『ベガーズ・オペラ』訳詞ノート 一、は...

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- 43 - ―― ―― �� ����H 稿John Gay Beggar s Opera

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    注 

    注1、窪田氏著『西行の研究』一四九頁。

    注2、尾崎氏著『類聚西行上人歌集新釈』三〇五頁。

    注3、後藤氏校注『新潮日本古典集成 

    山家集』二五五頁、頭注。

    注4、高木氏著『西行の宗教的世界』二八五頁。

    注5、西澤氏掲書、一七〇頁。

    注6、同右、二九三頁。補注は四五〇頁。

    注7、窪田氏注1掲書、七四九頁。

    注8、窪田氏注1掲書、一四六頁。

       

    追 

     

    本稿は、平成十七年十一月二十六日に開催された「平成十七年度佛教文学会本部支部合同例会武蔵野大会」(於東洋大学白山キャ

    ンパス)におけるシンポジウム(テーマ「西行と仏教」)において、パネラーとして参加した折に発表した私見に、更に資料を追加

    してまとめたものであり、今後予定される佛教文学会機関誌掲載のレポートの冒頭を本稿の要約とするので、従って本稿と重なる

    記述があることを予め報告させていただく。なおシンポジウムの折に述べた衆生教化・済度の実際例や、所謂庶民の教化意識の問

    題については、機関誌のレポートに示したい。

     『ベガーズ・オペラ』訳詞ノート

     

    ――

    テキストから上演へ―

    ㎉�

    孅��擗勱ゅ

    孅����

      

    一、はじめに

     

    翻訳とは、ある文字テキストを別の文字テキストへ変換する作業であるが、翻訳劇を上演する場合の台詞や歌詞

    を書くにあたっては、通常の文字テキストの変換とはまったく別の要素が介在することになる。

     

    戯曲を上演とは切り離して文字テキストとしてとらえ、テキスト変換としての翻訳を行うことはもちろん可能で

    あり、さらにその翻訳テキストに基づいた上演を行うことも可能ではある。特に古典的な台詞劇の場合には、こう

    した翻訳戯曲に基づく上演のほうがむしろ一般的であろう。

     

    しかし音楽劇の場合、文字テキストに加えて音楽という非言語テキストが占める表現の割合が大きく、その音楽

    と不可分に結びついた歌詞を翻訳する訳詞の作業は特に、一般的な翻訳とはかけ離れたものになる。それはテキス

    トから出発して別のテキストへと帰着する過程に、テキストとして記述し尽くすことのできない上演という「フィ

    ルター」を通しているためだという言い方もできるだろう。

     

    本稿は二〇〇六年一月、日生劇場で上演されるジョン・ゲイ(John G

    ay

    )作『ベガーズ・オペラ(Beggar’

    s

    Opera

    )』の訳詞を担当している筆者が、今回の実際の上演にあたってどのような「フィルター」を通したのか、そ

    の一端を自己検証し、「テキスト」から「上演」へと至る過程の一側面を記述しようとする試みである。

     

    現時点は二〇〇五年十一月半ばに始まったリハーサルの最中であり、全部で六十九曲ある音楽すべての訳詞を一

    通り終えてはいるものの、リハーサル中に演出家や俳優とのやりとりの中でいくつもの歌詞の変更をしながらの執

    坂口博規先生.indd 2006/03/02, 10:0942-43

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    筆である。そもそもそれが実際の上演において、結果として観客にどのように受け入れられるかは、今のところまっ

    たくわからない。したがって本稿は、作品完成前の訳詞ノートと言うべきものであるが、その総体をテキストとし

    て記述し定着させることのできない上演という事象を扱うには、むしろ創作現場における現在進行形の記録こそ、

    その実態に近いものになる可能性もあると考え、このような形でまとめることにした。

     

    はじめにこの作品と公演の概略を記しておくと、今回の上演は東宝の製作による約一ヶ月間三十六回の公演

    で、一九九二年にイギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが、ストラットフォード=アポン=エイボン

    のスワン座で上演したジョン・ケアード(John Caird

    )による新演出の改訂版を、日本で初めて翻訳上演す�1�る。日

    本でもオリジナル演出のジョン・ケアードが演出にあたっている。

     『ベガーズ・オペラ』(一七二八年)は本国イギリスでは、一八世紀に流行した芸能であるバラッド・オペラの

    代表作として知られ、現在でも学校での上演によく使われるような、広く親しまれている作品である。日本では

    通例『乞食オペラ』と訳されているが、公演の記録は少な�2�く、もっぱらブレヒト/ヴァイルの『三文オペラ(D

    ie

    Dreigroschenoper

    )』(一九二八年)の原作として知られている。『三文オペラ』の方は、いわゆる「異化効果」を

    使ったブレヒトの代表作として現在も繰り返し上演され、新劇の劇団の主要レパートリーのひとつと言ってもいい

    だろう。「あらすじ」のレベルでは『ベガーズ・オペラ』も『三文オペラ』もほぼ同じであり、最後に主人公マクヒー

    ス(ドイツ語で書かれた『三文オペラ』ではメッキース)が処刑されて終わる悲劇を、突然の「どんでん返し」でハッ

    ピーエンドにしてしまう趣向も同じである。今回の上演はあくまで『三文オペラ』の二百年前に書かれた原作に基

    づく上演であるから、ブレヒトとは何の関係もない、というのが建前ではあるが、同時に日本での上演においては、

    「ブレヒトの呪縛」とでもいうべきものを意識せざるをえないだろ�3�う。すなわち一八世紀のテキストを、ある「解釈」

    によって二〇世紀に蘇らせたのがブレヒトの『三文オペラ』であるとしたら、原作の『ベガーズ・オペラ』を今日

    上演する動機として、ブレヒトとは別の、ブレヒトを超える「解釈」が必要となる。今回の上演は、演出のジョン・

    ケアードがまさにそのような意味で「テキスト」を「解釈」するところから始まっている。

       

    二、「テキスト」と「解釈」

     

    この上演における「テキスト」にあたるものは、ジョン・ゲイが書いて一七二八年にロンドンで初演されたバラッ

    ド・オペラ『ベガーズ・オペラ』の台本である。当時流行していたイタリア・オペラに対するパロディーとして、

    民謡や俗謡など当時誰もが知っていた歌のメロディーを使い、その歌詞をいわば「替え歌」のような形で書き換え

    ることで成り立っている。したがって台本に書かれている台詞と歌詞はジョン・ゲイによるオリジナルのテキスト

    だが、音楽はこの作品のために書かれたものではなく、台本にはその元となった歌の題名が記されているだけで、

    オリジナルの楽譜というものは存在しない。初演当時はその元歌のメロディーにのせて、台本に書かれた歌詞を歌

    えばこと足りたということだろう。

     

    現代の上演においては、もちろんその音楽を楽譜にしてテキストとして使用している。オペラのようにオリジナ

    ルの作曲家の手によるスコア譜が存在するわけではないので、今回の上演では作曲家のイローナ・セカッチがアレ

    ンジした楽譜を使用している。この楽譜は一九九二年にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが上演した際に作

    られたもので、そのときの上演台本が今回の日本での翻訳上演における底本になっている。

     

    このジョン・ケアードとイローナ・セカッチによる改訂版は、一九九九年にD

    RAMATISTS PLA

    Y SERV

    ICE INC.

