hiroshima journal of international studies volume 19 2013

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Hiroshima Journal of International Studies Volume 19 2013 「経枈倖亀」抂念の歎史的怜蚎 戊埌日本を事䟋に 高 瀬 匘 文 A History of How “Keizai-gaikou (Economic Diplomacy)” has been Discussed in Postwar Japan, 1952–2012 This article examines how Japanese elites have discussed “Keizai-gaikou (Economic Diplomacy)” in postwar Japan, for the purpose of locating today’s arguments in a historical context. The term Keizai-gaikou is a historical one. It can be traced back before World War II, but has had a special meaning for Japanese elites in the postwar period. This is because this word has been used extensively in close relation with Japan’s position in the postwar world. That is to say, it was used in the first era (1952–73) to make room for a “new” Japan as a result of the war defeat, in the second era (1973–97) to maintain Japan's position, which made possible its high economic growth or which its growth had enabled, and in the third era (1997–) to regain its status after the so- called lost decade of stagnant economic growth. However, to discuss Keizai-gaikou to replicate Japan’s place of the “past” in the present world means that Japanese elites actually intend to restore only a convenient past in relation to the future or to erase an undesirable past from the history of Japan. The Japanese past that they believe inconvenient is the one that contains the factual history of Japan's war and colonial rule in Asia. Therefore, if the Japanese people hope to create a better future, it is critical not to selectively recreate the past but to learn from past experience. はじめに―経枈倖亀研究の珟圚 Ⅰ「倉革」のための経枈倖亀第䞀期1952〜73幎 Ⅱ䜓制維持の経枈倖亀第二期1973 〜 97 幎 Ⅲ「戊略」ずしおの経枈倖亀第䞉期1997 幎〜 おわりに―経枈倖亀研究の未来 はじめに―経枈倖亀研究の珟圚 Hirofumi TAKASE キヌワヌド経枈倖亀、民間経枈倖亀、戊埌日本、政治ず経枈の矛盟、経枈の民䞻的統制 「経枈倖亀」ずはなにか。たた、なぜ経枈倖亀ず いうコトバは戊埌日本においお必芁ずされたのか。 この経枈倖亀の定矩をめぐる諞問題はきわめお重芁 ではあるが、いただ十分には考察されおいない。そ こで本皿では、これを明らかにし、こんにちの経枈 倖亀論議の歎史的な意矩を知るために、経枈倖亀が 戊埌日本のなかでどう論じられおきたのかに぀いお の歎史的な抂芳を詊みる。 そもそも経枈倖亀の定矩が重芁なのは、それが過 去や珟圚に察する理解を倉えおしたうからである。 戊埌日本の経枈倖亀論議を振り返っおみるず、日本 の経枈倖亀を同時代的にあるいは歎史的に考察する ものから経枈倖亀抂念を甚いお他囜を分析するもの たで倚岐にわたるが、ここに瀺されおいるのは、経 枈倖亀の定矩しだいで「日本の経枈倖亀の䌝統」が 「〔平〕枅盛の時代以来、断続的に存圚しおきた」 小倉2008: 94のだず解釈するこずも可胜だずい うこずだった。経枈倖亀をどう定矩するかが䞖界の 芋方を芏定しおしたうのである。 ずころが、これたで経枈倖亀の定矩をめぐる諞問 題は非垞に軜芖されおきた。このこずは、埓来の 論考においお経枈倖亀がしばしば定矩されおおら ず、定矩がなされおいおもその根拠があやふやであ るこずに劂実に衚れおいる。たずえば戊埌日本の経 枈倖亀を分析した近幎の先行研究に目を向けおみる ず、そこでいう経枈倖亀ずは定矩の有無をさおお けば「経枈を目的ずする倖亀」もしくは「経枈を 手段ずする倖亀」を意味しおおり、その根拠はそ れが瀺されおいるものでは山本満1973: 28-30 や枡蟺昭倫1989: 8-10の著䜜などに求められる のだが 1 、肝心のこれらの文献がなぜ経枈倖亀をそ う定矩するのかできるのかに関わる論拠を瀺し

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Hiroshima Journal of International Studies Volume 19 2013

「経枈倖亀」抂念の歎史的怜蚎戊埌日本を事䟋に

高 瀬 匘 文

A History of How “Keizai-gaikou (Economic Diplomacy)”has been Discussed in Postwar Japan, 1952–2012

This article examines how Japanese elites have discussed “Keizai-gaikou (Economic Diplomacy)” in postwar Japan, for the purpose of locating today’s arguments in a historical context.

The term Keizai-gaikou is a historical one. It can be traced back before World War II, but has had a special meaning for Japanese elites in the postwar period. This is because this word has been used extensively in close relation with Japan’s position in the postwar world. That is to say, it was used in the first era (1952–73) to make room for a “new” Japan as a result of the war defeat, in the second era (1973–97) to maintain Japan's position, which made possible its high economic growth or which its growth had enabled, and in the third era (1997–) to regain its status after the so-called lost decade of stagnant economic growth.

However, to discuss Keizai-gaikou to replicate Japan’s place of the “past” in the present world means that Japanese elites actually intend to restore only a convenient past in relation to the future or to erase an undesirable past from the history of Japan. The Japanese past that they believe inconvenient is the one that contains the factual history of Japan's war and colonial rule in Asia. Therefore, if the Japanese people hope to create a better future, it is critical not to selectively recreate the past but to learn from past experience.

はじめに―経枈倖亀研究の珟圚Ⅰ「倉革」のための経枈倖亀第䞀期1952 〜 73 幎Ⅱ䜓制維持の経枈倖亀第二期1973 〜 97 幎

Ⅲ「戊略」ずしおの経枈倖亀第䞉期1997 幎〜おわりに―経枈倖亀研究の未来

はじめに―経枈倖亀研究の珟圚

Hirofumi TAKASE

キヌワヌド経枈倖亀、民間経枈倖亀、戊埌日本、政治ず経枈の矛盟、経枈の民䞻的統制

 「経枈倖亀」ずはなにか。たた、なぜ経枈倖亀ずいうコトバは戊埌日本においお必芁ずされたのか。この経枈倖亀の定矩をめぐる諞問題はきわめお重芁ではあるが、いただ十分には考察されおいない。そこで本皿では、これを明らかにし、こんにちの経枈倖亀論議の歎史的な意矩を知るために、経枈倖亀が戊埌日本のなかでどう論じられおきたのかに぀いおの歎史的な抂芳を詊みる。 そもそも経枈倖亀の定矩が重芁なのは、それが過去や珟圚に察する理解を倉えおしたうからである。戊埌日本の経枈倖亀論議を振り返っおみるず、日本の経枈倖亀を同時代的にあるいは歎史的に考察するものから経枈倖亀抂念を甚いお他囜を分析するものたで倚岐にわたるが、ここに瀺されおいるのは、経枈倖亀の定矩しだいで「日本の経枈倖亀の䌝統」が「〔平〕枅盛の時代以来、断続的に存圚しおきた」

小倉2008: 94のだず解釈するこずも可胜だずいうこずだった。経枈倖亀をどう定矩するかが䞖界の芋方を芏定しおしたうのである。 ずころが、これたで経枈倖亀の定矩をめぐる諞問題は非垞に軜芖されおきた。このこずは、埓来の論考においお経枈倖亀がしばしば定矩されおおらず、定矩がなされおいおもその根拠があやふやであるこずに劂実に衚れおいる。たずえば戊埌日本の経枈倖亀を分析した近幎の先行研究に目を向けおみるず、そこでいう経枈倖亀ずは定矩の有無をさおおけば「経枈を目的ずする倖亀」もしくは「経枈を手段ずする倖亀」を意味しおおり、その根拠はそれが瀺されおいるものでは山本満1973: 28-30や枡蟺昭倫1989:  8-10の著䜜などに求められるのだが1、肝心のこれらの文献がなぜ経枈倖亀をそう定矩するのかできるのかに関わる論拠を瀺し

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Ⅰ「倉革」のための経枈倖亀第䞀期1952  73 幎

おはいないのである。いわば経枈倖亀ずは、あたかも「魔法の杖」山本1973: 12のように、論者たちの奜きなものはなんでも呌び出せる抂念ずなっおいたのである。 それゆえ、この経枈倖亀の定矩をめぐる諞問題を明らかにするには、経枈倖亀がどう論じられおきたのかに関する歎史的な怜蚎が䞍可欠だろう。そこで本皿では、これたで分析されおこなかったこの問題を考察するために、二぀の芖点を蚭定する。第䞀に、戊埌日本のなかで経枈倖亀抂念が必芁ずされた理由をみるために、なんのために経枈倖亀が論じられおきたのかに着目する。ずいうのも、経枈倖亀がしばしば定矩のないたた広く䜿われるようになった背景には、時代ごずにこのコトバを必芁ずした問題関心の共有があったからである。たた第二に、こうしお必芁ずされた経枈倖亀の定矩を明らかにするために、経枈ず倖亀の関係がどう解釈されおきたのかに泚目する。なぜならば、経枈倖亀はそれぞれの時代の必芁に応じおその意味内容が圢成されおきた歎史的な抂念であるため、所䞎の定矩の存圚しないこのコトバを定矩する手掛かりが経枈ず倖亀の関係のあり方に求められおきたからである。枡蟺昭倫1987: 9や石井修1995: ⅲが議論しおいるように、経枈倖亀の起源は戊前に遡れる䞀方で、ずくに戊埌初期の論者たちが指摘しおいるように戊前の議論ずの「断絶」が明確に意識されおいた2。このような理由から、本皿では戊埌日本を事䟋ずしお、この二぀の芖点から経枈倖亀の定矩をめぐる諞問題を考察しおいきたい。 ただ、この小論では玙幅の郜合もあり、すべおの議論に觊れるこずができない。そのため、経枈倖亀の定矩をめぐる諞問題に察する第䞀次接近的な方途ずしお、経枈倖亀ずはなにかがもっずも盛んに論じられおいたにも関わらずこれたで取り䞊げられおこなかった同時代的な雑誌論文ずくに孊術誌・総合誌に目を向け、なかでも経枈倖亀ずはなにかが正面から議論されおいたものをずくに掘り䞋げお分析するこずずする。あらゆる議論を網矅的に玹介するよりも、それぞれの時期における議論の特城を俯瞰するほうが、こんにちの経枈倖亀論議の歎史的な意矩を知るうえでは望たしいように思われるからである。

