koreana winter 2014 (japanese)

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www.koreana.or.kr 冬号 2014 VOL. 21 NO. 4 韓国の文化と芸術 VOL. 21 NO. 4 冬号 2014 特集 弘大前 火金の弘大前を歩く 青春のエネルギーが沸き立つ文化のるつぼ 弘大前の 音の旅それぞれのランドマーク ISSN 1225-4592 弘大前そぞろ歩き 活気あふれるソウルの ホットなカルチャースポット 弘大前そぞろ歩き 活気あふれるソウルの ホットなカルチャースポット

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冬号

2014 vol. 21 no. 4

韓国の文化と芸術

vol. 21 no. 4

冬号

2014 特集

弘大前

火金」の弘大前を歩く

青春のエネルギーが沸き立つ文化のるつぼ

弘大前の「音の旅」

それぞれのランドマーク

ISSN 1225-4592

弘大前そぞろ歩き活気あふれるソウルのホットなカルチャースポット

弘大前そぞろ歩き活気あふれるソウルのホットなカルチャースポット

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韓国の文化と芸術 1

韓国のイメージ

チャンドクデと母と故郷の家キム・ファヨン 金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員

大多数の韓国人の心の中には幼い頃の懐かしい故郷の家がある。その故郷の家の中庭、日当たりの良い塀の下にはチャンドクデがあった。チャンドクデには腰を曲げてチャンドク(甕)の中を覗きこむ母の姿がある。故郷の家、母、そしてチャンドクデは幼い頃の懐かしい思い出の風景を形作る三つの要素だ。ではチャンドクデとは何だろう。「チャン」とは韓国人の食卓に

欠かせない醗酵貯蔵食品で、この国の大豆と唐辛子と天然塩を原料として長い間熟成させて作るスローフードだ。「ドク」とはその食品を入れておくために土を捏ねて作られた大小の入れ物のこと。そして「デ」とはその入れ物を大きさの順に並べて置き、その中のジャンが日の光と雨風、吹雪と寒さ、暑さに耐え抜き歳月と共にゆっくりと呼吸をしながら醗酵し熟していくようにと、庭よりも少し高い位置に作られた空間のことだ。いわばチャントクデは母の領域、台所と井戸から近い日当たり

の良い場所にある。板の間に座り自分でつけた味噌、醤油、唐辛子味噌、醤油漬

が熟していくチャンドクデを眺める母は幸福だった。家族の食卓と暮らしを豊かにできるからだ。だから天気の良い日には母は甕の蓋を開けて日の光と風に当たらせ、夕立でも来れば慌てて駆けつけて蓋をした。チャンドクデは家族の安寧を祈願する母の真心のこもった聖なる祈りの空間でもあった。昔から多くの母たちは、朝一番にくみ上げた井戸水を最も清潔な器に満たしてチャンドクデの上に置き、家を離れている子供たちや夫の安寧と幸福を祈った。しかし今では多くの人々が都会の暮らしとアパートの空間に慣

れてしまい、チャンドクデを見かけることも少なくなった。ファーストフードの嵐の中で伝統的なスローフードの「チャン」はその影が薄くなっている。母が直接漬けたチャンではなく、工場で生産されたチャンを買って食べる人も多くなった。しかし今でも故郷の家のチャンドクデでは母の愛情とチャンが熟している。雪が積もる寂しい冬のチャンドクデは、なぜか都会に行ってしまった子供たちをいつまでも待ち続けている母の姿に似ている。

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特集弘大前特集 1

「火金」の弘大前を歩くキム・ギョンジュ

特集 2

青春のエネルギーが沸き立つ文化のるつぼカン・ヨンミン

特集 3

弘大前の古参、キム・ヨンドゥン-続けることの意味ハ・バックク

特集 4

弘大前の「音の旅」ソン・ギワン

特集 5

それぞれのランドマークチョン・ジヨン

フォーカスユネスコ世界遺産「南漢山城」が物語る歴史 イ・グァンピョ

アート・レビューグッドモーニングミスター・オーウェル1984から2014までイム・サン

近代のランドマーク韓国近代史を秘めた港町群山の日本式家屋ノ・ヒョンソク

オン・ザ・ロード順天小さな干潟の町が集まる風景クァク・ジェグ

巨匠朴正子の演劇人生50年「常に、今この瞬間が最も美しい」キム・スミ

遠くの目2014年日韓交流の現在加藤敦子

グルメを楽しむ宴の席に欠かせない料理ジョンチュ・ヨンハ

エンターテインメントテレビから発信される義母と婿の葛藤ユ・ソンジュ

韓国文学の旅現実が幻想を生み幻想が現実を生むチャン・ドヨン

『キミの変身』金利奐

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特集1 弘大前

キム・ギョンジュ 詩人、劇作家 金鏡睢 写真

弘大前は、ソウルで文化芸術を楽しむ若者が、最も多く集まるホットプレイス。最も間近に臨場感あふれる韓国の若者の文化を目撃・体験できるからだ。いまや弘大前は、タイ・バンコクのカオサンロード、インド・コルカタのサダルストリート、東京の秋葉原のように巨大な複合文化スポットになっている。

週末の夜になると、弘大正門前の公園はいつも多くの人であふれている。昼は子供の公園だが、夜には若者の文化を楽しむ場所になる。

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韓国の文化と芸術 5

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もしも弘大(弘益大学校)前の文化をどのように体験するのか悩んでいるのなら、地下鉄2号線の弘大入口駅9番出口からスタートして「歩

きたい道」、弘大正門前の公園、クラブ通り、上水洞のカフェ通りというコースをお薦めしたい。弘大前のナイトカルチャーを外側のトラックから最も奥深いところまで楽しめる最高のコースだ。特にその日がいわゆる「火金」、つまり「燃える金曜

日」なら、あふれる光がまずはその目を刺激するだろう。数多くのクラブや店舗のネオンだけでなく、人波のスマートフォンの明かりまで加わって、通りが熱を帯びる。ダンスと音楽と酒があふれる弘大前は、真冬でもあっという間に寒さを忘れさせてくれる。地下鉄の9番出口から出てくると、そのそばの小さ

な広場に集まっている多くの若者の活気を感じるはずだ。ほとんどの人は、スマートフォンを手に誰かを待っている。地面には、クラブや飲み屋の無数のチラシ。さらに貧しい芸術家の展示や公演の案内も散らばっている。同じ場所に転がっている商業と芸術。それこそが弘大前の二つの顔を端的に物語る対比だ。

通り=芸術地下鉄9番出口のきらびやかな明かりを後にし

て「歩きたい道」まで来ると、弘大前ならではの風景が広がっている。この「歩きたい道」は弘大前の公園までつながっていて、ゆっくりと辺りを見ながら歩いても30分で足りる。その一帯はショッピングとグルメには事欠かない。あちこちに並ぶ屋台に座って、おいしそうな食べ物でおなかを満たすこともできる。芸術家のアトリエやユニークなディスプレーの店に入って、あれこれ見て回ってもいいだろう。「歩きたい道」で何よりも見逃せないのは、ストリー

トカルチャー。弘大正門前の公園まで、通りのあちこちで芸術家のパフォーマンスが行われる。所々に集まって、拍手をして歓声を上げる人たち。そこをただ通り過ぎてしまえば、大いに後悔するだろう。通りと公園では、アンダーグラウンドミュージシャンの新しいアルバムの発表、コスプレ集団のパフォーマンス、詩人・ラッパー・ストリートパフォーマーの芸術独立宣言文の朗読などが見られる。弘大正門前の公園は、金曜の夜になるとインディーミュージシャンのバスキング(スト

リートパフォーマンス)だけでなく、ゲリラパフォーマンスなどが待っているかもしれない。週末の昼には芸術家のフリーマーケットが開かれることもあるので、絶対に見逃さないでほしい。外側から弘大前のパフォーマンス文化に十分に慣

れたなら、次は本格的に体験を始めてみよう。クラブだ。ダンスと音楽を愛するのなら、そこからあふれる生体エネルギーを必ず経験してほしい。それでこそ弘大前に行ったといえるだろう。「火金」の弘大前では、興と酒の勢いに乗った人た

ちが、あちこちの路地を占拠している。多くの外国人も、酒とダンスを楽しむために、そして金曜の夜の熱気を楽しむためにやってくる。魅力的な新しい音楽で人気のクラブには、日暮れ前から人であふれて長い列ができる。弘大前では、何時間も並んでクラブに入ることも珍しくない。

芸術家と大衆の共存金曜の夜のクラブ文化とは違った弘大前を感じた

いなら、クラブ通りから離れて上水洞に足を伸ばすのもいいだろう。弘大前の中心が縦横に大きく拡大し、新たに注目されているトレンディーなスポットだ。小規模の工場を改造した小さく魅力的なカフェが並び、多彩な芸術家のアトリエが集まっている。この通りのカフェに入ってお茶を飲んでいると、自然とサロン文化を経験できる。実際に様々な個性を持った芸術家が暮らしているため、その生活のリズムを感じてみるのも興味深い体験だ。ちらほらと集まってきて意見を交わす芸術家。さらにカフェでの絵の展示、独立映画の上映、詩人とゴーストライターによる小規模朗読会、インディーバンドの公演など、クラブ通りでは見られないパルプフィクションの体温と雰囲気を堪能できる。芸術家の活動や情熱に好奇心を持ちさえすれば、

一夜にして友達になることもできる。彼らは、手製のヴァンショー(ホットワイン)とクラッカーを出してくれるはずだ。あなたはすぐにその街の住民になり、夜通し突飛な話をしながら楽しい時を過ごすこともできる。酒と音楽とダンスは、人によっては無謀な情熱の発散だが、弘大前の夜では存在の方法だからだ。弘大前は、いまや芸術家の生態系を超えて、芸術家と大衆の共存の地といえる。

1. 「歩きたい道」から弘大正門前の公園まで、通りのあちこちでアーティストのパフォーマンスを目にすることができる。

2. 弘大前では、日暮れ前から何時間も並んで人気のクラブに入ることも珍しくない。

3. カラオケ「秀ノレバン」にはガラス張りのカラオケルームがあり、道路から歌って踊る人が見える。

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「火金」の弘大前では、興と酒の勢いに乗った人たちが、あちこちの路地を占拠している。多くの外国人も、酒とダンスを楽しむために、そして金曜の夜の熱気を楽しむためにやってくる。魅力的な新しい音楽で人気のクラブには、日暮れ前から人であふれて長い列ができる。弘大前では、何時間も並んでクラブに入ることも珍しくない。

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特集2 弘大前

カン・ヨンミンポップアーティスト

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韓国の文化と芸術 9

弘大(弘益大学校)前が現在のようにソウルだけでなく韓国を代表する文化芸術の中心地になる上で、弘益大学校の美術学部の学生が果た

した役割はとても大きい。1961年に弘益大学校に美術学部がつくられてから、汚れた作業服で道を行き交う美大生の自由奔放な姿は、弘大前ならではの芸術的な雰囲気を象徴していた。ほとんどの学生は就職に興味がなく、卒業後も学校の前を離れずにアトリエを設けて創作活動を続けた。当時、その一帯は今とは違って一般家庭が密集していた。多くの貧しい芸術家たちは、そうした住宅の駐車場や半地下室を安く借りて、アトリエに改造していた。そこで様々な分野のアーティストが集まって酒を飲んでは意見を交わし、新しいカルチャー企画を立ち上げて、自然と弘大前ならではの「アトリエ文化」が形作られていった。そして、その文化がカフェとクラブなどの開かれた空間にも受け継がれ、弘大前は一気におもしろい街になった。

カフェとクラブ:弘大前文化のインキュベーター弘大前が、その特色を見せ始めたのは1980年代

末から90年代初めだ。1988年にソウルオリンピックが開催され、海外旅行が自由化された当時、狎鴎亭洞が「オレンジ族」と呼ばれる海外留学派によって消費文化の先端を走っていたとすれば、弘大前は新しい感

性で武装した若い芸術家が、その実験的で対案的なエンターテインメント文化をつくっていった。端的な例として、1993年10月に開かれた第1回「ストリート美術展」が挙げられるだろう。弘大の美術学部の学生会が主催したもので、当時、弘大前に進入してきたオレンジ族の享楽文化に対抗する文化イベントとして企画された。本格的に弘大前文化が芽生え始めたのは、アーテ

ィストが自らユニークで特色ある空間、例えば「エレクトロニックカフェ」、「オルロオルロ」、「発電所」、「かび」などを運営してからだ。芸術家たちのアジトだったその空間では、挑発的で前衛的な低予算の展示、公演、パフォーマンスなどが生み出されていた。弘大前から思い浮かべる独特のイメージと空間的な性格は、その頃に始まったといえる。カフェとクラブが、現在の弘大前文化のインキュベーターの役割を果たしたわけだ。何よりもグラフィックデザイナーのアン・サンスと彫

刻家のクム・ヌリが1988年に始めた「エレクトロニックカフェ」は、忘れてはならない存在だ。パソコンのネットワークという概念を用いた韓国初のネットカフェで、弘大前文化に火がつくきっけになり、韓国のパソコン通信同好会文化の原点でもあった。特に1990年9月の米ロサンゼルスとソウルをつなぐ「通信美術プロジェ

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1. 弘大前の自由奔放で芸術的なアイデンティティーの根幹は、往年の弘大・美大生によってつくられた。

2. 1990年代に注目を浴び始めたこの通りのカフェとクラブを中心に、若いアーティストたちが斬新で興味深いカルチャー企画を行った。サンウルリムやオーブバンドなど、個性的なミュージシャンが意気投合してつくったアルバム『図詩楽特功隊』が代表的だ。

3. 若いアーティストならではのアトリエ文化は、小規模アトリエ・ギャラリー兼カフェへと広がって大衆化した。

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当時の弘大前文化の特徴は、生産者と消費者が特に決まっておらず、一緒になって刺激し合う一種の文化のるつぼだったという点だ。特色あるカフェができ、そこで新しいカルチャー企画が行われるのが、一連のパターンだった。

クト」は、ネットワークという概念を大衆化した世界初のプロジェクトだったといえよう。そのときアン・サンスは、チャットで創造的で開放的な弘大前文化について話している。

反文化:既成文化・主流音楽への対抗1987年6月の民主抗争をはじめとする韓国の政治

的な自由化に続いて、1990年代には文民政治が始まり、弘大前文化もまさに開花の時期を迎えた。その当時の弘大前文化は、美術から音楽へと主導権が次第に移っていた。韓国の歌謡と西洋のポップソング一色だった主流音楽シーンとは別に、オルタナティブ、パンク、レゲエ、エレクトロニカなどその時代の音楽を聞かせてくれるカフェとクラブが生まれた。そこに、幼い頃から海外の文化に親しんできたコスモポリタンの20代の若者が集まってきた。画一的で硬直した既成文化を嫌った多くの若者が、こぞってやってきたといっても過言ではない。

1980年代の若者の文化が、軍事独裁に抵抗する「運動圏」に代表されるとすれば、90年代は赤や黄色に染めた髪を尖らせて、腰にチェーンを巻いて「だまれ!」と叫ぶ「反文化」が代表していたといえよう。そのように既成文化と主流音楽に鋭く噛み付き、前衛的で実験的な芸術を生み出しながら、弘大前のクラブは韓国の若者の「文化解放区」となった。さらに興味深いのは、消費者と生産者の壁が低かったため、弘大前のクラブでは昨日の客が今日のアーティストになっていた点だ。それぞれの個性を表現したい若者は、弘大前で似た感性の仲間に出会い、その手で新しいものを創り出そうと考えていた。クラブで音楽を聞く若者が集まって、パンクやオルタナティブのバンドをつくったり、クラブのDJとしてデビューしたりした。私も「カフェアンダーグラウンド」でV-Jing(ビジュアルパフォーマンス)やビデオアートの作品を発表したことがある。当時の弘大前文化の特徴は、生産者と消費者が特に決まっておらず、一緒になって刺激し合う一種の文化のるつぼだったという点だ。特色あるカフェができ、そこで新しいカルチャー企画が行われるのが、一連のパターンだった。

