戦後日本の航空兵力再建 ─米国の果たした役割を中 …rearmament of japan, part...

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岡田 戦後日本の航空兵力再建 111 戦後日本の航空兵力再建 ─米国の果たした役割を中心として─ 岡田 志津枝 はじめに 1945 9 2 日、戦艦ミズーリ号艦上において日本政府の代表が無条件降伏文書に署 名した日以降、日本の軍備は完膚なきまでに解体された。沿岸海域における不法行為、不 法出入国等を取り締まるための海上保安業務、あるいは戦時中に日米によって敷設された 機雷の掃海といったごく一部の例外を除き、旧軍の機材も人も徹底して排除されていった のである。この後、朝鮮戦争の勃発により日本の再軍備が本格的に議論されるまでには、 5 年という歳月を要した。この間、1948 年のロイヤル(Kenneth C. Royall)陸軍長官の 報告、あるいは同年日本を訪れた国務省政策企画室長のケナン(George F. Kennan)によ る報告などの中で、「日本の限定的再軍備」への言及が見られるというようなこともあった が、いずれも本格的な再軍備についての議論を引き起こすには至らなかった 1 日本の再軍備が本格的に検討され始めたのは、1950 6 月の朝鮮戦争勃発以降のこと である。この時期の再軍備をめぐる問題については、日米の政治外交史あるいは戦後の防 衛政策史という立場からいくつかの研究がなされている。例えば植村秀樹『再軍備と五五 年体制』、田中明彦『安全保障』、大嶽秀夫『再軍備とナショナリズム』、中島信吾『戦後日 本の防衛政策』、佐道明広『戦後日本の防衛と政治』などが挙げられる 2 。しかし、これら はいずれも政治外交史あるいは防衛政策史という大きな枠組みの中で再軍備を考察したも のであり、陸海空兵力の再建過程を詳細に検討したものではない。 それでは、陸海空兵力の再建過程を詳細に検討したものにはどのようなものがあるのか。 陸上兵力の再建過程については、警察予備隊の創設を中心とした研究がなされており、ま 1 Memorandum for the Secretary of Defense, Subject: Limited Military Armament for Japan, Kenneth C. Royal to the Secretary of Defense, May18, 1948, Hiroshi Masuda (ed.) , Rearmament of Japan, Part 2 (Tokyo: Maruzen, 1998) [micro form] Fiche 3A16; NSC13/2, Recommendations with Respect to U.S. Policy Toward Japan, October 7, 1948, Ibid., Fiche 5A59. これらの文書については、増田弘「朝鮮戦争以前におけるアメリカの日本再軍備構想(1)」『法学研 究』第 72 巻第 4 号(1999 4 月)に詳しい。 2 植村秀樹『再軍備と五五年体制』(木鐸社、 1995 年)、田中明彦『安全保障──戦後 50 年の模索』 20 世紀の日本 2 (読売新聞社、 1997 年)、大嶽秀夫『再軍備とナショナリズム──保守、リベラル、 社会民主主義者の防衛観』(中央公論社、 1988 年)、中島信吾『戦後日本の防衛政策──「吉田路線」 をめぐる政治・外交・軍事』(慶應義塾大学出版会、2006 年)、佐道明広『戦後日本の防衛と政治』 (吉川弘文館、2003 年)。

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

111

戦後日本の航空兵力再建 ─米国の果たした役割を中心として─

岡田 志津枝

はじめに

1945 年 9 月 2 日、戦艦ミズーリ号艦上において日本政府の代表が無条件降伏文書に署

名した日以降、日本の軍備は完膚なきまでに解体された。沿岸海域における不法行為、不

法出入国等を取り締まるための海上保安業務、あるいは戦時中に日米によって敷設された

機雷の掃海といったごく一部の例外を除き、旧軍の機材も人も徹底して排除されていった

のである。この後、朝鮮戦争の勃発により日本の再軍備が本格的に議論されるまでには、

5 年という歳月を要した。この間、1948 年のロイヤル(Kenneth C. Royall)陸軍長官の

報告、あるいは同年日本を訪れた国務省政策企画室長のケナン(George F. Kennan)によ

る報告などの中で、「日本の限定的再軍備」への言及が見られるというようなこともあった

が、いずれも本格的な再軍備についての議論を引き起こすには至らなかった1。 日本の再軍備が本格的に検討され始めたのは、1950 年 6 月の朝鮮戦争勃発以降のこと

である。この時期の再軍備をめぐる問題については、日米の政治外交史あるいは戦後の防

衛政策史という立場からいくつかの研究がなされている。例えば植村秀樹『再軍備と五五

年体制』、田中明彦『安全保障』、大嶽秀夫『再軍備とナショナリズム』、中島信吾『戦後日

本の防衛政策』、佐道明広『戦後日本の防衛と政治』などが挙げられる2。しかし、これら

はいずれも政治外交史あるいは防衛政策史という大きな枠組みの中で再軍備を考察したも

のであり、陸海空兵力の再建過程を詳細に検討したものではない。 それでは、陸海空兵力の再建過程を詳細に検討したものにはどのようなものがあるのか。

陸上兵力の再建過程については、警察予備隊の創設を中心とした研究がなされており、ま

1 Memorandum for the Secretary of Defense, Subject: Limited Military Armament for Japan, Kenneth C. Royal to the Secretary of Defense, May18, 1948, Hiroshi Masuda (ed.) , Rearmament of Japan, Part 2 (Tokyo: Maruzen, 1998) [micro form] Fiche 3A16; NSC13/2, Recommendations with Respect to U.S. Policy Toward Japan, October 7, 1948, Ibid., Fiche 5A59.これらの文書については、増田弘「朝鮮戦争以前におけるアメリカの日本再軍備構想(1)」『法学研

究』第 72 巻第 4 号(1999 年 4 月)に詳しい。 2 植村秀樹『再軍備と五五年体制』(木鐸社、1995 年)、田中明彦『安全保障──戦後 50 年の模索』

20 世紀の日本 2(読売新聞社、1997 年)、大嶽秀夫『再軍備とナショナリズム──保守、リベラル、

社会民主主義者の防衛観』(中央公論社、1988 年)、中島信吾『戦後日本の防衛政策──「吉田路線」

をめぐる政治・外交・軍事』(慶應義塾大学出版会、2006 年)、佐道明広『戦後日本の防衛と政治』

(吉川弘文館、2003 年)。

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た海上兵力の再建過程についても、海上警備隊の創設をめぐる研究がなされている3。しか

し航空兵力の再建については、これまで海上自衛隊創設時の空母建設問題や、航空自衛隊

の創設をめぐる過程の中で触れられることはあっても、再軍備計画全体の中でどのように

とらえられてきたのか、またその再建過程はどのようなものであったのか、ということに

ついてはいまだ詳細に検討されていない。 本論文は、戦後日本の航空兵力再建の問題について、1950 年代初めを対象として、主と

して米国側史料、特に国防省(軍部)の史料を中心として見て行こうとするものである。

1950 年代初め、日本側の航空兵力再建の動きとしては、旧日本陸海軍関係者によりいくつ

かの再建案が作成され、米極東海・空軍司令部や吉田茂首相に提出されたことが知られて

いる4。しかし、これらの案はいずれも旧日本陸海軍関係者の試案に留まっており、日本政

府の案として正式に検討され、あるいは承認されたものではなかった。また、これらの案

を基に日本政府が米側に対し何らかの働きかけを行ったという記録も残されていない。し

たがって、本稿が対象とする時期について、日本側の航空兵力再建の動きが米国に与えた

影響を明らかにすることは困難であり、本論文で米国側資料を中心に分析を進めて行くこ

ととなった理由でもある。 航空兵力再建の問題について振り返る時、とりわけ 1952 年から 1953 年初頭にかけての

約 1 年は、重要な節目となる年であった。第 1 は、戦後の極東におけるソ連の脅威が、日

本に対する領空侵犯という形で顕在化し始めたことである。日米両政府にとって、この事

実から目を背け続けることは困難になった。第 2 は、米国の軍部において、日本再軍備計

画の中で曖昧なまま取り残されていた航空兵力再建の問題が具体的に討議され、統合参謀

本部(Joint Chiefs of Staff: JCS)や国防省において、空軍力の早期の創設が必要である

との認識が確認されるようになったことである。そして第 3 には、1952 年 9 月、保安庁

に「制度調査委員会」が設置され、翌年 3 月、初めての「制度調査報告」(いわゆる一次

3 例えば、ジェイムス・E・アワー(妹尾作太男訳)『よみがえる日本海軍(上)(下)』(時事通信

社、1972 年)、読売新聞戦後史班編『「再軍備」の軌跡』(読売新聞社、1981 年)、防衛庁庁史室編「戦

後防衛の歩み──警察予備隊から自衛隊へ」『朝雲』1988 年 11 月 3 日~1991 年 8 月 8 日、波多野

澄雄「『再軍備』をめぐる政治力学──防衛力『漸増』への道程」『年報・近代日本研究』第 11 号(1989年)、柴山太「日米英三国間パースペクティブによる海上警備隊創設過程の分析 1950~51」『軍事史

学』第 39 巻第 4 号(2004 年 3 月)、増田弘『自衛隊の誕生──自衛隊の再軍備とアメリカ』(中央

公論新社、2004 年)などがある。 4 当時の代表的な航空兵力再建案としては、以下のような 3 つの案が知られている。1952 年 5 月に

は旧陸軍の元航空関係者により「空軍兵備要綱」が作成され、辰巳榮一元陸軍中将を通じて口頭で吉

田茂首相に報告された。同案は同年 7 月には米極東空軍司令官に提出された。また旧海軍関係者は、

1952 年 1 月、「新空海軍建設計画」を米極東海軍司令部に提出した。その後、両グループは共同案を

作成し「空軍建設要綱」を作成する。同案は同年 11 月、「航空自衛力建設促進に関する意見書」に添

えて吉田首相に提出された(読売新聞戦後史班編『「再軍備」の軌跡』365-372 頁、及び「“独立空軍”

を構想」『朝雲』1991 年 4 月 25 日)。

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案)を作成したことが挙げられる。同案は、当時の日本の国力、財政力を十分に考慮した

ものとは言えなかったが、後に次第に現実を踏まえたものとなっていく。しかし、一次案

で示された「航空兵力」に重点を置くという方針は、二次案以降も受け継がれて行くこと

となる。以上のような点から、本稿は 1953 年初めを一つの区切りとして、考察を行った。

ただし第 3 の点については、後に航空自衛隊の創設と密接に関連することを考慮し、稿を

改めて検討することとしたい。 本論文では、まず、朝鮮戦争勃発以降、米国の日本再軍備に対する基本方針がどのよう

に変化していったかを概観し、その中で日本の航空兵力の再建(あるいは空軍の創設)に

対する考え方がどのように変化していったのかを明らかにする。続いて、米本国における

軍部での議論を中心に、国策レベルで航空兵力再建の問題がどのように取り上げられ、計

画されていったのかについて詳細に検討する。ここでは、陸上兵力、海上兵力との関連に

ついても触れることになる。最後に、米極東軍司令官あるいは駐日米大使といった現地レ

ベルでの日本の防空をめぐる動きを追うことにより、ソ連の領空侵犯とこれに対峙した米

国関係者の行動が、航空兵力再建に与えた影響を明らかにする。このように国策レベル、

現地レベルと重層的に米側史料を検討することにより、米国が日本の航空兵力再建に果た

した役割を明らかにすることが本論文の目的である。

1 日本再軍備への第一歩

(1)日本再軍備の明文化

1951 年 5 月、米国は国家安全保障会議(National Security Council: NSC)により採択

されたNSC48/5「アジアにおける米国の目的、政策、行動方針」において、戦後初めて日

本の再軍備を明言した5。 これに先立つ 1950 年 7 月、すなわち朝鮮戦争勃発の翌月、連合国軍司令官(Supreme

Commander for the Allied Powers, Japan: SCAP)のダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)元帥は、7 万 5,000 人からなる警察予備隊の創設と、海上保安庁の 8,000 人

の増員を日本政府に求め、これを実現させていた。しかし、警察予備隊の創設経緯やその

性格は極めて曖昧であったため、米政府の対日政策の変更は、NSC48/5 により初めて明文

化されたと言える。NSC48/5 は、朝鮮戦争によって生じた脅威への対処のみならず、対ア

ジア政策を再検討し、アジアにおけるソ連の拡張への危惧とこれを封じ込めようとする意

5 U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States, 1951, Volume Ⅵ: East Asian-Pacific Area, Part 1 (Washington, D.C.: U.S. Government Printing Office, 1977), pp. 33-63 (hereafter cited as FRUS, 1951).

