「メトロポリス」(1949年)の位置 -...

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1 「メトロポリス」(1949年)の位置 ―手塚治虫の初期作品における物語の変容― The Place of “Metropolis” (1949) in the History of Japanese Children’s Culture: Changes in Narrative Structure in the Early Works of Tezuka Osamu Hiroshi MORISHITA 1、はじめに 日本を代表するマンガ家である手塚治虫 は、1947年1月、「新寶島」で赤本単行本デビューを果 たす。以降、「地底国の怪人」(1948年2月)、「吸血魔團」(48年10月)、「月世界紳士」(48年11月)、「ロ スト・ワールド」(48年12月)など、SF的アイディアと豊かなドラマ性を盛りこんだ作品を相次いで 執筆し、人気を博していく。49年9月、それらの蓄積の上 で手塚が発表した作品が「メトロポリス」である。 同作は、「ロスト・ワールド」、および1951年1・2月 に発表された「来るべき世界」と合わせ「初期SF三部作」 と通称され 、初期の手塚を代表する一作であると位置づ けられている。重要なキャラクターとして人造人間のミッ チイが登場するため、「鉄腕アトム」(1951-68年)に至る 系譜上の作品として論じられることもしばしばである そして本作は、主題設定のみならずマンガ表現の点から 見ても重要だと見なせる。マンガ家・マンガ研究者の夏目 房之介は、自分が悪漢に造られた人造人間だと知ったミッ チイが人間に絶望する場面(図版1)を取り上げ、以下の ように述べている。 このあたりで手塚は涙や汗、のけぞった流線、ショック Hiroshi MORISHITA 日本伝統文化学科(Department of Japanese Traditional Culture) (図版1:手塚治虫『メトロポリス』(角川書店、2001年)p.129。本書は、本文で使用したテキストのハー ドカヴァー版であり、内容は基本的に同一である)

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    「メトロポリス」(1949年)の位置

    ―手塚治虫の初期作品における物語の変容―

    森 下   達*

    The Place of “Metropolis” (1949) in the History of Japanese Children’s Culture:

    Changes in Narrative Structure in the Early Works of Tezuka Osamu

    Hiroshi MORISHITA

    1、はじめに

     日本を代表するマンガ家である手塚治虫1は、1947年1月、「新寶島」で赤本単行本デビューを果

    たす。以降、「地底国の怪人」(1948年2月)、「吸血魔團」(48年10月)、「月世界紳士」(48年11月)、「ロ

    スト・ワールド」(48年12月)など、SF的アイディアと豊かなドラマ性を盛りこんだ作品を相次いで

    執筆し、人気を博していく。49年9月、それらの蓄積の上

    で手塚が発表した作品が「メトロポリス」である。

     同作は、「ロスト・ワールド」、および1951年1・2月

    に発表された「来るべき世界」と合わせ「初期SF三部作」

    と通称され2、初期の手塚を代表する一作であると位置づ

    けられている。重要なキャラクターとして人造人間のミッ

    チイが登場するため、「鉄腕アトム」(1951-68年)に至る

    系譜上の作品として論じられることもしばしばである3。

     そして本作は、主題設定のみならずマンガ表現の点から

    見ても重要だと見なせる。マンガ家・マンガ研究者の夏目

    房之介は、自分が悪漢に造られた人造人間だと知ったミッ

    チイが人間に絶望する場面(図版1)を取り上げ、以下の

    ように述べている。

     このあたりで手塚は涙や汗、のけぞった流線、ショック

    �*�Hiroshi�MORISHITA 日本伝統文化学科(Department�of�Japanese�Traditional�Culture)

    (図版1:手塚治虫『メトロポリス』(角川書店、2001年)p.129。本書は、本文で使用したテキストのハー

    ドカヴァー版であり、内容は基本的に同一である)

  • 東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第26号(2019)

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    をあらわす星、急に小さくなるセリフとそれを囲む吹き出しのギザギザの形など、マンガ的な記号を