トレンド:カルト的な文化から開放的な文化へ2000年代に入って、弘大前の文化の裾野はさら

に活発に広がっていった。日韓でサッカーワールドカップが共同開催された2002年に、弘大正門前の公園で始まったフリーマーケットが最も代表的な例だろう。市民アーティストが参加するアートの蚤の市で、プロのアーティストでなくても、手ずから作った美術品や工芸品を誰でも販売できる。単純に物を売り買いする

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© Street Art Exhibition

場所ではなく、多彩な文化を感じ合う「文化市場」としての役割が強い。日常と芸術の境界、創作者と市民の壁をなくして、文化の生産と消費の新たな形を見せたとの評価を受けている。さらに、主にナイトライフが支配していた弘大前の文化を昼へと転換させた点も、すばらしい成果だ。一般市民も気軽に弘大前を訪れる決定的な契機になったからだ。

2000年代中頃からは、昼間でも弘大前は人であふれている。ブランチに代表されるダイニング文化が広がり、巨大なカフェ通りが形成されたからだ。アバンギャルドな芸術も時が過ぎれば大衆に受け入れられ、いまや弘大前文化も美術と音楽を超えてグルメ、ファッション、ショッピングなどの消費文化に染まっている。ブロガーがレストランやホットプレイスを見つけてブログに載せると、多くの人が集まるというサイクルが続いている。かといって「飲み食い文化」や「商業化」といった理由で、弘大前文化の根強い自活力の価値まで損なわれたわけではない。ただ、弘大前の文化は変化を重ねるだけだ。その変化の流れは、特殊でカルト的な文化から普遍的で開放的な文化へ向かっているといえるだろう。

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1, 3.「ストリート美術展」は、弘大の美術学部の学生会によって1993年に始められ、20年以上の歴史がある。展示会場に閉じ込められていた芸術を外に出し、多くの人と交流させたと評価されている。2.行き過ぎた商業化を心配する声も多いが、この通りは今でも対案的な文化を生み出して消費する若者が活発に行き交っている。

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特集3 弘大前

ハ・バックク音楽レーベル・ヤング企画代表趙知瑛 写真

ハ・バックク 「クラブ・パン」の「パン」は、食べる「パン」ではなく「監房(韓国語でカンパン)」の「パン」だという話がありますね。キム・ヨンドゥン 大学生のとき、私はいわゆる運動圏(学生運

動家)でした。1989年に当局から指名手配されて、しばらくの間「監房」のお世話になったことはありますよ。ハ 学生運動をしていた若者が、ライブクラブの代表になった

わけですね。キム 大学卒業後も青年団体に身を置いて、中高年のための

夜学・ハングル教室で教えたり、住民図書室をつくって本を貸しながら、若い作家と会ったりしていました。この街には、1996年から通っています。そのとき、この辺りのクラブの合同定期公演「タンミッタルリギ(地下競走の意)」やアンダーグラウンドの文化雑誌『Fanzine Gong(ファンジン・ゴン)』などに無名で参加していました。「クラブ・パン」の運営を始めたのも、その頃です。新しい運営者を探しているというので、1998年11月に知人とお金を出し合って譲り受けました。ハ 「パン」は、1994年に梨花女子大学の裏門の辺りにオープ

ンしたと聞いています。キム 当時は「カフェ・パン」と呼ばれていて、展示、演劇、舞

踊、パフォーマンスなどの複合文化空間という性格が強いところでした。新村ではその頃、音楽、映画、美術など様々な分野の若いアーティストが、互いのフィールドを自由に行き来しながら交流していました。それで「パン」も性格を固定せずに、多方面の自由な活動ができるようにオープンな雰囲気にしていました。2004年にこちらに移ってからはライブクラブの色合いが濃くなりましたが、新村の頃の雰囲気はまだ残っていると思います。ハ つまり「クラブ・パン」の歴史は、「新村文化」から「新村・弘

大文化」を経て「弘大インディーシーン」へと変遷する大きな流れと同じだというわけですね。キム 個人的な方向性も影響していると思います。私が運営す

るようになってから、もう少し音楽中心に構成し直したかったのです。弘大前の文化に初めて接したのが音楽だったからでしょう。同時に「パン」が多方面のアーティストが出会って交流する場になってほしいとも思いました。そんな二つの軸を考えていましたが、

キム・ヨンドゥン(金永澄)の名刺は二つある。弘大前で最も古いライブクラブ「クラブ・パン」の代表。そして「弘大前芸術市場フリーマーケット」を主管する日常芸術創作センターの長。自称「おのぼりさん」の20代で弘大前に通い始めて、いまや40代。古参になるまで弘大前を離れない理由は、何なのだろうか。

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韓国の文化と芸術 13

こちらに移ってからは自然とライブクラブが中心になりました。ですが、その後も韓国独立映画協会の協力で、5年ほど独立映画上映会を開いていました。ハ 「クラブパン」は弘大前のクラブですが、ひとつのジャンル

にこだわる他のクラブとは違っています。モダンな感性のミュージシャンなら、ジャンルにとらわれず受け入れることで、「パン」は自然と多彩なミュージシャンが交流する一種のコミュニティになりました。「パン」を経験した数多くのミュージシャンを見ても分かることです。そうした面で「クラブ・パン」がつくった3枚のコンピレーションアルバムには、韓国のインディー音楽の歴史が刻まれていると思います。キム 1999年に初めて出したアルバムのことを思い出しますね。

当時、韓国のインディー音楽では、様々なコンピレーションアルバムが出されていました。「クラブ・パン」を主な舞台にするミュージシャンの成果を純粋に見せたくて、私たちも一度つくってみたのですが、実際には具体的にどうすればいいのか分かりませんでした。スタジオを借りてレコーディングできる状況でもなかったので、「パン」の設備を補強してワンテイクで録音しました。大切なのは、当時活動していたミュージシャンを記録することだと考えました。ハ この街で文化空間を維持することが、ますます厳しくなっ

ています。「クラブ・パン」は、どうですか。キム ライブクラブの運営は、比較的順調です。以前は、他の

ところの稼ぎを生活費にして、クラブの賃貸料にも充てていましたが、今では公演ごとに20~30人ほどの観客が入って、入場料だけで運営できます。地下にあるので、賃貸料もそれほど負担になりませんし。実際のところ、ライブクラブを維持する上で、運営者の企画が最も重要だと思います。現状維持にとどまらず、新しい価値を生み出し続けて再生産してこそ、空間を保ち続ける意味があるからです。そうした点で、最近「パン」は停滞気味なところもあります。最近の企画公演の中には、コンセプトが面白いものもたくさんあります。「パン」は貸館せずにすべて自主企画公演をしていますが、定期的に公演するミュージシャンがいて、新しいミュージシャンがいれば一緒に公演するという多少固定されたシステムです。企画から差別化してこそ、モチベーションも高まるのですが…。変

化が必要なときですが、最近は体力的にきつくて、言葉ばかりで実行できずにいます。ハ それでも情熱的に「パン」を運営しながら、毎週フリーマー

ケットを開いていますね。この芸術市場フリーマーケットは、弘大前の夜の文化を昼の文化へと転換・活性化させた功績が認められて、第3回弘大前文化芸術賞の大賞を受賞しました。キム 2002年の日韓共催サッカーワールドカップを控えて、弘

大・新村文化フォーラムがつくられました。その活動の一環として生まれたのがフリーマーケットです。ワールドカップが終わってフォーラムはなくなりましたが、私はフリーマーケットを続けたいと思いました。それで、日常芸術創作センターをつくったのです。活動する人たちが総じてアマチュアなので、活動を一過性で終わらせないためには、一緒に何かをできるシステムが必要だと考えました。また空間も必要でした。それでつくったのが「生活創作空間セッキ(子の意)」と「生活創作店KEY」です。前者はクリエーターが集まって共同作業や展示をする場で、後者はフリーマーケットに参加するクリエーターの作品を常設販売する場所です。ハ 今していることを続ける上で、最も重要な原動力は何ですか。キム 私には、まだ体力と情熱が残っています。そして、私が

上手いからというより、一緒に活動してくれる人のおかげが大きいと思います。「パン」も同じです。忘れずに来てくれるミュージシャンがいなければ、すぐに行き詰ってしまいます。外から人を呼び込むのではなく、自然とやってきてくれるミュージシャンと舞台を一緒につくるのですから。そうしたことを続けられるのは結局、人のおかげだと思います。共感できる人たちとの「関係」あるいは「相互作用」とでもいうのでしょうか。ハ 今後は、どのような計画を立てていますか。キム 「クラブ・パン」は、新しいミュージシャンにきっかけを与

えて、勇気をもって活動できる空間になることを願っています。日常芸術創作センターは、様々な生活創作ネットワークを築いています。持続・自立できる独自の生態系をつくろうと努力しているのです。まずまず上手くいっていると思います。

「私が上手いからというより、一緒に活動してくれる人のおかげが大きいと思います。『パン』も同じです。忘れずに来てくれるミュージシャンがいなければ、すぐに行き詰ってしまいます。外から人を呼び込むのではなく、自然とやってきてくれるミュージシャンと舞台を一緒につくるのですから。そうしたことを続けられるのは結局、人のおかげだと思います。」

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特集3

弘大前

実際のところ

、視覚的に弘

大前をソウル

の他のカルチ

ャーストリー

トと

区分すること

は難しい。魅

力的な建物が

多いが、それ

は他の街でも

同じ

だ。ならば、

弘大前の最大

の魅力とは何

だろうか。弘

大前は、まさ

に「音の街」

だ。音を聞け

ば、他の街と

はっきりと区

別される。弘

大前を

散策する間、

いっそのこと

目を閉じてみ

よう。そして

耳を澄ますの

だ。

それが、この

街を感じて楽

しむ最良の方

法。さあ「音

の旅」を始め

よう。

弘大前のライブクラブでは、自分にしかできない音楽にこだわる個性的なインディーミュージシャンの公演を見ることができる。

ソン・ギワン

詩人、弘大前

インディーミ

ュージシャン

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1984年にソウルの地下鉄2号線が開通して以来、新村周辺の学生街は、多くの文化的な変化を経てきた。まずはデパートができ、梨花女子大学の前は、学生文化を押しのけてショ

ッピング文化が主流になっている。弘益大学校(弘大)の前は「飽和状態になった新村の商圏が見出した新たなパラダイス」だった。梨花女子大学と延世大学のある新村の中心に近い西江大学を差し置いて弘益大学が選ばれたのは、新しくできた地下鉄の駅のおかげだといっても過言ではない。そうして新村地域の若者を受け入れた弘大前は、1980年代中頃に新村で始まったいわゆる「ロックカフェ文化」から「インディー文化」に発展していった。

ロックカフェ文化からインディー文化へ1994年に弘大前にオープンしたパンククラブ「ドラッグ(現DG

DB)」は、その地の発展を見守ってきた。1990年代中頃のこのクラブは、ミュージシャンと観客の区別がなかった。演奏していた人たちがステージから降りれば観客になり、また観客席でスラムダンスをしていた人たちがステージに上がればミュージシャンになった。

実際に演奏を見にきた拍子に、ミュージシャンになった仲間もいる。同じ年頃のパンク集団。彼らはそれほど危険でなく、反抗的ではあったが、かわいげのある悪さなどをしていた。スケートボードくらいは買う金があったから、面白半分でそんなものにも乗っていた。「ドラッグ」は次第に、1990年代初めのいわゆるオルタナティブロック・ブームに乗って登場したDIY精神の若いミュージシャンのがまる場所になっていった。「クライングノット」や「ノーブレイン」などの傑出したバンドを生み、韓国的なパンクの聖地になった。「スパングル」や「ジャマーズ」などのライブクラブも、そうしたミュージシャンたちのアジトで、今でもその精神は弘大前のライブクラブに受け継がれている。弘大前のクラブの歴史において、1988年のソウルオリンピック

と2002年の日韓共催サッカーワールドカップは、二つの転機といえよう。オリンピックの後に進められた文化的な開放化と民主化は、弘大前の文化の本質といえるクラブ文化の開放性を引き出すきっかけになった。1988年3月頃にオープンした「エレクトロニックカフェ」が3年目を迎えたときに「発電所」や「黄金闘具」などのク

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ここではバスキング文化とクラブ文化が仲良く共存している。そうした多様性が、この街の風景をいっそう豊かにする。

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弘大前は、バスキングの天国で、その中心は弘大前の公園だ。無名のミュージシャンが、観客との呼吸を練習する場所。日差しが気持ち良い日には、ギターを弾きながら光合成する所。行き交う人の耳を引き寄せる楽しさに、目の前で見て聞く生き生きとした音の現場。バスカーのうれしいサービスで、耳はすでに熱くなっている。

ラブが登場して、ファンシネバンドのキム・ヒョンテが主導した「かび」も大衆的な実験芸術の中心になった。弘大のクラブ文化は、パンククラブの若い血気と実験的・前衛的なアーティストの企画力が共存して、特有の弾力性を生み出した。

オリンピックとワールドカップ、そしてクラブ文化の大衆化2002年に日韓が共同開催したサッカーワールドカップは、当

時は少数の若いマニアのものだった弘大前のクラブ文化に、大衆性という油を注いだ。広場文化とクラブ文化が、まるでマッチと芯のように出会って火がついたのだ。ワールドカップの前から存在していた「クラブデー」は、集団的・世代的な感性を共有しようという若者にうってつけの空間を提供した。DJクラブが人気を博し、ハウス・テクノミュージックの激しい低音の響きが弘大前を揺るがした。すでにクラブは駐車場の向こう側まで広がり、唐人里発電所の前を通り越して、合井駅の間近にまで行き着いている。クラブの分布を見れば、弘大前のエンターテインメント文化の地図を描くことができる。弘大前と合井駅、さらには望遠駅付近、北側は延南洞まで、弘大前という概念はその周辺までを一つの文化として統合している。しかし、クラブ文化だけが弘大前を「音の街」にしているわけで

はない。弘大前は、通り全体がにぎやかな音の空間といえる。通りで演奏するバスキング(ストリートパフォーマンス)は、少なくとも弘大前では珍しいことではない。弘大前はバスキングの天国で、その中心は弘大前の公園だ。無名のミュージシャンが、観客との呼吸を練習する場所。日差しが気持ち良い日には、ギターを弾きながら光合成する所。行き交う人の耳を引き寄せる楽しさに、目の前で見て聞く生き生きとした音の現場。バスカー(ストリートミュージシャン)のうれしいサービスで、耳はすでに熱くなっている。私も含めてインディーミュージシャンの中で、その公園で一度も公演したことがない人などいないだろう。さらに正直に告白すると、ギターを弾いてマッコリを飲んで遊びほうけているうちに、その公園

で倒れるように眠り、気がつくと夜明けの露で額が濡れているあの感覚を味わったことのないインディーミュージシャンなどいないはずだ。もともと子供用の公園と高齢者の憩いの場があり、本来の使用目的は今でも保たれているが、その空間の音は、他の地域の公園とはあまりにも異なる。遠い未来を夢見る若いミュージシャンの渾身のバスキング、その真摯で純粋な熱唱に耳を傾けてみよう。最近の弘大の「音の文化」は、以前の非主流文化一辺倒から脱

して、多彩なスペクトルのポップ文化が幅広く共存する方向へと進んでいる。バンドの公演が中心のライブクラブ、DJのミキシングとクラバーのダンスが一つになるレイブパーティーのテクノクラブ、ヒップホップクラブ、1990年代以降の韓国のダンスミュージックをミキシングする歌謡クラブなど、多種多様なクラブが混在している。そのクラブの中心部は、あまりにも商業的だといえなくはもないが、「オフ弘大」のより広い地域に存在する多彩な周辺部を楽しむこともできる。それだけ、弘大前の文化的な厚みが豊かになったことを物語っている。

