orc dossier - march 722-8 final japanese

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Page 1 MARCH 722-8 DOSSIER MA RC H 7 2 2 - 8 Chris Townsend Translation into Japanese by – Aki Kevan and Tajiu Kobayashi

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ORC Dossier - March 722-8 Final Japanese

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Page 1: ORC Dossier - March 722-8 Final Japanese

Page 1 MARCH 722-8

DOSSIER

MA RC H 7 2 2 - 8

Chris Townsend

Translation into Japanese by – Aki Kevan and Tajiu Kobayashi

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M A R C H 7 2 2 - 8 マーチ 72 2- 8

この車は1972年3月にフォーミュラ2、FB用として生産された1台で、日本人ドライバー風戸裕がヨーロッパフォーミュラ2選手権に

使用するために、ピーター・ブルーア・レーシングに引き渡された。1972年シーズン以降はほとんど使用されていない。イギリス

にあった722の大半がフォーミュラアトランティックやクラブレースで永く余生を送るところ、722-8はロンドン南部トーティング在住

のJ.C.グリドリーに売却されたことがマーチの工場記録に記されている。グリドリーは、おそらくこの車をサルーンカーレースのエ

ースだったホルマン・ブラックバーンのドライブで1973年イギリスのフォーミュラアトランティック選手権にエントリーするつもりだっ

たようである。ブラックバーンの記憶では、ロンドン南西に住む人物からオファーがあったもののコスワースBDDを購入する余力

がなく、数多くエントリーしたものの実際にはレースせずに終わったとのことである。この車は1973年9月に売却され、それ以降の

歴史はあまりはっきりしていない。ロンドン南部ミッシャム在住のヒルクライムドライバーがローリングシャシーとして購入したか、も

しくはグリドリー自身が所有し続けていたのかもしれない。1984年秋に、イギリスのヒルクライムドライバーで写真家としても知ら

れるテッド・“フェレット”・ウォーカーが、ジョン・ハーパーの代理で”施錠されたガレージの中でボディカバーの下から”発見した。

この車はウォーカーの記憶と比べて当時そのままの状態は保たれておらず、アラン・スミスによる1850ccBDAエンジン―風戸

は一度としてスミスのエンジンで走ったことはないにもかかわらず―が搭載されていた。恐らくは、例のあまり身元がはっきりしな

いヒルクライムドライバーが搭載したものと考えられ、彼はこの車で何度かヨーロッパ大陸でヒルクライムに出場したことがあるとウ

ォーカーに語ったという。ところがイギリスからマーチがエントリーされたという記録は元より、グリドリーの名前や1973-74年にスイ

ス、フランス、ドイツで開催されたメジャーイベントのエントリーリストにも全く記録がなく、あまり知名度のない、当時のイギリスの

クラブドライバーには人気があったフランスのローカルイベントにおそらく出場したもの思われる。この車はイギリスのヒルクライ

ムに使用された可能性はより高いが、もしそうだとしても一度か二度レースに出た程度でエンジンに修復不能なダメージを受け

た模様である。マイナーイベントでのエントリーリストがなく、ウォーカーからの裏付け資料もないことから、この当時の所有者を

特定することはかなり難しいだろう。ウォーカーはこの後ほどなくコレクターのナイジェル・スミスに売却し、スミスはゲリー・ワイン

ライトに売却した。ワインライトはヒストリックカーレースに使用するためにこの車の修復を始めた。ジム・ベネットから委託でサイ

モン・ハッドフィールドがこれを完了し、2005年にスコット・ミーハンに、2012年にアンドリュー・ギフォードの手へと渡った。

D R I V E RS ドライバー

風戸 裕(1949年千葉県出身-1974年静岡県没)はマーチ722-8で当時のレースを走っ

た唯一のドライバーである。風戸は母国日本で、1967年にホンダS800でレースデビュ

ーした。その後すぐにブラバムのシングルシーターに乗り換え、そして富士グランドチ

ャンピオンスポーツカーシリーズにポルシェ910で出場した。1970年までにポルシェ908

スパイダーでグランドチャンピオンシリーズに2回優勝している。その後すぐに、日本人

のビジネスマンとアメリカのスポーツカーレーサー、チャック・パーソンズの薦めもあっ

て国際舞台に出場するようになり、1971年カール・ハースのローラT222でカナディア

ン・アメリカシリーズに参加し、エルクハートレイクでは最高位の5位を記録した。1972年

には彼のメンターの尽力で体制が組まれ、マーチで風戸はヨーロッパでのフルシー

ズンに出場した。1973年は、重要なスポーツカーレースのために数回日本に戻った以

外は、同じ日本人の生沢徹と共にGRDワークスでフォーミュラ2に出場した。1974年は

日本でシェブロンB26-BMWに乗りつつ、シェブロンワークスで3年目のヨーロッパシー

ズンを戦う計画だった。しかし風戸は1974年6月に富士スピードウェイ第1コーナーのバ

ンクで発生した、複数台による衝突事故で焼死した。前方を走っていた漆原と北野の

マーチ2台がオープンラップで接触し、弾き飛ばされたためだ。風戸は、親友の1人だ

ったローラT292の鈴木誠一と共に亡くなったのだった。

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M A R C H マーチ

マーチエンジニアリング社は、クラブマンフォーミュラや1968年のフォーミュラ2出場経験を持つマックス・モズレー、元F2ドライバ

ーのアラン・リース、クラブレーサーのグレアム・コーカー、元マクラーレンデザイナーのロビン・ハードによって1969年に設立され

た。マーチはローラの大量生産による成功を模倣したが、主にシングルシーターに集中していた点では異なっていた。またマ

ーチは、上位クラスのフォーミュラのける成功で下のクラスのドライバに対するセールスに好影響を与えるという、ロータスのコーリ

ン・チャップマン流のモデルも模倣した。フォーミュラ1での成功はほどほどに終わったが、同じくロニー・ペターソンが乗るワーク

スフォーミュラ2はフロントランナーとしての地位を確立し、セミワークス体制でサテライトチームも数多く形成された。1970年代中

頃までにマーチは、フォーミュラ2で圧倒的な多数を占めるようになり、常勝ではなかったもののワークスドライバーはヨーロッパチ

ャンピオンの最有力となり、グリッドの大半は新型マーチで埋め尽くされることとなった。スペアパーツや中古車が多く出回ると、

マーチはヨーロッパ中のクラブレーサーに根強い人気を得ることになり、マーチのファクトリー以外に新品(あるいは最新型の)パ

ーツで古い車をアップグレードしたり、全く新しく製造したのはムセッティ社だけではなかった。1980年代になると事業方針を変

更して下級フォーミュラの大量薄利生産を止め、F2とその後のF3000用と並行して、採算性の高いアメリカ・日本市場に集中した。

しかし80年代後半の財務上の問題からラルトと合併、さらに複数回の事業売却を経て1990年代終わりには事業を停止し、エン

ジニアリング関連の資産はアンディ・ギルバーグへと売却された。

MA R C H 7 2 2 マーチ 722 722はマーチが生産した最多のモデルの1つで、ロビン・ハードによりフォーミュラ2とフォーミュラ・アトランティック、フォーミュラB

