こども文化学科紀要(5): 1-19 issue date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream...

20
Title 教員生活を振り返って : 何が私を支えたのか、教員とし て生きるエネルギー Author(s) 川井, 勇 Citation こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10 URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/23926 Rights 沖縄大学人文学部こども文化学科

Upload: others

Post on 05-Jul-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

Title 教員生活を振り返って : 何が私を支えたのか、教員として生きるエネルギー

Author(s) 川井, 勇

Citation こども文化学科紀要(5): 1-19

Issue Date 2018-10

URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/23926

Rights 沖縄大学人文学部こども文化学科

Page 2: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

【特別企画】

川井勇教授 最終講義

「教員生活を振り返って-何が私を支えたのか、教員として生きるエネルギー」

(2018 年 3 月 10 日)

川井 勇

こんにちは。今日はお忙しい中、大勢の皆様にお集まりいただき、本当にありがとうご

ざいます。

また、仲地学長のほうから身に余るお言葉を頂きました。ありがとうございます。

これから 1時間ほどお話をさせていただきますが、私、今日はたいへん緊張しておりま

す。一応レジュメを作ってきたんですが、ここでは、こういったこと、あそこではあーゆ

うことと書き込みをしているうちにこんなに真っ赤かになってしまいました。あまり話が

長くなりすぎないように、進めていきたいと思いますが約 1時間、お付き合いのほどよろ

しくお願いいたします。

レジュメをご覧いただきながら、ちょっと写真を用意してございますので、写真で補足

していく形で進めていきたいと思います。

「教員生活を振り返って」を主題とし、「何が私を支えたのか、教員として生きるエネル

ギー」を副題にお話していきます。

レジュメに私の教員生活について羅列してみました。ちょっとユニークな教員生活を送

ってまいりましてですね、全部合わせますと、43 年になります。一つ目の東京時代は、私

立の目黒高校という高校の教員でした。社会科の教員でクラスをもち、公務分掌は教務、

あと野球部も顧問をしていました。まあ野球部はぼくにとってもう一つのクラスのような

もので、クラスを二つ持たせてもらっていたような感じであります。

大学院を卒業してから、高校の社会科教員をやりながら、夜は秋草保育専門学院という

学校で社会福祉学の非常勤講師などもしていました。その専門学校は現在は短大になって

います。

そのあと沖縄へ移り住みます。後ほどなんで沖縄なのかということもちょっとお話でき

ればと思いますけれども、沖縄に参りまして、定職がありませんのでレジュメに書いてあ

りますようにいろんな学校でお世話になりました。なんと 20 年間も非常勤講師生活をして

おりました。よく東京へ帰らなかったなと思います。

ただ、もう東京に帰ろうかなっていう気持ちにはなりませんでした。東京を出るときに、

ぼくは沖縄で生きようと決めてきましたので、いつの間にか 20 年経っていたのです。なか

なか定職にもどるきっかけが持てないという状態でしたけれど、幸いなことに 1999 年 4

月、50 歳で沖縄大学に採用になりました。沖縄大学の専任教員として 19 年間勤めさせて

頂きました。8年間は法経学科に、11 年間こども文化学科、今年こども文化学科の 8期生

- 1 -

Page 3: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

が卒業しますので、4年・4年の 2周り付き合わせてもらったという形になります。いい学

科になってきましたね。引退してもぼくの住む佐敷から応援を送り続けます。

次に、ぼくの生まれ育ちについてです。ぼくは、東京で生まれ、東京で育ち、さらに東

京で大学を出て、東京で教員になりました。私の生い立ちについて少しお話してみようと

思います。

ぼくは 1947 年生まれで、東京の江東区の高橋(タカバシ)という所で生まれました。生

まれて数か月で深川という所に引っ越しまして、深川で中学一年生まで過ごしました。深

川は思い出深い土地です。

用意した写真の最初が女性の写真です。ぼくの母、川井蘭子という人なのですが、この

人の影響が非常に大きかった。

ぼくの母の写真を見たことがある人もいるかと思いますけれど

も、この写真は多分初めてでしょう。先日写真を探していました

ら何枚か出てきました。この写真は大体 21、2 歳くらいでしょう

か。モガ(モダンガール)という言葉があったそうですが、時代

の最先端のファッションのつもりだったのでしょうね。もっと派

手な写真もあるのですが、ただもんじゃないですよね。

子どもとしていろいろ話を聞きながら育つわけで、母のことを

わかったつもりでいたのですが、でも実際にはわかっていなかっ

たことってあるんですね。身近な親子関係であるのに、わかって

なかった事が沢山あったなと最近つくづく感じています。母はもう亡くなっていますので、

調べるのが難しいですけれども、20 歳ちょっと過ぎくらいにこういう感じだったのですね。

ちょっとおてんばな感じですね。

彼女は 2 つ大きな体験をしています。一つは関東大震災。1923(大正 12)年 9 月 1 日、

神奈川、東京、茨城、千葉、静岡など広範囲にわたりマグニチュード 7.9 の地震が起こり、

その地震で 10 万人以上が亡くなったのですね。その時 4歳でしたが、親を失いました。残

されたのは、兄一人だけ。親せきの中で育てられたようです。母蘭子は、親を失い、大人

になるまで自分がどのように育ったか、ほとんど話しませんでした。

蘭子の母親の後ろ姿だけ写っている写真はかつて見たことがあるのですが、日本髪を結

っていました。ぼくにとっておばあちゃんの顔は全くわかりません。おじ

いちゃんはいないだろうと思います。

彼女にとって二つ目の大きな体験は、戦争です。第二次世界大戦に巻き