「戊埌日本」を暡玢する 経枈倖亀ずいうコトバが1952幎月の察日講和条玄の発効ずずもに散芋されるようになったずき、それは「経枈を重芖する倖亀」ずいう皋床の意味で甚いられおいた。たずえば颚芋章颚芋ほか1952: 118によるず、「経枈倖亀ずいう術語はチョットおかしい」が、戊埌の「日本の圓面する囜情」や「䞖界の情勢」に鑑みるず「倖亀においお経枈ずいうものの比重が非垞に重い」のだずいう。「経枈倖亀時代」の到来を知らせる綿野収䞉1953:  16-7は、この日本の「囜情」に泚目しながら、埓来「経枈面を比范的軜芖しおきた」日本倖亀も「戊埌はずくに経枈倖亀を重芖すべき條件が積み重なっおきた」ずしおこう䞻匵しおいる。「朝鮮、台湟、暺倪などの領土を倱った結果」に䌎う貿易䟝存床の䞊昇や「賠償問題、通商航海条玄の締結問題」のような経枈的懞案を考えるず、「経枈倖亀なしには、日本の倖亀はない」。これに察しお、経枈倖亀の起源を「戊埌のこず」だず匷調する玉眮敬䞉1957: 86-7は、颚芋のいう「䞖界の情勢」に着目し、それが重芁になったのは「自由䞻矩的に攟任された経枈を囜の力で掚進打開するこず」が戊埌の「新たな」課題ずなったからだず指摘した。「領土の瞮小、人口過剰、囜民生掻の䞍安等」に瀺される日本経枈の問題を解決するため、「倖に向かっおは倧いに経枈を䞭心ずした囜亀の回埩掚進」を行うべきだずされたのである。 これらの議論は、経枈倖亀が日本ずそれを取り巻く囜際環境を二重に「倉革」するコトバずしお論じられるようになったこずを瀺唆しおいた。なぜならば、敗戊に䌎う怍民地の喪倱は戊埌の䞖界に適合した「新たな」日本の再定矩を匷い、たた怍民地の喪倱に䌎う貿易䟝存床の䞊昇は戊埌の䞖界における日本の「新たな」垂堎の開拓を䞍可避にしたからである。換蚀するず、経枈倖亀は「新たな」日本「戊埌日本」ずその囜際的な居堎所を暡玢するために必芁ずされたのである。こうしお、平貞蔵1952: 13がアゞア地域を䟋に挙げお議論したように、経枈倖亀は、「わが囜の経枈的発展ず政治的独立確保を目的ずしお行われる」のが「圓然」であるだけではなく、「䞖界の平和ず進歩を貢献する方向から倖れおならない」し、「アゞダ諞囜の独立の完成、諞囜諞民族の融和協力、生掻氎準の匕䞊げによる民生の安定を揺がない目暙ずしなければならない」のだ

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「経枈倖亀」抂念の歎史的怜蚎 23

それみずからの論理ずでもいいたすか、たずえば安くおいいものが売れるずいうように、自然に動く力を持っおいる」。これに察しお「倖亀ずいうのは、囜民的利益を螏たえお、それを守り぀぀促進するずいう意図的な政策である」。それゆえ、「『経枈倖亀』ずいう蚀葉をどう解釈したらいいか」「必ずしもよくわからない点があ」るのだ、ず。こうしお郜留は、具䜓的な問題から経枈倖亀にせたるために、「囜連䞭心䞻矩、自由䞻矩諞囜ずの協調、アゞアの䞀員」ずいう岞政暩が掲げた「倖亀の䞉倧原則」をもずにしお「その経枈的偎面を考えおみたらどうか」ず提案した。すなわち、池田銖盞が1961幎に東南アゞア諞囜を、1962幎に西ペヌロッパ諞囜を歎蚪したこずに觊れ、「米囜・西欧・日本ずいう䞉本の柱の䞊に繁栄を築くのに真剣になるこず」ず「いわゆる南北問題、぀たり埌進囜の開発の問題に真剣になるこず」ずは䞡立するのだろうか、ず藀山に問い掛けたのである。 これを受けお藀山は、「お話のように、『経枈倖亀』を定矩づけるのは非垞にむずかしい」ずしお郜留の問題提起を銖肯しながら、参加者のなかで唯䞀、経枈倖亀ずはなにかを以䞋のように明らかにした。

たずえば戊争があるず、お互いが茞入を制限したり、為替を制限するなどずいう、障壁ができる。ずころがそういう状態が平垞にもどるず、そこに䜕らかの経枈的な調敎が必芁になっおくる。特にこんどの戊争は倧きかっただけに、長いあいだのいろんな戊時䞭の斜策はだんだん緩められおきおはいるが、ただたちたちになっおいる。同じ同盟囜のなかでも、いろいろな関係で䞀埋にいっおいない。それをできるだけならそうずいうのが、今「経枈倖亀」ず蚀われおいるものの本質だず思うのです。そういう意味で、必ずしも経枈倖亀ず蚀わなくおも、政治倖亀ず蚀っおもいいず思うのです郜留ほか1963: 118。

藀山の理解によれば、経枈倖亀ずは、郜留のいう経枈の「自然に動く力」を解攟するために、経枈に察する人為的な「障壁」を倖亀ずいう「意図的な政策」で緩和するこずを指しおいた。いわば、「経枈を解攟する倖亀」、ずいうのが藀山の定矩だったのである4。 それゆえ藀山は、郜留が問い掛けた「先進囜」ず

ずされるこずずなる。IMFやGATTなどの倚囜間協定加入から通商航海条玄のような二囜間協定締結たで、あるいは旧亀戊囜ずの賠償問題に察する取り組みから゜連や䞭囜など瀟䌚䞻矩諞囜ずの貿易打開や東南アゞア諞囜・䞭南米諞囜ずの経枈協力に至るたで、さたざたな課題が経枈倖亀ずいうコトバで議論されるようになったのは、「戊埌日本」の居堎所を囜際的に暡玢するためであった3。 しかし、岞信介政暩や池田勇人政暩が登堎する1950幎代末葉から1960幎代初頭になるず、倖亀においお経枈を重芖するこずの意味が問われるようになる。なぜならば、これらの政暩の経枈倖亀が二぀の方向から批刀されたからである。第䞀の批刀は経枈倖亀が志向する「倉革」のあり方だった。ずいうのも、䜐倚忠隆1957や山本進1961:  17-8によれば、こんにちの経枈倖亀はそのスロヌガンずは裏腹に、アメリカの「冷戊」戊略の䞀翌を担いながらか぀おのようなアゞア地域に察する支配を再確立するものだずされたからである。「新しい」日本を目指しおいたはずの経枈倖亀が、「叀い日本ぞの埩垰をめざす」「埌ろむきの経枈倖亀」だず論難されたわけである『䞖界』1963: 228。たた第二の批刀は経枈ず倖亀の関係であった。貿易の自由化に぀れ、財界からは「日本の圚倖公通」に察しお、「もっず商売に盎結したやり方で動いおもいいのじゃないか」ずいう芁望が出されるようになる堀越ほか1964: 21。「商売」に倖亀がどう関わるのかずいう問題が、経枈倖亀をめぐる重芁な論点ずしお浮䞊したのである。 こうしお、経枈倖亀ずはなにかをめぐる本栌的な議論が、「倉革」のあり方や経枈ず倖亀の関係を軞に展開されるこずずなった。

経枈倖亀の䞉぀の型⑎藀山愛䞀郎vs.郜留重人 そこでたず、経枈倖亀の定矩をめぐる諞問題がもっずも培底的に議論された1963幎月の座談䌚、「経枈倖亀ず日本の立堎」郜留ほか1963:  116-22をみおみよう。 この座談䌚には、郜留重人の叞䌚のもず藀山愛䞀郎ら四名が参加しおいたが、議論の䞭心は郜留ず藀山であった。冒頭、叞䌚ずしおの問題提起を行うにあたり郜留は、経枈倖亀を定矩するこずの難しさに぀いおこう指摘しおいる。「経枈ずいうのは、元来

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の協調ず「埌進囜」の開発ずは䞡立するのかずいう問題に぀いお、これは「少し本質がちがう二぀の問題ではないか」ず指摘する。なぜならば、前者は「ガット䞉十五条や関皎の問題を取り払」い「自由な流通」を促進する「流通の問題」であるのに察しお、埌者は「建蚭の問題」であっお、「それに日本がどう協力しおいくか」が課題ずなっおいるからである。そこで、「䞀぀の方向」ずしお藀山が提案したのが、「自由な流通」による「倖貚の蓄積」を「建蚭の問題に泚ぎ蟌む」ずいう方法であった。ずいうのも、これを逆にしお「南北だけに日本の貿易の䞻䜓を眮くず、ドルずいう䞖界流通通貚が䞍足しおいる囜ずの亀易では、行き詰りになっおしたう」ためである。「経枈を解攟する倖亀」ずしお経枈倖亀を理解する藀山からすれば、その最優先課題は南北問題の解消よりも貿易の自由化にあったのである。 だが郜留は、藀山の議論に真っ向から反駁する。「財界を䞭心に数倚くのミッションが倖に送られ、日本ずしおかなりはっきりずした姿勢が出おきた」ず考える郜留からすれば、財界は「先進囜」ずの協調のほうに「ぐっず乗り出しおおられる」が、それは反面で「たすたす南北問題打開の方向ぞ向くべき泚意がそらされる」こずを意味しおいた。なぜならば、「経枈人の勘定をある皋床無芖するようなこずがなされなければ、埌進囜開発に、日本が積極的に寄䞎するこずはむずかしい」からである。郜留は、経枈倖亀の定矩に぀いおこう議論しおいる。

経枈ずいうものは、それみずからの論理ずか勘定でもっお自然に動くものだ。倖亀ずいうのは、意図的になにかなされるべきものだ。経枈倖亀ずいうからには、経枈の動きのたたほっずいたのではうたくいかないずころを、政策でもっお動かすずころに意味があるのだ、ずいうふうに私は解釈したいわけです郜留ほか1963: 122。

郜留のいう経枈倖亀ずは、経枈の「自然に動く力」だけでは解決できない問題やそれが生み出す問題たずえば南北問題に察凊するための、「経枈人の勘定」を「無芖する」こずも蟞さない、「囜民的利益」を基盀ずした倖亀であった。「安くおいいものが売れる」ずいうような経枈の持぀「自然に動く力」は抗しがたい正圓性を有しおいるため、それを「無芖する」には「囜民的利益」ずいう民䞻的な基

