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Title 春秋学特殊用語集(一) Author(s) 岩本, 憲司 Citation 中国研究集刊. 53 P.1-P.26 Issue Date 2011-06-30 Text Version publisher URL https://doi.org/10.18910/61020 DOI 10.18910/61020 rights Note Osaka University Knowledge Archive : OUKA Osaka University Knowledge Archive : OUKA https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/ Osaka University

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Title 春秋学特殊用語集(一)

Author(s) 岩本, 憲司

Citation 中国研究集刊. 53 P.1-P.26

Issue Date 2011-06-30

Text Version publisher

URL https://doi.org/10.18910/61020

DOI 10.18910/61020

rights

Note

Osaka University Knowledge Archive : OUKAOsaka University Knowledge Archive : OUKA

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Osaka University

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春秋学特殊用語集(

中国研究集刊縦号(総五十三号)平成二十三年六月一ーニ六頁

本稿は、一般の語学的アプローチではなかなか明らかにし難

い「春秋学」の特殊用語について、「春秋学」学の立場から、専

ら論理的に分析を試みたものである。なお、この第一回では、

順不同に、【悪愈】【従可知】【蹟倍公】【王魯】【無伝】【中寿】【内

辞】【懐悪】【刑人】【中国】【文実】の十一語を扱う。

【悪愈】

「愈」という文字は、一般に、『論語』公冶長に「女与回

也執愈」とあるように、相手よりまさる、すぐれている、

の意味で使われる。狸公十四年の左氏伝文に①「庸知愈

乎」とあり、昭公十年の左氏伝文に②「庸愈乎」とあり、

同二十年の左氏伝文に③「亡愈於死」とあり、隠公七年

の穀梁伝文に④「以帰猶愈乎執也」とあるのも、まさる、

すぐれている、の意味に解釈して、別に誤りではないが、

①は、君の暴虐を放置することと臣下が君を廃置するこ

ととの比較、②は、斉の強臣の陳氏・飽氏につくことと

槃氏・高氏につくこととの比較、③は、死〔殺されるこ

と〕と亡〔にげること〕との比較、④は、執〔とらえら

れること〕と以帰〔つれかえられること〕との比較、つ

まり、いずれもみな、非価値的なものどうしの比較であ

るから、語感としては、ましになる、ましである、とし

た方がより適切であると考えられる〔④の「猶」に注目。

II

まだましであるII

というふうに、びったりあてはまる〕。

なお、桓公十一年の公羊伝文「然後有鄭国」の何注に「猶

愈於国之亡」とあるのも同様である。ところで、何注に

は「悪愈」という分かりにくい表現が四箇所ほど見える。

―つは、隠公八年の公羊伝文「斉亦欲之」の何注①「斉

悪起則魯蒙欲邑見於悪愈突」であり、二つは、荘公二

十八年伝文「緯以凶年造邑也」の何注②「諒使若造邑而

後無委禾者悪愈也」であり、三つは、定公元年伝文「立

(1)

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燭宮非礼也」の何注③「使若比武宮悪愈」であり、四つ

は、哀公十三年伝文「天下諸侯莫敢不至也」の何注④「使

若天下盛会之而魯侯蒙俗会之者悪愈」である。これらは、

いずれもみな、内容的には、

II

あくまで悪の範囲内での

ことではあるが、比較すればましであるII

ということで

あって、非価値的なものどうしの比較であるから、上の

左氏・穀梁伝文の四例と同じである。しかしながら、「悪

愈」をそのまま

II

悪がましであるII

あるいは

II

悪がまし

になる“としたのでは、どうもおさまりがよくない。そ

こで、上の左氏伝文②の杜注に「罪悪不差於陳飽」とあ

るのが参考になる。昭公二十年の左氏伝文「相従為愈」

の杜注「愈差也」に従って置きかえると、「罪悪不愈於

陳飽」となって、否定文ではあるが、「悪愈」と構造が同

じだからである。それで、「罪悪不差於陳飽」にもどして、

「差」の意味を考えてみると、荘公二十九年の公羊伝文

「凶年不脩」の何注に「繕故功費差軽於造邑」とあり、

荘公六年の穀梁伝文「悪戦則殺突」の疸注に「我与王人

戦罪差減」〔「罪」にも注目〕とあり、文公二年の穀梁伝

文「為公緯也」の苑注に「不与其君盟於恥差降」〔「恥」

にも注目〕とあって、「差」には、軽や減のような意味が

あることがわかる。この意味の「差」を「愈」にあては

めると、結局、「悪愈」とは、悪が減殺さ和るとか、軽減

ずるとか、軽微であるとかいう意味になるのである〔ち

なみに、陳立の『公羊義疏』も、こういう思考の筋道を

通ったかどうかは別にして、②について「悪少軽」とし、

④について「其恥少殺」としている。なお、偲公二十八

年の公羊伝文「不与再致天子也」の何注に「一失礼尚愈

再失礼重」とあるのも、「愈」が「重」と対比されてい

るから、参考になろう〕。ただし、「愈」即「軽」という

わけではない。実は、「悪愈」の「愈」には、ましである

という意味も残っている。つまり、悪は非価値的なもの

であるから、

II

ましであるII

ことと

II

軽微であるII

こと

とが等価なのであり、「悪愈」の「愈」はこの両義を同時

に含んでいる、ということである。なお、荘公六年の公

羊伝文「王人耳」の何注に「使若遣微者弱愈」とある。

この「弱愈」も、「弱」が非価値的なものであるから、「悪

愈」と同様に考えられる〔つまり、

II

弱体さは軽微であ

るII

ということ。ちなみに、校勘記に「弱愈猶少也」と

あるのは、舌足らずである〕。さらに何注には、「愈」だ

けのものが二箇所ほど見える。―つは、荘公九年の公羊

伝文「使若衆然」の何注①「使若悉得斉諸大夫約束之者

愈也」であり、二つは、宣公四年の伝文「辞取向也」の

何注②「使若宮不肯聴公平伐取其邑以弱之者愈也」

である。この二例は、文脈から考えて、「愈」の上に非価

(2)

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値的な語を補い、

II

悪は軽微であるII

あるいは

II

恥は軽

微であるII

と解してもよいし〔①について『義疏』は「較

与―二大夫盟恥少殺」としている〕、そのまま

II

ましで

あるII

と解してもよいであろう。ちなみに、②に関する

『義疏』には「愈者愈於直書取向悪殺也」とあって、

二重に解釈しており、陳立もまた、上述の両義の問題に

行きついたのかも知れない。(補足)宣公九年の伝文「未

出其地故不言会也」の何注に「左右皆臣民雖卒於会

師尤甚於会次之於人國次之於封内最軽」とあって、

大いに参考になる。

【従可知】

桓公二年の公羊伝文「若楚王之妻婿無時焉可也」の

何注に①「従可知省文也」とあり、同五年の伝文「言需

則旱見」の何注に②「従可知故省文也」とあり、荘公四

年の経文「春王二月夫人姜氏狸斉侯干祝丘」の何注に③

「省文従可知例」とあり、儘公五年の伝文「一事而再見

者前目而後凡也」の何注に④「省文従可知」とある〔隠

公元年の伝文「内之微者也」の何注に⑤「(主国主名)与

可知故省文」とあるのも、「与」をともにではなくて、「従」

に通じるとみれば、同例である〕。これらに見られる「従

可知」とは、いったいどのような意味なのか。今、隠公

五年の伝文「僭天子不可言也」の何注に「従末言初可知」

とあり、桓公十年の伝文「近乎囲也」の何注に「従下説

可知」とあり、哀公元年の経文「楚子陳侯随侯許男囲察」

の何注に「従滅以帰可知」とあるような、「従

S可知〔\

によってわかる〕」という似た型のものと類比すれば、「従

可知」は、

Sにあたる部分がないから、特に何かによら

なくても、

II

おのずとわかるII

といったほどの意味であ

る、と考えられる〔つまり、

II

よりて知るべしII

と読む

のであり、定公十五年の伝文「三卜之運也」の何注に「従

可知」とあるのも、もちろん同様である〕。ただし、③「省

文従可知例」は少々やっかいである。というのも、③は、

骨組だけを示せば「従S

例」であり、この型は、

IIS

の例

に従うII

とも読めるからである。実際、

IIS

の例に従うII

は、「従小国例」〔隠八〕「従未鍮年君例」〔荘九〕「従微

者例」〔荘二十四〕「従諸侯夫人例」〔偕九〕「従始至例」

〔文九〕「従無罪例」〔文十五〕「従有罪例」〔宣十八〕「従

執例」〔定四〕など、何注に頻見する〔ちなみに、文公十

四年の伝文「其言試其君舎何」の何注に「問例所従也」

とあって、例とは、従うものなのである。また、同年の

伝文「執者昂為或称行人或不称行人」の何注に「此問諸

侯相執大夫所称例」とあって、例とは、称謂あるいはも

(3)

