mil vol.40 2010 early summer 先人 曲直瀬道三と啓 …...4 6...

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緒方洪庵の銅像。近くに洪庵が開いた 適塾がある(大阪府大阪市) 参考図書 梅溪 昇:『緒方洪庵と適塾』大阪大学出版会 緒方富雄:『緒方洪庵伝 第二版』岩波書店 西緒方洪庵と種痘事業 その9 貝原益軒の銅像。近くに夫婦の 墓がある(福岡県福岡市) 参考図書 山崎光夫:『老いてますます楽し』新潮社 井上 忠:『人物叢書 新装版 貝原益軒』吉川弘文館 7 使使貝原益軒と用薬日記 その7 二代目道三は江戸城内に秀忠から屋敷を与えら れた。近隣に道三の名がつけられた道三橋の跡 がある(東京都千代田区) 参考図書 戸部新十郎ほか:『逃げない男たち(上) ─志に生きる歴史群像』旺文社 山崎光夫:『戦国武将の養生訓』新潮社 38 曲直瀬道三と啓迪院 その8

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Page 1: MIL vol.40 2010 Early Summer 先人 曲直瀬道三と啓 …...4 6 緒方洪庵の銅像。近くに洪庵が開いた 適塾がある(大阪府大阪市) 参考図書 梅溪

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緒方洪庵の銅像。近くに洪庵が開いた適塾がある(大阪府大阪市)

参考図書梅溪 昇:『緒方洪庵と適塾』大阪大学出版会緒方富雄:『緒方洪庵伝 第二版』岩波書店

緒方洪庵は一八一〇年、備中国の足守(現在の岡山

県)という城下町で生まれた。江戸後期の人物で、蘭学

者、医者、教育者として活躍した。洪庵は大坂(現在の

大阪府)に蘭学の私塾である「適塾」を二十九歳の時に

開いた。「適塾」では、福沢諭吉、大村益次郎、長与専

斎といった幕末から明治に活躍した人物が学んでいる。

洪庵は足守藩士、佐伯惟こ

因より

の子で、田上騂せい

之の

助すけ

惟これ

彰あき

と名乗った。父の仕事の関係で大坂へ行き、十七歳の

時に蘭学者、中な

天てん

游ゆうの門に入った。この時から緒方三平

と改名し、オランダ医学を学び、医者を志した。その後、

江戸や長崎で遊学し、名も洪庵と改め、一八三八年に

大坂で医業を始めた。医者としての評判は高く、『当時

流行町請医師名集大鑑(相撲番付のようなもの)』では、

三十九歳で大関(最高位)になっている。

洪庵は今日でいうところの予防医学・公衆衛生の仕

事もしている。種痘事業はその一つで、長年にわたって

力を尽くした。天然痘は、江戸時代では一度かかると

命を奪われることが少なくなかった。天然痘の予防法

として、牛痘種痘法がイギリスで発見され、日本にはオ

ランダを通じて伝わっていた。洪庵は牛痘種痘法を広め

るために、京都に行き種痘を得た。大坂で種痘をする

場所として「除痘館」を設立し、多くの人を救っている。

洪庵の名声は幕府の耳まで届き、五十三歳の時に、

江戸幕府に将軍家の侍医として招かれた。その後、医

学教育の場である「西洋医学所(のちの医学所)」の頭

取も兼ねている。江戸での慣れない暮らしが続いたた

めか、多量の吐血で倒れ、そのまま息を引き取った(享

年五十四)。

緒方洪庵と種痘事業先 人 と 薬 の 話 その9

MIL vol.42 2010 Early Autumn

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貝原益軒の銅像。近くに夫婦の墓がある(福岡県福岡市)

参考図書山崎光夫:『老いてますます楽し』新潮社井上 忠:『人物叢書 新装版 貝原益軒』吉川弘文館

貝原益軒は一六三〇年、筑前国(現在の福岡県)

