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ヘーゲル「小論理学」カテゴリ一覧
大項目 中項目 項目 カテゴリ説明 例示
存在論 【移行】
①質
存在 存在・無
思考の始まりは、純粋な思考によってした捉えることのできない純粋存在となる。純粋に無規定で単純な直接態
であり空虚な抽象である存在は、あるがままの姿で取り上げると、無である。存在と無は区別するための共通の
基盤がない観念である。
有を規定しようとすると、その内容
は無である
生成
存在と無を統一的に捉えようとする衝動により、区分する働きが存在と無を分ける。それぞれを固定して捉えよ
うとすると他へ移行する(消滅と生成)。この移行自身を捉える時、生成という最初の概念(具体的観念)が生
まれる。生成により存在と無は異なる観念として区別される。生成は動揺であり、運動であり自分の中に矛盾を
分けて(区分け)捉えよう(まと
め)とする衝動
定存在 定存在生成において区別を抱えた存在は、無を契機として保持する存在、即ち定存在となる。このため定存在はある無
媒介な規定を持つ。それは質である。
存在への志向
或るもの
(定存在者)
質により区分けされた定存在は、区別が深まることでもあり、それが否定性として意識されると或るもの(定存
在者)となる。
実在性、対他存
在、自体存在
或るものの否定性が強調されると、実在性となる。否定が定存在に付着したものとして示されると質は他在であ
り、対他存在という視点が現れる。この他者への関係を除外して質という在り方そのものを捉えると、自体存在
対他存在→即自存在
限界
或るものには質の規定と否定性が定立されており、他在の在り方が或るものの契機となると、或るものが或るも
のでなくなる境=質的限界が意識されてくる。限界はそれを超え出ようとする欲求とその可能性を知ることによ
り現れる。また、或るものは限界を持つことにより或るものであることが知られる(可変性・有限性)。質は自
分自身そうであるという面(規定)と他に対してそうである(性状)という面を合わせ持つ。
無限進行
真無限
或るものが限界を持つことは、他のものの存在を産み出す(明るみに出す)ことでもある。他のものも同じ或る
ものでもあると捉えることにより、同等の他の或るものを生み出しながら繰り返し移行する(無限進行)。無限
の繰り返しを意識すると、解決に向けての統合化の作用が生じる。他のものに取り囲まれている中にある、自分
自身(或るもの)に着目する(真無限)。ここに独立存在が成立する。これは対象を意識している自我を第三の
視点から捉えることとなる。
独立存在
(対自存在)
独立存在
一者
独立存在は否定の否定として意識が自分に回帰したものであるが、自分が他の或るものから区別されてあるとい
う面と、他の或るものとの関係の内にあるという面とを同時に持っている。独立存在の否定的な面の先鋭化は自
らを一者として定立する。一者という意識は他の多くのものの存在を認めることであるが、他の多くのものは自
分ではないものとして排除する。
対自存在
(精現)意識:知覚
反発→牽引
一者は否定的な自己関係である。排他という否定的な面が深まると、否定作用は反発となる。一者は自分自身と
の関係という契機も保持しているため、反発は多くのものを他の一者として定立し、相互反発、相互排斥へと拡
散してゆく。一を多との関係より捉え、相互に反発・排斥するものとと捉える時、それらを俯瞰する外的な視点
が生まれている。この視点が多くの一者を束ねる方向として現れ、関係性の面が顕現して多くの一者の各々が統
合化を志向する。これは反発に対して牽引の力となる。
存在から関係への最初の形が「力」
質→量一者は反発的に関係する相手も一者であり、その相手の中で自分に関係する。ここにおいて独立存在は反発と牽
引の統一として自己を止揚し、質としての規定性には無関心な有となり、多くの一者のうちにある関係即ち量に
②量 純粋な量 量一般 量は無差別性の規定をもつが、同時に自分を超え出る方向と自分へ回帰する方向に伴う、可変性の規定を持つ。
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大項目 中項目 項目 カテゴリ説明 例示
連続量と非連
続量
無媒介性の自己関係の面により自己同等性の面が顕現された場合は連続量である。その中の一者であるという面
が顕現されると非連続量である。また、一者をそれだけで見ると連続量であり共通のもの等しいものである。こ
の共通のものにより非連続量を定立することができる。連続量と非連続量は、その各々が他の規定のもとにあ
定量 定量量は発生の過程において他を排除する限定性を含んでいる。この本性としての限定性の面により、非連続量とし
て固定された有が定量即ち限界を持った量(或る量)である。
数・単位と集
合数
定量は一と多という相互外面的な有であり、多くの規定された大きさに区分され、ひとまとまりの多となる。こ
れが抽象化され完全な規定性を持つと「数」となる。数は連続性の契機における共通のものとしての「単位」が
原理となり、数え上げることにより展開する。非連続性の契機における限定性を持つ数多性が「集合数」とな
る。計算は単位と集合数とにより構成される(単位の集合数が掛け算となるなど)。
度外延量と内包
量
定量においては定量の全体と限界とは同一である。限界が自己内で多様な限界を示す時は外延量であり、自己内
で一様な限界を示す場合は内包量となる。ここでは、外的な(非連続的な)面にて数え上げることから、内的な
(連続的な)面にて数え上げることへ向かう。内包量は連続性のもとにある量を数え上げるために、度という単
度
度において定量は本来の概念の展開を示す。度は無差別で単純な大きさであるが、その大きさを表す定量の限定
性を外部にある他の諸量(外延量)の内に持っている。内包的な性格は外包的な性格と結び付くことによって自
分を表現する。定量の中では量的なものである外部依存性と質的なものである独立性とが統一されている。他と
の依存関係の顕在化された在り方が比という量的関係である。
アナログ的な量をデジタル的な表現
にて捉えようとする。自己を捉える
ために、他の類比を持ち込む。
比
比は指数という無媒介の定量である同時に、或る量の他の定量への関係という媒介された定量でもあるあり方で
ある。比の両項の変化に対して比の値そのものは無関係である。比は定量の両項の不可分な関係のうちにある。
比は無限小という極限にまで進められ、相互の関係の面のみが意味をもつものとなる。比においては比の指数
(質的規定)と比の両項とがいまだ外的である。この二つの異なる在り方が一体であることから、無媒介なあり
方の両項は媒介された在り方へと移行する。これが質的変化点を持つ量=意味づけを持つ視点からとらえられた
存在は意味を無くし、関係のみが対
象となる。関係が純粋に出現。
③程度
程度(限度)
