺を

墨守するところにあ

ったとすれば韻文を用いてその解輝を暗記するための候を計ろうとするのはむしろ嘗然のことである

すなわち

「楚琴章句」の第-形式のような定まった句形と押韻とを備えた注帯が章句の撃の全てではないにしろその

中の1つの形式として行なわれていたであろうと推定されるのである

この小論の最初に「楚欝章句」の韻文形式の注が

「易」の象侍を継承したものかも知れないとする

「四庫提要」の説

はあ

るが私自身は「楚琴章句」が直接に

「易」侍の影響のもとに作られたというよりむしろ漢代

にはこうした形式の注輝

の流れがあり両者が類似するのはともにその流れの中にあ

ったことの表われであろうと推測すると述べたすでに紹介し

た劉利

「京王逸《楚軒章句》」の論文にはまた漢から魂晋にかけての注樺の中に見える韻文についての言及がいくつか見え

るたとえばこれも後漠のもので章句と名の付く趨岐

「孟子章句」について各章の最後に韻語の形式でその章の内

容を纏めた注語が付けられていること魂の王弼の

「周易」注にも韻語がまじること「爾雅」の本文にも韻文の部分が

れることなどがその例として奉げられている中でも

「爾雅」樺訓第の

子子孫孫引無極也

子々孫々とはながく極まりなきなり

王逸

「楚軒章句」をめぐって

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 51: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

版栢印印君之徳也

版栢印印たるは君の徳なり

TT喫喫相切直也

TT喫喫たるはあい切直するなり

とあるような形式はそのまま

「楚鮮章句」の第-形式の注の形態に重なるものである

おそら-はこうした韻文形式の文句は常時の師授の形式と不可分のものであ

ったであろうしかもそれは儒教の経書

や楚節などの教授だけには限られなかったたとえば道教の最も古い経典の一つ「太平経」の中に次のような部分があ

(42)

虚元老乃内賓外虚也有若無也反其胞胎輿道居也濁存其心願龍慮也途薦神童衆道虚也

虚無というのは内部が充貴していて外部がから

っぽなのである存在しながら存在せぬかのようなのである元来

の胞胎の中に蘇

って道とともに居るのである自からの心だけを大切にして龍慮を遠ざける

()のであるそ

のよ

うにして両の部屋を作りそこに道の虚を集めるのである

ここでは虚無という概念の説明が「楚蔚章句」第-形式の注稗と同じ句形の韻文でなされている「太平経」では引き

績き無為自然之法などの語についても韻文形式による説明がある太平敦園の中でどのようにして信者たちの教育が

行なわれていたのかについてその具健的な方式は知られないがこれら道教における重要な概念についての韻文形式の

説明の文句は信者たちの暗詞に供するものであ

ったと考えることができよう

このように「楚節章句」第-形式の注樺に見られる韻文形態は軍に楚節の侍承のための様式というに止まらず漠代

社食の上下の階層を通じて贋-行なわれた

(そうしてそれは特に民衆的な場での教授に活用されたであろう)師按の方式に

共通するものであ

ったのである王逸が楚人たちが楚節を

〝教え侍えてPrime

きたと強調して言うその数えるという内容もま

たこうした韻語形式を中心とするものであ

ったと考えることができるのである

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 52: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

「魯の霊光殿の賦」の作者として知られる王延毒は王逸の息子であ

った

「博物志」はその王延毒の生涯を略述して

(脇)

次のようにいっている

王子山

(王延毒)は父の叔師

(王逸)とともに泰山郡に行き飽子虞から算術を学んだ[その後]魯国に行き

[魯

王の宮殿である]電光殿をうたった既を作

ったその節途湘水を渡ろうとして溺死をした

楚節の中には洞庭湖や湘水の水神の祭紀に関わる作品がいくつか収められておりその作者とされる屈原についても古

(44)