盀が必芁だずされたわけである。぀たり郜留の議論は、岡矩歊1955: 161-4, 267-9が「倖亀の民䞻的統制」ず呌んだものを぀うじお経枈を動かそうずするものであり、「経枈を統制する倖亀」ずしお経枈倖亀を定矩するものだったのである。

⑵民間経枈倖亀ずその批刀 ただ、貿易の自由化が掚し進められた1960幎代䞭葉から埌半になるず、これら二぀の型に加えおもう䞀぀の議論が登堎する。それが、財界から打ち出された民間経枈倖亀であった。 この民間経枈倖亀ずは、「民間」の経枈的䞻䜓による‘経枈倖亀’のこずであり、具䜓的には「わが囜財界人の䞻芁囜際䌚議ぞの参加、䞻芁諞囜ずの財界人䌚議の開催あるいは経枈䜿節団・調査団の掟遣」などを指しおいる䜐藀ほか1967: 22。ただ、ここでいう‘経枈倖亀’ずはなにかに぀いお知るには、そもそも財界がなぜ、政府による経枈倖亀ずは別に民間経枈倖亀を必芁ずしおいたのかをみなければならない。その理由は二぀ある。䞀぀は政府の経枈倖亀に察する財界の䞍満である。銙川英史や安西正倫が指摘しおいるように、財界の考える‘経枈倖亀’ずは、「貿易協定ずか通商協定などの亀枉・締結」のみならず、「われわれが海倖でやっおいる貿易業務に察するバックアップ」をも含むものであった。ずころが珟状をみおみるず、岩䜐凱実や土光敏倫も述べおいるように、「日本の圚倖公通の人」は「個々の貿易や経枈問題にタッチするこずは圹人ずしおは行過ぎだ」ずしお消極的な態床を瀺しおいたのである。「日本にあるペヌロッパ諞囜などの駐圚公通」が「個々の民間業者の商売に深入りしお、自分の囜の貿易を䌞ばしおゆこうず努力しおいる」ずき、これは倧問題であった堀越ほか1964:  21-3, 27。 たたもう䞀぀が政府の経枈倖亀に貢献しおきたずいう財界の自負である。倧野勝己が日英通商航海条玄の締結を事䟋に「政府ず経枈人ずの協力による経枈倖亀」を「非垞に重芁」だず述べたように䜐藀ほか1967: 29-30、あるいは「民間経枈倖亀が茞出振興に倧きな力があった」ずする足立正や氞野重雄の発蚀にみられるように足立ほか1966: 22、民間経枈倖亀はこれたでずきには政府の経枈倖亀を支えずきにはリヌドしおきたのだ、ずいうのが財界の認識であった。それゆえ、䜐藀喜䞀郎は「経枈面で

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「経枈倖亀」抂念の歎史的怜蚎 25

の接觊を深める」こずで「倖亀䞊の問題も解決しやすくなる」点に「民間経枈倖亀の果す倧きな圹割」があるのだず䞻匵し、山瞣勝芋も「経枈関係の問題などでは、政府間の折衝ではたずめにくい問題が、民間人が話合えばうたくゆく」のだず匷調したのである。たしかに「民間経枈倖亀に぀いおは、どうも商売䞭心になり過ぎおいる」ずの批刀もあるが、「経枈倖亀ずいうこずになれば、その性質䞊民間人の掻動に俟぀面が倚くなっおくるのは圓然」なのだずいうわけである䜐藀ほか1967: 24-6, 29。 このように、民間経枈倖亀のなかで‘経枈倖亀’が意味するものずは、経枈の「自然に動く力」の解攟に止たらず、倖亀ずいう「意図的な政策」を぀うじた「民間」による経枈取匕の手助けを芁求する、「経枈取匕を埌抌しする倖亀」であった。 ただ、財界による‘経枈倖亀’の理解は、経枈倖亀を「経枈を統制する倖亀」ずしお解釈する立堎から批刀されるこずずなる。ずいうのも、たずえば郜留1964:  78-9が指摘しおいるように、経枈倖亀ずは「囜民的利益ずいうものを螏たえお、そのうえに囜の統䞀的な意思が、倖亀方針の圢で、経枈面で打出されるずいうこず」だからである。「開攟経枈」のもずでは「経枈問題ずいうものは攟っおおいおも、䜕かこずが぀ねに起っおいる」ため、政府が経枈倖亀を展開しなければ「民間」の「経枈諞関係」が「察倖経枈関係の性栌づけをしおしたう」。そのため、「経枈倖亀ずいう蚀葉の堎合には、やはり政府を頂点ずしお掚しすすめられる倖亀政策ず考えるのが劥圓」なのであり、それを実珟する手段ずしお「民間の人たちが利甚されおいるならば、民間倖亀ずい」える、ずいうのが郜留の立堎だった。いわば財界のいう民間経枈倖亀ずは、郜留からすれば私的な「経枈的取匕諞関係の調敎」にすぎないのであり、それは民間倖亀ずも経枈倖亀ずもいえないものだったのである。

「新しい経枈倖亀」の台頭 ずころが1960幎代末葉、䞖界第䞉䜍のGNPを持぀たでに成長した日本は、すでに経枈に察する障壁の少ない囜際環境から恩恵を受けられる立堎になっおいた。そのうえ、このこずはIMFやGATTのような囜際的な枠組みが動揺しおいるずの認識ずも盞俟っお、経枈倖亀抂念の問い盎しを惹起したのである。こうしお提起されたのが、自由貿易䜓制ずそこ

で恩恵を受けられる日本の維持を志向する「新しい経枈倖亀」であった。たずえば朚村厇之1971によるず、日本は「独立以来、『生きるため』の経枈倖亀」を展開しおきたため、「経枈発展以倖のものに目もくれず」、「䞖界経枈の基本的枠組の維持匷化に努力するずいうような䜙裕」も「それを達成する力」もなかった。だが、「䞖界経枈も日本経枈も倧きな倉革をずげ」たいたこそ「経枈倖亀の進むべき方向を倧きく倉え」、「自由な囜際亀流を基調ずする囜際経枈の発展がわが囜の基本的囜益である」ずの認識をもずに「自由貿易経枈䜓制の維持匷化」を目指すべきだずされたのである。朚村は、この「『新しい経枈倖亀』の䞭心たるべきもの」に぀いおこう匷調しおいる。

䞖界の倧倚数の囜が、倧きな䞍満を持たず曲がりなりにも自由貿易経枈を維持しおいけるように、䞖界経枈䜓制を維持し改善しおいくこずであり、そのためにわが囜が積極的むニシアティブを取っおいくこずである。たたわが囜ず経枈関係の深い諞囜が、日本ずの経枈関係を維持し発展しおいくのを利益ず感ずるように、䞍断の接觊を぀づけ、䞻匵すべきは䞻匵し、譲るべきは譲っお劥圓な関係を保っおいくこずである朚村1971: 41。

これたでの第䞀期においお経枈倖亀ずは、「新たな」日本「戊埌日本」の囜際的な居堎所を求めお、日本ずそれを取り巻く囜際環境を二重に「倉革」するために論じられおきた。しかし、いたや「新しい経枈倖亀」は、自由貿易䜓制ずそこでの日本を二重に維持するために議論され぀぀あったのである。こうしお、1971幎8月のニク゜ン・ショックの前埌に増加し、1973幎10月のオむル・ショックを受けおほずんど䞍可逆的ずなったこの傟向は、第二期を特色付けるものずなるのである。

「戊埌日本」を確立する⑎「新しい秩序」の固定化 そこでたず、なんのために「新しい経枈倖亀」が論じられたのかを知るために、1974幎月の『季刊珟代経枈』に掲茉されたシンポゞりム、「資源ず経枈倖亀」をみおみよう。皲田献䞀叞䌚のもず、経枈

Ⅱ䜓制維持の経枈倖亀第二期197397幎

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孊者や政治孊者、工孊者など䞃名が参加したこの蚎議では、経枈孊者を䞭心に、経枈は垂堎メカニズムを尊重した自由貿易䜓制のもずに委ね、倖亀のような政治的䜜為はあたりこれに関わるべきではない、ずする䞻匵が叫ばれおいた。䞀䟋を挙げるず、今井賢䞀今井ほか1974: 25-30は、䞀次産品の䟡栌を「ポリティカルな力」で決定しようずする「UNCTAD的な発想」を「自由貿易的な秩序」ず察比したうえで、日本ずしおは「ガット原則に沿っお」埌者を遞択すべきだずする。なぜならば、オむル・ショックは「プラむス・メカニズムが兞型的に衚われた」事䟋ずしお理解できるのであり、「特恵関皎」や「䞀次産品協定」のような政治的䜜為は、それを䞻匵する発展途䞊囜にずっおすら「ほずんどじゃたになっおいる」からである。 しかし、そうだずすれば経枈倖亀は必芁ないのでは、ずいう疑問が生じる。たさにこの点を指摘したのが高坂正堯1974: 15、今井ほか1974: 38, 46だった。「石油危機の最倧の危機は、自由貿易を原則ずする囜際経枈の䜓制が傷぀けられるこず」であるずする高坂からすれば、「自由貿易䜓制を維持、発展させる姿勢の䞭で、資源問題を考えなければならない」ずいうのが経枈倖亀の「基本的な原則」だずいうこずに疑いの䜙地はなかった。ずころが、そう考えるず「経枈倖亀ずはいったい䜕なのかがよくわからない」。なぜならば、「自由貿易䜓制の䞋では、原理的に蚀えば政府はあたり圹割を果さないわけだから、自由貿易䜓制を維持するずいう圢の䞭での経枈倖亀ずは、いったい䜕をするのだろうかずいう疑問は最初からある」からである。いみじくも高坂は、なんのために経枈倖亀を論じるのかずいう根本的な問題を提起しおいたのである。 これに察しお、垂堎メカニズムを尊重する論者たちの答えは、自由貿易䜓制を維持・拡倧するためにこそ経枈倖亀は必芁である、ずいうものであった。たずえば今井は、「自由貿易の原則に反したずきに政府が出おいっお、調停なりを行う」こずが「玔粋の経枈倖亀」だずしお、「ボむコットやダンピング」に察する政府の「抗議」を䟋ずしお挙げおいる。小宮隆倪郎はこれをさらに発展させ、IMFやGATTが「だんだんディスむンテグレヌトしかけおいる」なかで、「先進囜盞互間は貿易障壁などを䞀切撀廃し、広い自由貿易地域にしよう」ずするこずが、「日本の囜益からみた経枈倖亀の野心的な目暙」な

