持続可能性日本語教育-言語教育への生態学的アプ...

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日本言語文化研究会論集 2013 年第 9 号 【寄稿論文】 持続可能性日本語教育-言語教育への生態学的アプローチ -学士課程教育における意義- 岡崎 眸 1. はじめに アメリカに始まった大量生産・大量消費という社会のあり方が国際標準として地球の隅々 にまで広がろうとしている。ソ連邦の崩壊・解体により世界は一つの巨大市場となり、国境 を越えた人やモノの移動が激化している。多国籍化したグローバル企業は国家を超える存在 となっている。これが現在進行しているグローバル化である。 地球温暖化を食い止めるためには CO2 削減が必要であるとして総論では一致しても、各論 になると、削減はおろか実際の排出量は逆に増え続けている。自由競争を重んじ、国家によ る規制に反対するアメリカの力は大きく、そのアメリカが最大の CO2 排出国であるからであ る。また、今なお事故の原因特定もできず、収束できない福島第一原発事故を抱えながら、 日本では、原発輸出にトップセールスが行われている。他方、過酷事故のリスクがあっても、 また高レベル放射性廃棄物を 10 万年にわたって隔離しなければいけないという将来世代に 高負担を強いるものであることが分かっていても、経済成長のためのエネルギー源としての 原発を輸入しようとする途上国がある。 地下資源に依存し大量にエネルギーを消費する経済と社会のあり方を根底から変えない限 り地球も地球上の生き物も持続可能ではない。このことに総論では賛成できても、各論にな ると、経済成長が持ち出され、経済発展こそがすべての人の支持が得られる唯一の目標とな っている。マクロに見れば地球が持続不可能になるという問題があるとしても、ミクロに見 れば多くの人々がグローバル化の恩恵に浴しているのだろうか。 グローバル化の進行に伴い、人々の生活の仕方や価値観も急激に変化してきている。グロ ーバル化を所与のもの、変えられないものと見做し、それにどう対応するか、有効な対策を 追求する風潮が日本では強まっている。大学をはじめとする高等教育の場面でもそれは変わ らない。「急激な社会の変化に対応できる人材」、「国際競争に勝ち抜くグローバル人材」 の育成などが追求されるようになった。「急激な社会変化に対応できる力」とは、即ち、「国 際競争に勝ち抜く」力を指しており、グローバル化を国際競争の激化と捉えていることがわ かる。 競争こそが進歩の原動力であり人々の生活を改善するものだとする考え方がある。産業に も成長産業と成熟産業があり労働市場を流動化し成熟産業から成長産業への人の移動をスム ーズにすることが経済成長には不可欠だという主張がある。これらが正しいとすると、人は 経済成長を実現するための手段であり単なる駒だということになろう。経済成長が主であり

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日本言語文化研究会論集 2013年第 9号 【寄稿論文】

持続可能性日本語教育-言語教育への生態学的アプローチ

-学士課程教育における意義-

岡崎 眸

1. はじめに

アメリカに始まった大量生産・大量消費という社会のあり方が国際標準として地球の隅々

にまで広がろうとしている。ソ連邦の崩壊・解体により世界は一つの巨大市場となり、国境

を越えた人やモノの移動が激化している。多国籍化したグローバル企業は国家を超える存在

となっている。これが現在進行しているグローバル化である。

地球温暖化を食い止めるためには CO2削減が必要であるとして総論では一致しても、各論

になると、削減はおろか実際の排出量は逆に増え続けている。自由競争を重んじ、国家によ

る規制に反対するアメリカの力は大きく、そのアメリカが最大の CO2排出国であるからであ

る。また、今なお事故の原因特定もできず、収束できない福島第一原発事故を抱えながら、

日本では、原発輸出にトップセールスが行われている。他方、過酷事故のリスクがあっても、

また高レベル放射性廃棄物を 10 万年にわたって隔離しなければいけないという将来世代に

高負担を強いるものであることが分かっていても、経済成長のためのエネルギー源としての

原発を輸入しようとする途上国がある。

地下資源に依存し大量にエネルギーを消費する経済と社会のあり方を根底から変えない限

り地球も地球上の生き物も持続可能ではない。このことに総論では賛成できても、各論にな

ると、経済成長が持ち出され、経済発展こそがすべての人の支持が得られる唯一の目標とな

っている。マクロに見れば地球が持続不可能になるという問題があるとしても、ミクロに見

れば多くの人々がグローバル化の恩恵に浴しているのだろうか。

グローバル化の進行に伴い、人々の生活の仕方や価値観も急激に変化してきている。グロ

ーバル化を所与のもの、変えられないものと見做し、それにどう対応するか、有効な対策を

追求する風潮が日本では強まっている。大学をはじめとする高等教育の場面でもそれは変わ

らない。「急激な社会の変化に対応できる人材」、「国際競争に勝ち抜くグローバル人材」

の育成などが追求されるようになった。「急激な社会変化に対応できる力」とは、即ち、「国

際競争に勝ち抜く」力を指しており、グローバル化を国際競争の激化と捉えていることがわ

かる。

競争こそが進歩の原動力であり人々の生活を改善するものだとする考え方がある。産業に

も成長産業と成熟産業があり労働市場を流動化し成熟産業から成長産業への人の移動をスム

ーズにすることが経済成長には不可欠だという主張がある。これらが正しいとすると、人は

経済成長を実現するための手段であり単なる駒だということになろう。経済成長が主であり

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人間は従である。経済成長に貢献できない産業や人間は社会にとって不要となる。これは、

