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0 アドルフ・アッピア 舞台照明のもつ力 明治大学文学部文学科演劇学専攻 4年5組55番 脇山 萌 学籍番号 1415110307 大林のり子先生 2015 1 8

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    アドルフ・アッピア 舞台照明のもつ力

    明治大学文学部文学科演劇学専攻

    4年5組55番 脇山 萌

    学籍番号 1415110307

    大林のり子先生

    2015年 1月 8日

  • 1

    目次

    はじめに .................................................................................................................................. 2

    第1章 アドルフ・アッピアについて ......................................................................... 3

    第2章 背景 ................................................................................................................ 8

    Ⅰ. 舞台照明の歴史と芸術観

    Ⅱ. アッピアと劇場~舞台空間と客席空間~

    第3章 理念と演出から考える舞台照明の持つ力 ............................................................... 13

    Ⅰ. アッピアの理念

    Ⅱ. リヒャルト・ワーグナー作品の演出

    おわりに ..................................................................................................................... 25

    参考文献 ..................................................................................................................... 26

  • 2

    はじめに

    「卒業論文は舞台照明に関連したテーマで取り組みたい。」3年生になった時点で漠然と

    そう考えていた。舞台照明を始めたのは大学に入ってからである。小さいころから舞台に

    はとても興味関心があったが、私と舞台との関わりは「観る」と「出る」だけであった。

    小さい頃からダンスを習い、人前に出ることが好きだった。だから大学生になっても舞台

    には「立つ」側の人間としているつもりで演劇活動を始めた。しかし、なぜかそれ以上に

    人手不足で始めた舞台を「支える」舞台照明が面白くなってしまった。「照明についても

    っと知りたい、一生懸命取り組んだ照明を卒業論文で扱えるのは絶対に面白い。」と思

    い、私は授業で唯一舞台照明に関連して取り上げられたアドルフ・アッピアを選んだので

    ある。

    では、アッピアから知りたいことはなにか。私は「舞台照明のもつ力」について掘り下

    げたいと考えた。照明の操作やデザインを続けて行く中で、舞台照明には舞台を構成する

    要素の一つとして、大きな力があると私は確信したからである。例えば、作業灯に照らさ

    れた舞台とデザイナーによって考えて照らされた舞台とでは、同じ舞台でも見え方はまっ

    たく異なる。同じ装置の演目であっても、明度や色味、照射角度の少しの違いで、時間や

    場所を自在に変えることができるだけでなく、まったく異なった雰囲気の空間をもつくり

    あげることができる。時には、感情や音楽のイメージなど、実際には見ることができない

    物事を光で表現することも可能である。私はこの、一つとして同じものは無い芸術的な要

    素に魅力を感じて、舞台照明を続けてきたのだと思う。

    アッピアは舞台照明の力を信じて、生涯をかけて取り組み様々な理念とそれに基づく演

    出を行った。私は彼の理念を追求することで、私の中の舞台照明のもつ力を確固たるもの

    にしたいと考えた。

    今回は、アッピアと舞台照明に関する書籍と論文を読んでまとめた。第一章では、アッ

    ピアについて年表とともに基本事項を確認する。第二章で、アッピアが活躍した時代の考

    え方や技術などを紹介してから、本題である第三章のアッピアの演出と理念に繋げる予定

    である。

  • 3

    第1章 アドルフ・アッピアについて

    まず初めに、アドルフ・アッピア(図 1)がどのような人物であり、どのような人生を歩

    んできたのか、先行研究の遠山静雄著『アドルフ・アピア』、永井聡子、清水裕之著『アド

    ルフ・アッピアの演出理念における舞台と客席の関係性』、杉浦康則著『アドルフ・アッピ

    アの理論と「ニーベルングの指輪」演出』、福島勝則著『光の演出/アドルフ・アピア』をま

    とめて年表形式で紹介したい。またその中の 9 項目については、アッピアの根本の部分で

    あると考えたため詳細を加えた。

    1862年 スイス・ジュネーブで誕生…①

    1873-1879年 全寮制ヴヴェー中学に通う

    1878年 新グランド劇場でシャルル・グノー作曲演出『ファウスト』を観劇…②

    1882 年 バイロイト祝祭劇場でリヒャルト・ワーグナー作演出『パルジファル』を観

    劇※

    ブルンスウィック宮廷劇場でアントン・ヒルトル演出『カルメン』『真夏の夜

    の夢』を観劇…③

    1883年 オット・デフリーント演出の『ファウスト』を観劇

    1885年 『ワーグナー劇の演出』を出版※

    1886年 ワーグナー作コージマ演出『トリスタンとイソルデ』を観劇※

    1888年 ワーグナー作コージマ演出『ニーベルングのマイスタージンガー』を観劇※

    1891-1892年 『ニーベルングの指輪演出へのコメント』を記述…④※

    1895年 『ワーグナードラマの演出』を執筆※

    1898年 『音楽と演出』(原著フランス語)を出版しリアリズムを否定

    1899年 『音楽と演出』(ドイツ語訳)を出版

    1901年 『プリンツレゲンテンの観客席』(原著フランス語)を執筆

    『プリンツレゲンテンの観客席』(ドイツ語訳)を執筆

    1903年 パリで『マンフレート』、『カルメン』の上演を自らの手で行う…⑤

    1904年 『演出の改革に関する考察』を執筆

    1905年 『個人的考察への入門』を執筆

    1906年 ダルクローズのユーリズミックスのデモンストレーションに参加する…⑥

    『音楽への回帰』を執筆

    『リズムの経験』を執筆

    1908年 『劇場に関する考察』を執筆

    1909年 リズム空間をデザイン

    『儀式と関連性』を執筆

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    1911年 ダルクローズの研究所に関わる…⑦

    『ユーリズミックスと劇場』(ドイツ語訳)を出版…⑧

    1912年 研究所第1回フェスティバルにて『エコーとナルシス』を上演…⑨

    『ユーリズミックスと劇場』(フランス語)を出版

    『ユーリズミックスと照明』を執筆

    1913年 研究所第2回フェスティバル

    1914年 第 1次世界大戦でダルクローズ研究所閉鎖

    1921年 『生き生きとした芸術』を執筆

    1923年 ミラノ・スカラ座で装置を担当

    『市民と演劇』を執筆

    『生き生きとした芸術と劇場』を執筆

    『トリスタンとイソルデ』を上演

    1924年 バーゼル市営劇場でワーグナー作『ラインゴールド』の装置を担当※

    1925年 バーゼル市営劇場でワーグナー作『ワルキューレ』の装置を担当※

    バーゼル市立劇場『プロメテウス』で装置を担当

    1928年 スイスのニヨンで死去

    ① 祖父は牧師、父は軍医であり、赤十字国際委員会創設者 5人のうちのひとりで、厳格な

    家系であった。しかしいつも歌いながら仕事をさせるような母と姉の理解に支えられて

    音楽の才能を育んだ。

    ② この上演では、立体的な演出が行われず、平面のみを役者が動く古典的習慣に従った演

    出に対してアッピアは不満を感じた。立体的装置と演出にこだわる動機となった一つで

    ある。

    ③ この劇団はマイニンゲン劇団の影響を受けているといわれる。床面の高低、空間装置の

    新機軸、照明効果などの利用はすべて新しいものである。アッピアは初めて舞台の適切

    な使用を目にし、「彼は…目的に合った配置と適切な照明によって印象的な舞台設定を

    得た。それらはその単純さにおいて驚くほど効果的であった。…舞台の高さの多様さは

    照明を援助、刺激するだけではなく、演技に好都合な効果を持つと、私は固く確信した」

    (杉浦康則著『アドルフ・アッピアの理論と「ニーンベルングの指輪」演出』(2005)

