概説・ 20 世紀台湾文学 下村作次郎 · 概説・ 20 世紀台湾文学...

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概説・ 20 世紀台湾文学 一一一台湾文学研究の手引き一一 下村作次郎 台湾文学とは 筆者は、かつて台湾文学が史的に回顧され考察されはじめたのはいつ ごろからか、そして台湾文学史はいつごろ、誰によって書かれようとし たのかについて考察したことがある。そして、本格的な台湾文学史は、 黄得時によってはじめて構想されはじめたものであることを明らかにし I o 黄得時は、 f 台湾文学史序説」(『台湾文学』第 3 3 号、 1943.7 )で、 台湾文学の範囲およびその対象について、「台湾文学史の範菌並に取上 ぐべき対象は、大体、次の五つの場合があらふ」として次のような興味 深い叙述を行なっている 2。(原文自本語) 1 f 日本人の印象の中の台湾人作家・頼和J(『よみがえる台湾文学』東方書店、 1995.10) 2 j 長石涛は、近年、この黄得持の台湾文学範囲論を再提起し、台湾文学界の関心を呼んでいる。 業石涛著・下村訳「台湾文学の多民族性J(塚本照平目先生古稀記念論集『台湾文学研究の現在』 緑蔭書房、 1999.3 )参照。 75

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概説・ 20世紀台湾文学

一一一台湾文学研究の手引き一一

下村作次郎

台湾文学とは

筆者は、かつて台湾文学が史的に回顧され考察されはじめたのはいつ

ごろからか、そして台湾文学史はいつごろ、誰によって書かれようとし

たのかについて考察したことがある。そして、本格的な台湾文学史は、

黄得時によってはじめて構想されはじめたものであることを明らかにし

たIo

黄得時は、 f台湾文学史序説」(『台湾文学』第3巻3号、 1943.7)で、

台湾文学の範囲およびその対象について、「台湾文学史の範菌並に取上

ぐべき対象は、大体、次の五つの場合があらふ」として次のような興味

深い叙述を行なっている 2。(原文自本語)

1 f日本人の印象の中の台湾人作家・頼和J(『よみがえる台湾文学』東方書店、 1995.10)

2 j長石涛は、近年、この黄得持の台湾文学範囲論を再提起し、台湾文学界の関心を呼んでいる。

業石涛著・下村訳「台湾文学の多民族性J(塚本照平目先生古稀記念論集『台湾文学研究の現在』

緑蔭書房、 1999.3)参照。

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(一) 作者は台湾出身であり、その文学活動(ここでは作品の発表並

にその影響力、以下同じ)も台湾に於てなされた場合

(二) 作者は台湾以外の出身であるが、台湾に永住し、その文学活動

も台湾に於てなされた場合

(三) 作者は台湾以外の出身であるが、一定期間だけ台湾に於て文学

活動をなし、それ以後、再び台湾を去った場合

(四) 作者は台湾出身であるが、その文学活動は台湾以外の地に於て

なされた場合

(五) 作者は台湾出身以外の出身で、しかも台湾に渡来したこともな

く、単に台湾に関係する作品を書き、台湾以外の地に於て文学活

動をなした場合

黄得時の以上の分類はまた、(一)と(四)の台湾人作家と(二)(三)

(五)の非台湾人作家の二つに大別できる。ここで黄得時が述べたとこ

ろの各項目について、どのような文学者があてはまるのか考えてみる

と、(一)には、頼和など、ほとんどの台湾人作家があてはまる。(二)

には、西JI[満、演田隼雄などの日本統治期の在台日本人作家があげられ

る。(三)には、白先勇、語華苓など、戦後の台湾で成長し、その後渡

米し、現在はアメリカ在住の華人作家があげられる。(四)には、許地

山、劉日内鴎などをあげることができる。(五)には、中国人作家では林

斤漏ら、日本人作家では山部加津子や宇野浩二らがいる。

ところで、台湾文学にはなぜこのような範囲論が存在するのだろう

か。それは台湾の歴史に関係がある。台湾は 16世紀の大航梅時代に、

ポルトガル人によって発見され、 fイラ・フォルモサ(Ilha Formosa) J

として、世界の舞台に登場し、その後、オランダ、スペイン、鄭氏三代、

清朝、日本、そして中華民国に支配されてきた。こうした台湾の歴史の

歩みの中で、台湾の地で、また台湾とかかわって、文学が生みだされた

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が、それらの文学はその帰属をめく守ってつねに不安定な環境におかれて

きた。そうして、台湾文学とはなにかが関われつづけ、台湾文学の範囲

論についての議論が繰り返されてきたのである。

黄得時が上記の範囲論を打ち出したのは、日本統治時代である。日本

人統治者からみれば、台湾文学は明らかに日本文学の一部である。なぜ

特に台湾文学史の構築が必要なのか。黄得時はこうした議論に対して、

次のように反論している。

f次にある人は、改隷前の文学は、当然清朝文学の一翼に入りまた改

隷後の文学は、明治文学の中に包含されるから、殊更に奇を好んで f台

湾文学史jなんぞ、と独立して考える必要はどこにもない、と云ふかも知

れない。しかしながら、台湾は、その種族からいっても、また環境から

いっても、あるひは歴史から見てもそれぞれ独特の性格をもってゐるた

め、清朝文学乃至明治文学の中に到底見られない独特の作品をもってゐ

るからである。このやうな反対論を唱へるものは、恰も日本文学は世界

文学に包含され、南洋史は一部東洋史に、一部西洋史に包含されてゐる

から、特に日本文学乃歪南洋史の名目を立てる必要がないといふのと同

じである。われわれは、日本文学が世界文学の中で独特な光を放ってゐ

るのと同じ意味に於て、台湾文学もまた清朝文学乃至明治文学の中にな

い、独特の性格をもってゐると信じてこそ本稿を草したわけである。J

黄得時のこうした台湾文学史観は、統治者にとっては、おそらく意表

を突くものであったろう。しかしながら、台湾文学の主たる担い手を自

負する台湾人文学者にとっては、台湾文学の主体を守り続けるための重

層的且つ柔軟な、すなわちどの方面からの攻撃にも酎えて、台湾文学の

主体性をより強固に打ち出すための台湾文学史観であったのである。

黄得時は、以上のような台湾文学史観のもとに「台湾文学史として取

扱ふべき範囲は、台湾の出身にして台湾に於て文学活動をなしたもの

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と、台湾以外の出身者にして台湾に永住し、台湾に於て文学活動を続け

