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This document is downloaded at: 2020-01-26T17:37:13Z Title 別伝の研究 Author(s) 矢野, 主税 Citation 社會科學論叢, 16, pp.17-45; 1967 Issue Date 1967-05-31 URL http://hdl.handle.net/10069/33716 Right NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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Title 別伝の研究

Author(s) 矢野, 主税

Citation 社會科學論叢, 16, pp.17-45; 1967

Issue Date 1967-05-31

URL http://hdl.handle.net/10069/33716

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

別伝

の研

 三国志斐注や、世説新語の劉注などをみると、某別伝なるも

のが屡々引用されているが、それらによると、大体において、

上は後漢時代から、下は東回時代に至る人物に及んでいるよう

である。では、そのような別伝なるものは、一体どのようなも

のであり、何故に大体門閥社会と呼ばれる時代における人々に

ついて書かれているのであろうか。又、それらが三国志斐注等

に数多く引用されていることに見られる如く、史書の欠を補う

ものとして重視されていたとずれば、その史科的価値はどのよ

うに考えればよいか等の、種々の疑問がわくが、不幸にして、

今までにそれらについてこの解明はなされていないようであ

る。 

いま、全晋文(昌ま)「左思別伝」の条をみるに、「厳可均案。

別法失実。晋書所棄。其者節取者.僅耳。……別伝道聴塗説。

無足為愚。晋書彙十八家旧業。墨取小説。独棄別伝不釆。斯史

識也。」とみえている。儀表均の考は、 「別伝ば道聴塗説にす

ぎぬもので、現行曝書がこの別伝を採用しなかったのは一見識

である」とするものであろう。即ち、少くともこの場合におい

ては、別伝は単なる路巷の噂話にすぎず、とるに足らぬとされ

ているわけである。然るに、三国志装注等に多くの別伝が採用

されていることは、すべての別伝が必ずしもとるに足らぬとさ

れていたとば思えないことを示し、従って、すべての別伝を道

聴塗説としてしりぞけるわけにはいくまい。では果して別伝と

はどのようなものであったであろうか。

   第一節、別伝の時代別と製作時期

 先ず筆者は、どのような別伝が今日知られ、それがどの時代

の人物の別伝があるかということが、更にもし可能ならば、そ

れらがどの時代に製作されたかを推定してみよう。

次に別伝の表を掲げてみる。

〔表↓三国斐注所引(豊戴潮姓簿時袋両朝にま奈る時は後)

別伝名

曹隔伝

 註

呉質別伝

滅尽別伝

管轄別伝

虞翻別伝

旬鳳別伝

曹志別伝

魏志(/)武帝紀

魏志(↑2)王言伝

立志(29)華佗伝

魏志(29)管轄白

飴志(12)虞翻伝

魏志(10)賀翔伝

心志(/9)陳思王

植伝

人物の

存生時

代魏魏魏魏呉西晋

西晋

別伝名

孫品別伝

旬夢別伝

孫恵別伝

膏或別伝

鄭玄別伝

趙雲別伝

…魏志(14)臣子伝

魏志(/5)頁遊伝

統志(/0)比量伝

呉志(6)孫二戸

魏志(10)葡山伝

魏志(4)高貴郷

公伝

蜀志(6)趙雲伝

人物の「

生存時

代  }

魏魏西二

巴後漢

(注)

 これが

別伝なる

ことにつ

いては、

後述参照

一/7

潜岳別伝

潜尼別伝

費緯別伝

陸機・

 雲別伝

邸原別伝

劉晦別伝

魏志(21)衛號伝

単志(21)衛號伝

蜀志(14)費緯伝

呉志(ろ一)陸抗伝

魏志(11)邸原伝

魏志(21)劉塵伝 西

晋西晋

蜀当課

魏魏

任門別三

王弼別伝

程暁別伝

虞謳別伝

諸葛恪別

.書志(27)王潤伝

魏志(28)鍾会伝

魏志(14)三三三

塁志(22)盧二塁

塗壁(/8)諸葛恪

魏魏見高晋

〔表∬〕世説新語劉注引

 別伝名

  王又別伝

(王)丞相別伝

(王)献之別伝

(王)恭別伝

(衛)琉別伝

(王)含別伝

士長史別伝

(王濠別伝)

王胡之別伝

(毅)浩別伝

(王)敦別伝

  王述別伝

  王塵別伝

出徳 行

徳 行

徳 行

徳 行

量口猛㎎、

賞誉下、

止、言

 酒

量口甑贈、

逝、昌

琵竃隠、

藻政事、

文 学

文学、

仇 陳

 文学、識豊

  品藻、容

傷逝、

 賞誉下、

任誕

 賞誉下、

文学

方正

人物の

生存時

代西晋

漏壷

東玉

東晋

西晋

 東晋

傷・東晋

東軽

薄晋

東晋

東晋

東晋

 別伝名

(王)弼別伝

王彪之別伝

(王)勧・蕾別

伝  再三別伝

  王澄別伝

  王遼別伝

(王)汝南別伝

(王)雅別伝

(郭)泰別伝

(郭林宗別伝)

  桓舞別伝

  桓玄別伝

  三下別伝

文方雅識出

学正量

賞誉下、

賞誉下

賢 媛

醜 険

徳行政事黙免

徳 行

任誕、文学、

言語、政事、

方正、識鷺品藻 徳

文学.

一人物の

生存時

代三国

東晋

東晋

東燃「

東晋

東密

東征

東晋

後漢

東晋

東晋

東晋

(稜)康別伝

院光禄別伝

(院裕別伝)

  向秀別伝

  顧和別伝

  防孚別伝

  賀循別伝

(郭)瑛別伝

  高坐別伝

  孔愉別伝

(管)轄別伝

  一二別伝

(桓)諮別伝

(質)充別伝

司馬徽別伝

(鍾)雅別伝

(左)思別伝

(司馬)装丁別

伝  孫放別伝

(葡)奨別伝

(謝)玄別伝

(諸葛)恢別伝

(周)領、別伝

察司徒別伝

徳行、容止棲逸

徳行、棲逸

言語、文学

言 語

雅量、尊墨

規 箴

大学、一一

言 語

方正、棲旧

規箴、排調

夙恵

豪爽

惑溺

言語

政事

文学

仇陳

言語、排調

文学

文学

方正

方正

方正

西華

東晋

西三

筆晋

考量

東二

一晋

東晋

東晋

三国

東晋

冷遇

西晋

三国

東晋

無暗

東通

東晋

三国

東晋

東晋

東回

東晋

  祖約別伝

(謝)鰻別伝

(周)処別伝

(察)充別伝

  郡堕別伝

(郡)超別伝

  郡惜別伝

  郡曇別伝

(鄭)玄別伝

  陶侃別伝

  陳蓬別伝

(東方)朔別伝

(萢)宣別伝

  萢注別伝

(仏図)澄別伝

  邸原別伝

 -下壷別伝

(番)岳別伝

(孟)嘉別伝

  府,翼別伝

(羊)曼別伝

劉雰別伝

(二丁別伝)

(陸)機別伝

  陸玩別伝

雅量

雪暗、文学

自暗

影試

徳行

言語

二三

仙媛

文学

方正、識襲.賢媛

品藻

規箴

徳行

排調

言語

賞誉上、軽試

賞誉下、任誕

容止

識堕 

言語、謁蒙爽

雅量

徳行、賞誉品藻

言語、尤悔

政事、規一

粟音

聾浮

華晋

西晋

東回

東国

東回

東晋

後漢

東江

東晋

前漢

西晋

東晋

東晋

三国

東晋

西晋

東晋

東晋

東晋

極極

西蔵

東晋

一18

羅府君別伝

(羅含別伝)

 陸雲別伝

方正、規箴

賞誉下

東晋

西晋

(林)支遁別伝賞誉下、傷逝  .東回

(李)充別伝賢媛      東晋

    7

〔表皿〕人物の時代別表

三 国志注

世説新語注

前漢1

後漢12

三国/65

西蔵7/5

東漸54

計2475

 これらのうち、斐松之注所引別伝は、少くとも東晋時代或は

それ以前に成立していたものであろうし、世説新語注引の別伝

は、少くとも梁時代に存在したことは明かである。ところが、

卒直所引と世説新語注所引の別伝の中には重複するものも多

い。例えば、播岳別伝、管轄別伝、鄭玄別伝、陸機、陸雲別

伝、畑原別伝等の如きである。すると、世説新語注引の別伝の

中には、他にも東晋以前にできたものが多かったであろうと推

測される。

 そのことの一つの手掛りとなるものは、別伝の呼称である。

別伝は、一般的には葡或別伝とか、忙裏別伝とか、その氏名を

かぶせた呼び方がされているが、時によると、王導の別伝を王

丞相別伝といい、轟轟別伝を王長史別伝といい、薬誤の別伝を

葵司徒別伝といい、劉の別伝を劉サ別伝といっている如きが

ある。このように官職を以て人をよぶのは、宇都宮氏が指摘さ

れたように(「漢代社会経済史研究」第十二章世説新語の時代)、その人物の生活していた時代をよ

く知っている人々の間に行われた呼び方で、それからみれば、

これらの別伝は、それらの人々についての世間の記憶がはっき

りしている時代に作られたと考えねばなるまい。即ち、おそく

とも、それらの人々の死後、それほど経っていない時代即ち束

晋時代には作られたと見るべきであろう。若し、王丞相別伝、

王長史別伝の如きがそう考えられるとすると、これら別伝の中

にば東晋以前の作が可なり多かったと考えられよう。では、そ

の他の別伝は、果してそれらの人々の死後、間もなく作られた

といえるものかどうか。それらを明かにする為に、別伝は一体

どのようにして作られたものであろうかということを先ず考え

てみたい。

 その前に、表顕について一言すれば、別伝人物の時代が、ほ

ぼ後漢末から東晋に及ぶものであることは注目すべきであろ

う。このことは、これら別伝が、所謂門閥社会の形成、成立と

何らかの意味で関係をもっていることを暗示するものであろ

う。しかし、それば斐注及び劉注にのみよった為ではないかと

の疑問もでるであろう。そこで、いま別伝を非常に多く引用し

ている太平御覧によってみるに、なるほど、劉向の如き前漢代

の人物の別伝もみえる(例えば太平御覧N㊤刈Q◎cQ一等所引。)けれどもそれらは特殊の例

の如くで、いま大平御覧にひく別伝を時代別に分類すれば次の

如くである。

○前漢(数字は太平御覧巻数、代表的な巻数を一つあげた)

 東方朔(2)、劉向(P鶏)、劉根(図δ)、李陵(斜。。℃)、

 馬糧(図㎝P)、 計算

〇後漢

 何瀕(食轟)、董卓(2)面癖(αお)、鍾離意(34)、梁翼

一/9

 (鴇P)、馬丁($℃)、李固(Dぴα)、李樫(N搭)、李部(鵠P)

 鄭玄(窃刈)、禰衡(26)、盧植(㎝繍)、趙岐(綴。。)、陳望

 (ま轟)、簗英(卜。&)、張純(N至)、藥瑛(轟総)、孔融(姻。。㎝)

                       計 十八

〇三国

 三王(ぴ2)、何婁(倒coO)、辺譲($一)、顧諺(咽¢。℃)、呉質

 (籍co)、費偉(蟹㎝)、曹購(成刈)、陸績(漂ム)、孟宗(卜。D℃)

 葦佗(ま0)、質蓬(図段)、婁承先(お0) 董正(c。PD)、曹植

 (&D)、曹操(n絵)、司馬徽(姻。。n)、曹肇(姻Ooぴ)、邸原(姻。。㎝)

 郡吉(PO℃)、王弼(まD)、任蝦(P里)、孫登($N)、江灘

 (㎝二)、虞翻(劔℃℃)、許遜(ム聾)、洛易(お姻)、桓階(P里)

 胡綜(\0“)、管轄(劔ミ)、管寧(まい)、趙雲(鴇ぴ)、諸葛亮

 (歯0)、諸葛恪(い\c。)魏武(歯」)、魏文帝($姻)、傅選

 (姻B)

                      計 三十六

〇西晋

 杜蘭香(図$)、何禎(咽。・㎝)、陸機(/2)、斐楷(困。。Oo)曹櫨

 (12)、王祥(おび)、雷換(57)、向秀(お\)、周処(長\)、

 江柞(P禽)、羊祐(鵠℃)、許粛(と。・)、衛醗(PO℃)、、濡京

 (駆coQo)、葡昂(咽£)、傅宣(劔cQ㎝)、山濤(合℃)、痩眠(至co)

 夏統(co望)、趙至(咽C。㎝)、薬克(C・ま)、痩異行(C。蛍)、郭文

 挙(刈0ム)、張葦(N蟹)