くより水神としての性格が見えてそれは現在の湖南

一帯の民間停承にまでつなが

っている彼が洞羅の淵に身を投じて死ん

だとされているのもその水面としての停承に由来するものであ

ったろう早く前漢前期の要誼が湘水に

「弔屈原文」を

投げて屈原を祭

ったとされるのもまた屈原の湘水の水神としての性格を窺わせる記録である「博物志」が王逸の息子

が湘水に溺れて死んだとしていることが果して事賓かどうかは確かめようもないしかしこうした停説の存在は王逸自身も

なお楚節をめぐる侍承的な世界の中に生きていたであろうことを象徴的に物語っているのである

荏(1)

「四庫全書継目提要」集部

一楚鮮類楚鮮章句十七巻

漠王逸撰--抽思以下諸篇註中牲徒隔句用韻如京焼結緒慮煩

菟也京悲太息損肺肝也心中詰屈如連環也之類へ不一而足

蓋伐周易象侍之鱒亦足以考遼漢人之韻而呉械以来談古韻者皆

兼敏引是尤宜表而出之失

(2)

以下に引用する

「楚辞章句」のテキストは漏紹組敷妙欝刊本

(塞

商重文印書館景印本)と黄省骨校本

(大阪大学懐徳堂文庫所蔵本)

との明版二種および寛延三年刊の和刻本とを校訂したものによる

なお存在の知られる

「楚蔚章句」のテキストとしてほ山東海源閣

蓄蔵の宋刑頚木が最も古いものであるが現在その所在が不明で

あるまた

「文選」李善注が援用しているもの洪典租

「楚新補

王逸

「楚群章句」をめぐって

江」が下敷きにしているテキストなども参考にした

(3)

「楚新補荘」巻十七九思序荘

逸不磨白鳥注解恐其子延幕之徒弟之爾

(4)

愈堪

「愈榛裸纂」第二十四責楚節

九思思丁文今聖明哲注丁営也文文王也心志不明願遇文

王時也愚按九思本王逸所作而逸郎自薦之荘自作自在-殊属

可疑今以此荘考之則知其決非逸所荘也--丁者武丁也

王也--文義甚明而荘者乃不知丁為武丁以嘗樺之使逸自作自

注へ何至有此謬乎

(5)

「楚夢章句」天間篇王逸後叙

叙日昔屈原所作凡二十五篇世相教停而莫能説天間以文義不

次又多奇怪之事自太史公口論道之多所不達至於劉向楊雄援

二二

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 53: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

引停記以解説之亦不能詳悉所闘者衆多無聞蔦既有解説

乃復多連塞英文浸潤其説故蕨義不昭徴指不膏自洋髪老廉

不苦之而不能照也今別梧之膏章合之経博以相登明薦之符

験章決句断事事可暁へ倖後学者永無疑蔦

(6)

子安潤

『漢魂六朝韻語』

1九三六年滑麻子氏叢書

(7)

1多

「論A九重V」社食科学戦績

1九八一年

1期林庚

「説

〝九

Prime」(『詩人屈原及其作品研究』

1九五七年古典文学出版社上

古籍出版社再版)岡村繁

「楚辞と屈原-

ヒーローと作者

の分離について」日本中園学舎報第18集t

l九六六年tなど

(8

)

蒋天梶

『楚尉論文集』

T九八二年隣西人民出版敢所収

(9

)

「楚肝章句」の解梓の中に見える玉名の問題については宮野直也

「王逸

『楚尉章句』の荘樺態度について」日本中国学合報第39集

1九八七年にも検討がある

(

10

)

林維純

「劉向編集A楚鮮gt]初探」墜南学報

(哲学牡合科学)

l九八

四年第3期

(11

)

蒋天梶

『楚節論文集』所収

(

1)

たとえば浅野通有

「湊代の楚節-

A楚節童句V成立への過程」

漢文学食合報第14韓

一九六八年tは東方朔の作とされる七諌篇

について「漢書」東方朔侍に「劉向が録した東方朔の作品の全て

を列挙」している中に七諌の名が見えないのに同じ劉向が編集し

た楚鮮十六巻に東方朔七譲が入れられているのは疑問であるとして

「この一事からしても楚節十六巻の編集を劉向とすることには

かなりの疑問がもたれる」というちなみに浅野氏のこの論文は

漠代における楚節の停東を要鮎を押さえて簡潔に纏めている

(13

)

