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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title セルフポートレートと演劇性 : クロード・カーンと前衛劇の交差(Self- portrait and Theatricality: Claude Cahun's Encounter with the Avant- garde Theatre) 著者 Author(s) 長野, 順子 掲載誌・巻号・ページ Citation 美学芸術学論集,10:6-23 刊行日 Issue date 2014-03 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81006983 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81006983 PDF issue: 2021-09-05

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

セルフポートレートと演劇性 : クロード・カーンと前衛劇の交差(Self-portrait and Theatricality: Claude Cahun's Encounter with the Avant-garde Theatre)

著者Author(s) 長野, 順子

掲載誌・巻号・ページCitat ion 美学芸術学論集,10:6-23

刊行日Issue date 2014-03

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81006983

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81006983

PDF issue: 2021-09-05

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セルフポートレートと演劇性――クロード・カーンと前衛劇の交差

長野順子

0.女性アーティストによる無定形のセルフポートレート

 シュルレアリストの女性写真家・作家として近年注目されはじめたクロード・カーン(Claude

Cahun, 本名 Lucy Schwob, 1894-1954)の活動は、これまで主としてジェンダーの攪乱や自我の多重化——主体の同一性の転覆——といったフェミニズム的・ポストモダン的視点から考察されることが多かった 1。本論では、初期のカーンが前衛劇運動に関与したパリの 1920 年代に焦点を当てて、彼女の領域横断的な活動を「演劇性」——とくに演劇の淵源とされる「仮面」劇や「人形」劇に特有なパフォーマンス性——という観点から新たに捉え直すことをめざしている。

0−1.「先駆者」クロード・カーン

 ルネサンス以降の多くの画家たちが鏡を用いて自らの姿を描いた「自画像」(self-portrait)は、近代社会における芸術家の自意識の高まりとともにいくつかのタイプ——独立型(デューラー他)・列席型(ベラスケス他)・変装型(カラヴァッジョ他)・研究型(レンブラント他)——を生みだし、19 世紀から 20 世紀にかけては自我認識や自己探究の場へと深化していった(クールベ、ゴッホ、シーレ、ベーコン他)2。自画像を見る人は、たいていはその向こう側にモデルである画家自身の存在を措定するが、実際には会ったこともない画家とそこに描かれた形姿とが似ていることを保証するものは何もない。むしろ、鏡のなかに見える自分と画布上の絵筆の先とを往還する眼差しから生みだされる自画像は、主体の同一性や鏡像的透明性を提示するというよりも、自我の分裂や眼差しの交錯における逆説性を顕わにしていることが、自画像をめぐる最近の諸考察によって浮彫りにされてきた 3。20 世紀以降には写真や映像による「セルフポートレート」も出てきたが、とりわけ現代の女性アーティストに共通する顕著な傾向として、ジャンルを越えたラディカルな「自我」像の制作が挙げられる。17 世紀のジェンティレスキ(Artemisia

Gentileschi, 1593-c1652)や 18 世紀のカウフマン(Angelica Kauffmann, 1741-1807)らに代表される女性画家たちも特徴のある自画像を残しているが、とくに写真という手段を手にして以来、伝統的な芸術作品による「女性像」の理想化や諸メディアによるステレオタイプ化に対抗して、彼女たちはその虚像と実像とを直視し、ときにおぞましくモンスター的な姿を自ら表象しようとしてきた 4。カーンはこうした女性によるラディカルな自己表象の先駆者と見なされ、写真での鏡像や多重像の使用とともにその仮装や異性装によって、例えば 20 世紀末アメリカの女性写真家シンディ・シャーマン(Cindy Sherman, 1954-)らと比較されてきた。たしかにその変幻自在の自己表象には既に、現代アートの諸ジャンルにおける主客の流動化や、〈吐き気〉や〈グロテスク〉にまでいたる美的(感性的)変革を示唆するような諸要素を認めることができる。

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0−2.パリ時代前半の演劇活動

 シュルレアリスムのアーティストとして 1980 年代末に「再発見」(L. Lippard)されたカーンについては、詳細な伝記的研究やモノグラフ研究の他に数篇の論考があり、これまでも欧米でのいくつかの企画展に続いて 2011 年に Jeu de Paume 国立美術館で回顧展が行われ、近年さらに注目されてきている 5。ただこれまでのカーン研究においては、彼女の特異なセルフポートレートにおけるジェンダー的特殊性や主体の同一性転覆という視点からの考察が多く、カーンの作家・俳優・写真家・オブジェ制作者としての多面性を統一的に捉える試みはまだ十分になされているとはいえない。とくに 1930 年代にブルトンやバタイユと接触してシュルレアリスムと緊密な関係をもつ以前の 1920 年代(「狂乱の 20 年代」Les annés folles)に彼女が前衛劇場に関与していたことは、伝記的事実として指摘されてはいるが、その詳しい経緯は解明され尽くしてはいない 6。 フランス西部の都市ナントで地方新聞『ロワールの灯台』(Le Phare de la Loire)——この新聞の経営者は彼女の父親であった——の文化欄に早くから寄稿していたカーンは、19 世紀末から 20 世紀はじめにかけて刻々と変化していく文学や演劇における動向に絶えず目を向けてきた。生涯のパートナーとなった異母姉でイラストレーターのマルセル・ムーア(Marcel Moore, 本名Suzanne Malherbe, 1892-1972)と 1920 年頃から彼女はパリに居を定めて、ジャージー島に移住するまでの約 17 年間を過ごした。このパリ時代の前半に、英米の作家やフランスの知識人が集う場となっていた書店への出入りや二つの前衛劇団へのアクティヴな参加とともに、カーンのセルフポートレートの主要なものが制作されている。1930 年、半ば自伝的な著作『無効の告白』を出版し、各章の冒頭を独特なフォトモンタージュで飾った。その後シュルレアリストたちとの交流をはじめ、短期間ながら政治運動やシュルレアリスム展に加わり、ブルトンとは家族ぐるみの交流がジャージー島移住後も続いた。また詩人のミショーやデスノスとの交友関係も長く続いている 7。 この後半期の活動からカーンはシュルレアリストと見なされることが多いが、前半期における彼女とムーアの演劇活動を詳しく見てみると、セルフポートレート制作の別の面が見えてきて、従来とは異なる角度から彼女の仕事を見直すことができるように思われる。それは、自我や主体性、ジェンダーという個人の心理的・内面的な問題よりもむしろ、人形や仮面という憑代によって日常世界から脱する演劇性、その演出やパフォーマンスの効果への強い関心から、その多くの特異なセルフポートレートは生みだされたのではないか、という解釈の可能性である。

1. 前衛劇の系譜——写実主義/自然主義への反旗

 19 世紀後半にかけて盛り上がってきた自然主義文学/自然主義演劇に対抗して、19 世紀末から前衛的な文学運動と結びついた象徴主義演劇をはじめ、パリの演劇界には活発な動きが起こってきた。ヨーロッパの近代社会・近代文化へのアンチテーゼとして社会的・政治的な意味も帯びたさまざまな前衛劇の試みには、インスピレーションの源泉として、例えば演劇の古典である古代ギリシア劇をはじめとして原始社会の儀礼や祭礼劇、東洋文化の宗教的・世俗的な演劇が参照されたが、いずれも仮面や人形を用いた様式化された身ぶりや舞踊を特徴とするものであった 8。