                      計 二十四

〇薦挙

 顧和(障翫)、顔含(堕℃)、孟嘉盒鉛)、郭翻(鳶斜)、王手

膿刈)、王纏(障ま)、王濠(NNO)、零丁(需“)、落慶(姻潟)、

 弘安(“c。0)、羅含(Dい㎝)、孫放(αco姻)、庸愚(a)、 陶侃(

 MOc。)、徐遡(一。・0)、杜祭酒(δM)、陳武(ま咽)桓舞(67)桓

 石秀(n緕)祖遜(nαc。)葛仙公(蜜)、毅浩(雲co)、仏図澄

 (64)、

                     計 二十三

〇外国

 暴虎(34)、石墨(般。・)

                       計 二

〇不明

 車凌(℃N晶)、馬明生(α唱)、王威(潟P)、孫略(刈0刈)、許蓬

 (“園)徐延年(c。ま)、桓任(刈9)、魯女生(姻℃轟)

                       計 八

 これによれば、表皿によってたしかめた傾向はほぼ間違いの

ないことが明かである。従って、別伝を有する人物の生存時代

は東晋以前であって、それ以後は殆どなかったと推定しても誤

りはあるまい。では、この各時代に亘る別伝はどのようにして

作られたものであろうか。それは又、作られた時期を考えるこ

とにもなろう。

 さて、魏晋時代においては、一家の伝記たる家伝・家記や、

一族の系譜たる氏譜の如きが盛んに作製されたことは、既に筆

者が指摘したところである(「六朝門閥の社会的政治的考察」

(長大史学第六輯))。ところが、この時代には、個人の伝記の

作製も盛んであったと思われる。例えば魏志(10)葡或伝斐注

によれば、 「何勧為(葡)藥伝日。藥字奉侍。簗諸兄並以儒術

[20

論議。、而藁独好言遣。L,云々とみえ、或は呉志(7)顧虚伝諺

の条の雨注によれば、 「陸機為(顧)煙弾日。宣太子上位東宮

天子方隆訓導之義。縄墨俊秀。講学左右。」云々とみえ、更

に魏志(21)王言伝斐注によれば、 「稜喜為(稽)康贈爵。家

世儒学。少有儒才。暖遽不華。」云々とみえ、或は又、世説新

語へ擁)劉注によれは、「(顧)榿之為父嘉日。君以直道競演於

世。入見王。王髪無二毛。而君己斑白。」云々とみえている。

或は更に、,魏志(/)武帝紀寺詣には、上谷伝なるものを多く

幽くが、それについて斐注には、 「呉人作曹購伝及郭頒世語並

云。首夏侯之子。」云々とみえていて、曹備伝は呉人の作とい

う。ところでこの曹購伝は誰の伝かというに、それは武帝即ち

心病のものであろう。というのは、魏志(/)武帝紀の嚢注に

よれば、.「太祖一名吉利、小字阿購。」とみえるのみであるが

太平御覧(93)魏太祖武皇帝の条によれば、 「姓市名童画孟

徳。漢相国曹参之後。〔曹隔伝日。太祖一名吉利。字阿隔。〕」

とあるので、元来この注は、曹隔伝の引用であったらしく、従

って阿購の隔をとって曹隔伝としたものであろう。とすると、

曹操の伝を二人のある者が作ったということになろう。

 更に又、魏志(28)鍾会伝の襲注によれば、 「会為其母悪

日。夫人重氏字書蒲。太原泣氏人。太虚帝陵成侯之命婦也。」

云々とみえ、同じく魏志(25)笹丘伝の斐注には「(辛)三女

憲英適太常泰山羊耽。外孫夏侯湛為其伝日。憲英聡明有才豊。」

云々とみえるっ

 これらは魏から晋にかけての頃に、自分の一門或は親しき人

々の為に、その人の伝を作る風習が広ぐ行われてい允ことを証

するものであろヶ。勿論、呉人作曹虚伝は必ずしもそうとはい

えず、呉牛側からみて魏の曹操の人物を評したものであろうか。

というのは、例えば魏志(1)武帝紀の■建安廿五年の条の嚢

注二曹隔伝に、 「然持法峻刻。諸将有計画帯出龍門。監随以法誹

之。及故人旧怨。亦皆無余。」という如き、曹操の酷薄の性格

を痛烈に指摘する如きをみれば、あまり好意ある人物伝とも思

われぬからである。

 しかし、何れにしても、そのような個人の伝をつくる風習は

広く行われていたこと明かである。それらの伝記は恐らくは一,

応その死後に作られたと思われるが(諜)、では、それらは一.

体何と呼ばれていたのであろうか。

 ところで、太平御覧(轟0℃)には衰宏山濤別伝なるものがみ

え、同書(\α℃)には又、曹隣県蘭香別伝なるものがみえる。

この衷遠山濤別伝は∴衷宏と山濤の二人の別伝ではなく、衷宏

作の山畑別伝と考うべきである。というのは、豊島はいうまで

もなく東食の雨露翻)であって、西晋初頭の山立(晋簿43山涛伝)とは時

代的に異るし(又山濤とは何等姻戚関係の如きもなく、彼と山

濤とを併せて伝をつくる如きことは考えられない。然るに、衰

態は、晋書文苑伝にのせられる如き、 「文章絶美」(哀壼、92晋宏伝)の人

物であるから、山濤の伝をつくったことは考えられよう。する

と、同じく卜書文苑伝にのせられている曹砒(晋爵92)も亦、杜蘭

香別伝なる伝記をつくったと考えてよかろう。

 このように、ある人物が他人の伝記をつくった場合、別伝と

呼ばれるものもあったわけであるが、そのような伝記がすべて

別伝と呼ばれたか否かは明かでない。従って、筆者はいま、上

一2/

述の如き、他人によって作られた伝記と、その伝えられた人物

名のつく別伝とを比較することによって、果してどのようなも

のが別伝と呼ばれたのかを明かにしてみようと思う。

 いま何勘が作った葡山伝の内容と、葡藥別伝として世説新語

(文

l)

イ書に引用されているものを比較してみるに、世説新語

注には、

「藥別伝日。藥字奉侍。穎川穎陰人也。太尉或之少子也。藥諸

兄儒術論議。各知名。藁能言玄遠。常以子忌称夫子毒言。性与

天道。不可得奮起也。然則六籍錐存。固聖人之糠枇。能言者不

能屈。」とみえ、更に、

「藥太和初毒悪邑。興傅椴談。善名理。而簗尚玄遠。宗致錐

同。倉卒時画格而不相得意。斐徽通彼我之懐。為二家釈。頃皿

盛与便意。」とみえている。ところが前垂葡或伝の西之に引用

する「何勧為藥愛日」には、

「緊字画情。藥諸兄並以細面論議。而藁三好言道。常以為子貢

称夫子之言。性与天道不可得聞。然則六画面存。因聖人之糠枇

藥兄兎馬日。転語云。聖人答電。’以書意繋辞焉。血書言微言胡

為不可得而聞見哉。藁答日。蓋理之微者。非物象之所誉也。…

…及当時古言者不能空也。……太和衷止血邑。康平蝦談。蝦善

名理。而藥尚玄遠。宗墨壷同。倉卒時或有血腫不相得意。斐直

通彼我旧懐。為二家騎駅。頃之。簗与年三。夏侯玄垂雪。常岨

面玄日。子等在世塗間。功名必勝我。但巡航我耳。…(下略)。」

とみえる。

 この両者を比較するに、多少の出入はあるものの、全く同一

系統に属するものであることは間違いない。ただ世説新語注引

用の葡緊別伝には、 「太雪起少子也。……各知名」という如き、

単なる説明的記事を附加している反面、 「聖人之糠枇」と「能

言者不能屈」との間にある記事を省略した為に、 「能言者不能

屈」の内容が明かでない。これ明かに、後者の記事を略述した

ものとしてよかろう。更に、世説注別伝に、「岩太郎初樹蔭邑。

与傅暇談。善名理。」というのも意味が明かでないが、元来は斐

墨引何軍士の旬簗伝の如く、 「蝦猛射理」とあったものであろ

う。蝦の字が入って始めて文意は明かである。更に、「二家書」

というものは、元来「二家長駅」とあったものを、意を以て記

したものと考えられる。世説新語(交学第四)の本文よれば、この後

半について、 「傅椴善言虚勝。心様談尚玄遠。毎至播餌。有争

而不相喩。斐翼州釈二家之義。通彼我之懐。常使両情皆得。」

と述べているが、画引慶が世説新語を編纂した宋の頃には、既

にこのように変形して伝えられていたものであろう。これと葡

藥別伝とを比ぶれば、別伝はよく何農作緊伝を伝えているとい

わねばならず、この両者は同一物であるか、少くとも内容的に

も時代的にも同一系統の非常に近い関係にある記事といわねば

なるまい。

 では、呉人作曹歯舌においてはどうであろうか。いま太平御

覧をみるに、曹岨伝として引用せる記事と、曹購別伝として引

用せる記事とがある。まず、 これらの申、雪面別伝なるもの

が、魏志(1)武帝紀その他に引く曹購伝とどのような関係に

あるかを比較してみよう。太平御覧引用のものは、(( )内は

巻数を示す)

ω曹備別伝日。特筆薫歌。勒塩入宮収后。后七戸匿砂中。歌面戸

}22一

廃壁。牽后出。 (まM)

㈲曹備別伝日。操遜遊無度。其叔数愚父。操後行逢叔於道。

     マこ

 陽焔面為ロ云。中暴風。器品富商。父国見之。操面如故。従

 此叔言不得入信。操益得縦恣。 (まM)       (マ、)

圖曹達別伝日。太祖為人桃易無威儀。毎与人談論。戯弄言礁。

 種無所隠。及歓悦大笑。至以頭投事案申。肴膳皆浩汚巾債。

 (姻コ)

㈹毒魚別伝日。浦国桓郡亦軽太祖。郡避難交州。得出首拝謝於

 庭中。太祖日。脆薄解死耶。遂殺之。 (㎝お)

㈲曹隔別伝日。太祖常行経麦中。令士卒犯麦客死。騎士無下

 馬。持麦以相付。太祖馬騰入溝中。主簿対以春秋之義。罰不加

 於尊。太祖日。制法而自慰之。何等率下。然孤為軍師。不可

 殺。請書刑。因抜劒。割髪以置地。 (匁℃)

㈲曹隔別伝日。王自判中至洛陽。起建始殿。使工蘇黄越徒美

 梨。掘之。根尽煙出。越以状聞。王躬自身之。以為不祥。遂

 寝疾。 (℃$)

という如くであるが、これらは皆、魏志(1)武帝紀にひく曹

隔伝と殆ど同一である。例えばωは、 魏志(1)建安十九年

の条斐注にみえるもので、 「曹購命日。公遣華歌。勒兵聖岳下

期。后楽聖匿手中。歌壊風発壁。牽后出。」云々とみえてい

る。これによれば「廃」と「発」の違いというような筆写の誤と

思われるものはあっても、全く同文といってさしつかえあるま

い。幻は、魏志(1)冒頭の、 「太祖豊里警。有権数而任挾放

蕩。不治行業。故世人喪章奇也。」という本文に注した曹購伝

と殆ど同意であるが、いまそれを引用してみるに、

「曹騰伝云。太祖少好飛鷹走狗。游蕩無度。其叔父数言之於

嵩。太祖患之。後逢叔父長路。乃陽敗面蝸口、叔父鋸歯問其

故。太祖日。卒中悪風。叔父以品題。嵩驚愕呼太祖。太祖口貌

旧故。嵩問日。叔父言入中風。己欝乎。太祖日。初不中風。但失

心於叔父。故岡耳。嵩置疑焉。自後叔父有慰事。嵩終不復信。

太祖中墨益得難意 。」とみえる。即ち、㈲の太平御覧引用の

ものは、魏志斐注引の記事の省略引用にすぎないかと考えられ

る。更に、圖樹樹㈲は、魏志(1)建安直五年の条傍注引墨購

伝と同様であるが、何れも省略引用であること働の場合と同様

であり、従って、何れも文意の徹底しないうらみがある。しか

し、今は煩雑にすぎるので省略に従いたい。

 このようにみてくれば、太平御覧引の曹購別伝と、魏志(1)

