若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,frances eliza hodgson...

20
若松賤子『小公子』の翻訳について 情報文化研究室 On Wakamatsu Shizuko’ s Translation of Little Lord Fauntleroy Akimasa M INAM ITANI Information and Culture Abstract This study of Wakamatsu Shizuko’ s translation into Japanese of Little Lord Fauntleroy ( Sho ko shi )analyzes what specifically has contributed to its reputation as an outstanding transla- tion. 『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典 Little Lord Fauntleroy (1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/ 明治23年(26歳)8月から1892/明治25年(28歳)1月にかけて『女学雑誌』に連載翻訳したのがそ の初出である。 鈴木二三雄氏は「『小公子』について」の中で,若松賤子の当時の翻訳ぶりについて,巖本善治の回 想を引きながら次のように紹介している。 巖本善治は,賤子が「小公子」を訳した頃のことを追想して「その頃は病気も重り,年中夜具を敷きづめ で,大祭祝日の外は床上げも致しませんから,子供達はソレを常の事に思って居ました。然し筆を執る時は, 起き上って机に向ひ,スラスラと楽に書き了り,女学雑誌の一回分四五頁位は,只訳もなく書く様でしたが, 其前後には寝ながら色々に考えたものと見え,一語一句の相当な訳語を定めるにも,随分と長く掛った様で す」と語っている。彼女は幼少の頃から外人について語学の勉強を続けていたから,英語に熟達していたこ とは言うまでもなく,よく寝言をいう時はいつも英語であったという,がそれでも訳文の推敲をする時は, 女が半襟のうつりを考えてあれかこれかと思案するように,又時々箪笥からそっと着物を出して見て,独り 217 群馬大学社会情報学部研究論集 第15巻 217―236頁 2008

Upload: others

Post on 05-Jul-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

若松賤子『小公子』の翻訳について

南 谷 覺 正

情報文化研究室

On Wakamatsu Shizuko’s Translation of Little Lord Fauntleroy

Akimasa MINAMITANI

Information and Culture

Abstract

This study of Wakamatsu Shizuko’s translation into Japanese of Little Lord Fauntleroy

(Shokoshi)analyzes what specifically has contributed to its reputation as an outstanding transla-

tion.

『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典 Little Lord

Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

明治23年(26歳)8月から1892/明治25年(28歳)1月にかけて『女学雑誌』に連載翻訳したのがそ

の初出である。

鈴木二三雄氏は「『小公子』について」の中で,若松賤子の当時の翻訳ぶりについて,巖本善治の回

想を引きながら次のように紹介している。

巖本善治は,賤子が「小公子」を訳した頃のことを追想して「その頃は病気も重り,年中夜具を敷きづめ

で,大祭祝日の外は床上げも致しませんから,子供達はソレを常の事に思って居ました。然し筆を執る時は,

起き上って机に向ひ,スラスラと楽に書き了り,女学雑誌の一回分四五頁位は,只訳もなく書く様でしたが,

其前後には寝ながら色々に考えたものと見え,一語一句の相当な訳語を定めるにも,随分と長く掛った様で

す」と語っている。彼女は幼少の頃から外人について語学の勉強を続けていたから,英語に熟達していたこ

とは言うまでもなく,よく寝言をいう時はいつも英語であったという,がそれでも訳文の推敲をする時は,

女が半襟のうつりを考えてあれかこれかと思案するように,又時々箪笥からそっと着物を出して見て,独り

217群馬大学社会情報学部研究論集 第15巻 217―236頁 2008

Page 2: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

楽しむように色々の訳語を思い出していたということである。

肺を病み寝たり起きたりの状態で,主婦としての仕事,妻として巖本の仕事を支える務め,母とし

ての子育て,そして再びの妊娠と出産― そういう当時の女性の逃れられない荷を背負いながらの翻訳

は,苦労も多かったであろうが,そこだけが賤子自身に戻れる貴重な時間でもあったろうと思われる。

また相馬黒光の『黙移』には,

再発また再発で,病苦の残りなく拭われた日とては稀であった人が,幾度か仕事を中断されながら,とにか

く長い間かかって活字にすると,今度はまた誤りを発見して再校するというふうで,その後篇の原稿などは,

今度こそ最後と覚悟した床の中でようやく完成し,それがまだ手元にあるうちにあの二月五日で,原稿は灰

と化してしまいました。しかし先生[巖本善治]や友人諸氏の志で,先に『女学雑誌』に掲載されたものを

取り,故人の志に従うて誤りをただして前篇に合せ,即ち一周忌の記念に上梓されたのであります。

と,若松賤子が最後まで『小公子』に愛着を持って重い病床の中でも推敲を重ねていたこと,そして

その苦心の最終稿が火事で明治女学校とともに焼失し,同時に賤子自身の命もそれから数日を経ぬう

ちに尽きるという,どこか因縁めいたものさえ感じさせる結末が記されている。

* * * * * *

今回翻訳を考える上で『小公子』を取り上げてみたのには,大きく言って2つの関心があった。1

つは,『小公子』は名訳の誉れ高いものであるが,具体的にどこが名訳たる所以なのか,それを分析し,

別稿「社会情報学としての翻訳論」で考えたことと照合してみたいということ,そしてもう1つは,

『小公子』が当時の言文一致運動に貢献したという事実を翻訳という視点から再考し,そこから1世

紀以上を経た現代日本人の日本語の質と比較してみたいということである。

『小公子』は,森鷗外の『即興詩人』同様,やゝ神話化されているきらいがなくもない。まだあま

り西洋の本質的なところが浸透してきていない明治の前期に,渡英,渡米経験のない20歳代の日本女

性が,児童文学とはいえ,このかなり微妙な綾のある文学をうまく翻訳することなどできるのだろう

かというのが読み始める前の率直な疑問であった。翻訳には誤訳はつきものであり,果して『小公子』

にも誤訳と言い得るもの,もっとよい訳が望まれる箇所はかなり見つけられた。しかしその頻度は,

もし自分が翻訳したとしたら犯すであろうよりもずっと少なく,漱石が指摘しているように,若いと

きから西洋人に直接教えてもらっていた明治初期の日本人のほうが,それ以降の日本人よりも英語力

は上であったのかもしれない。また若松賤子の学んだフェリス女学校は和漢の授業にも力を入れてお

り,人文的な素養に集中できた当時の知識人の方が,現代の日本人一般よりも,日本語の運用能力と

いう点でも格段に優れており,それもまた英語を解読する力になったのであろうと推測された。

南 谷 覺 正218

Page 3: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

しかし誤訳は誤訳であるので,以下,幾つかのカテゴリーに分けて,代表的と思われる箇所を指摘

しておきたい。

⑴ 当時の日本であまり知られていない英米の事物,習俗についての誤訳

(a)セドリックが,友人の1人と駆け競べをする場面で,starterが,“One to make ready!Two

to be steady. Three―and away!”と言う場面,現代の日本であれば,「位置について― 用意― ド

ン!」と訳すところだが,若松訳では,「みんな好かえ?一ッチデ始まり……二ッデ確乎しっかり

……三ッデや

れい― 」 となっている。若松は,駆け競べを始める準備段階としての掛け声であることは理解して

いたであろうし,明治の当時,すでに学制が敷かれ,軍事教練の下準備としての運動会も行われてい

たであろうから,こうした競技における何らかの掛け声はあったのであろうが,このような言葉が使

われていたとはとても思われない。若松自身,これらの掛け声で,競技者がどのような姿勢を取って

いたのか,「三ッデやれい」以外は想像できなかったのではあるまいか。

(b)同じく,セドリックと伯爵が野球ゲームに興じるところは,概ね現代の目から見て奇異な訳に

なっている。次はセドリックが伯爵に,(玩具による)野球ゲームを教えようとしているところである。

“It’s very interesting when you once begin,”said Fauntleroy.“You see,the black pegs can be your side

and the white ones mine.They’re men,you know,and once round the field is a home run and counts one

