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- 102 - 新島八重と茶の湯 大 越 哲 仁 はじめに 八重が女流茶人として生きたのは、1894年の裏千家入門から1932(昭 和7)年の逝去までの38年に及ぶ。したがって、八重の全体像を理解す るには、茶人としての八重を理解する必要がある。 しかし、現在までの先行研究は、筒井紘一氏と廣瀬千紗子氏の研究の 他、本井康博氏の一連の著作での論考と吉海直人氏の史料発掘の労作 1) など数える程度である。 そこで今回、私は、先行研究を参考にしながら、八重と茶の湯の関係 を包括的に論じたい。それは、愛夫襄逝去後の八重の後半生を論じるこ とにもなるからである 2) 1.茶人の子孫としての八重 会津の郷土史家・宮崎十三八氏によれば 3) 、会津藩山本家の遠祖は、 武田信玄の軍師である道鬼斎山本勘介晴幸(勘助・晴行)であるという 先祖からの言い伝えがあったという 4) 山本勘介といえば、賴山陽の『日本外史』にも登場する著名な武人で あり、軍師だった。 その著名な武人を先祖に持つことを八重の兄の覚馬も意識していたよ うだ。それは、覚馬の元服名が山本覚馬良晴であり、代々受け継いでい る「良」とともに勘介晴幸の「晴」の一字がそこにあることから明らか である 5) 覚馬・八重兄妹の先祖が山本勘介であるという言い伝えは、二人の家

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新島八重と茶の湯

大 越 哲 仁

はじめに

 八重が女流茶人として生きたのは、1894年の裏千家入門から1932(昭和7)年の逝去までの38年に及ぶ。したがって、八重の全体像を理解するには、茶人としての八重を理解する必要がある。 しかし、現在までの先行研究は、筒井紘一氏と廣瀬千紗子氏の研究の他、本井康博氏の一連の著作での論考と吉海直人氏の史料発掘の労作1)

など数える程度である。 そこで今回、私は、先行研究を参考にしながら、八重と茶の湯の関係を包括的に論じたい。それは、愛夫襄逝去後の八重の後半生を論じることにもなるからである2)。

1.茶人の子孫としての八重

 会津の郷土史家・宮崎十三八氏によれば3)、会津藩山本家の遠祖は、武田信玄の軍師である道鬼斎山本勘介晴幸(勘助・晴行)であるという先祖からの言い伝えがあったという4)。 山本勘介といえば、賴山陽の『日本外史』にも登場する著名な武人であり、軍師だった。 その著名な武人を先祖に持つことを八重の兄の覚馬も意識していたようだ。それは、覚馬の元服名が山本覚馬良晴であり、代々受け継いでいる「良」とともに勘介晴幸の「晴」の一字がそこにあることから明らかである5)。 覚馬・八重兄妹の先祖が山本勘介であるという言い伝えは、二人の家

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系の系譜である「山本平左右衛門系譜」における七代前の先祖・山本道珍良次の時代には、すでにそれが同家に伝わっていたということである6)。この山本道珍良次は、祖父である山本与一郎道句、父山本道寿と、三代続いた著名な茶人であった。 道句は、「利休七哲」(千利休の武将の門人)の一人である古田織部や、織部の弟子の小堀遠州に学んだ茶人である。 古田織部は、利休の賜死の後、茶の湯の世界の第一人者となったが、織部が大坂の陣の直後、豊臣側に内通した嫌疑により切腹すると、彼の弟子の中で小堀遠州が頭角を現し、茶の湯の世界をリードすることになる。道句もまた、遠州流の茶人として徳川家康・秀忠の徳川宗家二代に仕え、その後、尾張徳川家の茶師兼庭師となった7)。 道句の孫の道珍は祖父に可愛がられ、道句の尽力によって、三歳の時に家光を通してその異母弟の保科正之に預けられたという8)。 そのために道珍は会津保科家に仕えることになり、1698(元禄11)年には49歳で茶道長に就任、会津遠州流の茶祖となった9)。 覚馬と八重の家系は、この道珍の次男・左平良永の時に分家して出来たそれであり、左平は茶人ではなく一般の武士となって、後、武官、特に馬術の師範を務めることになった。そして、二人の祖父・権八良高の時に砲術師範となってからは、父繁之助権八と続いて砲術師範の家系となった10)。 したがって、覚馬が山本勘助を遠祖としたのは、茶人の道珍が先祖であるという認識を前提とするものであり、当時の武家とは家長の家柄と系譜を最も重んじるものであることから、当然、八重もまた、自分は茶人の子孫であるという認識を持っていたと考えられる。

2.八重の籠城戦と麟閣

 周知の通り、八重は1868年10月8日から11月6日(慶応4年8月23日~明治元年9月22日)11)までの約1ヶ月間、夫の川崎尚之助や家族とともに鶴ヶ城に籠城し、新政府軍と戦っている。

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 鶴ヶ城は、1384(至徳元)年に芦名直盛によって創営された東黒川館をはじまりとするが、蒲生氏郷入城後、黒川を若松に、城の名も鶴ヶ城と改めて七層の壮大な城郭を建設した。のち、幕命により七層の天守閣は五層に改められるが(1639年)、縄張りは氏郷の建設当時のものである。 氏郷は、織部とともに「利休七哲」の一人であり、茶の湯に対する愛着と造詣が深い大名であった。そのためであろう、その鶴ヶ城には本丸御殿の東側に茶壺櫓が建てられた。茶壺櫓は、茶壺や茶道具、更には武器が収容された二重の塗込櫓である。そして、茶壺櫓の西側の本丸奥御殿内には、茶室「麟閣」が建てられていた。 この麟閣は、今日も続く三千家発祥の由来を示す重要な茶室である。 千利休が秀吉に賜死された(1591年)後、氏郷は千家の茶の湯が途絶えることを惜しみ、利休の子・少庵の身柄を引き受けて会津にかくまう12)。麟閣は、少庵が会津滞在中に鶴ヶ城本丸内に建てられた茶室であった。 この茶室は、少庵が建てたという説13)と、氏郷が少庵のために建てたという説14)の二説があるが、いずれの説でも、茶室の赤松の床柱は少庵自らが削ったという伝承を伝えている。 二年半以上会津にかくまわれた少庵は、家康と氏郷のとりなしで秀吉から赦免されて京に戻り、大徳寺に入っていた子の宗旦とともに京千家の再興に乗り出す。そして、宗旦の三人の子の宗守、宗左、宗室が、それぞれ、官休庵・武者小路千家、不審庵・表千家、今日庵・裏千家の三千家を興したのである。 この茶の湯の歴史において極めて重要な麟閣は、会津籠城戦の時点でも良く保存されて本丸内にあった。だからそれは、近くにあった茶壺櫓と共に、本丸内に1ヶ月籠城した八重たち婦女子の記憶に鮮明に残っていたはずなのである。もちろん、籠城中に茶を楽しむ贅沢は無かったであろうが、「平和であれば、茶の湯の稽古もできたものを」という思いとともに会津の教養ある武家の娘たちは、それを見詰めていたはずなのである。

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 後年、八重が茶人となり、奥義・「真之行台子傳法」の許状を得た後、彼女は、収集していた「利休宗易大居士筆始代々之筆軸物惣〆三拾四幅」を裏千家家元の圓能斎に寄贈している。 八重がわざわざ利休や千家代々の家元の書を集めていて、それを裏千家に贈ったところに、利休=織部=遠州に連なる自己の先祖の茶人、道句・道珍を意識し、また、籠城戦の間に本丸内にあった麟閣・茶壺櫓を見て、少庵を守り千家の興隆を導いた蒲生氏郷についても思いを馳せていた彼女の心情が伺われるのである。

3. 茶の湯と茶道

 ところで、私は意図的に本論考の標題に「茶道」という言葉を使わずに「茶の湯」という言葉を用い、これまでの論述でもそれを用いてきた。それは、茶道と茶の湯は共通の意味概念を指す一方、それぞれが密接に関連しつつも、厳密には異なる概念を指す場合があり、私はその異なるところに着目しているからである。 両者の異なる意味概念を述べる前に指摘しなければならないことは、現代の日本人にとっては茶道という言葉が一般的であるのに対して、利休の生きた時代では、茶の湯という言葉が主流であったことである。 それは、1587年に秀吉が行った北野の大茶会の高札に「於北野森、十月朔日より十日の間に、天気次第に可被成御茶湯」15)とあることや、利休が秀吉から死を賜る契機となった大徳寺の利休の木像の事件を伝える1591年の文書に「茶湯之天下一宗易〔利休〕」16)とあることから明らかである。 実際、江戸時代にまとまったという、利休の教えを百の歌に顕した 「利休居士教諭百首詠」 では、茶道という言葉は現れず、「茶の湯とは 只湯を沸し茶を點て〔て〕飲計〔ばかり〕なる事と知るべし」というように、茶の湯という言葉が登場している17)。

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 それでは、茶の湯と茶道の間で相違する意味概念とは何であろうか。 これに関して、広辞苑(第3版)では次のように説明する。すなわち、

「茶の湯(ちゃのゆ)」とは「客を招いて抹茶を立て、懐石の饗応などをすること。茶会、茶の会(え)」であり、一方、「茶道(ちゃどう、さどう)」とは、「茶の湯によって精神を修養し、これを他人と行って交際礼法を極める道」である。これを私なりにまとめれば、茶の湯とは、亭主が客を饗応し、客と共に茶を楽しむことであり、茶道とは、そのような茶の湯の精神や技能を学ぶことによる心身の鍛練ということができよう。

直心の交わり-茶の湯とは、亭主と客の間に心の交流と平和をもたらすもの   茶の湯の成立について、徳富蘇峰は『近世日本国民史』で次のように述べている。

 〔桃山時代の〕茶の湯の流行は、足利義政以来と云うべきであろう。足利氏の末期に於いても、茶の湯は実に殺伐社会以外、平和なる人心を宿する、一種の隠れ家となった。しかして、武将も、朝紳も、富商も、あらゆる上流階級は、皆この茶の湯に於いて、相互の協和点を見いだした18)。

 彼〔秀吉〕は茶の湯をもって、天下を平治するの道具とした。〔略〕秀吉が茶の湯をもって、殺伐なる人心を和らげ、乱を好む覇気を閉ざして平和を楽しむ耽溺気分を誘うた19)。

 一方の現代、今日庵(裏千家)文庫長の筒井紘一氏は、茶の湯とは、「多くの道具を使いながら、心の交流を果たすことで成り立っている世界」であると総括している20)。 蘇峰や筒井氏の議論をまとめれば、「茶の湯とは、亭主と客との間に心の交流と平和をもたらすもの」と定義できる。事実、利休は、この亭主と客どうしの清らかで正しい心の交わりを「直心の交わり」と呼んで

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茶の湯の本意とした21)。 そして、この意味の茶の湯という言葉は、千家の子孫も継承して現代に至っている。それは、現代の三千家がそれぞれ、「茶の湯のこころと美」