    から出版されてい�4�る。ジョン・ゲイのオリジナルの台詞や歌詞は基本的にそのままだが、文字テキストとして両者

    を比較すれば、改訂版ではオリジナルの歌詞を二度繰り返すことが多くなり、またそれ以外のト書きの部分が大幅

    に増えている。加えられたト書きの大部分はいわば演出上の指示に類するもので、演出のジョン・ケアードが一八

    世紀に書かれたこの作品をどのように「解釈」して現代の観客に提示しようとしているのか、その基本的な姿勢が

    松田直行先生.indd 2006/03/02, 10:0944-45

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    筆である。そもそもそれが実際の上演において、結果として観客にどのように受け入れられるかは、今のところまっ

    たくわからない。したがって本稿は、作品完成前の訳詞ノートと言うべきものであるが、その総体をテキストとし

    て記述し定着させることのできない上演という事象を扱うには、むしろ創作現場における現在進行形の記録こそ、

    その実態に近いものになる可能性もあると考え、このような形でまとめることにした。

     

    はじめにこの作品と公演の概略を記しておくと、今回の上演は東宝の製作による約一ヶ月間三十六回の公演

    で、一九九二年にイギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが、ストラットフォード=アポン=エイボン

    のスワン座で上演したジョン・ケアード(John Caird

    )による新演出の改訂版を、日本で初めて翻訳上演す�1�る。日

    本でもオリジナル演出のジョン・ケアードが演出にあたっている。

     『ベガーズ・オペラ』(一七二八年)は本国イギリスでは、一八世紀に流行した芸能であるバラッド・オペラの

    代表作として知られ、現在でも学校での上演によく使われるような、広く親しまれている作品である。日本では

    通例『乞食オペラ』と訳されているが、公演の記録は少な�2�く、もっぱらブレヒト/ヴァイルの『三文オペラ(D

    ie

    Dreigroschenoper

    )』(一九二八年)の原作として知られている。『三文オペラ』の方は、いわゆる「異化効果」を

    使ったブレヒトの代表作として現在も繰り返し上演され、新劇の劇団の主要レパートリーのひとつと言ってもいい

    だろう。「あらすじ」のレベルでは『ベガーズ・オペラ』も『三文オペラ』もほぼ同じであり、最後に主人公マクヒー

    ス(ドイツ語で書かれた『三文オペラ』ではメッキース)が処刑されて終わる悲劇を、突然の「どんでん返し」でハッ

    ピーエンドにしてしまう趣向も同じである。今回の上演はあくまで『三文オペラ』の二百年前に書かれた原作に基

    づく上演であるから、ブレヒトとは何の関係もない、というのが建前ではあるが、同時に日本での上演においては、

    「ブレヒトの呪縛」とでもいうべきものを意識せざるをえないだろ�3�う。すなわち一八世紀のテキストを、ある「解釈」

    によって二〇世紀に蘇らせたのがブレヒトの『三文オペラ』であるとしたら、原作の『ベガーズ・オペラ』を今日

    上演する動機として、ブレヒトとは別の、ブレヒトを超える「解釈」が必要となる。今回の上演は、演出のジョン・

    ケアードがまさにそのような意味で「テキスト」を「解釈」するところから始まっている。

       

    二、「テキスト」と「解釈」

     

    この上演における「テキスト」にあたるものは、ジョン・ゲイが書いて一七二八年にロンドンで初演されたバラッ

    ド・オペラ『ベガーズ・オペラ』の台本である。当時流行していたイタリア・オペラに対するパロディーとして、

    民謡や俗謡など当時誰もが知っていた歌のメロディーを使い、その歌詞をいわば「替え歌」のような形で書き換え

    ることで成り立っている。したがって台本に書かれている台詞と歌詞はジョン・ゲイによるオリジナルのテキスト

    だが、音楽はこの作品のために書かれたものではなく、台本にはその元となった歌の題名が記されているだけで、

    オリジナルの楽譜というものは存在しない。初演当時はその元歌のメロディーにのせて、台本に書かれた歌詞を歌

    えばこと足りたということだろう。

     

    現代の上演においては、もちろんその音楽を楽譜にしてテキストとして使用している。オペラのようにオリジナ

    ルの作曲家の手によるスコア譜が存在するわけではないので、今回の上演では作曲家のイローナ・セカッチがアレ

    ンジした楽譜を使用している。この楽譜は一九九二年にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが上演した際に作

    られたもので、そのときの上演台本が今回の日本での翻訳上演における底本になっている。

     

    このジョン・ケアードとイローナ・セカッチによる改訂版は、一九九九年にD

    RAMATISTS PLA

    Y SERV

    ICE INC.

    から出版されてい�4�る。ジョン・ゲイのオリジナルの台詞や歌詞は基本的にそのままだが、文字テキストとして両者

    を比較すれば、改訂版ではオリジナルの歌詞を二度繰り返すことが多くなり、またそれ以外のト書きの部分が大幅

    に増えている。加えられたト書きの大部分はいわば演出上の指示に類するもので、演出のジョン・ケアードが一八

    世紀に書かれたこの作品をどのように「解釈」して現代の観客に提示しようとしているのか、その基本的な姿勢が

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    示されている。したがって、一七二八年にジョン・ゲイが書いた台本を「原テキスト」とすれば、今回の上演に使

    用する「テキスト」は演出家の「解釈」が加わったこの現代版である。

     

    その「解釈」において最も重視されているのは、「原テキスト」の『ベガーズ・オペラ』がすでに、乞食たちが

    オペラを上演するという設定の劇中劇として全体を構成している点である。主人公のマクヒースをめぐってポリー

    とルーシーという二人の女性が対立し、それぞれの父親であるピーチャムとロキットがマクヒースを絞首刑にすべ

    く策をめぐらすという「物語」は、ある乞食が「優れたバラッド歌手であるジェームズ・チャンターとモル・レイ

    の結婚祝いに書いたも�5�の」であると序幕において述べられる。「原テキスト」では特に名前がついていないこの乞

    食の作者を、改訂版では「トム」と命名し、トムが自分で書いた芝居を自ら演出し、乞食仲間とともに上演すると

    いう設定を明確にするためのト書きが、改訂版の上演台本につけ加えられた部分のほとんどを占める。「原テキスト」

    では序幕の最初が乞食の台詞で始まっているが、改訂版ではそれまでに四頁ものト書きが加えられている。

     

    このジョン・ケアードによるト書きでは、使われなくなった古い劇場に乞食たちが集まり、そこで一夜限りの芝

    居の上演を準備する乞食たちの動きが詳細に指定されている。メイン・キャストであるマクヒースやポリーを演じ

    る俳優も含めて出演者全員が、それぞれの役柄を演じる前に、まずはその役を演じている一八世紀の乞食の役を演

    じることが求められる。それぞれがどのような乞食を演じるかは、今回の上演台本のト書きにも書かれていないの

    で、俳優は稽古場でのワークショップを通して自らそれを作り出すことになる。

     

    日生劇場の舞台に作られる装置は、一八世紀ロンドンの廃墟となった劇場であり、その劇場の客席までもが日生

    劇場の舞台上に作られ、その席は「ステージサイド・シート」という特別席として一般にチケットを販売し、実際

    の観客をそこに座らせる。出演者はマクヒース、ポリーといった役で舞台に登場していない場面でも、それを演じ

    ている乞食という役で舞台上、あるいは「舞台上の客席」のどこかにいて、ほかの乞食たちが上演を進める様子を

    見ていたり、時には別の役で芝居に参加するという演出である。したがって日生劇場を訪れる観客は、一八世紀の

    「原テキスト」の上演を鑑賞するのではなく、(現代の俳優が演じるところの)一八世紀の乞食たちが現代の劇場に

    現れ(

    または現代の観客が一八世紀の劇場に入りこみ)