たものを主とし、一時的滞在者やその他のものは必要に応じて、これを

取り入れるといふ程度に止めて置きたい。jとして、まず、一、種族、一、

環境、三、歴史について述べ、次に「鄭氏時代」すなわち鄭成功時代の

台湾文学から稿を起こしているのである。

台湾文学は、主として台湾で書かれ、台湾に住んだ作家たちが生み出

してきた文学である。台湾文学が、台湾独特の要素、すなわち、多民族

構成や、移民や植民の地であるという環境、外来政権による支配の歴史

などによって、中国文学や日本文学にはない、複雑で多元的な特色を有

することもまた事実である。こうした点に留意しながら、以下、台湾の

近現代文学について概説してみよう。

導入として、二人の文学者の言葉から見ていこう。

一人の文学者の歩み一一一鍾肇政と葉石涛

台湾文学は、「血と涙の文学、あらがいの文学J:Jであると述べたのは

鍾肇政であり、台湾作家は、「野草のように生き、野草のように死んで

いく J4と語ったのは葉石濡である。

二人は、いずれも戦後の台湾文学の発展のうえで重要な役割を担った

台湾文学者として知られている。鍾肇政は、主として台北に拠点を置い

て、戦後の台湾文学界をリードしてきたし、葉石濡は、南部の高雄に拠

点を置いて、台湾文学史の理論的枠組みの確立のために論陣を張ってき

た。そのようにして二人は、戦後の半世紀を台湾文学と共に歩んでき

3 『台湾作家会集』(前衛出版社、 1991.8)所収「総序J参照。

4 第4問日本台湾学会(2002.6.8、於名古屋)懇親会での挨拶のなかの言葉。これと同趣旨の発

言は、「私の台湾文学六O年J(『新潮』 2002.9)にもみられる。

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た。

このようなニ人が、台湾文学および、その担い手である台湾文学者につ

いて、官頭のような言葉を述べているのである。これはいったい何を意

味するのだろうか。

二人の生年は共に 1925年で、鍾肇政は桃園に生まれ、葉石濡は台南

に生まれた。 1945年の終戦の年には20歳で、鍾は学徒兵として、葉

は陸軍ニ等兵として大日本帝国軍人の経験を有している。戦争が終わる

と、日本語の世界から中国語の世界へと一転し、二人は新たに中国語を

学びはじめなければならなかった。二人が中居語のテキストとしたの

は、鍾肇政は当時の台湾の流行作家、呉漫沙の恋愛小説、例えば『花非

花』(五憲書局、 1945.12)などであり、葉石濡は中国の古典小説『紅

楼夢』や毛沢東の『新民主主義論』をはじめとする社会主義関係の中国

語文献であった。そのため葉石濡は、 50年代の白色テ口のなかで左翼

思想の嫌疑で逮捕投獄されることにもなった。

鍾肇政の体験では、このようにして戦後5年問、中国語の勉強に没頭

してようやく50年代から中国語による習作が書けるようになったとい

う。鍾肇政はこの時期の言語転換の体験を「訳脳」 5という言葉で表現

しているが、戦後の台湾文学の歩みは言葉のハンヂィキャップを克服す

ることからはじまっている。そのうえ、中国国民党による独裁体制のも

とで 1949年から 38年の長きにわたって戒厳令が敷かれ、台湾文学は

抑圧されて発表の機会はごく限られてきた。この問、台湾のマスメディ

アを独占してきたのは、後述するように、主として太陸から台湾に移り

住んだ既成の中国作家による反共文学や郷愁文学などの作品群であっ

た。

5 「『訳脳』の体験からJ(『台湾文学研究会会報』 10、1985.7)参目見

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台湾文学は、このような環境のなかで、 1987年7月に戒厳令が解除

されるまで、鍾肇政が言うような苦難の道を歩んできた。そして、この

ような道を歩んできた台湾の作家は、葉石濡によって f野草Jのような

存在と喰えられたのである。

以上は、二人の文学者が歩んできた戦後半世紀の台湾文学について述

べたものだが、苦難は実は、すでに日本植民地統治時代にはじまってい

た。本稿では、台湾文学が近代文学として誕生した、 1920年代から今

日までの台湾文学の軌跡を概観し、そのうえで台湾文学のさまざまな問

題について述べてみることとする。

日本統治時期

近代の台湾文学は、日本植民地統治下の台湾において誕生し、そして

発展した。

日本の台湾統治は、その統治のはじめから f国語」としての日本語の

普及を重視した。藤井省三は、ハーバマスやアンダーソンの理論を援用

した独自の台湾文学論のなかで、日本語の普及率の変選に注目し、読者

市場の推移から台湾人のナショナリズムの形成過程および、台湾文学の発

展の過程をはかつている。 6

このような観点を参考にして、台湾文学の禁明期を考えると、台湾の

白話文学運動は、台湾人の言語環境からあまりにも帯離していた。当時

の台湾人が日常生活のなかで使用していた言語は、間南語と客家語であ

り、本来言文一致であるはずの北京白話文は台湾人にとっては書き言葉

でしかなかった。理念としての白話文は現実から遊離していたのであ

6藤井省三「(大東亜戦争〉期の台湾における読者市場の成熟と文壕の成立J(『よみがえる台湾文

学』東方書店、 1995.10)参照。

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る。しかも、近代教育を施すために台湾総督府が創設した学校では、国

語(日本語)教育が推し進められていた。

こうした環境のなかで、中国新文学の影響を受けてはじまったとされ

る台湾新文学運動は、その繋明期から創作言語の問題を抱え込まざるを

得なかった。これは台湾文学の特色の一つでもある。

ここで、禁明期に発表された作品を列記してみよう。

鴎「可伯的沈黙j 『台湾文化叢書』第壱号、 1922年4月7

追風(謝春木)「彼女は何処へ?(悩める若き姉妹へ)J『台湾』第3年第4

~7号、同年7月~ 10月

無知 f神秘的自制島j 同第4年第3号、 1923年3月

憎雲(頼和) r闘l詔熱J『台湾民報』第86号、 1926年I月l日

雲洋生(楊雲洋)「光臨」『台湾民報』同

台湾文学史上、頼和と楊雲葎の作品を台湾新文学の第1作に最初に位

置づけたのは楊雲揮である。 8確かに、魯迅の「狂人日記j が中国新文

学の第1作だとされているように、台湾新文学の第 l作は、「台湾新文

学の父Jと称される頼和の「闘間熱jがふさわしい。しかしながら、台

湾文学の全体像を正確に理解するためには、頼和と楊雲葎の作品以前

に、上記の三縞の作品が発表されていたことを看過することはできな

しし

鴎 f可伯的沈黙j (「恐るべき沈黙J)では、東京の神田の街中で虐待

される馬車馬に自己の東京生活を投影させて間情する台湾人留学生が描

かれている。言語は白話文である。次の追風は、社会運動家で『台湾人

の要求』(台湾新民報社、 1931.1)を著した謝春木のペンネームである。

7陳寓益著『子無声処驚霞 台湾文学論集』(台南市立文化中心、 1996.5)参照。

s r台湾新文学運動的回顧」(『台湾文化』創刊号、 1946.9)参照。

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作品は、女性が自立を求めて東京に留学する話である。表題にみる通

り、言語は日本語である。無知の f神秘的自帝lj島j(「神秘の自制島j)は、

ある島(台湾島を比轍)の、手榔足榔をされて生きる住民の奴隷生活が

描かれている。言語は文言に近い白話文である。

これらの作品は、鶴の「可伯的沈黙jはまだ習作に近いとはいえ、近

代小説の範鴎に入れることができる。謝春木の「彼女は何処へ? Jは、

近代小説としてかなりの水準に達した作品となっている。ただ、小説家

としての謝春木の作品はこの一編が知られるだけであり、鴎と無知につ

いてはいったい誰なのかさえ不明である。このような作品を台湾新文学

の第1作として位置づけることには反論もあろうが、しかし、台湾文学

の繁明期にこうした近代小説が白話文や日本語で発表されていたこと

は、中国文学にはない台湾文学の特殊性としておさえておく必要があ

る。

このようにして誕生した台湾文学は、その後どのような歩みをたどっ

たのであろうか。

台湾文学の歩み

台湾総督府の統治下において発達した台湾新文学は、先にみたよう

に、最初は宗主国の首都、東京で発行された台湾青年雑誌社(1920年

7月結成)や台湾文化協会(1921年10月結成)の機関誌や新聞に作品

が発表された。従って、台湾島内の読者には、これらの出版物は一般的

ではなかった。また、「台湾人唯一の言論機関紙j と言われた『台湾民

報』は、 1923年4月に東京で発行されたが、台湾島内での発行が許可

されたのは4年後の 1927年7月になってからであり、台湾では限られ

た読者しか読めなかった。台湾新文学は、台湾総督府によるこのような

厳しい文化統制のなかで発展していった。

では、台湾新文学にはどのような作品があるのだろうか。それを知る

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のに格好な作品集として、李献E章編『台湾小説選』がある。この作品集