一人ひとりの人間から見れば、生涯に渡って一貫した存在として自己を捉えることが難しく

なり、アイデンティティは拡散し、自分の側から積極的に環境に働きかけるという能動性で

はなく、自分には何が期待されているかという受身的な姿勢をとらざるをえなくなるであろ

う。このようなグローバル化社会では人間が持続可能に生きることは難しいことが分かる。

人間だけでなく、自然も同じように経済成長の手段として捉えられている。経済を成長させ

るために自然を活用するといえば聞こえはよいが、実態は、経済成長のために自然があると

いう関係性の捉え方である。

以上のようなグローバル化の捉え方が形成されるに伴い、日本では、政治・経済の世界だ

けでなく教育の世界においても「国際標準」の導入が求められるようになった。従来専門教

育プロパーに偏っていた学士課程教育においては、「国際競争を勝ち抜くグローバル人材」の

養成が強調され、細分化された専門性の強化を前提とし、それを積極的に担う能力を持つ人

材へと自己を育成することを目指す教養教育が追求されるようになった。

本稿では、言語教育への生態学的アプローチとして、内容重視の日本語教育をさらに深化

させた持続可能性日本語教育を取り上げ、特に学士課程教育への導入の必要性を論じる。持

続可能性日本語教育とは、どうすれば持続可能に生きられるかを教室の仲間と共に追求する

言語教育である。具体的には、学ぶ主体である大学生が自己を起点にして、グローバルに広

がっている人、モノ、コトの間に繋がりを見出し、その繋がりを、自己を起点にして紡ぎか

えることで持続可能に生きる展望と力を育むことが目指される。以下では、自己を起点に持

続可能に生きる展望と力の育成を目指す言語教育が、第一に、なぜ学士課程において必要な

のか、第二に、なぜ他の人文系科目、例えば哲学、ではなく日本語教育という言語教育にお

いて追求されるのか、この二点を切り口にして、学士課程教育における持続可能性日本語教

育の意義を提示したい。

2. なぜ学士課程教育において必要なのか

なぜ、大学生に対して持続可能に生きる展望と力の育成が重視されなければならないのか。

それは、グローバル化し国際競争が激化する中で、若年層における「非正規雇用率 3割・早期

離職率 3 割・死亡率のトップが自殺」に端的に示されているように、グローバル化社会の矛

盾・しわ寄せが若年層に集中してきているにもかかわらず、大学教育を頂点とする日本の教

育体制が対応できていないと考えるからである1。以下に詳しく述べる。

2.1 グローバル化社会の矛盾が集中する若年層

グローバル化は川の流れに譬えられることが多い。川の水が流れるには高低差が必要であ

り、川の水は高いところから低いところに流れる。同じように、グローバル化も先進国と途

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上国(あるいは一国の中では都市と地方)のように「格差」があって初めて成立し、この格

差はグローバル化の進行によりますます拡大していく。人が自由意志で移動するという場合、

それは豊かさを求めての移動であり、「南から北」(あるいは地方から都市)への移動が基本

である。しかしその結果は、南北間の格差がさらに広がるだけでなく、南北其々の内部にお

いても格差は広がり富の偏在化が進む。「1%(の富裕層)対 99%(の貧困層)」に象徴され

るような社会の歪な構造化をうみだしている。

日本国内の若年層に目を転じると、グローバル化の進行は日本国内における雇用の流動化

を促し2、特に若者の雇用の不安定化に拍車がかかっている。若年層(15歳から 34歳)のう

ち 3割が非正規雇用、新規学卒者の 3割が 3年以内に早期離職をしている。さらにそれに追

い打ちをかけるように、国際競争力の強化を至上命題とする現政権は 2014年を目途に「限定

正社員」の法制化を打ち出した。「限定正社員」とは、「勤務地や仕事内容、労働時間が限定

された形で働く正社員」を指し、非正規社員の正社員化を促すのが狙いだとされている。と

ころが、勤務地や仕事内容が限定されている「限定正社員」は、例えば工場や店舗が閉鎖さ

れ当該の仕事がなくなった場合には直ちに解雇・失業してしまうことになる。マスコミなど

で喧伝されているような非正規社員の正社員化という労働者保護の立場からする改善策では

なく、グローバル企業の立場に立った解雇規制の自由化といわなければならない。したがっ

て、非正規社員の限定正社員化は、不安定な雇用という非正規の最大の問題点を正すもので

はなく、むしろ常に失業と隣り合わせという雇用のいっそうの不安定化をうみだすものだと

いえる。しかも一方における限定正社員の存在は、他方における正社員の労働条件改悪を引

き起こす。限定正社員ではなく正社員を選択したという、そのことで、仕事内容や勤務地の

選択において完全に「会社の言うがまま」にされ得るからである。正社員、限定正社員のど

ちらかを自由に選択でき、ライフワークバランスがとれるなどといわれても、実態は正社員

における労働強化であり限定正社員における雇用の不安定化であろう。

この「限定正社員」導入に向けた動きは 1985 年の男女雇用機会均等法制定時(1985 年成

立・1986年施行)の動きと重なる。男女差別撤廃という当時の世論に応えることを表向きの

理由にしながら、内実は女子の保護規定をなくし「女性の男性化」つまり、女性に対しても

24時間労働、転勤も自由に命じることをできるようにしたのである。つまり、「限定正社員」

も男女雇用機会均等法も人々の不満や抗議を逆手にとって、働くものがより働きにくい労働

環境へと労働条件を改悪していくものだといえる。このような雇用の不安定化そして労働強

化は、若年層においては、結婚できない、結婚しても家族が持てない人々を大量に生み出し、

少子化の一つの要因となっている。少子化は若者の意識の問題というよりは、グローバル化

を背景とする国際競争が日本社会の隅々にまで及んでいることの帰結であり、社会の構造上

の問題だといわなければならない。

このような日本社会の現状を追認し、グローバル化の中で激化する国際競争に勝ち残るこ

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とを前提として自分の人生設計を考えるのか、それとも、このような現状そのものを問い返