所引の曹朧伝は全く同じものではないのかと考えられる。し

かし、既にみた如く、その記述に多少の相違が見られるのは、

全く同じものというのではなくて、同一系統の記事にすぎない

のではないかともいえよう。そこで問題になるのは、曹隔別伝

が太平御覧に引用される時、そのまま引用されたものか、或は

可なりの省略が行われながら引用されたものであるかというこ

とであろう。若し、そっくりそのまま引用されたものであるな

らば、両者は同一系統の記事であろうということしか考えられ

ないが、省略して記述されることありとすれば、両者は同一物

をみてもさしっかえなかろう。短文とはいえ、全く合致するω

の如きがあるからである。

 ところで、太平御覧の引用文は往々にして省略脱誤があるこ

とは周知のことでもあるが、いまその一例を示せば、太平御覧

{25

(ま咽.)にひぐ呉志に曰く、「薩仮字仲土浦郡人也。其先田文封

薩σ・因以氏焉。・避地交州。士焚召為馬鐸太守。及還魂。蜀下張

奉於(孫)週報嘲尚書閾沢。沢不能答。綜日有望為独。無犬四

聖。横目狗事態入其腹。奉日。不当復別呉耶。綜応声日。無ロ

為天。有口為呉。君臨万邦。天子之都。奉無派対焉。」と。と

ころが、これを呉志(o・)薩綜伝についてみるに、 「蘇韻字敬

文、沽郡竹邑人也。少依族人寸地交州。……士撤火既附孫権e引

回……除合浦両三太守。……事畢還都。守謁者僕射。西使白

蜜。於権前。列尚書閾沢姓名。以藪沢。沢不能答。綜下行酒。

因勧曇日。蜀者何也。有犬為独。無犬為蜀人。横目洋島。虫入其

腹。奉日。不当復列君呉邪。綜応声日。無口為天.有口為呉。

君臨万邦。天子之都。於是衆坐喜笑。而奉無理対。」とみえてい

る。この両者を比較すれば、御覧が勝手に原文を省略し、更に

は附加していること明かである。薩綜の出自の如ぎは、呉志本

文にはなく、そこに引く斐注にあるものである。勿論この条

は、太平御覧人事部弁の傑にあるものであるから、御覧は蒔綜

の弁舌を中心にして書いたであろうとは考えられるが、その弁

舌を示すにしても、何故このような問答が行われたかという理

             る

由、即ち呉志にみる、張奉が閾沢の姓名を嘲ったことを省略し

ている。従って楓覧の記事をよめば、 「有犬為独。白犬為蜀。

」の語がいかにも唐突にきこえる。このよう、にみれば、原文に

忠実でない太平御覧の引用の仕方は一目瞭然であろう。このよ

うに考えた場合、・前述吻にみた如き省略は太平御覧としてはい

つでもあり得たことであろうし、又ωにみる如き一致も亦.あっ

允とすれば、、所謂曹購別伝なるものは、伺一物とみてよいので

はなかろゾつか。更に太平御覧には、.曹購伝も引用せられている

ことを述べたが、これ億全く魏志(1)武帝紀等に引くも,のと

同一のものであることは、太平御覧(95)魏太祖武皇帝の条に

引く曹購伝が、前述魏志(1)冒頭にひく曹購伝としてあげた

記事と一、二の文字の出入はあれ、殆ど同文であるごとによっ

て証明される。若し以上の如く考えうるとすれば、太平御覧に

引く曹購別伝、曹購伝、魏志(1)武帝紀等にびく曹備伝は同

一のものであるといえそうである。

 ところが、太平御覧によれば、更に曹操別伝なるものも見え

る。、一体これは曹購伝とどのような関係にあるものであろう

か。いま、太平御覧にみる虫取別伝なるものを引用すれば

①曹操別伝日。武皇帝為売州。以畢謳為別駕。発迷乱。張孟卓

 劫謳母弟。潮見僚艇。孤緩撫失和。聞卿義弟為黒煙所執。人

 早着相遠。卿可去。孤露遣不為相棄。謳涕泣日。一当以死日

 効。・帝亦垂涕答之。謳明日便走。後却下鄭。得謳還。以為

 嫁。 (P絞)

②曹操別伝日。拝操典軍都尉。還謙。浦士卒共叛。襲撃之。難句

 脱身亡走。窟平河亭長舎。称曹済南処士。臥起足創八九日。・

 謂亭長日。曹済南受敗。存亡未可知。公幸能以車中相送d往,

 還四五日。吾厚報公。亭長乃以車中送操。、畑違誰。数十里。,

 騎求二者多。操開惟示之。皆大喜。始膳是々。 (ま図)

③曹操別伝日。遠巻果勇。且有駿馬。時人為之語日。人中有呂

 布。馬中有赤土。 (咽雲)

④曹操別伝日。操破早算馬添収金宝。天子聞之鴬垣。 (㎝銀)

⑤曹操別伝日。細引埋入蜆。発意君王象。鼻塞収金宝数万卒。「

一24

 天子聞肥立泣。 (c。ゴ)

⑥曹操別伝日。滋雨忠為柿相。薄待操。浦国立出射軽油。近在

 菟州。陳留辺譲頗笑止。操殺譲。悲心家。忠、勧倶避交州。.

 操遠使。就太守士蕩尽族勧。勧福二首拝謝於中庭。操謂日。

 脚高解死耶。遂殺之。 (ぴ嵩)

とみえている。さて、ここに引いた⑥は、導引太平御覧(㎝鳶)

所引の曹購別伝と同一内容の記事であること間違いない。い

ま、⑥の全文について、雄志(/)建安二十五年の条引曹隔伝

と比較してみるに、曹島伝には、

 初衰忠為柿相。嘗以法治太祖。沸国画郡亦夷之。及在菟州。

 陳留辺譲言値藤島太祖。太祖殺譲族京家。忠、郡避難交州。

 太祖遣使。就太守士曼尽族之。桓郡得出首拝謝於庭中。太祖

 謂日。脆可解死金。遂殺之。」と

みえる。これらを比較すれば、なるほど内容は同様であり、殆

ど異同はないかの如くにも見えるが、実は太平御覧によくみ

る、単なる表現、内容の省略、文字の変更等の如きではないと

ころの、考慮すべき相違点が見出せる。例えば、震忠が「以法

治太祖」と忠良伝にあるものが、 「薄待望」とあり、 「聾心言

三富太祖」とあるものが、単に、 「昏怠」とある如きである。

即ち、曹購伝の記述が具体的であるのに対して、曹操別伝は抽

象的な表現で片づけているのである。これは単なる省略や文字

の変更ではない。勿論上述の具体的記述が抽象的記述になった

のは、原文から太平御覧に引用される時におこったのではない

かと考えられぬこともない。それは太平御覧の原文引用の仕方

について上述したところがらも想像される。けれども、太平御

覧は、既にみた如く、原文の省略引用、文字の変更、時には注

を文の如く引用する等のことはあっても、内容そのものを変え

たとは考えられぬ。従って、この曹購伝と曹操別伝とは元来別

のものであったであろう。勿論、その内容からみて、これらが

同一系統のものであることは疑いないから、曹操別伝は曹隔伝

を資料として、後に編纂し直されたものと考えねばなるまい。

 更に、太平御覧(c・£) によれば、 「曹隔虚日。呂布有駿

馬。名引導。常騎乗之。時人為之蕪辞。人中有呂布。馬中有

赤。」とみえるが、これ前掲③と同一内容である。これだけの

記事では、同一系統の両者の、何れが古く、何れが新しい記述

であるかを推定することは困難であるが、曹隔伝の方が一読し

て筋の通った書き方のように思われる。③の方は、集勇と駿馬

とを対語として記しながら、山兎の説明がない為に、文章その

ものは曹逓伝に比すればなかなかこっているのに、どうも文意

が通らない憾がある。いま、魏志(7)呂謬伝をみるに、 「布

有良馬。日赤兎。」 「曹備伝日。時人命日。人中有呂布。馬中

有赤兎。」とあるのによれば、良馬は赤兎という名であったと

炉う説明が、陳寿のよった原史料にはあったと考えられる。こ

うみてくれば、曹宇高こそ原史料或はそれに近いものであり、

③の煙嵐別伝の方は、そのこった書き方や、それにもかかわら

ず文意の通らない書き方からみて、曹購伝を資料として書き改

められたものと考えることができよう。

 不幸にして、①②④⑤については、対応すべき返縫伝を見

出し得ないが、以上の考察にして認められるならば凶寒雲別伝

と曹操別伝とは異ったものであり、而も右京別伝は曹舗伝に基

一25

ずいて作られたものと推定してよかろう。

 以上葡藥別伝の場合と、曹瞳伝の場合とを考え合せれば、葡

藁別伝の場合も亦曹購伝、曹瞳別伝の場合と同様、何心作の黒

蟻の伝と電量別伝なるものとは同一物とみてよいのではなかろ

うか。

 さて、この考を更にたしかめる為に、魏志(28)鍾会伝嚢注

にひく、 「何勧為書(王弼)伝日」とあるものと、太平御覧に

ひく王弼別伝を比諾してみよう。御覧によれば、

○王弼別伝日。弼年窮余歳。好老荘。通弁能言者。 (まム)

○王弼別伝日。弼性和理。楽遊宴。解音律。善投壺。 (M綴)

 とあるが、何勧作の王弼の伝は、次のようにいっている。 「

弼幼而察恵。年十余。好老氏。通弁能言。……性和事。嬉游

宴。解音律。善投壺。」と。この両者の相異は、単に文字の異

同、例えば「老氏」と「老荘」、 「能面」と「能言者」 「十鯨

歳」と「細謹」の如き違にすぎない。而もそのような文字の変

更は御覧引文ではいつものことである。ただ文章そのものが短

いので、断定は仲々むずかしいとは考えられるが、殆ど両者は

同一のものと見て三つかえないであろう。このように考えれ

ば、上述した何勧による葡藁伝、福人による曹京島など、他人

の作った伝記は、それぞれの人名を附した別伝という形で伝え

られていったといえるであろう。

 では、このような他人による個人の伝記はすべて別伝と呼ば

れていた・の一であろうか。ところが必ずしもそうではなかったよ

うである。

 先述の如く稽喜は前癌の伝記をつくっている。ところが世説

新語劉注には多くの稽康別伝を引いているので、その一つを引

用するに、 「康別伝日。習性含垢蔵理。愛悪不善於懐。喜怒不

具於顔。所知王国沖在裏城。面数量。未嘗見其々声。朱顔此亦

方中之美範。人倫之勝等也.し (徳行第一)とあり、他に容止(14)棲

逸(18)の条にも見える。ところが魏志(21)王藥伝斐注にひ

く、 「喜為康伝日」の条には、これらと内容を同じくする記事

は全く見えない。而も同伝の斐注には、「喜骨無伝日」と共に、

同一箇所において、 「康別伝」なるものを引用している。即

ち同一ケ所の注に、別々に注記してあるからには、これらは別

物であることは明かであり、従って、太平御覧引の「康別伝」

の記事に「喜為康伝日」と同一内容のものがみえないのは当然

といえよう。

 更に、魏志(29)管轄伝によるに、斐注に多くの管轄別伝を

引用している。然るに同伝斐注によれば、 「臣松之案。辰(轄

の弟)所称郷里太常者。謂劉実也。辰撰無血。実時為尋常。」

とみえ、宛もこの弟辰作の轄伝が亡帝別伝であるかの如き感を

与える。銭大廟はそれ故にか、これを以て管轄別伝は弟辰の作

となしている(二十二史考異15髪松之表上捜旧聞傍撫遺逸の条)。なるほど、同伝斐注をみるに

「弟辰叙日」として轄についての記事を引用している。従って

弟辰が轄の伝をつくったことは事実であるにしても、それが轄

別伝であるかどうかは明かでない。それどころか、寧ろ、嚢松

之が多くの轄別伝を引用しながら、而も別に、 「弟辰叙爵」と

して書いているのは、この別伝が辰の作った轄の伝とは異った

ものであることを示すものといえよう。

 更に、同様な例についてみるに、先述の如く鍾会は母の伝を

「26

つくったが、太平御覧(BO)にひく、「鍾会母型日。嘉平元

年車駕朝高平陵。会為中書郎従行。首骨始挙兵。衆人得替。而夫

人自若。」とみえるものは正にそれに当るであろう。そのこと

は、魏志(28)鍾会伝斐注に、 「其母伝日。……嘉平元年車駕

朝高平陵。会為中書郎従行。相国縄文侯始挙兵。衆人叩上。而

夫人自若。」とみえるところと御覧引の文を比較するに、僅か

に御覧が省略に従ったところがあるだけで、全く同文であるこ

とによって確めることができる。従って、この鍾会の母の伝は

鍾聖母伝として後世に伝わったもので、別伝とは呼ばれなかっ

たものに違いない。

 更に時代が降って東晋代の例についてみるに、陶工による

「晋故征西大将軍長史孟府君伝」(全晋文ゴN閥潜の条)なるものがみえる。こ

れは孟嘉の伝であるが、孟嘉には別伝もあって世説新語議(灘)