「楚夢章句」離騒篇王逸後叙

屈原履忠被読憂悲愁思猪依詩人之義而作離騒上以訊諌下以

自慰遭時暗乳不鬼省納不勝培漁途復作九歌以下凡二十五篇

楚人高英行義韓其文采以相数停萱於孝武帝恢廓道訓へ使准

(14

)

一一二

南王安作離騒経章句則大義粂然後世雄俊莫不障仰嬉野妙思

麿逃其詞逮至劉向典校経書分以為十六巻孝軍即位へ深弘道聾

而斑国賓達復以所見改易前疑各作離騒壁署句其飴十五巻

関而不詮又以牡馬状義多諦異事不要撮今臣復以所識所知へ

椿之華章合之経停作十六巻章句錐未能究其微妙然大指之趣

暑可見臭-今若屈原膚息貞之質櫨清潔之性直若砥矢言若

丹青進不隙共謀退不顧其命此誠絶世之行俊彦之英也而班

固謂之露才揚己蔑於群小之中怨恨懐王讃刺板蘭苛欲求進

強非英人不見容約忠志自沈是戯其高明而損其清潔者也--

且詩人怨主刺上白鳴呼中子未知減香匪面命之言提其耳

風諌之語於新馬切然仲尼論之以為大雅引此比彼屈原之詞

優藩椀順寧以其君不智之故欲提携其耳乎而論者以薦露才揚己

怨刺其上強非英人殆失贋中央

宮野直也

「班園と王遠の屈原評債について」九州中国寧合報第26巻

一九八七年は班固

「序」の主張の背後には有数な訊諌をめぐ

っての議論の深化があ

ったとしているただ宮野氏が班園と王

逸との主張には大きな差異はなかったとしている鮎についてはい

ささか疑問がある確かに儒家的な立場という鮎では両者に共通鮎

が多かったであろうが楚酔理解の基盤が別個のものでありそれ

が二人の屈原評債の差異となって表われたのであろうと考えられる

こと本論中以下に論ずるごとくである

湯柄正

「A屈原列停V新探」女史第

1輯

1九六二年

「楚辞章句」王逸離騒経後鼓

若夫懐道以迷図伴愚而不言顛則不能扶危則不能安椀娩以慣上

逸巡以避息錐保黄萄終毒百年蓋志士之所祉愚夫之所膿也

小南

「朱烹楚節集注敦

」中国文革報第33筋

1九八一年tを参照

「楚鮮章句」天間農政

天間者屈原之所作也--以淀憤潜野潟愁思楚人哀惜屈原困

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

Page 54: Title 王逸「楚辭章句」をめぐって - 漢代章句の學の一側面 - 東方 … · の卦の象侍。の象侍をまねたものだと推定する。象侍の中から'これと類似する例を挙げれば、たとえば次のような部分がそれである。坤字の前の、究・肝・環の三字で韻を踏んでいるというのである。加えて「四庫提要」は'こうした押韻する注の形式は「易」

共論述故英文義不次叙云爾

(19)

「楚節章句」九章篇叙

九重者屈原之所作也--卒不見約委命自沈楚人情而真之世

論其詞以相停蔦

(20)

「楚節章句」漁父篇叙

漁父老屈原之所作也屈原放逐在江湘之閲憂愁嘆吟儀容襲

易而漁父渡世陰身釣魚江演欣然自契時遇屈原川揮之域怪

而間之途相願答へ楚人思念屈原困叙其辞以相停蔦

(

21

)

王士慣

「萄道嘩程記」巻下

(王漁洋遺書)

宜城麻山水頑劣而多産才子宋玉王逸段成式皆生其地

今叔師故宅在城南

(22)

「楚鮮章句」離騒篇

索壇茅以蓬等

〔章句〕楚人名結草折竹以卜日等

(

23

)

「楚節章句」離騒篇

蒐内恕己以量人骨

〔章句〕完楚人語詞也猶言卿何為也

(24

)

