「心の健康」の社会学序説 山 田 陽 子 - hiroshima...

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現代社会学 9〉 41 山 田 陽 子 近年の日本社会では、年間の自殺者数が3万人超の状態が継続するとともに、過労自殺 やうつ病の予防など「心の健康」に関する動きが広まっている。本論文では、知識社会学 的な観点から労働者の「心の健康」をめぐる知の布置連関を整理し、労働問題が医療化し ていることを明らかにする。まず、「心の健康」をめぐる政策や法令、予算投入に注目し ながら、「心の健康」が一つの社会現象としてどのような様相を呈しているのかを明らか にする。次に、「心の健康」をめぐるエージェント ― 労働者、上司・管理監督者、産業 保健スタッフなど ― と専門知や介入テクノロジーの布置連関を明確にする。さらに、労 働者の「心の健康」対策において広く用いられているストレスチェック票や、過労自殺や うつ病の業務起因性の判断基準等を検討することにより、リスク思考の導入に伴って労働 問題が「心の健康」問題へと意味を変換されることを明らかにする。 資料として用いるのは、「心の健康」に関する法令や官公庁発表の統計、産業保健スタッ フや人事・労務担当者を対象としたメンタルヘルス研修での講演内容、講義資料や参加者 の発言、関係者へのインタビューなどである。 キーワード:過労自殺、リスク、医療化 はじめに 近年、年間の自殺者数が3万人超の状態が継続するとともに、過労自殺やうつ病の予防など「心 の健康」に関する動きが広まっている。本論文では、知識社会学的な観点から、労働者の「心の健 康」を取り巻く知の布置連関を整理する。それによって、労働をめぐる諸問題がメンタルヘルスの 問題としての枠組みを与えられ、労働者個人の「心の健康」問題と化していることを明らかにする。 まず、「心の健康」をめぐる法令と社会資源の整備や予算投入に注目しながら、「心の健康」が一つ の社会現象としてとらえうることを示す。次に、 「心の健康」をめぐるエージェント―労働者、上司・ 管理監督者、産業保健スタッフなど ― と専門知や介入テクノロジーの様相について検討する。最 後に、近年の「心の健康」対策においてうつ病や「健康リスク」という概念が導入されることによ り、従来は社会的政治的領域で議論されてきたような労働問題が労働者個人の「心の健康」問題へ と移行することを明らかにする。それにより、労働問題の医療化を超え出る方途がいかにして可能 かを考える手がかりを得たい。 「心の健康」の社会学序説 ― 労働問題の医療化 ―

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  • 〈現代社会学 9〉  41

    山 田 陽 子

     近年の日本社会では、年間の自殺者数が3万人超の状態が継続するとともに、過労自殺

    やうつ病の予防など「心の健康」に関する動きが広まっている。本論文では、知識社会学

    的な観点から労働者の「心の健康」をめぐる知の布置連関を整理し、労働問題が医療化し

    ていることを明らかにする。まず、「心の健康」をめぐる政策や法令、予算投入に注目し

    ながら、「心の健康」が一つの社会現象としてどのような様相を呈しているのかを明らか

    にする。次に、「心の健康」をめぐるエージェント ―労働者、上司・管理監督者、産業

    保健スタッフなど― と専門知や介入テクノロジーの布置連関を明確にする。さらに、労

    働者の「心の健康」対策において広く用いられているストレスチェック票や、過労自殺や

    うつ病の業務起因性の判断基準等を検討することにより、リスク思考の導入に伴って労働

    問題が「心の健康」問題へと意味を変換されることを明らかにする。

     資料として用いるのは、「心の健康」に関する法令や官公庁発表の統計、産業保健スタッ

    フや人事・労務担当者を対象としたメンタルヘルス研修での講演内容、講義資料や参加者

    の発言、関係者へのインタビューなどである。

     キーワード:過労自殺、リスク、医療化

     

    はじめに

     近年、年間の自殺者数が3万人超の状態が継続するとともに、過労自殺やうつ病の予防など「心

    の健康」に関する動きが広まっている。本論文では、知識社会学的な観点から、労働者の「心の健

    康」を取り巻く知の布置連関を整理する。それによって、労働をめぐる諸問題がメンタルヘルスの

    問題としての枠組みを与えられ、労働者個人の「心の健康」問題と化していることを明らかにする。

    まず、「心の健康」をめぐる法令と社会資源の整備や予算投入に注目しながら、「心の健康」が一つ

    の社会現象としてとらえうることを示す。次に、「心の健康」をめぐるエージェント ― 労働者、上司・

    管理監督者、産業保健スタッフなど― と専門知や介入テクノロジーの様相について検討する。最

    後に、近年の「心の健康」対策においてうつ病や「健康リスク」という概念が導入されることによ

    り、従来は社会的政治的領域で議論されてきたような労働問題が労働者個人の「心の健康」問題へ

    と移行することを明らかにする。それにより、労働問題の医療化を超え出る方途がいかにして可能

    かを考える手がかりを得たい。

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    「心の健康」の社会学序説―労働問題の医療化―

  • 42  〈現代社会学 9〉

     分析対象とするのは、「心の健康」に関する法令や官公庁発表の統計資料、産業保健スタッフや

    人事・労務担当者を対象としたメンタルヘルス研修での講演や講義資料、参加者の発言、関係者へ

    のインタビューなどである①。

    1. 社会現象としての「心の健康」

    1-1. 年間自殺者3万人時代

     日本の自殺者数は長らく2万人から2万5,000人の間を推移していたが、1998年に一挙に3万

    2,000人を突破し、以後、9年連続で3万人を越える状態が続いている。

     警察庁によれば、平成18年における自殺者の総数は3万2,155人で、前年に比べ397人(1.2%)減

    少した。性別では、男性が2万2,813人で全体の70.9%を占めている。年齢別では60歳以上が1万

    1,120人で全体の34.6%を占め、次いで50歳代(7,246人 , 22.5%)、40歳代(5,008人 , 15.6%)、30歳

    代(4,497人 , 14.0%)の順となっている。

     職業別でみると、「無職者」が1万5,412人で全体の47.3%を占め、次いで「被雇用者」が8,163

    人で25.4%、「自営者」が3,567人で11.1%、主婦・主夫が2,658人で8.3%という順である。また、

    原因・動機別の分類では、「健康問題」が4,341人で「遺書あり」の自殺者の41.5%を占めており、

    次いで「経済・生活問題」が3,010人で28.8%、「家庭問題」が1,043人で10.0%、「勤務問題」が709人、

    6.8%という順になっている(警察庁生活安全局地域課 2007)。

     

    1-2.職場に広がるうつ病と過労自殺

     厚生労働省によれば、2006年度のうつ病などの精神障害による労災認定件数は205件であった(請

    求件数は819件)。この件数は前年度127件の1.6倍にあたり、過去最多の数値である。また、認定さ

    れた205件のうち66件が自殺であった(そのうち1件は未遂)。年齢別では30~39歳の層が最も多く83

    件に上り、全体の4割を占めている。前年度の39件から2倍以上に増加している。

     【精神障害等の労災補償状況】

    (厚生労働省2007より) 

     

    1-3.「心の健康」をめぐる法令の整備、予算投入

     自殺や精神障害の増加と、それに伴う労災認定件数の増大を背景として、「心の健康」対策が急

    浮上している。ここでは、自殺者が3万人を超えた1990年代末から現在に至るまでの期間にどのよ

    うな「心の健康」対策が行われたのか、政府による法令整備や予算投入、企業や労働組合の動きの

    概要について整理しておきたい。

    【精神障害等の労災補償状況】

    年度

    区分

    2002 2003 2004 2005 2006

    請求件数 341 447 524 656 819 精神障害等 支給決定件数 100 108 130 127 205 請求件数 112 122 121 147 176 うち自殺

    (未遂を含む) 支給決定件数 43 40 45 42 66 (厚生労働省 2007 より)