(表千家)、「茶の湯に出会う、日本に出会う」(裏千家)、「茶の湯の伝授の普及に勤める」という表現で、茶の湯という言葉を伝えているとおりである22)。 私が、茶道ではなく、茶の湯というのも、まさに茶の湯における主客の直心の交わりの意味概念を重視したためであり、この意味の茶の湯は、八重と茶の湯の関係を理解する上で極めて重要になるのである。 現代の茶会と八重の時代までの茶事 ところで、昭和以降の一般的な茶会は、いわゆる大寄せ茶会といわれ、お茶とお菓子だけでもてなす茶会であって、茶券を求めれば、 誰でも参加できるものである23)。 しかし、八重の時代までの茶事、すなわち、利休の時代から江戸時代を通して明治・大正時代まで継承された茶会とは、食事や酒のついたお茶のもてなしであって、基本的に、客は三~五人程度の小規模なもので、亭主と客とは、極めて昵懇の間柄で行われたものであった。ただし、現代でも、家元や茶人はこの茶事を行っていることは勿論である。 その茶事は、季節や時間によって異なるが、時間帯で区分される暁の茶事、朝茶、正午茶事、夜咄。ほかに、茶事後の茶事である跡見茶事、お菓子だけの飯後茶事(お菓子の茶事)、不意の来客に対する臨時茶事の7種類ある(「茶事七式」)。このうち、正式な茶事は正午から始まる正午の茶事だが、これは4時間かけて、下のような流れで行われるものである24)。

<正午の茶事の流れ> 茶事は、懐石料理をいただく初座(しょざ)、休憩である中立(なかだち)、そしていよいよ濃茶・薄茶をいただく後座(ござ)に分かれる。

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【炉の時期(11月~ 4月)】待合(待合掛拝見、湯飲み)→腰掛→蹲(つくばい)でのみそぎ→

初座 席入→床(筆軸)拝見→釜拝見→炭手前→〔懐石:お膳→酒器→飯器→煮物椀→焼物鉢→飯器→強肴→石杯・徳利酒→箸洗(小吸物)→干鳥杯→お湯・漬物〕→主菓子(生菓子)→ 中立 (腰掛へ)→

後座 床(花)拝見→道具拝見→濃茶→後炭→干菓子→薄茶→退席 ※風炉の時期(5月~ 10月)は、炭点前が懐石料理と主菓子を頂  いた後に行われる。

 このような茶事は、茶の湯の修養をもとに、亭主が客を思い、和敬静寂の大きな主題の下に四季や個別事象のテーマを立て、そのテーマを演出する路地・茶室・軸・花・香・灯り・道具・懐石料理・酒・菓子・濃茶・薄茶の「五感・五味」のフルコースによって客に最高のもてなしを行い、自らも楽しんで、亭主と客が心の交流を行うという、千家によって完成された最も美的・総合的なおもてなしの会であって、いわば、「おもてなしのフルコース」とでも言うことが出来るものである。 これに対して、茶道は、本来、茶の湯と同意義のものではあるが、あえて、茶の湯と区別して稽古場で行われる実態に着目して言えば、そのような茶の湯の精神や技能に関する「アラカルトとしての手前の修養」と言うことが出来よう。 そして、茶会の主人を亭主といい、茶室で茶を飲む前に亭主が客と酒を酌み交わすことからも分かるとおり、茶事とは、それが確立された利休の時代以降、ずっと男性の世界で行われてきたものであった。 このような男性の世界に女性として飛び込んでいって、今日の女流茶人が主流となる茶道界が形成される土台を作ったのが、新島八重であった。そのことを端的に物語るのが、筒井紘一氏の『茶人交友抄』である。同書で紹介されている32人の茶人の中で女流茶人は新島八重だけが、第13代圓能斎の茶友として、最終章に登場するのである25)。

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4.八重の裏千家入門と許状

会津戦争終結から裏千家入門まで 1871年陰暦9月3日、八重は、京都の覚馬から招かれ、母佐久と兄覚馬の娘・みね、それに八重の実の姉と共に、当時滞在していた米沢藩士・内藤新一郎の家を出立、翌月、山本覚馬の家に入った。夫だった川崎尚之助は、会津藩の再興によって成立した斗南藩に向かったので、その頃に離縁したと考えられる。 翌1872年、八重は、覚馬の推薦で、彼の構想によって陰暦4月15日に設立された新英学校女紅場の権舎長兼機織教導試補に任命される。そして、八重は、その後の1875年11月、前月に新島と婚約したために免職になるまで同所に約3年半勤める。 この新英学校女紅場には、裏千家11代玄々斎の娘である真精院猶鹿(ゆか)が開校と同時に茶道師範として迎えられた。真精院は我が国の学校茶道に先鞭を付けた人として知られるが、この女紅場がその最初であった26)。そのために、八重は女紅場で猶鹿と知り合い、それが八重の裏千家との出会いになったとの指摘もある27)。 しかし、猶鹿は、新英学校女紅場開校の翌月(1872年陰暦5月)、駒吉(のちの13代圓能斎)を産んでおり28)、当時、乳児の死亡率は一割以上であって29)、母としては、まずは乳児を無事に成長させるのが専決であるから、八重が勤めている3年半の間はほとんど茶道師範として教授していないはずである。したがって、八重と猶鹿はそれほど懇意にはならなかったと考えられ、それが新島と出会う前に、八重が裏千家とほとんど関わりの無かったことの一つの背景を為していると考えられる。

 1890(明治23)年1月23日、夫の新島襄が逝去すると、八重は極度に落胆する。 八重は翌2月10日、夫襄の病発覚から逝去に至る迄を綴った手記(「亡愛夫襄の発病覚」)30)を著すが、そこでは、襄を「愛夫」、「最愛の夫」と呼び、次の言葉で締めくくっている

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 明治二十三年一月二十三日、最愛の夫は二時四十分此世を去る。妾の左手を枕となし、幾度呼びても答へなし。嗚呼、思ひ出せば涙の種、実に断腸々々 31)

 「七許三従」32)という妻だけが縛られる封建的な道徳律の弊風が濃厚で、夫と妻が絶対的に不平等であった当時、他人が読む文章で堂々と襄を「最愛の夫」と表現した八重に、因習にとらわれない彼女の強い勇気と、そう表現せざるを得ないほど襄を愛していた彼女の夫への強い感情が感じられる。そして、八重の「実に断腸々々」という言葉に、文字通り「最愛の夫」を亡くした八重の深い落胆を感じるのである。 翌月の3月5日、八重は、襄の逝去を心から悲しむ気持ちを訴える手紙を蘇峰に書き、「とてもかえらぬ事と存じながらも来し方行く末の事杯と思ひとかく不覚の泪にくれ居り申し候、此頃ハ庭前の梅花咲くとも香り無如くうぐひす来り啼くとも其声あはれニきこえ、時事物々心をいたましむ許りに御座候」、襄が死んでから「実ニ月日の立ハ矢の如四拾日餘り相成候へとも今ニゆめの様ニ思い居り申し候、〔夫は〕兼て病身ニ御座候間、かくあらんとは覚悟ハ致し居り候らへとも実ニ人生のはか無事せめて今三とせ〔三年〕とも此世ニながらへ置き度杯とくたらぬ事許り思ひ暮らし居り申し候」と、辛い心境を語る。しかしながら、「同志社の将来又大学校の事を存し候へハ、決してくつくつ致し居時ニ御座無く候間、是より勇気を出し亡夫の心さし〔志〕を相つき申し度候」との決意も示している33)。 しかし八重は、蘇峰に手紙を書いた前後から病気になり34)、三ヶ月後の6月に同志社神学校の学生が八重を訪ねた際も、八重は自ら「永く神経を疲労し、医命により出来る丈世事を棄つる様に」していると語っている35)。 そんな罹患中の4月26日付けで、八重は日本赤十字社の正社員になった。 日本赤十字社は、旧佐賀藩士で元老院議院の佐野常民が提唱してつ

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くった博愛社を前身とする。1887年、博愛社は政府の認可により日本赤十字社と社名を改め、前年に設置され、橋本綱常が初代院長となっていた博愛社病院も日本赤十字社病院と改称されている。 現在の赤十字社の事業は平時に様々な活動を行っているが、もともとの赤十字社の目的は「戦時ノ傷者病者ヲ救療愛護シ力メテ其苦患ヲ軽減スル」ことであり、そのために「平時ニ於テハ傷者病者ノ救護ニ適応スヘキ人員ヲ養成シ物品ヲ蒐集シ務メテ戦時ノ準備ヲ完全ナラシムル事」

(赤十字社社則)が主要な業務であった36)。そして、正社員については「年醵金三円以上拾弐円以下ヲ出ス者ハ之ヲ正社員トス」(同)とされていた37)。 すなわち、八重が赤十字社の正社員となったということは、赤十字の戦時傷病者救護という趣旨に賛同して「年醵金」を支払い始めたという意味であって、それは、病中であっても行える行為であったろうし、それだけをもって、八重が襄亡き後、赤十字の社員となって自らの新しい人生を切り開こうと考えて行った行為であるということはできない。 なぜ八重が赤十字社に寄付をしようと考えたのか、その理由は不明だが、八重と襄は赤十字病院の院長であった橋本綱常に大変に世話になっており、日赤病院は平時の診療活動をおこなうものではあるが、おなじ日赤であるから、橋本への謝意を示す意味で、八重は日赤に寄付をした可能性がある。 新島は、八重と東京に滞在中の1888年6月24日に橋本綱常に診察をしてもらい38)、逝去直前の1890年1月にも大磯で橋本の診察をうけている39)。特に、前者の橋本の診察は極めて重要である。八重の手記「亡愛夫襄発病ノ覚」に、後日、八重が渡辺一医師に呼ばれて、橋本の診断内容を伝言されたことが次のように記されているのである。

 七月二日、医師難波様より橋本〔綱常〕先生の伝言あり。〔略〕同氏内々妾に申されけるは、橋本先生の見込にては、とても今度は〔襄〕先生の御病気は全快は覚束なし。心臓の皮薄くなり居れば、若しや非常に驚く事にてもあらば、其皮破れて血にまじり、脳まで上り、脳の筋至

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つて細く、其処に心臓の皮行留まると卒中となる故に、それとなしに大切なる事は聞置く様、予め婦人まで申せとの事40)。

  このように、日本赤十字病院の院長だった橋本綱常は、新島夫妻にとって重要な人物であった。なお、八重が赤十字社の社員になった理由としては、ほかに、それが蘇峰へ手紙を出した一ヶ月後のことから、蘇峰から、新しい生き甲斐づくりの端緒として、日赤への参加を勧められたためか、あるいは、「亡夫の心さしを相つき申し度」気持ちから、その実行の一つとして、夫が設立した京都看病婦学校と同志社病院を代表する意味で、公共的な医療奉仕組織である日本赤十字社に参加することを考えたため、という理由が考えられる。

篤志看護婦人会への参加と裏千家入門 その後、八重は日本赤十字社京都支部篤志看護婦人会にも参加するようになる。八重が同会に参加した時期はおそらく、1893年4月に日本赤十字社京都支部の監督の下に篤志看護婦婦人会が設立された時かその直後であろう。なぜなら、翌1894年には、同会から看護婦取締として広島に派遣されるからである。 彼女が同会に入会したのは、赤十字社の正社員となってから3年後のことであり、八重の日赤入会の動機とは必ずしも連動しないが、これも

