マークⅠロンドンニュータウン候補地の選定に 関する若干の...

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28 マーク Ⅰロン ドンニュータウン候補地の選定に 関する若干の考察(1) - ホ ワ イ トウ オルサ ム を 中心 に - は じめ に ニュータウン候補地の選定をめぐる 政府内での対立の萌芽(以上本号) ニュータウン候補地の対立をめぐる 政府内での対立の線化 都市農村計画省による安協 V び(以上次号) Ⅰはじめに イギ リスの ア トリー労働 党政権 (1945 -51 年) は,1946 年 ニ ュー タウ ン法 NewTowns Act,1946 にもとづ き,全国で14 のニ ュー タウンを指定 した。 これ らは,第-世代 のニ ュー タ ウンとい う意味で,通称 マー ク 1ニ ュー タウンMarkINewTow n sと呼ばれ る。 この うち ロ ン ドン周辺 に配置 された 8 ヶ所が,マーク 1ロン ドンニ ュー タウンで あるマーク1ニュータ ウンは, 「す ぐに都市計画の白眉 とみなされるようになった。」1)それは何 よ りも,ニェ-タウ ン建設が 「世界史上ユ ニー クな社会 的実験」であったか らにはか な らなか った。以来, 「イギ リスのニ ュー タウンの経験 は,世界 のすべてではない にせ よ大多数の国々に とって貴重 な赦訓 を もつ もの」であ り, その ことは, 「世界 中か ら, 自分の隈で ニ ュー タウンを見 ようとや って くる訪問者の多さ」や 「イギ リス以外で少 なか らずその例 に もとづ きニュー タウンを建設 しよ うとい う試みがふ えてい る ことで立証 されてい る」2)とよ く主張 されて きた。では, イギ リス 〔キー・ワーズ〕 グレーターロンドンプランG TleaLe '・ ムMdonPhnl マークⅠロンドンニュータウンMarkILon・ donNewTown s,コンセンサスとニュ-ニIT,サレミズムConsensusandNewJerusalemi与m BT,HLG,L ABはそれぞれイギリス国立公文香館publlCRecordOff i ce,Kewに所蔵の政府関係資料 である。 I) cherry,G.E, Cz lzesEZndPLlnS,LoF'don,1988.p161 2)sell , P,`1 mt roductlOnnewtOⅥlSlnthemoder n wo r ld',1nH.Evans(ed.),NewTowns.7TheBrtt- zshE& ri encち London,1972,pl世界各馴 こおけるニュータウンに関する研究に,たとえば 日本都 市センタ一宿r世界の新都市開発j1 9 65 や,Me rl ln , P.,NewTo柵.RegionalPhmnznga ndLk・ ve叫 ent(Englishediti o n),London,19 71がある。また,日本におけるイギリスのニュータウンに関 する代表的な研究としては.近藤茂夫 Fイギリスのニュータウン開発 J 19 71年や,下絵蕉rイギリ/

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マークⅠロンドンニュータウン候補地の選定に

関する若干の考察 (1)- ホワイ トウオルサムを中心に-

長 谷 川 淳 一

Ⅰ は じめ に

Ⅱ ニュータウン候補地の選定をめぐる

政府内での対立の萌芽 (以上本号)

皿 ニュータウン候補地の対立をめぐる

政府内での対立の線化

Ⅳ 都市農村計画省による安協

V む す び (以上次号)

Ⅰ は じめ に

イギリスのア トリー労働党政権 (1945年-51年)は,1946年ニュータウン法 New Towns

Act,1946にもとづき,全国で14のニュータウンを指定した。これらは,第-世代のニュータ

ウンという意味で,通称マーク1ニュータウンMarkINewTownsと呼ばれる。このうちロ

ンドン周辺に配置された8ヶ所が,マーク1ロンドンニュータウンである。 マーク1ニュータ

ウンは,「すぐに都市計画の白眉とみなされるようになった。」1)それは何よりも,ニェ-タウ

ン建設が 「世界史上ユニークな社会的実験」であったからにはかならなかった。以来,「イギ

リスのニュータウンの経験は,世界のすべてではないにせよ大多数の国々にとって貴重な赦訓

をもつもの」であり,そのことは,「世界中から,自分の隈でニュータウンを見ようとやって

くる訪問者の多さ」や 「イギリス以外で少なからずその例にもとづきニュータウンを建設しよ

うという試みがふえていることで立証されている」2)とよく主張されてきた。では,イギリス

〔キー・ワーズ〕

グレーターロンドンプランGTleaLe'・ムMdonPhnl叫 マークⅠロンドンニュータウンMarkILon・

donNewTowns,コンセンサスとニュ-ニIT,サレミズムConsensusandNewJerusalemi与m

BT,HLG,LABはそれぞれイギリス国立公文香館publlCRecordOffice,Kewに所蔵の政府関係資料

である。

I) cherry,G.E,CzlzesEZndPLlnS,LoF'don,1988.p161

2) sell,P,1mtroductlOn newtOⅥlSlnthemodernworld',1nH.Evans(ed.),NewTowns.7TheBrtt-

zshE& riencちLondon,1972,pl世界各馴こおけるニュータウンに関する研究に,たとえば日本都

市センタ一宿 r世界の新都市開発j1965年や,Merlln,P.,NewTo柵 .RegionalPhmnzngandLk・

ve叫 耶ent(Englishedition),London,1971がある。また,日本におけるイギリスのニュータウンに関

する代表的な研究としては.近藤茂夫 Fイギリスのニュータウン開発J1971年や,下絵蕉 rイギリ/

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マークⅠロンドンニュータウン候補地の選定に関する若干の考察 (1) 29

のニュータウンのどういう点がとくにユニークだったのだろうかO

第-に,ニュータウン建設は,「都市の建設が近代西洋史上はじめて,国家の長期的な政策

の対象とな.,た」3)ことを意味した。それ以前の都市化札 基本的に,民間の手による様々な

開発の偶発的な所産であり,都市部では,過密や市街地の無秩序な膨張,さらには過大都市の

出現といった開港がしばしばみられた。もちろん,第二次大戦前においても,こうした間愚に

対して公共住宅建設やスラムクリアランスといった住宅政策がなされた。しかしそれらは,塞

本的に,地方レベルでの対症療法的な施策であり,ますます激化する過密や過大都市の問題に

歯止めをかけることはできなかった。これに対し1940年代のイギリス政府は,そうした問題の

より包括的 ・抜本的な解決に取り組もうとした。中でもニュータウン紘,政府が示した 「包括

的アプローチのもっとも徹底した表現」4)だったのである。

具体的に,個々のニュータウンは,よく整備された住宅地と独自の雇用源をもち,周囲を田

園地帯で囲まれた.人口2万から6万人の都市になるように計画された。これだけの条件を備

えた都市を計画的に建設するだけでもかなりの事業だったが,より注目すべきは,ニュータウ

ンには過大都市から計画的に分散される産業および人口の吸収源としての役割が付されたこと

である。政府は,様々な都市間題の元凶が,それまでの無秩序 ・無計画な工業化とそれに付随

する都市化にあるとの認識に至っていたoLかも,そうした無秩序な工業化は,両大戦間期に

顕著となった,重大な経済的 ・社会的問題を引き起こしてもいた.いわゆる地域間格差の問竜

である。両大戦間期になると,ロンドンやその周辺では,自動車 ・電機等の新産業の成長によ

る産業や人口の集中がますます激化したのに対し,産業革命時に発展した旧基幹産業を中心と

するイングランド北部等の工業地帯は,都市間愚という点ではロンドン同様に過密や市街地の

膨張といった現象に悩みながらも,同時に,旧基幹産業の衰退による失業開愚の深刻化を経験

し,いまや不況地帯とよばれるようになっていた。1937年には,産業と人口の配置に関する政

府委月会 (通称,委員会議長バーロI SirMontagueBarlowの名をとり,パーロー委月会)