し現状を変えることを追求するのか、あるいは、その他の選択肢を考えるのか。大学生は、

自らの人生をどう設計するか、即ちグローバル化社会をどう生きるか、どう生きたいかを、

自らの持てるすべての知識や力を統合して考え、持続可能に生きていく展望と力をもって社

会に出て行くことが求められている。

2.2 大学教育:「国際競争に勝ち抜くグローバル人材」の養成

それでは、日本の大学教育はこうした若者の切実なニーズに応えているだろうか。18歳人

口の減少と国の「競争と選別」政策の下、国立大学の独立行政法人化と相まって大学教育の

改編は急激に進んできた。多くの大学が、文科省から出されるその時々のトピックを先取り

しながら目玉になると考えられる改革案を矢継ぎ早に提出して改革に熱心な大学としての自

己像を前面に押し出し、外部資金獲得に努めている。「運営交付金が減らされるからその分を

外部からとってこなければ大学教育は立ち行かなくなる」がいまや馴染みのフレーズであり

行動原理となった。

一方教育内容については、グローバル化の進行に伴う国際競争が激化する中で、社会の要

請に応え社会が必要とする人材の養成が大学教育の使命だとして、社会に出て直ぐ使える知

識や技術をもった即戦力の養成を重視する教育への転換が図られてきた。戦後の大学教育の

出発点においては、教養豊かな人間性を涵養しその上に専門性を備えた人材の養成が重視さ

れ、教養教育と専門教育が高等教育の二つの柱として位置づけられていた。しかし、1991年

の大学設置基準の大綱化以降、学士課程カリキュラムは専門科目中心に再編され、教養教育

は、実学志向の語学教育や情報教育に切り縮められていった。そして現在「国際競争に勝ち

抜くグローバル人材」がキーワードとされ、学士課程教育においては「新たな教養教育」の

創出が焦点化されている。この「新たな教養教育」については 2002年に出された中央教育審

議会の答申(一部引用)からその理念を窺うことができる3(下線は筆者による)。

新たに構築される教養教育は,学生に,グローバル化や科学技術の進展など社会の激しい変化に

対応し得る統合された知の基盤を与えるものでなければならない。各大学は,理系・文系,人文科

学,社会科学,自然科学といった従来の縦割りの学問分野による知識伝達型の教育や,専門教育へ

の単なる入門教育ではなく,専門分野の枠を超えて共通に求められる知識や思考法などの知的な技

法の獲得や,人間としての在り方や生き方に関する深い洞察,現実を正しく理解する力の涵養など,

新しい時代に求められる教養教育の制度設計に全力で取り組む必要がある。

この世代の青年が,部活動やサークル活動などを通じて協調性や指導力などの資質を磨くこと,

各種のメディアや情報を正しく用いて現実を理解する力を身に付けること,国内外でのボランティ

ア活動,インターンシップなどの職業体験,更には,留学や長期旅行などを通じて,自己と社会と

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のかかわりについて考えを深めることも教養を培う上で重要である。

文科省は、この「新たな教養教育」の理念に基づいたカリキュラム改編を様々な教育施策

を通じて迫ってきた。その結果、「新たな教養教育」は多くの大学でリベラルアーツなどの呼

称で具体的なカリキュラムとして実施されるようになった。その特徴は以下のようにまとめ

られる。

まず、発信・交渉能力、領域横断的な視野、変化に対応する判断力の育成が重視されてい

る。そして、教師から学生への一方向的な知識伝達型の授業ではなく、学生間のグループワ

ークによる問題発見・解決型の授業が基本とされ、討議やプレゼンテーション、フィールド ワ

ークなどが推奨されている。言い換えれば、「どのような能力を養成するか」に対しては、「発

信・交渉能力、領域横断的な視野、変化に対応する判断力」の養成が目指され、「どのように

養成するか」に対しては、「グループワークによる問題発見・解決型」による養成が提案され

ているといえる。従来の「細分化された専門知識を教師の一方向的な講義によって詰め込む」

といった知識伝達型の授業との違いが明確に打ち出されている。

しかしながら、この「新たな教養教育」で、前節で述べたような格差が拡大する一方のグ

ローバル化社会を持続可能に生きる展望と力を大学生は獲得できるだろうか。「国際競争に勝

ち抜くグローバル人材」の養成という文言自体にその限界が示されているとはいえないだろ

うか。そもそも「国際競争」とは何か。多国籍企業を中心とする大企業に系列化された企業

間競争である。なぜそれに勝ち抜く必要があるのか、それと自分が生きることがなぜ結びつ

くのか、が問われていない。「国際競争」をそのまま無条件に受け入れるのではなく、まずは、

この国際競争によって生み出されている現実と自分が生きることとの関連が問われなければ

いけないのではないだろうか。

また、競争には常に勝ち負けが伴う。「専門的な知識を深めながら、同時に領域横断的視野

をもって交渉力や問題解決能力を養成する」とされているが、この場合、一握りの勝者と大

勢の敗者の存在を前提にした上で、その勝者になるために「交渉力や問題解決能力を養成」

することになる。そこにはどのような姿勢で問題解決に臨むのかを問うことがない。つまり、

各大学で現在実施されている「新たな教養教育」では、「なぜ、何のために」の問いが抜け落

ちている。言い換えればグローバル化世界をどう認識するかについては授業では議論の対象

とされず、授業の外で各自の判断に任されている。先に見たように、「どんな力を養成するか」

及び「どのように養成するか」については、「発信・交渉能力、領域横断的な視野、変化に対

応する判断力」を「グループワークによる問題発見・解決型」によって養成するとして、明

示されている。しかし、「なぜ、何のために、例えば発信能力や判断力の養成が必要か」につ

いてはどうだろうか。答えは「グローバル化や科学技術の進展など社会の激しい変化に対応

し得る」ためとされている。しかし、これでは答えになっていない。グローバル化、科学技

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術の進展がなぜこの私にとって必要なのかが問われていないからである。即ち、グローバル