程度は或る定存在の定量あるいは或る定量のあるものである。定量の変化が質の変化を引き起こすこともある。
質に無関心な量の増減にも限界があり、その限界を超えて増減すると質が変化する。量から質への変換がそれ自
身として現れるのが程度(限度)である。
限度超過量的性質によって自己の質的規定性を超えていったものが限度超過である。質と量とが交互に現れる移行は無限
に続く過程である。それは限度超過の中で程度(限度)を止揚しては再興するという過程となる。
人口の増加→政治体制の変化
氷⇔水⇔蒸気
限度→本質
程度(限度)においては質と量とは無媒介のものであり、相対的独立を伴った相対的同一性に過ぎなかった。し
かし自己の否定体である限度超過の中では自己自身と関係することになる。これにより両者の統一の無媒介性が
止揚され、存在そのもの(内奥)と存在の諸形式(外への現れ)とを契機として含み持つ単純な自己関係が生ま
れた。ここに存在として定立されたものが本質である。
内奥と外への現れの分離
変化の中で不変なものの分離
本質論 【反省】
①本質
本質一般
本質は他者への関係によって媒介された自己関係である。この他者は定立され、媒介された相関的なもの。本質
を無媒介の存在から区別するものは反省という規定であり、存在が自己自身の中で仮象であることを示すことで
ある。存在論での無媒介性という形式は本質論では自己同一性という形式となる。事物の中には不変のものがあ
るとし、それを本質とする。
他者との関係の中にある存在
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純粋な反省規
定a.自己同一性
諸規定が事物の本質的な規定と考えられるとき、それらは前提された或る主語に対する述語とされる。その主語
は全てのものとされ、そのようにして生まれた命題は普遍的な法則とされる。
b.自己区別自己同一性は自己を自己から突き放すという否定的な形で現れたものである。このため本質には区別という規定
が含まれている。
欲求をもつということは自己保存感
情という否定的なものがある
(差異)
区別の直接態は差異である。差異において区別された二つのものは相手への関係に無関心である。両者の区別は
両者を比較する第三者に属することになる。関係づけあっれた両項の同一性の面が同等性であり、非同一性の面
が不当性である。比較するということは両者に対する同一の基体があることを示している。
基体に無関心
(対立)
比較される両者は関係付けられたものとして相互に照り返しており、その区別は自体的区別となる。他者がある
限りでしか存在しない、自己自身の固有の他者を自分自身の向こう側に持つものとなり、対立となる。区別自身
は自己同一なものであり、両項を含んでいる。
基体の潜在化
c.根拠
対立したものは自己と自己の対立者を自己自身の内に含み持つ。対立の否定性は両者の潜在的な基体としての同
一性を顕在化する。このような形で本質が一段と中に入り込んだのが根拠である。根拠は自己同一性と区別との
統一であり、統体性として定立された本質である。根拠の同一性に対して、根拠付けられるものがある。根拠と
根拠付けられるものは同じ内容であり、一方は自己関係であり、他方は定立されたものである。根拠は複数とい
う区別を身に着けている。同一の内容に対して肯定する根拠と否定する根拠があげられる。根拠の思考法則の中
にはどの根拠を決定的とするかは入っていない。根拠は形式であるにすぎない。
基体の顕在化
現出存在 現出存在
根拠によって定立される根拠付けられるものは自己区別と自己媒介を止揚したものとなり、根拠が直接的な姿と
なって現れ出た姿である。ここでは直接性及び存在が再興されたのである。これは現出存在である。現存在は、
根拠から必然性なく現れ出てきたにすぎない。根拠が現実のある事柄を引き起こす運動となるのは、その根拠を
誰かが意志の中に取り入れることによる。現出存在者は根拠と根拠づけられたものとの相互依存と無限の関連の
世界(現出者の総和である多彩な世界)となる。
根拠の現れ出た存在
物 物一般
現出存在者は相対的なものであり、多様な関連の基礎である根拠としての自己の中に反省している。これまでと
異なるのは、現出存在ではそれが現出存在自身の表面に出ている点にある。かくして現出存在は物である。現出
存在の他者との根拠・被根拠の関係や諸規定一般に対して、それらの空虚な基礎として残された抽象的な自己反
省が物自体である。そして他者内存在として自己を示すようになると、事物は性質を持つということとなり、物
として生成することになる。
外部の視点から捉えた現出存在
a.性質
他者内反省という契機により、物は規定された特定の物、具体的な物となる。それらの規定は物の性質となる。
しかし物はあれこれの性質を失っても物であることをやめることはない。物においては物が様々な性質を互いに
結び付ける紐帯となっている。
b.物素
性質は自立的であり物への結びつきからは自由である。それ自身抽象的な規定であり、自己内反省した現出存在
に過ぎない。即ち物素である。物素は本来の質であり、性質・機能に属するものとして、その塊として考えられ
たものに過ぎない。物は諸物素が表面的につながり、外面的に結合したものに過ぎない。
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c.質料と形相
物素は自らどのような規定を持つかということについて無関心である。そのため様々な多くの物素は単一の質料
に帰着する。この質料は自己同一性という反省規定の面からみられた現出存在であり、この同一性に対しては相
互に区別され関係し合う外面的な関連が対立している。これが形相である。質料はそれ自体で既に対他的であ
り、差し当たっては形相に対して形相を予定して存在しているものと成っている。同時に、質料はそれ自身とし
て特定の構造を持っており、他のものから区別する形相の原理も含まれている。
物→現象
物は質料と形相との統体性であるから矛盾である。物は否定的統一という面からは質料に規定を与え、諸物素を
諸性質へと貶める形相である。同時に諸物素からなるものでもあり、観念的なものであるとともに自立的なもの
でもある。現出存在はその矛盾により、物というカテゴリーから現象というカテゴリーへと席を譲ることにな
外から構造への視点の転換
②現象現象の世界
現象はその自立性が非自立性によって媒介されるという無限の連鎖を成す。この無限の媒介による連鎖は一見バ
ラバラであるが、自己関係という単位でまとまり(統体性)を持ち、現象の世界を展開する。
現象の内容と
形式現象の法則
現象はそれ自身の中に形式(規定)を持っている。その形式はこの自己同一性の中にあるから本質的な自立性で
ある。かくて形式は内容であり、その形式の一層展開された規定が現象の法則である。内容は形式を自己の中に