  • 〈現代社会学 9〉  43

     厚生労働省は、2000年から始めた「健康21 」において、生活習慣病の予防と並んで自殺者数の

    減少目標を掲げている。その中の「各論3 休養・心の健康づくり」では、自殺は精神保健の重要

    課題の一つであることを明記している。その中では、「鬱病等に対する適切な治療体制の整備等を

    図り、自殺者を減少させる」こと、具体的な目標数値として年間の自殺者数を22,000人以下に減少

    させることなどが掲げられた。また、「心の健康を保つ対策」として、ストレス対策、睡眠対策な

    どが挙げられている。これらの基底には、「うつ病を早期に発見し、適切に治療することが自殺予

    防のひとつの大きな鍵になる」との認識がある。

     「健康21」に関連して様々な自殺対策や「心の健康」対策が実施される一方、2005年の中間評価

    の際に、全国的に見て自殺者数や精神障害による労災請求件数が減少していないことが明らかに

    なった。例外的に、「健康秋田21」の標語のもとに地域の精神保健スタッフの努力によって自殺者

    数の減少に成功した秋田県や、青森県六戸町のように「こころの健康カード」や「こころのケアナー

    ス」、「こころの相談窓口」などを各医療機関に開設して自殺者数の軽減に成果を出している地域も

    あるにはあるが(渡邉2007, 本橋2006, 本橋・渡邉2005)、全国的に見ると自殺者数は減少せず、高いレ

    ベルで横ばいの状態が続いている。

     そこで、さらなる自殺予防対策が必要であるとの考えから、厚生労働科学研究費補助金こころの

    健康科学研究事業「自殺関連うつ対策戦略研究」が2005年末から5ヵ年計画で始まった。これは、

    自殺とうつ病について調査によって実証的に明らかにし、自殺率の減少とうつ病予防に寄与するこ

    とを目的とした大規模な調査研究である。初年度の予算額は約2億円であり、自殺やうつ病に関す

    る研究に本格的に大型資金が投入されつつある。

     また、2006年6月15日に成立(10月28日施行)した自殺対策基本法では、「自殺は個人の問題に過

    ぎない」という固定観念を払拭し、社会的な取り組みとして自殺対策を行なうことが定められた。国、

    地方公共団体、事業主、国民の責務を明確にすることや、プライバシーへの配慮にも言及している。

    この自殺対策基本法の成立に関しては、自殺遺族支援の NPO法人の働きかけや草の根運動が大き

    な原動力となった。

     さらに、2007年6月8日には「自殺総合対策大綱」が閣議決定され、自殺予防対策に関する官

    民の連携強化と平成28年までに自殺率を20%減少させることが提唱されている(内閣府 2007, 高橋

    2007)。

     また、厚生労働省は、内科などの開業医がうつ病について適切な診断ができるように平成20年度

    から全国で研修事業を実施する方針を固めた。研修は地域の医師会などの協力のもと、精神科医ら

    がうつ病の基礎知識や診断時の留意点、うつ病が疑われる患者への適切な対応について講義するこ

    とになる予定である。これには、専門医以外には見過ごされがちなうつ病を早期に発見し、専門医

    を紹介するなど適切な治療につなげるねらいがあるという(平成19年8月21日付 共同通信)。さらに、

    厚生労働省は、厚生労働大臣の諮問機関「中央社会保険医療協議会(中医協)」に対し、不眠症な

    どで来院した患者にうつ病などで自殺の予兆が認められた場合に、精神科医へ紹介すれば診療報酬

    を加算する考えを示した(平成19年10月19日付 毎日新聞)。

     これらの動向からは、精神科以外の医師もうつ病や自殺に関する知識を持つことが求められてい

    ることが理解できる。うつ病や自殺を発見するためのネットワーク作りが進められており、それが

    診療報酬という形で反映される仕組みが整備されつつある。

  • 44  〈現代社会学 9〉

    1-4. 労働者の「心の健康」をめぐる動向

     前項で整理した自殺やうつ病に関する法令整備や予算の投入の動向を踏まえた上で、ここでは労

    働者のメンタルヘルス関連の法令や企業・労働組合の動向についても振り返っておきたい。自殺者

    数が3万人を突破したことを受け、厚生労働省は2000年(平成12年)8月9日に「事業場における

    労働者の心の健康の保持増進のための指針」を策定し、平成18年3月31日に改定を行なっている(厚

    生労働省2006a, 2006b, 2006c)。

     本指針は、労働者の自殺が増加しており、メンタルヘルス対策が急務であるとし、事業主に「心

    の健康づくり計画」を策定することを求めている。そして、労働者の「心の健康づくり」のために、「4

    つのケア」を提唱した。「4つのケア」とは、労働者自身による「セルフケア」、上司や管理職によ

    る「ラインケア」、「事業場内産業保健スタッフによるケア」、「事業場外産業保健スタッフによるケ

    ア」の4つである(詳細は後述)。

     また、2006(平成18)年には、労働安全衛生法の一部改正が行なわれた(平成18年4月1日より施行)。

    これにより、事業者は、「一月あたり100時間を超える時間外労働を行ない、疲労の蓄積が認められ

    る労働者」を対象として、労働者本人の申し出により、医師による面接指導等を実施することが定

    められた(改正労働安全衛生法 第66条の8)。一月の時間外労働が100時間未満の労働者であっても、

    健康上の配慮が必要な者については労働者の申し出により、医師による面接指導を行うよう努力せ

    ねばならない(改正労働安全衛生法 第66条の9)。

     こうした政府の動向に歩調を合わせ、メンタルヘルス対策に取り組む企業が増えている。財団

    法人社会経済生産性本部メンタルヘルス研究所が全国の上場企業2,150社(有効回答数218社、回収率

    10.1%)を対象として2006年4月に行った「メンタルヘルスの取り組みに関する企業アンケート調

    査」によると、6割以上(61.5%)の企業で、最近3年間において「心の病」が「増加傾向」にあ

    る。2002年に実施された第一回目の調査では48.9%、2004年の第二回調査では58.2%であったが、

    通算3回目の今回の調査では61.5%となり、「心の病」は一貫して増加傾向にある。また、74.8%

    の企業で「心の病」による「1ヶ月以上の休業者」が存在しているとの結果も出ており、2002年に

    は58.5%、2004年には66.8%だったことを鑑みると、こちらも一貫して増加傾向にある。年齢別で

    は30代に集中している。

     そして、「心の病」を持つ従業員が増えているとの認識から、健康づくりの中でも特にメンタル

    ヘルス対策に力を入れる企業が急増しており、2006年には59.2%の企業が何らかのメンタルヘルス

    対策に取り組んでいる。これも、2002年には33.3%、2004年には46.3%であったことを見ると、年々

    増加していることがわかる(社会経済性本部 2006)。

     また、事業主だけではなく、労働組合も同様に、労働者のメンタルヘルスに力を入れようとして

    いる。社会経済性本部が全国の単位労働組合から無作為抽出した2,384組合を対象に2005年2月に

    実施した「労働組合のメンタルヘルスの取り組みに関するアンケート調査」(有効回答数543組合、回

    収率22.8%)によれば、現在の運動方針にメンタルヘルスの取り組みを「入れている」労働組合は

    65.4%で、「検討中」を含めると8割に達している。具体的に取り組んでいる内容は、「組合幹部向

    けの教育」(36.6%)、「組合報、小冊子による PR」(33.3%)、「組合員へのメンタルヘルス講習会」(25.2%)