は、中国語作品(台湾話文作品を含む)のアンソロジーで、 1940年に

出版を予定されていたが、発禁処分を受け、結局は出版されなかった。

ここに校正段階での目次を記すと、次の通りである。

『大衆時報』? (1928年5月1日執筆)

『現代生活』創刊号、 1931年1月

『台湾新民報』 345号、1931年1月 l一日

『南音』 lの2、6、9・10、1932年1月

17日~ 7月25日

『東亜新報』新年号?(1935年12月 10白

執筆)

『台湾民報J86号、1926年l月 1B

!司報 119号、1926年8月22日

間報 124号、1926年 9月26日

同報255~8号、1929年4月7日~28日

『台湾新民報』 322~3号、1930年7月 16

~26日

同報407~8号、1932年3月11日~26日

間報332号~9号、1930年9月27日~

31年 1月 15日

『第一線J1935年 1月6日

『台湾文芸JI2の8、1935年8月4日

『台湾新文学』 1の10、1936年12丹5日

「前進J

「棋盤辺J

「辱j

「惹事J

「赴了春宴回来j

「蝉j

「没落J

「十字路」

「光臨j

「弟兄j

「黄昏的庶圏J

「誘惑j

f栄帰J

f尽魚J

「鬼J

号ま-;zc弐

登歪τ~ミ

壱goτ=ミ

守幸三広道右

朱点人

王詩聴

王詩現

号管τ=ミ

楊雲~

楊雲浮

揚雲葎

張我軍

ここに収録された頼和、楊雲洋、張我軍、陳虚谷、楊守愚、郭秋生、

朱点人、王詩E良の8人は、台湾新文学の代表的な中田語作家である。他

に中国語作家には、楊華、禁秋桐、張慶堂、林越峰らがいる。 9

9これらの作家の作品集に、下村作次郎・黄英留共編『8本統治期台湾人作家作品集(中国語作品集〕』(緑蔭書房、 1999.7)がある。

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台湾新文学は、台湾社会運動と密接な関係をもって発展した。従って

これらの中国語作家の作品は、批判精神に富み、特に描写の対象となっ

たのは日本人の警察官と台湾人の保正である。このような作品は、邦訳

では、陳逸雄編訳の『抗日台湾小説選』(研文書店、 1988.12)で読む

ことができる。

ところで、前掲の『台湾小説選』に収録された作品は、多く 30年代

に発表された作品から選ばれていることからわかるように、 30年代は

まさに中国語作品の発展時期であった。と同時に、この時期はまた、郷

土文学論争が起こった時期でもある。言文不一致の中国自話文に疑問を

抱いた作家たちのなかから台湾話文の提唱がなされ、中国自話文派と台

湾話文派に分かれて、 1930年から 33年にかけて激しい論争が巻き起宇(九 10」ー _) /'--0

しかしながら、その一方でまた、 30年代はE本語が急速に普及した

時期でもあった。前掲の藤井論文によると、日本語理解者は1933年に

は25%、すなわち台湾人の4分の lにまで達した。このような日本語

の普及は、台湾文学のありように大きな影響を及ぼさずにはおかなかっ

た。

先にあげた「台湾人の唯一の言論機関紙」『台湾民報』は、 1930年3

丹29日から『台湾新民報』に改称されたが、 2年後の 1932年4月15

10松永正義「郷土文学論争(一九三O~三二)について」(『一橋論叢』 1989.3)、黄瑛春「社会

主義思想の影響下における郷土文学論争と台湾話文運動J(『よみがえる台湾文学』東方書店、1995.10)、宋1l:静『日治時期台湾郷土文学論争之研究』(岐阜袈徳学園大学修士論文、 2000.2)、

練淑容『一九三0年代郷土文学・台湾話文論争及其余波』(国立台南師範学院郷土文化研究所碩士学位論文、 2001.6)参照。

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日から日刊として発行されるようになった。この時期は、台湾ジャーナ

リズムの萌芽期にあたるが、ここで起こったのが『台湾新民報』紙上の

漢文欄と日文欄の対立である。劉捷は、その頃該報の編集部にいた。日

本語を通じて教養を身につけた劉捷らの若い世代は、頼和ら中国語作家

の作品の発表舞台で、あった漢文欄を次第に古臭くて時代遅れなものに感

じはじめていた。II

このように台湾新文学は中国語作品の発展時期に、中国語白話文か、

台湾話文か、はたまた日本語かという創作言語の開題に深刻にぶつかっ

た。こうしたなかで、日本語文学は、日刊となった『台湾新民報』で早

くも連載小説が掲載されはじめている。台湾最初の新開連載小説となっ

たのは、林輝慢の『争えぬ運命』(自家出版、 1933.4)である。本書は、

封建制度の桂桔のなかでの恋愛問題を描いた大衆文学である。12

日本「内地」留学生の日本語文学

こうして次第に日本語が台湾文学の有力な創作言語となるが、さらに

その勢いに拍車をかけたのは、日本「内地」留学生であった。

30年代は、日本の文壇はプロレタリア文学が弾圧され、文芸復興が

唱えられた時代である。 f日本プロレタリア文化聯盟(コップ)指導下J

10¥'U捷は、 30年代に本格的な文芸評論を書き出した文学者の一人である。この時期の彼の評論は

もう少し注目されてもいい。処女作『台湾文化の展望』は1936年に発禁処分にあっている。著

作に『台湾文化展妥』(春揮出版社、 1994.1)、『我的機悔録』(九歌出版社、 1998.10)がある。

12台湾の大衆文学を編んだものに、下村作次郎・黄英哲共編『台湾大衆文学系列』(前衛出版社、

1998.7)があり、向Q之弟『可愛的仇人』、呉浸沙『韮菜花』『繁明之歌』『大地之春』、林輝混

『名運難違』(『争えぬ運命』の中国語訳)、建勅『京夜』が入っている。台湾の大衆文学を論じ

たものに、下村作次郎・黄英哲共著「戦前台湾大衆文学初探 台湾文学史の空白一一J(『中

国文化研究』 16、1999.2)、中島利郎「日本統治期台湾の『大衆文学』J(『日本統治期台湾文学

集成8 台湾通俗文学集二』緑蔭ミ華麗、 2002.11)がある。

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の f台湾文化サークルJもこの時期に弾圧され、留学生のあいだであく

