『ロビンソン・クルーソー』と...

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『ロビンソン・クルーソー』と イギリス帝国 林 直樹 以下は、2017 年 11 月 6 日(月)、尾道文学談話会の平成 29 年度第 8 回講 座(於尾道市立大学サテライトスタジオ)の中で口述した内容を、当日にな された質疑応答もふまえて大幅に増補したものである。ご出席くださったす べての方々に深謝申し上げたい。 はじめに 筆者は学部の卒業論文を「デフォーの経済思想」と題して以来、大学院で も一貫してデフォー(Daniel Defoe, c.1660-1731)研究に従事した。その成果 の一端が、博士論文を書籍化した『デフォーとイングランド啓蒙』(京都大 学学術出版会、2012 年)である。尾道赴任後もデフォーとその周辺の研究 成果を公表し続けている。尾道市立大学の紀要『経済情報論集』を折に触れ てご覧いただければ幸いである(広島県大学共同リポジトリ HARP において 全編が無償公開されている【http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/onomichi-u】)。 1.『ロビンソン・クルーソー』の物語 『ロビンソン・クルーソー』はデフォーの代表作である。正確には 1719 年 から 20 年にかけて出版された三部作だが、通常は第一部を指す。主人公ク ルーソーはイングランドのヨーク出身とされる架空の人物である。国内に留 まってごく普通の暮らしを送るべきだと諭す父親の言葉を振り払い、若くし て冒険商人となって航海に出る。奴隷貿易に手を染めたのも束の間、暴風に 遭って乗船は難破し、ただ一人生きて無人島に漂着する。このとき座礁した 乗船から火薬と火器、ペンとインク、聖書と煙草と酒などを運び出すが、こ れらの品揃えは当時の中流のイングランド人の日常生活を垣間見せていて興 (1)

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『ロビンソン・クルーソー』とイギリス帝国

林   直 樹

 以下は、2017 年 11 月 6 日(月)、尾道文学談話会の平成 29 年度第 8 回講

座(於尾道市立大学サテライトスタジオ)の中で口述した内容を、当日にな

された質疑応答もふまえて大幅に増補したものである。ご出席くださったす

べての方々に深謝申し上げたい。

はじめに

 筆者は学部の卒業論文を「デフォーの経済思想」と題して以来、大学院で

も一貫してデフォー(Daniel Defoe, c.1660-1731)研究に従事した。その成果

の一端が、博士論文を書籍化した『デフォーとイングランド啓蒙』(京都大

学学術出版会、2012 年)である。尾道赴任後もデフォーとその周辺の研究

成果を公表し続けている。尾道市立大学の紀要『経済情報論集』を折に触れ

てご覧いただければ幸いである(広島県大学共同リポジトリ HARP において

全編が無償公開されている【http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/onomichi-u】)。

1.『ロビンソン・クルーソー』の物語

 『ロビンソン・クルーソー』はデフォーの代表作である。正確には 1719 年

から 20 年にかけて出版された三部作だが、通常は第一部を指す。主人公ク

ルーソーはイングランドのヨーク出身とされる架空の人物である。国内に留

まってごく普通の暮らしを送るべきだと諭す父親の言葉を振り払い、若くし

て冒険商人となって航海に出る。奴隷貿易に手を染めたのも束の間、暴風に

遭って乗船は難破し、ただ一人生きて無人島に漂着する。このとき座礁した

乗船から火薬と火器、ペンとインク、聖書と煙草と酒などを運び出すが、こ

れらの品揃えは当時の中流のイングランド人の日常生活を垣間見せていて興

(1)

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味深い。クルーソーは無人島にイングランド風の生活様式を打ち立てるべく、

囲い込みまで行って農場経営や畜産に精を出す。19世紀フランスの思想家ト

クヴィル(Alexis de Tocqueville, 1805-59)が『アメリカのデモクラシー』で

述べたこと、つまりフランス人は現地に同化しようとするが、イングランド

人は自国の文化を移植することに執着するという命題が想起される(松本訳

一巻下 455-56)。ちなみに囲い込みと聞くと、輸出用羊毛を大量生産するた

めの第一次エンクロージャを風刺したモア(Thomas More, 1478-1535)著『ユー

トピア』(1516 年)の一節「羊が人間を食らう」がただちに念頭に浮かびそ

うだが(澤田訳74)、デフォーの時代のエンクロージャは第二次のそれであり、

いわゆる大農経営(農業生産性向上)を打ち立てるために議会立法を通じて

推進された一大私有地化運動を指す。その結果、イングランドの共有地(コ

モンズ)はほとんど失われた。

 孤独に充足を覚える島での安定した暮らしは、漂着からおよそ 15 年後の

ある日、海浜に他者の足跡を発見したことを機に一変する。恐怖のあまりし

ばらくうつ伏したクルーソーはまもなく心理を反転、猛然と外界へ飛び出し、

足跡が近隣の島々に住まう食人種のものであると突きとめ、火器を手に勇躍、

彼らに挑みかかる。そして彼らの一人を捕虜にし、フライデイと名づけて英

語を学ばせ、聖書を読み聞かせ、無二の相棒に仕立て上げる。こうして共同

生活を始めて 10 年、漂着からおよそ 28 年の長年月を経て、クルーソーはフ

ライデイとともにとうとう島を脱出し、故国に帰還するのであった。

 相当かいつまんではいるが、第一部の骨子は以上である。デフォーがどの

ような潜在あるいは顕在的動機とともにこの物語を創作したか、そして政治

経済的あるいは社会的背景(思想史学で言うところの「同時代的コンテクス

ト(文脈)」)はいかなるものであったかについて、先頃刊行された『名著で

読む世界史 120』(山川出版社、2016 年)が手頃な解説を掲載している。同

書は名著 120 点を通じて世界史を読み解こうとする試みで、その 1 点に『ロ

ビンソン・クルーソー』も組み込まれた。わずか 3 頁ほどの解説記事だが、

筆者が執筆したものなので、ぜひ一読をお薦めしたい。

2.モデルとしてのセルカーク

 ロビンソン・クルーソーが漂着した島は、図 1 の通り、現在のベネズエ

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ラ領内を渦巻くように流れて大

西洋に注ぐオリノコ川の河口か

らおよそ 100 キロメートルの地

点、イギリス本国に学んだ政治

家ウィリアムズ(Eric Williams, 1911-81)の改革で知られるト

リニダード・トバゴ近傍の海域

に位置する。もちろんこの島は

実在しない。

 ただし比較的よく知られて

いるように、クルーソーには

実在のモデルがいた。スコッ

トランド出身の水夫セルカー

ク(Alexander Selkirk, 1676-1721)である。彼はダンピア(William Dampier, 1652-1715)の指揮するイギリス私掠船団(といっても二隻だが)の一隻「五