込まれ、東京大空襲を体験します。

この写真は蘭子の彼氏であり、ぼくの兄の父親です。戦争がはじまった

ころだと思いますが、日本大学の工学部の学生だったそうで、愛し合い、

二人は一緒に住むようになったのです。母はいわゆる「震災孤児」だった

- 2 -

Page 4: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

ので、相手方の親から結婚が認められない中での同棲でした。

兄が生まれて 3歳くらいでしょうか、彼は戦争に行きます。学徒招集されたのか、自分

で志願したのか不明ですが、ぼくは、「学徒出陣」と思っています。結局戻ってきませんで

した。戦死です。未婚の母として、子どもを育てながら、戦争のさなか生きていくことに

なりました。

右の写真で母の背中に背負われているのはぼくです。たぶ

んこれは 1948 年の写真で、生まれて 10 か月か 11 か月くらい

だと思います。既に戦後ですが、戦争が終わって間もないと

いう雰囲気が写りこんでいます。先ほどの蘭子さんの最初の

写真と比べると大きな差がありますね。すっかり母親です。

ここはぼくが育った深川ですが、背景に川が写っています。

ぼくの家は、川に面したところに建っていて、小舟でいろい

ろな生活雑貨とか売りに来るようなこともありました。窓からひもをつけたざるをおろし

て、売り買いしていました。隅田川の支流です。小学校 6 年生ごろ川につながれている船

で遊んでいて、川に落ちて溺れそうになったこともあります。

隅田川周辺は東京大空襲の際被害が多かったところですが、焼夷弾の炎から逃れるため

に多くの人が川に飛び込んで亡くなったそうです。東京大空襲は、まさに 1945 年の今日、

3月 10 日でした。B29 約 300 機の空襲を受け、2,3時間のうちに 10 万人以上が亡くな

りました。

ぼくは沖縄へ来るときには、沖縄のことばかりが頭の中に広がっていて、東京に対する

思いや認識はあまりなかった。東京なんて嫌いだと思っていたので。沖縄に生きて、歳を

とるにしたがい、東京でもとんでもないことがあったと認識できるようになってきた。関

東大震災にしても、東京大空襲にしても、10万人亡くなるということは大変なことなん

ですよね。そういうことがわかるようになってきた。人間って何かに夢中になっていると

きは、結構自分の足元がよく見えていなかったりするもんです。

蘭子さんは関東大震災で親を失い、太平洋戦争で夫を失いますが、東京大空襲の中を小

さな子どもを抱えて生き延びるのですね。そのような時、職場である女学校に駐屯してい

た兵隊と知り合い、戦後になってから結婚することになったよう

です。

この写真は 1954 年の 1月頃、ぼくがもう少しで小学生という頃

の家族写真です。ぼくの兄と弟も写っています。弟は 50 歳くらい

で亡くなりましたが、若い時にはフリーのカメラマンでした。27

歳の時に脳腫瘍で倒れ、2回頭を開ける手術したのです。しかし

2 回目の手術で片目の視力を失い、半身麻痺での生活になりまし

た。カメラマンとして生きることはできず、つらい 20 年だったと

思います。一緒に沖縄を旅したこともありますが、海の写真が専

- 3 -

Page 5: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

門で、いい写真を撮る面白い人でした。

このような時代とこの家庭に育ったことが、ぼくにとっては意味があったのだと思いま

す。父と母は性格も合わず、よく激しい夫婦喧嘩をしていました。子どもにとってはこわ

いことですね。幼児期にふと目を覚ますと、母が窓際に座って、川を見つめながら泣いて

いたりするんです。悲しいことがあるたびに、昔の彼との生活を思い出したりしていたの

でしょうか、ずいぶん暗い表情している姿をぼくは幼いころよく目にしました。戦争は、

人の幸せを壊し、人生を狂わせてしまいますね。母の哀しみを感じながらぼくは育ったよ

うに思います。

そのせいかおとなしい性格で育ち、母を悲しませたり、母を困らせることをしないよう

に育って行った。だからそういう幼少期に、「やっぱり戦争ってあかん」という意識につな

がるなものが入ってきたんじゃないでしょうか。

次に、なんで沖縄に、なんで教育学を、なんで教員にということに

触れてみたいと思います。これは若かりし頃のぼくです。たぶん大学

院生のころだと思います。ちょっと、ヤクザっぽいというか、これで

サングラスかけて歩いてましたので、怖がられたりしました。その前、

学部の頃は逆に肩まである長髪の頃もありました。大学に、大学院も

含めて8年いましたが、これは終わりのほうの顔ですね。

どういう大学生活をしたかということについてですが、手元に資料(省略)をつけてあ

りますので、ご覧ください。資料には新聞資料とぼくの通知表を入れてあります。恥ずか

しいですが小学校2年生のときの通知表の所見欄というか、学校から家庭への連絡事項を

記述する欄を見ていただくと、「男性としては柔弱過ぎる、おとなしいのも度を過ぎると社

会生活で蹴落とされる、家庭でもよくその点に、留意されたい。」と記入されています。

ひどいですよね、こども文化学科は先生になる人が多いわけですが、こんな書き方しな

いでくださいね。もうどれだけ、母が心配したか、どれだけぼくがびくびくすることにな

ったか。教室の中で発言できないおとなしいぼくを、母は本当に心配してくれていたと思

います。なんとなく教室は安心できる居場所ではなかったし、ぼくの方へあまり先生の視

線も向かなかった。先生は他の子を見てるなって、子どもなりに感じるんですね。いやい

やながら学校へ通っていたように思います。

学校になじめないながらも高校生となり、大学受験を迎えたんですが、現役で落ち、一

浪して早稲田の文学部に滑り込んだんですね。ギリギリ滑り込みセーフという感じで入学

しました。ぼくが早稲田に入ったのは 1967 年ですが、まず、4月なので学連運動をやって

る学生たちがビラを持って、ぼくたち必修クラス(英語)に訪問してきます。学生運動の

活動家の中には、結構年齢がいった人たちもいて、20 代後半でちょっと白髪混じりの人も

いました。彼らはチラシを配りながら、熱烈に「沖縄」について語るんですね。4月 28 日

は沖縄デーだと言い、その沖縄デーに向けて君たちは沖縄をどうとらえ、どう行動するの

- 4 -

Page 6: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

か、クラスで討論してくれと訴えるのです。そして「クラス決議を上げよ」と。ぼくは高