「亡夫の心さしを相つき申し度」気持ちから、自分なりに出来る社会貢献として選んだ選択であろう。 この篤志看護婦人会は、戦時には、傷病軍人の救護、慰藉、衛生材料の製造、慰問品の蒐集等に尽力し、平時には、戦時救護幇助の準備かつ家庭での便益に供するために看護法を講習する目的で設立されたものであり、皇族妃や社会的に地位の高い者の夫人を役員とすることから看護婦の地位向上も狙ったものでもあった41)。なお、当時の日本赤十字社京都支部篤志看護婦人会は京都に限定されたもので、日赤本社監督の同婦人会(本部)とは全く連絡がない独立したものであった。日本赤十字社京都支部篤志看護婦人会が、日赤本社の同婦人会(本部)の支部とし

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て、日本赤十字社篤志看護婦人会京都支会になるのは1897年のことである42)。

 1894年 5月8日、八重は裏千家(今日庵)第12代又玅斎(ゆうみょうさい)の名により 「入門」 と 「小習十六ヶ条」 の許状を得る。新島逝去後4年目のことだが、その前の年の頃に八重は篤志看護婦会に参加しているので、愛夫の死から3~4年を経たその頃、八重は、ようやくそのショックから立ち直り、持ち前の前向きな気持ちを取り戻したと思われる。 八重が裏千家を選んだのは、彼女も一時教師を務めた新英学校女紅場や、その後身の京都府立女学校で猶鹿やその夫の又玅斎が教えていたからであろう43)。ただし、実際に八重を指導したのは、吉海氏が指摘する通り、猶鹿であろう44)。又玅斎は1885年に駒吉に裏千家13代を継承させて引退し、以降は大阪や奈良に居を移していた45)。 ところが、八重の入門直後に日清戦争が始まる。 京都の篤志看護婦婦人会は広島に救護員を派遣することを決め、既述の通り、八重に看護婦取締を依嘱した。 八重を先頭とする40人の篤志看護婦たちは、1894年11月4日に京都を出発。広島予備病院第三分院で傷病者の看護に尽くすことになる46)。 翌年2月12日、清国軍北洋艦隊が降伏して戦争の雌雄は決したが、八重はまだ広島に残り、傷病軍人の看護に尽くしていた47)。 4月に日清講和条約が調印されて日清戦争が終結すると、八重も普段の生活に戻り、中断していた茶の湯の修行を再開する。 八重は、8月3日に 「茶通函」、 「唐物点」 を得て、現代の修道課程でいう「中級」を終了し、翌1896年12月28日に 「行之行台子傳法」、翌日「台天目傳」と「盆点傳」 の許状を得て「上級」を修了した(ただし、「台天目傳盆点傳」 は現代の課程では「中級」である)。 なお、「茶通函」以降は裏千家13代圓能斎名の許状となる。圓能斎は1891から東京で茶道の普及に尽くしており、帰京したのは1896年である48)。圓能斎の帰京前の許状の発行名が当人であるところにも、実際に

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八重を指導したのが猶鹿であることが裏付けられる。 茶の湯の修行再開の3年後の1898年6月12日、八重は、「真之行台子傳法」、すなわち、「奥義の根本となる重い習い事」を修了する。既述の裏千家への「利休宗易大居士筆始代々之筆物」34幅の寄贈は、筒井氏が指摘するとおり49)、この許状の返礼であろう。 また、その間の1896年4月、八重は池坊専正の門弟にもなり、華道の修行も始めている。受領年は不明だが、「池坊門弟 新島八重子」の木札も得ている50)。 一方、「真之行台子傳法」 の許状を得て、女流茶人として弟子たちに茶道教授をするようになった八重51)は、次に、看護学の修得に関心を向ける。1899年5月28日には、八重は、篤志看護婦人会京都支会が主催した「看護学」の講座を修了し52)、翌1900年7月7日には、同支会長・村雲日栄(村雲尼公)より「看護学助教」嘱託を任じられる53)。さらに、1902年10月28日には、「看護学補修科」も修了する54)。 この看護学の講座は、上述の通り、篤志看護婦人会の平時における中心的な活動であり、当時は、京都府立高等女学校や京都市立美術工藝学校、市議事堂等を会場として、毎月一回土曜日午後1時もしくは2時より2時間の規定で開講されたものであった55)。八重も後年に「嘗て京都市の篤志看護婦会に於て月一回宛学習せし事ありし」56)と回想している。 そして、1904年、日露戦争が始まると、篤志看護婦人会京都支会は、翌1905年1月から戦争終結後の10月に至る迄、会員8名と幹事による監督1名、助教による副監督1名、計10名一チームを交代で派遣、のべ46

人が大阪陸軍病院で看護を行うことになる57)。 八重は1902年から京都支会の幹事を依嘱されていたため、彼女も監督として大阪に2ヶ月間赴いている。傷病兵士看護に赴く者は全員、京都帝国大学医科大学付属病院で看護の実習を行ったというので58)、八重も同所で看護の実習を受けたと考えられる。 以上のように、八重は看護学について専門的な知識を身につけ、それをもって実践の看護活動に活かしたのであった。

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八重が裏千家に入門したのが49歳、池坊に入門したのが51歳だが、篤志看護婦人会で看護学を修了したのが54歳、同看護学補修科を修了したのが57歳である。50歳前後から新たなことを学び、それによって自ら新しい活躍の道を開き、国と社会に奉仕をした八重の積極性とバイタリティーには驚かされる。 なお、八重は、1901年には愛国婦人会京都支部設立委員も依嘱された。愛国婦人会は、同年、奥村五百子を創立者として「戦死及び準戦死者の遺族を救護する事、及び重大なる負傷兵にして廃人に属する者を救護すること」を目的として設立された59)、戦争による傷病者と戦争遺族救済の団体である。日清戦争の際に、看護婦取締として広島で傷病兵救護に活躍した八重であるから、依嘱されるのも当然であろう。八重は、同婦人会京都支部が設立されると、臨時評議員となり、のちに同会本部の通常会員にもなった。 その後の1910年7月4日、八重は裏千家より 「名誉引次方之称号」 を得、1923年2月10日には「奥秘大圓傳法」という奥秘の伝授を授けられ、昭和3年には、「利休形模之養老頭巾」 も受けるのである。

八重の許状と現代裏千家の修道課程 今まで八重が裏千家から受けた許状については、簡単な意味を述べただけなので、ここで、現代の同家における修道課程と比較した表を掲げて、その詳しい意味を確認しておきたい。本表は、裏千家ホームページ

「修道のご案内」60)を基本として、同志社社史資料センター社史資料調査員・布施智子氏、および茶道家の大越宗理氏の協力によって作成した。

 八重の許状と現代の裏千家のそれの比較結果を端的に述べると、両者はほとんど同じであって、そこには利休以来四百年以上続く千家の伝統の継承が見られる。そして八重は、現代の茶道家が通常は得られない奥秘まで得ていることがわかり、八重が茶道家の頂点を極めていたことが明らかになる。 ただし、八重は、いわゆる修行としての茶道の修道は、「真之行台子

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傳法」を得た時点で修了したようである。なぜなら、現代茶道の修道では「真之行台子」の後も修道を続けて、「大円真」、「引次」、「正引次」を経て茶名を受けることになるが、八重は、一足飛びに「名誉引次方之 109

表 八重の許状と現代裏千家・修道課程 比較表

許状種目 概  要 概      要

入 門最も基本となるおじぎの仕方から始まり、割稽古と呼ばれる部分稽古を修得し、はじめてお茶を点てる。

小 習前八ヶ条と後八ヶ条の十六ヶ条の習い事。茶道の基本を養う上で最も必要な課目。

- 茶箱点茶箱と呼ばれる箱を使って行う点前。季節により種類がある(取得することで初級の資格が得られる)。

茶通箱二種類の濃茶を同じ客に差し上げる場合の点前。

唐 物 茶入が唐物(からもの:中国製)の場合の扱い方。

台天目 天目茶碗を台にのせて扱う点前。

盆 点 唐物茶入が盆に載った場合の点前。

- 和巾点名物裂(めいぶつぎれ)をもって作った古帛紗の上に、袋に入れた中次を載せて扱う点前(取得することで中級の資格が得られる)。

1896(明治29)年12月28日「行之行台子傳法」

行之行台子別名「乱れ荘」ともいわれ、奥秘の基礎となるもの。行台子をもって行う。

- 大円草大円盆(だいえんぼん)をもって行う格外の奥秘の手続き。

- 引 次取得することで上級(助講師)の資格が得られる。所定の手続きを経て、弟子の許状申請(取次)を行うことができる(教授者となることができる)。

1898(明治31)年6月12日「真之行台子傳法」

真之行台子一名「奥儀」といわれるもので、行之行台子を充分に修得できた者に許される。真台子をもって行うもので、奥儀の根本となる重い習い事。

- 大円真 大円盆をもって行う格外の奥秘の手続き。

1910(明治43)年7月4日「名誉引次方之称号」

正引次取得することで講師の資格が得られる。(一人で弟子を取り、教えることが出来る。※大越宗理氏)

専任講師(講師から

1年経過後)茶名

茶名は利休居士以来の歴代家元の「宗」の一字を頂くもの。修道を通じて資質を備えられた者に授与される。取得することで専任講師の資格が得られる。

助教授(専任講師から

2年経過後25歳以上)

準教授取得することで助教授の資格が得られる。(自分の弟子に茶名を授けることが出来る。※大越宗理氏)

1923(大正12)年2月10日「奥秘大圓傳法」

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1928(昭和 3)年「利休形模之養老頭巾」

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1896(明治29)年12月29日「台天目傳」「盆点傳」

(年月日不詳)茶号「宗竹」授与書

1895(明治28)年8月3日「茶通箱」「唐物点」

八重の許状(裏千家)

1894(明治27)年5月8日「入門」「小習十六ケ条」

現代裏千家 修道過程(許状種目)と取得できる資格

初 級(三種目

一括申請)

中 級(随時

申請可)

講 師(上級から

1年経過後)

上 級(助講師)

(中級から1年経過後)

ただし、八重は、いわゆる修行としての茶道の修道は、「真之行台子

傳法」を得た時点で修了したようである。なぜなら、現代茶道の修道で

は「真之行台子」の後も修道を続けて、「大円真」、「引次」、「正引次」を

表 八重の許状と現代裏千家・修道課程 比較表

新島八重と茶の湯

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称号」を得ているからである。ここにある「名誉」という形容句は、正規の修道は行っていない、という意味であろう。そして八重は、この「名誉引次方之称号」をもって、茶名「宗竹」を得ているのである61)。このような「名誉引次」の称号は、廣瀬氏によれば、八重以外に今日庵淑静会(圓能斎主催の研究会)の田中宗栄、京都府立高等女学校茶道教授の吉田宗芳、大審院検事の松井宗滴らにも授与されている62)。

