ヒトに由来する研究試料の取り扱い ~病理学の立場...

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ヒトに由来する研究試料の取り扱い ~病理学の立場から~ 伊藤彰彦 近畿大学医学部病理学教室・大学院医学研究科病因病態探索学 はじめに ヒトに由来する検体を研究試料として医学研究を 展開し成果を挙げることは,存在理由の1つと言え る程医学部にとって極めて重要な事項である.本稿 では,ヒトに由来する研究試料のうち,剖検や手術 時に摘出される「臓器」,或いは生検によって採取さ れる「組織片」を前提とし,その取り扱いについて 病理学の立場から述べる.内容は,本シリーズの趣 旨に沿って,大学院の共通講義相当とし,実際に講 義で話した内容をそのまま書き下ろした部分も相当 量含まれている.また,病理学にあまり馴染みのな い方にも理解しやすいよう平易な記述に留意した. 病 理 学(pathology)は,字 の 如 く 病 気 の 原 因 (patho-)を科学する学問(-logy)(合わせて,“sci- enceofdisease”)と非常に幅広い意味に読み取れる が,実際に用いられる研究手法はかなり限定的なも のであり,組織構築の形態学的観察が基本となる. 組織観察のために用いられる方法には王道があり, 「ホルマリン固定 → パラフィン包埋 → ヘマトキ シリン(hematoxylin)とエオジン(eosin)による 染色」である.この手法は比較的容易かつ安価であ りながら再現性に優れており,半世紀以上の長きに 渡って病理学的組織解析の本幹を担って来た.現在 もこれに代わる方法はないし,今後もこれに取って 代わる方法は出現しないものと思われる.一方で, 近年の病理学では分子生物学的手法が様々な形で導 入され,分子病理学と呼ばれる一分野を形成してい る. 本稿では,先ず病理検体を解析するための古典的 な手法について概説し,次いで分子病理学的研究手 法の代表例を紹介する.研究に関する事柄以外にも 臨床上役に立つ病理学の豆知識も折に触れて記述し た.その後,病理検体の取り扱いに関する倫理的側 面に簡単に触れ,最後に,21世紀に相応しい病理学 のあり方について雑感を述べた.本稿によって,古 くて新しい病理学との接点が見出され広がっていく ことを願っている. 古典的な病理標本作製手法 病理学的研究に供されるヒトの組織は主に生検, 手術,剖検によって採取される.臨床研究では,多 数の検体を一群(group)とし,多群間で比較解析す るという研究手法がしばしば用いられる.この場合, 検体の均一性を担保するために,採取方法を一定に することが求められる.しかし,これだけでは不十 分な場合も少なくない.組織そのものが群の条件を 満たしていない可能性が残るからである.この可能 性を検証するためには,試料の組織像を観察し,群 の一員として適切かどうかを判断する必要がある. その意味で,病理学的研究の第一歩は病理標本の作 製である. パラフィン包埋ブロックの作製 1) 固定:試料となる組織を緩衝ホルマリン液に浸 ける.浸けておく期間は,生検組織なら1日,臓器 相当の大きさを持つものは2~3日間.囊胞内容液 や出血などでホルマリンが希釈される場合には,ホ ルマリン溶液を適宜入れ替える.ホルマリンによっ て組織の蛋白は変性し,組織は全体として硬度を増 すとともに,若干縮む.色調は灰白色調に変化する. 消化管などの柔らかい組織は,固定によって不自然 な形で固まってしまわないようにコルク板に虫ピン で張り付けた後固定する. 2) 切り出し:観察すべき領域を見定め,最大 2×3 センチの平面(組織厚は最大5ミリ)として切り取 る.これ以上の場合は,いくつかの組織片に切り分 ける.この際,各組織片の互いの位置関係をメモし ておく. 近畿大医誌(M ed J Kinki Univ)第39巻3,4号 155~161 2014 155