校・浪人生活を通して、日本史は得意だという意識があった。日本史の成績が良かったん

ですね。高校でも、日本史の授業の時にはよく受け答えが出来たし、ほめられるとうれし

いから、また勉強していって授業で答えたりするわけですね。日本史の先生に、「川井お前、

大学どうすんだ」って言われた時、「歴史をやりたいと思います」なんて答えてました。日

本史の先生に大変喜んで下さった。だから自分でも日本史が得意で、早稲田に入ったら、

日本史を専攻したいと思っていたんです。でも、入ったらすぐ「沖縄」を突き付けられた。

4 月 28 日は「沖縄デー」と言われていて、1952 年のサンフランシスコ講和条約が発効し

た日なんです。数年前、安倍さんの提案で4月28日に主権回復記念式典が行われましたが、

1952 年の沖縄にとっては大変な日で、日本が独立する代わりに、沖縄は無期限に米軍占領

下におかれたわけですから、まさに「屈辱の日」だったんですね。やがて沖縄の日本復帰

を勝ち取るための行動日として「沖縄デー」と言われるようになりました。

残念ながら、ぼくたちは学生活動家の問題提起に答えられなかったし、ぼくはぜんぜん

考える糸口さえ見つからなかった。歴史が得意だったはずなのに。歴史的現実について全

く分からない。クラス討論を深めていかねばならないので、新入生4人ぐらいで友達の下

宿へ泊まり込んで、初めてお酒を飲みながら議論しました。19 歳でした。ウイスキー1本

を空けまして、翌日はこれまた初めて 2日酔いです。その時に、ぼくはあらためて教育に

対する疑念を持ったんです。ぼくは歴史が得意だと思っていたのに、歴史的現実がわから

ないし、考える力が自分の中で動かないということに対して。教育を通して、本当に力が

育ってきているのか。受験の中での教科書中心、暗記中心で獲得してきた知識は、まさに

潮が引くように忘れていきました。教育ってなんだろう、にわかに関心を持つようになっ

たのでした。当時、早稲田の文学部は 3年進級時に専門を決めるんです。1年、2年は教養

の勉強をさせて、自分の関心を振り返る時間をもたせるのです。そういったわけで 3年に

あがる時に、ぼくは教育学専攻へ進みました。

つまりぼくは教師になりたいということで教育学専攻に入ったわけではなく、教育がど

のように機能しているのか、教育ってなんだなど考えるために教育学の勉強を始めたんで

す。教育学に入ってまずやったことは先輩たちとルソーを読むことでした。当時大学は全

国的にバリケード封鎖されて、機能マヒしていたので、バリケードの中で先輩たちと『エ

ミール』の輪読を始めたのでした。意味がよく取れないところは、和訳本を3種類くらい

持ってきて読み合わせて考えたり、フランス語を履修している学生もいたので、フランス

語や英語の『エミール』をもってきて、解読していったり。バリケードの中の自主講座の

ようですが、これが結構おもしろかった。

一方沖縄に関する刺激も沢山ありました。先ほどご覧いただいた資料(省略)の中に、

ぼくが 2 年生の時(1968 年)の 8 月 16 日の朝日新聞があります。この新聞はまだ大事に

保管してあるんですが、ぼくの中に深く沖縄が入ってくるきっかけとなった出来事がのっ

ています。記事には、「いまだ残る戦争の傷跡」とみだしがつけられて、8 月 15 日に自殺

- 5 -

Page 7: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

して沖縄出身の盲目の留学生の事件を伝えていました。当時の大学には、闘争のスローガ

ンや主張が大書された大きな立て看板が沢山立てられていて、ぼくたちは何十枚もの立て

看板をぬうようにして校舎へ入っていく毎日でした。ほとんどの立て看板には「沖縄」が

出てくるんです。だって、沖縄は日本に復帰してない状態で、復帰闘争が盛り上がりを見

せている状況でした。学生運動の側からすると、沖縄の復帰闘争は大きな政治課題だった

のです。ある意味、ぼくらの周りには普段から「沖縄」が氾濫していました。そのような

時にこの記事を見たのです。ショックでした。東京で生まれ育ったぼくらにとって、8 月

15 日は終戦記念日という、ちょっと特別な日だったんですが、その 8 月 15 日に沖縄出身

の留学生が自殺したのです。

M君は全然目が見えないのです。沖縄戦の時は台湾に疎開していたそうですが、終戦後

沖縄に戻り、小学校 2年生の時に不発弾の爆発で全ての視力を失ったとのこと。しかし、

彼は勉強が好きで、がんばって琉球政府(当時は沖縄県でなく琉球政府)と米軍の奨学金

をもらって、早稲田の文学部に来た。その時、早稲田の第二文学部は、そういう視覚障害

の学生の入学を許可していたんですね。ぼくは学内で白杖をついて歩くM君にすれ違うこ

ともありました。だけど新聞で初めて彼が沖縄出身であることがわかったんです。奨学金

は学部生は 4 年で打ち切られます。M君は 4 年で卒業できなかった。5 年になり、奨学金

打ち切られて、かなり生活が逼迫していたようです。早稲田の裏に日本女子があるのです

が、その早稲田と日本女子大の間くらいにある陸橋から彼は身を投げて、亡くなりました。

ポケットに 25 円、橋の上に白杖が残されていたそうです。なぜ 8月 15 日なのか。終戦記

念日の 8月 15 日に彼が死んだということが、なぜかぼくの心に突き刺さったのです。

彼に理由を問うことはできません。沖縄にとって 8月 15 日はほとんど終戦記念日の意味

を持たないのではないかと思います。沖縄は慰霊の日というのがありますが、地域によっ

ては 8月のはるか前に戦争は終わっているし、8月 15 日が過ぎてまだ戦闘があるところも

あったかもしれない。疑問が残ったまま学部生活の時間が過ぎ、ぼくは 5年生の時(留年

したので)、パン屋さんになろうかという気持ちも少しあって、パン屋さんでバイトをしな

がら卒論をやっていました。ずっとすっきりしなかったものですから、思い切って 1971

年 8 月、初めて沖縄へ初めて行きました。

やはりカルチャーショックを受けました。ぼくが学生として今の沖縄に旅行で来たなら、

多分カルチャーショックを感じないだろうと思います。東京と大して変わらない。沖縄ら

しさを見つけるのが難しいくらいですね。日本中どこの街へ行ってもそうです。でも、そ

の時にはね、東京とは全く違う沖縄だったのです。車は右側を走ってるし、英語の看板は

やたら多いし。58 号線(1号線)を北上すると、泊を過ぎるとずっと基地です。いろんな

ことが起こるしね。B-52 というベトナムを爆撃する大きな爆撃機が離陸に失敗して炎上

して爆発するし。とんでもない世界だと思いました。以降、毎年 2回くらい通い始めたわ