―and these are the outs―and here is the first base and that’s the second and that’s the third and that’s

the home-base.”(Chapter6)

若松訳は,「あなた。始めてみると,中々面白いですよ,ネイ,ソラ,木で出来てるけれど,人間の

積なんですよ……と,それから何が外れて,何が勝だといふこと,この筋,あの筋が何々になる,と

いふ委しい説明を致しまして」となっている。野球は,19世紀の半ばまでにはアメリカで広く行われ

るようになっており,1870年代には日本にも伝えられていたとされているので,あるいは人づてに聞

けば,野球について知っている日本人もいたかと思われるが,この部分は,outが「外れ」と訳されて

いるように,ほとんど理解されていない。野球についてよく知っている現代日本人には,セドリック

の息せき込んだような調子と,ホームランの説明が子供っぽく不適切になされているのも読み取るこ

とができる。

これらの誤訳は,時代の制約ゆえの仕方ないもので,仮に野球をよく知るアメリカ人の説明を受け

てルールの委細を了解したとしても,当時の読者には,「アウト」も「一塁ベース」も「ホームラン」

も伝えようがなかったであろう。

⑵ ケアレスミス

(a)一番目につくのは,“the Earl of Dorincourt”という爵位を「侯爵」と訳していることであろ

若松賤子『小公子』の翻訳について 219

Page 4: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

う。日本では,1884(明治17)年に華族令で公・侯・伯・子・男の五爵位が定められているから,『小

公子』の訳され始めた1890(明治23)年には,イギリスの爵位,duke,marquis,earl,viscount,baron

との対応は知られていたはずである。故意に侯爵としたのかとも考えたが,他の爵位が言及されてい

る “...Mr.Hobbs had said some very severe things about the aristocracy,being specially indig-

nant against earls and marquises.”という箇所で,earls and marquisesを「殊に侯爵とか伯爵とか

いふもの」と訳しており,おそらくearlを「侯爵」,marquisを「伯爵」と取り違えていたのではなか

ろうか。

(b)次の例は,誤訳とは言えないが,“his papa had died when he was so little a boy that he

could not remember very much about him,except that he was big,and had blue eyes and a long

mustache, and that it was a splendid thing to be carried around the room on his shoulder.”

(Chapter 1)の “blue eyes”の部分を「眼が浅黄色で」としているのは誤解を招きやすいと思われ

る。「あさぎ」は,「浅葱」だが,音の類似から「浅黄」とも書かれるようになり,漢字の連想によっ

て,本来の「あさぎいろ」も示す一方,うす黄色もイメージするようになった。セドリックは,エロ

ル夫人と同様,茶色の目で,それはイギリスの貴族的な青い目が,アメリカの庶民的な茶色の目と婚

姻によって結ばれ,茶色の目の子供ができたことにある種の意味が持たせられているようで,ここで

セドリックの父親の目がうす黄のイメージで捉えられる可能性を残すのはあまり望ましくない。また

「あさぎ色」は,何と言っても葱の色だから,俗には空色を連想することもあるようだが,本来はど

ちらかと言えば緑がかった色である。やはりここは平凡に「青」と訳していたほうがよかったのでは

なかろうか。

(c)作品の最後の部分で,自分が正当な「ドリンコート伯爵」であると名乗り出た少年が,その本

当の父親を教えられたときの,“He had been so accustomed to queer experiences that it did not

surprise him to be told by a stranger that he was his father.He objected so much to the woman

who had come a few months before to the place where he had lived since his babyhood....”

(Chapter14)という箇所が,「近頃自分の一身に起つた不思議千万なことに慣れてゐて,見知らぬ人

におれは貴様の爺おやじ

だといはれてもさほど驚きませんかつた。実は数年前に自分が赤子の時から居た処

へ一人の女が来て,突然だしぬ

けに御前の母と名乗つた其人を何となく,厭に思つて居ましたから」と訳さ

れているが,“a few months”が「数年前に」となっているのは,若松賤子の使用した版の誤植でな

ければ,ケアレスミスであろう。この誤訳は,それまで丹念に読んできた読者をまごつかせるであろ

うから,やや罪の重い不注意と言うべきかもしれない。

⑶ 語義・語法の誤り

(a)ハヴェシャム氏がドリンコート伯爵に,エロル夫人の心映えを伝えたときの,“The Earl sank

back into his chair.”(Chapter 4)というところは,「御前は空あふ仰のけにドツカと椅子の背に憑

もたれて居ら

れましたが」となっていて,伯爵が傲然とした姿勢でハヴェシャム氏のレポートを聴いていたという

220 南 谷 覺 正

Page 5: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

解釈に立っているが,ここは,身を乗り出すように聴いていたのが,予想とすっかり違うエロル夫人

の心映えに意表を突かれて,椅子の背に倒れ込むように凭れたことを意味している。“sink back”と

いうのは動作であって,「憑れて居」るという状態を意味するには語法的に無理である。

(b)次の例は語義に関わるもので,“Well,”remarked Lord Fauntleroy, “if I couldn’t be a

president,and if that is a good business,I shouldn’t mind.The grocery business is dull sometimes.”

(Chapter5)のところを,「さうですネ,どうしても大統領になられないで,その,今のことが好商

売なら夫でも好ですヮ,万屋は時々不景気でいけませんもの。」と訳しているが,dullはここでは「す

ることがない」の意味で「不景気」ではない。

(c)もう1つ語義の問題を含むpassageを見てみよう。

And she could tell,too,what all the servants had said when they had caught glimpses of the child on the

night of his arrival;and how every female below stairs had said it was a shame,so it was,to part the

poor pretty dear from his mother;and had all declared their hearts came into their mouths when he

went alone into the library to see his grandfather,for“there was no knowing how he’d be treated,and

his lordship’s temper was enough to fluster them with old heads on their shoulders,let alone a child.”

(Chapter7)

(此おかみさんは)若様の御到着の当夜,下しも部べどもが一目見た処で,若様のことを,何と申したといふこと,

又お婢はした

たちは,あの可愛いゝお子を,おつかさまの手から離すとは,余り,むごたらしいことだと,一同気

の毒がつたといふこと,又自分が本当に尤だと思ふといふこと,さうして,其お子がお祖父様が入つしやる

書斎へ,タツタ,一人で遣られた時は,みんなが冷々した,なぜといへば,侯爵様がどんな取扱ひ様をなさ

るかかしれぬ,平生から,子供はさて置いて,自分たちの様な,随分好い年をした者でさへも,こらへ切れ

ぬほどひどい癇だから,といつて居たといふことを一々聞伝へたまゝ,人毎に話して聞かせ升た。

“their hearts came into their mouths”“fluster them with old heads on their shoulders”は口語