持ってもいるし、形式は内容にとって外的なものでもある。内容と形式とは互いに相手へと転化しあうものであ
真の芸術作品は内容と形式とが完全
に相互浸透しあっている。
形式の展開
無媒介の現出存在は形相面からみて規定されているだけでなく、自立性(質料)の面からも規定されている。し
たがって内容の規定に対しては外的であるが、この内容がその自立性の契機を通して獲得する規定はこの内容の
本質にかかわるものである。単一の内容がその形式を展開し、それによって自立したいくつかの現出存在が相互
にかかわりあうと、それら区別された現出存在はその相関関係の中でのみそれ自身であるという自己同一的な関
係に入る。それが相関関係である。
相関関係 a.全体と部分
現存するものは全て相関関係の中にあり、この関係こそ各現出存在の真の姿を現すものとなる。無媒介の第一の
関係は全体と部分の相関関係である。内容がここでの全体となり、別々のものとして自立している諸部分からな
る。部分は互いに単一の内容によって結び付けられ全体を形作る。全体と部分のとの関係は、その概念と実在と
が互いに一致していないため非真理である。全体の概念は部分を含み持つが、全体は部分に分けられると全体で
はなくなる。全体と部分は、それぞれが自立的なものとされる場合は他方が非本質的なものと見做される。両者
は無思想に交互に使い分けられる。
b.力とその発
現
この関係の中にある自己関係は、自分自身を区別へと突き放して自己を他者内反省として定立し、逆にこの他者
内反省を自己関係(対外的無関心性)へと引き戻すような否定的自己関係である。それが力とその発現である。
力は自己同一の全体が自己内存在として内にこもった姿である。それは自己内存在であるがゆえに自己を止揚し
て外化(発現)するのであり、発現すると発現は消え去り、力へと帰ってゆく。
「力」が実在化
(精現)意識:力と悟性
(発現と誘
発)
力は対立する発現に移行することにより初めて力としての実を示すことになる。また、力が存在するためには自
分以外の他者を必要とし、誘発されるという面も併せ持つことになる。力の内容はその形式といまだ一体となっ
てはいない。力は空虚な形式に過ぎず、その作用は盲目なのである。力とその発現においては両者の同一性が顕
在化している。ここから真理として内と外との二側面を持つ関係が真理として現れる。
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c.内と外
内なるものとは根拠及び現象がこの相関関係の段階でとることになった側面であり、外なるものとは現出存在が
この段階でとることになった側面である。第一に外は内と内容的には同一である。現象にあって本質にないもの
は示さないし、外に現れ出ないものは本質の中にもない。第二に内と外とは内容的には同一だが、形式面での規
定としては単なる自己同一と単なる多様性ないし実在という形できっぱりと対立している。内容が同一であるに
もかかわらず、それを対立する関係という面からとらえようとすると空虚な抽象物であることが明確となる。こ
人間の全ての行動、人間の行為の総
和これが人間である
③現実性 現実性-必然
性現実性
現実性は本質そのものと現存在との統一であり、内なるものと外なるものとの統一が生成したものであるり、自
己と同一となった相関関係である。現実は直接的外的現出存在の世界の中に出ている限りで現実なのである。
実念論
a.可能性
現実性もまずはその自己同一性一般としての面が出るが、それが可能性である。それは自己内反省であるが、抽
象的でまだ本質になっていない本質性として定立されている。可能性は現実性にとってなくてはならないもので
はあるが、同時に単に可能性に過ぎないものでもある。
b.偶然性
自己内反省である可能性から区別された現実は、本質なき直接存在でしかない。この単なる可能性という価値し
か持たない現実は偶然事(現実性の契機としての現出存在)という性格を持ち、逆に可能性は単なる偶然そのも
のである。可能性と現実性の持つ自己内反省(存立基盤)は、それ自身の中で規定されている現実であり、現実
はこの時これらの形式に対立する内容であり、それらの本質的な規定根拠なのである。偶然性というのは自己の
存在の根拠を自己自身の内に持たず、他者の中に持っているものである。
自己内反省=自己同一=内的な存在
=抽象的可能性という図式と、他者
内反省=他者関係=外的な関係=偶
然性という図式
(条件)
偶然性は他者によって前提されたものである。その直接的な定存在が他者の可能性であるという規定を持ってい
る。それが条件である。条件というのはそれ自体で存在価値があるのではなく、他者の存在に役立つ限りで価値
があるということである。
c.必然性
現実性の外面性は可能性と無媒介の現実(バラバラの諸事情)という二つの規定からなる円環をなしている。可
能性と無媒介の現実という形式の自己運動は、一方では現実へと自己を止揚してゆく実在的根拠としての事柄で
あり働きであるが、他方では偶然という姿をとった現実つまり諸条件の働きでもある。条件がすべて整った時に
は事柄が生成せざるを得ない。かくして展開された現実性は、対立した交替運動が一つの運動に統一されてゆく
ことであるが、それが必然性である。必然性が盲目であり、運命であるのはそれが概念によって理解されない限
りのことである。自分の身に起こることは自分の中にあるものが外に現れたものに過ぎない。
アダムスミス国富論(神の見えざる
手)
(条件・事
柄・活動)
条件、事柄、活動が必然性の三契機をなす。条件は前以て(事柄に依存しない自立的なもの)、定立された(事
柄に依存した相対的なもの)ものである。また、受動的であり、事柄の内容に相即しており、事柄の内容の全規
定を自己内に含み持っている。事柄も前もって定立されたものであり、内的で可能的なものであるとともに、自
立した内容である。また条件の中から自己を事柄として示し出す。活動も前もって定立されたものであり、諸条
件を事柄に移し、事柄をその事柄の外界での存在という面をなす諸条件の中へと移す運動である。
(必然性のま
とめ)
この運動の過程は、これら3つの契機が互いに自立した現出存在という形をとっている限りで外的必然という性
格を持つ。必然性は内容豊かな自己同一的本質である。その内部の諸区別項が自立した現実という形にて現れ
る。必然性の過程により、根拠と偶然的な条件とが無媒介性の中へと移し置かれ、必然性の定立されたものとい
う在り方が現実性へと止揚され、事柄は自己自身と連結する。このように自己関係した時には必然的なものは無
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実体性関係 実体性
必然性における無媒介の最初の形式は、実体性と偶有性との関係である。外界に現れ出た無媒介なものとしての
現実は偶有的なものでしかなく、その偶有的なものは可能性に過ぎないから他の現実に移行する。この移行は自
