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近世史料に見る高齢者像 ―伊豆半島・須崎漁村の事例を中心として― 齋藤 典子 * Images of Elderly People Portrayed in Edo Era Documents: The Case of the Suzaki Fishing Village in the Izu Peninsula SAITO Noriko 要旨 本稿は、下田市須崎地区に現存する近世史料をもとに、江戸末期におけるわが国の漁村における 高齢者の実態を明らかにするものである。 現在、日本は総人口の 22.0%を 65 歳以上の高齢者が占める「超高齢社会」である。「高齢化社会」 の到来は、昭和 451970)年に高齢者が人口の 7%を超えた頃から始まったとするのが定説であっ た。しかし、近世史料「須崎古文書」をもとに調査した結果、江戸時代末期、人口 800 人の須崎地 区は、既に 65 歳以上の高齢者が 8%を占める「高齢化社会」の村であったことが判明した。 また、高齢者調査が江戸時代に複数回行われ、 80 代の高齢者には養老手当てが支給されていたこ とも判明した。これらの養老政策は、奈良時代からすでにおこなわれており、高齢者を保護し、顕 彰する精神は、わが国の為政者側にあったのではないかと考えられる。さらに高齢者への褒賞金が、 庄屋と本百姓とでは、支給金額が異なっており、当時の農村内の階層分化の一端が明らかとなった。 Abstract This paper attempts to elucidate how elderly people living in the Suzaki fishing village in Izu were portrayed in documents dating from the late Edo era. Currently, Japan can be described as a rapidly aging society in which 22% of the population is over 65 years old. Generally speaking, the rapid aging of Japan’s population began in 1970, at a time when 7% of the population were senior citizens. However, after researching the historical records of Suzaki village, it became clear that 8% of the residents of this village of 800 were over 65 years old during the end of Edo period. Surveys of the elderly population were conducted several times during the Edo era. Based on those surveys, financial support was provided to citizens over age 80. This policy of providing grants for the elderly existed during the Nara era. This points out that the policy of offering fiscal subsidies to respected elders has a long historical precedent in Japan. Due to the regimented hierarchical nature of villages in this era, head farmers (shouya) received more generous stipends than ordinary farmers (honbyakushou). This paper concludes by mentioning the status of Suzaki today and outlining some of the social welfare policies for the elderly in the Edo era. キーワード:幕末の高齢化率と高齢化社会、江戸時代の高齢者給付、日本の養老政策の歴史、近 世文書 * 名古屋大学大学院文学研究科 Nagoya University, Graduate School of Letters 37

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Page 1: Images of Elderly People Portrayed in Edo Era …human/nenpou/n6/n6_3saito.pdf近世史料に見る高齢者像 ―伊豆半島・須崎漁村の事例を中心として― 齋藤

近世史料に見る高齢者像

―伊豆半島・須崎漁村の事例を中心として―

齋藤 典子*

Images of Elderly People Portrayed in Edo Era Documents: The Case of the Suzaki Fishing Village in the Izu Peninsula

SAITO Noriko

要旨

本稿は、下田市須崎地区に現存する近世史料をもとに、江戸末期におけるわが国の漁村における

高齢者の実態を明らかにするものである。

現在、日本は総人口の 22.0%を 65歳以上の高齢者が占める「超高齢社会」である。「高齢化社会」

の到来は、昭和 45(1970)年に高齢者が人口の 7%を超えた頃から始まったとするのが定説であっ

た。しかし、近世史料「須崎古文書」をもとに調査した結果、江戸時代末期、人口 800人の須崎地

区は、既に 65歳以上の高齢者が 8%を占める「高齢化社会」の村であったことが判明した。

また、高齢者調査が江戸時代に複数回行われ、80代の高齢者には養老手当てが支給されていたこ

とも判明した。これらの養老政策は、奈良時代からすでにおこなわれており、高齢者を保護し、顕

彰する精神は、わが国の為政者側にあったのではないかと考えられる。さらに高齢者への褒賞金が、

庄屋と本百姓とでは、支給金額が異なっており、当時の農村内の階層分化の一端が明らかとなった。

Abstract This paper attempts to elucidate how elderly people living in the Suzaki fishing village in Izu were portrayed

in documents dating from the late Edo era. Currently, Japan can be described as a rapidly aging society in

which 22% of the population is over 65 years old. Generally speaking, the rapid aging of Japan’s population

began in 1970, at a time when 7% of the population were senior citizens. However, after researching the

historical records of Suzaki village, it became clear that 8% of the residents of this village of 800 were over 65

years old during the end of Edo period. Surveys of the elderly population were conducted several times during

the Edo era. Based on those surveys, financial support was provided to citizens over age 80. This policy of

providing grants for the elderly existed during the Nara era. This points out that the policy of offering fiscal

subsidies to respected elders has a long historical precedent in Japan. Due to the regimented hierarchical nature

of villages in this era, head farmers (shouya) received more generous stipends than ordinary farmers

(honbyakushou). This paper concludes by mentioning the status of Suzaki today and outlining some of the

social welfare policies for the elderly in the Edo era.

キーワード:幕末の高齢化率と高齢化社会、江戸時代の高齢者給付、日本の養老政策の歴史、近

世文書

*名古屋大学大学院文学研究科 Nagoya University, Graduate School of Letters

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はじめに

本稿は、伊豆半島の下田市須崎地区に現存する近世史料をもとに、江戸末期から明治初期のわが

国の漁村における高齢者の実態を明らかにするものである。

筆者が伊豆半島の海女によるテングサ労働を調査する中で、下田市須崎地区に江戸時代からの古

文書が遺されていることが判明した1)。「須崎古文書」と呼ばれる文書の多くは、江戸時代中期(1730

年代)から昭和 40年代にかけての須崎地区の人々の戸籍や土地、税務、係争、生業である天草漁の

利益分配、海面拝借願い、祭典などに関するものである。中でも注目すべきは、須崎地区の高齢者

についての記載が見られる文久 2年、慶応 2年、慶応 4年の 3点の史料である。そこから浮かび上

がるのは、江戸時代末期から明治初期、既に須崎地区は高齢者が人口の 8%を占める「高齢化社会」

の村であったという事実である。

「高齢化社会」の定義には、全人口に対する 65 歳以上の老年人口比率を指標とする定義と、15

歳以上 64歳以下の生産年齢人口に対する老年人口の割合・老年人口指数を指標とする定義の二通り

ある。本稿では、1956年の国際連合報告書『人口の高齢化とその経済的及び社会的応用』で「老年

人口比率が 7%を超えたところから人口の高齢化が始まるとみなし、高齢化率(65歳以上の人口が

総人口に占める割合)によって次の3つに分類される。高齢化率 7%~14% を「高齢化社会」、高

齢化率 14%~21%を「高齢社会」、高齢化率 21%以上を「超高齢社会」と呼ぶ」を採用する [濱嶋

(編)1997:182]