    、彼らが『ベガーズ・オペラ』という作品を上演する場に居

    合わせ、一夜限りの上演を行う劇的な時間を共に体験することになる。

     「原テキスト」から上演に至る過程には、さまざまな「演出」が加わることになるが、その中でも特に上演台本

    にト書きという文字テキストによって記すことのできる基本的な設定を、ここで仮に「解釈」と呼ぶとすれば、今

    回の上演はまずこのような「解釈」を出発点としているといえる。俳優の演技だけでなく、舞台装置、照明、衣装、

    宣伝美術などのデザインも、そして俳優が実際に口から発する日本語を決める翻訳と訳詞の仕事も、すべてこの「解

    釈」を前提として行われる。

      

    三、訳詞の実際

     

    では今回の上演のための訳詞とは、実際にどのような作業によるものなのか具体的に記述するために、全部で

    六十九曲ある音楽の中から、最初の曲の歌詞を例として取り上げてみよう。盗品回収業者であり仲間の泥棒たちを

    密告することで報酬を得ている男ピーチャムが、第一幕第一場の冒頭で歌う第一歌である。「原テキスト」のオリ

    ジナルの歌詞は、実はジョン・ゲイの作ではなく、『ガリヴァー旅行記』の作者である諷刺作家ジョナサン・スウィ

    フトの手によるものだという説もある�6�が、原文はこのようなものである。

       

    THROUGH ALL TH

    E EMPLOYMENTS O

    F LIFE

       

    EACH NEIGHBOUR ABUSE H

    IS BROTHER

       

    WHORE A

    ND ROGUE TH

    EY CALL H

    USBAND AND WIFE

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    示されている。したがって、一七二八年にジョン・ゲイが書いた台本を「原テキスト」とすれば、今回の上演に使

    用する「テキスト」は演出家の「解釈」が加わったこの現代版である。

     

    その「解釈」において最も重視されているのは、「原テキスト」の『ベガーズ・オペラ』がすでに、乞食たちが

    オペラを上演するという設定の劇中劇として全体を構成している点である。主人公のマクヒースをめぐってポリー

    とルーシーという二人の女性が対立し、それぞれの父親であるピーチャムとロキットがマクヒースを絞首刑にすべ

    く策をめぐらすという「物語」は、ある乞食が「優れたバラッド歌手であるジェームズ・チャンターとモル・レイ

    の結婚祝いに書いたも�5�の」であると序幕において述べられる。「原テキスト」では特に名前がついていないこの乞

    食の作者を、改訂版では「トム」と命名し、トムが自分で書いた芝居を自ら演出し、乞食仲間とともに上演すると

    いう設定を明確にするためのト書きが、改訂版の上演台本につけ加えられた部分のほとんどを占める。「原テキスト」

    では序幕の最初が乞食の台詞で始まっているが、改訂版ではそれまでに四頁ものト書きが加えられている。

     

    このジョン・ケアードによるト書きでは、使われなくなった古い劇場に乞食たちが集まり、そこで一夜限りの芝

    居の上演を準備する乞食たちの動きが詳細に指定されている。メイン・キャストであるマクヒースやポリーを演じ

    る俳優も含めて出演者全員が、それぞれの役柄を演じる前に、まずはその役を演じている一八世紀の乞食の役を演

    じることが求められる。それぞれがどのような乞食を演じるかは、今回の上演台本のト書きにも書かれていないの

    で、俳優は稽古場でのワークショップを通して自らそれを作り出すことになる。

     

    日生劇場の舞台に作られる装置は、一八世紀ロンドンの廃墟となった劇場であり、その劇場の客席までもが日生

    劇場の舞台上に作られ、その席は「ステージサイド・シート」という特別席として一般にチケットを販売し、実際

    の観客をそこに座らせる。出演者はマクヒース、ポリーといった役で舞台に登場していない場面でも、それを演じ

    ている乞食という役で舞台上、あるいは「舞台上の客席」のどこかにいて、ほかの乞食たちが上演を進める様子を

    見ていたり、時には別の役で芝居に参加するという演出である。したがって日生劇場を訪れる観客は、一八世紀の

    「原テキスト」の上演を鑑賞するのではなく、(現代の俳優が演じるところの)一八世紀の乞食たちが現代の劇場に

    現れ(

    または現代の観客が一八世紀の劇場に入りこみ)

    、彼らが『ベガーズ・オペラ』という作品を上演する場に居

    合わせ、一夜限りの上演を行う劇的な時間を共に体験することになる。

     「原テキスト」から上演に至る過程には、さまざまな「演出」が加わることになるが、その中でも特に上演台本

    にト書きという文字テキストによって記すことのできる基本的な設定を、ここで仮に「解釈」と呼ぶとすれば、今

    回の上演はまずこのような「解釈」を出発点としているといえる。俳優の演技だけでなく、舞台装置、照明、衣装、

    宣伝美術などのデザインも、そして俳優が実際に口から発する日本語を決める翻訳と訳詞の仕事も、すべてこの「解

    釈」を前提として行われる。

      

    三、訳詞の実際

     

    では今回の上演のための訳詞とは、実際にどのような作業によるものなのか具体的に記述するために、全部で

    六十九曲ある音楽の中から、最初の曲の歌詞を例として取り上げてみよう。盗品回収業者であり仲間の泥棒たちを

    密告することで報酬を得ている男ピーチャムが、第一幕第一場の冒頭で歌う第一歌である。「原テキスト」のオリ

    ジナルの歌詞は、実はジョン・ゲイの作ではなく、『ガリヴァー旅行記』の作者である諷刺作家ジョナサン・スウィ

    フトの手によるものだという説もある�6�が、原文はこのようなものである。

       

    THROUGH ALL TH

    E EMPLOYMENTS O

    F LIFE

       

    EACH NEIGHBOUR ABUSE H

    IS BROTHER

       

    WHORE A

    ND ROGUE TH

    EY CALL H

    USBAND AND WIFE

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    ALL PRO

    FESSIONS BE-RO

    GUE ONE ANOTHER

       

    THE PRIEST CA

    LLS THE LA

    WYER A

    CHEAT

       

    THE LA

    WYER BE-K

    NAVES TH

    E DIVINE

       

    AND THE STA

    TESMAN BECA

    USE H

    E'S SO GREAT

       

    THINKS HIS TRA

    DE AS HONEST A

    S MINE

     

    これをあとの翻訳と比較するために、できる限り無機的な直訳を試みると、次のようになる。

       

    人の稼業はたくさんあるが

       

    近所の誰もが兄弟を侮辱し

       

    娼婦と悪党が夫と妻と呼びあい

       

    ちゃんとした職業を持つ人間たちも 

    悪口を言いあう

       

    僧侶は法律家をインチキと呼び

       

    法律家は聖職者を悪者にする

       

    政治家は偉いので

       

    自分の商売を私と同じくらい正直だと思っている

     

    この歌詞は、盗品の故買と密告で生活しているピーチャムが、自分の商売を政治家、法律家、聖職者などと同じ

    正直=まっとうなものだと考え、逆に言えば政治家や法律家の行いがピーチャムのような悪行をはたらく者と変わ

    らないと諷刺している。

     

    ではまずこれを、戯曲として翻訳出版されているものと比較してみよう。現在書店で一般に入手できる海保眞夫

    訳では、次のようになっている。

      

    第一歌

       

    どんな生業につこうとも

       

    だまし合うのは世のならい

       

    妻と夫は女郎と野郎

       

    仕事が違えば仲も悪い

       

    僧侶が法律家を詐欺師と呼べば

       

    法律家も負けずに「生臭め」

       

    増上慢は政治家どもよ

       

    おれと同じく人格者だと�7�は

     