化や科学技術の進展の内実・実態を自分の生きることと繋げて考えることが課題とされてお

らず、グローバル化や科学技術の進展が所与のものとされ、前提にされている。

つまり、「新たな教養教育」は、「何を」、「どのように」が、自己とのつながりが見出せて

はじめて納得される「なぜ」から切り離された教育として特徴付けることができる。グロー

バル化、科学技術の進展の他にも、自然と共に生きる、家族や地域の人を大切にする生き方

をする、食の安全の実現に尽力する、など、同じように存在する様々の価値がある。それら

を前にして、自己の経験や受けてきた家庭教育、大事に考え続けていること、自分にとって

価値の感じられる他者の生き方などを手がかりとして、グローバル化、科学技術の進展とは

何であり、これらの手がかりからしてどのような価値があるといえるか、それは自分の生き

方として納得できる価値を実現する方向のものであるのか、さらに自己と同じように生きて

いる他の人々にとってどのような価値や生き方を実現する方向のものであるのか。これらの

問いを問うことが徹底して欠落している。したがって、この教育の成果として、専門的知識

や発信力・交渉力などのスキルを身につけることができても、それらは自分がどう生きるかと

いう自分の生き方とは結び付けられることがない。受講生である学生一人ひとりにおいて、

自分がグローバル化社会をどう認識し、その認識の下にどのように生きるかという自己にと

っての切実な問いと結びつけられないのである。「グローバル化をあたかも歴史の必然であ

り当然のこととして受け入れた上で、それにどう対処するか」という受身的な認識が前提に

なっている。

そうではなく、グローバル化が生みだしている現実が、自己を含めた一人ひとりにとって、

どのようなものであるか、その実態を能動的に認識することこそが必要であろう。言い換え

れば、グローバル化社会の矛盾を一手に引き受けさせられている大学生に対する教育として

は、大学生が、グローバル化を所与のものとして受身的に受け入れるといった認識ではなく、

自己を起点としてグローバル化の実態を捉え返していくという能動的認識を得ることがまず

達成されなければならない。

以上、グローバル化社会への対応として打ち出されている「新たな教養教育」においても、

受講生である大学生が、自分の生きることと繋げて専門化・多様化した知識や技術の実態を

吟味したり、あるいはなぜ、何のために、例えば異文化の人々と交渉するのか、言い換えれ

ば、グローバル化が前提とする「国際競争」を自分との繋がりで問い返し・考えることが少

なくとも教育の場においては課題とされていないことをみた。

社会に出ると直ちに直面する雇用の問題を出発点に人やモノ、コトの繋がりを丁寧に辿っ

ていくことを通じて、グローバル化社会が如何に人間(のみならず、本稿では触れないが自

然も言語も)を持続不可能なものにしているか、その構造が具体的に理解される。それは、

例えば自分が努力しないから正社員になれないのだなどという自己責任論から若者を解放し、

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自己に対する信頼感を回復させるものとなるであろう。このことは、言い換えれば、自己を

起点にして人やモノ、コトの繋がりを一つひとつ紡ぎかえていくことで、持続不可能な生き

方から持続可能な生き方へと反転させ得ることを示唆している。「新たな教養教育」を超える

学士課程教育が必要である理由はここにある。言語教育こそがそのような教育の場を提供で

きる。

3. なぜ言語教育か

以上のように、自己を起点として人やモノ、コトの繋がりを丁寧に辿ることで、グローバ

ル化世界に対する能動的認識を形つくり、どうすれば持続可能に生きられるかを一緒に考え

論じる社会的場が必要である。それは、教育の最終局面である学士課程教育においてとりわ

け重要である。言語教育は以下の形でそのような場を提供する。それは人の生きることを主

題とする哲学や人文系の領域であり、少なくとも言語あるいは言語教育ではないだろうとい

う疑問へのいわば答えを提供するものである。以下の議論では具体的には日本語教育を取り

上げる。

3.1 言語教育への生態学的アプローチ

(第二言語としての)日本語教育学は、80年代に急速に進んだ日本語学習者の増加や多様

化の中で、専門領域の一つとして構築された。そして、近年は、学習者、学習内容、学習方

法などのそれぞれにおいて、従来の枠を超えた拡張が顕著になってきている。学習者は今や

日本語非母語話者に限らない。例えば、留学生に加え日本人学生をも受講生とする「合同授

業」が日本事情科目などを中心に多くの大学で開講されている。また、地域日本語教育にお

いても、日本語母語話者と非母語話者の両者が参加する日本語教室の実践が積み重ねられて

きている4。学習内容も文型や語彙といった言語形式重視のものだけでなく、文化と結びつ

けたり、学習者個人に焦点を当てたりするなど内容重視のものへと拡張してきている。さら

に、学習方法もペアを含むグループワークなどが協働学習として多くの現場で採用され、多

様になっている。

このように日本語教育の拡張には目覚しいものがあるとはいえ、前節で検討した「新たな

教養教育」の場合と同様に、これまで自分がどう生きるかという問いが欠落していた点は否

めない。勉学目的で来日する留学生には私費の留学生が多く、来日したその日から主にファ

ストフード産業でのアルバイトに多くの時間がとられ、勉強どころではないという生活実態

がある。さらに、数的には多数を占める労働目的で来日する、例えば日系南米人などは仕事

を求めて各地を転転とし、貯金はおろか子どもの教育も満足にできず来日の目的が全く達成

できずに中途で帰国する人々も少なくない。さらに、日本語教育を担当する日本語教員も大

学などで安定した雇用を得ているごく一部を除くと、圧倒的多数の日本語教員は女性のパー

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ト労働であり、人として文化的な生活ができる労働条件が確立されているとはいえない。こ

のように、実際には日本語教育の現場は、学ぶものも教えるものも等しくグローバル化社会

の矛盾を背負っており、「今をどう生きるか」は双方にとって切実な問いである。そして、そ

のような問いを問うのは言語によって可能となる。だとするなら、新たな言語(ここでは日

本語)を学ぶ場において、自分たちが日々直面している現実を能動的に認識し理解し、その

現実を変えるべく行動するものとして、既に有している言語と統合して新たに学ぶ言語が用

いられことで、新たな言語の習得が促され、学ばれるような言語教育(ここでは日本語教育)