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図の下に作成されていた。 NSC48/5 の作成に当たって、NSCのスタッフは、間近に迫った講和条約の締結後、「敗

戦によって取り残された力の空白域」である日本がソ連の支配下に落ちることは、「米国に

とっての死活的関心事」であると分析していた。同時に、講和後の日本が「早急かつ堅実

な経済発展を遂げること、国内の政治的安定を得ること、そして自衛のための十分な軍事

力を持つこと」がソ連への最大の抑止であるととらえていた。このため現時点及び講和後

の日本において「軍事的防衛力の創設を促進」することを提言したのである6。NSCのス

タッフは、米軍が日本に駐留している間は、ソ連が第三次世界大戦を望んでいるのでもな

い限り、日本への直接的軍事侵略の行動はとらないと予測していた。しかし講和により占

領が終われば、ソ連が日本国内に広がって行くと思われる政治的、軍事的脆弱性を助長し

あるいは利用するものと考えていた7。また、米国の軍事的国益という点から見ると、太平

洋地域に信頼するに足る能力を持った国が存在しない現状において、「日本は動員可能な人

的資源、工業力、海運・造船能力、軍事的経験という点で相当な軍事的潜在能力を持つ」

国であると認識されていたのである8。 いわば NSC48/5 は、ソ連が対日講和に参加しないことによって増大する日本への脅威

を明らかにし、これに備えるため、これまでの対日政策の中心であった戦後日本の安定化

のための経済力強化に加えて、軍事的強化の必要性を明らかにしたものであったといえる。

しかし、同時に、この時点では、具体的な再軍備の内容について国務省、国防省のいずれ

も日本側との具体的話し合いを持つには至っていなかった。 1951 年 9 月 8 日、サンフランシスコにおいて対日講和条約が締結され、同日、日米安

全保障条約も締結されるに至って、日本の再軍備に関する米国の働きかけは新たな段階に

進んだ。それは日米安全保障条約締結に基づく日米行政協定の交渉の機会に、再軍備問題

についても話し合うべきか否かという問題に端を発した。最初に行動を起こしたのは国務

省であった。 同年 9 月 28 日、国務省は、国防省に対して、再軍備問題を話し合うため、両省のトッ

プレベルからなる使節団を日本に派遣することについて打診を行ったのである9。しかし、

使節団派遣問題は当面緊急の問題ではないと考えていた国防省が、統合参謀本部(JCS)

6 Ibid., pp. 54-55. 7 Ibid., p. 54. 8 Ibid., p. 63. 9 James E. Webb to Robert A. Lovett, September 28, 1951, in Appendix of JCS 1380/120, October 6, 1951, Hiroshi Masuda (ed.), Rearmament of Japan, Part 1 (Tokyo: Maruzen, 1998) [micro form] Fiche 1B117.「再軍備問題に関する使節団派遣」という国務省側からの提案は、「警察

予備隊の重武装」問題についての国務・国防両省間の文書のやり取りの中で言及されたものである。

(FRUS, 1951, pp. 1358-1361 等参照。)

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

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に対し、「再軍備問題を話し合うための使節団」に関する意見を求めたのは、行政協定交渉

のための合同使節団派遣が間近に迫った 11 月初旬のことであった。11 月 8 日付の覚書の

中でフォスター(William C. Foster)国防長官代理がJCSに意見を求めたのは、国務省が

求めてきたような両省によるトップレベルの使節団派遣の必要性について軍事的見地から

どう考えるかということであった10。 具体的な第 1 の質問は、再軍備問題に関する話し合いのための合同使節団は、行政協定

のための合同使節団がこれを兼ねるべきか。それとも再軍備問題については、軍の代表者

らによる全く別個のグループにより話し合うべきか。また講和条約と日米安全保障条約の

批准、行政協定の交渉ということを考え合わせると、再軍備に関する話し合いを持つ時機

はいつがふさわしいのか、ということであった。 第 2 の質問は、日本と再軍備問題を話し合うとすれば、今後数カ月内に、米国政府内で

も基本的問題について考えるための軍事政策が必要となるし、また配慮事項というものも

考えなければならないとして、以下のような点について JCS の意見を求めるものであった。

(a)使節団派遣の計画作成の前提は、どのようなものであるべきか。これには以下の事

項のための計画を含む。すなわち(1)在日米軍の規模、任務、段階的撤退の時期、(2)日本の防衛軍の規模、構成、任務、(3)安全保障分野において日本政府が貢献するた

めの相互援助と自助努力の進展、(4)講和条約が批准された後、韓国での戦闘が継続

あるいは再開するならば、韓国での国連の作戦を日本が支援するための 1951 年 9 月

8 日付日米覚書交換の履行をどのようにするか。 (b)日本の国防省の創設に関して、米国防省の立場はどのようなものであるべきか、ま

た使節団は日本の政府筋とこの問題について何を議論すべきか。 (c)日本は、米政府の 1952、53 会計年度における軍事援助計画には含まれていない。し

たがって 1953 会計年度以降、講和後の対日軍事援助計画の作成の前提はどのような

ものであるべきか。 (d)講和後、日本に配属されている米軍司令官、駐日米大使、日本の政治・軍事当局の

間の関係を制御する全般原則は、どのようなものであるべきか。

これを受けたJCSは、統合戦略調査委員会(Joint Strategic Survey Committee: JSSC)

と統合戦略企画委員会(Joint Strategic Plans Committee: JSPC)に対して検討を依頼し

た。一方、陸軍省は米極東軍司令官(Commander in Chief, Far East: CINCFE)に現地

10 Memorandum for the Joint Chiefs of Staff, William C. Foster to JCS, November 8, 1951, in Enclosure of JCS 1380/123, November 9, 1951, Ibid., Fiche 1B194.

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の意見を求めた11。

(2)国防省による対日再軍備計画の作成

JSPCはJCSからの要請により前述の(a)及び(c)項についての検討を行い、1951 年

12 月 3 日、国防長官宛の覚書の草案をJCSに提出した。草案はJCSにおいて若干の修正を

経た後、12 月 13 日に国防長官に提出された。この覚書がJCSの作成した最初の日本再軍

備計画、すなわちJCS1380/127 である12。 JCS1380/127 の冒頭では、計画の前提として、共産主義国による突然の日本攻撃の可能

性があること、日本を自由主義陣営に留めておくことが米国にとって死活的であること、

米国は引き続き日本の防衛に関与すること等が記述されていた。また「日本防衛のための

軍隊を正当化するため、憲法は改正されるであろう」という見通しも述べられた。米側は

日本の軍隊が創設される際に必要とする重要装備を大量に援助することをうたう一方で、

日本側にも最大限の自助努力を求めていた。 覚書では、駐日米軍の段階的撤退や再配置の時程については時期尚早として触れていな

かった。しかし日本側の再軍備規模については、次のとおり示した。

警察予備隊は調和のとれた 10 個師団の地上軍に拡大されるであろう。当初、米国は

米日両軍が任務達成のために必要とする空・海軍力を提供し、やがては日米安全保障条

約に定められた制限の下で日本の防衛軍による援助を受けるようになるだろう。日本は

自国防衛について次第に増してくる責任を受け入れるようになり、防衛的航空部隊や海

軍部隊を包含するようになるものと思われる。

さらに陸海空軍の構成については、2 段階に分けて提示した。第 1 段階での編成(主力

構成)は、陸軍 10 個師団(兵力 30 万人)、海軍は 10 隻のフリゲートと 50 隻の大型上陸

支援艇、空軍は戦闘爆撃機、戦術偵察機各 1 個飛行隊を挙げた。次段階(時期は記載され

ず)として、陸軍は大規模な増強なしとした。海軍については未定としながらも、但し書

きで、第 1 段階に加えて、掃海艇(鋼製・木製)15 隻、対潜戦用哨戒機部隊(航空機 12機)1 個部隊の増強を最低限とした。さらに、「これらの部隊は防衛的海軍の核を構成する

に過ぎない」として、一層の増強の含みを残した。空軍については、迎撃機 6 個飛行隊、

戦闘爆撃機 12 個飛行隊、戦術偵察機 3 個飛行隊、輸送機 6 個飛行隊とした。

11 Memorandum for Record, Colonel Everett (G-3), November 13, 1951, Ibid., Fiche 1B194. 12 FRUS, 1951, pp. 1432-1437.

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

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JSPCがJCS1380/127 の草案を作成するに当たっては、CINCFEであるリッジウェイ

(Matthew B. Ridgway)大将の意見が重視された。草案の作成過程を述べた附属文書の

中でも、以下のようなリッジウェイの意見が引用されており、また「日本の軍隊は主とし

て陸軍から構成される」という彼の考えは草案の中に反映された13。

予見しうる将来において、日本人が均衡のとれた海、空、陸軍からなる軍隊を創設す

る能力があるというような実体のない考えを抱くことのないよう思い止まらせなければ

ならない。

リッジウェイは、現状の兵力を維持するほかは、警察予備隊への連絡・偵察目的の航空

機編入が必要であろうと認めていただけであり、「再軍備のための限られた能力は、政治状

況が許す限り早急に警察予備隊を拡充することに投入すべきである」と考えていた14。 現場指揮官であるCINCFEの意見を重視するJCSの姿勢は、再軍備話し合いのための使