の劉注にみえる。いま、孟嘉別伝の一部を引用してみるに、

○嘉別伝日。難字萬年。江夏鄙人。曽祖父宗、呉可空。祖父揖

 晋盧陵太守。宗葬武昌陽新県。子孫家焉。二五以情操知名。

 太尉庚亮領事州。辟嘉部盧陵従事。下都還。亮引導風俗得

 失。云々」とみえるが、これに対し孟府君命の方には、

○君副章字萬年。江夏郡昇華。曽祖父宗。以孝行称。仕呉司

 馬。祖父揖。元康中吉祥陵太守。二瀬武感動陽県。子孫家

                           マこ

 焉。遂為県人也。君田失父。響動二戸居。嬰大司馬長沙桓公

 陶侃第十女。直門孝友。無能間。郷人称之。沖三聖遠量。弱

 冠儒朝威敬之。云々」としている。この両者は一見して異っ

た記事であること明かである。即ち、本貫も現住所も異ってい

るし、曽祖父宗の呉における官職も異っている。下書(98)の

孟嘉伝によれば本貫は別伝に等しく、晋書(15)地理志によれ

ば那県は江夏ではなく武昌に属し、又中野は陽新の錯誤と考え

られる。今は、それらの正誤は問わないとしても、,この書伝が

全く異った記録であることに異存はあるまい。

 以上の如くみてくれば、個人の伝記が作られた場合、それら

の中に別伝と呼ばれたものと、そうでない場合とがあったこと

明かである。では、どのような場合に別伝と呼ばれ或は呼ばれ

なかったかというに、兄弟、或は母子の如き一家或は一門の如

き関係の人々による伝記作製では、別伝と呼ばれることはあま

りなかったのではないか、稜喜による康伝、管辰による轄伝、

鍾会による母伝などはそれを示している。従って、前述した夏

侯湛による外祖母憲英伝、或は顧榿之による父伝の如きも別伝

とはいわれなかったであろう。これに対して、 「博学善属文。

陳説近代事。若諸劇薬。」(晋喬33何曽伝)といわれた何勧によって王弼

や葡藥の別伝が作られ、 「竹林名士伝三巻」(晋罫92哀宏飯)をつった文

学の士衷宏によって華麗別伝が作られ、同じく文章の士曹砒

(晋

T92曹砒伝)によって、半半杜蘭香別伝が作られたとすれば、別伝

は、むしろ伝をつくられる人物とは直接的関係の少ない人々に

よって作られることが多かったのではあるまいか。孟嘉別伝に

ついて、首書劃注(94)孟随伝の注に孟嘉別伝をひいて「(嘉)

別伝不知誰作。」と評している如く、 一般的には、別伝の作者

が不明であるということも、このことを『示すものの如くであ

る。従って、先黒陶潜の故征西大将軍長史孟府零露の如き、作

者のはっきりした伝や碑銘にみる伝の如きではなかったであろ

う。そのことは、例えば、文選(58) 「為萢始興作組立太宰碑

一27

表」掃引李善果に、「陳皇別伝日。建卒。藥畿為立憲。刻銘。」

という如く、碑銘は察畠が作ったこと明かであるのに、別伝の

方は誰の作が明かではないことにみる如きではなかったであろ

うか。

 では、別伝は何時ごろ作られたものであろうか。いまここに

引いた陳建別伝についてみるも、官田別伝はその死後作られたこ

と明かであるが、恐らく一般にその人物の死後遠からずして作

られたものではなかろうか。いま、作者のはっきりした別伝に

ついて考えてみるに、何勧は葡簗別伝、王弼別伝をつくったわ

けであるが、何働は西晋武帝と同年といわれ(晋書33何曽伝)従って魏末

の生活は十分知っていたわけである。これに対し伝せられた方

の葡簗は、魏末に若年二十九才にして死んでおり(魏志(10)旬蟻伝引「何位為架伝日」の条)

王弼は同じく魏末の人、正始十年即ち嘉平元年に若くして死ん

でいる(魏志(28)鑓会伝引「何勘為其伝日」の条)。この二つの別伝は土ハにその死後のもの

であることは、弼について 「時年二十四。無子虫嗣。難事卒

也。晋景王聞之。嵯歎。者累日。其飯高識所惜如此。(魏志28二会伝、斐注脚何州政其伝日の条)

というところで明かであり、 又、葡簗についても、 「歳鯨亦

亡。時年二十九。藥簡貴。不能常人交接。所交皆一時俊傑。至

薄層只者。裁十余人。皆同時知名士也。」(魏志(P)前。俵斐注目何勘為葉日の条)とある

ところで明かである。然るに何勧は武帯と同年であるから

(晋

゙の条)、寧静の卒した嘉平元年には二十才前後と考えられる

ので、廿四才で死んだ王弼と殆ど同年輩であったといってよ

い。苛藥はいつ死んだかは明かでないが、藁のすぐ兄である顕

が泰始十年(・・。Nδに死んでいることからみて(病冠)、魏末の

人であることは問違いない。従って、この二人の伝は、個人的

関係は明かでないにしても、殆ど同時代の而も当時の政治社会

に明るい、文筆の士である何事によって作られたわけである。

これらの伝は、初めは単に葡藥伝、王弼伝と称せられたであろ、

うことは、何勧の伝に(晋書33何曽伝)、 「所撰葡藥伝、王弼伝及心馳議

文章。並行二世。」という如くであったであろう。それは宛も

前述曹購伝と曹隔別伝とが同一物であることをみるならば、こ

れは始め曹購伝といわれ、後に曹隔別伝ともいわれたと考えら

れるが如きであろう。ところで、勧は恵帝永寧(・ワ「00・34)元年に莞じ

ている(晋書33何曽伝)から、如何におそくともそれまでにはこれらの伝

はできていた筈であるが、何れにしても、葡緊、王弼の死後を

去る遠からざる時に、而も両者をよく知る、同じ官僚社会に属

する人物によって作られたことは明かであろう。

 ところがこれに対して、山濤別伝をつくった衷宏についてみ

るに、山濤は太康四年(ζN・…)七十九才で莞じ(曙灘)衰宏は東

灘孝武帝太元の初に四十九才で卒している(信書92衷宏伝)ので両者は限

々一世紀をへだてた人物だといえる。

 別伝とは、一般的にいって、以上のようにその人物の死後に

作られたものであること明かであるが、しかし、十二作山濤別

伝の場合と、謡講作苛藁別伝、王弼別伝の場合とは、相当な違

がある。即ち、前者では可なりな時間をおいてかかれており、

従って、恐らくは間接的な資料によって作られたものであろう

し、後者は人物の死後間もなく書かれていることからみて、恐

らく自らの見聞や、直接的資料によって作られなものであろ

う。このように考えると、別伝の中にも大別して二種類があっ

たわけで、割合に近い時代或は同時代の人が、直接的資料にも

一28

とずいて編纂したものと、相当後世の人が、間接的資料にもと

ずいて編纂したものとである。

   第二節 別伝の内容と史料的価値

 別伝が、以上の如く、時には同時代の入により、時には、可な

り後世の人によって作られたとした場合、その史料的価値につ

いては疑問のある場合もありそうであるし、而も、一般的にい

って、別伝の筆者が明かにされていないことは、その史料的価

値を認める上に躊躇を感ぜしめないわけではない。

 では、それら別伝を史料として考える場合、それらの内容は

どのようなもので、その価値をどう評価すればよいであろう

か。次に、二、三の具体例について検討してみたい。

○承平伝(曹購別伝)の場合

 前述した如く、魏志(/)武帝紀には多くの曹購伝を引用し

ているので、先ずその検討から始めたい。

 別伝はやはり一つの個人中心の伝記であった。例えば、魏志

(1)武帝紀の初頭に、「姓曹諜操字孟徳。漢丞相此後。」とあ

るのに注して、 「曹購曇日、太祖一名吉利。字皇籍也。」(轟縮

献雛皇)とみえ、つづいて操の父嵩について、 「莫能審其生出本

末。」とある本文に対して、「呉入作曹隔伝及郭頒世語並云。嵩

古酒氏之子。夏侯惇之叔父。太祖晶帯為従父兄弟。」(魏志(ユ)武竃帝鱒襲注)

との置注がある。ところが斐注は、曹氏の遠い祖先について

は、王沈魏書を引用し、操の祖父及古画については、司馬彪続

漢書を引いて説明を加えているのをみれば、別伝はその個人の

伝記を中心として書かれたもので、祖先について書かれたとし

ても、恐らく、祖父、父ぐらいのことにすぎなかったであろ

う。 

或は又、子について記した場合もあることは、太平御覧(恨

℃)

・・フ条に、 「顔含別伝日。 (厨子)顔髪字君道。儀状厳

整。風貌端美。大司馬思議歎日。顔侍中廊廟下場。喉輪機

要。」とあり、又同書(鵠\)左右衛将軍の条に、 「王敦別伝

日。敦子応字安期。官至武衛将軍。」とみえるなどである。け

れども、やはり記述の中心は本人に関するものであったであろ

・つ。

 さて、今日知られている急騰伝の場合も殆ど曹操個人につい

ての記録であるが、その中で注目すべきは、曹操の性格を特徴

ずけるような逸話の引用が極めて多いことである。既に引用し

た曹隔伝をみても、例えば、曹操が叔父をあざむいた話、或は

軽挑の振舞のあった話、桓郡を虐殺した話、或は彼の馬が麦を

喰った時の話の如きがみえた。

 更に魏志(1)建安危五年の条斐注にひく曹購伝には、曹操

の権謀術数ぶりを描いて、

「選討賊庫穀不足。私謂演者日如何。主題日。可以小罪以足

立。太祖銀盤。後軍中言太祖豊幌。太祖再主者日。心当借満載

以厭衆。不溶事不解。鰹鳥之。取首題楽日。行小鮮盗聖上斬之

軍門。其酷虐変詐。皆此鳥類也。」とみえるし、或はその行軍

の残虐を描いて、黒影(徊)葡或伝嚢導引曹購伝には、 フ嘗京

師遭董卓之乱。人民流星東出。多依彰城間。遇太祖至。坑殺男

女数万口於潤水。水極細流。…太祖不得進。引軍賢酒針鼠。取

慮、些細、夏丘諸県。皆屠之。難犬色尽。城邑無配行人。」と

も見えている。

一29

 勿論このような逸話的な内容ばかりではなく、語志(/)武

帝紀の、 「年二十。挙孝廉為郎。除洛陽北都尉。遷豊丘会。」

に注した密室伝は、太祖が厳正な政治をなし、権豪をさけず、

職責を賄うしたことを述べ、 「於是高峻薦之。故重湯丘会。」

とあって、本紀にはない史料として、彼が頓広見に昇進した理

由を説明している。勿論、この草尽を抑えたことも逸話といえ

ばいえないこともないが、何れにしても、このような本紀の補

充史料としての役割を果した曹購伝をみることができる。しか

し、これらの例は、例えば、魏志(1)武帝紀建安二十五年の

条斐注引の下書に、 「其余。抜出細微。登為再転者。不可勝

数。是以靱造大業。文武並等。御軍三十余年。手不捨書。昼則

講武策。夜忙忙経伝。登高必賦。及造新詩。被之管絃。削成楽

章。……性節倹。不好思量。後宮衣不錦繍。侍御壷不二釆。云

々。」とのべて、曹操を文武兼備にして而も優雅節倹の人物と

                   や

して極めて美化しているのに比ぶれば、大きな相違であろう。

 少くとも、曹購伝にみる限りでは、本人中心の伝記であり、

従ってその政治的活動も可なり記されており、それによって史

書の欠を補いうる点もあったが、主としては、逸話的な記事に

よってその人物の為人を描く如き内容であったと思われる。而

もこの場合は、前序曲書の如き美化とは反対に、曹操の酷虐変

詐を暴露するという手法がとられていることが注目される。こ

の曹購伝は「呉人作」と伝えられるが、この呉人というのは、

単に江南出身の人ともとれるが、同伝の暴露的手法からみて、

三国の呉の人という意味ではなかろうか。

 では、他の人々の場合、その内容はやはり個人逸話的なもの

にすぎなかったであろうか。

 いま、萄或別伝を例にとって考えてみよう。魏志(10)葡或

伝によれば、「(建安)八年太祖録画前後功。表封或萬歳亭侯。」

とあるが、それに注した狂喜別伝には、 「或別伝載心組表日。

臣事。慮為笠寺。謀為賞本。野菊無畜廟堂。戦多子喩国勲。

……天下之定。或之茶棚。宜享高下。諸賢元勲。或固辞無野

戦之労。不通大前之表。太祖与或何日。……功未必皆野戦也。

願君勿譲。或乃受。」とみえて、時に漢の侍中、守尚書令たり

し葡或の功を表した太祖の上表、太祖が或に与えた書の如き、

他には見られない史料があげられており、或は又、同伝建安十

二年の条の、 「復増或邑千戸。合二千戸。」に対してひく斐注

の或別伝にも、太祖の表をのせている。更に庭伝には、或の野

業に注する或別伝に、 「或別伝日。或自署尚書令。常以書王事。

臨莞皆焚殿之。故奇策密謀。不得尽聞也。是時。征役草創。

制度悪所興復。……主従容与能組論治道。如此之類甚衆。太祖

常嘉納之。……前後所挙者。命世大才。邦邑則苛仮、鍾蘇、陳

華。海内則司馬宣王。及引致当世知名。動乱、輩歌、王朗、葡

悦、聖慮、辛砒、趙撮之儒。終話卿相以十数。」云々とみえて、

他の史書に見えぬ史料を提供している。

 これらは、別伝なるものが、単なる逸話的なものばかりでな

く、極めて政治的な内容を含み且つ、県主の死後、遠からざる

時期に編纂されたものであることを思わせると共に、葡或の身

近に残っていた資料を充分利用しうる人によって作られたこと

を推定せしめ、従って、その史料的価値の高さを認めざるを得

ざらしめるものといえよう。更に、その書法からみて、葡或に

一30

好意的な人物が、彼の功績を残そうとして編纂したものである

こともほぼ誤りあるまい。

 このような例は、呉志(/2)虞翻伝の嚢注に、 「翻別伝日。

(孫)権即尊号。翻因上書日。云々。」として、翻別伝に彼の上

表文をのせているが如き、或は蜀志(6)趙雲伝心注にひく雲

別伝に、 「雲別伝載後主詔臼。云々。」とあって、蜀の後主が

雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られるのであって

・これらは共に、一般史書の欠を補う貴重な史料といわねばな

るまい。その他、史書の欠を補うという意味では、例えば魏志

(21)劉嘆伝の、 「黄初二年並。」とあるのに注した膜別伝に

は、「嘆別伝云。時年四十三。」とあるが如き、或は魏志(14)