    などであり、教育・広報に関するものが多い(社会経済性本部 2005)。

     さらに、労働組合の中には、メンタルヘルスに特化した部門を立ち上げるところもある。たとえば、

    大阪にある NPO法人「働く人のメンタルヘルス相談室」は、「管理職ユニオン・関西」にうつ病

  • 〈現代社会学 9〉  45

    や自殺に関する相談が多く寄せられるようになったため、ユニオンから独立したものである。相談

    室では現在、うつ病体験者、うつ病患者、研究者などを集めて、過労自殺やうつ病罹患を防止・サ

    ポートする「うつ病治療支援ネットワーク」を設立準備中である(伊福 2007)。

    1-5.「心の健康」という社会現象

     ここまで、自殺や「心の健康」をめぐる動向を整理してきた。1990年代の末から現在に至る10年

    ほどの間に、政府、地方自治体、企業、労働組合、NPO法人、産業医や精神科医、産業保健スタッ

    フ、そして、労働者自身を含む大きな潮流として「心の健康」現象が生じている。「今や、自殺に

    よる死亡者数を減らすことは国民的な事業となっている」(保坂 2006, 3頁)という指摘もあるよう

    に、自殺対策、その中でも特にうつ病予防の動きが急速に進んでいる。 

     そして、「心の健康」をめぐる動きにおいて特徴的なのは、自殺やうつ病は個人の問題ではなく、

    社会全体の問題として提起されている点である。自殺やうつ病は、タブー視したり、個人的な問題

    であると片付けられたりするのではなく、社会的な対策が必要な問題、社会的に解決すべき問題と

    みなされるようになりつつある。いいかえれば、うつ病や自殺が深刻な自殺企図者や精神障害を抱

    えている人だけに限定されたものではなく、誰にでも起こりうる問題であるとともに社会的に予防

    可能な問題として再定義されている。それゆえここに、「心の健康」をめぐる営為について社会学

    的に分析する必要性が見出せる②。

     「心の健康」をめぐる営為には、これまでに十分な社会学的分析が行われているとは言い難い。「心

    の健康」ないしメンタルヘルスは、従来、精神医学や公衆衛生学の文脈で議論されることが多く、

    また、労働者のうつ病や過労自殺という点を見るならば、労働法や労務管理、労災補償の文脈で議

    論されることが多かったように思われる。社会学的議論としては、主として医療化論の文脈におい

    て、狂気や精神障害に関する議論が多く提出されてきた。だが、より一般的に、働く人々のメンタ

    ルヘルス、個々人の日常生活の質の向上を志向するような「心の健康」現象に関する社会学的分析

    は今後の展開が待たれるものであろう。

     したがって本論においては、「心の健康」を社会学的分析の俎上に載せる。さしあたり、労働者の「心

    の健康」をめぐる知の布置連関や、「心の健康」において何が「心」の問題とみなされているのか

    について明らかにし、労働問題の精神医療化という観点から考察する。

    2. 「心の健康」をめぐる知の布置連関

     既述のとおり、厚生労働省は2000(平成12)年「事業場における労働者の心の健康の保持増進

    のための指針」を策定し、2006(平成18)年にはその改定が行なわれた(厚生労働省2006a, 2006b,

    2006c)。そこで示されたのが「4つのケア」である。「4つのケア」とは、1 セルフケア、2 ラ

    インによるケア(上司や管理監督者が行う職場環境の改善、様子がおかしい部下の把握と対応)、3 事業

    場内産業保健スタッフ等によるケア、4 事業場外資源によるケアである。  

     本指針はあくまでも通達であるため、法的拘束力はない。しかし、電通事件以降、安全配慮義

    務が事業主に課されるようになったことも手伝って、本指針は労働者のメンタルヘルス対策の原

    則的な実施方法を定めたものとして産業保健領域では非常にポピュラーなものとなっている(坪田

  • 46  〈現代社会学 9〉

    2007)。本節では、「4つのケア」とそれに関連する現場の動きを整理することによって、労働者の「心

    の健康」をめぐる知や介入テクノロジーの布置連関について明らかにする。

    2-1. 労働者のセルフコントロール

     「4つのケア」のうち、ひとつめの「セルフケア」とは、労働者自身が自ら行なうストレスチェッ

    クとストレスコントロールのことである。中央労働災害防止協会(中災防)によれば、産業保健ス

    タッフによる研修や教育を受けて、労働者が自らストレスとうまく付き合う方法を身に付け、それ

    を実行に移す「ストレス・コーピング」と、自発的な健康相談が「セルフケア」の内実である。両

    者に通底するのは、「いち早く『いつもと違う』自分に気づくこと」である(中央労働災害防止協会

    2002)。

     厚生労働省と中災防は、事業者に対して、労働者のセルフケアに関する教育研修の実施、情報提

    供、労働者が相談をしやすい環境の整備を求めている。そのねらいは、すべての労働者ひとりひと

    りが、「自分の健康は自分で守る」という考え方をもち、ストレスに対処する知識や技法を身につけ、

    日常生活の場でそれを積極的に実施できるようにすることである。

     「セルフケア」に用いるチェックリストには、「職業性ストレス簡易調査票」や「労働者の疲労蓄

    積自己診断チェックリスト」、「家族による労働者の疲労蓄積度チェックリスト」などがある。これ

    らは、産業保健の領域ではよく知られた調査票であり、ストレス研修や面接相談の際にも必ずといっ

    てよいほど用いられている。中災防のホームページや安全衛生情報センターのサイトなど、インター

    ネット上でも公開されており、判定もその場ですぐにできる(http://www.jisha.or.jp/web_ch/index.

    html)。すなわち、ストレスに関して誰もがいつでも気軽に点検できる仕組み、自分の心身の状況

    や職場環境、仕事の状況についてチェックできる仕組みが整えられているということである。

     「職業性ストレス簡易調査票」では、①仕事の状況、②最近1ヶ月の心身の状況、③上司や家族

    から受けられるサポートに関する質問項目が並んでいる。たとえば、①仕事の状況に関する質問項

    目は、仕事の量、時間、高度の知識が必要か否か、肉体的負担、裁量性、職場の人間関係、作業環

    境(照明、騒音、湿度など)、働き甲斐に関するものである。また、②最近1ヶ月の心身の状況に関

    する質問項目は、怒り、イライラ、不安、憂鬱、活気がある、頭痛、目の疲れ、首や肩の凝り、胃

    腸の具合、食欲、不眠について尋ねるものである。そして、③周囲からのサポート度として、上司

    や家族がどのくらい頼りになるか、悩みを聴いてくれるかなどについて尋ねる。最後に、①から③

    を総合して仕事に起因するストレスについて評価を行なう。

     また、「労働者の疲労蓄積自己診断チェックリスト」および「家族による労働者の疲労蓄積度チェッ

    クリスト」では、イライラ、不安、落ちつかない、集中できない、強い眠気、疲れやすさなどに関

    する質問項目によって、最近1ヶ月の疲労・ストレスの自覚症状の点検を行う。そして、時間外労

    働や不規則な勤務、出張の多さ、仕事に関する精神的負担、肉体的負担などについて尋ね、最近1ヵ

    月の勤務状況について確認する。「家族によるチェック表」も、ほぼ同様の質問項目によって、家

    族からみた労働者の様子を明らかにする。

     この「疲労蓄積度診断チェックリスト」は、「過重労働による健康障害を防止し」、労働者とその

    家族が「積極的な健康管理のために活用」することを目的として、2004年6月に厚生労働省より公

    表された。2006年に「過重労働による健康障害防止のための総合対策」(厚生労働省 2006d)が発表

    されたことにともない、労働者やその家族が仕事による疲労度のセルフチェックを行なうツールと

  • 〈現代社会学 9〉  47

    して改めて盛り込まれたものである。

     労働者は、こうしたストレスチェックの結果、ストレスが蓄積しているようであれば、研修で学

    んだ自律訓練法などのリラクゼーション技法によってストレス緩和を試みることになる。また、「い

    つもと違う」自分に気づき、その原因について考えてもよくわからないときには上司や産業保健ス

    タッフに相談する。言いかえれば、労働者の「セルフケア」では、勤務状況や職場環境、労働条件、

    職場の人間関係や仕事にまつわる負担などについてストレスマネジメントの観点から捉えなおす作

    業が労働者に求められているということである。

     「4つのケア」において、労働者は産業保健スタッフが行なう研修などにおいてストレスやスト

    レスマネジメントに関する基礎知識を学ぶ。そして、自らの心身の状態、勤務状況や職場環境、労

    働条件、職場の人間関係や仕事にまつわる負担についてストレスマネジメントの観点から考える思

    考方法を身につける。日常的にセルフモニタリングを行い、ストレスチェック票などによって心身

    をふりかえり、「いつもと違う」点があればすみやかに周囲に相談する。「4つのケア」では、この

    ような形でセルフコントロールに励む労働者像が基盤に置かれている。

    2-2. ストレス管理、うつ病管理を求められる管理職

     次に、「ラインによるケア」の概要について整理する。「ラインケア」とは、上司や管理監督者が

    行なうケアのことである。具体的には、職場環境等の問題点の把握と改善、「いつもと違う」部下

    の把握とその対応、部下からの相談に応じること、メンタルヘルス不全で休職した部下の職場復帰

    支援、以上の4点である。

     上司や管理職は、産業保健スタッフが実施する「仕事のストレス判定図」(詳細は後述)の結果を

    参照して、ストレスとなる職場環境要因(作業環境、作業方法、労働時間、仕事の量と質、職場の人間関係)