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人間社会の内部の出来事や心理的葛藤をそのまま写しだす舞台よりも、むしろ原初の非日常空間の現出に、本来の演劇的エネルギーの復活を図ろうとしたのである。文学、造形芸術、音楽等あらゆるジャンルにおける革新とともに、いやそれらの諸領域が総合的に共働する場として、また多くの観客に直接訴えかけることのできる媒体として、演劇はもっともラディカルな実験を行う人々の集う格好の空間となったといえよう。こうして 20 世紀はじめにかけて、ヨーロッパのメトロポリスとして世界中から人々が集まるパリに、小劇場が次々に立ち上がった。その経緯と理論的基盤をまずいくつか見たうえで、1920 年代後半にカーンらが加わった二つの劇場、「エソテリック劇場」(Théâtre ésotérique)と「プラトー劇場」(Le Plateau)についてその具体的な活動を明らかにしていく。

1−1. 前史 : <超人形>論——舞台空間の抽象化——小劇場の競合

 イギリス人演出家クレイグ(Edward Gordon Craig, 1872-1966)は、新しい舞台空間の創出とともに多くの演劇論で知られ、とくに論文集『演劇について』(On the Art of the Theatre, 1911)に再録された論考「俳優と超人形」(The Actor and the Über-Marionette, 1908)は、演劇革新の理論的な支柱のひとつとなった 9。クレイグの基本的立場は、演劇は文学的な筋や俳優の個人的な技のみに頼ることなく、舞台上のあらゆる要素を統合した一個の独立した芸術とならなければならない、というものである。ここには、芸術の自律性・形式性を強調する近代的志向が、伝統的なミメーシス原理からの脱皮として演劇のジャンルにも及んでいたのを見ることができる。俳優の身体表現や言葉だけでなく、舞台空間を形成する線と色彩、そして舞踊などの運動の本質であるリズムといった各要素を融合して、全体的に観客に働きかける様式化された舞台を作りあげること、そのためには、「演出」がそれらすべてを統括する主要な役割を担うことになる。そこでは俳優は、偶然的な感情やその都度の状況に左右される模倣的な演技を捨てなければならない。

しかし、俳優たちが囚われている束縛からそのうち逃れられる抜け道を、私は知っている。彼らは自分自

身で、大半が象徴的な身ぶりからできている新しい演技の形式(a new form of acting)を創りださなけれ

ばならないのだ。現在、彼らは<役に扮して>演じている(they impersonate and interpret)。将来は<表現

して>演じ(represent and interpret)なければならない。さらには創造し(create)なければならないのだ。

これが意味するのは、様式(style)が復活しうるということである 10。

予め設定された役柄になり切って演技し、その既定の人物像をできるかぎりうまく模倣することで演技者としての技量を発揮するような俳優の身体は、ここには必要ない。個人技を越えた「様式」化を復活させるための一種戦略的な主張として、クレイグは「超人形」という考え方を提示する。

俳優は去らなければならず、その代わりに生命のない像(inanimate figure)がやってくる。——彼がもっ

とよい名前を手に入れるまで、私たちは彼を超人形(the Über-marionette)と呼ぼう。…… マリオネット

には天才のきらめきを超える何かがあり、個性が発揮されたときの閃光を超えた何かがある。私には、マ

リオネットは過去の文明の気高く美しい芸術の最後の残響のように思われる。……

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私たちはもう〔俗化された〕操り人形(puppet)に満足しないで、超人形を創りださなければならない。

超人形は生と張り合おうとするのではなく、生を乗り越える。その理想は、血肉をもたないトランス状態

にある身体である —— それは死のような美を身にまといつつ、生きた息吹きを発散させようとするのだ(it

will aim to clothe itself with a death-like beauty while exhaling a living spirit)11。

 ある人物になり切って、その生の軌跡を真似るために俳優の精神にコントロールされる身体ではなく、むしろそうした演技しようとする俳優の個性を捨て去り、全体としての舞台空間とその時間的推移を形成する一要素としての動きを提示する媒体となること。有機的な心身統一体としての血肉をもった身体を超えて、より大きな生命体につながるためのみごとな道具となること。こうした一連のクレイグの考え方は、逆説的なようだが、当時彼のパートナーであったモダンダンスの創始者イザドラ・ダンカン(Isadora Duncan, 1877-1927)による身体表現の変革の試みとも連関する。アメリカのカリフォルニア出身で 1898 年頃にヨーロッパに渡った彼女は、ギリシア風のゆったりとした衣装に裸足で音楽に合わせて即興的に動く自由な舞踊によって、それまでの——物語的内容に即して型を踏襲する——「身体の芸術」の観念を大きく変えることになった 12。またクレイグと並ぶ現代演劇の先駆者とされるスイスの舞台美術家アッピア(Adolphe Appia, 1862-

1928)も、舞台作りの改革をめざして立体的・様式的な空間を構想している 13。彼はとくに、19 世紀後半ガス灯から電気に変わった舞台照明を用いて、光と色彩による暗示的な——写実的・説明的ではない——舞台空間を作るべきだと主張した。アッピアはまた、リトミック運動を提唱したダルクローズ(Jacque-Dalcroze, 1865-1950)と 1916 年に知り合い、舞台上の身体の動きに関する考察も深めていた 14。 一方パリでは、19 世紀末から先進的な試みを行う小劇場が次々に生まれて活況を呈していた。まずアントワーヌ(André Antoine, 1858-1943)の創設した「自由劇場」(Théâtre Libre, 1887)がゾラの作品を中心とする自然主義演劇の上演によって近代演劇運動の発端を作り、その影響はロシアや日本の新劇運動にも広がっていった。しかもそれほど時を隔てずに、自然主義に対抗してメーテルリンクらの象徴主義演劇の上演を試みたフォール(Paul Fort, 1872-1960)による「芸術座」(Théâtre d'Art, 1890)が立ち上がり、それを引き継いでリュニェ = ポー(Aurélien Lugné-Poe,

1869-1940)が「制作座」(Théâtre de l'Œuvre, 1893)を主宰する。こうして、自然主義演劇・反自然主義演劇の様々な陣営が競合しつつそれぞれの舞台活動を行い、そこにロシアを中心とした他国の演劇人たちも集まってくることになった。さらに、コポー(Jacques Copeau,1879-1949)の立ち上げた「ヴィユ・コロンビエ劇場」(Théâtre du Vieux-Colombier, 1913)もその新しい演劇運動によってヨーロッパ中に大きな反響を及ぼしたのである 15。

1−2.ジャリ——アポリネール——アルベール = ビロ

 その中でもっとも大きな影響を与えることになったのは、当初から人形劇的な舞台をめざして企てられたジャリ(Alfred Jarry, 1873-1907)作『ユビュ王』(Ubu Roi)という荒唐無稽な劇である【図 1】。悪意に満ちたユビュ親父が王位を簒奪してやりたい放題をしたのちに追放され各地を放浪する物語で、1896 年 12 月 10 日「新劇場」(Nouveau-Théâtre)での初演時には主人公の最

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初の一言 “merdre!” で劇場を騒然とさせた 16。主演を務めたジェミエ(Firmin Gémier, 1869-1933)はのちにアントワーヌ劇場、そしてオデオン座の支配人となるが、1920 年の「国立民衆劇場」

(Théâtre national populaire)の創設者としても知られる。彼はまた、1927 年に岡本綺堂の戯曲『修禅寺物語』(Le Masque)をフランス語で上演するために日本人関係者らと奔走した 17。フランスの不条理演劇の出発点と見なされているこの『ユビュ王』初演の演出はリュニェ = ポー、舞台装置/衣装は画家のボナールやセリュジエらが担当し、音楽はボナールの義弟テラス(Claude Terrasse, 1867-1923)に任された。現実性に依拠する具体的要素をすべて排除し、非合理的なものが氾濫するこの舞台では、装置は簡素化され、俳優は操り人形と似たような動きが特徴的であった。2 年後には実際にボナールらが人