港(Cinque Ports)号」の航海長として南海を航行中、船長と揉めて下船、島

に置き去りにされてしまう。1704 年のことである。この島というのはフア

ン・フェルナンデス島で、チリ沖合約 700 キロメートルの地点にある(現在

は「ロビンソン・クルーソー島」と改名され、観光地になっている)。セルカー

クはこの島で 4 年 4 か月の独居生活を送り、1709 年 2 月、スペイン船団を

追っていたロジャーズ(Woodes Rogers, c.1679-1732)率いるイギリス私掠船

団に救助された。このあたりの事情、およびセルカークの島での暮らしにつ

いては、探検家の髙橋大輔著『ロビンソン・クルーソーを探して』(新潮文庫、

2002 年)に詳しいので、そちらをご参照いただきたい。同島を訪ねた髙橋は、

徹底した踏査を経て見事セルカークの住居跡を発見した。これは世界的快挙

と認められ、上掲書は英語と中国語に翻訳されている。

 セルカークの同時代人たちは彼の救助にどう反応したか。これについては

「なんとヤギの毛皮を身につけている…その男は、毛皮の本来の主のヤギよ

り、もっと野生の生き物のように見えた」と、その眼で目撃したセルカーク

を生き生きと形容した上記ロジャーズの著書『世界巡航記』(1712 年)に事

細かな言及が見られるほか、スティール(Richard Steele, 1672-1729)が評論

図1 ロビンソン漂着地点

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誌『イギリス人(The Englishman)』(1713 年 12 月)において帰還直後(1711

年 10 月)のセルカークから直接聞き取った島での生存方法を克明に記して

いる。実は前者の記述のほうが長大かつ詳細なのだが(関心のある向きは平

野・小林訳 122-29 を参照されたい)、ここではスティールの文名に敬意を払

い、後者のほうを紹介しよう。

 スティールによれば、セルカークの所持品は、道具箱、着用服・寝具、火

縄銃・銃弾・火打石、煙草、手斧・小刀、鍋、航海用計測器、そして聖書類

だけであった。空腹に悩まされているあいだは孤独を忘れられたが、食欲が

満たされると決まって人間が恋しくなった。後者の欲求は満たしようがなく、

そのため憂うつのあまり自暴自棄に陥りかけるも、理性を働かせて聖書を繰

り返し読み、航海術の研究に専念することで、ついに心の闇を克服すること

ができた。その後の彼は島での暮らしにつねに喜びを覚え、そよ風の絶えな

い木陰で狩猟後の安息の時を送るようになった。かつてはただただ恐ろしく

耳に響いた野獣の唸り声も、ついには心地よく聞こえた。寝所のネズミには

悩まされ続けたが、ネコを飼いならすことでこれに備えた。初めの着用服が

破れたのちは、ヤギ皮をつなぎ合わせた手製の衣服に身を包み、どのような

茨の中にも進み入った。乗り越えられない困難はなかった。一度、ヤギを捕

えようとして絶壁から転落し失神したことがあったが、三日後には意識を回

復した(意識を喪失していた日数は月の満ち欠けの観測で割り出した)。そ

して聖書の音読を習慣化することで、声を失わないようにするとともに心を

鼓舞した。イギリスに帰還してからは、島を後にしたことを幾度となく惜し

み、島で手にしていたのと同等の心の平静が得られないことへの嘆きが口を

ついて出るばかりであった。曰く「800 ポンドの資産がある今より 1 ファー

ジングもなかった頃のほうが幸せだった」と。スティールは上記をセルカー

クの肉声として伝えている。もっとも、会見から数か月後に街で見かけた彼

の相貌は一変し、孤高の雰囲気は見事に消え去っていた、と付言しているけ

れども。

 以上が、『スペクテイター』をアディスン(Joseph Addison, 1672-1719)と

共同刊行したことで著名な、初期近代イギリス論壇を代表する文人の反応で

ある(Defoe 1994, 235-38 に原文所収)。デフォーが実際にセルカークと会見

したかどうかは定かではない(『デフォー伝』の著者サザランドは「デフォー

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はセルカークにブリストルで会ったという言い伝えがある」としているが、

事実「言い伝え」にすぎない/織田・藤原訳 318)。しかしデフォーが会見

後にセルカークの手記を持って逃げたとする俗説が初期の『ブリタニカ百科

事典』などに載ったことで、後世のデフォー評価は著しく傷つけられた。そ

れはもちろん誤解である(Novak 2001, 539-40)。デフォーは、たとえ間接的

でもロジャーズやスティールを参照することで、セルカークの体験にかなり

肉薄することができた。島でのクルーソーの行動はセルカークのそれに確か

に似通った面をそなえているものの、コピーではなく、むしろデフォー自身

の思想が色濃く反映されていると言ってよい。

3.出版事情

 第一部『ヨークの水夫ロビン

ソン・クルーソーの生涯と奇

妙奇天烈な冒険』The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe, of York, Marinerは 1719 年 4 月 25 日にロンドン

で刊行された。版元はテイラー

(William Taylor)で、扉には「本

人記す(Written by Himself)」と

刻まれていた。『法の精神』(1748

年)の著者でさえ匿名出版を余

儀なくされたフランスとは異なり、当時のイギリスではすでに出版認可法が

失効(1695 年)して著作物の洪水が起きてはいたものの、デフォーは(す

べてではないが)多くの著作で匿名を選んだ。慎重と呼ぶべきか。しかしそ

れにもかかわらず、政論家として脂の乗り切っていた 1703 年には体制批判

の廉で煽動的文書誹毀罪に問われ、指名手配されたこともある彼であった。

『ロビンソン・クルーソー』の場合も、ギルドン(Charles Gildon, c.1665-1724)が 1719 年 9 月に早速『ダ[ニエル]・デフ[ォー]氏の生涯と奇妙奇天烈な

冒険』The Life and Strange Surprising Adventures of D [aniel] De F [oe] を公刊し

て論敵をからかったことからしても、著者はデフォーだとただちに広く知ら

図2 第一部初版の扉と口絵

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れていた(Defoe 1994, 257-61)。 第一部初版は八折判で 1000 部刷られたが、瞬く間に重版出来し、5 月に