夜明けまで続く「音の旅」弘大前は「音の街」だが、「夜の街」でもある。夜は、音をいっ

そうはっきりと耳に届けてくれる。音の散策を楽しんでいるうちに、いつの間にか夜明けになることもあるだろう。週末なら、5時半の始発の地下鉄を待つ若者が多数見られる。彼らがクラブからどっと出てくる様も壮観だ。酒に酔って疲れた様子だが、表情はまだ耳元で鳴り止まない音に恍惚としたままのようだ。音は実体として存在するというよりも、雰囲気として存在する。音は空気の震えに過ぎない。だからこそ、音はその空間の空気の性質を反映する。音は呼吸との共有だ。韓国で弘大前ほど、情熱的な呼吸と振動を共有できる空間はない。その振動はあっという間に消てしまうが、耳の振動の記憶は、いつも捕まえられそうで手の届かないもどかしさを残しつつ、それでも強烈に音の旅の巡礼者に付き従う。そうして旅は毎日繰り返される。

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特集5 弘大前

それぞれ違う目的のために、弘大前を行き交う人たち。ある人はクラブでの熱い夜を、ある人はコーヒー一杯の余裕を、ある人は芸術的なインスピレーションを求めて訪れる。それならば、それぞれの弘大前のランドマークは何なのだ

ろうか。

チョン・ジヨン鄭芝妍、ストリートHマガジン編集長

酒とダンスを求める夜型人間なら弘大(弘益大学)前は、クラブのメッカ

だといっても過言ではない。近くにクラブが密集していて、ラグジュアリーを掲げる狎鴎亭洞や清潭洞のクラブに比べて敷居も低い。ほんの少し若くてクールだといえよう。弘大前のクラブが有名になる上で、

2001年に始まったクラブデーが大きな役割を果たした。クラブデーとは毎月最後の週の金曜日に、最初入ったクラブでチケットを買えば、20あまりのクラブに無料で出入りできたイベントだ。弘大前ならではの

文化で、韓国人だけでなく外国人にも好評だった。2002年の日韓共催サッカーワールドカップが巻き起こした広場文化が、クラブデーの爆発的な人気の起爆剤になったといわれている。しかし、入場料の全収益をすべてのクラブで分け合うという当初の原則が、大型クラブによって拒否されたため、2011年に10年をもって公式に終了した。それでも弘大前といえば「クラブ通り」

という認識が、依然として根強い。20以上のクラブの中で最も込み合うのは「nb2」と「M2」だ。最も古いクラブの一つ「n

b2」は、1990年代のヒップホップから最新のエレクトロ・ヒップホップまでカバーする大型クラブで、週末にはフロアーが人であふれる。YGエンターテインメントが運営しているため、所属ミュージシャンのアルバムのショーケースパーティーなども行われている。「M2」も2004年5月オープンと10年の歴史を持つクラブだ。エレクトロニカクラブが共同投資した大型クラブで、三つのバーと超大型ダンスフロアーを備えている。海外のミュージシャンやDJも招かれて、訪れるクラバーが絶えない。弘大前の夜を熱く過ごす場所は、クラ

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1, 2.20以上ある弘大前のクラブの中で最も込み合うのは「nb2」(上)と「M2」だ。3.「コプチャンジョンゴル」は、韓国歌謡だけを流すことで有名なLPミュージックの宝庫。MGMT、ベイルート、モグワイなど海外のミュージシャンが、韓国公演を終えた後に必ず立ち寄るという。

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© M2

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ブ以外にもたくさんある。「コプチャンジョンゴル」が代表的だ。コプチャンジョンゴルとは韓国のもつ鍋のことだが、ここは飲食店ではなく、20年以上の歴史を誇るLPミュージックの宝庫だ。5000枚近い韓国歌謡のLPレコードがあり、1950年代から80年代の韓国ポップ、特に70年代のサイケデリックロックを駆使したシン・ジュンヒョン、キム・チュジャから偉大なバンド・サンウルリム(山鳴りの意)、ソンゴルメ(ハヤブサの意)まで、多彩な音楽を聞かせてくれる。その名声のため、MGMT、ベイルート、モグワイなど海外のミュージシャンが、韓国公演を終えた後に必ず立ち寄るという。最後にカラオケ「秀ノレバン」で、韓国

人がいかに音楽好きなのか確認してみるのはいかがだろうか。この24時間営業の大型カラオケ店は、ガラス張りのカラオケルームがあるので、道路から歌って踊る人を見ることもできる。

コーヒー一杯の余裕を求めるカフェ族ならミュージシャン、アーティスト、デザイ

ナーが多く住む弘大前は、ソウルでもとりわけカフェの密度が高い。弘大前というが西橋洞、東橋洞、上水洞、合井洞、延南洞を合わせた広い地域なので、カフェストリートも多数ある。スターバックスやコーヒービーンなどフランチャイズの店も多いが、弘大前の魅力を存分に味わいたいならローカルなカフェを探してみよう。弘益大学校の正門を基準に西と東に分

けると、東側で最も有名なカフェストリートは、サンウルリム小劇場付近だ。韓国で『ゴドーを待ちながら』を初演した歴史の深い劇団サンウルリム(山鳴りの意)の小劇場の1階にある「カフェ・スカラ」は、弘大前に最初にできたオーガニックカフェだ。さじを意味する韓国語「スッカラク」を日本風の発音にした「スカラ」。在日韓国人2世のキム・スヒャン社長が、日本とソウルを行き来するうちに有機農法とフェアトレードに目覚めて、このカフェをつくったという。料理の素材は、ほとんどが生協や都市農業のエコ食材で、時にはマクロビオティックのフードテストも行われている。キム代表は、恵化洞を中心に開かれる都市市場「マルシェ@」の共同運営者でもある。サ

ンウルリム小劇場のそばには、2007年に大ヒットしたテレビドラマ『コーヒープリンス1号店』のロケ地がある。庭のある古い住宅を改造したもので、ドラマの撮影が終わった後はカフェになっている。内部には主演俳優のサインが飾られていて、日本や中国からの観光客が記念撮影のために多数訪れる。次は西側を見てみよう。上水駅から唐

人里発電所へ向かう辺りにある「イリ・カフェ」では、作家による朗読会、作家との交流会、小さなコンサートなど多彩な芸術文化イベントが行われている。社長はミュージシャンで、小説家、詩人、音楽家、評論家など様々な芸術家が集まるアジトでもある。夜遅くには即興のジャムセッションが見られることもある。このカフェから歩いて5分程のところに、ユニークなカフェが2軒並んでいる。ひとつは「カフェ・アントラサイト」で、古い靴工場を改造したものだ。天井が高くインダストリアルな雰囲気が魅力的で、映画『シラノ恋愛操作団』のロケ地でもある。その隣の白い建物は「カフェ・ムー大陸」。今は無き伝説の大陸を名前にしたカフェは、3階建ての複合文化

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© Sukara

1. オーガニックカフェ「スカラ」では、厳選された素材を真心こめて調理した健康食が楽しめる。

2. ミュージシャンの社長が運営する「イリ・カフェ」では、多彩な芸術文化イベントが行われている。小説家、詩人、音楽家、評論家など様々な芸術家が集まる場所でもある。

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空間だ。週末にインディーバンドの公演がよく行われる地下1階の公演会場、そして独立出版物のフェアなど多彩な文化イベントが開かれる1階は、カフェとしても利用されている。2階は、個人のクリエーターと共同で使うオフィスで、屋上には近くのシングル女性が数人で育てている屋上菜園もある。

芸術的なインスピレーションを求める文化愛好家なら弘大前は、ソウルで最も大きな出版街

の一つだ。出版社、雑誌社、デザインスタジオ、出力会社など出版関連のインフラが整っている。その中で特に注目されるのは、新しいタイプの書店だ。サンウルリム

小劇場の近くにある「ユア・マインド」は、国内外の多様なマガジン、自費出版の本、アーティストのアートワークを販売している。屋根裏部屋を模した巨大な木の本棚が印象的で、猫が客を出迎えてくれるユニークな空間だ。「ユア・マインド」は毎年、小規模出版物、文具、CD・レコードなどを自由に販売できるマーケット「アンリミッテッド・エディション」というイベントも行っている。弘大前の中心にある公営駐車場通りに

程近い「KT&G想像広場」は、代表的な建築のランドマーク。週末には、そこで待ち合わせる人がたくさんいる。曲線のガラスとむき出しのコンクリートが、まるで繭から羽を広げて飛び立つ蝶の姿を表している

ようだ。複合文化空間で、地下にはアートシネマの映画館とインディーバンドの公演会場があり、1階には様々なデザインの商品を販売するアートショップ、2階と3階には各種展示を行うギャラリーがある。最後に、ビンテージ家具コレクターの

素敵なコレクションを見たいなら「aA・ザ・デザイン・ミュージアム」のカフェを訪れてみよう。キム・ミョンハン社長は、20年以上ヨーロッパ各国を歩き回ってビンテージ家具と照明器具を集めてきた。テムズ川のほとりにあった1920年代の街灯からトム・ディクソンの照明、チャールズ&レイ・イームズの椅子まで、店内に何気なく置かれている。

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Sangsang Madang

© Living & Art Creative Center

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© Living & Art Creative Center

1, 2.「KT&G想像広場」は、アートシネマの映画館、インディーバンドの公演会場、アートショップ、ギャラリーがある複合文化空間。ユニークな建物で、待ち合わせ場所としても人気がある。

貧しいボヘミアンの街だったソーホーは、いまやデパート、ギャラリー、レストランが立ち並ぶ繁華街。マンハッタンを追われたアーティストのすみかだったブルックリンは、程なくラグジュアリーな街になった。弘大前でも、それと似たような変化が起きている。一帯の賃貸料がどんどん上がり、小さな店のオーナーが上水洞や合井洞など近郊に移り住み始めたのだ。延南洞は最近、最も注目されている場所だ。高級住宅街の延禧洞の南にある延南洞は、かつて華僑が住んでおり「リトルチャイナ」とも呼ばれていた。弘大前から程近く相対的に賃貸料が安かったため、2010年代以降、多くの芸術家や若い起業家が移り住んだ。延南洞のホットプレイスは現在、トンジン市場の路地だ。すでに機能を失った古い市場の路地にトレンディーなレストランが一つ二つとオープンし、週末になると多くの人で込み合うホットな場所になっている。タイレ

ストラン「トゥクトゥクヌードル・タイ」、「カフェ・リブレ」、日本風のカレー店「姫路」ができると、小さなギャラリー、飲み屋、レストランが次々とオープンした。また社会的協同組合が今年、この市場を長期賃貸して、地方で仕入れてきた農作物を毎週販売する直売所もつくられた。今年の春にオープンした「オッチョダカゲ」も注目されている。古い住宅を改造して八つの小さな店が共同で使う感覚的な商業空間で、隣人とのコミュニティーであり、ユニークな建築実験でもある。モルトウイスキーバー、パイ店、カフェ&ラウンジ、美容室、ハンドメイド・クリエーターのスタジオが集まっており、共有と共存をキーワードにしている。おいしいサンドイッチ、かき氷、コーヒー、シングルモルトウイスキーを楽しめるこのユニークな店は「なぜだか(オッチョダ)一緒になる」ことで、さらに楽しい生き方を体現している。

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フォーカス

ユネスコ世界遺産 イ・グァンピョ東亜日報記者

朝鮮王朝は「城郭の国」と呼ばれるほど多くのさまざまな城郭があった。城郭の種類も国の都を防御するための都城、非常時の避難用として山を活用した山城、そして地方の町全体を城壁で取り囲む邑城(ウプソン)など多岐にわたっている。中でも山城は韓国の歴史上、戦争の痕跡を最も多く残している城郭だ。今年6月、ユネスコ世界遺産に登録された南漢山城(ナムハンサンソン)-この山城が物語るとっておきの話に傾聴してみよう。

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標高500mの尾根伝いに築城した南漢山城は、三国時代から重要な軍事要塞として活用されており、17世 紀に8kmくらいの城壁を石で築城し、首都を守る役割をした。城壁外部に向けて突出した形で築いた戀主峯甕城(ヨンジュボン・オンソン)は、城門に接近する敵を攻撃するための施設だ。

「南漢山城」が物語る歴史

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韓国人にとって南漢山城はつらい記憶が残っているところである。中国の清が朝鮮を侵略した17世紀の丙子の乱当時、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の国王・ 仁祖 (1623~1649)

がここで抗戦したが、結局清国に降伏した場所であるからだ。1636年12月、清国は13万人の大軍を率いて朝鮮を侵略した。

鴨緑江(アムノッカン)を渡った清の軍隊は5日で都・漢陽(ハニャン)を陥落させたことから、文字通り破竹の勢いだった。漢陽が陥落する直前に王世子(皇太子)は急いで江華島(カンファド)に避難した。その後、江華へ向かう道を塞がれた王と大臣たちが逃れたところが南漢山城だった。間もなく清の軍隊は、南漢山城をすべて包囲した。王と大臣

たち、そして1万5000人の兵士らはそこで47日間の間、清の軍隊と戦った。ところが、翌年の1637年1月末、仁祖は城外に出て三田渡(サムジョンド:今のソウル市松坡区蠶室にあった渡し)で清に降伏してしまった。そして朝鮮は清国と君臣の関係を結ばされた。南漢山城は韓国の歴史上忘れらない受難と悲劇の現場に他ならない。

護国と栄辱の山城南漢山城が初めて築造された時期は、三国時代に遡る。三国

を統一し、漢江(ハンガン)流域を掌握した新羅は、672年ここに土で城を築いた。これが南漢山城の前身だ。当時、新羅は統一連合勢力だった中国の唐を追い出すための勢力争いの真っ最中だった。南漢山城は唐との戦いにおいて北側の辺境の地を守る目的で築造されたものだった。南漢山城は其の後、高麗時代の1231年と1232年、モンゴルからの侵略を撃退するのに大きな役割を果たした。土城を石城に変えたのは、朝鮮王朝時代の17世紀になってか

らだ。1621年、仁祖の先王だった光海君(クァンヘグン・1608~1641)時代に、北方の女眞族が建てた後金(コウキン)の侵入を防ぎ、都城の防衛のため石で城を築きなおした。工事はしばらく中止されたが、仁祖時代の1624年に再開され、1626年に完工した。城郭の全長は約8㎞で、南漢山城はこの時から北漢山城(プッカンサンソン)と並んで都・ 漢陽を守る軍事的な堡塁として位置づけられた。丙子の乱は、築城が終わった10年後の1636年に勃発した。

南漢山城に逃れてきた仁祖は、激しい抗戦のあと、結局自ら城門を開き外に出て清の皇帝の前に降伏した。ところで、ここで注目すべきことは南漢山城が降伏に先立って陥落したわけではないということだ。朝鮮王朝時代の李重煥(イ・ジュンファン・朝鮮後期の学者)

西将台(ソジャンデ)の前で武芸家たちが韓国の伝統武芸公演を披露している。2階建て楼閣で構成された西将台は、高台に位置し、大将が軍を指揮したり、敵の動向を観測するのに適している。

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南漢山城は、2014年にユネスコ世界文化遺産に登録された歴史遺産ということにとどまらず、首都圏住民の憩いの場であり、観光スポットでもある。最近、5つのコースのドゥレギル(散策路)が完成し、城郭に沿って移り変わる多彩な風景を楽しみながらトレッキングができる。

の人文地理書 『擇里志・テンニジ』を見ると、「(南漢山城の)内側は低くて浅いが、外側は高くて険しい。そのため、清の兵士らは初めてやって来たとき、攻撃らしい攻撃はできず、結局城を陥落させることはできなかった。それでも、仁祖が城から出たのは、糧食が不足しており、江華

が陥落されたためだ」と記録されている。皮肉にも軍事的な要塞として優れた機能が弱点になった格好だ。南漢山城は其の後1896年、京畿道(キョンギド)の義兵たちが日本帝国からの侵略に立ち向かった闘いでも重要な拠点となり、日本植民地時代にも同地域の住民たちは3・1独立運動など、抗日民族運動を展開した。

1,000年余を経て、韓国史上もっとも重要な抗争の瞬間を共にした南漢山城は、韓国の城郭の発達過程をも見せてくれる。7世紀の新羅が土城で築いて以来、時間の流れもともに各時代の方式にしたがい新たな築城が行われたからだ。そのため、南漢山城では三国時代から朝鮮王朝時代までの各時期の築城技法に出会える。