本稿では、3 点の史料を紹介するとともに、近世における静岡県内の他地域の高齢者事情も合わ

せて考察したい。

Ⅰ 須崎地区の人口の推移と高齢者数

総務省統計局の人口推計月報によると<http://www.stat.go.jp/data/jinsui/tsuki/index.htm>、平成 20 年

8 月 1 日現在の日本の推計人口は、127,705 千人で、そのうち 65 歳以上の高齢者人口は、28,063

千人である。つまり、総人口の 22.0%を 65歳以上の高齢者が占めていることになる。 本稿の舞台となる下田市須崎地区2)の高齢者についてみてみよう。2008 年 7 月 1 日現在、人口

は 1,579人(男性 765人、女性 814人)、世帯戸数は、666戸である。その内 65歳以上の高齢者は

513人で、地区人口に占める割合は、約 32.4%である。つまり、高齢化率が全国平均の 22%よりも

10 ポイントも高い、高齢者の多い地域である。なお、高齢者人口比 32%は、2035 年度の日本の予

想高齢化率 30.9%をも超える。

わが国の人口統計調査のうち、全国的な資料が残るのは、明治 17(1884)年の『明治年間府県統

計書集成 明治 17年』が最初である。図 1は、明治 17年から平成 20年までの年齢構造別の人口構

成比を表したものである。65歳以上の高齢者が総人口に占める割合(老年人口比率)を見ると、明

治 17 年当時、65 歳以上の高齢者は、人口の6%を占めていた。それが大正から昭和初期にかけて

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0

10

20

30

40

50

60

70

80

0~14歳 32 33 33 35 36 36.6 36.9 36.8 33.4 25.6 24.3 21.5 18.2 14.6 14.4 14.2 14 13.5

15~64歳 62 61 62 59 59 58.7 58.5 58.1 61.3 68.1 67.7 68.2 69.5 67.9 67.7 67.3 66.9 64.5

65歳以上 6 6 5 6 5 4.8 4.7 5.1 5.3 6.3 7.9 10.3 12 17.3 18 18.5 19 22

明治17年

明治26年

明治36年

大正2年

大正9年

昭和5年

昭和10年

昭和20年

昭和30年

昭和40年

昭和50年

昭和60年

平成2年

平成12年

平成13年

平成14年

平成15年

平成20年

4.7%~5%台に減少する。つまり、大正 9年から昭和 30年代までは、0~14歳までの若年層が人口

の 37%近くを占める若年社会であった。しかし、昭和 40(1965)年には 65歳以上の高齢者人口が

6.3%と、明治時代の水準に戻り、昭和 45(1970)年には 7%を超える「高齢化社会」となり、さら

に平成 6(1994)年には 14%を超える「高齢社会」となった。そして、平成 19(2007)年には、21%

を超える「超高齢社会」が到来したのである。

これに対して、須崎における過去の高齢者の割合はどうであったであろうか。そこで「須崎古文

書」の中から、須崎地区の人口構成に関するものを取り上げてみる。

図 1 年齢構造別 人口構成比 (明治 17年~平成 20年) 『明治年間府県統計書集成明治 17年』、総務庁統計局『日本統計年鑑 平成 20年度』より筆者作成

須崎古文書① 寛政 2年〔1790〕「乍恐書付を以奉り申上候〔家数・人数書上〕」によると、

1790年当時の総戸数は 185戸、人口は 791人(男 422人、女 369人)である。

須崎古文書② 寛政 10年〔1798〕「村内明細帳控え」によると、1798年当時の総戸数は 213

戸、人口は 1,044人。

須崎古文書③ 天保 9 年〔1838〕「去酉年 家数人数出生死失人書上帳」によると、1838

年当時の総戸数は 202戸、人口は 865人(男 420人、女 445人)。

須崎古文書④ 明治 7年〔1874〕「明治7年戌年戸籍取調帳」によると、1874年当時の人口

は 819人中、65歳以上は 68人(男性 27人、女性 41人)。

須崎地区に残るこれらの史資料から作成したのが図 2 のグラフである。1790 年から 2008 年まで

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の約 220年間に渡る地区人口と世帯数の推移を表す。グラフから明らかなように寛政 2 (1790)年か

ら明治 7(1874)年までは、人口、戸数とも大きな変化はない。

また、須崎古文書⑤ 明和 8 年〔1771〕 「明和8年村法度定之帳」などから、隠居、分

家を幕府が厳しく制限したこと。そしてその決まりを昭和 20年代まで守り続けてきたことが明らか

となった。遵守理由は、村の主産業である天草の利益分配を各戸割にしていたからである。つまり、

分家が多くなると分配数が増えるため、分家を増やさないようにしてきたのである。

185 213 212 202 209 218

351 390

638 666791

1044 1017

865 891819

982

0 0

1,6321,579

0

200

400

600

800

1000

1200

1400

1600

1800

寛政

2年(179

0年)

寛政

10年

(179

8年)

文化

5年(180

9年)

天保

9年(1

838年

慶応

4年(1

868年

明治

7年(1

875年

明治

24年

(189

2年)

昭和

26年

〔195

1年)

昭和

42年

(196

7年)

平成

17年

(200

5年)

平成

20年

(200

8 年

)年度

  人

戸数〔戸)

   人口〔人)