    前の直訳と比べると、ここでは「世のならい」、「生臭め」といった必ずしも原文に直接それにあたる単語がみあ

    たらない語も含まれている。「生業」や「女郎と野郎」はあまり現代の口語には見られない表現であり、また原文

    のgreat

    を「増上慢」という耳慣れない仏教用語に訳していることが目につく。最後の一行にあるhonest

    を「人格者」

    と訳している点については、原文は政治家が自分のtrade

    (商売)をhonest

    だと考えている、すなわち「まっとうな(商

    売)」という意味に近いので、若干のずれがあると指摘できるかもしれない。

     

    そうした点を含めてこの訳は、一八世紀に書かれた戯曲を日本の読者が翻訳戯曲として本で読む際に適切な風格

    を備えたものであり、オリジナルの戯曲の持ち味をよく伝えた文学的な翻訳だと言えるだろう。

    松田直行先生.indd 2006/03/02, 10:0948-49

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    ALL PRO

    FESSIONS BE-RO

    GUE ONE ANOTHER

       

    THE PRIEST CA

    LLS THE LA

    WYER A

    CHEAT

       

    THE LA

    WYER BE-K

    NAVES TH

    E DIVINE

       

    AND THE STA

    TESMAN BECA

    USE H

    E'S SO GREAT

       

    THINKS HIS TRA

    DE AS HONEST A

    S MINE

     

    これをあとの翻訳と比較するために、できる限り無機的な直訳を試みると、次のようになる。

       

    人の稼業はたくさんあるが

       

    近所の誰もが兄弟を侮辱し

       

    娼婦と悪党が夫と妻と呼びあい

       

    ちゃんとした職業を持つ人間たちも 

    悪口を言いあう

       

    僧侶は法律家をインチキと呼び

       

    法律家は聖職者を悪者にする

       

    政治家は偉いので

       

    自分の商売を私と同じくらい正直だと思っている

     

    この歌詞は、盗品の故買と密告で生活しているピーチャムが、自分の商売を政治家、法律家、聖職者などと同じ

    正直=まっとうなものだと考え、逆に言えば政治家や法律家の行いがピーチャムのような悪行をはたらく者と変わ

    らないと諷刺している。

     

    ではまずこれを、戯曲として翻訳出版されているものと比較してみよう。現在書店で一般に入手できる海保眞夫

    訳では、次のようになっている。

      

    第一歌

       

    どんな生業につこうとも

       

    だまし合うのは世のならい

       

    妻と夫は女郎と野郎

       

    仕事が違えば仲も悪い

       

    僧侶が法律家を詐欺師と呼べば

       

    法律家も負けずに「生臭め」

       

    増上慢は政治家どもよ

       

    おれと同じく人格者だと�7�は

     

    前の直訳と比べると、ここでは「世のならい」、「生臭め」といった必ずしも原文に直接それにあたる単語がみあ

    たらない語も含まれている。「生業」や「女郎と野郎」はあまり現代の口語には見られない表現であり、また原文

    のgreat

    を「増上慢」という耳慣れない仏教用語に訳していることが目につく。最後の一行にあるhonest

    を「人格者」

    と訳している点については、原文は政治家が自分のtrade

    (商売)をhonest

    だと考えている、すなわち「まっとうな(商

    売)」という意味に近いので、若干のずれがあると指摘できるかもしれない。

     

    そうした点を含めてこの訳は、一八世紀に書かれた戯曲を日本の読者が翻訳戯曲として本で読む際に適切な風格

    を備えたものであり、オリジナルの戯曲の持ち味をよく伝えた文学的な翻訳だと言えるだろう。

    松田直行先生.indd 2006/03/02, 10:0948-49

  • - 50 -- 51 -

     

    もうひとつ、ブレヒトの『三文オペラ』の翻訳者である岩淵達治氏の著書『《三文オペラ》を読む』の第一講「ゲ

    イ《乞食オペラ》」における岩淵訳を引用してみよう。

       

    この世のどんな仕事も

       

    お互い相手のけなしあい

       

    娼婦と悪魔てのが夫婦のこと

       

    商売どうしで相手を悪党よばわり

       

    聖職者は弁護士をいかさまと言い

       

    弁護士は聖職者を悪党よばわり

       

    政治家はみんな偉大だから

       

    自分の商売は俺たちなみに正直と思って�8�る

     

    これは『乞食オペラ』の全編を翻訳したものではなく、『三文オペラ』との比較を論じるための説明的な訳出といっ

    た種類のものであるかもしれないが、前の海保訳と比べるとかなりシンプルでわかりやすく、また単語としても直

    訳から大きくはずれていない。「悪魔てのが」、「思ってる」などの表現が口語的で、また音として聞くだけでも意

    味が伝わりやすい言葉を選択している。歌詞として歌うことができる訳詞ではないにしても、上演における歌詞に

    近い形になっている。また「弁護士はロウアーであるから広い意味で法曹界の人間ととれば判事や検事も含まれる

    のかもしれな�9�い」としながら、漠然とした「法律家」より具体的にイメージできる「弁護士」を選択しているのも、

    上演を考慮した翻訳に近い。

     

    さて、それでは今回の上演における実際の訳詞を示そう。場合によっては今後のリハーサルで変更になる可能性

    もあり、現在のところの歌詞ということになるが。

     

    SONG 1 

    「商売にはうらおもて」

     

    ピーチャム

       

    商売には 

    うらおもて

       

    儲けることは 

    だますこと

       

    男と女も同じこと

       

    喰うか喰われるか 

    ばかしあい

       

    政治家と弁護士は悪党

       

    弱いやつからまきあげる

       

    人助けでメシは食えない

       

    どう世の中変わろうと

       

    正直者こそ 

    偽善者だ

     

    全員

       

    人生には 

    うらおもて

       

    紳士のフリをしても

       

    娼婦や悪党と同じこと

    松田直行先生.indd 2006/03/02, 10:0950-51

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    もうひとつ、ブレヒトの『三文オペラ』の翻訳者である岩淵達治氏の著書『《三文オペラ》を読む』の第一講「ゲ

    イ《乞食オペラ》」における岩淵訳を引用してみよう。

       

    この世のどんな仕事も

       

    お互い相手のけなしあい

       

    娼婦と悪魔てのが夫婦のこと

       

    商売どうしで相手を悪党よばわり

       

    聖職者は弁護士をいかさまと言い

       

    弁護士は聖職者を悪党よばわり

       

    政治家はみんな偉大だから

       

    自分の商売は俺たちなみに正直と思って�8�る

     

    これは『乞食オペラ』の全編を翻訳したものではなく、『三文オペラ』との比較を論じるための説明的な訳出といっ

    た種類のものであるかもしれないが、前の海保訳と比べるとかなりシンプルでわかりやすく、また単語としても直

    訳から大きくはずれていない。「悪魔てのが」、「思ってる」などの表現が口語的で、また音として聞くだけでも意

    味が伝わりやすい言葉を選択している。歌詞として歌うことができる訳詞ではないにしても、上演における歌詞に

    近い形になっている。また「弁護士はロウアーであるから広い意味で法曹界の人間ととれば判事や検事も含まれる

    のかもしれな�9�い」としながら、漠然とした「法律家」より具体的にイメージできる「弁護士」を選択しているのも、

    上演を考慮した翻訳に近い。

     

    さて、それでは今回の上演における実際の訳詞を示そう。場合によっては今後のリハーサルで変更になる可能性

    もあり、現在のところの歌詞ということになるが。

     

    SONG 1 

    「商売にはうらおもて」

     

    ピーチャム

       

    商売には 

    うらおもて

       

    儲けることは 

    だますこと

       

    男と女も同じこと

       

    喰うか喰われるか 

    ばかしあい

       

    政治家と弁護士は悪党

       

    弱いやつからまきあげる

       

    人助けでメシは食えない

       