    を把握し、改善することが求められる。また、「ラインケア」で最も重要であるとされているのは、

    「いつもと違う」部下の把握と対応である。労働者自身による「いつもと違う自分」のケアに重ね、

    管理職による「いつもと違う」部下のケアが行われる。中災防が「いつもと違う」部下の様子の

    例として挙げているのは、「遅刻、早退、欠勤が増える」、「休みの連絡がない(無断欠勤)」、「残業、

    休日出勤が増える」、「仕事の能率が悪くなる」、「思考力や判断力が低下する」、「業務の結果がなか

    なかでてこない」、「報告や相談、職場での会話がなくなる(あるいはその逆)」、「表情に活気がなく、

    動作にも元気がない(あるいはその逆)」、「不自然な言動が目立つ」、「ミスや事故が目立つ」、「衣服

    が乱れたり不潔である」といったものである。

     こうした「いつもと違う」様子は、実はうつ病の兆候と重なるものであるとされている。外面的

    な行動の特徴や身体面での症状ばかりが挙がっているように思われるが、これは現在の精神医学で

    は「心の不調で早期にでる症状は、実は心の症状より身体の症状である」(鈴木 2005b, 236頁)との

    考えが主流であるためである。精神科産業医である鈴木によれば、「眠れない、食べられない、疲

    れやすい」という「3つの“い”」の症状が2週間以上続く場合、メンタルヘルス不全を疑ったほ

    うがよいという。

     上司は、「いつもと違う」様子の部下がいる場合、その部下から話を聴き、産業医のもとに行か

    せるか、部下が相談に行きたがらない場合は、上司自身が部下の件で産業医のところに相談に出向

    くことになる。その手順を鈴木(同書 , 237頁)にしたがって整理すると次のようになる。

     まず、部下に「いつもと違う」様子が生じたら、上司は「いつもと違うけど、どうかしたのか?」

  • 48  〈現代社会学 9〉

    と声をかけ、話を聴く。この時の面談の目的は「情報収集と受診の奨め」であり、気休めを言った

    り激励したりすることではない。上司は面談の中で、「最近、夜は眠れるか」、「食欲はあるか」、「疲

    れはひどくないか」と尋ね、部下に「3つの“い”(眠れない、食べられない、だるい)」の症状がな

    いかを確認する。その中でも、特に「眠れない」という睡眠障害を呈している場合は、迷わず受診

    や相談を奨める。というのも、睡眠障害はうつ病との相関が高く、「心の不調のサインとして重要」(同書 ,236頁)だと考えられているためである。

     上司は部下が話をしてくれる場合はそれを聴き、必要があれば産業医などの産業保健スタッフに

    つなぐ。部下が「何でもない」と言って話そうとしない場合は、「そうか」と言って話を打ち切り、

    10-14日間、状態の変化を観察する。後日、状態が元に戻らない場合は再度声をかけ、話を聴く。

    部下が事情を話すようなら、それを聴く。話さない場合は、「これは会社の約束事だから」と説明

    して、産業医のところへ行くように指示する。もし、産業医のところへ相談に行きたがらない場合

    は、これも会社の約束事だからと本人に告げて、上司が産業医のところへ行き、今後の対応につい

    て話し合う。

     このような「『いつもと違う』部下の把握と対応」に加え、上司に求められているのは部下から

    の相談の応対である。特に上司のほうから声をかけて話を聴き、情報提供を行ったり産業保健スタッ

    フへの相談や受診を促す必要があるのは、長時間労働によって過労状態にある部下、強度の心理的

    負荷を伴う出来事を経験した部下、何らかの理由で個別の配慮が必要と思われる部下である。「4

    つのケア」では、「心の健康問題の早期発見・早期対処という観点から」、労働時間数や仕事の量で

    過重な負担がかかっている者、神経を使う作業やプレッシャーのかかる仕事に従事している者、家

    人に要介護者がいるなど何らかの個人的な悩みを抱えている者に対して、特に配慮するよう求めて

    いる。

     そして、上司や管理監督者が部下からの相談を受けた時に適切な対応ができるようにするため、

    上司や管理監督者の相談相手になったり、管理職や人事労務部を対象にしたメンタルヘルス研修を

    行なうエージェントとして、昨今注目されているのが EAP会社である。

     EAP(Employee Assistance Programs)とは、アメリカにおけるアルコール依存症対策を起源とす

    る労働者向けメンタルヘルスサービスであり、日本では「従業員支援プログラム」と訳されたり、

    そのまま「EAP」と言われたりする。プログラムの主な内容は、電話相談や精神疾患の長期的な

    ケアというよりも、従業員の業績や生産性の維持・向上に焦点を絞って短期に問題解決をめざすカ

    ウンセリングプログラムである。アメリカでは上場企業の9割以上が EAPを導入しているとされ

    る。日本には1990年代の半ばに本格的に輸入され、2007年現在、EAPを商品として扱う EAP会社

    は約50社程度、その多くは首都圏と関西の大都市圏に集中している(A氏、市川2004, 市川 2007)。

     ある EAP会社の幹部の A氏③によれば、EAカウンセラーのもとに来るのは、特に「ラインの

    方からの相談が多いです。人事の方とか管理職の方から、従業員の方に関するご相談が多いですね」

    とのことである。相談内容も、「ちょっと気になる部下がいる」というレベルから、「欠勤が続く部

    下がいる」とか、「部下同士の不仲がどうしようもない」といったものまで、企業によって様々であり、

    「必ずしも、うつで休んでいるとか、いわゆるメンタル疾患に限らない」。EAカウンセラーは、こ

    れらの相談に対して、「職場全体の生産性の向上」とリスク予防の観点からアドバイスを行なう(A

    氏)。

     また、「4つのケア」における「ラインケア」には、メンタルヘルス不全で休職した部下の職場

  • 〈現代社会学 9〉  49

    復帰支援も含まれている。復職判定は産業医が行うが、職場の上司や人事担当者は部下の出勤時刻

    や退社時刻、勤務時間数を調整したり、一人だけ残業しないことを引け目に感じさせないような職

    場の雰囲気づくりを産業医や EAカウンセラーと共に進めていく。

     さらに、ストレスマネジメントやアサーショントレーニング、リラクゼーション技法などの各種

    メンタルヘルス研修が地方自治体や公共団体、EAP会社によって各地で実施されている。その中

    でも上司・管理監督者向けのメンタルヘルス研修の需要が最も多いという(A氏)。そして、研修

    に参加し、うつ病やパニック障害の病状解説や、職場不適応の診断基準、ストレス診断票、リスク

    の高い部下の見分け方などを示され、「自分は精神科医でもないし、メンタルヘルスと言われても、

    一体何を覚えて、何をすればいいのか・・・」と戸惑う管理職も多い。既述の「3つの“い”」という

    指標は、戸惑う管理職に向けて産業医が編み出した語呂合わせのようなものであるが、それだけ職

    場のメンタルヘルス対策に腐心する管理職が多いということであろう。

     ここまで見てきたように、「ラインケア」において、上司や管理職は部下の「心の健康」を管理

    する役割を担う存在である。上司や管理監督者には、職場のストレッサーの特定とその除去、部下

    のストレス度やうつ病の兆候の把握、悩み相談に応じること、部下の職場復帰のサポート体制を整

    えることが求められている。いいかえれば、現代の上司や管理職が管理するのは、業務の采配や進

    行確認だけではない。部下のストレスやうつ病、メンタルヘルス全般について目を配り、管理する

    ことが求められているのである。上司や管理職、人事労務部はメンタルヘルスの知識や精神疾患に

    関する精神医学や心理学の語彙に精通しなくてはならない状況に置かれている。

    2-3. うつ病リスク・自殺リスクの管理者としての産業保健スタッフ

     「4つのケア」における「産業保健スタッフ等」とは、産業医、衛生管理者・衛生推進者・安全

    衛生推進者、事業場内の保健師・看護師、産業カウンセラー、臨床心理士、人事労務管理スタッフ、

    EAカウンセラーなどが該当する。これらの産業保健スタッフ等は、「事業場内産業保健スタッフ」

    または「事業場外産業保健スタッフ」として、教育研修、面接相談、職場復帰支援、人事労務管理

    スタッフとのネットワーク形成などを行なう。

     教育研修では、既述のとおり、労働者がセルフケアを有効に行えるようにするために「セルフケア」

    研修を行ない、メンタルヘルスケアの基礎知識やストレス予防の重要性、ストレスの気づき方とそ

    の対処方法、相談の効果、事業場内の相談室情報などを労働者に提供する。また、上司や管理監督

    者に対しても「ラインケア研修」を行ない、メンタルヘルスケアの基礎知識、ラインの役割、職場

    環境等の評価や改善の方法、部下からの相談への対応方法、事業場内産業保健スタッフ等との連携

    の仕方などについて講義を行なう。最近では、事業者や労働組合幹部を対象とした研修の需要も高

    くなっている。

     教育研修の実施のほか、職場環境の改善も産業保健スタッフの重要任務だとされている。少なく

    とも毎月1回の職場巡視による観察や、労働者やラインからの聞き取り調査、各種ストレス調査票

    による調査などによって、職場内のストレス要因を調査することが原則である。その際に用いられ

    る代表的な評価票として「仕事のストレス判定図」がある。これは、「職場や作業グループなどの

    集団を対象として目に見えない仕事上のストレス要因を評価し、それが労働者の健康にどの程度影

    響を与えているかを判定するために開発されたツール」(労働省2000,1頁)である。

     判定図では、健康との関係が深いとされるストレス要因――仕事の量的負担・負荷や責任、仕事