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っと広く書法をいうのである〕。しかしながら、他の①②

④との類似から考えて、③だけをII

知るべきの例に従うII

と読むわけにはゆかず、やはり、

II

よりて知るべきの例な

りII

と読むべきであろう。なお、

IIS

の例であるII

では、

IIS

の例に従うII

と比べて、文章として何となく尻切れ

とんぼの印象があるかも知れないが、実は、

IIS

の例であ

るII

という締め方は、何注に頻見する。たとえば、偕公

二十五年の伝文「両之也」の何注に「小国例也」とあり、

宣公元年の伝文「有姑之辞也」の何注に「公不親迎危録

之例也」とあるのがこれであるが、より適切な例として

は、荘公九年の伝文「復醤者在下也」の何注に⑥「得意

不得意可知例」とあり、儘公三十三年の経文「公伐邦婁

取叢」の何注に⑦「得意可知例」とあり、哀公七年の伝

文「内大悪緯也」の何注に⑧「得意可知例」とある。ち

なみに、「得意」「不得意」は、「可知」の根拠ではなく

て対象であるから、これらは本来、「可知例」の上に「従」

を補って、「従可知例」としてもよいものであって、そう

、、、

すると③と同じになる。なお、「日月星辰従可知也(中略)

社稜等祀従可知也」〔『続漢書』祭祀志中・注〕「是以由

其威儀一於外而其心如結於内者従可知也」〔『詩集伝』鴫

鳩〕「銅朗之尺従而可知芙」〔『律呂新書』〕「其所立所行

従可知突」〔『孟子集註大全』膝文公下〕など、対象を先

にあげて「従可知」「従而可知」で承ける文は、後代にも

見える〔特に「従而可知」は注目に値する。「而」が入れ

ば、

II

知るべきに従うII

と読む可能性は消えるからであ

る〕。ところで、陳立の『公羊義疏』は、②について「従

省文例」と言い、④について「従省文」と言っている。

陳立の真意はよくわからないが、これらは、II

省文(の例)

に従うII

としか読めないから、③についても、”知るべ

きの例に従うII

と読んでいるのではないかと推量され

る。案の定、⑥について「従可知例省文故也」と言って

いる〔これは③を転倒させた型である〕。だから、⑦⑧に

ついて「従可知例」と言っているのも、

II

よりて知るべ

きの例なりII

ではなくて、あくまで、陳立一流の

II

知る

べきの例に従うII

なのである。つまり、陳立は、上に数

多くあげた、

IIS

の例に従う“という、従うものとして

の例に、更に「可知例」あるいは「省文例」をつけ加え

たのであり、このような勝手な設定には、それこそ、従

えない。最後に、確認のため、①②③④を訳しておくと、

①は

II

(経が正さないのは)おのずとわかるから省略した

のであるII

となり、②は

II

おのずとわかるから省略する

のであるII

となり、③は

II

(三度目の外出に月をいわな

いのは)省略してもおのずとわかるという例であるII

なり、④は

II

省略してもおのずとわかるからであるII

(4)

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なる。(補足)『義疏』の「従省文」からの連想で、

II

省略

にしたがうII

という言葉を思い出した。したがうが従う

だとして、この場合の「従」は、どういう意味なのか。

「従事」の「従」と同じ

II

なすII

のでよいのだろうか

〔?〕。

【蹟偕公】

文公二年の《春秋》経文に「八月丁卯大事干大廟蹟

偲公」とある。三伝をみると、共通して「逆祀也」とあ

るから、この経は、

II

文公が、倍公などの未毀廟の主を、

各自の廟から大廟にのぼじで合祭するとき、在位の順序

からすれば、本来、閃公を上位に、儘公を下位に据える

べきなのに、偕公は閃公の庶兄であり、しかも自分の父

である、ということから、特別に優遇して、偕公を閃公

の上にのぼし、正しい順序を顛倒したII

という内容の記

事であることがわかる。確かに内容はそうなのだが、経

の原文「蹟儘公」をどう読むかについては、二説ある〔た

だし、「蹟」が升あるいは登、つまり5ぼずの意である点

は、共通〕。―つは、

II

大廟にのぼすII

と読むもので、こ

の場合、「蹟儘公」と「逆祀」とは別々の事柄、というこ

とになる。二つは、

II

閃公の上にのぼすII

と読むもので、

この場合、「蹟偕公」と「逆祀」とは同一の事柄、という

ことになる〔なお、「逆祀」についても、同じ穆の中で単

に位次を逆にしただけなのか、あるいは、昭・穆そのも

のを逆にしてしまったのか、というやかましい議論があ

るのだが、ここでは追求しない〕。まず、公羊伝文に「未

毀廟之主皆升合食干大祖(中略)蹟者何升也何言

祖也」とあるのが、前者である。というのも、ここでは、

II

のぼすII

対象は、倍公だけでなく、「皆」であり、しか

も、「逆祀」は、談る理由の説明として、下の方で始めて

出てくる、からである〔もし、「蹟倍公」即「逆祀」なら

ば、譲っていることは自明で、後半の問答は不要であろ

う〕。つまり、「蹟」というのは、平常の出来事〔合祭す

ること〕なのであり、対象は未毀廟の主すべてに渡るか

ら、普通はいちいち書かないのであるが、この時は特別

に、倍公について逆祀が行なわれたから、それを晟るた

めに、儘公についてだけは例外的に「蹟」を書いた、と

いうことである〔桓公四年等の伝文に「常事不書此何

以書譲」とあるのが参考になろう〕。ちなみに、何注も、

伝にあわせて、「自外来曰升」とか、「升謂西上」とか、

中性的な説明を施している。なお、穀梁伝文に「未毀廟

也」とあるのも、明らかに公羊の面的な模倣であるか

(5)

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ら、上の公羊と同様のことが言える。さて、この様相が

すっかり変わり、後者の読みが台頭してくるのは、左氏

学に於いてである。その集約的な表現は、上の文公二年

閃而立廟坐宜次閃下今升在閃上故書而誤之」とし

て見えるが、その根拠は、左氏伝文中の説話の一節「於

是夏父弗忌為宗伯尊催公且明見日吾見新鬼大故鬼

る。この「蹟聖賢」は、

II

倍公をのぼすII

ということで

あるが、そうすることが明〔明智〕であると言う以上、

単に大廟にのぼす〔合祭する〕の意味ではありえず、優

遇して上位にのぼすの意味でなくてはならない、からで

ある。なお、『国語』魯語上にも同様の説話が見えるが、

その一節「夏父弗忌為宗蒸将蹟偕公宗有司日非昭

穆也」が大いに参考になる。倍公をのぼそうとすると、

即座に、正しい順序ではないと反対された、と言う以上、

ここの「蹟」も、上位にのぼすの意味と考えざるを得な

い、からである。ちなみに、ここの尊昭注に引く買達注に

「将升僣公於閲公上也」とあり、買達はもちろん左氏家

である〔なお、尊昭自身は「此魯文公二年喪畢給祭先君

於大廟升翠廟之主序昭穆之時也」と注し、その下に

公羊伝文を引いている。つまり、公羊流に

II

大廟にのぼ

すII

と読んでいるのである〕。要するに、左氏による読

みの変化は、左氏が、公羊にはない夏父弗忌説話を伝と

して採用したことに起因する、と言えよう。さらに、

II

公の上にのぼすII

と読む左氏系の例をあげると、『漢書』

五行志中之上に「経日大事於大廟蹟轍公左氏説日

(中略)蹟登也登腋公於慾公上逆祀也轍雖悠之

庶兄嘗為慇臣臣子一例不得在慾上」とあり、『後漢

書』周挙伝に「挙議日春秋魯閃公無子庶兄儘公代立

其子文公遂蹟倍於閃上孔子誤之書日有事干大廟

蹟儘公伝日逆祀也」〔いきなり「逆祀也」と言うの

は、左氏伝文である〕とある。なお、『礼記』礼器「孔子

日威文仲安知礼夏父弗恭逆祀而弗止也」の疏に「公

主於閃公主上不順為小悪也」とあって、鄭玄は、左氏

の大悪説を論駁してはいるが、

II

閃公の上にのぼすII

には従っている〔ちなみに、上で少しふれた、同じ穆の

中で単に位次を逆にしただけというのが、ここの「小悪」

にあたり、昭・穆そのものを逆にしてしまったというの

が、「大悪」にあたる〕。また、穀梁の苑注に「旧説儘

公閃公庶兄故文公升偲公之主於関公芯上耳」とある

のも、おそらく左氏説を承けたものであろう。

(6)