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ヒトに由来する研究試料の取り扱い

~病理学の立場から~

伊 藤 彰 彦

近畿大学医学部病理学教室・大学院医学研究科病因病態探索学

は じ め に

ヒトに由来する検体を研究試料として医学研究を

展開し成果を挙げることは,存在理由の1つと言え

る程医学部にとって極めて重要な事項である.本稿

では,ヒトに由来する研究試料のうち,剖検や手術

時に摘出される「臓器」,或いは生検によって採取さ

れる「組織片」を前提とし,その取り扱いについて

病理学の立場から述べる.内容は,本シリーズの趣

旨に沿って,大学院の共通講義相当とし,実際に講

義で話した内容をそのまま書き下ろした部分も相当

量含まれている.また,病理学にあまり馴染みのな

い方にも理解しやすいよう平易な記述に留意した.

病理学(pathology)は,字の如く病気の原因

(patho-)を科学する学問(-logy)(合わせて,“sci-

ence of disease”)と非常に幅広い意味に読み取れる

が,実際に用いられる研究手法はかなり限定的なも

のであり,組織構築の形態学的観察が基本となる.

組織観察のために用いられる方法には王道があり,

「ホルマリン固定 → パラフィン包埋 → ヘマトキ

シリン(hematoxylin)とエオジン(eosin)による

染色」である.この手法は比較的容易かつ安価であ

りながら再現性に優れており,半世紀以上の長きに

渡って病理学的組織解析の本幹を担って来た.現在

もこれに代わる方法はないし,今後もこれに取って

代わる方法は出現しないものと思われる.一方で,

近年の病理学では分子生物学的手法が様々な形で導

入され,分子病理学と呼ばれる一分野を形成してい

る.

本稿では,先ず病理検体を解析するための古典的

な手法について概説し,次いで分子病理学的研究手

法の代表例を紹介する.研究に関する事柄以外にも

臨床上役に立つ病理学の豆知識も折に触れて記述し

た.その後,病理検体の取り扱いに関する倫理的側

面に簡単に触れ,最後に,21世紀に相応しい病理学

のあり方について雑感を述べた.本稿によって,古

くて新しい病理学との接点が見出され広がっていく

ことを願っている.

古典的な病理標本作製手法

病理学的研究に供されるヒトの組織は主に生検,

手術,剖検によって採取される.臨床研究では,多

数の検体を一群(group)とし,多群間で比較解析す

るという研究手法がしばしば用いられる.この場合,

検体の均一性を担保するために,採取方法を一定に

することが求められる.しかし,これだけでは不十

分な場合も少なくない.組織そのものが群の条件を

満たしていない可能性が残るからである.この可能

性を検証するためには,試料の組織像を観察し,群

の一員として適切かどうかを判断する必要がある.

その意味で,病理学的研究の第一歩は病理標本の作

製である.

⑴ パラフィン包埋ブロックの作製

1)固定:試料となる組織を緩衝ホルマリン液に浸

ける.浸けておく期間は,生検組織なら1日,臓器

相当の大きさを持つものは2~3日間.囊胞内容液

や出血などでホルマリンが希釈される場合には,ホ

ルマリン溶液を適宜入れ替える.ホルマリンによっ

て組織の蛋白は変性し,組織は全体として硬度を増

すとともに,若干縮む.色調は灰白色調に変化する.

消化管などの柔らかい組織は,固定によって不自然

な形で固まってしまわないようにコルク板に虫ピン

で張り付けた後固定する.

2)切り出し:観察すべき領域を見定め,最大2×3

センチの平面(組織厚は最大5ミリ)として切り取

る.これ以上の場合は,いくつかの組織片に切り分

ける.この際,各組織片の互いの位置関係をメモし

ておく.

近畿大医誌(Med J Kinki Univ)第39巻3,4号 155~161 2014 155

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3)脱水:組織から水分を除去する.このためにエ

タノール系列を用いる.初めに70%エタノールに浸

漬し,次いで80%,90%と濃度を上げ,最終的に100

%のエタノールに浸漬する.各濃度の浸漬時間は,

数時間程度.