が設置され,開戦後はどない1940年 1月に公刊きれたその報告菅では,産業と人口の不均衡な

配置がイギリスの経済 ・社会に重大な不利益を招いており,政府の主導によるその解決が切迫

した課題となっているとの指摘がなされた5)。この報告書にもとづき,都市間悪と,不況地帯

の経済的立て直しの両者を視野に入れた全国での産業と人口の適正な配置が,戦後再建におけ

る一大目標にかかげられたのである.中でもロンドンからの計画的な産業と人口の分散は,こ

\ スの大規模ニュータウンJ1975年があげられよう。

3) RodⅦD.L 77zeBrzlびhNew rotvnsPoEzq.舟pbあがandImPZw lons,Cambndge(US),1956,p39

4) Stevenson,I.,TheJerusalemthatFalled?TheRebulldlngOfPost-WarBritain',lnT.GotJrVISh

andA.OT)ay(eds),BrZ'LaznSznα1945,London,1991,p96

5) Rゆ rtoftheRqyaZCbmmzssLOnOnGeog'叫 hwaLDisE'lbuLIOnOfEhclhLhLStrWL軸 LaL-on,Cnd.

6153,London,1940伊藤書栄 〔ほか〕訳 Fイギリスの産葉立地と地域政策:パーロー・レポ一日

1986年。

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30 経済学雑誌 第101巷 第1号

の政策の成否を握る課題とみなされ,その主要な手段として,ニュータウンの建設をふくむロ

ンドンに関する都市計画の策定がほどなく開始されるのであった6)0

このように,マークⅠニュータウンは,バーロー委員会報告書に端を発する都市政策および

産業配置政策の両面における政府によるコミットメントをよく示す事例だったOもっとも,

パーロー重点会報告書のような政府報告書が常にそのまま政府の政策に反映されるとはかざら

ない。当時,政府にそうしたコミットメントを決意させた要因のひとつには,外部からの圧力

があった.たとえば,ニュータウンとの関連でいえば,まず田園都市運動があげられよう。

ニュータウンの起源が,19世紀末にハワー ドE.Howardが捷起した田園都市構想にあったこ

とはよく知られていよう。ハワー ドらが始めた田園都市運動は,1906年にレッチワース

Letchworth,また,1920年にウェルウインWelwy nというふたつの田園都市建設につながっ

た。これらは,快適な環境をもつ聴住接近の自立的な都市を建設しうることを示す例としては

成功したし,実際,運動の推進者たちは政府に盛んに働きかけて,1946年ニュータウン法制定

の大きな原動力となったとよくいわれる7)。しかし,より重要だったの札 政府にそうした包

括的なアプローチをとることを決意させた,1940年代の政治的 ・社会的状況であった。

注目すべきは,上にも示唆したように,第二次大戦後の戦後再建に関する諸政兼の検討が,

チャーチル首相率いる挙国一致政府により,大戦中から開始されていたことである。そこでは,

より近代的で平等な戦後社会を創出することが目標とされ,そのための政策策定に外部専門家

の穫礎的な登用が図られた。それは,従来のレセ7ェ-ルとアマチュア1)ズムにもとづく国家

から,プランニングや公的介入,そしてテクノクラシーに重きを置く福祉国家への転換を志向

したものであり,そうした転換の必要に関するコンセンサスが政党の違いにかかわり無くすで

6) 1946年3月の都市農村計画大臣スイルキンL.Silklnによる議会での発言が, こうした点を簡潔に

示している。(Hansard,5March1946,col.S189-192,0nIPlanIILngelfLondon')ただし,マークⅠ

ニュ-タウンの中でも,ロンドン以外の地方に建設されたものは,スコットランドのイーストキルプ

ライドEastKjlbrideがグラスゴーGlasgow大都市圏ICの分散吸収源として建設された以外帆 その

目的が異なっていた。スコットランドのグリンロセスGlenrothesやイングランドではグラム州

DurhamのビータリーPeterleeは炭鉱労働者用の住宅供給を,また,コービーCorby(イングランド

のノースハンプトン州Northamptonshire).エイクリフAycllLfe(グラム州),ウェールズのタームア

ラーンCwmbranは地元での産業諌敦を図る上での労働着用住宅供給を主たる目的としていた。

7) 当時,この田Bl都市運動の中心となったのが,都市農村計画協会TownandCountryPlanning

AsSociation(1941年に田園都市協会GardenCltleSAsSociatlOnより改称)書記だった,オズポーンF.J.

0sbomである。オズポーンについては,Hebl)ere,M..FredencOsbom 1885-1978㌧ulG.E.Cherry

(eJ.).PzoneerH'IBnLげhPLannl'fg,Londozl,1981(大久保昌一訳 r英国都市計画の先駆者たち」1983

年)を参用。また.都市農村計画協会を中心とした田園都市運動に関する近年の研究として,Buder,

S,Vzszonaru・sLZTZdPZanneTTTheGartかnCz砂MovemenLandEkeMbLLm ammunわ,,0Ⅹford,1990;

Hardy,D,FnmGaTde〝CltleJtONewTow ns.GlmクdJgningfDrtOWTfandcou7tLTy♪Lannmg,1899-

L叫 London.1991;Idem.Fn柿New Tow 'LStOGne乃fbLztzcs.ChmPazB7ungfortownandcount,y

planning,194611990,London,1991をあげておきたい。

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マークⅠロンドンニュータウン候補地の遭定に関する若干の考察 (1) 31