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【王魯】

公羊伝文で「内」・「外」と言った場合、「内」とは魯

を指し、「外」とは諸夏を指すが、これが、「内其国而外

諸夏」〔成公十五年〕のように、動詞的に使われると、「内」

とは、優遇ずるとか特待ずるとかいったような意味にな

る〔ちなみに、ここでは、「其国」というのが魯を指す〕。

しかも、「内不言戦」〔桓十•十ニ・十三〕「内不言敗」〔荘

九〕「内不言火」〔襄九〕「録内而略外」〔隠十〕「録乎内」

〔儘二十八・定元〕とあるように〔ちなみに、「録」は、

詳録の意〕、優遇する点は、書法にある。「内緯奔謂之孫」

〔荘元〕「内緯殺大夫謂之刺之」〔倍二十八〕とあるのも

そうであるが、この二例からわかるように、実は、書法

の優遇と言っても、その中心は、「緯」ということにある。

「内大悪緯」という伝文が頻見する所以である〔隠ニ・

十•桓ニ・昭四・哀七〕。そして、以上のことを包括して

いる伝文が「内辞」〔桓十八・荘九・倍五•十四・ニ十八・

文七•八·十四•十五•成八•九・哀七〕である。つま

り、「内辞」とは、

II

魯のために特別に緯んだ表現II

とい

うことになる〔ちなみに、桓公十八年の「内辞」の何注に

「内為公緯辞」とある〕。さて、このようなものを、かり

に「内魯」説と呼ぶとして、この内魯説は、

II

春秋は、魯

の年代記にもとづいて、魯人の孔子が作ったII

という春

秋学の大前提からすれば、きわめて自然な説であって、

特に異とするに足らない。ところが、下って何注になる

と、「春秋王魯」という奇妙な表現が、隠公篇を中心に、

十箇所以上みえる。もちろん、①「春秋王魯以魯為天

下化首」〔隠元「仲子微也」注〕②「託王於魯」〔隠十「於

内大悪緯小悪書」注〕③「春秋王魯因見王義」〔荘三

十一「旗獲而過我也」注〕④「春秋託王干魯因仮以見

王法」〔成二「憂内也」注〕⑤「仮魯以為京師也」〔成十

五「春秋内其国而外諸夏」注〕のように、「以

S為

S」と

か「託

S」とか「因」とか「因仮」とか「仮

S」とか「以

為S」とかあって、あくまで、魯を王とみなすのであり、

魯に王を仮託するのであるが、それにしても、始めて目

にすれば、異様に見えるであろう。今、これを「王魯」

説と呼ぶとして、②と⑤とが上の内魯説の伝文につけら

れた注であることからして、この王魯説は内魯説の発展

形態であることがわかるが、この間の事情はどのような

ものであったのだろうか。そこで、『公羊伝』と何注とを

結ぶ線上にあると考えられる『春秋繁露』に当たりをつ

けて調べてみると、案の定、その三代改制質文篇に、は

っきりと「故春秋応天作新王之事時正黒統王魯尚黒

拙夏親周故宋」とある。しかも、同篇には「春秋上拙

(7)

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夏下存周以春秋当新王」ともあって、この両者を比

較対照すると、「王魯」と「以春秋当新王」とは全く等価

であることがわかる。つまり、一見唐突にみえる「王魯」

説は、実は、おなじみの春秋漢代制作説〔三統説と言っ

てもよい〕の一環としてある、ということがわかるので

ある。というのも、《春秋》が、孔子が漢のために残した

国家学の教科書だとして、《春秋》は事をかりて義をはる

ものであるため、事の主体として何らかの王が漢の手本

として登場していなければならず、現実の周がだめなら、

それは、魯の他にあり得ない、からである〔この際、既

に「内魯」説があったから、飛躍はそれほど難しくなか

ったはずである〕。なお、同王道篇に「諸侯来朝者得褒

如諸侯来日朝大夫来日聘王道之意也」とあり、ま

た、同奉本篇に「今春秋縁魯以言王義」とあるのも、お

そらく王魯説であろう〔『繁露』は晩出が疑われるが、こ

の三篇は、葉仲舒のものと考えて、まちがいあるまい〕。

ちなみに、『史記』孔子世家に「乃因史記作春秋(中略)

披魯親周故殷運之三代」とあるのも、司馬遷と董仲舒

の関係から考えれば、蓋仲舒の王魯説を承けたものであ

ろう。さて、このように見てくれば、何休の王魯説が菫

仲舒のそれを承けたものであることは、容易に想像でき

るし、

その証拠に、「春秋錦杞新周而故宋以春秋当新

王」〔荘二十七「杞伯来朝」注〕とか、「孔子以春秋当新

王上麒杞下新周而故宋」〔宣十六「新周也」注〕とか、

三統説をまともに採用しているが、公羊学の展開として

考えるときには、葉仲舒と何休とを直接には結ばず、そ

の間に緯書を介在させるのが普通である。そこで緯書を

調べてみると、夏・殷・周あるいは天・地・人としての

三統は盛んに説かれているが、「王魯」はおろか、「新王」

さえ‘言葉どしでば現われない。しかしながら、「正朔三

而改」〔『礼記』表記疏引春秋元命包〕といったような循

環の考え方は当然、周のつぎの新王を予想させるし、「先

魯後殷新周故宋」〔『文選』笙賦注引楽動声儀〕の「新

周故宋」は、上の董仲舒や何休を見ればわかるとおり、

いつも、「以春秋当新王」と組になっているものであるか

ら、この緯書の文の場合も、たまたま言及されていない

だけで、言外には「新王」が存在していると考えられる

〔なお、前半の「先魯後殷」には「魯」の字があって典

味をそそられるが、文意がよくわからない〕。そして、何

よりも、三統説は春秋漢代制作説であり、王魯説はその

一環なのであるから、緯書に三統説があるということは、

取りも直さず、王魯説もあるということなのである。し

たがって、この王魯説についても、董仲舒↓緯書↓何休

(8)

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【無伝】

公羊にしろ穀梁にしろ左氏にしろ、その理由はよくわ

からないが、伝のついでいない経が想像以上に数多く存

在する。それらに関し、何注や苑注は特に解説しないが、

杜注に限っては、もれなく執拗に、「無伝」という解説を

繰り返している。杜注では、他にも、例えば諸侯の死亡

記事について、「未同盟而赴以名〔(名を書いているのは)

同盟はしていなかったけれども、名をもって赴告してき

た(からである)〕」と、繰り返し解説しているから、そ

の理由を単純に杜預の粘着気質に帰することも可能だが、

果してそれだけであろうか。別に何か理由があるのでは

ないだろうか。そこで想定できるのが、当時のテキスト

の形体の問題、つまり、経と伝とは別行していたのかど

うか、という問題である。この問題については、先ず杜

預の〈春秋序〉に「分経之年与伝之年相附〔経の年を分

けて、伝の年(を分けたもの)とくっつけ〕比其義類

各随而解之名日経伝集解」とあるのを信ずれば、「経伝

之杜言集解謂緊集経伝為之作解何晏論語集解乃緊

集諸家義理以解論語言同而意異也」〔同疏〕ということ

という線が想定できるのである。

になる。つまり、それまで別行していた経と伝とを、杜

預が集めて―つにした、ということになる。今、杜預が

自ら言っていることを疑うべき格別の理由は見当たらな

いし、さかのぼると、服虔には、侠文によるしかないが、

伝だけで、経に注した形跡はないから、服虔の時代には

経伝がまだ別行していた可能性が高い、と思われる〔な

お、服虔は特別で、買達をみれば経伝の両方に注してい

るから、買達の時、経伝はすでに別行ではなく、一っに

合併されていた、とする『会箋』の説は、非論理的であ

る〕。ということで、左氏については、杜預に至って経と

伝とが合併されたとして、公羊・穀梁については、どう

なのか。そこで、漠窯平石経〔『隷釈』石経公羊残碑〕を

みると、今本で

11

AI伝AI経BI伝BIIという形の

ものが、単に

II伝9AI伝BIIとなって、経が欠落して、

ある伝と他の伝とが直結している。また、『漢書』藝文志

をみると、経十一巻と公羊伝十一巻とが別々に著録され

ている。これらのことから、公羊は、何休の頃はまだ経

と伝とが別行していた、と考えるのが普通である〔ちな

みに、『四庫提要』は、それまで別行していた経と伝とを

合併したのは、疏の作者の徐彦ではないか、と推測して

いる〕。穀梁の方は、石経は残っていないが‘『漢書』藝

文志をみると、やはり、経十一巻と穀梁伝十一巻とが別

(9)