4)脱脂:組織中の脂肪分と脱水に用いたアルコー

ルを除去するために,クロロホルムに浸漬する.数

時間程度.

5)パラフィン浸透:約60℃に温められた液体状の

パラフィンに組織片を浸漬する.数時間程度.

6)パラフィン包埋:4℃に冷却されたプレートの

上に置かれた金属性の皿(包埋皿)に60℃のパラフ

ィンを流し込むと同時に,組織片を皿の底面に押し

付ける.パラフィンは皿の底面からみるみる固形化

していき,その際組織片は固形化したパラフィンの

中に包埋される.パラフィンのおもて面には四角い

プラスチックを押し付け付着させる.パラフィンが

十分に固形化するまで4℃の伸展台の上に放置する

(数時間程度).包埋皿を外すと,パラフィン包埋ブ

ロックが完成する.

⑵ 染色

1)組織切片の作製:薄切装置(ミクロトーム)に

パラフィン包埋ブロックを四角いプラスチックの部

分で固定し,組織片が包埋された面を上に向ける.

カッターをスライドさせてブロック上面を薄い膜と

して削り取る.この切片の厚さは一般に3 m.目的

によっては10 m.切片を水面に浮かべると,水の表

面張力で進展するので,それをスライドグラスです

くい取る.その後進展台で乾燥させる(数時間程度).

2)脱パラ:キシレンに浸漬することで,切片上の

パラフィンを除去する.

3)親水化:染色液は一般に水溶液なので,組織切

片を親水化する必要がある.脱水と逆の順番でアル

コール系列に浸漬し,最後に流水で洗う.

4)HE染色:ヘマトキシリンとエオジンに順番に

浸漬することで染色する .浸漬時間はそれぞれ1

~数分程度.両者の間と最後に流水で洗うと,染ま

りが鮮明になる.ヘマトキシリンは青い色素で,細

胞の核を染める.エオジンは赤い色素で,細胞質や

原膠線維,筋線維を染める.ヘマトキシリンによる

核の染色は,腫瘍細胞の核異型の判定において重要

な所見をもたらす.腫瘍細胞の核は一様に濃紺に染

まる場合もあるが,核内に濃紺の不整形粗大~細顆

粒が数個~10個程度見えるだけでそれ以外の部分は

明るい(全く染まっていない)場合(クロマチン凝

集の所見)もある(図1).腫瘍以外の細胞について

は,リンパ球では核全体が濃紺に染まるが,血管内

皮細胞や組織球では,核の輪郭が青というよりは灰

色で縁取られ,核の内部も淡く灰色に染まる.その

他に青~灰色系に染まるものとして,好塩基球の細

胞質顆粒,石灰化巣,軟骨基質,細菌塊がある.エ

オジンによる赤い色調の染まりにも大きな幅があ

り,赤血球は真っ赤で,次いで赤いのが筋線維であ

る.原膠線維はそれより薄くオレンジに近い.結核

の乾酪壊死巣やフィブリンの染まりはしっかりとし

たピンク色で,漿液性の浸出液は淡いピンク色に染

図 印環細胞癌のPAS染色像

図 大腸癌のHE染色像

伊 藤 彰 彦156

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まる.

5)特殊染色:HE染色以外に様々な染色法が考案

されている .ここでは代表的なものを2つ紹介する

にとどめる.①粘液物質などの多糖類を赤く染める

PAS(periodic acid-Schiff)染色.代表的な使用例

は,腺管構造を取らず個々ばらばらに浸潤性増殖す

る低分化型腺癌細胞(印環細胞癌を含む)の同定で

ある(図2).②弾性線維を黒褐色に染めるEVG

(elastica-van Gieson)染色.血管の内・外弾性板が

染め出されるので,例えば,フィブリノイド壊死を

包囲するような結節性の炎症巣が本来は血管であっ

たと容易に認識でき,血管炎との診断を確定する際

に用いられる.