5. 新島宗竹の誕生

 現代の裏千家では、基本的に茶名(号)は師匠(家元)が決めるものであり、受領者が願い出ることはできない。しかし、以前は、受領者がそれを願い出ることが慣例であった63)。 したがって、八重の茶名である「宗竹」の「竹」も、慣例によって彼女自身が願い出た一字であろう。それでは、「竹」とは、八重にとってどういう意味を持つ文字か? 竹は、「節(ふし)」があり、真っ直ぐに育つから武士に通じる。新撰組の隊士だった永倉新八の遺歌・「武士乃節を尽くして厭まても貫現竹の心そ一筋」 64)は有名である。 八重も、愛夫の逝去直後、次のような悲しみに満ちた歌を詠んでいるが、そこで歌われている竹は襄を仮託したものである。

たのみつる竹は深雪に埋もれて世のうきふしをたれとかたらむ1890年2月10日65)

   さらに、会津の婦女子にとって、竹は特別の意味を持つ。節に殉じる自己を弱竹(なよ竹、女竹)にたとえているからである。 国家老・西郷頼母一族の婦女子二十一人は、籠城戦開始当日に自害するが、その時の頼母の妻、千重子の辞世は次のとおりである。

なよ竹の風にまかする身ながらも たゆまぬ節はありとこそ知れ66)

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 そして、会津の善龍寺における会津戦争で殉死した232人の婦女子を供養する碑は「奈與竹能碑」である。 会津で竹といえば、いわゆる「娘子軍」で勇敢に戦った中野竹子のことも思い出される。「娘子軍」といっても、会津藩の正規軍のことではない。薙刀の修行を積んだ会津武家の婦女子たちが、藩に懇請して敵軍と戦ったことを後年そう呼んだのである。 中野竹子は、母幸子、妹優子とともにその「娘子軍」の中核となった女性で薙刀の師範であり、文武と美貌に優れた女性であった。 八重も薙刀を習っており、「娘子軍」への参加を誘われるが、「トテモ本戦ノ時ニ薙刀デ戦争ハ出来ナイ」と思い、それを謝絶して砲術の組に参加した67)。 その後、竹子は敵の銃弾に倒れ、首級は母妹が切り落とし、母妹は仲間と共に苦労を重ねて入城した。そして、城内で幸子が八重に「アナタガドウシテ私共ノ組ニオ入リニナラナイカト思ツテ卑怯者ノ様ニ思ヒマシタガ、ドウシテモ鉄砲ノ中デハ薙刀ハイケマセン。ヨウヤツト自分ノ娘ガ討死シテカラ悟リマシタ」と告白し、竹子の妹に鉄砲を教えるように依頼した。そこで八重は、優子に鉄砲を教えたのであった68)。中野竹子は書をよくし、「小竹女子」と号した。 したがって、八重の茶名である「宗竹」の「竹」は、過去に武士であった夫の襄や、会津戦争に殉じた肉親や友人知人の魂の安らぎを願う意味があると思われるのである。

6. 八重におけるキリスト教と茶の湯

 茶の湯が禅宗の影響下に成立していることは、臨済宗の開祖である栄西が日本に新しい茶の種と栽培法、喫茶法(『喫茶養生記』)を伝え、茶祖と呼ばれることから明らかである。「利休居士教諭百首詠」 にも、「ならひをば 塵芥ぞと思へかし 書物は反故腰ばりになせ」のように、禅宗の影響を色濃く残す言葉がある69)。

新島八重と茶の湯

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 一方、茶の湯の成立の時期が、戦国時代のキリスト教の伝来の時期と重なることもあって、茶の湯には、キリスト教の影響もある、特に、カトリック教会における聖水及び聖水盤は、茶の湯における手水鉢と精神面において共通している、と指摘するのが、裏千家第十五代家元の千玄室氏である70)。 前述したように、茶の湯の本意が「直心の交わり」であって、亭主と客との間に心の交流と平和をもたらすものであることを考えるとき、新島が「キリストノ愛ヲ学ヒ之ヲ施シ人之ヲ受クレハ、此レ愛彼ニ通、彼ノ愛此ニ通、真ノ朋友タルベク互ニ命ヲ以テ相愛シ相助クベシ」71)と述べるとおり、茶の湯の修道とキリスト教の求道は互いに接近することになる。殊に八重の心中においてそれが二つながら育っていった、と私は考えるのである。

 もともと八重がキリスト教を学び始めたのは新島に会う以前のことであって、1875年の春、第4回京都博覧会の期間に、宣教師ゴードンが療養を兼ねて京都を訪れ、山本覚馬に『天道溯源』を渡して、覚馬がそれを読んでキリスト教への関心を著しく高めた結果72)、八重も木屋町のゴードンの借間に聖書(マタイ伝)を学ぶことになったからであった。そして、そのゴードンの借間があった家の玄関で靴を磨いていた襄と出会ったのである。 その後、新島が八重に惚れ込み、話は進んで同年10月15日に二人は婚約する。翌11月23日、新島は「アメリカの母」であるスーザン・ハーディーに八重との婚約を報告する手紙を送ったが、その手紙の中で「彼女はまだ水で洗礼を受けていないが、すでに精神的には洗礼を受けていると信じる」と述べている73)。八重は時々、女紅場でキリストの真理を語り始めたという。そして、キリスト者の襄と婚約したことで女紅場の仕事を突然解雇されてもまったく後悔せず、「これから福音の真理を学ぶ時間をより得ることが出来た」74)とさえ語ったことも、襄はスーザンに報告したのである。 そして、翌1976年1月2日に受洗し、翌日に襄と結婚した八重は、

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1879年には第二公会(後の同志社教会)の執事になる。また、襄と夫婦で各地の教会を尋ね、伝道を行う。そのあたりの事情は吉海氏の著書に詳しい75)。 それでは、八重は模範的なクリスチャンだったかというと、襄の八重宛て書翰を読むとそうとも言い難い。襄は「一視同仁」76)の人物であったが、八重は人を区別しており、会津出身者は厚遇する一方、薩摩出身の学生などには冷たかったようだ。それは、戊辰戦争で薩摩・長州藩を中心とする官軍に父や弟を殺されたのだからやむを得ない面もある77)。また、いろいろと身辺に不平不満もあったようで、それを夫に訴えていたようだ。 そのため、襄は、単身での二度目の欧米旅行中、次のような文言を手紙に認めて彼女に書き送っている。

神に祈り神に事へ主ト共ニ常ニアリ又人ヲ容ル丶事之怠無之様奉希候1884年4月14日78)

我等己を愛する者愛せは何の報かあらん、我等宜しく己をのろふ者を祝し、之を愛し之か為に祈るへし

1884年7月27日79)

何事も心之儘にならぬ時あらはクリストの十字架を御覧あり度候、〔略〕私共其万分一丈でも学ひ候はゞよき神の御心ニ叶ふ信者に相成可申

1884年12月30日80)

少々の事ニ力落さす、少々の事を気にかけす、何事も静に勘弁し、又何事も広き愛の心を以て為し、如何に人に厭はるゝも人に咀はるゝも、又そしらるゝも常に心をゆたかに持ち、祈りを常に為し、己を愛する者の為に祈るのみならす己れの敵の為にも熱心に祈り、又其人々の心の□る迄も其の為に御尽しあらば、神ハ必らすお前様之御身も魂迄も

新島八重と茶の湯

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御守り被下べし、〔略〕何卒武士の心ばかりにては足らす、真の信者の心を以て主と共に日々御歩み被下度奉希候

1885年2月1日81)

 このように新島は八重に繰り返し「説教」を行っているが、ここで引用した4通の書簡を書く間に一度も八重に会っていないのだから、ちょっとしつこいように思える。しかし、新島が何度も繰り返さざるを得ないほど、彼から見れば、八重には、人を選り好みしたり、どうしても許せない事があったり、常に鬱憤を溜めているところがあったように思える。 ところが、八重は次第に新島の「説教」に感じ入るようになったようだ。襄が上州で療養中、八重は、それまで会津出身の生徒を集めて行っていたカルタ会に鹿児島出身者を招いたのである。そのことを知らせてきた手紙を読んだ襄は、看護婦の不破ゆうに「今日は八重さんから大変いい便りがありました」と喜んだという82)。

 襄に次第に感化されて人を許すようになった八重だが、彼を「最愛の夫」と綴るほど夫に濃い愛情を注いだので、既述の通り、八重は夫が逝去すると落胆して病気にもなった。その時、おそらく彼女は、欧米に向かう旅先の襄から送られた次の手紙を繰り返し読んだのだと私は考えている。

先日香港より一筆さし上申候、其後御隠居様初如何御暮被成候哉、如比数千里之遠方ニ出懸候得バ益々家を思ふ事ハ切ニ相成申候、乍去御同様ニ真之神様ニ仕ユル事相叶候ハヾ心之平和を抱き、山河を隔つるも同じ神之御前ニ伏す事なれば矢張一所ニ居ると少しも異ならす、返す返すも真の神様に依り頼み活ける信仰を御持被下度候。〔略〕

1884年4月20日83)

 この書簡は、襄の八重宛のラブレターであり、心のこもった説教であ

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る。そして、この書簡には、次のような漢詩も添えられている。

     臨西遊 告別于家人  生別切於死別情       河梁焉得意揚々  春風秋雨西遊客       夜々夢回鴨水傍

  〔生別は死別の情よりも切なり 河梁いずくんぞ得ん意揚々たるを  春風秋雨西遊の客      夜々夢を回らす鴨水傍〕 

 歌題にある家人は、 家族を指すが、詩では特に妻を指す。起句の「生別切於死別情」は、八重宛ての書翰であることと書簡の文脈からみると、八重のことを指しているのは明らかである。そして、結句の 「夜々夢を回らす鴨水傍」 の「鴨水傍」は、鴨川の近くの新島夫妻の家(現在の新島旧邸)をさす。20年前の1864(元治元)年、新島は国法を破り単身海外に飛び出したが、その時読んだ歌の結句に「枕頭猶是夢郷家」や「枕頭尚夢古園花」があった84)。ちょうど20年後に2度目の欧米旅行に旅立った新島は、その歌を思い出して類似した詩を再び書いたのであろうが、当時の「郷家」や「古園花」は、今、八重が留守を守る「鴨水傍」の二人の家に変わったのであって、それを思うと、新島は八重に対して

「生別切於死別情」という強い愛情からくる惜別の苦しさを歌わざるを得なかった、と解釈したい。この手紙と歌は、「最愛の夫」逝去後、特に八重の胸に迫ったはずである。 私がこの書簡を注目し、以上のことを考えたのは、この書翰で説いた襄のキリスト教信仰の影響が、晩年の八重の次の談話の中に見られるからである。

私などは親しき人達は皆先きに召されて天国に昇つしまつて今度は自分の番かと只天命を待つてゐるばかりです。早く天国に昇らせて頂いて先きに行かれた人達と会ふ事を楽しみとしてゐますからこんな大きな家に只一人住んでゐましても決して淋しいなどと思つた事はありま