己同一性の形式面での実体性の活動が否定的威力として現れ出たものである。実体性は内なる可能性である自己
に関係してそれを外へと展開する力であり、自己を偶有性として示す力である。それによって定立された外なる
ものはこの実体=力とは別のものという契機でもある。この面からみると実体・偶有性の相関関係として現れた
ものは因果関係として現れることになる。
全的に知ることの無い状態
因果関係 原因と結果
実体がその偶有性の移行から翻り、自己内へ反省し、かくしてそれが根源的な事柄となった時、それは原因であ
る。しかし同時にこの自己内反省ないしその単なる可能性を止揚して、自己を自己の否定体としても定立するも
のであり、かくして結果というものを生む。しかし原因の根源性をなしているのは必然性の持つ自己同一性だか
ら、原因は結果へと移行する限りで原因であるにすぎない。原因は結果の中で止揚され、原因は定立されたもの
となる。事物の有限性は、その概念上からは同一な原因と結果が分離されていることにある。ここから原因から
原因への、結果から結果への終わりなき系列としての無限進行が与えられる。
(精現)習俗:オイディプス
因果性→相互
作用
結果は結果である限り原因によって定立されたものである。この定立されたものは自立的なものという側面も
持っている。このように別ものとみる限り、原因の結果をもたらす作用である定立作用は同時にその他者を前提
する行為でもある。したがってここには原因とされた第一の実体のほかに、その上で結果が引き起こされたとこ
ろの第二の実体があることになる。この結果は受動的なものである。しかしこの結果は実体でもあるから能動性
も備えており、原因の中に定立された結果という性格を止揚する。これが反作用である。かくて因果性は相互作
相互作用関係a.潜在的同一
性
相互作用の中で別々のものとされる両規定は潜在的には同一である。いずれの側面もともに原因であり、根源的
であり、能動的であり、受動的であるなど。そこには結果を引き起こすことによって実体としての自己を止揚す
ると同時に、この結果を引き起こす働きの中で初めて自立することになる一個の原因があるだけである。
(精現)習俗:アンチゴーネ
神々の掟と人々の掟
b.顕在的同一
性
またこの両規定の同一性は顕在的でもある。この両規定は互いに原因及び結果を定立しあうという在り方を示
す。相互作用というものは両規定の潜在的同一性を定立し顕在化すること自体である。事物を因果性の観点でと
らえると無限進行になることから相互作用に逃げ込むことがある。しかし本来は相互作用の両側面を与えられた
ままとせず第三の一層高いものの契機と捉えなければならない。
(精現)習俗:戦争継続の必然性
c.必然性の正
体
実体から因果性と相互作用を通って進む必然性の歩みは、その実体の持っている自立性が無限の否定的自己関係
であることを定立(顕在化)することに他ならない。否定的自己関係であるということは、自己を自己から突き
放して様々な自立物となり、この突き放しの中で自己と同一であり、ただ自己のもとにあって自己とのみ交替し
あう運動である。これが必然性から自由への変貌である。必然性を思考することは、その現実が結び付けられて
いる他の現実の中で、自己を他者としてではなく、自己固有の在り方及び働きとして持つということである。こ
の運動が概念であり、この開放が自立者として現れた時、それが自我である。
(精現)習俗:普遍法下の実体を欠
いた自己と、自我の現れ
概念論 【発展】
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概念一般
概念は実体が自分の力を自覚して生まれたものだから自由なものである。それはまた、その各契機がそのままで
その概念の全体でもあり、概念と不可分に一体となってもいるから、統体でもある。概念の進展はもはや移行で
もなければ他者への反省でもなく、発展である。概念の運動は、既に潜在的に存在しているものを顕在化させる
にすぎない。概念の運動過程では内容面では何ら新しいものは現れず、そこにはただ形式上の変化がもたらされ
るだけである。真なる現実は概念の形式から由来し、この形式を通って、この形式をとることで初めて真理にな
自由の発生
①主観的
概念
概念そのもの 概念の三契機
概念そのものは普遍と特殊と個別の3契機を含み持つ。普遍とは、その規定された姿の中での自由な自己同等性
である。特殊とは、その中で普遍が自己と等しくあるあるところの規定された姿態である。個別における否定的
自己統一は絶対的に規定された自己同一者であり、具体的普遍である。個別つまり主体は、その概念の統体性が
外に定立されたものである。概念は完全に具体的なもの(対立物の統一)である。概念の各々の契機は直ちに他
の契機から出発し、他の契機と合わせて捉えなければ理解できないものである。
概念→判断
個別の契機になってようやく概念の三契機が区別として顕在化する。それは、個別は概念の否定的自己内反省
(外的反省により切り離されること)だからである。個別は概念の自己の本性に基づく自己区別であり、概念の
規定された在り方を特殊として定立する。この概念の特殊の定立されたものが判断である。
判断 判断一般
判断は特殊性における概念である。判断は概念の一体性を第一とするが、それを原初的分割により区別して関係
させる。抽象的判断では、述語は普遍でありながら同時に主語の規定(個別)をも含み持っている。この特殊は
判断の内容である。述語で示された特定の内容は主語の規定の一つでしかない。逆に述語は普遍的であるからそ
の主語があるかないかには無関心である。特定の内容だけで主語と述語は同一なのである。
芸術作品の良否や行為の善悪などの
判断に対して判断のレベルが存在し
ている
(質の判断) 定在の判断
直接的な判断(定在の判断)では主語を表現する述語は直接的に与えられる質(感覚的な質)であるような普遍
である。感性的に個別的な質は具体的で多くの性質を持っている主語と完全に一致することはない。ここには肯
定判断と否定判断が出てくる。また形式的条件が満たされればそれが正しさとなる。直接的な判断では主語と述
語はいわば一つの点で触れ合っているにすぎない。否定判断において否定されるのは普遍の特定の在り方であ
る。ここに真理はありえない。
・そのバラは黒い→他の色にも見え
る
・そのバラは黒いとは言えない。→
なんらかの色はある
同一判断と無
限判断
更に個別は普遍的なものではないという否定面もある。この判断は同一判断と無限判断に分かれる。前者は個別
は個別であるという空虚な同一性であり、後者は主語と述語との完全な不一致である。否定的無限判断において
は直接的な判断の有限性と非真理性があらわになる。民事上の係争は特定の権利の否定であり否定判断の例とな
るが、刑事犯罪では法そのものを否定する例となる。
・ライオンはライオンである
・ライオンは机ではない
(反省の判