    総動員して、眉や目や口の表情も工夫して、この複雑な心理過程を描いています。

     最初に親に会えたっていう喜びがあって、それから突き放されて落ち込んで、すがるような気持ち

    になって、ショックを受けて、それを受け入れるまでに2コマ使って、その直後自暴自棄みたいな怒

    りで立ち上がっているという、言葉にすればそういう心理の変化を見事にマンガのコマに分節してい

    る。4

     夏目が「初期手塚マンガの達成」と見なすのは「来るべき世界」だが、「メトロポリス」もまた、

    記号的な感情表現やコマ展開のありようの整備を考える際にターニング・ポイントとなる作品だとい

    えるだろう。

     とはいえ、このような表現様式の整備がはたしていかなる物語を導いたのかは、これまでさほど注

    目されてはこなかった。当たり前だが、主題や表現だけでは作品は成立しない。主題は物語を通じて

    提出され、表現技法は物語が拠って立つ基盤となる。「メトロポリス」の主題がのちの手塚の代表作

    と響きあっているのはその通りとして、それでは、そこで実現された物語は、それ以前の作品とどの

    ように異なっており、それ以降の作品とどのように連続しているのか。マンガ表現と物語との結びつ

    きこそ、問題にすべきものであろう。

     このような問題意識のもと、前後の時期の手塚作品と比較した際の「メトロポリス」の位置づけを

    軸に、1940年代末~50年代初頭の手塚作品においてどのような物語が実現されていったのか、その変

    容過程を明らかにするのが本論文の目的である。詳しい内容については本稿中で後述するが、筆者

    は以前、手塚自身が「実質的にはいわゆるストーリー漫画の第一作」5と位置づけた「地底国の怪人」

    がどのような物語構造を有しているのかを分析する論文を執筆した6。また、「吸血魔團」から「38

    度線上の怪物」(1953年3月)へのリメイクに着目し、背景に横たわる表現様式の変化に注意を促す

    論考も発表している7。これらの成果と結びつけながら「メトロポリス」を分析し8、50年前後の時

    期における手塚の達成を、よりクリアに描き出すことができればと思う。

     この試みは、手塚に限らず、戦後マンガそのものにおける物語性を論じていく上で重要な意味を持

    つものにもなるだろう。もちろん、戦前からのマンガ表現の連続性に目を向けたとき、手塚による革

    新がどれほどの重要性を持っていたかは、論者にとって意見がわかれるところではある。だが、戦後

    すぐのマンガ表現をリードした存在のひとりが手塚であることは間違いない以上、彼の作品の変化を

    通時的に見ていくことは、マンガ全体の変容を考える際の手がかりとして、大きな意味を持つはずで

    ある。

     なお最後に、用語について断っておきたい。物語構造を論じる際、本稿では「プロット」という語

    を用いる。これは、なんらかの因果関係に基づき複数の出来事を有機的に繋げたもののことを指す9。

    プロットを駆動するにあたっては、多くの場合、登場人物が大きな役割を担う。つまり、「誰か」が

    「何かをなす」ことでプロットは形成され、「この誰かが一人の個人であれば、それが主ヒ ア ロ ー

    人公というこ

    とになる」10。本稿では、「メトロポリス」等の作品にあって登場人物たちがどのようなプロットを担っ

    ているかに着目し、作品を論じていくことになる。

  • 「メトロポリス」(1949年)の位置 ―手塚治虫の初期作品における物語の変容―

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    2、「映画的様式」の深化と内面表現

     本論に入る前に、本稿での問題意識に沿う形で拙稿の内容をまとめ直しておこう。「「地底国の怪人」

    (1948年)の物語構造―戦前・戦中期の児童文化との連続性と画期性」(2017年)において「地底国の

    怪人」を分析してわかったのは、そこでは、「映画」的に首尾一貫した物語が冒頭から語られていた

    わけではない、ということである。

     1910年代半ばに物語映画が主流となって以降、映画というメディアでは、特にハリウッドで製作さ

    れたものを中心に、大状況における危機の解決と、主要登場人物の個人的な人間関係における問題の

    解消とがシンクロする形の物語が好んで描かれていった。広い意味での家族のドラマ―パートナーの

    不在や親子間の軋轢―が、個人的な問題の具体的な例となろう。社会的な危機に立ち向かう中で、登

    場人物は精神的にも成長を遂げ、この種の問題をも解決する。「映画」的な物語では、主要登場人物

    の内面的な変化が段階的に語られていくのであり、そのゆくえは物語の開始時点から受け手の興味を

    喚起する要素となっている。

     これに対して、「地底国の怪人」は、地底に潜む白アリ人間の秘密組織「黒ブラック・デーモン・クラブ

    魔団」が街を襲うとい

    う形で大状況における危機が描かれるものの、それが、物語開始時点から活躍する主人公・ジョン少

    年の内面と関連づけられてはいない。本作の場合、読者がページを繰っていく原動力となっているの

    は、登場人物の内面的変化ではない。むしろ、所与のものとしての「敵」との(ドラマを欠いた形で

    の)戦いや、科学読み物としての情報こそが読者にとっての魅力となっている。こうした特徴は、漫

    画だけでなく、冒険小説や探偵小説も含む戦前・戦中期の児童文化全体から連続しているものであっ

    た11。

     もっとも、1950年代前半に入ると、手塚作品では、登場人物の内面に表現のレヴェルにおいても焦

    点があたるようになっている。「ヒロインが「敵」になるとき 赤本単行本から別冊付録へのリメイ

    クに見る「映画」らしさ」(2015年)では、「地底国の怪人」と同時期の「吸血魔團」から、5年後の「38

    度線上の怪物」へのリメイクに焦点をあてた。「吸血魔團」は、「地底国の怪人」同様、所与のものと

    しての敵―ここでは人体を蝕む結核菌―との戦いや、科学読み物としての要素―人体内部の描写―が

    前面に出ていた。一方、リメイク版「38度線上の怪物」では、そうした魅力を維持しながらも、主人

    公の少年とヒロインとのあいだの感情のやり取りにページが割かれているという特徴がある。ミクロ

    化して人体の内部に入りこんだケン一と結核菌の少女であるモード、ふたりの出会いと別れが後者で

    は強調されており、本作は恋と別れを経て少年が成長を遂げる物語として読み得るものとなっている。

     「38度線上の怪物」にて、ふたりの出会いと別れが、当時としては贅沢なコマ遣いで描出されてい

    たことも見逃してはならない。「吸血魔團」では、基本的に、一ページが三段に分割され、平面的な

    フル・ショットのコマが連続していたが、「38度線上の怪物」はちがう。ふたりの出会いの場面では

    フル・ショットとバスト・ショットが使い分けられているほか、別れの場面では奥行きのある構図が

    用いられてもいる(図版2)。ここでのコマは、映画のフレームに似た機能を果たしているのであって、

    マンガ研究でいうところの「映画的様式」が実現している12。

     「映画的様式」とは何か。提唱者であるマンガ研究者の三輪健太朗の説明に従って解説するならば、

    それは、「仮想的なカメラ」によって光景を切り取り、読者の視線を誘導することで、それらの光景

  • 東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第26号(2019)

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    を継起的に眺めさせ、一義的に物語の意味を伝達していくスタイルである、ということになる13。パ

    ノラマ的な一枚絵では、読者の視線は定まらず、いつまでも紙面を漂うだろう。これに対し、図2の

    ような場面では、読者はその連鎖に従ってコマをリニアに読み進め、そうすることで物語の推移を諒

    解していく。

     ケン一とモードの出会いの場面では、扉が開くとモードがアップになっていることで、この少女が

    重要な登場人物であり、その存在がケン一にも強く印象づけられただろうことが読者にも感覚される。

    別れの場面では、ふたりの空間上の距離が、一度は近づいたもののそこからさらに拡大していくこと

    が、ふたりのあいだの心理的な隔たりの描写として機能する。つまり、これらの場面では、光景の切

    り取り方にヴァリエーションを持たせることで、そこに、登場人物の内面の変化を含め、物語上の意

    味を発生させている。こうした描写は、コマの中に描かれた光景は「仮想的なカメラ」によって捉え

    られた現実同様の「空間」であるとの合意が、作者-読者間で形成されてはじめて意味を持つ。この

    ような合意を前提にした、コマの連鎖による物語叙述の様式が「映画的様式」である。

     ここで注意を促しておきたいのは、先ほども匂わせたように、パノラマ的な一枚絵が「映画的様式」

    とは異なる様式たり得ることである。三輪も、手塚の初期作品に頻出する、多くは見開きを用いた一

    枚絵について、「そこには特定の時間も特定の視点も想定しがた」く、「複数の人物がめいめい勝手な

    言動を行っているこの場面には、極めて曖昧な時間幅を想定するほかないし、それらの人物をページ

    =コマの全体に散在させた構図は、特定の視点から眺められた空間を表象するというよりは、むしろ

    平面的であると言える」と論じている。パノラマは、「鑑賞者の注意を制御するのではなく、むしろ

    自由な視線の運動を喚起するべき描かれたイメージであった」のである14。

     むろん、「一枚絵は非映画的様式であり、内面的な変化は描出できない」という単純な理解はなさ

    れるべきではない。特定の視点から眺められたものとして読める一枚絵は当然あり得るし、また、少

    女マンガにしばしば見られるように、非「映画的様式」に基づく多層的なコマ構成でもって登場人物

    の内面を表現することも不可能ではない15。とはいえ、一枚絵が中心となる作風が、登場人物の内面

    (図版2:手塚治虫『38度線上の怪物』pp.30-31。『少年画報』1953年9月号の別冊付録。国書刊行会より、

    『付録漫画傑作選』の一本として1985年に復刻されたものを参照)

  • 「メトロポリス」(1949年)の位置 ―手塚治虫の初期作品における物語の変容―

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    的変化の不在とゆるやかに結びついていることは否定できない。