    どう世の中変わろうと

       

    正直者こそ 

    偽善者だ

     

    全員

       

    人生には 

    うらおもて

       

    紳士のフリをしても

       

    娼婦や悪党と同じこと

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    もちつもたれつ 

    ばかしあい

       

    代議士は七光り

       

    坊主は丸もうけ

       

    おいしいのは 

    そでの下

       

    どう世の中変わろうと

       

    政治家も泥棒も兄弟だ

       

    正直者こそ 

    偽善者だ

     

    まずこの訳が他に比べて倍の長さになっているのは、今回の底本としている改訂版で「原テキスト」の歌詞が二

    回繰り返されているためである。改訂版では歌詞そのものは「原テキスト」と一緒だが、ピーチャムがこれを歌っ

    たあと同じ歌詞で乞食たち全員がもう一度繰り返して歌っている。訳詞では、同じ歌詞を二度繰り返すのではな

    く、一番と二番である程度歌詞を変えてある。

     

    この訳詞を他の訳と比べてみると、意味の上では原文とはかなり離れた部分があることが明らかになる。「どん

    な職業の人間も、自分の仕事は正しいと考え、他人の仕事は悪事とみなしてけなしあう」といった原文の意味と、「商

    売にはうらおもて」との間には、たしかにかなりの意味の開きがある。

     

    その理由をあえて分析して簡潔に表現するとすれば、次の二点に集約できるだろう。第一点はさきに述べたテキ

    ストの「解釈」に基づいて、今回の上演にあわせた演出の要請を満たすためにあえて原文の単語の意味から離れた

    ためであり、第二点は音楽にのせて歌われる歌詞として音符にあわせた言葉にする制約からくるものである。訳詞

    �10�

    の作業は、原文からテキストの「解釈」に基づいて新たな言葉を引き出す意味論的アプローチと、言葉を純粋に音

    としてとらえ、メロディーにあてはまる音のリズムや響きをできるだけ損ねない音に変換する音韻論的アプローチ

    を同時に行う作業なのである。

     

    今回の上演で演出のジョン・ケアードは、この曲をこの芝居全体の「ヘッドライン(

    見出し)

    」であると説明した。

    いわゆる「テーマ曲」ということになるだろうか。そういう意味では冒頭の「この世のどんな仕事も/お互い相手

    のけなしあい」(岩淵訳)は、この芝居全体のテーマとは言い難い。できれば歌い始めの二小節のまとまりで、端

    的にこの芝居の見出しになるようなフレーズを言い切ってしまいたい。それを二小節のメロディーにあうという条

    件で探したものが「商売にはうらおもて」である。一番の歌詞でピーチャムが自分の商売を正当化する意味で使っ

    たこのフレーズが、二番ではコーラスにより「人生にはうらおもて」と歌われることで、単に政治家や弁護士など「立

    派な」職業の人間の不正行為を揶揄するだけではなく、恋人や愛人、親子や仲間を互いに利用しては裏切りあうこ

    の物語全体の「見出し」へ意味が広がるようにと考えた。商売は人に利益をもたらす一方、相手を騙して搾取する

    行為でもある。人間同士の関係も、信頼と裏切りの表裏一体である。そうした「うらおもて」はこの芝居全体に流

    れる基調と考えていいだろう。

     

    音韻論的アプローチの側面に関して言えば、最初の二小節の中で、最初の二つの音が他の音に較べて長いため、

    最初の二音に「商売」の「ショウ」と「バイ」、「人生」の「ジン」と「セイ」という二音で一音節となる音(

    子音

    一字+母音一字ではない音)

    をあてている。日本語でこれを二つの音、「ショ」と「ウ」、「バ」と「イ」に分けて発

    音しようとすると、二つの音符が必要になるが、英語の歌であれば 

    show

    とby

    、jin

    とsei

    はそれぞれ一音節であ

    るため一つの音符にあてられる。それを日本語の歌詞に直す際、長い音に対しては二つの音、たとえば「裏」とい

    う単語の「ウ」と「ラ」を両方入れてしまうことによって、長い間をもたせるという手法が取られる場合もあるが、

    ここで最初の音に「ウラ」と入れてしまうと長い音符が二つに分割され、この部分のメロディーが持つリズムの基

    �11�

    松田直行先生.indd 2006/03/02, 10:0952-53

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    もちつもたれつ 

    ばかしあい

       

    代議士は七光り

       

    坊主は丸もうけ

       

    おいしいのは 

    そでの下

       

    どう世の中変わろうと

       

    政治家も泥棒も兄弟だ

       

    正直者こそ 

    偽善者だ

     

    まずこの訳が他に比べて倍の長さになっているのは、今回の底本としている改訂版で「原テキスト」の歌詞が二

    回繰り返されているためである。改訂版では歌詞そのものは「原テキスト」と一緒だが、ピーチャムがこれを歌っ

    たあと同じ歌詞で乞食たち全員がもう一度繰り返して歌っている。訳詞では、同じ歌詞を二度繰り返すのではな

    く、一番と二番である程度歌詞を変えてある。

     

    この訳詞を他の訳と比べてみると、意味の上では原文とはかなり離れた部分があることが明らかになる。「どん

    な職業の人間も、自分の仕事は正しいと考え、他人の仕事は悪事とみなしてけなしあう」といった原文の意味と、「商

    売にはうらおもて」との間には、たしかにかなりの意味の開きがある。

     

    その理由をあえて分析して簡潔に表現するとすれば、次の二点に集約できるだろう。第一点はさきに述べたテキ

    ストの「解釈」に基づいて、今回の上演にあわせた演出の要請を満たすためにあえて原文の単語の意味から離れた

    ためであり、第二点は音楽にのせて歌われる歌詞として音符にあわせた言葉にする制約からくるものである。訳詞

    �10�

    の作業は、原文からテキストの「解釈」に基づいて新たな言葉を引き出す意味論的アプローチと、言葉を純粋に音

    としてとらえ、メロディーにあてはまる音のリズムや響きをできるだけ損ねない音に変換する音韻論的アプローチ

    を同時に行う作業なのである。

     

    今回の上演で演出のジョン・ケアードは、この曲をこの芝居全体の「ヘッドライン(

    見出し)

    」であると説明した。

    いわゆる「テーマ曲」ということになるだろうか。そういう意味では冒頭の「この世のどんな仕事も/お互い相手

    のけなしあい」(岩淵訳)は、この芝居全体のテーマとは言い難い。できれば歌い始めの二小節のまとまりで、端

    的にこの芝居の見出しになるようなフレーズを言い切ってしまいたい。それを二小節のメロディーにあうという条

    件で探したものが「商売にはうらおもて」である。一番の歌詞でピーチャムが自分の商売を正当化する意味で使っ

    たこのフレーズが、二番ではコーラスにより「人生にはうらおもて」と歌われることで、単に政治家や弁護士など「立

    派な」職業の人間の不正行為を揶揄するだけではなく、恋人や愛人、親子や仲間を互いに利用しては裏切りあうこ

    の物語全体の「見出し」へ意味が広がるようにと考えた。商売は人に利益をもたらす一方、相手を騙して搾取する

    行為でもある。人間同士の関係も、信頼と裏切りの表裏一体である。そうした「うらおもて」はこの芝居全体に流

    れる基調と考えていいだろう。

     

    音韻論的アプローチの側面に関して言えば、最初の二小節の中で、最初の二つの音が他の音に較べて長いため、

    最初の二音に「商売」の「ショウ」と「バイ」、「人生」の「ジン」と「セイ」という二音で一音節となる音(

    子音

    一字+母音一字ではない音)