図 2 須崎地区の人口と戸数の推移(0の部分はデータの欠如) 古文書史料より筆者作成

図 3は、須崎古文書④「明治7年戌年戸籍取調帳」より作成した明治 7年当時の須崎地区全体

の年齢構造別人口構成比である。明治 7年当時、須崎地区では、65歳以上の高齢者が地区人口に占

める割合が約 8%であることが分かる。これは、明治 17年の高齢者人口比の全国平均が 6%である

ことから、当時、須崎地区は、高齢化率が全国平均より 2ポイント高く、今日(2008年の須崎の高

齢化率 32.4%は、全国平均の 22%よりも 10ポイント高い)同様、高齢者が多く居住する地域だっ

たことがうかがえる。

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図 3 明治 7 年 須崎地区 年齢構造別人口構成比

出典 須崎区明治 7 年戸籍取調帳より作成

図 4 明治 7 年須崎 1 組(下条地区)年齢人口構成比

出典 須崎区明治 7 年戸籍取調帳より作成

また、図 4は、明治 7年の下条地区(現在の須崎 1組)の年齢人口構成比分布である。この図を

みると、20 歳から 40 歳までの成年層の人口が少ないことに気づく。それも男性が極端に少ない。

30-34歳代では、女性人口の半分にすぎない。

0%

80~84 歳 1%

75~79 歳 1%

0~64 歳 92%

70~74 歳 2%

65~69 歳

4% 0~64 歳 65~69 歳 70~74 歳 75~79 歳 80~84 歳 85~89 歳

0 2 4 6 8 10

0~4

15~19

30 ~34

45~49

60~64

75~79

年齢

人数

41

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図 5は、明治 17年当時、須崎地区の海の仕事に従事する 17歳から 40歳までの男性の仕事内容を

調べた史料「須崎古文書」⑥「明治 17年須崎地区海業人口調べ」をもとに作成したグラフで

ある。

当時、この年齢層に属する海業人口は 90名。そのうち、近海漁業に従事する「漁業者」は 21名、

廻船業に従事する「船乗り」は 69名であった。須崎地区は江戸時代より廻船業が盛んな土地柄であ

った。そのため、40歳までは「船乗り」として、土地を離れる成人男子が多かったことが、図 4の

20歳から 40歳までの成年層の人口が少ない理由の一つと考えられる。

図 5 明 治 1 7 年 須 崎 地 区 海 業 人 口 調 べ

出典 「明治 17 年須崎地区海業人口調べ」より作成

Ⅱ 幕末期の古文書にみる須崎の高齢者

幕末から明治初年にかけ、70 歳・88 歳・90 歳などの高齢者調査が全国規模で行われていたよう

である3)。その調査に関する 3点の資料が「須崎古文書」のなかにある。

須崎古文書⑦ 文久 2年[1862]「文久二年当戌八十歳以上書上七月」

須崎古文書⑧ 慶応2年[1866]「八十歳以上年齢名前書置候処年々死去仕■此度御届申

候控慶応二年寅六月」

須崎古文書⑨ 慶応 4年[1868]「慶応四年 当辰七拾弐歳以上取調書上帳控」

これらの史料は、幕末期 1862 年~1868 年にかけての高齢者調査である。江戸幕末期当時の須崎

地区の行政区分は、加茂郡須崎村で、幕府領であった。須崎古文書⑦「文久二年当戌八十歳以上書

上七月」によると、表 1に示すように文久 2年[1862]の 80歳以上の高齢者は 14人(男性4人、女

0

5

10

15

2017-19歳

20-24歳

25-29歳30-34歳

35-40歳漁業者(人)

船乗り(人)

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性 10人)。最高齢は 89歳である。そこには、養老手当てとして、青銅 3貫文ずつが渡されたことが

記されている。

表 1 1862年 須崎地区 80歳以上・男女別高齢者人数表

出典 文久 2年 7月(1862年) 「当戌八十歳以上書上」

須崎古文書⑧「八十歳以上年齢名前書置候処年々死去仕■此度御届申候控慶応二年寅六月」には

付記がなく、表書きに欠字がある。文久 2年の調査から 4年が経過しているにもかかわらず、文久

2 年の年齢のまま、同一人物が 9 名含まれている。そのため、須崎古文書⑦「文久二年当戌八十歳

以上書上七月」の作成後に死亡した者も含めた高齢者 13人の名簿と推察される。

須崎古文書⑨「慶応四年 当辰七拾弐歳以上取調書上帳控」は、1868 年当時の須崎地区の 70 歳

以上の高齢者が記されている。それによると、表 2に示すように 70歳以上の高齢者は 49人(男性

13 人、女性 36人)。93歳男性の最高齢者を筆頭に 80代が 12人いた。

表 2 1868年 須崎地区 70歳以上・男女別高齢者人数表

出典 慶応 4年 9月(1868年)「当辰七拾歳以上取調書上帳」

そして興味深いのは、養老手当てとして、70歳以上~79歳までは金 2分、80歳以上には金 3分

が支給されていることだ。

そのうえ、88歳の米寿祝いの女性と 93歳の最高齢の男性には、1ヶ月に付き米 1升ずつ、148ヶ

年齢 81歳 82歳 83歳 85歳 87歳 89歳 合計

男性(人) 1 1 1 1 4

女性(人) 1 3 4 1 1 10

年齢 男性(人) 女性(人) 合計(人)

70歳代 10 26 36

80歳 1 1 2

81歳 1 1

82歳 2 2

83歳 3 3

84歳 1 1 2

87歳 1 1

88歳 1 1

93歳 1 1

13 36 49

43

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月分として、それぞれに米が 1石 4斗 8升支給されている。