に大戦中に形成されたととらえられてきた点が重要である。経済政策策定に多くのケインジア

ンが登用され,完全雇用の維持に重きが置かれたことや,1942年に公刊された,「ゆりかごか

ら墓場まで」で有名なペヴァリッヂ報告が広く国民に支持されたことが,そうした流れを象徴

的に表していた。その背景には.基本的にレセフェールにもとづく両大戦間期の政治に対する

世論の批判があったoとくに,1940年5月のダンケルク撤退に代表される大戦初期における戦

況の悪化でそうした批判が頂点に達するという状況において国民の戦争協力を維持するために

は,政府がパラ色の戦後社会建設を約束する必要があったのである8)。

一都には,ア いノー政権にも引き継がれたこの戦後再建の基調をニューエルサレミズム

NewJerusalemism とよび,それを厳しく批判する研究もある。中でもよく知られるのが,

バーネットCBamettによる一連の研究である。その主張によれば,1940年代のイギリス政

府は,本来,弱体化した産業の立て直しをまず図るべきだったにもかかわらず,「工場よりも

住まい」を重視する理想主義的な福祉国家の建設を追求したが故に,経済の長期的衰退に拍車

をかけてしまった,というのであが)。

同時に,この 「工場よりも住まい」という表現が示唆するように,都市計画もまた,戦後再

建における重要な杜のひとつとしてニューエルサレム建設の一翼を担い,そこでの独創的 ・抜

本的な政策策定と専門家登用との必要に関するコンセンサスが形成されていたとみなされてき

た分野である.第-に,前述のように,都市計画は産業および人口の適正な配置という政策目

標を達成する上での主要な手段のひとつに考えられていた。都市計画への期待の大きさはまた,

法制度や行政組織の整備 .拡充に明らかだった。1943年には都市農村計画省 Ministryof

Town andCountryPlannjng 〔以T,計画省)が新設され,また,1946年ニュータウン法の

はかにも,規制市街地の抜本的再開発を実質上はじめて可能にした1944年都市農村計画法

Town andCountryPlanJlingAct,1944や,戦後のイギリス都市計画制度の基礎をなしたとさ

れる1947年都市農相計画法TownandCountryPlannlngAct,1947といった法律が次々に制定

された 10)。

しかも都市計画は,視覚的にうったえる部分が多いこともあいまって,戦後再建の象徴とし

ばしばみなされた。それはひとつには,都市計画関係者が大戦初期から旺盛な宣伝 ・啓蒙活動

を行なった成果であったが,そうした活動においては.既存都市の誤謬一掃と理想都市の建設

8) 第二次世界大戦中のイギリスにおけるこのコンセンサスの形成に関するもっとも代表的な研究とし

て,AddlSOn,P,77zeRoadtoL94a Brzt'shPoltLzcsaれdEheSbcondWorldWa'・,London,1975が.あ

げられよう0

9) Bamett,C,77LCAudzEofWm・ThemusionandRcaZzEyofBTZ.LaznasaGnDINLZL10n,Lot)don,

1986;TheLoseVICEO'γ点nEE'shDri・a刑もBriLIShRedJL'es,1945-1950,London,1995.なお,「工場よ

りも住宅」parloursBeforePlantは.TheLbSLYJCEO呼の弟8章のタイトルとして償われている。

10) 法制度・行政組織の整備・拡充については.さしあたり,CullLngWOrth,J.,B.,EnvlrO71''脚ぬI

Phzm'ngVo血meIReconsllVCEzonandLA乃dUsePZanガZng1939-1947,London,1975を参照。

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32 経済学雑誌 第101巷 第1号

への志向が前面に出されていた11).そしてこの志向は,ニュータウン計画や大戦中の空襲で

甚大な被害を受けた戦災都市の復興計画をはじめとする多 くの計画に,明白に示されていった

のである12)。さらに,都市計画は,政策策定過程における専門家の登用 との関連でいえば,

計画作成者 としての専門家の活躍がとりわけ草々しかった分野であった。中で もマークⅠロン

ドンニュータウンは,当時の都市計画界の第一人者たちが精力を傾注 した産物 といえた。まず,

政府の要請を受けた都市計画界の泰斗アーバークロムビー教授 pro一essorAbercrombie13)が,

ロンドンからの計画的な産業と人口の分散を主眼としたプランを大戦中に相次いで発表 した。

1943年に公刊されたカウンティーロンドンプランCountyofLonゐnPLzn14)と,翌1944年の大

ロンドン匪=こ関する計画であるグレータ-ロンドンプランG,w e,LondonPun194415)であ

る。とくに後者において, ロンドンからの100万人余の計画的な人口分・散 と,そのうちおよそ

ll) 多くの研究で引用 ・言及きれるものに.都市計画関係者が都市の理想像追求を語る部分にかなりの

ページが朝かれた.写真誌 rピクチャーボス日 の1941年1月の 「戦後再建特集号」('APlanfor

BntalTl',Pzdu71ePOSE,4January1941)があるが,このほかにもたとえば,BBCが1941年から翌年に

かけて放送した過1回のラジオ番組や.全国で順次開催誉れた展示会の記録 (前者は,Osborn,F.,∫

(ed.),Ma丘tngPh喝 London.1943として,また後者は,Tubbs,R.,LwZng'nCIELeS,HamondSWOrth,

1942として,それぞれ出版された。)に.都市計画関係者の旺盛な活動ぶりがうかがえる。

12) 戦災復興都市計画に関しては.さしあたり,以下の拙著 ・拙稿を参照されたいcHa8eg&Wa,J.,Re-

♪EaTm叫gLhebL血edci砂 Le72LnIA comタdntZtlW Studyof血・lSEoLCbventTyandSouLhaJ坤Lon1941・

L95qBucklhgham・Phlhdelphia,1992;Governments,consultantsandexpertbodleSinthephysICal

reconstructionoftheCityofLondoninthe1940S',Phnn'ngPm pectzves(1999),vol14,no2;The

RiseandFallofRadlCaIReconstructlOn1711940sBrltaln',TwenEzeEhCknLuryBrzlz'3hHzstoTy(1999),vol.10,m02,TheReconstrucdonoEPortsmouthinthe1940S',CbnkmPtmzワBrz'EtshHisEo叩,forth・

co血lng(scheduledin2000).「イ平.)スにおける戦災地再開発政兼の展開,1940年-1945年」r三田学

会雑誌J幻巻2号.1990年7月。「ブリストルにおける戦災地再開発政策の展開 1940年11945年」

r三田学会雑誌』83巻3号.1990年10月。「英国コケェントリー市における戦災地再開発政熊の展開

1940年-1945年」r社会経済史学J56巻6号,1991年3月。「戦後イギリスにおける執災地再開発政策

の展開 1945年-1951年-プリストタレを中心に一」r三EE]学会雑誌J84巷 1号,1991年4月O「サウサ

ムプトンにおける戦災地再開発政兼の展開 1940年-1945年」r経済学雑誌192巻5・6号,1992年3

月。「コザユンい)-とサウサムプトンにおける戦災地再開発政兼の展開 1945年-1951年 (1).

(2)」r経済学雑誌J93巻 1号および2号,1992年5月,7月.「英国ポーツマスにおける吸後再建政

兼の展開 1941年11946年 (1),(2)」r経済学雑誌194巻1号および2号,1993年5凡 7月。「イ

ギリス戟災復興都市計画の経験」r建築雑誌jlll巷1382号,1996年1月E,「イギリスの戟災復興都市

計画」r都市計画1199号,1996年3月0

13) アーバークロムビーについては,Dix,G.,LPatrlCkAbercromble1879-195r,帆 Cherry(cd.),

Pl'oneers 'nBrz'tzshPYamt'ngおよびManno,A.,andPInch,lPatrickAbercrornb ie.Achronological

blbllOgraphywlthAm OtatlOnSandblOgmph)cdetalls'.Lee°sPoJytechnlC,TheComblnedBruTISWICk

Schools,BrunswickEnvironmentalPapezs,Paper19,May1980を参照。

14) AbererombLe.P.,CountyofLondonPb'Z,London,1943.