けです。

2 年、3年、沖縄に通い続けるぼくでしたが、母は心配になってきたのではないでしょう

- 6 -

Page 8: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

か。どんなところへ、何をしに行ってるんだろう、気になってしょうがない。それで、私

も一緒に行くわということになったのが、1974 年の夏です。復帰してまだ 2年、八重山ま

で一緒に旅行しました。東京から那覇まで、ぼくは沖縄に移住するまで飛行機で行き来し

たことは一度もなく、距離を実感するため必ず船

で来ていました。ですから、母と一緒に来る時に

も、船で、それも二等船室。はるばる東京から。

この時はもう、若くはなかったですが、那覇から

更に石垣へ行くときにも二等船室でした。よく一

緒に来てくれたもんです。右の写真の背景は石垣

の川平湾です。なんか、こうやって一緒に旅行を

して、息子の考えていることが理解できたわけではないでしょうが、なんか自分の息子が

夢中になっている世界を見ておきたかったのでしょうね。ぼくの中では、どんどん沖縄が

広がっていきました。

大学院を卒業して、東京の私立目黒高校の教員になりました。ぼくの同世代はやたら多

く、「団塊の世代」などと言われました。不思議とヤンチャが多いので

す。職場にも 1947 年生まれが何人かいるのです。法政を出てきた英語

教員など 5,6人と気が合い、バンドを組んで、職場である高校の文化

祭でフォークソングや反戦歌を歌ったりしました。高校生たちがあま

り盛り上がらなかったので、それではと教室をおさえて自分たちが歌

ってしまいました。面白いことに、子どもたちが張り合うように、歌

を歌うようになり、翌年からいくつかの教室で歌声が響くようになり

ました。わかりにくいかと思いますが、背景は山之口獏の「胃」とい

う詩です。ぼくが大好きだった山之口獏の詩をいつも背景に書いて使っていました。

次の写真は野球部です。これは 1978 年の 7月、夏の甲子園の東京予選です。駒沢球場で

の一枚です。二列目の左端にぼくがいます。勝ち残るということは容易ではありませんで

したが、文系のぼくにとっては大変貴重な経験でした。毎年夏休みに、長野県諏訪で合宿

も行いました。自分自身、硬式野球の経験

はないのですが、合宿でついに 3年目くら

いに、なんとかノックが出来るようになり

ました。選手たちが「先生、ノックやって

ください」と言ってくるのです。「千本ノッ

クやってほしい」って来て、ノックの練習

をさせるのです。必死に練習して、なんと

かノックをやれるようになって、「前に出て

こい」とか、「真ん中で取れ」とか一丁前にね。野球を知らないくせにね。選手たちにうま

く乗せられ、ノッカーとして育てられたのです。好きだから野球をやる、部活によってま

- 7 -

Page 9: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

すます野球を愛するようになる、そういう部活にしたいと思って一生懸命でした。本当に

思い出深い経験だったと思います。

卒業させたクラスについて少し触れます。この写真は卒業

アルバムです。1979 年 3 月にぼくのクラスの生徒たち 53 名

が卒業しました。すごい人数ですね。2 年持ち上がりで担当

しましたが、中には 1年生から 3年まで持ち上がり子もいま

した。卒業アルバム作りの際、これは生徒たちが作った図案

です。当時大人気だったピンクレディーが見え隠れしていて、

ぼくの足にピンクレディーの足が絡まったりしています。ち

なみに 53 名とともにぼくも職場に辞表を出して、一緒に卒業

しました。

ぼくは教員をやりながらずっと沖縄へ通い続けていました。

野球部を持っていたので、合宿にも行き、土日も練習試合が入ったりして、夏だってあま

り休みがないのです。そのような中で、沖縄へ行かせてもらっていた。生徒たちに、「頼む、

ごめん、沖縄行かせてくれ」ってことで。

高校は卒業後の生き方を考えなければならないので、大変だ。53 人の生徒たちと、それ

ぞれに「卒業したらどうすんの?」ってやるんです。中には、成績で算数が得意だからど

の学科へ、国語が得意だから、或いは不得意だからどの学科、成績悪いから就職する、と

か考える生徒が結構います。でも、ぼくはそれ違うだろって。そういうことは判断する材

料にはなるかもしれないけど、「一体君はどういうことに関心があるのか、何をしたいのか、

どういう生き方をしたいのか」、「一緒に考えようぜ」ってことで、一年間時間をかけてじ

っくり話し合ったんです。一人ひとりがやりたいことを見つけられるようにと。やりたい

ことがあって、成績が足りなかったら勉強すればいいじゃないか、という考え方。

考えに考えて、板前の道を選んだ生徒もいます。今自分のお店を持っています。奥様が

沖縄出身だったりしますけれど。また中には、「先生おれ、ギターで生きる」って生徒がい

ました。ギターで生きるって、もし自分の子どもに、「おれギターで生きたいんだ」って言

われたら、「そうか、頑張ってギターで生きろな」って言えますか?教員として、なかなか

そう言えないこともある。だから、つい、「ねえ、芸大なんかどう?そこ行って、楽器の勉

強したら?」とかね、「才能あるよ」とかね、ついそういう言い方をしてしまうこともあっ

た。でも、結局ギターで卒業した子がいるんですね。立派にギターで生きています。57 歳

ですが、ドリームズカムトゥルーのバックバンドをやったり、今、松田聖子のバックバン

ドやったりして生きています。ギター関係で名前を検索すると出てきたりするのです。大

したもんです。そういう生徒たちと「生き方」をかけて議論をしてきたので、卒業が近づ

いてくると、いい恰好してきた分問いが自分に向いてきてしまうのです。「じゃあお前さん

はどうなの」ってことで問われてくる。やっぱり中途半端だ。東京で沖縄の何がわかるの

か、東京で何を語れるのか。沖縄に身を置いて、沖縄の空気を吸い、感じ取りたい。そう

- 8 -

Page 10: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

考えて辞表を出しました。沖縄での仕事は見つからなかったのですが、仕事がないから沖

縄へは行かなという感じにはならなくて、辞表を出し、53 人とともに卒業をしました。卒

業生 3 人が、一緒に船に乗って、引っ越しを手伝ってくれました。1979 年 3 月 22 日那覇

港に着き、ぼくの沖縄生活が始まったのです。教員を辞めて沖縄へ、という行動を考えた