は二版が、6 月には三版が、8 月には四版が現れた(初版以外の各版部数も

1000 部程度と推定される)。三版と四版にはそれぞれ姉妹版があり、これら

を併せて年内に六種の正規版が出た(Defoe 1994, 221-22)。五版は翌 1720 年、

六版は 1722 年、そして著者生前最後の正規版である七版は、テイラーが没

した 1724 年(Hutchins 1967, 47)に版権を買い取った別業者の手で出され

た。この他、早くも 1719 年 6 月にダブリンで海賊版が現れ、8 月にはロン

ドンの業者コックス(Thomas Cox)が十二折判に小型化した非正規縮約版を

出し、価格も正規版の 5 シリングを大幅に下回る 2 シリングに設定して版元

を脅かした。同年 10 月 7 日には新聞(The Original London Post, or Heathcot’s Intelligence)までもが縮約版の無断連載を開始し、これは翌年 3月 30 日まで

78 回分続く(Defoe 2008, 15)。 第二部『ロビンソン・クルーソー後半生の冒険、世界三地域巡回旅行の奇

妙奇天烈な報告』The Farther Adventures of Robinson Crusoe, Being the Second and Last Part of his Life, and Strange Surprising Accounts of his Travels round three Parts of the Globe は第一部の四版が出た直後の 1719 年 8 月 20 日に、第三部

『ロビンソン・クルーソーの生涯と驚くべき冒険の真摯な反省録』Serious Refl ections during the Life and Surprising Adventures of Robinson Crusoe は翌 1720

年 8 月 6 日に、それぞれ出版される。タイトルが示す通り、第二部・第三部

ともに島は主要な舞台ではない。特に第三部は帰還後のセルカークよろしく、

大都市ロンドンの街頭から見つめた冒険そのものの回顧談である。その後

『ロビンソン・クルーソー』は縮約版も含めて世界各国語に翻訳され、数多

の版を重ねてきた。すでに 18 世紀にシェリダン(Richard Brinsley Sheridan, 1751-1817)が考案したとされるパントマイム(1781 年)が存在するなど(ブ

ルーエット 1998, 15)、翻案の類も早くから存在し、それは 20 世紀以降の

映画・ドラマ制作に受け継がれている。

4.翻訳事情

 『ロビンソン・クルーソー』が日本語に初めて翻訳されたのは幕末、四隻

の黒船が浦賀に来航する直前の 1850 年から 51 年にかけてのことである。本

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邦初訳は全訳ではなく抄訳だった。訳者は当時江戸で蘭学修行をしていた黒

田麴盧(1827-92)で、後述するように英語の原典ではなくオランダ語訳を

底本として重訳し、これを『漂荒紀事』と題した。原著者名はデフォーでは

なく「魯敏孫嶇瑠須」としたうえで訳者名は伏せたが、訳者が黒田であるこ

とは蘭学者間では当初から知られていた(平田 1990, 8)。のちに黒田は故

郷膳所の藩校や江戸の開成所で教職に就く。同じ適塾出身だった福澤諭吉

(1834-1901)著『西洋事情』の増補版を著者に断りなく出版(1868 年)し

たため、ひと騒動起きたこともあった(本件の委細は平田 1990, 31-38 を見

られたい)。

 『漂荒紀事』の成り立ちを綿密に調査した松田清によれば、黒田が底本と

したオランダ語訳自体は巷間伝えられるような縮約版ではなく、第一部の全

訳であった。したがって訳出する際に要約ないし簡約を施したのは黒田本人

である(平田 1990 所収の松田論文を参照)。黒田は 1720 年、21 年、35 年、

52 年にアムステルダムで出版された四種類のオランダ語訳(オランダ語訳者

序文を含めて本文は同一)のいずれか一つを、当時すこぶる高価だったはず

だが、膳所藩校頭取を務めていた父扶善を介し、おそらく藩費を用いて入手

したものと推測される(平田 1990, 12-13, 142)。ちなみに『漂荒紀事』は

写本のかたちで流布した。その一つが、安中藩江戸屋敷詰めの若き新島襄

(1843-90)の目に触れたようである(平田1990, 16-17)。新島の回想によれば、

蘭学に秀でた友人が「読むべき本をたくさん私に貸してくれたが、その中に

『ロビンソン・クルーソー物語』の日本語訳があった。その本により、外国

を訪ねてみたいという願望がかきたてられた」。1865 年 7 月にアメリカ船で

ボストンに入港、念願かなった新島は真っ先に「魯敏孫クルスーの伝」を 1.5

ドルで買い求めるほどの熱の入れようであった(同志社編 2013, 53, 127)。

 幕末期の日本語訳は、実はもう一つあった。横山由清(1826-79)訳『魯

敏遜漂行紀略』(1857 年)である。横山ははじめ国学者として身を立て、維

新後は元老院書記官などを歴任した。同書巻末の「附載」ないし解題によれ

ば、底本に選んだのは「略」本つまり縮約版オランダ語訳で、「広本」につ

いては「先に或人の訳述」があるためそちらに委ねた。「或人」とは黒田の

ことであろう。解題の記述の大半は『ニューウェンホイス学芸百科事典』(1820

~ 29 年)の項目「ロビンソン」を要約紹介したもので、横山はルソー(Jean-

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Jacques Rousseau, 1712-78)が『ロビンソン・クルーソー』の教育効果を高く

評価した事実(『エミール』)にさえ言及している(平田 1990, 126-27)。少

し古い研究になるが、新村出の調べによれば、『魯敏遜漂行紀略』は「美濃

紙半切四寸と六寸の小本」の体裁で刊行され、蕃書調所(のちの開成所)教

授を務める蘭学者の箕作阮甫(1798-1863)による漢文序とともに、同じく

蕃書調所で西洋画の研究に従事した川上冬崖(1828-81)の手がけた彩色口

絵が、タイトルページ一箇所とその裏面に二箇所の、計三箇所に掲げられて

いた。また、上記『ニューウェンホイス事典』は幕府所蔵図書だった模様で

ある(新村 1925, 266-68)。このことから、蕃書調所を中心に幕府の肝煎で『ロ

ビンソン・クルーソー』の邦訳第二号が形づくられたことがわかる。

 網羅的ではない点は断っておかねばならないが、明治期の邦訳としては、井

上勤『絶世奇談魯敏遜漂流記』(1883 年)、高橋雄峯『ロビンソンクルーソー

絶島漂流記』(1898 年)、そして高橋五郎・加藤教栄『漂流物語ロビンソン・クルー

ソー』(1911 年)を挙げておきたい。うち高橋雄峯訳は、第一部のみを取り上

げた従前訳に対して、第二部抄訳を加えた点が特筆に値する。高橋・加藤共

訳については、序文の執筆を森林太郎こと鴎外に依頼した点を強調しておかね

ばならないだろう。『鴎外全集』所収の「ロビンソン・クルソオ(序に代ふる

会話)」から、結びの部分を引用してみたい。この序文は主人・客・訳者によ

る三者鼎談形式をとっている(旧字・仮名遣いは改めた/森 1972, 339-41)。

訳者 そこでロビンソンですが、ただ今承ったところでは、不忠不孝の人

を書いた本だそうですが、とにかく僕なんぞは好きな本で、こんど

訳するにも好んで訳したのです。僕は一体創業ということが好きで

す。どうせ新しい事を起こすには、周囲に反抗して、因襲を破って

行くのです。それですから、きっと親の同意を得てからする、きっ

と国家の承認を受けてからするというわけには行かないのですね。

漢の高祖が天下を取った話が好きです。ナポレオンが好きです。釈

迦やキリストが好きです。マルチン・ルテル[ルター]が好きです。

つまりそういう人物のする事を原始的に考えて見ると、ロビンソン

になるのではないでしょうか。それで僕の気に入るのではないで

しょうか。

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主人 そうでしょう。僕には君の心持は好く分かっています。つまり君は