     そして、「敵」との戦いや科学読み物としての情報は、1~2ページを丸ごと用いた一枚絵ととり

    わけ相性がよいものでもある。「地底国の怪人」の該当ページを見ても、そのことはわかる(図版3)。

    一方、内面的変化そのものを描出する場合は、コマを継起的に眺めさせることによって空間をコント

    ロールするわけであるから、必然的に細かいコマの連鎖となる。

     1940年代末から50年代初頭にかけて、手塚は、パノラマ的一枚絵の多用で象徴されるそれから「映

    画的様式」へと、自らが拠って立つ表現様式を変容させていった。それに伴い、描かれる物語も、ド

    ラマを欠いた形での「敵」との戦いを中心とするものから、主要登場人物の内面的変化に焦点をあて

    るものに変わった。大まかにいって、このような変化を想定することができるだろう。

    3、「メトロポリス」におけるふたつのプロット

     おそらく「メトロポリス」は、初期の手塚作品における上述の物語的変化を象徴する作品として位

    置づけることができる。まずは、手塚治虫公式サイトの作品紹介を通じて、「メトロポリス」の物語

    を確認しよう。

    太陽黒点の影響で地球上にまきおこる騒動を描いた近未来SFです。

    19××年、太陽に異常な大黒点が発生しました。そのころ、秘密結社レッド党は人造細胞を研究

    中のロートン博士に、人造人間を造らせました。

    博士は、レッド党が人造人間を悪だくみに利用していることを知り、ひそかに、そのミッチイと

    名づけた人造人間をつれて逃げ出します。

    しかし、博士はレッド党に見つかって殺されてしまいました。その現場に居あわせた私立探偵の

    ヒゲオヤジは、ミッチイを引き取って育てることにしました。

    ところが、ミッチイはふとしたことから自分が人間でないことを知り、悪の手先として造られた

    ことに怒って、ほかの人造人間たちとともに人間への復讐をしようとするのでした。16

    (図版3:「敵」との戦いや科学読み物としての情報は一枚絵で表現される。手塚治虫『地底国の怪人』

    (角川書店、1994年)pp.46-47、pp.102-103)

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     読めばわかるように、ここでは人造人間ミッチイの存在を中心に物語が叙述されている。彼が駆動

    するプロットを語ることが、物語全体を語ることに代えられているのである。

     しかし、公式サイトにも彼を中心とする形で物語内容が紹介されているにもかかわらず、興味深い

    ことにミッチイは本作の主人公ではない。実は、レッド党の首領・レッド公を捕えんとする私立探偵

    ヒゲオヤジが本作の主人公であり、単行本の冒頭に手塚が付した「総オールスターキャスト

    登場人物」でも、ビリングのトッ

    プにはヒゲオヤジが来ている(図版4)17。

     物語がはじまって38ページ目、ある晩、ロートンがレッド公に殺された直後、ヒゲオヤジが現場に

    現れる。これが彼の初登場場面である。ヒゲオヤジは、ロートンの遺言のフィルムを通じてミッチイ

    の秘密を知り、ふとした偶然から彼を引き取ることになる。その同じ日のうちに、ヒゲオヤジはメト

    ロポリス警視庁に出向き、黒点の増加のせいで巨大化したネズミと戦い、その果てにレッド党の基地

    への潜入に成功する。これらヒゲオヤジの冒険にかれこれ24ページが割かれ、そのあいだ、ミッチイ

    はまったく登場しない。ヒゲオヤジを中心とするプロットは、ミッチイを中心とするプロットと同程

    度の比重で展開している。

     では、その内実はいかなるものなのか。ヒゲオヤジがレッド公を捕えんとするのは、彼がメトロポ

    リス警視庁総監のノタァリンに呼ばれた探偵だからであり、彼個人の内なる動機に基づくものではな

    い。また、レッド党も、物語冒頭でメトロポリス市に流れる臨時ニュースで「かの/大科学陰謀団レッ

    ド党」18と形容されているとおり、悪事を行うこと自体を目的とする団体として描かれている。党を

    率いるレッド公の内面に注意が向けられることもない。ヒゲオヤジのプロットの基調をなすのは、ド

    ラマを欠いた、所与のものとしての善と悪との戦いなのである。「地底国の怪人」同様、戦前・戦中

    期の児童文化との連続性が強い内容だと見なしてよい。

     興味深いことに、ヒゲオヤジのプロットとミッチイのプロットを並行して展開した結果、「メトロ

    ポリス」という作品は時間の流れに矛盾を生じさせてしまっている。このことは、手塚作品における

    物語の変化を考えるにあたり重要になるだろう。

     詳しく説明しよう。基地に潜入したヒゲオヤジは、けっきょく、レッド党に捕まってしまう。レッ

    (図版4:手塚治虫『メトロポ

    リス』(育英出版、1949年)よ

    り。1980年に「手塚治虫初期

    漫画館」として名著刊行会よ

    り復刻されたものを参照)

  • 「メトロポリス」(1949年)の位置 ―手塚治虫の初期作品における物語の変容―

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    ド公の要求を拒否した彼は、部屋に閉じこめられ、トロンガスという毒ガスの実験台にされかかる

    (p.76。以降、カッコ内にはテキストの該当ページを記載)。そこで話が変わり、「それから/二 三

    日たって」と書かれたコマを挟んで、ミッチイの知り合いの貧しい花売り娘・エンミイが再登場する。

    ミッチイを手中に収めんとするレッド公が、正体を隠してエンミイの姉に金を渡し、彼女は中学校に

    通うようになる。ヒゲオヤジの甥のケン一とミッチイ、エンミイの中学生活が描かれ、ミッチイの秘

    密を知ったケン一の導きで、野球の試合中、空を飛ぶ能力を発動させたミッチイは、そのままメトロ

    ポリス市の上空を飛び回る(p.87)。

     さらにそのあと、黒点発生に伴う下等動物の巨大化が巻き起こす混乱や、メトロポリス警視庁とレッ

    ド公との攻防が描かれたあと、物語はヒゲオヤジのプロットに舞いもどる(p.97)。「ちょうどその頃

    /地下本部では/ひとつの事件が/起こりつつ/あった……」というナレーションとともに、おおよ

    そ20ページ前のコマから連続する、地下室内のヒゲオヤジのようすが描かれるコマとなる(図版5)。

    「キャー/助けてー」「いっこう/毒ガスが/こない/ところを/みると/何か起こった/のかな」19。

    巨大化したネズミが基地内にも現れ、混乱の中脱出に成功したヒゲオヤジは、ケン一とミッチイに再

    会する(p.106)。

    (図版5:『メトロポリス』p.97(右)では、p.76(左)と連続する展開が描かれる。手塚前掲『メト

    ロポリス』より)

  • 東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第26号(2019)

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     ヒゲオヤジのプロットは、途中で中断を挟んでいるものの、明らかに切れ目なく進行しているもの