に使用できるよう設計されており、45台前後生産された(最後の1台はマーチ723に転用された可能性がある)。これは実質的には

712を手直ししたもので[Motoring News 1972年2月号P8掲載]、サイドラジエターの採用によりフロントノーズの全高を下げられる

ようになり、これにあわせて新たな車体前半部分をモノコックに接合したものである。ショックアブソーバーのマウント部分より先の

モノコック前端は、1971年シリーズでは真四角だったところをテーパー上に細くしている。エンジンはデタッチャブルなパイプフレ

ームで支持されたセミストレスメンバーとなっており、リアサスペンションは組立式のトップクロスメンバーとギアボックス下部のマグ

ネシウム製ケースを介してマウントされている。フロントサスペンションは非等長ウィッシュボーンとパラレルロワリンクで構成され、

リアサスペンションは調整可能なアッパーリンクとラジアスロッドで構成されている。ブレーキはフロントがベンチレーテッドディスク、

リアがソリッド[F2の場合]、ギアボックスはヒューランドFT200、燃料タンクは3つあり、ドライバーシート背後に25ガロンのもの[F2の

場合]、ドライバー両サイドには2つが搭載された。フォーミュラ・アトランティック用のモデルは前後ともソリッドディスクで、シート背

後のタンクがなかった。1971年4月から6月の間に設計が行われ、FVAエンジンを搭載した最初のワークステストカー[722-1]は8

月19日にシルバーストーンGPサーキットでマイク・ビュットラーによって初走行した[Autocar 1971年10月14日号P38掲載]。その1

週間後には、ペターソンがシルバーストーンクラブサーキットで操縦している。

F o r m ul a 2 i n 1 9 7 2 1972年 フォーミュラ 2 フォーミュラ 2は1964年にFIAによって再導入されて以来、未来のグランプリドライバーのトレーニングの場として好ましい地

位を確立してきた。トップクラスのドライバーがフォーミュラ2にゲスト出場していたことで、スターを目指す者達は現役エース達

に伍して自分を試すことができたからである。まだ名のないドライバー達が最初に目指すのはFIAヨーロッパ選手権だったが、

名高いノンチャンピオンシップのイベントが数多くあり、主催者が金を積んで集めたフォーミュラ1のスタードライバー達がゲスト

出場していたのだ。また1972年にはジョン・プレーヤーがスポンサーシップの対象範囲を、チームロータスからイギリス国内選

手権まで拡大した。1972年は同時に、1969年にアナウンスされた排気量2.0リッターエンジンの新規定が適用された最初の

年で、最低1000基生産されグループ2でホモローゲションされたシリンダーブロックとヘッドを用いることが求められていた。

1971年にコスワースは、フォードエンジンをベースとするベルト駆動16バルブのBDAエンジンのホモローゲーションを受けた。

当時のルール下では、これが唯一のコンペティティヴなエンジンだったため、FIAはすぐに最低生産数を100に減らし、競合参

入障壁を下げた。

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これによって、BDAはたった1年もしないうちによりBMW M12エンジンに対する競争力を失った。一方、1972年はBDA自身も