15) Abererombie,P.,G feaEerLonde7ZEya'zL944,Londorl,1945.なお.グレ-ターロンドンプランにも

とづいて作成された大都市Bl計画に,日本の第一次首都困整備基本計画 (1958年)があるO(石田頼

房 l日本近代都市計画研究 (新装版)J1992年,284-5ペ-ジ。)

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マークⅠロンドンニェータウン候補地の選定に閑する若干の考察 (1) 33

40万人分の吸収源としてのニュータウン候補地が捷起され,これを受けて,戦後の労働党政府

が実際にニェ-タウンを指定していったわけだが,それに続く個々のニュータウンのマスター

プラン作成も,同政府が著名な都市計画家たちに委嘱して行なわれた。まさにニュータウン建

設は,当時のイギリスにおける 「再建のムードとプランニング-の信仰をもっとも劇的に示す

例」16)だったのである。

このように,マークⅠニュータウンについては,変革志向の政府の主導による包括的 ・抜本

的な都市政策および産業政策の重要な桂であった点と,とくにその政兼策定過程において,都

市計画の理想の実現をめざすアプローチに関するコンセンサスが形成されていた点とが強調さ

れてきた。本我の目的は,マークⅠロンドンこ.1-タウン候補地の選定-すなわち,1946年

ニュータウン法にもとづき,どの候補地をニュータウンとして指定するかという問題一に関す

る政府内での議論を,そこでとくに問題となったバークシャー州Berkshl∫eのホワイトウオル

サムWhiteWaltham の事例を中心に分析することを通じて,上に述べたようなニュータウン

建設をめぐる従来の見解に対する疑問を呈することにある。

もとより,マークⅠロンドンニュータウンに関しては活瀞な研究曹操があり,そこでは,か

なりの批判的見解も示されてきた。ひとつには,すでに1940年代後半,とくに1947年の経済危

機以降顕著となった開発の遅れに対して広く失望感が示されたということがあったが,その後

開発が順調に進んでからも,建築家による低層 ・低密度開発への批判17)辛,ロンドンの下町

からニュータウンに移り住んだ者が感じた一種のアイデンティティー喪失の指摘18),あるい

は,ニュータウンが一定の産発や社会階層しか受け容れなかったとする批判19)が相次いだの

である。しかしそれらは,換言すれば,審美的な価値基準の相違,かつての共同体へのノスタ

ルジア,あるいは開発の結果が所期の理想を十分には反映できなかった点を強調するものであ

り,ニュータウン計画策走時における理想主義的アプローチに関するコンセンサスを否定する

ものとは言えないC

もちろん,そうしたコンセンサスに対する何らかの疑問を示す研究が皆無だというのではな

い。そもそも,最初にニュータウンの指定を受けたステイヴニッヂStevenageにおいては,

地元住民によるニュータウン建設に対する強硬な反対運動が地方当局も巻き込んで展開され,

政府を大いに困惑させた20)。また,たとえばEE]園都市運動の歴史に関する最近の研究は,外

16) Stevenson,p,97

17) 中でもよく知られているのが,1953年の r7-キテクチュラル・レヴユIJ蕗での建兵家らによる

批判である。TheAT・ChttectwaERet'ww,CXIV,1953.

18) この現象は,ウイルモットとヤングの研究(Young,M.,andP.Wilhott,FamzEyandKz'nShl'Pzn

血 tLondon,London,1957)以降,newtownbLuesとしてよく知られた。

19) 中でも,非常に批判的な研究として,Mullah,B.,SLeun岬 LLdAやcrLsofEhePhnnz'qandPDLl・

ltCSOfSEet・enageNew 7Town,1945・78,London,1980がある。

20) ステイヴニッデについては,Mulhnの同上さのほかにも,古くはOrlans,H..ULoJM LhL,New

Heaven,1953(ちなみに同書はイギリスでは,SLmenage.ASoczoLogJCaLStuみ ofaNew TotIn/

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34 経済学雑誌 第101巻 第1号

部圧力団体の中でEE]園都市の推進派と,農地保護の立場からそれに批判的な運動との間に確執

があったことを示し,それをもって 「コンセンサスのもろさ」を指摘している21)。一方,当

時の政府内部資料を分析した*リングワースJ.B。Cul1ingworthの公式記録では,新興で格下

の計画省が専行しているという不信 ・不満が他の省庁に強く,そのため,とくに大臣レベルで

都市農村計画大臣 〔以下,計画大臣〕スイルキンL Silklnにしばしば圧力がかけられたこと

が示されている22).さらに,とくに本箱との関係で注目したいのは,当時の計画省の高官が,

政府内での候補地選走に関する意思決定は,「時として,冷静な経済的評価にもとづいてでは

なく,政治的圧力への対応としてなされた」23)と言及している点であるOしかし,この候補地

選定開愚に関する詳細な分析は,これまでのところ十分にはなされていないようである。上記

のカリングワースの研究でも,ニュータウンが全般にロンドンに集中しすぎで且つそれらがロ

ンドンから近すぎるという批判がスイルキンに向けられたことが示され,また,個々の候補地

の取捨選択についてはその理由が簡潔に述べられているものの,そうした結論に至るまでの過

程がくわしく分析されてはいない24)。

全般に,既存研究の主要な対象は1946年ニュータウン法の制定過程や,個々のマークⅠ

ニュータウン計画あるいは開発の成果の分析にあり,候補地の取捨選択は,二義的な開港だと

とらえられてきたと言わざるを得ないのであるOそしてそこでは,専門家間での意見の相違は

あっても,1940年代におけるニュータウンに関する,ひいては都市計画に関する,とくに国政

レベルでのコンセンサスは.所与のものとなっている。上記の,EE園都市推進派と農地保護派

の確執を指摘した研究者は同時に,「【1945年稔選挙の〕綱領声明で,都市計画の必要を否定す

るのは,よほど向こう見ずかさもなければ愚かな政治家だった」25)と述べているし,別の研究

者は,審議過程で細かい修正に関する投票採決がほとんど行なわれなかった1946年ニュータウ

ン法案の議会通過時におけるコンセンサスを強調して,「かくしてニュータウン政策は,実質

上 非政治的なものとなった」Z6)と記している.

たしかに,候補地の取捨選択は,ニュータウンの建設という考えそのものの全面的な否定で

はない。しかし,本稿で明らかにされるように,この間農をめぐる政府内での諌論は,変革志

向の政府が独創的 ・抜本的な政策を進めようとしたという,ニュータウンに関するコンセンサ

スに重大な疑問を掛 ずかけるのである27)。ここで,本科 こおける主要な分析の対象が,グ

\ London,1952として出版されていた。)といった研究があるO

21) Hardy,FromNewTowTlSEoGwenPDl伽 S,p.32

22) CullLngWOrth,I.,B,Envm'nmenEalPhz'znLng19391196gVolumeIINetuTow nsPDL'砂,London,

1979,chIT

23) LadySharp,TheGovem ment'SrOle',hTi Evans(ed),New Tnwn与P_42_

24)culllngWOrth.E'nLrO'2menLaEPlan'Hng198911969.VolumetI,ch.I1

25) Hardy,FromNewTownsEoG7℃enPoLILICS,p.24.