    である。レッド党がガスの噴射を躊躇する合理的な理由がない以上、ヒゲオヤジが閉じこめられてか

    ら巨大ネズミが襲ってくるまでのあいだは、長く見積もっても十数分程度と見るのが合理的であろう。

    しかし、そうなると、並行して描かれるミッチイのプロットに記された「それから/二 三日たって」

    というナレーションと矛盾をきたしてしまう。二、三日もの時間の余裕があれば、ヒゲオヤジは間違

    いなく、トロンガスのために廃人となっていただろう。

     もし、このナレーションを無視したとしても、問題は解決しない。ミッチイのプロットには、基地

    でヒゲオヤジと談判したレッド公が、その後、街でエンミイと出会って彼女の姉にお金を渡し、エン

    ミイが学校に通うようになり、ケン一やミッチイと親交を深める――という出来事の推移が内包され

    ている。この展開も、二、三日ほどの時間経過を必要とするものだろう。

     むろん、時間が前後しているわけでもない。ヒゲオヤジと再会する直前の場面で、ミッチイは、自

    分が空を飛んだことについてケン一と会話している。「ケン一クン/ぼくには/ほかの子に/できな

    いことが/できるん/だねえ」「あのとき/だれかがぼくに/深呼吸を/しろって/いったけど」「そ

    いつが/きっと/ぼくについて/何か知ってるのに/ちがい/ないよ」20。ここに登場するケン一と

    ミッチイは、間違いなくp.87の展開を経たあとのふたりである。「メトロポリス」は、並行して叙述

    されるふたつのプロットの時間経過がどう解釈しても整合しない21。

    4、物語に流れる時間

     「メトロポリス」では、並行して語られるふたつのプロットの時間経過に関連してミスが生じていた。

    ここでは、手塚作品における物語性の変容を考える際にこのミスがいかなる意味を持つのかを、ほか

    の作品に見られる別のミスと合わせて考察することで突き詰めてみたい。

     1948年6月に発表された「森の四剣士」を見てみよう。中世ヨーロッパとおぼしき世界を舞台に、

    お姫さまのもとから幸福の鳥が逃げ出す場面で本作は幕を開ける。ふとしたことからその鳥を食べて

    しまった兄弟は、不思議な力を示すようになり、気味悪く思った両親に捨てられる。山賊に拾われた

    ふたりは、数年後、立派な若者に成長し、動物たちとともにお姫さまを脅かす悪と戦うことになる。

    最終的には、弟の方が彼女と結ばれて物語は幕を閉じる。

     捨てられたふたりを山賊が拾って、つぎのコマでは、ふたりが熊と戦う絵に「それからふたりは毎

    日/狩りや武芸に野山をかけまわって/幾年かがすぎました」22とのナレーションがかぶさる。ペー

    ジをめくると、成長した兄弟は、頭身が伸びるなどヴィジュアル面でも変化を見せている。ところが、

    その一方で、奇妙なことにお姫さまは、冒頭の鳥が逃げ出す場面でも、ラストの結婚式の場面でも、ヴィ

    ジュアルには一切変化がない(図版6)。そのあいだには「幾年かがすぎ」ているはずなのに、である。

     マンガ研究者の岩下朋世は、キャラクター図像レヴェルでの「記号的造形」と、同一の対象を意味

    するものとして複数の図像を関連づけて反復的に用いる「記号的使用」とを区別する必要性を指摘し

    ている23。この用語法に従うならば、「森の四剣士」におけるミスは、記号的使用のレヴェルで生じ

    たものだと見なせるだろう。ヴィジュアル的に一貫している形でのお姫さま図像の記号的使用と、ヴィ

    ジュアル上の変化を内包する兄弟図像の記号的使用とが併存していることがミスを生んでいるのだか

  • 「メトロポリス」(1949年)の位置 ―手塚治虫の初期作品における物語の変容―

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    ら。

     なぜこのようなことになったのか。「森の四剣士」はグリム童話の「二人兄弟」にインスパイアさ

    れている。上記の要約でも明らかなように、本作では基本的に登場人物に内面的な動機づけが行われ

    ることがない。弟がお姫さまと結ばれるのは、彼が王国の危機を救った結果としてだが、ではなぜ彼

    がそのようなことをしたのかというと、それは「弱きを助け強きを挫く」任侠的正義感の発露だとし

    かいいようがない。ふたりのあいだには内面的な結びつきもなく、お姫さまは要するに、兄弟が報わ

    れたことを示すための記号に過ぎない。

     「森の四剣士」では、登場人物どうしが絡み合うことによる成長や変化は描かれない。そして、登

    場人物の所与の役割は非常に強固である。これは、いかにも昔話らしい特徴だといえる。口承文芸の

    研究者マックス・リュティは、昔話の「平面性」として、以下のように論じている。

     昔話の主人公におそいかかってくる運命の打撃や闘争、危険、損害、窮乏などは主人公を外面的

    に前進させるだけであって、主人公の精神の奥へははたらきかけていかないので、主人公を変化さ

    せることもできないわけである。[中略]昔話の登場者は図形でしかないので、すなわち内面的世

    界をもたない話のすじのにない手でしかないので、昔話では当然時間の体験はないわけである。24

     それゆえに、昔話で描かれるのは「発達よりむしろ段階から段階の移行」であり、「本来的には変

    化よりも変身」だということになる25。

     本稿の問題関心に沿って、この議論をプロットの問題として捉え直すならば、これは、昔話のプロッ

    トにおいては、登場人物間の感情のやり取りや、登場人物の内面における経験の蓄積が必要とされな

    い、という指摘だといえるだろう26。登場人物はそれぞれの役割に従って動いていればよく、彼らの

    上に等しく流れている時間をわざわざ想定せずともよい、ということである。

    (図版6:ラストの結婚式(右)では同じくらいの年齢に見えるふたりだが、お姫さまが冒頭部と同

    じ姿なのに対し、兄弟は登場してしばらくのあいだは子どもの姿で描かれる。手塚治虫『手塚治虫漫

    画全集323 森の四剣士』p.8、p.29、p.119)

  • 東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第26号(2019)

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     このような、採用したプロットの無時間性ゆえに、作者である手塚も時間の流れに無頓着になった