守成者よりは創業者が好きだ。司祭よりは預言者が好きだというの

ですね。征服者も同じでしょう。冒険者もあるいは同じでしょう。

とかくそういう人物は、親の言うことを聴かなかったり、国家の制

度を守らなかったりする。そういう事蹟を危険だからといって皆湮

滅させてしまうわけには行きますまい。国家だって、まさかそうし

ようと思ってもいますまい。現にロビンソンの訳本だって、これま

で発売禁止になっていません。あれも Alexander Selkirk とかいう水

兵の実事譚を種子にして作ったものだそうですが、スペインの海上

権を打ち破る程の海軍も、一人手放した時、あれ程の為事[仕事]

をする水夫のいる国だから、発展することが出来たのでしょう。僕

は口語体で読み易い訳本を出すことに賛成しますね。

客  僕は国家が禁止していない本の事だから、強いて故障は言わない。

主人 大そう寛大だね。僕だってすべてレガル[リーガル]な行為は結構

だと思う。しかし君は官吏や官吏の手先きの言った事を、直ぐに国

家がこう認めたなんと言うが、あれは困るね。

客  吾輩はそれで好いと思う。法律命令にあることは、法律命令による。

官報にある事は、官報による。半官報にある事は、半官報による。

訳者 (アイロニイの調子。)御用記者の書いた物にある事は御用記者の書

いた物によるですか。

客  無論。

 

 客は『ロビンソン・クルーソー』を「不忠不孝」の書と断じた。訳者がそ

れに論駁して「創業者」の美徳を諄々と説き、この訳者の肩を持つ主人が

客を諫めてその場を収めるという筋書きになっている。鴎外がこの短い序

文を記したのは明治末年である。鴎外が客に体現させた、訳者の個人主義的

理想に執拗なほど食い下がる粘着質の思想は、必ずしも弱体な、消え入らん

とするばかりのそれとしては描かれていない。すでに維新は遠くなりにけ

り、時代は「守成者」優勢へと移り変わりつつあった。客は「国家」という

内実のきわめて空虚な、それだけに何色にも染まりうる実体にただただ従

うことのみを自らの責任と弁えている点で、どこかヴェーバー(Max Weber,

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1864-1920)著『職業としての政治』(脇圭平訳、岩波文庫、1980 年)の言う

ような、自身の判断にもとづいて為した事柄の結果に対する責任意識の希薄

な心情倫理家、すべてを「国家」というお上に押しつける官僚主義者の登場

を思わせると同時に、その後の日本社会が迷い込む隘路の入口までも暗示す

る不気味さを湛えている。

 第二次大戦後の最初の日本語訳は、吉田茂の実子として知られる英文学者、

吉田健一の手になる『ロビンソン漂流記』(新潮文庫、1951 年)だろう。同

書解説によれば、吉田は大佛次郎所蔵の原書(The Shakespeare Head edition)を借りて訳出したという。その後、おそらくは最も広く普及していると思わ

れる平井正穂訳(岩波文庫、1967-71 年)が続くが、これは第一部と第二部

の全訳である。山本和平訳(講談社、1978 年)は第三部の抄訳を含む点で

貴重と言える。比較的近年のものとしては、鈴木建三訳(集英社文庫、1995

年)、増田義郎訳(中公文庫、2010 年)、そして武田将明訳(河出文庫、2011 年)

を挙げておく。やはり第一部のみの翻訳が多い。それには以下に見るような

明白な理由があるだろう。

5.第一部の傑出

 『ロビンソン・クルーソー』第一部に 7年遅れて『ガリヴァー旅行記』(1726

年)を出版するスウィフト(Jonathan Swift, 1667-1745)の年少の友人で、詩

人として名高いポープ(Alexander Pope, 1688-1744)は、年長の友人同様デ

フォーにずいぶんと辛口であったが、その彼さえも次のように述べざるを

得なかった。「ロビンソン・クルーソーの第一部は非常に良い。デフォーは

かなり多くのものを書いた。悪いものは一つもないが、これを除けば傑出し

たものも一つもない。彼の書きものには良いところが必ず何かある」(Defoe 1994, 261)。第一部が「非常に良い」のは、なぜか。アダム・スミス(Adam Smith, 1723-90)の知己で、平明な文体を讃えたスミスの修辞学講義の内容

から大きな影響を受けたとされるエディンバラ大学修辞学・文学欽定講座教

授(英文学初の教授職)のブレア(Hugh Blair, 1718-1800)は(ロス 2000,

106)、次のように述べている。「どの言語について見ても、ロビンソン・クルー

ソーを上回る支持を得たフィクションはこれまでに存在しなかった。あらゆ

る読者の想像力をつかんで離さない事実性と簡明性の現れと相まって、それ

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はかなり有益な示唆も与えてくれる。外的状況の困難を克服するうえで、人