時、何に支えられたのか、どっからエネルギーでてきたのかと言えば、目黒高校で関わっ

た子どもたちが勇気を与えてくれたし、彼らからエネルギーをもらったのではないかと思

うのです。

写真は東京港です。沖縄へ移住する時も、

やはり船です。船に乗って、沖縄に来たんで

す。車にいっぱい布団や日用品を詰め込んで。

ぼくの書斎にあった本は全部段ボールに入れ、

沖縄に送りました。ぼくが沖縄へ旅立ったあ

との部屋を母が見て、本一冊もない空っぽの

部屋を見て、母はショックだったそうです。

「3 か月くらい、夕方になると押し入れに首

を突っ込んで泣いたよ」とあとで母から聞かされました。

沖縄へ行こうと考え始めて、母にも相談しました。「沖縄に行きたい。自分の中で東京に

いて、沖縄のこと考え続けることはもうできない。沖縄で生活したい」と。定職も決まら

ないまま、失業率の高い沖縄で暮らしたいというのですから、母からすれば移住後にどの

ような生活が待っているのか、ある程度想像できただろうと思います。しかし、母は許し

てくれました。普通なら許さないだろうと思いますが、「あなたに私の生き方見せちゃった

からね」と言って、許してくれたのでした。とても感謝しています。でも親不孝でしたね。

さて沖縄生活が始まり、20 年に渡る非常勤生活が始まりました。大学、短大、福祉系の

専門学校、看護学校、予備校など様々な学校で教育学や教育原理などの授業をもち、2 年

ほど幼稚園でも仕事をしていました。いろいろな学校でいろいろな人と関わったというこ

とが、ぼくにとって大事な栄養になったのだと思います。いろいろな人がいるし、当然な

がらいろいろな暮らし、いろいろな経験をされていて、いろいろな考え方がありました。

新鮮な出会いばかりでした。看護学校との関わりが多く、5 校ほどの看護学校で教育学の

授業をしました。その中には既に准看護士の資格を持っていて、更に正看護士の資格を取

ろうと入学された方もいました。年齢的にも結構年配の方もいたりしました。生活はアッ

プアップでしたが、日々の生活に追われ、東京に帰りたいという気持ちはほとんど起りま

せんでした。20 年はあっという間に過ぎていきました。

20 年にわたる非常勤生活の中で非常に大事なことがありました。1982 年の暮れに、看護

士だった田鶴子さんと結婚しました。彼女という存在がぼくの支えになりました。この写

真の背景は摩文仁の健児の塔なんです。ぼくは頭でっかちな人間なので、どういう結婚式

- 9 -

Page 11: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

やるかという時に、摩文仁の塔の前で結婚式やりたいと提

案したのでした。そこで 2人で、誓いの言葉を述べました。

「子どもたちを絶対戦争に送らない、そういう教育はしな

い、そういう教師を育てたい」と。沖縄に来た時、ぼくは

沖縄の小学校、中学校、高校の教師をやるという考え方は

全くなくて、教員養成に関わりたいう気持ちだったのです。

ですから、そういう教師を育てたいとの気持ちを確認する意味で、変わったことをやって

しまいました。田鶴子さんにとっては良い迷惑だったかもしれませんし、そこに参加して

下さった仲人の琉大の先生でぼくの大先輩でもある阿波根先生や、親戚の皆さんもどうし

てよいのかわからず困った様子で、申し訳ないことでした。その夜披露宴だったのですが、

ぼくが親戚の少ない家庭だったこともありますが、東京から来てくれたのは母と兄の 2人

だけでした。あと新郎側の席は沖縄での知人、友人や学生でした。そんな結婚式と披露宴

をやって、再スタートしたわけですが、20 年を生き抜くことが出来たのも、家庭があった

からかな、と思っています。

沖縄移住以前からあこがれであった沖縄大学には、1988 年の春から、非常勤講師として

集中講義の形で教育史の授業をもつことになりました。沖大の学生たちがすごく素敵なん

です。今駐輪場になっている所に旧校舎がありましたが、外を通る車の騒音にも関わらず、

一生懸命授業を聞いてくれました。2 部の授業でしたが、昼間の仕事疲れを感じさせない

学生たちの熱気は忘れられない思い出です。11 年間、沖大で非常勤講師をやってきました。

さて少し時間が押してきましたが、沖縄大学の専任教員になってからのお話をしましょ

う。1999 年 4 月から沖縄大学に専任教員として勤めることになりました。所属は法経学科

でしたが、全学の教職課程を担当する専任教員という立場でした。これは、とっても楽し

かった。採用された年に早速再課程認定の事前訪問で文科省行ったりとか、もう本当に待

ったなしでした。採用の段階で教職担当であることが分かっていましたし、教員養成には

いささかの思い入れもあったので一生懸命やりました。

この写真は 2003 年の模擬授業の様子です。これは中学社会科の模擬授業をしている所で

す。その当時はまだスーツを着て模擬授業をするというルールは確立していませんでした

が、みな一生懸命に取り組んでいました。授業後、

良かった点を指摘したり、反省点を指摘したり、結

構厳しい言葉が飛び交います。模擬授業というのは、

すごく面白い学びのメニューです。授業をするとい

うのは、学び方であり、表現でもあります。授業を

作り上げていく中で、物事の深さ、むずかしさがわ

かってきて、わかったつもりで通り抜けてきたぼく

たちの知識の浅さを打ち砕きます。授業のイメージが出来上がるまで大変な作業ですが、

- 10 -

Page 12: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

学生たちは授業作りの面白さも発見したりします。

学生たちを見ていて、学生たちが自由に使える場所が必要だと感じました。今の教職支

援センターの前に、中等の教育実習準備室がありますが、まずそこを確保したのです。場

所を確保するまで、学内の反対意見も多い中でとても大変でしたが、場所があるとやるだ

ろうという強い予感がありました。案の定、教育実習準備室が出来ると、学生たちは授業

作りに、実習の準備にと活用し始め、徹夜で勉強することもありました。模擬授業を通し

て難しいことを知るとともに、授業を創造する面白さ、楽しさも感じ始めたのかなと思い

ます。学生たちが授業作りに打ち込むようになると、当然のことながら沖大の実習生の評

価が少しずつ高くなって行きます。上の写真は 2003 年度の嘉手納中学校での実習風景です

が、彼は素晴らしく有意義な教育実習を経験しました。今は既に中堅の教員です。

ぼくが沖縄大学の教員になったころは、沖縄大

学ではまだ教育実習集録(つまり実習の報告書)