節団派遣に関する国防長官宛の覚書においても同様であった15。JCSは、行政協定の話し

合い開始までの短期間では日本の再軍備に関する米国の立場を明確にすることは難しいと

した上で、合同使節団の派遣についての提言を行っている。 まず第 1 に、日本政府と再軍備や講和後の日本軍の規模、構成について正式に話し合う

前に、リッジウェイが非公式の話し合いによって交渉を行い、これが完了するまでは正式

の話し合いは行わないこと。第 2 に、使節団を送ったとしても、その役割はリッジウェイ

が日本政府と正式交渉を行う際の助言と援助であるとした。覚書ではさらに、再軍備に際

しては、日本政府が国防省のような中央機構を創設し、軍を監督するためのシビリアンコ

ントロールの体制を築くことが重要であるとも述べている。 実のところ、これらの提言はすべてリッジウェイがかねてより陸軍省を通じて主張して

いた内容であった16。リッジウェイの念頭には行政協定に関する交渉があって、話し合い

は、軍人からなる米側代表団と日本代表による合同委員会で行われるべきであると考えて

いた17。また、合同委員会の米側代表団はCINCFEに直属しなければならないとしていた。

13 “Facts Bearing on the Problem and Discussion,” in Enclosure “B” of JCS 1380/127, December 3, 1951, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1A152. SCAP to DA, C57490, November 18, 1951, Ibid., Fiche 1F54. 14 Ibid. 15 Memorandum for the Secretary of Defense, JCS to the Secretary of Defense, November 27, 1951, Ibid., Fiche1A9. 16 SCAP to DA, C57490, November 18, 1951, Ibid., Fiche 1F54. 17 リッジウェイの当時の文書を見ると、連合国軍最高司令官(SCAP)としての立場と米極東軍司

令官(CINCFE)としての立場の使い分けが不明確であった。また行政協定の話し合いについても、

現地の米軍司令官として自らがこれにあたるものとの誤解があった。後者の点については、宮里政玄

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さらに日本の再軍備に関する合同使節団が派遣されたとしても、再軍備の時機、規模、構

成についてリッジウェイに助言と援助を与える以上のことをしてはならないと提言した。

リッジウェイのこれらの主張を取り入れた結果が、前述のJCSによる国防長官宛の覚書と

なったものである。 国防省はJCSの覚書を受け入れ、1951 年 12 月 15 日、国務長官に対して「日本再軍備

の話し合いのための国務、国防両省による合同使節団派遣」の提案に対する回答を送付し

た18。前述のとおり、この回答は現地指揮官であるリッジウェイの提案を受け入れたもの

でもあり、その要点は次のようなものであった。

(1)行政協定のための合同使節団は、日本の再軍備や軍隊の規模、構成についての正

式交渉を開始する権限を付与されるべきではない。(2)リッジウェイが再軍備や軍隊の

規模、構成についての交渉の下調整を行った後、彼を補佐するため、別に米軍部の代表

団が任命されるべきである。(3)再軍備や軍隊の規模、構成についての正式な交渉は、

リッジウェイが日本政府当局者とすべての非公式交渉を終えるまで開始されるべきでは

ない。(4)日本政府は、シビリアンコントロール及び憲法による抑制と均衡(checks and balances)が働くよう国防省を創設することが望ましい。(5)行政協定交渉のための使

節団は国防省創設の話し合いを始めるべきではないが、日本側から持ち出された場合に

は、一般的な言い回しで、創設による利点といったことを提示すべきであろう。

1951 年 9 月に国務省が国防省に対して投げかけた「日本再軍備の話し合いに関する合

同使節団派遣」という提言は、結果として、本節で検討したように国防省が新たな対日政

策を模索するきっかけとなった。一つは米軍部が JCS1380/127 において、初めて日本の

再軍備に関する方針を表明したことである。二つめは、米軍部が、国務省の働きかけに対

して、(1)合同使節団の必要性を認めない、(2)交渉は現地の米軍指揮官である CINCFEが非公式に日本側と話をまとめた後に、米政府としての公式な話し合いを行うべきである、

として日本再軍備の米側の先導役を CINCFE に委ねる、との方針を明確にしたことであ

る。 最後に、フォスター国防長官代理の 11 月 8日付覚書に関して残された質問は、「講和後、

日本に配属されている米軍司令官、駐日米大使、日本の政治・軍事当局の間の関係はどう

あるべきか」というものである。この件に関してJCSは、JSSCの報告を基に、12 月 18

「行政協定の作成過程──米国公文書を中心に」『国際政治』第 85 号(1987 年 5 月)140 頁も参照。 18 FRUS, 1951, pp. 1439-1440. 国務長官に対する国防省側の 5 つの提言はすべて JCS の報告から

抜粋されたものであった。

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

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日付で国防長官に対して覚書を提出している19。この覚書では、特に示した軍事的事項(後

述)以外のことについては、日本政府との窓口を駐日大使に一本化することと定められた。

また、行政協定に基づき編成される予定の日米合同委員会について、米側メンバーの指名

や監督等の権限は、駐日米大使からCINCFEに与えられることになっていた。この覚書は、

リッジウェイにも送られ、彼の意見を求めることになった20。 翌 1952 年 1 月には、リッジウェイの意見を参考に前述の覚書の改正が行われた。同覚

書に対してリッジウェイは全般的には合意したものの、CINCFEとして所掌できる軍事的

事項を限定しないことを要望したが、これは受け入れられなかった。一方、日米合同委員

会についてはリッジウェイの意見が採用され、CINCFEはJCSを通じ直接米政府によって

権限が与えられることになった。ただし一日も早い実現を望むリッジウェイに対して、日

米安全保障条約発効までは合同委員会は何の決定権も持たないと釘を刺すことも忘れなか

った21。 覚書改正のための草案を作成した陸軍参謀長は、基本的には 1951 年 12 月 18 日付の覚

書の内容を再確認した。陸軍参謀長が改正に当たって再確認したのは、(1)米国の政治問

題については文民優位の原則を守る、(2)安全保障に関わる任務についてはCINCFEに迅

速かつ自由な行動を取る権利を保証する、(3)日本政府とのパイプはできる限り一本化す

る、という 3 点である。この結果「CINCFEに対しては安全保障任務を果たすために必要

とする十分な権限を認める一方、手続き的、外交的、政治的事項といった広範囲について、

駐日米大使の優位を認める」ものとした。また「できる限り駐日米大使がパイプ役となら

なければならない」として、原則、日本政府との窓口を駐日米大使に一本化するという覚

書の内容を支持したのである22。 しかし、再軍備に限ってみれば、「日本本国の防衛計画は米国の軍事史上前例のないもの」

であったため、米軍部は講和後の枠組みを定めるに当たって、現地指揮官であるCINCFE 19 Memorandum for the Secretary of Defense, December 18, 1951, in Enclosure of JCS1380/128, December18, 1951, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1B197. JCS の報告は、Report by the Joint Strategic Survey Committee to the Joint Chiefs of Staff, December 3, 1951, JCS1380/128, Ibid. 同報告の冒頭で、リッジウェイの意見(前出“SCAP to DA, C57490, November 18, 1951”な

ど)に全般的に同意し、作成されたことが述べられている。 20 Memorandum for the Chief of Staff, U.S. Army, Subject: Relationships in the Post-Treaty Period Among the Commander of U.S. Forces Disposed in Japan, the United States Ambassador, and Japanese Civilian and Military Authorities, December 18, 1951, Ibid., Fiche 1B171. 21 CINCFE Tokyo Japan SGD Ridgway to DEPTAR, January 13, 1952, in Enclosure “C” of JCS 1380/136, January 25, 1952, Ibid., Fiche 1B8; Message to CINCFE Tokyo Japan, in Enclosure “B” of JCS 1380/136, January 25, 1952, Ibid. 22 Memorandum by the Chief of Staff, U.S. Army for the Joint Chiefs of Staff on Relationships in the Post-Treaty Period Among the Commander of U.S. Forces Disposed in Japan, the United States Ambassador, and Japanese Civilian and Military Authorities, JCS 1380/136, January 25, 1952, Ibid.

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の意見を重視し、米国の伝統である「文民優位」という妥協できない一点を除いては、

CINCFEの意見に基づき、再軍備計画に関する日本政府との交渉の在り方を定めたといえ

る23。この結果、日本政府との交渉のパイプ役は駐日米大使に一本化される一方、以下の

軍事的事項についてはCINCFEが直接日本の当局者と話し合うことが認められたのであ

る24。 その軍事的事項とは(1)日米の合意事項を履行する際に関係するあらゆる軍事的事項、

(CINCFE 麾下の軍の安全、日本の防衛に関する事項を含む)、(2)対日軍事政策、軍事

援助に関する事項及び米日連合戦争計画(war plan)に関する事項、(3)米軍及び日本軍

の組織、訓練、部隊配置、福利厚生に関する事項、(4)CINCFE の任務遂行に必要な軍事

施設、設備に関する事項、であった。 かくして日本再軍備についての米側の基本態勢は定められ、米軍部はいよいよ日本との

具体的交渉に向かうことになった。

(3)陸上兵力増強をめぐる日米の攻防 国防省内において新たな対日政策が作成されたちょうどその頃、国務省はダレス(John

Foster Dulles)顧問を日本に派遣していた。1951 年 12 月中旬に日本を訪れたダレス一行

の目的は、対日講和条約及び日米安全保障条約について米議会での承認を得るため、日本

の状況を報告するためのものであった。しかし、同時にこの訪問では、中国の承認をめぐ

って日本政府を米陣営に取り込むことが重要な目的の一つであった。ダレスは自ら、日本

が中華民国(台北の国民党政府)と講和条約を結ぶことを明言した文書を草案し、これを

吉田茂首相の名で米政府(ダレス宛)に提出させることに成功した25。いわゆる「吉田書

簡」と呼ばれる 12 月 24 日付け文書である。 すでに見たように、当時、米軍部は再軍備に関しての正式な話し合いは、まずCINCFE

によって非公式な話し合いをまとめた後で行うという方針を固めつつあった。また国務省

も、国務・国防両省からなる行政協定のための合同使節団を日本に派遣し、協議を行って

いる最中であり、ダレス訪日の際に具体的な再軍備問題が議題となることはなかった。し

かし、米側からの再軍備要求を懸念する吉田首相は、「日本の新防衛軍」と題する報告書を

ダレスに提出した。報告書の内容は当時の新聞報道によれば、(1)警察予備隊強化のため

1952 年 1 月から 1953 年 3 月までに 1 万 4,000 人の幹部を養成、1953 年 3 月までに警察

23 CINCFE to JCS, C50742, September 13, 1951, in Enclosure “B” of JCS 1380/128, December 3, 1951, Ibid., Fiche 1B197. 24 Memorandum for the Secretary of Defense, December 18, 1951, in Enclosure of JCS 1380/128, December 18, 1951, Ibid. 25 FRUS, 1951, pp. 1445-1447, pp. 1466-1467.