間本来の諸力がどこまで発揮されうるかを示すことによって、である」(Defoe 1994, 264)。つまり所与の環境に力の限界まで立ち向かう主人公の立ち居振

舞いそれ自体が、本書の最大の魅力であるというわけである。ブレアの言う

「事実性と簡明性」については、『ロビンソン・クルーソー』を「私のエミー

ルが読むはじめての本…この一巻だけが長い期間にわたって彼の書棚におか

れる書物になるだろうし、それはまたそこにいつまでも特別の地位を占める

本になるだろう」としたルソーも同様の言葉を用いて指摘し、称賛を惜しま

ない(今野訳上 325)。ルソーは「孤立した人間」が「事物のほんとうの関連」

としての自然に対峙する構図を、所与の社会における欺瞞(彼の『人間不平

等起原論』は「社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見のなか

でしか生きられない」と説く/本田・平岡訳 129)や「偏見」を克服して「自

己の利害」を判断するための、いわば思考実験の前提と見なす(同 326)。こ

の点で、無人島という前提条件から解き放たれた第二部および第三部と、第

一部とでは、決定的な落差が生じる。エミールの書棚に置かれるべきはあく

まで第一部なのである。

 ルソーを媒介として、18 世紀スコットランド人の評をもう一つ引いてお

こう。ブレアの言う「有益な示唆」をむしろ反面教師として受け取った、ア

バディーン大学教授ビーティ(James Beattie, 1735-1803)の言葉である。彼は、

クルーソーが余儀なくされた生活様式の鑑賞を通して、逆に近代社会の価値

が浮き彫りになると述べている。すなわち「器械技術の重要性」「孤独の恐怖、

したがって社会生活の麗しさの生き生きした観念」「会話や相互扶助から私

たちが引き出す恩恵」など、社会の内側においてしか得られないか、外側で

は獲得が著しく困難なものが、それである。「敬虔と寛容の精神」に加えて

「自分自身の手を動かして労働することで、人はいかにして自立を確かなも

のとし、健康と娯楽の数多の源泉を自らのものとできるかを、この物語は示

す。だから私は、子どもたちが手に取るべき最良の書物の一冊を本書とした

ルソーに同意する」(Defoe 1994, 265)。外力に抗う自然的人間の「諸力」の

顕現をクルーソーに見出そうとしたブレアに対し、ビーティは社会外に放逐

された同じ人間の弱さを強調し、社会内における「相互扶助」のための「寛

容」で勤勉な「労働」主体の原型として振舞うクルーソーの横顔を評価する。

(11)

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ルソー『エミール』も、クルーソー型の個人単位労働から説き起こしながら

も、社会内の工業的協業が可能とする「技術」進歩とそれによる生産性上昇

をエミールに実地で理解させることの重要性の大きさに言及していることか

らして(前掲書 327-28)、ビーティへのルソーの影響は大きい。ビーティは

さらに、第二部は「退屈」だとわざわざ断ってさえいる(前掲箇所)。子ど

もに何でも与えてやることは満たしえない水準まで欲望を増大させていくこ

とになるから、その子を最も不幸にすることだ、というルソーの説からすれ

ば(前掲書 119)、やはり無人島という一大制約にさらされる第一部こそが「子

どもたちが手に取るべき最良の書物」ということになるのだろう。

 しかしクルーソーという主人公がもし、古典時代の英雄譚のように、超人

的な力の持主として描かれていたとしたら、これほどにまで多くの「支持」

を集められただろうか。自然を制圧し、踏みつけ、そのうえに君臨するよう

な卓越した人格なら、ブレアが言うような、読者が没入するような「事実

性と簡明性」つまり自らの経験とあくまで照らし合わせながらの堅実なフォ

ローの機会を、この物語は提供しえただろうか。主人公がごく平凡な人間だ

から(少なくとも大多数の人の目にはそのように映るから)こそ、老若男女

を問わず、読者は自己イメージの少なからぬ部分をクルーソーに投影し、物

語の奥深くにまで引き込まれるのではないか。ロマン派詩人としてそう主張

したのはコールリッジ(Samuel Taylor Coleridge, 1772-1834)であった。彼は、

自身の蔵書(1812 年版『ロビンソン・クルーソー』)の余白に次の通り書き

込んだ。「軽蔑しがちなスウィフトを軽蔑されがちなデフォーと比較してみ

よ。後者がどれほどすぐれているかが分かるだろう。でもどうやって比べれ

ばよいか。まさしく本書によってである。私の全存在をもって共感できるも

のを提示する著者は、私という存在の一部、例えば滑稽なものに対する私の

感覚にしか呼びかけず訴えかけない著者以上に、尊重すべきである。さらに

言えば、私特有の階級、私特有の性格、私特有の境遇を忘れさせてくれる著

者は、私を普遍的人間の位置にまで引き上げてくれる。これこそがデフォー

の傑出した点である」(Defoe 1994, 268)。

6.デフォーを囲む人々

 ここからはしばらく『ロビンソン・クルーソー』という作品を離れて、著

(12)

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者のほうにアプローチしてみたい。デフォーを取り巻く人間模様を、以下で

簡潔に描き出してみよう。

 フォー(James Foe, 1630-1706):デフォーの父。獣脂蝋燭商、ロンドン市

畜産組合長。1660 年の王政復古後に長老派信徒(いわゆる非国教徒)となる。

 アネリ(アンズリ)(Samuel Annesley, 1620-96):イングランド長老派の指

導者としてフォー家その他の牧師。孫のウェズリ兄弟がメソジスト派を創始。

デフォーは『故サミュエル・アネリ博士の人格』(1697 年)と題する挽歌を

書いている。

 モートン(Charles Morton, 1627-98):先進的教育で知られたロンドン北部

ニューイントン・グリーンの非国教徒学院長。デフォーの師。のち渡米して

ハーヴァード大学副学長。

 メアリ・タフリ(Mary Tuffl ey, 1665-1732):デフォーの妻。夫の留守によ

く耐える。結婚直前のデフォーの考えかたを知るには『黙想』Meditations(1681 年)を読むとよい。また『企業論』(1697 年)の女子教育論を読むと、

彼の女性観≒商業観がよく分かる。

 モンマス公爵(James Scott, Duke of Monmouth, 1649-85):チャールズ二世

の庶子。カトリック王ジェイムズ二世の即位直後、1685 年 6 ~ 7 月に非国

教徒などの支持を集めて反乱を起こす。若きデフォーも加担・従軍し敗れた

が、幸運にも赦免(1687 年 5 月)。

 ウィリアム三世(William III, 1650-1702):兼オランダ総督オラニエ公ウィ

レム。名誉革命を成功させて即位。新国王祝賀式典(1689 年 10 月)にはデ

フォーも騎兵隊員として参列。イングランドは、王の反フランス世界君主化

(太陽王ルイ十四世封じ込め)政策に牽引され、九年戦争に始まる大規模な

大陸戦争に巻き込まれていく。

 フレッチャー(Andrew Fletcher of Saltoun, 1653?-1716):スコットランド議

会議員。モンマスの反乱に加担するが、名誉革命後に許された。戦費拡大、

官僚機構の肥大化とともに進む行政権の優位を「腐敗」の温床として指弾す

る共和主義者として、常備軍論争(1697 年~)および合邦論争(1706 年~)

でデフォーとペンの走りを競う。

 ゴドルフィン(Sidney Godolphin, 1645-1712):トーリ党の政治家。いわゆ

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る「穏健派トーリ」の首班としてスペイン継承戦争を指揮。特に財政に明る