断)
単称判断
特称案団
全称判断
反省の判断においては、個別が現出存在であり、主語としての個別は他者即ち外なる世界との関係を表す質を持
つことになる。通常なされている判断の多くはこの種のものである。単称判断:個別としての個別(主語)は普
遍である。特称判断:主語は単称性を超え出るが、それは認識主観のなす反省により拡大されるものである。こ
れは無規定の特殊性であり、その一部は自己関係し、残りは他者に関係する。全称判断:特称判断においていく
つかのものとされたものが一般的なもの(普遍)に拡張される。全称判断では諸個別が根底に前提され、人間の
主観の行為がこれらをまとめてすべてと規定する。この場合既に普遍であり類となるものが根底をなしており、
主語と述語が同じ普遍となるため、判断という規定自身がどうでもよいものであることが顕在化する。この内容
の同一性により判断の主語と述語の関係は必然性の関係になる。
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大項目 中項目 項目 カテゴリ説明 例示
(必然性の判
断)
定言判断
仮言判断
選言判断
必然性の判断は区別して表されてはいるがその内容は同一である判断となる。定言判断:述語は主語の実体また
は本性であり具体的普遍であり類である。しかしこの普遍は自己の規定性(特殊)を否定的な規定性として含み
持つものであり、その規定性が主語の中に排他的な規定、即ち種として立てられることになる。仮言判断:この
両側面の同一性はまだ内に隠れており、一方の現実性が自ら現実存在とならず他者の存在に依存する。選言判
断:仮言判断において隠れている同一性が顕在化されると、一方には類そのものを持ち、他方にはその普遍の排
他的特殊性の全体を持つことになる。これにより普遍は統体性として規定され定立されることになる。
・バラは植物である(或る種は或る
類である)
・もし完全な正義が存在するならば
頑強な悪人は罰せられる
必然性の判断
→概念の判断
事物にはその実体としての本性があり、それがその事物の確固とした不変の基礎となっている。判断が真の判断
となるのは事物を類の観点からみるようになり、類によって必然的に規定されたものと考える時である。定言判
断においては特殊性の契機がそのような役割を果たしていない。仮言判断においては普遍がその特殊の中で定立
されているにすぎない。選言判断では両行は同一であり類は種の全体であり種の全体が類となる。この普遍と特
殊の一体性は概念に他ならない。
(概念の判
断)
確言判断
蓋然判断
確証判断
概念判断は概念が判断の内容をなす。概念判断の内容は単純な形式をとって現れた統体であり、必要十分な規定
を完備した普遍である。確言判断:その主語は一個の個別者である。その述語は主語である特殊な定在の普遍へ
の反省関係を表す。特殊(主語)と普遍(述語)との一致不一致の真か偽かが根拠を提示することなく示され
る。蓋然判断:確言判断は主観的特殊性に過ぎないため、そのままでは蓋然判断でしかない。確証判断:主語の
特殊性が主語たる低存在の客観的な在り方として明示されると、主語の中に主語の客観的特殊性のその定存在に
の特殊性への関係が表され、述語の内容をなすものが表されることになる。
この家はこれこれの性状であり良い
または悪い
概念の判断→
推理
ここに至って、主語の直接的な性状(特殊)は判断の根拠とされてはいるが、実際には主語と述語の統一(同一
性)が概念にまで高まった姿である。概念の契機が主語と述語の統一を媒介する関係として現れることになる。
これが推理である。
推理 推理一般
推理は判断の中にある形式上の区別(主語と述語)が単一の同一性の中へと帰ってきたものだから概念である。
理性的なものは全て推論的論理構造を持っている。全ての真なるものの普遍的本性は特殊を通じて外的実在性を
獲得するのであり、その上にそれが否定的自己内反省であることが加わって、その普遍的本性は個別となる。現
実的なものはその概念の諸契機を媒介する円運動を経てひとまとまりのものになる。この円環運動が推理であ
(質の推理) 質の推理一般
推理の最初のものは定存在の推理または質の推理である。それは個別である主語が特殊である質を介して普遍的
な規定と推論的に結び付けられる。ここで考察されるのは主語(小名辞)と結論の述語(属辞:大名辞)を推論
的関係にする形式である。そこでは個別と特殊と普遍とが互いに内在的に結び合うことなく抽象的に対立してい
質の偶然的性
格
この推理はその内容面からみて完全に偶然的である。主語は直接的で経験的に具体的な主語だから規定を複数
持っており、他の規定を持ってきて多くの普遍と推理的に結びつけることができる。この推理は形式面からみて
も偶然的である。区別された両端項の中項との関係(大前提と小前提)における媒介には必然性がない。前提と
なるいずれもが更に推理により証明されなければならず、それが次々と無限に続きうることとなる。
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第一格
第二格
第三格
第一格は「個別-特殊-普遍」でありこの直接的な推理によって個別は普遍と媒介され、その結論において普遍
となっている。主語としての個別が普遍という性格を持つことにより、次はこの個別が両端項の媒介者となる。
第二格は「普遍-個別-特殊」となり媒介が個別の中でなされるため、その媒介は偶然性を持つことになり誤謬
推理となる。このため普遍はその結論として特殊として定立される。第三格は「特殊-普遍-個別」となり普遍
が特殊と個別を媒介することとなる。ここでは普遍が結び付ける両端項が全く異なるものとなる。理性的なもの
はすべて三重の推理として示され、各項は端項にもなれば媒介する中項にもなる。
・泥棒は盗みにより生計を立てる→
人は生計を立てる義務をもつ→泥棒
は義務を果たしている
・馬は四本足である→この馬は白色
である→白色のものは四本足である
・馬は白色である→雪は白色である
→馬は雪である
数学的推理
質的推理において各契機が端項と中項を経巡り、それらの規定された内容上の区別は止揚され、残されたのは外
面的同一性、つまり等しさである。これは量的推理あるいは数学的推理となる。量の推理は数学では公理とされ
るが、論理学では命題にほかならない。この推理ではどの命題を前提とすべきかは内在的には決められず、外部
事情に依存する。他所で証明された確かなものを前提とすることになる。
質の推理→反
省の推理
質の推理の展開により概念の一体性の持つ媒介機能を表すものは、もはや単なる抽象的特殊ではなくなり、個別
と普遍との反省した統一として定立されなければならないことになる。即ち個別が同時に普遍として規定されて
いるということである。中項がそのような中項となった時、それは反省の推理である。
(反省の推
理)反省推理一般