    をあてている。日本語でこれを二つの音、「ショ」と「ウ」、「バ」と「イ」に分けて発

    音しようとすると、二つの音符が必要になるが、英語の歌であれば 

    show

    とby

    、jin

    とsei

    はそれぞれ一音節であ

    るため一つの音符にあてられる。それを日本語の歌詞に直す際、長い音に対しては二つの音、たとえば「裏」とい

    う単語の「ウ」と「ラ」を両方入れてしまうことによって、長い間をもたせるという手法が取られる場合もあるが、

    ここで最初の音に「ウラ」と入れてしまうと長い音符が二つに分割され、この部分のメロディーが持つリズムの基

    �11�

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    うが、観客にとってよりはっきりと「意味が伝わる」場合もあるということだ。

     

    ほかにいくつか、原文の単語から離れてしまったと思われる部分について言及しておくと、三行目の「男と女も

    同じこと」は演出家の要請に応じて書き直した部分である。原文の三行目「妻と夫は女郎と野郎」(海保訳)に対

    応する部分だが、「商売にはうらおもて/儲けることはだますこと」という商売に関する考えが男女の関係におい

    ても同様に言えることを最初に示して、物語に出てくるさまざまな男女関係を暗示しておきたいとの意図である。

     

    最後から四行目の「おいしいのは 

    そでの下」も原文にはそれにあたる単語がないが、原文で政治家、法律家、

    聖職者を批判している根拠は、そうした職業の人々が賄賂によって動いているためであり、それが作品中の別の歌

    で何度か言及されている。また物語においても賄賂によって人を動かす場面が何度もあり、そこでこの曲を「全体

    の見出し」とするためにぜひ必要な概念として取り入れた。

     

    一番と二番の両方をしめくくる最後の歌詞、「正直者こそ 

    偽善者だ」は、「正直者」が原文のhonest

    に対応す

    るものの、「偽善者」は原文にない。「うらおもて」という概念を中心にすえた歌詞にした以上、「正直者」に対す

    る「うらおもて」の「偽善者」をセットにして提示したという理屈である。

     

    このフレーズが実際にどの程度の印象を観客に対して与えることができるのかはまだわからないが、訳詞者の気

    持ちとしては、ここである程度の刺激を与えたいところである。この曲はピーチャムという登場人物の心情吐露か

    ら始まるが、最終的にはこの物語を上演する乞食たち全員が、観客に対して鋭いメッセージを突きつけるものでな

    ければならない。観客は娼婦や悪党、政治家や弁護士についての言及を聞いても、「自分のことではない」と感じ

    るだろう。自分は泥棒をしたり賄賂をもらったりしない「正直者」であると考えるだろうが、そこですかさず「偽

    善者」という言葉を突きつけることによって、ここに登場する乞食たちが、すべての観客を攻撃の対象としている

    ことを伝えたい。それがこの最後の一行である。

    本を崩してしまうことになる。それを避けるために、「ショウ」「バイ」、「ジン」「セイ」を使っているわけである。

     「どう世の中変わろうと」という訳詞の最初の音「ドウ」についても、「商売」の「ショウ」とまったく同じメロ

    ディーの同じ音符であり、同じ理屈である。文字で表記するなら「どんなに」とか「どれほど」などとするところ

    だろうが、一音だけで単語として意味をなす「どう」を使うことによって、原曲のリズムを保持している。一番と

    二番それぞれ二行目の最初の音、「儲けること」の「モウ」、「紳士」の「シン」も同様である。

     

    ここでは楽譜を示して音楽的な側面を詳述することを避けるが、音韻論的アプローチの面では特に決まった規則

    があるというわけではないものの、日本語の歌として心地よく、また歌詞が聞き取りやすいものにするためには、

    様々な基準と技法がある。ここに例示した音の長さという側面以外にもう一つ代表的なものを示すとすれば、それ

    は日本語の音の高低によるアクセントを、音符の高低に一致させることである。

     

    たとえば二番の歌詞の中ほどにある「代議士は七光り」で、もしこれが音符のない台詞ならば「代議士」よりも「政

    治家」のほうが、「ダイギシ」「セイジカ」と耳から音として聞くだけの場合、その意味が伝わりやすいと思われる。

    ところが高低アクセントを考えた場合、「セイジカ」は「低高高高」、「ダイギシ」は「低高高低」であり、この部

    分の「ラ・シ・ド・シ」というメロディーには「ダイギシ」でないとあわない。これを「セイジカ」と歌ってみると、

    「政治家」とは聞こえてこないのである。

     

    それと同じメロディーにあたる一番の歌詞は「政治家と弁護士は悪党」であり、同じ音に対して「代議士」では

    なく「政治家」があてられているように見えるが、実は一番では「ダイギシ」の「ギ」にあたる三番目の音符を同

    じ音二つに分けてあり、そのため「政治家と」の五音が「低高高高低」になって、「セイジカ」の高低にあうようになっ

    ている。実際に歌詞を作る際に音の高低を一つずつ意識しているわけではないし、また部分的には高低のアクセン

    トが逆になることに目をつぶる必要も出てきてしまうのだが、この基本にできるだけ近づくことによって歌詞はよ

    りはっきりと聞こえてくる。意味論的に正確でわかりやすい単語よりも、音韻論的にメロディーにあった単語のほ

    松田直行先生.indd 2006/03/02, 10:0954-55

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    うが、観客にとってよりはっきりと「意味が伝わる」場合もあるということだ。

     

    ほかにいくつか、原文の単語から離れてしまったと思われる部分について言及しておくと、三行目の「男と女も

    同じこと」は演出家の要請に応じて書き直した部分である。原文の三行目「妻と夫は女郎と野郎」(海保訳)に対

    応する部分だが、「商売にはうらおもて/儲けることはだますこと」という商売に関する考えが男女の関係におい

    ても同様に言えることを最初に示して、物語に出てくるさまざまな男女関係を暗示しておきたいとの意図である。

     

    最後から四行目の「おいしいのは 

    そでの下」も原文にはそれにあたる単語がないが、原文で政治家、法律家、

    聖職者を批判している根拠は、そうした職業の人々が賄賂によって動いているためであり、それが作品中の別の歌

    で何度か言及されている。また物語においても賄賂によって人を動かす場面が何度もあり、そこでこの曲を「全体

    の見出し」とするためにぜひ必要な概念として取り入れた。

     

    一番と二番の両方をしめくくる最後の歌詞、「正直者こそ 

    偽善者だ」は、「正直者」が原文のhonest

    に対応す

    るものの、「偽善者」は原文にない。「うらおもて」という概念を中心にすえた歌詞にした以上、「正直者」に対す

    る「うらおもて」の「偽善者」をセットにして提示したという理屈である。

     

    このフレーズが実際にどの程度の印象を観客に対して与えることができるのかはまだわからないが、訳詞者の気

    持ちとしては、ここである程度の刺激を与えたいところである。この曲はピーチャムという登場人物の心情吐露か

    ら始まるが、最終的にはこの物語を上演する乞食たち全員が、観客に対して鋭いメッセージを突きつけるものでな

    ければならない。観客は娼婦や悪党、政治家や弁護士についての言及を聞いても、「自分のことではない」と感じ

    るだろう。自分は泥棒をしたり賄賂をもらったりしない「正直者」であると考えるだろうが、そこですかさず「偽

    善者」という言葉を突きつけることによって、ここに登場する乞食たちが、すべての観客を攻撃の対象としている

    ことを伝えたい。それがこの最後の一行である。

    本を崩してしまうことになる。それを避けるために、「ショウ」「バイ」、「ジン」「セイ」を使っているわけである。

     「どう世の中変わろうと」という訳詞の最初の音「ドウ」についても、「商売」の「ショウ」とまったく同じメロ

    ディーの同じ音符であり、同じ理屈である。文字で表記するなら「どんなに」とか「どれほど」などとするところ

    だろうが、一音だけで単語として意味をなす「どう」を使うことによって、原曲のリズムを保持している。一番と

    二番それぞれ二行目の最初の音、「儲けること」の「モウ」、「紳士」の「シン」も同様である。

     