⑶ 凍結包埋・凍結切片

パラフィン包埋ブロックの作製は上述の如く少な

くとも数日を要する.より短時間で組織像を観察し

たい場合には,凍結包埋が用いられる.組織片を水

溶性コンパウンドに埋めた後,液体窒素に浸漬して,

瞬時に凍結する.この凍結包埋ブロックを薄切する

には,冷却機能の付いたミクロトームであるクリオ

スタットを用いる.-20~30℃の庫内で薄切する.切

片はそのままスライドグラスに張り付け,ヘアドラ

イヤーの常温風で乾燥後,ホルマリンで固定する(数

分程度).HE染色の手順はパラフィン切片に準ずる

(但し,脱パラ・親水操作は不要).短時間でHE染

色標本が出来上がるので,臨床では主に術中の病理

診断(ゲフリール)に用いられる.しかしながら,

細胞・組織構築の保持は,パラフィン切片に比べて

著しく劣る(図3).

⑷ 免疫染色(免疫組織化学,免疫蛍光)

抗原-抗体反応を用いて切片を染色する方法であ

る.スライドグラス上で,組織切片を覆うように1

次抗体含有水溶液を滴下し,数時間~1晩程度イン

キュベートする.この間に1次抗体はその認識抗原

に結合する.切片を洗浄後,一次抗体に対する2次

抗体を反応させる(1~数時間程度).この2次抗体

は可視化のための工夫が施されており,呈色反応を

媒介する酵素(ペルオキシダーゼなど),或いは,蛍

光を発する化合物(FITC,Cy2など)が共役してい

る.前者は,DABやAECなどとの呈色反応により

抗原の局在を可視化する(免疫組織化学法).後者で

は,蛍光顕微鏡を用いた観察の下,蛍光にて抗原の

局在を可視化する(免疫蛍光法).パラフィン切片,

凍結切片のいずれも用いることが出来るが,同一の

抗体を用いても結果が異なることがしばしばある.

パラフィンブロック作製プロセスが抗原性の保持に

影響(一般には悪影響)するためと考えられる.一

方,凍結切片は抗体インキュベートや洗浄などの操

作中にスライドグラスから剥離しやすいという弱点

がある.

免疫染色の最大の利点は,多重染色が出来ること

である.その際には一般に免疫蛍光法が用いられ,

複数の抗体を別々の蛍光色素で可視化する.アポト

ーシスを検出する蛍光TUNEL法との共染色や

DAPIによる核染色も可能である.

⑸ 標本作製が出来ない検体

以上述べてきたように,病理標本の作製は極めて

マニュアルな作業の連続である.従って,思い通り

に標本が作製できないこともままある.また,標本

作製が原理的に事実上不可能となる場合もある.そ

の代表例として,ペッツ型金属縫合器にて切離され

た組織が挙げられる.ペッツを含む組織は薄切が出

来ないからである.ペッツの周辺にまで腫瘍の進展

がある場合,切離断端での腫瘍残存の有無が病理学

的に評価できなくなる可能性があるので,臨床的に

注意を要する.粘膜切除標本の虫ピン留めも同じく

切離断端の評価を難しくさせる可能性がある.また,

冠動脈や胆管内などに留置される金属ステントにつ

いては,ステントに対する生体反応を組織学的に検

討したいと思っても,ステント自体を輪切り状の切

片に出来ないのは言うまでもない.

骨組織や石灰化組織などの硬組織は,キレート剤

(EDTAなど)などで処理(脱灰)した後,パラフィ

ン包埋すると,薄切可能となる.硬組織の量が少な

い場合は,通常通りにパラフィンブロックを作製し,

薄切に際して,そのブロック面のみを脱灰処理して

も薄切できる.脱灰処理は一般に免疫染色に悪影響

を与える.