まで非合法の活動を堅持するか、それとも合法路線に転換するかをめ

くやって論争がつづいていた。結局、「合法無難!な路線を取って発行し

たのが、台湾芸術研究会の『フォルモサ』である。該誌は数編の詩が中

国語で書かれている以外、すべて日本語で書かれた純文芸雑誌である。

1933年7月に創刊号を出し、翌年第3号を出すと、台湾文芸聯盟発行

の『台湾文芸』に合流するかたちで停刊した。雑誌そのものは三号雑誌

となり短命に終わったが、台湾文学に与えた影響は決して小さくない。

間人には、蘇維熊、張文環、呉坤煙、~永福、王白淵、施学習、曾石

火、翁閥、劉捷らがいた。

『フォルモサ』グループの特色は、彼らの留学の目的がそれまでの医

者、弁護士を自指す実学とは異なり、文学や芸術を目指していたことで

ある。また、呉坤煙や張文環らは、朝鮮人や中国人の留学生とも盛んに

交流し、 1933年12月に成立した左翼作家聯盟東京特別支部(略称、東

京左連)の雷石検や林燥平、林林、蒲風らとのあいだで親密な交流を

持ったことが知られている。

この『フォルモサ』の影響を受けて、島内では初めて全島的規模の台

湾文芸聯盟が成立し、 1934年5月6日に第l回台湾全島文芸大会が開

催された。台湾文芸聯盟は、張深切が中心となってこの年ll月に『台

湾文芸』を創刊し、 36年8丹に通巻 16号を出して停刊となった。

楊遣が「新聞配達夫Jで中央文壇に進出(1934年10月『文学評論』

入選第二席受賞)したのはちょうどこの頃である。ところで、「中央文

壇jや「進出」という言葉は、この頃盛んに留学生のあいだで使われて

いた。彼らは日本「内地jの中央文壇でのデビューを目指して互いに競

争し、その競争意識は朝鮮の作家にも及んだ。

また日本に留学していた胡風は、『文学評論』や『改造』に発表され

86

た朝鮮や台湾の作家の作品に注目し、 1帰国後上海で『山霊 朝鮮台湾短

編小説集』(文化生活出版社、 1936.4)や『弱小民族小説選』(生活書

店、 1936.5)を出版した。こうして楊達の[新聞配達夫Jや呂赫若の

「牛車j、楊華の「薄命Jなどが中国に紹介されることになった。

その後、龍瑛宗は fパパイヤのある街jで、 1937年4月号の『改造』

第9回懸賞に入選を果たしている。朝鮮の作家では、張赫宙が、 5年前

に「餓鬼道Jで第4回懸賞に入選している。こうして、龍瑛宗は張赫宙

と同じ f改造・友の会J会員となったが、その他、「光の中へJで1940

年の芥川賞候補となった金史良とも『文芸首都』の同人として交流を行

なっている。

台湾文学の風景

ここで、中央文壇に進出した、楊濯の「新聞配達夫Jと日赫若の「牛

車j、そして龍瑛宗の「パパイヤのある街」についてみておこう。

台湾新文学の嵐景という観点からこれら3編の作品についてみると、

文学風景としてはサトウキピが浮かんでくる。

「来月間配達夫Jは、近代化する糖業会社に土地を安く買い上げられて

生活が追い詰められていく過程が背景であり、「牛車jは、サトウキビ

畑から糖業会社まで牛車でサトウキビを運搬して生計を立てている貧し

い夫婦の話であり、そして「パパイヤのある街jは、台湾の近代化を象

徴する産業として成長した糖業会社がある、地方の街役場に赴任してい

く台湾人の下級官吏を描いている。

このように台湾新文学は、農民運動や農民などの小人物を描いてき

た。台湾文学の風景をサトウキビで象徴的にとらえでもあながち的外れ

ではない。こうした文学風景が一変するのは、「パパイヤのある街J以

降である。

87

「パパイヤのある街」が発表された 1937年4月に、中国語の使用が

禁止される。この措置は、台湾総督府の府令によって禁止されたもので

はなく、形式上は新聞社の「自主規制jのような形で中国語の使用を禁

止していったことが明らかになった。13

いずれにしても、このような時代の流れのなかで、『台湾新文学』

(1935年12月創刊)では中国語作家が作品を発表できなくなり、結局

は1937年6月号を最後に廃刊に追い込まれてしまう。

さらに、 1937年の七七事変が勃発して日中戦争がはじまると、台湾

は8月14日より戦時体制下に組み込まれる。これ以降、台湾在住の「内

地人」には徴兵が課されるようになり、「本島人jおよび f高砂族」に

対しては「銃後j の皇民化運動が推し進められるようになった。

こうしたなかで、この時期の台湾文学界は張文環の言葉を借りれば、

I淋しい本島文壇jとなり、再び活況をみせるようになるのは、 40年代

に入ってからである。ただし、仔細にみると、 1939年には『台湾新民

報』では、黄得時の編集で「新鋭中編小説」特輯が組まれている。王剥

雄「淡水河の漣j、龍瑛宗「趨夫人の戯画j、張文環「山茶花j、翁間「港

のある街J、陳華培「胡蝶蘭J、呂赫若「季節閤鑑J、陳垂映「j鼠風花jの

7編の日本語作品がリレ一連載された。ただ、この時期の『台湾新民報』

は、現在ではほとんど散逸した状況にあり、いま読むことができるの

は、王和雄「淡水河の漣j、龍瑛宗 f超夫人の戯商J、張文環「山茶花j

13中島利郎「日本統治期台湾研究の問題点一台湾総督府による漢文禁止と日本統治末期の台湾語

禁止を例として一Jげ岐阜聖徳学盟大学外国語学部中国語学科紀要』 5、2002.3)

14王頑雄の「淡水海の滋jは『王手自雄全集第一冊・小説巻』(台北県政府文化局、 2002.10、但し、

中国語訳)、龍瑛宗の「越夫人の戯画Jは『日本統治期台湾文学台湾入作家作品集第三巻[能瑛

宗]』(緑蔭書房、 1997.7)、張文環の「山茶花」は『日本統治期台湾文学集成第二巻台湾長編小

説集二』(緑蔭書房、 1997.7)、陳垂映の「鳳風花jは『陳瞬峡集』全2巻(台中県立文化中心、

1999.11)でそれぞれ読むことができる。

88

および陳垂映 f鳳風花Jの4編である。14

また、従来この時期に中国語が禁止されて、中国語作品が発表される

ことがなかったとされてきたことについても、近年研究が進み、『風月

報』 15や『台湾芸術』では中国語作品が掲載されていること、また呉漫

沙や徐坤泉(阿Q之弟)の小説のように単行本で出版された中盟語作品

が存在したことが明らかにされている。つまり、娯楽や日華親善を描く

中国語作品は1937年以降も発表されていた16。しかしながら、台湾新

文学を担ってきた頼和をはじめとする中国語作家たちは、結局は筆を折

らざるをえなかったのである。

1940年代の台湾文学

40年代になると、「内地人J作家が台湾文壇の中心に躍り出る。著名

な作家に、西川満、演田隼雄、坂口袴子、庄司娘、一、中村地平らがいる。

なかでも西川満は『文芸台湾』の編集者として活躍し、台湾人作家が多

く集まった張文環の『台湾文学』と対立関係にあった。

40年代はまた、台湾文学にとって激動の 10年である。17前半期の 5

年は、先述したように台湾の戦時体制下と日本 f内地jの国会総動員法

の公荷(1938.4.1)、大政翼賛会の成立 (1940.10.12)による台湾への

影響により、台湾人に対して強力な皇民化運動が強要された持期であ

る。特に‘1941年4月18日の皇民奉公会の成立以降はその運動にいっ

15 2001年6月に南天書局から復刻と『風月・風月報・南方・南方詩集 総目録・専論・著者作品』

が出ている。

16注 (12)に掲げた下村・黄共著 f戦前台湾大衆文学初探一一台湾文学史の空白一一J参照。

17松永正義は、近年、日本の敗戦を境とする40年代を40年代前半期と後半期として総合的にと

らえようとする視角を提案している。「凶0年代後半期台湾文学研究の資料と視角J(『一橋論叢』

第 128巻第3号、 2002.9)