江戸時代の金銀銭の換算比率は、260 年近い歴史の中で貨幣改鋳によってたびたび変動した。幕

府初期、慶長 14年[1609]の公定金銀銭の相場は、金 1両が 4分、銀貨にすると 50匁、銭貨にする

と 4貫文=4000文であった [若尾 1993:138] 。

つまり、70歳から 79歳までは 1/2両、80歳以上には 3/4両が支給されたことになる。また、米

寿祝いや最高齢者には、米が 148升支給されている。これら養老手当がいくらに値するかは、米価

や諸物価との兼ね合いを考えると、金 1両を現在の貨幣に換算することは困難である。その上、支

給された時期によって大きく異なる4)。

以上の事から、須崎地区は江戸時代より高齢者が多く居住していたこと。そして江戸幕府は、高

齢者を地域社会の中で養老顕彰する政策を取ったことがわかる。この時期になぜ養老顕彰を実施し

たかについては、須崎地区の史料に詞書がないため、明らかにはできない。しかし、国文学研究資

料館・史料館編の『近世の村・家・人』には、それを幕末の混乱収拾策のひとつとする、次のよう

な記載がある。

「文久二年[1862]年七月幕府直轄領では 80歳以上の者に対して銭 3貫文を支給している。その趣

旨は、長い間に積み重ねられてきた弊害を、2,3年で取り除き、乱れた風俗をよりよくするために、

養老に力を入れるとある。養老手当ては、幕末期の世上の混乱を人々の精神的涵養によって除去し

ようとした幕府の一策であった。この施策は、明治維新政府によっても引き継がれた」 [国文学研

究資料館・史料館編 1997:27] 。

Ⅲ 奈良時代の養老政策

だが、このような養老政策は、江戸時代に始まったことではない。服藤早苗によると、奈良時代

にすでに養老政策がおこなわれていたことを示す次のような資料がある[服藤 2001:66-108]。

養老 2年[718]に出された養老律令戸令では、61歳から 65歳までを「老」、66歳以上を「耆き

」と

規定している。年齢規定は課役と結びついた規定で、「老」は、20歳以上、60歳までの男性に課せ

られた庸調が半分に、「耆き

」は庸と調が免除された。そのうえ、80 歳以上になると、国家による老

人扶養給付を受けることができたという。

8世紀の『続日本書記』には、天皇の即位や慶事に際し、天皇の恩恵や有徳を人々に知らしめる

ために米を支給する賑給しんごう

が行われたことが 40例ほど記されている。そのおもな対象は高齢者と「鰥かん

寡か

弧こ

(惸けい

)独どく

」であった。「鰥寡弧( 惸)独」とは、親孝行な子供である「孝子」、孝行な孫である

「順孫」、61歳以上で妻のない男である「鰥」、50歳以上で夫がいない「寡」、16歳以下で父親のい

ない「惸(弧)」、61歳以上で子供のいない「独」のことである。

正倉院には、80歳代、90歳代の高齢者 25名に賑給が行われた際の支出報告書「出雲国大税賑給

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歴名帳」が残っている。賑給で支給される米の量は、天平 9年の「和泉監正税帳」[正倉院文書 正

集十三巻・十四巻]によると、100 歳以上には 4 石、90 歳以上には 2 石 8 斗、80 歳以上には1石 4

斗であった。(1石=10斗。10斗=100升。100升=1000合である。1合は約 160gゆえ、米 1石は

160kg である)そして賑給の際の支給物は、米のみならず、塩、綿、布、粟なども支給された。「養

老改元の詔」(717 年)では、老人への叙位も規定されたほか、各国の国守が直接、老人を訪問し、

湯薬を与えたことまで記されている。

しかしこのような国家による養老政策も長くは続かなかった。9 世紀になると、高齢者への給付

は減少し、災害の被害者や疾病の羅患者への賑給が主となる。理由は、都の造作や東北遠征など、

朝廷の財政難が原因だと言われている。

Ⅳ 近世静岡県における高齢者像

1『近世の村・家・人』(国文学研究資料館・史料館編 1997)に見られる高齢者関係資

近世・近代史料『近世の村・家・人』[国文学研究資料館・史料館編 1997:284-292]内に、弘化 5

年(嘉永 1年)[1848]~明治 4年[1871]にかけて伊豆国、信濃国、武蔵国、遠江国内で行われた高齢

者調査、褒美金、養老米金の支給に関する 9点の史料が掲載されている。

史料 1.弘化 5 年 3 月[1848]「九十歳以上のもの取調べ書上」〔伊豆国君沢郡内浦長浜

村大川家文書 1234〕

92歳の男性と 91歳の女性の名前を書上げてある。

史料 2.文久 2 年 6 月晦日[1862]「当戌八十歳以上のもの書上帳」〔信濃国佐久郡下海

瀬村土屋家文書 975〕

90歳の女性以下、80歳代の男性 1名、女性 5名の計 7名の名前を書上げてある。

史料 3.慶応 4 年 9 月[1868]「七十歳以上書上帳」〔伊豆国君沢郡内浦史料重須村土屋

文書 サ 73〕

87歳の男性 1名、女性 1名以下、80代の男性 1名、女性 3名、70代の男性 3名、女性 2名の計

11名の本百姓身分の者の名前を書上げてある。他に名の上に「本百姓」と記載の無い水呑身分と思

45

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われる 70代の男性 1名、女性 4名の名と、88歳の長寿者として本百姓身分の女性 1名の計 6名が

分けて書上げてある。

史料 4. 明治元年 11月[1868]「八十八歳以上の者書上帳」〔武蔵国多摩郡連光寺村富沢

家文書 601〕

88歳以上の者を村ごとに取り調べるよう通知したところ、88歳の男性 1人と女性 1人の名前を書

上げてきたことが報告されている。

史料 5. 明治 2年[1869]「年八十以上の者書上帳」〔遠江国佐野郡桑地村加茂家文書 75〕

85歳の男性 1名の名前が書上げてある。そして正月 18日にご褒美として、郡政役所より金 1両

が 85歳の男性の息子に支払われるので、受け取りを書くように記されている。この男性の息子は、

庄屋である。

史料 6. 明治 3年 1月[1870]「養老米金請取手形」〔伊豆国君沢郡内浦史料重須村土屋

文書サ 78〕

史料 3の慶応 4年 9月[1868]「七十歳以上書上帳」に記載されている 88歳の女性を養老する孫の

男性に養老米金として、金 5両が支給され、親戚と連名で受け取り手形を書いている。

史料 7. 明治 3 年 2 月[1870]「歳八十歳以上書上帳」〔遠江国佐野郡桑地村加茂家文書

77〕

史料 5の翌年書かれた、同じ地域内の文書である。80歳以上として、80代男性 3名の名前が書上

げてある。そして明治 3年、他の 80歳、83歳、86歳の男性に一人当たり 2分ずつ養老手当が息子

に支給され、受取り手形を書いた旨、記されている。

史料 8. 明治 3年 10月[1870]「八十歳以上書上帳」〔遠江国榛原郡嶋村山田家文書 111〕

明治 2年と 3年の 2年にわたり、87歳の女性以下、80歳以上の男性 1名、女性 3名の計 4名の名

前がそれぞれの年に書上げられてある。

史料 9. 明治 4 年 7 月 9 日[1871]「養老米金請取証文」〔伊豆国君沢郡内浦史料重須村

土屋文書サ 80〕

46

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史料 3の慶応 4年 9月[1868]「七十歳以上書上帳」に記載された当時 85歳の男性が当年 88歳に