分子病理学的解析

病理学はHE染色標本を作製し,青系の色と赤系

の色の染まり具合を詳細に観察することによって組

織形態学として発展してきた.しかし,近年の分子

生物学のめざましい進歩は,組織切片を単に形態学

的に観察するだけでなく,“分子の目”で見ることを図 凍結切片のHE染色像(リンパ節)

ヒトに由来する研究試料の取り扱い~病理学の立場から~ 157

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可能にした.また,パラフィン包埋ブロックについ

ては前時代的古典病理の産物との印象が強かった

が,その利用可能性は大きく広がろうとしている.

それらの一端を紹介する.

⑴ in situ ハイブリダイゼーション

組織内の細胞が持つある特定のmRNA,又は

DNAをその組織の切片上で検出する方法であ

る .検出したい(標的)mRNA,又はDNAの全

長,或いは特異的な領域の塩基配列に対して,その

相補的配列をプローブとして作製し,組織切片上で

インキュベートすると,プローブは相補的塩基対形

成(ハイブリダイゼーション)によって標的核酸に

結合する.プローブはあらかじめラジオアイソトー

プやジコキシゲニン(DIG)によって標識されてお

り,これらの標識によりプローブの局在を検出する.

組織の固定には,パラホルムアルデヒドが用いられ

る.その後,パラフィン包埋 → 薄切と処理を進め

るに当たってはRNase-free,或いはDNase-freeの

環境を整えるのが望ましい.薄切すると,細胞内の

mRNA,DNAは切片上に露出していると考えら

れ,そこにプローブがハイブリダイズする.一般に

mRNAは細胞質領域に,DNAは核内に検出され

る.

⑵ DNA抽出,RNA抽出,蛋白抽出

臨床検体,或いは剖検組織から核酸抽出や蛋白抽

出を行うことが事前に計画されている場合(pro-

spective study)には,組織検体は摘出後直ちに液体

窒素かドライアイスで凍結し-80℃で保存する.使

用時に組織を凍結粉砕し,核酸抽出バッファー,或

いは蛋白抽出バッファーに懸濁・溶解することで,

核酸,蛋白を抽出する.凍結破砕のプロセスは非常

に重要で,均一な細顆粒状に速やかに破砕しなけれ

ばならない.その一般的な方法は,凍結組織片と金

属の玉を同一チューブ内に入れ,チューブを上下に

激しく震盪するというもの.電動式の卓上破砕装置

が一般的には頻用されているが,筆者のグループは

ハンディタイプの円筒型破砕装置を用いて比較的良

好な結果を得ている.チューブを納めた円筒を握り,

バーテンダーがカクテルを混ぜるように前腕を上下

に激しく振って組織を破砕する.

⑶ パラフィン包埋組織の活用

臨床研究は得てして後ろ向き(retrospective

study)である.その場合,研究試料として利用可能

なものは病理標本(パラフィン包埋組織)が全てと

いうことも少なくない.そうなると,解析方法はか

なり限られてしまい,特殊染色か免疫染色くらいし

か出来ないというのが従来の常識であった.しかし

近年の技術革新により,病理標本から高品質の核酸

や蛋白が抽出可能となってきた.実際,病理標本か

らのDNA抽出技術は臨床応用されている.大腸腺

癌や非小細胞肺癌ではパラフィン切片の腫瘍部から

DNAが抽出され,ダイレクトシークエンシングや

次世代シークエンサーにて癌遺伝子(k-rasや

EGFRなど)における変異の有無が調べられてい

る.

病理標本からのRNA抽出技術に関しては,臨床

応用は依然限定的である.パラフィン切片から抽出

されるmRNAは,200塩基長程度に断片化している

と言われる.このmRNAを用いての遺伝子発現の

定量的な解析(mRNAの量の比較)に当たっては十

分なコントロールが必要と思われる .一方,遺伝子

(mRNA)発現の質的な解析は十分可能で,例えば,

病変特異的なalternatively spliced isoformの検出

に有用である.