形劇として再演している 18。特筆すべきは、この台本がカーンの叔父の象徴主義作家シュオッブ(Marcel Schwob, 1867-1905)に捧げられていることである。1893 年頃にジャリは『エコー・ド・パリ』(L’Écho de Paris)紙が毎月催していた文学コンクールに応募して何度か賞金を得たが、シュオッブはその審査員を務めていたのである 19。シュオッブの短編集『黄金仮面の王』(Le Roi au

Masque d’or, 1892)は、新聞や雑誌に発表した幻想小説をまとめたもので、冒頭の表題作は「仮面」が常態となったライ病の王族の話である。また代表作『少年十字軍』(La Croisade des enfants,

1896)は、同じひとつの事件を異なる 8 人の観点から語るという趣向が斬新である。自作の序文や評論でも表明していたように、彼の基本的な立場も反写実主義・反自然主義であった。 さて約 20 年経ってようやく、ジャリのこの試みを引き継ぐ新たな実験劇が出現した。第二次大戦への従軍で負傷してパリに戻った詩人アポリネール(Guillaume Apollinaire, 1880-1918)作の戯曲『ティレシアスの乳房 超現実主義のドラマ プロローグと 2 幕』(Les Mamelles de Tirésias—

drame surréaliste en deux actes et un prologue) が、1917 年 6 月 24 日 に ル ネ・ モ ー ベ ル 劇 場(Conservatoire Maubel)で上演され、同じく大きな騒動を巻き起こしたのである 20。ギリシアの盲目の預言者ティレシアスの名前を借用しつつ、当時のフランスのフェミニズムや少子化問題を揶揄した、やはり荒唐無稽な作品であった。架空の地ザンジバールでテレーズという女房が風船でできた乳房を爆発させて自由に生きる男性になり、代わりに夫が沢山の子供を作って育てる、という非現実的な物語であり、台詞だけでなくパントマイムや舞踊やさまざまな音響効果が大きな役割を占める。その序文において、作者ははっきりと自然主義による大衆演劇に対する批判的立場を表明したうえで、「シュルレアリスム」(sur-réalisme)という語を提示している。

私は〔自分のドラマの性格をはっきりさせるために〕シュルレアリストという形容詞を作りだしたが、そ

れは …… 象徴的という意味をもつものでは全くなく、芸術の一つの傾向をかなり明確に定義しているだ

けのものだ。〔通俗的理想主義の真実らしさ(la vraisemblance)や風俗劇のだまし絵風自然主義(naturalisme

en trompe-l’œil)とは異なり〕…… 私は写真家のように模倣することなしに自然そのものに帰らなければ

ならないと考えた。人間は歩行を模倣しようとして、脚とは似ても似つかぬ車輪を創りだした。こうして

【図 1】 『ユビュ王』初版の表紙

(ジャリのデッサンによる) 

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人間はそれと知らずにシュルレアリスムを実践していたのだ。…… 要するに、車輪が脚ではないのと同

じく、演劇はそれが演じている人生ではない。したがって、登場人物の舞台上の性格を強調し演出の華麗

さを増すような新しい際立った美学(des esthétiques nouvelles et frappantes)を演劇にもちこむのは正当な

ことだと私は考える 21。

 現実をそのまま「模倣する」(imiter)のではなく「自然そのものに帰る」(revenir à la nature

même)ことが、新しい美学だというアポリネールの主張がここに力強く発せられている。それは、いわゆる所与の「現実」を超え出て、むしろそれらを生みだし動かしている本当の「現実そのもの」=極度の現実を提示することだといえる。劇の開始宣言をするプロローグの中では、それを、演劇に「新しい精神」(esprit nouveau)を吹き込む試みと呼んでいる。初演時に演出を担当したのは、アポリネールに心酔して雑誌 SIC (1916-19)を立ち上げたアルベール = ビロ(Pierre Albert-Birot,

1876-1967)であった。彼こそはその後「プラトー劇場」を立ち上げて、カーンを演劇活動に引き入れることになる人物である。翌 1918 年、アポリネールの死の年に出版された詩集『カリグラム』(Calligrammes)は、印刷された文字群で具体的な形象を浮かび上がらせるという斬新な形をとっていたが、カーンはその影響を受けて、自分の著作においても同様の絵画的な文字の配列を試みている 22。

1−3.バレエ作品『パラード』と『エッフェル塔の花嫁花婿』——コクトーとサティ

 さて、アポリネールが「シュルレアリスム」という語を用いたのは、上記の自作戯曲の序文がはじめてではない。これより約 1 ヶ月早く、詩人コクトー(Jean Cocteau,1889-1963)によるバレエ作品『パラード』(Parade)が 1917 年 5 月 18 日シャトレ座(Théâtre du Châtelet)で上演された折のプログラム序文においてであった。キュビスムを導入した最初の舞台芸術とされるこの作品は、ディアギレフ率いるバレエ・リュス(Ballets Russes, ロシア・バレエ団)のために前衛芸術家たちが共同制作したもので、ピカソが舞台美術、サティが音楽を担当し、振付け家のマシーン(Léonide Massine, 1896-1979)は自ら舞台で踊った。コクトーの指示によると、小屋掛けの演芸場の入口で奇怪な格好をした興行師(衣装の代わりに摩天楼等の張子をまとったアメリカ人や

【図 2】 『パラード』舞台背景、フランス・アメリカの興行師(1917)

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フランス人)が客寄せをしようとするが誰も入場しようとしない。そこへ小屋の中から曲芸師や中国人の奇術師、アメリカ人の少女たちが出てきて得意の芸を披露するが無駄に終わる。冒頭でピカソによる具象的で幻想的な緞帳が上がると、一転してキュビスム風の街の眺めが現れ、コミカルなバレエが繰り広げられる【図 2】23。アポリネールは、このプログラム序文でも「新しい精神」という語を用いている。

これまでは一方に舞台美術と衣装、他方に振付けがあり、その間には不自然なつながりしかなかった

が、この新しい結合によって、『パラード』には一種のシュル・レアリスム(sur-réalisme)が生まれた。

ここに私は一連の新しい精神の表明の出発点を見る。〔…… コクトーはこれを現実主義のバレー(Ballet

réaliste)と呼ぶが。〕…… きっと、『パラード』はかなり多くの観客の考え方を混乱させるだろう。彼らは

たしかに驚くだろうが、それはもっとも快い驚きであり、魅了され、想像もしなかった現代の動向の魅力

を知るだろう 24。

 コクトーは、のちにスウェーデン・バレエ団(Les Ballets Suédois)のために『エッフェル塔の花嫁花婿』(Les maries de la tour Eiffel)を制作、これは 1921 年 6 月 18 日シャンゼリゼ劇場(Théâtre

des Champs Elysées)で初演され、音楽はフランス 6 人組と呼ばれるようになった若い作曲家たち(オーリック、ミヨー、プーランク、オネゲル、タイユフェール)が担当したが、そのうちデュレは途中で抜けた【図 3】25。 全体の筋は、舞台両脇の「蓄音機」(PHONO)2 台が語る状況解説によって進行していく。 さらに、チューリッヒのダダイスム運動からパリへ移動してきたツァラ(Tristan Tzara, 1896-

1963)は、1923 年 7 月 6 日にミシェル劇場(Théâtre Michel)の『《髭の生えた心臓》(Le Cœur à

Barbe)の夕べ』で『ガス仕掛けの心臓』(Le Cœur à Gaz)という劇を上演しようとしたが、ブルトンらシュルレアリストたちが乱入して結局上演はできなかった。この舞台の衣装はソニア・ドローネー(Sonia Delaunay, 1885-1979)によるもので、幾何学的な人形様のものであり、動きも自然体にはなりえないものだった【図 4】。