新島八重と茶の湯

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せぬ。さうした信仰を持つて残る老先きの年を全ふする事の出来るのを只々神様のみ恵みと感謝してゐます。  丁度明日で満八十才になります。二十人位のお茶のお友達をお招きして静かなお茶の席に神様すべての事感謝しつヽ、誕生日を味ひ度いと思ってます。85)

 襄は先の書簡で「真之神様ニ仕ユル事相叶候ハヾ心之平和を抱き、山河を隔つるも同じ神之御前ニ伏す事なれば矢張一所ニ居ると少しも異ならす、返す返すも真の神様に依り頼み活ける信仰を御持被下度」と八重に語りかけたが、晩年の八重は、襄の言葉通り、そのような確たる信仰を持つようになった。八重は信仰によって「心之平和」を得て、天国で

「先きに行かれた人達と会ふ事を楽しみ」とするようになった。八重が、大きな家に一人で暮らしても「決して淋しいなどと思つた事ありませぬ」と明快に語る理由は、亡くなった襄と自分は天国と地上を隔ててはいるが、「同じ神之御前ニ伏す事なれば矢張一所ニ居ると少しも異ならす」と考えるようになったからであろう。 しかし、繰り返すが、襄逝去直後、八重は寂しくて寂しくて仕方がなかった。 そうであるから、八重が硬いキリスト教信仰を得て寂寥の思いから乗り越えられたのは、襄逝去後しばらくしてからのことであろう。 我々は、襄逝去後の八重が強い信仰に芽生え、教会に足繁く通い始めた、というような事例を知らない。残された史料からみれば、そのような事実はなかったであろう。 それでは、襄逝去後の八重に確固たる信仰と「心之平和」を与えたのは何か。 それは、一つには、八重に残された、彼女宛の襄の信仰に溢れた手紙であり、もう一つには、亭主と客との間に心の交流と平和をもたらす「直心の交わり」を本意とする茶の湯であった、そう私は考える。 八重がのべた「二十人位のお茶のお友達をお招きして静かなお茶の席に神様すべての事感謝しつヽ、誕生日を味ひ度い」という言葉は、キリ

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スト者の女流茶人である八重こそが語ることのできた言葉だと思うのである。

7. 露地と茶室としての新島旧邸

「寂中庵」の構造 八重は、襄逝去後、自宅1階の襄の書斎の隣の洋間に畳廊下を敷き、窓側に茶室を造った。八重が茶室を造った時期については、八重が交流していた大沢徳太郎の娘である武間富貴が、1907(明治40)年頃にはすでにあったと回想している。そして武間は、その茶室は、亡夫の書斎の南側の部屋を改造したもので「お茶席に入るには必ず、先生のご書斎を通り抜けなくてはならなかった」と回想している86)。 その後の1912年、圓能斎は、八重の茶室を「寂中庵」と命名している。 「寂中庵」の「寂」は、利休の茶の湯の四規「和敬静寂」の「寂」であろう。「寂中」とは禅語の「空空寂寂中」、煩悩や執着がなく、無我・無心の境地の意味であると考えられる。 私見によれば、八重は「私」すなわち、私利、私欲が無い人のように思える。決死の覚悟で戦った鶴ヶ城の籠城戦、その後の新島の大学設立運動を支えた「内助の功」と新島の看護。新島逝去後は、新島の遺志を汲んで、 自分なりに世の中のために尽くそうと考え励んだ篤志看護婦、愛国婦人会活動。茶人としてもそうであったからこそ、圓能斎は八重の茶室にその茶名を与えたのであろう。

 新島旧邸は御所の東側、丸太町を上がったところの、南北に通る寺町通りの東側にあり、南側を広い庭にした北側に建てられ、母家の一階の部屋は、台所等を除いて、ほぼ田の字形に四部屋ある。新島の書斎は南東の部屋だが、八重の茶室は新島の書斎の西隣の部屋の中に、西側の窓と北側の壁に寄せて四畳半の畳を敷き、南面と東面に壁を立ててつくったものである。 この「寂中庵」は炉が四畳半本勝手切りに切られた茶室である。本勝

新島八重と茶の湯

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手とは、亭主の座る点前畳(道具畳)の右側、半畳の畳に炉が切ってあり、客が亭主の右側に座る茶席をいう。 「寂中庵」で特徴的なところは次の3点である(図1参照)。1)南面の貴人畳の長辺に沿って床があり、床の隣に襖の入り口を設け

ている。2)東面の踏込畳の短辺に沿って、もう一つ襖の入り口を設けている。3)にじり口が無い。

 通常、茶室では、茶室に入ると床が正面に見える、客畳みの短辺に沿ってにじり口を設ける。しかし、八重の家は、その壁の後ろ側が収納庫となっていて茶室の入り口を設けられない。そして、西側は窓付きの壁となっているので、こちらにも入り口を設けられないために、床の面に入り口を設けているのである。

 そうすると、この二つの入り口のうち、どちらが客の入り口でどちらが亭主の入り口(茶道口)になるのか問題になる。 そこで、私が2012年7月25日に現地調査をした結果、床の東隣の襖の上の梁の外側に、L字型の風雅な花釘(折釘)が2本、ちょうど簾掛けに使うような間隔で打ち付けられていたことが分かった(写真1)。 この花釘について、新島旧邸の説明係の方に質問したところ、ご本人も今まで花釘自体の存在に気付かなかった、ということであった。 この花釘こそ、床側の入り口をにじり口にするための簾掛けであることは間違いない。 すなわち、「寂中庵」にはにじり口を設けておらないので、この入り口に簾を掛けて、にじり口の高さにまでそれを巻き上げておき、客は、その下をくぐって茶室に入り、最後の客は、この巻き上げてある簾をお

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にはそう思えるのである。 図1

洞庫棚

客畳

踏込畳

貴人畳

点前畳

炉畳

図2

同志社大学ホームページ 新島旧邸ガイド

(http://www.doshisha.ac.jp/yae/facility/oldhouse/tour/index.html)の図を転用

写真1

図1

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ろして、戸を閉めた形にするのである。 このアイデアは実は、現代の茶室のない家において、襖をにじり口にするために簾を活用する工夫として茶人には良く知られているものであって87)、八重はそれを現代から百年以上前に実践していたのである。 八重の家すなわち新島旧邸は、日本人のために立てられた和洋折衷の木造二階建て住宅として価値が高いが、その中に設けられた「寂中庵」は、にじり口を設けないことで洋間と調和した開放的なものとする一方、簾の利用によって、茶事においてはにじり口をつくるという、現代風の茶事を先取りする茶室として、 茶室の歴史上も重要であると考える。 そして、床の隣に客の入り口(にじり口)を設けることは、踏込畳の短辺側の入り口が亭主の入り口(茶道口)になることを意味する。それは、図2のとおり、新島旧邸の間取りに合わせたものと考えられる。茶道口は台所に近いので、懐石料理を運ぶにも都合がよい。茶道口前が広い廊下なので、簡易的な水屋も置くことが出来る。そして、にじり口は、襄の書斎のすぐそばにあるので、武間富貴の回想の通り、客が襄の書斎を通って茶室へ入る場合、その動線が自然なものとなるのである。

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その下をくぐって茶室に入り、最後の客は、この巻き上げてある簾をお

ろして、戸を閉めた形にするのである。 このアイデアは実は、現代の茶室のない家において、襖をにじり口に

するために簾を活用する工夫として茶人には良く知られているものであ

って 87

八重の家すなわち新島旧邸は、日本人のために立てられた和洋折衷の

木造二階建て住宅として価値が高いが、その中に設けられた「寂中庵」

は、にじり口を設けないことで洋間と調和した開放的なものとする一方、

簾の利用によって、茶事においてはにじり口をつくるという、現代風の

茶事を先取りする茶室として、茶室の歴史上も重要であると考える。

、八重はそれを現代から百年以上前に実践していたのである。

そして、床の隣に客の入り口(にじり口)を設けることは、踏込畳の

短辺側の入り口が亭主の入り口(茶道口)になることを意味する。それ

は、図 2 のとおり、新島旧邸の間取りに合わせたものと考えられる。茶

道口は台所に近いので、懐石料理を運ぶにも都合がよい。茶道口前が広

い廊下なので、簡易的な水屋も置くことが出来る。そして、にじり口は、

襄の書斎のすぐそばにあるので、武間富貴の回想の通り、客が襄の書斎

を通って茶室へ入る場合、その動線が自然なものとなるのである。

写真 1 図 2 同志社大学ホームページ 新島旧邸ガイド (http://www.doshisha.ac.jp/yae/facility/oldhouse/tour/index.html)の図を転用

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その下をくぐって茶室に入り、最後の客は、この巻き上げてある簾をお

ろして、戸を閉めた形にするのである。 このアイデアは実は、現代の茶室のない家において、襖をにじり口に

するために簾を活用する工夫として茶人には良く知られているものであ

って 87

八重の家すなわち新島旧邸は、日本人のために立てられた和洋折衷の

木造二階建て住宅として価値が高いが、その中に設けられた「寂中庵」

は、にじり口を設けないことで洋間と調和した開放的なものとする一方、

簾の利用によって、茶事においてはにじり口をつくるという、現代風の

茶事を先取りする茶室として、茶室の歴史上も重要であると考える。

、八重はそれを現代から百年以上前に実践していたのである。

そして、床の隣に客の入り口(にじり口)を設けることは、踏込畳の

短辺側の入り口が亭主の入り口(茶道口)になることを意味する。それ

は、図 2 のとおり、新島旧邸の間取りに合わせたものと考えられる。茶

道口は台所に近いので、懐石料理を運ぶにも都合がよい。茶道口前が広

い廊下なので、簡易的な水屋も置くことが出来る。そして、にじり口は、

襄の書斎のすぐそばにあるので、武間富貴の回想の通り、客が襄の書斎

を通って茶室へ入る場合、その動線が自然なものとなるのである。

写真 1 図 2 同志社大学ホームページ 新島旧邸ガイド (http://www.doshisha.ac.jp/yae/facility/oldhouse/tour/index.html)の図を転用

写真1

図2同志社大学ホームページ 新島旧邸ガイド

(http://www.doshisha.ac.jp/yae/facility/oldhouse/tour/index.html)の図を転用

新島八重と茶の湯

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露地と茶室としての新島旧邸 女流茶人の地位を確立した八重は、自宅で茶会を開いて茶友を招き、しばしば招いた。 1922年正月には自宅で初釜を掛けている記録がある88)。初釜というと、懐石料理でももてなす正式な茶事である。 自宅で正式な茶事を行おうとしても、茶室一つあればそれができるわけではない。 上述の通り、茶事には、初座・中立・後座という流れがあり、そのためには、露地、待合、腰掛、茶室、水屋という広い空間が必要である。 したがって、八重が自宅で正式な茶事を行っていたことは、自宅の庭や茶室以外の他の部屋をそれらの茶事のために用いていたことを意味する。 それでは、茶会に必要な空間に対して、家の何処を利用したのであろうか。

 まず露地だが、それは、もろもろの情念がうずまく俗の浮世と浄らかな茶室の間にあって、客は、この露地を通ることで浮世の妄念や執念をひとつずつ捨て去って浄かな心になる場所である89)。 八重がこの露地の役割を与えたのは、彼女の家の門から玄関までの長いアプローチ(写真2)及び、邸宅の東側の庭(写真3)と考えられる。