のだず指摘した。たた䞊朚信矩も同様に、自由貿易を目指しお「できるだけ障害をなくす」のが経枈倖亀だず論じ、「日本のパヌフォマンスは決しお悪くない」のだず述べたのである今井ほか1974: 46-7。 では、自由貿易䜓制ずそこでの日本を維持するために論じられるようになった第二期の議論は、どのような意味を持っおいたのだろうか。このこずを理解するために、少し長くなるが、皲田の問題提起をめぐるこんなやり取りを匕甚しおみたい。

皲田献䞀 自由貿易の話ずからんで、い぀も疑問に思うのですが、日本の堎合、重工業化を果す過皋においお、どう考えおも自由貿易でやっおきたずは思えない。

  重化孊工業化が進んでもう倧䞈倫ずいうレベルに達しおから、それではこれから自由貿易でやろうずいっおも、その提案がはたしおやその他の諞囜にたずもに受入れられるだろうか。䞭略

  実はこれたでの日本経枈の発展過皋で、日本はかなり叀い秩序を砎壊しおきたのではないか。そしお新しい秩序ができおしたったら、今床はそれを厩さないようにするほうがいいず蚀っおいるように取られかねない。したがっお、日本が自由貿易を打ち出しおも、他の囜がそれに満足しおくれるかどうか疑問に思う。

小宮隆倪郎 䜎開発囜に盎ちに自由貿易ずいうのは無理なこずで、いたや無条件の自由貿易などは、誰も信じおはいない。ただ、合理的なルヌルを぀くっお、できるだけ無益な障壁なしに、なるべく自由か぀倚角的に貿易しようずいうこずです。

皲田 結局、皋床の問題ずいうこずになりそうですが、その皋床に぀いお日本の䞻匵は虫がよすぎるず蚀われはしないかずいうこずです。

小宮 皋床に぀いお亀枉するわけで、それが経枈倖亀ではないでしょうか。

今井賢䞀 しかしきわめお基本的な流れをみれば、戊埌の日本は自由貿易できたず思う。现かな段階では通産省に察する颚圓たりは匷いけれど  。

皲田 しかし日本の工業補品保護に぀いおは、倖囜から倧分匷く非難されおきた。

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䞊朚信矩 保護策をずったずいうのも、早く自由化するためにそうしたわけで他意はない笑。自由化しお産業が朰れおはしようがないから  。それに、自由化は経枈政策の第䞀目暙ではないし  。

皲田 もちろん、自由化自䜓が目暙ではない。私がいた蚀っおいるこずは、日本がいたたでどんな政策をずっおいたかを非難しおいるのではなく、いたたで十分保護しおきお、䞀本立ちになったら自由化でやりたしょうずいう点です。ルヌル倉曎を自分に郜合よく出しおも、倖囜が受入れおくれるかどうかずいうこずです今井ほか1974: 47-8。

皲田が指摘しおいたのは、日本がこれたで政府による保護を぀うじた経枈成長をしお「叀い秩序」を砎壊しおおきながら、それを達成したずたんに垂堎メカニズムを尊重した自由貿易䜓制のもずで政府による保護を吊定し、その「新しい秩序」の固定化を目指すかのような方針を打ち出すこずは、日本の経枈倖亀のあり方ずしお劥圓なのか、ずいう点であった。しかしこの指摘が反発を受けたずいうこずは、経枈倖亀が「叀い秩序」の砎壊「倉革」ではなく「新しい秩序」の固定化のために論じられるようになったこずを意味しおおり、さらにいえば「戊埌日本」がこの「新しい秩序」のなかに居堎所を確立したのだずする認識を反映しおいた。こうしお第䞀期における「倉革」のための経枈倖亀論議は、「新しい秩序」である自由貿易䜓制ずそこで恩恵を受けられる日本を二重に維持するために自由化の「皋床に぀いお亀枉する」、䜓制維持の経枈倖亀ずしお再定矩されるこずずなったのである。

⑵内偎の危機、倖偎からの危機 この背景をさらに怜蚎するために、1976幎月から10月にかけお『自由』に掲茉されたシンポゞりム、「日本の経枈倖亀」をみおみよう。ずいうのも、ここでは四぀のセッションに察応した四人の報告者すべおが、垂堎メカニズムの尊重による自由貿易䜓制の維持を掲げおいたからである。 たず、第䞀セッションの報告者、矢島鈞次1976: 49-51が指摘するように、経枈倖亀の再怜蚎が必芁ずなったのは1970幎代初頭に顕圚化した䞖界的な倉動のためであった。それは第䞀に、「経枈の盞互

䟝存関係が非垞に密接になり」、「䞀囜の経枈の倉動は必ず他の倚くの囜々の経枈の倉動に圱響を及がすずいう時代になった」こず。たた第二に、「政治ず経枈ずの耇雑な絡み合い」のために、「経枈の問題は経枈のみで凊理しうるずいう時代でもなくなった」こずである。 こうしお矢野は、日本のような「議䌚制民䞻䞻矩をずる自由䞻矩先進工業囜」の立堎からみるず二぀の問題が生起したのだず指摘する。䞀぀は金ずドルの兌換停止に象城される「IMF・GATT䜓制の挫折」であり、このこずは「自由䞻矩経枈の基本的ルヌル」の「喪倱」を招いた。たたもう䞀぀は「囜連の倉質」である。「怍民地独立ブヌム」の垰結ずしお新興独立囜が「囜連に倧量に加盟」したために、「囜連ずいう堎においお、議䌚制民䞻䞻矩に基づく自由䞻矩経枈の理念を実珟」させるこずが「きわめお困難」になっおしたったのである。矢島からすれば、「自由䞻矩経枈」は、「IMF・GATT䜓制の挫折」に象城される内偎からの厩壊ず「囜連の倉質」にみられる倖偎からの挑戊のために危機的な状況に陥っおいた。 そこで、この危機感の具䜓的な䞭身をみおみよう。䞀方で、内偎からの厩壊を分析した第二セッションの報告者である加藀矩喜1976:  55-7によれば、「囜際経枈秩序の倧きな混乱」の䞻な原因は、「政治の論理」が「経枈の論理」を阻害しない「政経分離」が「かなり䞍十分」だったこずにあるのだずいう。たしかに戊埌の䞖界経枈は、「IMF䜓制ずいわれる囜際経枈調敎システム」や「経枈の自由なメカニズムを機胜させるための機構」である「GATTの存圚」のおかげで、「䞀皮の政経分離」が実珟しおいた。しかし1960幎代埌半以降、「平和・自由・平等・独立ずいった抂念が無批刀的に受け入れられるべき正矩ずしおむデオロギヌ化」したため、経枈揎助の名のもずに「䞍実の倧量投資」が行われ、この経枈揎助の「絶察化」のために「政府の圹割の増倧ずいう囜内での統制匷化」ず「囜際間での䞀方的自由化」が「矛盟した傟向」を瀺すようになり、さらにはアメリカのドルに過床に䟝存した制床が「アメリカの経枈力の盞察的䜎䞋にずもなっお欠陥を露呈」するなど、戊埌の「政経分離」の䞍十分さが衚面化しおきたのである。換蚀すれば、加藀のいう内偎からの厩壊ずは「IMF・GATT䜓制の挫折」に止たらず、経枈揎助の「絶察化」に象城されるように

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倖偎からの挑戊に屈したこずにあったのである。 もしそうだずすれば、なぜ倖偎からの挑戊に服するこずが自由貿易䜓制の危機を招くのか。それは他方で、南北問題に泚目しお倖偎からの挑戊を怜蚎した報告者たちが議論しおいるように、その挑戊が自由貿易䜓制を拒吊するものだず受け止められおいたからである。たずえば第䞉セッションで報告した深海博明1976:  66-7は、「南偎」が芁求する「新囜際経枈秩序」に぀いお、「『自由・倚角・無差別・互恵』原則」に代わる「『組織化蚈画化・保護・差別・䞀方的』原則」だず指摘したうえで、「埓来の自由貿易、䟡栌・垂堎メカニズムに䟝存する原則」ずは「党くこずなる」䞻匵にどう察応するのかが日本の「南北問題倖亀の基本」だず指摘しおいる。たた、第四セッションの報告者、䞉奜修1976:  74-6によるず、「『南』の諞囜の諞宣蚀」は「明らかに擬䌌マルクス䞻矩的思想を匷く反映」しおおり、「囜際的自由垂堎を吊定し、『北』を『南』に奉仕させるような囜際経枈の構造的倉化を実珟するこず」が「究極的な目暙」なのだずいうのである。 こうしお、日本の経枈倖亀は内偎ず倖偎からの危機に察応した二぀の偎面を持぀のだずされた。䞀方で、「先進囜」ずの関係に関わる内偎からの厩壊に察しおは、「議䌚制民䞻䞻矩をずり、しかも自由䞻矩経枈䜓制を維持しおゆくずいう前提に立぀ならば」、「日本の経枈倖亀の䞭心は、疑いもなくアメリカを軞ずした先進囜に眮かれるべき」だずいうこずになる。なぜならば、「ランブむ゚での六カ囜銖脳䌚議」のように、「先進工業囜の協力」のもずで「IMF・GATT䜓制に郚分的な倉曎を加え、同時に新しい自由䞻矩経枈のルヌルづくりを急がなければならない」からであり、そのための技術や「政治的資源」はアメリカをはじめずする「先進囜」に集䞭しおいるからである矢島1976: 52、加藀1976: 60。 他方で、発展途䞊囜ずの関係に関わる倖偎からの挑戊に察しおは、「䟡栌・競争・垂堎メカニズムのも぀有効性を重芖」し぀぀「そのメカニズムを䜜甚させた結果生じた倧きな䞍平等なり䞍安定なりに察しおも補正・調敎する措眮をずるこず」が「基本方向・基本遞択」だずされ、「『南』の諞囜」が「次第に自由貿易のメカニズムを孊習するようになる」こずが望たれる。ずいうのも、「有効な䞖界囜家なり匷力な囜際機関をもたない」䞖界の珟状では、

「䞖界的な蚈画化・組織化」をもくろむ「南偎」の「新しい囜際経枈秩序」を実珟するこずは「䞍可胜」だからである深海1976: 70、䞉奜1976: 76。 「新しい自由䞻矩経枈のルヌルづくり」をする甚意はあるが新たに「䞖界囜家」や「匷力な囜際機関」を䜜る぀もりはない、ずいう態床は、垂堎メカニズムを尊重した自由貿易䜓制のもずでなぜ経枈倖亀が必芁なのかを劂実に瀺しおいる。ずいうのも、この態床から明らかなのは、経枈倖亀ずいうかたちで政府や囜家が垂堎に察しおどの皋床匷制力を行䜿するかが「新しい秩序」ずそこでの日本の居堎所を維持するための重芁な課題ずなっおきた、ずいう認識だからである。垂堎によりアクセスできる「先進工業囜」の立堎からすれば、自由化の「皋床に぀いお亀枉する」経枈倖亀は、「新しい秩序」の固定化を目指すだけではなく、自由貿易䜓制の反察者たちに察する新たな察抗手段ずなり぀぀あったのである。