【図 3】 『エッフェル塔の花嫁花婿』舞台、ライオンと陸軍大将(1923) 【図 4】『ガス仕掛けの心臓』

S. ドローネーによる衣装デザイン

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2.1920 年代前衛劇へのカーンの接触

 こうした活発な動きに触発されて前衛劇への関心が高まってきた 1920 年代におけるカーンの具体的な演劇活動は、1924 年から 28 年までの「エソテリック劇場」への参加と 1929 年の前半に凝縮された「プラトー劇場」への参加とに大きく分けられる。それ以前にも、ロシアからパリにやってきた演劇人ピトエフ夫妻(Georges Pitoëff, 1884-1939 et Ludmilla Pitoëff, 1895-1951)とも親しく交流し、彼らの舞台活動に参加するよう誘われたこともあったが、この時は彼女はことわっている 26。カーンとムーアが実践活動として積極的に舞台に関わったのは、上記二つの前衛劇運動だけである。

2−0.周辺の演劇関係者たち

 カーンの演劇への関心は、1914 年頃から各種の文芸誌や新聞に掲載していた初期のエッセイ等にもその萌芽が見られるが、カーンの伝記作家ルペルリエによれば、叔父シュオッブやその友人アンドレ・ジッドをはじめとする象徴主義の文学者たちの影響も大きかった 27。彼らはイギリスから逃れてきたオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』(Salomé)を 1896 年にパリで上演するために尽力した 28。シュオッブは、象徴主義者たちのミューズと讃えられた女優のマルグリット・モレノ(Marguerite Moreno, 1871-1948)と 1900

年に結婚したが、健康を損ねてその 5 年後に亡くなった。モレノは、1911 年からは映画女優としても活躍している。1920 年頃パリに移住したカーンたちの周辺には、この義理の叔母だけでなくさまざまな演劇関係者がいた。そのなかにはモレノとしばしば共演をしたルーマニア出身の名優ド・マックス(Édouard de Max, 1869-1924)も含まれる。カーンと共にパリに移ったムーアは、ド・マックスのイラスト画を何枚も描いており、その中には歌舞伎の役者絵に似た迫力ある木版画もある【図 5】29。ムーアは、ナント時代からイラストレーターとして雑誌や新聞の仕事をしており、その頃の彼女のファッション画には、当時流行していた日本の着物姿の女性や浮世絵風の桜の下に傘をさす女性の姿も見られる。パリでは、カーンの演劇活動と並行して、前衛劇での舞台装置/衣装やポスター制作を数多く担当した。

2−1.「エソテリック劇場」——『ユディト』公演

 1923 年頃、カーンは友人の劇作家コンスタン・ラウンズベリー(Grace Constant Lounsbery,

1876-1964)に誘われて、彼女の主宰する文化サークル «Union des Amis des Arts Ésoteriques» に参加していた 30。彼女のいくつかの戯曲作品はすでに、ド・マックスらの有名な俳優たちによって上演されていた。カーンが彼女と知り合ったのはおそらく、オデオン通りの書店でのことか、あ

【図 5】 ムーア「ド・マックス」(1925)

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るいはラウンズベリーが叔父シュオッブと既知であったので彼の未亡人の女優モレノを介してかのどちらかである 31。ラウンズベリーの邸宅内の小さな感じのよいチャペルが、このサークルの本拠地になっていた。そこはプライベートな小劇場にもなっており、その最初のプログラムはムーアの挿絵付きで印刷された。ここで奨励されたのは、象徴主義的・スピリチュアリスム的な諸芸術の協和=照応

(correspondance)であり、とくに東洋の芸術に焦点が当てられることが多く、日本の能やウパニシャドから取られた一場面、アメリカの作家ポーやアイルランドの文学者シング、タゴールの小説の朗読、アラビアの詩、インドの宗教的な舞踊などが上演された。ラウンズベリーはのちによく知られた仏教研究者となった。カーン自身の東洋思想 —— 仏教、ヨガ、古代エジプト、グノーシス主義 —— への関心も新しいものではなかったが、彼女の仏陀の姿〔結跏趺坐〕らしき写真はここでの何らかの公演かイヴェントの折のものと考えられる【図 6】。 詩人であり劇作家でもあるラウンズベリーは、1923 年 12 月に立ち上がった「エソテリック劇場」に全面的に関わっていた。この劇場は、脚本家のカスタン(Paul Castan)とパートナーの女優ベルト・ディド(Berthed’Yd, 1903-1990)が主宰し、1924 年初頭に「神智学協会」(la Société

Théosophique)本部のホール(le Salle Adyar)で旗揚げを行って以来、演劇と舞踊を中心とした公演を定期的に開催してきた 32。その主旨は、「エソテリック」(秘教的)という名にふさわしい次のような野心的且つ非常に独特なものであった。

哲学的・秘教的な性格をもつためにこれまで埋もれていたいくつかの作品や傑作を現代作品・古典作品を

問わず、世に知らしめて人々に紹介すること。またそれらを、まずこのアディヤールホールで、それから

パリのさまざまな地区や郊外で、そしてできれば外国でも、可能なかぎり完全に上演すること。一言でい

えば、劇場芸術のなかに、何らかの資質をもつ者がそこから何かを得ることのできる新しい研究領域を開

拓すること。要するに、それらの作品の秘教性を隠蔽する代わりに際立たせること 33。

 カーンにとって重要なのは、1926 年 4 月 27 日にこの劇場でラウンズベリーによる戯曲『ユディト』(Judith)が上演された際に「女」(une Femme)の役で参加したことである。包囲されたユダヤ民族のために敵陣に潜り込み将軍ホロフェルネスを殺害したユディトをめぐる旧約聖書の伝説は、新約聖書のサロメと並んでルネサンス以来多くの絵画の主題となってきた。ムーアはこの公演で、舞台装置と衣装を担当している。その第 3 幕では、ナジャ(Nadja, 本名 Béatrice Wanger,

1891-1945: ブルトンの「ナジャ」とは別人)と呼ばれるアメリカ人舞踊家がエロティックなダン

【図 6】 カーン「セルフポートレート」2 点(1927)

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スを披露した。ナジャはカーンたちとも親しい間柄で、ムーアは彼女のポスター画を何枚も制作している【図 7】。西アメリカ出身のナジャのダンスには同郷のダンカンからの影響が大きかったはずである。ドイツ軍のフランス侵攻後に、彼女は祖国アメリカに戻った 34。 ところで、カーンがその 1 年程前に文芸雑誌 « Mercure de France »

に連載していた短編群『ヒロインたち』(Heroïnes)の中にも、「サディストのユディト」(La sadique

Judith)と題されたこの伝説の語り直しが含まれている。美しいユディトは実はひそかに将軍に魅かれていたという独自の解釈は、戯曲の筋書きとも近かったので、カーンはこの劇を評価していたはずである 35。ちなみにこのカーンの短編集は、ギリシア神話の美女ヘレネやお伽話のシンデレラなどのよく知られたヒロインの物語を転倒させたフェミニズム的要素をもったものであり、当人のモノローグや対話によってその本音を語らせる、という一種演劇的な形式をとっている【図 8】。