が望まれるのではないだろうか。

言語生態学は、構造言語学や機能主義言語学などが言語を人間活動から分離し、いわば孤

立した実体として捉えるのとは異なり、言語活動を人間活動と一体のものとして捉えようと

する言語学である。言語生態学では、人の生き方の良さと言語のあり方の良さを表裏一体の

関係・相互交渉関係にあるものとする。また、人の生き方、言語のあり方に不全があればそれ

を保全することも言語生態学の目的とする。言語教育への生態学的アプローチは、この言語

生態学に依拠し、「なぜ、何を、どのように」の三者を統合して構築されてきた5。このアプ

ローチでは、学習者の人間生態の保全と言語生態の保全は、別々にではなく一体のものとし

て追求される。人の生き方の良さと言語のあり方の良さはコインの裏表のような関係にある

と捉えるからである。先に見たように、若年層の人間生態はグローバル化社会の矛盾が集中

し、その結果として「不安定な雇用・できない結婚・もてない家族・高い自殺率」に象徴される

ように持続不可能になっている。同様に、言葉を使って考えたり、他者と対話をしたりしな

がら、自分の住む社会に対する能動的な認識を形作ることはできておらず、言葉が思考を深

め、人間関係を繋ぐことで人間生態を保全するという言語の機能を果たしているとは言えな

い。つまり、言語生態も保全されていない。人間生態をどのように持続可能なものに保全し

ていけばよいのか、という課題に取り組むことは、即ち、言葉を使って考え、他者と相互に

言葉を交わし、考えを新たにし、統合していくといった言語がよりよく機能する過程を作り

だすことである。

言語教育への生態学的アプローチでは、このような取り組みが、言語の教室でなされる。

したがって、学士課程教育における教養としての日本語教室でなされることは、受講生であ

る大学生の人間生態と一体となった言語生態の保全の追求である。受講生一人ひとりが、自

分はどう生きるかという問いをもち、その問いに対する答えを仲間と一緒に追求することが

教室でなされる全てである。次節で詳細を述べる。

3.2 どう生きるかを問い続けることを内容とする言語教育:持続可能性日本語教育

先に、学士課程教育における教養としての日本語教室で目指されることは、受講生である

大学生の人間生態と一体となった言語生態の保全に向けた追求だとした。これは、具体的に

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は、大学生が、どうすればグローバル化社会を持続可能に生きられるか、自己を起点として、

自問自答や他者とのやりとりを十分行うという言語活動を通して、グローバルに広がってい

る人、モノ、コトの繋がりを見出すことにより世界を能動的に認識し(=言語生態の保全)、

持続可能に生きる展望を自分なりに創出すること(=人間生態の保全)だと言い換えること

ができる。

学士課程のカリキュラムには専攻に応じて様々の専門科目がある。これらの専門科目にお

いては専門の知識を極めることが目指される。その際、各専門領域の知識は、いわば価値中

立的・客観的に学ばれることが多い。つまり、それらの知識と、自分がどう生きるかという問

いの統合については、教室の外で学生個々に委ねられている。人が生きることを対象とする

哲学であっても、教室で学んだ知識を自分の生きることにどう繋げるかについては、トピッ

ク的に扱われることはあっても、それが教室の主題とされることはなく、基本的に学生個々

人に委ねられていると思われる。

一方、言語教育ではどうだろうか。言語教育が扱う内容は、初級のごく最初の段階を除け

ば、極端に言えば、どんなことでも内容として取り上げることが可能である。特に内容重視

の言語教育では言語の教室で扱う内容を、受講生が履修している専門科目の内容を横断し統

合したものとすることが可能である。つまり、言語の教室は、アクロスカリキュラムのカナ

メとすることができる。どう世界を能動的に認識し、その認識に基づき、どう持続可能に生

きるかを考えるためには、ある特定の一つの学問領域の知識だけでは不十分であり、多くの

しかも深い知識が必要である。専門科目であれ教養科目であれ、各学問領域で学んだ深い知

識を有していることは、自分がどう生きるかを考えるに当たって吟味できる素材を豊富に持

っていることを意味する。現状の日本の大学教育の問題の一つは、学んだ専門知識が、どう

生きるかを考えるときに殆ど活用されていないことにある。言語の教室こそが、学んだ専門

知識を活用して、どう持続可能に生きるかを考える場になり得る。

どう持続可能に生きるかという課題に取り組むことを内容とし、そのために様々の専門領

域で学んだ知識を統合する日本語教育として「持続可能性日本語教育」は提起されてきた6。

持続可能性日本語教育では、単線的ではなく行きつ戻りつという螺旋的な過程を辿ることが

重視される。「単線的」というのは、例えばある成功者の例を聞いてそれをヒントにして自分

の生き方を決めるなどを指す7。この場合「決めた」と言っても、決めたそのときにはその

自覚はなく、長い時間が経過し、例えば 10年 20年経ってから、例えば先輩の話を聞いた時

を振り返って「その先輩の話で自分の人生は決まったのだ」というようなものだと考えられ

る。一方、「螺旋的」というのは、例えば先輩の話を聞くたびごとに、どう生きるかという問

いをどう世界を認識するかと繋げて自分に問い返すだけでなく、それらを他者との間で論じ

ることが教室活動として追求されることから、その答えは常に行きつ戻りつという螺旋的過

程を辿ることが不可避となるからである。

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「持続可能性日本語教育」の教室では、様々な領域の専門知識を統合し、自己を起点に次

に挙げる「四つの問い」をめぐって自問自答と他者との対話を繰り返しながら、持続可能に

生きる展望と力を形成していくことが期待されている。この螺旋的に進む過程で得られる知

識を岡崎(2011)8は生態学的リテラシーと呼び、持続可能性日本語教育では、その育成が人

の生存を支える言語の力として追求される。

① 世界はどうなっているか(世界認識)

② どう行動するか(行動基準)

③ 他者とどのような関係をもつか(人間関係)

④ 私とは何か(アイデンティティ)