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予備隊を 12 万人に増強、1953(昭和 28)年度予算を大幅に増額し 800 億円とする、(2)空軍は持たない、(3)火器、弾薬などの装備は従来どおり米国の貸与による、(4)海上保

安隊強化のため 2,000 トン級の艦船 2 隻を使用する、というものであった26。これに対し

ダレスが日本に再軍備を強く求めることはなかった。前述の新聞報道では、ダレスが日本

の国情に理解を寄せ、再軍備によらない防衛力の強化という日本政府案を受け入れたもの

との報道がなされた。 しかし水面下では、講和後の日本の防衛について、国務省と国防省の綱引きはまだ終わ

っていなかった。また JCS の決定に基づき、CINCFE、すなわちリッジウェイと日本政府

との間の再軍備に関する交渉も、いよいよ具体的段階に進もうとしていたのである。 国務省と国防省との間の日本の防衛力増強をめぐる対立点は、米側から貸与されるはず

の重装備をめぐる問題であった。国防長官は、講和後の 1951 年 9 月、国務長官に対し、

軍用重装備を警察予備隊に供与することを要請した。重装備の供与については、すでに同

年 5 月、4 個師団用の重装備を日本国内に備蓄することが決議されていた。さらに陸軍省

は 1952年 7月までに 10個師団用の装備提供の立案化と予算化を担当することになってい

た。しかしこれらの重装備は、国務省による事前の明確な同意か政府の最高レベルの承認

がなければ、日本側には手渡されないことになっていた。これに対して、講和後、警察予

備隊の強化を急ぐ米軍部は、日本政府に対する一日も早い引き渡しを国務省に求めるよう

になった。国務省側は、1948 年 2 月の極東委員会の決定を理由に、講和条約発効まで重

装備を日本側に供与することはできないとしてこれを拒んでいたのである27。この後、重

装備の日本引き渡しの問題は、1952 年 7 月、制定法による援助計画が認められるより前

に、大統領の承認により決定されることになる28。 一方、再軍備に関する事前の話し合いを非公式に日本政府と行う許可を得たリッジウェ

イは、1952 年 1 月以降、日本政府に対し本格的に再軍備の働きかけを開始した。1 月 5 日、

リッジウェイは「日本の予算上の支援と警察予備隊強化についての同意」を得るため、吉

田首相との会談を行った。1 月 22 日に予定されている通常国会において米側の期待する予

算(警察予備隊の経費、1952 年度予算で 1,350 億円)を承認させるための時間は限られて

いた。またリッジウェイ側の代表者らと、吉田の信頼する旧軍人の代表者らによる細部に

関する話し合いも始められた。1 月 7 日の会談では、リッジウェイ側は吉田側の代表に対

26 大嶽秀夫編『講和と再軍備の本格化』戦後日本防衛問題資料集、第 2 巻(三一書房、1992 年)

335 頁。 27 FRUS, 1951, pp. 1358-1361. 28 U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States, 1952-1954, Volume XIV: China and Japan, Part 2 (Washington, D.C.: U.S. Government Printing Office, 1985), pp. 1291-1292(hereafter cited as FRUS, 1952-1954, XIV).

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し、「日本が米政府の提示する安全保障のための予算と警察予備隊の強化に同意することに

よって生じるであろう多くの長期的利益について、吉田に説いてくれるよう」強く求め、

さらに、極東において共産主義の軍隊が日本の安全保障を脅かしているとの情報を告げて

いる29。 同じ頃、総司令部(General Headquarters : GHQ)参謀長のヒッキー(Doyle Hiekey)

中将から、極東の情勢や軍事の諸問題について吉田に詳しく説明をしたいという打診があ

った。これに対し、吉田は「軍事のことなら、君、代わりに行って聞いてくれ」と辰巳榮

一元陸軍中将にGHQ訪問を依頼した。同年 1 月 12 日、吉田の代理としてGHQを訪れた辰

巳に、ここ数年の間に陸上兵力を 10 個師団、32 万 5,000 人にすべきだという米側の主張

が伝えられた。しかし、報告を受けた吉田は頑としてこれを聞き入れようとはしなかった。

数日後、辰巳から吉田の言い分を聞かされたヒッキーは「防衛に金が要ると言うが、一番

金のかかる海と空による防衛は米国側で引き受けるんだ。本土防衛のための陸上兵力の増

強には、日本政府はもっと真剣になってもらいたいものだ」と苦い顔をしたという30。陸

上兵力増強の問題については、最終的には吉田とリッジウェイの間で非公式にではあるが、

1952 年中旬までに 11 万人、翌年 3 月末までに 18 万人ということで決着が付いた31。 これらの米側の要求に見られるように、前年 12 月の JCS による対日再軍備計画の決定

を受けて、1952 年 1 月以降、陸軍兵力増強を中心とした要求が、CINCFE と日本政府と

の間で激しく議論されるようになっていったのである。 1952 年 4 月 19 日、講和条約の発効と同時に離日することが決定していたリッジウェイ

は、1 通の電報をJCSに送った。この報告の中でも、リッジウェイは日本の再軍備に関す

る自らの主張を繰り返している32。

SCAP は日本に対し防衛力計画を推し進めるよう迫ってきたが、同時に、日本の経済

事情にも通じていたので、日本人が旧来の発想で(in the conventional sense)、現在均

衡のとれた防衛軍を維持する能力があるというような実体のない考えを抱くことのない

よう思い止まらせてきた。そして、まず第 1 に適度の陸上防衛力と小規模の沿岸防衛力

を構築するよう力説してきたのである。加えるに、講和条約の発効に先立って、日本空

軍を組織することを許すようなカムフラージュされた計画は存在しないだろう。たとえ

29 SCAP to DA, C61509, January 15, 1952 in Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1B19.日本側

関係者の氏名については“the Prime Minister's representative”とのみ記されており不明。 30 「将軍は語る辰巳栄一中将のお話(2)」『偕行』第 386 号(1983 年 2 月)32 頁、及び読売 新聞戦後史班編『「再軍備」の軌跡』282-283 頁。 31 CINCFE to DA for JCS, C67162, April 19, 1952, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1A107. 32 Ibid.

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そのようなものが望まれていたにしても。

この頃、日本側では旧陸軍、海軍それぞれの関係者により航空兵力再建の研究がなされ

ていた。1951 年 12 月には海上警備隊創設に関わった旧海軍関係者によって、海軍と空軍

を統合した部隊を創設する構想が作成され、翌年 1 月 10 日には「新空海軍建設計画」と

して米極東海軍司令部に提出されている33。しかし、リッジウェイの報告を見る限り、こ

のような日本側の計画が、米側の再軍備計画に影響を与えた証左を見ることはできない。

リッジウェイはあくまでも「陸上兵力中心の再軍備」こそ日本にとって緊急かつ最大の課

題であるという態度を最後まで崩すことはなかったのである。

2 米軍部による航空兵力再建の検討

(1)米空軍参謀長の懸念 日本が主権を回復した 4 カ月後の 1952 年 8 月、NSCは新たな対日政策NSC125/2 を策

定する。「日本に関する米国の目的と行動方針」と名付けられたこの文書は、前年 5 月に

策定されたNSC48/5 に取って代わるものであった。同文書は 8 月 7 日、大統領の承認を得

て、国務、国防両長官を始めとする関係部門に伝達された34。 NSC48/5 で「適切な軍事力の発展について日本を援助すること」とされていた再軍備の

目標は、NSC125/2 において次のように改められた35。

日本がやがては外国の侵略から自国を防衛する責任を負うことができるようになる軍

隊を発展させるのを援助すること。第 1 段階として、均衡のとれた 10 個師団の地上兵

力、適切な海、空軍力(a balanced ten-division ground force and appropriate air and naval arms)を発展させるよう支援すること。

NSC125/2 では、前年秋に策定された JCS1380/127 と同様、海、空軍力の創設に言及

するとともに、陸上兵力についても 10 個師団という具体的数字が挙げられるようになっ

たのである。 また米軍との関係については、日本の軍隊が自国を防衛できるようになるまで、「日本国

内及び周辺に十分な勢力の米軍を維持し、日本軍と協力して外国の侵略を防ぐことができ

33 「“独立空軍”を構想」『朝雲』1991 年 4 月 25 日。 34 FRUS, 1952-1954, XIV, pp.1300-1308. 35 Ibid., pp. 1306-1307.

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る」ようにすることが明記された36。 NSC125/2の策定から 1カ月後、米空軍参謀長ヴァンデンバーグ(Hoyt S. Vandenberg)

大将はJCSに対して 1 通の覚書を提出した。覚書は暗にCINCFEの陸軍重視を非難するも

のであり、米空軍が日本の航空兵力創設の遅れを懸念していることを表明するものであっ

た37。

私は、陸上及び海上防衛力がそれぞれ警察予備隊(National Police Reserve)、海上

警備隊(Costal Security Force)という形で達成され急速に発展していると理解してお

ります。しかるに日本空軍(Japanese Air Force)の創設に関する進捗は明らかに取る

に足りないものであります(CINCFE の 1952 年 4 月 19 日付、至急電 C67162、第 5項参照──原注)。

覚書の中で空軍参謀長が触れている CINCFE の至急電とは、前述のリッジウェイから

JCS に宛てた電報であり、リッジウェイはこの中で、現在の日本が陸上兵力と小規模の海

上兵力を持つ以上の能力はないと明言していた。このような CINCFE の態度に不安を持

ち、航空兵力創設の遅れを懸念した空軍参謀長は、JCS に対し CINCFE が日本空軍創設

のため日本政府関係者と一日も早い非公式会談を持つことを提案したのである。空軍参謀

長は前述の JCS1380/127 と NSC125/2 に記された政策を自らの提言の根拠としていた。 また、空軍参謀長の覚書に添付された「JCS から CINCFE 宛文書(空軍による草案)」

の中でも、米空軍の焦燥が次のように表現されている。

JCS はいまだに日本の空軍力の核(the nucleus of a Japanese air arm)となるもの

がないことを危惧している。米空軍部隊は日本に相当期間留まることになるだろうが、

日本が自国の防空に次第に責任を持つようになるために、現在、最初の航空兵力創設に

取りかかることが肝要である。

草案では JCS1380/127 の段階的目標に従って、第 1 段階で(1)空軍司令部、(2)飛行

学校、技術学校、(3)戦闘爆撃機、戦術偵察機各 1 個飛行隊、(4)必須の施設・支援部隊、

の創設を提言している。さらに次段階では、JCS1380/127 の修正案として、(1)要撃戦闘

機 9 個飛行隊、(2)要撃戦闘機(全天候型)3 個飛行隊、(3)戦闘爆撃機 6 個飛行隊、(4)

36 Ibid., p.1307. 37 Memorandum by the Chief of Staff, U.S. Air Force for the Joint Chiefs of Staff on Japanese Defense Forces, JCS1380/150, September10, 1952, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1A182.