程呈伝に、呈の孫暁について、 「暁別伝日。曉大著文章。多亡

失。今之存者。不能十分之一。」とあるが如きものも見える。

 以上によれば、別伝は必ずしも逸話的な内容のみならず、公

文書乃至はそれに準ずる文書を収めることもあり、他にも種々

史書の欠を補うものがあったといえるし、従って、その史料的

価値は極めて高く評価せられて然るべきものがあったといわね

ばならぬ。

 このようにみてくれば、別伝には逸話的なものの多い場合も

あったが、或は又政治的な根本資料に遡って書かれたものもあ

ったといえるようである。しかし、曹騰伝の場合は、思人の作

であったということが種々の意味でこの別伝を逸話的なものに

したのかも知れないし、或は又、曹操の人物が事実権謀にたけ

た人物であったが故に自ら逸話的な記述が主となったというこ

ともあろう。けれども、その他の別伝についてみたところによ

って、明かな如く、別伝の史料的価値は、高く評価されてよい

といえるのではなかろうか。

 次に、西門の人物についての例として、衛堺の場合をみると

しょう。いま、衛醗別伝を引用してみるに、

①堺別伝日。班穎識通達。天画像令。鼻血謝皇位。敬以亜瓦之

 礼。論者以為。出軍隔子、平子、武子之右。世成謂諸王三子

 不如母家一罪。婆楽民事。嚢魚道日。妻父無氷清之姿。培有

 壁潤之望。 所謂秦晋墨黒也。為太子洗馬。永嘉四年南至江

 夏。与兄別於梁里。澗語日。壁塗之義人之二重。今日忠臣致

 身之運。可不勉乎。至宇高乃卒。(世説新語言語第2’測量)

②娩別伝日。恥少有名理。善易老。自由明哲。初不於外時相酬

 対。皇軍歎日。衛君不言。言必入真。武昌是大将軍王国。敦

 与談論。容嵯不能自己。(同上文学第四注引)

③醗別伝日。輪有虚令聞秀、清勝之気。在華伍睡中。有異入之

 望。祖太保見跣。五歳。日。此皇神爽聡薫化衆大異。恐吾年

 老年及見爾。」(同上識竪第七注引)

④聖別伝導。険至武昌見王敦。敦与之談論弥 日。信越。敦顧

 僚属日。昔王輔嗣吐金声於中朝。此子今復玉振於江表。迂言

 早緒。絶而復続。不等。永嘉之中。復聞正始略音。阿平如在

 当復絶倒。(同ヒ書賞誉第八ド注61)

⑤醗別伝日。珍少有名理。善通荘老。瑛邪王平子高気西翠。遙

 世独傲。毎聞聖賢語。三差理会之間。要人之際。頼絶倒於

 坐。前後三聞。為之三倒。時人陰日。衛君血道。平子三倒。

 (同上書二八第八ド注引)

⑥醗別伝日。永和中劉真長。細面祖共商略中朝人。或問。杜弘治

「3/

 可方衛洗馬不。謝日。重囲比。其間可容数人。(胴酷九注引)(太平御覧轟盆)

⑦醗別伝日。標三王済。翰之舅也。嘗与同遊。語人日。昨日吾

 与外生坐。若明珠之患側。朗然未照人。(階説新語容止第+四注引)

⑧跣別伝日。馬素抱七言(同上)

⑨玖別伝日。研翠蔓伍睡中。本有異人之望。拝観時乗白羊車於

 洛陽上。威日。誰家舌人。於是。家門州党号壁人。(盟購誹糊

 ・・」N&曽)

⑩翰別伝日。琉成和中心遷於駒留。丞相王公教学。洗馬明当改

 葬。此君風流名士。海内民望。可脩三牲之祭。以敦旧好。

 (太平御覧㎝呂世説新語傷逝第十七注引)

⑪磁壁別伝云。玩千里有令聞。太勲爵君見而問日。老荘与聖教

 異。玩日。将士同。太尉善其言。辟之為橡。別号三語橡。王

’君民田之日。一言三富。何仮於三。玩日。苛是天下民望。亦

 無言宝飯。何復仮於一言也。(北堂書釣68Q芸文類聚19太平御覧。。巴)

⑫衛醗別伝云。琉於武昌見大将軍王敦。与之談論弥日。(化堂書沙3金O」)

⑬衛醗別伝日。二字叔宝。背黒玩千里有令聞。当年太尉王妙見

 而問日。老荘与聖教同異。院日。将無同。太郎善証言。而辟

 之自賠。直立三語橡。君見而嘲三日。一言可辟。何仮三。玩

 日。葡是天下民望。可無言而辟。復何仮於一言。(太平御覧N8)

の如くである。一般に、この頃の別伝をみるに、例えば世説新

語にひく、 「霊光禄別伝日。裕字思暖。陳留尉氏人。祖堂斉国

内史。父頻汝南太守。裕滝里有理識。累遷侍中。以疾築室会

稽刻山。徴金紫光禄大夫。不就。年六十一卒。」(徳行第一引)とか、

「(萢)宣別伝日。宣字子宣。陳思人。漢莱蕪長駆丹後也。年十歳

能講詩書。児童時手傷改容。家人以其年幼。皆異之。徴太学博

士、散騎常侍。一盛所就。年五十四卒。し(徳行割引)という如く、

姓名、本貫、祖先、人物評、政治活動、逸話、官職、卒年とい

う如き書法が用いられていたようである。そのことは、世説新

語にひく、多くの別伝を一瞥しただけでも明かであろう。勿

論、世説新語の注は、世説の本文を理解する為の注釈であるか

ら、別伝に限らず、他の引用書でも、その人物の出自、為人を

説明する為のものが多く、従って、その内容が限定されて引用

されている場合が多いように思われるっそれと同じく、別伝の

引用にあたっても、さしあたって本文理解の為の、最少限度の

引用しかなされていないが故に、この玩光禄別伝、萢宣別伝の

如き書法が用いられているかとも考えられる。勿論遅引衛醗別

伝をみれば、別伝の内容は常に必ずしもこの二者の如く簡単な

ものであったとは考えられないとはいえ、矢張り本質的には、

この両者の内容と異るところはなかったとしてもよいようであ

る。 

いま、衛醗別伝について、注目すべき点に検討を加えなが

ら、その史料的性格を考えてみよう。

 先ず内容についてみるに、これら別伝には、本貫、出色等が

みえないけれども、⑬に「琉字書宝」とみえるところがらみ

て、姓名、本貫、祖先等があげられていたことは間違いなかろ

う。更に官職については、どのように建家し、どのように累進

したかは全く見えず、ただ太子洗馬であったことをいうのみで

あるが、衛鹸は一書(備響のその伝によるも、洗馬以前には、

太傅西閤祭酒であったのみであるから、或は省略されたのかも

知れない。享年もこの引用文の限りではみえないが、①で卒し

一翌一

たことをいい、⑩で三富の改葬のことをいっているから、卒年

も勿論原文にはあったものとせねばなるまい。

 以上の如く、衛班の経歴は極めて不充分にしか明らかにされ

ないのに対して、その人物評や逸話の如きは極めて豊富であ

る。ここにあげた衛跣別伝は、すべてその人物評であり、人物

を知る為の逸話であるといっても過言ではない。先にも指摘し

た如く、別伝には、逸話的な内容の多い場合や、政治的な色彩

の濃い場合などがあったわけであるが、この衛跣の場合は、寧

ろ逸話的な内容を多く含む場合であったといえそうである。

 では次に、内容のもつ史料的価値という点から考察してみよ

う。先づ注目されるのは、この別伝の成立は、少くとも威和以

後のものである。それは⑩の引用文によって明らかであろう。

衛斡が死んだのは、 「永嘉六年卒。時年二十七。」(再認)とさ

れているが、これは①にみる如く、予章においてであったであ

ろう。それが威和中(・』§よ・・轟)に至って改葬されたことは、晋

書(36衛蝿伝)にも、 「成和中頭螢於江寧。丞相王指教日。衛洗馬明

当改葬。云々」とあるところで明らかである。

 然るに、⑥によれば、永和中に、劉真長(くく多[)と質草祖(尚)

