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6
日本の仏教研究においてはほとんど問題としてとりあげられな s- 表したのはRobert Thurman (Buddhist Hermeneutics. Jo- urnal of American Academy of Religion. XLVI/1, 19-39, 1973 sm 会(The National Endowment for the Humanitiesとの共催)が ひらかれている。その学会では、インド仏教、チベッ卜仏教、中 発表がなされ、学会成果は一書にまとめて刊行されている(Bud- dhist Hermeneutics, edited by Donald Lopez. Jr ., Asian Buddhism University of Hawaii Press, Honolulu, 1988 .)。 において"Hermeneutics”の意味を「伝統的な聖典に対する合理

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Page 1: 〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, …...〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, 1971, V, 246, n. 2〕であ る。前者は、ブッダが直接その意味を述べた教えであり、後者は、

六研

文7

仏 教 解 釈 学

日本の仏教研究においてはほとんど問題としてとりあげられな

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表したのはRobert A

Thurman (Buddhist Hermeneutics. Jo-

urnal of American Academy of Religion. XLVI/1, 19-39, 1973

.)

長 崎 法 潤

 

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会(The National Endowment for the Humanitiesとの共催)が

ひらかれている。その学会では、インド仏教、チベッ卜仏教、中

発表がなされ、学会成果は一書にまとめて刊行されている(Bud-

dhist Hermeneutics, edited by Donald S

Lopez. Jr

.,

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Asian Buddhism 6

University of Hawaii Press, Honolulu, 1988

.)。

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において"Hermeneutics”の意味を「伝統的な聖典に対する合理

一17

Page 2: 〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, …...〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, 1971, V, 246, n. 2〕であ る。前者は、ブッダが直接その意味を述べた教えであり、後者は、

 R

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Legs bhsad snin po(善説心髄)をもとにして明らかにしている。

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(1)教え(dharma)そのものを依りどころとし、教えを説く人

(pudgala)に依ってはならない。(2)教えの意味(artha)にしたがい、

文字や語(vyanjana)に依ってはならない。(3)真の智慧(jnana)に

依り、迷いやすい人間の知識(vijnana)に依ってはならない。(4)

意味を完全にあらわしている了義(nitartha)に依り、意味が不完

全な不了義(neyartha)に依ってはならない。

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〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, 1971, V, 246, n. 2〕であ

る。前者は、ブッダが直接その意味を述べた教えであり、後者は、

弟子が完全に述べつくされた教え

を受け入れる準備がな

いので、

ブッダがその意味を暗示している教えである。

ビダル

マ仏教の解釈によれば、ブッダは、同

じ説法

の中で、

最初

は次第に真実に導くために不了義の教えを説き、そのうえで

了義の教えを説くこともありうる。しかしながら、大乗

のコンテ

クスト

においては、了義、不了義は異な

った意味をもつようにな

った。その例として

ーマンは解深密経における三法輪、すなわ

ちブッダの説法に三種あるとする経典批判をと

りあげて

いる。そ

れは、(1)鹿野苑でのブッダ最初の説法における四諦の教え、(2)諸

法はみな空であるという教え、(3)不空不妙の教え、であり、第一

は阿含等の小乗

の教え

、第二

は般若経の教え、第三は解深密経の

教え、で

ある。

小乗

の教えで

は、す

べて

のもの

は縁起によってなりたつと言う

が、それを構成する要

素そ

のもの

は有ると説いて

いる。般若経に

おいて

は、すべて

のものはその本性

は空であると否定的に説くが、

それが文字通

りに虚

無的に解釈され

る危険があ

る。それに対して

解深密経の教えで

は、あきらかに空の真意をあら

わして、三性三

無性の説を説き

、非

有非無の中道

を肯定的に示している。つまり、

般若経の空は不十分であるから、ブッダは三性三無性の説を明ら

かにしたので

ある。小乗

の教えと般若経の教えと

は不完全な教え

であり、解深密

経の教え

は真実を説きあらわした完全な教えで

る。

乙7

Page 3: 〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, …...〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, 1971, V, 246, n. 2〕であ る。前者は、ブッダが直接その意味を述べた教えであり、後者は、

サーマンは、次にツォンカパのLegs bhsad snin poにもとづ

eter

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立のク

ロノ

ロジ

ーとは無関係に、ほと

んど同時代

に研究されるこ

とになり、そこに教説の体系化が必要

になった。すなわち、中国

仏教に対してなげ

かけた解

釈学的問題とは、入りまじって入って

きた仏教の教えが、どのようにしてお互いに調和

し、一つの統一

のと

れた教え

になりうるか、ということである。

ンド仏教

においては、いくつ

かの学派が成立し、異

なった立

を主張

したと

して

も。それらはす

べて歴史的なブッダに対する

ある種のリンケ

ージをもつこと

ができた

。しかし、中国において

は、仏教は外

来の宗教であり、中国社会

の中

における仏教の存在

を常に正当化

する必要があ

った。さら

に、異な

った多くの経典は

すべて

ブッダの言葉として聖なるものであ

った

。したがって、中

国の仏教徒は、仏教の伝統を全体的に説明す

る体系を考えなけれ

ばならなか

った。そこで

、中国仏教において

、教え

の説かれた形

式、方法、順序、説かれた意味内容などによって教え

を分類し体

づけ、

ブッダの真の意図を明ら

かにしようとする教相判釈とい

う解

釈方法

がなされたのである。

グレゴリーによれば、教相判釈には、(1)もともと非仏教徒の中

国人のメンタリティーに対する仏教の説き方、(2)中国に伝えられ

た多数の、しばしば互いに異なる仏教の教えをどのように説明す

るか、と

いう二

つの解釈学的問題

が含

まれて

いる。したがって、

教相判釈は、莫大な、ときには互

いに異

なる説き方をする経典に

体系化を与える規則を見つけるための解

釈学的方法である。グレ

″解″73

Page 4: 〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, …...〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, 1971, V, 246, n. 2〕であ る。前者は、ブッダが直接その意味を述べた教えであり、後者は、

ゴリーは、とくに智嚴、法蔵によってなされた華厳宗の解釈学で

 H

en

 t

the "Perfect leaching"? Another Look at Hua-yen Buddhist

Hermeneutics. ("Buaddhist Hermeneutics" ed

by Donald S

Lopez,

.)