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

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戦術偵察機 3 個飛行隊、(5)輸送機 6 個飛行隊、の創設を提言した。 空軍参謀長がこの時期 JCS に対してこのような覚書を提出した理由はどのようなもの

であったのか。その最大のものは、覚書の中でも述べられているように CINCFE が陸軍

を重視し、海軍についても少なくともその核となるものが形成されたにもかかわらず、依

然として空軍に関しては CINCFE あるいは JCS が何の行動も起こさないことに対する焦

りであったと思われる。この他の要因の一つとしては、草案の中でも触れられているが、

米国の 1954 会計年度の作業開始という米国内の事情を踏まえていたことが考えられる。

1954 年度予算では、日本に対する相互防衛援助プログラム(Mutual Defense Assistance Program: MDAP)の適用が検討されていた。空軍参謀長は予想される総額 5 億 2,170 万

ドルのうち 1 億 8,370 万ドルを空軍創設に充てるよう進言していた。さらに NSC125/2 の

策定により、日本に海、空軍を創設することが米政府レベルで承認されたことも考慮すべ

きであろう。加えて次章で見るように、日本の主権回復とともにソ連機による領空侵犯が

頻繁に行われ始めたことも無関係ではなかったと思われる。草案の中でも、JCS1380/127の「次段階」の部隊構成を修正する理由として、「日本に対する共産主義の空の脅威の規模

という点から」の見直しが必要であることが挙げられている。 また憲法第 9 条と空軍創設の関わり合いについては、警察予備隊や海上警備隊の創設と

同様、専門用語をうまく使って、例えば航空警察予備隊(National Air Police Reserve)と呼称するようなことで当面は対処できるだろうと考えていたようである。 米海軍は、空軍参謀長の覚書に対し、日本の空軍創設についてCINCFEの意見を聞くと

いうことには同意した。米空軍が懸念しているCINCFEの意見は前任者リッジウェイの意

見であり、後任者クラーク(Mark W. Clark)大将の意見を聞こうというわけである。し

かし、空軍参謀長が添付した草案については、日本の政治、経済上の要因から見て、

CINCFEの意見を聞く以前にJCS側から日本の再軍備について草案のような内容を表明す

べきではなく、また草案の内容も中途半端であるとの反対意見を提出した。米海軍の提出

した「JCSからCINCFE宛文書(海軍による草案)」では、JCS1380/127 の第 1 段階を開

始すべきかどうかクラークの意見を問うというものであり、日本空軍創設という立場から

見れば消極的なものであった38。 米陸軍もまずCINCFEに意見を聞くという米海軍の意見に同意し、それまでは米空軍の

草案にあるようなMDAPや航空産業の復興などの細部にJCSが関与することは適当でな

いとの意見を提出した。また、この案件に対する根本的なところには、「本案件は 3 軍す

べての利害に関わるものであるが、まず第 1 に空軍の利害に関わるものである」という姿

38 Memorandum by the Chief of Naval Operations for the Joint Chiefs of Staff on Japanese Defense Forces, JCS 1380/151, September19, 1952, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1B1.

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勢があった39。 JCSは 10 月 3 日、空軍参謀長の進言に大枠では同意し、CINCFEに対して「適切な日

本空軍を創設する件について日本政府と非公式の話し合いを開始することの妥当性」につ

いて回答するよう電文を送付した40。ただし空軍参謀長の草案にあった細部については省

略され、JCS1380/127 とNSC125/2 により、日本に段階的に空軍を創設することと、第 1段階として均衡のとれた 10 個師団の地上兵力、適切な海、空軍力を発展させるよう支援

することが米政府の政策となったことが簡潔に記されていた。電文送付に当たって国防省

は国務省の同意を得ており、クラークはマーフィー(Robert D. Murphy)駐日米大使や関

係の米軍司令官らとも協議の上、話し合い開始の時機も含めてJCSに報告することを求め

られた。

(2)JCS1380/127 の見直しと日本空軍創設計画の具体化 クラークはマーフィー大使、ワイランド(Otto P. Weyland)米極東空軍司令官と協議の

結果、1952 年 10 月 31 日、JCSに対する報告を行った41。報告書の冒頭でクラークは、直

ちに空軍を創設するには政治的問題(憲法第 9 条の存在)と経済的問題が多いと前置きし

ながらも、「しかしながら、上記の状況にもかかわらず、またJCS1380/127 とNSC125/2に掲げられた目的をより達成するためにも、現在、この問題[空軍創設]に関する米国の

基本的な考えを日本政府のトップレベルに告げることが望ましい」([ ]内は引用者によ

る。以下同様)と進言した。 クラークは「話し合いのための枠組」として、まず(1)空軍創設に当たって基礎とす

べき概念を掲げた。具体的には、例えば、将来の日本の経済発展と西側との協調、日米同

盟の継続といったことや、共産主義の空からの脅威、日本の航空兵力再建が太平洋の友好

国に不安をもたらすであろうこと、などが列挙された。また、日本の軍の任務は本土防衛

に限られるべきであり、「外国への侵略が可能な兵力、特に長距離爆撃機部隊あるいは空母

部隊は開発すべきではない」としていた。続いて(2)航空兵力一元化の必要性(陸軍の

連絡機を除く)が挙げられた。これは、「防空と戦術航空支援のための航空兵力」と「海軍

または沿岸警備の航空兵力」という 2 つの航空兵力を維持することは、しばらくの間、日

本には不可能であるという考えによるものであった。この他の枠組みとして、(3)防衛的

39 Memorandum for the Chief of Staff, U.S. Army,“Japanese Defense Forces (JCS1380/150and/151),”October 1, 1952, Ibid. 40 Joint Chiefs of Staff, Decision on JCS1380/150, A Memorandum by the Chief of Staff, U.S. Air Force on Japanese Defense Forces, JCS1380/150, October 3, 1952, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1A182. 41 CINCFE to DA for JCS, CX58128, October 31, 1952, in Enclosure “B” of JCS1380/153, November 17, 1952, Ibid., Fiche 1B2.

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

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空軍という概念のもとで長期的計画により創設すること、(4)日本空軍とその行動は、米

極東空軍と緊密に連携しなければならないこと、(5)米空軍は日本空軍の創設に当たりま

ず第 1 の支援、指導責任を負うこと、などが示された。 クラークは報告の締めくくりとして、3 つの提言(あるいは要望)を行った。第 1 は、

空軍創設の問題について、マーフィー、ワイランドとともに、できるだけ早く日本の首相

と話し合う権限を与えて欲しいということ。第 2 は、クラークが掲げた上記の「話し合い

のための枠組み」に同意してもらいたいということ。クラークは、同意が得られれば、こ

れを日本側との話し合いの基本としたいと考えていた。第 3 は、米側の対日物資援助の範

囲に関する情報提供と、日本の首相との予備的協議の際にこの情報を使用する許可を求め

ることであった。 クラークはJCSからの回答を待たずに、1952 年 11 月 11 日にはさらに 1954 会計年度に

おける対日援助予算についての私案をJCSに対して送付している42。この予算の私案は、

10 月末に国務省からクラークとマーフィーに対して求められたものであったが、この問い

合わせには国防省も同意していた。したがってクラークとマーフィーは協議の後、それぞ

れJCS、国務省へ同内容の報告を行ったのである。国務省からの問い合わせは、(1)1954会計年度において、経済、軍事、政治的見地のすべてから考慮して、日本の陸海空軍の建

設はどの程度が望ましく、また実行可能か、(2)同会計年度におけるドルと円の費用、可

能であれば各軍ごとのおおよその見積もり、(3)上記の経費及び行政協定に基づく米軍維

持経費に見合う日本の財政能力、についてであった43。 クラークとマーフィーは 1954 会計年度で整備すべき兵力と予算について、次のような

報告を行った。陸上兵力については 18 万人(1955 会計年度には 32 万 5,000 人)、予算 1億 4,700 万ドル。海上兵力については、フリゲート 18 隻、上陸支援艇 50 隻、海上保安庁

からの掃海艇 40 隻、要員上限 1 万 3,500 人、予算 220 万ドル。航空兵力については、1954年 6 月末までに 2 個飛行隊から成る 1 個の航空団、1 個の補給処、主要な司令部、学校、

施設及び支援部隊の創設。1956 年 6 月末までには 3 個の要撃戦闘機航空団(9 個飛行隊)、

1 個の要撃戦闘機航空団(全天候型)(3 個飛行隊)、2 個の戦闘爆撃航空団(6 個飛行隊)、

42 CINCFE to DA for JCS, CX58649, November 11, 1952, in Enclosure “C” of JCS 1380/153, November 17, 1952, Ibid. 国防省が 9 月 26 日に相互安全保障監督局(Office, Director Mutual Security: ODMS)に提出した 1954 会計年度の援助計画案について、クラークは 1952 年 10 月 31日に国務省を通じて入手していた(FRUS,1952-1954, XIV, pp. 1349-1351)。国防省案は、総額 5 億

2,170 万ドル。内訳は陸軍 3 億 800 万ドル、海軍 3,000 万ドル、空軍 1 億 8,370 万ドルとなっていた

(ただし決定的なものではなく、あくまでも仮のものであると念押しされていた)。 43 FRUS, 1952-1954, XIV, pp. 1349-1351. クラークがCINCFE to DA for JCS, CX58649で伝えた

のとほぼ同じ内容の報告は、1952年11月6日付でマーフィーから国務省にも送付されている(FRUS, 1952-1954, XIV, pp. 1351-1353)。

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1 個の偵察航空団(3 個飛行隊)、2 個の輸送航空団(6 個飛行隊)、2 個の補給処、主要な

司令部、教育システムの拡張、施設及び支援部隊を整備するものとした44。ただし調達に

は 2 年間のリードタイムが必要であるとして、1956 年 6 月末までの整備に必要な経費を

1954 会計年度に計上するものとし、2 億 8,700 万ドルと見積もっていた。1954 会計年度

の計画は 1953 年 1 月初めには議会に提出しなければならず、国務省は、日本側の負担額

に関する問題も含め、日本政府のトップレベルとクラーク、マーフィーが早急に軍事、経

済問題を話し合い、合意に達することを望んでいた45。 JCSを通じてクラークからの日本空軍創設に関するこれらの報告を得た空軍参謀長は、

1952 年 11 月 14 日、再びJCSに対して覚書を提出した46。空軍参謀長はクラークの報告の

内容のうち、「空軍創設に当たっての基本構想」の一部にわずかな修正を加えただけで、そ

れをJCSの方針として再びクラークに送付するよう進言した47。またクラークが米側の対

日物資援助の範囲についての情報を求めていることに対しては、下記の情報を提供するよ

うJCSに要望した。

(1)(朝鮮半島での戦闘行為が 1953 年 6 月末に終了するとの前提に基づき)1954 会計

年度前期で 2 個飛行隊を装備するという現在の米空軍の計画は、所要のジェット機

を含んでいる。 (2)米空軍の 1953 会計年度予算には、(航空機を除く)上記 2 個飛行隊用の装備を購

入するため 174 万 1,585 ドルが計上されている。 (3)1952 年 10 月 30 日、JCS は国防長官に対して、1954 会計年度の細部軍事援助計

画のための軍事的指導を送付。日本の空軍のための主な戦力基準は以下のとおり: 要撃戦闘機 9 個飛行隊 (1 個飛行隊は 25 機) 要撃戦闘機(全天候型) 3 個飛行隊(同 25 機)

44 CINCFE to DA for JCS, CX58649, November 11, 1952, in Enclosure “C” of JCS1380/153, November 17, 1952, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1B2. 45 FRUS, 1952-1954, XIV, p. 1351. 46 Memorandum by the Chief of Staff, U.S. Air Force for the Joint Chiefs of Staff on Japanese Defense Forces, November 14, 1952, JCS1380/153, November 17, 1952, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1B2. 47 クラークの掲げた「空軍創設に当たっての基本構想」に対して、空軍参謀長が求めた修正は以下