26) Aldridge,M,TheBrilt'sJzNm Tow 'LSAp'vgrammewlthouLa♪ol'U,London,1979,p37

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マークⅠロンドン二.i-タウン候補地の選定に関する若干の考察 (1) 35

レ一夕-ロンドンプランに関する関係各省委貞会 InterdepartmentalCommitteeontheGrea-

terLondonPlan 〔以下.関係各省委員会〕にあることを記 しておきたいo同委員会は,計画

省の事務次官補 DeputySecretaryを議長に,関係各省の高官により構成された。同委月会で

の議静が,ニュータウン候補地の選定をはじめとする,グレータ-ロンドンプランでの諸提案

に関する政府見解のかなりの部分を形づ くったことは,強調されてしかるべ きであろう28)。

さらに言えば,かかる分析は,「工場よりも住まい」に代表される,イギリス戦後再建に関す

るニューエルサレミズム的見解に,重大な批判を呈示することにもなるのであるO

Ⅱ ニュー タウン候補地の選定をめ ぐる政府内での対立の萌芽

アーバークロムビーのグレークーロンドンプランでは,図 1および表 1にあるように,10の

ニュータウン候補地が示され,そのうちの8を選定することが提言されていた29)。図 1にあ

るように,アーバークロムピーが提案したこェータウン候補地のうちで実際に政府から指定さ

れたのは結局ステイヴニッヂとハーロー Harlowのふたつのみであったが,その他の候補地を

選定する際に関係各省委員会において議論がとくに紛糾したのが,ホワイトウオルサムとミア

ウハムMeophamである.中で もホワイトウオルサムは,本稿で明らかになるように.関係各

省委貞会での最大の懸案に発展する事例だった。ここではまず,関係各省委員会における,

27) この点に関連しては,1940年代末においても,計画省がマークⅠロンドンニュータウン候補地の選

定を窓意的に行なっているのではないかという疑念が実は強かった。それを典型的に示したものが.

Hardy,FromNewTownsLoGreenPoLZlzcsや Aldrldge,7TheBrLEtshNew Townsに転戦されている

風刺漫画であるOこれはそもそもLm血72E w nmgNews紙に掲載きれ,都市農村計画協会の機関誌

TowTMndG'unLryPlannmg,XVl,no64,wlnter1948-9にも転載されたものだが,そこでは,計画

省の官僚たちがリラックスした雰囲気で紅茶を飲みながらダーツに興じている。矢を投じる者はめか

くしなしており,的は大ロンドン圏の地図である。そこにはすでに教本の矢がささっており,そのさ

きった場所が,ステイヴニッヂ,ハ一口tHa∫lowといった,それまでに指定されたニュータウンを

示している。そしてキャプションでは,ま引こ矢を投じようという官僚に別の官僚が,「フェアにい

きましょう。私も1949年の衛星都市措定のた桝こ少し投じてみたいのでね。貴殿は去年の指定を,全

部決めてしまったではありませんか」と語りかけているのである。

28) 関係各省委員会は1944年9月に設置され,その構成メンバーに味.計画省のほかに,農水省,教育

省,燃料省,保健省.労働省,運輸省,土木省.商務省(tlleMinistriesoLAgricultureandFislleries,

EducatlOn.FuelandPower,Health,LabourandNadonalServ】ce,Transport,andWorks,andthe

BoardofTrade)の高官がふくまれた。同委員会の主要な課題には,ニュータウン候補地選定のはか

に,グレーターロンドンプランにおける幹線道路提案の検討や,関係地方当局の意見調整機関として

設置されたロンドン地方計画に関する諮問委月余AdvISOryComm itteeforLondonRegionalPlan-

nlngへの指針の作成と同蕗間委員会の報告者(LondonRegwnaLPla'Znlng.ReportoftheAd′zso'y

CommlueeforLondonRegionalPkznTZ王ng,1946andlheReporta/theTechnicalSub・Commz'tLee,

1946,London.1946)への覚音の作成等があった。関係各省委員会設置の経緯については,HLG

71/126,LetterfromS.LG.BeaufoytoESharp,27March1947に簡熟こまとめられている。

29) ニュータウンに関する潅案をふくめ,分散の方法についてくわしくは,GreaLqLoT血 TZPZa72

1944,chs3andlOを参照。

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経済学雑誌 第101巻 第1号

表l クレーターロンドンプランにおけるニュータウン候補地

地 名 分散人口吸収分 (人) 最終予定人口 (人)

57,200 60,000

54,300 60000

Harlow 54.300 60000

Stevenage 28.50050.500 3060000000

Redbourn 57,200 60000

Stapleーord 23.700 25000

MeohamC 38.100 40000

(出所) AbercrombLe.P‥GnaFerLpdo'PEq九1944,Lol1dcn.1945, Appendlx12.,p200 より作成。

図1 指定されたマークⅠロンドンニュータウンとクレーターロンドンプランでの候補地

(出所) culLJngWDrth.I.ら..E7'VI柵 一仰 ItaLPhnMlng1939-L969.VolymeIl.Neu'

ToMtSPoLtcy,Lbndon,1979.I.I,

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マ-クIロンドンニュータウン候補地の選定に関する若干の考察 (1) 37

ニュータウン候補地の選定に関する意見対立の萌芽をみていきたいO

関係各省委員会の中でも農水省 MinistryofAgricultureandFisherleSは早 くから,ニュー

タウンに対して消極的な姿勢を示し,ロンドンの 「特別な事情」と 「考慮の必要」は認めなが

らも,基本的には 「衛星都市の建設よりも[既存の市街地]周辺部の開発をよしとする」立場を

とっていた。衛星都市の建設は 「それまで全くの農村地帯だったところに市街地の穴をあける

上に,周辺農地-の不法侵入といった問題を生じさせる」ことから,市街地化の進みつつある

「周辺部の開発の方が,農業にとっての影響が少ない」からというのであった。したがって農

水省は,ニュータウンの建設はまばらな開発が進行中の都市周辺部をまず完全に開発してから

はじめて着手すべきであり,またニュータウンの数そのものも,既存都市の拡張を優先させる

ことにより減らすべきだと主張した。農水省はまた,グリーンベルトについても,それが都市

住民にとってのアメニティーとして重視されるかぎりは,「不法侵入が農民に与える害は重大

となる」というふうに否定的にとらえていた。

以上の前濃に立って農水省が下した,グレーターロンドンプランでの個々のニュータウン候

補地に関する評価の中では,まずホワイトウオルサムとチッピングオンガ- ChippingOngar

が槍玉にあがった。ホワイトウオルサムについては,それがバークシャー州の中でも農業に

とって最善の土地をふくむことが問題とされ,そこからさらに南にあるイ-ス トハムステッド

パークEasthampsteadParkが代替候補地として提案された。イーストハムステッドパークの

方が農業の観点からは地質が劣るからというのが主要な理由であったO同様に,チッピングオ

ンガーについても肥沃度の非常に高い土地をふくむことが問題とされ,候補地を2マイルはど

南下させるか,あるいは 「より望むべ くは」,さらに南の 「部分的にかなり市街地化の進んだ

レインドン・ビットスイー地区Laindon-Pitseaをさらに開発すべき」だとされた30)。

これに対し運輸省M血istryofTransportは,まずホワイトウオJt,サムに関しては.グレー

タ-ロンドンプランでの原案が鉄道駅の新設を必要とするのに対して,農水省の代替案である

イーストハムステッドパークの場合は既存の駅を使用できるだろうと述べて,農水省案への賛

同を灰示した。しかしチッピングオンガ一に関しては,逆に,農水省のふたつの代替案を 「運

輸 ・交通の観点からは両方とも不適当である」と両断した。そもそも運輸省は,鉄道交通の便

が悪いという理由から,チッピングオンガーでのニュータウン建設に決して前向きではなかっ

た。ロンドンと結ぶ在来路線の複線化や,工業地帯であるミッドランドやイングランド北部と

連絡するための路線の新設といった大規模な工事が必要になるからであった31)0

30) HLG71/128,G LP3,InterdepartmentalCornmtteeontheGreaterLondonPlanCommentsby

theMlnJStryOfAgrLCultureandFisheries',n.a..but1945,

31) HLG71/128,G L.P.6,■lnterdepartmentatCommltteeOndleGreaterLondonPlan・Commentsby