とが人物を商略したことが見える。とすれば、この別伝は成和

よりも後の、永和中(〉 づ。。&1。。♂)以降に書かれたものと考えねばな

らぬ。とすると、彼の死んだ永嘉六年(〉惑)からすれば可なり

の年数を経て書かれたものと考えられる。

 しかし、この別伝が直接的な資料に基ずいて書かれたもので

あることは疑う余地がないようである。いま、このことについ

て検討するに、艶書(6ろ)鴬張伝には、

 「浪邪王澄有高名。少所推服。聴聞辮言。軌歎息絶倒。故時

人為之語日。衛甥談道。平子絶倒。澄及王玄、王済五音盛名。

射出笹下。世云。王家三子不如露家一縷。玲妻沼楽曲有海内重

名。識者以為。婦公朝清。女婿玉響。」とみえるが、これを別

伝にみれば、⑤及び①に当るであろう。この場合注目されるの

は、⑤の別伝では説明が極めて旦ハ体的であること、例えば粗塗

に「翼廊」としかいわないものが、細筆道(遽)として明記さ

れている如き、或は晋書では王平子絶倒の理由が記述されてい

ないのに対して、これには明確に理由を示している如きであ

る。更に、別伝の人名は皆その字を以て記されていることで、

それに関して、前にもあげた宇都宮氏の言葉をかりて説明すれ

ば、「その(撹説新語-筆者注)文章のスタイルは、決していずれも同じ

ではないが、多くは生のままのことばをすぐ文章にしたという

感をあたえている。たとえば、人の名など諜はあまり用いず、

字または官名などが用いられる。院歩兵、庚公、謝前志などと

いい現わされる場合が多くて、玩籍、紺珠、謝安などという

表現は割合に少ない。すなわち、口うつしの文章の特徴は、こ

ういう点にも、まざまざと現われていると思う。」(鞭芸能鞭舗

鵬訣L)という如きが、この場合にもちやんとあてはまるといえ

よう。即ち、王澄、王玄、王済という晋書の表現に対して、ここ

では、平子、眉子、武子といわれ、謝観という代りに謝二幅と

いわれているし、⑥によれば劉憐が劉真長、謝尚が謝仁祖とあ

り、更に、杜叉が杜弘治といわれている。このようにみれば、

この別伝が、たとえ永和以後多少の年月を経て書かれたもので

あるとしても、そこに集められた資料は直接的な資料であった

一53

といえるであろう。そのことは、⑥の問答おいて、払暁が人物

評の対象となっていることは、彼が尚当時の人々の心の中に生

きていたことを示すものであることによっても明らかであろ

う。 

更に、官仕(49)玩籍謄の条によるに、 「(司徒王)戎封

目。聖人貴名教。老荘明自然。其旨同異。謄日。田無同。戎雷

魚良久。亡命辟之。時人瓦之三語橡。太尉王術亦重之。」とみ

える。これは別伝の、⑪、⑬にあたる記事であるが、別伝に

は、晋書にみえない内容ものべている。ところが、これと同じ

内容の記事が世説新語文学第四にも見えている。これは、 「玩

宣子(修)有令聞。太竜王夷甫見而夕日。老荘与聖教同異。対

日。将無同。太尉善其言。辟之性具。世謂三語橡。衛塊嘲之

日。一言千言。何吉平三。宣子日。荷是天下人望。亦可無言宝

前。復虚仮一。遂相与為友。」というものである。この三者を

比較するに頗る異った点がある。先ず第一には、太尉王君と司

徒王戎と太尉王夷甫という点、次に王氏と対話したのは玩千里

(謄)かそれとも玩宣子(修)かの点、更に、嘲ったのは王君

か、君か、衛琉かという点、の如くである。

 先ず一番簡単な最後の点からみるに、⑪では「王君因嘲之」

としてあるが、これでは意味が通じまい。忙忙とすれば最も意

                    ら

味が通ずるようである。ところで⑬の「君」というのは誰かとい

うに、衛跣別伝の記録中の「君」であるから勿論衛耽のことで

あろう。すると、別伝も亦元来は衛琉の意味で「君」と書いて

いたに違いないが、⑪はそれを「王君」と誤ったものと考えね

ばなるまい。従ってこれは、別伝⑬及び世説文学本文を正しい

とせねばなるまい。

 ところが他の二点は仲々厄介であって、必ずしも明快にとけ

そうにはない。先ず、上記三記事を比較するに、記事の書き方

で一致するのは別伝⑱と世説文学篇があろう。即ち質問者が太

尉王氏であり、批判者が衛険である点の外、 「老荘与聖教同

異」とか、 「太目善其言。」とかいう書法が一致する。然るに

晋書では、書法が寧ろ修飾的であって、内容を率直に表現する

という手法ではない。このことからみて、別伝⑬と世説文学篇

は同一系統の資料によったもので、而も前述した如く、別伝が

直接的資料に基ずいて書かれたとすれば、この両記事は、混書

よりもより原資料に近いものと考えざるを得ない。

 このように考えても、これは一般論で、すぐに二尉王君門は

王夷甫と司徒王戎の何れが正しいか、院千里と玩宣子の何れが

正しいかの解決には役立ちそうにもない。しかし、別伝⑬と世

説文学篇が同一系統の記事であるなら、太尉妻君は文学篇の如

く、王夷甫のことであろうことは推定される。

 さて、晋書(45)王戎伝及び王術伝をみるに、王戎は司徒、

王術は司空、司徒、太尉となっているし、何れも西下末の人物

であるから、司徒馬面、密事轟轟はありうるわけである。又、

聖書(49)玩籍伝によるに、謄も修も鳶職に西晋末の人物である

から、何れもこの頃辟召をうけうる立場にあったようである。

然るに、秘書(49)謄の条には前記の如く彼が司徒の檬として起

志したとし、修の条には、 「修居士。年四十飴未必室。……王

覇時為鴻愈々。謂修日。卿常二食。鴻臆丞差有禄。丸作不。修

日。報復可爾耳。遂為之。」とある。これによれば修は鴻膿丞に

一54

起家したと考えられるが、若七院修の起家の記事が正しいなら

ば、三語橡は修ではなくて、謄であったということになろう。

もしそうであったとしても、辟召者は一体王戎であったのか、

王将甫(一幅そ)であったのかの疑問は残るわけである。

 そこで、今一度晋書に返るに、司徒王春が謄を慰したとした

後に、 「太尉王量器雅重之。」と付け加えている。その上、別

伝の「君見而嘲之日」以下を省略しているわけである。これは

実は、謎々慎重な記述の方法ではないかと筆者は考える。

 というのは、現行続書の、此条の原資料の筆者は、恐らく三

語橡に関する二通りの説-玩千里と院宣子の一を知っていたで

あろう。それと共に、司徒王戎説をとるからには、これにも翻

心徒と王術説があったにちがいない。そしてその決定にあたっ

ては、別伝乃至は世説文学篇、或はそれ以前の資料をよく読ん

だに違いないが、その解決に苦しんだ結果、司徒王戎説をとる

と共に、 「卑見而嘲之」以下を省略したのではなかろうか。い

ま別伝によってこの話の筋をおってみると「院千里の言をよし

として王千重が辟召した。ところが衛疏がこれを嘲った。そこ

で院が、 『荷是天下民望。可無言而辟。復何仮於一言。』とい

った」ということになる。ここの院というのは、何も考えない

で読めば玩千里ととるの外はない。世説文学篇によったとし

ても、玩宣子が対話して、後に玩宣子が「萄是天下人望云々」

というのであるから、同一人とみていること別伝⑬と同様であ

る。しかし、よく考えてみれば、これは甚だ筋の通らない話で

ある。というのは、三語の橡と呼ばれた院千里を衛班が嘲った

のはわかるとしても、そうよばれた玩千里自身(文学篇では玩

宣子自身)が、 「何量器一言」といったというのはおかしいめ

で、衛醗に対する反論としては成立しても、自ら及び自らを辟

召した人物をも批判する形となるからである。従って、現行証

書の原資料の編者は、このようなややこしい史料を除いて、院

千里を三語橡と決定し、玉戎を認めたものであろうが、それで

もなお一抹の不安あるままに、 「太玉術雅重之」と付け加えた

ものではなかろうか。

 これは全くの推定であって、何故院千里と決定し、玉戎を認

めたかについての決定的な材料は見出せない。ただ別伝と世説

文学篇の記事を筋を通して考えるとすれば、前述の如く玩千里

が橡として辟召されたことを認めれば、 「苛是天下民望云々」

といったのは、勿論玩千里ではなく、他の第三者的人物でなけ

ればならぬ。そう考えればそれは恐らく玩宣子であったであろ

う。その点文学篇が玩宣子をこれにあてたのは筋が通るわけで

ある。但し、文学篇の如く対話した人物も亦玩宣子とすれば筋

は通らなくなること前述の如くである。従って玩千里が三語橡

に辟され、その批判者として衛琉があり、更に玩宣子があった

と考えれば、この話の筋は通ることになる。こう考えると、別

伝⑬と世説新法文学篇の記事は同一系統のものであって、恐ら

く原形は別伝に近いものであったのに、文学篇では、太尉に王

夷甫と注し、冒頭の玩千里を玩宣子と誤ったものと考えること

とができよう。誠に単なる推論にすぎないけれども、若し以上

の如く考えることも亦可能であるとすれば、恐らくは現行晋書

のこの条に関する記述のもとになった資料の編者は、その慎重

な記述にもかかわらず、疑問点を未解決なままに逃避したもの

「35

と考えられ、別伝や世記新語文学篇の記事によってそれを補う

ことができるといえるであろう。

 さて、始めに立返って考えるに、衛醗別伝が以上の如きもの

だとすると、別伝にみる資料は直接的な資料或はそれに近いも

ので、史料的価値は極めて高いといわねばならぬ。しかしなが

ら、衛琉別伝が逸話的或は人物評的記述に終始しているのは何

故であろうか。それは恐らくは、晋書の彼の伝(晋轡36土瓶伝)によって

も明かな如く、彼は若くして死に、殆んど政治的経歴はなかっ

たが故であろう。その人物がすぐれていたことは、別伝による

も療養の伝えによるも明かであるが、とり立てていうべき政治

活動はなかったのであった。

 このように少くとも衛翰別伝に関する限り、その史料的価値

は極めて高いと思われるが、 「不知豊作」 (晋書餌注孟書伝注)といわれる

孟嘉別伝においてはどうであろうか。いま、最も詳細に孟嘉別

伝を引用している世説新語識豊第七劉注によるに、

 (孟)嘉別伝日。嘉字萬年。江夏郡人。曽祖父宗。呉司空。

祖父揖主唱陵太守。宗葬帝位陽新里。子孫家焉。嘉這這清操知

名。白蔓庚帝位江州。辟嘉部盧陵従事。下皇儲。亮引間風俗得

失。対日。待還当問従事史。亮挙塵尾掩ロ而笑。語弟翼日。孟

嘉故是盛徳人。転勧学従事。太傅楮褒有戯言。亮正旦大会。衷問

亮。動詞春画孟嘉何在。西日。在座。卿但自覚。衷歴観久之。

指嘉日。将無是乎。亮欣然而笑。嘉裏得嘉。奇嘉為衷所得。乃

益器之。後高征西霞参軍。九月九日温遊竜山。参寮畢集。時佐

史並著戎服。風吹嘉帽堕落。温戒左右。勿言。以観其挙止。嘉

初不覚。良久如厩。命取還之。令孫盛作文嘲之。成著嘉坐。嘉

答還即。四坐嵯嘆。嘉喜酎暢。愈多不乱。温問酒有畑好而卿嗜

之。嘉日。明公未得酒中趣爾。又問聴連々不如竹。竹不如肉何

也。多日。漸近自然。転従事中郎。雲足史。年五十三卒。

とある。

 この別伝も亦、姓名、本貫、祖先、人物評、為人を示す逸

話、官職、連年等を揃えた曲押型的な別伝である。但し、これは

長文とはいえ、必ずしも別伝の全文ではない。例えば、太平御

覧(漂㎝)従事の怨讐の嘉別伝によれば、 「庚亮辟嘉為勧学従

事。亮盛脩教学。高選儒官。」とあり、前堂書紗(75)従事の

指引の嘉別伝には、 「庚亮抜嘉為勧学従事。高選儒官。嘉値尚

徳之挙。」等と見え、又、芸文類聚(4)九月九日の条引の嘉

別伝によれば、 「嘉密々温参軍。既和而正。温甚重之。九月九

日温遊龍山。……温謂左右及賓客。勿言。以観其挙止。」等と

世説新語細引嘉別伝にない記事が見えるからである。ところで

孟嘉には前述した如く、幸いにも陶潜作の「晋再征西大将軍長

史孟府君伝」がある。(雛敏㌔)これは作者のはっきりした伝で

あるので、これと比較して着剣別伝の内容を考えてみよう。府

岩伝の全文引用は省略するが、いま別伝と翻意伝の相違点をみ

るに、

一、

{貫は、別伝江夏黒人とあり、府黒帯は江夏郡人という。

二、曽祖父宗は、別伝は呉の司空といい、府君伝は呉の司馬と

 いう。

三、宗を葬ったのは、別伝は武自重新古といい、府君伝は新講

 県という。

四、府君伝には、嘉の妻は長沙桓(郡)公陶侃の第十女という

一36

 も、別伝なし。

五、府君伝には、同郡郭遜及び郭立の記事あるも別伝なし。

六、府君伝には秀才にあげられたりとするも、別伝なし。

七、重語は別伝五十三、府君伝五十一。

などが主なものであろう、同じ内容は、

1。祖父揖盧陵太守たること。

2。

・ヤの勧学従事として応対せしこと。

        のぜ

ゑ何南楮哀が孟嘉を見出したこと。

4。九月九日に関する記事

5。

事�ニの酒庫三宝についての問答。

などである。即ち、両者は大体似たような内容の記述を含む

が、郎君伝の方に別伝にない内容の記述があり、その他多少相

違する点が見出される。しかし、同様な内容の記述であっても

必ずしも全く同様ではない。例えば九月九日の宴についての府

勾画の一部を引用するに、 「君山草翻意。温甚重之。九月九日

温遊龍山。参画畢集。四弟二甥成当盤。」とみえて世説新語所

由別伝にみえぬ記事がある。勿論、 「色和而正。」というのは

前引の如く芸文類聚(4)引別伝にもあったが、 「四弟二女唇

面坐。」というのはどの別伝にも見出せない記事である。この

ようにに府君伝は、別伝に全く見えない記述があり、別伝の方

は全文が伝わっているとは考えられないとはいえ、陶潜は恐ら

く別伝の作者が見なかった資料をもっていたのかも知れない。