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々に著録されているから、公羊と同じく、後漢の頃はま

だ経と伝とが別行していた、と考えるのが普通である。

ただ、誰が経と伝とを合併したのかは、よくわからない。

『四庫提要』は、注の作者の苑宵ではないか、と推測し

ているが、疱宵の長文の序にも、このことについて全く

言及がないから、にわかには信じ難い。むしろ、『四庫提

要』流の推測からすれば、公羊の場合と同様に、疏の作

者の楊士勘とすべきであろう。もしかりに、この推測が

当たっているとすれば、杜預の左氏が経伝合併であるの

に対して、何休の公羊と苑宵の穀梁とは経伝別行である、

ということになる。そうなると、杜預にだけ「無伝」と

いう注がある理由は、一応、次のように説明がつく。つ

まり、経伝別行なら、はじめから両者は離ればなれのも

のなのであるから、そもそも、「無伝」かどうかは、問題

にならない〔「無」の意味はもちろん異なるが、経にとっ

て、伝はすぐわきには無いのだから〕、のに対して、経伝

合併なら、経と伝とは一覧できるため、ある経が「無伝」

かどうかは、気にすべき問題となる、と。しかしながら、

これでは、図式があまりにも単純であるし、そもそも、

公・穀に於ける経伝の密着度からして、公・穀に関する

経伝の合併が、左氏のそれよりも遅れる、というのは、

どうも解せない。そこで、「蓋公羊穀梁伝直以其所作伝

文換入正経不曽別出而左氏則経自経而伝自伝」と

いう馬端臨『文献通考』の説を見直したい。この、公・

穀は当初から経伝合併であったという説は、先の石経な

どを根拠に、皮錫瑞『経学通論』等で批判されているが、

洪業「春秋経伝引得序」のように、石経はあくまで石経

で(あって、普通のテキストとは別で)ある、と考えて

はどうだろうか。石経の枷がなくなれば、公・穀に於け

る経伝の密着度からして、公・穀は当初から経伝合併で

あったと考える方が、はるかに自然である。つまり、洪

業の言いかたを借りれば、「蓋公穀二伝原本殆先具経文

其有伝者即綴伝文於経文下体裁頗如今本個不如此

将有有伝而不知所限之経突」ということである。さて、

残るは、『漢書』藝文志に経と伝とが別々に著録されてい

る問題であるが、これとても、『公羊伝十一巻』と『穀梁

伝十一巻』というテキストには、経もついでいだと考え

れば、解決可能であろう〔『経十一巻』と巻数が同じであ

ることも参考になる〕。以上を整理すると、①何休の公羊

と疸宵の穀梁とは、経伝合併で、しかも、一年の内で、

事件ごとに経と伝とが交互に現われ、②買達・服虔の左

氏は、経伝別行であり、③杜預の左氏は、経伝合併だが、

一年の内で、前半には経だけが、後半には伝だけが、そ

れぞれまとまっている、ということになる〔左氏につい

(10)

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ては、公・穀流の交互合併形式は想像できない〕。すると、

説明はこうである。①では、伝の有無は一目瞭然である

から、「無伝」という注は不要、②では、先に述べたよう

に、伝の有無は最初から問題にならないから、注は不要、

そして、③だけは、ある経について、果して後半の部分

に、それに該当する伝があるのかないのか、あらかじめ

示しておくマークとして、必要である、と。つまり、③

は、中途半端とは言わないまでも、①と②との中間形体

であったため、特に「無伝」という注が必要になった、

というのが、あくまで推測の範囲内ではあるが、一っの

結論である。なお、蛇足ながら、偲公元年「秋七月戊辰

夫人姜氏斃干夷斉人以帰」の杜注に「伝在閃二年」と

あり、同二年「冬十月不雨」の杜注に「伝在三年」とあ

り、同十三年「春秋侵衛」の杜注に「伝在前年春」とあ

るのは、杜預が、伝の有無を、そして、あるならば、ど

こにあるのかを、つねに意識していた証拠となろう。

【中寿】

儘公三二年の左氏伝文に「窟叔哭之日孟子吾見

使

寿

墓之木棋突」とあり、同三十三年の公羊伝文に「秦伯将

襲鄭百里子与窟叔子諌日千里而襲人未有不亡者也

秦伯怒日若爾之年者宰上之木批突爾昂知」とあ

り、同年の穀梁伝文に「秦伯将襲鄭百里子与楚叔子諫

芙何知」とあるが、これらについて、洪誠『訓詰学』

〔橋本秀美訳、アルヒーフ〕に次のような新説がみえる。

ー三伝の記す秦伯の「爾墓之木供(両手で一抱えの太さ)

突」ということばは、上文とつながらず、漢唐の注疏お

よび清代の経学著作・劉文洪《疏証》に至るまで、いず

れもこの一段の文意を明確に解釈していない。《左伝》の

書き方は、実際には、「爾墓之木棋突」の上に、前文を承

けて「及師之入」という一句があるはずなのが省略され

ているのである。径叔が「我々は軍隊が出動するのを見

ることはできても、軍隊が帰ってくるのを見ることはで

きないだろう」と言ったので、それを聞いた秦伯が怒っ

て、人づてに彼に、「おまえに何がわかる?おまえの寿命

ももう終わりだ。軍隊が帰ってくる頃には、おまえの墓

の上に生えた木が両手で抱えるほど太くなっているだろ

う」と言ったのである。(中略)《左伝》は記載が詳細で

具体的であるから、上下の文から省略された句を見て取

ることができるが、《公羊》《穀梁》二伝は口承で伝えら

れたため脱淵が余りにも多く、省略の手がかりがつかめ

ず、理解不可能になっている。二伝を根拠として、《左伝》

(11)

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のこの一段に省略があることを認めないのは、機械的に

語句の形式だけをとらえて、言語の内容は問題にしない

ということで、このような考え方をすると、いつまでも

正解にたどり着けない場合が多い。《古代漢語》の注は、

「おまえに何がわかる?中寿の年齢で死んでおれば、お

まえの墓に生えた木ももう両手で抱えるほどの太さにな

っているはずだ。これは、窟叔がとっくに死んでいるべ

きだった、と罵っているのである。中寿というのは、お

よそ六七十歳まで生きることを指すから、窟叔はすでに

およそ七八十歳であった」という。この注釈の誤りは、

全て旧注に直接由来するものである。既に七、八十歳に

なっている人に向かって、「もし六、七十歳で死んだら」

などと言うだろうか?「とっくに死んでいるべきだった」

と言いたいのに、生きている相手に向かって墓の上に生

えた木が云々というようなことを言うだろうか?「爾墓

之木棋突」は、その人が既に死んでしまったという意味

しかなく、とっくに死んでいるべきだという意味にはな

らない。秦伯が彼を、死人だ、だからわからないのだ、

と罵っているというなら、意味は通る。しかし、そうす

ると、その前の「中寿」が、また通じない。この「中」

は去声に読むべきで、「満」と訓ずる。諸家の注釈は、誤

って平声に読み、中くらいの寿命とするが、それでは理

解しようがない。《左通補釈》は

いて詳細な考証を行っているが、

。ヽし

「中寿」と「墓木」につ

無意味なことこの上な

さて、この説は、確かに斬新だが、問題点が三つある。

第一は、洪誠が敢えで言穴fl

二伝を根拠として、《左伝》

のこの一段に省略があることを認めないのは、機械的に

語句の形式だけをとらえて、言語の内容は問題にしない

ということで、このような考え方をすると、いつまでも

正解にたどり着けない場合が多いII

という件である。こ

の説話は、表現の上で多少の違いはあるが、どうみても、

内容的には三伝で共通だから、(口承や省略の問題は一先

ず措いて)伝文の意味を考えるには、むしろ、他の二伝

を積極的に参考にする方が、方法として(月並だがやは

り)適切ではないだろうか。第二は、

II

それを聞いた秦伯

が怒って、人づてに彼に、「おまえに何がわかる?おまえ

の寿命ももう終わりだ。軍隊が帰ってくる頃には、おま

えの墓の上に生えた木が両手で抱えるほど太くなってい

るだろう」と言ったのであるII

という件である。

II

木が

両手で抱えるほど太くなっているII

というのを、文字ど

捻りにど松ば、時間がかなり経過するということだから、

それはつまり、軍隊がなかなか帰ってこないということ

であり、それは結局、戦争がうまくゆかないことを予測

(12)