日常の営みが共存する軍事的山城山の稜線に沿って築城された山城の中でも南漢山城は、地理

的・地形的な条件に恵まれている。朝鮮王朝時代に各邑(ウプ「地方行政区画・日本の町に当たる」)で編纂された人文地理書をまと

めた『輿地圖書』では、南漢山城について「中は平たく、外側は険しく、形勢が雄大であるため、まるで山頂に冠をかぶせた形」とある。8㎞を超える南漢山城の城郭は、標高500mの険しい自然地形に沿って取り囲まれており、外部からこれを攻略することは容易ではないということだ。地理上の立地自体が、軍事要塞として優れていたわけだ。城郭に残っているさまざまな軍事施設の跡からは、当時の戦闘

方式をうかがい知ることができる。南漢山城は、攻撃と守備に適した施設が緻密に構築された軍事要塞だった。城郭は、内城と2つの外城で構成されている。城郭には、甕城、砲楼( 楼閣に穴を開け敵を攻撃することのできる建築物)、城門、暗門 、女墻、墩臺(ドンデ:小高い平地)などが設置されている。甕城は、正規の城門外に防御用の城門を二重(もしくは三重

以上)にかけた城壁を指す。敵が城内に進入するためには、先ずこの甕城を通過しなければならない。しかし、城壁の外部に突出しているため、城門に接近する敵を多角度から立体的に攻撃できる。城郭の防御にかなり有効な施設だ。現在、南漢山城にある建物の中で最も堂々として華麗な姿を

保っているのは、2階建て楼閣からなる西将台(ソジャンデ)だ。将台は指揮が容易な地点に設置された将軍の指揮所だ。将台は通

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常城郭の内部の地形の中で一番高く、指揮と観測が容易なところに設置する。城の内部が広く一か所だけでの指揮がむずかしい場合には、複数のところに将台を設ける。南漢山城には、東将台(内外にそれぞれ2か所)、南将台、北将台の5つの将台があるが、現在残っているのは残念ながら西将台だけだ。東西南北に位置した4つの大門の間間には暗門が設置されて

いる。暗門は、敵の観測が難しいところに設置された小さく密かな門を意味する。敵の目につかないようにしなければならないので、門楼のような施設を設けず、出入りだけできるようにした小さい通路だ。敵に包囲された時などの非常時に、城内の兵力に必要な食糧や兵器などの物資を運び、連絡兵や支援兵が出入りする秘密通路の役割をする。南漢山城には16の暗門がある。韓国内の城郭の中で暗門がかなり多いほうだ。

丙子の乱の手痛い経験から、南漢山城は山城と邑城が加わった形に拡張された。国が政策的に百姓を定着させており、防御のための施設物のみを備えたところではなく、日常生活のできる邑城として発展した。城内の暮らしの中に軍営が混じっているのは自然なことだった。城内には125か所に及ぶ軍舖(グンポ)が構築されていた。軍舖は城を守る兵士らの検問所を指す。軍舖と軍舖の間には、塩を埋めておいた場所と墨を埋めた場所の痕跡が残っている。非常時の食糧と軍需物資を保管・備蓄できる空間が随所に設けられていたのだ。

行宮のある臨時の都南漢山城には、行宮が設けられている。行宮は、王が本宮を

離れ、臨時に滞在する仮宮だ。外敵の侵略を受けたり、政変など

1000年以上にわたる韓国の歴史の中で最も重要な抗争の瞬間を共にした南漢山城は、韓国の城郭の発達過程をも見せてくれる。7世紀の新羅が土城を築いて以来、時間の流れとともに各時代の方式にしたがい新たな築城が行われた。そのため、南漢山城では三国時代から朝鮮王朝時代までの各時期の築城技法に出会える。

雪が積もった左翼門から広がっている散策路は、登山客たちが慣れ親しんでいる道だ。左翼門は、南漢山城の東門で、17世紀築城当時の姿をそのまま残している。

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が起きたりし、王が他のところに御所を移すことになれば、そこが臨時の都の役割をすることになる。南漢山城に行宮があるということは、設計当時から南漢山城が単なる防御用城郭のレベルを超え、臨時の都としての機能性を視野に入れて設計されたことを意味する。南漢山城の行宮には、全国で10か所あまりあった行宮の中で唯一朝鮮王朝時代の都構成の最も重要な要素である宗廟(チョンミョ:韓国の最後の王朝だった朝鮮の国家祠堂)と社稷(しゃしょく:土地神を祭る祭壇と穀物の神を祭る祭壇の総称)を移転できる左殿と右室が兼ね備えられている。また、王の寝殿と生活空間、公式執務空間も別途に設置され、有事の際に都としての役割を果たすことができた。臨時の都のもう一つの特徴としては、南漢山城には軍事施設と

ともに日常生活の痕跡が共存するということだ。当時、清国への決死抗戦を主張して最期を迎えた三学士の忠節をたたえた顯節祠(ヒョンジョルサ:祠堂)をはじめ、百済の始祖である温祚王(オンジョワン)と築城の責任者の魂を祭る 崇烈殿(スンヨルジョン)もある。淸凉堂(チョンニャンダン)では、城郭の築城者たちの魂を慰めるための都堂(トダン)祭が執り行われたりもした。淸凉堂の前にある樹齢350年あまりのイブキは、個々の住民たちが供物を捧げる崇拝の対象だった。このほか、両班(ヤンバン:貴族)たちの

休息と学問修養のための楼亭の建物と、東将台の前で開かれた在来市場の跡も残っている。

今日のための歴史の痕跡南漢山城の城郭に沿って広がる素晴らしい山勢を観賞しなが

ら、四季の美しさを享受できるように造成されたドゥレギル(散策路)は、登山および観光スポットとしても有名だ。ところが、ここを訪れる人々の胸を打つのは、目に見える有形の文化遺産のみならず、そこに秘められている栄辱の歴史だ。悲劇的な歴史は、皮肉にも多くの文化・芸術家の関心を導き出した。日本植民地時代の民族詩人である李陸史(イ・ユクサ・1904~1944)は、祖国独立の夢を抱いて『南漢山城』という詩を作った。韓国現代の小説家・ 金薰(キム・フン)は、小説「南漢山城」を通じ、恥辱の歴史と激変する情勢に翻弄される人物たちを甦らせている。南漢山城は、歴史の中から立ち上がる悟りの場だ。侵略者の

前に膝を屈した君主の恥辱から歴史の厳正さを学び、三学士の死を通して節義を学び、人間の息吹が感じられるところがまさに南漢山城なのだ。ユネスコ世界遺産登録は、有形の南漢山城を超え、そこに秘められている無形の南漢山城にまで際会できる重要な契機になるだろう。

東西南北に位置した4つの大門の間間には、16の暗門(アンモン)が設置されている。暗門は、敵の目を逃れて食料や兵器などの物資を運ぶために作られた施設だ。

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アート・レビュー

産業化の波の中で社会が便利になればなるほど人々は画一化された現実世界の常套句に慣れていく。テレビのニュースや新聞、あるいは商業映画にあふれた常套句は、時には華やかなイメージとして、時には軽妙な言語として迫ってくる。これは非人間化していく現実を忘れさせてくれたり、その矛盾を幻想として感じさせてくれるマイナスの魔力を備えている。昔はフランツ・カフカ、ジェイムズ・ジョイス、チャーリー・チャップリンのような人類の輝く知性がそのような危険に打ち勝つことのできる芸術の偉大さを私たちに教えてくれた。もしそこにもう一人の芸術家を追加するとすれば、それがペク・ナムジュン(白南準)だ。

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aik Cultural Foundation

グッドモーニングミスター・オーウェル、1984から2014まで

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イム・サン林山、同徳女子大学校キュレーター学科教授

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1. 白南準の『グッドモーニング・ミスター・オーウェル』(1984)のスチール映像

2. 白南準が時代に投げかけたメッセージを見つめなおすという趣旨で企画された特別展「グッドモーニング・ミスター・オーウェル2014」には『グッドモーニング・ミスター・オーウェル』(1984)の映像全体が紹介されている。

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ペク・ナムジュン( 白南準、1932-2006)は文筆家、エンジニア、そして芸術家として時代と芸術を語った。音楽と美術の伝統的な境界を自

由に行き来しただけでなく彼は自分の視覚的なイメージと音、あちこちに組み込まれた創意的な魂のスペクトラムを「テキスト」というメディアを通じてさまざまに変形させて見せてくれた。白南準が35年間書き溜めてきた記事、手紙、楽譜、シナリオなどの文章を集めて編集した『馬からキリストまで』を出版したイルメリン・リビアは「より大きな空間と自由にむかう彼の底知れない渇望は文章の中に潜んでいる。これ以上彼を一つの言語に閉じ込めることはできない」と語り、白南準の見せた散文的な力に感歎した。また白南準は行為音楽、ビデオ彫刻、メディアパフォーマンスなどのジャンルを開拓しながら、当代の電子テクノロジーの技術的な論理を芸術に持ち込んだ。彼の科学的な応用力は文学的な才能と合わさり、現実の想像力を飛び越え未来を予見する芸術の動力となった。

相互関係と相互作用白南準の創意的な実験精神は彼がドイツで活動し

ていた時代に本格的に形成された。1932年、韓国のソウルで生まれた白南準は朝鮮戦争を避けて日本に留学し東京大学でアーノルト・シェーンベルクの音楽美学を主題として卒業論文を提出した。1956年にドイツに渡り1963年まで新たに学び、これを休み無く実践していく、いわゆる「ドイツ時代」を過ごす。当時、ドイツではシェーンベルクの影響を受けた若い音楽家たちがさまざまな形式の演奏会と教育プログラムを通じて新音楽を主張し、アバンギャルドの芸術家たちは音楽と絵画、身体と音、人間と機械の相互作用を実験していた。このような進歩的な芸術環境の中で白南準は1963年に開いた最初の個展を通して、メディアと社会の間の隠された関係を独創的な言語で明らかにした。そのために彼が動員したテレビのコミュニケーション方

式と電子性は後日、挑戦的なメディアアートの下敷きとなった。白南準の芸術的精神は京畿道龍仁にある「ペク・ナ

ムジュンアートセンター」で様々な形式で再び紹介されている。「グッドモーニング・ミスター・オーウェル2014」もその一環だ。この展示は1984年1月1日に彼が試みたテレビショー「グッドモーニング・ミスター・オーウェル」を記念して、彼が時代に投げかけたメッセージに新たに注目する試みとして企画された。従って今回の「グッドモーニング・ミスター・オーウェル2014」の展示場を訪れた観客の最も大きな関心を集めた作品は、当然のことながら30年前にテレビで放映された「グッドモーニング・ミスター・オーウェル」のアーカイブだ。この作品は1984年当時、ソウルをはじめとしてニューヨーク、パリ、ベルリンなどに衛星中継され世界の人々にリアルタイムで共同の芸術体験を提供した。ジョン・ケージやマース・カニンガムのようなニューヨークのアバンギャルド作家たちを含めてイブ・モンタンやオインゴ・ボインゴのような大衆音楽家など100人余りの芸術家たちが様々なパフォーマンスを繰り広げた。およそ1時間の長さのこの作品で観客は支配するメディアではない疎通するメディアの未来を読み取ることができた。「グッドモーニング・ミスター・オーウェル」の直接的

なモチーフは、1949年に出版されたイギリスの小説家ジョージ・オーウェルの作品『1984年』だ。オーウェルが想像した全体主義国の未来社会、いわゆるディストピア思想では、テレスクリーンとマイクロフォンなどのメディアを使い監視と独裁が実行され、新語を通じて人間の考えを制限するというものだった。その統制の中心にビックブラザーがいる。オーウェルのこのような予言に対して白南準は「半分だけ当たった」といい、むしろオーウェルが発見できなかったメディアと言語の芸術的な可能性を全世界に示した。

1, 2.『グッドモーニング・ミスタ ー・オ ー ウェ ル 』(1984)は、1984年1月1日パリのポンピドーセンターとニューヨークの NET放送局を繋いで、世界各国100人のアーティストが繰り広げた多彩なパフォーマンスを韓国、アメリカ、フランス、ドイツなどにリアルタイムで衛星中継したテレビショーだ。

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1. 『フクイチ・ライブカメラを指す」(フィンガー・ポインティング・ウォーカー、日本 )2011、1チャンネルビデオ、カラー、サウンド、24分50秒

2. 「カウンター・ミュージック」(ハルンファロキ、ドイツ)2004、2チャンネルビデオ、カラー、サウンド、25分

3. PR「公的な関係」(リズ・マジックレイザー、米国)2013、5チャンネルビデオ設置、17分

4. 「たまらなくしゃべりたい」(モナ・ハトゥム、レバノン)1983、1チャンネルビデオ、黒白、サウンド、5分

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疎通するメディアの未来 「グッドモーニング・ミスター・オーウェル」という作

品に込められた記念碑的な意味は、「グッドモーニング・ミスター・オーウェル2014」展に参加した同時代のほかの芸術家により、さらに新たなスポットライトを浴びた。彼らはメディアの技術力と社会的・政治的な影響力をともに省察し、この時代の顔として変形したビッグブラザーを取り出し反発した。パレスチナ出身でロンドンで活動するモナ・ハトゥムのシングルチャンネルビデオ作品『たまらなくしゃべりたい』は、抑圧から抜け出すために死闘する者の声を記録したものだ。5分ほどの長くはない作品だが、音と共に演出された不連続のイメージを編集するスロースキャンテクニックを使用し、単純なように見えるが主題を濃密度に伝達する力が感じられる。またこの作品には衛星送出方式が適用された。冷戦時代において徹底した国家の制御と管理のもとに置かれた衛星というメディアが、白南準により芸術を通じた対話が地域と時間を超越できるのだと問いかける神秘的な実験道具に変貌したように、ハトゥムは社会を統制するメディアからの芸術的な脱走を叫んでいる。オーウェルが警告した監視と検閲をテーマにした

作家たちも展示に参加した。アメリカ人のジル・マジッドはイギリスのリバプールの監視カメラに自らを意図的に露出し自分を撮影した公式的な監視記録物を制作した。タイのソムポップ・チッカソルンプムセは、タイ政府が実施した検閲過程で強制的にカットされた映画の場面だけを集めた。その他に南アフリカ共和国のウィリアム・ケントロジーの1955年作品『ステレオスコープ』も展示された。ケントロジーは当時大衆の中に新たに入り込んだコミュニケーションメディアの機械的な構図、それによる情緒的な欠如と欲望を特有の絵画的なアニメーションで表現した。白南準の『1984年』がテレビジョンの一方向伝送

能力の権力を双方向チャンネルに変えて、その性質を

無力化することで代案的なテレビジョン放送のモデルを提案したように、今回の2014年展示場に作られた「テレコミュニケーション・カフェ」と「ウェブアート・カフェ」では、媒体の双方向的な特色を先駆的に研究したダグラス・デイビスと芸術家コレクティブ・ジョディなどの映像作業を見せることでネットワーク社会で疎通する芸術の相互作用的な機能性を実験した。このような芸術的な挑戦は白南準のエッセー『芸術と衛星』(1984)に言及されているように「多くの考えの間の新しい関係を発見するだけではなく、これらの間の関係網を構築」することが芸術家の時代的な役割だという認識を強調している。

現実に打ち勝つ芸術のパワー このように「グッドモーニング・ミスター・オーウェル

2014」に展示された作品は、高度に細分化されていく社会で人間が否応無く出会うことになる冷酷さに反発している。さらに、それに対して避けるのではなく、力動的で高次元的な意識を要求することで、30年前の白南準が衛星生中継で世界の人々に伝えた芸術的な自由の可能性と責任感に対して考えさせる。そのような点で今回の展示は今の時代に白南準の芸術が依然として有効な理由とその必要性を教えてくれた。オーウェルが心配したようにメディアの増殖とそれによる常套的な情報が人間を忘れさせてしまっているのかもしれないが、そのせいで私たちが回復しなければならない何かを再び定めなければならないなら、それは単純に過去の失われた人間の姿の完成ではないだろう。それよりは新たに対面しなければならないメディアと言語の変貌の中で生成される人間的な関係を成熟させようという努力がもっと急がれる。このような時代に白南準の芸術精神は現代人に現実に打ち勝つことのできるエネルギーを提供してくれるという点で依然として私たちの隣にいると言える。