    のだろう。執筆時、手塚が関心を寄せていたのは、適切な形でのキャラクターの図像化の方だった。

    お姫さまは主人公の獲得対象として、わかりやすい絵的な一貫性が重視された。一方で兄弟に対して

    は、彼らが冒険の旅に出ることに説得力を持たせるために、描写の中にヴィジュアル的な変化―とい

    うよりも、リュティに従うならば「変身」―が持ちこまれた。個々の登場人物に対してそれぞれもっ

    ともふさわしい形での図像化を行おうとする意図が、結果的には、記号的使用のレヴェルでのミスを

    生じさせた。

     そして、誤解を恐れずにいえば、戦前・戦中期の児童文化や手塚の初期作品で採用された、ドラマ

    を欠いた形での「敵」との戦いを中心とするプロットも、昔話と同質のものであると見なしてよい。

    そこでもまた、善は善、悪は悪であり、両者の絡み合いによる成長や変化もないのだから。先ほど、「メ

    トロポリス」におけるヒゲオヤジのプロットの展開を追ったが、彼がレッド公と出会い、別れたあと

    ミッチイを引き取り、警視庁に出向き、ネズミと戦い、レッド党基地に潜入し、捕まって実験台にさ

    れかかるまでは、なんと一晩の出来事として処理されている。現実には考えがたい濃密さだが、それ

    もそのはずで、このプロットではそもそもリアルな時間が「流れていない」と理解するべきなのである。

     しかし、ミッチイのプロットの方はそうではない。ヒゲオヤジのプロットに挟みこまれた部分で、

    ミッチイは人間として中学校に通い、野球の試合に参加し、空を飛ぶ。結果、彼は、先に見たように

    自身の存在について疑念を深めることになる。つまり、これらの出来事はすべて、終盤にてミッチイが、

    自身が悪事のために造られた人造人間であることを知ったとき、絶望し、その怒りを人類そのものに

    向けることになる伏線となっている。そのような激しい絶望と怒りは、彼が人間としての生活に満ち

    足りたものを感じながらも、自分自身に対する一抹の不安を覚えていればこそのことだからである。

     もちろんここでは、ミッチイの内面の揺らぎ自体は必ずしも十分に表現されてはいない。だがそれ

    は、マンガ表現上の限界によるものであって、プロット自体はミッチイの感情の揺れを不可欠のもの

    としており、エピソードがその順番で配列されていることに物語上の意味がある。

     こちらのプロットは、ミッチイが出来事に挑み、それを自身の内面の中で経験として蓄積すること

    を前提として組みあげられている。内面的変化に焦点化したプロットとは、登場人物が経験を蓄積す

    ることと、さらにその前提として、日々の時間の流れがあることを不可欠とするものなのである。ヒ

    ゲオヤジのプロットは無時間的なものであるが、ミッチイのプロットは時間がリニアに流れていなけ

    ればならないものであった。こうした性質のちがいを考慮せず、マンガとしてヴィジュアル化した際

    のヴォリュームをもとにしてふたつのプロットを並行して叙述した結果、「メトロポリス」では作品

    全体での時間の流れに矛盾が生じたのであろう27。

     議論をまとめよう。「メトロポリス」では、キャラクター表現の記号性によってではなく、物、 、

    語を、

    語、

    る、

    こ、 、

    とそ、 、 、 、

    のものに、 、 、 、

    よってミスが生じている。時間の経過にずれが生じているのであり、逆にいうな

    らばそれは、ずれが生じるだけの時間の流れがプロットの中で語られている、ということである。善

    と悪の戦いを主眼とするプロットから、登場人物の内面的変化を組みこんだプロットへ。2節の末尾

    では、1940年代末から50年代初頭にかけての手塚の描く物語の質的変化をこのように記した。「メト

    ロポリス」の分析をここに加味することでわかったのは、この変化は、無時間的なプロットから時間

    がリニアに流れるプロットへ、という変化でもあったということだった。

  • 「メトロポリス」(1949年)の位置 ―手塚治虫の初期作品における物語の変容―

    11

     以降の手塚は、間違いなく後者、時間がリニアに流れるプロットに傾斜していく。1950年代初頭の

    手塚作品にある程度共通して見られるひとつの傾向を取り上げれば、このことははっきりとわかるだ

    ろう。

     拙稿「ヒロインが「敵」になるとき」に立ち返ってみよう。「38度線上の怪物」は、「吸血魔團」と

    異なり、事態にケリがついたところから物語が語りはじめられるという特異な構成を採用している。

    すなわち、体内から脱出し、もとの大きさに戻ったケン一と、おじのヒゲオヤジが、モードを含む結

    核菌が入った痰を焼き捨てて涙を流す場面が冒頭に置かれている。警官に保護されたふたりが、病院

    の宿直室にて自分たちの体験を語り出し、物語は本筋に入る28。

     登場人物が途中で回想に入り、それに伴って物語の重心も現在の出来事から過去の出来事に移動す

    る。こうした試みを、手塚は「38度線上の怪物」のほかに、「化石人間の逆襲」、「火星から来た男」(い

    ずれも1952年7月)、「レモン・キッド」(1953年5月)、「罪と罰」(1953年11月)でも行っている。こ

    のうち「化石人間の逆襲」では、人間社会に連れてこられた原始人ブガボガに先導される形での動物

    たちの反乱が、「レモン・キッド」では恩人メロン・キッドとの決闘に向かうレモン・キッドの姿が、

    それぞれ冒頭で描かれ、そこから回想に入ることで、なぜそのような事態に至ったのかが明らかにさ

    れる構成になっている。つまり、「化石人間の逆襲」、「38度線上の怪物」、「レモン・キッド」の三作では、

    取り返しのつかない事態が起こってしまった/今まさに起ころうとしているということが最初に示さ

    れているのである。回想を伴う特異な構成は、そうやってスペクタクル的な事態を先に描いてしまう

    ことで、読者に対し、今後展開される物語の中身にいっそうの興味関心を持たせるために選択されて

    いる。

     ここで強調されるプロットが、いち登場人物の冒険譚として済ませられる質のものでないことには、

    目を向けておかねばならない。「化石人間の逆襲」ではブガボガの友だちになった少年・ケン一が、「レ

    モン・キッド」ではレモン・キッドが、それぞれ回想の担い手となる。つまり、これらの作品で問題

    になっているのは、ひとりの登場人物ではなく、ケン一とモードのほかケン一とブガボガ、レモン・

    キッドとメロン・キッドといった、登場人物間、

    で発生した感情のやり取りなのである。

     複数の登場人物が時空間を共有して生活を営み、それを、各自の内面の中で別様の経験として蓄積

    していく。これらの作品のプロットは、このことを前提に組みあげられている。すなわち、出来事が

    その順番で描かれていること、いい換えるなら、登場人物全員の上に等しく時間が流れていることが

    意味を持つプロットだといえる。

     この種の試みが特定の時期に固まっている以上、手塚が意識的だったかどうかはともかくとして、

    そこにはなんらかの意味があると考えてよい。1940年代末の時点では、手塚作品で描かれるのは無時

    間的なプロットでもあり得た。ところが、50年代前半になると、手塚は物語の中で時間がリニアに流

    れていることへのこだわりを強めていく。ヒゲオヤジの無時間的なプロットと並行する形でミッチイ

    のプロットを展開する「メトロポリス」は、そうした傾向の出発点として位置づけられる。

    5、ミッチイの成立:「敵」と「お供」の出会い

     それでは、ミッチイのプロットは手塚作品の中にどのように持ちこまれたものなのか。そのことを

  • 東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第26号(2019)

    12

    考える際に鍵となるのが、前年に描かれた「地底国の怪人」との関係である。

     「地底国の怪人」の重要キャラクターに、耳男がいる。彼は、科学的実験によって知性を持たされ

    た兎人間だと設定されている。物語がはじまってすぐ、耳男は外の世界に憧れて研究所を脱走し、「バ

    ンザアイ/とうとう外へ/出られた!/さアこれから/ウンとあそんで/やるから」29と叫ぶ。

     「メトロポリス」のミッチイのふるまいは、この耳男のふるまいを強く想起させる。ミッチイは、ロー

    トン博士邸にかくまわれていた際、レッド党に見つけられぬよう不気味な仮面をかぶっての孤独な生

    活を余儀なくされ、外への憧れを募らせる。「ね/おとうさんたら/いつになったら/このおめん/

    はずして」「ぼくひとりで/外へ出して/くれるの/よう ねえ/ねえったら」と不満を口にし、つ

    いに脱走したミッチイは、「固い地面/はじめて歩く/道路」「すてきだ/なんて/いっていいか/わ

    からないや/バンザーイ」と、耳男と同じようなポーズまでとって喜びを露わにする30(図版7)。

     最期の場面も、耳男とミッチイは非常に似通っている31。耳男は、ジョン少年が計画する地球貫通

    トンネル建設事業に協力し、事業を妨害して地上破壊を企む白アリ人間たちとの戦いに参加するも、

    へまをして放逐されてしまう。しかしその後も、陰ながらジョンを助け、死の床でついにその存在を

    認められる。「ジョン/ぼく/人間だねえ/………」と呻く耳男に、「きみは/人間よりも/ずっとずっ

    と/えらかったよ/耳男クン/きみのことはぼく/いつまでも/忘れないよ…」とジョンが答えて「地

    底国の怪人」は終わる32。これに対して、ミッチイの最期は以下のようなものである。人間に反旗を

    翻したミッチイを止めるべく、ケン一が彼に立ち向かう。摩天楼の頂上でふたりは対決するが、その

    さなか、ミッチイの身体を構成する人造細胞が死滅しはじめ、彼は摩天楼から転落してしまう。ケン

    一はじめクラスメイトたちが病室に見舞いに訪れるが、ミッチイは人間の形を保てなくなっていた。

    クラスメイトたちは、ミッチイのモデルとなった大理石像に別れの握手をし、「ミッチイ/見えるか

    い/きみに/握手して/いるんだよ…」33とケン一に呼びかけられながら、ミッチイは消滅する。耳

    男とミッチイはともに、人間としての生活が破綻したあと、死の床でようやく人間として認められる34。

     両者の類似性は、キャラクター図像からも見てとれる。耳男は兎であるがゆえに、当然、頭頂部に

    大きな耳がふたつある。ミッチイもまた、特に設定上の必然性なく、プロペラ状の二本の突起がつい

    た帽子をかぶっている(空を飛ぶ能力を可視化したものではあろうが、帽子がなくても飛ぶこと自体

    はできるので、設定的には不要である)。比較文学者の四方田犬彦は、手塚作品において、耳男に代

    (図版7:外の世界に出、同じように喜ぶ耳男(左)とミッチイ(右)。手塚前掲『地底国の怪人』p.28、

    手塚前掲『メトロポリス』p.34)