かくして中項は主語の抽象的で特殊な規定にとどまらず、同時の個々の具体的な主語の全てとなる。従って中項
には全称推理があるのである。大前提は特殊規定即ち媒名辞を全称化して主語としているのであり、その結論を
前提にしていることになる。従って全称推理は帰納法に立脚している。しかし直接的で経験的な個別は完全枚挙
ということはありえず、帰納法は類推に立脚することになる。類推の中項は個別ではあるが、本質規定という意
銅は伝導体である←金や銀や銅・・
は金属である
全称推理
帰納推理
類推
悟性的推理の根本形式の持つ欠陥は全称推理により是正される。しかしその大前提は全てという形で無媒介の個
別(経験的命題)が表現されており、この命題が前もって確認されていなければならない。これは無内容な形式
主義である。帰納推理では全称としての個別が結合者となる。そこでは個別の無限進行を前提とすることにな
る。従って帰納法は不完全さを抱えている。帰納法の持つこの欠陥より類推へと進む。類推はその内容にれ別の
差があり、これにより信用を失うことになる。
全ての人間は死ぬ→私は人間である
→私は死ぬ
(必然性の推
理)
必然性の推理
一般
必然性の推理は、普遍を媒介項としている(第三格)。この時中項となる普遍は、自己内で本質と規定されてい
ることが顕在化している普遍である。
確言推理
仮言推理
選言推理
必然推理は直接的には確言推理となる。これは規定された類または種という意味を持った特殊が媒介規定とな
る。次の仮言推理は直接的存在としての個別が媒介規定となっているが、その個別は媒介されるとともに媒介す
るものともなる。選言推理は媒介する普遍が特殊化既定の全体及び個々の特殊、排他的な個別となっているこれ
ら三種類の推理は同一の普遍が形式上区別されているに過ぎないものである。従ってこれらの区別が止揚され、
各々の契機(個別と特殊と普遍)は、それぞれがそれら三契機の統体でもあり、推理の全体であるということに
なった。それらの契機は潜在的には同一である。ここから自立した存在が現れ出てくる。
銅は金属である→金属は伝導体であ
る→銅は伝導体である
色は赤であり、緑であり、青である
必然性の推理
→客観
現れ出てきた自立した存在の概念の実在化されたものが客観性である。そこでは普遍は自己内に還帰した一個の
統体性となっている。普遍はそれ自身も統体性であるような区別項を持ち、媒介の止揚によって直接的な単一体
となっているのである。
特定の用途を持たない、目的/対象
の表象一般
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②客観
客観一般
客観は第一に概念そのものにおける個別と特殊と普遍という区別が止揚され、その無関心性を経ることによって
生まれた直接的な存在である。第二にそれは自己内で統体的なものである。第三にこの同一性(統体性)が諸契
機の潜在的な同一性に過ぎないので、かの直接的統一(直接的な存在)に対しても無関心である。それは一つ一
つがそれ自身統体性であるような区別項に分解している。それ故客観とは、多様な契機の完全な自立性と区分項
のこれまた完全な非自立性との絶対的な矛盾である。
機械論a.形式的機械
論
直接態にある客観は単に潜在的に概念であるにすぎず、主体性の原理である概念をさしあたっては自己の外に持
ち、その客観の個々の規定は客観の外面に定立された規定である。区別項(個々の客観)の統一としての客観
は、従ってただの総和であり、それらの相互の働きかけは外的な関係である。これが形式的な機械論である。
諸々の客観は関係し合っている中において自立的であり、互いに外面的であり抵抗しあっている。
b.内容的機械
論
客観は外から力を受けるような非自立性を介して自己自身と連結するのであり、よってもって初めて自立的とな
る。客観は外界から自己を区別し、自己の自立性の中で外界を否定する限りで否定的自己統一であり、自己中心
的であり、主体性である。そしてその主体性の中で外界に向かい外界と関係している。これが内容的区別を持っ
落下、欲求、社交本能など
c.絶対的機械
論
この関係を展開すると、次の推論関係となる。客観の自己中心的個別性はその客観に内在する否定性だから、中
項を介して他の端項である非自立的諸客体に関係する。この時その中項はその自己中心性と諸客体の非自立性と
を自己内で統一する相対的中心となる(個別―特殊―普遍)。これが絶対的機械論である。
・法則
・個人の欲求―市民社会―国家
・太陽-惑星―重力
三つの推理の
体系
形式的推理に支配される非自立的諸客体の個別性は非自立性であり外的普遍性でもある。従ってこれらの客体は
絶対的(抽象的)中心と相対的中心との間の中項でもある。即ちこの非自立性を介して科の二つの中心が分離さ
せられて端項となり、かつ互いに関係し合う(普遍―個別―特殊)。同様に実体的普遍(自己同一であり続ける
重力)である絶対的自己中心性は純粋な否定性だから、個別も自己内に含んであり、相対的中心と非自立的客体
とを媒介するものである(特殊―普遍―個別)。このように機械論は三つの推理となっている。
・国家-個人の欲求-市民社会
・市民社会-国家-個人の欲求
・惑星-重力―太陽
機械的関係→
化学的関係
客観の直接的在り方は、絶対的機械論の中では客観の自立性が相互の関係によって(その非自立性によって)媒
介されていることにより、潜在的には否定されている。そこで客観はその外に現れた姿の中でも自己の他者(特
定の他者)と対立(区別や反省の)関係にあるものとして定立されなければならない。これが化学的関係であ
化学論 化学的過程
化学的な区分を持った客観は、統体性という概念と自己の本性である内在的な規定の現象との間に矛盾を持って
いる。化学的客観はこの矛盾を止揚してその現実の在り方をその概念に一致させようとする運動である。化学的
過程の結果として出てくるものは、緊張関係にあった両端項の潜在的本質をなしていた中和態である。具体的普
遍である概念が、区別を持った客観という特殊を介して個別である成果と推論的に連結する(普遍―特殊―個
別)。ここでは個別が活動するものとして媒介するという面や(普遍―個別―特殊)、緊張関係にある両端項が
自己の本質である具体的普遍を介して成果の中で現実界に現れ出るという面もある(特殊―普遍―個別))。
酸とアルカリ
中和の過程
化学的関係は多様な結合という性質と、直接的な自立性も持っているため、いまだ内的な結びつきを持たない二
つの在り方の間を揺れ動く運動である。その過程の成果である中和態の中では、両端項が相手との関係の中で独
自に持っていた性質は止揚され、区別化という活性化の原理が消えている。
化学論的関係
→目的論的関
化学論的関係の二つの在り方(過程)が互いに否定しあうことによって、まだ潜在的であったに過ぎない概念が
解放される。それによって独立して立ち現れることになった概念が目的である。