写真2 写真3

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 前久夫氏の『京が残す先賢の住まい』には、八重の家の前庭について次のように記されている。

 近年の新島会館などの新築で、廷内は著しく狭められているが、かつては実を結ぶ木の好きだったという新島が植えた、カキ・ミカン・イチジクなど、四季の味覚がたのしめたという。また未亡人となった八重の好みで植えられた門から玄関に至る通路両側の南天の並木が、正月にはその赤い実を美しくたれていたという90)。

 南天は、前氏のいうとおり、新島逝去後、おそらく茶道入門以降に八重が植えられたものであろう。南天は邪気を払う厄除けとして植えられるから、それもあったのであろう。

 茶人の客が露地を通って玄関(写真4)に上がり、最初に入る部屋は待合だが、これは、広い応接間を利用したのであろう。 客がそこで襄が壁に掛けたワシントンの絵や勝海舟の書、それに茶会のテーマに関わる「待合掛」という掛け物を見ている間に客が揃うと、半東(八重の助手を務める茶友)がおそらく

食堂のテーブルに湯を出す。皆が揃ってそれを頂いた後、階段前の廊下のドアを出て、露地の腰掛に出る。 その腰掛が置かれたのは、邸宅の東側の庭(写真3)であろう。玄関(写真4)は、私の印象だが、腰掛を置くような閑寂さが無いように思える。 そして、腰掛けの側にはつくばいが置かれ、亭主の八重が、その水替桶をもって現れ、水を替えてから、無言で(どうぞお入り下さい)と黙礼して客を迎える。

写真4

新島八重と茶の湯

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 腰掛でその迎えを待っていた客は、廊下から襄の書斎を通り、簾が半分巻き上げられたにじり口から茶室に入り、初座が始まるのである。 襄の書斎をわざわざ通すのは、襄の思い出を語ることも「寂中庵」の茶会のテーマとするためであろう。 このように八重の行ったであろう茶会を通して新島旧邸を見ると、その家は、庭や襄の書斎も含めた全体が八重の茶事の空間であったと捉えることが出来るのである。

8.八重と裏千家家元

 既述の通り、八重は、1894年に裏千家12代又玅斎に弟子入りし、翌年(実際には圓能斎が帰京する1896年)から13代圓能斎の直弟子となった。圓能斎にはすでに、1893年に、後に14代となる淡々斎が生まれており、淡々斎の長男・鵬雲斎、すなわち、15代千宗室、現・千玄室氏が生まれた1923年当時八重は健在であって、八重が亡くなったのは、玄室氏が9歳の1932年のことである。 八重はその間、長く圓能斎と交流し、女流茶人のトップの一人となった。例えば、1918年11月の宗旦忌冒頭の圓能斎による供茶式では彼女は正客を務めている91)。 この八重と裏千家家元の交流の影響により、同志社と裏千家に縁が出来たと私は考えている。たとえば、同志社大学の茶道部は、そのルーツとして八重を挙げている92)。 それがあって、また、同志社大学今出川キャンパス内の二条家ゆかりの茶室に対して、1954年、14代淡々斎が「寒梅軒」と命名したのであろう。また、千玄室氏、16代宗室氏が同志社大学を卒業したのも、八重が結んだ圓能斎と同志社の縁による影響が大きいと考えられる。そのおかげで、同志社は、徳富蘇峰に次ぐ二人目の文化勲章受章者を輩出するという栄誉に浴することになった。

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9.女流茶人のパイオニアとしての八重

 ところで、茶道の稽古は、実際には江戸時代から、香や花などとともに婦女子が行っていたものであった。 しかし、女性が家元に弟子入りして許状を積んで茶人となることは、江戸時代はおろか、明治時代を通じても希有であった。それは、女性の茶人を職業として紹介し始めた1917年出版の書籍『自活のできる女子の職業』においても、「当今濃茶の手間や大〔台〕天目位(また)は真の〔真之行〕臺子等迄も心得て居る宗匠と云ふのは数へる程しかなく位(また)習ふ方もそれ程難かしい処迄も稽古する人は極稀れである」とあるとおりである93)。  ところが、八重は、この本の書かれた19年前の1898年に「真之行台子傳法」を受領している。このことから、八重は日本における女流茶人のパイオニアであって、そのほとんど頂点を極めた女性であったことが分かるであろう。仙台藩家老の家の生まれで、14代淡々斎の妻嘉代子夫人の養母である伊藤宗機も女流茶人として名高いが、宗機が裏千家に入門したのは、八重に遅れること2年後のことである94)。

 筒井紘一氏は、この女流茶人のパイオニアとしての八重の茶道界への貢献を次のように述べる。

 京都府は明治五年、上京区土手町にあった九条家河原町邸に開校した新英学校女紅場を明治三十七年に京都府立第一高等女学校(現鴨沂高等学校)と改称し、京都市では明治四十一年に京都市立第一高等女学校(現堀川高等学校)を設立するが、その両方に茶儀科を開かせたのは新島八重子であった95)。

 茶道は、江戸時代の幕末に至っても九割九部が男性の嗜みごとであり続けた。〔略〕では、現在見るような女性中心の茶道界になったのは何故であろうか。また、いつ頃からそうなったのだろう。それを一

新島八重と茶の湯

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言で説明するのは難しいが、私は裏千家十三代の圓能斎と新島八重子の出会いがあって、初めて成り立ったことだと考えている。〔略〕圓能斎と新島八重子の出会いがなかったならば、茶道界は少しく違ったものになっていたに違いない96)。

 筒井氏はここで、主に女子に対する茶道教育の貢献という面で八重を評価しているが、私は、それに加えて、さらにもう一つ、戦争未亡人の自立支援のための女流茶人の育成に対する八重の貢献を挙げたい。

10.戦争未亡人と茶の湯

 圓能斎による戦争未亡人の自立支援と女性に於ける茶の湯の興隆の関係を指摘しているのは、三田富子氏である。

 いまは、女性が茶の湯の大部分をしめています。昔は茶の湯は男子のものでした。では、なぜ、女性がこうまで多くなったのでしょう。 私がわが師にきいたところでは、明治の日清、日露の戦後のあと、夫を戦に失った戦争未亡人が数多くでき、その人たちは働くに職がなかったといいます。 そのとき、裏千家の家元円能斎がその未亡人に許状をおくり、これをもってお茶を教え、子供を育ててゆきなさいと励ましたそうです。その当時の女性の職場といえば、女工か仕立物か髪結いくらいでしたから、未亡人はよろこんでお茶を習いお茶を教えはじめたといいます。 また、その伝播に力があったのは、村雲御所の尼公さまが、全国の末寺に裏千家のお茶を習うようにといってくださったからだそうです。現代の女性のお茶はこうして、生きることを助けるためにはじめられ、それが根付いて現代の盛況になったのです97)。

 「村雲御所の尼公さま」とは、伏見宮一品邦家親王の第6王女、村雲日栄のことである。1855(安政2)年生まれで、数え2歳の時、当時は

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京都市村雲(堀川通今出川下ル)にあった日蓮宗瑞龍寺に入り、のち、瑞龍寺門跡となった98)。 日露戦争直後の1906年、尼公は村雲婦人会を設立した。同婦人会の趣旨について、その委員長を務めた松森霊雲は、「〔尼公は〕日露戦争後に於きまする婦人問題に、非常に御考を悩まされ其の理想と抱負とを実現されます第一歩として、法華経の信仰を中心とした村雲婦人会を設立せられ、此の婦人会を基礎として、総ての婦人問題を解決し給はんとのご抱負であります」と述べている99)。したがって、上記の三田氏の「全国の末寺」とは村雲婦人会のことと思われる。 実は、この村雲尼公は、京都の篤志看護婦人会の会長を務め、既述のとおり、八重に篤志看護婦会の「看護学助教」嘱託を任じた、八重とも親交のあった女性であって、八重は1905年の談話で彼女のことを次のように述べているのである。

 京都の篤志看護婦人会は今では千六名の会員があり非常な勢ひでございます、会長はご承知の通り村雲尼公に御願申して、副会頭は大森知事の夫人でございます、何れもご熱心の御方許りでございますから、今日の様な盛大を見ることが出来ました100)

 篤志看護婦人会で大きな働きをし、戦争未亡人救済のための愛国婦人会でも活躍した女流茶人のパイオニアである新島八重を軸に見れば、その八重と長期にわたって交流した圓能斎の戦争未亡人救済のための女性への茶道普及事業、および、八重と同じ篤志看護婦人会で活躍した村雲尼公の宗門の婦人に対する裏千家茶道の普及には、ほぼ間違いなく八重との交流の影響が認められるであろう。

 その八重は、1932(昭和7)年6月14日、病のために87歳で亡くなる。 告別式は、同志社女子部の栄光館においてキリスト教で行われたが、その中で牧野虎次は、八重の最晩年を次のように述べている。

新島八重と茶の湯

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 〔八重は〕元来快活ニシテ物ニ拘泥セラレザル風ハ、疾病ニ対シテモ同様ナルモノアリ。最後ニ至ルマテ嗜メル茶道三昧ニ日ヲ過シ、興到レバ時ニ心身ノ運動其度ヲ過シテ顧ミズ、以テ逝去ノ前日ニ至レリ101)。

 八重の体調が悪化したのは、亡くなる6日前の6月11日に大徳寺内で茶筵があり、山内の各席を歩き回って著しく疲労を覚えたことと、それにもかかわらず、6月13日に柳馬場六角のあたりの茶筵に出席したために激烈な腹痛を訴えたことが原因であった102)。 無理をして茶会に出たために命を落としたと言えなくもないが、死の直前まで茶を楽しんだと言うことも出来るであろう。 臨終のとき、八重は全く苦痛無く眠るように逝去したという103)。八重の心中では、キリスト教信仰と茶の湯が相まって、彼女に安心立命の境地をもたらしていたのであろうと私は考える。 八重の死化粧をしたのは、八重の茶友であった。その一人の栗田宗近女は、次のように語っている。 

 お友達は、まあ新島八重さんでした。いいお人でした。八十八で没くなられたのですが、日頃から夏死んだらこの帯、冬ならこれ、とちゃんと用意してありました。おなくなりになった時は、私ら茶友達がよって、チャンと死化粧をしてあげました。もうそれからは昔のお友達は一人もありません104)。

         八重の後半生は、このように、その最期の時まで、キリスト者の女流茶人として生きたのである。

11.まとめ

 利休宗易・古田織部の流れを継ぐ茶人である山本道句・道珍の子孫であった八重は、茶人としての血が流れているが、彼女自身も茶人として

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の先祖を意識していたと考えられる。 新島逝去後、八重は裏千家12代家元又玅斎に入門し、その子息で、 自分の子供ほどの年齢の同13代圓能斎の直弟子として女流茶人の頂点を極める人となった。 八重の茶名「宗竹」はおそらく、会津戦争で節に殉じた肉親や友人知人を思い、節(せつ、ふし)に由来する弱竹(なよたけ)から引いたものであろう。 茶室は圓能斎によって寂中庵と名付けられたが、それはおそらく禅語