「グッドモーニング・ミスター・オーウェル2014」に展示された作品は、高度に細分化されていく社会で人間が出合うことになる冷酷さに反論したものだ。さらにそれに対して避けるのではなく、力動的で高次元的な意識を要求することで30年前の白南準が衛星生中継で世界の人々に伝えた芸術的な自由の可能性と責任感に対して考えさせる。そのような点で今回の展示は、今の時代に白南準の芸術が依然として有効な理由とその必要性を教えてくれた。

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近代のランドマーク

韓国近代史を秘めた港町群山の日本式家屋群山(クンサン)は韓国で近代建築物が最も多い都市の一つだ。その始まりは1899年の開港後、日本人が群山港を利用し、朝鮮の米と鉱物を積み出すようになってからだ。自然の成り行きとして、近隣に自分たちに必要な建築物を建てるようになった。これらの近代遺産は今日に引き継がれている。

ノ・ヒョンソク盧亨碩、ハンギョレ新聞記者

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一目で風変わりな家だということがわかる。最初に目を引いたのは瓦を支える赤い黄土色の壁の荘重な姿だ。その中にさまざまな形をし

た屋根の2階建ての邸宅が立ち並んでいる。正面の妻側からみると三角形の切妻屋根、屋根の四面が勾配になっている寄棟屋根、寄棟屋根と切妻屋根を合わせたような形の入母屋屋根などが調和をなしている。屋根と壁の間には濃い緑色の樹木が茂り奥ゆかしい風情を醸し出す。しかし、不思議にも正門は脇戸のように小さく内側がよく見えない。コの字型で凹んだ位置に、まるで隠すかのように正門を作っておいたからだ。戦国時代を迎えた16世紀末の日本の、典型的な武家屋敷の住宅だ。この大きな和風住宅は、西海岸の港町である全羅北道・群山(チョルラブクド・クンサン)に位置している。より具体的な住所は、新興洞58-2番地だ。広津吉三郎という日本の豪商が住んでいたことから「広津家屋」とも呼ばれる。

近代建築遺産の宝庫、群山群山の新興洞一帯は、7、80余年前に群山に住ん

でいた日本の大地主たちの建てた邸宅がぎっしり立ち並ぶところだ。格子型に広く区画された宅地に今も日本式家屋がかなり残っている。1970年代までここは、賃貸物件を探すのは不可能に近いほど高級住宅街だった。一見したところでは、日本の都市住宅街とあまり変わらないという印象を受ける。開港とともに日本人は港のある群山を、朝鮮の物資を日本へ搬出する要所にした。そして、群山は日本人の韓国内での生活拠点として位置づけられるようになった。西海(ソヘ)と錦江(クムガン)、萬頃江(マンギョン

ガン)の河口が合流して形成された広い平野と島に囲まれた港に建てられた建築物は、現在は駅舎が残っているだけの群山線鉄道駅と旧群山税関の本館、旧朝鮮銀行の群山支店(登録文化財374号)といくつかの商店などが近代市街地を形成し、当時の活気を物語っ

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ている。港からさらに奥の日当たりの良い峠頂上に登っていくと、新興洞、月明洞(ウォルミョンドン)が現れる。まさにここが日本人の大地主たちが大挙して邸宅を建てた場所だ。植民地支配から解放された後、日本、中国との交流断絶で町が落ちぶれ、急速な産業化と開発から取り残されたことから、むしろ、今なお数多くの近代建築物が無事に生き残ることができた。皮肉なパラドックスに他ならない。広津家屋は、新興洞一帯の日本人邸宅のうち、唯一原型がほ

とんど保存されている建物だ。この家の持主だった広津継伊三郎は群山で呉服商と小規模な農場を営んでいた。大規模な農場を経営した群山地域のほかの日本人の大地主たちと違って、金儲けに長けていたためお金持ちになった人物だ。彼はほとんどすべての資材を日本から持込み、1920年代にこの家を建てた。広津は、財力はもとより、空間に対する自分の眼識と嗜好を思う存分見せ付けたいと思ったようだ。正門は幅が狭く作られているが、内部は予想外に広い。家と庭園が調和をなして醸し出す内部はこじんまりとした空間だ。建物の構成と仕切りがまるで対馬の厳原や山口県下関市の長府、京都の伝統的町並みなどに見られる武家の邸宅とあまり変わらない。大門をくぐり抜け、中に入ると、イブキ、松、モクレンなどでいっぱいの庭園が居心地の良い憩いの空間となっている。続いて錯角のように斜め向かいにくっ付けた2階建ての母屋

1. 群山新興洞(グンサン・シンフンドン)の広津邸は、16世紀の典型的な武家屋敷だ。19世紀末の開港とともに、港町の群山は、日本人の韓国内の生活要地として日本式建築物が建てられ、現在まで多くの建築物が保存されている。

2. 赤い黄土色の荘重な壁の内側に、コの字型の凹んだ位置に目立たないように作られた大門があり、中に入ると、思いのほか広く居心地の良い庭園に出る。

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と客室からなる一戸建ての離れの2つの建物が現れる。その間に石灯篭などのような石造物を配置し、丹念に造られた和風庭園が落ち着いた雰囲気を漂わせる。玄関に入ると、壁面に独特な楕円形の窓が開かれているのが目につく。窓枠と窓格子を竹で装飾した中国風の美しいデザインが強く印象に残った。日本式邸宅だから、部屋にはすべて畳が敷かれていると思われがちだが、思いのほか1階の部屋はほとんどオンドル(韓国式の床下暖房)となっている。6つのオンドル部屋、台所と食堂、トイレ、倉庫、和室から廊下へと続く。もちろん、2階の部屋はいずれも和室だ。当時、日本人は韓国に和風家屋を建てる際に、韓国の寒い冬に適応するため、1階には必ずオンドル部屋を設置したということが伺える。

手痛い歴史的記憶と共存する空間美学広津家屋のもっとも大きな魅力は、1、2階の複

数の部屋をつなぐ廊下で、それぞれ異なる角度から中

庭を眺める際の見晴らしだ。長い廊下に沿って歩きながら見渡す日本式庭園は、きちんと手入れされた置石と庭園樹、石造物などがバランスよく配置されていて、ナチュラルな雰囲気を重視する韓国伝統の庭園とは異なる、一味違う美しさを誇っている。朝になると、暖かい陽光が差し込み、夕暮れになると夕陽が庭園の至るどころに降り注ぐ風景を広津家の人々は毎日ゆっくり楽しんだに違いない。大きな部屋には押入れと掛け軸、盆栽などを置く床の間も設けられており、和室ならではの趣を醸している。廊下の天井に角材並みの太さの木材を連ねて貼り付け、趣を持たせていることからも、資材一つ一つにまで家主がどれだけきめ細かく工夫を凝らしたのかがわかる。この家の内部を見て回るもう一つの見所がある。シンプルな外

観とは違って、内部は昔の領主の城のようにぎっしりと目の詰まった骨組と迷路になっているということだ。廊下が部屋や台所などの空間を繋いでいるが、中央の廊下と窓際のある廊下があちらこちらへ曲がりながら、複数の部屋とつながり、その部屋がほかの空間へとつながるため、やや奇妙でありながらも、謎めいた空間をさ迷うような感じがする。家主が宝物と資金を保管したとみられる

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これらの家屋の内部を見て回るもう一つの醍醐味がある。シンプルな外観とは違って、内部は昔の領主の城のようにぎっしりと目の詰まった骨組と迷路になっているということだ。廊下で部屋や台所などの空間が繋がっているが、中央の廊下と窓際のある廊下があちらこちらへ曲がり、複数の部屋とつながり、その部屋がまた別な空間につながっているため、やや奇妙でありながらも、謎めいた空間をさ迷うような感じがする。

1. 広津邸の最大の魅力は1、2階の廊下で、それぞれ違う角度から中庭を眺める際の見晴らしだ。長い廊下に沿って歩きながら見渡す日本式庭園は、韓国伝統の庭園とは一味違う美しさを感じさせる。

2. 韓国の寒い冬に適応するため、1階にはオンドル(韓国式の床下暖房)を設置したが、2階はいずれも畳を敷いて折衷型空間を構成した。

建物の裏側にある2階のコンクリート倉庫も、裏庭と1階の内部を何度も見て回って初めてその実体と構造がわかるが、行くほどに奥深く、広がる庭園の空間構成も同様だ。典型的な日本の富裕層の荘重な住宅様式であるのみならず、彼らの空間感覚と美学がそっくりそのまま溶け込んでいるため、近年は日本植民地支配時代を背景とする映画のロケ地としても脚光を浴び

ている。映画ファンたちの記憶に生々しい『将軍の息子』と『タチャ イカサマ師』などで、ヤクザの根拠地であり、賭博の舞台など、見慣れた背景として登場するところがまさにこの家だ。広津は解放と同時に、この邸宅を含む

全財産を手放して日本に帰っており、それきり韓国とは永遠に縁が途切れた。この建物は、敵国財産となり、湖南(ホナム)製粉の社長に売却されたが、今は韓国製

粉の所有になっており、2005年登録有形文化財(第183号)に登録された。2010年には復元工事も終了し、来訪客が相次ぐ観光スポットとして生まれ変わった。広津はおそらくこの邸宅で子孫代々に家系を引き継がせるつもりだったのかも知れない。一説によると、子供たちが成人すると住居として譲るために、各空間の広さを意図的に大きくしたとも言われる。しかし、彼が抱いた希望や期待は、日本が敗戦した途端、歴史の荒波の中で水泡と化した。

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オン・ザ・ロード

順天小さな干潟の町が集まる風景順天(スンチョン)という名前を解くと「天の意志に従う」という意味だ。命を授かり、天の意志に従うということ。その意味通り生きるということ。これほど美しいことがあるだろうか。善良に夢を抱き、汗を流しながら働き、正直なことを学び、厳しい生活を送る生霊たちのため、自分が持つ余剰の価値を分かち合うことができれば、生活はどれだけ美しいものになるだろうか。

クァク・ジェグ 詩人李翰九 写真

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私には古い記憶が一つある。私は順天へ鉄道の旅に出かけるところだった。一人旅へ出かけるにはあまりにも幼い子供だったので付き添いの同伴者がいた。母方の叔父だっ

た。私は彼の膝の上に座って、窓の外の風景を眺めていた。彼は客室の通路に沿って手軽な車内食や飲み物を積んだワゴンを押していた販売員を呼び止めた。そして、ワゴンをあれこれ見てスナック菓子の袋を一個拾い上げた。人差し指の爪先ほどの星の砂糖菓子だった。時間が経ち、叔父がこの世を去る直前、私は彼の元を訪れて、手を握り星の砂糖菓子についての思い出話をした。あまりにも古い昔のことだから、彼は自分が甥っ子に買ってあげたその神秘な星の砂糖菓子を思い出せなかった。その代わりにこのような話をした。「お前が小さかった時にお前を連れて鉄道の旅に出かけたこと

が何度があったな。あの時、俺は仕事で順天の建築工事現場へ向かう道中、お前を連れて行ったもんだ」彼は子供の面倒を見る余裕のなかった母の代わりに、幼い甥

っ子を連れて工事現場を行き来した。順天といえば子供時代の列車の旅が思い浮かび、当時出会った星の砂の形をした糖菓子が生々しく蘇る。私が作家になることを決めた後に執筆した文章から、少しでも温かい温もりや希望の光のようなものを感じたとしたなら、それは順天での思い出によるものだろう。

広々とした干潟に広がる美しい夕日15年前、私は再び順天を訪れた。一人旅だった。その頃は、

辛く厳しい生活に心が疲れきっていた。専業作家としてのプライドと生き方が問われていた時期だった。詩以外にも新聞連載、童話、社内報、紀行文などを問わず、一か月に30コマ以上を書きまくっていた時代、売名と売文の繰り返しは作家精神を蝕んでいた。もはや文章が書けなくなるのでは、という絶望感にも襲われた。そのピンチから抜け出そうと、順天のある静かな海辺の町を訪ねた。絶望の淵に追い詰められた男の目の前に広がった風景は、広々とした干潟だった。夕焼けが海全体を包み、落日が海を黄金の色に染めていた。ふと一隻の漁船が夕日を背にして逆方向に進んで行くのを、ぼんやりと眺めていたら、反対側の空も夕焼けがきれいな赤に染めていくのが見えた。その時、私は初めて気づいた。夕焼けは日が沈む西の空だけを染めるのではなく、日が昇る東の空も染めるということを。空に限らず、大地に広がる干潟も明るく染めていく夕焼けの広大さがやっとわかった気がした。天と地を黄金の色に染めた夕焼けを眺めていたら、ある老人が私の方へ近づいて来たので、私は彼に尋ねた。「すみません、この町の名前は何ですか」「臥溫(ワオン)じゃ。横になるという意味の臥、温かいという

意味の温なんじゃ。夕焼けが荘大なこの海の名前も臥溫(ワオン)ということじゃよ」彼から教えてもらった町の名前を漢字で地面にゆっくり書いて

みた。「溫(オン)」を書きかけて思わず嘆声を漏らした。漢字は表意文字だ。この文字は、水(氵)と口、人、血で構成されている。つまり、水が人の口の中に入って血になるという意味が「溫」とい

1. 花浦(ファポ)は、順天(スンチョン)湾の西側の端に位置し、40戸あまりの世帯が住む小さい町だ。夕暮れ時には漁船が港に戻ってくる。夕焼けの美しい風景を背にして、獲ったばかりの魚の下処理をする漁民たちの姿から強い生活力が感じられる。

2. 順天(スンチョン)湾の干潟に竹と網で作った魚網が並んでいる。満潮と干潮を利用し、漁をする伝統的な漁法だ。

3. 汝自島(ヨジャド)は、順天の南に位置した小さい島だ。ここに住む漁民たちは小さな旅客船を利用し、水産物をほかの地域で販売する。

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う漢字に盛り込まれているのだ。町の名前を聞いた途端、温かい血潮が体の奥から沸き起こるのを感じた。この町で人生の一時を過ごしてみたいという気持ちが湧いてきて、もしかしたらまた文章が書けるようになるかもしれない、という期待も抱いた。そのように順天で疲れ果てた体と心を癒した。そして、年月が経って再び順天に戻り、ここに根を下ろして順天人として暮らしている。

世界的な渡り鳥の群落地臥溫は、順天湾の真ん中に位置した干潟町だ。干潟は広くて

生き生きしている。西海岸でよく嗅ぐような干潟の匂いはここにはない。すぐ隣にある順天湾の葦原のおかげだ。順天湾は、39.8㎞の海岸線と21.6㎢の干潟、6㎢の葦原からなっている。葦は淡水と海水地域でいずれもよく育ち、淡水と海水が混じる河口地域ではより旺盛に育つが、順天市内を流れる東川(トンチョン)と伊沙川 (イサチョン)が合流する順天湾は、葦群落の生育にもってこい

1. 順天湾は長さが16kmにおよぶ広い葦原に取り囲まれている。日差しが降り注ぐ白い葦の花が風になびくと、ここは恍惚とした黄金色の野良になる。

2. 順天湾は渡り鳥にとって格好の休息の場だ。冬になると、タンチョウやトモエガモなど、230種余の数万羽の渡り鳥が飛来するが、その数は毎年増えている。

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雪がこんこんと降る冬のある日、調査船に乗って順天湾に入ったことがある。渡り鳥は葦原で平和な休息をとっており、静かに湾に浮かぶ白鳥の群れも見受けられた。船のエンジンを止め、その姿を眺めていたが、突然一斉に白鳥の群れが飛び上がった。その巨大な群れは、吹雪の中に舞い上がり、瞬く間に姿を消してしまった。吹雪が鳥の群を包み隠したのか、鳥群の白い翼が吹雪を包み込んだのか知りようもなかった。