重大な問題を抱えていた。第1はエンジンの実台数不足で、シーズン初めのマロリーパークでのレースにはエントリーした半

数以上が参加できなかった。第2は元々1600ccのBDAエンジンを2.0リッターに変換することによる問題だった。最終的にFIA

はシリンダーブロックへの改造手法について、従来の切削だけでなく溶接などによる金属材料の追加を認め、エンジンチュ

ーナーへの自由裁量を与えた。第3は、チューニングや排気量拡大の過程で、全く信頼性のないエンジンが生み出られた

ことである。1972年は、大半のチームがパワーと信頼性を兼ね備えたエンジンを求めて、様々な排気量やエンジンビルダーを

試す中で失敗を繰り返していた。パワーと信頼性の両立が稀だったことの例として、ニキ・ラウダのワークスマーチ722はエス

テライヒリンクの超高速レースで実際に5基のエンジンを壊したが、そのうち4つはそれぞれ違うビルダーによるもので、決勝に

はパドックで他の残骸から1基を組み上げたエンジン出場したのだ!これは7周目まで持ちこたえたが…。これは1850ccのブ

ライアン・ハート版のBDAで、レーシングサービスなど他のチューナーによるものより、排気量的には控えめだが最も信頼性が

とパワー面が優れており、チームサーティースとマイク・ヘイルウッドによるヨーロッパタイトル獲得の原動力となった。

シーズン中頃までにヨーロッパ選手権タイトルは、ジョン・サーティースのスポンサーである玩具メーカーマッチボックス社によ

り多くの予算を持つへイルウッドと、やや風変わりな資産家アダム・ポトッキ伯の実質的なプライベートチームのブラバム

BT38に乗るベテランのジャン・ピエール・ジョソー、そしてフランスのオイルメーカーのスポンサーを得たロンデルのブラバム

に乗るアルゼンチン出身のカルロス・ロイテマンとの間の戦いに絞り込まれた。へイルウッドとロイテマンは、カルロス・パーチ

ェやボブ・ウォレックといったコンペティティヴな良きライバルとしてのチームメートからサポートを得られるのに対し、ジョソーは

スペアカーやエンジンの持ち合わせも非常に少なく孤軍奮闘していた。それにしても、ロイテマンがチャンピオン争いの中に

入れたのは非常にラッキーだった。スラクストンの練習中の大クラッシュで足首を骨折し、数戦欠場を余儀なくされたからだ。

それでも彼が残れたのは他車の信頼性の低さによるものだった。ニキ・ラウダは最初の2戦で15ポイントを獲得した後、7月下

旬まで1ポイントも挙げることができず、722モデルの確かな長所を持ってしてもマーチは1972年のタイトル候補とみなされるっ

ことはなかった。シーズン最終戦から2戦前のアルビの時点で、へイルウッドはジョソーを18ポイントリードしており、6位フィニ

ッシュ以上でタイトルが獲得できるはずだった。ロイテマンはザルツブルグのレース1周目でマイク・ビュットラーとクラッシュし、

タイトル争いから脱落した。いつになく好調なシーズンを送っていたへイルウッドは、トップ走行中にリアサスペンションを曲げ

て破損させるミスを犯した。ジョソーはポトッキが所有する、ASCAチームに残された唯一のまともなシャシーで優勝し、次戦に

期待をつないだ。しかし、最終ラウンドホッケンハイムの決勝2週目のドライブシャフト折損でその運は残念なことに潰えた。一

方へイルウッドは慎重なレース運びでチームボスに継ぐ2位に入り、これでタイトル争いは終わりを迎えた。そして全ての決

着がついたため、ヴァレルンガでの最終ラウンドはキャンセルとなった。 1972年の卒業生名簿を見ていくと、へイルウッドは、おそらく遅すぎたであろうフォーミュラ1への昇級を果たした。彼のトップク

ラスにのし上がるセカンドチャンスは、しかし1974年の事故によって断たれた。ロイテマンはやがてグランプリウィナーの常

連となったが、当然獲得可能と思われたチャンピオンの座にはつくことはなかった。ジョソーはすでに35歳で十分な実績を

持っていたものの、今からフォーミュラ1に昇格するには年齢が過ぎており、代わりにスポーツカーレースで活躍した。この同

期生で最も成功したドライバーは、シーズンを通して惨めなほどの信頼性に悩まされつつも、ジョン・プレーヤー選手権を勝

ち取ったニキ・ラウダは当然として、開発途上だったマクラーレンM21で一部のレースに出場したジョディ・シェクターの2人を

い挙げることができるだろう。

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M a r c h 7 2 2 - 8 R ac e by R ac e マーチ 722-8 レース歴 1972年のフォーミュラ2シーズンは、レスターシャー州の短いながら高速のマロリーパークサーキットで始まった。タイトなショーヘ

アピンと手前の左カーブを除けば、ほぼ直線といってよいサーキットである。決勝出走台数は20台に制限されており、20台あまり

がエントリー後に不参加となったことは大した問題にならなかった。ほとんどのチームは、新ルールを満たす新型BDAエンジンが、

まだ手許に届いていなかったのだ。ピーター・ブルーアチームは、唯一のブロードスピードチューン1798ccエンジンを手に入れ

ていたという幸運なポジションあったため、風戸はサーキットやヨーロッパでのレースというものの学習を始めることができた。予

選では、マーチ[722-17]にスペシャルレーシングサービスチューンの1927cc BDFエンジンを積むロニー・ペターソンが43.4秒で

トップに立った。ここから0.2秒遅れで、このサーキットを知り尽くしたイギリスフォーミュラ3のエース デイブ・モーガンが続き、彼は

後援者であるエド・リーブスの前年モデルのブラバムBT35に1860cc ウッドBDAエンジンを搭載していた。最前列の最後は、ロ

ン・デニスが走らせるブラバムBT38に乗るカルロス・ロイテマンだった。風戸は45.8秒で、グリッド最後列に近い17位だった。その

前列には、マーチ722-16のスイス人ヒルクライマー ザビエル・ペロー(45.1秒)とマーチ722-20に乗るデビット・パーレイ(45.4秒)

の2台だった。風戸の両脇には、スペースレーシングからヨーロッパシーズンに参戦をはじめたばかりのマーチ722シャシー[11]

に乗るアメリカ人ブレット・ランガー(45.6秒)と、イギリス フォーミュラ アトランティックとフォーミュラ3のエースで通常はアトランティ

ックの方に出場しているグレアム・エデンチューン1798cc BDAエンジンを積んだシェブロンB18のシド・ウィリアムズがいた。その

後列もまたアトランティックからやってきた2台で、古いブラバムBT28にBT35のボディワークを被せてスチールチューンの1598cc

BDDエンジンを積むデ-ン・トム・ベルソ(46.3秒)と、ブラバムBT28にエデンのBDDを積むディック・バーカー(47.6秒)だった。

50ラップで競う第1ヒートは、ロイテマンとペターソンが、ワークスのマクラーレンM21のジョン・シェクター、モーガン、ブラバム

BT38のウィルソン・フィッティパルディ、ワークスマーチのセカンドドライバーとして722[722-5]に乗るニキ・ラウダをリードして始ま

った。ペターソンは3周目に燃料パイプが外れ、その修理で大きく後退した後、最後はメータリングユニットの故障でリタイアした。

ハードコンパウンドのファイアストーンR24を履くモーガンは明らかに有利で、35周目でロイテマンからリードを奪い、その2周後に

はラウダに追いついた。一方で風戸は後方ながらパーレイを追う形で比較的順調に走っていた。バーカーは7周目にエンジント

ラブルでリタイアし、ウィリアムズを追っていたベルソも水漏れによるオーバーヒートの恐れがあったためストップ。風戸は31周目

にエンジンが故障し、この日は終わりとなった。エンジントラブルはこのシーズンを通じた一番の課題だった。ロイテマンとラウダ

は数秒差で1-2フィニッシュしたが、合計タイムで十分上回ったモーガンが、驚くべき優勝を勝ち取った。 イギリスシリーズとヨーロッパシリーズのレースが、イースターの金曜日と翌月曜に立て続けに開催されるまで2週間半のブレイク