とはいえ、府君子が必ずしも正しいといえないことは既に前に

も一言したところであるが、更に、呉志(5)孫皓伝によれば

「司空孟仁(宗)卒。しとあって、最後に孟宗は司空であっ允

ことは明かであるが、そこに引く斐注呉録によるも孟宗が司馬

となったことはいわぬ。更に、府君伝には、大司馬長沙桓三章

侃第十女とあるがこれは勿論誤りで「贈大司馬、長沙郡公陶侃

」(鴨.臨)のことであろう。或はこれは全三文における筆写の誤

かも知れないが、陶淵明集(5)中の、 「晋遠征西大将軍長史

孟府君伝」にも同様にみえる。以上のように考えてくると、ど

うも府君伝は正確な資料によったとはいえず、むしろ別伝の方

が正しいように思われる。

 いま、晋書(98)孟嘉伝をみるに、その内容は、

一、本貫は江夏鄙人、二、曽祖父は司空、三、塵亮との対話、

四、楮衷、孟嘉を見出すこと、五、九月九日の記事、六、酒壷

聴妓のこと、七、、卒年五十三、とあるのみで、世説新語画引孟

嘉別伝と大同小異であって殆ど異ると二ろはない。ただ、祖父

揖、盧陵太守というのが乱書で抜けているだけである。従っ

て、現行心事がよった資料と、孟嘉別伝のよった資料とは同一

系統のものとみてよく、府量感の資料は、それらの外に違った

資料が附加されているものといえそうである。そうすると、別

伝や現行図書の孟嘉伝資料の系統の方が古い資料であって、陶

潜はその後の資料によってこれに附加したものというべきであ

ろう。而も府君伝の内容に錯誤の多いことは必ずしもそれが正

しいものとはいえないことを示すものであろう。ということ

は、このような恐らくは東晋末に書かれたと思われる府君伝…

宗書(95)陶潜伝によれば、彼は元嘉四年卒一は、東面末の人

孟嘉の死を去ること遠からざる時代に書かれたにかかわらず、

必ずしも別伝より正確であるとはいえないわけであり、逆に二

一57

伝の史料的価値を証明するものであろう。

 ところで、別伝には、その人の死後遠からざる時期に書かれ

た別伝と、可なり後になって書かれた別伝どがあると考えてき

た。上にみてきたそれぞれの別伝は、直接的資料にもとずいて

書かれたと思われる、史料的価値の高いものであることを確認

したが、それらが何時書かれたかは、必ずしもはっきりしてい

たわけではない。それにも拘らず、それらが直接的資料にもと

ずいたものとすれば、その人物の死後に作られたことは勿論で

あるにしても、それほどその死を下ることのない時期、少くと

も直接的資料の手に入る時期に作られたものであることは間違

いないであろう。

 ところが、これに反して衷宏による山濤別伝の如く、可なり

の時代をへて作られた別伝、或は曹砒による神女権蘭香別伝の

如く、この世の人でもない者の別伝の場合、どのような内容で

あろうか。

 衰宏の山濤別伝は、寡聞の故か、僅かに太平御覧(お℃)に見

える、 「衷心山濤別伝日。陳産院籍謙国寮母鼻高粛々識。少有

陪密契者。濤初不識コ一与相判。便石神交。」というもののみ

かと考える(初掌記18にも同文の引用あり)。 ところで衷宏は、その伝(蝶、)によれ

ば、「竹林名士伝三巻」をかいているので、竹林の七賢に興味を

もっていたことは明かであるから、その一人である山号の別伝

もこの名士伝と共に作られたものと考えられる。すると、同じ

く七賢の一入である稜康の別伝も、早旦の作ではないかとの推

察もあり得よう。それはとも角、竹林名士伝を書く為にあつめ

た資料は、また山続別伝の資料でもあったと考えてよかろう。

その資料がどのようなものであったかを明かにすることはでき

難いにしても、ほぼ一世紀をへだてて書かれたこの場合、必ず

しも直接的資料がなかったにしても、少くとも衷宏が卒した雄

武帝太元初年(二手92嚢宏伝)より可なり以前に書かれた資料にもとずい

たことは明かであるから、今日から見れば、少くとも当時の資

料の内容を伝えたものといえるであろう。

 次に曹砒による杜蘭香別伝についてみるに、砂書(92)曹砒

伝には、 「時桂町張碩為神女帝蘭香所降。砒因島二篇血止之。

井続蘭香歌詩十篇。甚有文彩。」とみえている。従って、杜蘭

香別伝は、その座面の別伝であろうが、太平御覧(個℃ぴ)による

と、 「曹砒神女杜蘭香伝日。神女姓杜字蘭香。自云。家在青草

湖。風溺。大小尽没。香高年三歳。西王母接而養之於毘需之

山。於今千歳 。」とあり、この蘭香が降ったのは、晋太滋雨

のことであるという(太転御覧㎝6)太平御覧にひく曹砒杜蘭香別伝によ

れば、何れも神仙の記事であって現実的なものとは思えない。

曹砒がどのような考でこれを作ったかは不明であるが、噂にき

いた話をもとに作られた一種の伝説的なものであろうか。この

ような別伝は他にも見えるので、例えば、太平御覧(姻逡)に、

魯女生別伝をひいて、 「単票生長楽人。少好学道。初服胡麻。

乃求絶穀八十鯨年。日更少壮。面如桃花。日行三百里。」とみ

える如きである。このようにみれば、別伝の中には、当時の伝

説的逸話をもって、神仙的人物を描いたものもあったわけで、

必ずしも史実として受け取れないものも可なりあったであろ

う。 

若し以上説き来ったというところに大過なしとすれば、 一般

一58

に史上にみる人物についての別伝は、これを多くは史料的価値

の高いものとして、考えてよいであろう。たとえ、可なり年代

をへだてて作られたものもあったとしても、その史料的価値は

必ずしも正史に比して劣るものではないであろう。勿論、杜

蘭香別伝、魯女生別伝の如きは神仙的説話であって、当時は或

は事実として考えられていたのかも知れぬが、今日ではそのま

ま受取り難い記述である。

 ところが、第一節において別伝ではあっても時代的に他の別

伝とずれがあり、例外的なものとして考えておいた前漢の別伝

があるが、これも、実はこの杜蘭香別伝、魯女生別伝に類する

ものではないかと考えられる。即ち、東方朔については、漢書

(65)の東方朔伝の賛によるに、 「其事浮浅。行於衆庶。童児

牧賢。莫不眩濯。而後世好事者。因取奇言怪魚。附著之朔。故

詳録焉。」とあり、その師古の注に、 「此伝所以詳録朔之辞意

者。為俗人粒粒奇異妄於朔故耳。欲明伝所塩切。皆非其実也。

而今之為漢書之学者。猶命取他書雑説。細砂東方朔之事。以博

異聞。良将歎 。」としている。このように、漢書東方朔伝自

身が既に巷間の雑説をとり入れ、更に後世の学者が異聞をこれ

に附会しようとしたとすれば、この別伝も亦その部類の一つで

なかったとはいえまい。又、劉根別伝の太平御覧(74)に引用

するものをみるに、 「頴川太守高聖君到官。民人疫。郡中畑

史。死者過半。夫人、郎君悉得病。従根求消除病気之術。根

日。於庁事之潮上。穿地取沙三才。着毒素淳酒三升沃其上。府

君従之。病者悉得愈。疫気絶。」とあるのが、真夏は方術の士

であり、伝説的要素の多い人物であったといえよう。

 更に粗卑は、漢書(05)芸文志にみえる如く、皇帝の時光禄

大夫であって、経伝、諸子、詩賦を校せしめられたほどの学者

であった。それにもかかわらず、彼には専伝がない。恐らく後

世の学者が、彼の専伝に代るものとしての別伝をつくったもの

ではあるまいか。

 次に李陵は有名な李広将軍の孫、彼自身亦武帝の時、将軍と

して勾奴との戦に従ったが、遂に敗れて蛇座に降り、直航にあ

ること二十鯨年にして卒した(漢書54李広口)といわれる、極めて数奇な

運命の持主であった。

 以上のようにみてくると、これらの人物はそれぞれ、後世の

人がその伝説的説話を伝えるのに都合のよい条件があったよう

である。別伝の中には、上述の如く説話的な要素の強いものも

あったわけであるが若し後世の人が古い時代の人物の別伝を作

るとすれば、それに都合のよい人物がえらばれたであろう。そ

の結果として、前漢時代の上述の如き入々の別伝が作られたの

ではないかと考えられる。勿論以上の推測は、前漢別伝を例外

的なものとする前提のもとでのことであるが、後漢以降一特に

その後期iの別伝の多いのに比べて、前後代の別伝が極めて少

いのは、それらが人物の死後遠からずして、作られた如きもの

ではなくて、別伝作製の風潮が起ってから、後世の人によって

作られた特特例的なものだからと考えるのは無理ではないであ

ろう。

 さて、話がここまで進んでくると、序言中にふれた左思別伝

について一言せねばなるまい。全晋文(武ぴ)左思別伝の厳可均

の注によれば、可均は意思別伝を道聴塗説にすぎないとし、現

[39

行愛書がこの別伝を採用しなかったのは一見識であるとしてい

るが、 一体それは如何なる事情によるものであろうか。いま、

その重要問題点を指摘する為に、廻書(92)左思伝によって、

左回が三都賦をつくった時の事情をみるに、 「及翼成。時人未

之重。思自以。全作不要班張q軸木人山言。安定皇甫認有高誉。

思造而示之。泌田々善。為其賦序。張載量注魏都。劉蓬注耳蝉。

而序之日。……陳留衛灌又為思面作略解夕日。…自是之後。窮

鼠於時。文多不載。司空空養。見而翌日。班張之流也」とあるが、

この点につき左思別伝は、 「思艦載載問婚蜀事。交接亦疏。皇

甫詮西州高士。摯仲治宿儒知名。非思倫匹。劉淵林。衛伯母拉

蚤終。皆不為雲影序注也。里諺注解。皆思自為。欲望時人名姓

也。」(世説新語文学第四注引)とみえて、これらの序注解と称するものは、左思

の自作にすぎないとする。 これに対し、厳並並は、借書を以

て正しいとし、別伝は単なる道聴塗説にすぎず、 「執虞は宿儒

であろうとも、左思と同じく面面の二十四友の一人であるから

官署にすぎず、衛権(灌は誤である)劉蓬は勿論早く死んだけ

れど、だからといって注解を作らなかったとはいえず、その証

として、皇甫序、劉注は文選注にみえ、衛序は臨書にみえる。

而も魏志衛蝶伝の注に、衛権の序はまあまあだけれど、注の

方はただ紙を汚したにすぎぬつまらぬものだと斐松之が評して

いるが、もし左思自らが注したとすれば、そんなつまらぬ注は

つけなかったであろう」(全晋文一δ二巴別伝注)としている。この可均の注をみ

れば、なるほど別伝の説は誤りで、晋書がそれらを採用なかっ

たのは確に一見誠であろう。とはいえ、今までみてきた如く、

別伝が一般に史料的価値が高いという考え方からみるに、一概

に左思別伝を道聴塗説として退ぞけるわけにはいかぬ。即ち、

これら三都賦の序注の類は、左思の自作にすぎないとの説も、

当時一般に流布していたのではなかろうか。というのは、左思

が三都賦の前に作った皇都賦にも注があることは、例えば、古

経注(26)垂水の条や、太平御覧(℃D姻)雇の条にひく、「左重罰

都留日。四割。〔春秋冬夏四鳥也。ロ」とあるものに明かである

が、選書の左思伝にもこの賦の注のことは全く見えないことか

らみて、恐らくこれは自注であったであろう。すると、前に重

責賦に注したからには、三都賦も自注ではないかと考えるので

は自然であろう。しかも別伝に、「楽部以椒房自衿。士人不重也。」

(靴

T驕)とあるところによるに、少くとも彼の本貫斉にあっ

ては、左貴嬢(蕪劉参照)の故を以て自ら於り、その故に斉人の指

弾するところであったと思われる。以上の如く考えるならば、

この別伝は恐らく哀思に好意をもたぬ舌人の作であり、左思の

人柄の故に、郷党旗人の間に流布していた説をそのままに表現

したのであろうか。とすれば、この別伝も全くとるに足らぬ道

聴塗説として退ぞけられるべきではなく、左思の為人を伺うに

足る貴重な史料であるといわねばならない。

   第三節、別伝と家伝

 さて、最後に、別伝と家伝の関係をとり上げておきたい。筆

者は嘗て門閥社会の成立にあたって、家伝の類が盛に作られた

ことを指摘し、それら家伝の原材料は別伝ではなかったであろ

うかとの意見を提出しておった(「六朝明閥の政治約社会的考山祭」 (長山八史学・第六胡輯))、いまここで、

この考えの正否を検証してみよう。

 いま、葡氏について、家伝と別伝とを比較するに、先ず葡或

一40

 の場合について魏志(10)葡堂々虚血引墨或面頬に、

ω或徳行周備。非正道不用心。名四天下。不以為儀表。海内英

細工忽焉。

⑧嫁広以為。顔子爵没。能備九徳。不登窯過。唯葡或然。或問蘇

 日。君雅東面君。比之和子。自以不及。可得聞乎。日。夫明君

 師臣。其次友之。以太祖聡明。毎有大事。常先諮之。豊里是

 則弓師友之義也。吾等受命濫行。猶或不尽。相去顧不遠邪。

とみえるが、これに対応する葡氏家伝は、太平御覧(合倒)に、

,ω萄氏家伝日。葡或徳行周章。名玉天下。海内英俊。成嘉焉。

”ω又日。鍾弓造為。乙子歯並。能面九徳。百行不二其過者。唯

 葡或乎。或問鴬笛。君推譲君。比之顔子。銅鐸不及。其可得

 短句。翻日。夫明君幸臣。二次友之。以太祖聡明。毎大事常

 先皇。句心是則古墨友之義也。吾等受命而行。猶或不尽。去

 固遠耶。」

とみえ、更に文選(59)斉故頓句王碑文引台善注には、

“ω葡氏家伝日葡三徳最適備。三重天下。莫不以為儀表。

とみえる。

 さて、これらをみるに、ωと穿、がは同一内容にあり、その

                        ノ       

書法からみて同一系統の記事であること明かである。D及び勾

によって葡氏家伝の此の条の全文を伺うことができるが、めの

別伝と比較すれば、 「非正道不用心。」が家伝でぬけているの

は明かであり、大きな相違点である。更に、家伝では、 「海内

           