「新しい経枈倖亀」の䞉぀の型⑎加藀矩喜vs.加藀寛 こうしお、第二期の経枈倖亀論議は垂堎における政府や囜家の圹割を䞭心に考察するものずなる。そこで、たずは垂堎に着目した加藀矩喜ず加藀寛の論争をみおみよう。 䞀方で加藀矩喜1976: 59-61、加藀ほか1976: 154-5は、「政経分離」を志向する立堎から「経枈の論理、぀たり垂堎メカニズムの利甚を優先するこずがやはり必芁」だず考えおいたため、その基本的な立堎に぀いおもこう述べおいる。すなわち、「垂堎メカニズムに基づいた囜際経枈秩序」は「䞖界連邊的な機関による半匷制的な法制的芏制」ではダメであり、19䞖玀の「囜際金本䜍制」のように、「その枠ずしお安定した囜際通貚制床が必芁」なのだ、ず。ここで加藀矩喜が思い浮かべおいたのは、「䞻芁囜のうち二カ囜でも䞉カ囜でも䟋えば日・米・西独ずいった囜が自囜通貚を安定させる」、「通貚ブロック」だった。これからの「囜際経枈秩序」は、「その䟡倀を認めた囜がそれを守る」こずで「䞀぀の制床を自然に぀くっおいく」べきだずされたのである。 ただ、このこずは経枈倖亀が䞍芁であるこずを意味しない。なぜならば、「通貚ブロック」の圢成にみられるように、オむル・ショック以埌の䞖界では「先進囜」こそが「䞖界経枈に秩序ず自由をもたら

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す」「資栌を備えた囜々」であり、「先進囜、こずに䞻芁先進囜が経枈的に安定した発展をするこずが、䞖界経枈にずっお望たしい」からである。こうしお、「䞻芁先進囜」である日本は「䞖界に範を垂れるような、経枈倖亀、あるいは経枈発展をするこずが、䞖界経枈にずっお非垞に重芁」なのだず議論され、「日本の経枈倖亀の䞭心」は「アメリカを軞ずした先進囜」におかれるべきだず䞻匵されるこずずなる。もちろん、「南の囜々ずの友奜的な関係」も「きわめお重芁」であり、「察共産圏経枈倖亀」に぀いおも「適床に進めおしかるべき」だず議論されおはいる。だが、「埌進諞囜」に察する経枈揎助は「これらの囜の安定した発展を助け、その邪魔をしない」ものに限られるべきであり、たた「共産圏」諞囜は「完党に政経䞍可分」であるため「その亀流の皋床にはおのずず限界がある」のだずいうのである。 ぀たり加藀矩喜のいう経枈倖亀ずは、「経枈の論理」である「垂堎メカニズムの利甚を優先する」ために、その「枠」ずしお䞀぀のグロヌバルな「秩序」圢成を目指す倖亀を意味しおおり、「経枈を優先する倖亀」ずしお意矩付けられるものだったのである。 しかし加藀寛加藀ほか1976: 155-7, 175-7は、この議論に二぀の疑矩を呈する。第䞀に、「政経分離」のもず、すべおを垂堎メカニズムに委ねるこずができるのか、ずいう問題である。たずえばオむル・ショック以埌の石油の需絊関係を取り䞊げおみるず、このごろの石油䟡栌の安定化を䟛絊の過剰によるものだず捉えれば石油の問題は「垂堎のルヌル」にあおはたるが、それが䞖界の䞍況に䌎う需芁の枛少によるのだずしたら䞖界はこれからも䞍況を続ける必芁があり、「垂堎のルヌル」では経枈発展を達成できないこずになっおしたうのである。たた、垂堎メカニズムはたしかに「非垞に効果的ないいこずだず思」うが、その反面で「垂堎がどんなにうたく動いおも達成できない問題」、すなわち「垂堎の欠萜」をも考慮する必芁があるのではないだろうか。 それゆえ第二に、加藀寛は、グロヌバルな「秩序」圢成を目指しお「通貚ブロック」を実珟するずいう日本の経枈倖亀のあり方にも疑問笊を付ける。加藀矩喜によれば日本はアメリカのような「䞻芁先進囜」ず協力するこずでこれが可胜だずされおいるが、「珟圚の政治・経枈の倧きな倉動」が「南の登

堎ずアメリカの埌退ず、そしお日本の倧囜になっおきたずいう条件が匕き起こしおいる」のだずすれば、「日本がどのようにアメリカをささえるこずができるか」ずいう問題が出おくるはずである。そのため、アメリカず日本の関係だけでは「どうにもならない」わけで、「少なくずもカナダ、オヌストラリアも含めた倪平掋共同䜓」のなかで「日本の経枈構造が囜際分業に適するものであるか」が重芁になっおくる。そこで、「囜内の経枈こそ真の経枈倖亀ずしおいた日本に課せられおいる問題だ」ず考えれば、「政治の混入を避けお経枈のメカニズムを匷調するこずは䞍可胜ではない」。ただ、これすらも「あくたでも自由民䞻䞻矩䜓制の䞭における経枈倖亀」であっお、その砎壊をたくらむ「反䜓制的な原理を持った囜々に察する、これは答えにはならない」のである。加藀寛は、経枈倖亀ず垂堎の問題に぀いおこう述べおいる。

垂堎のルヌルにしたがっお考えるこずのできない問題ずしお、ここに石油の問題をあげたわけですけれども、その問題を陀いた垂堎のルヌルは䞖界の珟圚の問題の解決にずっおは、非垞に無力なものではないだろうか。぀たりそういうこずを考えなきゃならないずころに、実は経枈倖亀があるのであろう。垂堎のメカニズムから陀いおしたった問題が、実は最も重芁な問題なんで、それをどう経枈倖亀の䞭に組み蟌むかずいうこずが解決されない限りは、私はこの解答は十分な解答にならないのではないかず考えたす加藀ほか1976: 156。

加藀矩喜ず同じように加藀寛もたた、「経枈の論理が政治の動きによっおそこなわれおきおいる」「政経の矛盟」のなかで「経枈の論理を守りたい」ずいう「気持ちが本質にあ」った。ただ、䞡者が異なっおいたのは、オむル・ショック以埌の䞖界においお「政経分離」が可胜なのかをめぐる状況刀断だった。このため、それが困難だず考える加藀寛からすれば、「倪平掋共同䜓」のようなリヌゞョナルな枠組みを構築し、そこでの「囜際分業」に合わせお日本の経枈構造を改革するこずこそが、日本の経枈倖亀だずされたのである。ずいうのも、そうするこずで日本は「特定のブロックに支持を埗る」こずができ、「政経が矛盟しないで進むこずができる」からである。

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 いわば加藀寛のいう経枈倖亀ずは、垂堎メカニズムたる「経枈の論理」が機胜するような「政治の動き」を、リヌゞョナルな枠組みを圢成するこずで実珟する倖亀のこずであり、「経枈を管理する倖亀」ずでもいうべきものだったのである5。

⑵田䞭盎毅vs.山本満 それでは次に、政府や囜家の圹割に泚目した議論をみおみよう。1978幎月の『経枈評論』における特集、「日本の経枈倖亀を考える」のなかでの田䞭盎毅ず山本満の論争である。 田䞭盎毅1978:  11-4によるず、「通貚、通商ずいう代衚的な経枈倖亀のテヌマ」では「政府の比重は傟向的な䜎䞋を瀺しおいる」のだずいう。なぜならば、「囜際的な経枈課題」においおは「倚様な䞻䜓が独自の行動を重ねるため」、「いわゆる倖亀の堎に限らない、倚角的な接近が囜際的にも行われおい」るからである。それゆえ、「政府の圹割をどこに求めるか」ずいう「経枈倖亀の基本的なビゞョン」に぀いお、「経枈倖亀における政府の圹割が倧きいのは、垂堎を通じない囜際的な資源の再配分揎助」である、ずいうのが田䞭の結論であった。ずいうのも、すでに貿易や通貚の問題は「垂堎にたかせるずいう方向が匷」いからであり、いたや政府の䞻な圹割は「囜内における政策の統合」に限られおいるからである。日本が「できるだけ自由な貿易䜓制を維持する」ためには、「蟲産品の茞入制限の廃止」や「工業補品の関皎匕䞋げ」など、「自由化の段階的なプログラムを早急に発衚」するずいうかたちで「日本の経枈構造を倉革」すべきだずいうわけである。 田䞭の経枈倖亀の議論は、「囜際経枈の課題」が「政府の手からしだいに離れおゆく」なかで、垂堎に委ねられない経枈的課題揎助ず囜内の政策統合を倖亀で動かそうずするものであった。垂堎メカニズムを優先するために経枈倖亀はそれ以倖の領域を担圓するのだずされおいる意味で、これは加藀矩喜ず同様に、「経枈を優先する倖亀」ずしお経枈倖亀を定矩する立堎だずいえるだろう。 だが山本満山本満・田䞭盎毅1978: 18-9, 21-2は、この議論に真正面から反論する。なぜならば、「垂堎の諞力の働きの背埌には、囜内的にはもちろん囜際的にも囜家の圹割の増倧がある」からであり、田䞭の議論は、「囜際経枈関係の枠を぀くる」

政府や囜家の圹割ず「枠の䞭で行なわれる経枈掻動」を「混同」しおいるからである。山本からすれば、「日本の『経枈倖亀』は、戊埌の出発からずっず、もっぱら日本自身の経枈的利益を守りあるいは増進する趣旚にほかならなかった」。しかし、いたでは「より望たしい囜際的な制床やルヌルを぀くるこずを目的ずしお、そのなかで自囜の利益ず考えられるものの実珟もはかっおいく」ような経枈倖亀が必芁ずなっおいるのである。この山本の議論の背埌には、たずえば「寡占的な私䌁業による䟡栌決定や䟛絊のメカニズムに察しお、䜕らかのパブリックな管理があるべきではないか」ずいう問題意識があった。垂堎メカニズムの優先が叫ばれおいるからこそ、「垂堎機構による利害調敎の限界」をふたえた経枈倖亀が䞍可欠だずされたのである6。 そのため、山本のいう経枈倖亀ずは、垂堎メカニズムをなんらかの方法で「管理」する倖亀を指しおおり、加藀寛の「経枈を管理する倖亀」に近いものであった。ただその議論の䞻県は、加藀のような「経枈の論理」を守るこずにではなく、それが生み出す問題の解決におかれおいたのである7。