があり、その間にブロードスピードはマロリーでのエンジン故障を修復し、風戸はそれをテストする時間的余裕があった。しかしイ

ースターマンデーにスラクストンで開催されるヨーロッパ選手権の予選は、教会に行く地元住民への配慮で決勝前日の日曜日

ではなく土曜日に開催されるため、北イギリスのレースが終わるとすぐに、修復の時間もなく徹夜で移動するというあまり魅力の

ないレースとなった。そのような経緯でチェシャーのパドックに集まったのはわずか14台で、、風戸のマーチはその1台だった。

デヴィッド・パーレイはフォーミュラ3では極めて優れたレーサーではなかったものの好調に1分29秒6でポールを獲り、ラウダとフ

ォーミュラ1ゲストドライバーでロンデル・ブラバムのBT38に乗るティム・シェンケンが共に1分30秒2でそれに続いた。自らのチー

ムのTS10のシェイクダウンを兼ねるジョン・サーティースは、スポーツモーターズがエントリーするマーチ722プロトタイプのジェリ

ー・ビレルと共に2列目に入った。続くオウルトンパークの予選で風戸はまずまず好調に走り、1分33秒6の8位に入った。彼と3列

目に並んだのは、トム・ウィートクロフトが所有するマーチ722[シャシーナンバー41、フォーミュラBシリーズ用にアメリカに送られ

た約20台中の1台]に乗るこれがデビュー戦のロジャー・ウィリアムソンと、マロリーで勝ったモーガンだった。その後列には、前年

モデルのブラバムBT36に乗るリチャード・スコット(1分35秒4)とランガー(1分37秒2)だった。

ドライコンディションで行われた予選の後、風戸は北イギリスの典型的な天候の洗礼を受ける。ウォームアップラップが降り始めた

雨は、そのまま1日中止むことはなかった。全車はレインタイアに替えてグリッドに並んだ。ラウダは最高のスタートでシェンケンや

サーティース、ウィリアムソンやビレルをリードした。予選でトラブルに見舞われたジョディ・シェクターは、風戸を含む数台を瞬く

間に抜き去り6位へと猛進した。風戸はその時点ですでにミスファイアに見舞われていたが、雨で電気系統が浸水し、わずか4周

でリタイアを余儀なくされた。雨のレースを快走したラウダはビレルとシェンケンに1分の差をつけて優勝した。ラウダのベストラッ

プは1分43秒6で、予選のベストから13 秒遅れだったことはいかにひどいコンディションだったかを物語っている。 BARC主催によるスラクストンのレースは、ヨーロッパシーズン最初の重要なレースとしての地位を確立していたが、この一戦はそ

の後のフォーミュラ2の歴史にも残るものだった。30台の参加者は2ヒートに分かれたのち決勝戦に臨み、いつものペターソンの

ワークスマーチに加えて数台のグランプリスターが顔を見せた。グレアム・ヒルはリーズのテートガレージがエントリーするブラバ

ムBT36にたった1人のメカニック付きで参加し、シェンケンはアンリ・ペスカロロと共にロンデル・ブラバムに乗った。オウルトンパ

ークで電気系統の浸水に見舞わられたサーティースはマイク・へイルウッドとの体制に戻った。優勝候補と見られていたロイテマ

ンは、スタブアクスルが千切れたことでクラッシュして足首を骨折し、予選にさえ出場できなかった。彼のクラッシュを理由にシェ

ンケンとペスカロロは欠場したが、他のブラバムはこれに倣わなかった。

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風戸は予選第2ヒートで非常に良いところを見せて1分14秒0まで詰め、ペターソンの1分10秒8、ジョン・クームズのマーチ722[シ

ャシー4]に乗るフランソワ・セヴェールとヘイルウッド(共に1分12秒4)に続く4位となった。しかし、このポジションはやや派手な形

で彼の手を離れて行く。その後に数回転げまわるような大クラッシュにより、現地での修復はもはや不可能となってしまったので

ある。ペターソンは確実な形で勝利し、セヴェールとブラバムBT38で順調なシーズンを迎えていたジャン・ピエール・ジョソーが

続いた。決勝では、ペターソンとセヴェールが全車を1周遅れにし、第1ヒートで勝ったラウダは3位に入った。

その2週間後、彼のマーチは最初のヨーロッパラウンドであるホッケンハイムの超高速レース用に修復成った。予選は悲しみに

包まれた。1971年の北米フォーミュラBチャンピオンでテュイに乗るニュージーランド人ベール・ホーソンが、ベルント・ターベック

のブラバムBT36の後輪を引っかけた後アームコバリアの下をくぐり抜けて亡くなったのだ。30台以上のエントリーがあった中、風

戸は再び中盤をリードする位置につけた。ワークスマーチのラウダは2分08秒0でポールに、続くペスカロロが2分08秒2、ペター

ソンのワークスシャシーに乗るヨッヘン・マスが2分08秒7、ヘイルウッドは2分08秒8だった。ターベックの欠場で風戸は2分13秒7

で10位に繰り上がり、2分13秒5のリチャード・スコットと5列目に並んだ。

前列には、ブラバムBT36で善戦したイギリスのクラブドライバー、ジョン・ウィングフィールドとロンデル・ブラバムBT38のボブ・ウォ

レック、後列にはエンジントラブルでスタートできなかったマーチ712Mのティーノ・ブランビッラと古いBDDエンジンを載せたBT28

をティム・スチールのエンジンを載せた新型ブラバムBT38に新調したトム・ベルソが並んだ。

森を縫って全開で突き進む直線的なコースは、新型BDAエンジンの信頼性を試すには絶好の場だった。チューナー達はエン

ジンとの折り合いをつけることに必死だった。特に、シリンダーブロックからあと400ccを絞り出すことで上限の排気量を得ること自

体が、すでに難題だったのだ。

予戦終了後、ブランビッラ、パーレイ、ローランド・ビンダーの3人がエンジントラブルで姿を消した。レースが始まって最初の20周

の間のリタイアは、2台を除いてすべてエンジンに起因するものだった。ヘイルウッドのフライホイールが1周目で外れ、次の周に

ピグミーに乗るリアン・デュアルテの1800ccエンジンが止まり、チームメートでピグミーに乗るパトリック・ダル・ボの1960ccは3週目

にデトネーションで同じ道を辿った。同じ頃、風戸のブロードスピードはヘッドガスケットが抜け、そこで彼のレースは終わった。

結局、最後まで走り切ったのはたったの13台で、予選12位のジョソーが2ヒートとも勝ち抜いたが、これは慎重なドライブとワーク

スマーチが2台とも第1ヒートの11周目に、ペスカロロは6周目にエンジントラブルに見舞われるなどリタイアが続出したおかげだっ

た。シーズン4レース目を終えた時点で、風戸は1レースも完走しておらず、たった60レーシングマイルを走っただけにもかかわら

ず、2台のエンジンとモノコック1個を費やしていた。

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ここまでの失望すべき結果は、アイフェル山中にあるニュルブルクリンクのレ