    P.39)と述べている。

    ④ このコメントには、後のアッピアの論理にも見られる音楽、役者、空間配置、照明、絵

    画についての考察が『ニーベルングの指輪』に向けられている。

    ⑤ この公演はパリの伯爵夫人ルネ・ド・ベアルンがその邸内の施設劇場で開いた 3日間の

    慈善音楽会で行われた。アッピアはマリアーノ・フォーチューニー(1871‐)に照明の

    技術的な裁量を担わせた。フォーチューニーがホリツオントとこれに広く投光する拡散

    照明技術の開発に取り組んでおり、「光の造形」という理論において共感し合ったから

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    である。

    当時は照明機器から直接的な光を放ってまずは明るさを得ることが優先されたのだ

    が、二人は舞台奥にドーム型のホリツオントを仮設する。この歪曲面は、この頃では最

    も強い光を放つが、光量を調節するのが難しいアーク灯を数個ずつ組み合わせ、観客か

    らは見えない位置から投光した。光はドームに反射また屈折して拡散するので「舞台空

    間全体が光のエーテル」で満たされ、太陽の白い光の下に佇むような雰囲気が得られた。

    加えて光の明暗を創り出す光量調節と、赤、青、黄の色彩を生む彩色機能を兼ねた仕

    組みも開発した。それは木枠に二本の布製のリボンを上下のローラーで巻いて回転させ

    るよう取り付け、一本の布リボンには赤、青、黄が染められ、二本目は白布の一部が黒

    く塗られていた。これをアーク灯の強い光の前に衝立のように立て光を透過させると、

    ローラーの回転にしたがって三色の色彩が、また白黒リボンによって光の明暗が生まれ

    た。それらを微妙に調合し、ドームと一体となる照明空間を生むのである。

    これらの仕組みの革新性は、従来の照らす照明を直接照明とすると、間接照明の理念

    が実現されたことである。すなわち舞台装飾の絵や舞台装置の擬似的リアリズムに拘束

    されない舞台が、光の新たな工夫によって創出されたことである。「色彩と光が容易に

    切り離せない密接さ」をもつだけでなく「自由に空間に歩み出てそこに広がる光」が実

    現された。光がアートな空間を創り出せることを実証したのである。

    ⑥ アッピアは音楽教育家であり舞踏家であるエミール・ジャック=ダルクローズ(1865‐

    1950)と出会い、バレエの伝統とは逆の立場に立つダルクローズのユーリズミックスと

    いう身体訓練を体験した。この身体訓練を、俳優の身体をいかに空間に表現するかとい

    う訓練としての必要性から採用し、リズムを劇場空間に還元する方法に適用された。

    ⑦ ドイツ・ドレスデン郊外のヘレラウに設立されたダルクローズの研究所において、ダル

    クローズに欠けていた、照明、装置、ホール内のアイディアを提供して芸術的側面をサ

    ポートし、オーディトリウムを共同で設計した。プロセニアムというルネサンス以来の

    劇場形態に代わって、オープン・ホールは舞台と客席の境界を無くすことを目的とし、

    長さ 49m幅 16m高さ 12mの中に 250人の役者が演じることが可能な演技エリアと 560

    席の観客エリアがあった。また、オーケストラピットは従来のオペラハウス同様に沈め

    た。

    一方ダルクローズは、教育面を担当した。アッピアの演出に伴う建築的側面の変更を

    受け入れつつも、リズム体操を芸術的表現としてではなく、あくまでも教育の一環とし

    て捉えていた。従って、劇場改革としての立場にないといえる。

    ⑧ アッピアはダルクローズから劇場に対する捉え方の影響も受けている。「ユーリズミッ

    クスという身体表現を、俳優の感受性を養い、俳優の動きを空間に対して敏感にさせる

    ものであると同時に、観客への受動性を能動的にするものと捉え、これを劇場空間への

    アプローチの前提とした。その結果、空間は生命を与えられた感の様相を呈し、必然的

    に劇場空間の変更も要求することをここで述べている。」(永井聡子、清水裕之著『アド

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    ルフ・アッピアの演出理念における舞台と客席の関係』(1996)P.83)

    ⑨ この演出において、照明の分野でロシアの芸術家アレキサンダー・フォン・ザルツマン

    の協力を得ていた。アッピアはここでもフォーチューニーのシステムを採用し、さらに

    改良を加えた。大ホールの壁と天井とを半透明な布で包み、その内側に 3000 個の電球

    を配し、間接照明の効果を挙げた。これによって客席の暗めの雰囲気と明るい舞台との

    際立った区別を避けた。「かような設備は、色彩、形態、動作のすべてが音楽との関連価

    値を問題とするときは欠くべからざるものである……光は魂をゆるがす音楽によって

    支配される。光は動きを表現する」(遠山静雄著『アドルフ・アッピア』相模書房(1977)