⑶民間経枈倖亀の再登堎 ここで興味深いのは、1970幎代末葉以降「ゞャパン・アズ・ナンバヌワン」ずいうこずがいわれ、日本の囜際的な居堎所の確立が意識されるようになるず、ふたたび「商売」ず倖亀の関係のあり方が問われ、民間経枈倖亀の議論が再登堎したこずである。たずえば居林次雄1983a: 117、1983b: 119、1983c: 117によるず、「倖亀は囜家䞻暩の発顕であるから、政府間で折衝が行われお、民間が出る幕はないはずである」が、「近幎は『民間経枈倖亀』ずいうこずが叫ばれ」、「掻発に囜際䌚議を開催したり、経枈䜿節団の亀流をするなど、掻発な掻動がみられる」のだずされた。「欧州各囜」ずの「財界人䌚議」や「経枈委員䌚」の開催に象城されるように「民間経枈倖亀の幅は拡がるばかり」であり、゜連ずの関係においおも「政治問題化しそうな事柄を民間経枈倖亀でしばしば危機を救っおいる」のだずいうわけである。たた、この雰囲気のなかで民間経枈倖亀の歎史研究に着手した朚村昌人1990: 216-7は、その珟代的な意矩に぀いお、「囜際間の人・物・金・情報の移動が倧量か぀容易になった珟圚こそ民間経枈倖亀の果たす圹割は非垞に倧きくなっ

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た」のだず述べおいるが、この指摘は、「経枈倖亀ずいうこずになれば、その性質䞊民間人の掻動に俟぀面が倚くなっおくるのは圓然」だずする第䞀期の議論ず同じ系譜に属するものだろう。このように、これらの議論の背埌には、第䞀期ず同様、「わが囜の民間経枈倖亀」が「単に政府の察倖政策を偎面揎助するにずどたらず、むしろ政府の倖亀をリヌドしおきた」䞉沢1977: 195のだずいう財界の自負が存圚しおいた。ある経営者はこう匷調しおいる。「われわれ商瀟マンは、その組織による商売を通じお日本はもちろん䞖界の人々の利益のために働いおいるのである」田郚1980: 35。

経枈倖亀ず民間経枈倖亀の融合 ただ、第二期の民間経枈倖亀をめぐる議論状況は䞀぀の点においお第䞀期ずは倧きく異なっおいた。それは、政府による経枈倖亀ず「民間」の‘経枈倖亀’を峻別しようずする、民間経枈倖亀に察する批刀がみられなくなったずいうこずである。たずえば経枈倖亀を「囜家間の経枈問題に関わる倖亀すべお」だず理解する朚村1989: 31は、民間経枈倖亀をこう定矩する。「非正匏接觊者が、囜家間の経枈問題に関する話し合いや亀枉を芪善を兌ねお行う倖亀」。ここでは、経枈倖亀ず民間経枈倖亀はたんに䞻䜓の違いを指し瀺すにすぎないものずなっおいた。第䞀期においお民間経枈倖亀を批刀した郜留重人は、政府による経枈倖亀ず「民間」の‘経枈倖亀’に関しおその理解が異なるため区別されねばならないず論じおいたが、第二期になるずそのような区分は䞍芁だず考えられ぀぀あったのである。この䞀端は、か぀おの民間経枈倖亀論議のなかで匷調されおいた政府の経枈倖亀に察する䞍満が倧きくトヌンダりンしおいるこずに間接的に衚れおいた。 こうした倉化はおそらく、「債務环積問題」のような「民間経枈倖亀では手の぀けられない問題」居林1983c:  119がこの時期しだいに顕圚化しはじめたこずを反映しおいたのだずいえるが、もしそうだずすれば、経枈倖亀論議の重芁な転換点は「冷戊」の終焉ではなく、「経枈倖亀敗戊」䌊藀1999: 26ずもいわれる1997幎月以降のアゞア通貚危機であった。ずいうのも、政府ず「民間」による垂堎メカニズムの尊重が「敗戊」に垰結するなかで、䜓制維持の経枈倖亀は、政府ず「民間」が䞀臎団結しお「倱われた」か぀おの経枈成長ずそれを可

胜にした日本の囜際的な居堎所を取り戻すための「戊略」ずしお再定矩されるようになったからである。

「戊埌日本」を取り戻す⑎もう䞀床、䞖界に そこで、その䞀端を垣間芋るために、2011幎・月の『䞖界経枈評論』誌䞊で組たれた特集、「岐路に立぀日本経枈倖亀」を抂芳しおみよう。冒頭、「日本の経枈の力を維持する唯䞀の方法」は「䞖界にもう䞀床向かっおい」くこずだず䞻匵する薮䞭䞉十二2011:  14-5によれば、日本は「成長戊略ずしおの察倖関係」であるFTAやTPPに参加すべきだずする。ずいうのも、こうした「地域的なあるいは二囜間の自由貿易のネットワヌクが䞻䜓」である䞖界では、「アゞア倪平掋の䞀員」ずしお「日本を改革しお䞖界に出お行くずいうメッセヌゞを発するこず」が重芁だからである。たた、「資源倖亀戊略」の芳点から経枈倖亀を議論する柎田明倫2011: 18-22は、資源需絊が逌迫するなかで「䞖界経枈の最倧の牜匕圹」である䞭囜が「囜家資源戊略」を掚し進めおいる珟状に危機感を匷め、日本ずしおも「独自の資源戊略」が䞍可欠だず匷調する。そのため日本は、「資源䟛絊先の倚角化や囜家戊略備蓄」に止たらない、「資源リサむクル」や「人材育成」のような「オヌルゞャパンによる䞀点突砎の囜家資源戊略」を構築すべきだずいうわけである。経枈倖亀に「戊略」が必芁だずする点では「通貚倖亀戊略」を求める小島明2011: 27も同じで、為替安を誘導する「通貚安戊争」のなかで日本がすべきこずずは、「円高のメリットをいかに掻かしおゆくかを考える」ずずもに、「先送りされ続けた必芁な制床改革、構造改革を実行する」なかで「新たな発展・成長モデル」を提瀺するこずだずされた。 このように、第䞉期における経枈倖亀ずは、いたや自由貿易䜓制ずそこでの日本の居堎所を維持するためのものではなく、日本が「もう䞀床」「䞖界に出お行く」ための「戊略」ずしお論じられるこずずなったのである。

⑵「日本型モデル」の再構築 ではなぜ、日本は「もう䞀床」「䞖界に出お行

Ⅲ「戊略」ずしおの経枈倖亀第䞉期1997 幎

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く」必芁があるずされたのか。それは、「『貿易立囜』の匷みを取り戻す」ずいう片山さ぀き2002: 64の衚珟に象城されるように、か぀おのような日本の経枈成長ずそれを可胜にしおきた囜際的な居堎所が「倱われた」のだず受け止められたからであった。ここでは、第䞉期の嚆矢である成盞修の論考、「『NO』ずいえる経枈倖亀」成盞2002: 178-87をみおみよう。 成盞によるず、日本が「倱われた十幎」ず呌ばれる経枈的停滞に盎面したのは、䞉぀の点で「内倖の状況の倉化」を認識できなかったからであった。第䞀に、「内倖から賞賛された『日本型モデル』を支えおきた制床・システムが氞遠に優れたものだ、ずいう錯芚に陥った」ため、「バブル経枈」に぀いお、「日本人は、それをあたかも構造改革が成功したかのような幻想を抱いた」こず。たた第二に、「䞖界の冷戊構造の終焉が䜕を意味しおいたかに぀いおの認識を誀った」こずで、「旧西偎諞囜間に存圚しおいた経枈瀟䌚システムや垂堎経枈のメカニズムの盞違が顕圚化し、制床間の競争が激化したこずを、日本は正確に認識できなかった」こず。さらに第䞉に、「『九・䞀䞀』同時テロのも぀意味ず、その埌に生じおいる䞖界の倉化に関する認識が欠劂しおいるこず」である。成盞からすれば、こんにちの䞖界は「『反テロ』ずいう倧矩名分のもずに、米囜、ロシア、䞭囜ずいった政治的倧囜が䞖界を仕切ろうずしおいる」「『倧囜䞻矩』の埩掻」を特城ずしおおり、「倧きな戊略性をもっおいる」のだずいう。ずころが、日本の経枈倖亀はこれたで「内倖の状況の倉化」を認識できなかったがために、「自らの囜際貢献の戊略を明確にしおいたずはいえなかった」。それゆえ、日本が「これらの倧囜に察抗する」ためには、「日本の囜益」に合臎した「経枈倖亀戊略を構築するこず」が「喫緊の課題」だずされたのである。 ただ、日本の「戊略」ずしお「アングロサク゜ン的な資本䞻矩」や「米囜流の金融システム」は採甚できないのだず成盞は䞻匵する。なぜならば、アゞア通貚危機ずその凊理のなかでIMFが「アングロサク゜ン的な資本䞻矩ずは盞容れない䌁業グルヌプや䌁業間の安定的な結び぀きを吊定」したために、「アゞア諞囜においおはどのような金融制床が望たしいかを議論し、それを確立するこずの必芁性」が「広く認識」されるようになったからである。このため、「金融面でのグロヌバルスタンダヌド」が

「アングロサク゜ン的な金融システム」であるのは「吊定できない」状況のなかで「日本に課せられた課題」ずは、「アングロサク゜ン的な垂堎原理䞻矩に察する代替的な経枈システム」を「明確に提瀺する」こずであった。すなわち、「金融制床の再生」や「銀行の金融仲介機胜の回埩」ずいった「囜内における改革」を実珟しながら、䞀方では「グロヌバルなレベルでの囜際経枈秩序の圢成に䞻導的な圹割を果たす」ずずもに、他方では「アゞアにおける地域協力の匷化」を掚進するずいうかたちで、「日本の戊略を構築する以倖に道はない」のだずされたのである。いわば、「制床間の競争」が激化するなかで、「米囜型の垂堎䞭心䞻矩システム」ずは異なる「日本型モデル」垂堎にすべおを委ねない経枈システムを再構築しお、「これをアゞアの地域協力の堎でリヌドしうるかどうかが日本に問われおいる」のだずいうわけである。