  • 「メトロポリス」(1949年)の位置 ―手塚治虫の初期作品における物語の変容―

    13

    表される、ときに死にすら至る自己犠牲と結びつけられる薄幸の傍役たちは、図像的には「聖スティグマ

    痕」と

    しての「巨大な耳」でもって特徴づけられる、と論じている。鉄腕アトムの頭部にある二本の角も、

    「彼の先祖が兎であったことの痕跡」35なのである。こうした見方に従うならば、ミッチイのプロペラ

    もまた「耳」の痕跡だといえるだろう。ミッチイは、耳男のリメイクとしての側面を色濃く持っている。

     とはいえ、耳男とミッチイは、人間としての生活が破綻するところまでは同じでも、そのあとの行

    動が大きく異なっていることは見逃してはならない。主人公たちを支援し続ける耳男とは異なり、ミッ

    チイは、レッド党のみならず人間社会そのものに己が怒りをぶつけ、ヒゲオヤジやケン一の敵にまわ

    る。この点を考えるにあたって重要なのは、やはりミッチイのキャラクター図像である。先に耳男と

    の類似点を指摘したが、ミッチイのデザインは、実は「地底国の怪人」におけるまったく別のキャラ

    クターとも共通している。ほかでもない、同作の敵役である、白アリの女王その人である。

     この点は、手塚自身が意識していることでもあった。よく知られているように、初期の手塚は、ケ

    ン一やヒゲオヤジといったキャラクターを一種の「役者」のようなものと見なし、作品横断的に起用

    する「スター・システム」を採用していた。彼の未発表ノートの中には、各キャラクターを映画スター

    になぞらえ、その所属スタジオやギャラ、来歴や芸風を記した自作の「漫画スタジオ名鑑」すらある36。

    このノートには、自身のマンガ作品中の、該当キャラクターの「出演」場面も貼り付けられているが、

    「ミッチー」という役者のページでは、「地底国の怪人」の白アリの女王の姿もそこに見ることができ

    る(図版8)。

     ミッチイは、耳男のリメイクでありながら地上破壊を企む白アリの女王でもある。そのふたりを、

    それぞれが抱えこむドラマ性も含めて統合したキャラクターがミッチイなのである。「立派な人間足

    ろうと活動したが、自身が人間ではないと知り、同族(ロボット)を率いて大都市に侵攻する」とい

    うミッチイのプロットは、「自分が人間だと証明するべく、人助けをする」耳男と、「自分たちの種族

    を追い落とした人間たちに復讐するべく、地上征服を計画する」女王とが融合した結果、できあがっ

    たものだといえる。

     映画研究者の鷲谷花が指摘しているように、戦前・戦中期の児童漫画は、「お供の動物」を連れた「少

    (図版8:手塚治虫『「漫画ス

    タジオ名鑑」ノート』より。

    図版内のもっとも左の列に三

    つのキャラクター図像が並ぶ

    うちの、最下段が白アリの女

    王。『手塚治虫 創作ノート

    と初期作品集』(小学館クリ

    エイティブ、2010年)に収

    録されたものを参照)

  • 東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第26号(2019)

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    年」が「敵」と戦うという構図を有するものが多い。登場人物の役割はヴィジュアル的なレヴェルで