    P.54)とアッピアは言う。この演出が世界的な絶賛を浴びたことで、アッピアの新演出

    理念が認められたということができる。

    アッピアは上の年表のように、実際に演出という立場で関わるのではなく、その活動の大

    半は執筆活動であり、自身の理念を展開していった舞台芸術家である。アッピアと関わりの

    あった有名な人物として、ダルクローズ、コポー、クレイグが挙げられる。

    アッピアの舞台芸術への改革は、当時の音楽劇を上演する劇場では空間と身体との関係

    が失われていると感じたところから出発している。俳優の動きと周りの空間の改革には、リ

    ズムへの知覚が考えの根底にあったが、それを具体的な空間に還元する手段となったのが、

    ダルクローズのユーリズミックスである。俳優の空間を意識した動き、観客の能動性及び照

    明の表現性への要求は、近代の劇場空間にもとめられた舞台と観客の融合関係を導くこと

    になり、その後のアッピアの理念の軸にもなった。

    ジャック・コポー(1879‐1949)はアッピアの理念に共鳴し、深い感銘を覚えた。そし

    て他の人たちが考えるようにアッピアを夢想家であり、神秘的であるとは思わず、アッピア

    に接した誰よりも明確に劇場の問題を見つめた特殊な芸術家として認めた人物である。コ

    ポーはアッピアに学び、アッピアの理念をヴュー・コロンビエの舞台に移植した。

    エドワード・ゴードン・クレイグ(1872‐1966)とアッピアは多くの共通点を持ちなが

    らも、考え方に相違点があることを認め合った。両者はチューリッヒで一度面会して以来手

    紙のみのやり取りのみであった。

    また※はすべて音楽家リヒャルト・ワーグナー(1813‐1883)に関連した事項である。

    ワーグナーについては第 3章で詳しく述べていく。

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    (図 1)アドルフ・アッピア

    出典:遠山静雄著『アドルフ・アピア』相模書房(1977)裏表紙

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    第2章 背景

    Ⅰ. 舞台照明の歴史と芸術観

    アッピアの演出方法や理念を扱うにあたり、舞台照明の歴史や当時の芸術観を知る必要

    があると感じた。そもそもアッピアが活躍した頃の舞台照明の技術やその演出方法は、どの

    ようなものであったか。舞台照明の基礎が確立され始めた 17世紀初め頃から、アッピアが

    活躍した 20世紀初め頃までの舞台照明の歴史とそれらに関わる当時の芸術観についてW・

    シヴェルブシュ著、小川さくえ訳の『闇をひらく光』に詳しく記載されている。それを参考

    にしてまとめたので、紹介していきたい。

    舞台照明は 17世紀に発展した。当時の舞台は、従来のバロック的な劇場にみられた華麗

    な展開、幾何学的な厳格さ、寓意人物や華美を凝らした幕切れが主流であった。舞台装置は、

    支配者の視点から見えるように遠近法が調節された一点透視画法が用いられていたため、

    舞台照明もそれにのっとったものであった。

    しかし、18 世紀に入ると、自然、自然の模倣、自然らしさ、イリュージョンという言葉

    と共に自然主義の考え方が広まっていった。またその動きの中で、多くの観客にとって不自

    然にみえてしまう一点透視画法の舞台装置は否定された。この流れの中で、舞台照明も自然

    を模倣したものが求められるようになった。しかし、光力を上げる技術がなかなか生み出せ

    なかったため、その要求に応えることなく、17 世紀から続く照明技法を基本的に受け継ぐ

    かたちとなった。

    当時の舞台照明は、外枠をあかりで標示した一種ののぞきからくりであった。この技法は

    3種類の照明から成り立っている。プロセニアムと書割に取りつけられた側面照明、俳優た

    ちを前後から照らし出すフットライト、プロセニアム上部と一文字に取りつけられ、反射鏡

    で下方を照らしだす上部照明である。しかし、先ほどから言っているように、当時の照明の

    光力の弱さから、十分な効果が発揮できるのは俳優たちとの距離が最も近いフットライト

    のみであった。それは、自然らしさを重視した 18世紀の芸術観には良いことではなかった。

    なぜなら、自然の光が上方から降りそそぐのに対し、フットライトは下から照らすために、

    不自然な雰囲気をつくってしまうからである。また俳優たちが光に当たろうとして、前に出

    てきて芝居をしてしまうのも自然主義の考え方に反していた。

    18 世紀において問題であったのは、フットライトが唯一実用的なものでありながら、不

    自然な印象を与えてしまうという矛盾を孕んだものであった点である。

    この問題を解決するため、19 世紀初めには、上部照明のための提案が次々に生まれた。

    フットライトで下から照らす照明をもっと自然な上からの照明に切り替えることについて、

    理論的な取り組みは活発に行われていった。1783年にアルガン式ランプが発明されたため、

    相当遠い距離まで計算にいれた照明操作を可能とするだけの強力な光源はすでに存在して

    いたのである。そこで問題となっていたのは、その強力な光の誘導方法であった。焔をその

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    ままにしておけば、光は上方や横に向かうだけで、下の方にはほとんど行くことはない。

    そこで、人工的に向けるため、反射鏡という技術が生み出された。反射鏡は凹面状になっ

    ており、そこに四方八方に拡散する光をとらえ、焦点に集め、一定の方向へ導くことが可能

    になる、という仕組みである。この技術によって、今まで薄暗かった部分も含めて舞台全体

    が明るくなっただけでなく、フットライトによる不自然な見え方の問題も解決することが

    できた。

    さらに強力な光源が初めて使われたのは、ライシャム劇場などで導入されたガス照明で

    ある。その後、電気アーク灯による過渡期を経て、1879 年にエジソンによって白熱電球が

    発明されていったように、光は着実に明るさを増していった。大きな例をみると、1881 年

    にロンドンのサヴォイ劇場で、空き地に 120馬力の蒸気発電機を据え 1200個の照明を点灯

    させた。また翌年、ミュンヘン電気博覧会には白熱電球の照明器具を備えた仮設劇場が登場

    したことなどが挙げられる(図 2)。

    格段に舞台が明るくなったことで、俳優は舞台前方から離れ、舞台空間全体を自由に動く

    ことが可能となった。しかしそれと同時に、舞台装置の粗が目立っただけでなく、書き割り

    の絵の幻想さが消えてしまった。描かれた光線や影、夕焼けや朝焼けが不自然な表現になっ

    たからである。新しい照明に耐えられ、また自然な舞台装置の手段として、写実的な三次元

    立体感のある舞台建造物が登場した(図 3)。この装置は、室内場面を装置する時は両側を

    壁で包み、天井を乗せて実際の室内と同じようにするなど、いかにも電気投光器の自然らし

    い光にふさわしいものであった。

    明るくなったことは、装置以外の舞台を構成する要素にも影響を与えた。それまでは装置

    や衣装は明るい色彩を使って、照明の明るさを補う必要があった。しかし、照明自体が明る

    くなったことで、その必要性が薄れ、市民的な暗い色彩感覚に変えられるようになったので

    ある。

    そしてようやくアッピアが登場する。その頃、舞台用投光器が発する光に対しては、もは

    や絵に描かれただけの空間だけでなく、現実の空間が必要になった。光の演出法によるさま

    ざまな要請は、100年以上も前からアルガロッティやラヴォワジェ、パットが掲げていたが、

    最終的に解決したのは、電気による照明装置を駆使することのできたアッピアであった。し

    かし、大型の電球はまだ存在せず、調光設備には抵抗器を使っていた。電気照明に移行した

    ごく初期である。アッピアは現実の光を絵に描かれた光と区別して、生きた光と呼んでいる。

    アッピアは、舞台構成のための実際の空間をつくりあげ、それを光によって活かした。演劇

    空間と光の関係性を今日のように強いものにしたのである。19 世紀後半は写実的な演出が

    主流であったが、アッピアは反抗した。そして独自のスタイルを確立することで、以後象徴

    主義、表現主義、省略主義、構成主義等 20世紀の舞台装置を開拓する道をひらいたといえ

    る。

    アッピアの歴史的意義については第 3章で詳しく述べていく。

  • 10

    (図 2)1882年ミュンヘンにおける万国電気博覧会に設けられた劇場の電灯照明装置

    出典:遠山静雄著『アドルフ・アピア』相模書房(1977)P.91

    (図 3)19世紀中期パリの劇場に見る箱舞台、天井が乗せられている。

    出典:同書 pp.29

    Ⅱ. アッピアと劇場~舞台空間と客席空間~

    劇場に関する著作も多く残していることから分かるように、アッピアの舞台に対する情

    熱は、舞台空間だけには留まらず、劇場全体に及ぶものであった。アッピアは自身の理念に

    よって舞台空間と客席の一体化の必要性を訴えていたのである。

    そこで、この節ではバイロイト祝祭劇場(図 4)とプリンツレゲンテン劇場(図 5)を比

    較したアッピアの言説『プリンツレゲンテン劇場の観客席』(1901)を基にまとめられた永

    井聡子、清水裕之著『アドルフ・アッピアの演出理念における舞台と客席の関係性』(1996)

    を参考にして、その理由を考えていきたい。

    アッピアが、独自の理念に基づいた舞台空間と客席空間の融合を目指していた理由は当

    時の時代背景として 2つある。

    1つ目に、社会の変化である。18世紀後半から 19世紀前半にかけて、貴族社会から市民

  • 11

    社会へと変わっていった。この影響により、それまでの中央の席からのみがしっかりとした

    遠近法で見える一点透視画法視覚が否定され、すべての観客に対して同質の視覚条件を追

    及した均質性の高い劇場空間が追求された。ワーグナーによるバイロイト祝祭劇場(1876)