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しているということになるから、戦争を企てている側の

秦伯の発言としては、とても奇妙である。すぐ下に述べ

る第三の問題と関連するが、これは、洪誠の筆がつい滑

ったまでで、彼が言いたいのは、むしろ

II

軍隊が帰って

くる頃には、おまえは墓の中にいるだろうII

〔遠路とは

言え、軍隊は勝利して、すぐに帰ってくるのだから、つ

まり、

II

おまえはまもなく死ぬII

ということ〕といった

ようなことであろう。第三は、”「爾墓之木棋突」は、そ

の人が既に死んでしまったという意味しかなく、とっく

に死んでいるべきだという意味にはならないII

という件

である。これでは、洪誠が「棋突」の意味をいったいど

のように捉えていたのか、全くわからず、「供突」を無視

しているのではないかとの疑念もわく〔もし「批突」を

無視してしまうと、公・穀の方の意味がわからなくなる。

なお、このようにいくつかの問題点があるにもかかわら

ず、陸宗達〈序言〉が又〈左伝》の「中寿」についての考

証などは、証拠は十分、論証は綿密、まさに不動の定説

で、千年の謎を解くに足る“と激賞しているのは、理解

にくるしむ〕。さて、三伝を総合して、この説話の意味を

うまく解いているのは、穀梁の疸注である。「子之年喪皆巳

老死芙棋合抱也言其老無知〔あなたの仲間は、み

な、どうに年とって死んでいる。「供」は、両腕でかかえ

ることである。

年とって物事がわからない、ということ

を言ったのである〕」とあるのが、これである。このうち、

後半は、杜注「合手日棋言其過老悸不可用」を承けた

ものであり、「子之翡」は、公羊伝文「若爾之年者」を承

けたものであり、「已」は、穀梁伝文「子之家木已棋突」

の「已」を承けたものであり、これらをよく見ると、「供

突」にかかわる重要なポイントは、結局、公羊の「若爾

之年者〔お前たちの年ならば〕」と穀梁の「已〔とうに〕」

とにあることがわかる。つまり、「\ならば、とうに死ん

でいるはず」ということなのである。だから、例えば‘

『晉書』載記封学伝に「行年七十墓木已批惟求死所

耳」とあり、また、『宋書』張茂度伝に「臣若不遭陛下之

明墓木棋突」とあるのも、前者は

II

七十ならば、普通

はとうに死んでいる年令II

という意味であるし、後者は

”陛下のような明君にめぐりあうことがなかったならば、

とうに死んでいたII

という意味である。かくて、公羊伝

文は、「お前たちの年ならば、(普通はとうに死んでいて)

墓の木が一かかえにもなっているはずだ。お前たち(の

ようなおいぼれ)に何がわかろうか」と解せるし、穀梁

伝文は「(あなたの年ならば、普通はとうに死んでいて)

あなたの墓の木は、両腕でかかえるほどになっているは

ずだ。(あなたに)何がわかろうか」と解せる。それなら

(13)

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ば、最後に残った左氏の「中寿」は、いったいどのよう

に解すればよいだろうか。上の解で、たびたび

II

普通はII

という言葉を補ったことを思い出して欲しい。つまり、

「中寿」は、この

II

普通はII

に相当するのである。そこ

で、『呂氏春秋』安死に「人之寿久之不過百中寿不過

六十」とあるのが大いに参考になろう。この「中寿」は、

特に上寿・下寿を想定する要はなく、今風に言えば、平

均寿命といったところだからである。かくて、左氏伝の

「中寿」も、

II

平均寿命からするとII

とか

II

平均寿命で

言うとII

とかいうふうに読めばよいのであって、《古代

漢語》の注の説は、決っして誤ってはいない。

【内辞】

公羊伝を見ると、経の様々な表現について、「内辞也」

という説明がよく目につく。今、それらを帰納して導き

出される意味は、

II

魯のために特別に緯んだ表現II

とい

うことである〔ちなみに、桓公十八年の何注に「内為公

緯辞」とある〕。穀梁にも、同じ「内辞也」という伝文が

見られるが、数は限られ、しかも、そのほとんどが、経

の「弗」という表現についてのものである。この「内辞」

の基本的な意味は、公羊の場合とあまり変わりはないの

だが、疸注がらみで些か問題があるので、実例にあたっ

てみることにする。まず、儘公二十六年「斉人侵我西郷

公追斉師至矯弗及」の穀梁伝文に「弗及者弗与也

可以及而不敢及也(中略)弗及内辞也」とある。こ

の伝文について、苑宵は

II

「弗及」とは、わが国が自分か

らおいつがなかったのであって、斉においつげなかった

のではない、というようなものであるII

と注しているが、

「内辞」が上述のような意味であるとすれば、鍾文悉『補

注』にも指摘するとおり、疸注は全く倒錯しているので

あり、正しくは、逆に

II

「弗及」とは、斉においつけなか

ったのであって、わが国が自分からおいつかなかったの

ではない、というようなものであるII

としなければなら

ない。したがって、伝文の意味は

II

「弗及」とは、おいつ

げなかったということである。(実は)おいつけるのに、

(畏れてわざと)おいつがなかったのである。(中略)「弗

及」〔おいつけなかった〕とは、内辞であるII

というこ

とになる。次に、桓公十年「秋公会衛侯干桃丘弗遇」

の穀梁伝文に「弗遇者志不相得也弗内辞也」とあ

る。この伝文について、苑宵は

II

会を唱えたのは衛の方

である。(ところが)魯が桃丘に出かけていったのに、衛

はやって来なかった。だから「弗遇」〔魯の方で遇わなか

った〕と書いて、(魯の)恥を削いだのであるII

と注し

ているが、これも、前例と同様に倒錯しており〔『補注』

(14)

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は見逃している〕、正しくは、逆に

11

「不遇」〔遇わなか

った〕と書かず、「弗遇」〔遇えなかった〕と書いて、魯

の責任を軽減したのであるII

としなければならない。な

お、この二例及び下の例からわかるように、実は、恥や

責任に関する観念が、伝と注とで正反対なのである。つ

まり、伝は、事実のままに「

Sしなかった」と言うので

は恥であるから、内辞として「(やむをえない事情から)

Sできなかった」に変えた、とするのに対して、注は‘

事実のままに「

Sできなかった」と言うのでは恥である

から、内辞として「(自主的に)\しなかった」に変えた、

としているのである。そして、注の誤りは、本来、何か

よくないことを、事情を勘酌して緯み隠す、という消極

的装置である「内辞」を、何か主体性をとりもどす積極

的なものとして解釈している点にある、と考えられる〔ち

なみに、隠公元年の公羊伝文「及我欲之陸不得巳

也」の何注に「II

欲したII

場合は、善が重く悪が深い。

II

已むを得ながっだII

場合ば、善が軽く悪於浅い」とあ

る。否定型と肯定型の違いはあるが、この際、大いに参

考になろう〕。さて最後に、文公十六年「春季孫行父会斉

侯干陽穀斉侯弗及盟」の穀梁伝文に「弗及者内辞也

行父失命突斉得内辞也」とある。この伝文について、

苑宵は

11

行父は出て会したが、辞令〔口上〕を誤ったか

ら、(相手としては)受け入れる義理はなかった。それ故、

斉侯ば正当な理由で拒否じで受げながっだのである。盟

わなかったのは、斉(の意向)によるものであるから、

(斉が)内辞を与えられるのであるII

と注しているが、

このように、斉の主体性を強調して、「内辞」を積極的な

ものとして解釈するのは、誤りであって、ここはやはり、

前二例と同様に、「不及」〔同意しなかった〕とは言わず

に、「弗及」〔できなかった〕と言うことが、内辞なので

ある。したがって、伝文の意味は、

II

「弗及」とは、内辞

である。行父は辞令〔口上〕を誤った(だから、斉侯は

盟っことに同意しなかった〔「下及」〕のであって、非は

行父にある)。そこで、斉のために内辞〔「盟おうとして

も盟えなかった」〈弗及〉という表現〕を使ったのであるII

ということになる。ただし、ここの「内辞」は、前二例

と些か趣を異にする。というのも、前二例の経文の主語

は魯であるのに対して、ここのは斉であり、それにとも

なって、ここだけ、伝文に「斉得内辞也」という補足が

ある、からである。つまり、ここの「内辞」は斉に関わ

るものであるから、先のII

魯のために特別に緯んだ表現II

を少し拡大一般化して、

II

特別に勘酌した表現II

という

ふうに修正しなければならないのである。こうなると、

「内辞」は、原理的には、どこの国に関しても使用可能

(15)

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なのだが〔といっても、本来は魯のためのものだから、

相手が当の魯の場合に限られ、外国どうしには使えない〕、

実際には、使用する理由が必要となる〔ここの例でいう

と、孔父が辞令を誤った、つまり、相手の魯の方に非が

あったから、ということになる〕。ここが、先の魯に限定

的な「内辞」とは異なる点である。限定的な「内辞」で

あれば、使用するのに、特に理由を必要としない。主語

が魯であることで、既に理由は立っているからである。

なお、公羊の方を詳しくみると、実は、経文の主語は魯

以外であっても、伝文の「内辞」が魯に限定的という例

もある〔荘公九年「九月斉人取子糾殺之」の公羊伝文に

「其言取之何内辞也脅我使我殺之也」とある〕から、

正解を得るには、もちろん、主語という形式面だけにか

たよることなく、内容面での考察も必要となる〔ちなみ

に、『補注』は、文公十六年の「内辞」を、前二例と同じ、

魯に限定的なもの、として解している。主語に煩わされ

ない点はよいのだが、斉のためではなくて、魯のためと

したのでは、どう考えても、伝文の「斉得内辞也」と甑

甑する。この伝文は

II

本来は魯のためのものである内辞

を、この場合、特別に相手の斉の方に貸し与えたII

とい

う意味のはずである〕。

【懐悪】

昭公十一年「夏四月丁巳楚子虔誘察侯般殺之干申」の

公羊伝文に「楚子虔何以名絶昴為絶之為其誘討也

不予也

[II

楚子虔II

と、どうして名をいっているのか。

絶ってである。どうして絶つのか。誘って討ったためで

ある。これは賊を討ったのである。誘ったとしても、ど

うして絶つのか。悪を懐いで不義を討つことは、君子が

許さない、からである〕」とあり、何注に「内懐利国之心

而外託討賊故不与其討賊而責其誘詐也〔内には国を利

ずる心を懐ぎな於ら‘表向きは賊を討つことにかこつけ

たから、賊を討つことを許さずに、誘いだましたことを

責めたのである〕」とある。つまり、何注は、伝の「懐悪」

を、

II

内に邪心を懐くIf

といったように、もっぱら心理

的に解釈しているのであるが、果してこれが公羊伝文の

解釈として適切であろうか〔確かに、『詩』唐風〈無裟〉

「自我人居居」の毛伝「居居懐悪不相親比之貌」など

は、そういう意味だろうが。ちなみに、今でも、『大漢和

辞典』の「悪人をなつける」は論外として、『漢語大詞典』

などは、わざわざこの伝文を引き、何注に従って、「心懐

邪悪」と解している〕。そこで、穀梁の方を見てみると、

昭公四年「秋七月楚子察侯陳侯許男頓子胡子沈子淮夷伐

(16)