福岡藩士の子として生まれた。江戸前期から中期

の人物で、専門は儒学、本草学、医学、農学、文学

など幅広い。益軒といえば、『大和本草』(一七〇九年

刊行)や『養生訓』(一七一三年刊行)が有名だ。

益軒は生まれつき体力が他人より劣っていたので、

子どものころは家で過ごすことが多く、書物を読む

機会が多かった。そのため平仮名や片仮名を誰にも

習わずに覚えて読書力を身につけた。また、父は医

学に造詣が深かったことから、その影響で医学を習

得している。

益軒は十九歳の時に福岡藩に仕えたが、二十一歳

の時に藩主の怒りにふれて7年間、浪人生活を送っ

ている。この間、江戸、長崎で儒学、医学などを学び、

医者として生計を立てていたこともあった。江戸で

は徳川家の御用学者である林羅山の子、鵞峰に認め

られ、藩に益軒の存在が知られることになる。その

後は、儒学者としての地位を確立し、藩の中枢で活

躍した。

益軒は数種の持病に生涯悩まされていたため、普

段から健康には注意を払っていた。それは、晩年か

ら死の前年まで自身や妻、使用人たちの健康維持

や病気治療のために使用した漢方薬の処方やツボが

記された『用薬日記』からうかがい知ることができる。

本書は上・中・下の三巻からなり、益軒が行った漢

方薬の処方、つまり配合分量・服用回数などが詳細

に記載されている。

益軒は膨大な著作物を残しているが、主要なもの

は六十歳を超えてからのものである。最後の著書『大

疑録』の執筆を終えて親戚や弟子に見守られて息を

引き取った。享年八十五歳。

貝原益軒と用薬日記先 人 と 薬 の 話 その7

MIL vol.40 2010 Early Summer

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MIL vol.41 2010 Summer

二代目道三は江戸城内に秀忠から屋敷を与えられた。近隣に道三の名がつけられた道三橋の跡がある(東京都千代田区)

参考図書戸部新十郎ほか:『逃げない男たち(上)

─志に生きる歴史群像』旺文社山崎光夫:『戦国武将の養生訓』新潮社

曲直瀬道三(まなせどうさん)は一五〇七年、近江(現在の滋

賀県)の武士、堀部親真の子として生まれた。幼名は正盛。道

三は医学の師である田代三喜の死を機に、38歳ごろ曲直瀬道

三と名乗る。日本医学の中興の祖と称される名医で、足利義輝、

毛利元就などを診察し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にも

重んじられていた。

三歳の時に両親が疫病により死に、伯母に育てられる。十歳

になると、寺に預けられることになる。伯母から病に苦しむ人

たちを救ってくれと言われ、医師になることを決意。その後、

上杉憲実が再興した足利学校で修行する。また、三喜から医

学の多くを学び、京で医師として活躍する。貴族や武士だけで

なく、庶民に対しても診療を行っていた。

道三は、自分の考えを広めるために、医学校が必

要であると考えていた。医学校建設のために、足利

将軍や戦国武将などの支援を受け、設立にこぎつけ

ることができた。名を啓迪院(けいてきいん)とした。

日本初の本格的医学校の誕生である。道三はこの学

校で多くの門人を養成し、江戸時代を通して医学

の主流(後世方派(ごせいほうは))となった。

著書も多く残し、医学書(『啓迪集』)だけでなく、

『宜禁本草』『薬性能毒』といった薬物に関するもの

ある。

道三は晩年、キリシタンの宗門に帰依し、洗礼を

受けた。キリシタン信徒になったためか、道三の晩年

の記述はほとんどなく、一五九四年に八十八歳で世

を去った。道三の考えは、徳川秀忠に優遇された玄

朔(げんさく・二代目道三)に継承され、今日の漢方

医学にも受け継がれている。

曲直瀬道三と啓迪院先 人 と 薬 の 話 その8