    は、均質な客席空間を目指した扇型の客席である。平土間席を囲み、重層する桟敷席をもつ

    いわゆる馬蹄型形式の劇場が成り立っていたのは、封建社会のヒエラルキー下での、視覚の

    不均質さに対する容認があったからである。

    2 つ目に、19 世紀後半の演劇改革である。この改革において、演出家たちは舞台装置の

    立体化、演出要素として照明の機能の追求を行い、また舞台と客席の一体化を必要としたの

    である。

    では、アッピア自身は劇場に関してどのように考えていたのか。アッピアはバイロイト祝

    祭劇場を非常に評価している。なぜなら、客席において革命的な変化をもたらしただけでな

    く、特徴であった内部空間の装飾性の排除に代表される、機能性の形態表現の追求という点

    で、20 世紀建築の先駆的なものであったからである。この言説では、バイロイト祝祭劇場

    の空間における、プロセニアムアーチの形態と客席の側壁に焦点を当てて評価するととも

    に、プリンツレゲンテン劇場との比較が軸となっている。特に、バイロイト祝祭劇場におけ

    るオーケストラピットに着目し、客席の側壁、内部装飾との関連を述べているので、アッピ

    アは舞台空間と客席空間の融合を目指したということを念頭においてその内容を紹介して

    いきたい。

    初めに、オーケストラピットについてである。劇場空間において重要なのは、「演奏家の

    存在を観客に意識させずに、オーケストラをどこに置くか」である。アッピアは、ワーグナ

    ーが舞台=理想、客席=現実と分ける役割を与えたバイロイトのオーケストラピットを天

    才的創意と述べている。「天才的」と評価した要因として、プロセニアムアーチの存在を挙

    げている。プロセニアムアーチの柱が客席に繋がる印象を与えているため、オーケストラピ

    ットによって「仲介」としての空間を達成しているので、舞台空間と客席空間が融合してい

    るかのように感じるからである。

    それに対してプリンツレゲンテンのオーケストラピットを、舞台空間と客席空間を分離

    する要素と述べている。その理由として、プロセニアムアーチ周辺の装飾が挙げられる。ア

    ッピアは「金色の重たい枠」と言って、装飾と共に、幕が開いた時に観客の目に飛び込む俳

    優とのバランスの悪さを指摘している。装飾が観客の舞台への集中を妨げるといえる。

    次に客席側壁の形態についてである。アッピアはバイロイトの側壁を「進歩した側壁」と

    評していた。その理由として、プロセニアムアーチの柱が、客席空間に入り込み、客席の柱

    の流れに連結していることが挙げられる。客席側壁の扉が奥に引っ込み、客席側壁を形成す

    る柱が舞台に近づくに従って客席側へ突き出て、プロセニアムアーチのラインにつながっ

    ているので、アーチの存在が独立した印象を与えず、自然に視線を舞台に向かわせる効果を

    果たしている。舞台=理想、客席=現実として分ける要素であるプロセニアムアーチは、ア

    ッピアの言説において、舞台と客席とを有機的に繋げている要素として捉えられているの

  • 12

    である。

    プリンツレゲンテンの場合は、側壁の柱の間に人物像が「水平に置かれている」ため、そ

    れは「一種のバルコニー」となり、客席の側壁がプロセニアムから切り放され、独立した存

    在になると指摘している。また側壁に置かれた人物像と、舞台上の本物の人間を観客は同時

    に観ることになるので、その装飾が観客の注意を引いてしまうので、不要としている。客席

    内で完結したデザインは舞台と客席との有機的結合を見いだせないものとアッピアは考え

    ている。

    最後にその他の空間要素のデザインについてである。バイロイトの場合、緞帳のスタイル

    や色の調子などが客席の側壁とバランスを取っている点から、「完全に調和の印象」を与え

    ると述べており、舞台と客席との関連性を帯びることを強調している。また舞台へ向かう天

    井のラインを「無意識に引き寄せる雰囲気を与える」要素として、自然に観客の視線を舞台

    に向かわせる役割をもつものとして指摘している。

    バイロイトの舞台と客席における建築的側面について「驚くべき天才の総和」と賞賛して

    いるが、舞台美術に関しては、欠点として「ワーグナーは観客をスペクタクルに結びつける

    ラインに欠けていた」とし、舞台美術における改良の必然性を指摘している。

    バイロイトとプリンツレゲンテンは、一見とても似たように感じるが、以上のアッピアの

    指摘からもわかるように、舞台空間と客席空間の融合を目指していたアッピアにとっては、

    舞台の構造、客席の側壁の扱いにかなりの相違があった。またアッピアがバイロイト祝祭劇

    場を非常に評価していたことも示しているが、ワーグナーの妻コージマの反対によって、ア

    ッピアはこの劇場で上演することはできなかったのである。

    (図 4)バイロイト祝祭劇場内部 (図 5)プリンツレゲンテン劇場内部

    出典:永井聡子、清水裕之同書 pp.82 出典:同書 pp.83

  • 13

    第3章 理念と演出から考える舞台照明の持つ力

    Ⅰ. アッピアの理念

    アッピアは、独自の理念に基づいた舞台空間と客席空間との融合を目指した。この点につ

    いては前章で紹介した。では、その考えの元となったアッピアの理念というのはいったいど

    のようなものなのか。アッピアの理念の原点にあるのは三次元的俳優が、二次元的な舞台装

    飾空間で動くことに不満を抱いたことである。「なぜなら相も変わらず絵画的な書割装飾舞

    台と固定フットライトのなかで、演技者は許された平面の床を行き交うだけであったから

    だ。何よりも“生きているものが生命感のない雰囲気で表現されている。表現に一手段たる

    演技は徹底的に研究されているのに対して、表現の最も効果的な手段である光(それなしに

    は深遠な表現はあり得ない)が無視されているからだ”と思われた。」(福島勝則著『光の演

    出/アドルフ・アッピア 1903~1913』佐藤正紀教授退職記念論集刊行委員会 三恵社(2011)

    P.164)

    上記のアッピアの考えを理解するために、まずは「ミザンセーヌ」という言葉をみていき

    たい。「ミザンセーヌ mise en sceneは演出とも訳されあるいは狭義に舞台美術の意味にも

    使われるが、ボーマンならびにボール著“演劇術語辞典(Walter P. Bowman and Robert H.

    Ball: Theatre Language, 1961 by Theatre Arts Books, New York)によると“舞台監督(演

    出家)が行う舞台装置、俳優、照明等によって舞台画面を構成するあらゆる要素の配列を意

    味する”という」(遠山静雄著『アドルフ・アピア』相模書房(1977)P.74)

    しかしアッピアにとってのミザンセーヌはこのような意義を持っていない。アッピアは

    この言葉を使って下記のように述べている。

    「“演劇を作るには二つの段階がある。第一に戯曲作家は彼の発想を戯曲の形式に置き換

    える。次に観客が演出の要求に対応するところのテキストに置き換えられる。この第二のプ

    ロセスすなわちミザンセーヌの創造は劇作家には出来ない。(中略)劇作家が公演に対して

    制御力を持たないとしてもなお表現の機能を行っている。それは戯曲自体が新しい方法に

    よって観客の嗜好に常に適応するからであり、公演の形態が書かれた作品に限定されて頑

    迷である場合よりも、戯曲自身の持っている表現機能が遥かに大きな拡がりと遥かに長い

    命を与えるからである。しかしその戯曲の舞台装置の形式は時代による変転から逃れるこ

    とは出来ない、すなわちミザンセーヌは表現媒体ではなくまたなり得ないことが証明され

    る。(中略)従って、その方法は芸術家の独自の意志によるものであるから芸術家が自分自

    身の中で心の伝達に必要とした表現手段は他人達の間に分与されることは出来ない。”