2−2.「エソテリック劇場」の『ガラ・オリエンタル』——日本人舞踊家・歌手たち

 特筆すべきは、この「エソテリック劇場」で 1929 年 6 月 18 日、日本人出演者 3 名を中心とする歌と踊りの夕べ『ガラ・オリエンタル』(Gala Oriental)を開催していることである。彼らは「浦島」(Urashima)、「猩々」(Shojo)などの舞踊詩、山田耕筰作曲の歌や童謡などを披露し、他にナジャによる東洋風のダンスも加わった 36。当時の前衛劇場の多くは、19 世紀以来主流となった。リアリズム演劇を脱構築する一手法として、日本の能や歌舞伎、インドやカンボジアの宗教舞踊の様式化された身振りへの関心が強かったと考えられる。ここに参加した日本人の名前はわかっている——Toshi Komori(小森敏 , 1887-1951)、Yasoshi Wuryu(瓜生靖 , 生没年不詳)、Yoshinori

Matsuyama(松山芳野里 , 1891-1974)——が、当時の彼らの活動に関する資料も文献もきわめて少ない 37。 若き日に日本舞踊を修業してアメリカに渡ったのちパリを中心として約 15 年間舞台活動をした小森が独自に編み出した東洋風の舞踊は、ヨーロッパの劇場人に独特の四肢の動かし方を印象づけたようである。当時の舞踊評論家ルヴァンソン(André Levinson, 1890-1933)は大著『今日のダンス』(La danse d’aujourd’hui, 1929)のなかで、別の機会にカンボジア舞踊を披露した小森敏と芦田栄について、彼らはたしかに(カンボジア舞踊の)「プロフェッショナル」ではないが、自国の古典舞踊の伝統を取り入れたその着想は「日本舞踊の断片的なイメージ」とはいえ「正統な」ものに思える、と賞賛している。「小森氏のスタイルは、聖職者のごとき知性と品位を発している」38。

【図 7】 ムーア「ナジャ」(c.1924) 【図 8】 ムーア「ユディト」(c.1925)

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ちょうど 1927 年頃パリに滞在していた写真家の中山岩太

(1895-1949)が撮影した小森の演じる「浦島」の写真が残っており、衣装は中国風のものであるが、光と影を強調した照明効果が印象的である【図9】。これは小森が同年開催の未来派パントマイム劇場に参加した時か、あるいは年に 1、2 回行っていた単独の舞踊公演の折のものと推測される 39。 他方、瓜生については、同じ 1927 年 6 月にフランス語版『修禅寺物語』(Le Masque)公演でジェミエと共に舞台に立ったことが記録されている 40。1909 年(明治 42 年)岡本綺堂作のこの戯曲は、夜叉王という 面

おもてつくり

作師の手になる源頼家の木彫の「仮面」をめぐる物語である。実在の人物を写して彫った面が、その人物の死すべき運命を先取りするという幽玄の世界が人々を惹きつけた。舞台装置は藤田嗣治

(1886-1968)が担当、フランス在住の日本人として中山夫妻もその公演実現に協力した。この時期の日本の伝統劇や舞踊の受け留められ方をさらに調査することによって、カーンとムーアにおける直接・間接的なオリエンタリズムの影響もより明らかになると思われる。

2−3.「プラトー劇場」——『青髭』『郊外』『アダムの神秘』

 1929 年 3 月から 6 月にかけてカーンは今度は、アルベール = ビロの率いる「プラトー劇場」で続けて 3 つの演目において重要な役を演じた。主催者のアルベール = ビロは『ユビュ王』の強い影響や『ティレシアスの乳房』を自ら演出した経験をもとに、この劇場を立ち上げるに際して、次のような広告をだしている。

舞台上では人生の見かけの現実を写すのではなく、本当の現実(la réalité réelle)を再現する。顔、身体、

身ぶりは化粧や仮面によって作り直され、歪曲され、誇張される 41。

写実主義/自然主義へのアンチテーゼとして、熟練の俳優によるミメーシス的な演技ではなく、むしろ生きた人間を離脱したマリオネット的な表情と身体表現を求める「プラトー劇場」——その名も「舞台・座」(plateau)からくる——にとって、素人のぎごちない動きの方が望ましかったのかもしれない。数人のアマチュア俳優のなかには、日本人の瓜生靖が交じることもあった。 1929 年 3 月 20 日から 2 ヶ月にわたって公演された最初の演目『青髭』(Barbe bleue)は、ペローの童話をもとにした物語で、前妻たちが殺された開かずの扉を前に恐怖に立ちすくむ新妻(Elle)の役をカーンが演じた。「青髭」役はギリシア悲劇風の眉や目を強調した大きな仮面をつけ、「妻」

【図 9】 「浦島」を踊る小森敏、未来派パントマイム劇場(中山岩太撮影 1927)

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役のカーンは白塗りの化粧に能面のような無表情で、やや子供っぽい衣装に身を包み、むしろ中性的な佇まいである。そして、「舞台上の演技や身ぶりは、自動人形(automates)の動きのような外観を保って」いたことが、その舞台姿での複数のセルフポートレートから見てとれる【図10】。だがその脱人間的な身体の抽象性は、すでにカーンのこれまでのセルフポートレートに見られた「人形、人工物、仮面という彼女固有のレトリック」でもあったのである 42。 人形振りは、同年 5-6 月に上演された次の演目『郊外』(Banlieue)ではもっとはっきりと表れていた。写実主義的な演劇を正面から風刺するようなこのパントマイム劇で、カーンは「第 1 テーブルの男」(le Monsieur de la première table)の役を演じた【図 11】。小さな郊外のカフェでの無意識の人間的行為をカリカチュア化したこの劇で、例えば体は動かさずに関心の向く方向に首だけ回すような静的なパントマイムを「日本人」(le Japonais)役として最初に演じたのは瓜生靖であったが、それをカーンが引き継いだのである。物理的・心理的な硬直状態が、虚空を見つめる空虚な表情によって表わされた。ここでのカーンの異性装は、カフェの女主人を演じたアルベール = ビロのそれと対照的であったと思われるが、異性装そのものは、彼女のセルフポートレートの目立つ特徴のひとつでもあった 43。 最後に 6-7 月の中世風の神秘劇『アダムの神秘』(Le Mystère d’Adam)で、カーンはイヴを誘惑する「悪魔」(le Diable)の役を演じた。きらめく衣装とメイクによる強い眼差しは、彼女の「中性」性というより「両性具有」性を際立たせている【図 12】。舞台装置は簡単なリンゴの木のみで、魅惑的な蛇であるこの「悪魔」がのちに邪悪な「仮面」をつけて本性を暴露する場面では、背景

【図 10】 『青髭』主役2名、「セルフポートレート」と二重像の「セルフポートレート」(1929)

【図 11】 『郊外』舞台、「セルフポートレート」(1929)

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画として神とその両脇の天使の素描が用いられた。この時の舞台写真やセルフポートレートは、いつものようにムーアの協力によるものであったが、19 世紀以来の「活人画」(Tableau vivant)のような様相を呈している 44。前衛劇を特徴づける最小限の舞台装置としての単色の背景幕とライティングもまた、彼女の一連のセルフポートレートと共通するものであった。