  • 50  〈現代社会学 9〉

    のコントロール(裁量権や自由度)、上司の支援、同僚の支援――を測定し、その結果に基づいて、

    職場のストレス要因の程度や健康問題の起きやすさの程度を判定する。健康に影響を及ぼす様々な

    要因は、総称して「健康リスク」と呼ばれる。たとえば、仕事量が多くて責任が重い一方、裁量性

    や自由度が低く、上司や同僚からの支援度も低い場合、ストレス度が最も高く、「健康リスク」も

    高いという判定が出る。

     産業保健スタッフは判定図によって、ストレスや「健康リスク」がどれくらい高いのかというこ

    とだけでなく、職場のどこにストレッサーやリスク・ファクターがあるのか、その特徴はどのよう

    なものかといったことにもおよその見当をつける。それと並行して、実際の職場巡視を通して労働

    者や管理監督者からの聞き取りを行うことにより、職場における「健康リスク」のファクターを絞っ

    ていき、必要に応じて過重労働の軽減や休憩時間の確保、作業レイアウトや勤務スケジュールの改

    善、職場の人間関係の円滑化などについて、管理監督者や事業主に助言を行なうこととなる。

     このようなストレス判定図と職場巡視による「健康リスク」のモニタリングに加え、産業医によ

    る面接相談が行われる。2006年の安全衛生法の改正によって、一月あたり100時間を超える時間外

    労働を行ない、疲労の蓄積が認められる労働者には、労働者の申し出により、医師による面接指導

    等が義務付けられた。産業医は、業務量の多い労働者と面接することによって「健康リスク」を管

    理し、うつ病の発症や過労自殺を予防する役割を担っている(保原 2006)。ただし、産業医の絶対

    数の不足などから EAカウンセラーが面接を行うこともあり、実際の業務分担は明確ではない(A

    氏)。

     さらに、産業医や EAカウンセラーはメンタルヘルス不全で休職した労働者の職場復帰支援も行

    う。復職判定には必ず産業医が関与するよう定められている。産業医は、当該の労働者が朝、起床

    し、パニックを起こさず通常の通勤時間帯に一人で安全に出勤ができるかどうか、事業場が設定し

    ている通常の勤務時間帯の労働が可能かどうかなどを確認し、個々の事例ごとに復帰の可否や復帰

    のための労働条件について事業主に意見を述べる。また、復職前のリハビリ出勤や復職後の慣らし

    出勤などのフォローアップも行なう。休職者の職場復帰には、職場の管理監督者の協力が必須であ

    るため、労働者本人との個別面接とは別に、管理監督者や人事担当者も交えた面談の場を設定して

    サポートにあたることになる(厚生労働省 2004a,同2004b, 過重労働対策等のための面接指導マニュアル・

    テキスト等作成委員会 , 2006a, 同2006b)。

     厚生労働省は、メンタルヘルスに関する相談には、来談者を「受容」「共感」「支持」を中心とし

    たカウンセリングレベルで事足りるとされるものと、うつ病や統合失調症、心身症などのように、

    精神医学的、心身医学的な対応や薬物投与が必要とされるものがあるとしている。また、事業場内

    の相談室よりも地域の医療機関や相談機関のほうが利用しやすいと考える労働者も少なくない。そ

    のため、事業場内産業保健スタッフと事業場外の専門職との協働を推進しようとしている(厚生労

    働省 2006c)。

     すなわち、産業保健スタッフには、複線的なメンタルヘルス相談サービスの仕組みを作ること、

    日ごろから「心の健康」ネットワークを構築し、様々な相談を内容に応じて適切なリソースにふる

    いわけるコーディネーターの役割が期待されている。精神科医の松崎によれば、「精神科産業医の

    仕事の中心は企業内で患者を治療することではない。あくまでも4つのケアを統括して管理し、全

    体を見渡してうまく機能させること」(松崎2007, 158頁)である。

     言いかえれば、「心の健康」対策において、労働者一人一人の生育歴や人格にまで踏み込むよう

  • 〈現代社会学 9〉  51

    な精神療法や精神分析による治療は行われていない。行われているのは治療ではなく管理、マネジ

    メントである④。治療の代わりに、労働者集団を恒常的にモニタリングし、自殺やうつ病の可能性

    が高い者・「健康リスク」が高い者をピックアップすること、ならびに職場の「健康リスク」を把

    握し、リスクの保有者をピックアップするためのネットワークの形成・維持こそが「心の健康」を

    とりまく専門家たちの主要な任務となっている。

    3. 労働問題の精神医療化

    3-1. 「心の健康」ネットワークの増殖

     前節で見た「セルフケア」と「ラインケア」、「事業場内産業保健スタッフによるケア」、「事業場

    外産業保健スタッフによるケア」は同時並行で進められる。いわば、「心の健康」対策は、労働者

    のメンタルヘルスをモニタリングする視線が多層的に重なる仕組みになっているのである。

     まず、産業保健スタッフは、研修を通して労働者や管理職を啓蒙し、「セルフケア」や「ライン

    ケア」に習熟するよう教育する。そのうえで、労働者が自発的行なう「セルフケア」をベースにし、

    上司や産業保健スタッフが日常的に労働者集団をモニタリングする。たとえば、上司や管理監督者

    による「いつもと違う部下」のチェック、産業医による職場巡視と職場のストレス判定、面接指導

    などである。これらのモニタリングによって、疲労の蓄積や心身の不調が見られる労働者、すなわ

    ち、自殺やうつ病発症のリスク・ファクターを抱えている労働者がピックアップされる。ピックアッ

    プされた労働者には、産業保健スタッフによる面接相談やストレスチェック、うつ病のリスク判定

    など、さらに踏み込んだ内容のリスク判定が行なわれる。

     たとえば、A氏の EAP会社では、相談室を訪れた従業員や、傷病休職中の従業員には初回面接

    で必ず BDIテスト(Beck Depression Inventory, べックのうつ評価尺度。うつ病尺度としてしばしば用い

    られる。)を実施し、うつ病リスクの高さを見定めるという。リスクが高い場合は、EAカウンセラー

    によってさらなる面接が行なわれ、自殺リスクが測定される。処方薬を溜め込んでいるなどのハイ

    リスク保有者の場合は、本人の了解を得て人事や上司に報告し、対応を協議するとのことであった(A氏)。

     また、薬物投与や長期的な経過観察などの「より専門的な治療」が必要との判断がなされる場合

    には、事業場外の精神科医や各種相談機関の出番である。メンタルヘルス不全によって休職となっ

    た後で職場に復帰する際も、産業医がうつ病や自殺のリスク・ファクターの有無を確認し、リスク

    の程度を計測し、問題ないと判断すれば復職を許可し、労働者を職場の中に再投入する(最終的に

    復職の可否を決定するのは事業主)。そして、復職後もまた、労働者のセルフケア、上司によるライン

    ケア・・・という形でリスクとケアの連鎖は続く。

     このように、自殺やうつ病のリスクマネジメントとケアの視線は、「心の健康」ネットワークを

    生成する。では、その特徴とはどのようなものか。まず特徴的なのは、「心の健康」ネットワーク

    における専門的介入のあり方が、専門家と個別の労働者、ケアする側とされる側の個別的対面関係

    における治療や矯正というよりも、労働者集団や職場環境を対象としたリスク・マネジメントであ

    るという点である。 

     R .カステルは、アメリカやフランスにおいて、精神医学やソーシャル・ワークの介入テクノロ

    ジーの基本的枠組みが危険からリスクへ、治療から予防へ、個人から人口へと移行していると指摘

  • 52  〈現代社会学 9〉

    している(Castel 1991)。この場合の「危険(dangerousness)」とは、個別具体的な個人において観

    察されるものである。そして、「危険」という枠組みにおいてなされる介入では、個人は援助する

    者とされる者、専門職とクライエントという直接的対面的関係の中で、治療や矯正、罰あるいはケ

    アの対象として存在する。一方、「リスク(risk)」枠組みにおける介入では、主体ないし具体的な

    個人という概念は解体され、それに代わってリスク・ファクターの組み合わせが置かれることにな

    る(ibid., p.281)。

     「リスク」枠組みにおける介入では、リスクの各ファクターや、異質なファクターとファクター

    との統計的相関関係、リスクの事前察知とリスク予防に焦点が絞られる(ibid., p.288)。それゆえ、「リ

    スク」枠組みにおける介入の本質的要素は、特定の個人の治療や矯正ではなく、一連のリスク要因

    との照合ができるような「人口フロー(flows of population)」(ibid., p.281)を絶えずモニタリングす

    ることによってハイリスク保有者を絞り込むことである。

     また、N.ローズも同種の議論として「危険性からリスクへの移行」を指摘している(Rose 2002)。

    イギリスにおけるメンタルヘルス関連の動向を見ると、1960年代半ばまで、「危険性(dangerousness)」

    という概念がごく少数の精神疾患罹患者や囚人といった「病理的な個人」の内面の気質に関連づけ

    られて理解されていた。しかし、70年~80年代を経て90年代に至るまでの間に、「危険性」は要素、

    状況、統計的可能性の問題へと変化し、「リスク(risk)」概念にとって代わられるようになる。そ

    して、精神医療の専門家たちの職務も治療的なもの(therapeutic)というよりも管理運営的なもの(administrative)へと変化した。管理運営的とは、この場合、リスクを抱えている人々の将来の行