一九八四年六月にロサンゼルスで開かれた仏教解釈学の学会に

John C

Maraldo: A Reviewof Some Approaches to Herme―

neutics and Historicity in the Study of Buddhism(一九八五、

er

en

eu

tics

 a

 H

isto-

ncity in the Study of Buddhism

he

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 B

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ew

 S

er

ie

s,

Spring, 1986.)は、西洋の解釈学の観点から仏教解釈学の諸問題を

見なおそうとするものである。まず、シュライエルマッハー、デ

ィルタイ、ハイデガー、ガダマー、リクール、フーコーなどをと

he

it

 

 

ho

de

Grundzuge einer philosdphischen Hermeneutik (Tubingen

, 3

ed. 1972)にもとづいて次の三点にまとめ、仏教解釈学の問題に関

連づけようとしている。(1)テクストを理解する過程において、わ

れわれがもちこむ先人見(偏見)(Vorurteil)を認識しなければな

せられるのかを注目する。(2)われわれと過去のテクストあるいは

izo

tv

ers

lzu

 (

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ku

g-

sgeschichte(影響史)ともいっている。(3)現代の読者であるわれ

it

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るw

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es

Bewusstsein(影響史の自覚)という概念は、仏教解釈学の問題に

ところで、マラルドによれば、仏教解釈の伝統的な方法である

Page 5: 〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, …...〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, 1971, V, 246, n. 2〕であ る。前者は、ブッダが直接その意味を述べた教えであり、後者は、

了義(nitartha)、不了義(neyartha)または教相判釈は、西洋の解

あり、むしろ経典釈義(scriptual exegesis)である。仏教の経論

釈した方法をわれわれがとりあげる場合、(1)われわれが道元を解

釈するために用いる方法を明らかにする、(2)道元の解釈について

以上のように、マラルドは、西洋の解釈学、とくにガダマーの

ミシガン大学のLuis 〇・ Gomezは、仏教解釈学に本格的に取

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ess

Delivered before the 38 th Meeting of the Nihon Indogaku-Bukkyo-

gaku-kenkyukai, June 7 th, 1987.) ^、過去のテクストと現在の読

者との間にある文化的、歴史的距離をのりこえる解釈学の方法を

「仏

(Buddhist Studies and Hermeneutical

Theory)」という題のもとで論じられている。

ゴメスによれば、仏教の研究は、解釈を事とする学問である。

古典的な仏教文献の研究は「知の考古学(archaeology)」といえ

。「知

(signifi-

cant metaphor)

「個

るのです。〔中略〕"変化しつつあるコンテクストにおける変

化しつつある意味"を簡潔に示すための用語としてここで用

いる。"歴史(history)"もまた、現在起こりつつあるもので

す。」〔Gomez p.4〕

であり、ガダマーがいう影響史(Wirkungsgeschichte)を問題と

「読み手はテクストが彼の地平(horizon)の彼方にあるとい

一75

Page 6: 〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, …...〔Poussin. Abhidharmako&a de Vasubandhu, 1971, V, 246, n. 2〕であ る。前者は、ブッダが直接その意味を述べた教えであり、後者は、

うことを認識しなければなりませんし、また、("私は変わる

ょう

、私

れて

、テ

クス

るで

う)

の弁

って

クス

。読

み手

って

クス

トに

るこ

はあ

の先

(preconception)と

クス

こと

の間

葛藤

じて

のと

出発

です

が、

「テ

トと

み手

の間

に置

た」

や読

相互作用によって変化します。」〔Gomez p. 4〕

ガダ

ーの解

釈学

の影

るこ

がで

マーによれば、先入見(Vorurteil)は、ものを見るための出発点

、そ

を固

独断

おち

る。

トと

、自

ら問

を問

こと

って

の先

入見

が修

なけ

、読

地平

の地

を弁

の中

の事

新し

視点

に立

って見なおすのである。つまり、解釈とは、読み手とテクストと

、溶

に見

おす

で生

的な

である。ゴメスの言う「("私は変わるでしょうし、私が読むにつ

れて

う″

いう

の弁

って

クス

に身

なけ

なら

す。」とは、まさにこのことを意味している。次にゴメスはMetta

Sutta (Sn

. 1, 8」, Madhupiindika-sutta (MN 18) をとりあげ、上

仏教研究

において、方法論の問題

は最

も大切である。ア

メリカ

の仏教学者

が仏教研究

の方法と

して試みている仏教解釈学を参考

にして、わ

れわれ

の仏教研究の方法論を一度反省してみ

る必要が

る。

日本の仏教研究

においては文献学と歴史学とによる研究方法が

主流

にな

っている。文献学と歴

史学とは、客観的、実証的な方法

によ

って仏教を解明する学問であり、仏教文献や仏教の歴史的事

象はそれらの研究領域に含まれる

。しかし、言葉を超え、時間を

超えた仏教の真理そのものにつ

いては、文献学や歴史学によって

らかにすることはできない。文献学と歴史学とは仏教研究の方

法としては限界がある。そこで、それらの方法を補うものとして

仏教解釈学が考えられるが、そ

れについては別の機会に考察した

い。

(ながさき・ほうじゅん、インド哲学・仏教学、大谷大学教授)