の idiomaticな表現であるが,「冷々した」「自分たちの様な,随分好い年をした者でさへも,こらへ切

れぬほどひどい癇だから」と無難にこなしている。原文には多少のユーモアもあるので,もう少し生

き生きした表現にしてもよかったかもしれない。“so it was”は難しいが,「又自分が本当に尤だと思

ふといふこと」と,意は正確に取っているものの,訳文だけ読むと,原文の「ホントにそうだよ,情

けないったらないよ」という,おかみさんの口吻が聞えてこない難がある。語義上の誤りは,“let alone

a child”で,若松訳では「子供はさて置いて」となっているが,「自分たちの様な,随分好い年をした

者でさへも,こらへ切れぬほどひどい癇だから,まして子どもの若様は一体どうなることかと,固唾

を呑んで…」というような意味であろう。

この作品には,庶民のcolloquialismや特殊な slangもよく登場し,現代であれば,各種の辞書もあ

221若松賤子『小公子』の翻訳について

Page 6: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

り,また実際の発音に慣れ親しんでいるとある程度推測できるのであるが,そういう方便も機会もな

かったであろう若松は,そうしたハンディキャップにも拘らずほとんどの箇所をよく摑んでいる。た

だ,水夫たちの swearingである “Shiver my timbers,but it’s a cold day!”とか,海事用語のあるも

のは訳出していないので,あるいは調べがつかなかったのかもしれない。

⑷ 微妙なニュアンスの含まれたテクストの訳

これは解釈の領分に属するもので,必ずしも誤訳とまで言いきれないが,登場人物の心理に添って

いないのではないかと危惧される箇所が,かなり目についた。

(a)まずハヴィシャム氏がセドリックとearlについて頓珍漢なやりとりをする場面―

“Yes,”answered Ceddie cheerfully.“When a man is very good and knows a great deal,he is elected

president.They have torch-light processions and bands,and everybody makes speeches.I used to think

I might perhaps be a president,but I never thought of being an earl.I didn’t know about earls,”he said,

rather hastily,lest Mr.Havisham might feel it impolite in him not to have wished to be one―“if I’d

known about them,I dare say I should have thought I should like to be one.”(Chapter2)

エイ,大変な好い人で,色んなこと知つて居れば,大統領に撰ばれるんです。それから炬火で行列をした

り,楽隊が出たり,皆んなが演舌をしたりするんです。(此時侯爵になり度なかつたのだと思はせて,ハ氏の

気を損じてはと心配し,言葉忙せはしくいひ替て)アノ僕だつて,侯爵といふもの知つてたら,なりたかつたか

も知れませんよ,ダケド知らなかつたんですからネ。と,いひ升た。

この “I used to think I might perhaps be a president,but I never thought of being an earl.”のと

ころが若松訳ではすっかり抜けているのだが,それはケアレスミスではなく,意図的なものかもしれ

ない。しかし,原文の「急いで言葉を継いだ」というのは,“but I never thought of being an earl.”

と言ったことが,伯爵になりたくなかったという意味に聞えてはハヴィシャム氏をがっかりさせるか

もしれないという優しい気遣いの現われなのであるから,これを省いてしまうと,その心理が読者に

伝わりにくくなってしまう。「大統領になってもいいかなと思ってたんです」というのがこましゃくれ

て聞えるのを避けたかったのかもしれないとも考えたが,セドリックは食事が終わった後の伯爵との

対話の場面で,再び大統領になりたいという気持を吐露しており,その部分ははちゃんと訳出されて

いるから,ここでだけ省略すると却って後での大統領云々が唐突なものとなってしまう。

(b)食事が終わった後の伯爵との対話の部分は,侯爵のイギリス的な考えと,セドリックのアメリ

カ的な考えが対比されている部分であるから,少し詳しく見てみたい。

“I suppose you think you are very fond of her,”he said.

222 南 谷 覺 正

Page 7: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

“Yes,”answered Lord Fauntleroy,in a gentle tone,and with simple directness;“I do think so,and

I think it’s true.You see,Mr.Hobbs was my friend,and Dick and Bridget and Mary and Michael,they

were my friends,too;but Dearest―well,she is my close friend,and we always tell each other every-

thing.My father left her to me to take care of,and when I am a man I am going to work and earn money

for her.”

“What do you think of doing?”inquired his grandfather.

His young lordship slipped down upon the hearth-rug,and sat there with the picture still in his hand.

He seemed to be reflecting seriously,before he answered.

“I did think perhaps I might go into business with Mr.Hobbs,”he said;“but I should like to be a

President.”(Chapter5)

貴様は,お袋を大層,好すきだと思つて居るのだらうな,

フォントルロイは何気なく,優しい調子で,

エー,さう思つてるんです,さうして,僕本当に,好すきなんだと思ふんです。あのホッブスをぢさんも,ヂッ

クも,ブリヂェツトも,メレも,ミチェルも,みんな僕の友だちですけど,アノかあさんは,マア,僕の大

変な親友なんです,さうして,僕と二人は,いつでも,何でも話あいつこするんです。僕のとうさんが,い

つまでも,よく世話をしろつていつて入いらつしたんだから,僕は成人

おとなになると,働て,かあさんのに,お金を

儲けるんです。

侯爵は,

何をして,金を儲けるつもりだ?。

セドリックは辷すべり

下りて,元の毛革の上へ坐り,手に件の写真を持ちながら,真面目に,考へて居る様子で,

暫くしてから,

僕はネ,ホッブスをぢさんと一処に商買をしようかと思てたんですがネ,どうかして,大統領になり度と

も思ふんです。

ここでは,“My father left her to me to take care of”(「お父さんは亡くなってしまったので僕が

お母さんの面倒をみなくてはならないんです」)という部分が,少し日本的な考えに歪められた訳に

なってしまっている。それはともかくとして,この場面では,イギリス的な reserveや understatement

をよしとせず,“simple directness”で正直に愛情を表す態度,家族をも friendとして大切にすること,

家族の中で何でもオープンに話しあうこと,仕事で金を稼ぐこと(earning money)を卑しいことと

せず尊いこと,一人前の人間の証しだと考えること,雑貨屋と大統領が職業的な貴賎の別なく尊重さ

れていることなど,庶民的なAmerican valuesに満ちていて,それが,イギリス貴族の考え方にchal-

lengeとして突きつけられているのである。従って,翻訳も,できればそのようなことが読み取れるよ

うにしておくのがいいわけだが,若松の訳では,例えば “simple directness”の訳が省かれているな

223若松賤子『小公子』の翻訳について

Page 8: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

ど,あまりこうした“international theme”に目が向けられていない憾みがある。そういう意味では,

『小公子』全般に亙って,「イギリス的なるもの」や,伯爵の心理に関する微妙な表現の訳において,

しばしば理解が行き届いていないという印象を受けた。

⑸ 訳が抜けているところ

訳し漏れというか,原文の言葉を端折って要約的に訳している部分は殊に多く目に付いた。日本の

読者にとって,あまり面白くもないようなところは,くだくだと訳さないで,あっさりと一筆で訳す

という態度である。これは,現在の日本文学を英語に訳するときによく見られるもので,日本の事物

や心情の細かな点へのこだわりが,あまり英語圏の人間にとって面白くないと判断される場合,編集

段階で訳がよくカットされるのだが,どちらも翻訳としては望ましいことではない。1つだけ例を挙

げると―

He felt a great, strange pleasure in the beauty of which he caught glimpses under and between the

sweeping boughs―the great, beautiful spaces of the park,with still other trees, standing sometimes

stately and alone,and sometimes in the groups.Now and then they passed places where tall ferns grew

in masses,and again and again the ground was azure with bluebells swaying in the soft breeze.