    動をコントロールすることで地域社会の安全を保つという意味である。「リスクという概念および

    その技術と実践によって、ケアとコントロールが結びつく」(ibid. ,p.210-213)。

     カステルやローズを踏まえつつ「心の健康」ネットワークを観察すると、メンタルヘルスとは言

    うものの、個人の内面の奥深くに立ち入るような治療は行われず、内面というよりもむしろ外面的

    行為(例えば、既述の「眠い、食べられない、だるい」という「3つの“い”」など)をモニタリングする

    ことに主眼があることがわかる。そして、労働者個々人の内面の監視や統制というよりも、集団と

    しての労働者をモニタリングし、リスクの兆候をチェックするような「心の健康」ネットワークが

    増殖している。セルフケア、ラインケア、社内外の専門家によるケアにおいて、様々な方法でリス

    クの程度を計測し、リスクの種類を分類し、ハイリスク保有者をピックアップすることによって、

    リスクの具現化を回避することが試みられる。というのも、カステルによれば、リスク・マネジメ

    ントの第一のねらいは、具体的な危機的状況に立ち向かうことというよりも、危機的状況が生じる

    すべての可能性を予測することだからである(Castel 1991, p.288)。

    3-2. 労働条件と「心の健康」状態の関連づけ

     近年の「心の健康」ネットワークにおいて、どのような事柄が「心の健康」問題として扱われて

    いるのだろうか。言いかえれば、「心の健康」というブラックボックスには何が落とし込まれてい

    るのだろうか。「職業性ストレス簡易調査票」や「労働者の疲労蓄積自己診断チェックリスト」、「家

    族による労働者の疲労蓄積度チェックリスト」、「仕事のストレス判定図」など、種々の「心の健康」

    リスクを計測する尺度を検討すると、次のようなことが理解できる。

     これらのリスク尺度では、労働時間数、仕事の量、仕事の裁量性、責任の重さ、ノルマの厳しさ、

    納期のプレッシャー、勤務時間の不規則性、作業環境(照明、湿度、騒音)、肉体的負担、上司との

  • 〈現代社会学 9〉  53

    信頼関係、同僚からのサポート、働き甲斐などの質問項目が並んでいる。注目すべきは、これらの

    リスク計測尺度では、「ストレスチェック」や「疲労度チェック」の名目で、労働者や管理職に労

    働条件や職場環境について点検するようインストラクションがなされるという点である。「ストレ

    スチェック」や「疲労度チェック」という名称それ自体が、職場環境の問題や労働条件に関する問

    題をストレスの問題や「心の健康」問題として認識する思考の枠組みを労働者や管理職に与える。

     また、これらの尺度では、職場の問題を点検する質問群と、労働者が自らの心身の状態をふりか

    える質問項目がセットになっている。労働者は労働条件についてチェックを行なうと同時に、怒り

    やイライラ、不安や憂鬱、孤独感、頭痛や目の疲れ、首や肩の凝り、胃腸の状態、食欲の有無、不

    眠など、自身の心身状態についても自己点検する。その後、職場の問題をふりかえる質問項目と心

    身状態をふりかえる質問項目とを総合して、職場のストレス要因の程度や健康問題の起きやすさ(「健康リスク」)の程度を判定する。

     このようなチェックリストの構造は、労働条件や職場環境の問題と自分自身の心身の状態との間

    に強い関連があることを、労働者や管理職たちにごく自然に納得させる効果を持っているだろう。

    すなわち、「心の健康」という名のもとに、労働問題が精神医学やストレス心理学の領域で検討さ

    れるべき問題へと置き換えられていくのである。

    3-3. 自殺とうつ病のリスク・ファクターとしての労働問題

     「心の健康」対策で特徴的なものは、うつ病を自殺のリスク・ファクターとみなす思考法である。

    すなわち、自殺は、「覚悟の上の自殺」や「自由意志による死」ではなく、「避けられる死(avoidable

    death)」、適切な対応をすれば「予防可能な死因」(本橋・渡邉2005, 20頁)であるとみなされるようになっ

    ている。そして、うつ病は自殺を引き起こす最大のリスク・ファクターとみなされている。

     それゆえ、厚生労働省が主導する自殺予防対策では、うつ病対策に焦点が絞られている(同書 ,

    61頁)。これには、世界保健機関(WHO)によって、先進国でも開発途上国においても、自殺した

    人の8割以上が生前に精神障害に罹患しているというデータが示されたことが大きく影響してい

    る。WHOは、自殺の背景にはほとんど常にうつ病あるいはうつ状態が潜んでおり、「自殺それ自

    体は病気でもなければ、かならずしも病気の症状でもない。しかし、精神障害は自殺に密接に関連

    している主要な要因である」(WHO 2000)との調査データを示した。

     このWHOの報告は世界各国で翻訳されており、近年では自殺と精神障害の関連を強調する論調

    が世界的におなじみのものとなっている。そのため、厚生労働省も保健医療関係者や自治体職員に

    うつ病に関する普及啓発をはかり、自殺予防のためのうつ病予防システムづくりを進めている(厚

    生労働省地域におけるうつ対策検討会2004a, 2004b)。

     それでは、自殺を引き起こすリスク・ファクターであるところのうつ病を引き起こすリスク・ファ

    クターとは何か。労災請求事案を処理する際の判断指針である「職場における心理的負荷評価表」(厚

    生労働省1999a, 1999b)において、精神障害の発症や過労自殺を引き起こす「出来事の類型」として

    挙げられているのは次のようなものである。

     すなわち、事故や災害の体験、仕事の失敗や過重な責任の発生(達成困難なノルマ、納期、ペナル

    ティ、プロジェクト内での立場、仕事と能力のギャップ、顧客とのトラブル処理など)、仕事の量や質の変

    化(拘束時間の長時間化、交代制勤務、深夜勤務、仕事のペースの変化、職場の OA化、能力と経験のギャップ)、

    身分の変化(解雇、退職の強要、出向、左遷、差別的待遇)、役割や地位の変化(転勤、配置転換、昇格、

  • 54  〈現代社会学 9〉

    昇進、部下の増減)、対人関係のトラブル(セクシュアルハラスメント、上司・同僚・部下とのトラブル)、対人関係の変化(上司が代わった、信頼していた人の異動、昇進で先を越された、同僚の昇進・昇格)。  これらの出来事が生じた場合、労働者は「心理的負荷」(=精神的ストレス)を感じ、精神障害の発症リスクや自殺のリスクが高まるとされている。この場合、そもそもの発端である労働条件や職場環境の劣悪さは精神障害や自殺のリスク・ファクターに過ぎなくなる。自殺やうつ病をリスクという観点から捉える思考法は、労働条件や職場環境、家族関係や生活全体をリスクという観点から再考することを労働者や管理職、事業主に促す。そして、労働や職場にまつわる様々な問題は「自殺のリスク・ファクター」ないし「うつ病のリスク・ファクター」として位置づけられることになる。すなわち、労働をとりまく諸問題は従来きわめて社会的で政治的な問題として議論されてきたが、「心の健康」という枠組みやリスク思考の導入によって、自殺やうつ病のリスク・ファクターとして再定位されていくことになる【図1】。 この背景には、うつ病概念の曖昧さや包括性がある。精神科医の片田によれば、うつ病はそもそも、うつ病研究の世界的権威をもってしても「本当に満足できる定義がない」曖昧な概念であった。多様な症状の寄せ集めを包括して「うつ病」と診断しているのであり、その唯一の共通点は「抗うつ薬によって治る」ということのみであり、何を治療しているのかは当の精神科医にも不明であるという(片田2006, 38-47頁)。 また、うつ病概念の曖昧さに加えて、実際の産業保健の場面で医師が何をうつ病と診断しているのかも、非常に曖昧である。産業精神医学者の保坂は、うつ病が「ブラックボックス」(保坂2006, 5頁)

    であると指摘しているし、産業医として長年の臨床経験をもつ鈴木も、メンタルヘルスの実務においてうつ病やうつ状態、適応障害、自律神経失調症、アルコール依存症などの病名を正確に診断することはさほど重要ではないと述べている。たとえば、「いろいろな病気や病名の意味を知っても、仕事にはあまり役立ちません。要は能率が低下してミスが増え、最後は働けなくなる状態を、広い意味でうつ病(メンタル不全)と考えるほうが実用的」(鈴木2005a, 36-37頁)であるという。 ここで起こっていることは、過重労働や劣悪な作業環境、仕事の裁量性の低さ、責任の重さ、勤務形態の変化、転勤、昇進、出向・左遷、退職の強要、配置転換、セクハラ、パワハラ、同僚や部下とのトラブルといった労働に関するさまざまな問題がうつ病という「ブラックボックス」へと吸収されて一括して「心の健康」問題へと加工され、精神医学やストレス心理学的な介入が可能な問題となるということである。 「心の健康」対策において、労働条件や職場の人間関係などの労働者を取り巻く諸問題が精神医学やストレス心理学の語彙や枠組みによって解釈され、精神医学やストレス心理学的な介入の対象となる。それは、労働問題の「医療化(medicalization)」、とりわけ精神医療化である。P.コンラッドと J.W.シュナイダーによれば、医療化とは、「ある問題を医療的な観点から定義するということ、ある問題を医学用語で記述するということ、ある問題を理解するに際して医療的な枠組みを採用するということ、ある問題を扱うに際して医療的介入を使用すること」(Conrad & Schneider 1992=2003, 1頁)である。過重労働や長時間労働、劣悪な作業環境、パワーハラスメントなど、産業構造や社会状況の多様な要素が複雑に絡まり合って生じる労働問題が、リスクと「心の健康」という認識枠組みを与えられることによって精神医療的介入が可能な領域へと移行している。「心の健康」ネットワークが増殖する中で、「健康リスク」やストレスマネジメントの観点から労働問題が照射される時、それは社会的政治的問題というよりも個々人の健康を阻害するストレッサーとして姿を現すことになる。