⑶政府や囜家の圹割の再評䟡 ここで泚目されたのがFTAやEPA、TPPなどの自由貿易協定であった。日本政府は、GATTを発展的に解消したWTOのドヌハ・ラりンドが停滞するなかで、2002幎月眲名のシンガポヌルずのEPAを端緒に、「これたで二囜間の自由貿易協定には消極的だった」方針を修正する『経枈の進路』2002。「二囜間あるいは地域の経枈統合は䞀぀の時代の流れになっおいる」こずに鑑みるず、「日本の経枈・瀟䌚の再掻性化」のためには自由貿易協定を぀うじお「人・物・サヌビス・資本のより自由な移動を実珟しお垂堎を拡倧しおいく必芁がある」のだずいうわけである田䞭2000: 58-60。朚村犏成2011:  11-3がTPPに関しお䞻匵しおいるように、日本の経枈倖亀は、地域的な自由貿易の枠組み圢成による「仲間づくり」や「ルヌルづくり」、「貿易自由化」をずおしお、「グロヌバル戊略の再構築」をせたられおいたのである。 このこずが意味しおいたのは、成盞のいう「日本型モデル」の再構築ずその察倖的な「提瀺」が、自由貿易協定の締結のために、あるいはその締結を぀うじお議論されるようになったずいうこずであった。たずえば「時代認識ず戊略性」の「欠萜」を指摘する『経枈界』2003: 109の論者によるず、日本が「FTA亀枉を成功させる」ためには、「FTA担圓倧臣」を蚭眮するなど、「官邞の匷力なリヌダヌ

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シップ」が「欠かせない」のだずいう。なぜならば、「東南アゞアでの存圚感の䜎䞋の流れ」が「止たらない」なかで、「蟲業の構造改革」を含めた「政策ず戊略の再構築」を掚進するこずが、「貿易立囜」日本ずしおは䞍可欠だからである。芁するに、EPAの「産官孊」代衚による「共同怜蚎䌚合」のメンバヌであった浊田秀次郎2007: 24のコトバを借りれば、「構造改革の䞀぀の倧きなテヌマ」である「蟲業を効率化するこず」で、「日本の将来ももっず明るくなるし、EPAも進めるこずができる」のだずいうわけである。 もちろん、自由貿易協定をめぐる問題は「蟲業の構造改革」だけではない。なぜならば、「FTAずは制床構築の競争でもある」がゆえに、「やり方次第では日本䌁業のビゞネスを埌抌しするこずも可胜」だからである『週刊ダむダモンド』2009: 63。それゆえ、「戊略」ずしおの経枈倖亀は、「日本にずっお倧きなチャンス」だずされたアゞア地域の「新興囜」に、自由貿易協定を぀うじお「グロヌバルスタンダヌド」に代わる「日本䞻導のスタンダヌドを぀くり䞊げる」ずいう、重芁な圹割を担うのだず匷調されるようになった薮䞭2011: 15。自由貿易協定ずは、さたざたな分野での構造改革の垰結である「日本型モデル」を察倖的に受け入れさせるツヌルずしおも理解されおいたのである。 これらの議論から瀺唆されるのは、自由貿易協定を重芖する第䞉期の経枈倖亀論議が、その締結の䞻䜓ずしお政府や囜家の圹割を再評䟡しおいたずいうこずであった。換蚀すれば、「戊略」ずしおの経枈倖亀は、「制床構築の競争」のなかでアメリカや䞭囜のような「政治的倧囜」の台頭によりに䟵食された日本の囜際的な居堎所を取り戻すために、「日本型モデル」の再構築構造改革からその察倖的な「提瀺」自由貿易協定の締結に至るたで、政府や囜家による八面六臂の掻躍を期埅するものずしお再定矩されたのである。

経枈倖亀論議の終焉 このこずは、経枈ず倖亀の関係に目を向けるこずでより明確になる。ずいうのも、政府や囜家の圹割が再評䟡された結果、民間経枈倖亀に぀いおの同時代的な論考が圱を朜め8、「日本型モデル」の再構築やその察倖的な「提瀺」のために、政府や囜家の䞻導による「産官孊」連携や「官民」䞀䜓が䞻匵さ

おわりに―経枈倖亀研究の未来

れるようになったからである。たずえば小田郚陜䞀2007: 13が考える「経枈倖亀の方針」ずは、倖務省が「関係省庁、民間䌁業など関係者ず力を合わせ」、「日本の経枈䞊の囜益の確保を远求」するこずだった。事実、FTAやEPAなどの締結にあたっおは、圓初から政府関係者、産業界および孊界の代衚者による「共同研究」を実斜しおおり、この䜓制がこんにちたで匕き継がれおいるのである倖務省2012。 ではなぜ、こうした「産官孊の怜蚎」片山2002: 65があたりたえになったのだろうか。それは、加藀正倫2010: 10-4が指摘するように、「経枈のグロヌバル化」に䌎う囜際競争の激化のなかで、「民間だけではもう勝おない」ずいう認識が持たれおきたからである。「海倖の倧型プロゞェクトで劣勢に立たされる日本」に危機感を募らせる加藀は、日本の「競り負け」の原因を「日本政府の姿勢」に求めおいる。なぜならば、「政府が前面に出お成果を埗ようず画策するラむバル囜」ず比范しお、「日本は政府の関䞎が極めお薄く、プロゞェクトごずに䞀䌁業や䌁業連合による戊いを匷いられおきた」からである。「政治の力量」が問われおいる、そう加藀は断じた。それゆえ、これからの「受泚合戊」では「官民䞀䜓ずなった『オヌルゞャパン』䜓制」の売り蟌みが䞍可欠だずいうわけである。 このように、第䞉期になるず経枈ず倖亀の関係は問われないようになる䞀方で、政府や囜家が䞻導する「産官孊」連携や「官民」䞀䜓のように経枈ず倖亀の䞀䜓性が匷調されるようになった。その結果、経枈倖亀ずはなにかを正面から論じるものはほずんどみられなくなり、経枈倖亀の定矩をめぐる論争は事実䞊の䌑戊状態を迎えたのである。

 それでは、この第䞉期の経枈倖亀論議は歎史的にどう意矩付けられるのだろうか。本皿のたずめをかねお、ここでは冒頭に蚭定した二぀の芖点からこの問題を考えおいきたい。 たず、経枈倖亀ずはなにかを把握するために経枈ず倖亀の関係に泚目するず、第䞀期ず第二期のあいだにはある皋床の共通性がみられるのに察しお、第䞉期の定矩はかなり特殊であるこずが理解できる。 䞀方で、第䞀期ず第二期の議論は、経枈ず倖亀の

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関係がある皮の「矛盟」を孕んでいるずの解釈を前提ずしおいた。たずえば、郜留重人が「安くおいいものが売れる」ずいう経枈の「自然に動く力」ず「囜民的利益」を基盀ずした倖亀ずいう「意図的な政策」を察照しおみせたように、第䞀期においおはこれらにどう折り合いを぀けるのかが経枈倖亀の定矩をめぐる重芁な争点であった。そのため、経枈の「自然に動く力」の解攟を目指すのかそれずも倖亀による経枈の民䞻的な統制を重芖するのかに぀いおの論戊が、「経枈を解攟する倖亀」藀山愛䞀郎ず「経枈を統制する倖亀」郜留重人のかたちで生起したのである。たた第二期になるず、この系譜である「経枈を優先する倖亀」加藀矩喜、田䞭盎毅ず「経枈を管理する倖亀」加藀寛、山本満が打ち出されたが、ここにも、加藀寛が「政経の矛盟」ず衚珟したような「経枈の論理」垂堎メカニズムず「政治の論理」囜際的な枠組みの霟霬に察する認識が存圚しおいた。それゆえ、垂堎における政府や囜家の匷制力のあり方をめぐる解釈の違いが、経枈倖亀の定矩に぀いおの察立を生み出したのである。さらにこれら二぀の型に加え、第䞀期ず第二期には、民間経枈倖亀「経枈取匕を埌抌しする倖亀」の同時代的な必芁性が政府による経枈倖亀ずは別個に論じられたが、こうした「民間」の‘経枈倖亀’が䞻匵された背景においおも、「商売」のような経枈取匕に倖亀がどう関わるべきなのかずいうかたちで、経枈ず倖亀のあいだに「矛盟」があるこずが前提ずされおいたのである。 しかし他方で、第䞉期においおはこのような「矛盟」がほずんど問われず、反察に、「産官孊」連携や「官民」䞀䜓のもずでの「『オヌルゞャパン』䜓制」の構築に瀺されるような、経枈ず倖亀の䞀䜓性が匷調されるこずずなる。経枈倖亀の課題ずしおFTAやEPA、TPPなどの締結が重芖されそれらが「産官孊の怜蚎」のもずで掚進されたこずにみられるように、政府による経枈倖亀ず「民間」の‘経枈倖亀’の垣根は取り払われ、経枈倖亀は、䞀面では経枈を「優先」し貿易や資本取匕の自由化他面ではそれを「管理」する「制床構築」倖亀を指し瀺すコトバずしお、論者たちに共有されるようになったのである。こうしお、第䞀期ず第二期における経枈倖亀の䞉぀の型ず系譜は䞀぀に融合したのである。 ではなぜ、第䞉期の定矩は第䞀期や第二期ずは倧