(Chapter5)

若松訳では,下線部の訳が省略されている。このドリンコートの領地を描いたところは,土地の大き

さ,自然の美しさが丹念に描かれていて,下線部は同じような冗長な描写にすぎないと考えて切り捨

ててしまったのではあるまいか。若松訳は,「風にユラ

〳〵

と戦いで居つた大枝の間から,チラ

〳〵

える樹苑の景色,一々セドリックの心を悦こばせ,眼を慰ませぬものは有りませんかつた。時々は蒼々

とした丈の高い格注草し だ

が,毛氈を敷詰めた様に生えた処を眺め,又処々には,微そよ風かぜに靡く桔梗の薄色

が,空と見擬まがふ計ばかりに咲き乱れて居つた処を通りました。」となっている。ここでは,“sweeping”(正

しくは「(曲線を描きながら)長く伸びる」)の語義上の誤訳,“strange”と “under and between”の

“under”の訳し漏れ,“bluebells”の日本の植物に翻案した訳など若干の瑕疵が認められるが,全体の

印象はうまく訳出されている。さて訳し省かれた下線部で意図されているのは,馬車で広い道を通っ

てお城に向かっている,その道沿いの大きな樹の並木が辺りに枝を張りめぐらせていて,それが一種

の目隠しになっているのだが,それでもその枝々の𨻶間から,また下から,奥にある庭園がちらちら

見え,その庭園の中にも,大樹がぽつんと立っていたり,こんもりした小さな森のようになっていた

りするという光景の描写によって,イギリス貴族の “park”の広大さと奥深さを髣髴させることであ

るから,こうしたところは丹念に訳す価値があるのだが,若松はそうしたことにあまり関心を持って

いなかったように感じられるのである。

224 南 谷 覺 正

Page 9: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

* * * * * *

以上,翻訳上の問題点を幾つか指摘してきたが,では若松訳は欠陥だらけの劣等な翻訳かと問われ

れば,総合的に判断して,『小公子』は,現代の視点から見ても,「名訳」の名を冠するに価する訳業

であると回答せざるを得ない。では,そう判断する根拠を,批判部分と同様,幾つかのカテゴリーに

分けて説明しておきたい。

⑴ 意を汲んだ訳文の滑らかさ

He knew very little about children,though he had seen plenty of them in England―fine,handsome,rosy

girls and boys,who were strictly taken care of by their tutors and governesses,and who were sometimes

shy,and sometimes a trifle boisterous,but never very interesting to a ceremonious,rigid old lawyer.

(Chapter2)

ハ氏は,英国で見た子供の数の最いとも多おほい

中なかに,厳重,鄭

てい寧ねいに抱への師匠に仕着けられた,気量好の,立派な童

男,童女も多くありました。中には,控めの質もあり,又騒々敷のも有りましたが,忸なれ近づいて,扨子供

といふは,どういふものと,気を留めて見様と思つた程のは有りませんかつた。尤も,ハ氏の如き四角張つ

た,厳きちやう

整めんな老代言人にとつては,子供などは別段面白いことはなかつたでせう。

これは,「譲歩」が複合している(...,though...,but...)構文で,英語の統語法に律義に訳すと,佶

屈した訳文になってしまいやすいところだが,“He knew very little about children”を「忸なれ近づ

いて,扨子供といふは,どういふものと,気を留めて見様と思つた程のは有りませんかつた」と訳し,

but以下の,統語上はwhoにつながる従属節を,「尤も,ハ氏の如き」云々と軽く付け足すように訳す

ことによって,滑らかな日本語の中に原文の呼吸を巧みに写している。

⑵ 訳文の自在さ,柔軟性

(a)...there was certainly no more popular voyager on any ocean steamer crossing the Atlantic than

little Lord Fauntleroy.He was always innocently and good-naturedly ready to do his small best to add

to the general entertainment,and there was a charm in the very unconsciousness of his own childish

importance.(Chapter4)

凡そ大西洋を渡つた人の中で,これほど人に珍重されたものがあらうかと,おもはれるほどでした。何んで

も,人の興にならうとおもへば,及ばずながら,心よく自分の出来る丈けはして見ようといふ風で,あどけ

ない中に,自分は決して角へ置かれぬ人物とおもふ様子が尚ほ可愛いゝのでした。

225若松賤子『小公子』の翻訳について

Page 10: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

Burnettが日本語で書いたらこうもなろうかというほど原文の意と姿を写している。“add to the gen-

eral entertainment”「何んでも人の興にならうとおもへば」,“innocently and good-naturedly ready”

「及ばずながら,心よく…してみようという風で」などは,語にこだわらず,フレーズで考えた自在

な訳になっている。“the very unconsciousness of his own childish importance”は訳しにくいとこ

ろで,「子供っぽく自分が重要な存在だと思っているその天真爛漫なところが」ということだが,「あ

どけない中に,自分は決して角へ置かれぬ人物とおもふ様子」というのが,生きた表現になっていて,

可愛さがよく読者に伝わってくる。

(b)He stood up from his stool quite suddenly.

“Shall I be your boy,even if I’m not going to be an earl?”he said.“Shall I be your boy,just as I was

before?”And his flushed little face was all alight with eagerness.

How the old Earl did look at him from his head to foot,to be sure!How his great shaggy brows did

draw themselves together,and how queerly his deep eyes shone under them―how very queerly.

(Chapter12)

……といつて,急に腰かけを離れ,

僕,侯爵にならなくつても,矢つ張り,お祖父さまの子なんですか?先の通りにお祖父さまの子?

といつた顔が紅で,そこに,返事を待つ一心が現はれて居升た。

どうもこの時の老侯が,頭から足の先まで,セドリックをご覧なさり様といへば,実に非常でした。彼の

フツサリした眉の寄せ塩梅といひ,其下の窪い眼の光りといひ,実に平常と違つて居り升た。

ここは,セドリックが伯爵の愛情を失ってしまうのではないかという純真な緊張が表現されている

ところで,下線部の “his flushed little face was all alight with eagerness”がやゝありきたりの表現

であるところ,「といつた顔が紅で,そこに,返事を待つ一心が現はれて居升た」は,「一心」が見事

な訳語であり,全体として,原作者の言いたいことを,原文以上に巧みに言い表している。禅の公案

ではないが,窮した果てに豁然と自在を得る(と言われている)ような,翻訳の勘所を感じさせる訳

になっている。続く伯爵の様子の描写の感嘆文も,「どうもこの時の老侯が,頭から足の先まで,セド

リックをご覧なさり様といへば,実に非常でした。」と間断がない。

⑶ 雰囲気,音への繊細な配慮

Mrs Errol glanced down at Cedric.He was lying in a graceful,careless attitude upon the black-and-

yellow skin;the fire shone on his handsome,flushed little face,and on the tumbled,curly hair spread

out on the rug ;the big cat was purring in drowsy content;she liked the caressing touch of the kind

little hand on her fur.(Chapter4)

226 南 谷 覺 正

Page 11: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

エロル夫人は,セドリックに,眼を移しますと,彼の黄と黒の毛皮の上に,たあいのない中にしなやかな様

子をして寝そべつて居りまして,少しポツトした容色好きりやうよし

の幼顔をさながほ

の上と,毛革の上とに,フサ〳〵

と乱脈に散ちり

広ひろがつてゐた髪の毛は,暖室炉の火を輝

てり反かへして居りました。彼の大猫は,さも安楽さうに,ゴロ

〳〵

ひながら,寝むそうな顔してゐまして,セドリックの優しい可愛い手で撫でられるが嬉しい様でした。

最初の文は,エロル夫人の視線の動きに合わせて読者の視線をセドリックの方に導いていく機能なの

で,「エロル夫人は,セドリックに,眼を移しますと」がふさわしい訳になっている。暖炉の火が照し

ていたのは,セドリックの顔と髪だが,意図的に,顔にかかる髪が光を照り返していた,と転換して

いる。これは読者の視線を,セドリックの全体的な姿→顔と髪→暖炉の火と自然に導こうという原文

の趣向に叶っている。しかしこのパッセージの最も優れたところは,その場の情景の雰囲気をよく醸

し出しているところで,「寝そべつて」…「寝むそうな」,「ポツト」…「フサ

〳〵

」…「ゴロ

〳〵

」等,

くつろいだイメージ,音などが心地よいリズムを成している。

⑷ narrativeの工夫

But the old Earl saw and heard very different things,though he was apparently looking out too.He

saw a long life,in which there had been neither generous deeds nor kind thoughts;he saw years in which

a man who had been young and strong and rich and powerful had used his youth and strength and wealth

and power only to please himself and kill time as the days and years succeeded each other;he saw this

man,when the time had been killed and old age had come,solitary and without real friends in the midst

of all his splendid wealth;he saw people who disliked or feared him,and people who would flatter and

cringe to him,but no one who really cared whether he lived or died,unless they had something to gain

or lose by it.(Chapter6)