    こうした観念に立ってアッピアはミザンセーヌという言葉の意義を、劇作家が抽象的に

    述べているところを技術的方法で表現するに過ぎないものとしている。」(同書 pp.75-77)

    ようするにアッピアにとってのミザンセーヌは、舞台を構成する技術的な要素であり、演

    劇術語辞典に書かれているような考え方とは異なったものであることが分かる。

  • 14

    上の引用だけでは理念を理解しきれないので、アッピアが考えるミザンセーヌについて、

    さらに掘り下げていきたい。

    「そこでミザンセーヌが戯曲の必須要素となるためには、又芸術的表現の媒体となるた

    めには、劇作家の意志を還元通過しないで戯曲の基本概念から直接導入される原理がミザ

    ンセーヌを規定することを認識しなければならない。ミザンセーヌは、前にも述べたように

    固定した三次元の造型に過ぎないのではなく、時間と共に変化する四次元の世界であり、そ

    れが戯曲の精神とのつながりにおいて統合性と調和性を持つべきであるとする、いわゆる

    20 世紀の演劇理念となった“演出至上主義”の烽火を挙げたのがクレイグと共にアピアそ

    の人であった。」(同書 pp.78)

    アッピアは従来の描かれた二次元の背景と三次元の俳優の動作とが矛盾していると感じ

    ていた。そこで、アッピアは二次元と三次元を統一することを試みた。舞台装置を立体的に

    して、すべてを三次元にしたのである。

    アッピアはそのようにして、各要素の統合調和の下に戯曲のもつ「inner life(内部生命)」

    を描くことが目的であり、その統一理念の根源を音楽に求めた。アッピアは舞台装置の在る

    べき立場と基本理念を述べて、自分が実際にワーグナーの音楽劇に対する装置を試みる上

    の前提を示しているのであるが、更にこれを具現する上に必要な理論を展開していく。

    それにはアッピアまず音楽に対する考察をした。音楽はアッピアにとって、彼の装置を具

    現化する上の最も大切な要素であるからだ。アッピアは音楽の果たす役割を下記のように

    考えていた。

    「この新しい領域において音楽は単に言葉だけでなく公演に際して舞台上の場景要素に

    よって我々の目に掲示される戯曲の分野においても堅く結ばれていることが見いだせる。

    故に音楽の表現的役割を抽象しミザンセーヌとの関連性を考えることが可能だといえよう。

    (中略)その規制原理は空間の中の割合と時間の継続を支配するところにあり、この両者は

    互いに係り合う」(同書 pp.79-80)

    確かに音楽によって制限された中で、芝居をしなくてはならない場合、俳優は決められた

    箇所までにその演技を終えなくてはならないので、毎回同じ演技をするようになるだろう。

    劇作家には成し得なかった時間的な支配が音楽では可能なのである。

    このような理由からも、アッピアは楽劇を演劇の最高形態、演劇の神髄であるとした。そ

    の楽劇がどのようにして組み立てられるのかを示したダイヤグラムが 2 種ある(図 6,7:こ

    れはアピアの仏文原本にはなく、独訳本に掲載されているものをマイアミ大学版に英文で

    記されたものをそのまま著者が示したものである。)ので、それを元に考えていきたい。

    このダイヤグラムを理解するためには、四次元の時間を認識しなくてはならない。ミザン

    セーヌを時間の変化を伴う空間の計画であると見るならば、割合と継続とが重大な問題と

    なってくるからである。

    戯曲において劇作家は台本の量と順序によってこの力を示しているように見えるが、台

    本は決定的な継続時間を占めさないから意味が違う。ところが前にも述べたように、音楽は

  • 15

    戯曲の時間継続を決定するだけでなく、劇的行為を時間そのものの存在として視覚的に考

    えなくてはならないのである。

    「これこそ、独自の意志から湧き出る指導原理を有し、元の劇作家の意志を濾過しないで

    容赦なく又執拗にミザンセーヌを指図するところの‘楽劇作家 word-tone poet’である。」

    (同書 pp.83-84)

    俳優の演技が音楽から影響を受けやすいことはわかるが、舞台照明や装置にはどのよう

    に関わるのだろうか。

    「話劇においては、たとえば悲しみを表すため俳優は脚本の指定するところに従って言

    葉と表情で示す。従って顔の表情を観客に伝えるために照明は視覚作用を与えることのみ

    が重要課題となる。しかし楽劇においては既に音楽的表現によって状況そのものが戯曲の

    内部生命を直截に訴えて観客はその情緒を感じてしまう。そうなると話劇において俳優が

    最も重要不可欠の役割を占めているのに対し、楽劇においてはミザンセーヌの一要因に過

    ぎず、他の要素よりも特に重要であるとはいえなくなる。」(同書 pp.84)

    ここでようやく(図 6)をみてみたい。

    「音楽(最も広範な意味において)から作者の具現する戯曲の概念が生れ、詞と調によっ

    て戯曲が構成される。そして俳優、装置、照明、絵画を通して提示されるものが楽劇の創造

    となる。この前段すなわちダイヤグラムの上半分は戯曲の頭脳的中枢要素であり総譜とリ

    ブレット(Partitur)の内に表現される。後段すなわちダイヤグラムの下半分は戯曲の空間

    要素であって舞台の上に表現される。この後段がミザンセーヌであるが、この中に含まれる

    諸要素が根源である広範囲の意味の音楽の縦のすじの中に包括されて独自に遊離すること

    は出来ずそのまとまりによって楽劇が創り出されることを示している。

    これがアピアの望む演劇形態の基本構想であるが、更に見方を変えて楽劇の成立過程を

    ダイヤグラムで示したものが(図 7)である。これは俳優の例から見た楽劇構成であって、

    音楽的表現から楽劇に到達する過程を円周の一点から出発して二つずつの要素が逆回りを

    して最後に集結する点に楽劇を求める形式で表している。

    右回りには交響楽があり、それ自体は人体からは分離して我々の内部生命を完全にかつ

    自由に表現する。次に語りがあるが、これは内部生命を一層決定的なものにする要求から人

    体と密接な関係を得るためのものである。左回りにはまず舞踊がある。これは我々の内部生

    命を表現することを差置いて人体に純粋に音楽的表現活動を附与するものである。次にパ

    ントマイムがある。これも同様に単に人体の音楽的活動を会得するためのものである。この

    両方を辿ったものが結合された最高の展開が楽劇となるのである。」(同書 pp.85-86)

    このダイヤグラムに集約する考えをアッピアはこう記している。

    「話劇においては作者は言葉のみを使う。日常生活の外観が俳優に示され、俳優はその尺

    度で演技の時間と継続を処理する。だから俳優は情緒の外面的効果を注意深く観察しなけ

    ればならない。(中略)

    楽劇においては俳優は彼の演技に対し単に示唆を得るだけではなく正確な割合が与えら

  • 16

    れる。強弱の変化は日常生活から学び得たところからは引き出すことはできないが音楽的

    表現はそれ自身の中に必要な強弱の変化をもっている。だから詩的音楽的台本の長さと意

    味はこの種の俳優に生命を提供する。話劇においては日常生活から汲み取らなければなら

    なかったものが、楽劇においては総譜の中に含まれている生命から直接得ればよいのであ

    る。」(同書 pp.87)