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の環境だ。生命力が強く澄んだ干潟と葦原の自浄作用のおかげで、ここは世界的な渡り鳥の群落地になっており、2006年1月韓国の沿岸湿地としては初めてラムサール条約に登録された。雪がこんこんと降る冬のある日、調査船に乗って順天湾に入っ

たことがある。渡り鳥は葦原で平和な休息をとっており、静かに湾に浮かぶ白鳥の群れも見受けられた。船のエンジンを止め、その姿を眺めていたが、突然一斉に白鳥の群れが飛び上がった。その巨大な群れは、吹雪の中に舞い上がり、瞬く間に姿を消してしまった。吹雪が鳥たちを包み隠したのか、鳥群の白い翼が吹雪を包み込んだのか知りようもなかった。順天湾が渡り鳥の飛来地になった背景には、「ドゥリ帰還プロ

ジェクト」と名付けられた志をともにする人たちの取り組みがあっ

た。順天湾のシンボルバードである「ドゥリ」は、世界的に希少鳥類であるナベヅルで、そこに飛来する渡り鳥の中でまれに名前が得られた鳥だ。原籍地であるシベリアへ向かう群れにはぐれたドゥリは、10年以上も前から順天市民たちの世話を受けて飼育されている。野生に帰すための、1年あまりにわたる訓練を終えたドゥリは、翌年の春になると群れとともにシベリアへ向かって飛んでいった。国境を通り抜けたところで、ドゥリの足につけられた無線追跡装置は役割を終えるが、干潟町の人々は、心ときめきながらドゥリが再び飛来してくるのを待ち望んでいる。

干潟で命を汲みあげる順天の女性たち花浦(ファポ)は、臥溫と並んで順天湾を挟んだランドマーク的

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な干潟の町だ。馬蹄磁石のN極が臥溫だとすれば、S極が花浦に当たるが、花浦と臥溫を一直線で繋いだその内側が順天湾というわけだ。この干潟で生まれる活き活きとした各種の魚介類、アサリとあげまき貝、テナガダコ、カキ、ムツゴロウなどはその味と鮮度がそれこそ韓国一だ。小説家の朴婉緖(パク・ワンソ:1931~2011)は、この干潟のあげまき貝のバター焼きがとてつもなく好きだった。とある日に、一群の女性たちが板を引きながら貝を採る姿を見て、臥溫の干潟より女性たちの労働のほうが美しいと語っていたことを思い出す。板の長さは3m、幅が30cmくらいの木製スキー板を運搬手段にして、女性たちはこの潟スキーの上に採取した魚介類を載せ、片方の膝をついて、もう片方の足で干潟を蹴りながら移動する。一見簡単そうに見えるが、これは何十年も労働で鍛えられ人でもかなり厄介な作業であるため、彼らが歌う労働歌の中には、「ねぇどうして私を産んでこのように大変な板を引かせるのかな」という歌詞がある。朴婉緖さんは、臥溫の海辺で潟スキーを引く彼らを見て、いつか臥溫で暮らしてみたいと言った。私はその言葉を聴き、ふとこの老作家が臥溫や花浦の女性たちに混じって潟スキーを引きながら人生の残りの時間を過ごしたいと思ったのかもしれないと感じた。順天湾の小さな干潟町と澄んだ干潟を抱えている順天では、2013年「庭園博覧会」を開き、この都市の素朴な美しさを世界にアピールしたが、これは順天湾の澄んだ干潟と葦の原、ここを訪れる渡り鳥と干潟町の人々の暮らしがなかったならば不可能なことだった。あなた、今の生活が厳しく、自分の労働が虚しく感じられるのであれば、雪の降る冬場の順天湾に足を運んでみたらどうか。世の中でもっとも怱々たる命の律動に出会い、胸の奥から湧き上がってくる熱い血潮を感じることだろう。

お婆さんが耕した塩田3年前の冬、順天湾の小さな干潟町・パランバグに立ち寄ったときのことだ。雪が降り出していたが、町の老人福祉センターからお婆さんが歩いてきた。車を止めてこのお婆さんに尋ねた。「雪の中でどこへ行かれますか」「老人福祉センターで老人たちと花札をやっ

たんだけど、今日はついてねえ。数百ウォンも失ったけど思い切って立ち上がったんよ。山畑でも見て回らなきゃと思ってね」「雪も降りますから、花札をもっと続けた方

がよかったんじゃないでしょうか」

「昼間に仕事もしないで遊んでいたら、罪悪感にかられるからね」路上で交わした私とお婆さんの話はこのよう

に始まった。お婆さんは、過ぎ去った自分の人生話をしたが、それは一つの夢と仕事に一生を捧げた人間にしか醸し出せない含蓄ある物語であった。「主人が若いごろ、男前で頭も切れたんです。

学校には通えなかったけど、結婚して一人で勉強して読み書きできるようになってね。文章をうまく書いて軍隊で開かれる詩文競作大会のたびに大きな賞をもらったんよ。私は文字が読めん

けど、あのときはとても幸せだった。長年穏やかな結婚生活を送っていたけど、ある日突然主人が私に背が低くてブスだから家から出て行けと言いました。自分の目につかないところに住めといわれたものだから、あそこの山すそのほうに小さな山小屋を作って暮らしました。あそこの葦の原が見えるでしょう。一人暮らしをしながら、そこに塩田を設けました。仕事一筋でバリバリ働きました。塩田を設けていたら、塩の価格が急騰してね。大もうけしたわけよ。ある日、塩田で働いて自宅に帰ると、主人が何食わぬ顔をしてお茶の間に堂 と々座っとった。私を見ると、いきな

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順天湾の赤貝養殖は、干潟町の住民たちの主な収入源だ。ドロドロの干潟で女性たちは、腰まで泥に浸かりながら潟スキーに片膝をついて、貝の呼吸を探りハイガイ、赤貝、アサリなどを採取する。

仙巖寺(ソンアムサ)9世紀、統一新羅の道詵(ドソン)国師が建てた全羅南道(チョルラナムド)地域の中心的な寺院。寺院に宝物第395号の東・西の三階建て石塔と宝物第1311号の大雄殿(テウンジョン)、半円アーチの昇仙橋(スンソンギョ)など、多数の重要文化財が保管されており、歴史的な価値が高い。特に、古雅な雰囲気の古い建物が奥深い趣を漂わせ、寺院の周辺は樹齢数百年の樹木が鬱蒼と茂っており、多くの人々から愛されている。帯妻僧たちの宗団である韓国仏教太古宗の本寺院。

松広寺(ソングランサ)曹溪山(チョゲサン)の東側に仙巖寺があるならば、西側の麓には松広寺が位置している。中に入ると、木造の建物80余棟が同心円を描くように集まっている。この寺院に駐錫していた16国師の遺影を祭る14世紀朝鮮王朝初期の建物である国師殿(ククシジョン)をはじめ、数多くの文化財を有しており、僧侶たちの伝統がきちんと引き継がれる「僧譜(僧侶が系譜を記録したもの)」寺院として、仏様の舎利を保管した梁山(ヤンサン)の通度寺(トンドサ)、八萬大藏経(パルマンテジャンギョン)の経版を保管している陜川(ハプチョン)の海印寺(ヘインサ)と並んで韓国の「三宝寺院」の一つだ。

順天湾庭園順天湾の庭園は、56万㎡の敷地に造成された生態庭園だ。2013年順天湾国際庭園博覧会が開催された跡地に造成された順天湾庭園は、国家別に特色のある伝統庭園と市民、作家、企業などが参加した70の多様なテーマ庭園、花の庭園、漢方薬草栽培公園が調和をなしている。

楽安(ナクアン)邑城樂安邑城は、町全体が史跡第302号に指定された文化観光スポットだ。朝鮮王朝時代の住居様式の原型がきちんと保存されており、町の随所に藁葺き屋根の家や縁側、かまどのある台所などがよく見かけられ、村の昔の官衙もちゃんと保存されている。現在も、村に住む人々が農業を営んでおり、また観光客向けの宿泊施設も運営している。

り『旦那さんが来たのに何してるんだ?』と怒鳴りつけるんですよ。ご飯を炊いて食事の支度をしていたら涙は出てきたが、でもうれしかった」人間がもっとも美しく見えるときは、一生自

分が好きなことをして歳月を過ごす姿だろう。お婆さんは私にどこから来たのかと聞いては、山畑に登る坂道を忙しく登っていた。お婆さんが手にした手鍬が鮮やかに目に入った。静まり返った干潟町に降るボタン雪よりも、お婆さんの手鍬と優しい印象の目元の皺がより愛おしく感じられたことはいうまでもない。

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巨匠

キム・スミ 金帥美、「文化空間」編集長

パク・ジョンジャ(朴正子)は韓国現代演劇の舞台をリードしてきた俳優だ。1962年に演劇『フェードル(Phaedra)』でデビュー後、たえず舞台に立ち、70歳を超えた今でも特有のカリスマ性を発揮して舞台で輝き続けている。「韓国最高の舞台女優、朴正子」誰もこの賛辞に異議を唱えるものはいない。

私たちは朴正子の熱い情熱にあっという間に魅了されてしまう。しかし情熱を抱いた彼女の理性は冷酷なほどに冷たい。約束時間に遅れ

たことはなく、事前の準備も徹底している彼女の稽古場と楽屋での姿は尋常ではない。まるで祭祀を準備する司祭のように全身全霊をこめた動きは毎瞬間、敬虔さに満ちている。毎回、こういう過程を経て完成する朴正子のキャラクターは舞台の上で強い説得力を持つ。観客は50年以上の演技経歴を備えた彼女の老練さに驚くのではなく、彼女の正直さと純粋さが与える感動に拍手を送ることになる。演劇評論家グ・ヒソは朴正子の人物表現方法について、韓国の伝統文化の特徴である家の柱に例えたことがある。

正直さと純粋さの与える思いがけない感動「それはまるで韓国の古家屋の柱のエンタシスの造

形美のようなものだと言える。大きな柱を作る時に円柱であれ、角柱であれ、上下の太さが直線の場合、その柱は真ん中が細く見えてしまう。それで人間の視覚の偏差を考慮して柱の中間部分、腰にあたる部分を若干太く膨らませて作る。このようなエンタシスの円柱の科学こそ、事実以上のリアルさで見る者の目に安定し

た柱の姿を見せてくれるのだ。朴正子の演技によって誕生した人物はまさにこのようなエンタシスの科学で生まれてきたような気がする」(「演劇俳優朴正子」、演劇と人間、2002)科学的な計算で創造された事実以上の事実。見る

者の目を考慮して安定感を予測する緻密さ。これを演劇俳優の演技を通じて確認したという評論家の洞察力も素晴らしいが、この評論家の慧眼に驚かされるのは科学的な思考パターンを非科学的で非可視的な性質に求めた点だ。これこそ朴正子が常に緊張し、そしてその緊張感を維持するための均衡のとれたパワーの本質だといえる。従って演劇俳優・朴正子を知るためには彼女の隠された内面、心の奥底で揺れ動く非可視的な本質に求めるべきだということだ。

熱い情熱、冷たい理性、 そして均衡のとれたパワー朴正子は1962年梨花女子大学文理大学演劇部で

演劇を始めた。映画監督を夢見た兄の影響を受けて9歳の頃から映画館に出入りしていたため、彼女にとって演劇や映画館は馴れ親しんだ場所だった。当時大学の演劇サークルは専門的なシステムで海外の作品を紹

常に、今この瞬間が最も美しい」

朴正子の演劇人生50年

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朴正子が1988年アルコ芸術劇場で公演した『血の結婚』の舞台で熱演する姿。この作品は1964年梨花女子大演劇班の公演で初めて舞台にかかり、1982年に劇団自由劇場の国内正式初演後、1985年のスペイン公演に続き日本、アメリカ、ベネズエラなどで公演され話題になった。

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介し、専門的に訓練を受けた演出家を招いて、明洞国立劇場やドラマセンターで公演をするほどの風格をもっていた。新聞放送学科に通っていた彼女は演技に興味を持

つようになる。しかし彼女を清純可憐なヒロインにしてくれる演出家はいなかった。典型的な東洋人の顔に、独特なハスキーボイスの朴正子はチェーホフのニーナやシェークスピアのジュリエットのように甘く溌剌としたヒロインのイメージとはほど遠かった。彼女が最初に演劇の舞台で演じた役はラシーヌのフェードル(1962)に登場する侍女だった。主人公のフェードルの後について発するいくつかのセリフが全部だった。翌年ロルカの作品『ベルナルダ・アルバの家』(1962)では80歳をこえた老婆を演じた。『血の結婚』(1963)では母親役を、既成の演劇舞台での初の作品となるドストエフスキー原作の『悪霊』(1965)でもやはり母親役だった。生涯を共にする劇団自由での初舞台『タラジの饗宴』では侍女でデビューした。

デビューから10年間、朴正子の役は主に侍女、母親、老婆だった。しかし観客は美しいヒロインよりも脇役で美しいわけでもないのに、しゃがれ声の朴正子をもっと強く記憶している。段 と々評論家、そして新聞でも朴正子の演技に注目し始めた。彼女に生涯で最初の演技賞を与えたチェ・インホ(崔仁浩)原作の創作劇『Where Shall We Meet Again ?』(1970)でも審査評はラストシーンを圧倒した彼女の老婆役を絶賛した。その時の心情を彼女はこんな風に回想している。「私は主人公オンダルの母親役でした。死を前にしてよろよろと木戸から出て行くオンダルの母を私は舞台、演劇、そしてすべての宇宙に戻って、残った何かで表現したかったんです。そして息さえ止まりそうなピーンと張り詰めた緊張… その時私はまだ28でした」(『朴正子と韓国演劇50年』、樹流山房、2012)

当時フランス留学を終えて帰国した前途有望な演出家キム・ジョンオク(金正鈺)は朴正子と生涯の演劇の同伴者となった。キム・ジョンオクは長い間、見守っ

1970 1994

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1. 『どこで何になり会おうか』

2. 『女の役割』3. 『巫女島』4. 『その女、がめつい母ちゃん』

5. 『ハロルドとモード-少年は虹を渡る-』

6. 『ダンテの神曲』

てきた朴正子の演技に対してこんな風に説明する。「比重の大きい役でなくても彼女に任せると、その

役が作品全体の中でひっそりと輝くことを私は数知れないほど経験し記憶しています。数奇な運命の役を朴正子が演じると、その運命が観客の目に見えるのではなくて、人物の葛藤と哲学が目に飛び込んでくるんです」(『朴正子と韓国演劇50年』、樹流山房、2012)朴正子にとって演劇は信念であり、宗教だった。

彼女は自分の出会った役に感謝し、舞台の上では最善を尽くし、その役に生きた。彼女の演劇を尊ぶ崇高な態度が生の本質や、人類の根本、人生の根源である母などが自然に現れた。百想芸術大賞を受賞した『グッドナイト・マザー』(1990)の朴正子は世の中のすべての娘を泣かせた母だった。『母は50で海を発見した』(1991)で朴正子は50歳の母のシンボルであり、『その女、がめつい母ちゃん』(1997)ではドイツの原作の伝説的な俳優ヘレーネ・ヴァイゲルに負けないほどに素晴らしい韓国の母を創造した。以後、それ以上の韓国

的な色彩の濃いがめつい母ちゃんは期待できないほどに彼女の影響は長い間続いた。朴正子のトレードマークとなったもう一つのキャラ

クターはムダン(巫堂)だ。韓国でムダンは単純なシャーマンではなく生命の力が及ばない生命の向こうの生命を主管する祭祀者だ。『イオド』(1997)で朴正子を見た人々が「鬼気が流れる」といったほどに没頭した。彼女のムダン役は『巫女図』(1994)で絶頂に達した。『巫女図』の巫堂モファが特別だったのは息子を刺し殺した母親のムダンだったからだ。巫女と母親が理性と論理を飛び越えた非合理的な地点で共通点を見つけたのだとすれば、この二つのキャラクターの結合は非常に強力なエネルギーだった。彼女が実際に東海別神クッの世襲巫堂から指導を受けたせいもあるだろうが、この作品は彼女が実際に巫堂の出ではなかいという憶測が乱舞したほどに強力な印象を残した作品だ。