「楚節章句」九章

情誼

心欝邑余陀傑号

〔章句〕楚人謂失志憤然住立番柁傑也

(25)

「漠書」巻四四惟南王安侍

時武帝方好重文以安屠諸父韓博善為文節甚尊重之毎薦報書

及賜常召司馬相如等観草廼追初安入朝戯所作内篇新出上

愛顧之便薦離騒停且受詔へ日食時上

(

26

)

陳夢家

「漠代紀時」

(『漢簡緩速』

一九八〇年中華書局所収)

(

27

)

「女心雄諾」経験第五

(王利器

『女心離詫校謹』

1九八〇年上海

古籍出版敵)

昔漠武愛騒而唯南作俸

(28)

「漢紀」孝武帝紀三元狩元年

初安朝上便作離騒賦且受詔食時畢

(29)

高誘

「推南鴻烈集解」叙目

玉逸

「楚鮮章句」をめぐって

草丈皇帝甚垂之詔侯爵離騒賦自旦受詔目早食己

(

30

)

「文心離龍」所思第二十六

推南崇朝而賦騒

(

31

)

「隔書」経籍志集部

楚酢類序

幕武帝命惟南王為之章句且受詔食時而奏之其書今亡

(32

)

何天行

『楚節作於漠代考』

一九四八年中華書局上海

(

33)

王念孫

「講書雑志」志四漢書九離騒停

侯爵離騒侍且受詔日食時上師古日侍謂解説之若毛詩停

念孫案停営為侍樽輿購古宇通

(皐陶課敷納以言文紀敷作

侍偉二十七年左停作朕論語公冶長篇可健治其賦也樺文賦

梁武云魯論作樽)使籍離騒樽者使約其大旨而薦之賦也安痔博幸

薦文節

(兄上文)故使作離騒朕下女云安文献頒徳及長安都国

頭重文志有港南王賦八十二篇事典此泣柏額也若謂使解樺離騒

若毛詩停則安才維敏豊能旦受詔而食時成書乎太平御覧皇親

部十六引此作離騒賦是所見本典師古不同

(34)

藩閥恩

『荘園恩学術論文集』

一九八九年中華書局所収

(35)

劉利

「讃王逸風楚野草句V」徐州師範学院学報

(哲学敢合学科版)

一九八七年第2期

(

36

)

「漢書」雀八七揚雄停

雄少而好学不夢章句訓話通而己

(37)

「後漢書」列俸三十班固侍

所畢無常師不等章句撃大義而己

(

38

)

「後漢書」列停六九儒林俸序

光武中興へ愛好経衝--建武五年廼修起大学梧式古典--明帝

即位-hellip其後復為功臣子孫四姓末虜別立校舎捜選高能以受

其業自期門羽林之士悉令通孝経毒句旬奴亦連子入学--太初

元年梁太后詔日大勝軍下至六百石悉連子就学--白是遊学増

盛至三高飴生然章句漸疏而多以浮華相尚儒者之風蓋衰奏

二三

(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0

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(

39

)

呂思勉

「章句論」(『文字寧四種』

一九八五年上海教育出版紅所

収)

(

40

)

「後漢書」列俸十八桓誇停

博学多通編習五経皆訓話大義不夢軍句

〔李荘〕章句謂離章辞

句へ委曲横沢也

(

41

)

「三国志」呉書二呉主停襲松之荘引呉書

呉王錐有飴閑博覚書侍歴史籍採奇異不効諸生尋章摘句而

(

42

)

「太平経」巻

1百三

(合校本四六九貢)

(

43

)

「後草書」列停七十王逸侍李賢荘引

「博物志」

王子山典父叔師到泰山徒飽子農学算到魯妖雲光殿節度潮水

溺死

(44

)

たとえは『屈原的俸説』一九八三年中国兄童出版社

補註

楚鮮章句第1類の注樺の中にたとえは過字と離字との押韻

の例

(京都)があることはその注樺が部分的には前漢時代にまで遡る

ことを示唆するかも知れない音韻の専門家の検討を待ちたい0