の 2 点であった。 3.A.(2)日本の安全保障に対する最も緊急かつ最大の単独の脅威は、共産主義による空からの脅

威である。したがって日本の安全保障と自国の利益(と誇りは、次第に空軍を求めるようになる。)

は、現在の日本の軍事計画が、日本空軍の核を早期に創設することを保障するよう修正されること

を求めるようになる。[丸括弧内は削除された部分。下線部は追加された部分──引用者、以下同様]

(8)日本国民に対する航空(防衛)兵力の発展に関する(長期)計画への助言を直ちに開始しな

ければならない。

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

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戦闘爆撃機 6 個飛行隊 (同 25 機) 戦術偵察機 3 個飛行隊 (同 18 機) 輸送機 6 個飛行隊 (同 16 機)

(4)国防省は1952年9月26日、相互安全保障監督局(Office, Director Mutual Security: ODMS)に対して 1954 会計年度の日本の軍隊に対する軍事援助要求を提出した。本

計画の合計は 5 億 2,170 万ドル、内訳は次のとおり。陸軍 3 億 800 万ドル、海軍 3,000万ドル、空軍 1 億 8,370 万ドル。[以下略]

ただし各軍種間の予算は仮のものであり、今後、前述のクラークの報告(11 月 11 日付)

も参考にして見直しが必要であること、また国務省が ODMS に対して、この軍事援助計

画が経済的に正当なものであるとの意見を提出したことも記されていた。 空軍参謀長の覚書は、1952 年 11 月 19 日、JCSからJSPCに送られ、陸海軍の意見も参

考としながら再度検討を行うよう指示された48。JSPCは「空軍参謀長の覚書を基に報告書

を作成し、JCSが国防長官に報告。国防、国務両長官の同意を得た後CINCFEに送付する」

として、陸海軍の意見を求めた49。 米陸軍は、全体としては空軍参謀長案に同意したが、前記の「1954 会計年度の援助見積

もりや軍種間の内訳は仮のものであり、クラークの 11 月 11 日付報告に基づいて見直しの

必要がある」とする空軍参謀長の意見には修正を求めた。「軍種間の予算配分は、最終的に

MDAPが明らかになった時点で、JCSが承認した米国の対日軍事目的と、同じくJCSが承

認した日本の軍事力基盤に基づいてなされるべきである」というのが、陸軍の意見であっ

た50。米陸軍は、クラークからの報告を受けた際にも、日本政府との話し合いを開始する

権限を彼に与えることにはより慎重であり、JCS内で検討する必要があると進言した経緯

があった51。これまでJCSは、1951 年末に作成されたJCS1380/127 に基づき、陸上兵力重

視の日本再軍備を是認してきた。「日本空軍の核となるものを早急に創設する」という大枠

では同意したものの、JCSが提出した 1954 会計年度の日本陸軍用予算が 3 億 800 万ドル

であったのに対し、クラークの試案では 1 億 4,700 万ドルに過ぎなかったことを考えれば

米陸軍が難色を示したのも当然といえよう。

48 Memorandum for the Joint Strategic Plans Committee, SM-2663-52, November 19, 1952. 石井修・植村秀樹監修『アメリカ合衆国対日政策文書集成アメリカ統合参謀本部資料:1948-1953』第

15 巻(柏書房、2000 年)138 頁。 49 JSPC959/20, December 15, 1952. 上掲書、301-313 頁。 50 Army Planner's Memorandum No.172-52, December 17, 1952, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1B2. 51 Memorandum by the Chief of Staff, U.S. Army, undated, in Enclosure“A”of JSPC 989/18/D, November 24, 1952. 石井・植村監修『アメリカ統合参謀本部資料』第 15 巻、135 頁。

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一方、米海軍も日本空軍創設の大枠では同意した。しかしクラークが日本政府との「話

し合いのための枠組」として承認を求めた項目のいくつかに修正を要求した52。第 1 は、 「外国への侵略が可能な兵力、特に長距離爆撃機部隊あるいは空母部隊は開発すべきでは

ない」という項目に対して、「対潜水戦(ASW)部隊を除いては」という条件を付け加え

ることであった。日本の地理的状況からは、将来、海上交通防衛や海上からの攻撃に備え

ることが必須となる、したがって空母搭載の ASW 部隊創設の可能性を排除することがあ

ってはならないという理由からであった。第 2 の修正は、「陸上部隊の連絡機を除く日本

の防衛軍(Japanese Security Force)のあらゆる航空要素(air element)は単一の日本

空軍に集めるべきである」という項目の削除である。その理由として、「いつかは、沿岸基

地を母基地とする ASW 部隊も、空母搭載の ASW 部隊も日本海軍に付与されるべきであ

る。現時点でこのような発展を禁じる必要はない」と述べていた。 米海軍はこの他にも、軍事援助は全体的防衛計画によるものであり、日本政府と話し合

うときには、空軍の創設だけに限定せず、すべての軍を網羅する立場で行わなければなら ないとの一文を追加することを要求した53。米陸軍も同様に日本空軍創設重視に対する危

惧を表明していたためか、この一文もJSPCの最終的草案に盛り込まれた。 1952 年 12 月 24 日、JSPCは、空軍参謀長の覚書に対する検討結果をJCSに報告した54。

JCSでは、この報告を基に、さらに各軍からの修正案を検討した55。ここでも再び航空機

をめぐって米海軍と米空軍の意見が対立した。米空軍は、日本の地理的状況から対潜戦航 空機の必要を主張する米海軍の立場を理解するとしながらも、経済的理由に加えて太平洋 の隣国に対する政治的配慮からも時期尚早として、米海軍の主張に反対した56。一方の米 海軍は、対潜戦航空機に加え海上偵察機を日本空軍からは除外することを明記するよう主 張した57。米海軍による修正案は却下されたが、しかし明らかにこれらの議論を反映した

と思われる記述が最終的草案に盛り込まれることになる。

初期において、日本の防衛軍(the Japanese National Safety Force)のあらゆる航空

52 Navy Planner's Memo #158-52, December 18, 1952, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1B2. 53 Navy Planner's Memo #158-52, December 18, 1952, Ibid. 54 Report by the Joint Strategic Plans Committee to Joint Chiefs of Staff on Japanese Defense Force, JCS 1380/155, December 24, 1952, Ibid. 55 Memorandum for General Bradley, General Vandenberg, General Collins, Admiral Fechteler, SM-29-53, January 8, 1953. 石井・植村監修『アメリカ統合参謀本部資料』第 15 巻、261-266 頁。 56 Memorandum by the Chief of Staff, U.S. Air Force for the Joint Chiefs of Staff on Japanese Defense Forces, January 6, 1953. 石井・植村監修『アメリカ統合参謀本部資料』第 15 巻、269 頁。 57 From Chief of Naval Operations to JCS, January 6, 1953. 石井・植村監修『アメリカ統合参謀

本部資料』第 15 巻、271 頁。

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

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要素を単一の軍種の中に創設することは、経済的見地から少なからぬ利点があるという

ことは承知している。しかし、日本の首相との話し合いでは、日本の防衛軍の航空要素

を保安庁(National Safety Agency)に統合する方法については、日本政府の要望に沿

って決定されるであろう58。

この結果、クラークや空軍参謀長が望ましいとした航空兵力の一軍化は、原則論として

は JCS も認めていたものの、JCS の方針としては明記されないことになり、決定は日本

政府に委ねるという方針が明記された。この問題は、後に航空自衛隊の発足と航空機の分

属(航空機をすべて航空自衛隊の所属とするのか、あるいは一部を陸上・海上自衛隊の所

属とするのか)をめぐって保安庁(後に防衛庁)内でも議論されることになる。 JSPCの報告文書は 1953 年 1 月 9 日、JCSの承認を受け、1951 年 12 月末の米軍部によ

る対日政策文書JCS1380/127 を見直すものとして、国防長官に提出された59。国防長官へ

の覚書の中では、JCS1380/127 に基づき日本の陸海軍が組織されてきたのに対して、空軍

創設が遅れていることが明記された60。

上記計画[JSC1380/127]の想定による日本の陸海軍の目標達成に向けては、国内の

防衛軍という見せかけの下に(under the guise on internal security forces)、かなりの

進捗の跡が見られる。日本の空軍の準備については、現在のところ、いくつかの要因が

組み合わさって、遅滞している。その最たるものは、陸海空の兵力保持を禁じている日

本国憲法の制約によるものだろう。

さらにJCSは国防長官に対して、日本に対する共産主義の攻撃的空襲能力が増している

という要因から、「実行可能な限り速やかに、空軍創設問題について日本政府と話し合うこ

とが望ましい」との進言を行い、CINCFE宛文書(草案)を添付した。また日本空軍創設

については政治、経済上の問題が多く、CINCFE宛て文書に対して国務長官の同意を取り

58 Report by the Joint Strategic Plans Committee to Joint Chiefs of Staff on Japanese Defense Force,“Message to CINCFE (Draft),”in Appendix to Enclosure“A”of JCS1380/155, December 24, 1952, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche1B2. 最終文面は陸軍が提案したものが採用されて

いる(Memorandum by the Chief of Staff, U.S. Army, January 8, 1953. 石井・植村監修『アメリ

カ統合参謀本部資料』第 15 巻、268 頁)。 59 Joint Chiefs of Staff, “Decision on JCS1380/155,” January 9, 1953, Rearmament of Japan, Part 1, Fiche 1B2. 60 Memorandum for the Secretary of Defense,“Japanese Defense Forces,”January 9, 1953. 石井・植村監修『アメリカ統合参謀本部資料』第 15 巻、233-234 頁。

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付けることを提言した61。 また CINFE 宛文書(草案)では、日本空軍創設を急ぐ空軍参謀長の意見とこれに対す

る JCS の同意の結果、日本空軍の核を創設するため早期に行動を起こす必要性があること

と、その防衛的性格をより強調するため、次のように表明された。

貴官[クラーク]の指摘のとおり、「日本の防衛に関して、最も差し迫った、かつ最大

の単独の脅威は共産主義の空の脅威」である。このためJCSは、可能な限り速やかに、

日本空軍の核となるものが創設されるべきであり、また日本空軍が成長を遂げるための

計画について、日本に助言が行われるべきであると考える。このことは、貴官の意見及

び勧告から実行可能性ありと思われる62。[下線、引用者]

このように、日本における空軍の創設は、1952 年 9 月、米空軍参謀長が「日本におけ

る陸海軍の進展に比べて、空軍の創設は手つかずのままで残されており、現地の CINCFEも陸上重視で何の行動も起こしていない」ことを訴えたことによって急速に具体化した。