ースで変わるはずだった。ここアイフェルレネンはノンチャンピオンシップレ

ースだったが、デレック・ベルはロンデルチームのゲストドライバーとして参加

し、ヴィック・エルフォードがスペイングランプリに出場するピーター・ゲシンに

代わってワークスシェブロンB20で単発出場するなど、そこそこのエントリー

数を集めた。ベルは7分56秒8でポールを確定し、ワークスマーチドライバー

として唯一参加するマスが8分01秒5でこれに続き、スコットは8分07秒3だっ

た。風戸は8分16秒7で6位に入り、2列目のエルフォード(8分09秒4)とダル・

ボ(8分15秒9)の後に並んだ。風戸はモーガン、パーレイと3列目に並び、そ

の後にはピグミーにボアアップしたFVAエンジンを載せるフレッド・シュタル

ダーとシェイクダウンしたばかりのブラバムBT38に乗るシルヴィオ・モゼール

が並んだ。このリンクでの10周レースは、シーズンで距離的に最も長く、レー

スタイムは1時間20分に及んだ。

ダル・ボはフライング気味ながらペナルティなしのスタートで飛び出し、1周目

でベルを追っていたが、ディストリビューターの配線がが外れてコース脇で

修理する羽目になった。はるか後方では、ピーター・ウェストベリーがボブ・ウ

ォレックを抜こうした際にブレーキをロックさせてスピンし、デュアルテとモー

ガンを弾き出した。ベルはミスファイアを起こして、まだシングルシーターレ

ースの習熟段階のマスの先行を許し、マスは印象に残る初優勝を飾った。ス

コットは1分以上遅れの3位、さらにその1分後にモゼール、さらにまた約1分

後の5位に風戸、そしてランガーは風戸の約1分後にゴールした。

狭いけれども高速のポーサーキットでの1週間後に行われたレースは、ニュ

ルブルクリンクとは全く対照的な結果となった。風戸は残念なことに、ここで

は全く振るわなかった。予選第2ヒート中にひどくクラッシュにより決勝出走を

見送り、タイムも1分20秒0留まりだった。決勝では、セヴェールに次ぐ予選で2位のピーター・ゲシンが、パトリック・ドゥパイエの

ジョン・クームスマーチを1秒以内の差で抑え、シェブロンに両予選ヒートと決勝で勝利をもたらした。

5月末のナショナルホリデーのクリスタルパレスサーキットでも、風戸は不調だった。2ヒートで16台分しかグリッドの余地がない中

で、風戸は予選2ヒートで15位につけるのがやっとで、その後には未だBDDエンジンを積んだブラバムBT28のディック・バーカー

がいるのみだった。風戸は51秒8を、同列スタートのベルソは51秒6、後ろに並びシェル・アーノルドチーム・マーチの1台を駆る

ジョセ・ドルエムは50秒4、トラブルを克服したペスカロロは50秒6を、ウォレックも50秒6を記録した。グリッドの2列目からスタートし

たマイク・へイルウッドはこのヒートに勝ち、シェクターを4秒差で下した。風戸は後方に沈んだまま、16周目にエンジン故障でリタ

イアした。シェクターは決勝でリベンジを果たしてヘイルウッドに2秒差をつけて勝ち、第1ヒート勝者で足首負傷から復帰したロイ

テマンは3位に入った。

ホッケンハイムのシーズン2戦目は6月中旬に行われ、予選2日間はドライだったものの決勝当日の非常に激しい雨でレースの距

離は4分の1にカットされた。目覚ましい活躍を見せているラウダはポールを獲り、それに続いたのはポーでデビューした新型ロ

ータス69のエマーソン・フィッティパルディ、そしてペターソンとジョソーが続いた。ここで風戸は全く振るわず2’08.5”で予選21位

で終わった。同じ11列目のブラバムBT38のアダム・ポトッキはシェクターにクラッシュしグリッドに並ぶことはできなかった。前列に

はポトッキとのクラッシュで同じくスタートできなかったシェクターと2分07秒8のモゼールが、後列にはワークスGRDで苦しいシー

ズンを送る生沢徹とブラバムBT38の新人ジャンカルロ・ガリアルディがいた。

第1ヒートはフィッティパルディがゲシンのシェブロンとデイヴ・モーガンに2秒差をつけて勝った。ラウダは雨によるイグニッショント

ラブルで遅れを取った上、シケインカットで1分のペナルティを課され13位となった。風戸は後方を走り、ラップされなかった最後

の1台だったが、テュイのジョン・ワトソン、ウォレック、モゼール、ガリアルディの前でゴールした。フィッティパルディのベストラップ

が彼の予選ベストの20秒落ちだったように、雨によるスローペースのおかげでエンジンは際立って持ちこたえ、リタイアはたった5

台だった。風戸は第2ヒートでラウダと同列のスタートとなり、その前にはサーティースのカルロス・ロイシュとドルエムがいた。ラウ

ダは1周目で電気系統が浸水してリタイアし、2周目に生沢とガリアルディがクラッシュした。5周目には風戸のフライホイールが壊

れ、この失望すべきレースが終わった。ゲシンはグリッド上でスターターを壊し、レースではフィッティパルディは楽勝、ジョソーが

2位に入り、ヨーロッパ選手権制覇に向けて大変有利な位置につけた。

ニュルブルクリンクのパドックで出走準備中の風戸。難しいサーキットながら、シーズン最高の 5位フィニッシュと健闘。

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ルーアンサーキットは勇敢なドライバーに向きのため、風戸にとっては不慣れな場所だったとしても、それ以前のレースよりも予