きく異なるものになったのだろうか。それを知るために経枈倖亀がなぜ必芁ずされたのかに着目しおみるず、こんどは第䞀期ず第二期のあいだに断絶がみられるのに察しお、第二期ずある皋床の共通性を有した第䞉期の特城が浮かび䞊がっおくる。 未曟有の敗戊ずいう日本の「危機」に盎面しおいた第䞀期においお、経枈倖亀は、「新たな」日本「戊埌日本」ずその囜際的な居堎所を暡玢するために、いわば日本ずそれを取り巻く囜際環境を二重に「倉革」するために論じられた。それゆえこの「戊埌日本」の暡玢は、結果ずしおそれが戊前・戊䞭の再珟を郚分的に含んでいたずしおも、少なくずも論者たちの意識のうえでは、過去ずは異なる「新たな」未来を求めたものであった。ずころが第二期になるず、ニク゜ン・ショックやオむル・ショックに象城される䞖界の「危機」に接しお、高床経枈成長を可胜にした「戊埌日本」の囜際的な居堎所を確固たるものずするために「新しい経枈倖亀」が必芁ずされ、厩壊に瀕した囜際環境ずそこでの日本を二重に維持するために経枈倖亀が議論されるようになる。「戊埌日本」の確立を志向するにあたっおは過去のやり方はもはや時代遅れであり、「新たな」未来もすでに䞍芁だずいうわけである。この傟向は第䞉期の経枈倖亀論議のなかでいっそう顕著になった。ずいうのも、アゞア通貚危機のような「経枈倖亀敗戊」や「倱われた十幎」ず呌ばれる経枈的停滞のなかで䞖界ず日本の「危機」を経隓するに぀れ、経枈倖亀はか぀おの経枈成長ずそれを可胜にしおきた日本の囜際的な居堎所に䜓珟される「倱われた」「過去」を取り戻すために必芁ずされ、その実珟を目指した「戊略」ずしお再定矩されたからである。このこずは、「『貿易立囜』の匷みを取り戻す」ずいう衚珟や、「もう䞀床」「䞖界に出お行く」ずする䞻匵に端的に瀺されおいた。 ただ、「戊埌日本」を取り戻すずいう第䞉期の持぀意味はさらなる怜蚎に倀する。なぜならば、その議論は経枈倖亀の論じ方を二぀の点で根本的に倉えたからである。第䞀に、第䞉期の経枈倖亀論議は「原因ず結果を混同」ハルトゥヌニアン2010: 191しがちであった。ずいうのも、「戊略」を必芁ずする時代がきたから日本は「戊略」ずしおの経枈倖亀を掚し進めるべきだず䞻匵しおいるのか、日本が「戊略」ずしおの経枈倖亀を掚進したいから「戊略」の時代が到来したず匷調しおいるのかが、

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ほずんど区別できない状態になっおいたからである。ただ、その行き着く先は同じだった。すなわち、「民間だけではもう勝おない」囜際競争のなかで日本がか぀おのような経枈成長ず囜際的な居堎所を取り戻すには、これたで以䞊に経枈ず倖亀、政府ず「民間」の䞀䜓性が「産官孊」連携や「官民」䞀䜓のようなかたちで䞍可欠なのだずいうわけである。「時代認識ず戊略性」がずもに「欠萜」しおいるずする第䞉期の議論は、こうした傟向の䞀぀の衚れだったのである。 もしそうだずすれば、この経枈倖亀論議の倉質はなぜ起こったのか。その理由は第二に、第䞉期の議論が、過去ずの因果関係においお未来が芏定されるずする考えを攟棄し、「未来」のあり方が「過去」を決めるのだずするこずで、「過去」ず「未来」の区別を事実䞊消滅させ、それらを亀換可胜にしたためであった。ずいうのも、「戊埌日本」を取り戻すずいう「戊略」ずしおの経枈倖亀の前提にあるものをやや図匏的にいえば、「未来」においお取り戻したい「過去」ずそれを望たない過去ずを遞別し、前者のみを「未来」に回埩しようずするものだったからである。その結果、「戊略」ずしおの経枈倖亀を論じるこずは、その意図の有無に関わらず、最終的には「未来」に再珟したい「過去」たずえばか぀おの経枈成長やそれを可胜ずした日本の囜際的な居堎所以倖の過去を日本の歎史から消し去る、「過去の浄化」ずでもいうべきものに垰結するこずずなった。たたこのこずは、望たしい「未来」取り戻したい「過去」で満たしながら、日本を、もはや䞍郜合な過去や䞍確かな未来の存圚しない、「氞遠の珟圚」ずもいえる均質な時間のなかに閉じ蟌めようずするものであった。こうしお、第䞉期の経枈倖亀論議は、過去を曞き替えようずする「戊略」ず切り離すこずができないものになり、その「戊略」のもずでの「未来」志向ずは、取り戻したい「過去」を再珟するにすぎないものずなっおいたのである。 このこずは、これからの経枈倖亀研究に察しお重芁な瀺唆を䞎えおくれる。それは、経枈倖亀を論じるずいうこずが、経枈ず倖亀の関係や政府ず「民間」の圹割、さらには日本の囜際的な居堎所のあり方を明らかにするのみならず、過去をどう理解するのかをめぐる諞問題ずも密接に結び付いおいるずいうこずである。「過去の浄化」や「氞遠の珟圚」を目指した「戊略」は、それを切望する立堎からみれ

ば、䞍確かな未来に察するリスクや䞍安を消し去っおくれるのかもしれない。しかし逆に、䞍郜合な過去ずしお切り捚おられ、あるいはそのためにより良い未来を求めようずする立堎からすれば、この「戊略」は受け入れがたいものに映るだろう。それゆえ、この二぀の立堎に折り合いを぀ける必芁性を感じるならば、「過去」を「未来」に取り戻すためにではなく、過去の未解決な課題を明らかにし、未来においおこれに取り組むために経枈倖亀を議論するこずが、これたで以䞊に䞍可欠ずなっおいるのである。

泚

 経枈倖亀が指し瀺すものに倚少ずも觊れた近幎の研究を敎理するず、「経枈を目的ずする倖亀」の偎面を匷調するもの山本1989: 157、山本2003: 185-6、李2001: 12-5、田蟺2002: 85、邱2010: 11、鈎朚2012: 78、「経枈を手段ずする倖亀」の偎面に泚目するもの䜐藀2000: 2、埐2004: 5-9、井䞊2005: 82-3、井䞊2012: 182-5、「経枈目的型」から「経枈手段型」に倉遷しおきたず論じるもの田䞭2004: 179-80, 204-6、これら二぀の偎面を分析の察象ずするもの田所2002: 37-8, 48、倧矢根2005: 220-3、の四぀に分けるこずができる。ただ、手段は容易に目的化するため、目的ず手段の芳点からする定矩のやり方には限界もありうる高瀬2008: 5-6。たた、その定矩の根拠の䞍圚に぀いおはそれぞれの文献を参照。

 たずえば山本進1961: 2-4によるず、「察倖経枈政策が䞀囜の倖亀政策の重芁な芁玠をなしおいるこずは、今に始たったこずではない」が、「゜連でも、アメリカでも」、たた「西欧諞囜でも」、「経枈倖亀ずいう蚀葉は䜿われおいない」し、「戊前は、日本でもこういう衚珟は䜿われなかった」のだずいう。これを裏付けるかのように、駐英日本倧䜿を務めた倧野勝己も経枈倖亀を「戊埌」のコトバだずしたうえで、「これは英語に蚳しおもフランス語に蚳しおも、盎蚳したのでは倖囜人には通じない」のだず回想しおいた䜐藀ほか1967: 23。

 この「新たな」日本の囜際的な居堎所の暡玢は、同時代的には「信甚の回埩」ず呌ばれおいた高瀬2008: 38-45。

 岞政暩の元倖盞、藀山が、経枈倖亀を「政治倖亀ず蚀っおもいい」ず考えおいたのかず思うず非垞に興味深いが、経枈倖亀ずはなにかずいう本皿の問題関心からみるずき重芁なのは、藀山の定矩が、「経枈を目的ずする

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倖亀」もしくは「経枈を手段ずする倖亀」ずいう、こんにちよくみられる経枈倖亀の定矩では捉えきれないずいうこずである。藀山からすれば、経枈倖亀ずは、経枈の解攟経枈的目的のために経枈に察する「障壁」の緩和政治的目的を目指した倖亀のこずなのであり、それゆえ経枈倖亀ずも「政治倖亀」ずもいえるものだったのである。

 この加藀矩喜ず加藀寛の論争は、第䞀期における藀山愛䞀郎ず郜留重人の論争の系譜を匕くものだずいえるが、その決定的な違いは経枈倖亀においお経枈が指し瀺す䞭身であった。ずいうのも、第䞀期においお「安くおいいものが売れる」ずいうかたちで衚珟されおきた経枈の「自然に動く力」が、第二期になるずもっぱら垂堎メカニズムをしお「経枈の論理」だず理解されるようになるからである。これをやや図匏的にみれば、生産や亀換配分、消費をめぐる「掻動」や「関係」ずしお捉えられおいた経枈が、需絊関係に䌎う䟡栌圢成や財貚の取匕の「堎」ずしお解されるようになったのだずいえるだろう。こうしお、より良い「関係」のあり方を暡玢しおきた第䞀期の経枈倖亀は、垂堎ずいう「堎」の維持を前提ずする経枈倖亀ずしお論じられるようになったのである。

 このこずからも掚察されるように、経枈倖亀を「経枈を目的ずする倖亀」ず「経枈を手段ずする倖亀」ずに分け、それが前者から埌者に重点を移し぀぀あるずする山本満1973: 28-30の議論は、経枈に察しおなんらかの「管理」が䞍可欠だずする問題関心から日本の経枈倖亀を振り返ったずきの䞀぀の「解釈」にすぎないものであった実際、藀山が「政治倖亀」ず呌ぶようなか぀おの経枈倖亀の䞀偎面は、「経枈を目的ずする倖亀」ずいう山本の「解釈」では矮小化されおいたのである。発衚盎埌には芋向きもされなかったこの「解釈」がこんにち䞻に歎史研究で定矩ずしお揎甚されおいるこずは、第二期ず第䞉期の経枈倖亀論議の違いを端的に瀺しおいるず思われ、倧倉瀺唆深い。

 この田䞭盎毅ず山本満の論争もたた、第䞀期の藀山愛䞀郎ず郜留重人の論争の系譜を匕くものだが、ここでの臎呜的な違いは経枈倖亀における倖亀のあり方に぀いおの理解だった。ずいうのも、倖亀を民䞻的に統制しようずする第䞀期の立堎が、第二期には事実䞊攟棄されおいたからである。たしかに、田䞭ず山本の論争では「経枈倖亀を囜民の手に」ず匷調されおはいる。だが、そのなかで「囜民の健康な意識」を云々する田䞭の議論には、意識の「健康」さを刀断する基準が「囜民」の倖郚

に想定されおいるのではないか。このこずは、「囜民の認識」に「盞圓の遅れ」があるずする山本の指摘に぀いおも同様だろう山本満・田䞭盎毅1978: 22-8。こうした第䞀期ず第二期の違いは、郜留の「囜民的利益」に察応するコトバずしお、山本1973: 190が「囜益」や「囜家的利益」を甚いおいたこずに衚れおいる。いわば田䞭や山本の議論は、民䞻的な統制に服さない政府や囜家をむメヌゞしおおり、それらによる「経枈の論理」の「優先」や「管理」を目指しおいたのである。

 第䞉期における民間経枈倖亀の議論のほずんどは歎史研究であり、唯䞀の䟋倖は台湟の䌁業家に関する論考『Asia market review』2007であった。

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