JCS1380/127 では、時期が示されないまま 2 段階の整備が計画されていただけであったが、

JCS1380/155 により、具体的な目標と達成の時期が示され、暫定的とはいえ MDAP 予算

とも関連付けて議論されるようになった。さらに日本政府高官(首相レベル)と早期に話

し合うことが国防省の方針として明確にされ、日本の空軍の核となるものを可能な限り早

く創設するということが米軍部の共通認識となったのである。また米軍部の対日再軍備方

針は、国防省を通じ国務省の同意を得たことにより、米政府内での共通認識も醸成されて

いった。 一方、現地の最高指揮官であるクラークは、マーフィー駐日米大使とともに、国防省、

国務省に対し、空軍参謀長の意見を裏付け推進する報告を送り続けた。かくして、空軍参

謀長の懸念により提案された日本の空軍創設の問題-具体的には日本政府との一日も早い

話し合いの開始を求めるもの-について、国防省(JCS)、国務省、CINCFE(クラーク)、

駐日米大使館(マーフィー)の間で、問題意識が共有されていったのである。 しかし、このような長期計画とは別に、現地指揮官としてのクラークは、自ら繰り返し

61 Ibid. 62 Message to CINCFE (Draft), in Appendix“A”of Memorandum for the Secretary of Defense,“Japanese Defense Forces,”January 9, 1953. 上掲書、235-237 頁。クラーク宛の文書は、最終的

には、1953 年 3 月 10 日付で JCS から送付された(本論文「おわりに」参照)。同文書では、同年 1月9日に国防長官に提出された草案に加えて、「前年12月22日に大統領が相互安全保障計画(Mutual Security Plan: MSP)予算に同意し、この中には日本向け 3 億ドルが含まれている」ことが記され

た。同時に、クラークに送付されたのと同様の文書が、国防省の同意を得て、国務省よりマーフィー

大使にも送付された(FRUS, 1952-1954, XIV, pp. 1390-1392)。

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

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警告していた「共産主義の空の脅威」に対してどのように対処しようとしていたのか。次

章ではこの点に注目しながら論を進めるともに、クラークの行動の結果が日本の空軍創設

にどのような役割を果たしたのかについて見て行くことにする。

3 領空侵犯措置をめぐる極東米軍の思惑

(1)米軍機撃墜の波紋

1952 年 10 月 7 日、米軍のB-29 が歯舞諸島の勇留島(Yuri Island)付近でソ連機に撃

墜されるという事件が起きた。これに対し、米国は、「弾薬を搭載せず爆撃できる状態にな

い」B-29 を日本の領海で撃墜したとしてソ連に抗議を行った。しかし、ソ連の言い分では、

B-29 はソ連機に対して射撃を行っており、そもそも勇留島がソ連の領土であることはヤル

タでの同意に基づくものであるとして取り合おうとしなかった。米側は、勇留島は日本の

主権下にあって日本の領土であると主張したが、ソ連側はその正当性を繰り返すばかりで

あった63。同様の事件は、6 月 13 日にも起きており、この時は日本海においてB-29 が撃

墜されていた。この時期、米側の認識では、ソ連機により日本の領土に対する領空侵犯が

頻繁に行われていたのである。しかし、頻発する日本への領空侵犯の事実は正式には日本

政府に知らされておらず、当然のことながら一般の国民にも公表されていなかった。 同年 10 月 25 日、クラークは「日本の領土上で、ソ連機あるいはソ連の同盟国の航空機

との交戦を命ずる」ことができるようJCSに対して許可を求めた64。国防省を通じてクラ

ークの文書を得た国務省も彼の提言には肯定的であった。しかし同時に、マーフィー大使

に対し、以下の点の確認を行った。それは、(1)これまでのソ連機の領空侵犯に対する日

本の反応と、今後米国がこれを放置した場合に考えられる日本の反応、(2)ソ連の領空侵

犯機と実際に交戦あるいは撃墜した場合、予期しうる日本の反応、(3)今後日本領土を侵

すいかなる行動にも抗議するため、日米が協力してとるべき外交上の処置、(4)頻発して

いるソ連機への対領空侵犯措置(以下、「対領侵措置」と記す)の根拠として、日米安全保

障条約を持ち出すことの外交的妥当性、という点についてであった65。なお第 4 点に関し

て言えば、国務省は「安保条約により日本領土保全の義務を負う」ことを根拠として交戦、

撃墜を行うことについて、日米安全保障条約にはこのような文言は含まれておらず、この

63 FRUS, 1952-1954, XIV, p. 1355. 及び U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States, 1952-1954, volume VIII: Eastern Europe; Soviet Union; Eastern Mediterranean (Washington, D.C.:U.S. Government Printing Office, 1988), p. 1058 (hereafter cited as FRUS, 1952-1954, VIII). 64 CINCFE to DA for JCS, CX57735, October 25, 1952, FRUS, 1952-1954, XIV, p. 1355, footnote 1. 65 FRUS, 1952-1954, VIII, p. 1061.

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ような前例を作ることは好ましくないと考えていた66。 マーフィーは、これまで領空侵犯の事実は厳守されており、日本国民がその状況や頻度

について何も知らされていないことを明らかにした上で、日本国民は米国が確固たる態度

を取ることを歓迎するだろうとの意見を述べた。マーフィーの思惑では、米軍の駐留が日

本人にとって必ずしも愉快なものではないことを考え合わせると、米国が領空侵犯機と交

戦、撃墜し日本を守る姿勢を見せることは、米国にとって好ましい結果を招くと思われた。

さらに、領空侵犯の事実やソ連機との交戦は、日本の再軍備計画を推進するに違いないと

も考えていたのである。この点について、マーフィーは非公式に岡崎勝男外相とも話し合

い、同意見であることを確認していた67。 このように、クラークと JCS、あるいはマーフィーと国務省、そしてクラークとマーフ

ィーといった米側関係者の間では、ソ連機に対する対領侵措置をどのようにするかという

問題について、10 月以降頻繁なやり取りが行われていた。それにもかかわらず、クラーク

やマーフィーは日本側との話し合いについては、その時機を見計らっていた。彼らは、JCSからの交戦、撃墜許可だけでなく、後に明らかになるように、領空侵犯に対して日本が自

発的に非難と警告の声明を出すことが望ましいとも考えていた。 マーフィーは 11 月 19 日付国務省への報告の中で、日本領土に対する対領侵措置を米国

が計画していることを公表する必要はないとの意見を述べている。米側の意図や政策をソ

連に知らせ相手側を警戒させることには何の利点もないというのがその理由である。マー

フィーの意見は、すでにCINCFEがJCSに行った報告に賛成するものでもあった。マーフ

ィーは、むしろ領空侵犯中のソ連機を急襲あるいは強制着陸させることによって得られる

優位性を次のように説いている68。

ソ連の軍用機が実際に日本の領土を侵犯している最中に、これを強制着陸させ、ある

いは破壊するという劇的な状況は、どのような声明を出すにしてもずっと有利な雰囲気

を醸成することになるだろう69。

国務省も、米国のとろうとしている行動について、ソ連に対して事前に政策を公表し警

告することは望ましいものではないと認めた。しかしこれまでのソ連の領空侵犯に対して、

日本政府がソ連政府に対して抗議することは有益であるととらえていた70。さらには、日

66 Ibid., pp. 1061-1062. 67 FRUS, 1952-1954, XIV, p. 1355. 68 Ibid., p. 1363. 69 Ibid. 70 FRUS, 1952-1954, VIII, p. 1065, footnote 6.

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

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本政府からソ連機の領空侵犯に対して米国が必要な措置をとるよう依頼されることが望ま

しいと考えたのである。 クラークがJCSに求めたソ連機との交戦、撃墜の許可は、1952 年 11 月 14 日に承認さ

れた。国防、国務両省はCINCFEに対して、「韓国内、日本本土と沖縄上空、沖合 3 海里

の領海において敵対行動を行い、あるいは明らかに敵意を持つと思われる戦闘機、偵察機;

ソ連の軍事識別を付けた戦闘機、偵察機あるいは衛星;明らかな故障以外の理由で速やか

な着陸の要請に従わない戦闘機、偵察機;これらに対する迎撃、交戦、撃墜の行動」をと

る権限を付与したのである。しかし、JCSもこれらの行動の根拠を、「安保条約による日本

領土保全の義務」とすることについては、前述の国務省からの問いかけもあり、CINCFEに注意を促していた71。この問題については、結局、国務省が提唱したように、「『極東に

おける国際平和の安全と維持に寄与し、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与

するため』の安保条約に基づき日本に駐留する米軍の安全を守るため」という根拠が採用

されることになる72。 しかし、対領侵措置の許可を得たにもかかわらず、クラークとマーフィーは直ちに日本

政府との正式な話し合いに取りかかろうとはしなかった。その理由は極東米空軍の対領侵

措置能力にあった。クラークとマーフィーは、ソ連のMIG-15 に対抗し得るF-86 戦闘機が

日本に到着するまでは、この問題を日本政府と話し合うことを延期するという点で同意し

ていたのである73。12 月 23 日付けの国務省宛文書の中で、マーフィーは、「(日本政府と

はこの問題についてまだ話し合ってはいないが)日本からの何らかの抗議と可能な限りの

警告は、現時点では、最も好都合なものとなるだろう。11 月の時点ではまだ整っていなか

った対領侵措置の準備も今は十分に整っているので」と報告している74。 マーフィーの報告に見られるように、領空侵犯の実態を知らされていない日本政府への

通知と、日本政府が国民に対して公表を行う時機は、クラークとマーフィーの間ではすで

に計算済みであった。まず始めに日本政府に対して領空侵犯の実態を通知する。日本政府

はこの事実を国民に知らせ、米空軍の支援を要請することによりこれを撃退する必要があ

ることを納得させる。同時にソ連に対しては、主権国家として、領空侵犯を行わないよう

申し入れる。国民に対してはこれらを公表することで、現時点での米軍駐留に対する不満

を軽減するとともに、長期的には自国の防衛のために日本にも空軍が必要であるという世

論を喚起することになる。さらにこれら一連の行動を、対領侵措置の能力を十分に持つ米

空軍の F-86 が日本に展開するタイミングに合わせる、と言うのがクラークとマーフィー

71 Ibid., p. 1064. 72 Ibid. 73 Ibid., footnote 5. 74 FRUS, 1952-1954, XIV, p. 1378, footnote 2.

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の描いた筋書きであった。 領空侵犯機に対する交戦、撃墜の許可を得るとともに、実際に行動を起こすことのでき

る環境を整えたクラークとマーフィーは、いよいよ日本側をこの筋書きに登場させるため

の会談に臨むことになる。

(2)駐日米大使館での会談

1952 年 12 月 29 日、吉田首相と岡崎外相は、日本の再軍備全般に対する話し合いのた

め、駐日米大使館を訪れた。米側の代表はマーフィーとクラークであった75。 冒頭、マーフィーは事前にクラークと打ち合わせたとおり、ここ数週間日本の政局が混

迷しており、国会会期中、吉田が難局の舵取りに忙殺されていることに対して米側の懸念

を述べた。吉田をはじめとする議員の国会発言、蔵相の減税への言及、あるいは憲法第 9条改正への取り組み等々を見る限り、日本側が再軍備に真剣に取り組むつもりがあるのか