3. 仮面/人形の祝祭

 第一次大戦後のパリには、アメリカ人をはじめとして世界中から人々が流れ込み、カフェ・コンセールやボードヴィル、レヴューなどさまざまな種類の大衆文化が隆盛をきわめた。そのただなかで、芸術の諸ジャンル、とくにダダ・未来派・シュルレアリスムに連なるアヴァンギャルドは主に舞台上で競合することになった。共通するのは、俳優のミメーシス(模倣)的演技よりも人間性を超脱した機械仕掛けの人形的な動き、だまし絵的な真実らしさよりも抽象的な舞台背景や光や音響の全体的効果の追求であり、そこにクレイグらの思想の反響を見ることができよう。さらにバレエ・リュスや新しい舞踊だけでなく、東洋の仮面劇やその様式化された身体表現も前衛劇の一源泉となっていた。ウェルビー = イヴラードのいうように、「仮面のもつ古来の価値は進歩的なものの記号となり、…… 常に柔軟で、固定していると同時に思うままになる仮面は、こうして古いものと新しいものの境界を越えてラディカルなものの限界を拡張した」のである 45。カーンにとって、「エソテリック劇場」は東洋的なものへの志向性によって、「プラトー劇場」はマリオネット的身体実践によって、まさに古来の演劇の伝統とアヴァンギャルド運動との出会いの場となったといえる。 しかしながら、仮面や人形というテーマそのものは、早くからカーンの生と思想の根底に存在していたのである。生地ナントは古くから四旬節のカーニヴァルでよく知られた土地であり、ピエロなどの仮装や多様な仮面による変身は幼少時から彼女には親しいものであった。カーンにとって仮面は化粧と同じく、その時々にふさわしい存在になるための手立てとして自在に駆使で

【図 12】 『アダムの神秘』舞台、「セルフポートレート」(1929)

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【図 14】 「セルフポートレート」(c.1927) 【図 15】 「セルフポートレート」(1928)【図 13】 「セルフポートレート」(c.1927)

【図 16】「セルフポートレート」(1928) 【図 18】「セルフポートレート」(1929)【図 17】「セルフポートレート」(1929)

【図 19】 『無効の告白』第 IX 章(1930) 【図 20】 『無効の告白』第 I 章(1930)

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きるものとなっていた。

仮面はいろいろな材質からなる。例えば厚紙、ベルベット、肉、言葉など。肉の仮面(le masque charnel)

と言葉の仮面(le masque verbal)はどの時期にでも身につけることができる。私はすぐに、通常のルート

に乗っていないこの二つの戦略を、他の仮面より好むことを覚えた。人は自分のペルソナを習い覚えるの

であって、皺、口元のひだ、眼差し、イントネーション、身ぶり、筋肉でさえ …… そうである。人は複

数の語彙、複数の統語法、複数の存在様式・思考様式・感覚様式を形成し、それらにはきっちりと境界が

あり、そこから人はその時々の肌の色を選ぶのだ 46。

「肉の仮面」と「言葉の仮面」。人の表情、身ぶり、言葉遣いも含めたふるまい全体がすでに多層的な「仮面」=ペルソナとして、その人の生き方をその都度彫琢していく。それは、人の思考や感情までをも形づくるのである。ジェンダーという要素も、そのように形成されうるものにほかならない 47。 狂乱の 1920 年代、パリは同性愛にも寛容であり、書店主モニエやアメリカ人作家ガートルード・スタイン(Gertrude Stein, 1874-1946)らの先例は、一種ファッショナブルにさえなっていた。また演劇の世界では古来、異性装は代表的な変身装置(シェイクスピアの女役やオペラの所謂ズボン役等)でもあった。『青髭』の「妻」役のカーンは、むしろ女形のような印象を与え、それほど彼女にとって男装による変身が舞台上に限らずふさわしいものであったことは、代表的なセルフポートレートからも見てとれる。例えばリンドバーグ(Charles Lindbergh, 1902-74)が大西洋単独飛行に成功した 1927 年には、当時の人気職業となった操縦士の扮装も試みている【図 13-15】。また——個々の作品についての詳しい分析は次の機会に譲らなければならないが——人形的な身ぶりや仮面の多重化は、いくつかのセルフポートレート群の明らかな主題となっている【図 16-18】。 初期から晩年まで撮り続けていたカーンとムーアの共同制作であるセルフポートレートに見られるこうした異性装や仮装、「仮面」を用いた身体感覚の異化という側面を——演劇の伝統と反伝統とが融合された意味での——「演劇性」と呼ぶことができるだろう。そのことにより彼女は、女性・ユダヤ人・同性愛者という社会的〈他者〉としての自己存在も一種の「仮面」と捉えつつ、さらに別様の存在へと自由に変容する場を獲得したのである。人間的なものの脱人間的なものによる置き換えはむしろ、因襲から解放された新たな生へと開かれるためのものであったともいえる。さらに、二重露光等を用いた〈折り返し〉や〈逆転〉という写真媒体の特質を生かした戦略が、30 年代以降のシュルレアリスムとの接触によって開拓されていくことになる。 1930 年に出版した『無効の告白』第 9 章冒頭のフォトモンタージュには、カーン自身の顔がいくつも重ねられた周囲に次のような文章が書かれている。「この仮面の下には別の仮面。私はこれらの顔をすべて取り外してしまうことはないだろう」【図 19】。これらの仮面の下に隠れた「本当の」アイデンティティなどありはしない、というのが彼女の基本的な立場であり、本来伝統的な文学形式であるはずの「告白」も、もうひとつの仮面として予め無効化されたものとして提示されるのである。第 1 章冒頭のフォトモンタージュでは、カーニヴァルのピエロの衣装を着た 6

歳のカーンを中心に種々の顔が放射状に拡がる【図 20】。こうしたフォトモンタージュの構成、文学テクストにおける語り(台詞)の技法からも、「仮面」や「人形」に仮託した〈遊戯/遊離〉

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1 cf. Whitney Chadwick, Mirror Images: Women, Surrealism, and Self-Representation, The MIT Press, 1998. Shelley Rice ed., Inverted

Odysseys: Claude Cahun, Maya Deren, Cindy Sherman, The MIT Press, 1999. Rosalind Krauss, Bachelors, October, The MIT Press, 2000.

2 以下を参照。三浦篤[編]『自画像の美術史』東京大学出版会、2003 年。Françoise Heilbrun et Philippe Néagu ed., Portraits d'artistes

(catalogue), Ministère de la culture et de la communication: Éditions de la Réunion des muséesnationaux, 1986 (Les Dossiers du Musée

d'Orsay; 7).

3 以下を参照。デリダ『盲者の記憶』鵜飼哲訳、みすず書房、1998 年 (1990)、ミシェル・テヴォー『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』岡田・

青山訳、人文書院、1999 年 (1996)、ジャン = リュック・ナンシー『肖像の眼差し』岡田・長友訳、人文書院、2004 年 (2000)、岡田温司『ミメー

シスを超えて 美術史の無意識を問う』勁草書房、2000 年〔第二章「私」を表象する「自画像」再考〕、同『肖像のエニグマ 新たなイメー

ジ論に向けて』岩波書店、2008 年〔第 8 章 肖像のパラドクス〕他。

4 cf. Erika Billeter ed., Self-portrait in the age of photography : photographers reflecting their own image, Musée cantonal des beaux-arts

Lausanne, 1986, Defining Eye: Women Photographers of the 20th Century, The St. Louis Art Museum, 1999, Inka Graeve Ingelmann hrsg.,

female trouble: Die Kamera als Spiegel und Bühne weiblicher Inszenierungen, Pinakotek der Moderne, HATJE CANTZ, 2008.