    ここでは楽譜を示して音楽的な側面を詳述することを避けるが、音韻論的アプローチの面では特に決まった規則

    があるというわけではないものの、日本語の歌として心地よく、また歌詞が聞き取りやすいものにするためには、

    様々な基準と技法がある。ここに例示した音の長さという側面以外にもう一つ代表的なものを示すとすれば、それ

    は日本語の音の高低によるアクセントを、音符の高低に一致させることである。

     

    たとえば二番の歌詞の中ほどにある「代議士は七光り」で、もしこれが音符のない台詞ならば「代議士」よりも「政

    治家」のほうが、「ダイギシ」「セイジカ」と耳から音として聞くだけの場合、その意味が伝わりやすいと思われる。

    ところが高低アクセントを考えた場合、「セイジカ」は「低高高高」、「ダイギシ」は「低高高低」であり、この部

    分の「ラ・シ・ド・シ」というメロディーには「ダイギシ」でないとあわない。これを「セイジカ」と歌ってみると、

    「政治家」とは聞こえてこないのである。

     

    それと同じメロディーにあたる一番の歌詞は「政治家と弁護士は悪党」であり、同じ音に対して「代議士」では

    なく「政治家」があてられているように見えるが、実は一番では「ダイギシ」の「ギ」にあたる三番目の音符を同

    じ音二つに分けてあり、そのため「政治家と」の五音が「低高高高低」になって、「セイジカ」の高低にあうようになっ

    ている。実際に歌詞を作る際に音の高低を一つずつ意識しているわけではないし、また部分的には高低のアクセン

    トが逆になることに目をつぶる必要も出てきてしまうのだが、この基本にできるだけ近づくことによって歌詞はよ

    りはっきりと聞こえてくる。意味論的に正確でわかりやすい単語よりも、音韻論的にメロディーにあった単語のほ

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    四、上演の実際まで

     

    訳詞の作業についてもう一点、訳詞が稽古場における俳優や演出家との共同作業の中で変わっていく実例を示し

    ておこう。先に示した最初の曲の歌詞は、まず一通り書き終えたものを演出家に見せて打ち合わせを行い、演出家

    の要望を取り入れて書き直した歌詞を楽譜にして、稽古の初日までに出演者とスタッフに配布したものだが、リハー

    サルで実際に俳優が歌ってみたあとで、さらに書き直した部分がある。

     

    ピーチャムが歌う一番の歌詞の第二連を、当初の歌詞と変更後の歌詞を対にして並べてみよう。

         

    変更前                

    変更後

       

    政治家や弁護士も一緒         

    政治家と弁護士は悪党

       

    弱いやつからまきあげろ        

    弱いやつからまきあげる

       

    人助けでメシが食えるか        

    人助けでメシは食えない

     

    変更前に、政治家や弁護士も「一緒」としたのは、原文の最終行に「(政治家は)自分の商売を私(ピーチャム)

    と同じくらい正直だと思っている」(直訳)とある部分の、「私と同じくらい」という意味を訳出しようとしたもの

    であるが、それを政治家と弁護士は「悪党」と歌ってしまってはどうかと提案してきたのは、ピーチャム役を演じ

    ている俳優だった。たしかにそう言われてみると、冒頭のこの部分で「私と一緒」と歌われても、まだ観客は十分

    にその「私」がどんな人物かを理解していないわけで、効果が薄い。それよりも常識的には立派な職業だと考えら

    れている政治家や弁護士を、いきなり「悪党」と決めつけることで、「うらおもて」というメッセージがよりはっ

    きりと観客に伝わる。そもそもこの訳詞が「うらおもて」という読み換えから出発している以上、文字テキストと

    しては成立していたはずの「一緒」が、俳優の演技において違和感を生んだのはむしろ当然だったといえる。そう

    なると次に続く二行も変更の必要が生じる。「弱いやつからまきあげろ/人助けでメシが食えるか」は、ピーチャ

    ムが(政治家や弁護士と同じ)自分の信条を歌ったものだったが、これを悪党である政治家や弁護士を非難する文

    脈になるように変更した。

     

    このように原テキストから上演用の訳詞に至る行程では、英語から日本語への翻訳に加えて、演出家の解釈や音

    楽的要素、さらに俳優の身体という「フィルター」を通して、さまざまなレベルで意味の変換が複合的に行われて

    いる。そして俳優が歌う言葉の「意味」は、最終的には上演の場における観客との関係性においてはじめて結論づ

    けられる。

     

    稽古の場においても、同じ言葉が俳優の演技によってまったく別の「意味」を帯びてくる経験が何度もあった。

    例えば一幕のフィナーレにある「生きてるかぎり」という歌詞は、最初に聞いたときは何の変哲もないごく平凡な

    言葉にすぎなかったが、稽古が進んで俳優が一八世紀の乞食たちというリアリティーを獲得し、貧困と病気の蔓延

    で現代とは桁違いに「死」が身近にあった人々の「生」を体現するようになると、この「生きてるかぎり」という

    部分が現代人の日常生活では想像できなかった、深く根源的な意味を担ったものとして聞こえてくる。

     

    これがさらに、実際の上演の場では観客にどのように伝わるのだろうか。観客はひとりひとり異なる以上、上演

    の場においては観客の数だけの多様な意味と経験が存在し、毎回異なる観客との関係を作り出す俳優の状態も毎回

    異なる以上、そこにある俳優と観客の関係はその場限りの再現不可能なものになる。どちらも生きている生身の人

    間である両者が、同じ時間と空間を共有する中で、その瞬間に紡ぎだす多様な「意味」を担うことができる歌詞こ

    そが、おそらく最も優れたものだと言えるのだろう。

     

    だとすれば、歌詞は言葉である以上意味を「伝える」ものであるが、それと同時に上演においては、その場で生

    起する言葉を超えた様々な意味を「担う」存在であるとも言えるかもしれない。テキストに書かれた台詞や歌詞の

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    四、上演の実際まで

     

    訳詞の作業についてもう一点、訳詞が稽古場における俳優や演出家との共同作業の中で変わっていく実例を示し

    ておこう。先に示した最初の曲の歌詞は、まず一通り書き終えたものを演出家に見せて打ち合わせを行い、演出家

    の要望を取り入れて書き直した歌詞を楽譜にして、稽古の初日までに出演者とスタッフに配布したものだが、リハー

    サルで実際に俳優が歌ってみたあとで、さらに書き直した部分がある。

     

    ピーチャムが歌う一番の歌詞の第二連を、当初の歌詞と変更後の歌詞を対にして並べてみよう。

         

    変更前                

    変更後

       

    政治家や弁護士も一緒         

    政治家と弁護士は悪党

       

    弱いやつからまきあげろ        

    弱いやつからまきあげる

       

    人助けでメシが食えるか        

    人助けでメシは食えない

     

    変更前に、政治家や弁護士も「一緒」としたのは、原文の最終行に「(政治家は)自分の商売を私(ピーチャム)