この passageでは,下線を施してあるように sawが5回使われており,直訳的に訳すと,大体以下の

ようになる。

しかし年老いた伯爵は,彼も馬車の外を見ているようなふうであったが,まるで違ったことを見たり聞いた

りしていた。彼は,心の広い行為も,優しい考えもなかった長い人生を見つめていた。若く,強く,金持ち

で,社会的勢力がある人間が,その若さ,強さ,財産,勢力を,日々が次々に移り行く中で,ただ自分を喜

ばせ,時間を潰すためだけに使った歳月を見つめていた。そして時間が潰し終えられ老齢が訪れると,すば

らしい富の中にぽつんと取り残された,孤独な,真の友人のいない自分を見つめていた。彼を恐れ嫌う人々,

そしてお追従を言ったり媚び諂いをする人々を見つめていた。彼が生きようが死のうが,自分の利益になっ

たり損失になったりしないかぎり,本当に気にかける人間は一人としていないのであった。

227若松賤子『小公子』の翻訳について

Page 12: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

「見つめていた」を最後にまとめて1回だけ使おうとすると,目的語部分が長すぎて息が続かず,こ

こはどうしても工夫が必要なところである。要は伯爵が自分の生涯を,「自分は何一つ優しいことを考

えも行いもしなかった」→「恵まれた境遇の中で,すべての時間を利己的な目的で使った」→「老い

が訪れ,富はあっても孤独に取り残された人間になった」→「周りの人間は自分を恐れたり媚びたり

するだけだ」→「本当に自分のことを気にかけてくれる人間は1人としていない」と思い巡らしていっ

たということである。そうであれば,伯爵の内面に入り込み,描出話法的に表現したほうが,日本語

として滑らかに接続するのであり,若松の訳は,まさにその手法を使って成功している。「春秋に富み」

…「春秋は行て」の呼応,“as the days and years succeeded each other”の「日を過ごし,年を経る

に随がつて」という対句的リズム,“in the midst of all his splendid wealth”の「有余る宝の中に坐

りながら」という巧みな隠喩化など,技法的な冴えも見られる。

老侯も亦同じ様に目こそ外面そとも

を眺めて居られながら,見聞なされた物事は,是とは丸で違つて居り升た。此

時,老侯の眼の前に,何か外事よそごと

の様に,歴々と見えたものは,慈善らしき業も,深切めいた思遣りも,皆無

の長い生涯でした。元来,春秋に富み,健康で,財産にも権力にも不足のなかつた者を,日を過ごし,年を

経るに随がつて,たゞ

〳〵

己れ一人の逸楽を謀り,年ひ月まをつぶさうが為に,勇壮な精神も,富も,権力

ちからも,

悉く消費つひや

し尽して,さて,其果に春秋は行て,再び呼戻す術なく,老衰の襲ひ来きたる時分になつて,有余る宝

の中に坐りながら,ションボリとして,真まこと

の朋と友も一人もなく,自分を嫌ひ恐るゝもの,或は追従し,諂ふ者

は有ながら,自己じぶん

の損得に係はらぬ限り,此老人が生いき存ながらへようと,死なうと,意に介するものさへない,

寂寞な境界を思い廻して居られ升た。

⑸ 生きた口語表現

Then he looked at the story papers,and after that they read and discussed the British aristocracy;and

Mr Hobbs smoked his pipe very hard and shook his head a great deal.He shook it most when he pointed

out high stool with the marks on its legs.

“There’s his very kicks,”he said impressively;“his very kicks.I sit and look at’em by the hour.

This is a world of ups an’it’s a world of downs.Why,he’d sit there,and eat biscuits out of a box,an’

apples out of a barrel,an’pitch his cores into the street;an’now he’s a lord a-livin’in a castle.Those

are a lord’s kicks;they’ll be an earl’s kicks some day.Sometimes I says to myself,says I,‘Well,I’ll be

jiggered!’”(Chapter11)

Little Lord Fauntleroyに生彩を与えているのが,アメリカ,イギリスの庶民の口語表現である。

そうした種類の英語に触れる機会の少ない日本人には理解が難しく,かつ,それを日本語に訳すのも

簡単ではない。このpassageは,熱烈な共和主義者である雑貨屋のホッブズ氏が,セドリックが蹴っ

た跡を家宝視するという,思想と本音が違う人間の生地― そしてそれがいかにもアメリカ人らしくも

228 南 谷 覺 正

Page 13: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

あるのだが― をユーモアある筆致で描いた箇所である。若松賤子というと,会津藩の悲劇,キリスト

教入信,巌本善治との恋愛結婚,肺の疾患による病床生活,賤子という筆名― そういう連想から,お

そろしく生真面目,深刻で,およそ明るい笑い声とは無縁の人間というイメージを描きがちだが,巌

本という人もどうやら捌けた一面を持っていたように,こういう箇所の訳文を読んでいると,なかな

か瓢逸味を解する人であったことが分かるのである。「シテミルト」などというのは,秀逸な訳と言え

よう。全体的に,ホッブズ氏という人間を髣髴とさせてくれるような生彩ある日本語になっている。

ソレ,あそこにあるのが,あれの蹴た跡だワ,まがひもねいあれの靴の跡なんだ。わしはボンヤリいつまで

も眺めて居ることがあるんだ。なる程,世の中の浮沈といふが,そこへ坐つて,箱の中から菓子パンを出し

て食ひ,又樽の中から林檎を出して食くって,心

しんを外へ投た者が,今となれば,華族で,お城住ひだなんてナ,

シテミルト,あれも華族様の足の跡だゼ。追つては侯爵さまの蹴跡になるんだ。色々独り考へてナ,「たまげ

たこつたつて」言つてるのよ。

⑹ 《志向するもの》の翻訳

Little Lord Fauntleroyは,大人が読むに堪えない感傷的で稚拙な文学ではけっしてない。登場人

物はその生き生きした科白によって描き分けられているし,少年少女が嗅ぎ分けるにはやや微細にす

ぎるような心理の綾も描き込まれている。無駄のない,ほとんどarchetypeと言えるようなストー

リー展開,アメリカ文化とイギリス文化の交渉,そして,ややexplicitに過ぎるかと懸念されはする

が,借り物でない力あるメッセージ性によって,優れた文学たり得ている。しかしその中でも最大の

魅力は何であるかと言えば,誰しも,現代のキリストになぞらえられるような― そしてそれを慈しむ

母は現代のマリアということになる― 幼子の純真,そこから来るあどけない可愛らしさ,笑いを誘う

ほほ笑ましさ,そして自由,平等,友好性,自恃といったアメリカ文化の(たとえ建前としての理想

ではあっても)精髄のような精神と,イギリス貴族の持つ(たとえ建前としての理想ではあっても)

品位,自己抑制,勇気,強靱さを兼ね備えた主人公のセドリックのキャラクターの魅力に指を屈する

であろう。若松賤子の『小公子』においても,勿論そこに力が注がれており,微妙な点で日本的な平

板なものに還元され丸められているところ,また今日の視点から見ると表現が風変わりに響くところ

がなくもないのだが,全体として見た場合,今日これだけうまく訳せるかどうか疑わしくなるほど,

spiritが伝わってくる訳になっている。表現の部分的な奇矯ささえもが,模倣しようのない古格を帯び

て映るほどである。

1つのサンプルとして,最後の,セドリックが8歳の誕生日に集まってくれた人たちに謝辞を述べ

る場面を見てみよう。

And then the Earl put his hand on the child’s shoulder and said to him:“Fauntleroy,say to them that

you thank them for their kindness.”