最近注目されているのは,パラフィン切片からの

蛋白抽出技術である.文献的にはすでに過去にいく

つかのプロトコールが発表されていたが,簡便でか

つ,再現性が高いという点で,Rodrıguez-Rigueiro

らによる方法は特筆に値する .ミネラルオイル中で

切片を溶解してパラフィンを除去した後,クエン酸

-SDSバッファーにて蛋白抽出を行うものである.

筆者のグループはこの方法に更なる改良を加えた結

果,パラフィン包埋ブロックさえあれば,病変内で

の蛋白発現をウエスタンブロットにてルーチンに解

析できるという研究環境を作ることに成功した .

この研究環境は画期的である.なぜなら,パラフ

ィン包埋ブロックを用いて蛋白発現解析が可能とな

れば,大学病院が保有する膨大な剖検標本アーカイ

ブの全てが分子生物学的研究試料としての価値を持

ってくるからである.剖検標本には2つの特徴があ

る.1つは,手術や生検では決して採取されない臓

器・組織・病変が多数含まれることである.糖尿病

の膵臓や慢性閉塞性肺疾患の肺,透析を必要とする

慢性不全腎などが挙げられる.もう1つの特徴は,

基本的に症例ごとに全身臓器が保管されている点で

ある.これらのことから,例えば,次のような研究

アイデアが浮かんでくる.生活習慣病の質的診断や

病態の評価に当たっては,血清学的検査や理学的機

能検査が主たる解析方法であったが,剖検で得られ

た疾患の責任臓器・病変を分子レベルで解析するこ

とで,生活習慣病の発症や進行に関与する分子機構

を明らかに出来る可能性がある.加えて,同一個人

の全身の諸臓器についても解析すれば,合併症の有

無など疾患背景に関する情報が得られる可能性があ

る.このように本手法は,お蔵入りしていた研究試

料をリバイバルさせるものと言え,今後病理学的研

伊 藤 彰 彦158

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究においては1つのスタンダードになる可能性を秘

めていると思われる.

⑷ レーザーマイクロダイセクション(laser cap-

ture microdissection)

核酸抽出や蛋白抽出を組織切片全体から行うので

はなく,切片内の特定の細胞(例えば,腫瘍細胞だ

けとか,リンパ球だけなど)から行うことを可能に

する方法である .胃粘膜に存在するヘリコバクター

や感染巣の真菌を採取することも出来る.切片を顕

微鏡で観察し,モニター上で切り取りたい細胞・領

域を任意に指定し,レーザーを照射する.切り取ら

れた細胞・組織は直後に核酸抽出用バッファー,或

いは蛋白抽出用バッファー内に回収される.レーザ

ーによる切り取り線の幅は1~2 m程になるので,

径の小さい細胞の切り取りや,周囲の細胞と密接し

ている場合にはコンタミネーションに注意を要す

る.RNAや蛋白を抽出する場合には,凍結切片を用

いるのが良い.筆者の経験では,500~1000個程度の

細胞を採取すれば,その後のRNA抽出や蛋白抽出

に当たって一般的な市販キットを用いても有意義な

量のRNA・蛋白を取得できる .尤も原理的には,

1細胞のみの採取でcDNAライブラリーの作製や

DNAマイクロアレイ解析が可能と謳われている.

ゲノムDNAを抽出し,次世代シークエンサーに供

する場合は,パラフィン切片の使用で十分良好な結

果が得られる.

最近では,腫瘍のパラフィン切片から腫瘍細胞を

切り取って蛋白を抽出し,質量分析に供することで

種々の腫瘍のプロテオミクスを推進することが試み

られている.この分野は国内外で競争が激しい.

倫理的側面

ヒトに由来する研究試料を取り扱う際には,倫理

的な配慮が必要である.そのことについては,本研

究科シリーズの他稿を参照して頂きたい.ここでは,

病理学の立場から特に申し添えたい点を中心に簡単

に触れることにする.上述の如く,固定され包埋さ

れ薄切された病理標本と言えども,そこから遺伝子

情報を抽出することが十分可能な時代となったの

で,その取り扱いに当たっては血液試料と同等の倫

理的配慮が求められる.