    決定され、「お供」は「お供」、「敵」は「敵」と、主人公の「少年」との関係性が揺らぐことはない37。「地

    底国の怪人」の物語もこれを引き継いでおり、登場人物に対する動機づけは行われているものの、所

    与のものとしての善対悪の構図は堅持され、ドラマ性はほとんどプロットの展開に組みこまれない。

    ジョンを助ける耳男の活躍も、それが本当に耳男かどうかは宙吊りにされたまま展開されているので

    あって、先に記した「自分が人間だと証明するべく、人助けをする」というプロットは、物語終結後、

    事後的に成立するものなのである38。このようなアクロバティックな操作を用いることなく、内面的

    変化を内包するミッチイの物語が、並走するプロットのひとつとして正面きって描かれているところ

    に「メトロポリス」の達成がある。

     耳男と白アリの女王との統合が企図されたのは、実は「メトロポリス」がはじめてではない。「地

    底国の怪人」から「メトロポリス」のあいだに描かれた「吸血魔團」、「月世界紳士」でも、同様のね

    らいを持ったキャラクター設定が行われている。

     「月世界紳士」には、月からのスパイである少女・サヨコが登場する。若い地球人の女性として登

    場したサヨコの正体は、兎のように長い耳を持つ宇宙人であった。「敵」となる存在が、ここでは直

    接的に兎そのものとして描写されている。「吸血魔團」に登場する結核菌の少女・モオド(「38度線上

    の怪物」のモードに相当するが、こちらでは長音表記ではない)も、頭に二本の触角が生えた姿で描

    かれている。黴菌のイメージではあるのだろうが、耳男から連続する「聖痕」の持ち主としても位置

    づけられる造形である。

     「地底国の怪人」におけるプロットの鼎立状況を整理し、「敵」と「お供」を統合することで、物語

    の冒頭から登場人物の内面が段階的に変化し、そのゆくえそれ自体が読者の興味を惹くような物語を

    実現する。これこそが、1940年代末の時期に手塚が継続的に取り組んでいた課題だった。物語面から

    見たときにはこのように位置づけることができる。

     「メトロポリス」は、こうした取り組みが実を結んだ作品だった。それゆえにこそ「漫画スタジオ名鑑」

    では、ミッチイに、サヨコでもモオドでもなく「ミッチー」の名が与えられたのだと考えられる。耳

    男と女王の統合に成功し、プロットを牽引する複雑なドラマ性を内包したキャラクターを描き得たの

    がほかならぬ「メトロポリス」であると、無意識的にではあれ手塚は感じていたのではないか。

    6、おわりに

     このようなキャラクターを描くことを可能としたのが、「映画的様式」の深化である。「はじめに」

    で引用した夏目房之介の指摘のとおり、ミッチイの心変わりはマンガ表現上の工夫でもって鮮やかに

    演出されていた。あの場面では、コマの連鎖でもって空間や時間が伸び縮みさせられ、そうすることで、

    登場人物の内面の揺らぎが可視化されている。「映画的様式」による物語叙述が行われているといえる。

     マンガ表現の深化を受けて、「お供」はそのまま「敵」としてもふるまえるようになった。その結果、「少

    年」+「お供」対「敵」という従来の構図は、「少年」対「お供」かつ「敵」、という構図に変化する39。「お供」

    かつ「敵」とは、「少年」と同格の別の少年でもある。ここに至って、手塚マンガが描き出す物語は、

    戦前・戦中期の児童文化とは質的に異なるものとなったといえるだろう。

  • 「メトロポリス」(1949年)の位置 ―手塚治虫の初期作品における物語の変容―

    15

     ミッチイのプロットは、これ以降手塚が描く物語を規定していく。手塚が、時間がリニアに流れる

    プロットへとますます傾斜し、1950年代初頭には時制の複雑な作品を好んで描くようになるのは本稿

    で見たとおりだが、それだけではない。ミッチイのプロットは、より直接的に手塚作品の中で反復さ

    れていくのである。

     ときに行動をともにするほど近しい存在であるふたりの少年がおり、そのうち、自身のアイデンティ

    ティーに関する揺らぎを抱えている方が「悪」の役割を引き受け、プロットを牽引する。このような

    特徴を有する物語を、手塚はのち、雑誌掲載作品においてジャンルを問わず多用することになる。た

    とえば、読み切り作品では「世界を滅ぼす男」(1954年10月)が、対立する国家にそれぞれ属してい

    るふたりの少年パイロットの友情とその破綻を描いている。1960年代に入ってからの長篇連載でも、

    ふたりの戦災孤児が対照的な人生を歩む「アリと巨人」(61年4月-62年3月)、高名な科学者の子ど

    もとその複製を襲う数奇な運命を描く「白いパイロット」(61年8月-62年6月)、双子の農民の少年

    の人生が対比される「ハトよ天まで」(64年11月-67年1月)、特殊な薬を飲んだスーパー犬の兄弟が、

    人間との関係をめぐり最後に対決する「フライングベン」(66年2月-67年10月)などが、該当する

    作品として挙げられよう。読者の人気を第一に、ある種の行き当たりばったりの展開を避けることが

    できない連載という発表形式のもとで、なお、ひとつのプロットに収斂する物語を破綻なく展開する

    ために、物語構造を初手から示すことができるこの手法は、少なくとも手塚にとっては有効なものだっ

    たのだろう。

     以上、本稿では、手塚作品における「メトロポリス」の位置を明らかにしてきた。本作はおそらく、

    時間の流れているプロットへと道を開き、戦前・戦中期からの児童文化の枠組みからの離脱を決定づ

    けた作品と位置づけることができる。

     とはいえそれは、ミッチイのプロットが旧来からの児童文化とまったく無関係であることを意味し

    ない。ミッチイが担うプロットは、親から切り離された子どもが主役を務めている点で、「小公子」(1886

    年)や「小公女」(1888年)といった19世紀の児童向け文学作品との連続性を強く感じさせる。そう

    した作品も近代化以降の日本では受容されていた以上、この種の物語性がマンガに結実する過程は、

    もともとは主役であった孤児が「敵」の地位を占めるに至ったのはなぜかという問題意識のもと、き

    ちんと問い直される必要があるだろう。

     また、手塚の赤本作品をもとに本稿で抽出した物語内容の変化が、手塚以外のどこまで敷衍できる

    のかも、きちんと考えなければならない課題である。赤本全般や、月刊誌などではどうだったのか。

    他作家の作品における物語性を検討する必要性を強調し、本稿を終わりにしたい。

    【付記】

     本稿は、2017~2018年度科学研究費補助金若手研究(B)「戦後日本マンガはいかなる物語を描い

    たか―戦前・戦中期の児童文化との比較から―」(課題番号:17K13391)の成果の一部である。

    柱脚

    1 手塚の「塚」に関しては、参照した本・論文では「塚」と「塚」の二種類の表記が混在していたが、

  • 東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第26号(2019)

    16

    本稿では「塚」に統一している。

    2 手塚治虫が亡くなったときに刊行された『朝日ジャーナル臨時増刊 手塚治虫の世界』31巻17号(朝

    日新聞社、1989年)の主要作品解説でも、これら三作は『初期SF3部作』とひとまとめにされている。

    3 たとえば、中野晴行『そうだったのか�手塚治虫――天才が見抜いていた日本人の本質』(祥伝社新

    書、2005年)pp.14-17、竹内オサム「手塚マンガのキーワード16(&ブックガイド)」『文藝別冊 

    増補新版 総特集手塚治虫 地上最大の漫画家』(河出書房新社、2014年)p.62。手塚治虫漫画全集

    版の「あとがき」でも、手塚自身がそのような見解を述べている(手塚「あとがき」『手塚治虫漫

    画全集44 メトロポリス』講談社、1979年、p.166)。

    4 夏目房之介『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』(小学館文庫、1998年)pp.44-47。

    5 手塚治虫「あとがき」『手塚治虫漫画全集253 地底国の怪人』(講談社、1982年)p.156。

    6 拙稿「「地底国の怪人」(1948年)の物語構造――戦前・戦中期の児童文化との連続性と画期性」『マ

    ンガ研究』23号(2017年3月)pp.6-28。

    7 拙稿「ヒロインが「敵」になるとき 赤本単行本から別冊付録へのリメイクに見る「映画」らしさ」

    『ユリイカ 詩と批評』47巻15号(青土社、2015年10月)pp.137-144。

    8 テキストとしては、赤黒二色刷りを再現するなど、原本に雰囲気が近い角川文庫版(1995年)を

    使用した。以降、本書からの引用については、「テキストp.○」と表記する。本文中で作中のセリ

    フを引用するにあたっては、ひとつのふきだしの内に収まる範囲についてはひとつの鍵カッコの

    中に移し、行の変化はスラッシュで区切ることで対応させている。

    ただし、同書は、基本的な設定や物語の流れには変更がないため議論の大勢には影響しないが、

    原本に較べセリフやコマの配置に異動がないわけではない。そのため、箇所によっては、そのこ

    とを明記しながらオリジナル版からの引用も行っている。

    9 E・M・フォースター(中野康司訳)『小説の諸相』(みすず書房、1994年)pp.123-154を参照。これ

    に対して、因果関係によってではなく単なる時系列でもって出来事を並べたものがストーリーと

    なる。

    10 ノースロップ・フライ(海老根宏、中村健二、出淵博、山内久明訳)『批評の解剖』(法政大学出版局、

    1980年)p.47。ただし厳密にいえば、これは、上で触れたフォースターによる理解とはいささか異

    なるものでもある。自身も小説家であるフォースターは、登場人物の行為のみを語る演劇と、そ

    の心そのものについても語る小説との相違を強調し、小説において、プロットと登場人物とのあ

    いだにズレや対立が生じることを強調しているからである。本稿では、こういったちがいに目を

    向ける必要はとりあえずはないため、説明を単純化していることをお断りしておく。

    11 前掲拙稿「「地底国の怪人」(1948年)の物語構造」。

    12 前掲拙稿「ヒロインが「敵」になるとき」。

    13 三輪健太朗『マンガと映画 コマと時間の理論』(NTT出版、2014年)。

    14 同上、p.281。

    15 同上、pp.287-289における萩尾望都作品の分析を参照。

    16 「手塚治虫公式サイト」内の記述より(URL:http://tezukaosamu.net/jp/manga/492.html)。最終閲覧日:

    2017年7月17日。

  • 「メトロポリス」(1949年)の位置 ―手塚治虫の初期作品における物語の変容―

    17

    17 手塚治虫『メトロポリス』(育英出版、1949年)より。1980年に「手塚治虫初期漫画館」として名

    著刊行会より復刻されたものを参照。

    18 同上、p.8。現在入手できる版では、この箇所は「まぼろしの死の商人と呼ばれた秘密組織「レッ

    ド党」」に変更されている。所与のものとしての悪として描かれている点は同様だが、行動の目的

    が明確に設定されているというちがいがある。おそらくは全集出版時に、単なる陰謀団では現在

    のマンガのリアリティーレヴェルにそぐわないと考えた手塚によって変更が加えられたのだろう。

    19 テキストp.97。

    20 テキストp.106。

    21 本作に基づくアニメーション映画「メトロポリス」が、2001年に封切られた。脚本を担当したマ

    ンガ家の大友克洋は、原作について「この原作は、手塚さんのかなり初期の作品で、正直に言う

    と全体的に構成がカチッと出来ているものではないんですよね」と述べている(「大友克洋インタ

    ビュー」『メトロポリス』パンフレット、2001年より)。具体的には述べられていないが、本稿で

    指摘した時間経過の矛盾も、おそらくは大友の指摘する構成の崩れのひとつであろう。

    22 手塚治虫『手塚治虫漫画全集323 森の四剣士』(講談社、1993年)p.29。

    23 岩下朋世『少女マンガの表現機構 ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」』(NTT出版、2013年)

    pp.85-153。

    24 マックス・リュティ(小澤俊夫訳)『ヨーロッパの昔話 その形式と本質』(岩波文庫、2017年)p.55。

    25 マックス・リュティ(小澤俊夫訳)『昔ばなし その美学と人間像』(岩波書店、1985年)p.309。

    26 リュティの指摘をマンガ研究に導入し、記号の組み合わせとしてのマンガやアニメのキャラクター

    の「平面性」を指摘したのが評論家・マンガ原作者の大塚英志である(大塚『キャラクター小説

    の作り方』講談社現代新書、2003年など)。とはいえ大塚の議論に対しては、近年、いささか本質

    論に傾き過ぎている点が批判されてもいる。本稿で触れたとおり、岩下は「記号的造形」と「記

    号的使用」の区別を唱えたが、これは大塚に対する批判としてであった。ほか、三輪前掲『マン

    ガと映画』も、キャラクターだけでなく空間表象にも関わるものとしてリアリズムの問題を捉え、

    大塚の議論の超克を図っている。本稿が、本質的なキャラクター造形の問題としてではなく、あ

    くまでプロットとの関係でもって「平面性」を論じているのも、分析する視角こそちがうが、こ

    れら先行研究における批判を踏まえてのことである。

    27 手塚の赤本作品を論じる上では、藤子不二雄◯A 『まんが道』でも印象的に描かれていたが、手塚

    がいったんつくった物語を短く再構成する形で決定稿を完成させていたことも考慮に入れる必要

    がある。手塚治虫漫画全集版の「あとがき」でも、手塚は、エンミイにまつわる部分を当初の構

    想よりも短くしたと語っている(手塚前掲「あとがき」『手塚治虫漫画全集44 メトロポリス』p.165)。

    本稿で指摘したミスも、編集の際に辻褄が合わなくなった結果のものかもしれない。とはいうも

    のの、ここではプロットの並行的叙述が矛盾を誘発しているため、編集の技術上生じたミスとい

    うよりは、手塚の物語の語り方そのものによるミスである可能性が高いだろうと筆者は考えてい

    る。

    28 手塚自身も明言しているとおり、こうした展開は、直接的には黒澤明監督の映画「生きる」(1952年)

    の影響下にあるものである。前掲拙稿「ヒロインが「敵」になるとき」。

  • 東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第26号(2019)

    18

    29 手塚治虫『地底国の怪人』(角川文庫、1994年)p.28。

    30 テキストpp.33-34。

    31 竹内オサム『手塚治虫 アーチストになるな』(ミネルヴァ書房、2008年)pp.144-145にも同様の指

    摘がある。

    32 手塚前掲『地底国の怪人』pp.151-152。

    33 テキストp.159。

    34 手塚本人の述懐によれば、これは「地底国の怪人」のラストが読者に受けたので、「柳の下の二匹

    目のドジョウをきめた」ものらしい(手塚前掲「あとがき」『手塚治虫漫画全集44 メトロポリス』

    p.166)。とはいえ、そのような商業的な、場面設定上の類似のみならず、キャラクターの造形レヴェ

    ルでの共通点が多いことは本稿で強調したとおりである。

    35 四方田犬彦「手塚治虫における聖痕の研究」竹内オサム、村上知彦編『マンガ批評大系 第1巻 

    アトム・影丸・サザエさん』(平凡社、1989年)p.139。付言するならば、こうした「聖痕」は、も

    とをたどれば戦前期のアメリカのアニメーションが採用していたキャラクターづくりの方法論に

    行きつくものなのではないか。しあわせうさぎのオズワルドも、ミッキーマウスも、フィリックス・

    ザ・キャットも、ふたつの突起を頭部に付す形でデザインされている。この点に関しては、大塚

    英志『ミッキーの書式 戦後まんがの戦時下起源』(角川書店、2013年)が参考になる。

    36 手塚治虫『手塚治虫 創作ノートと初期作品集』(小学館クリエイティブ、2010年)に収録された

    ものを参照した。

    37 鷲谷花「コマの中の人間 1924~1951」『文学研究論集』15(筑波大学比較・理論文学会、1998年)

    pp.109-128。なお、鷲谷は、ジョンと耳男の関係が可変的である点を強調し、「地底国の怪人」に戦前・

    戦中の児童漫画からの離脱を読み取っている。しかし、「地底国の怪人」では、中心となる構図自

    体は戦前・戦中の児童漫画のそれに等しい。本稿では、「お供」が「敵」になり得ることが示され

    た「メトロポリス」の重要性を強調したい。

    38 このような特異な物語構造が採用された背景には、この時期のマンガが登場人物の内面的な葛藤

    を表現する方法を持ち得ていなかったという問題が横たわっていたと考えられる。前掲拙稿「「地

    底国の怪人」(1948年)の物語構造」を参照。

    39 これに関連して、仏文学者の巌谷国士は、成長することのできない「死んでゆく子ども」であるミッ

    チイと、それとは対極にある健康第一の優等生であるケン一との対立の物語として「メトロポリ

    ス」を論じている。「『メトロポリス』だって、主人公は二人いたとも言える。一方の雄はもちろ

    んケン1くんだ。これはまったくアンドロイドではない。五体満足で、頭脳明晰で、日本男児で、

    ひとめで大人の予備軍であることがわかる少年だ。彼ははじめミッチイの親友であり理解者であっ

    たのだが、後半では、人間への、大人への叛乱をくわだてるミッチイをむこうにまわし、摩天楼

    の上での決闘の末に、落下してゆくミッチイの姿を見とどける」(巌谷「主人公の死が甘美で残酷

    な像を結ばせた子ども観」前掲『朝日ジャーナル臨時増刊 手塚治虫の世界』31巻17号、p.166)。

    巌谷の主張に異論はないが、それがどのように解釈できるかではなく、このような読み解きが可

    能な構造が実現されたことの方をこそ、本稿では重視したい。