89

そう拍車がかかった。

台湾文学研究のうえでは、この時期の研究は敏感な問題としてこれま

で、最も遅れた分野で、あった。研究が遅れた最大の理由は、文学評価の基

準が作品の「皇民化J度や作家の f皇民作家J度であったために「レッ

テル貼り」が先行し、客観的な評価に繋がりにくかったためである。し

かしながら、この分野においても1990年代から少しずつ本格的な研究

がはじまり、星名修宏や垂水千恵、林瑞明、藤井省三、中島科部、柳書

琴、ダグラス・ L・フィックス、黄振原、井手男、松尾直大らの研究が

生まれている。18さらにこうした研究者の研究の積み重ねを経て、2002

年6月には藤井省三ほか編による『台湾の f大東亜戦争j』(東京大学出

版会、 2003.12)が出版された。該書は、『決戦台湾小説集』全二巻(台

湾出版文化株式会社、 1944.12/45.1) 19について総合的に論じた論文

集である。この小説集は、総督府J情報課が1944年7月に、日本人およ

び台湾人の作家に「文学者の戦争協力jを具体的に求めたもので、島内

の各生産現場に赴いてその「見間体験Jを報道文学の形で書かせたもの

である。西川i満、演田隼雄、張文環、龍瑛宗ら当時の代表的な作家計13

名が派遣されている。

このようにこの時期の文学研究は、相当な広がりと深さを持つにい

たった。しかしながら、『新建設』や『台湾芸術』 20など当時最もポピユ

18拙稿 f台湾文学在日本J(『中国文化研究』第 18号、 2001.10)に掲げた{「皇民文学j関連研

究論文一覧]参照。また、『清理輿批判』(人間出版社、 1998.12)では特集「台湾皇民文学合理

論的批判jが組まれ、陳映真「精神的荒廃J、曽健民「台湾『皇民文学』約総清算J、劉孝春「試

論 f裏民文学』jが収められている。

19 2002年9月、ゆまに書房から復刻された。「日本植民地文学精選集〔台湾編〕 3J

20河原功 f雑誌『台湾芸術』と江尚梅j、悶編「『台湾芸術』『新大衆』『察率3総目次』(『成際論

叢』 39号、 2002.3)がある。

90

ラーであった雑誌の全貌をまだみることが出来ない状況にあることや、

肝心の『台湾新民報』が 1933年以降、未発掘の状況にあることなと、か

ら21、まだまだ未知の研究分野であり、今後の開拓が侠たれるところで

ある。

戦後初期

後半期の5年は、日本の敗戦によって、台湾が日本の統治から中華民

国に編入された動乱の時期である。台湾の人々は、台湾の f光復jを最

初、一瞬の戸惑いを覚えながらも興奮のなかで受け入れていった。

例えば、終戦の年に 17歳であった詩人の杜藩芳格は、当時の偽らざ

る心境を臼記に次のように書いている。

f今日我等女性、十名、今後進方向会談為集合。最初始会合、我等願

望中華民国理想、之女性。修身、斉家、治国平天下、専修身修努力斉家遁

進理想。必要実践、論過不実無、内容充実、真剣当事、蒔種何時刈実、

努力有巳/通ずるかないか。が書き度い! 自分の留の言葉で! ! J

(1945年9月23日) 22

ここからは当時の若い位代の新しい時代への期待と、「自分の閣の言

葉Jである中国語を取り戻そうとする姿勢をみて取ることができる。

また、龍瑛宗は、戦後すぐに戦前の文学を「自己否定j して、「嘘の

あるところに文学はないJ、「文学の仮面を被った偽文学はあJったと述

べている。23

21 1933年の一部が中島利郎氏によって発掘され、 CDで国立台湾文学館・国立文化資産保存研究

中心喜葬儀処から発行されている。

22社主喜芳格箸『フォルモサ少女の日記』総和社、 2000.9

23 r文学J(『新新』創刊号、 1945.11.10)参照。

91

戦後の台湾文学は、このような「自己否定Jのなかから、台湾文化の

再構築に向かつて歩みだした。楊遣が、自身の作品「新聞配達夫jをは

じめ、魯迅や茅盾らの中国の近代作家の作品を「中日文対燕中国文芸叢

書jのようなかたちで出版し、呉濁流が『アジアの孤児』の原型となっ

た『胡志明』(全5巻、但し、第5巻未刊行。その後原稿散逸)を出す

など、多くの台湾人作家が活躍した。さらに大陸からも多数の文化工作

者が台湾に渡り、実に多様で活発な文学活動が展開された。新聞では、

『台湾新生報』「副刊文芸」や間報「副刊橋J、また龍瑛宗編集にかかる

『中華日報』「日文楠jがあり、雑誌では台湾文化協進会の『台湾文化』

や『新新』など多数の雑誌が刊行されている。 24

葉芸芸の「試論戦後初期的台湾智識?子及其文学活動(一九四五~四

九)」(『文季』 11、1985.6)は、この方面の研究に先鞭をつけた研究で

あり、近年では黄英哲の『台湾文化再構築1945~1947の光と影』(創

土社、 1999.9)のような研究成果が出ている。さらにここ数年、この

時期に出た雑誌の復刻が盛んとなり、研究環境が次第に整えられつつあ

る。復刻された雑誌には、『台湾文化』や『新新』、『政経報』、『新知識』、

『前鋒』、『台湾評論』、『創作』、『文化交流』などがある。また、これま

で未発掘であった大陸の資料を駆使した研究も進み、研究がますます重

膚的かつ多面的になってきている。研究時期の範菌も、二二八事件から

1949年の四六事件、さらに 50年代の白色テロへと広がっている。主

な研究や文学者の回想に、張光直『蕃薯人的故事』(聯経出版事業公司、

1998.1)、F東映真・曽健民『台湾文学問題論議集』(人間出版社、 1999.9)、

活泉『遥念台湾《抱泉散文集》』(人間出版社、 2000.2)、横地剛『南天

24拙稿「戦後初期台湾文芸界の概観(一九四五年から四九年)J(『文学で読む台湾』田畑書店、

1994.1)参照。

92

の虹』(藍天文芸出版社、 2001.3)、張麗敏『雷石撒人生之路』(河北大

学出版社、 2002.7)などがある。 25

ところで、戦後初期の文学状況について、錨肇政はかつて次のような

興味深いことを述べている。 26

「地域文化の成長は通常、たての継承とよこの交流によって形成され

促進されるものであるが、台湾では事情がややことなっているようであ

る。つまり二十年来の台湾文学の縦の継承がほとんどなく、よこの交流

というよりも、全くの移植であったという方が妥当であろう。J

これは、 1966年の時点で台湾文学の戦後20年を振り返ったときに

述べたものだが、さらに、次のように述べている。

「しばらく日の目を見ることが出来なかった白話文作家たちは、今こ

そはなぱなしく文壇にカムバックして創作に精出すものと期待された。

しかし残念ながらこの期待は見事に裏切られたのである。光復直後の

一、三年間、筆者はこの人達のカムバックを見ることが出来なかった。j

鍾肇政がここで述べているように、戦前の皇民化運動のなかで筆を

折った中国語作家たちは、戦後中国語の世界が戻ってきたにもかかわら

ず、実際ほとんど再起しなかった。 27その原因についてはまだ十分な説

明がなされておらず、今後の研究が侠たれるところである。ただ、鍾肇

政が述べた「縦の継承Jについては、先述したように研究が進み、この

持期がかつて一部の台湾文学研究者が述べたような「空白期」では決し

てなく、日本語作家によって f縦の継承」が行なわれようとしていたこ

25詳しくは注 (17)の松永論文参照。

26「二十年来の台湾文学」(『今日之中国』 1966.2)参照。

27注(9)にあげた『日本統治期台湾文学 台湾人作家作品集日lj巻』によって調べた結果、漢文作

家で戦後小説を発表したのは楊守怒のみである。本論の最後に(補注)[主な漢文作家の戦後の

状況調査一覧]を掲げた。

93

とが知られるようになった。「よこの交流Jについても、戦後初期にお

いては、『台湾文化』を発行した台湾文化協進会 (1946年6月16日成

立)の活動をはじめ、実はかなり活発であったことが、前掲した黄英哲

の研究などによってかなり明らかにされるよつになった。

戦後、中華民間になってからの台湾文学が、台湾人作家たちにとって

日本時代とはまたちがった苦難の道を歩むことを強いられるようになっ

たのは、一つは言語の問題であり、もう一つは先に引用文のなかで鍾肇