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目的論 目的論的概念
目的は自由な現出存在の中へと立ち現れた、自覚を持った概念であり、主観的なものという規定を持っている。
目的に対して前提された客体はただ観念的で本来は無である実在に過ぎないこともまた自覚されている。目的の
同一性という本来の姿は、このような否定的対立物という矛盾を抱えている。目的は究極原因だから単なる作用
原因とは異なる。作用原因は盲目の必然性に属するが、目的は自己自身の中に規定性を含むものとして定立され
ている。目的はただ自己自身をしか結果せず、初めにあった姿、原初的な姿がその活動の終わりにもあるのであ
る。あることをすると決断することは、自分だけの内面から外に出て、自分に対面している外界と関係する。こ
外的合目的性
目的論的関係もまずは直接的である。それは外的目的であり、概念と、前提されたものである客体とが対置され
る。目的の内容は偶然的なもの与えられたものであり、対象と手段(客体)も特殊な見出されたものである。外
的合目的性では、達成される目的もそれ自身他の目的の手段や材料となるような客体に過ぎず、かくて目的の連
鎖がどこまでも続くこととなる。これは「効用」の見地である。目的論的関係においては主観的な目的が中項を
介して自分の外にある客観性と連結する推理である。
(精現)教養:絶対的な自由
(目的関係の
過程)a.主観的目的
主観的目的は、普遍的概念が特殊を通じて個別と連結する推理である。個別はいまだ規定なき普遍を特殊化し
て、それを特定の内容とし、同時に主観性と客観性の対立を定立(自覚)する原始分割(判断)である。続いて
個別は自己内で自己連結している統体性と比較することにより、客観性に対立して前提された概念の主観性が欠
陥を含むものであることを明確にし、それにより外へと向かう。
木の胚、家の表象、理性の確信、新
陳代謝を通じた自己同一
b.中項=活動
外へ向かう活動は個別であるから、第一に直ちに客体に関係してそれを我が物とし、自己の手段とする。手段と
しての客体(技能を身に着けた身体)は中項としてその活動と直接に一体となりその活動に従属する。この従属
は直接的になされる。この活動では目的が支配者であり続け、目的は客観性と推理的に連結する。人間は身体を
魂の道具とするためにそれを占有取得しなければならない。
身体、道具
c.目的活動の
機会性と理性
性
手段は客体として、推理の他の端項である前提された客観即ち活動対象と直接に関係する。この対象は機械的関
係と化学的関係の領域にあるため、手段と活動対象は互いに摩滅させあい止揚しあう。主観的な目的自身はこの
過程を支配する威力であり、この過程を通じて自己を保つものとしてある。これが理性の狡知である。
自動機械、目的に合致した組織化
実現された目
的
実現された目的において、主観的なものと客観的なものとは一体性となり定立されているが、両者はその止揚の
内容において対等ではない。客観的なものは自由な概念としての目的とその威力の従属し、それに合致した形に
作り替えられたが、主観的な目的は客観的なものの中で自己を保持している。
目的論→理念
目的が実現された時は潜在的には主観に対立している客体の自立性という仮象が止揚されている。道具が作られ
た道具となる時、この客体(実現された目的)は直ちに本来は無であり、ただ観念的にすぎない客体として定立
されていることになる。ここでは内容と形式の対立も消え去っている。この過程を通じて主観的なものと客観的
なものとの潜在的な統一が今や顕在的な自覚的なものとして定立された。これが理念である。
③理念
理念一般
理念は概念そのものが概念と客観性との主観内での統一から、客観性がその客観的世界の中での統一を経て、概
念と客観性との絶対的な統一となったものである。理念は真理であるということは、真理は客観性が概念に一致
することであって、外界の事物が私の観念と一致することではない。理念は最初には単一の普遍的な実態であ
り、のちにそれが展開されて真の現実となった時、それは主体となり、かくして精神となるということである。
全く概念と矛盾したものは自己崩壊してゆくものである。理念は本質的に過程である。それは理念が絶対的な自
己否定性であり、弁証法的なものであるからこその規定だからである。
主客合一
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生命 生命一般
理念の直接態は生命である。そこにおいて概念は、第一に肉体の中にある霊魂という形で現実化されている。肉
体の個々の部分はその自立自尊的外観を失って単一の主体に引き戻され、肉体の個々の部分は互いに手段となり
目的となり合い、特殊化され統一のない生命が、その特殊を止揚した否定的な自立的統一として現れ出ることに
なる。それは三つの過程を経巡ることになる。
a.自己内更新
過程
第一の過程は生命体内部の過程である。そこでは生命体は自分自身において諸契機へ分化し、自分の身体を自分
の客観とする。それらの契機は互いに反発・同化しあい、自己を再生産(新陳代謝)して自己保存する。生命体
内部での過程は自然界においては感受性と刺激反応性と再生産という三つの形をとる。生命体というのはただこ
うゆう恒常的な自己内更新過程としてのみ存在している。
b.生命と自然
の同化と異化
の過程
第二の過程は自己の外にある客観との同化と異化である。生命体は判断的性格も持っており、生命体内部に留ま
ることなく、客観的なもの(非有機的自然)を外部に自立した統体として前提として持つ。本来は無であるこの
客観が止揚される運動において、生命体はこの非有機的自然を否定する過程の中で自己を保存し展開し客観化す
る。冷温が肉体からなくなると、客観性の持つ要素的な力が働き始める。生きていいるということはこの力に対
する不断の闘争なのである。生命個体はここにおいて潜在的には類となっている。
生命-身体-自然
c.類の二つの
過程
第三の過程は類の二面の過程である。一つの面は、類は実体としての普遍であり、この普遍の特殊化が同じ類に
属する他の主体との関係である。ここでの概念の判断は類の関係であり、互いに反対の規定を持った二つの個体
との関係である性の区別の発生である。無媒介のものと前提されていた生命個体が媒介された産出されたものと
して立ち現れる。他の面は、普遍に対抗する生命個体は無媒介で個別であることから結局は普遍に抗しきれず没
落してゆく。生けるものが死ぬのは、それが潜在的には普遍であり類であるのに、現実には個別であるに過ぎな
いという矛盾だからである。死によって示されるのは類こそが直接的個別を支配する力ということである。
利己的な遺伝子
生命→認識生命の理念は類の過程を経ることによって、自由な類として自立して現れ出ることになる。単に直接的であるに
過ぎない個別的生命の死が、類としての精神の出現へ進展する。
認識 認識一般