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執斉慶封殺之」の伝文に「霊王使人以慶封令於軍中

有若斉慶封試其君者乎慶封曰子一息我亦且一

日有若楚公子囲試其兄之子而代之為君者乎軍人

菜然皆笑慶封試其君而不以試君之罪罪之者慶封不

斯之謂与〔(楚の)霊王は、人に慶封をひきつれて軍中に

布れ回らせた

II

斉の慶封がその君を試したようなことを

する者が現われないようにII

と。(すると)慶封が言っ

たII

あなたはちょっとお休み下さい。私の方も一言申し

上げましょう。

I楚の公子囲〔霊王〕がその兄の子を試

して代わりに君となったようなことをする者が出ないよ

うにII

と。(楚の)軍中の人々はみな、げらげら笑った。

慶封はその君を試したのに、試君の罪によって罪責しな

い(「人」を称さない)のは、慶封が霊王に服さなかった

(つまり、霊王にも罪があった)からである。(つまり)

楚の討(誅殺)を許さないからである。《春秋》の義では、

貴によって賤を治め、賢によって不肖を治めるのであっ

て、乱(無道・悪)によって乱を治めるということはし

ない。孔子が言っている

II

悪を懐いて討つのなら、死ん

でも服さないII

と。このことを言ったのであろう〕」と

ある。この箇所に苑注はないが〔苑注については下でふ

日 呉

れる〕、文脈から推して、伝文の「懐悪而討」が

II

罪をも

つ身で討つII

の意であることは明らかであろう。つまり、

事実的に解釈しなければならないのである。こうなると、

鍾文丞~『補注』のように、あくまで何注に従い、その結

果、公羊と穀梁とでは、「懐悪」の意味が異なるとするか

〔「懐悪而討即上以乱治乱也公羊十一年伝日懐悪而

討不義君子不予何休以為内懐利国之心而外託討賊

与此伝意異此伝日以乱日懐悪皆指霊有試君之罪而言

耳」〕、祠部恣『注』のように、何注を非とし、公羊も穀

梁と同じ意味であるとするか〔「十一年楚子虔誘察侯般殺

為討有罪突然実懐悪而討懐悪者謂虔負試君之悪

二伝一義鍾説失之」〕の、どちらかであるが、祠部恣も

言っているとおり、「君子」とは「孔子」のことであるし、

また、襄公三十年に「夏四月察世子般試其君固」とあっ

て、実は、般も慶封と同じく君を試した賊である〔つま

り、昭公四年と十一年とは全く同じ事例である〕から、

公羊と穀梁とを区別するのは非合理である。これを要す

るに、公羊の方の「懐悪」も

II

罪をもつ身でII

の意味で

ある、ということである。ちなみに、公羊の流れを汲ん

でいるであろう『春秋繁露』仁義法に「義云者非謂正

(17)

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楚霊王討陳祭之賊斉桓公執衷濤塗之罪非不能正人也

然而春秋弗予不得為義者我不正也」とあるのも、

心理的解釈より事実的解釈の方が適合すると思われる。

なお、昭公十一年の穀梁伝文「夷秋之君誘中国之君而殺

之故謹而名之也称時称月称日称地謹之也」の疱注に

「夫罰不及嗣先王之令典懐悪而討丈夫之醜行楚

虔滅人之国殺人之子伐不以罪亦巳明芙〔いったい「刑

罰は嗣子にまで及ぼさない」(『書』大萬膜)のが、先王

の令典であり、「悪を懐いで討つ」(四年伝文)のは、丈

夫として恥ずべき行為である。楚の虔は、人の国を滅し、

人の子を殺した(「冬十有一月丁酉楚師滅察執察世子友

以帰用之」)のだから、(般を)伐つのに、しかるべき

罪によらなかった(悪を懐いていた)ことが明らかであ

る〕」とあって、四年の当該箇所では不明であった苑宵の

「懐悪」解釈がわかる。つまり、引用の前後の文脈から

推して、苑宵は実は、穀梁の「懐悪」を、逆に、公羊の

何休風に解釈し、正解をはずしているようなのである。

【刑人】

襄公二十九年に「闇試呉子餘祭」として、呉子が刑人

〔刑余の人〕を近づけたために試されたという記事が見

えるが、

II

刑人を近づけたII

とは、いったいどのような

ことを指すのだろうか。二つの解釈の仕方があり得る。

―つは、

II

そもそも刑人を闇〔門番〕にしたこと自体を指

すII

とするもので、以下これをA説とよぶ。もう―つは、

II

何か別のこと〔文字どおり刑人を近づけたこと〕を指

すII

とするもので、以下これをB説とよぶ。まず、公羊

伝文には「闇者何門人也刑人也刑人則昂為謂之閻

刑大非其大也君子不近刑人近刑人則軽死之道也

〔「闇」とは何か。門番であり、刑人である。刑人ならば、

どうして「闇」と言っているのか。刑大ば閤にずべぎで

はないからである。君子は刑人を近づけない。刑人を近

づければ、死を軽んずることになる〕」とあり、

II

刑人は

閻にすべきではないII

に注目すれば、公羊はA説である

ことが明らかである。なお、この

A説の系列に属するも

のとして、『礼記』王制に「是故公家不畜刑人大夫弗養

亦弗故生也」とあり、同祭統に「闇者守門之賤者也

古者不使刑人守門」とあり、さらに、これらを承けたも

のとして、『塩鉄論』周秦に「古者君子不近刑人刑人

非人也身放叛而辱後世故無賢不肖莫不趾也」とあ

り、また、『礼記』曲礼上の疏に引く〈白虎通〉に「古者

(18)

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放諸境坑不毛之地与禽獣為伍」とある。だから、何注に

去聴所之故不繋国不繋国故不言其君〔刑人は自分

を大切にする人間ではないのに、用いて闇にし、これに

よって出入し、結局、殺されたから、戒めとしたのであ

る。「其君」と言っていないのは、(刑人は)公家では獲

わず、士庶人は交友せず、これを遠方の地に追放して、

どこでも行きたい所に行かせるから、国に繋げず、国に

繋げないから、「其君」と言わないのである〕」とあるの

である。ついで、穀梁伝文には「闇門者也寺人也

不称名姓閻不得斉於人不称其君闇不得君其君也

使

貴也貴人非所刑也刑人非所近也挙至賤而加之呉子

呉子近刑人也閣試呉子餘祭仇之也〔「閣」とは、門

番であり、寺人(宦者、刑人)である。名姓を称さない

のは、閻は人間の列に入ることが出来ないからである。

「其君」と称さないのは、闇はその君を君とすることが

出来ないからである。礼では、君は無恥(ものごとの可

否がわからない者)を使わ手‘刑人を近づげない。敵を

あなどらず、自分に怨みをもつ者を近づけない。賤人は

貴ぶべきもの(相手)ではなく、貴人は刑するべきもの

ではなく、刑人は近づけるべきものではない。至賤(「閻」

という称)を挙げて、呉子を試したと書いているのは、

呉子が刑人を近づけたから(誤って)である。「闇が呉子

餘祭を試した」のは、餘祭に怨みをもっていたからであ

る〕」とあり、

II

刑人を近づげないII

のすぐ上に11

無恥を

使わずII

とあること〔つまり、「近」は「使」と同様の

意味であること〕に注目すれば、穀梁もA説であること

がわかる。疏に「今呉子以奄人為閣是近之也」とある

所以である〔ちなみに、鍾文丞~『補注』に「不近則何由

得試故知呉子近之」とあるのは、穀梁が

B説であるこ

とを言っているものと誤解されそうな、微妙な表現であ

る。多分、鍾文柔の真意はそうではないだろうが〕。とこ

ろで、

B説の方は、どこへ行ってしまったのであろう。

実は、

B説は、鄭玄の説と関わりがある。上掲の『礼記』

王制の文の鄭注に「屏猶放去也已施刑則放之棄之

使

使

宮者使守内肘者使守園児者使守積」〔「墨者」以下

は、『周礼』掌数の引用〕とあり、同祭統の文の鄭注に「古

者不使刑人守門謂夏殷時」とあるのが、これである。

鄭玄は、

II

王制や祭統の文はあくまで夏・殷の制を述べた

ものであって、周の制では刑人を閣にしたのであるII

(19)