英俊威嘉焉。」というが、この表現はここにいう如き天下の儀

表たる人物に対する人々の態度の表現としてはどうもぴったり

しないのではないか。それよりも、別伝に、 「威宗焉」という

表現の方が適切な表現であると考えられる。こめ二点からみる

に、別伝の方が或について、より詳細にして旦つ適切な記述を

なしているといえよう。従って、家伝はその内容からみて、別

伝乃至は別伝と同一系統の資料から作られたものと推定せら

れ、その編纂の際、省略や記述の変化が行われたと考えられる

であろう。

 次にω及び幻についてみるに、内容は殆ど同様であり、記述

の上に多少の出入があるにすぎない。従って、これらも亦同一

系統の資料によるものであること疑ない。餅に「百行」とある

のに、別伝にみえないのは大きな相違であるが、勿論それがあ

った方が文意ははっきりする。元来別伝には百行はなくて、家

伝の編纂の時附加されたものか、或は元来百行があったのに、

平心としての引用の時におちたものか、そのあたりのことは不

明である。然るに、最後の、「相去顧不遠邪」()2()というもの

と、「去固遠耶」()2)というものは、明かに何れかが記述を変化

させたものである。ところで、この両者は、前段の文意をうけ

て何れが正しいものであろうか。この条の後半の文意をとって

みるに、 「太祖の聡明さを以てしても、なおかつ大事あるごと

に葡或に相談している。とすれば垂雪は太祖にとって師友にあ

たる如き漁れた人物である。我々の如きは命をうけて行うにす

ぎぬことでも、なお時には不十分なことがある。考えてみれば

葡或と我等との隔りは誠に遠いものではなかろうか」という如

きものであろう。従って、最後の相去るという言葉は極めて強

い表現でなければ文意は通じない。ということは、別伝のよう

な反語的表現の方がより適切、というよりもそうでなくては文

「4/

意がすっきりしないといいえよう、即ち、家伝のようでは、原

資料の真意を伝えていないというべきであろう。

 では次に、葡藥の場合についてみるに、魏志(/0)葡或患所

引「何勘為簗伝日」即ち葡藥別伝によれば、

 歳鯨亦亡。時年二十九。藁簡貴不能与常人交接。所耳蝉一時

 俊傑。至葬夕赴者裁十飴人。皆同時知名士也。実之感前路

 人。

とみえるが、これに相当する葡氏家伝には、太平御覧(お℃)

に、 

葡短簡貴。不能与常人交接。所由者皆一時儒傑。簗卒。至葬

 夕曲者十鯨人。皆同年名士也。実之感働路人。」

とみえる。これも亦ほぼ大同小異ではあるが、別伝には、 「緊

卒」というものがなく、 「裁」 (わずかに)の字がある。更に

別伝に「同時知名士」というものが、家伝では「同年名士」と

なっている。これらは恐らく別伝が正しいので、家伝は、御覧

に引用される時省略、変更がなされたのかも知れないが、ここ

にみる限りでは、多少記述を息めたものかと考えられる。別伝

が正しいとするのは、前述した如く、何勧は西晋細論と同年で

あるから、魏の末年既に司空であった葡顕(晋再39向幽思)のすぐの弟で

ある藥よりは、多少は若年であったであろうが、殆ど同時代の

人物といってよく、萄藥別伝も、彼自らの見聞に基づいて作ら

れたものと考えられるから、葡伯子撰のこの家伝(鰭豫野鶏難齢

謙))よりもずっと早く、而も根本的な資料であることは疑いな

いからである。もっとも両氏家伝は葡伯子撰のもののみとは限

らず、より旧いものもあったかも知れぬが、少くとも藥につい

ての家伝記載は、曹緊別伝より早く書かれたとは考え難い。

従って、その内容、記述の類似からみて、家伝はこの葡萄別伝

を資料として編纂されたと考えてよいであろうが、それは恐ら

く葡或の場合についてもいえることであろう。このようにみれ

ば、葡氏家伝は、葡或別伝、塩煎別伝の如きを資料として編纂

されたと推定してさしつかえあるまい。

結  語

 いままで、別伝を種々の面から考察してきたが、ここではこ

れら別伝の意味するところのものについて一言して結語に代え

たい。既に指摘した如く、別伝は一般的にはその筆者を明かに

しない。而もそれらは、一家、 一門によって作られたものでは

ないようである。

 ところで、この時代の個人の伝記には、他人による伝記のみ

ならず、自伝も可なり多かったようである。例えば、後漢時代

の人物鄭玄の自序(太平御覧 N亡)馬融の自叙(懸醤)楊雄の自叙無際)、魏

から西晋にかけての人物杜預の自叙(太平御覧鳶τ2轟)、呉における陸喜の

自叙(回書54陸機伝醤の条)西晋の人物荷下の自叙(太平鷹)傅暢の自序(齢畿㎝・ロも衰

準の自序(雛繍し趙至自叙(齢.醗)、西晋から東晋にかけての

人物梅陶の自叙(太平御覧恩?切お)抱七子自叙(親)等が見える。これらは文

字通り、自ら自分の経歴、逸話等を書き記したものであったら

しく、例えば一例として傅暢自序をひいてみるに、太平御覧

(Dぴα)所引のものには、 「傅暢自序日。時黒土九品。以不為

中正。余以祖考歴代耳癖自得論。又白砂年三十五立為州都。乙

姫以少年復為此任。故至於上品。以宿年為先。是以郷里素雪屈

一42

者。漸得叙也。」と見え、同書($㎝)には又、 「垂心自序日。

余年五歳。教騎芋侍魯三智。与先公甚友善。毎来往。喜与余

戯。嘗解合衣夜前其背。脱余金環与侍者。謂余習惜。而余流而与

之。経数日不索。」ともみえている。尚お、同書(咽co㎝)の傅

暢自、叙には、 「暢字洪迎。云々」ともいっている。これらをみ

れば、これらの人々は相当の年輩になった時に、自らの過去を

ふり返って、政治活動、逸話等を記したものであろう。従っ

て、先にあげた、稽喜が弟康の伝をつくり、鍾会が母の伝をつ

くり、甫嶺之が父の伝をつくり、管辰が兄轄の伝をつくったと

いうのは、あたかもこの自叙に類するもので、それらの人々が

自伝をつくらなかったのを子或は兄弟が補ってやったものと考

えることができよう。

 ところが、家伝にも、一門による自作があったことは、例え

ば斐松之による襲氏家記(鵜蟹娼))、斐子野による続嚢氏家伝、

(梁

W70斐子野伝)黒熊による曹氏家伝(魏螢硲))、萄伯子による葡氏家伝

(黒

ミ帰島))の如きによって明かである。これに反して、 一門に

あらざる人々による家の伝記もあったので、傅暢による斐氏家

記(蕪鍵刃引)、皇脊索による皇子家伝(豪富硲))の如きは、明かに

他家の人物による家伝の作製である。別伝というのは、宛もこ

の他人による家の伝記に比すべき、他家の人物による個人の

伝記で、自叙或は一門、姻戚等による伝記に対したものといえ

るのではあるまいか。別伝という名称が附せられたことも、自

叙伝に対するものとして考えられたからではあるまいか。

 ところがこのような考に対して、いささか考慮すべきかと思

われる記事がある。世説新語文学第四劉注によれば、 「(向)

秀別伝日。秀与稽康呂安芸友。……秀本伝或言。秀遊託数物。

蒲含量歳。云々。」とみえるが、ここでは、秀別伝に対して

「秀本伝」なるものが引用されている。すると別伝とは本伝に対

するものであろうか。では「本伝」とは、 一体何を指すもので

あろうか。これについて考えられるのは、この注の書かれた当

時即ち梁代に伝わった心違、晋紀或はそれら類似の書物に載せ

られた向秀の伝を指すのではないかということである。ところ

が、世説新語書痙には、某晋書、或は某暮露などと称する数多

くの史書が引用されている。例えば徳行第一の条に引用された

ものだけでも、王隠前書、虞預密書、朱鳳御書、徐広晋紀の

如くで、その他中興書、普陽画、続晋心止、晋諸公賛の如きも

引用されている。ということは、劉注の書かれた梁代には、多

くの某曝書その他の史書が現存していたということになり、而

もそれらは、某晋書、毛無紀の如く著者名を冠してよばれてい

たということである。従って、劉注でこれらの書物を引用する

場合は、前述の如く王隠言書とか、或は郵誤診紀(世説新語言語第二所引)劉謙

之晋紀(胴)などと、すべて名称をあげているのである。ただ世

説新語解触第二十の条の注に、 「晋書中」として、どの購書で

あるかを明かにしないものがあるが、これは恐らく「某晋書」

とすべきところを、その「某」を逸したものあろでう。

 このようにみてくると、若し「秀本伝」なるものが某晋書乃

至はこれに類する史書に収められるところのものであれば、

「某書論本伝」とあるべきであって、単に上述のように「秀本伝」

とのみ記したとは考え難い。すると秀本伝なるものは、秀別

伝と同様に、独立した一つの伝記と考えるの外はない。若しそ

[43

う考えねばならぬとすると、それは別伝でないことは明かであ

るから、自伝或はそれに類する向丘個人の伝記であったという

ことになろう。若しこのように考えうるとすれば、別伝を自叙

伝に対立するものとした上述の見解は、この「秀本伝云々」の

記事によって否定されることはないといえよう。

 さて別伝は、 一般的にいって史料的価値は高いと考えられ

た。ということは、別伝の作者が、時代的にその人物に近いと

いうこと、それによって根本的な資料が入手し易いことなどの

外に、何等かの意味でその人物なり、その一家なりに関心をも

つ立場にあったことを意味するものではあるまいか。例えば、

苛或別伝に太祖の上表文、太祖の萄或に覆うる並等が収載され

ている如き或は左思別伝の作者が斉人と推測されたこと等の如

きはそれを推測せしめるものであろう。そう考えてくれば、葡

或、荷勲等の別伝が葡氏家伝の資料として採用されたことも、

極く自然のこととして了解されるのである。

 若し以上の如く考えうるとすれば、何故そのような個人の自

叙伝、乃至は別伝が盛んに作られたのであろうか。この疑問を

解く鍵は、それらが後漢末から東晋にかけての人物についての

ものであり、且つ上述したところで推定される如く、太凡その

時代に作られたということにあるのではなかろうか。即ち、こ

の時代は従来の研究によって明かな如く、中央官僚家の確立、

門閥社会の成立、繁栄の時期にあたる(宮崎博士「九品官人法の研究」参照)。そのような

社会で、家の伝記、 一門の系譜が作製せられたことは、既に筆

者の指摘したところであるが(「六朝門閥の政治的一会的考察」  (長大史学第六輯))、その上魏初九

品官人法の成立によって、任官が個人の徳行、才能と土ハに、次

第に家格によって左右されるようになると(拙稿「魏晋中正制の性格についての一考察」(史学雑誌72の2))、

益々その家の系譜が重んぜられるようになるのは当然であろ

う。従って、官僚家においては、一門内における各個人の閲歴

を明かにし、それを他に誇示すると共に、それらを材料として

家伝を作製するということが行われたであろう。その場合の各

個人の閲歴が、自叙伝或は別伝であったと考えられる。勿論、

自叙があるから別伝はないというものでないことは、馬融、鄭

玄、呉下、抱朴子(葛洪)には自叙があるのに別伝も草丈引切

にみる如くあったことでも明かであり、或は同じく自叙をもつ

傅威にしても別伝(北堂書砂 一8)をもっているのである。では、自叙と

別伝はどのような関係にあったかというに、自叙は自らがその

閲歴を書き残し、家門の誉を自ら誇示する形のものであるに対

し、別伝は何勧の如き同時代の文章家でもあり、政治家でもあ

った人、或は多少年代をへだてた後世の文筆家たる蓑宏、或は

同郷の人物たる斉人によって書かれた如く、 一応世評を基礎と

して外部から眺あた人物論であったとすべきであろう。そのこ

とは、前述三期別伝に、劉真長と鼻面祖による人物評の対話が

みえていることによっても推察できよう。従って左思別伝、曹

購別伝の如き批判的場合もあり、葡或別伝の如き非常に好意的

な場合もありうるわけであろう。ということは、別伝は、その

家以外の人々によって書かれたものであり、そのような意味に

おいても、社会的にその権威が認められていたと考えてよいの

ではあるまいか。

 では、何故に別伝の作者は一般的に不明なのであろうか。そ

れについて確定的なことはいい難いが、或る場合には、初めは

一44

それらも別伝とは呼ばれず、晋書(33)何曽伝勧の条にみる如

く、 「所撰葡藥、王弼伝及諸奏議、文章並行於世。」とあっ

て、葡藥伝、王弼伝の如く、呼ばれていたものもあったであろ

う。しかし、それら他人による伝記の外に、自叙形式の伝記も

あった筈であり、それら両者を区別する為には他の呼び方を用

いる必要があり、その為に某々別伝と呼ぶようになったものも

あったであろう。このように作者は明かながら敢て作者の名が

冠せられなかった場合もあったが、又、曹購伝や左思別伝にみ

る如き、相当思い切った批判がなされている場合も作者の名は

明かにされ難いという事情もあったかも知れぬ。

 しかし乍ら、より一般的には、別伝そのものの性格、即ち、

左思別伝に見た如く、別伝は当時世上に流布していた人物評を

基として書かれたという性格一勿論その編纂にあたっては種々

の資料をその一家に求めたかも知れないが一によって、それら

別伝はある個人の作というよりも、当時の社会の作というべき

ものであったからではあるまいか。換言すれば、別伝とは門閥

社会の、その人物に対する評価であったと考えられるのであ

る。 (了)

}45}