を発行していませんでした。実習校や他大学へ送

付されることが望ましいですね。これはいけない

ということで 2002 年度から教育実習集録を作る

ようになりました。教員になると学級通信や文集

を作成することもあるので、手作りにこだわり、

編集、印刷、製本を学生自身が行う形にしたので

した。また 2003 年度の実習生から、沖大祭で実習までの過程や実習の様子を見てもらうた

めに、実習報告展をやりたいという声が上がってきま

した。自分たちはこのように頑張ってきたと、写真を

張り出したり、工夫して作った教材・教具を展示した

り、指導案を展示したりしました。初めての試みの場

として割り当てられたのは何と 3号館の廊下でした。

最初の時はちょっと窮屈な思いをしました。こういう

形で沖大祭との関わりが始まり、今ではその機会に沖

縄大学附属小中学校が開校しているのです。

そのような教職の活動の延長線上で出来たのが「同夢会」といグループだ。2003 年度教

育実習報告展を成功させた教職OBが中心となり、卒業しても沖大教職につながっていこ

う、後輩をサポートしよう、ということで結成された。ちなみに人数もかなり少なくなっ

てきたが、2003 年度、2005 年度、2007 年度のOBがいて、今もまだ存続しているのがす

ごい。毎年教員採用の 1 次試験の日に慰労会を開いて、受験者を激励を続けている。こど

も文化学科の学生、卒業生もちらほら参加したりしている。

- 11 -

Page 13: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

こども文化学科が出来るまでは中等の教職のみでしたが、沖縄大学で取得できる免許は、

中学英語科、社会科、高校英語科、公民科、地歴科、福祉科でした。免許教科や学科が違

うと交流がもちづらいのですが、更に学生たちの力を引き出すためには、垣根を越えて刺

激をかけ合い、つながりあっていくことが必要だと

考えていました。そういう考え方が学生にも伝わり、

2007 年度の教育実習が滑り出す少し前に、「教科合

同合宿」(強化合宿)を行ったのです。学生たちが計

画して、実施するのですが、免許教科、学科を超え

て合宿がやるのです。右の写真は法経学科の学生が

社会科の授業をしているところですが、自由の森の

卒業生で、結構真面目に授業していますね。社会科もいれば、英語科や福祉科もいます。

全員参加の義務はなく、希望による合宿です。ぼくはこの頃はまだゼミ旅行を経験したこ

とがなかったので、学生との旅行はこれだけです。その合宿で、模擬授業をやったり、そ

の反省会や議論したりするのですね、メインはその後の飲み会だったりしますが。

現在も教育実習が終わると実習報告会をやりますね。

でもこのころの実習報告会はちょっとユニークで、報告

会が終了すると夜になっていますが、前年度の教育実習

生、つまり卒業生が駆けつけてくれて、実習生の慰労会

をくれるたのです。忙しいのに仕事を終えてきて、バー

ベキューをやってくれたりするのです。合宿というのは

横のつながりですが、これは縦のつながりです。4 年生

の模擬授業を 2年 3年が見たり、実習を終えた 4年生が 3年生の模擬授業を見たりという

ことが結構普通に行われていたので、やろうという気持ちになったのだと思います。

2007 年度の実習生たちが卒業間際に面白いことを言いだしました。「先生、教職の卒業

式をやりたい。大学の卒業式よりも教職の卒業式をやりたい」。学生たちの提案を教職でも

了解して、卒業式の少し前に教職卒業式を行

いました。当日会場に行くと、なんとみんな

が高校生の時の制服を着ていたのです。びっ

くりです。中には 30 代で子育て中のお母さん

もいらっしゃるのです。面白いですね、遊び

心があって。そのお母さんは児童館の職員や

るために、小学校の教員免許必要だというこ

とで、大学へ科目等履修生で通って免許取られた方なんです。大学の卒業式も出てほしい

が、より教職の卒業式を、という気持ちが教職に関わってきたぼくたちにはうれしいこと

でした。そういう縦に横につながりが出来て行ったということが、教職の学生たちの盛り

上がりを現わしているのでは思います。そういう盛り上がりや学生たちの熱気、熱意が教

- 12 -

Page 14: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

員を動かし、こども文化学科設置につながっていったのかなと思っています。

ではいよいよこども文化学科に関わるお話をしましょう。中等の教職に関わっていて、

学生たちから「本当は小学校の教員免許を取りたかった」という話を聞くことがありまし

た。実際、沖縄大学を卒業して通信教育で小学校免許をとる卒業生も少なからずいたので

す。新たな養成課程立ち上げる上でのニーズはると思っていましたが、大変な冒険でした。

2005 年に沖縄大学はいくつかの新学科構想を検討していましたが、最終的に残ったのが

ぼくたちが提案した小学校教員を養成する学科でした。新学科を立ち上げる際には、他の

大学に対する差異とぼくたちの思いから、一般的な「児童教育学科」ではなく「こども文

化学科」にしようということになり、2006 年に文科省に申請し、認可をされました。

ドキドキワクワクで 2007 年を迎えました。4 月、

一期生が入学してきました。この写真は記念すべき

最初の新入生オリエンテーションです。玉城少年自

然の家で行いました。写真に新入生の名札が写って

います。懐かしいですね。この時新入生を世話して

くれたのは、国際コミュニケーション学科、福祉文

化学科、法経学科などの中等の教職を履修している

学生たちでした。

一期生が入学してきたときにはぼくも問題発見演習をもっていました。所属は法経学科

から人文学部こども文化学科に変わりましたが、まだ中等の教職を担当する教員のままで

した。当然、4年生の教育実習指導も担当していました。4月、5月になると実習生は現場

を想定した模擬授業を行うのですが、1 年川井ゼミの諸君に 4 年生の本気モードの授業を

参観してもらったり、実習準備室での授業作りの様子を見てもらったりしたのです。つま

り教育実習へ行く前の舞台裏をのぞかせたのですね。そうするとやっぱり、小学校の先生

なりたい人が多いわけなので、授業に強い興味を持つのです。ぼくらの授業にはそんなに

感心は示さないけれど、自分達に近い「学生」がやっている授業には心が動くのです。真

剣さ、一生懸命さが伝わってくる。「面白そう」と。ぼくは、「どうだい、君らやってみな

い?」とちょっとしたハードルを用意したら、「やってみよう」ということになったのです

ね。子どもの「ごっこ遊び」のように、楽しく「授業」の世界に足を踏み入れてみること

になりました。だから「学校ごっこ」と名付けたのです。

そういうわけでぼくのゼミで、小学校の一日を想定し

て四つの授業をやってみたのですが、結局こども文化学

科の学生たち、つまり新入生たちが大勢見に来てくれた

のです。教室の後ろのほうには、中等の教職の学生たち

も応援で顔をのぞかせてくれました。そうやって最初か

ら 1年生のイベントのような感じで「学校ごっこ」が始

- 13 -

Page 15: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

まったのです。2007 年 7 月 7 日の七夕の日でした。

もうひとつ授業の写真を見てみましょう。これは、昨年の 12 月 16 日に行った現代版「学

校ごっこ」です。現在は 2年川井ゼミが企画・運営・

広報を担当し、1 年各ゼミが授業を行う形になってい

ます。第 1回目の写真と比べて何が違うかわかります

か。そうです、今は子どもたちが沢山参加しているの

です。昨年の「学校ごっこ」は 11 年目でした。地域の

子どもたちは、12 月のこのあたりで「学校ごっこ」が

あるとわかっている。また地域の学校にも、非常に好