政が述べた「全くの移植j の問題である。

戦後、日本語の使用が禁止されたのは、光復 1周年の 1946年 10月

25日からである。戦後の台湾の統治は、台湾省行政長官公署によって

行われたが、長官陳儀は光復 1年で台湾人から日本語を取りあげてし

まった。この措罷に対する台湾人作家の抗議は、当時さまざまなメディ

アで表明されたが、民間の雑誌『新新』(1946.9)でも「談台湾文化的

前途Jと銘打つ座談会を開き、蘇新、王白j閥、黄得時、張冬芳、李石撫、

王井泉、劉春木、林博秋、張美恵の9名が参加して台湾文化と言語の問

題に対する議論を展開している。なお、同誌で、 f関於『日文欄廃止』民

意測験、歓迎読者填就意見即臼寄下、此項誤Jj験結果我ュ7将送給当局参

考jとして「日文欄廃止」に関するアンケートが行なわれているのが興

味深い。アンケートの結果がどうであったのか、寡聞にしてその記録を

みないが、日本統治時代に日本語教育を受けた台湾の人々にとって、言

語の転換は深刻な開題であったことがよく理解できるできごとである。

先にみたように、「光復J直後はあれほど祖国中国への期待を持った

台湾人の青年や既成作家も、こうした台湾人に対する措置や蔑視に、 1

年もすると疑問や不信感をつのらせていった。そして、 1947年に二二

八事件が発生するといっそう外省人と本省人とのあいだに大きな溝が生

じ、ついには戦後の中華民国体制に深刻な省籍矛盾が形作られていくこ

94

とになった。

1949年5月には戒厳令が布かれ、 12月には蒋介石率いる国民党政府

の遷台が行なわれて、 50年代の白色テロの時代が到来する。台湾作家

はこれ以降ほとんど沈黙し、既述したように外省人の反共文学や郷愁文

学が台湾の文壇を支配した。鍾肇政のいう「全くの移植jとは、このよ

うな状祝下における中国文学の移植を指している。

現代台湾文学の発展一台湾文学研究を中心に

このように50年代に入ると、台湾文学は、外省人の既成作家の反共

文学や大陸への郷愁文学が中心となる。このような文学状況は、 1950

年6月の朝鮮戦争勃発によって台湾海峡がアメリカの第七艦隊によって

封鎖され、台湾に一時的な安定がもたらされたことによって生まれた。

55年には、蒋介石によって「戦闘文芸Jが提唱されたが、このような

f大陸反攻Jの戦闘ムードのなかで、夏済安は翌年の 56年に純文芸の

『文学雑誌』を創刊した。この雑誌は、次の時代のモダニズム文学の先

駆をなす役割を担ったものとして異彩を放っている。

その後、台湾の文学は、大雑把に述べると、 60年代の西洋モダニズ

ム文学の受容、 70年代のモダニズム批判、そして70年代後半の郷土文

学論争を経て、 80年代のリアリズム文学の重視へと発展していく。こ

の問、多数の文学雑誌が刊行されたが、 60年代に刊行された代表的な

ものには、白先勇主宰の『現代文学』(1960年創刊)、呉濁流主宰の『台

湾文芸』(1964年創刊)、詩誌の『笠』 (1964年創刊)、林海音主宰の

『純文学』 (1967年創刊)、などがある。その他1977年の郷土文学論争

に影響を与えたり、論戦の舞台となったりした雑誌には、『前衛』(1965

年創刊)、『文学季刊』 (1966年創刊)、『大学雑誌』(1968年創刊)、『文

学双月刊』 (1971年創刊)、『文季』 (1973'.tf三創刊)、『夏期』 (1976年

95

創刊)などがある。

ここで視点を変えて、 60年代についてみると、 60年代は次のような

点で興味深い。

一つは、 60年代に台湾文学の叢書が出されていることである。今日

からみれば、これは台湾文学の発展のうえで極めて意義深い出版であっ

た。すなわち、『本省籍作家作品選集』(文壇社、 1965年)全 10冊と

『台湾省青年文学叢書』(幼獅書店、 1965年)全10冊の計20聞である

が、いずれも鍾肇政の編集によって実現した。今後、台湾文学研究のう

えで、この二つの叢書に収録された台湾作家がその後どのような作品を

生み出していったのか、改めて考察してみる必要があろう。なお、先に

引いた鍾肇政の「二十年来の台湾文学Jは、これらの叢書に収録された

作家と作品を解説したものである。

もう一つは、 60年代は頭脳流出の時代であるとも言われ、多くの優

秀な大学生が台湾の大学を卒業後、海外を目指したことである。特にア

メリカに留学した留学生のなかには多数の文学関係者も含まれていた。

白先勇、於梨華、陳若蟻、杜国清(但し、最初は日本留学)、許達然、張

系菌、欧陽子、鄭愁予らはこの時代にアメリカに渡った。大学の教授の

職に就いて、そのままアメリカ国籍や永住権を取った者も多い。その

他、話華苓、東方自、楊牧、黄娼などの作家がアメリカやカナダで文学

活動に従事している。こうした作家たちの文学を、台湾文学としてみる

のか、あるいは台湾系アメリカ人かもしくは中国系アメリカ人として華

人文学や華文文学として捉えるのか、今日新たな問題として浮かび上

がってきている。

70年代は、台湾の国際社会における地位が一挙に低落した時代であ

る。 1971年10丹、中華人民共和国が国連に加盟、 72年2月、米中共

同コミュニケ発表、同年9月、日中国交正常化と日華和平条約廃棄、そ

96

して79年1丹にはアメリカと国交断絶にいたる。こうしたなかで、大

学生、知識人は危機感を深めていった。同時に台湾島内の人々とアメリ

力、日本、その他の海外に住む人々とのあいだに、危機感の共有や連帯

感が生まれた時代でもあり、台湾文学は、この時期に空間的な広がりの

うえで飛躍的な発展を遂げることになった。先述した郷土文学論争には

海外からの応戦も加わり、台湾の文学界には言論に活気が躍りはじめた

のである。台湾文学の研究が盛んになるのもちょうどこの時期である。

ここで、戦後の台湾文学研究史を振り返ると、 50年代に、日本統治

期の台湾文学が関係者によって回顧されている。その回顧は、『台北文

物』の3巻2号 (1954年8月)と 3巻3号(同年 12月)に、特集 f新

文学、新劇運動専号」および「新文学、新劇運動専号続集jとして編ま

れ、いまも貴重な文献としての価値を失っていない。戦後の台湾文学に

ついては、中華民国時代の20年間に活躍した作家と作品について概説

した、鍾肇政の「二十年来の台湾文学」(前掲)が便利な手引きとなっ

ている。

ところで、日本統治期の台湾文学は、前述したように50年代以陣の

中国文学の f全くの移植」のもとで、完全に f縦の継承jが断たれてし

まった。その意味するところは、前述したような日本統治時期の台湾文

学について、細々とした回顧はあっても、実際の作品はまるで読むこと

ができなくなった、つまり、中華民国になって、戦後世代の台湾人は、

歴史の記憶が断たれた状況に長く置かれてきたということである。

では、このような状況のなかで、台湾の人々が日本統治期の作品を直

に読むことができるようになったのは、いつ頃からだろうか。それは、

1976年頃からで、雑誌『夏期』に楊遼や呂赫若、頼和、張文環、呉濁

流らの作品が取り上げられて、その存在が少しずつ知られるようになっ

ていった。

97

またこの時期に台湾文学研究の開拓者として活躍したのが張良沢であ

る。張良沢は、台湾文学の研究が、戒厳令のもとで正当な学問対象と

なっていない、いわば研究それ自体がタブーであった時代から、埋もれ

た台湾作家の資料を蒐集して大部な作品集や全集にまとめていった。張

良沢によって出版された全集には、『鍾理和全集』全8巻(遠景出版社、

1976.11)、『呉濁流作品集』全6巻(遠行出版社、 1977.9)、『王詩現全

集』全11巻(徳馨室遠景出版社、 1979.6)、『呉新栄全集』全8巻(遠

景出版社、 1981.10)がある。

こうした動きのなかで、 1979年には、次の台湾文学の全集が出版さ

れた。

李南衡編『日拠下台湾新文学』全5巻、明揮出版、 1979年3月

葉石濡・鍾肇政編『光復前台湾文学全集』全10巻、遠景出版社、 1979

年7月(第9巻と第 10巻は、詩巻で羊子喬、陳千武編にかかり 1982

年5丹の出版)