229若松賤子『小公子』の翻訳について

Page 14: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

Fauntleroy gave a glance up at him and then at his mother.

“Must I?”he asked just a trifle shyly,and she smiled,and so did Miss Herbert,and they both nodded.

And so he made a little step forward,and everybody looked at him―such a beautiful,innocent little fellow

he was,too,with his brave,trustful face!―and he spoke as loudly as he could,his childish voice ringing

out quite clear and strong.

“I’m ever so much obliged to you!”he said,“and―I hope you’ll enjoy my birthday―because I’ve

enjoyed it so much―and―I’m very glad I’m going to be an earl―I didn’t think at first I should like it,but

now I do and I love this place so,and I think it is beautiful―and―and―and when I am an earl,I am going

to try to be as good as my grandfather.”

And amid the shouts and clamour of applause,he stepped back with a little sigh of relief,and put his

hand into the Earl’s and stood close to him,smiling and leaning against his side.(Chapter15)

現在もっともよく読まれているであろう,村岡花子訳(講談社)では,この部分の訳は次のように

なっている。

伯爵は,小さなかたに手をかけ,

「これ,フォントルロイ,みんなのしんせつにたいして,礼をいったがよかろう。」

とささやきました。

セドリックは,ちらとおじいさまを見あげ,それから,おかあさまを見ました。

「おかあさま,なにか,ぼく,いわなくてはいけないのですか。」

と,はずかしそうにききました。

おかあさまと,ビビアン嬢が,いっしょにうなずいて,にっこりほほえみました。

そこで,セドリックは,一足前に進みでて,さえざえとよくひびく,子どもらしい声をはりあげて,

「ぼく,みんなにありがとうって,いいたいんです。そして,ぼく,きょうはとても楽しかったから,み

んなも楽しければいいと思います。

それから,ぼく,伯爵になるのがうれしいんです。はじめは,ちっともすきだなんて,思わなかったんだ

けれども,いまはすきになったんです。

それに,ぼく,ここが大すきなんです。とても美しいところだと思います。

それから,ぼく,伯爵になったら,おじさまみたいな,いい伯爵になろうと思っています。」

これだけいうと,みんなのどっとあげるよろこびの声と,あらしのようなはくしゅにつつまれて,もとの

ところにさがり,セドリックは,ほっと大きなため息をつきました。それから,伯爵の手につかまってより

そい,にこにこしながら立っていました。

これは子ども向けの本として訳されているので,“and everybody looked at him―such a beautiful,

230 南 谷 覺 正

Page 15: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

innocent little fellow he was,too,with his brave,trustful face!―”の部分は省略されているものの,

まず過不足なく訳され,誤訳と呼べるような部分もなく,こなれた日本語になっている。

しかし原作を読んでいると,ここには作者Frances Burnettの心がしみ込んでいるような味わいが

ある。この作品全体を通じて,主人公が少しずつ成長していく様が意識的に,かつ自然に描かれてい

るのだが,8歳になった主人公は,ここで初めて子どもの愛くるしさですまされることから,一人前

の人間として,社会の前での役割をしっかり果たすことが期待されている立場に立たされているので

ある。しかも一人でそれを果たさねばならない。

8歳と言えば,まるで無防備で,天真爛漫な時期から,多少なりとも自意識が生まれてくる時期へ

の過渡期である。“Must I?”he asked just a trifle shylyの部分にそれが繊細に表現されている。これ

までの主人公にはなかった態度である。しかし指導的立場に立つ人間は,そうした shynessを克服し

なければならない。とは言え,まだほんの子どものこと,一人で formalなスピーチをするのはどうし

ても気が引けざるを得ない。そこで彼は精神的な支援を求めて母親を見る。母親は,ただうなずいて

ほほ笑むだけ。そのうなずきは,「社会的な責務」を果たさなければいけないことをきっぱり言い聞か

せているのであり,またそのほほ笑みは「セドリックならきっと立派にできますよ」という信頼と,

暖かさと,愛情を伝えているのである。側にいる花のごときMiss Herbertのうなずきとほほ笑みも,

友人としての同じ励ましを表している。2つの太陽からの光と暖かさを満身に受けて,主人公は,“And

so he made a little step forward”と,男らしく1歩前に進み出る。そして満場の視線が彼に注がれ

る。普通であれば四肢はこわばり,声も自信のない,小さなおどおどした声になりがちなこの状況の

中で,主人公はきっぱりとした声で,“I’m ever so much obliged to you!”と挨拶の第一声を発する。

それは,彼の母の胸を誇らしさと感動で満たしたことであろう。一人の社会人として立派な挨拶の言

葉を発することができたのである。無論子どものこと,その後をどのような言葉で続ければよいのか,

大人の世間智があるわけもない。しかし彼はゆきづまらない。“and―”と間を置き,自分の心の中で

言うべきことを探す。彼の言説の原理は,思ったことを正直に率直に言うということである。“I hope

you’ll enjoy my birthday―because I’ve enjoyed it so much―”は,一般的な論理としてはおかしい

のであるが,他人が幸福になることを以て自分の幸福としている主人公にとって,自分が今日こんな

にも幸せなのだから,それは皆さんも同じでしょうというoptimismに貫かれており,実際の世間では

そうでないことを知り抜いている聴衆の心を,ふとなごませるのである。伯爵になることは最初はそ

んなに嬉しくなかったが,今はとても嬉しい― 大人が言えば鼻持ちならない言葉だが,無欲と善意の

主人公が言えば純粋な言葉に転じる。ドリンコートの土地が綺麗でとても気に入っている― これは純

粋であると同時に,先祖代々の文化遺産を守らなければならない貴族の資質を見せている。“―and

―and―and”随分言いにくそうにしているが,それは当然,スピーチの最後に,子どものよしなしご

とではなく,責任ある言葉を言わなければならないと思って適切な内容を心に探していることから来

るものである。そして言われた “when I am an earl, I am going to try to be as good as my

grandfather”は,事実誤認も甚だしいものであるが,聴衆は,そうした愛情と無条件の信頼こそが,

231若松賤子『小公子』の翻訳について

Page 16: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

伯爵を変える力になってきたことをよく承知しており,またセドリックがよい伯爵になる意図に純粋

なもの,無私の精神を感得し,それで,その王侯貴族にふさわしい心に対し,心からの喝采を送るの

である。責任を果たした主人公が1歩下がり,再び子どもらしい自分に戻って,にこにこして人々を

眺めている情景は,まことに美しいものである。

若松賤子のこの部分の翻訳を見てみよう。

スルト侯爵が子供の肩へ手を載せて,

フォントルロイ,貴様は一同の親切に対して礼をいつたら好からう。

フォントルロイは先ずお祖父さまのお顔を見,それからお袋の顔を見升た。それで,少しく臆せる気味に,

かあさん,しなくつちや,いけませんかネ,

といひ升と,母は只ニツコリして,側のヘルベルト嬢も同じ様にニツコリし升た。それで二人が点頭うなづ

くのを見

て,一足前へ進み升と,一同が眼を注いで見て居り升た。そこへ出た処いかにも美事に,無邪気な小息子で,

其容貌といへばいかにも雄々しく,又愛らしくも有つて,天下に敵なしといふ気配が有りました。さて一段声

を高め幼な声晴きよ朗らかに申したことは,

僕,みんなに有りがたしツていひ度んです。僕は今日の誕生日が大変面白かつたから,みんなも面白かツた

と好いと思ふんです。それから……僕,侯爵になるの嬉しいんです。僕始めは侯爵になるの嬉しいなんて思は

なかつたけど,モウ嬉しくなつたんです。僕はこゝも大好きです,どうも綺麗だと思つてますの……夫から……

僕侯爵に成たら,一生懸命で,僕のお祖父さんの様に好い人になる積りです。

さうして一同の拍手喝采が鳴り止まぬ中に,先づ役済みといふ調子で一寸溜息をつきながら又一足退がり,

侯爵の手につかまり,ニコ

〳〵

しながら,近く寄り添つて居升た。

この訳では,伯爵の「貴様」はないほうがいいであろうし,エロル夫人のことを「お袋」と言って

いるのも,やや日本の庶民風に翻案されすぎているなど,瑕疵とも言えるところは幾つも指摘できよ

う。しかし,訳文全体から浮かび上がってくる情景は,原文の喚起する情景の最重要の部分を再現し