選で結果を出した。エントラントのうち6台は、決勝はおろか予選ヒートにさえ出走しなかったが、風戸は危険性について気に掛

けることはなかった。彼は第1ヒートで1分51秒9を出し、ワークスサーティースのロイシュと共に12位となった。BT38に乗り換えた

グレアム・ヒルとセミワークスマーチ722のマイク・ビュットラーが1列前、ガリアルディとウェストベリーが1列後に並んだ。F1グランプ

リのコミットメントとぶつからない限り、主にプレステージの高いレースに参加しているエマーソン・フィッティパルディが1分48秒1

でポールを獲り、ロイテマンが1分48秒3で2位に入った。第2ヒートはロンデルのペスカロロが1分48秒5でヘイルウッドと同タイム

のポール、セヴェールは僅差の1分48秒6でそれに次いだ。20台のみが出場できる決勝には各ヒートの上位6台と、それ以外に

ベストラップ上位8台が、リタイアしたドライバーにセカンドチャンスを与える目的で進むことができた。

第1ヒートはロイテマンがスタートでリードするも、2列目スタートのシェクターがフィッティパルディもろとも強引に抜き去りトップに

立った。しかし彼はブレーキのオーバーヒートにより16周目にフィッティパルディにリードを明け渡し、さらにラジエーターに入っ

た草をピットで取り除いたため最終的な順位を6位に落とした。シェクターの前で、マスとモーガンがそれぞれ0.5秒差でフィニッ

シュラインを通過した。ロンデルからスポット参戦のベルトワーズは、チームリーダーのロイテマンに0.5秒遅れの3位に入った。風

戸はウェストベリーからほぼ5秒遅れの10位に入り、その後でゴールしたのはピット内で長逗留したガリアルディのみだった。風戸

のベストラップでは決勝に残れなかった。第2ヒートはセヴェールやジョソーを抑え、ヘイルウッドが楽勝を収めた。そして決勝で

フィッティパルディはヘイルウッドに8秒差で優勝し、最大ポイントの加算により選手権獲得の可能性を高めることになった。

イタリアの休日に開催されるモンツァ・ロッテリアはビッグマネーレースで、ヨーロッパ選手権にはカウントされないものの、多くの

エントリーを集めていた。ウィング付きとなったこの時代でさえも、モンツァでのレースは未だスリップストリーム勝負だったので、予

選タイムはさほど決定的なものではなかった。フィンなしのずんぐりした自家製ノーズを使用するリチャード・スコットが1分31秒27

でポールを獲り、1分32秒36のピーター・ウェストベリーがこれに続いた。風戸は1分33秒83で8位につけ、エルコムブラバムBT38

のクラウディオ・フランチシの横に並んだ。前列にはパーレイとランガーが、後列には自らのGRD372を走らせるベルギー人クロ

ード・ブルゴワニーと、ノヴァモーターBDAを載せたサーティースのアンドレア・デ・アダミッチが並んだ。風戸はグッドイヤーのトレ

ッド外側に波紋状のリップルが発生したため、予選中にタイヤサプライヤーを変更して以前のファイアストーンB24コンパウンドに

戻った。予選4位のヴィットリオ・ブランビッラは序盤にトップに立ち、エンジンを壊すまでウェストベリーをリードしたが、モンツァの

レース運びを永年にわたってマスターしてきたヒルが集団をリードし、シェル・アーノルドマーチのシルヴィオ・モゼールとジャン・

ピエール・ジャリエと幾度も順位を入れ替えた。ヒルはパラボリカの進入が自他ともに認めるほどに冴えており、モゼール、ジャリ

エ、フランチシ、デ・アダミッチ、スコット、クームスのマーチ722に乗るエイドリアン・ウィルキンス、ランガーを相手に0.5秒差を守り

切った。風戸はこの一団から遅れて単独フィニッシュし、見せ場を作るはずだったブルゴワニーとパーレイはその後ろだった。第

2ヒートはヒル、モゼール、ジャリエがトップを争ったが、風戸はまたもや大きなクラッシュでレースを終えた。スタートラインとカーヴ

ァ・グランデの間でトレッドが剥離したクロード・ブルゴワニーがコントロールを失い、急激に右へと進路を変えた。風戸はこれを避

けきれず、2台は共にそのままのスピードで土手に激突した。最悪の事故も予想されたが、両ドライバーとも大いに肝を冷やした

以外に怪我もなく、ピットまで歩いて戻った。ヒルはモゼールを1秒引き離して優勝し、さらに僅差でジャリエが入り、この3人が総

合のトップ3を占めた。

モンツァ・ロッテリア第 1 ヒートで、風戸を先頭にパラボリカに進入し、ブラバム BT38のシルヴィオ・モゼール(3)、後にリタイアしたピーター・ウェストベリー(7)、クラウディオ・フランチシ(10)に続きマーチ 722のエイドリアン・ウィルキンス(25)が僅差で追う

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風戸がエステライヒリンクでのヨーロッパラウンドに、まともな状態で出場できたのは、ブルーアチーム(とマーチのスペアパーツシ

ョップ)の功績によるものだった。ここは気温が非常に高く、高速サーキットゆえエンジン負荷が大きかった。ラウダはエンジンを

壊しまくり、手持ちが尽きると壊したエンジンをパドックでリビルドして使い、計5基を壊した。風戸の鋳鉄ブロックを持つブロードス

ピードエンジンは、ベースユニットを限界ギリギリまで追い込んだ他のエンジンよりも、パワーに劣るが壊れにくかった。恐らくはモ

ンツァの大クラッシュのあとに気の迷いがあたのか、風戸は抑え気味の1分46秒33をマークした。26位のタイムは厳密にいえば予

選通過に不十分だったが、ビュットラー(1分44秒32)とダル・ボ(1分45秒82)が持ち合わせのエンジンを使い果たしてリタイアした

ため、風戸は1分45秒81のロジャー・ウィリアムソンと同じグリッド後列からスタートすることとなった。ポールシッターはムーンレイカ

ー・ヨット・ロータスで1分42秒57をマークしたフィッティパルディ、それに次いだのは躍進著しいデ・アダミッチ、ヘイルウッド、ロイ

テマンだった。フィッティパルディは、サーティースの燃圧が一時的に低下したヘイルウッドを抜くとそのまま快勝し、ロイテマンは

3位、モーガンが4位に入った。風戸は後方を大人しくセンシブルに走り、デイヴィッド・パーレイに続くトップから2周遅れの13位

でフィニッシュした。

イモラでは24台の決勝グリッド枠があったものの、34台のエントリーにより、予選後には多くの予選落ちが出した。ここでブルーア

チームはエンジンについて1回限りの実験を行うことにした。他のチューナーに対しパワー面ばかりか信頼性についてももはや

劣っていたいつものブロードスピードエンジンに加え、レーシングサービスの1930cc BDAを試したのである。風戸は金曜日の最

初の予選2セッションをブロードスピードエンジンで走った後、排気量の大きい方のエンジンに換えて1分33秒81で17位に入り、

ブラバムBT38のウィルソン・フィッティパルディとグリッド9列目に並んだ。ロイテマン、ヘイルウッドと共にヨーロッパタイトル最右翼

のジョソーが1分32秒05でポールポジション、そしてヘイルウッド、ゲシン、サーティースのナンバー3のカルロス・ロイシュがそれ

に続いた。ランガーとリチャード・スコットを除き、予選落ちは大方の予想通りだった。

イモラのピットにて。ここで風戸はレーシングサービス1930ccエンジンを初めてトライし、決勝レースに残った。

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決勝レース進出は、28ラップずつの2ヒートの合計タイムで順位を決まることになっていた。風戸はこのヒートのために、おそらく信