なお、上にあげた全集や資料集は、戒厳令下という時代的な制約が

あったためか、部分的な原資料の書き換えや、意図的な削除などがあり

(例えば、当時は「魯迅」はタブーであったため、魯迅の名前が出てく

るものの出版は、「魯迅jの名前を削除したり、名前を書き換えたりし

て出版した)、その点への留意が必要である。

台湾では、このようにして徐々に台湾文学研究の成果が世に問われて

いったが、奇しくもちょうどこの時期に中国大陸でも台湾の作品が雑誌

に転載されたり、作品集が出版されるようになった。最初に中国の文芸

雑誌に転載されたのは高華苓の「愛国奨券J(『上海文学』 1979.3)で

あり、作品集は12月に人民文学出版社から『台湾小説選Jが出された。

中国大陸でこうした動きが出てきたのは、この年の1月1日に中国全

国人民代表常務院会から「台湾同胞に告ぐる書jが公表されたことと関

98

係している。これ以降、中国大陸では、台湾文学研究は、台湾統一のた

めの重点研究として推し進められていく。

こうした流れのなかで第1回台湾香港文学学術討論会が、 1982年に

広東の聾南大学で開催され、はじめて台湾文学が香港文学と並んで中国

大陸の学会で検討されるようになった。その後は、杜国清の f中国と世

界華人文学J(『未名』 15、1997.3)によると、中国大陸の学会では、些

かの変選を経ながら、 1993年の第6国以降は、台湾文学は f世界華文

文学Jのなかで論じられるようになった。ちなみに、第6回の学会は

「世界華文文学国際研討会j と名付けられている。

ここでまた台湾内部の研究状況に立ち戻ると、先述した『日拠下台湾

新文学』および『光復前台湾文学全集』に日本語の文献や作品は、みな

翻訳されて収録されている。このような翻訳は、日本統治期の文学を戦

後世代が共有するためにどうしても必要な作業であったが、文学研究に

とってはあくまで原文が第一次資料となる。このような要望に応えるか

のように、 1981年3月に東方文化書局から f台湾新文学雑誌叢干IJJ全

17巻が後刻された。28散逸して失われたままの一部のプロレタリア文学

雑誌や大型の通俗文学雑誌が入っていないが、日本統治期に出た基本的

な文学雑誌は収められている。この叢刊の出版によって、台湾文学研究

は一気に加速されたと言っても過言ではない。

以上のように台湾文学研究は戒厳令下で、作家や在野の研究者によっ

て細々と行なわれてきた。と同時に、このような台湾文学研究の動きの

なかで、戦後ずっと沈黙してきた既成作家もまた徐々に重い口を開きはじ

め、台湾文学研究の発展に大きく寄与することとなった。呉濁流、呉新

28この叢刊の雑誌総包として、中島利郎編『日拠時期i台湾文学雑誌総目・人名作品』(前衛出版社、

1995.3)がある。

99

栄、楊達、龍瑛宗、張文環、施学習、呉坤煙、鶴捷、 616永福、呉捜沙、

郭水湾、陳垂映、王和雄、周金波、楊千鶴、郭啓賢、陳千武らの既成作

家たちである。

台湾文学研究が今自みるように市民権を得て、学術研究対象としての

位置を占めるようになったのは、政治のうえでも「台湾の本土化Jが進

んだ1987年7月の戒厳令解賂以蜂である。県政府や市政府、さらに中

央政府でも台湾文学および台湾文化の保存や発掘に力を注ぐようにな

り、さまざまな出版物が出た。管見した範聞で掲げると次のようなもの

がある。但し、この種の出版は、非売品扱いとなっているため一般には

入手が国難である。

台南市政府は『南台湾文学一台南市作家作品叢書』(台南市立芸術中

心)と『府域文学奨得奨作品専集』(開)を 1995年から出版、 2001年

に第7輯を出した。台南県政府は出版開始年度は不詳だが、『南蔵文化

叢書』(台南県文化局)や『南巌作家作品集』(台南県立文化中心)を出

版、彰イ七県政府は『彰化県立文化中心出版叢書』(彰化県文化中心)を

1984年から、さらに彰化県作家作品集を出版し、そのなかには頼和研

究資料が3冊含まれている。高雄県政府は『鍾理和全集』(高雄県立文

化中心、 1997)を、合北県政府は『北台湾文学台北県作家作品集』(台

北県政府文化局、出版開始年度不詳)や『王和雄全集』(台北県政府文

化局、 2002.10)を出版している。台中県立文化中心からは『台中県文

学発展史』(1995.6)や『陳垂映集』全β巻 (1999.11)、『張文環全集』

全8巻(2002.3)が出版されている。新竹県文化局からは『呉濁流百

年誕辰紀念専刊』(2000.12)が出ている。他に、『楊遼全集』全 13巻

(国立文化資産保存研究中心簿備処、 1998.6-91.12)が出版されてい

る。台湾省文建委員会と賠団法人頼和文教基金会からは共同で『頼和手

稿集』全5巻(2000.5)が出版されている。

JOO

また、民間の出版としては、『~永福全集』全 17 巻({専神福音文化

事業有限公司、 1996.5)、や『張深切全集』全 12巻(文経出版社有限

公司、 1998.1)、『菜培火集』全7巻(呉三連台湾史料基金会、 2000.12)、

『頼和全集』全5巻(前衛出販社、 2001.12)が出ている。

1987年以降、すなわち戒厳令解除後の台湾文学

ある人が言った。「1987年以後が台湾の戦後だJと。

この言葉は極めて情緒的なものだが、戒厳令によって 38年間にわ

たって抑圧されてきた言論の自由が、 1987年になってようやく解放さ

れるに至ったという感慨と、台湾の将来を決するのはこれからだという

気持を込めて語られた言葉であろう。

事実、 f解厳以後J(この言葉は中国語であるが、戒厳令解除以後とい

う意味でよく使われる言葉である)は、 88年に「禁報J解除(新開発

行の解禁)となり一気に言論の自由が進んで、台湾の将来に関する発言

も、独立か統一か自由に論ずることができるようになった。北京政府と

の関係や国際政治を無視して自由にどちらかを選ぶことができるわけで

はないことは、これまでと何ら変わらない。ただ、個人が独立を主張し

たからといって逮捕、投獄されるということはなくなった。ちなみに

「台湾監獄島」と呼ばれ多数の政治犯がいた台湾で、政治犯のほとんど

が釈放されたのは 1993年である。

このように「解厳以後Jは吉論の自由が保障されるようになったが、

文学の様相も一変した。これまではある意味では、台湾文学は政治のタ

ブーに挑戦するかたちで題材を広げてきたが、いまやいわばあらゆるタ

ブーがなくなり、却って文学の使命を見失い、混迷の時代を迎えたよう

な感がある。書店では性の描写の追及や同性愛を描く作品が目立つのは

そうした台湾社会のあらわれとも言えよう。

IOI

台湾文学研究について言えば、 90年代に大きく前進している。 1997

年には、大学で台湾最初の学科すなわち「台湾文学学科」が創設された。