理念は特殊と個別を止揚して普遍だけを地盤として外へ出てきている。普遍性へと規定された一契機としての主
体性の働きの面は純粋な区別作用であり、自己の同一の普遍性の内部に留まっている直観である。それは普遍へ
と規定された区別であるから、差し当たっては自己を外部にある宇宙として前提する判断である。理念は客観的
世界と自己との潜在的な同一性を確信しているが、この過程自身は特有の有限性を帯びており、二つの運動に分
かれる。第一は厳として存在する世界を、主観としての表象と思考の中へ取り入れることにより理念の抽象的確
信に真理とされている客観性という内実を与えて充実させようという動きである。第二は仮象に過ぎず本来否定
さるべき在り方の集まりにしかすぎない客観世界の一面性を止揚し、真の存在である主観の与える内実により客
観に規定を与え、それに合わせて客観を作り替えようとする動きである。前者が理念の理論的働きであり、後者
(認識行為)反省的認識は与えられたものを取り上げるだけの受動的な働きだと思っているが、実際には素材をその外にある
概念諸規定の中へと取り上げることであり、対象を変革する能動的な働きなのである。
a.分析的方法
有限な認識は所与の具体物を解体し、その区別項を個別化(バラバラ)してその一つ一つに抽象的普遍の形式を
付与する。あるいはその具体物を根底に据え、特殊性を捨象して類とか力と法則とかを取り出す。これが分析的
方法である。この操作は事物を捻じ曲げるものであり事物をありのままに取り上げようとする認識はそれによっ
て自己矛盾に陥ることになる。
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b.総合的方法
定義、分類、
定理
この認識の活動は概念の諸契機に沿って進む。そして概念の諸形式へ対象を取り入れるのが総合的方法である。
総合的方法では普遍(定義)が出発点となり、そこから特殊化(分類)を経て個別(定理)へと進む。総合的方法
は概念の契機を対象に即して(導かれて)展開することである。
(1)対象が概念規定の形式の中に持ち来され、その類及び普遍的規定性が定立される時、その対象は「定義」さ
れたことになる。しかしそのようにして得られた規定は単なる徴表に過ぎず、その内容が豊かであればその定義
は多様になる傾向がある。どの面を根拠とするかに応じて異なった理解が生まれてくる。(2)抽象的普遍が規定
されて、特殊化された姿として展開されたものが「分類」である。それは何らかの外面的な(客観的な根拠に基
づいてはいるが内在的必然性のない)見地からなされる。(3)定義が二つ以上の項の関係として捉えられるように
なると、定義も具体的個別となる。その時認識対象は区分された諸規定の総合的関係となっている。これが「定
理」である。また、この関係の必然性を認識に対して明らかにする媒介が「証明」である。
認識→意志
証明によって明らかになった必然性は外的必然性であるが、潜在的には絶対的に規定されたものに達している。
最初認識の内容は与えられたものであり偶然的なものであったが、運動の終わりには主観の働きによって作り出
された必然的なものとなった。同様に最初主観は全く抽象的であり、単なる白紙であったが、今では他者を規定
する能動的で具体的なものと成った。この移行の本質は、理念の認識基盤である普遍が、その本当の姿では主体
性として自己運動する能動的な概念であり、規定を生み出す概念として捉えなければならないことが明らかに
(意志行為)
主観的理念(認識)が絶対に規定されたものとなり、その内容が自己同一となり、単純なものと成った今、それ
は類としての目的である善となっている。その自己を実現しようとする主観的理念の衝動は、眼前の世界を自己
の目的に合わせようとするものである。意志の活動の有限性においては、善の目的は現実的でもあれば可能でも
あるという矛盾となる。そこでは善は単なる当為に過ぎないものである。一個の主観性の持つ一面性を止揚し、
主観が自己を同種のものの代表と考えることは、そこで善とされており、本来主客の同一性でもある内容の自己
の内化(想起)である。それは客観がそれ自体において実体的なものであり真理であるという理論的振る舞いの
前提に戻ることである。その時、意志は自分の目的を自分一個のものではなく、人類的自己のものと捉え直し、
知性は世界が生きた概念だと知ることになる。善ないし世界の究極目的は絶えず実現されてゆく限りで存在する
(精現)良心:行動する良心と評価
する良心の現在進行形の和解
意志→絶対理
念
かくて善の真理(本当の姿)が定立された。客観的世界が潜在的にもまた顕在的にも理念となり、理念が常に目
的として立てられ、かつ人間の活動により実現され続けていることが明らかになった。これが取りも直さず思弁
的理念ないし絶対理念である。
絶対理念理念の内容と
形式
主観的理念と客観的理念の統一としての理念とは理念の概念に他ならない。その時理念の概念にとっての対象は
理念そのものであり、それにとっての客観は理念である。その客観とは、全ての規定をまとめ上げた客観であ
る。それは自己自身(論理学)を思考する理念である。絶対理念は単なる形式ではなく、自己の内容でもあると
いうことは、自己を自己から観念内で区別するが、その区別でできた二幸の一つが自己同一性であり、しかも計
s期の持つ統体性を内容規定の体系として含み持つ自己同一性だからである。この内容が論理学の体系であり、
理念の諸契機(これまでの全規定)の価値を明確に知ることである。一つ一つのものが全体の一部として、理念
のどの段階の契機であるかということがそれの真の価値であることを洞察することが哲学である。
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大項目 中項目 項目 カテゴリ説明 例示
理念の方法
思弁的方法の契機の第一は始原である。始原は無媒介な独立して考えうる存在である。しかしそれは概念の絶対
的否定作用ないし運動であり、判断(原始分割)して自己を自己の否定者として立てる自己規定作用でもある。
第二の契機は進展である。進展は理念の定立されたものである。同種の他者に相対し、区別されたもの(同種の
諸特殊)の関係としてのみ考えられるものである。理念の進展の中で示されるものは始原の潜在的本質である。
自然から精神が生まれるのではなく、精神が自分を生み出すために自然を自分の前提として先に立てただけであ
る。本質の段階では区別された両項の関係を展開して自己矛盾をもたらす。この解消により区別項がその概念に
絶対理念方法はかくして外的な形式ではなく内容の魂であり、概念である。概念の契機の内容が方法の中で形式(全体と
の関連)を得て理念に戻る時、この理念は体系をなす統体となる。論理学とは理念を対象とする純粋な理念のこ
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