頼性の理由でブロードスピードエンジンに戻したが、もしそうであれば誤った判断だった。第1ヒートで順調にトップ10に届く位置

につけていたもののオーバーヒートのためあと4周のところでリタイアし、第2ヒートにエンジンを交換する時間も、それをやり遂げ

る意志もチームには残されていなかった。

その後の真夏のヨーロッパを転戦する一連のフォーミュラ2選手権レースの評判は、あまり芳しいものではなかった。誰にとっても

如何ともしがたいほど、経済的に非効率だったからだ。イモラに参戦したチームは、フェリーで本拠地のイギリスを経由してスカン

ジナビアに渡り、ストックホルム近傍のマントープ・パークのレースに参加した。ペターソンは母国のレースのためにマーチのファ

クトリーチームに戻り、選手権のレギュラー参加者のほとんどもこの旅路に加わった。しかし風戸にとっては、いささかフラストレー

ションの溜まることとなった。すでにファイナルセッションの後半に決勝進出に十分なタイムを記録していたが、ピットアウト直後の

高速ライトハンダーでひどくコースアウトし、左フロントタイアはが引きちぎられ、モノコックはノーズからコックピットまで皺が入るほ

どのダメージを負ったのだった。3個目のモノコックを壊した風戸にとってこのシーズンは非常に高くついたばかりか、決勝直前の

ダメージはどうにも取り返しようがないことだった。第2ヒートのポールシッター、ピーター・ゲシンのリタイアにより、総合でヘイルウ

ッドの優勝が決まり、いつもはセヴェールが乗るクームスマーチのジャン・ピエール・ジャブイーユが2位に、ジョソーが3位に入っ

た。

スウェーデンの次のレースは、再びイタリアに戻りシチリアまで南下することになる。風戸は、チャンピオン可能性がないドライバ

ーの中でこの旅程に加わったうちの、数少ない1人だった。マントープに同じくチームはレーシングサービスのエンジンのみを使

用し、風戸は修復成ったマシンで1分27秒4の9位に入り、ウィルソン・フィッティパルディと5列目を分け合った。後列には、クーム

スチームが走らせるユニークなアルピーヌA367のパトリック・ドゥパイエとマーチ722のビュットラー、前列にはアーノルド氏のマー

チ722で健闘したジョセ・ドルエム(1分26秒7)とロイシュがいた。ポールはヘイルウッドが1分25秒7で獲り、さらにチームメートのカ

ルロス・パーチェが次いだことでサーティースの選手権獲得に拍車が掛かった。(ロイシュとデ・アダミッチを含め、このチームは

計4台を出走させた)

イモラでの第 1 ヒートで、風戸はブロードスピードエンジンのオーバーヒートにより 24 周目にリタイアした。

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エンナもまた高速のスリップストリームサーキットで、わずかなシケインがあるだけだった。第1ヒートは、野火のせいで第1シケイン