なったので、養老御扶持米として壱石七斗八升を御支配様より、御切手で渡され、その受取りが養

老する孫、親戚、本人の連名で記されている。

以上 9点の史料のうち、1,3,5,6,7,8,9の 7点は静岡県内地域の古文書である。

これら史料からうかがえることは、以下の 7 点である。

1.史料 1の 1848年以外は、幕末期(1862年)から明治初年(1871年)にかけて行われた調査史料

である。

2.高齢者調査とは、80歳以上の高齢者、特に米寿を迎える高齢者を把握することが目的であったよ

うである。

3.史料 5.6.7.9.から、養老御扶持米の支給とされるが、米ではなく貨幣が支給されたようである。

4.「養老米金」や「養老手当」「ご褒美」と、支給金の呼称は、文書によって異なる。

5.「養老手当金」の額は、性別とは関係はなく、支給された時の年齢、地域、農民の階層(庄屋、

本百姓)によって異なる。

6.「養老手当金」を支給されるのは、養老する息子や男孫であり、嫁、娘、孫娘など、女性の名は

ない。

7.史料 6の明治 3年 1月に養老米金として、金 5両が支給されているのは、幕末から明治になり、

米が高騰したため、米約 60kgが買えるくらいの値段である。

2 高齢者に関する静岡県内私蔵文書

静岡県歴史文化情報センターで把握するが、民家に私蔵されている高齢者調査、褒美金、養老米

金の支給に関する古文書史料は、23点ある。

そのうち 6点の史料の写しが静岡県歴史文化情報センターで公開されている。

史料 10.文化 10年 10月[1813]「禮書之事」〔駿府志太郡玉取村森家文書 44014-2B〕

97歳の長寿(女性)につきご褒美として御下賜米をいただいたことに村役がお礼を述べている。

史料 11.天保 10年 6月[1839]「無題」〔駿府庵原郡今宿村池田家文書 43002-5-9001〕

史料に題名がなく 80歳以上の高齢者が 1名いることを書上げてある。

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史料 12. 文久 3年 6月[1863]「乍恐以書附奉申上候」〔遠江国中泉白須賀宿金田家文書

21006-06B〕

文久 2年 7月に届けのあった 80歳以上の者 1名(女性)が、同年 9月に病死したことを伝えてい

る。

史料 13. 慶応 4年 9 月[1868]「八拾歳以上取調名前書上帳」〔駿東郡中清水村文書〕

94歳の男性以下、80歳代の男性 4名、女性 4名の計 9名の名前が書上げてある。

史料 14.明治 3年 8月[1870]「八拾歳以上のもの書上帳」〔駿府庵原郡今宿村池田家文

書 43002-5-9001〕

91歳の女性以下、 80歳代の男性 2名、女性 2名の計 5名の名前が書上げてある。また、同年 2

月に 88歳と 80歳の男性が病死したことも記してある。

史料 15. 明治 3 年 12 月[1870]「当午年八拾歳以上之者へ老養御手当金割渡帳」〔駿府

庵原郡今宿村池田家文書 43002-15-26M〕

史料 14に書かれている 7名(死亡した 2名も含む)に養老手当金が支給されている。

以上の史料からも、次の 3点が確認された。

1.1813 年の史料 10、1839 年の史料 11 から、高齢者調査は幕末期だけでなく江戸時代にたびたび

行われていた可能性が高い。

2. 静岡県内私蔵文書として公開される 6点の史料は、いずれも 80歳以上の高齢者の調査と養老手

当金の支給に関するものであることから、幕府の「養老すべき高齢者」としての基準は、80歳であ

ったと思われる。

3.史料 15より、高齢者調査が行われた年に死亡した 80歳以上の高齢者の家族にも養老手当金が支

給されている。

これら静岡県内地域で行われた高齢者調査、褒美金、養老米金の支給に関する古文書史料をもと

に、静岡県における近世の高齢者像を一覧にしたのが表 3である。

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表 3.幕末当時の静岡県内の高齢者像

(須崎古文書⑦⑧⑨、史料 3.5.6.7.8.9.10.11.13.14.15より作成)

注)高齢者人口比は、記述のある地区のみ掲載

地域名 所轄

区分

最高齢

80 歳代

の人数

高齢者

人口比 備考

加茂郡

須崎村 幕府領

93 歳

12 人

(男 2 女 10)

70 歳以上

(49 人)

約 5.4%

伊豆半島先端の漁村(半農半漁)。慶

応4年(1868)の人口891人、戸数209

戸。慶応 4 年養老手当てとして、70 代

は金 2 分、80 歳以上は、金 3 分が支

給されている。また 88 歳の米寿祝い

の女性、93 歳の最高齢の男性には、

米 1 石 4 斗 8 升が支給。

豆州君郡

重須村

旗本

大久保氏

88 歳

7 人

(男 2 女 5)

70 歳以上

(18 人)

約 6%

西伊豆の海沿いの山村 農業比率

50%。天保 4 年(1842)の人口 286 人、

戸数54戸。88歳の男性を養老する孫

に養老御扶持米として、1 石 7 斗 8 升

支給。

駿東郡

中清水村 駿府藩領

94 歳

8 人

(男 4 女 4)

80 歳以上

約 3.6%

現御殿場市。小田原藩領に接する農

村。明治 24 年(1892)の人口 296 人、

戸数 42 戸。

庵原郡

今宿村 幕府領

91 歳

6 人

(男 4 女 2)