⑴ 生検組織,手術検体,剖検組織

生検組織,手術検体を学術研究に用いる場合,研

究の意義や実験計画,具体的な検体の取り扱い方法

などについては当該施設の倫理委員会に諮られ承認

される必要がある.委員会では個人情報が保護され

ているか,informed consentが書面にて成されてい

るか,医療上不利益が生じることはないか,などが

チェックされる.生殖細胞系変異を検出するような

ゲノム塩基配列決定を行う研究課題は,より高い倫

理基準で審査される.

剖検にて摘出された臓器・組織,並びに病理解剖

標本を用いる学術研究については,日本病理学会か

ら指針が示されており,基本的には生検組織・手術

検体と同様の手続きを踏むことが求められている.

但し,書面での informed consentを得ることは一般

に困難であり,その点をどのように判断するかは研

究課題ごとに個別の問題として倫理委員会での判断

に委ねられている.ゲノム塩基配列解析研究に関し

ては原則として遺族からの承認を得るべきとしてい

る.

⑵ いわゆる“最大割面”問題

病変を解析する場合,その目的が診断であれ研究

であれ,病変の最大割面を用いることが標準的な手

法となる.実際,種々の「癌取扱い規約」において,

腫瘍の最大割面を切り出して観察することが病理診

断の基本として記載されている .従って,取り扱

い規約に従って病理診断を行った場合,研究には腫

瘍の最大割面を用いることが出来ない.当然,逆も

成り立つ.この関係性は研究と臨床の両立を求めら

れる医療人にとって避けがたいジレンマであり,特

に病変が小さい場合には2者択一問題となってく

る.このような事態が想定される研究課題では,検

体の取り扱いについて詳細なプロトコールを作成し

(例えば,除外項目として「病変が○○センチ以下の

症例」と掲げる,など),医療上の不利益が生じない

ように最大限の配慮が成されているか事前に十分に

検討する必要がある.

⑶ 研究データの還元

ヒトの臨床検体を用いた研究では,未知の遺伝子

変異や疾患に特有の分子種(アイソフォーム)が同

定されたり,新しい予後予測因子が見出されたりす

ることが稀ならずある.そのような場合,新規に得

られた研究データを臨床の現場に還元すべきかどう

かは慎重に検討されなければならない.臨床的に真

に有用な情報かどうかを短時間のうちに見極めるの

は多くの場合困難で,拙速な情報の開示は,医療の

現場に混乱を招くだけに終わる可能性が高いからで

ある.