5 cf. François Leperlier, Claude Cahun, L’Exotisme intérieur, Fayard, 2006, G. Doy, Claude Cahun: a sensual politics of photography, 2007,

Louise Downie ed., don’t kiss me: The Art of Claude Cahun and Marcel Moor, Tate Publishing, JHT, 2006, Francoise Bonnefoy et Anne-

Isabelle Vannier ed., Claude Cahun (Catalogue), éditions Hazan / éditions du Jeu de Paume, 2011. 西岡道子「クロード・カウンの『ヒロイ

ンたち』における新しい女性の神話」神戸大学表現文化研究会編『表現文化研究』第 7 巻第2号、2008 年、107-127 頁、永井敦子『クロー

ド・カーアン鏡のなかのあなた』水声社、2010 年、長野順子「無定形のセルフ・ポートレート——クロード・カーアンの写真実践」平成

20-22 年度科学研究費補助金(基盤研究 (B) 代表者:山口和子)研究成果報告論文集『ポストモダンにおける芸術と写真』、2011 年、19-30 頁。

6 カーンの演劇活動に注目した研究としては次のものがある。Tirza True Latimer, “Acting out: Claude Cahun and Marcel Moore”, in Louise

Downie ed., don’t kiss me: The Art of Claude Cahun and Marcel Moor, Tate Publishing, JHT, 2006, pp.56-71. Miranda Welby-Everard, “Imaging

the Actor: the Theatre of Claud Cahun”, Oxford Art Journal, 29.1, 2006, pp.3-24. 特に後者の論考には多くを教えられた。ウェルビー = イヴ

ラードは、前者ラティマーの議論を評価しながらも、カーンが同性愛者であるという視点を強調しすぎていると批判している。

7 カーンのパリ時代については以下を参照。François Leperlier, Claude Cahun, L’Exotisme intérieur, Fayard, 2006, Chapitres III-X. 伝記作

家ルペルリエはカーンの著作を以下にまとめている。Claud Cahun Écrits, établie et présentée par François Leperlier, Jean-Michel Place,

2002. 個別の著作の再版には以下のものがある。Le Coeur de Pic, MeMo, 2004, Heroïnes, Mille et une nuits, 2006, Aveux non avenus,

Mille et une nuits, 2011. カーンの著作の英訳は以下を参照。Heroines, tr. by Norman MacAfee in Inverted Odysseys1998, Disavowals or

Cancelled Confessions, tr. by Suan de Muth, 2008

8 こうした動きは、ドイツの演劇理論家フックスによる『未来の演劇』(Georg Fuchs, Die Schaubühne der Zukunft, 1904)において「演劇の『再

演劇化』」(”Retheatralisierung” des Theaters)と呼ばれた。エリカ・フィッシャー = リヒテ『演劇学へのいざない 研究の基礎』国書刊行

会、2013 年(2010)、197 頁。

9 Edward Gordon Craig, On the Art of the Theatre, reissued by Routledge, 1911/2009, pp27-48. 本書の 13 編のうち 9 編を翻訳した以下を参

照。ゴードン・クレイグ『俳優と超人形』武田清訳、而立書房、2012 年。また早稲田大学「演劇研究基盤整備:舞台芸術文献の翻訳と公開」

プロジェクトの「ヨーロッパ世紀末転換期演劇論(2010-11)英米編」における内野儀による翻訳も参照。http://kyodo.enpaku.waseda.

ac.jp/trans/modules/xoonips/detail.php?id=2010eng02

によるいわば祝祭的な「演劇性」がカーンの多岐に亙る活動を動かしていたといえる。 単独のセルフポートレートだけでなく、フォトモンタージュにおけるデザインや演出、文学作品における現実と幻影の交錯や対話体、さらにのちのオブジェ作品での人形の使用などにも見られるように、まさに「演劇」という変容の装置がカーンの生と制作活動とを支えていたのである。現実の生きた人間を超えて、より大きなものの力による新たな生命を帯びた脱人間的「身体」。ここに刻印された〈生という舞踊〉(‘the dance of life’ [in English])48 の軌跡に、現代アート全般を特徴づけることになる「パフォーマンス」的要素のひとつの胚胎を見ることができよう。

(ながのじゅんこ:神戸大学人文学研究科教授)

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10 ibid., p.30. 以下のすべての引用文において、翻訳のあるものは参考にしたが、適宜変更を加えている。

11 ibid., p.39ff.

12 鈴木晶編著『バレエとダンスの歴史 欧米劇場舞踊史』平凡社、2012 年、140 頁。

13 クレイグとアッピアとの関係については以下を参照。山内登美夫編『ヨーロッパ演劇の変貌 ゲオルク二世からストレーレルまで』(明

治大学人文科学研究所叢書)白鳳社、1994 年。また新しい演劇の動きについては以下を参照。毛利三彌編『演劇学の変貌 ―― 今日の演劇

をどうとらえるか』論創社、2007 年。

14 ドレスデン近郊のヘレラウに開設されたダルクローズ学院では、日本からも伊藤道郎らが学び、日本へのモダンダンスの移入を促すこ

とになった。ヘレン・コールドウェル『伊藤道郎 人と芸術』中川鋭之助訳、早川書房、1985 年(1977)174 頁。

15 チェザーリ・モリナーリ『演劇の歴史 下』倉橋健訳、Parco 出版局、1977 年、143 頁以下。なお上記早稲田大学プロジェクトのフ

ランス編における藤井慎太郎「フランス語圏の演劇論」(2011)も参照。http://kyodo.enpaku.waseda.ac.jp/trans/modules/xoonips/detail.

php?id=2010france00

16 Ubu roi, drame en cinq actes en prose, Jarry Œuvres complètes, tome IV, Slatkine Reprints, 1975, pp.『ユビュ王:戯曲』竹内健訳、現

代思潮社、1965 年、A. ジャリ作『ユビュ王』窪田般彌訳(『現代世界演劇 1 近代の反自然主義(1)』白水社、1970 年に所収、7-61 頁)

17 以下を参照。森谷美保「『修禅寺物語(LE MASQUE)』パリ公演におけるパリ在住日本人たちの役割」『薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち』

(展覧会図録)共同通信社、1998 年、176-180 頁。

18 1898 年にはボナールが制作したマリオネットによる上演が行われた。尚、1926 年にR . アロン、A. アルトー、R. ヴィトラックらが新

しい演劇集団を創立、アルフレッド・ジャリ劇場(Théâtre Alfred Jarry)と名づけた。以下を参照。H・ベアール『ダダ・シュルレアリス

ム演劇史』安堂信也訳、武内書店、1972 年、第 3 部第 3 章。

19 ノエル・アルノー『アルフレッド・ジャリ『ユビュ王』から『フォーストロール博士言行録』まで』相磯佳正訳、水声社、2003 年(Noël

Arnaud, Alfred Jarry, d’Ubu roi au Docteur Faustroll, Édition de La Table Ronde, 1974)62 頁以下を参照。

20 Les Mamelles de Tirésias―drame surréaliste en deux actes et un prologue, Apollinaire Œuvres poétiques, Gallimard, 1965, p.865ff.( G.ア

ポリネール『ティレシアスの乳房』安堂信也訳、『現代世界演劇 1 近代の反自然主義(1)』白水社、1970 年に所収、63-96 頁)。尚、この

作品は作曲家プーランク(Francis Poulenc, 1899-1963)によって 1947 年にオペラ化された。

21 Apollinaire Œuvres poétiques, Gallimard, 1965, p.866.

22 cf. Heroïnes, Mille et une nuits, 2006, Aveux non avenus, Mille et une nuits, 2011.

23 Jean Cocteau Théâtre complet, p.11. 『パラード』曽根元吉訳(『ジャン・コクトー全集 VIII』東京創元社、1987 年に所収、494 頁)。尚、

上演状況に関しては、以下を参照。関典子「バレエ・リュスとシュルレアリスムの邂逅:『パラード』(1917)を起点として」『神戸大学大

学院人間発達環境学研究科研究紀要』4(2)、2011 年、83-94 頁。またコクトーとサティの関係については、オルネラ・ヴォルタ編著『サティ

とコクトー理解の誤解』大谷千正訳、新評論、1994 年を参照。

24 Apollinaire, Œuvres en prose complètes Ⅱ, Gallimard, 1965, p.866.

25 Jean Cocteau Théâtre complet, p.33ff. 『エッフェル塔の花嫁花婿 一幕』堀口大學訳(『ジャン・コクトー全集 VII』東京創元社、1983 年

に所収、1-22 頁)。cf. Bengt Häger, Ballets Suédois, Thames and Hudson, 1990.