80 歳以上

約 0.9%

駿河湾沿いの漁村。明治24年(1892)

の人口813人、戸数137戸。 1840年

の調査では、80 代は男性 1 人のみ。

1870 年は、7 名(男 4、女 3)に増加。

明治 3 年、80 歳以上の高齢者 7 人に

老養手当を支給(金額記載無)

志太郡

玉取村 幕府領

現岡部町。明治 24 年(1892)の人口

632 人、戸数 96 戸。文化 10 年(1813

年)、97 歳の女性に長寿のご褒美とし

て米を下賜

榛原郡

嶋村 幕府領

88 歳

4 人

(男 1 女 3) 牧の原台地南の農村

遠州

佐野郡

桑地村

幕府領 86 歳

3 人

(男 3)

現掛川市の農村。明治2年、金1両を

庄屋の父である 85 歳の男性に支給。

明治 3 年、80 歳、83 歳、86 歳の男性

に一人当たり金 2 分ずつ老養手当て

として、息子に支給

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考察

漁村に暮らす高齢者像を明らかにするため、下田市須崎地区に江戸時代から遺される「須崎古文

書」と呼ばれる近世文書を調査した。その結果、本論の結論として以下のことが導きだせる。

明治 7 年当時、須崎地区は、65 歳以上の高齢者が地区人口の 8%を占め、当時の全国平均 6%よ

り 2ポイント高い、高齢者が多く居住する地域であった。

一方、静岡県内や他地域の近世史料より、幕末から明治初年にかけ、高齢者調査が幕府領や旗本

領内で行われたことは明らかである。しかしすでに文化 10 年(1813 年)の史料が遺されているこ

とから、これら高齢者調査は、養老顕彰の事前調査として、江戸時代に複数回行われていた可能性

が高い。

現在、日本人の平均寿命は、男性 79歳、女性 85歳[厚生労働省 2009]と、女性の方が 6歳近く長

寿である。しかし、表 3 の静岡県内7地域の高齢者調査をみると、最高齢者の年齢は、86 歳~93

歳と、地域によって年齢のバラツキはあるが、最高齢者が男性という地域が半数ある。また 80歳代

の高齢者数は、須崎地区では女性が男性の 5倍と多いが、駿東郡中清水村、庵原郡今宿村、佐野郡

桑地村では、女性よりむしろ男性の方が長寿の村もある。地域によって男女の寿命に差があるのは、

地域によって異なる男女の労働形態や生活習慣などが起因するのではないかと思われる。

「高齢化社会」の定義のもとになる、全人口に対する 65歳以上の老年人口比率をみてみよう。幕

末から明治初年にかけて行われた高齢者調査は、70歳以上の高齢者が対象であったため、65歳以上

の老年人口比率は得られなかった。しかし、表 3に示したように、加茂郡須崎村は 70歳以上の老年

人口比率が 5.4%、豆州君沢郡重須村が 6%。駿東郡中清水村は 80歳以上の老年人口比率が 3.6%で

あった。これらの数字から、65歳以上の老年人口を推測するに、それは優に国連の定める「高齢化

社会」の基準となる7%を超えていたものと推測できる。つまり、幕末期においてもこれら静岡県

の東部や伊豆半島の地域においては、「高齢化社会」が存在していたことになる。現代は、若壮年

が都市部に流出し、高齢者だけが残ることで高齢化の進んだ過疎地が日本各地にみられる。重須村

や中清水村の老年人口比率が高い理由は明らかにできないが、須崎村は、船乗りとして土地を離れ

る成人の数が多かったことも老年人口比率が高い一因である。

また、褒美金や養老米金の支給は、「幕末期の混乱を人々の敬老精神を高揚することで解消しよう

とした幕府の一策であった」 [国文学研究資料館・史料館編 1997:27] とする考え方だけではない

と考える。既に文化 10年(1813年)、97歳の褒美に米を下賜していることや、米寿祝いに重きを

置いたことで、奈良時代からすでに類似の養老政策がおこなわれていたことを考えると、高齢者を

保護し、顕彰する精神は、わが国の為政者側にあったのではないかと推測できる。

史料 3.慶応 4年 9月[1868]「七十歳以上書上帳」〔伊豆国君沢郡内浦史料重須村土屋文書 サ 73〕

の中で、水呑身分と思われる「本百姓」と、記載が無い者を区別して書いてある点も「須崎古文書」

には見られない表記である。さらに史料 5、7の遠州佐野郡桑地村で高齢者への褒賞金が、庄屋と本

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百姓とでは、支給される額が異なっていた点も合わせて考えると、当時の農村内の階層分化の一端

を示す一例として興味深い。

註 1)下田市須崎地区にある漁民会館に置かれる旧漁協の金庫に「須崎古文書」は非公開のまま長く保管されてきた。

古くは 1674年(延宝 2年)の「須崎村寅御年貢可納取付之事」に始まり、1970年代の「柿崎須崎一号線改良工

事設計書」に至るまでの状・縦帳・横帳・綴り・絵図類で総数は、1564点に上る。須崎地区では、平成 14年度

に「須崎古文書研究会」を立ち上げ、同古文書の目録を作成、村の重要な出来事に関する 20数点の古文書の解

読を専門家に依頼し、平成 15年に『潮騒の史』にまとめている。ただし、今回筆者が取り上げた高齢者の記録

など、ほとんどの文書は解読されず、保管されているのみであり、保存状態も良好とはいえない。

2)静岡県の東端、神奈川県との境に位置する伊豆半島の東南、相模灘に面した場所に下田市がある。下田市須崎

地区は、市街約 4kmの須崎半島の南端にある。行政単位は、昭和 30年(1955年)の下田町との合併まで、加茂

郡浜崎村須崎区であった。市制施行の変更で昭和 46年(1971年)下田市となった。地域の主な生業は、漁業と民

宿や遊漁船を中心としたサービス業である。2004年度の漁業者数は 114名、漁船登録数は 149隻で南伊豆地域で

は最多であるが、漁業従事者の高齢化が顕著である。

3)国会図書館所蔵の近世・近代史料目録総覧をあたったところ、『近世の村・家・人』[国文学研究資料館・史

料館編;名著出版;284-292]内に 9篇の同様の高齢者調査、褒美金、養老米金の支給に関する史料が見つかっ

た。

4)名古屋城振興協会の資料によると、一応の試算として江戸時代中期の 1両(元文小判)で大人が 1年に食べる

米の量、1石(160kg)を買えた。ただし、幕末期には、米が高くなり 1両で 13kgしか買えなかった。米 10kg

は現在、4000円程である。そのため、江戸時代中期の 1両を現在の貨幣価値にすると、米 160kgが買える値段、

約 64,000円である。

参照文献 厚生労働省.“平成 19年度平均余命表”.