かった。トーリは当時「高教会派」(伝統主義)と穏健派(漸進保守)に分かれ、

親カトリックの前者に後者が悩まされる格好だった。デフォーの高教会派諷

刺パンフレット『最も手間のかからない非国教徒対策』(1702 年)は彼を煽

動的文書誹毀罪に問い、さらし台送りにした(1703 年 7 月)が、穏健派は

これを契機としてデフォーの筆力を高く買う。

 カルペパー(William Colepeper, d.1726):デフォーの親友。フランスの脅

威を庶民院に訴えるケント州請願運動(1701年4~7月)の中心人物。デフォー

は『レギオン建白書』等を著して親友を支援。上記文書誹毀罪に問われた際

のデフォーの弁護人。

 ハーリ(Robert Harley, 1661-1724):トーリ党の政治家。庶民院議長、国務

大臣を経て大蔵卿。デフォーとスウィフトを政策プロパガンダに活用した。

国会の管轄する土地税に代えて間接税収を国債利払いに充てる革新を導入、

行政権の財政基盤を著しく強化した。国債引受機関たる南海会社(下記参照)

の創設者。

 フランシャム(John Fransham, d.1753):ノリッジのリンネル商。デフォー

がハーリのエージェントとしてブリテン全土に布いた情報網(非国教会派牧

師など 60 名以上を列挙したリストが残る)の重要な一角を担う。この情報

網は文書流通網としても機能した。例えば、1705 年の総選挙の際、デフォー

の評論誌『レヴュー』(1704 年 2 月~ 13 年 6 月)の特別号が 5000 部(通常

の 10 倍)刷られて流通した、など。

 ベンジャミン・デフォー(Benjamin Norton Defoe):デフォーの子。エディ

ンバラ大学で学ぶ。ウォルポール(Robert Walpole, 1676-1745)政権時代の

1721 年 8 月に、南海泡沫事件(1720 年 9 月の株式暴落)の当事者である南

海会社役員の内密証言を暴露。

 ベーカー(Henry Baker, 1698-1774):聴覚障害者教師、自然哲学者、顕微

鏡学者。王立協会会員。デフォーの娘ソフィア(Sophia, 1701-62)の夫。スコッ

トランド貴族のバハン伯爵(David Erskine, 9th Earl of Buchan, 1672-1745)の

子の教師をつとめた関係で、この貴族がデフォーの孫(David Erskine Baker, 1730-67?)の名づけ親となる。

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 非国教会派(長老教会)の指導者の一人だったアネリ牧師に感化された幼

きダニエル・フォーは、同じく非国教会派に属したモートンの運営する学院

に進み、当初は聖職者となるべく教育を受けるも、卒業後は父と同じくロン

ドン商人となった。メアリとの結婚後、モンマスの反乱に勇み足で加わった

この誠実な非国教徒は、敗北後の追及の手を辛うじてかわし、名誉革命の成

就で晴れて寛容を勝ち取ったかに見えた。ところが革命とともに勃発した対

太陽王ルイ戦争が長期化する中で、救世主とも謳われた国王ウィリアムの人

気に陰りが出始める。反面では非国教徒を目の敵とする高教会派(国教会保

守層)が勢力を伸ばし、対外的にはフランス宥和策、対内的には不寛容策を

打ち出していく。戦乱の煽りで貿易にしくじり、多額の負債を背負った若き

商人フォーは、姓を「デフォー」に改めると同時に政官界に接近し、政治経

済ジャーナリストとしての道を歩み始める。

 スコットランド出身の共和主義者フレッチャーと初めてペン先の鋭さを

競った「常備軍論争」で一定規模の常設軍支持の論陣を張ったのに続き、ウィ

リアムによるフランス封じ込め政策の継続を願うケント州民の声を文書化し

て議会ロビー活動に精を出し、さらに高教会派が連呼する非国教徒批判の叫

びを誇張することで、帰謬法式に世論を反高教会派へと誘導しようとした

小冊子が筆禍事件を招いてのちは、財務に長けたゴドルフィン率いる穏健派

トーリ政権にその筆力を重用される。政権はやがてハーリの手に移るが、政

策プロパガンダ装置としての広範な情報網構築と間接税導入に象徴される財

政軍事国家の鍛造に辣腕を揮った、ウォルポール以前の首相とも言えるこの

海千山千の大政治家のもとで、デフォーはイングランド=スコットランド合

邦をめぐるフレッチャーらとの再度の論争をたたかう。ほぼ独力で編集を続

けた『レヴュー』などの新聞・評論誌における時論の量は、彼を英語圏最大

の著述家の一人と呼ばせるに十分である。ハノーヴァー家による王位継承

(1714 年)後は、ウォルポールを名実ともに政権の要とするウィッグ寡頭

制へと政治体制が移行していく中で、信用経済の機微をふまえて南海泡沫事

件を批判的に総括する(息子ベンジャミンは先述した同事件のスクープ記事

で筆禍に遭った)など、現代にも通じるすぐれた社会経済評論を残す(この

点については、少し専門的になるが、拙稿「ミシシッピ・バブル後のブリテ

ン――ジョン・ロー来訪をめぐる信用論争」坂本達哉・長尾伸一編『徳・商

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業・文明社会』京都大学学術出版会、2015 年を参照されたい)。

 ジャーナリストとしてのキャリアの終点は小説家としてのキャリアの起点

にひとしい。『ロビンソン・クルーソー』の成功がデフォーに新境地を開か

せたのである。この最後の10年間に当たる1720年代に彼が出会い、娘ソフィ

アの夫として認めることになるベーカーは、王立協会賞(Bakerian Medal and Lecture)に今もその名を残す顕微鏡学者として、義父の没後に大成した。彼