ている。「一足前へ進み升と,一同が眼を注いで見て居り升た。そこへ出た処いかにも美事に,無邪気

な小息子で,其容貌といへばいかにも雄々しく,又愛らしくも有つて,天下に敵なしといふ気配が有

りました」の部分は,構文的に組み替えられていて,「天下に敵なしといふ気配が有りました」という

原文にはない言葉も付加されている。しかしこの強い言葉によって,なければたわいないものに聞え

そうな次の主人公のスピーチに,原文に感得される不思議な気品と何かしら胸を熱くさせるようなも

のが生れてくるのである。現代の日本人が訳せば,子供らしさに媚びた嫌ったらしい文章になりがち

なところである。

そうした創意は,言葉の技術の問題ではなく,若松の原文へのempathyに由来するものであろう。

彼女の,フォーントルロイに注ぐ眼差しは,エロル夫人が,そしてバーネットが注ぐ眼差しに重なる

ところがあったに違いない。『小公子』の「自序」中に強調されている,「邪道に陥らうとする父の足

232 南 谷 覺 正

Page 17: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

をとゞめ,卑屈に流れ行く母の心に高潔の徳を起させるのは,神聖なるミツシヨンを担ひたる可愛の

幼子に限るので,是に代つて其任を果すものは他に何も有ません。幼子の戯れ声のせぬホームの空気

は,殊に冷たく,宛がら下宿屋の心地がし升。(中略)私は深く幼子を愛し,其恩を思ふ者で,殊に共々

に珍重す可き此客人まらうど

を尚一層優待いたし度切に希望いたし升」という家庭と子どもの理想化は,明治

23年という歴史的時点を考えてみると,驚くべきことにも映る。明治19年の坪内逍遙の『小説神髄』,

20年の二葉亭四迷の『浮雲』は,西洋的な小説概念導入の実験的試みであったが,明治20年代の文学

の主流が,尾崎紅葉や幸田露伴に代表される江戸の残り香を感じさせるようなものであるときに,こ

れだけ西洋の本質的な部分にしっかりと食い込み,西洋においても進歩的な思想であったものを,日

本語の文脈に巧みに移し得た力量は,どれだけ高く評価されても高すぎることはないだろう。

⑺ 新しい日本語文体の創出

紅葉,露伴,漱石はいずれも1867(慶応3)年の生れであり,若松の方が彼らよりも3年の年長者

であるにも拘らず,印象としては,若松の方が西洋の咀嚼度が高く,紅露時代の後に位置するかのご

とく感じられるのは,若松がクリスチャンであって,その点で西洋の基幹部への波長を合わせられる

立場にいたためであろう。締めくくりに,それが強く感じられるpassageを取り上げてみたい。

When the music began he stood up and looked across at his mother,smiling.He was very fond of music,

and his mother and he often sang together,so he joined in with the rest,his pure,sweet,high voice rising

as clear as the song of a bird.He quite forgot himself in his pleasure in it.The Earl forgot himself a little

too,as he sat in his curtain-shielded corner of the pew and watched the boy.Cedric stood with the big

psalter open in his hands,singing with all his childish might,his face a little uplifted,happily;and as he

sang,a long ray of sunshine crept in and slanting through a golden pane of a stained glass window,

brightened the falling hair about his young head.His mother,as she looked at him across the church,

felt a thrill pass through her heart,and a prayer rose in it too;a prayer that the pure,simple happiness

of his childish soul might last,and that the strange,great fortune which had fallen to him might bring

no wrong or evil with it.There were many soft,anxious thoughts in her tender heart in those new days.

“Oh,Ceddie,”she had said to him the evening before,as she hung over him in saying goodnight

before he went away,“oh,Ceddie dear,I wish for your sake I was very clever and could say a great

many wise things!But only be good,dear,only be brave,only be kind and true always,and then you will

never hurt anyone so long as you live,and you may help many,and the big world may be better because

my little child was born.And that is best of all,Ceddie―it is better than everything else,that the world

should be a little better because a man has lived―even ever so little better,dearest.”(Chapter7)

明治の20歳代の一女性の翻訳から1世紀以上を経た21世紀初頭の現在,われわれ現代日本人なら,

233若松賤子『小公子』の翻訳について

Page 18: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

これをどのように翻訳するだろうか。1つのサンプルとして,あまり凝らずに自然に訳してみると次

のようになる。

音楽が始まると,セドリックは自分から立ち上がり,教会堂の向こう側に坐っている母を見てにっこりしま

した。彼は音楽が大好きで,それまでもよく母といっしょに歌っていたのでした。他の会衆と心を合わせて歌

い始めたセドリックの美しく澄んだ歌声は,小鳥の歌のように清らかに舞い上がり,彼は歌の歓びの中に我を

忘れていきました。カーテンで仕切られた端の特別席で,隣りに坐ってセドリックの様子を眺めていた伯爵も,

ふと我を忘れてしまうほどでした。セドリックが大きな讃美歌集を両手の上に広げ,心もち顔を上げて,幸せ

そうに一心に歌っておりますと,高窓の金色のステンド・グラスから一条の日の光がそっと忍び入り,斜に長

く射しこんできて,歌っているセドリックに落ち,そのふさふさと垂れた髪をきらきらときらめかせました。

向こう側からわが子を見守っていたエロル夫人は,胸が締めつけられるような心持ちになり,どうかあの子の

純真で素朴な幸せがこの後もずっと続き,不思議ないきさつで降りかかってきたこの運命が,不幸や凶まが事ごとを呼

び寄せることがありませんようにという切なる祈りがこみ上げてきました。運命の変わりばなの頃で,夫人の

やさしい心は,母としてわが子を案じる気持ちでいっぱいだったのです。

その前の晩にも夫人は,お城に帰ろうとするセドリックを別れぎわに抱き寄せ,かがみ込んでこう言ってい

たのでした。「セディー……セディー,わたしがもう少し頭がよくて,あなたのためなることをいろいろと言っ

てあげられたらいいのだけど。だけど,どうか善い人で,勇気とやさしさと真心のある人であっておくれ……

それだけでいいのだから。それだけで,一生人様を傷つけないですむし,ひょっとしたらお役に立つことさえ

できるのだよ。そうすれば,私の小さな子が生まれたことで,この広い世の中が少しよくなるかもしれない……

そしてねセディー,それが何よりなのだよ。人がこの世に生れてきて,どんなにわずかのことでもいいから,

世の中が少しずつよくなっていくことがね……」

若松訳はこうなっている―

…音楽が始まり升と,起立して,ニコ

〳〵

しながら,母の方を眺めて居り升た。フォントルロイは,唱歌が

大好で,母と一処に,度々歌つたことが有つたのでしたから,讃美の歌が一斉の時は,自分も人と同じ様に,

歌ふて居り升たが,其声の清く,可愛いく,高い処は,宛がら鳥の歌ふ様に,冴渡つて居り升た。自分も,

其歌の楽しさに,己を忘れて居り升たが,侯爵さまも,掛幕の深みに居寄つたまゝ,孫に見惚れて,自分を

忘れて居られ升た。セドリックは,手に,大きな賛美歌の本を持つて,勢一杯に歌ふて居り升たが,悦こば

しげに少しく,顔を擡げた処へ,一条の光線がコツソリ,映じ入り升て,染玻璃そめがらす

の金色の物を斜に横切つて

フサ

〳〵

と幼な顔に垂れかゝつた髪をきらめかせ升た。此趣きを向ふから間視かいま

見た母は,愛情に迫て,身が

震へる心地で,同時にいとも切なる,祈念を献げ升た。それは,幼子の純潔,単一なる心の幸福が何卒,永

遠に続く様にといふことと,不思議にも出遭ふた幸運が,人にも我にも禍を来さぬ様にといふことでした,

いとゞ優い母の心を,此頃又千々に砕く事許ばかり有り升た。其前の夜も,我子を抱きしめて,暇

いとまを告げてゐな

234 南 谷 覺 正

Page 19: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

がら,

アゝ,セデーや,セデーや,わたしはおまへの為許ばかりにでも,どうぞして発明になつて遣り度

たいと思ふよ!