  • 〈現代社会学 9〉  55

    【図1】

    4. 労働問題の精神医療化の陥穽、広がる「心の健康」市場

     「心の健康」現象は、労働組合の組織率の低下が顕著になり、雇用形態や職業観の多様化が進む

    中で生じている。現在は、ひとくちに労働者といっても一枚岩ではなく、労働者一般の利益を代弁

    するような主張や運動が展開されにくい状況にある。そうした中で、労働問題がストレスの問題や

    健康問題として個々人が個別に対応可能なものとして扱われるようになっている。

     過労自殺やうつ病に関する対策が整備され、「精神障害に係る労働災害」という形で補償・保障

    されるようになりつつある現状は、福祉国家的な観点から見れば、休職や自殺に追い込まれるリス

    クを皆で分担し、社会的に支えようとする動きとして一定の評価ができる。だがその一方、労働条

    件そのものの改善よりも、うつ病や自殺のリスク・マネジメントのほうに社会的関心や予算が集中

    すると、当の労働問題が不可視化される。そして、それが労働者の自己責任を強調すること、スト

    レスにうまく対処できない労働者が非難されることへと容易に転化することも否めない。

     こうした労働問題の精神医療化をめぐる陥穽について、どのように考えればよいのだろうか。単

    に医療化を指摘して終わりにしたり、社会的問題が個人の問題としてすり替えられるといった批判

    の定石で満足したりするのではなく、労働問題の医療化が抱える陥穽を超え出るような新たな社会

    的連帯の可能性はいかにして見出すことができるのかという観点からの考察が必要である。

     労働問題の医療化は「個人化」が現代社会を特徴づけるタームとなる中で生じている。だとすれ

    ば、問われるべきは、精神医学的知・ストレス心理学的知が自らの中に何を取り込み、何を取り込

    まなかったのかということではないだろうか。言いかえれば、「心の健康」現象において何が個人

    の問題とみなされ、何が社会の問題とみなされるのか。そして、社会学はそれにどう応え、「個人

    【自殺の

    リスク・ファクター】

    う つ

    自 殺

    【うつ病の

    リスク・ファクター】

    過重労働、作業環境、

    仕事の裁量性、責任、

    勤務形態の変化、転勤、

    昇進、出向・左遷、

    退職の強要、配置転換、

    セクハラ、パワハラ、

    同僚や部下とのトラブル

    など

    自殺予防のためのうつ病予防対策

    として精神医学的・心理学的介入

    が行なわれる

  • 56  〈現代社会学 9〉

    的な領域」と「社会的な領域」の区別や「個人と社会」の線引きをどのように設定するのかという

    点が考察されねばならない。

     厚生労働省が主導する「心の健康」対策はうつ病対策に特化する傾向にあるが、その支柱となる

    精神医学や公衆衛生学では、以前よりうつ病や自殺の発生について、個人の生物的要因、心理的要

    因に加えて、社会的環境要因を取り込んだ理論を組み立てている(本橋・渡邉2005, p.27-29, p.145)。

    また、現在のストレス・マネジメントの考え方におけるストレス概念も非常に射程が広いものであ

    り、生物・心理・社会的要因を総合的に把握するような議論が展開されている(山田 2007, 168-172頁)。

    これらの議論の中で示される「社会的なもの」と社会学者が考える「社会的なもの」との間に違い

    はあるのか否か、あるとすればどの点にあると言えるのか。これらの論点については別稿を用意し

    たい。

     また、リスクとは、誰にとっての、どのようなリスクなのかということも今後慎重に検討すべき

    課題である。EAPの開発設計者である D.マッシーの顧客名簿には、ファイザー、IBM、メリルリ

    ンチ、トヨタ自動車といった有名企業を始め、数多くの企業が名を連ねている。マッシーによれば、

    EAPは「福利厚生ではなく、投資として労働者のメンタルヘルスを位置づけ」(Masi, 2007)るもの

    である。この場合、リスクとはコストであり、リスク・マネジメントとはコストの抑制を意味する。

    つまり、仮に一人の労働者がうつ病で休職した場合、医療費や補償費用のほか、穴埋めにあたる人

    材の人件費や教育費、周囲の従業員のモラールの低下、風評被害などのコストがかかるとされ、そ

    のコストは事業主にとってはリスクとして認識される。それゆえ、EAP会社のセールストークでは、

    コスト=リスクをできるだけ抑制するために EAPを導入して労働者のメンタルヘルスに配慮する

    ことが、企業全体の生産性の向上と収益につながるという話が展開される。  

     P.コンラッドによれば、近年の医療化は市場の力に多大な影響を受けながら進んでいる(Conrad,

    2005)。明確に効率性と営利を掲げ、事業主を顧客としてメンタルヘルスサービスを商品として提

    供する EAP会社は日本でも急速に増加している。「心の健康」市場の拡大と玉虫色のリスク概念

    の用いられ方についてもリサーチを行い、先の論点とあわせて労働問題の精神医療化に関する考察

    を深めていきたい。

    【付記】

     本論は、平成19年度文部科学省科学研究費補助金・若手(B)(研究課題名;「個人化する社会におけ

    る新たなる社会的連帯の構築に関する研究――労働問題の心理学化」)の研究成果の一部である。

    【注】

    ① 本論で用いた一次資料は主として以下の場所で得ている。資料収集に協力してくださった関係者の皆

    様には感謝申し上げる。

      まず、2007年1月から2月にかけて広島県立総合精神保健福祉センターにおいて実施された「平成18

    年度こころの健康づくり関係職員研修」に同席させていただき、「心の健康」に関する国内外の動向や

    施策について資料収集を行った。本研修会の講師は、青森県で自殺予防に成果を挙げたことで全国的に

    有名な精神科医の渡邉直樹氏、広島地域の産業保健推進センター所長、精神保健福祉センター所長、い

  • 〈現代社会学 9〉  57

    のちの電話関係者などである。本研修会の対象は、市町の自殺対策担当課長及び担当者、保健所保健師、

    地域包括支援センター職員等である。「心の健康」に関する最新情報と現場の関係者の動向を把握する良

    い機会となった。

      また、2007年5月には、大阪で開催された「私のなかで今、生きているあなた」という過労自殺者の

    遺書の展覧会にて、主催者の方から「働く者のメンタルヘルス相談室」設置の経緯や相談内容の傾向な

    どについて話を聴くことができた。

      さらに、2007年8月には、日本で初めてEAP(従業員支援プログラム)を機能させたEAP会社E社東京

    本社にて幹部のA氏に1時間半程度のインタビューを行った。E社が提供しているメンタルヘルスサー

    ビスの内容、EAPの導入手順の実際、顧客である企業のニーズ、日本の EAPの現状と今後などについ

    て情報収集をしている。E社の幹部スタッフは、アメリカの大手通信機器企業M社勤務時代に社内 EAP

    を立ち上げて成功させ、その経験をもとに日本で独立開業している。

      また、2007年9月に東京で開催された『職場のメンタルヘルス対策講演会―日本におけるこれからの

    メンタルヘルス対策のあり方を考える―』および、『職場のメンタルヘルス対策講演会―メンタルヘル

    ス対策における事業場外資源の有効活用―』における基調講演、シンポジウム、配布資料、登壇者の発

    言なども本論では資料として用いている。講演とシンポジウムでは、EAPの開発設計担当者であり世界

    的権威でもあるD. マッシー教授、日本の精神科医、精神科産業医、中央労働災害防止協会メンタルヘル

    ス推進センター所長、EAP会社の役員、一部上場企業の人事労務部門幹部が一同に会し、官民問わず、

    日本の職場のメンタルヘルスの現状と今後の対策について議論がなされた。

    ② 現在の労働者のメンタルヘルス対策を観察するかぎり、治療方法として、あるいは思想や文化として