に王立協会会員資格が与えられる理由の一つとなった詩『宇宙』(1727 or

1734 年)にはペストの細菌病原説が登場するが、この点をふまえてデフォー

著『疫病年誌』A Journal of the Plague Year(1722 年)との関連を考察してみ

る作業はかなり興味深い知見を生み出すであろう。同書については最新訳『ペ

ストの記憶』(武田将明訳、研究社、2017 年)が出たところであり、筆者も

書評した(『週刊読書人』第 3218 号、2017 年 12 月 8 日付)ので、関心をお

持ちの向きにはご一読願いたい。

7.『ロビンソン・クルーソー』とイギリス帝国

 『ロビンソン・クルーソー』のプロット・出版翻訳事情・評価の諸相につ

いて検討を済ませ、著者デフォーのプロフィールおよび人物相関についても

認識を共有したところで、本稿の表題の意義を明らかにしておきたい。

 本書のとりわけ第一部における主人公は、かつて大塚久雄が「ロビンソン

的人間類型」(大塚 1977)と表現したように、偉人の卓越ではなく普遍性を

帯びた人間本性の、その一類型として言及される場合が多かった。ルソーの

ように、自然との関係を思考実験的に純化して取り出すことで人間の基底的

ないし本源的利害関心を浮き彫りにしたうえで、社会を批評ないし批判する

ための準拠点として参照したり、あるいは新島襄や森鴎外の例に見られたよ

うに、閉鎖空間からの脱却や守成に対する創業といった価値観を肯定的に論

じる際の、主体的個人の普遍的範型として引証されたりといったように、で

ある。クルーソーこそまさに「普遍的人間」と評したのはコールリッジであっ

た。デフォー自身のモデルは実際に無人島に漂着した一個の水夫セルカーク

であったが、デフォーはスティールらが公にしたインタビュー記録に拠りつ

つ、そこに彼自身の脚色を加えていくことで、きわめて幅広い読み手が共感

しうる、つまりは、自らが同等の境遇に置かれたならば同じように行動する

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と無理なく想像できる主人公を、創出したのである。

 これを説得のレトリックと見なすこともできよう。そこに記されている事

柄を読者が自らの問題として共感とともに受けとめ、そのうえで自らの判断

を著者(ないし主人公)の判断と重ね合わせることができるかどうか。それ

が可能であるとして、より多くの読者にとってそれが可能となるには、どの

ような物語りかたが必要なのか。きわめて普遍性の高いクルーソーという主

人公を創り出したデフォーの筆力の背後には、世論操作を明確に志向した

ハーリのような政治家のもと、哲学的主題ではなく、眼前であまたの利害関

係者がうごめく具体的案件について、そして剣ではなくペンで、つまり権力

ではなく説得の話法で読者の事実認識および判断を誘導あるいは先導せねば

ならない立場に置かれ続けたジャーナリストとしての経験の蓄積が、確かに

横たわっている。そして彼にとっての最大の案件であったものこそが、イン

グランドとスコットランドの合邦問題であったと述べて差し支えないだろう。

 セルカークの故国スコットランドの議会とイングランド議会を統合するた

めの運動、すなわち合邦運動が本格化したとき、時のイングランド政権の内

意を受けて合邦推進の論陣の先頭に立ったのがデフォーその人であった。エ

リザベス女王長逝に伴うスコットランド王ジェイムズ六世(1567 年即位)の

ロンドン入城、そしてイングランド王ジェイムズ一世の即位(1603 年)に

始まる同君連合はしかし、およそ半世紀のちに逐次制定されたイングランド

航海条例がスコットランドを外国として処遇したために、きわめて不十分な

ものと見なされた。植民地を含むイングランド市場へのアクセスが著しく困

難になったスコットランドの商人たちは、王冠の合同のみならず議会の合同

を通じた経済制度の一本化すなわち両国市場圏の統合を、強く希求したので

ある。しかし、合邦がスコットランドの従属を招くとする警鐘はいたるとこ

ろで鳴らされた。経済的利害が政治的独立という理念以上に重んじられてよ

い理由はなかった。合邦は決してスコットランドの総意ではなかったのであ

る。イングランド側においても、高教会派は、ノックス(John Knox, c.1514-72)による宗教改革の影響力が根強いスコットランドとの合同を嫌った。委細は

省くが、スコットランドに赴いたデフォーが『レヴュー』を同地で発行する

など旺盛な言論活動を展開したこともとりわけ与って力があり、1706 年 4 月

に始まった両国間交渉でまとめられた条約案は驚くほど短期間のうちに両国

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議会の承認を得、翌 1707 年 5 月に合邦条約が発効して「大ブリテン連合王国」

が成立する。ロンドンのウェストミンスターに新しくスコットランド代表議

席が設けられ、エディンバラの議会は消滅した。ただしスコットランドの独

立志向(およびイングランド高教会派)に配慮して、監督主義のイングラン

ド国教会とは異なり長老主義を基盤とするスコットランド教会と、エディン

バラ大学を筆頭に独自のカリキュラムを編成していたスコットランドの大学

制度は、いずれも保存された。

 上述の通りデフォーは『レヴュー』等のメディアをスコットランドの地で

も駆使して合邦がもたらす互恵の大きさを説き、両国における経済の好転と

いう共通利害に訴えたのであったが、彼の走らせるペンは実のところそれ以

上のことを告げた。著者は長老教会を信仰して高教会派と闘ってきたイング

ランド非国教徒である(筆禍事件のことはスコットランドでも有名だった)

という事実がそのペンに力を吹き込み、彼という語り手の口から発せられる

普遍的人間の言語に、スコットランド人としての特殊なアイデンティティを

保持したまま共感とともに耳を傾ける読者の数を、ブリテン北部の地で増や

したはずである。合邦成立後、彼は『大ブリテン合邦史』(1709 年)をロン

ドンではなくエディンバラで刊行する。エディンバラを選んだ彼の狙いが、

合邦後もいまだにくすぶり続ける反合邦感情を、信仰を同じくする者として

できるだけ汲み取りながら、スコットランド世論を両国統合促進の側に引き

留め続けることにあったのだとすれば、その意図ないし企図は十二分に達成

されたであろう。「真理は時間の娘」とは、同君連合直後の合邦運動(頓挫)

を率いたベイコン(Francis Bacon, 1561-1626)の格言である。それを信じる

者にとってはどこまでも真理であるところの理念は利害のようには計量不能

で、普遍の標準に照らした大小優劣の比較にそぐわないからこそ、権威をもっ

て一方を他方に力ずくで組み入れるような真似は自ら火種をまき散らすにひ

としい。理念の統合が仮にありうるとしても、それは時間が解決する問題で

ある。しかしながら理念が、時とともに移り変わる世の趨勢以外の何ものの

是非も汲み上げなくなるとすれば、その後に来るものは何であろうか。

 すでに見た通り、デフォーは『合邦史』のちょうど 10 年後に発表した初

めての小説に食人種を登場させることで、キリスト者的人道の観点から彼ら

を憎み、一人で果敢に戦いを挑む主人公に、読者の共感を巧みに引きつけた。

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「同時に伝道もする孤立的経済人」(大塚訳355)とはヴェーバーの評であるが、