    (図 6)に戻って戯曲の空間要素について考えてみると、アッピアは俳優、装置、照明、

    絵画が基本的には音楽の理念で統一され、音楽を元として個々の要素が組み立てられ、それ

    ぞれの関係が常に密接に関連を保つことを主張するのである。俳優も装置家も照明家もす

    べては戯曲の内部生命を表現するために存在するのである。

    「ミザンセーヌの各要素は三次元の空間を征服しなければならない。俳優の行動が時間

    帯を持っているのだから、一見静止固定と思われる装置も照明という新しい素材によって

    同様に時間帯に生き、変化をしなければならない。ここにおいてはじめて四次元のミザンセ

    ーヌが完成する。」(同書 pp.90)

    つまりアッピアは照明を三次元から更に四次元にするための手段として用いたのである。

    ミザンセーヌの各要素の中で時間帯を表現できるのが照明のみだからだ。それ以上に、アッ

    ピアにとって照明と音楽は近い役割を果たすものである。

    アッピアの考え方からすれば照明の配置は他の要素の空間配置に準じて行われるべきで

    あるが、その前に光の存在を考えなくてはならない。昼光と人工光との間に存在する関係か

    ら導かれる用途の根本的区別についてこのように書かれている。

    「昼光は全空間に渡り、どの方向から来るかわかる。光の方角は陰影でのみ知ることがで

    きる。光の質を知らしめるのは影の質である。影は空間を照らしているものと同じ光によっ

    て形づくられる。この巧妙な効果は人工光では得られない。(中略)だから舞台上の仕事で

    は、一部の照明設備は全般照明用とし、残りは集光された光束によって影を落とすように区

    分されなければならない。これらを拡散光と生きた光と呼ぼう。」(同書 pp.92)

    アッピアはこのように光を 2 つの概念に分けて考え、またそれを表現するために下記の

    4つの照明設備を使用していた。

    1. 描かれた平面を照らすための固定されたボーダーライトならびに袖や舞台床に補助と

    して使われる可搬ストリップライト。

    2. 装置や俳優を前下方から照らすためのフットライト。

    3. 正確な光柱に焦点を合わせる、あるいは色々な投光を行うための可搬スポットライト。

    4. 裏側からの光で舞台装置の透明部分を顕す透過照明。

    (同書 pp.93-94:配置については図 2を参照。)

    アッピアは、上記の異なった照明を同時に使用していた。しかし、当時の一般の劇場では、

    これらの器具を全部使って、照明の諧調を考えていなかった。アッピアの在来の舞台批判は

    下記のようである。

    「光は表現力をもつという美点において見えるということから区別されなければならな

  • 17

    い。もし表現がなければすなわち光はない。これが我々の劇場の場合である。一般の劇場の

    場合は人々は‘見る’ことはできる、しかし光は無い。」(同書 pp.94)

    アッピアは、拡散光と生きた光とについて、各種の照明器具をいかに配置するかが大切で

    あり、可動的で使いやすい光源のスポットライトは、生きた光を作ると考えた。これは、照

    明を変化するのに使われ、全舞台装置の表現力に重要な関連を持つ。この光の関係は装置自

    体に属し、装置の空間配置と同時にかつ調和をもって配置する。2つの光の相互関係は割合

    の問題であって互いの技術的限界を規定することはできにものである。

    「拡散光と生きた光とは同時に存在するが、強さの度合いに変化がある。拡散光は単に作

    用のためにあるか又は戯曲の指示するところによって使われる。生きた光は月や篝火のよ

    うに夜を表すためかあるいは超現実的に使われる。こうした要求以外に両者混用の可能性

    には無限の変化がある。しかしいかなる両者の併用においても、たとえ拡散光の知覚を感じ

    ないでも生きた光だけで効果がつくられる。そんな時はその光が一般観客の視覚条件とな

    るであろう。

    影を無くすることは生きた光を殺すことである。全舞台装置は俳優と共に各方向から照

    らされることである。それは拡散光によって舞台を見ることを企てるからである。影は中和

    されてしまう。その上更に生きた光が用意されなくてはならない。稀な例外であるが、‘視

    覚’から始めるといわないで二種類の照明形式の一つ(生きた光の意)を他に係わりなく定

    めることがある。その時は拡散光の強さは生きた光に従って調整される。

    二種類の光の間の基本的な相違は新しい装置原理に基づく照明に適応する技術的布石に

    過ぎない。新しい装置原理においては色が照明と切り離すことの出来ない関係になってく

    る。」(同書 pp.95)

    また、アピッアは画家が絵具によって表明した色彩を光に置き換えた。光は色や形の変化、

    動きも表現可能であるので、空間における色彩を重視し、装置の単純化を提唱した。なお、

    色光を使うことにおいて絵具で描かれた画面の相貌が変化して画家の意図が抹消されたこ

    とは前章で述べたが、この点でもアッピアは従来の絵画的舞台装置を拒否し、「空間におけ

    る色彩」を重視し、装置の単純化を提唱している。

    加えてアッピアは「音楽の正確な比率」に基づくため、「実生活で観察した変化を取り入

    れることではなく、日々の経験から得たものを再創造する融通性」を指向した。その点につ

    いて、アッピアは「照明のリアリズムは、それ故、装置の具体的なリアリズムと違う性質で

    ある。つまり、後者は状況の模倣に根拠を置くが、前者は観念の存在に根拠を置くのである」

    (永井聡子、清水裕之同書 pp.81)というように、照明の表現性を求めた。ここからすでに

    アッピアの演出理念は当時の主流であったリアリズムではなく、現実を抽象的に表現する

    反リアリズムの立場であったと考えられる。

    「彼の重要な提案は演出の各要素の統合調和を計りこれを三次元の世界に求めることで

    あった。更に演出の進行に伴う第四次元の時間帯を統合の一要因として特に照明の機能を

    重視したところにある。そしてこれらの統合の目的が戯曲の内部生命表現にあることを力

  • 18

    説した。」(遠山静雄同書 pp.100-101)

    (図 6)アッピアの理念を示すダイヤグラム(Ⅰ)

    出典:遠山静雄同書 pp.85

    (図 7)アッピアの理念を示すダイヤグラム(Ⅱ)

    出典:同書 pp.86

  • 19

    Ⅱ. リヒャルト・ワーグナー作品の演出

    「音楽家 R.ワーグナー(1813-1883)の音楽と言葉の融合した作品をいかに上演するかとい

    うことから出発し、音楽をベースにした舞台の上演を考察することに主眼をおいて生涯を

    送った。」(永井聡子、清水裕之著『アドルフ・アッピアの演出理念における舞台と客席の関

    係性 P.80』)とあることから、最後にこれまで何度も登場してきたワーグナー作品を通して、

    照明のもつ力について考えていきたい。

    まずワーグナー自身について遠山静雄著の『アドルフ・アッピア』を参考にして軽く触れ

    たい。ワーグナーはロマン派の作家であり、『トリスタンとイソルデ』では死が愛によって

    あがなわれるテーマが扱われている。しかし人間の真実性を探求することにおいて、ロマン

    派を乗り越えていく過程体験の中に自然主義の思想の流れをも示している。ワーグナーの

    根本思想は、19世紀芸術思想の中で自然主義者達がキャッチフレーズとした「自然に帰れ」

    の言葉に合致する。アッピアはワーグナーの理論に共鳴して更にこれを展開して行くので

    あるが、ワーグナーがいささか無視して放置した感のある舞台美術の造形面においてその

    力を発揮し、総合芸術の完成を目指したといえる。またワーグナーは旧来のオペラ劇場に対

    する不満から、民衆のための祭典として厳粛な意味をもたせたバイロイト祝祭劇場を建て

    た。この劇場が後にアッピアが自らの仕事を提供したいと強く思った劇場である。

    しかしながら、アッピアはワーグナー演出の『パルジファル』、コージマ演出の『トリス

    タンとイソルデ』、『ニュンベルクのマイスタージンガー』を観劇した際に失望した。絵画的

    な書き割り装飾舞台と固定フットライトのなかで、演技者は許された平面の床を行き交う

    だけであったからだ。「生きているものが生命感のない雰囲気で表現されている。表現の一

    手段たる演技は徹底的に研究されているのに対して、表現の最も効果的な手段である光(そ

    れなしには深遠な表現はありえない)が無視されているからだ。光はここでは単調な背景に

    投射されてはいる。しかし不幸にして、それは劇そのものを、特に音楽に影響を与えること

    もなく、音楽の衝撃が、それに対応する光の効果がないために弱められてしまっている」(ア

    ドルフ・アッピア著『ワーグナー劇の演出』(1885)を福島勝則が『光の演出/アドルフ・ア

    ッピア』で紹介)