M 0 W T onpaperbyMlnistryofAgnculturel.13February1945.実際,運輸省のある官僚はチッ

ピングオンガ一について 「鉄道交通の観点からはもっとも艶しい聞葛だ」とコメントしている /

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38 経済学雑誌 第101巷 第1号

農水省の代替案でも,使用されることになるのは同じ路線であった。そうだとすれば,既存

の鉄道駅との連絡がまだましな原案に歓べて,代替案のように候補地が南下すればするほど駅

から候補地までの距維がのびてしまい,住民にとってさらに不便を強いることになるというの

であった32)。

こうした中,計画省にも,チッピングオンガ-でのニュータウン建設の安当性に対する疑念

がないわけではなかった。しかし,関係するロンドン特別区の多くがこの提案に前向きである

ことが,候補地の変更を事実上不可能にしていると,比軟的早くから認識していた33)。他九

チッピングオンガ一に関する意思決定は,迅速な住宅供給を重視するあまりグリーンベルトで

の開発に前向きで,ニェータウンには 「あまり乗り気でなくむしろ懐疑的な」傾向にあったロ

ンドン市当局LC.C.との関係を考慮すれば,最初にニュータウン建設が決定した 「ステイヴ

ニッデに次ぐ」重要性をもっていた。そのため,農水省をはじめとする関係各省の要求をでき

るだけ取り入れ,収容人口を原案の6万人から4万人に縮小してでも 「ロンドン市当局に-で

きるだけ迅速に開発可能な案を示す必要」が最優先された。「理想論を追及するのはもう終わ

りにして,タフで現実的なビジネスマンであるロンドン市当局に何かを売りつけようというビ

ジネスをしていることを自覚すべきなのである」というのであった34)。

こうした中,意思決定により困難を伴ったのが,ホワイトウオ)I,サムをはじめとする,ロン

ドン西方におけるニュータウン候補地選定の間嵐だった。そもそもホワイトウオルサムでの

ニュータウン建設案には,良質農地の喪失以外にも大きくふたつの開港があり,計画省も頭を

悩ませていた。ひとつは,同案が無秩序な都市化を助長しかねないという懸念であった。ロン

ドンの 「西および北西の方向は,運輸 ・交通上の利便さやミッドランドの工業地帯との位置関

係から,製造業者にとってもっとも誘引力が強い」とみなされていたoLかしそれ故に,ロン

ドン西方にはすでに 「市街地化の長い音」がスラウSlough やメイデンヘッドMaldenheadま

で延びていた。計画省は,「メイテンヘッド・レディングReading間での人口6万人にもおよ

ぶ衛星都市の建造が,この開発の波をいよいよ勢いづけ,-ロンドンからレディングまでを切

れ間なしにつなげることになりかねない」可能性を憂慮したのである。

今ひとつの問題が,ホワイトウオルサム飛行場の存在だった。同飛行場がニュータウン候捕

地内でかなりの土地を占めていたため,管轄省である民間航空省 MlnlStryOfCIVllAvlation

にはこれを閉鎖することが打診されていた。しかし民間航空省は,同飛行場の保持の必要につ

\ (HLG71/124,I.D.(G LP.)C26thMeetlng,Inter-DepartmentalCom ltteeOntlleGreaterLOn-

donPlanMlnuteSOf血e26thmeetlng',held10Aprl11946)し,後述注80)のようにチ′ピングォン

ガー案が断念される理由のひとつが,この鉄道交通上の諸開溝であった。

32) HLG71/128,GL_P6,opcit

33) HLG71/128.).D.(G.L.P.)C.4thMeeting, lnter-DepartmentalCotm一itteeontheGTeaterLon・

donPlanMinutesofthefourthmeetlng',he)a15February1945

34) HLG71/128,LetterLromL.P.EuICOtttOE.G.SElliott,13February1946.

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マークⅠロンドンニュータウン候補地の選定に関する若干の考察 (1) 39

いて譲らなかった。ヒースロー空港から飛行機でほんの数分の場所に位置する同飛行場には,

その補助的施設として,とくにメンテナンス面での拠点として.航空政策上重要な役割が付さ

れていたからである。しかし同飛行場が維持されれば,そこへの離着陸に障害となりかねない

開発は当然難しくなるのだった35)。

そこで計画省は,レディング以東のバークシャー州東部全域を対象に,それを北部,中軌

南部の三地域に分けて.候補地の再検討を行なった。しかし,上記のような間温良があったに

もかかわらず,計画省が出した再検討の結論は,ホワイトウオルサムを中心とする中部一帯を

「唯一ニュータウン建設に適 した場所」とするものだった。それより北側の,テムズ河とグ

レー ト・ウエスタン鉄道GreatWestem Railwayを境界とする一帯には,テムズ河畔にソニン

グSonnlng,ウオーグレイヴWargrave,ヘンリーHenley,マ-ローMarlow といった属し光明

嬬な名所があったOこれらは 「ロンドン市民にとって第一級のアメニティー」を供しており,

そうした特質を維持する上で,そこでのニュータウン建設は 「きわめて不適切」と考えられた

のである。

一方,ウインザーWlndsor・ウオーキンガムWol一imgham間を結ぶ線を西側の境界とするホ

ワイトウオルサム一帯の南方tも それ以外の二地域よりも宅地としての開発が進んでいた。こ

こには,農水省の代替案であるイーストハムステッドパークの他に,サニングヒJt,Sumi ng-

hillやブラックネルBracknellとい・9た村落があり,これらは,自動車交通の発達に伴い,郊

外高級住宅地を形成しつつあった。たしかに,「その限りにおいてこの一帯は,ロンドンに

とって有益な機能を果たして」いた。しかし,ニュータウンの候補地としては 「およそ不適

当」だと,計画省は判断したのである。第一に,この一帯の西端にカンパリ- Camberleyを

中心とする軍用地が存在した。他方,ニュータウンの建設がブラックネルなどの郊外高級住宅

地としての特性を損なうおそれがあった。さらには,サザン鉄道Southem Rallwayの支線が

通るのみであった鉄道の便の悪さも 「重大なハンディ」だとみなされた36)。これではミッド

ランドやイングランド北部の工業地帯との連絡が不十分で,「産業界には受け入れがたい」と

考えられたのである。

かくして,ホワイトウオルサムを中心とする中部一帯が残ったわけだが,ただし計画省は,

グレーターロンドンプランでの原案をそのまま受け入れたのでもなかった。第一に,ニュータ

ウン候補地をホワイトウオルサム飛行場からできるだけ推す必要があると考えられた。また,

グレーターロンドンプランの原案ではニュータウン候補地の境界と,開発の汝にさらされつつ

あったメイアンヘッド郊外との問が3/4マイルしかないことも閉息ときれた。原案通りでは,

35) HLG71/128,G,LP.37,1mtefdepartrnentalCommitteeOntheGreaterLondonPlan.TheWhlte

W81thamSatellite.ExpanSlOnOfAyleSbury,Ba81ngStOke,Bicester,Bletchley.DidcotandNewhury