言い得て妙である。長老教会と国教会(高教会派)であれ、プロテスタント

とカトリックであれ、あるいは文明と野蛮であれ、こうした二分法的対立図

式の背後で強力に作用しうるものは、利害のような普遍的尺度よりもむしろ、

尺度を持たないがゆえにいかようにも収縮膨張しうる信念であり感情である

という点は、後者が時として狂信の形態をとり、理念ゆえの覇権渇望、帝国

建設の夢の原動力となりかねないことからして、つねに注視しておく必要が

あるだろう。説得のレトリックが得てして訴えかけがちな感情は、利害にも

とづく相対的に冷めた目をそれと適切に組み合わせることがないかぎり、周

囲に恐るべき牙を剥きかねない。『桶物語』(1704 年)の中で、非国教徒の「熱

狂」を体現する人格に「神様への愛」のため「何もかも毟り、破り、引っ張り、

引き裂き、剥ぎ取」れ、と絶叫させたのは、無類の諷刺作家スウィフトであっ

た(深町訳 100)。

結語に代えて

 夏目漱石は『文学評論』(1909 年刊/ 1905 ~ 07 年に東大英文科で行われ

た講義)にこう書いている。「私は正直に白状するがデフォーの全集を読み

通していない。以上の講義は私の知る限りについて、私の考を纏めたもの

である。だからデフォーに対しては甚だ済まん気がする。けれども私が無責

任な心持はしない」(夏目下 283)。筆者は、近代はイギリスが道先案内を務

めて辿り着いた時空間であるという認識のもと、近代研究の一環として、イ

ギリス帝国草創期の思想史を主にデフォーの書き物を通して眺め、昨今の

Brexit とそれに連動したスコットランド独立運動をその終局に位置づけなが

ら、近代の経済・政治統合の意義を再考しようと試みているが、研究はまだ

緒に就いたばかりである。すでに述べた通り、英語圏に関するかぎりデフォー

ほどの多作家はいない。漱石にして読み通せず、いわんや筆者をや、で済ま

せたくはないのだが。本稿を通じて、より多くの才子がこの研究領域に関心

を抱いてくれることを期待する。

 末尾に『著作集』および重要文献(引用文献以外)を一覧にして掲げてお

こう。

(19)

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全集(ピッカリング社刊、W. R. Owens and P. N. Furbank 総合編集、全 44 巻)

Political and Economic Writings of Daniel Defoe, 8 vols, Pickering and Chatto, 2000.

Writings on Travel, Discovery and History by Daniel Defoe, 8 vols, 2001-02.Satire, Fantasy and Writings of the Supernatural by Daniel Defoe, 8 vols, 2003-05.Religious and Didactic Writings of Daniel Defoe, 10 vols, 2006-07.The Novels of Daniel Defoe, 10 vols, 2008.『レヴュー』(ピッカリング社刊、John McVeagh 編集、全 9巻)

A Review of the Affairs of France: 1704-5, 2 parts, 2003.A Review of the Affairs of France: 1705, 2 parts, 2004.A Review of the State of the English Nation: 1706, 2 parts, 2005.A Review of the State of the British Nation:1707-8, 2 parts, 2006.A Review of the State of the English Nation: 1708-9, 2 parts, 2007.A Review of the State of the English Nation: 1709-10, 2 parts, 2008.A Review of the State of the British Nation:1710-11, 2 parts, 2009.A Review of the State of the British Nation:1711-12, 2 parts, 2010.Review: 1712-13, 2 parts, 2011.専門研究書

Paula Backscheider, Daniel Defoe: His Life, The Johns Hopkins UP, 1989.John Richetti, The Life of Daniel Defoe, Blackwell Publishing, 2005.P. N. Furbank and W. R. Owens, A Political Biography of Daniel Defoe, Pickering

and Chatto, 2006.その他

Peter Earle, The World of Defoe, Atheneum, 1977. 経済史家によるデフォー論。

James Alan Downie, Robert Harley and the Press: Propaganda and Public Opinion in the Age of Swift and Defoe, Cambridge UP, 1979. デフォーの筆力をハーリは

どう用いたか。

Manuel Schonhorn, Defoe’s Politics: Parliament, Kingship, and Robinson Crusoe, Cambridge UP, 1991. デフォーの政治思想を通じて『ロビンソン・クルー

ソー』を読む。

Ilse Vickers, Defoe and the New Sciences, Cambridge UP, 1996. モートン論あり。

(20)

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天川潤次郎『デフォー研究―資本主義経済思想の一源流』未来社、1966 年。

塩谷清人『ダニエル・デフォーの世界』世界思想社、2011 年。日本語での

網羅的研究。

図版出所

1 増田訳 456 頁

2 扉:Defoe 1925 口絵:Defoe 2008, p. 52

引用文献

Defoe, D. 1925. The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe of York, Mariner. Constable and Company.

――. 1994. Robinson Crusoe: an Authoritative Text, Contexts, Criticism, 2nd ed., edited by M. Shinagel. W. W. Norton and Company.

――. 2008. The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe (1719), edited by W. R. Owens. Pickering and Chatto.

Hutchins, H. C. 1967. Robinson Crusoe and Its Printing 1719-1731: A Bibliographical Study. AMS Press.

Novak, M. E. 2001. Daniel Defoe: Master of Fictions. Oxford U. P.Sutherland, J. 1938. Defoe, J. B. Lippincott Company. 織田稔・藤原浩一訳『『ロ

ビンソン・クルーソー』を書いた男の物語―ダニエル・デフォー伝』ユ

ニオンプレス , 2008.

ヴェーバー 1989. 大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の

精神』岩波文庫 .

大塚久雄 1977.『社会科学における人間』岩波新書 .

新村出 1925.『典籍叢談』図書院 .

スウィフト 1968. 深町弘三訳『桶物語』岩波文庫 .

デフォー 2010. 増田義郎訳『完訳ロビンソン・クルーソー』中公文庫.

同志社編 2013.『新島襄自伝―手紙・紀行文・日記』岩波文庫 .

トクヴィル 2005. 松本礼二訳『アメリカのデモクラシー(第一巻・上下)』

岩波文庫 .

夏目漱石 1985.『文学評論(上下)』岩波文庫 .

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Page 22: 『ロビンソン・クルーソー』と イギリス帝国harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/onomichi-u/file/13191...『ロビンソン・クルーソー』と イギリス帝国 林 直樹

平田守衛 1990.『黒田麴盧の業績と『漂荒紀事』』京都大学学術出版会 .

ブルーエット 1998. ダニエル・デフォー研究会訳『『ロビンソン・クルーソー』

挿絵物語―近代西洋の二百年(1719-1920)』関西大学出版部 .

モア 1993. 澤田昭夫訳『ユートピア』中公文庫.

森鴎外 1972.『鴎外全集第8巻』岩波書店 .

ルソー 1962-64. 今野一雄訳『エミール(上中下)』岩波文庫 .

―― 1972. 本田喜代治・平岡昇訳『人間不平等起原論』岩波文庫 .

ロジャーズ 2004. 平野敬一・小林真紀子訳『世界巡航記』岩波書店 .

ロス2000. 篠原久・只腰親和・松原慶子訳『アダム・スミス伝』シュプリンガー・

フェアラーク東京 .

-はやし・なおき 経済情報学科准教授-

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