    と同じくらい正直だと思っている」(直訳)とある部分の、「私と同じくらい」という意味を訳出しようとしたもの

    であるが、それを政治家と弁護士は「悪党」と歌ってしまってはどうかと提案してきたのは、ピーチャム役を演じ

    ている俳優だった。たしかにそう言われてみると、冒頭のこの部分で「私と一緒」と歌われても、まだ観客は十分

    にその「私」がどんな人物かを理解していないわけで、効果が薄い。それよりも常識的には立派な職業だと考えら

    れている政治家や弁護士を、いきなり「悪党」と決めつけることで、「うらおもて」というメッセージがよりはっ

    きりと観客に伝わる。そもそもこの訳詞が「うらおもて」という読み換えから出発している以上、文字テキストと

    しては成立していたはずの「一緒」が、俳優の演技において違和感を生んだのはむしろ当然だったといえる。そう

    なると次に続く二行も変更の必要が生じる。「弱いやつからまきあげろ/人助けでメシが食えるか」は、ピーチャ

    ムが(政治家や弁護士と同じ)自分の信条を歌ったものだったが、これを悪党である政治家や弁護士を非難する文

    脈になるように変更した。

     

    このように原テキストから上演用の訳詞に至る行程では、英語から日本語への翻訳に加えて、演出家の解釈や音

    楽的要素、さらに俳優の身体という「フィルター」を通して、さまざまなレベルで意味の変換が複合的に行われて

    いる。そして俳優が歌う言葉の「意味」は、最終的には上演の場における観客との関係性においてはじめて結論づ

    けられる。

     

    稽古の場においても、同じ言葉が俳優の演技によってまったく別の「意味」を帯びてくる経験が何度もあった。

    例えば一幕のフィナーレにある「生きてるかぎり」という歌詞は、最初に聞いたときは何の変哲もないごく平凡な

    言葉にすぎなかったが、稽古が進んで俳優が一八世紀の乞食たちというリアリティーを獲得し、貧困と病気の蔓延

    で現代とは桁違いに「死」が身近にあった人々の「生」を体現するようになると、この「生きてるかぎり」という

    部分が現代人の日常生活では想像できなかった、深く根源的な意味を担ったものとして聞こえてくる。

     

    これがさらに、実際の上演の場では観客にどのように伝わるのだろうか。観客はひとりひとり異なる以上、上演

    の場においては観客の数だけの多様な意味と経験が存在し、毎回異なる観客との関係を作り出す俳優の状態も毎回

    異なる以上、そこにある俳優と観客の関係はその場限りの再現不可能なものになる。どちらも生きている生身の人

    間である両者が、同じ時間と空間を共有する中で、その瞬間に紡ぎだす多様な「意味」を担うことができる歌詞こ

    そが、おそらく最も優れたものだと言えるのだろう。

     

    だとすれば、歌詞は言葉である以上意味を「伝える」ものであるが、それと同時に上演においては、その場で生

    起する言葉を超えた様々な意味を「担う」存在であるとも言えるかもしれない。テキストに書かれた台詞や歌詞の

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    言葉の意味から出発して、そこにどれだけ多様で豊穣な意味を担わせることが可能であるか。それを追い求める俳

    優と演出家をはじめとするスタッフとの共同作業が、いまも稽古場で、目の前で続いている。

      

    (1) 

    演出・脚色=ジョン・ケアード、原作=ジョン・ゲイ、音楽=イローナ・セカッチ、翻訳=吉田美枝、訳詞=松田直行。主な配役は、

       

    マクヒース=内野聖陽、ピーチャム=高嶋政宏、ロキット=村井国夫、トム(フィルチ)=橋本さとし、老役者=金田龍之介、

       

    ルーシー=島田歌穂、ポリー=笹本玲奈、ピーチャム夫人=森公美子。

    (2) 

    ブレヒトの『三文オペラ』を『乞食オペラ』のタイトルで上演した例は散見する。近年ジョン・ゲイの『乞食オペラ』

       

    を上演した例は、一九九八年に宝塚歌劇団による翻案上演みられる程度である。

    (3) 

    ブレヒトがジョン・ゲイの原作をどのように使って『三文オペラ』を書いたかは、岩淵達治「《三文オペラ》を読む」(岩波

       

    書店、一九九三年)に詳しい。また同書には、日本における『三文オペラ』上演史も著者の体験に基づいて詳述されている。

    (4) " TH

    E BEGGAR 'S O

    PERA" by JO

    HN GAY in a new

    version by JOHN CAIRD and ILO

    NA SEK

    ACZ, A

    daptation and Libretto by

       

    John Caird, Music by Ilona Sekacz, D

    RAMATISTS PLA

    Y SERV

    ICE INC., 1999.

    (5) 

    同書、一一頁、拙訳。

    (6) 

    ジョン・ゲイ作、海保眞夫訳『乞食オペラ』(法政大学出版局、一九九三年)、一六七頁。

    (7) 

    同書、一一頁。

    (8) 

    岩淵達治、前掲書、一一〜一二頁。

    (9) 

    同書、一二頁。

    (10) 

    さらに繰り返しの二回目では最後の一行TH

    INKS HIS TRA

    DE AS HONEST A

    S MINE

    が二回繰り返されているため、訳詞では最

       

    後から二行目に「政治家も泥棒も兄弟だ」が加えられている。

    (11) 

    最初の音は、付点四分音符、すなわち八分の六拍子の曲なので一小節の半分を占める長さであり、次の音はその半分であるが、

       

    それ以外の音は八分音符または十六分音符で、それより短い。

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    言葉の意味から出発して、そこにどれだけ多様で豊穣な意味を担わせることが可能であるか。それを追い求める俳

    優と演出家をはじめとするスタッフとの共同作業が、いまも稽古場で、目の前で続いている。

      

    (1) 

    演出・脚色=ジョン・ケアード、原作=ジョン・ゲイ、音楽=イローナ・セカッチ、翻訳=吉田美枝、訳詞=松田直行。主な配役は、

       

    マクヒース=内野聖陽、ピーチャム=高嶋政宏、ロキット=村井国夫、トム(フィルチ)=橋本さとし、老役者=金田龍之介、

       

    ルーシー=島田歌穂、ポリー=笹本玲奈、ピーチャム夫人=森公美子。

    (2) 

    ブレヒトの『三文オペラ』を『乞食オペラ』のタイトルで上演した例は散見する。近年ジョン・ゲイの『乞食オペラ』

       

    を上演した例は、一九九八年に宝塚歌劇団による翻案上演みられる程度である。

    (3) 

    ブレヒトがジョン・ゲイの原作をどのように使って『三文オペラ』を書いたかは、岩淵達治「《三文オペラ》を読む」(岩波

       

    書店、一九九三年)に詳しい。また同書には、日本における『三文オペラ』上演史も著者の体験に基づいて詳述されている。

    (4) " TH

    E BEGGAR 'S O

    PERA" by JO

    HN GAY in a new

    version by JOHN CAIRD and ILO

    NA SEK

    ACZ, A

    daptation and Libretto by

       

    John Caird, Music by Ilona Sekacz, D

    RAMATISTS PLA

    Y SERV

    ICE INC., 1999.

    (5) 

    同書、一一頁、拙訳。

    (6) 

    ジョン・ゲイ作、海保眞夫訳『乞食オペラ』(法政大学出版局、一九九三年)、一六七頁。

    (7) 

    同書、一一頁。

    (8) 

    岩淵達治、前掲書、一一〜一二頁。

    (9) 

    同書、一二頁。

    (10) 

    さらに繰り返しの二回目では最後の一行TH

    INKS HIS TRA

    DE AS HONEST A

    S MINE

    が二回繰り返されているため、訳詞では最

       

    後から二行目に「政治家も泥棒も兄弟だ」が加えられている。

    (11) 

    最初の音は、付点四分音符、すなわち八分の六拍子の曲なので一小節の半分を占める長さであり、次の音はその半分であるが、

       

    それ以外の音は八分音符または十六分音符で、それより短い。

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