PaperbytlleMLnlStryOfTownandCountJYPlannlngr,28January1946

36) IbzLL

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40 経済学雑誌 第101巻 集1号

「ニュータウンがメイアンヘッド,ひいてはレディングと合体しかねない」と懸念されたので

ある37)。そこで計画省は,ニュータウン候補地を原案より西方に2マイ)i,移動させることを

凍案した。これによって,ホワイトウオJt,サム飛行場との距離がある程度とれる上に,メイテ

ンヘッドとの関係も多少は改善されると考えられたのであるOそれでち,メイデンヘッドやレ

ディンタとニュータウンとがひとつにつながりかねないという懸念は強く残っていたoそのた

め計画省は,ニュータウンの計画人口を原案の6万人から4万人に縮小することもあわせ濃集

した38)。

しかしそれだけでは,本来ニュータウンで収容するはずだった2万人分についての処遇が宙

に浮いてしまうことになる。そこで計画省は,やはりグレーターロンドンプランで提起された

同プランの対象圏外における既存の市町村での人口増加案の一部を上方修正した。その具体的

内容は表Zの通りであるQ

表2 ホワイトウ才ルサムおよびクレーターロンドンプラン開外での人口増加秦

地 名 グレータ-ロンドンプラン案(人) 計画省案 (人)

60.000 40,000Aylesbury 35,500 45,500

20.000 45,000

BICeSterBletchley 22.500 56,50052.500

DidcotNewbury 15.000 45.000

(出所) rrLG71′128,ⅠれterdepartltLentalCoTrllTutteeOTltheGreaterLot)doTLPlan.The

WhlteWl)thaJTISatellite ExpanslOmOfAylesbury,BaslngStOke,BICeSter,BLetchley.Dldcc・tandNewbllry.PaperbytheMlrLLStryOfTovrLandCollTttryPlaMlltg,28

1anuary1946より作成。

たしかにこの修正案は 「上限値」を示したものであり,とくにグレークーロンドンプラン圏

外での人口増加薬については,「最終的には-・下方修正もありうる」とされていた39)。しかし,

ホワイトウオルサムでの減少分を補うのであれば,ロンドンからの方角の点でも,ペイジング

ストークBasingstokeでの人口増加上乗せ分で十分だ.'たはずである。にもかかわらずこの人

口増加案において,グレータ-ロンドンプランにくらぺて13万1千500人も多い追加人口が既

存市町村の拡張に基づいて珪素されていたのは,計画省,ひいては関係各省委月余が,基本的

にニュータウンでの人口収容を抑え,既存市町村の拡張を重視した40)証左といえた.

37)HLG71/128.良.B.Walker,RegionaユPlannlngOEfLCer,MjnlStryOfTownandCountryPlanning,

LGL.p-SatelliteTowns.ReprotoJlthePfOPO9edSatelliteatWh lteWaltham',12January1946.

38)HLG71/128,G.L.P37,op.°it.39) 1bld

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マークⅠロンドンニュータウン候補地の選定に関する若干の考察 (1) 41

事実,このニュータウン投棄の縮小と既存市町村の拡張の重視という傾向は,関係各省重点

会における今ひとつの争点だったミアウハムをふくむ,ケント州Kentやサリー州surreyで

の場合についても同様にみられた。ただしそこでの事情は,ニュータウンの建設がロンドンの

膨張を助長する可能性が憂慮されたホワイトウオルサムの場合とはかなり異なっていたoそも

そもグレーターロンドンプランでは,ロンドンの南部および南東部に,ミアウハム,ホルム

ウッドHolmwoodおよびタロウハース トCTOWhtlrStの三つのこ ェータウン建設が提案されて

おり,ロンドンからの収容予定人口は稔計で15万2千人強に達 していた。しかし関係各省委員

会では,産業発展の主要な地理的趨勢からはずれた南部および南東部への分散はより小農横で

あるぺきだという点で,各省の見解が早くから一致していた。その結果,この方角でのニュー

タウンによる分散は7万人に下方修正され,それにしたがって候補地の見直しが必要になっ

た41)。その過程でまず,ホルムウッドが落とされることになった。周辺の田園地帯が 「稀に

見るアメニティー的価値」を有する一方.産業発展の可能性が低いことが 「重大な不利益」と

みなされたからであった。そこで,ホルムウッドの南東致 マイルに位置し,交通の便に恵まれ

たクローリー ・スリープリッデスCrawley/ThreeBridges一帯を,人口5万人のニュータウ

ンとして開発する方針が打ち出されたのである。クローリー ・スリープリッヂスにはすでに1

万人の既存人口があったので,そこでの分散人口の収容分は4万人になるはずであった42)。

その結果,7万人からクローリー ・スリープリッデスでの分散人口の収容分4万人をひいた

残余の3万人を収容するニュータウンの候補地として,ロンドン南東部に位置するミアウハム

と南瓢に位置するクロウハーストが残ったCこのうちでまず有力視されたのが ミアウハムだっ

た。一般論として,ロンドンからの分散の必要は,南部よりも南東部の方がまだ高いと考えら

れたからであり,この点はとくに計画省,保健省MlnlStryOfHealth および労働省 Ministry

oELabourandNationalServiceが強調していた43)。そもそもグレーターロンドンプランでは,

既存のミアウハムの集落からははど近いものの,全くの未開発地にニュータウンを建設するよ

う捷案されていた44)。しかしこの候補地は,湿気の多い土地と,良質な農地の両方をふくん

でいた。そこで計画省は,むしろ既存のミアウハムの集落を中心にしたニュータウン建設を関

40) HLG71/124,G'eaterLolldonPlan1944',aconLldentla17nemOrandumcontainingtheagreedviews

oltheInterdepartmentalCommittee,senttoCDavies、3May1946,paras16andZO

41) HLG 71/124,DraEt,LordPre$1dent'scorTLmltteeMemorandum l〉ytheMlnisterofTownand

CountryPlarlningGreaterLondonPlan-Propc・sedNewTownsatMeopharT.andCrowhurst',n_d,

but1946.

42) IiLG71/124.1GreaterLondonP)an1944',opl:it.,para.37

43) HLG71/125,G.LP58(FlnalText),GreaterLondonPlarL-ProposedNewTownsatMeophaJn

andCrowhuLSt ReporttotheMlnLSterOETownandCountryPlanningby血eInterdepartmental

CornnltteeOntheGreaterLondorlPlan',R.d.,but1946.