疑問に思われるとマーフィーは主張した。クラークも、日本側がすでに約束した地上兵力

11 万人の目標達成すら遅れに遅れており、また大蔵省、保安庁、保安隊といった各省庁が、

主要装備の調達、訓練等に必要な経費を不必要に遅延させていることは極めて遺憾である

と述べた。 これに対して吉田は、マッカーサー時代の徹底した非武装化と軍国主義払拭の教育によ

る影響は極めて大きく、日本国民が国防に関する最近の考え方に直ちに適応したり、ある

いは独立国の生得権である防衛組織の必要性に目覚めたりするには時間が必要だと話した。

吉田、岡崎は再軍備計画についてよりも、むしろ軍需品の早期生産のため、旧軍需工場や

その他の設備を利用したいということの方に熱心であった。 この他クラーク側からは、できるだけ速やかに、可能であれば今年の夏にでも北海道防

衛の地上軍の責任を日本側に移譲したいといった発言や、米極東軍司令部保安顧問部

(SASJ : Security Advisory Section-Japan/FECHQ)との共同計画において、保安庁や保

安隊レベルでの理解が欠如しているとの指摘があった。これに対して、吉田、岡崎は今後

の両者の緊密な連携と、11 万人態勢の早期達成を請け合った。 会談の最後になって、クラークは北海道におけるソ連機の領空侵犯の状況について話し

始めた。クラークは 10 月 9 日以降に起きた 47 回の領空侵犯について詳しい情報を伝えた

が、これに対して吉田らは強い興味を示した。マーフィーは、日本政府に対して、次のよ

うな問題について熟考してもらいたいとの要望を伝えた。

75 以下の会談の内容については、FRUS, 1952-1954, XIV, pp. 1369-1373 を参照。この報告は、会

談後、マーフィーが国務省に宛てたもので、クラークの同意を得たものであった。

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

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まず第 1 に、日本政府は過去に起きた領空侵犯についてソ連側に何らかの抗議を行う

ことを望んでいるか。もし望んでいるのであれば、その抗議あるいは声明はどのような

形式を取るつもりであるのか。第 2 は、[米空軍が]日本の領土内でソ連の軍用機を強

制着陸もしくは撃墜するような事件が起きた場合、日本政府はどういう形で抗議を行う

べきかという問題について、速やかに検討してもらいたい76。

クラークは、過去数週間、現在計画しているような行動(領空侵犯機に対する強制着陸

や交戦、撃墜)をとることができなかった理由を次のように説明した。すなわち、対領侵

措置の能力を有する米軍機が日本に到着していなかったこと、また北海道北部には滑走路

がなく、この地域を領空侵犯するソ連機に対して技術上の問題からこれに対応できなかっ

たことなどであった。しかし、F-86 が日本に配備され、北海道北部に滑走路が準備されつ

つある今、ソ連に対して行動を起こす状況が整ったというわけである。 吉田は、当初、クラークが北海道所在の保安隊と米空軍との調整案件について話してい

ると誤解したようであった。しかしクラークは、「日本は米空軍と共同するようないかなる

装備も空軍も持っていないのだから、これは米空軍が処理しなければならない問題である」

と説明した。吉田は過去の領空侵犯に関するすべてのデータを書面で提供してくれるよう

クラークに要望し、了解を得た。吉田と岡崎は、「この問題については至急、検討および研

究を実施し、我々の正式な対応についてあなた方に通知する」と話した[下線、引用者]。

翌 1953 年 1 月になって、日本側は米側の意向を確認しつつ、2 つの正式な対応を行うこ

とになる。まず第 1 の対応の端緒は、1 月 10 日過ぎ、奥村勝蔵外務事務次官からマーフィ

ーに対して、「外務省は北海道における領空侵犯について、ソ連政府に対し以下のような警

告のための声明[後述]を発することを提案する」と連絡してきたことであった。奥村は、

この問題について 1 月 12 日午後の閣議で検討する予定であり、米側がこの内容に同意す

るかどうかを問い合わせてきたのである77。 マーフィーの意見は、(1)1953 年度予算と関連して防衛全般に関する問題が間もなく

話し合われるという観点からすると、現時点で領空侵犯について日本が自発的に出す声明

というのは好都合であるし、(2)このことは、北海道地域にソ連の脅威が存在することや、

自衛のための適切な手段をとる必要と決心ということについて日本人の注意を引き付ける

ことになるだろう、というものであった。クラークも同意見であったので、マーフィーは

1 月 12 日、奥村に米側には異存がないことを伝えた。この時点ですでにマーフィーは、報

道関係から駐日米大使館や米極東軍のコメントを求められた場合を予測し、「内閣の声明は

76 FRUS, 1952-1954, XIV, p. 1372. 77 Ibid., pp. 1378-1379.

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全く自発的なものであり、米大使館と極東軍は日本政府のとった立場に同意している」と

の最小限のコメントに止めるつもりであった78。 日本政府は翌 13 日、これまでの領空侵犯に関する状況と、すでにマーフィーに通知し

ていた内容の警告を公表した。

近年北海道上空において外国軍用機による領空侵犯がしばしば行われている。このよ

うなわが領空の侵犯はただ国際法上の不法行為であるばかりでなく、わが国の安全に重

大な影響を及ぼすものである。よって政府は今後右のような領空の不法侵犯が発生した

場合には駐留米軍の協力を得てこれを排除するために必要と認められる措置をとること

に決定した。ここに政府はわが領空の侵犯が再び行われることのないよう関係国の深い

注意を喚起する。なお今後不法侵犯が行われた場合、これを排除するためにとる措置の

結果についてはその責任は当該軍用機所属国が負うべきものである79。

日本政府の第 2の対応についても、奥村を通じて、マーフィーに事前の調整が行われた。

外務省は、「今後領空侵犯が起きた場合に、米軍が適切な措置をとることを要望する」とい

う書簡を米大使館に送付することを提案し、この草案が、同じく 1 月 12 日の閣議に諮ら

れることになっていた。奥村はこのような書簡を米側が受け取ってくれるかどうかの事前

確認を行ったのである。これに対してマーフィーは、読んでみなければ分からないと明言

は避けたものの、原則的には異議はないと答えた80。異議はないどころか、このような日

本側の要請はマーフィーとクラークが望んでいたとおりの展開であったといえる。 この後、日本側の草案とこれに対する米大使館側の回答の草案が米本国に送られた。何

度かのやり取りの後、国務省と国防省の同意を得て、岡崎外相とマーフィー駐日米大使の

間の往復書簡は、1 月 17 日公表された81。 日本側の書簡は「日本国は右のような領空侵犯を有効に排除するための手段を現在有し

ません。よって本大臣は日本国政府の名において今後このような領空侵犯が発生した場合

には、日米両国の共通の利益を守るため、米関係当局においてこれを排除するための有効

適切な措置を執られんことを要請する」ものであった。米側は、領空侵犯の重大性に対す

る日本側の認識と、有効適切な措置を執ってくれるようにとの要請を了承した。そして、

「日本政府の要請に従って、米国政府は日本国の領空に対するこのようなすべての侵犯を

78 Ibid., p. 1379. 79 『朝日新聞』1953 年 1 月 13 日夕刊。大嶽秀夫編『自衛隊の創設』戦後日本防衛問題資料集、第

3 巻(三一書房、1993 年)702 頁から再引用。 80 FRUS, 1952-1954, XIV, p. 1379. 81 Ibid., pp. 1379-1380, footnote 5.

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岡田 戦後日本の航空兵力再建

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排除するため、1951 年 9 月 8 日付米国と日本国との間の安全保障条約の条項の下に必要

且つ適当とされる一切の可能な措置を、日本国政府のあらゆる実際的援助の下に執るよう

極東軍司令官に命令した」のである82。 1952 年秋以降、現地レベルにおいて、極東軍司令部は当面のソ連の空からの脅威に対し、

日本政府の公式な了承の下で、対領空侵犯措置をとることを計画し、その目的を達した。

私[クラーク]は朝鮮戦争の歴戦の勇士を乗せたF-86 ジェット戦闘機に、北海道上空

を哨戒し、共産主義者のMIGと接触した場合にはこれを撃墜せよとの命令を下した。か

くして我々はソ連のパイロットが舞い戻ってくるのを待ち構えたのである83。

1953年 2月 16日、米軍機は北海道周辺の上空で領空侵犯機を発見し、これを撃墜した。

クラークによれば、これ以降、故意による領空侵犯は途絶えたということであった84。 一方、米大使館は米極東軍司令部の計画を支援するとともに、ソ連の領空侵犯は日本政

府と国民の防衛意識を喚起する機会と見てこれを利用した。この結果、日本側では「この

事件はこれでおさまったが、わが国の防空という問題について国民の関心を大きく喚起し

た。そしてこれが、後に航空自衛隊の設置を促進した一つの契機となった」ととらえる者

もいた85。

おわりに

1950 年代初め、朝鮮戦争の勃発と冷戦の進行により、米国の国策レベルにおいて日本の

再軍備が認められ、さらに陸海空バランスのとれた兵力を再建することが認められた。し

かし現実の再軍備は、まず陸軍重視で進められていった。その中にあって、海上兵力の再

建は、海上保安庁の軒先を借りるような形であったとはいえ、その核となるものを建設し

て行くことの同意を得た。これに対して航空兵力の再建は何ら具体案を示されることもな

く取り残されていた。このような現状を懸念した空軍参謀長(すなわち米空軍)が、JCSに対して日本の空軍の核となるものを早期に建設するよう申し入れたことが、航空兵力の

再建あるいは日本の空軍(航空自衛隊)創設の大きな契機となったのである。

82 往復書簡の全文は、大嶽編『自衛隊の創設』703-704 頁を参照のこと。 83 Mark W. Clark, From the Danube to the Yalu (New York: Harper & Brothers Publishers, 1954), p. 131. 84 Ibid., p. 131;『朝日新聞』1953 年 2 月 16 日夕刊。大嶽編『自衛隊の創設』704-705 頁から再引

用。 85 加藤陽三『私緑・自衛隊史』(「月刊政策」政治月報社、1979 年)84 頁。

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一方、現地レベルにおいては、より差し迫った問題が起きていた。1952 年 4 月の講和

条約の発効に伴い再び主権国家となった日本に対し、ソ連が領空侵犯を繰り返すようにな

ったことである。さらには、日本近海を飛行する米軍機がソ連機に撃墜されるというよう

な事態も起きていた。極東軍司令官は日本の領空と米軍機を守り、必要であれば対領侵措

置をとることができるよう、米国と日本の両政府に働きかける必要が生じた。この際、1952年春に日本はすでに主権を回復しており、米政府の立場からすれば、日本側から自発的に

対領侵措置を依頼されることが望ましかった。極東軍司令官は駐日米大使とともに、日本

政府が、彼らが必要と考えている処置をとるよう画策していった。同時に領空侵犯の事実

を利用して、日本政府や日本国民が自国の安全保障と空軍の必要性に目覚めるよう働きか

けていったのである。 1953 年 3 月 10 日には前年 10 月末にクラークがJCSに送付した報告書(本論文 脚注

41 を参照)に対するJCSの最終的な回答が届いた。同文書により、クラークはマーフィー、

ワイランドとともに、日本の空軍創設について吉田首相と話し合うことの許可を得たので

ある86。 これ以降、日本の航空兵力創設に関する問題は、日米両政府間の具体的討議課題となり、

1954 年 7 月 1 日、航空自衛隊の誕生により、一つの節目を迎えることになる。しかし、

そこに到る経過については、稿を改めて検討することとしたい。

(戦史研究センター安全保障政策史研究室所員)

86 FRUS, 1952-1954, XIV, pp. 1390-1392.