<http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life07/01.html>(2009.3.30). 国文学研究資料館・史料館(編) 1992『近世・近代史料目録総覧』三省堂。 国文学研究資料館・史料館(編)

1997『近世の村・家・人』、pp. 27,284-292、名著出版。 静岡縣(編)

1881 『静岡県統計概表 明治 12年』。 1886『明治年間府県統計書集成(静岡県之部)明治 17年』。

マイクロフィルム版 1964『明治年間府県統計書集成 明治 17年』雄松堂フィルム出版。

静岡県(編) 1995『静岡県史 資料編 22 近現代統計 7』。

須崎古文書研究会(編)

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2003『潮騒の史』。

総務省統計局・政策統括官・統計研修所.“2009 人口推計月報”.

<http://www.stat.go.jp/data/jinsui/tsuki/index.htm>(2009.3.10). 総務省統計研修所 2008 『日本統計年鑑 平成 20年度』毎日新聞社。

竹内理三 1982 『角川日本地名大辞典 22 静岡県』角川書店。

名古屋城振興協会資料。 「三千両箱 1枚いくら」。 濱嶋朗・竹内郁朗・石川晃弘(編)

1997「高齢化社会」『社会学小事典』、pp. 182、有斐閣。 服藤早苗

2001『平安朝に老いを学ぶ』、pp.66-108、朝日新聞社・朝日選書。 若尾俊平

1993『図録 古文書入門辞典』、pp. 138、柏書房。 国文学研究資料館・史料館編『近世の村・家・人』(1977名著出版)所収史料 弘化 5年 3月[1848]「九十歳以上のもの取調べ書上」〔伊豆国君沢郡内浦長浜村大川家文書 1234〕。 文久 2年 6月晦日[1862]「当戌八十歳以上のもの書上帳」〔信濃国佐久郡下海瀬村土屋家文書 975〕。 慶応 4年 9月[1868]「七十歳以上書上帳」〔伊豆国君沢郡内浦史料重須村土屋文書 サ 73〕。 明治元年 11月[1868]「八十八歳以上の者書上帳」〔武蔵国多摩郡連光寺村富沢家文書 601〕。 明治 2年[1869]「年八十以上の者書上帳」〔遠江国佐野郡桑地村加茂家 文書 75〕。 明治 3年 1月[1870]「養老米金請取手形」〔伊豆国君沢郡内浦史料重須村土屋文書サ 78〕。 明治 3年 2月[1870]「歳八十歳以上書上帳」〔遠江国佐野郡桑地村加茂家文書 77〕。 明治 3年 10月[1870]「八十歳以上書上帳」〔遠江国榛原郡嶋村山田家文書 111〕。 明治 4年 7月 9日[1871]「養老米金請取証文」〔伊豆国君沢郡内浦史料重須村土屋文書サ 8〕。 未刊史料 「須崎古文書」 寛政 2年[1790]「乍恐書付を以奉り申上候〔家数・人数書上〕」。 寛政 10年[1798]「村内明細帳控え」。 天保 9年[1838]「去酉年 家数人数出生死失人書上帳」。 明治 7年[1874]「明治7年戌年戸籍取調帳」。 明治 17年[1884]「明治 17年須崎地区海業人口調べ」。 明和 8年[1771]「明和8年村法度定之帳」。 文久 2年[1862]「文久二年当戌八十歳以上書上七月」。 慶応 2年[1866]「八十歳以上年齢名前書置候処年々死去仕■此度御届申候控慶応二年寅六月」。 慶応 4年[1868]「慶応四年 当辰七拾弐歳以上取調書上帳控」。 静岡県歴史文化情報センター 複写史料 文化 10年 10月[1813]「禮書之事」〔駿府志太郡玉取村森家文書 44014-2B〕。 天保 10年 6月[1839] 〔駿府庵原郡今宿村池田家文書 43002-5-9001〕。 文久 3年 6月[1863]「乍恐以書附奉申上候」〔遠江国中泉白須賀宿金田家文書 21006-06B〕。 慶応 4年 9 月[1868]「八拾歳以上取調名前書上帳」〔駿東郡中清水村文書〕。 明治 3年 8月[1870]「八拾歳以上のもの書上帳」〔駿府庵原郡今宿村池田家文書 43002-5-9001〕。 明治 3年 12月[1870]「当午年八拾歳以上之者へ老養御手当金割渡帳」〔駿府庵原郡今宿村池田家文書 43002-15-26M〕。

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※脱字は□、未読字は○で示す。 「須崎古文書」史料⑦ (表紙)文久二年 当戌八十歳以上書上 七月 加茂郡須崎村 清左衛門