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自分を知ること、 それが本物の演技の始まりだ朴正子は自分がどんな役ならうまくでき、何を望ん

でいるのかを本能的な感覚でよく知っている。彼女は自らの見えない可能性を演出家に直接披瀝して得た役が意外にも多い。演出家が考えもしないこと、最初に不可能だと思っていたことを彼女はいつも覆してしまう。「だいたい演出家は一つの役をうまくこなすと、そ

の後しばらくの間は同じような役だけさせようとします。そんなふうに役にあった人物を探す演出家が多いものです。しかし合わないだろうと思っていた人物がその役をうまくこなした時、それが本当の演技ではないでしょうか」今年の秋に国立劇団で再演された『ダンテの神曲』

は昨年公演に成功した作品だ。この作品を見た観客はたった一場面しか登場しないフランチェスカの印象について多くの後記を残したものだ。後でその俳優が朴正子だったと確認すると「どうりでうまかった」という記述が多かった。義理の弟と浮気をして地獄に落ちる愛欲の女性フランチェスカは朴正子が演出家に自らかけ合って得たもので、その決定がどれほど正しいものだったかを証明した役だった。このような彼女特有の根性は侍女の役でデビュー

した『フェードル』に37年後王妃として出演した点からも確認できる。1999年のフェードルは観客に「朴正子のフェードル」として刻印されるほどに印象的だった。40代の魅力的な中年女性を演じた『危機の女』(1986年)は彼女の演技人生にもう一つのターニングポイントとなった代表的なモノドラマだった。「当時演出家は私に適当な主人公を探してくれと言

ってきました。俳優について話していて私が何げなく『危機の女、朴正子じゃだめ?』と尋ねました。冗談半分、本気半分で口にした話に演出家はあなたは『危機』には全然似合わないといいました。しかししばらくして演出家がまた尋ねてきて、その翌日から稽古が始まりました」『危機の女』はその年、三つの重要な演劇賞を受賞

し、中年女性観客の格別な関心を集めた。朴正子はまだ舞台に上がる直前まで緊張し、公演期間中には遅

刻をしたり、セリフを忘れてしまう悪夢にたびたびうなされるという。結局、私たちは彼女が生涯を通じて混沌の時間に打ち勝ち恐怖を老練さと求心力に変えてきた姿を見てきたというわけだ。「私が演劇を始めた頃は、学校が厳しく外の世界

での活動はたやすくありませんでした。私は単純だったせいかあきらめも早かったようです。3年の初めに授業料まで納めながら学校の卒業証書を放棄しました。ジョブスもエディソンも学校の卒業証書がないといいますからね。彼らが私には生涯の慰めでした。それでも後に、学校から名誉卒業証書を受け取ってから、分かったんです。私が選択した人生は間違ってはいなかったこと。その紙切れ一枚が少なからぬ褒章でした」この50年間、朴正子は一年も休まずに演劇をして

きた。最近、彼女は朗読公演のように特別な形態の講演を直接企画・制作して全国を巡回公演し観客のもとを訪れている。山奥の村や僻地などもいとわない。すでに公演された作品をリメイクしたり、シェイクスピアのいくつかの作品を集めて新たなスクリプトを作ったり、音楽と共にストーリーテーリングする公演もある。今年の冬には2000年から始まりほとんど毎年公演してきたコリン・ヒギンズの『ハロルドとモード-少年は虹を渡る-』で若者と純粋な恋に落ちる純真無垢な老女を演じる。“80歳になるまで毎年、舞台に上がるんだ”という自分との約束を守る為の努力だ。「私は“朴正子”にまとわりつく固定観念を否定しま

す。演出家の硬直した考えも私は嫌いです。娼婦や危機の女、恋に落ち息子を棄てて家出するような女、そのように屈曲が多く、心の奥深くに揺れるものがある女性たちに私は特別なパワーを感じます。私の中にもそのような揺れ動く何かがあると思います。避けられない運命を前にして避けられない行動をおこす人々、もしかするとそれが最も人間らしい人間なのではないかと思うのです」朴正子は生涯、自らを境界に立たせてきた。自ら

絶え間なく、わが身に叱咤をしないではいられないのだ。たやすいことではない。彼女は今も相変わらず境界線に立っている。それで彼女は常に今、この瞬間が最も美しいのだ。

『ダンテの神曲』の公演練習前、朝早く国立劇場内のカフェで朴正子と会う。連日の過密スケジュールだが彼女は依然として「公演の練習室が天国」だと語る。

「私は“朴正子”にまとわりつく固定観念を否定します。演出家の硬直した考えも私は嫌いです。娼婦や危機の女、恋に落ち息子を棄て家出するような女、そのように屈曲が多く、心の奥深くに揺れるものがある女性たちに私は特別なパワーを感じます。私の中にもそのような揺れ動く何かがあると思います。避けられない運命を前にして避けられない行動をおこす人々、もしかするとそれが最も人間らしい人間なのではないかと思うのです」

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2014年日韓交流の現在

2014年の日本は、嫌韓本やヘイトスピーチが横行し、韓国に対するネガディブキャンペーンが行われたような年でした。一方で、根拠のない言

説に対して批判の声が上がり、少しずつ流れが変わって明るい兆しも見えつつあります。そんな状況の中で、「普通の人たち」による日韓の

交流と相互理解は確実に広がっていると思っています。その例を私自身の最近の体験から3つ挙げてみます。その1。今年9月下旬、勤務先である都留文科大

学国文学科の「日本文化史演習」という授業で、学生10名、教員2名が韓国を訪問しました。私は2000年から2007年まで嶺南大学校とソウル女子大学校に勤めて韓国で暮らした経験があるのですが、私以外は全員が韓国初訪問。学生に至っては10名中9名が初めての海外旅行でした。そんな学生たちがこの演習旅行に参加したのは、「マスコミの報道やネットでは韓国についてよくない情報が多く見られるが実際はどうなのか、自分の目で確かめたい」という理由からでした。海外留学も普通のことになったグローバルな時代ですが、誰でも一度「初めての海外」を体験します。日本の若者が初めての海外渡航先として隣国である韓国を選ぶのは自然な選択ですし、隣国のことを直接知りたいと考

えるのは真っ当なことです。学生たちは事前に朝鮮の歴史・文化・文学について学び、4泊5日の日程でソウルと慶州を訪問、韓国外大の学生さんたちや私のソウル女子大での教え子たちと交流することもできました。皆、直接体験した「韓国」から大きな刺激を受けたようです。このように真っ直ぐな気持ちで真摯に韓国と向き合おうとする若者たちが未来の日韓関係の礎になってくれることでしょう。その2。私の専門は日本の近世演劇、歌舞伎や人

形浄瑠璃で、演劇全般に関心を持っています。韓国で生活していた時は、毎週末、韓国の演劇や映画を見るようにしていました。その縁で現在では日本の大学で日本文学を教える傍ら、韓国演劇の脚本を翻訳したり、韓国映画の講座を持ったりしています。この10月には、都留文科大学のある山梨県の「県民コミュニティカレッジ講座」で「映画から見る韓国事情」という題目で全4回の講義を行いました。各回のテーマに即した韓国映画の一場面を見ながら、韓国の伝統的価値観や民主化の歩み、最近の若者事情や外国人労働者の問題などを具体的に知ってもらうことを企図した講座でした。受講生は、大学生から70代の方まで男性女性半々。日本で韓国映画に興味を持つ人たちと言

加藤敦子 かとう・あつこ、都留文科大学国文学科教授

遠くの目

私が日本で見た二つの公演は、日韓の共同制作によって質の高い舞台を作り、日韓両国で公演を行い、どちらの国においても高い評価を得ているのです。私はこの二つの公演を演劇における日韓交流の一つの達成点と捉えています。

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えばすぐに思い浮かぶのは中高年女性中心の韓流ファンですが、もっと幅広い層の方々が韓国の文化や社会への関心から熱心に講義に耳を傾け、講座終了後に「韓国の事情を知って、日本のことを考えさせられました」と感想を伝えてくれました。韓国を知ることで日本について改めて考えてほしいということは、講座で意図するところ(の一つ)でしたから、これはとても嬉しい反応でした。その3。韓流ブームのような派手な話題にはなりま

せんが、演劇を通じての地道な交流は着実に積み重ねられています。最近では、野田秀樹脚本・演出「半神」(明洞芸術劇場9/20-10/5・東京芸術劇場10/24-10/31、キャストはすべて韓国人俳優)、チェーホフ「かもめ」を原作とした「かもめ(カルメギ)」(ソン・ギウン脚本、多田淳之介演出、神奈川芸術劇場11/27-11/30、キャストは韓国人と日本人)を日本で見ることができました。いずれも日韓の第一線の演劇人が共同制作した作品で、韓国と日本で上演された舞台です。前者は、身体能力の高い韓国人俳優の表現が作品世界と脚本の魅力を引き出していましたし、後者は、原作の設定を1930年代の朝鮮に置き換えた巧みな脚本と演劇的な仕掛けに満ちた演出が相俟った刺激的な舞

台でした。「半神」は萩尾望都の同名の短編漫画が原作で、野田秀樹のレパートリーの一つとして日本国内で根強く支持されてきた作品です。また、「���カルメギ」は昨年ソウルで初演され(斗山アートセンター2013/10/01-10/26)、韓国の「東亜演劇賞」で作品賞、演出賞、視聴覚デザイン賞の3部門を受賞、演出賞は多田淳之介が東亜演劇賞50年の歴史において外国人演出家として初めて受賞したことが注目されました。つまり、私が日本で見た二つの公演は、日韓の共同制作によって質の高い舞台を作り、日韓両国で公演を行い、どちらの国においても高い評価を得ているのです。私はこの二つの公演を演劇における日韓交流の一つの達成点と捉えています。私が韓国で暮らし始めた2000年には、韓国では

日本文化が著しく制限され、日本で韓国の文化に関心を持つ人は少数派でした。あれから15年。地道な交流を重ねてきた演劇界は成果を生み出し、隣国の文化や社会をもっとよく知りたいと思う多くの人たちがいて、若者は自分の目で隣国を確かめようとしています。このような「普通の人たち」を信じていきたいと強く思います。

1 21. 「かもめ(カルメギ)」の脚本表紙2. 都留文科大学国文学科の慶州訪問

「ご飯泥棒」

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グルメを楽しむ

宴の席にに欠かせない料理

ジョンは肉や魚、野菜などいろいろな食材に小麦粉をまぶしてたあと、溶き卵をつけて油で焼いた料理の総称だ。油で黄金色に焼きあがった肉や魚や野菜は香ばしい油の匂いを帯び、その風味が一層増す。王様のお膳にもあがったチョンユオ(煎油魚)から屋台で売られているピンデットッまで、時代と材料によってその種類と形は多様に変化してきたが、依然として韓国人はジョンを焼くジュージューという音とその香ばしい油の匂いに宴の席を思い浮かべる。

チュ・ヨンハ 周永河、韓国学中央研究院、韓国学大学院民俗学専攻教授チョ・ジヨン 写真

3月のサムジッナル(陰暦3月3日)や、9月の重陽節(陰暦9月9日)の頃になると風が心地よく吹く穏やかな天候の日に、釡持参で家中の女子供を引き連れ崖の上の岩に座り、野

の花や菊の花を折り、ジョンを作って食べ、ヨモギ汁をつくりおかずにした。嬉々楽 と々しながら朝から夕方まで楽しく過ごした」朝鮮時代の文人である蔡済恭(1720~1799)の書いた『明徳

洞記』の花見を描写した一節だ。花見は女性たちの自由な外出が禁じられていた時代に女性や

子供たちが指折り数えて待っていた日だった。この花見に欠かせない食べ物がファジョン(花煎)だった。花煎を作るにはまず、もち米の粉を薄く水に溶く。油を引いた鉄板などの上に餅米の粉を水に溶いたタネを薄く伸ばして、その上に野や山から摘んで来た花びらを形を整えてきれいにのせて焼く。もち米の炭水化物が食用油にこげながら生じる匂いが食欲を刺激する。春にはツツジや梨の花を、秋には菊の花びらをのせてその香りと形をそのまま楽しんだ。口に含むと口の中一杯に季節の香りが広がり、まさに楽しい宴の料理だった。

稀少な油を使った貴重な料理今でこそ多様な種類の食用油を手軽に手に入れることできるが、

朝鮮時代の人々にとって食用油といえばゴマ油とエゴマ油しかなかった。ゴマ油はゴマを、エゴマ油はエゴマを絞ってつくる油だ。陰暦8月の秋夕(お盆)を前にして農家の人々のしなければならない仕事の一つがゴマとエゴマを収穫することだった。秋夕に香りもよく、味もおいしいジョンを作る為だ。特に遠く西域から伝わったゴマは油を絞る時の、その香ばしい香りから特に貴重なものとされ、油の名前も「本当に美味しい油」という意味で「チャム(本当の)キルム(油)」と呼ばれた。しかし当時、油を入手することは非常に難しかった。朝鮮時代

の実用書『謏聞事説』にはエゴマを絞った道具についての記録が残っている。「硬い木や石で作った木靴型の枠を使う。エゴマを蒸して二つ、三つ布袋に入れたあと枠に入れてちょうど皮靴の底をはめ込むように力いっぱいにたたくと、口の部分から油が出てくる」とある。エゴマ油と同様にゴマ油もこのような方法でとったというのだから、この「希少な油」は朝鮮時代には宮中でしか使えない食材だった。

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宴の席にに欠かせない料理

ニベの煎油魚は王様の食卓だけでなく、朝鮮時代の様々な宮中宴会の席に使われた料理だ。薄い切り身にした肉や魚を油で焼いた煎油魚料理は朝鮮時代後期には民間にも伝わり祝いの席など特別な日に食べる料理となる。

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宴の席の料理朝鮮時代、宮中でゴマ油を使って焼いて作る料理の中で一番

の料理は「煎油魚 (白身魚のジョン)」だった。宮中の台所では西海で捕れたいろいろな魚を干しておき、宴会になると干した魚を大きさを揃えた切り身にして緑豆やジャガイモのでんぷん粉をまぶして卵の黄身につけたあと、ごま油で焼いた煎油魚を作った。英祖の即位40年目の1765年、英祖の誕生日を記念するため

に王室の別宮だった慶熙宮で宴会が開かれた。普段、宴会の料理を簡素にするようにと指示していた英祖の指示により料理は10種類しかお膳にあがらなかったが、その10の料理の中に煎油魚が含まれていた。さらに魚の煎油魚一つだけでは不足だったのか、雉の肉を魚の煎油魚のように料理したものも作られた。だから10種類の料理の中で煎油魚だけは二つあったことになる。朝鮮時代後期から煎油魚は両班や民家の宴会の膳にも登場す

るようになる。だが祝い事のある日にだけ作られたのでもなかった。植民地時代の飲食学の専門家イ・ヨンギ(李用基、1870~1933)の『朝鮮無雙新式料理製法』(1924年)によれば「煎油魚は欠かせざるものとして、婚姻や葬儀、祭祀と誕生祝いの席、宴会や各種酒の席はもちろん、ご飯のおかずとしても無くてはならない」とある。人のたくさん集まる日のきちんとしたお膳にはゴマ油が最も良いが、手に入らなければエゴマ油で代用してでも必ず煎油魚をそろえた。神仙炉には必ず入るものだったし、麺料理、冷麺にも煎油魚を入れて味に油を付け加えた。油で焼いた料理、それ自体が韓国人には客をもてなす意味が込められていたからだ。

日常の喜び、大衆の食べ物に20世紀になり食用油の種類も多様になり値段も安くなると、ジ

ョンも大衆化される。その中で最も代表的なのが「韓国式のピザ」と言われるビンデットッだ。もともと「お客をもてなす餅(トック)」という意味のピンデビョン(賓待餅)から生まれたと言われるビンデットッはゴマ油の代わりに豚の油を使って焼く。豚の油は19世紀末以後、韓国に定着した中国人が食べ物を炒めるのに使用していた。緑豆を挽いた生地にいろいろな野菜と肉を入れて豚の脂で焼くビンデットッはそれこそ王室の煎油魚に負けない食べ物だった。独立後、戦争の混乱と困窮の時代に手に入る材料で作られたビンデットッは最も大衆的な街の、市場の料理となった。豚の油がたっぷりしみこんだ熱々の緑豆ビンデットッは肉をめったに食べれらなかった時代に、肉の代用の栄養食として庶民から愛された。今でも在来市場に行けば「ジョンの路地」がある。この路地を通

ると、分厚く焼かれたビンデットッはもちろん、エゴマの葉、巻き海苔、イカのスンデ、キノコなど、あらゆる材料が黄金色に焼ける香ばしい油の匂いに思わず足が止まってしまう。焼いている中から好みのジョンを選んで、冷たいマッコリと一緒に食べると、気まずい席もいつの間にか賑やかな雰囲気となり、二、三人あつまればあっという間に宴会が始まる。今やありふれた料理になったものの、多様な種類のジョンは依然として人々の興をそそる宴の席の料理の役割を果たしている。たぶん油でジュージュー焼ける音と香ばしく広がる匂いの中にその昔、わいわいがやがや賑やかな祝いの宴の特別な料理、煎油魚にたいする思い出が残っているからではないだろうか?