グローバル化社会をどう生きるかは、グローバル化社会をどう認識するかということと表

裏の関係にある。そして、どう生きるかという問いの追求には、言語が根源的に関わってい

る、あるいは言語なしにはそうした追求は不可能である。どう生きるかという問いの追求は

思考の深化によってはじめて達成できるものであり、その思考の深化には言語が深く関わっ

ているからである。思考の深化は絶え間ない自己内対話と他者との対話、それらの相互交渉

を通して現実化する。そしてこれらの対話は、他者との対話は自明であろうが、自己内対話

であっても、言語が媒介して初めて可能になる。人は言語を用いて自分で問いを立てそれに

答えるという自己内対話を進める。この自己内対話は、他者によって書かれたものを読んだ

り、あるいは実際に他者と考えを交流したりすることによりフィードバックされ、さらに深

まっていく。この場合の「言語」は母語だけを指しているわけでない。母語以外に第二、第

三の言語を持つ人の場合にはそれらの総体を指している。このように断言する背後には、人

が複数の言語をもつとして(例えば、母語の日本語に加え英語、中国語なども使える場合)

その複数の言語は相互にネットワークをなし、深層においては共有基盤をもつと考えるから

である。第二言語教育としての日本語教育といっても、日本語をだけを取り出してその習得

の如何を論じるのではなく、学習者のもつ言語総体に着目し、その総体が思考の深化を促す

ように日本語という点から働きかけることが重要である。

4.おわりに

ルーマニア教師会主催の研修会で持続可能性日本語教育を提案した時に、フロアから次の

ようなコメントがあった。

どうすれば持続可能に生きられるかという問いはあまりにも個人的なものであり教室

で追求する問いにはならないのではないか。教室は公的なところである。むしろ教室

の外で親しい仲間と考えたり話し合ったりするのがよいのではないか。

「教室の外で仲間と一緒に追求すること」についてはもろ手を挙げて賛同したい。教室の

中だけでなく外でもどしどしやってもらいたいと思う。しかし、グローバル化が進行する現

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状では、実際問題として実現可能だろうか。競争が社会や教育の様々な場面に浸透し、互い

を競争相手とみるようになっている。同時に、親しい仲間の範囲が縮小し、似たもの同士の

同質グループになっている。そこでは、違う意見や立場の声は少なく、自分とは違う視点に

気づくことも違う世界を知ることも期待できにくくなっているのではないだろうか。

このコメントが提起しているより本質的な問題は、このコメントが教育とは何であるべき

かの根幹にかかわって前提にしていることにある。このコメントは次のような三つのことを

前提にしていると思われる。

1.公的な場には、私的なものを持ち込んではいけない。

2.自分がどう生きるかという問いは私的なものである。

3. 何のために(自分が)ある特定の生き方をするのかは問わない。

教育とは何か、どうあるべきか、様々の議論があろう。筆者の力量不足によりそれらの議

論に立ち入ることはできない。そのことを予め断った上で、基本的なところを抑えておきた

い。教育の中立が憲法でも謳われているように、教育は社会の単なる秩序維持装置であって

はならない。それまでの人々の叡智を伝えると同時に、不断に生起する諸問題の解決に向け

て挑戦する人材として人々を養成するという基本的に二つの機能が教育にはあると考える。

一方、叡智を伝えられ、問題解決に立ち向かう人材として養成される側に立った場合、人は

どのような動機付けで、過去の人々の叡智を学び、未来に向けて諸問題の解決に挑戦すると

いう課題を自らの課題として引き受けるのだろうか。思いつくものを挙げるだけでも、競争

心を煽られること、いい就職やいい人生という褒章を与えられること、生き物としての知的

好奇心を刺激されること等、様々のものが挙がってくる。そのような動機の中で、自分はど

う生きるか、どう生きたいか、なぜそのように生きたいか、を追求したいという動機を私的

なものとして排除できるだろうか。過去の叡智を様々の学問領域から学ぶ際、自分の生きる

こととつなげられた時にはじめてその叡智は自分にとって意味を成してくるのではないだろ

うか。同時に叡智を自分の生きることとつなげたときに、学んだ叡智は自分の生きる選択肢

を増やし豊かに支えるのではないだろうか。

以上は筆者の現時点での考察に過ぎず、この前提 1と前提 2が複合した「どう生きるかと

いう問いは私的なものであり教室に持ち込んではならず、教室の外で個人的に考えるべきも

のである」という暗黙の前提を捉え返し、議論を進めていくことは、日本語教育のみならず

教育全般を考えるに当たって重要な論点である。ユダヤ人大量虐殺の主犯として逮捕された

アイヒマンが「自分は単なる歯車であり、歯車としてその職責を果たしたに過ぎない」とい

う意味のことを語っていたことは、筆者の中学時代のことで既に 50年以上も前のことである

が、その言葉の衝撃は未だに記憶に鮮明に残っている。アイヒマンはユダヤ人大量虐殺を粛々

として進める上で極めて優秀な官吏であったという。人は、自らの担う仕事の意味を考える

(=同意する)ことなしに極めて適切に優秀に与えられた任務をこなせるものだということ

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をアイヒマンの例は示している。アイヒマンは自分の生きることと自分の仕事を厳密に分け