    前節でも述べたが、アッピアは照明には表現性があり、また音楽に影響を与える力をもっ

    たものだと考えていたことがこのことからもわかる。

    アッピアがワーグナー作品を上演できたのは、60歳を過ぎた晩年からである。

    1923年 12月 20日に『トリスタン』を上演する。この公演は、本格的な劇場でアッピア

    の装置を使って上演することができた唯一の作品である。まずはその時の舞台装置の記録

    について取り上げたい。(図 8,9)は第 2幕の舞台を描いたもので、(図 8)は松火が燃えて

    いるとき、(図 9)は松火の消えている時である。この舞台の見取り図と平面図が(図 10)で

    ある。この演出については、スカラ座の上演よりも 34 年前に出版された`Die Musik und

    die Inscenierung’(1899)の付録にアッピアの意図が示されており、それを遠山静雄が『ア

  • 20

    ドルフ・アピア』に略述しているので、ここに紹介したい。

    「第二幕;イゾルデが登場するとただ二つのものを見る―トリスタンに対する信号用の

    燃えている松火のセットとそれを包む暗黒。彼女は城の庭と明るい夜の深さを見ない。彼女

    にとってそれはただトリスタンを離す恐ろしい空虚のみである。ただ松火のみがそれが何

    であるかを示すように残っている―恋する人から彼女を離すしるしなのである。ついに彼

    女はそれを消す。時は止まった。時間、空間、実世界の反響、恐ろしい松火―すべてのもの

    は消え去った。何も存在しない、トリスタンが彼女の腕の内にあるからである。

    これがいかに、理屈にたよらず、頭脳の努力を意識せずに、観客をこれからの出来事の内

    的意味を認めさす舞台面を実現し得ることか?

    幕が開くと舞台中央に大きな松火がある。舞台は俳優をはっきり見せることが出来るだ

    け明るいが、末尾の焔を暗くするほどの明るさではない。舞台を取り巻く形は辛うじて見え

    る。かすかにわかる線は樹木を示している。

    しばらくすると眼は舞台に馴れてくる。次第にテラスのある建物の形がはっきり、あるい

    はかすかにわかるようになる。第一場の全体を通じてイゾルデとブランゲーネはテラスに

    あり、彼らと前舞台との間には斜面のあることは感じられるが、その詳細な状況は見えぬ。

    イゾルデが松火を消すと装置は半明りに覆われよく見えなくなる。

    トリスタンに向かって駆け出すときイゾルデは囁くような闇に没している。両者の相合

    う最初の法悦の間、彼らはテラスに残っているが、クライマックスになると彼らは観客の方

    へ近づいてくる。ほとんどわからないようにテラスを離れて、かすかに見える足どりで前舞

    台に近い台のごときものに達する。すると、われわれが次第に世の終わりを知るにつけ、彼

    らの望みがある唯一の考えで結ばれているごとく見えてくる。彼らはついに最前方に出て

    きて、そこではじめて彼等はベンチが彼らを待っていることに気付く。彼等を取り巻くまっ

    たく秘密の暗い空間の調子はいっそう全般的になってくる。テラスや城の形は没してしま

    い、舞台床の違った高低もほとんど見えない。

    松火が消えて暗くなった暗さとの対称のせいか、あるいはわれわれの眼がトリスタンと

    イゾルデの踏んできた道をたどる故か―それはいずれでもよい―どちらにしても二人を囲

    むすべての物体が、いかに柔らかに彼らを揺り動かしているかを感ずるのである。ブランゲ

    ーネの歌の間、光はいっそう暗くなり、人物の形はもはやはっきりした輪郭さえわからなく

    なる。すると突然(オーケストラの 162 頁、最初の ff で)右側の舞台奥に薄い光が射す。マ

    ルク王と武装した兵士たちが進入してくる。ゆっくりと冷たい無色の昼光が増してくる。舞

    台装置のおもな輪郭はわかりはじめ、その色はすべてが渋いものであることが示される。ト

    リスタンは自己制御の最大の努力によってやはり生きていたいのだということを知って、

    メロトに決闘を申し込む。

    舞台装置は、冷たい色で、骨のように堅く、夜明けの光で一部分のみが明るく他は柔らか

    い薄暗がりのうちに残され、ベンチがテラスの下にあるのみ。」(P.62,63)

    この公演に対する批評は賛否両論であった。特に保守的な批評家達から非難をあびたの

  • 21

    である。その主な点は演技面全部を幕で囲み、樹の枝や幹も幕で表したように、あまり幕を

    多く使い過ぎることにあった。特に装置に色が無いことが、一般観客には単調で一向に冴え

    ないし、印象を与えないという不満になった。また本物の色を排除したことに対して「冒涜

    の精神」と非難する論者もあった。「あまりにも単純化された装置は、自由に想像を誘起す

    るまでに至らない」と戸惑った感想もあった。伝統的な演出形態に心酔している一般観客や

    パトロン達の嗜好を一気に変えるわけにはいかず、否定されたのである。

    一方で好意的な批評家達からは多くの賛辞を得た。アッピアは「従来の色紙を並べたよう

    なありふれた装置を投げ棄てた優れたアイディアである」と褒められている。背景の色は衣

    装を引き立てた、という意見もあった。またアッピアの姿勢に対して、戦闘意識が漂い、反

    アカデミックでいきいきとしている、という者もあった。ある批評家は「幕の使い方には異

    議があり、ワーグナーの作品が持っている精神と様式と、装置の精神と様式との間には深い

    溝があるが、赤い幕と青い衣装の色彩計画、歌手が装置に溶け込んで青と銀の交響楽を奏で

    るような照明効果、クルヴェンタルの影の効果は素晴らしい」と述べた。このようにおおむ

    ねアピアの意図を理解しようと努められていたといえる。

    (図 8)『トリスタンとイゾルデ』の舞台面(松火のある場面)

    出典:遠山静雄同書 pp.58

    (図 9)『トリスタンとイゾルデ』の舞台面(松火の消えた場面)