意的に協力していただいています。これも地域との関わりだと思いますが、地域の子ども

たちが大勢参加してくれるようになりました。昨年 12 月の「学校ごっこ」には、学長も参

加して下さいました。

右の集合写真は、昨年の「学校ごっこ」、つまり最後の川井ゼミ主催「学校ごっこ」終了

後の集合写真です。沢山の人がいます。「学校ごっ

こ」がこども文化学科 1 年生の恒例行事として定

着し、地域との関わりの中で成長してきた、とい

ってよいのではないでしょうか。ぼくは、この 3

月で退職しますので、2 年川井ゼミの企画・運営

による「学校ごっこ」が終わり、バトンは 2年宮

島ゼミに渡ります。宮島先生と宮島ゼミにより、

「学校ごっこ」が更に楽しいイベントとして進化

していくことを期待しています。

さて、「学校ごっこ」と少し似ていますが、2009 年 1 月 24 日「沖縄大学付属小中学校」

を教職関連の取り組みとして始めました。「学校ごっこ」と同じように「模擬授業」を内容

とする期間限定の模擬学校ですが、違うのは教育実習を終えた 4年生が企画・運営にあた

り、教職履修の 3 年、2 年が授業をするという点です。地域の子どもたちの参加を仰ぎ、

学科を超えて刺激をかけ合う、学びのユイマールをめざすというイメージでした。2008 年

度の教育実習生は当然中等の教職課程を履修していた学生たちでした。ぼくが彼らに提案

し、彼らが中等の教職の学生やこども文化の学生に発信して、実現したのです。4 年生が

教育実習で得たものを伝えるべく、3年、2年の授業の機会を作ったのです。

この写真は第一回「沖縄大学附属小中学校」(沖大小中

と略)でのこども文化一期生の授業です。その時 2年生

でした。授業は、単発授業で、学習指導要領にとらわれ

ない、自分で考えた授業でした。教科書を教える授業で

はない、自分で考え、作り上げた授業、「学校ごっこ」も

「沖大小中」もそこが共通していて、面白いところだと

- 14 -

Page 16: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

思います。こども文化学科の学生たちも中等の学生たちに導かれながら、「授業」「教職」

の世界に楽しく入って行きました。

「沖大小中」はやがて沖大祭に合わせて開校されるようになり、教職から離れ、3 年川

井ゼミ主催のイベントに変わってきました。2017 年度からはこども文化学科主催になりま

したが、右の写真は 2016 年度、川井ゼミ主催の最後

の「沖大小中」の様子です。沖大祭で行われるとい

うこともありますが、「学校ごっこ」同様、地域の子

どもたちの参加が多くなっています。地域と関わり

ということでもあるので、これは非常に大事なこと

です。ただ、「沖大小中」が教職から離れたことで、

だんだんと他学科の参加が難しくなってきました。

「沖縄大学付属小中学校」ですから中等、つまり他学科とのセッションですともっと多様

で、面白くなるのではないかと思います。

いよいよ最後になりますが、ゼミ旅行という活動についてお話します。単純に旅が好き

ということもありますが、学問研究を行う大学でのゼミの「旅」に関心がありました。

3 年生のゼミは、毎年石垣島へゼミ旅行に行っています。海星小学校という小規模なカ

トリック系小学校で、実際の教壇で学生に授業をやらせてもらっています。今年でもう 8

年目です。たまたま海星小学校の校長先生が大学との連携に関心をお持ちだと聞き、早速

ぼくが校長先生にお会いして、実現することになったのです。実際の教室で、児童観も入

った細案として作成した指導案で、既習事項なども配慮しつつ行う、単発授業です。これ

は、「学校ごっこ」や「沖大小中」の延長線上にあり、集大成でもある活動と考えています。

左の写真は今年 2月下旬に行った体験授業です。消費税を

使った 5年生の算数ですが、社会や生活に関わることを、算

数の授業を通して考え、生活の中に算数を活かしていこうと

する授業です。単発授業だと、こういうことも可能なのです

ね。ぼくは、どう教科書と付き合うかということが頭にある

ので、このような単発授業による体験授業は、授業の可能性

を考える意味では面白い取り組みではないかと思っています。

海星小学校での体験授業や一日の参観・交流を終えて帰る際には、1 年生の担任の先生

と子どもたちがいつも、自分たちで作った首飾りや寄せ書

きを全ての学生たちにプレゼントし、「いい先生になって

ね」と励ましの言葉で学生たちを送ってくれるのです。こ

の先生はいつも 1年生を担当し、子どもたちにしっかり学

習規律を身に着けさせる、要である先生ですが、この先生

がいつもこのように動いてくださるのです。ありがたいこ

- 15 -

Page 17: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

とですね。

さて 4 年生のゼミ旅行についてです。6 年ほど、長野県の伊那市立伊那小学校の公開学

習指導研究会に参加するというゼミ旅行を行っています。伊那小学校は公立ですが、1956

年から通知表がなく、1970 年代からチャイムも、1年を通じての時間割もありません。た

だし先生と子どもたちで話しあい、明日の時間割を作ったりします。また 1 年生、2 年生

はすべて総合学習です。ちょっと変わった学校ですね。

今年の 2 月 3 日の研究会で 3 年生の授業風景を見ました。伊那小はクラスが 1 年から 3

年まで、そして 4 年から 6 年まで持ち上がりなので、3 年かけて総合に取り組むのです。

ぼくが見た 3年のクラスでは歳をとったポニーを飼っていたのですが、去年の 11 月 26 日

にポニーがなくなったそうです。ポニーの名前はシルちゃんというそうですが、子どもた

ちの悲しみは深く、その死をどう受け止めるか、いろいろな活動を通して考えてきたそう

です。シルちゃんは、長野の北部の蓼科にある牧場から借りてきて、飼育していたので、

今はその牧場に埋葬されているとのことでした。シルちゃんの会いに行きたいという気持

ちが強く、そこへ行く計画を立てているそうです。そこ

行くために、シルちゃんのための歌を作っているところ

なのです。シルちゃんを思い出しながら、その歌につい

てみんなで話し合う、そういう授業でした。授業の終わ

りの時間が近づいたころ、学校の外に出たいと子どもた

ちが言い、校門横の丘にやってきました。授業の最後に、

みんなが大きな声で「シルちゃーん」と叫んでいる様子

を見ました。道徳の授業では 1時間で、結論を出すこともあるわけですが、なかなか難し

いことですね。11 月 26 日から、ポニーの死について、子どもたちはずっと引きずってい

るのです。総合で、先生は急がないのですね。

次の写真は、自分たちの森の中にある木を切ってきて、木の器を作りたいと、3 年間取

り組んでいる 6年生のクラスです。これはロクロで木を削っているところです。ロクロを

効率的に回す方法はないかと子どもたちが考えて思

いついたのは、自転車の後輪を使ってロクロを回そ

うという方法。この子たちが発明したのです。写真

はロクロカンナを当てているところですが、素人が

ロクロカンナを当てると、バーンと回転で吹き飛ば

されてしまうのです。写真のようにじっと当てるの

は、簡単そうに見えて実はすごいことなんです。も

う素人ではない。

そしてだんだん木の器の材料となる木が無くなってきて、子どもたちは去年の 12 月、「自

分たちがお皿を作る木を確保したい。前の木はよく乾燥させてなかったから、すぐ割れて

しまったので、今度はちゃんと乾燥させて使いたい」と、森へ入って、間伐をさせてもら

- 16 -

Page 18: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

うところを探し、その木にみんながノコギリを当てるのです。必ずすべての子どもたちが