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言っているのであり、これはつまり、

II

刑人を闇にしたこ

と自体は常制に従ったまでで、特に非難すべきことでは

ないII

と言うも同然である。となると、非難されるべき

「刑人を近づけた」という行為は、何か別のことを指す、

ということになり、

B説に帰結せざるを得ないのである。

ただし、以上は、鄭注を《春秋》にあてはめれば、論理

的にそうなる、というに過ぎない。実際の鄭玄の《春秋》

解釈について言うと、『礼記』曲礼上「刑人不在君側」の

鄭注に「為怨恨為害也春秋伝日近刑人則軽死之道」

とあって、公羊伝文が引用されているだけで、一向には

っきりしない〔実は、「刑人不在君側」という曲礼の文自

体が、はっきりせず、「不近刑人」と同様に、

A.Bの二

説があり得るのである〕。ちなみに、上述の鄭玄の夏・殷

の制と周の制との区別にからめて、陳立『疏證』は、先

の〈白虎通〉の侠文に注して、「然則公羊春秋変周之文

従殷之質故何氏即据殷礼以譲呉子爾」と言っている。

文・質の論にのせた穿った見方だが、公羊だけでなく、

穀梁も同じくA説であるし、また、何休は、文・質にか

かわる時は、いちいちそれに言及しているのに〔例えば、

隠公十一年の公羊伝文「微国也」の何注に「膝序上者

春秋変周之文従殷之質質家親親先封同姓」とあり、

桓公十一年の公羊伝文「春秋伯子男一也辞無所貶」の

何注に「春秋改周之文従殷之質合伯子男為――辞無

所貶皆従子」とある〕、ここにはないから、陳立個人の

憶測の域を出ない。さてそれでは、

B説は机上の空論な

のか。実は、そうでもなさそうである。というのも、左

使

祭観舟闇以刀試之」とあって、舟の番という

II

何か別

のことII

をさせたことが、具体的に述べられているから

である。ただし、杜預は「言以刀明近刑人」と注し、

無理に公羊・穀梁にひっかけて、あたかも経解であるか

のように見せかけているものの、実は、この文は、左氏

伝によくある単なる史話の―つに過ぎないから、

B

「説」

とまで呼ぶのは難かしいかも知れない。

【中国】

昭公二十五年「有鶴鵠来巣」の公羊伝文に「何以書

記異也何異爾非中国之禽也宜穴又巣也〔どうして

書いたのか。異(変)を記録するためである。なぜ異と

するのか。中国の禽ではなく、(しかも)穴居するはずで

あるのに巣くった、からである〕」とあるが、この「中国」

とは、どのような意味であろうか。何注を見る前に、先

行する解釈をあたってみると、まず、『漢書』五行志中之

下に「劉向以為(中略)鵬鵠夷狭穴蔵之禽来至中国

(20)

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不穴而巣陰居陽位象季氏将逐昭公去宮室而居外

野也(中略)昭不膳而挙兵囲季氏為季氏所敗出絆

干斉遂死干外野董仲舒指略同」とあって、董仲舒以

来の公羊説では、「中国」とは、夷狭に対ずる中国の意で

あることがわかる〔劉向のは、「来」に注目しているから、

厳密には穀梁説というべきものかも知れないが、ここで

は公羊説と考えて、特に支障はない〕。ついで、徐疏に引

く『異義』公羊説に「鶴鵠夷狭之鳥不当来入中国」

とあって、公羊説の伝統がそのまま続いていることがわ

かる。だから、何注に「非中国之禽而来居此国国将危

之徴也其後卒為季氏所逐〔中国の禽ではないのに、来

てこの国に居住したのは、国が危亡することの象である。

「鶴鵠」は、櫂欲と同じである。(つまり)穴居するはず

であるのに巣くったのは、櫂臣が国を欲し、下から(の

しあがって)上に居ることの徴である。その後、結局、

季氏に追い出されることになる〕」とあるのも、伝文の「中

国」をそのまま引き写しただけで、特に説明はしていな

いが、やはり、夷秋に対する中国と解していると推測し

て、大過あるまい。さて、このように見てくると、公羊

説にはぶれがなく、一貫しているから、徐疏に「非中国

之禽也者謂是夷秋之鳥」とあるように、公羊伝文の「中

国」は、夷秋に対する中国の意である、と結論づけてよ

さそうである〔実は、後述するように、公羊への駁論か

らも、このことが確かめられる〕。ところで、「鶴鵠」は、

『周礼』にも登場し、ややこしい問題をひきおこしてい

る。考工記の総叙に「鶴鵠不鍮清」とあるのがこれで、

鄭注に「鶴鵠鳥也春秋昭二十五年有嶋鵠来巣伝日

書所無也鄭司農云不鍮清無妨於中国有之」とあ

り、買疏に「按異義公羊以為鶴鵠夷秋之鳥穴居

今来至魯之中国巣居此櫂臣欲自下居上之象穀梁亦

駁之云按春秋言来者甚多非皆従夷秋来也従魯橿外

西

為昭公将去魯国今先鄭云不鍮清無妨於中国有之

与後鄭義同也」とある。つまり、鄭玄は、鄭司農の

II

水を鍮えない範囲であれば、中国にも生息するII

という

説を承け、「来」の解釈で補強し、それによって、

II

夷秋

の鳥であるII

という公羊説を論駁しているのである〔ち

なみに、このような論駁からも、逆に、公羊伝文の「中

国」が夷荻に対ずる中国の意であることが確認できる〕。

なお、このように、同じく古文系である『周礼』と『左

(21)

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氏伝』とをミックスして《春秋》の「有鵬鵠来巣」を解

くのが、左氏説の伝統であるらしく、それは、買疏の「左

氏以為鶴鵠来巣書所無也」の下に「彼注云周礼日

あることから推測できる〔ちなみに、陳壽棋『五経異義

疏證』によれば、「彼注云」以下は、買・服等の旧注を引

いたもので、『異義』の本文ではない〕。ただし、左氏伝

文自体には「書所無也」としかないから、左氏説のは、

あくまでも、公羊に対抗するための拡大解釈である。に

もかかわらず、この伝統は根づよく、杜注にも「此鳥穴

居不在魯界故日来巣非常故書」として、受け継が

れている〔ちなみに、拡大解釈であることは、この杜注が、

伝文ではなく、経文につけられているところにも象徴さ

れている〕。ところで、公羊の徐疏に「旧解以為中国国中」

とある。これはつまり、

II

公羊伝文の「中国」は、夷秋に

対する中国ではなく、国中〔すなわち魯〕の意であるII

とする解釈で、上述の公羊説の主流からは大きくはずれ

るものであるが、公羊伝文をこのように解釈すると、上

の鄭玄の「従魯橿外而至」に限りなく近づく。だから、

この解釈は、「旧解」とは言われているものの、実はそれ

ほど古い解釈ではなく、左氏説からの攻勢に対し、公羊

伝を弁護するために一部の公羊家によって案出された苦

肉の策である、と推定される〔ちなみに、孔広森『通義』

及び陳立『義疏』は、「国中」こそ公羊伝文の真意である

とし、『義疏』は更に、何休の「中国」までも、「国中」

の意である、と言っているが、董仲舒以来の公羊説の伝

統を忘れている点で、到底首肯できない。もちろん、『義

疏』が挙げている『詩』毛伝の「中谷谷中也」や「中

林林中」など、所謂倒句法の存在自体を否定するつも

りはないが〕。最後に穀梁だが、その伝文に二有一亡日

有来者来中国也〔あったりなかったりする場合に、

「有」と言う。「来」とは、(よそから)中国に来たとい

うことである〕」とある。この「中国」が、公羊の場合と

同様に、伝統的な穀梁説では、夷秋に対する中国の意で

あり、おそらくは、これが伝文の真意でもあることは、

上に挙げた五行志・買疏などによって明らかであるが、

疸注には「鶴鵠不渡清非中国之禽故日来〔鶴鵠は(普

通)清水を渡ることがなく、中国の禽ではない。だから、

「来」と言うのである〕」という微妙な表現がみえる。な

ぜ微妙かというと、「鶴鵠不渡清」〔考工記〕を引けば、

論理的には、「中国」は「国中」ということになり、苑宵

は、上に挙げた公羊の所謂旧説と同様に、左氏説に迎合

した解釈をしている、と誤解されかねないからである。

しかし、これはあくまで誤解であり、苑宵もやはり、夷

(22)