    出典:同書 pp.59

  • 22

    (図 10)『トリスタンとイゾルデ』の舞台立面と平面

    出典:同書 pp.60

    1924 年にバーゼル市営劇場で上演された『ラインゴールド』でもアッピアの装置が使わ

    れた。(図 11)この劇場は焼失後の 1909年に再建されたもので、舞台奥行 16m、プロセニ

    アムの幅 10mで、正式のルントホリツオント幕は 1934 年まで無かった。照明設備は貧弱

    であり、フットライト、ボーダーライトの他に 2 つのカーボンアーチ照明装置による舞台

    前部の照明及び 2 つのスポットライトだけであった。照明力はアッピアの要求に対して不

    十分だったが、アッピアの友人であり、後継者でもあるヴェルターリンの協力がありこなす

    ことができた。

    舞台装置に関しては、アッピアが先に構想したものとは大分変っている。それは、バーゼ

    ルの舞台条件によるもので極端に単純化され、高低様々の台、階段、斜面、わずかな柱、袖

    ならびに場面に応じては舞台奥を囲む幕、また多くの場合青灰色の無地背景幕が使われた。

    その他半透明幕にヴァルハルの城を描いて裏から照明する装置や、その書き割背景の前に

    紗幕を使うなどの工夫がされた。アッピアは最初の案よりもむしろダルクローズの場合に

    用いたリズム装置に近いものにし単純化の方へ向かったのである。

    この公演に対する評価は肯定的なものが多かった。「“装置は本質的な単純化でこの楽劇

    の基本的な思想を強く示していた”“すべてが完全とはいえないが、アッピアの偉大な構想

    を賞讃する”“装置のあらゆる点において優れた審美眼と程良い創造的感覚、巧みに計画さ

    れた照明効果”“それぞれが完全な調和を保ちどこにも弱点と誤りがない”其他バーゼルな

    らびにスイス各地の新聞も同じような意見で“偉大”とか“勝利”の辞句を連ねている。」

    (遠山静雄『アドルフ・アピア』相模書房(1977)P.66)

  • 23

    しかし、バーゼル民衆新聞は伝統主義者の立場から、背景による幻想が無いことと、ワー

    グナーの台本に従った演出をしていないことを嘆き、アッピアの演出は「ワーグナーの芸術

    的意図に対する非難」であり、ワーグナーは「おそらくとても怒っている」に違いないと批

    判している。これが反対派を煽り次に記述する不祥事の原因となった。

    (図 11)バーゼルにおける『ラインゴールド』第 2景

    出典:同書 pp.66

    1925 年に『ワルキューレ』が『ラインゴールド』と同じ劇場、同じスタッフで上演され

    た。(図 12)この時も装置は舞台条件に合うように、最初の構想を変えてつくられた。

    多くの批評は褒め、一般観客も受け入れたが、バーゼル民衆新聞は再び「箱を並べ、幕を

    ぶら下げただけで岩山とはなにごとだ」、「諸君が激怒したいと思うなら実際に行ってみる

    がいい」といった口調で罵った。初日が開くと観客席から野次や罵声が起こり、支持する側

    の見物との応酬でいっそう喧騒を増し、最後の幕が降りてもなお 30分も続き、ついに客席

    の電燈を消して真暗にしてしまうより他なかった。しかし議論は家庭や事務所や旅館にま

    で持ち込まれた。これに対して、劇場は声明書を出したが、バーゼルは支持者と反対派(ワ

    ーグナー崇拝者)との抗争になった。その結果、劇場のパトロンは以後ワーグナーの作品に

    対し新しい舞台装置を使用することを止めてしまった。

    (図 12)バーゼルにおける『ワルキューレ』第 2幕

    出典:同書 pp.67

  • 24

    アッピアがワーグナー作品を軸にして創り上げた理論から我々は何を学べば良いのだ

    ろうか。

    「スコーアに従い、楽器が演奏する音の芸術を、ワーグナーとの連携においてアッピアが

    意識したことは当然であるが、アッピアの理論を広範囲に適用する現代の演出理論として

    受け取るためには、この音楽という言葉を具体的な音の芸術とする観念から離れた抽象的

    な理念に導かなければならない。そこにはじめて現代への一般的適用の道が開かれ、アッピ

    アの理念を生かすことが出来るのである。」(遠山静雄同書 pp.101)

  • 25

    おわりに

    アドルフ・アッピアは、空間と身体との関係が失われていると感じたところから出発し、

    自身の理念を展開していった。従来の描かれた二次元の背景と三次元の俳優の動作とを、舞

    台装置を立体的にすることで、三次元に統一することを試みたのである。

    そうすることで、各要素の統合調和の下に戯曲のもつ「inner life(内部生命)」を描くこと

    が目的であり、その統一理念の根源を音楽に求めた。なぜなら、音楽から作者の具現する戯

    曲の概念が生れ、詞と調によって戯曲が構成される。そして俳優、装置、照明、絵画を通し

    て提示されるものが楽劇の創造になるからだ。また、音楽は戯曲の時間継続を決定すること

    もできる。よってアッピアは、楽劇を演劇の最高形態、演劇の神髄であるとし、ワーグナー

    作品に傾倒した。

    しかし、アッピアは三次元では留まらず、四次元のミザンセーヌを求めた。俳優の行動は

    時間帯を持っているからである。そこで用いられたのが照明である。一見静止固定と思われ

    る装置も照明によって同様に時間帯に生き、変化をすることができる。ミザンセーヌの各要

    素の中で時間帯を表現できるのが照明のみだからである。

    照明を活用することで、アピッアは画家が絵具によって表明した色彩を光に置き換えた。

    光は色や形の変化、動きも表現可能であるので、空間における色彩を重視し、装置の単純化

    を提唱した。アッピアは単純化された装置と照明の表現性によって、現実を抽象的に表現し

    たのである。

    冒頭で、「私は彼の理念を追求することで、私の中の舞台照明のもつ力を確固たるもの

    にしたいと考えた。」と書いた。私は今回の論文を通してこの目的を達成することができ

    たと思う。私が舞台照明の活動を通して感じていた、「照明の力で同じ装置でも場所や時

    間帯を変えることができる」ということをアッピアは四次元のミザンセーヌという理論に

    していた。また、「実際には見ることができない物事を光で表現すること」もアッピアは

    ワーグナー作品を通して実践していた。今回、研究を進める中で、私がなんとなく照明に

    対して感じていた多くのことをアッピアが理論立てていたので、とても面白く、興味深く

    進めることができた。アッピアの時代から照明技術自体は大きく進歩したが、根本的な部

    分はあまり変わっていないとも感じた。

    今回の論文では、ワーグナー作品の演出を扱う際に、公演の様子が分かるものがほぼ真

    っ暗の写真のみだったため、研究を進める上でイメージし難かった。また、記述自体もあ

    まり集めることができていなかったので、アッピアの具体的な取り組みに関する内容が不

    十分であったといえ、今後の課題である。

    本論文を作成するにあたり、指導教員の大林のり子准教授から、丁寧かつ熱心なご指導

    を賜りました。ここに感謝の意を表します。

  • 26

    参考文献

    遠山静雄著『アドルフ・アピア』相模書房,1977

    ヴォルフガン・シヴェルブシュ,小川さくえ訳『闇をひらく光 19世紀における照明の歴史』

    財団法人法政大学出版局,1988

    ヴォルフガング・シヴェルブシュ,小川さくえ訳『光と影のドラマトゥルギー』財団法人法

    政大学出版局,1997

    福島勝則著『演劇の課題 光の演出/アドルフ・アッピア 1903~1913』佐藤正紀教授退職記

    念論集刊行委員会,三恵社,2011

    永井聡子,清水裕之『アドルフ・アッピアの演出理念における舞台と客席の関係性 20 世紀

    初頭における劇空間に関する研究 その 1』日本建築学会計画系論文集 第 487 号,1996,

    pp.79-86

    杉浦康則『アドルフ・アッピアの理論と「ニーンベルグの指輪」演出』北海道大学ドイツ語

    学・文学研究会 独語独文学研究年報 第 32号,2005 ,pp.36-56