父 仁兵衛

当戌八十一歳

彦四郎

母 をく

当戌八十五歳

茂左衛門

祖母 与し

同八十五歳

長助

祖父 清蔵

当戌八十九歳

右同人

祖母 とり

同八十七歳

庄九郎

祖母 たつ

同八十五歳

嘉右衛門

祖母 その

同八十三歳

重右衛門

母 かる

同八十五歳

市右衛門

祖母 とめ

同八十五歳

善兵衛

母 はま

八十九歳

半三郎

父 政吉

八十五歳

五郎三郎

父 市太郎

八十二歳

喜平

祖母 ふさ

八十三歳

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長三郎

むめ

八十三歳

〆て拾四人

内四人男

拾人女

右者御尋二付奉書上候処相違無御座候

以上

文久二戌年七月

加茂郡須崎村

百姓代 又四郎

組頭 伝兵衛

同 孫左衛門

同 次郎左衛門

同 重郎右衛門

名主 彦右衛門

韮山 御役所

組人数拾四人

同日夕方会所一同出席之上

右青銅三貫文宛相渡

差出申御請証文之事

此度出格之御改革被仰出養老

之儀者風俗を厚く以多し候

第一之儀二付当戌八拾歳以上

相成候者共へ

養老御手当として

鳥目1

三貫文づつ

被下置候旨被仰渡

御仁恵之段銘々難有頂戴仕候依之

御請証文差上申候処之如件

文久二戌年七月二十六日

別鹿島分御領所

豆州加茂郡須崎村

清左衛門

父 仁平

当戌八十一歳

1 銭の異称。 円形で中央に空いている穴が鴉の目に似てい

るところからくる。

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「須崎古文書」史料⑧ (表紙) 八十歳以上年齢名前書上処□□□処

候 去年死去仕□□此度御座候□控 慶応二年寅六月

彦 四 郎

母 をく

八十三歳

茂左衛門

祖母 与し

八十九歳

長助

祖父 清蔵

八十九歳

祖 母 と り

八十七歳

庄九郎

祖母 たつ

八十一歳

嘉 右 衛 門

祖母 その

八十三歳

重右衛門

母 かる

八十五歳

市右衛門

祖母 とめ

八十五歳

善兵衛

母 はま

八十九歳

半三郎

父 政吉

八十九歳

五郎三郎

父 市太郎

八十二歳

喜平

祖母 ふさ

八十三歳

長 三 郎

母 むめ

八十三歳

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「須崎古文書」史料⑨ (表紙) 慶応四年 当辰七拾歳以上取調書上帳 辰九月

一金弐分 冶右衛門

父 右八

七十九歳

一金弐分 喜右衛門

父 税二郎

七十二歳

一金弐分 助次右衛門

父 □□

七十一歳

一金三分 茂左衛門

父 茂三郎

八十四歳

一金弐分 安左衛門

父 平吉

七十四歳

一金弐分 次郎左衛門

父 丈助

七十五歳

一金弐分

佐次兵衛

七十二歳

一金三分 三九郎

父 惣吉

八十歳

去辰八月より十二月迄小ノ月ヲ引

月数百四拾八 一月米一升づつ

一米一石四斗八升

半三郎

祖父 政吉

九十三歳

一金弐分 平左衛門

父 嘉七

七十三歳

一金弐分 伊左衛門

父 右三郎

七十五歳

一金弐分 孫次右衛門

父 〇〇

七十七歳

一金弐分 又左衛門

父 半六

不明

一金弐分 善右衛門

母 きち

七十二歳

一金弐分 七兵衛

母 ちよ

七十六歳

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一金弐分 作右衛門

母 はつ

七十四歳

一金弐分 源兵衛

母 はな

七十八歳

一金三分 甚左衛門

母 ○

八十二歳

一金三分 佐右衛門

母 かん

八十二歳

一金三分 松右衛門

叔母 てう

八十四歳

一金二分 佐右衛門

母 よし

七十歳

一金二分 治右衛門

母 いよ

七十一歳

一金三分 庄九郎

祖母 むつ

八十七歳

一金二分 弥三郎

母 まつ

七十八歳

一金二分 金五郎

祖母 ふみ

七十五歳

一金二分 半佐衛門

母 ちよ

七十二歳

一金二分 ○○四郎

母 ちよ

七十三歳

一金二分 佐次衛門

叔母 ます

七十一歳

一金二分 三九郎

母 きよ

七十九歳

一金三分 市助

母 かよ

八十三歳

一金三分 平十郎

母 ひさ

八十一歳

一金二分 甚右衛門

母 しげ

七十五歳

一金二分 久四郎

母 きよ

七十歳

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一金二分 三四郎

母 たつ

七十三歳

一金二分 八右衛門

母 その

七十二歳

一金二分 喜左衛門

母 そよ

七十九歳

一金二分 権右衛門

母 志い

七十四歳

一金二分 松三郎

祖母 ゑん

七十六歳

一金二分 伊左衛門

母 志ほ

七十三歳

去辰八月より同十二月迄小を引

月数百四拾八 一月米一升づつ

一米一石四斗八升

彦四郎

母 をく

八十八歳

一金二分 六兵衛

母 たつ

七十三歳

一金二分 市□平

母 ちよ

七十四歳

一金二分 勘助

母 とよ

七十九歳

一金二分 庵右衛門

母 つき

七十七歳

一金三分 与左衛門

母 つ弥

八十三歳

一金三分 彦左衛門

母 まつ

八十歳

一金二分 権四郎

母 まさ

七十四歳

一金二分 平次郎

母 とめ

七十六歳

一金三分 新右衛門

母 てう

八十三歳

〆て四拾九人 内十三人男

内三十六人女

右之通七十歳以上之者取調書上申候茂(も)

僕之者居御座候□□之者御座候□□

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書上候□之者茂(も)居御座候依以乍恐書□

申上候□□

慶応四辰年九月 加茂郡須崎村

百姓代

次郎左衛門

総代

弥次三郎

仁右衛門

長三郎

五右衛門

右之通り役人立ち会い上

名主 長右衛門

三月二十二日

韮山御役所

右之而迄毎し候

明治二年二月

資料[]須崎区有文書 18

写真1.「須崎古文書」史料⑦ 文久二年 当戌八十歳以上書上

七月 加茂郡須崎村 表紙

写真2.「須崎古文書」史料⑧ 慶応二年寅六月 表紙 八十歳以上年齢名前書上□□□処候

去年死去仕□□此度御座候□控

写真3.「須崎古文書」史料⑧中身

写真4.「須崎古文書」史料⑨ 慶応四年 当辰七拾歳以上取調書上帳 辰九月 表紙

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写真4.「須崎古文書」史料⑨

慶 応 四 年

当辰七拾歳以上取調書上帳

辰九月表紙

写真5.「須崎古文書」史料⑨中身

写真6.「須崎古文書」⑥「明治17年須

崎地区海業人口調べ」

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