ていたのであろうか。類似の例を最近あるラジオ放送でも耳にした。レンズの設計技師に対

する民放のインタビュー番組での技師の発言である。レンズ設計の注文を受け設計するが、

自分が設計したレンズがどのように使われるかについては、軍事用にも使われることが多く

なったので、質問をしないという不文律が業界にはあるという趣旨のことを、実にさらりと

言い、それに対するインタビューアーの反応も特に驚いたようなものではなかった。専門的

で大金を稼げたレンズ設計が、パソコンの普及で技術が陳腐化し今では全く儲からない仕事

になったとか、そこを儲けるようにはどうするかなどに集中してインタビューは続いた。こ

のレンズ設計者もアナウンサーも優秀な仕事師であるのだろう。しかし、その仕事上のスキ

ルに熟練していく過程で、自分がどう生きるか、なぜそのように生きたいかを自分で丁寧に

考え、そしてその考えを他者との間で議論をし、さらに自分の生き方を吟味するということ

なしに、つまり、スキルを自分の生きることと切り離して獲得していったのではないだろう

か。

一方、前提 2の背後には前提 3が伏在している。「何のために」を問う以前にどう(時流に

乗ってうまく)生きるかが優先されている。アイヒマン(やレンズ設計者)はそれを忠実に

実現した。「どう生きるか」の問いが「なぜ、何のために」の問いと統合されない場合の一つ

の帰結がアイヒマン(やレンズ設計者)に如実に示されている。どう生きるかが私的なもの

とされ、さらにそれが「なぜ、何のために」の問いと結びつけられない現行の教育のあり方

を転換し、代わりに他者と共に考えたり、考えを交わし合ったりする言葉の営みが必要であ

る。それがアイヒマン(やレンズ設計者)を言葉の真の意味で克服する道である。持続可能

性日本語教育はまさにそれを目指す。「何のために」という問いを欠落させたままで「発信・

交渉能力、領域横断的な視野、変化に対応する判断力」を備えたグローバル人材養成に邁進

する大学教育に対する挑戦である。グローバル人材として自己を育成するのは何のためかを

自らに問うことがアイヒマン(やレンズ設計者)を超える道である。

先に見たように、日本語教育の領域の拡張は目覚しく、現在では非母語話者に加え母語話

者をも学習者とするものもみられるようになった。このような日本語教育の領域の拡張は「外

国人と日本人の共生」や「コミュニケーション能力の相互育成」といったコンセプトによっ

て牽引されてきた9。しかし、「外国人と日本人の共生」や「コミュニケーション能力の相互

育成」は「何を、どのように」の枠に留まるものであり、自戒をこめて「なぜ、何のために」

という点からの捉え返しが十分ではなかったことを改めて確認し、以下で検討したい。

なぜ、「外国人と日本人の共生」や「コミュニケーション能力の相互育成」が日本語教育で

重視されなければならないのか。そこで何が前提とされているからなのか。この前提の捉え

返しは、必然的に「自分はどう生きるか」という自分の生き方に対する問い返しを伴う。グ

ローバル化に伴う生活や価値観の急激な変化の下で、その変化に流されずに確固とした拠点

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を持って生きるためには、変化を所与のものと見做す圧倒的な声に右往左往することなく、

自分はどう生きるか、どう生きたいのか、なぜそう生きたいのか、という「自己を起点とす

る問い」をめぐる問答が不可欠である。グローバル化の下での持続可能な生き方を追求する

ことは、それを、世界はどうなっているかという自己の生きる世界の認識とつきあわせなが

ら、しかし、それに受身的ではなく、それを自己の側から捉え返し、世界とのつながりを紡

ぎ直すこと(=社会に規定されたように生きるのに対して、そうではなくむしろ社会を規定

し返しながら生きること)が、必要であったと言える。ほかならぬ自己の生き方の良さと、

他者の生き方の良さをどのように実現していくことで、自分の人生を持続可能なものとする

か、粘り強い追求が求められている。それが、持続可能性日本語教育である。

グローバル化の進展の中で、自給自足は壊れ、雇用による賃金で食糧を得て生活を維持す

るという生活様式が先進国から途上国へと拡大しいわば国際標準となりつつある。アメリカ

や日本などの先進国は自国経済の停滞を途上国への経済進出で乗り切ってきた。日本で言え

ば、韓国から台湾、インドネシアへ、そして中国へと進出先を拡大してきたが、近年はベト

ナムやバングラデシュへ、そして昨年は「最後のフロンティア」としてミャンマーを位置づ

け官民挙げて進出に躍起となっている。こうした中で、特に途上国出身の日本語学習者の場

合、近年グローバル人材として多国籍企業から高評価を得ることが多く、グローバル社会の

矛盾が自身に集中しているとは考えにくいかもしれない。先進国が直面している様々な問題

は未だ自分たちの問題としては存在しておらず、まずは経済成長の達成が必要だという考え

が強いかもしれない。

グローバル化の進展は否が応でも人々を結びつける。60億の人口を優に食べさせるだけの

食糧を生産しながら、公正な分配ができないばかりに、8 億もの人口が飢餓線上にある。一

方の暖衣飽食と他方における飢餓という極端な格差状態はグローバル化により一層拍車がか

かっている。

持続可能性日本語教育の教室では、生きるための基盤となる雇用や食糧の上で、自己が直

面していること、自己の身近な人々から、途上国、先進国の人々まで、個々の群像が直面し

ていることを「人はどう生きているかに焦点を当てて、世界はどうなっているか」を見る。

そして、そこで「どう自分は生きるか」、「なぜそう生きたいのか」、「どのように生きた

いのか」の問いに対する答えを追求していく。その中で「自己とは何か」に戻り、また再度、

世界はどうなっているかを問うというように螺旋的な過程を辿りながら、本論で取り上げた

四つの問いを仲間と共に考え答えていく。どうすればグローバル化社会を持続可能に生きら

れるか、自己を起点として、自問自答や他者とのやりとりを十分行うという言語活動を通し

て、グローバルに広がっている人、モノ、コトの繋がりを見出すことにより世界を能動的に

認識し(=言語生態の保全)、持続可能に生きる展望を自分なりに創出すること(=人間生態

の保全)が可能となる。

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1 グローバル化による矛盾が若年層に集中して発現していることは、EU諸国をはじめ経済発

展の著しいブラジルやトルコ、韓国などでも共通している。ただし、各国の教育事情につ

いては筆者は情報を持たない。したがって、日本の事例に限って論じる。

2 日経連(現日本経団連)が 1995 年に発表した「新時代の『日本的経営』」に遡ることがで

きる。そこでは、労働者は①長期蓄積能力活用型、②高度専門能力活用型、③雇用柔軟型

に分けられている。グローバル化を背景に多国籍企業化を図る大企業の意を受けて、労働

者派遣法の制定及びその製造業への適用拡大など派遣業種の原則自由化への改訂を始め

とした労働法制全般の規制が緩和され、非正規労働者が急速に増えることになった。

3 詳細は、以下の文部科学省のサイト参照されたい。

<http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/gijiroku/020102/020102a.htm >