ダガネ,おまへ,心掛を好くし,正しい道を守り,いつも深切と信実まこと

を尽しさへすれば,それで好よいので,さ

うさへすれば,一生,人の害になることは決してなく,多く人を助けるといふ立派なことも出来るのだよ,

このかあさんの少ちひさ

い子が,生れた為に,広い世界の人が,いくらか,善くなるかも知れないのだよ,それで

ね,セデーや,モー,それに越したことはないのだよ,一人の人間が世に出て,其人の為に,世の中の人の

少しでも,ほんのほんの少し斗ばかりでも善良くなつたといふのが,何より,かより,結構なものだよ。

こうして比べて見ると,現代の日本語が,いかばかり若松の日本語を本歌としているかが如実に感

じられはすまいか。われわれの日本語のほうが,よりしなやかになり,カタカナ語をも取り入れて,

西洋との通じは円滑になっている。だがどのように円滑に訳せたとしても,若松の訳文に感じられる,

清水を汲み取ったような澄み切った品格が持てるかどうかは別問題である。『小公子』の訳文が最も感

銘を与えるのは,そこから伝わってくる訳者の心の美しさが,fictionalなセドリックの純真と波長を

通わせているところかもしれない。

「言文一致」の文学上の実践の嚆矢とされている,山田美妙の『武蔵野』(1887/明治20年)の「あ

あ今の東京,昔の武蔵野。今は錐も立てられぬほどの賑わしさ,昔は関も立てられぬほどの広さ。今

仲の町で遊客に睨みつけられる烏も昔は海辺四五町の漁師町でわずかに活計を立てていた。今柳橋で

美人に拝まれる月も昔は『入るべき山もなし』,極の素寒貧であッた」や,二葉亭四迷の『浮雲』

(1887~89/明治20~22年)の「千早振る神無月ももはやあと二日の余波なごり

となッた二十八日の午後三時

ごろに,神田見附の内より塗渡とわた

る蟻,散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ沸き出でて来るは,いずれもおとがい

を気にしたもう方ゞ」と比べてみれば,若松の文体の新しさは際立っていると言ってよい。近代日

本の「言文一致」は,通常は,文語で書いていたものを口語調に改める運動であったとされているが,

後の歴史に照してみれば,漢文脈から欧文脈への大転換であったことがよく分かるのである。山口玲

子氏は,言文一致運動の歴史の中でこの『小公子』が占める位置を次のように概括している。

言文一致体は,文語文に馴れた小説家に一時不安を感じさせるほどもてはやされたが,二葉亭四迷の挫折以

来,衰退していた。二十二年十月,広津柳浪が『残菊』を表し,口語体を甦らせたかと思われたが,あとが

続かなかった。二十三,四年にかけて,賤子は言文一致家として,孤軍奮闘していたとも言える。そして「忘

れ形見」から「小公子」へと見事な開花を見せたのだった。

言文一致の歴史の研究者である山本正秀氏も,

明治二十三年から二十五年頃までの,わたしのいわゆる言文一致運動史の「第三期停滞期」において,つ

まり明治二十二年末までに現われた約三〇人の言文一致家も,その大半が言文一致の筆を折り,あるいは非

235若松賤子『小公子』の翻訳について

Page 20: 若松賤子『小公子』の翻訳について...『小公子』は,Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)の児童文学の古典Little Lord Fauntleroy(1886/明治19年)を,若松賤子(1864/元治元年―1896/明治29年;享年32歳)が1890/

言文一致に転向した言文一致衰退の危機の時期に,独力で言文一致文にうちこみ,平易自然で,柔軟優雅な

すぐれた言文一致文をあみ出して,読者に多大の感銘を与え,また言文一致への興味をそそった,稀有のそ

して貴重な存在であったといってよい。

と,その歴史的意義を高く評価している。

その清新な文体に対する当時の人々の驚きは,森田思軒の評によく表れている。

淡泊に直言すれは余は方今海かい内だいにありて女流の著述にして能く我眼を惹くべきもの出でむとは想はず故に此

書に於ても亦た甚だ重きを置かず但ただ知人の贈りたるものなるがゆゑに偶

たまたま煙を喫するの暇漫然其の第一

ペーヂを開き視しのみ而るに読むこと数行にして遣辞温順太だ常に非るものあるを覚えたり因て更に二三

ペーヂを読みゆくに弥いよい

よ益ますま

す凡ならざるものあるが如し是に於て心頗る驚き起ちて書笥を探り原本を取り来

りて且読み且照らし終ついに第一回を竟

おはりたり。

* * * * * *

若松賤子は,まさにベンヤミンの言うように,Little Lord Fauntleroyの中にある1つの《志向》

を見事に訳出し,それによって日本語で《西洋的なるもの》を表現するための礎石を築き,言文一致

を推進した。また,スタイナーの言う,原文のテクストへのaggressionや incorporationにおいて並

外れた力量を見せ,翻訳が自在を得る瞬間を何度となく顕現させており,『小公子』は今日においても

学ぶべきものを多く蔵している。

口幅ったいせいもあるのかもしれないが,どの翻訳論も述べていないことで彼女の翻訳から教えら

れたことは,翻訳が,訳者のempathyによる準創作であるなら,訳者の心というものが,その訳文に

反映されないわけはない以上,翻訳者はただ言語上の技術や才能や良心があればそれですむという問

題ではなく,訳者がその作品にどれだけ本当の愛情を持っているか,また訳者自身の精神がどれだけ

の integrityを有しているかが,翻訳の出来栄えを決定的に左右するということである。

― 注―

⑴ 若松賤子・刊行委員会(編)『若松賤子 不滅の生涯』(共栄社出版,1977)pp.19-20.

⑵ 相馬黒光『黙移 明治・大正文学史回想』(法政大学出版局,1980)pp.50-51.

⑶ 『小公子』のテクストには『日本児童文学大系2 若松賤子 森田思軒 桜井鷗村』(ほるぷ出版,1977)を,Little Lord

Fauntleroyのテクストには,1994年刊のPuffin Classics版を使用した。

⑷ 山口玲子『とくと我を見たまえ― 若松賤子の生涯』(新潮社,1980)pp.164-165.

⑸ 山本正秀「若松賤子の翻訳小説言文一致文の史的意義」(『専修国文』第14号,1973年9月)p.48.

⑹ 森田思軒「『小公子』を読む」(『郵便報知新聞』明治24年11月15日);鴻巣友季子『明治大正翻訳ワンダーランド』

(新潮社,2005)p.35から引用。

⎧|⎩

原稿提出日 平成19年10月3日修正原稿提出日 平成19年11月14日

⎫|⎭

236 南 谷 覺 正