44) G'yakrLondonPLZnLSW ,para.426

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42 経済学雑誌 第101巻 第1号

係各省委員会に捷起したcLかし,この捷案でも良質農地への影響が避けられえず,そのため

強い懸念を抱いた農水省は,計画省案にかわる代替案を準備し,計画省と対立する姿勢を鮮明

にした。以下,両省の提案をもとに,これら二つの候補地について少しくわしくみていきたい。

農水省が代替案として提起したのは,ミアウハムの西方2マイル強にある,ハートリー ・ロ

ングフィールドHartley/Longfleld一帯であった。ミアウハムもハー トリー ・ロングフィール

ドも,ともに広義にはタウンズDown Sとよばれる丘陵地帯に属していたが,地勢上はかなり

の相違をみせていた。ミアウハムの方が全般的に平坦な地形だったのに対して,ハートリー ・

ロングフィールドの方は起伏に富み,しかも候補地内が谷によって分断されていた。また,即

座に開発可能とされた土地の面積も,両者の間でかなりの隔たりがあった。候補地としての面

積は,ミアウハムが1800エーカーでハートリー ・ロングフィールドは2000エーカーだったが,

前者ではすでに開発化された300エーカーを除く1500エーカーの土地が即座に開発可能だった

のに対 して,後者ではその面積が600エーカーにすぎなかった。2000エーカーのうち600エー

カーは,リタイアしてロンドンから移ってきたひとびとのための住宅地としてすでに開発がす

すんでおり,一万200エーカーは傾斜が急すぎて開発に適さなかったCそして残りの1200エー

か一についても,谷で分断されるという地形上の理由等から,即座に開発可能なのは半分の

600エーカーで,それでもって収容できる人口は1万2千人にすぎないというのだった。そこ

で仮にすでに開発された600エーカーの部分もあわせてニュータウンとして開発しようとして

ち,既開発部分の,比較的新しい堅固な建造物の解体をともなう抜本的な再開発は,結局コス

トと時間がかかりすぎると考えられた。ましてや,地形上分断された600エーカーの部分もふ

くめてコミュニティーを三つ建造しても,それらを全体で 「バランスのとれたひとつのコミ.1

こティーとして開発することは難しい」と考えられたのである。

ただし以上は,計画省の立場寄りの見解だった。農水省はこれに対し,ニュータウン建設に

ともなう 「食糧生産上の損失」が,ミアウハムの場合の方が 「はるかに重大となる」点を指摘

した。候補地における農地面積そのものは,ミアウハムの1280エーカーに対してハートリー・

ロングフィールドが1140エーカーであり,両者の間に大差はなかった。しかし,平坦な地形と

ローム層の肥沃な地質の故に,ミアウハムの方が 「伝統的により高い農業上の価値を有する」

のだった。 これに対レ 、- トリー ・ロングフィールドは傾斜地においてはローム層の下の白亜

層が露出し,一方,谷底は,ローム層の吹き降ろしで土質はよいものの,霜だまりで湿りがち

となるという閉息点があり,そのため,農地としては相対的に劣っていたのでもあった。そう

したことから,農業経営の水準もミアウハムの方が格段に高かったのである。

農水省はまた,計画省があげたハートリー ・ロングフィールドでのニュータウン建設上の問

題点に対して,以下のような異論をとなえた。まず,三つのコミュニティーが地形状分断され

てしまうという点に関しては,住民にとってやや便利さを欠 くかもしれない程度の開蓮で,

「必ずしも重大な障書とはいえない」と述べてこれを一蹴した.また,即座に開発可能な土地

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マークⅠロンドンニュータウン候補地の選定に関する若干の考察 (1) 43

が少ないためにニュータウン建設に時間を要するという指摘にも,「有効な異議・-とは思えな

い」と反論した。「1万2千人を収容するに十分な土地があり,また,一般にニュータウン建

設には平均して十年を要するとみなされていることを考慮すれば,ハートリー ・ロングフィー

ルドでも分散の必要に大過なく対応できる」というのであった.以上のことから農水省は,

「ハー トリー ・ロングフィールドでのニュータウン建設に対する異鼓が,ミアウハム候補地に

対する農業上の反論より勝っているとは思えず,むしろ,良質な農地で未開発地の多いミアウ

ハムよりも農業上は重要度の低い一帯を集中的に開発した方が,わが軌 こもたらされる恩恵は

よほど大きい」と主張したのである45)0

ところで,今ひとつの候補地だったタロウハーストに関して,両省はいかなる見解を示した

のだろうか。まず農水省は,タロウハーストでのニュータウン建設もやぶさかではないという

考えだった。何よりも,タロウハーストの農地としての価値が,中級程度だったからである.

ではタロウハーストとハー トリー ・ロングフィールドのどちらがよいのかという点は,とくに

明らかにされてはいないが,要は,ミアウハムでのニュータウン建設が回避できればよかった

のである.しかもクロウハーストには,鉄道交通上の観点から他の二つの候補地にまさる利点

があった.タロウハーストは,ロンドン/イーストグリンステッドEastGrlnStead線とトンプ

リッヂTonbridge/レディング線との合流点に位置していた。このうちロンドン/イーストグ

リンステッド線の輸送力増強が,電化および線路数の増加という形で,ニュータウン建設にか

かわりなくすでに予定されていた。一方, トンプリッヂ/レアインタ線の方を使えば,交通過

密なロンドンの接続駅を経由せずに,クロウハーストから工業地帯であるミッドランド,イン

グランド北部および南ウェールズに行くことが可能であった。これに対し,運輸省の指摘によ

れば,ミアウハムかハートリー ・ロングフィールドのいずれかでのニュータウン建設が決定し

た場合,さもなければ不要なはずの大規模な路線改良工事が必要になってくるのだった。しか

ち,いずれの場合も,ミッドランドやイングランド北部と直結する路線はなかったのである.

ところが産業政策上の観点からは,逆にタロウハーストの方に分が悪かった。この点につい

ては商務省BoardofTradeがとくに強い意見を持っており,計画省もこれに同調的であった.

第-に,タロウハーストには,上記の鉄道交通上の利点をのぞけば,「産業発展の.ひいては

都市としての成功を約束するような固有の長所が全くない」のだった。しかも,すでにニュー

タウン建設が決定していたクローリー ・スリープリッヂスとタロウハーストとは6マイルしか

離れていないことから両者の 「競合」の可能性が懸念されたし,いずれにせよ 「このような近

距離に二つのニュータウンをこの地方として抱えられるかどうかは,いささか疑問」とされた

のであるo

これに対してミ7ウハムとハー トリー ・ロングフィールドの場合は,それらがメドウェイ川

45) HLG71/125.G.LP.58(FlnalTcxt),opclt

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44 経済学雑徒 弟101巻 第1早

theMedway沿岸やグレイヴスエンドGravesendを中心としたテムズ沿岸の既存の工業地域

からおよそ5マイルしか散れていないことが,むしろ利点になりうるとみなされていた。これ

らの地域は工業地域としては行き詰まり気味であり,そこでの産業の多角化が強く望まれてい

た。とくにメドウェイ川沿岸地域は,グレータ-ロンドンプランの圏内でもほぼ唯一の,失業

の発生が懸念される地域だった。ニュータウン建設の代替案として.この地域の産業 ・人口を

成長させる案が検卸されたこともあったが,開発可能な土地が限定されていたことと,市衝地

化された部分の再開発があまりにおおがかりになることから,不可能との判断が下されていた。

そこで 「もしミアウハムまたはハートリー ・ロングフィールドでのニュータウンが成功すれば,

これら三地域すべてに有利となるような雇用の多角化の積金がもたらされうるかもしれない」

ことが期待されたのである。

さらに,鉄道交通の観点からは疑問符のつくミアウハムやハートリー・ロングフィールドで

はあったが,道路交通の面ではタロウハーストにまさる点があった。建設が予定されていた

ダートフォード・パーフリートDartford/Ptユdleetトンネルから近距椎にあったことである。

運輸省が高いプライオリティーを与えていたこのトンネルの完成は,イングランド北部との距

離が格段に縮まることを意味し,それがミアウハムやハートリー.ロングフィールドにとって

産業政策上重要な利点をもたらすと考えられたのである。

以上の諸点を勘案すれば,ミアウハムかあるいはハートリー・ロングフィールドでのニュー

タウン建設が産業政東上は 「堅実な新規開発事業」といえたのに対して,タロウハースト案は

「投機的」とみなされたのである46)。

(未完)

46) Ibld.,CrowhurstasanalternatlVetOtheMeopham/Hartley-Longlieldarea