「空空寂寂中」に由来し、老年の八重が執着や煩悩、屈託から免れた静かな心の境地であったことを物語る。 新島旧邸は、八重の生前には全体で路地と茶室を構成するものであったと考えることが出来る。洋間や食堂は「待合」となった。「腰掛」は中庭に通じる出入り口の外に設けたと考えられる。必ず襄の書斎を客が通ることとしたので、襄の思い出を語ることが寂中庵での茶会の大きなテーマとしたかった八重の心情が知れる。寂中庵では、入り口にすだれをかけてにじり口とした。

 八重は夫・襄から神を信じることによって「心之平和」が得られることを学び、その信仰を深めていったが、八重にとっては、茶の湯も、キリスト教と相まって彼女に和敬静寂による心の平安をもたらすものであった。 八重が女学校に茶道教育を導入するのに働きがあったことも見逃せないが、それ以上に、圓能斎や村雲尼公とともに、戦争未亡人の救済のために女流茶人を育成し、茶道教室の経営による戦争未亡人の自立に対して働きがあったことも間違いないであろう。八重自身、茶道にかかるお金のために大沢徳太郎の提案により有償で茶道を教えていたのであった。なにより、八重は会津戦争のために父や弟を亡くし、前夫の川崎尚之助と離別した、戦争の被害者であった。 八重は、自らの努力で女流茶人のパイオニアとなり、「茶の湯」界の頂点を極めた。また、圓能斎の力もあって、女流茶人の育成も行った。 茶人としての八重は、自らが先導して、男の世界だった「茶の湯」界

新島八重と茶の湯

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を女性に解放し、圓能斎や村雲尼公とともに、女流茶人を主流とする現代「茶の湯」界の流れをつくった。それは、篤志看護婦として従軍し、看護婦の地位向上に尽くしたことと同等以上の彼女の功績と考えることが出来る。 八重にとって茶の湯そのものは四十年を越える彼女の耐久朋だったが、茶友は彼女が心を許せる心の友であった。彼女の死化粧をしたのも茶友であった。 八重のおかげで、同志社は裏千家と特別の関係で結ばれ、キリスト教主義の教育に加えて、京都の地にあって日本を代表する伝統文化の一つである茶の湯の伝統と文化が、同志社の伝統と教育に彩りと厚みを加えることになった。 キリスト者茶人としての八重の願いとは、自らの左手を枕に召天した愛夫襄と、いずれ天国で再会を果たし、天国に設けた茶室で愛夫を茶事でもてなすことではなかったか。私にはそう思えるのである。

注1) 筒井紘一「圓能斎宗室と新島八重」千家茶道の継承図録(中央公論新社、2010年)。

同『茶人交友抄』(淡交社、2011年)。廣瀬千紗子「新島八重の茶の湯」、同志社

同窓会編『新島八重 ハンサムな女傑の生涯』(淡交社、2012年)。本井康博『ハ

ンサムに生きる 新島襄を語る(七)』(思文閣出版、2010年)、吉海直人『新島

八重 愛と闘いの生涯』(角川選書505、平成24年)等。

2) 拙稿の元となった研究発表は、2012年8月4日に同志社大学今出川キャンパス

で行われた同志社大学同志社社史資料センター第一部門研究8月一日研究会で

行ったものである。

3) 本項の論考は、宮崎十三八氏の業績・「山本覚馬・八重の出自」(『新島研究』

No.82、同志社新島研究会 1993年)に多くを負っている。宮崎氏は既に他界さ

れておられるが、生前、自宅の庭の一部を提供され、同処に学校法人同志社が「山

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本覚馬・八重生誕の地碑」を建立された。(実際の山本家は同処より西方にあっ

た。)

4) 宮崎同論文、同書5頁。同志社新島研究会 平成5年。

5) 宮崎同論文、同書同頁。

6) 宮崎同論文、同書11頁。宮崎氏によれば、山本道珍良次の家系は、道珍から数

えると、(2代)次男・佐平良永=(3代)養子・沖右衞門良意=(4代)養子・

平左衛門良金=(5代)平左衛門良久=(6代)権八良高=(7代)養子・繁

之助権八=(8代)覚馬と八重と続く(同論文、同書13 ~ 16頁)。

7) 宮崎同論文、同書10頁。

8) 同書同頁。

9) 同書11頁。なお、同書では元禄11年を「1696年」と誤記している。

10) 同書13 ~ 16頁。

11) 1868年10月23日(慶応4年9月8日)に明治と改元され、あわせて同日に一世

一元制が定められた。

12) 少庵は利休の再婚相手である宗恩の連れ子であったが、利休の実子である亀と

結婚し、亀との間に宗旦が生まれている。なお、利休の先妻の子・道安は利休

賜死の際、堺にあって、その後の動静は明らかでないが、のち、少庵と同様赦

免されて堺千家を興した(村井康彦『図説千利休』112頁、河出書房新社、1989年)。

13) 財団法人会津若松市観光公社ホームページhttp://www.tsurugajo.com/rinkaku/

index.htm (2012年9月10日確認)

14) 村井前掲書113頁。

15) 徳富蘇峰『近世日本国民史 豊臣氏時代乙篇』5巻 467頁、民友社(発売明治書

院)、昭和10年。

16) 天正19年2月29日付鈴木新兵衞より石母田景頼に与えた書翰、伊達家文書。同『近

世日本国民史 豊臣氏時代甲篇』6巻 425頁、民友社(発売明治書院)、昭和10年。

17) 千宗室『茶の道しるへ』6頁、瑞草館、明治41年。

18) 徳富蘇峰、同書第10巻 316頁、民友社(発売明治書院)、昭和10年。

19) 同書320頁。

20) 筒井紘一『茶人交友抄』2頁、淡交社、2011年。

21) 笠井哲「茶の湯における「交わり」について」『哲学・思想論叢』(9) 72,79頁、

新島八重と茶の湯

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筑波大学哲学・思想学会、1991年。「直心ノ交」は、利休の弟子・南方宗啓が師

の言動を書き綴った書とされる『南方録』の「滅後」にある(同論文72頁)。

22) 表千家ホームページhttp://www.omotesenke.jp/tobira.html、裏千家ホームページ

http://www.urasenke.or.jp/index2.html、武者小路千家ホームページhttp://www.

mushakouji-senke.or.jp/aisatsu.html。なお、裏千家のホームページには、「茶道

教室」等茶道という言葉も使われている。(2012/9/15調査)。

23) 三田富子『茶の湯ガイド 心をこめた動作と客のもてなし』48頁、金園社、昭

和60年。

24) 同書をもとに大越がまとめたもの。

25)筒井前掲書。八重は同書の207-219頁で取り上げられている。

26) 筒井前掲書210頁。なお、角倉家から入った猶鹿の婿養子が裏千家12代又玅斎(ゆ

うみょうさい)となった。

27) 筒井同書211頁。吉海同書153頁。

28) 筒井同書195頁、圓能斎年譜。

29) 鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』142頁、「死産と乳児死亡」表(表12)合計値、

講談社学術文庫、2000年。

30) 根岸橘三郎著『新島襄』(警醒社出版、大正12年)に収録。

31) 同書360頁。

32) 「七去」とは、律令制で定められた夫が妻を離縁出来る七つの事由であって、舅

や夫に仕えないこと、子のないこと、多言なこと、窃盗すること、淫乱なこと、

嫉妬すること、悪疾のあることをさす。また、「三従」とは、仏教や儒教道徳に

基づくもので、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う、

という女性の自立を認めない封建的な道徳である。

33) 徳富蘇峰記念塩崎財団・徳富蘇峰記念館蔵、徳富蘇峰宛明治23年3月5日新島

八重書翰。原文のカラーコピーから筆者が読み下した。原文に無い読点も付記

した。

   本書翰は新島襄逝去直後の八重の心境を語る上で「亡愛夫襄の発病覚」と共に

極めて重要であり、かつ、本書翰の全文は未だ活字化されていないため、拙翻

刻により、下にそれを掲示する。なお、翻刻に当たっては、同財団発行の読み

下し文も部分的に参照した。

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追々暖和ニ相成り申し候處、先ハ

貴御家内様方御揃、御機嫌よく

御渡光遊され候由、珍重ニ奉存候

扨先達てより度々御心切様ニ

度々御書状を下〔され〕実ニ実ニ有難〔く〕

くりかへしくりかへし拝見申上奉候

とふより一書差し上〔げ〕御礼申し上げ度

と存じ居り候らへども 何分筆取〔る〕

勇気も御座なく、ついつい今日迄

延引ニ相成り、御申訳も無〔き〕次第

御用捨成下され度、奉願上候

扨亡夫生前より死後ニいた

るまて一方ならぬ御世話様ニ

相成実ニ拙筆ニ尽しがたく

御深情難有、御礼厚く厚く申上奉候

とてもかえらぬ事と存じながらも

来し方行く末の事杯と思ひ

とかく不覚の泪ニくれ居り

申し候、此頃ハ庭前の梅花咲

くとも香り無〔き〕如くうぐひす来り啼

くとも其声あわれニきこえ、時事

物々心をいたましむ許りニ御座

候 実ニ月日の立〔つ〕ハ矢の如〔く〕四拾日

餘り相成候へとも今ニゆめの

様ニ思い居り申し候 兼て病身ニ御座

候間、かくあらんとは覚悟ハ致

し居り候らへとも実ニ人生のはか

無事せめて今三とせとも此世ニ

ながらへ置き度杯とくたらぬ事

新島八重と茶の湯

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許り思ひ暮らし居り申し候 志かし

なから同志社の将来又大学校の事

を存し候へハ、決てくつくつ致し居

〔る〕時ニ御座無く候間、是より勇気を

出し亡夫の心さしを相つき申し度

候 私一家の事許りニ御座候と如何

様ニも致し候らへとも一類の内ニ色々

の事共御座候ニハ、是ニハ少々

困り申し候 志かし此事ハ小事ニ御座

候間御休心成し下され度 広津氏も

此度ハ御帰社ニ相成り此後ハ

中々淋しく相成り申し候らわん存し居り申し候

愛友ト此後四〔、〕五年の中は

東西別々ニ相成り申すへく候らへとも

世の中ニ同志社てふことを志ら

るゝ折りをうとんけの花咲くを

待〔つ〕思ひニて気なかく待ち申し候

一方ヲ思ひ候とくらやミ〔暗闇、か?〕、又一方ヲ

考え候とついふんたのしく御座候

此後萬時小妹ニ御そへ心の

程偏ニ偏ニ願上奉候 當方の様

子ハ横田、広津両兄より一月

廿五日後の事ハ萬時御聞取

り下され度願上奉候 末筆ながら

御尊父母御家内ニ宜敷く願上奉候

延引なから御札旁御伺い迄

早々申上奉候 不具

三月五日   新島八重子

徳富猪一郎様

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尚々、此度御両兄ニ托ス亡夫の

書類差し上申候 何分宜敷御願申上奉候

其内ニ公義も出東致すべく申候らへとも

小ふりの分ハ尊兄許り御覧下度

大乱筆御はんし御覧下候也

公義ハねつみのふんなるや

何連の所へも罷出 困り者ニ御座候

〔封筒表〕

 民友社ニて

徳富猪一郎様

 横田様ニ託ス

〔封筒裏〕

 新島八重

34) 『新島襄全集』第8巻、579頁、同朋舎出版、1992年。

35) 郇山人「新島先生未亡人を訪ふ」(山梨淳「新島八重の雑誌記事集成」、『新島研究』

第103号10,20-21頁、同志社大学社史資料センター第一部門研究、2012年)