学科が設置された真理大学は私立大学だが、 2000年には、国立大学の

成功大学に台湾文学研究所が創設された。この研究所は、当初、碩士

(日本の修士)課程だけであったが、 2002年からは、学科と博士課程が

増設された。台湾ではじめて、学部から博士まで9年間の一貫した課程

が完備された台湾文学の教育機関が生まれたのである。

その他、国立清華大学や政治大学にも台湾文学の頚士課程が新設され

るなど、台湾文学は、次第に大学という研究機関で教育される正当な学

問対象としての地位を確立するようになったのである。

台湾原住民文学

最後に、藤住民族の文学について触れておきたい。

台湾は今自、人口2200万を越すが、人口構成は、本省人と呼ばれる

福{老人(75%)と客家人(13%)、それから外省人(10%)、そして原

住民族(2%)の四つのエスニックグループ(族群)からなっている。

台湾の先住民族は、このわずか 2%、すなわち40万強の原住民族の

人々である。彼らは、 400年前から台湾島に移民をはじめた漢民族より

も蓬か昔から台湾に住んでいる。台湾文学は、今日この原住民族の文学

を考えなければ、正確な台湾文学史が書けないほどになり、新しい文学

観が求められている。

台湾原住民文学は、 80年代の台湾の民主化のなかから誕生した。

1984年には台湾原住民権利促進会が創設され、原住民文学は台湾文学

のまさにニューウエーブとして台頭してきた。もちろん原住民族には、

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もともと豊かな神話伝説や口承文芸が存在するPさらに60年代には、

『新文芸月刊』、『幼獅文芸』、『文芸月刊』、『台湾文芸』などに作品を発

表し、 71年7月に作品集『域外夢痕』(台湾商務院書館)を上梓したパ

イワン族の陳英雄のような特筆すべき作家がいる。しかし、原住民作家

の作品が今日のような原住民文学として大きな力量を持つまでになるに

は、 80年代を侯たねばならなかった。

原住民族はいま 12族を数える。従来の9族、すなわちタイヤル、サ

イシャット、ブヌン、ツォウ、プユマ、パイワン、ルカイ、アミ、タオ

(ヤミ)に、新たにサオ族とクパラン族、そしてタロコ族が加わった。彼

らは、お互いに言語が異なっていて、共通語は日本統治時代には日本

語、現在は漢語である。彼らの創作活動は主として漢語で行なわれる。

なかにはタイヤル語やタオ語など、母語で表現する作家もいるが、多く

は漢語を使用する。なお、孫大川編にかかる『台湾台湾原住民族漢語文

学選集』全7巻が、 2003年4月にINKから出版されている。全7巻は、

『小説巻』上・下、『散文巻』上・下、『評論巻』上・下、そして『詩歌

巻』 1巻からなっている。

代表的な作家や詩人に、ブヌン族のトパス・タナピマ、パイワン族の

モ一ナノン、タイヤル族のワリス・ノカン、タオ族のシャマン・ラポガ

ン、パイワン族のリカラッ・アウーなどがいて、ほぽ各族から作家が生

まれ、いまや優に20名を超す勢いである。約40万の人口からすると、

決して少なくない人数である。

先述したように、台湾文学の研究を進めるうえで、今後、原住民文学

は大きなテーマとして様々に論じられる研究領域になることは間違いな

29神話伝説や口承文芸については、日本統治時代に文化人類学者が中心となって採集し、代表的

な著作には、佐山融吉・大西吉察著『生蕃伝説集』(杉田重蔵書店、 1923.11)、小JII尚義・浅井

恵倫著『原語による台湾高砂族伝説集』(刀江書院、 1935)がある。

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いところである。30

(補注)[主な漢文作家の戦後の状況調査一覧]

出身地・生年

台南州元長

備考

戦後不明

台湾省通志館顧問委員

没年

不明一桐

名一愁

家一作

・ 1900.4.18 奈

不明

戦後は2震を折り、茶業輸出

戦前没

彰化工業学校教師、戦後断筆

戦後は筆を断ち、商売に従事

随筆、民俗関係の文章のみ

編輯など、小説の発表なし

戦前没

1965.9.25 ・ 1896 彰化県虚谷陳

不明

1980.3.19

生い立ち不明人

秋生

溌一郭一頼 1943.1.31

1981 (注)

・ 1894.5.28

・1909

・ 1909.7.25

手羽

問問一齢一般

頼一林一尚 1960 ・ 1910

1984.11.6 ・ 1908.2.26 台北市高華

台北

詩現王

1936.5.30

1946、48年に小説2編発表

評論・論文多数

戦後、小説の発表なし

不明

金融機関に勤務

1959.4.8

2000.8.6

台北県新庄鎮・ 1904.2.18

彰化街

彰化街

台中県豊原

台南

・ 1900

• 1905.3.9

・ 1906.10.17

1975 ・ 1898

不明-生年不明

彰化

合北布市林

鹿港

台南州新化

台北県板橋

書E楊

F乱

慶堂張

1955.11.3 ・ 1902.10.7 我If[5長

(注)頼繋穎については、朱宜現「理想幻滅、帰乎平静一一頼賢穎生平及其(稲熱病)

初探J(『文学台湾』 47、2003.7)を参照した。

1949年銃殺1949 ・ 1903 台北市寓薬点入朱

30台湾原住民文学の翻訳書には、呉錦発編著・呉蒸ほか訳、下村作次郎監訳・解説『悲僚の山地

台湾台湾原住民小説選』(田畑書店、 1992.11)と『台湾原住民文学選』全5巻(草風館、 2002.122004.5予定)がある。なお、全5巻は、『名前を返せ モ一ナノン/トパス・タナピマ集』(下

村作次郎編訳・解説、 2002.12)、『故郷に生きる リカラッ・アウー/シャマン・ラポガン集』

(魚住悦子縞訳・解説、 2003.3)、『永遠の山地 ワリス・ノカン集』(中村ふじゑほか訳・小林

岳二解説、 2003.11)、『海よ山よ 諸家集』(柳本通彦ほか編訳、柳本通彦解説、 2004近刊)、『椅I々 の物語』(土田滋・孫大)||・山田仁史編訳、山間仁史解説、 2004近刊)からなる。

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{付記}本稿は、平成 14年度科学研究費補助金基盤研究(A)「環太平

洋留の華文文学に関する基礎的研究J(代表 山由敬三教授)に

よる成果の一部である。

なお、本稿の一部(「二人の文学者の歩みj から「戦後初期j ま

で)は、 2003年 12月26日・ 27日の両日、台湾の真理大学麻豆

校区で開催された第一崩台湾文学輿語言国際学術研討会議で

「我所認識的台湾文学j と題して報告した。

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