ノコギリを入れる。これが原則なのです。だから、木のお皿ができるまでのすべての工程、

すべての過程に子どもたちが関わります。これは、簡単にできないことですね。伊那小学

校では、1979 年から、こういう取り組みを行って、公開学習指導研究会を開き、一般に公

開してるのです。

大学を卒業して、教員になる皆さんに、公立だってこういう学校もあるよ、ということ

を見てほしかった。3年生のゼミ旅行も、4年生のゼミ旅行も観光はほとんどないです。こ

のようなゼミ旅行があるとわかっていて、よくぼくのゼミに来てくれたなと思っています。

半日以上かけてやっと伊那にたどり着き、また半日以上かけて東京まで帰ってくる。ゼミ

旅行はこういう学校へ行くだけなのか、行ってどうだったかについては報告書にもありま

すが、あとでちょっとゼミ生からもお話があるかもしれません。

いよいよ最後です。伊那小学校から東京に戻っ

た、ゼミ旅行最後の夜、面白い出会いがありまし

た。ぼくの目黒高校での野球部の最後の、という

か最初の卒業生二人がたまたま参加してくれまし

た。経過は割愛しますが、斉藤祥一君と鈴木直司

君。ともに 57 歳で小さな会社の社長さんです。ぼ

くの最後のゼミ生と最初の卒業生ということにな

りますが、とっても楽しいひと時を過ごすことが

出来ました。先日も電話が来て、「先生、4年生の皆さんに伝えて下さい。素晴らしい皆さ

んでした。ぜひ先生なって欲しいです。ぶれることなく、誠実に先生として生きて下さい、

と是非伝えて下さい」というメッセージを受け取りました。ぼくの最後のゼミ旅行に、何

というタイミングでしょう。

こうして振り返ってきましたが、母の蘭子にいろいろと無言のメセージをもらい、自分

を思い切り生きていいよと背中を押し、沖縄へ送り出してくれたことに、まず感謝したい。

そしてやはり東京の教え子たち、沖縄で出会った学生の皆さんに支えられ、励まされた 43

年間だったのではないかと思います。人間はもとより不完全で、不思議で、悩ましい存在

です。自分の生き方をまさに作っていこうという過程の皆さんに、ぼくは共感をもって関

わってきました。大学 4 年間とはいえ、驚くほど変わり、成長していきます。そういう皆

さんの姿に感動し、力をもらってきました。また同僚の先生方、いつも仕事が遅く、ドジ

ばかりのぼくを、いつも温かく見守っていただきました。教員生活 43 年、長いようで、あ

っという間の 43 年でした。本当に皆さんに支えられてここまでやってくることが出来たの

だと実感しています。心から感謝しております。

長々と話してまいりましたが、そろそろぼくの最後の話を閉じたいと思います。みんな

ありがとう。お元気で。

- 17 -

Page 19: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

質疑応答

Q1、最後の講義お疲れ様です。川井先生に聞きたいんですけど、今まで目黒高

校の話までされて、たくさんの思い出深いことがあったと思いますけれども、沖縄大学に

赴任してきて、先生の中で一番の思い出って何ですか。

A 一番の思い出ですか。それは難しい。みんな、いい思い出で、1番、2番というのはあ

りません。先日も 2年生のゼミ旅行で、名護、今帰仁のほうへ行ってきましたね。ゼミ旅

行へ行く直前に動物園へ行こうということになったのです。

講義の中で、上野動物園の園長さんが書かれた本の中から、戦争の時、動物園の動物た

ちにとってどういうことが起こったかという話をしたのですね。動物園の人たちは疎開を

希望したが、経済的理由から疎開させることが出来ず、結局殺処分となった。だけど象は

とても利口な動物だから薬飲まなかった。どうしたかというと、飢え死にさせられたんで

す。象の中には、芸をすると餌をもらえるかもしれないと、芸をしたりする象もいた。で

もえさはもらえなかったのですね。悲しい話でしょ。

飢え死にした象の写真を、みんなに見せたのです。戦争ってこうゆうことなんだよって。

この時に「象を見に行こうか」ということになった。言い出しっぺはぼくでしたが、行こ

う行こうとなり、みんなで随分長い時間動物園にいました。なかなか面白い体験だったし、

いい思いだだったとぼくは思っています。

Q2、川井先生ありがとうございます。4年生川井ゼミの仲真優季です。

素晴らしい考案で、「学校ごっこ」と「沖大小中学校」が先生が退職されても、後輩た

ちが受け継いでくれるんですが、先生がもし、これからも教員を続けられたら、もっと他

にやりたかった行事とか、ゼミ旅行で行かせたかった学校、行きたかったところはありま

すか。

A、もっと、こうしていきたい、ああしていきたいということを考えたことなどないわけ

ではないのですが、もう退職しますので、これで良しとしましょう。あとはみなさんがい

ろいろアイディアを出し合ってください。

Q3、2007 年卒業の須田でございます。長い間お疲れ様でした。2007 年に卒業してからず

っと疑問に思っているんですが、僕が教育実習に行けなかったのはなんでだろうって。

- 18 -

Page 20: こども文化学科紀要(5): 1-19 Issue Date 2018-10okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp › bitstream › 20.500.12001 › ...pCc M*ñ Û S 7l4 srKS Xr~pCc M _^~S8\8:G\[ M*ñ Û S 7_

A、ここで、答えなければいけないのでしょうか。

明確にお答えします。教育実習へ行かせていいかどうかということについては、一定の

基準を設けています。今でもそうです。そんなに高い基準では無いので、その基準に著し

く達しない場合には、ぼくたちとしては行かせてあげることはできない。須田君が授業を

やると素晴らしい授業ができるかもしれないと思ってはいます。でも、行かせることが出

来ない。基準を設ける意味がなくなってしまいます。ギリギリと著しく足りない場合とで

は違うので、申し訳ないと思いますが、我慢してもらいました。

Q4、川井先生、今日はありがとうございました。5 期生の高良美紀です。今まで、大学の

時にいつも、私たちと卒論一緒に考えてくださったり、模擬授業も相談いろいろ受けてく

ださったりして、自分のことを後回しで、私たちのために動いてくださったんですが、教

員が 3月で終わりということで、自分のため、川井先生が今からやりたいこととかあった

ら教えてください。

A、特に決めてないです。とりあえず、しばらく静かに過ごしたいですね。

研究室の本を大半処分し、やっぱり捨てきれない本もあるので、それを家へ持って帰り

ます。本棚がないので、本棚をまず作って、整理して、生活できるようにするというのが

当面の課題でしょうか。孫が 2人いますので、いざ出動となったら駆けつけたりするでし

ょうが、しばらく静かに休みたいと思っています。

Q5、お疲れ様です。5期生の植憲介です。お話ありがとうございました。

僕も、川井先生が作ってくださったこども文化学科で卒業することが出来ました。最後

の質問ってことで何がふさわしいのか考えているんですが、質問はあります。僕もなんと

か現場に出ることが出来たのですけども、川井先生が最後に、この会場にいるみんなに、

教員としてやっていくうえで一番大切にしてほしいことが、これだというのがありました

ら、教えてください。

A、やっぱり情熱じゃないかと思っています。

情熱をもって、子供たちに向かい合ってほしいなと思います。あまり、つまらない基準

を設けないほうがいいかな。一人ひとりがみんな違う世界なので、自分と異なる世界を理

解することは簡単ではないのです。だから、子どもの前に謙虚に立って、一生懸命、その

子たちの声を聞き取る努力をしてほしいなと思います。一人ひとりに必要なものは同じで

はないのです。そういうことをやっていくために、情熱が必要なのではないかと思います。

- 19 -