4 詳細は野々口(2013)を参照されたい。

5 詳細は、岡崎敏雄(2011)を参照されたい。

6 詳細は、岡崎敏雄(2011)を参照されたい。

7 成功した先輩諸氏らの経験談を聞きそれに対する感想レポートを書いて提出するというオ

ムニバス形式の授業などが該当するであろう。そこでは、先輩の経験を糸口に、自己を起

点にして、世界をどう捉えどう生きるかを自問自答し、仲間との対話によりさらに考えを

深めるといった過程が重視されておらず、学生の活動は先輩の経験の傾聴とレポートを書

くことの二つに限定されていることに注目したい。

8 詳細は、岡崎敏雄(2011)を参照されたい。

9 例えば、『共生日本語教育学』を参照されたい。

付記

参考のために、都内某大学で、「言語・グローバル化社会を生きる」という科目名で文理融

合リベラルアーツ科目の一つとして開講された授業のシラバスを示す。教科書は、参考文献

(8)(岡崎敏雄(2009)『言語生態学と言語教育』凡人社)を使用した。

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学部生対象教養科目のシラバス

1 オリエンテーション/教員・OGの語りからグローバル時代を考える

2 グローバル時代に働くとは(1)20代編

3 グローバル時代に働くとは(2)30代編

4 グローバリゼーションとは何か(1)貿易・資本・金融の自由化がもたらしたもの

5 グローバリゼーションとは何か(2)自分にとっての世界とは何か

6 グローバル時代を生きる私たち

7 グローバル時代を生きる私たちの食糧(1)

8 グローバル時代を生きる私たちの食糧(2)

9 グローバリゼーションとは何か(3)食糧をめぐる貧困と生態系への影響

10 「雇用-食糧」の連環から見えてくるもの(1)

11 「雇用-食糧」の連環から見えてくるもの(2)

12 「雇用-食糧」の連環から見えてくるもの(3)

13 持続可能な生き方の追及(1)私はどう生きていくか

14 持続可能な生き方の追及(2)私はどう生きていくか

雇 用

グローバル化の構造

食糧

自分を起点に人・モノ・コトのつながり

持続的に生きる展望

参考文献

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(3)岡崎眸(監修) (2007)『共生日本語教育学』雄松堂

(4)岡崎敏雄(2011)「言語生態学と日本語教育の課題-中国語母語話者への日本語教育研究

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(5)岡崎敏雄(2010)「持続可能性日本語教育の学習のデザイン-雇用-食糧軸のライフライ

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(6)岡崎敏雄(2010)「生態学的意味の生成-第三段階の生成-」『日本語と日本文学』50、筑

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(7)岡崎敏雄(2010)「持続可能性教育としての日本語教育の学習のデザイン-教室活動・シ

ラバスデザイン・教師の役割-」『筑波大学地域研究』31、筑波大学、1-24.

(8)岡崎敏雄(2009)『言語生態学と言語教育』凡人社

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(9)小田珠生(2010)「言語少数派の子どもに対する父母と協働の持続型ケアモデルに基づ

く支援授業の可能性-言語生態学の視点から-」平成 22年度お茶の水女子大学大学院

博士論文(未公刊)

(10)齋瀟瀟(2013)「中国人初級日本語学習者に対する持続可能性読解教育の提案」お茶の

水女子大学修士論文(未公刊)

(11)佐藤真紀(2010)「学校環境における言語少数派の子どもの言語生態保全-『教科・母

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(12)秦松梅(2012)「中国人学習者は事前課題と日本語母語話者の参加を取り入れたグルー

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研究会、21-30.

(13)鈴木(清水)寿子(2010)「持続可能性教育としての共生日本語教育実習の可能性-言

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刊)

(14)鈴木寿子(2012)「留学生教育としての持続可能性日本語教育の活動展開:国内の大学

における実践例」『高等教育と学生支援:お茶の水女子大学教育機構紀要』2、1-13.

(15)鈴木寿子・トンプソン(平野)美恵子・房賢嬉・張瑜珊・劉娜(2012)「言語生態学に

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(16)トンプソン(平野)美恵子・ 鈴木寿子・小田珠生・ 佐藤真紀・張瑜珊・房賢嬉・半

原芳子・三輪充子・岡崎眸(2012)「グローバル化社会をいかに生きるかを考えること

ばの教室の試み-受講生による認識に着目して-」2012年度日本語教育学会秋季大会

(17)人間生態学としての言語生態学研究会(2013)『グローバル化社会を生きるための力を

育成する授業-持続可能性日本語教育に基づいた授業デザインと成果-』『共生社会の

構築に資する持続可能性教育としての日本語教師養成プログラムの開発』平成 23~25

年度科学研究費補助金研究 若手研究(B)研究代表者 鈴木寿子, 『学習者とともに学

ぶ持続可能性日本語教育教員養成プログラムの構築』平成 24~26年度科学研究費補助

金研究 若手研究(B)研究代表者 トンプソン美恵子(平野美恵子)

(18)野々口ちとせ(2013)「対話における言語の機能と発達-地域日本語教室で日本人と外

国人がともに言葉を学ぶこと-」平成 24年度お茶の水女子大学大学院博士論文(未公

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刊)

(19)半原芳子(2008)「対話的問題提起学習」が母語話者参加者の積極的共生態度に及ぼす

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(20)半原芳子・佐藤真紀・三輪充子(2012)「持続可能な多言語多文化共生社会を築く『共

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に着目して-」『多言語多文化-実践と研究』4、166-193.

(21)平野美恵子(2011)「共生日本語教育実習における実習生間の言語的共生化過程の研究」

平成 22年度お茶の水女子大学大学院博士論文(未公刊)

(22)楊峻(2010)『大学の日本語授業におけるグループワークのデザイン-言語生態学を理

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(23)劉娜(2011)「中国の大学における持続可能性日本語作文教育の可能性-学習者の意識

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(24)劉娜(2011)「中国における持続可能性日本語作文教育の試み-学習者が考えを文章に

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