20世紀初めの飲食学専門家イ・ヨンギ(李用基)の『朝鮮無雙新式料理製法』(1924年)によれば「煎油魚は欠かせざるものとして、婚姻や葬儀、祭祀と誕生祝いの席、宴会や各種酒の席はもちろん、ご飯のおかずとしても無くてはならない」という。人のたくさん集まる日のきちんとしたお膳にはゴマ油が最も良いが、手に入らなければエゴマ油で代用してでも必ず煎油魚をそろえた。油で焼いた料理、それ自体が韓国人には客をもてなす意味が込められていたからだ。

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1, 2.ジョンは油をひいたフライパンで焼いた料理のことだ。煎油魚のようにいろいろな食材に小麦粉をまぶしてから卵の衣をつけて油で焼く方法と、ビンデッドッのように水で溶いた小麦粉の中に肉と野菜を入れて焼く方法がある。水で溶いた小麦粉の中にワケギ、イカ、貝、エビなどを入れて、油で黄金色に焼いた海産物パジョンはマッコリと味合う酒の肴として特に人気がある。

3.ジョンは簡単な調理法で材料の味をより豊かにすることができる料理だ。エゴマの葉やズッキーニ、白菜などの手に入れやすい野菜を油で黄金色に焼くだけでも、香ばしい油の匂いが漂い、風味が引き立つ。

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エンターテインメント

テレビから発信される義母と婿の葛藤今年韓国のお茶の間を虜にした対照的な二つの番組がある。経済的に無能な婿に暴言を浴びせる義母が葛藤の中心人物として描かれた、KBSドラマ『王家の家族』が全国視聴率40%を突破する一方で、SBSのリアリティー番組の『あなた-百年のお客さん』では、義母の前で実の息子のように遠慮のない平凡な婿が「国民的婿」というタイトルを付けられた。

ユ・ソンジュ 柳宣朱、テレビコラムニスト

婿への愛情は義母が一番」「婿は百年のお客さん(婿は一生客のようにもてなすべき人という意味)」「何とか口に糊することさえできれば、妻

の実家で同居なんて絶対にしない」。このように韓国には娘を挟んで義母と婿の立場の違いを喩える古いことわざがある。もっぱら娘の幸せを望む実家では、一生大切なお客さんを礼を持ってもてなすように婿に遠慮しがちであり、婿側では妻の実家に首を突っ込まれたくないという意味だ。しかし、90年代後半以降、若い夫婦たちの経済的

環境とライフスタイルが変わり、韓国の義母と婿文化も昔のことわざが色あせて見えるほど変化し始めた。共働き夫婦が急増し、妻が無遠慮に振舞える実母に子育てを手伝ってもらい、妻の実家と隣接して住む夫婦が増えたことから、義母と婿との間の距離がいつにもまして近くなってきたわけだ。主に嫁姑バトルを取り上げていた大衆文化が義母と婿の葛藤に目を向け始めたのもこのころだ。

ドラマの中で変化した義母と婿の関係1999年に放映されたMBCドラマ『薔薇と豆もや

し』『最後の戦争』、SBSドラマ『味をお見せします』には、いずれも圧倒的な財力を持つ妻の実家の陰で肩身の狭い思いをする婿、あるいは成功した娘に比べ、見栄えのしない婿を不満に思う義母が登場する。これは結婚とともにキャリアを諦めざるをえなかった旧世代の女性像に代わる新世代女性の出現、97年の通貨危機で弱体化した家長の権威がメディアに反映された結果である。

2000年代初めごろは、ドラマの女主人公が父親を亡くしてから、母親と友達同士のように仲良く暮らすという設定が頻繁に登場し始めた。それとともに、生活力のある義母のキャラクターが浮上し、これまで義父が担ってきた役割を義母が肩代わりして起こるハプニングがドラマの新たなお決まりの素材となった。韓国ドラマでは、結婚の承諾をもらいに来る娘の彼に義父がお酒を勧め、彼の酒癖と自制力をテストするというお馴染みの場面設定があった。今ではこの場面が、娘の彼が義母の気にいられるために、カラオケでなりふり構わず必死になって雰囲気を盛り上げるといったもう一つのステレオタイプなシーンに変わってしまった。最も有名な例として、MBCの2005年ドラマ『 私

の名前はキム・サムスン』を上げることができる。娘のサムスン(金善雅 主演)の恋人であるレストランの社長(ヒョンビン:炫彬 主演)が家に挨拶に来ると、サムスンの母親はフルーツ酒をボトルごと持ってきては彼の酒癖をテストし、カラオケに連れていく。彼がネクタイを頭に巻いて彼女の母親の歌に合わせ、情熱的にタンバリンを鳴らす場面は其の後、家柄の異なる彼女の家族とざっくばらんに付き合う婿候補の姿として定番になり、数多くの類似場面を生んだ。今年のMBCドラマ『 運命のように君を愛す』が同

じタイトルの2008年度のTVドラマをリメークし、義母と婿の関係を韓国の情緒に合わせて変更したことも注目される。ホテルのルームナンバーを見間違えて一夜を共に過ごした男女の間に子供ができ、そのため仕方なく結婚するハメになるという序盤の設定は同様だ。

左上から時計回りにMBCドラマ『運命のように君を愛す』、『私の名前はキム・サムスン』、SBSのリアリティー番組の『あなたー百年のお客さん』の一場面だ。

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ところが、原作では二人の主人公の関係に及ぼす義母の影響力があまり大きくないのに対し、リメーク作の夫(張赫 主演)はまだ気まずい関係にある妻(張娜拉 主演)より婿を息子と呼ぶ義母と先に親しくなり、温かい家族愛を味わうことになる。妻の実家のことであればすぐ駆けつけ親身になって世話をしていた夫は、妻と別れた後にも義母が営む食堂に定期的に訪れており、義母も元婿が来る日には夜遅くまで店の明かりをつけて待ち受けていて、いざ彼が現れるとぶっきらぼうに小言を言いながらもご飯をこしらえる。

ファンタジーと現実の狭間数年前に韓国の夫婦が離婚する原因として妻の実

家の過干渉による両親と婿の葛藤が、夫の両親との同居による嫁姑の葛藤を遥かに抜いたというニュースが報道されている。芸能人の婿と彼の義母がお互い気まずくなった逸話を打ち明けるトーク番組が顕著に増えてきたのは、このような現実の反映である。そのうち、『あなた-百年のお客さん』は、妻の実家で同居する婿の様子を観察するリアリティー番組のフォーマットで人気を博している。日常生活では些細な意見の食い違いでぶつかり合いながらも、いつも義理の両親に尽くす優しい婿の姿が新鮮に受け止められているのだ。しかし、平凡な若い夫婦が嫁の実家の近所に住むようになった根本的な原因に立ち返ってみると、近すぎる関係による葛藤は、再び距離感を回復する必要があるという結論にたどりつく。結婚して世帯を構えたにもかかわらず、親から経済的、精神的に自立できずにいる夫婦が親の干渉から抜け出し、距離感を回復すること

ができるだろうか。ウーマンウェブジン・ウリ(WoORIzine, www.

woorizine.or.kr)の2012年のアンケート調査によると、結婚した男性10人中6人は育児のために嫁の実家の近くに住んだり、義母と同居していることがわかった。結婚した女性が遭遇する嫁姑の葛藤は、共働きが増えたことで夫の家族と接する時間が減り、以前よりは大きく解消された。しかし、社会福祉政策が共働き夫婦の子育てに必要な費用と人材を十分にカバーできていないため、妻の実家が育児の肩代わりをすことで生じる葛藤はまだまだ進行中だ。さらに、育児を母性に専従させる風土は、女性の経済活動による空席をまたしても母系で埋め合わせることを当然視してしまう。そもそも、常軌を逸した強気の義母との葛藤を助長し、息子のような婿を通じてファンタジーを提供することばかりに囚われている今日の韓国のテレビ番組が見落としている問題がまさにこれなのかもしれない。

数年前に韓国の夫婦の離婚原因として、妻の実家の過干渉による義母と婿の葛藤が、夫の両親との同居による嫁姑の葛藤を遥かに抜いたというニュースが報道されている。『あなた-百年のお客さん』は、仮想の入り婿生活を観察するリアリティー番組というフォーマットで人気を博している。普段の生活で些細な意見の違いからぶつかり合いながらも、手厚く義母と義父の面倒を見る優しい婿の姿が新鮮に受け止められているのだ。

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韓国文学の旅

作家評

チャン・ドヨン 文学評論家

キム・イファン(金利奐)は長い間、いわゆる「ジャンル文学」の領域でその位置を構築してきた作家だ。1996年からパソコン通信に文章を書き始め、2000年の大学卒業後、パソコン通信に連載した小説を通して、ジャンル文学の読者にその名が知られ始めた。2004年に出版された彼の処女単行本『エビタージェンの幽霊』を始め、そのジャンルはSF、ファンタジー、コンピュータゲーム、アニメーション、映画、神話と伝説、ホラーなど多岐にわたり、作家の多様な関心が感じられる。

金利奐が創作を始めた2000年代の初めはイ・ヨンドの『ドラゴンラージャ』が人気を博し、韓国のファンタジー小説が全盛期を迎えてい

た頃だ。『ドラゴンラージャ』はトールキンの『指輪物語』に登場する空想世界の基本パターン、つまり種族や魔法などの設定には忠実だった。この作品の成功以後、似たような作品があふれ空想の世界でドラゴンや魔法が出てくるのが韓国のファンタジー小説の公式となった。さらにこのような公式がオンラインゲームに使われるようになり、ファンタジー小説の慣習として固着化した。これとは違い金利奐の作品はほとんどが日常的な

時空間を背景として現実と幻想が交差する局面を描いている。例えば『靴下を拾った少年』では主人公の

少年が幻想の国への秘密の通路を発見することから物語が始まる。主人公は現実世界では大学進学や女友達のことで悩んでいる平凡な少年だが、幻想の国を行き来することで大活躍をする人物に成長していく。『午後五時の宇宙人』でも現実と幻想が共存する様相が描かれており、見た目では分からないが実は、私たちの周辺には変装をした宇宙人が闊歩しており、平凡なカフェが宇宙人を追跡し逮捕する特殊要員たちの密かなアジトとなっているという設定だ。金利奐の小説で幻想は退屈な日常と平行している。現実と幻想が共存する金利奐の作品はよく現実に

対するアレゴリーだと解釈される。2009年第11回「マルチ文学賞」を受賞し、作家金利奐を有名にした長編『絶望の球』は人間の実存と欲望に関する省察を描いた作品だ。小説の背景は今、私たちが暮らしているソウルだ。正体不明の黒い球が突然出現して人間を一人ずつ飲み込みながら勢力を拡大していく。究極的には全人類が球の突然の襲撃により滅亡直前の状態にまでなる。人間を吸収する球というのはゾンビ映画からその発想を得たものであろうが、それは死の象徴であると同時に巨大な資本の全面的な到来に対する比喩でもあり、人間の欲望を余すことなく暴露する魅力的な文学的装置だとも解釈できる。現実と幻想の共存はジャンル文学と伝統文学のど

ちらにも重要な示唆点を提供している。「現実の反映ではなく、ジャンル的属性自体の中だけの自己反映的な特徴」だとか、「幻想性を通じた逃避的な性向」が

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ジャンル文学に対する主な批判であることを考える時、現実に対する反省ないしは洞察の可能性が伺える金利奐の作品は格別な意味を持つ。また伝統的な文学の観点からもSFとファンタジー的な世界観が示す斬新さ、想像力をおもいっきり推し進める果敢さ、読者の興味を持続し、リードしていく吸引力などは注目される。このような脈絡から『キミの変身』は金利奐の小説のもつ「境

界的な想像力」の可能性を如実に示した作品だ。2010年『文学トンネ』に発表されたこの作品はそれよりも数年前に幻想文学の専門「ウェブジーン・コウル(鏡、mirror.pe.kr)」に発表された『変身!』という作品に手を加えたものだ。「もし人間が体を自由に改造することができたら、どんなことがまき起こるか?」という小説の基本発想は人造人間とロボットを題材にしてきたSFの伝統にルーツを置いたものだ。『変身!』は未来の科学者たちが作成した報告書から抜粋したような20個の短い記事を羅列する形式で構成されている作品だ。ここに「僕」と「キミ」という人物を登場させ、事件を展開させることで叙事的な骨組を作り、「僕」と「キミ」との対話や心理描写などで叙事の肉をつけたのが『キミの変身』だ。『変身!』では奇抜な想像力を小説の中に羅列するので精一杯という印象を与えたが『キミの変身』では一段と文学性を確保しながら想像力の幅と深さを拡大している。その結果『キミの変身』ではSF的な未来世界を垣間見る楽し

さを提供すると同時に人間の欲望に対する省察も引き出している。中には暗鬱な未来世界を扱ったアニメーションや映画に対するオマージュ、あるいはパロディの痕跡も見える。また他の場面では同性愛の理論や、精神分析学的理論の小説的な適用と解釈できる部分も発見されたりする。想像と省察の方向は未来に固定され

たものではなく、時には古代ギリシャや今日のソウルを行きかいながら力動的な様相を見せる。未来世界に関した興味深く、珍しく、虚無妄想でさえある想像力の軌跡を追って進んでいくと質問は結局現在の現実に戻ってくる。「これからどんなことが起きるのか?」という質問で始まったこの小説はすべての話を終えながら読者にこう質問する。「キミが本当に望んでいるものは何なのか?」金利奐の小説では現実と幻想の交差するいくつも

の地点で「どこか懐かしくても前には全く発見できなかった奇妙な何か」が読者を魅了する。自由な想像力の無重力状態の中で楽しく遊んでいてふと何かを見つけた時に味わう感歎だとでも言おうか。世の中に対する鋭利な指摘の場合もあるし、人間の過度な欲望にまじめな警告として連結させることもある。金利奐は下水口から這い出してきたカタツムリと話をするという荒唐無稽な空想を扱った短編小説『コーヒーカップを手にしてクシャミ』でさんざん奇抜な想像力で物語を語り続けた挙句に、小説の最後をこんな文章で終わらせている。「 現実は物語を生み、物語は現実を生む。二つは互いを生み出しながら私たちの暮らしを作った」彼にとって物語がSFとファンタジーの想像力が充満した話、つまり幻想の話なのだとすれば、この文章をこのように変えることもできる。「現実は幻想を生み、幻想は現実を生む」と。ジャンル文学と本格文学の境界を越える可能性はここからはじまっている。

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