の視認性が悪かったが、誰もそれを理由にレースを中断しようとしなかった!序盤は6台による一団が先行し、ヘイルウッド、ジャ

ブイーユ、パーチェがリードした。そのはるか後方で、風戸はマイク・ビュットラーとレースの終盤まで競り合った。しかし電気系統

の故障でビュットラーのエンジンが止まりスピンオフしたことで、この争いにピリオドが打たれた。風戸はこれを回避する際に前輪

にフラットスポットを作り、残りの12周はひどいバイブレーションに悩まされたが、最終的にトップから2周差の10位でフィニッシュし

た。彼の前には終盤エンジン不調に苦しんだパーチェが、後には同じようにエンジンに苦しんだロイテマンがいた。第2ヒートは、

ヘイルウッドがチャンピン獲得に向けてリードを拡げるものと見られていたが、10周目にディストリビューターのドライブシャフト折

損であっさり潰えた。これによってロンデルのペスカロロにリードが転がり込んできたが、最終ラップにアダム・ポトッキをラップする

際にドゥパイエがこのヒートの勝利を横からさらっていった。運よくペスカロロは合計で上回り、決勝に残ったドュパイエ、ロイシュ、

フィッティパルディ、風戸らを抑えて優勝した。好調だった風戸はこのレースを同一周回の5位で終えた。ロイテマンとは30秒差

だったが、彼のチームはヒート間の90分にエンジンを交換していたのだ!アイフェレネンと並んで、この年の風戸のベストリザルト

となった。

ブラインドコーナーを全開で抜けるレースに続いて、各チームはエンナより狭くアームコが完備したザルツブルクリンクへと移動し

た。カルロス・パーチェは1分12秒15がポールポジション、僅差で続いたのは1分12秒17のヘイルウッド、そしてアレクサンダー・

へスケスが所有する1年落ちのマーチの新人ジェームス・ハントが1分12秒19で続いた。レーシングサービスエンジン用いる風戸

は1分13秒25の15位とやや後方に沈んだ。その横には、予選でありとあらゆるトラブルに遭ったロニー・ペターソン、前列には1分

13秒00のロンデル・ブラバムに乗るウォレック、1分13秒10のウィルソン・フィッティパルディ、1分13秒19でクームスのアルパインに

乗るジャブイーユが並んだ。後列にはシェブロンB20のゲシン、シェル・アーノルド・マーチのドルエム、サーティースのロイシュが

並んだ。

互いにスリップストリームを使い合う高速の車列が連なる第1ヒートで、ペターソンは着実に順位を上げていた。ラスト5周目にハン

トのエンジンが壊れ、同じ頃後方ではビュットラーがパンクでスピンした。コースマーシャルがこの車をコース外に排除する前に

先頭グループが戻ってきたため、行き場を失ったペターソンはチームメートを引っかけてホイールを失うこととなった。これによっ

て車列の後端が乱れて、その一瞬の隙にデイヴ・モーガンがヘイルウッド、パーチェ、グレアム・ヒル、カルロス・ロイテマンの4台

を下して勝利し、その一団以外は引き離された。風戸は、同一ラップでは最後尾の13位でフィニッシュした。第2ヒートはロイテマ

ンとモーガンの争う展開となったが、モーガンがロイテマンを突き出すことになった。そのダメージでブラバムのノーズのフロントフ

ィンを曲げてしまったモーガンはパーチェとヘイルウッドの追撃を抑えきれず、結局ヘイルウッドがこのヒートに勝ち、総合での優

勝も収めた。風戸は10位に入り、再び同一周回での最後尾となった。一団でフィニッシュした彼の前には、ラウダと第1予選でヘ

ッドガスケットを吹き抜いたウォレックがいた。風戸の総合タイムは8位に相当したが、上位のヒルとゲシンがFIAグレードドライバ

ーゆえポイント対象除外となり、風戸は選手権ポイントを得たのだった。

しかし、これが風戸のこの車での最後のレース出場となった。オウルトンパークで開催されたイギリスのジョンプレーヤーシリーズ

の最終戦に出場し損なった後、9月下旬のアルビにはGRSのチームメイトであり同じ日本人の生沢徹のチームメートの1人という

立場で参加した。フォーミュラ1レジスター“ブラック・ブック”には、風戸がアルビでマーチを使用したように記録されているが、モ

ータリング・ニュース誌は、シーズン前半にレイネ・ウィゼル、トム・ウォーキンショー、アンディ・サトクリフが乗ったGRD372をドライ

ブしたと報じている。

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R ac e Hi s to r y レース履歴 John Player For mula 2 Race, European F2 Championship, (round 1)

Hiroshi Kazato

Heat One

Heat Two

Aggregate

Mallory Park, 12 March 1972

Retired

DNS

NC

John Player For mula 2 Race, British F2 Championship, (round 2)

Oulton Park, 31 March 1972

Hiroshi Kazato

Retired

XXVII BARC 200, European F2 Championship, (round 2)

Heat Two

Hiroshi Kazato

DNS

Final

Thruxton, 3 April 1972

DNQ

VI Deutschland Trophäe, European F2 Championship, (round 3)

Heat One

Hiroshi Kazato

Retired

Heat Two

Aggregate

Hockenheim, 16 April 1972

DNS

NC

XXXV Inter nationales Eifelrennen

Nürburgring, 30 April 1972

Hiroshi Kazato

5

XXXII Grand Prix de Pau, European F2 Championship, (round 4)

Heat Two

Hiroshi Kazato

DNS

Final

Pau, 5-6 May 1972

DNQ

Greater London Trophy, European F2 Championship, (round 5)

Heat Two

Hiroshi Kazato

Retired

Final

Crystal Palace, 29 May 1972

DNQ

VII Rhein Pokalrennen, European F2 Championship (round 6)

Heat One

Hiroshi Kazato

14

Heat Two

Aggregate

Hockenheim, 11 June 1972

Retired

NC

Page 14: ORC Dossier - March 722-8 Final Japanese

Page 14 MARCH 722-8

XX Grand Prix de Rouen, European F2 Championship (round 7)

Heat One

Final

Rouen-les-Essarts, 25 June 1972

Hiroshi Kazato

10

DNQ

XIV Gran Premio della Lotteria di Monza

Heat One

Hiroshi Kazato

9

Heat Two

Aggregate

Monza, 29 June, 1972

Retired

NC

II Jochen Rindt Gedächtnisrennen, European F2 Championship (round 8)

Österreichring, 9 July 1972

Hiroshi Kazato

13

XI Gran Premio Città di Imola, European F2 Championship (round 9)

Heat One

Hiroshi Kazato

Retired

Heat Two

Aggregate

Imola, 23 July 1972

DNS

NC

X Gran Premio del Mediterraneo, European F2 Championship (round 11)

Heat One

Hiroshi Kazato

10

Heat Two 5

Aggregate

Pergusa, 20 August 1972

5

II Festspielpreis der Stadt Salzburg, European F2 Championship (round 12)

Heat One

Hiroshi Kazato

13

Heat Two 10

Aggregate

Salzburgring, 3 September 1972

8

Page 15: ORC Dossier - March 722-8 Final Japanese

Page 15 MARCH 722-8

Ownership 所有者履歴

1: Peter Bloore Racing. Chassis number given Motoring News 16 March 1972 p.9 for car of Hiroshi Kazato at

Mallory Park, 12 March 1972, 6 April 1972, p. 6 for Kazato’s car at Mallory Park, 20 April 1972, p. 6 for Kazato’s

car at Hockenheim; 4 May 1972, p. 10 for Kazato’s car at Nürburgring; 11 May 1972, p. 10 for Kazato’s car at Pau.

2: J. T. Gridley, 19 October 1972- Sept 1973? Sale shown in March factory records sales summary.

3: Unknown British club hill climber, 1973-1984

4: Ted Walker, 1984

5: Nigel Smith, 1984 - 1986

6: Gerry Wainwright, 1986 -1990

7: Simon Hadfield & Jim Bennett, (Colorado) 1990-1991

8: Jim Bennett, 1991-2005

9: Scott Meehan, 2005 - 2012

10: Andrew Gifford, 2012 -

All that survives of the 1972 March factory records is this summary sheet of sales of

cars mostly made after the end of the season.

This shows 722-8 as sold to J.T. Gridley on 19 October 1972.

The veracity of the sheet is confirmed by the known, independently observed histories of four of the other cars listed on the sheet:

713S-1, 713M-8, 722-11 and 722-5. All had their chassis numbers observed with their

second owners in 1973, but that data has never been published.

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Page 16 MARCH 722-8

Chris Townsend

143 Eaton Manor Eaton Gardens Hove

East Sussex

BN3 3QD

Phone: +44 1273 231257 mobile: +44 7855

216846

email: [email protected]