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【文実】

偕公元年「斉師宋師曹師次干面北救邪」

の公羊伝文に

秋に対する中国という伝統的解釈に従っていると推測さ

れる。というのも、もし、苑宵が、ここの「中国」を「国

中」の意であると考えていたとすれば、倍公二十八年の

伝文「復者復中国也」の苑注に「中国猶国中也」とあ

り、昭公三十年の伝文「中国不存公存公故也」の苑注に

「中国猶国中也」とあるように、必ずそう説明がなされ

るはずだからである。また、つづく伝文「鵬鵠穴者而

日巣」の苑注に「劉向日去穴而巣此陰居陽位臣逐

君之象也」とあるが、これは、上の五行志の劉向説の一

部をそのまま引いたものだからである。これを要するに、

苑宵の解釈は、あくまで伝統的なものなのであり、考工

記は、たまたま不用意に引いたものとみなすべきであろ

う。なお、哀公十四年「春西狩獲麟」の穀梁伝文「其不

言来不外麟於中国也其不言有不使麟不恒於中国也」

の苑注に「薙日(中略)鵬鵠非魯之常禽」とあるのも、

前後の文脈から推して、魯に限定しているわけではなく、

たまたま中国のうちの魯に来たから〔ちなみに、上に挙

げた買疏の中の『異義』公羊説に「魯之中国」という表

現がみえる〕、「魯」と言っているだけであろう。

「救不言次此其言次何不及事也不及事者何邪巳

昂為為桓公諦上無天子下無方伯天下諸侯有相滅

亡者桓公不能救則桓公恥之昂為先言次而後言救

而文不与文昴為不与諸侯之義不得専封也諸侯之義

諸侯有相滅亡者力能救之則救之可也〔「救」には(普

通)「次」とは言わない。ここで「次」と言っているのは

なぜか。間に合わなかったからである。間に合わなかっ

たとは、どういうことか。邪はすでに亡んでいたのであ

る。誰が亡したのか。おそらく、秋が滅したのであろう。

(それならば)どうして、秋が滅したことを言わないの

か。桓公のために緯んでである。どうして桓公のために

緯むのか。上に(しかるべき)天子がおらず、下に(し

かるべき)方伯がいない、という状況で、天下の諸侯の

中に滅亡する者がある場合、桓公は、これを救うことが

出来なければ、自分の恥とした、からである。どうして、

先に「次」と言い、後に「救」と言っているのか。君だ

ったからである。君ならば、「師」と称しているのはなぜ

か。諸侯が勝手に封建することを許さないからである。

どうして許さないのか。実にば許じで文には許さないの

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である。文にはどうして許さないのか。諸侯は義として

勝手に封建できないからである。諸侯が義として勝手に

封建できないならば、実には許すというのはなぜか。上

に(しかるべき)天子がおらず、下に(しかるべき)方

伯がいない、という状況で、天下の諸侯の中に滅亡する

者がある場合、これを救う力があるならば、救ってもよ

い、からである〕」とある。この中の「実与而文不与」と

いう伝文は、儘公二年・倍公十四年・文公十四年・宣公

十一年・定公元年にも登場するが、いったいどのような

意味だろうか。さらっと読めば、例えば、野間文史氏が

II

実際には与すが経文の上で与さないII

〔『春秋学』研文

出版‘―二九頁〕と解し、『漢語大詞典』が

If

春秋筆法

謂字面上貶之而実際上褒之II

と解しているように、そ

れほど難解な句とは思えない〔ちなみに、このような解

釈は、僭公二年の徐疏に「謂経文雖不与当従其実理而

与之」とあるのに基づくものであろう〕。しかしながら、

よく考えてみると、

If

実際には与すII

というのが実は奇

妙なのである。というのも、この場合、ゆるす主体は当

然、《春秋》の作者とされる孔子であろうから、ゆるすの

はあくまで《春秋》の上でのことであり、したがって、

これも経文の書法によるしかない、からである。言い換

えれば、書法の問題からはずれて、文字どおり

II

実際に

は与すII

などということは、そもそもあり得ない、から

である〔上掲の『漠語大詞典』の解釈は、一度「筆法」

と言っておきながら、それを「字面上」と「実際上」と

に分けていて、特に奇妙である。「筆法」とは「字面上」

のことではないのだろうか。ただし、「筆法」を二分する

方法自体は、以下の考察の参考になる〕。そこで、何注を

見てみると、倍公元年の伝文「実与」の注に「不書所封

帰是也〔封を受けて帰ったことを書いていない点が、そ

うである〕」とあり、文公十四年の伝文「実与」の注に「弗

克納是〔(経文に)「弗克納」とあるのが、そうであるご

とあり、宣公十一年の伝文「実与」の注に「不言執与

討賊同文〔「執」と言つで捻ら命‘賊を討った場合と表現

が同じである(から)〕」とあって、これらによれば、「実

与」は、あくまで書法の範囲内での問題である、という

ことがわかる。「文不与」の方が書法の問題であることは

自明であるから、これを要するに、「文」と「実」とは、

書法という同じ土俵の上での対比物である、ということ

になる〔ちなみに、定公元年に於いては、「実与」の注に

「言干京師是也」とあり、「而文不与」の注に「文不与者

貶称人是也」とあって、対比が見易い〕。なお、このよ

うに、「文」と「実」とが書法上での対比関係にあること

は、宣公十五「夏五月宋人及楚人平」の伝文「此皆大

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れも大夫であるのに、「人」と称しているのはなぜか。貶

してである。どうして貶するのか。和平をなしたのが臣

下だったからである〕」の何注に「以主坐在君側遂為罪也

知経不以文実貶也凡為文実貶者皆以取専事為罪〔主

として、君の側にいながら遂した点を罪責していること

から、(ここでは)経於文・実によ6

で貶しているのでは

ないことがわかる。一般に、文•実によって貶している

のは、いずれもみな、勝手に事をおこなった点を罪責す

る場合である〕」とあることによってもわかる。ちなみに、

哀公十三年「公会晉侯及呉子干黄池」の伝文「呉何以称

中国也其言及呉子何会両伯之辞也〔呉はどうして

「子」を称しているのか。呉は会を主催したからである。

呉が会を主催したのなら、どうして先に「晉侯」を言っ

ているのか。夷秋が中国に対して主となることを許さな

い、からである。「及呉子」と言っているのは何か。(魯

が)両伯と会した、という表現である〕」の何注に「晉序

夷秋主中国而又事実当見不可醇奪故張両伯辞先晉

言及呉子使若晉主会為伯呉亦主会為伯半抑半起

以奪見其事也〔晉を上に置いているのは、(晉が)会を主

催したという表現であり、呉に「及」と言っているのも、

また、人がおもむいて(呉を)主としてみとめたという

表現である。夷秋が中国に対して主となることを許すま

いとし、また、一方では、事実はあらわさなければなら

ず、完全にとりのぞく(かくす)わけにはゆかない、か

ら、両伯(二人の方伯)の表現を張って、晉を先にして

「及呉子」と言い、晉は会を主催して伯となり、呉もま

た会を主催して伯となった、かのようにしたのである。

(つまり)ながば抑えながば起ごずことによって、事実

をかくし(かつ)あらわしたのである〕」とあるのは、ニ

つの書法の間のせめぎ合いを言っていて、大いに参考に

なる〔「不与夷秋主中国」というのが、「文不与」に近く、

「事実当見不可醇奪」というのが、「実与」に近い。なお、

ここの場合、両者はバランスを保っているが、上の文・

実の場合は、僣公元年及び二年の何注に「主書者起文

従実也〔そもそもこの記事を書いたのは、文が実に従う

ことを示すためである〕」とあって、これによれば、比重

は実の方に傾いており、おそらく、これが伝の真意でも

あろう〕。かくて、公羊に頻見する「実与而文不与」とい

う伝文の意味をわかりやすく表現すると、

II

本音では許す

が、建前としては許さないII

〔いずれもみな、書法上の

問題として〕ということになる。ちなみに、日原利国氏

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はII

斉の桓公の「専封」、楚の荘王の「専討」、いずれも

〈実〉ー現実的要請としては是認するが、理念を説く春

秋の〈文〉としては許さない、というのである。理念と

現実、たてまえと実際とを、きびしく緊張関係におきな

がら、しかも共存させようとする論理と解されるII

〔『春

秋公羊伝の研究』創文社、三

0三頁〕と言っている。一

部、真意のよくわからない箇所もあるが、逆に言えば、

敢えて「表現」とか「書法」とか「経文」とかを使わな

い、実に巧みな説明である。なお、最後に一言。実は、

筆者もかつて、「実与而文不与」を、思わずII

現実には許

すが、表現〔理念〕として許さないII

と訳してしまった

〔『春秋公羊伝何休解詰』汲古書院、一九九三年〕。若気

の至りとは言え、お恥しい限りである。この場をかりて、

お詫びし、訂正したい。

(26)