お わ り に

臨床病理検体が医学研究の貴重なマテリアルであ

ることは疑う余地はない.しかしながら,分子生物

学的なアプローチが常識となった今日の視点で振り

返ってみると,過去において病理検体の用いられ方

は極めて限定的なものであったとわかる.HE染色

ヒトに由来する研究試料の取り扱い~病理学の立場から~ 159

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の他には免疫染色や特殊染色による形態学的な解析

がほぼ全てであった.一般的な臨床病理検体が分子

生物学的手法で解析されるようになったのは20世紀

の終わり頃からであり,盛んになったのはここ10年

程のことである.いざ分子レベルでの解析が行われ

てみると,そこから得られる情報が如何に貴重でパ

ワフルであるかを思い知らされることとなった.そ

の最たる例が,腫瘍における遺伝子変異の検出であ

ろう.腫瘍の病理検体を用いた遺伝子解析は,日進

月歩の勢いで技術開発が進められた結果,今日では

臨床に有用な情報を還元するという良好な循環を生

むに至っている.遺伝子情報はデータが蓄積されれ

ばされる程,より informativeになるという性格の

ものなので,この好循環は今後も確実に進化し続け

るであろう.前世紀においては腫瘍組織形態学が病

理検体解析の本流として君臨していた.実際その成

果は偉大で,例えば,大腸の腺腫(良性)と腺癌(悪

性)とを形態学的に鑑別するとともにその境界病変

として腺腫-腺癌シークエンスを想定していたが,近

年の腫瘍ゲノム学によって腺腫・腺癌に固有の遺伝

子変異が同定され腺腫から腺癌へのprogressionが

多段階発癌として分子レベルで証明されるに至っ

た.つまり,形態学的な観察に基づいて特定の遺伝

子変異の有無を予見していたと言える訳で,前世紀

の病理学者が如何に優れた観察眼を持っていたかが

良くわかる.しかし,今日の腫瘍ゲノム学の進歩は

革命的であり,組織形態学的分類よりも遺伝子での

タイピングという腫瘍医療の時代が来るのはそう遠

い未来ではないと予感される(現代の病理医にとっ

ては悲しい現実ではあるが).

その一方で,炎症や変性,再生といった非腫瘍性

の病変に関しては,腫瘍に比べると分子レベルの解

析は全く進んでいないと言って良い程である.この

違いは何であるのか.一重にそれは,腫瘍が“遺伝

子の病気”だからと考えられる.つまり,病変内に

遺伝子変異が見つかれば,それは腫瘍に由来すると

言えるから,腫瘍は分子レベル解析に向いている病

気なのである.その上,腫瘍の有無は臨床上最重要

情報なので,解析結果は最優先に扱われる.非腫瘍

性病変の場合,遺伝子多型などの遺伝的背景がキー

になることもあるが,後天的にゲノム上に遺伝子変

異を生じるような状況は極めて例外的と考えられる

ので,解析対象は基本的にmRNA,或いは蛋白であ

り,その解析は多くの場合定量的でなければ意味が

ない.しかも非腫瘍性の病変は,様々な炎症細胞の

浸潤や血管の新生,種々の細胞の変性・壊死などに

よって構成され,非常に複雑な組織像を呈する.経

時的なバリエーションや治療による修飾も大きい.

本来その場に存在する細胞や組織(上皮,神経,筋

など)が“反応性”や“再生性”の変化を伴ってい

たりする.従って,非腫瘍性病変の分子解析は,単

に定量的であるだけでなく,細胞種特異的であるこ

と(どの細胞に生じたものか)が求められるので,

解析の複雑さは腫瘍と比べて桁違いとなる.しかし

ながら,本稿で述べたように,技術的には現在この

レベルの病変解析が可能になってきている.これは

病理学にとって大きなチャンスではないか.腫瘍形

態学が従来の輝きを失いつつある中,病理学は非腫

瘍性病変解析に果敢に挑むべきであり,その結果と

して腫瘍病理学に代わる新しい病理学の地平を開拓

し21世紀に相応しい潮流を生み出すことが求められ

ていると感じている.

ここで言う病変解析は,病変内でどのような分子

イベントが生じているのかを明らかにするという,

いわば“実態調査”である.この調査に意義はある

のか,という素朴な疑問がある.病理学者としては,

病変は疾患に特有の組織像を呈するので,その形成

メカニズムがわかれば,その疾患の病態がわかると

考えたいという側面がある.冷静に見れば,この考

え方は病理学者の信念のようなものであって,確証

がある訳ではないとわかる.例えば,結核では乾酪

壊死を伴う類上皮肉芽腫が形成されるが,この病変

形成の分子メカニズムが解明されたとして,その知

見が結核の病態理解に貢献するかはやってみないと

わからないのだ.ただ,病理学者にはこの不思議な

病変についてもっと深く知りたいという純粋な科学

的動機がある.一方,近年多数の疾患モデルマウス

が作製され,多くの研究施設で病態解析が行われて,

多くの研究業績が挙げられている.しかし,病理学

の立場では,真に疾患モデルであるかの検証が不十

分であるものも少なくないと感じる.モデルマウス

に生じた病変の組織像がヒトのそれとは大いに異な

ると見受けられるからである.やはりヒトに生じた

病変を解析しなければ,疾患の病態には迫れないの

ではないか.ここに医学研究においてヒトに由来す

る組織を研究試料とすることの最大の意義があると

考えている.

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