    精神分析が広まっているのではない。その点で、P.L. バーガー(Berger 1965)が精神分析の爆発的普及

    を社会構造との関連で考察するべきだという問題提起を行なった1960年代と現在は異なる位相にある。

    ③ アメリカの通信大手企業でEAP導入を成功させた日本人EAカウンセラーが、日本にそのノウハウを

    持ち帰り、設立した会社の幹部である。

    ④ 自殺予防に成果をあげている精神科医の本橋によれば、「心の健康」対策は、「ヘルスプロモーション(健

    康増進)」の時流に沿うものである。ヘルスプロモーションとは1980年代後半から世界的潮流となってい

    る脱疾病対策志向の健康政策であり、疾病中心の対策ではなく、疾病を取り囲む社会環境条件の整備を

    個人の努力と同程度に強調する考え方である。本橋によれば、疾病予防の主眼は健康管理であるが、ヘ

    ルスプロモーションのそれは健康増進である。そして、疾病予防では医師や保健師といった保健医療の

    専門家が健康管理を掌握するという発想にもとづいているのに対して、ヘルスプロモーションにおいて

    は、専門家が管理し指導するという発想は後退している。健康増進の対象となる人々(集団)は、主体的

    に自らの健康をコントロールする力を得ていくことが期待されており、国や自治体を含めた専門家集団

    は対象者を支援するにとどまるという(本橋・渡邉 2005, 25-27頁)。

    【引用文献】

    Berger, P. L.,1965, “Toward a Sociological Understanding of Psychoanalysis”, Social Research, 32(1): 26-41. Reprinted in: 1977, Facing up to Modernity, Excursions in Society, Politics, and Religion, New York: Basic Books, 23-34.

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  • 58  〈現代社会学 9〉

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    Conrad. P & J.W. Schneider J.W., 1992, Deviance and Medicalization: From Badness to Sickness, Temple

    University Press.(進藤雄三監訳 ,2003,『逸脱と医療化――悪から病へ』ミネルヴァ書房)

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    伊福達彦 , 2007, 「『うつ病治療支援ネットワーク』の設立準備(案)について」(「働く者のメンタルヘルス相談室」資料)

    市川佳居 ,2004,『従業員支援プログラム EAP導入の手順と運用』かんき出版

    ―― , 2007, 「日本の EAPの現状」『職場のメンタルヘルス対策講演会―日本におけるこれからのメンタル

    ヘルス対策のあり方を考える―』29-32頁 

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    チェックリスト(医師用)」

    ―― , 2006b, 「長時間労働者への面接指導 マニュアル(医師用)~チェックリストの使い方~」

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    ―― , 1999b,「精神障害による自殺の取り扱いについて」(平成11年9月14日 基発第545号通達)

    ―― , 2004a,「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」

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    ―― , 2006b, 「労働者の心の健康の保持増進のための指針について」(厚生労働省発表 平成18年3月31日)

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    ―― , 2007,「脳・心臓疾患及び精神障害等に係る労災補償状況(平成18年度)について」

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    Masi A.D., 2007, "Employee Assistance Programs(EAPs)" 『職場のメンタルヘルス対策講演会―日本に

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    中央労働災害防止協会編・厚生労働安全衛生部労働衛生課監修 , 2002,『厚生労働省指針に対応したメンタ

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    山田陽子 , 2007,『「心」をめぐる知のグローバル化と自律的個人像――「心」の聖化とマネジメント』学文

    渡邉直樹 , 2007,「地域における自殺予防対策の実際」(広島県「平成18年度こころの健康づくり関係職員研修」講義資料)

    WHO, 2000, Preventing Suicide: A Resource for General Physician

  • 60  〈現代社会学 9〉

        Toward a Sociological Understanding of       Worker’s Mental Health Strategy in Late Modern Society

    :Medicalization of Labor Problems

    Yoko YAMADA

      Since the 1990s in Japanese society, “Karo-Jisatsu”(suicide due to overwork)and

    Depression have become serious social problems and Mental health policies against these

    problems, so-called “Kokoro-no-Kenko”, have been receiving increasing attention.

      The purpose of this paper is to show that the aspects of medicalization of labor problems

    from viewpoint of sociology of knowledge. First of all, I will get an overview of the policies

    in Japan about worker’s mental health, “Kokoro-no-Kenko”.  Secondly, I would like to

    clarify the association of workers, managerial staff, mental health profession and preventive

    strategies of social administration which are currently being developed in Japanese worker’s

    mental health policies.  Finally, I examine the process which labor problems turn into mental

    health problems, and point out that the introducing risk thinking into mental health policies

    depoliticalize labor problems which argued in socio-political arena in the past.

    Keywords : Karo-Jisatsu(suicide due to overwork), risk, medicalization