26 ジョルジュ・ピトエフはロシア出身の俳優で演出家、1914 年パリに出てリュドミラと結婚、ロシア語、フランス語でチェーホフ、イプ

セン等を上演した。1927 年に G.Baty らと le Cartel des quatre を結成した。以下を参照。本庄桂輔『演劇の鬼 ピトエフ夫妻の一生』白水社、

1958 年。

27 cf. Patrice Allain, ‘Sous les masques du fard : Moore, Claude Cahun et quelques autres...’, Autour de Marcel Schwob : Les ”Croisades”

d’une famille républicaine à travers 50 ans de presse nantaise, La Nouvelle Revue Nantaise No.3, 1997, pp.115-133. François Leperlier,

Claude Cahun, L’Exotisme intérieur, Fayard, 2006, p.139ff.

28 ワイルドは『サロメ』を最初フランス語で書き、パートナーのダグラス(Alfred Douglas, 1870-1945)がそれを英訳した。

29 シュオッブやジッドの友人でもあったド・マックスはラシーヌ等の古典劇を演じ、最初はサラ・ベルナール(Sarah Bernhardt, 1844-

1923)の相手役を務め —— 両者とも「聖なる怪物」(le monstre sacre)と呼ばれた ——、のちにはマルグリット・モレノとも多く共演した。

尚、1855 年から定期的に開催されたパリ万博によって、日本文化は浮世絵だけでなく、演劇や舞踊のジャンルでも注目されはじめていた。

1900 年の万博では川上音二郎と貞奴の公演が評判を呼んでいる。

30 Leperlier,op.cit.,p.143ff. ラウンズベリーはアメリカ生まれの仏教研究者、詩人で、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を 1913 年に

戯曲化したりした。他に以下の著書がある。La Méditation bouddhique: étude de sa théorie et de sa pratique selon l’école du Sud. (Buddhist

meditation in the southern school: theory and practice for westerners, 1936).

31 Leperlier,op.cit., p.143ff. オデオン通りのモニエ(Adrienne Monnier, 1892-1955)の書店(La Maison des Amis des Livres)には、カー

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ンはパリに移住する以前から出入りをしていた。モニエとカーンとの交流については以下を参照。Leperlier,op.cit., p.63ff.

32 エソテリック劇場の活動については、フランス国立図書館において以下の資料を調査した。Dossier du Théâtre Esotérique, Collection

Rondel, BNF. 尚、1899 年に立ち上げられたパリ神智学協会の本部は現在も同じ場所にある(Theosophical Society, Adyar, 4 Square Rapp,

75007 Paris)。最初の公演プログラムにはラウンズベリーによる戯曲『賢人』(Le Sage)も含まれていた。cf. Leperlier,op.cit., p.147ff.

33 Leperlier,op.cit., p.147.

34 cf. Beatrice Wanger, Rhythm for humanity, a notebook for theory and practice, Herbert Clarke, 1931.

35 Claud Cahun Écrits, établie et présentée par François Leperlier, Jean-Michel Place, 2002, p.131-2.

36 『ガラ・オリエンタル』の主なプログラムは以下のものである。

Gala Oriental Danses Musique Chants Le Mardi 18 Juin à 21h 30 precises 1929

Avec La Danseuse: Nadja  Les artistes japonais: Toshi Komori Yasoshi Wuriu Yoshinori Matsuyama

Et Lily Bach, Violoniste Coninx, Flûtiste Mme Story, Pianiste Mlle M.-J. Etchepare, Pianiste

Programme (une partie)

Urashima YASOSHI WURIU

Chant Hindu・・・Rimsky-Korsakov LILY BACH

Danse Cérémonie・・・K.Yamada   TOSHI KOMORI

Joueurs de Flûte: “Pan”・・・Alb. Roussel CONINX

Deux Danses Dramatiques・・・A. Scriabine, A. Gretchaninov NADJA

Danse du Shojo・・・Armande de Polignac TOSHI KOMORI

Cinq Chansons caractéristiques Japonaises: a. Berceuse --- b. Chanson des Pécheurs --- c. Chansond’Âme---

d. Chanson du Yedo --- e. Chanson des Cerisiers chantées par l’auteur YOSHINORI MATSUYAMA

Fantaisie du Printemps YASOSHI WURIU

Sicilienne et Rigaudon・・・Francœur-Kreisler  LILY BACH (Solo violon)

Fantaisie Cambodgienne・・・Au Populaire TOSHI KOMORI

Quatre Chansons d’Enfants du Japon: a. Un Matin d’Avril à Kyoto  b. Flûte de Bambou  c. Petits Sodats 

d. Joie d’Enfants YOSHINORI MATSUYAMA

Danse Kappore・・・Air Populaire YASOSHI WURIU et TOSHI KOMORI

37 茂木秀夫『小森敏とパリの日本人 ―― 近代日本舞踊の国際交流』星雲社、2011 年、9-24 章。ほぼ唯一の情報源である本書にも前衛劇

や瓜生らへの言及はほとんどない。

38 André Levinson, La danse d’aujourd’hui, etudes, notes, portraits, Duchartre et Van Buggenhoudt, 1929, p.295ff (Orientals).

39 中山岩太(1895-1949)は 1918 年にアメリカに渡って写真師として活動したが、1926 年からは約 1 年間パリで多くの肖像写真の他に

ファッション誌、舞台写真等に携わり、藤田嗣治やイサム・ノグチらとも交流、1927 年 8 月に帰国したのち芦屋の写真館を中心に活動し

た。パリではプランポリーニ(Enrico Prampolini, 1894-1956)を中心とした未来派ダンスの舞台写真も数多く制作した。またこの時代にシュ

ルレアリスム的なフォトグラムの技法も試みている。以下を参照。『中山岩太 IWATA Nakayama modern photography』芦屋市立美術博物

館監修、2003 年。

40 茂木秀夫、前掲書、24 章。森谷美保、前掲論文(注 17)。以下も参照。江崎司編『日本現代舞踊資料 I』現代舞踊協会、1972 年、493 頁。

41 Geneviève Latour, Arlette Albert-Birot, Les Extravagants du théâtre, de la belle époque à la drôle de guerre, Paris Bibliotheque, 2000, p.156.

42 Leperlier,op.cit., p.155.

43 op.cit., p.153.

44 op.cit., p.157.

45 M. Welby-Everard, “Imaging the Actor: the Theatre of Claud Cahun”, Oxford Art Journal, 29.1, 2006, p.10.

46 Claud Cahun Écrits, 2002 («Carnaval en chambre», La Ligne de Coeur, 4e cahier, mars 1926, Nantes), p.485.

47 現代のジェンダー論、クィア論を代表する J. バトラーは、個人のアイデンティティは社会的慣習というコンテクストにおいて反復され

るパフォーマンスの過程により形成されるという理論を徹底させて、ジェンダーの形成もまた不安定だが持続的なパフォーマンスによるも

のだとしている。以下を参照。J. バトラー『ジェンダー・トラブル』竹村和子訳、青土社、1999 年。

48 Aveux non avenus, p.206 (IX).

付記:本稿は、日仏美術学会第 129 回例会(2013 年 12 月 21 日)での発表原稿を加筆修正したものである。