36) 宮井悦之輔編『軍人急要 護国の礎』20 ~ 21頁、五車書楼、明治22年。

37) 同書同頁。

38) 前掲『新島襄全集』第8巻、453頁。

39) 同書571頁、および、拙稿「新島襄の「霊魂の病」」『新島研究』第102号、13頁、

同志社大学社史資料センター第一部門研究、2011年。

40) 根岸前掲書357頁。

41) 日本赤十字社編『救護員生徒教育資料』236-237頁、日本赤十字社、明治44年。

42) 日本赤十字社京都支部編『日本赤十字社京都支部沿革誌』277頁、日本赤十字社

京都支部、昭和6年。

43) 赤松俊秀・山本四郎編著『京都府の歴史』(県史シリーズ26)245頁、山川出版社、

新島八重と茶の湯

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昭和54年。

44) 吉海前掲書154頁。

45) 筒井前掲書189頁。

46) 前掲『日本赤十字社京都支部沿革誌』280頁。

47) 安部磯雄等が参加した備前同志社同窓会が、1895年2月23日付けで「広島仲町

53番地」の住所の新島八重子宛てに感謝状を送付している(新島遺品庫資料、

目録番号1949)。なお「広島仲町」とは、広島城から1キロメートルほど南、広

島テレビ放送本社のある現在の中区中町周辺と思われる。

48) 筒井前掲書199頁。

49) 同書212-213頁。

50) 池坊門弟許可状:新島遺品庫資料、目録番号1991。池坊門弟木札:新島遺品庫資料、

目録番号1992。

51) 筒井同書213頁に、弟子の棗を清める所作を見守る八重の1898年12月の写真が掲

載されている。

52) 日本赤十字社篤志看護婦人会京都支会「修業證」新島遺品庫資料、目録番号

1932。

53) 看護学助教嘱託状:新島遺品庫資料、目録番号1933。

54) 看護学助教嘱託状:新島遺品庫資料、目録番号1934。

55) 前掲『日本赤十字社京都支部沿革誌』277-278頁。

56) 吉海前掲書222頁。

57) 同書280頁。

58) 同書同頁。

59) 井上恵子「愛国婦人会の施設に於ける教育活動-大正中期から昭和初期を中心

として-」『教育学雑誌』第17号、236頁、日本大学教育学会、1983年。

60) http://www.urasenke.or.jp/textb/culic/index.html 2019/9/23調査。

61) 新島遺品庫資料に、「裏千家茶道名誉引次」の肩書きによる茶名「新島宗竹」の

木札が保存されている。目録番号1990。

62) 廣瀬前掲論文、前掲『新島八重ハンサムな女傑の生涯』115頁。

63) 秦恒平『湖(うみ)の本 102 宗遠、茶を語る』174頁、「湖(うみ)の本」版元、

2010年。

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64) 札幌市北区役所ホームページ「72.新撰組隊士北区での顛(てん)末記-永倉新八」

http://www.city.sapporo.jp/kitaku/syoukai/rekishi/episode/072.html 2012/09/22

調査。

65) 吉海前掲書102頁

66) 山口弥一郎『白虎隊物語』15頁、会津飯森山上飯盛康子(発行)、昭和34年

67) 吉海前掲書207頁。

68) 同書同頁。

69) 千前掲書6頁。

70) 千宗室「茶道の宗教性」『茶道文化研究』第三輯 1-2頁、茶道総合資料館、昭和63年。

71) 『新島襄全集』第2巻 463頁、同朋舎出版、1983年。

72) 本井康博『アメリカン・ボード200年 同志社と越後における伝道と教育活動』

79-80頁、思文閣出版、2010年。

73) 『新島襄全集』第6巻、169頁、同朋舎出版、1985年。

74) 同書同頁。

75) 吉海前掲書43-45頁。

76) 前掲本井『ハンサムに生きる 新島襄を語る(七)』166頁。

77)同書同頁。

78)『新島襄全集』第3巻 271頁、同朋舎出版、1992年。

79) 同書295頁。

80) 同書324頁。

81) 同書328 ~ 329頁。

82) 吉海前掲書77頁。

83) 前掲『新島襄全集』第3巻 272頁。

84) 新島襄「航海日記」『新島襄全集』第5巻62, 68頁、同朋舎出版、1984年。

85) 新島八重「ステュワートニコルズの死を悼みて」『新島研究』第103号 34頁、

同志社社史資料センター、2012年。

86) 吉海前掲書225頁。

87) 三田前掲書119頁。

88) 筒井前掲書216-217頁。

89) 三田前掲書128頁。

新島八重と茶の湯

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90) 前久夫『京が残す先賢の住まい』90頁、京都新聞社、1989年。

91) 筒井前掲書215-216頁。

92) 同志社大学茶道部・関守石ホームページ「部の歴史」http://www.geocities.co.jp/

CollegeLife/8117/history.html(2012/9/30調査)。

93) 春陽著、同書49頁、洋光出版部 大正6年。

94) 筒井前掲書195頁。

95) 同書214頁。

96) 同書220 ~ 221頁。

97) 三田前掲書153頁。

98) 松森霊運『日蓮主義の為に』33頁、泰山房、大正7年。

99) 同書24頁。

100) 山梨前掲論文,『新島研究』第103号25頁。

101) 『追悼集Ⅴ 同志社人物誌 昭和七年~昭和九年』52-53頁、同志社社史資料室

 1991年。

102) 同書55-56頁。

103) 同書56頁。

104) 『井口海仙著作集一』より。吉海前掲書、159頁。

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宮崎十三八編集『会津戊辰戦争史料集』177頁、新人物往来社、1991年

財団法人会津若松市観光公社ホームページhttp://www.tsurugajo.com/rinkaku/index.

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本井康博『アメリカン・ボード200年 同志社と越後における伝道と教育活動』、思文

閣出版、2010年

池坊門弟木札:新島遺品庫資料、目録番号1992

池坊門弟許可状:新島遺品庫資料、目録番号1991

秦恒平『湖(うみ)の本 102 宗遠、茶を語る』、「湖(うみ)の本」版元、2010年

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裏千家ホームページhttp://www.urasenke.or.jp/index2.html、(2012/9/15調査)

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看護学助教嘱託状:新島遺品庫資料、目録番号1933

看護学助教嘱託状:新島遺品庫資料、目録番号1934

日本赤十字社編『救護員生徒教育資料』、日本赤十字社、明治44年

赤松俊秀・山本四郎編著『京都府の歴史』(県史シリーズ26)頁、山川出版社、昭和54年

前久夫『京が残す先賢の住まい』、京都新聞社、1989年

徳富蘇峰『近世日本国民史 豊臣氏時代乙篇』5巻 、民友社(発売明治書院)、昭和

10年

同『近世日本国民史 豊臣氏時代甲篇』6巻 4民友社(発売明治書院)、昭和10年

同『近世日本国民史 桃山時代概観』第10巻、民友社(発売明治書院)、昭和10年

徳冨蘆花『黒い眼と茶色い目』岩波文庫、昭和14年

宮井悦之輔編『軍人急要 護国の礎』、五車書楼、明治22年

春陽『自活できる女子の職業』、洋光出版部 1917年

村井康彦『図説千利休』河出書房新社、1989年

日本赤十字社篤志看護婦人会京都支会「修業證」新島遺品庫資料、目録番号1932

鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』、講談社学術文庫、2000年

札幌市北区役所ホームページ「72.新撰組隊士北区での顛(てん)末記-永倉新八」

http://www.city.sapporo.jp/kitaku/syoukai/rekishi/episode/072.html 2012/09/22

調査

新島八重「ステュワートニコルズの死を悼みて」『新島研究』第103号、同志社社史資

料センター、2012年

井上忠男『戦争と救済の文明史』、PHP新書、2003年

筒井紘一『茶人交友抄』淡交社、2011年

千宗室〔千玄室〕「茶道の宗教性」『茶道文化研究』第三輯、茶道総合資料館、昭和63年

千宗室〔圓能斎〕『茶の道しるへ』瑞草館、明治41年

三田富子『茶の湯ガイド 心をこめた動作と客のもてなし』金園社、昭和60年

新島八重と茶の湯

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笠井哲「茶の湯における「交わり」について」『哲学・思想論叢』(9)、筑波大学哲学・

思想学会、1991年

『追悼集Ⅴ 同志社人物誌 昭和七年~昭和九年』52-53頁、同志社社史資料室 1991年

同志社大学茶道部・関守石ホームページ                   

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8117/history.html(2012/9/30調査)

徳富蘇峰記念塩崎財団・徳冨蘇峰記念館蔵、徳富蘇峰宛明治23年3月5日新島八重

書翰

新島遺品庫[上-20-E]。

根岸橘三郎著『新島襄』警醒社出版、大正12年

『新島襄全集』第2巻、同朋舎出版、1983年

『新島襄全集』第3巻、同朋舎出版、1992年

『新島襄全集』第5巻、同朋舎出版、1984年

『新島襄全集』第6巻、同朋舎出版、1985年

『新島襄全集』第8巻、同朋舎出版、1992年

大越哲仁「新島襄の「霊魂の病」」『新島研究』第102号、同志社大学社史資料センター

第一部門研究、2011年

郇山人「新島先生未亡人を訪ふ」(山梨淳「新島八重の雑誌記事集成」、『新島研究』

第103号、同志社大学社史資料センター第一部門研究、2012年

「新島宗竹」木札:新島遺品庫資料、目録番号1990

吉海直人『新島八重 愛と闘いの生涯』(角川選書505)、平成24年

『新島八重子回想録』、同志社大学出版部、昭和48年

同志社同窓会編『新島八重 ハンサムな女傑の生涯』淡交社、2012年

松森霊運『日蓮主義の為に』、泰山房、大正7年

日本赤十字社京都支部編『日本赤十字社京都支部沿革誌』、日本赤十字社京都支部、

昭和6年

本井康博『ハンサムに生きる 新島襄を語る(七)』思文閣出版、2010年

山口弥一郎『白虎隊物語』、会津飯森山上飯盛康子(発行)、昭和34年

武者小路千家ホームページ表

http://www.mushakouji-senke.or.jp/aisatsu.html(2012/9/15調査)

宮崎十三八「山本覚馬・八重の出自」『新島研究』No.82、同志社新島研究会 平成5年

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河野仁昭『蘆花の青春 その京都時代』恒文社、1989年

 本論執筆に当たっては、徳富蘇峰記念塩崎財団の塩崎信彦氏、及び茶道家の大越宗

理氏の協力を得た。お名前を明記して謝意を表したい。